西暦184年は、黄巾の乱が全土に燃え広がり、同時に涼州でも大規模な反乱が起きた、後漢の統治が決定的に揺らいだ年である。2月29日頃、道教の一派である太平道の指導者張角や其の周囲の酋長・従者が、後漢政府打倒の為の挙兵準備を開始する。張角は腹心の馬元義を洛陽(現在の中国河南省)に送り込み、馬元義は荊州・揚州に挙兵準備を通達して鄴に兵を集めた。3月14日頃、張角の弟子である唐周が、後漢政府の徐庶等に張角の西暦184年4月3日蜂起計画を密告する書簡を送る。此れを受けて霊帝は、馬元義を捕らえて洛陽で処刑する事、1,000名の馬元義の従者を殺害する事、冀州が張角と其の家族を捕らえる事を指示した。3月15日頃、張角は蜂起計画が漏れた為に予定よりも早く挙兵し、自らを天公将軍と称して、弟の張宝を地公将軍、張宝の弟張梁を人公将軍とした。同じ日、馬元義が1,000名の従者と共に河内県山陽郡にて捕らえられ、此れを受けて直様張曼成が南陽(現在の中国河南省)にて挙兵した。3月、張曼成は南陽太守褚貢を殺害して宛城を居城とし、自らを「神上使」と名乗る。同月、霊帝は何進を大将軍に任命し、兵を都亭に駐屯させ、八つの関に都尉を置いて洛陽の守備を行わせた。4月頃、後漢政府は北中郎将盧植を冀州へ、左中郎将皇甫嵩と右中郎将朱儁を颍川へ派遣する。4月、朱儁が波才率いる黄巾軍と颍川で交戦して敗れ、長社(現在の中国河南省許昌市)に逃れた。同月、広陽の黄巾軍が幽州刺史郭勲・広陽太守劉衛を殺害し、汝南太守趙謙が邵陵にて黄巾軍に敗れた。5月、波才が大軍を率いて長社の城を包囲したが、其の夜、皇甫嵩は強風を利用して兵に城壁へ登って火を放つ様指示し、黄巾軍を奇襲する。其処に曹操が皇甫嵩・朱儁に加わって黄巾軍を破り、波才は汝南に逃れた。其の後皇甫嵩・朱儁が汝南・陳の黄巾軍を抑え、朱儁の配下の孫堅も加わって、波才は阳翟にて再度敗れた。同月、豫州刺史王允が侍中荀爽・文人で孔子の20代の孫である孔融等を迎え、黄巾軍を撃破した。6月、西華の黄巾軍司令官彭脱率いる軍が皇甫嵩・朱儁の後漢政府軍に敗れる。同月、新たに南陽太守に就任した秦頡が南陽にて張曼成を斬殺し、後継者の趙弘が指揮官となって宛城に籠城すると、朱儁が徐璆・秦頡と合流して宛城を包囲した。6月7日、洛陽に移送されていた馬元義が車裂きにて処刑される。7月、四府からの推挙を受けて北中郎将に任命された盧植が、北軍中候の将軍として、護烏桓中郎将に任命された宗員と共に張角征伐へ向かう。盧植は連勝を重ねて冀州の黄巾軍を10,000名以上殺害し、広宗(現在の中国河北省邢台市)に退却した張角を追って包囲し、塹壕を掘って攻城に備え、雲梯を使って攻め立てた。其処へ霊帝が軍の監察の使者である左豊を送り込み、左豊は賄賂を要求したが盧植が拒否した為、左豊は霊帝に盧植が戦おうとしないと讒言した。霊帝は激怒して盧植の尚書を罷免する勅令を出し、後任に東中郎将として董卓を据え、盧植には死刑判決が下ったが、其の後無期懲役に減刑された。董卓は広宗攻めを止めて北上し、張宝のいる下曲陽県の攻撃を開始した。8月、後漢政府では2ヶ月経っても宛城を落とせない朱儁を洛陽へ呼び戻すべきとの意見が出たが、大司農張温が秦の白起や燕の楽毅も敵に打ち勝つ迄何年も掛かったと答え、霊帝も同調した。