西暦1513年は、足利義稙側と足利義晴側の和睦が成立し、足利義稙が近江国甲賀へ出奔して帰洛した年である。和睦は3月21日の事で、室町幕府と赤松義村の交渉によって成立した。出奔は4月22日の事で、5月7日に義稙が7ヶ条の要求を突き付けると大内義興・細川高国・畠山義元・畠山尚順は全ての事柄に於いて義稙の裁定に従う旨の起請文を提出し、義稙は6月6日に30,000名の行列で帰洛した。

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年月日 出来事
1,513 ヴェネツィア共和国はユダヤ金融業者と新たな契約を結び、多額の契約料と引き換えにヴェネツィア市内で金融業や質店を営業する事を承認した。
1,513 3 21 室町幕府と赤松義村の交渉により、足利義稙側と足利義晴側で、和睦が成立する。此の際、赤松の名代として上洛した在田祐忠は、義稙に謁見し馬や太刀を献上し、恭順の意を示した。其の場には、以下2名も立ち会っていた。
①大内義興
②細川高国
しかし、赤松からの礼状の宛先には細川の名前しか無かった。赤松は、大内の室町幕府内での立場を認めていなかった。
1,513 4 12 大河内貞綱が、朝比奈泰煕の攻撃を受け、降伏する。曳馬城は陥落した。吉良義信の嘆願により、大河内は助命された。
1,513 4 22 足利義稙が、畠山順光等と共に近江国甲賀へと出奔する。京都は騒然となった。近衛尚通は「とんでもない事態である。京都中が仰天しており、どうにもならない有様だ」と述べた。近衛は、家僕の北小路俊永を畠山の下へと遣わせたが、足利が飛脚の派遣や奉公衆の参上を禁ずる御内書を残していた為、対応に苦慮した。
1,513 4 24 以下3名が協議し、足利義稙の帰洛を意図し、使者を派遣する。
①細川高国
②畠山義元
③畠山尚順
1,513 5 7 足利義稙が、7ヶ条の要求を突き付ける。此れを受けて以下4名は、全ての事柄に於いて、足利の裁定に従う旨の起請文を提出した。
①大内義興
②細川高国
③畠山義元
④畠山尚順
1,513 6 4 甲賀で病気になったと称して三井寺に移っていた足利義稙を迎えるべく、以下4名等が、坂本へ赴く。此れにより足利は怒りを鎮めた。
①大内義興
②細川高国
③畠山義元
④畠山尚順
1,513 6 6 足利義稙が、以下の人間を含む30,000名の行列で帰洛する。主要な人間の並びは以下であった。
①供奉衆
❶細川尹賢
❷畠山義総
❸畠山順光
❹大館政信
❺一色尹泰
❻伊勢貞陸
❼種村視久
❽視久の息子種村三郎
②行列本隊
❶畠山義元(塗輿)
❷足利義稙(板輿)
❸細川政春(塗輿)
❹細川高基
❺畠山尚順(馬上)
❻大内義興(塗輿)
❼細川高国(塗輿)
大勢の見物人によって迎えられた。
1,513 12 6 足利義稙が改名を行う。