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≈は「頃」を意味しています。
皇室献上品 高級トイレットペーパー
| 年月日 | 出来事 | |||
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| 185 |
張温が車騎将軍と假节に任命される。執金吾袁滂を副将とし、袁・盪寇将軍周慎・北宮伯玉が張温の指揮下に入った。此れを受け、以下の人間が張温への従軍を志願した。 ①張純 ②孫堅 ③陶謙 しかし孫・陶は受け入れられたが、烏桓族を率いたがっていた張純は張温によって退けられた。更に公孫瓚を招き入れた。此の時董卓は破虜将軍の地位にあり、張温の指揮下にあった。 |
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| 185 | 洛陽の宮殿が火災に遭う。此れを受け、修繕の為各地に対し税の追徴を行うが、張譲等が此れを着服した為、翌年になっても修繕は完了せず、負担に苦しむ地方の太守や民達の恨みを買った。 | |||
| 185 | 2 | 16 | 董卓が後漢政府から恩赦を受ける。 | |
| ≈ | 185 | 4 | 李文侯・韓遂・辺章が数万名の兵を率い宦官殺しを旗印に三輔(長安(現在の中国陝西省西安市)周辺)を攻め、皇帝や王妃の墓である園陵へ侵攻した。霊帝は皇甫嵩と董卓を派遣して征服しようとしたが果たせず、反乱軍が100,000名へと勢力を拡大する。 | |
| 185 | 8 | 後漢政府が張温を美陽(現在の中国陝西省宝鶏市扶風県)に送り込み、歩兵・騎兵総勢100,000名を率いさせた。韓遂・辺章の軍も間も無く美陽に着陣し、戦闘が行われ反乱軍が勝利した。 | ||
| 185 | 11 | 4 | 司空に再任されたばかりの楊賜が死去する。楊は陳寔よりも先に出世してしまった事を嘆いていた。 | |
| 185 | 12 | 7 | 夜、紀元前8,905年12月7日頃に発生したSN 185(距離9,100光年)の超新星爆発による光が地球に到達し、韓遂・辺章率いる反乱軍の陣地を照らし、驢馬や馬が嘶く。此れを不吉な予兆と受け止め、反乱軍は撤退準備を始める。董卓は其の状況を知って喜んだ。 | |
| 185 | 12 | 7 | 東漢の天文学者が超新星爆発のプロセスを観察して客星として記録に残した。後の後漢書には、「十月癸亥、一つの客星が南門に出現、笠のように大きく色鮮やかで、其の後徐々に衰え、翌年六月には無くなった」 という主旨の記載がある。 | |
| 185 | 12 | 8 | 董卓が右扶風鮑鴻と共に韓遂・辺章率いる反乱軍を襲撃し、数千の首を刎ねた。韓遂・辺章含む残党は楡中(現在の中国甘粛省蘭州市)に敗走した。張温は周慎に30,000名の兵を率いさせ韓・辺を追撃させた。張温の部下で軍参謀の孫堅は「楡中は食糧が不足しているので、私が10,000名の兵を率い反乱軍の穀物輸送ルートを断ち、兵糧攻めを行い羌の後背地に退却する様誘導し、その後包囲して梁州を平定する」という主旨の進言を行ったが、周は聞き入れず楡中城を包囲した。しかし韓・辺が兵を分けて渓谷を守り、逆に穀物輸送ルートを断ち切られた。慌てた周は食糧を捨て敗走した。董は川に堰を作り、魚や海老を捕るふりをして密かに兵を率いて川を渡り逃走した。反乱軍が追撃しようとしたところ、堤防に阻まれた川の水深が大きく、川を渡る事が出来なかった。結果、後漢政府軍の将軍の内、董だけが全軍を引き連れて帰還した。 | |