此の出来事を切っ掛けに更迭の噂を耳にした朱儁は攻勢を強めて趙弘の殺害に成功し、黄巾軍は韓忠を指揮官に据えて籠城を続けたが、孫堅自ら先頭に立って城壁を登り指揮を執る等して後漢政府軍が勝利した。韓忠の降伏願いを朱儁は拒否し、包囲を緩めた隙に韓忠は逃亡して数十km北上したものの、10,000名の黄巾軍の兵が殺害され、韓忠も秦頡によって斬首された。黄巾軍は孫夏を指揮官に据えた。9月頃、皇甫嵩の軍が兖州にて黄巾軍を平定し、後漢政府の指示で冀州の黄巾軍を攻め、卜巳率いる軍を破って7,000名を殺害し、卜巳を捕らえて斬首した。其の後洛陽に凱旋し、霊帝宛に書簡を送って盧植が冀州の黄巾軍を平定した事を報告し、盧植は尚書に復職を果たした。9月24日、後漢政府は董卓が2ヶ月以上経っても張宝の居る下曲陽県を落とせなかった為、皇甫嵩の冀州派遣を決定し、董卓には死刑を一度だけ免除する裁定が下り東中郎将も罷免された。10月、孫夏が朱儁率いる軍に敗れて戦死し、南陽の黄巾軍が消滅する。11月頃、張梁率いる黄巾軍が広宗にて皇甫嵩の軍と交戦し、30,000名の死者と50,000名の川への投身者を出し、張梁も皇甫嵩によって斬殺された。既に病死していた張角の遺体は棺から引き摺り出され、木に吊るされて晒された。同じ11月、涼州にて羌族・枹罕及び隴西郡河関の盗賊・宋建・王国等が反乱を起こし、北宮伯玉・李文侯を将軍として擁立する。彼等は阿陽県まで来たものの正面から戦っても勝ち目は無いと考え、金城郡にて降参した振りをして涼州総督辺章・韓遂等数十名を人質に取り、護羌校尉伶徴・金城太守陳懿を殺害した。しかし辺章・韓遂を釈放して両名を擁立した上で軍政を委ねた為、隴西郡では両名が賊徒になったという噂が飛び交い、涼州が両名に懸賞首をかける事態となった。又、此の反乱を鎮められなかったとして左昌・宋梟・楊雍の3名が涼州刺史を罷免された。12月頃、皇甫嵩の軍が鉅鹿太守郭典と共に曲陽(現在の中国河北省保定市)にて張宝率いる黄巾軍を破り、張宝を殺害して100,000名以上を殺害し、死体を積み上げて京観を築き、黄巾軍は指導者を失う事となった。此の武功により皇甫嵩は左車騎将軍に任命されて槐里に移封し、8,000戸の食邑を与えられて冀州牧となった。しかし同じ12月頃、皇甫嵩が十常侍趙忠の屋敷の豪華さが規定に反する事を後漢政府に上奏して没収させ、其の際に張譲から要求された賄賂を拒否した為、趙忠と張譲が霊帝に讒言し、皇甫嵩は左車騎将軍を罷免されて都郷侯に位を戻され、食邑6,000戸を没収された。

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≈は「頃」を意味しています。

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年月日 出来事
184 2 29 道教の一派である太平道の指導者張角や其の周囲の酋長・従者が、後漢政府打倒の為の挙兵準備を開始する。又張は、腹心の馬元義を洛陽(現在の中国河南省)に送り込んだ。馬は荊州・揚州(現在の中国江蘇省)に対し挙兵準備を通達し、鄴(現在の中国河北省邯鄲市臨漳県・現在の中国河南省安陽市安陽県)に兵を集めた。
184 3 14 張角の弟子である唐周が、後漢政府の徐庶等に張角の西暦184年4月3日に蜂起する計画を密告する内容の書簡を送る。此れを受け霊帝が以下の指示を出した。
①馬元義を捕らえ洛陽にて処刑。
②1,000名の馬の従者を殺害。
③冀州が張とその家族を捕らえる。
184 3 15 張角が、蜂起計画が漏れた為予定よりも早く挙兵する。又、自らを天公将軍と称し以下の2名の弟にも将軍の名を与えた。
①地公将軍張宝
②人公将軍張梁(張宝の弟)
184 3 15 馬元義が1,000名の従者と共に後漢政府側に河内県山陽郡(現在の中国河南省山陽市)にて捕らえられる。此れを受け直様張曼成が南陽(現在の中国河南省)にて挙兵した。
184 3 張曼成が、南陽太守褚貢を殺害し、宛城を居城とし自らを「神上使」と名乗る。
184 3 霊帝が何進を大将軍に任命し、兵を都亭に駐屯させ、八つの関に都尉を置き洛陽の守備を行わせる。
184 4 後漢政府が以下3名を任命し軍を派遣する。
①北中郎将盧植(冀州(現在の中国河北省衡水市)に派遣)
②左中郎将皇甫嵩(颍川(現在の中国河南省禹州市)に派遣)
③右中郎将朱儁(颍川に派遣)
184 4 朱儁が波才率いる黄巾軍と颍川で交戦し敗れ、長社(現在の中国河南省許昌市)に逃れる。
184 4 広陽(現在の中国北京市の宣武門〜和平門)の黄巾軍が、幽州刺史郭勲・広陽太守劉衛を殺害する。
184 4 汝南太守趙謙が、邵陵(現在の中国湖南省邵陽市)にて黄巾軍に敗れる。
184 5 波才が、追って大軍を率い、籠城している朱儁の逃亡先の長社の城を包囲する。其の夜、強風を利用して皇甫嵩は兵に城壁に登って火を放つ事を指示し、黄巾軍を奇襲した。其処に曹操が皇甫・朱に加わり、黄巾軍を破る。波は汝南(現在の中国河南省駐馬店市)に逃れた。其の後皇甫・朱が汝南、陳(現在の中国河南省周口市淮陽区)の黄巾軍を抑えた。又、朱の配下の孫堅が皇甫・朱に加わり、波は阳翟(現在の中国河南省禹州市)にて再度敗れた。
184 5 豫州刺史王允が、侍中荀爽・文人で孔子の20代の孫である孔融等を迎え、黄巾軍を撃破する。
184 6 西華(現在の中国河南省周口市)の黄巾軍司令官彭脱率いる軍が、皇甫嵩・朱儁の後漢政府軍に敗れる。
184 6 新たに南陽太守に就任した秦頡が、南陽にて張曼成を斬殺する。此れを受け張の後継者の趙弘が指揮官となり宛城に籠城した。又後漢政府側は、朱儁が徐璆・秦頡と合流し、宛城を包囲した。
184 6 7 洛陽に移送されていた馬元義が車裂きにて処刑される。
184 7 四府からの推挙を受け、霊帝から北中郎将に任命された盧植が、北軍中候の将軍として、同じく霊帝から護烏桓中郎将に任命された宗員と共に張角征伐へ向かう。盧は連勝を重ね、張率いる冀州の黄巾軍を10,000名以上殺害し、張は広宗(現在の中国河北省邢台市)に退却した。盧は張を追い広宗を包囲、塹壕を掘って攻城に備えた。其の後盧は雲梯を使って攻め立てた。其処に霊帝が軍の監察の使者である左豊を送り込んだ。左は盧に賄賂を要求した。しかし盧が拒否した為、左は霊帝に「盧は戦おうとしない」と讒言する。盧が洛陽に帰ると霊帝は盧に対し「広宗の城は崩しやすいと見ているが、盧は兵を控えている、神が張を殺すのを待っているのか?」と激怒し盧が就いていた尚書を罷免とする勅令を出し、後任に東中郎将として董卓を据え、盧に死刑判決が下った。しかし其の後無期懲役に減刑された。董は広宗攻めを止めて北上し、張宝のいる下曲陽県(現在の中国河北省石家庄市晋州市鼓城村)の攻撃を開始した。
184 8 後漢政府にて、2ヶ月経っても宛城を落とせない朱儁を洛陽に呼び戻すべきであるとの意見が出始める。此れに対し大司農張温が「秦の白起や燕の楽毅は敵に打ち勝つまで何年も掛かった」と答え、霊帝も同調した。此の出来事が切っ掛けで何者かが朱の更迭を進言しているとの噂が朱の耳に入る。此れにより朱は攻勢を強め趙弘の殺害に成功する。此れを受けて黄巾軍は、韓忠を指揮官に据え籠城を続けた。しかし、朱に就いていた孫堅自ら先頭に立って城壁を登り指揮を執る等して勝利を収めた。韓は朱に降伏を願い出たが、朱は此れを拒否した。包囲を緩めた隙に韓は逃亡し数十km北上したが、10,000名の黄巾軍の兵が殺害され、韓も秦頡によって斬首された。此れを受け黄巾軍は孫夏を指揮官に据えた。
184 9 皇甫嵩の軍が、兖州(現在の中国山東省・河南省)にて黄巾軍を平定する。此れを受け後漢政府は、皇甫に冀州の黄巾軍を攻める様指示する。皇甫は此の期待に応え、卜巳率いる軍を破り7,000名を殺害、卜を捕らえ斬首した。其の後洛陽に凱旋し、霊帝宛に書簡を送り、盧植が冀州の黄巾軍を平定した事を報告した。此れにより盧は、尚書に復職を果たした。
184 9 24 後漢政府が、董卓が2ヶ月以上経過しても張宝の居る下曲陽県を落とせなかった為、皇甫嵩の冀州派遣を決定する。又、董に対し「死刑を一度だけ免除する」裁定が下り、東中郎将も罷免された。
184 10 孫夏が、朱儁率いる軍に敗れ戦死し、南陽の黄巾軍が消滅する。
184 11 張梁率いる黄巾軍が、広宗にて皇甫嵩の軍と交戦し、30,000名の死者、50,000名の川への投身者を出す。梁も、皇甫によって斬殺された。又、既に病死していた張角の遺体は、棺から引き摺り出され、木に吊るされて晒された。
184 11 涼州(現在の中国甘粛省・寧夏回族自治区)にて、羌族・枹罕及び隴西郡(現在の中国甘粛省)河関の盗賊・宋建・王国等が反乱を起こし、北宮伯玉・李文侯を将軍として擁立する。彼等は阿陽県(現在の中国山西省晋城市陽城県)まで来たが、正面から戦っても勝ち目は無いと考え、金城郡(現在の中国甘粛省蘭州市・青海省西寧市・青海省海東市)にて、降参した振りをして、涼州総督辺章・韓遂等数十名を人質に取り、護羌校尉伶徴・金城太守陳懿を殺害した。しかし彼らは辺・韓を釈放し、両名を擁立した上で軍政を委ねた。此の為隴西郡では辺・韓が賊徒になったという噂が飛び交い、涼州が両名に対して懸賞首をかける事態となった。又、此の反乱を鎮める事が出来なかったとして、以下3名が涼州刺史を罷免された。
①左昌
②宋梟
③楊雍
184 12 皇甫嵩の軍が、鉅鹿太守郭典と共に曲陽(現在の中国河北省保定市)にて張宝率いる黄巾軍を破る。張を殺害し、100,000名以上を殺害し死体を積み上げ京観を築き、黄巾軍は指導者を失う事となった。此の武功により皇甫は左車騎将軍に任命され、槐里(現在の中国陝西省咸陽市)に移封する。又、8,000戸の食邑を与えられ冀州牧となった。
184 12 皇甫嵩が、十常侍趙忠の屋敷の豪華さが規定に反する事を知っていた為、後漢政府に上奏・没収される。其の際張譲から賄賂を要求されていたが皇甫は拒否した為、趙と張が霊帝に讒言した。結果、皇甫は左車騎将軍を罷免され都郷侯に位を戻され、食邑6,000戸を没収された。
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