西暦1,610年は、ポルトガル船を巡る武力衝突と、琉球国王の江戸参府が重なった年である。徳川家康はシャムに国書を送り、第22代アユタヤ王朝の王サンペット3世が返書を寄せた。学術の面では、「円について」の著者ルドルフ・ファン・コーレンが、膨大な辺数の正多角形を用いて円周率をそれ迄で最も高い精度で算出した。1月6日、有馬晴信は長崎奉行長谷川藤広の支援を得てポルトガル船ダ・グラサ号を攻撃し、1月9日、追い詰められたアンドレ・ペソアは火薬庫に火を放ってダ・グラサ号を爆破し自沈した。前年に薩摩の支配下に入った琉球では、尚寧王が島津忠恒に伴われて江戸へ上り、8月16日に駿府城で徳川家康と対面した。道中、尚寧王の弟具志頭朝盛が病没して清見寺に葬られ、8月28日には尚寧王が江戸城で徳川秀忠に謁見した。幕府は琉球を代々中山王の国として存続を認め、島津家に貢納物を受け取る事を許した。12月24日、尚寧王一行は薩摩に戻った。

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年月日 出来事
1,610 徳川家康がシャムに国書を送る。
1,610 第22代アユタヤ王朝の王サンペット3世が徳川家康の国書に対する返書を送る。
1,610 「円について」の著者ルドルフ・ファン・コーレンが、円周率に関し、正4,611,686,018,427,390,000形を用い35桁の精度を得る。 π=3.14159265358979323846264338327950288
1,610 1 6 有馬晴信が長崎奉行長谷川藤広の支援を得て、兵船30隻と1,200名の兵を動員し、ポルトガル船ダ・グラサ号を攻撃する。
1,610 1 9 ダ・グラサ号が炎上する。アンドレ・ペソアが火薬庫に火を放つ様命じ、ダ・グラサ号を爆破させ自沈した。
1,610 4 11 尚寧王一行が島津忠恒に伴われ、江戸へ向けて出発する。薩摩から大坂までは海路、大坂から京へは川を上り、東海道を陸路で進んだ。
1,610 8 16 尚寧王が島津忠恒の案内で駿府城(現在の静岡県静岡市葵区)に登り、徳川家康と対面する。家康は公家の平服である直衣を着用して、大広間の上座で尚寧王を迎えた。尚寧王からの御進物は以下であった。
①食籠5個
②芭蕉布50反
③唐盤20枚
④石硯屏1個
⑤焼酎3壺
1,610 8 20 徳川家康が尚寧王を駿府城へ招き、能や舞を披露し、尚寧王を持て成す。其の後、尚寧王一行は、病床にあった具志頭朝盛を残し、江戸へと出発した。
1,610 8 21 具志頭朝盛が死去する。徳川家康は具志頭の死を哀れみ、自身の馴染みの寺である清見寺(現在の静岡県静岡市清水区興津)に具志頭を葬る事にした。
1,610 8 24 清見寺(現在の静岡県静岡市清水区興津)にて具志頭朝盛の葬儀が行われる。
1,610 8 28 島津忠恒と尚寧王が江戸城に登城し、徳川秀忠に謁見する。徳川は、琉球は代々中山王の国であるから他姓の人を立て国王としてはいけないとし、改易を禁じて琉球国家の存続を命じた。又、島津家には琉球の貢納物を受け取る事を認めた。此れ以降琉球王国は、征夷大将軍が代替わりする度に慶賀使を、琉球国王の代替わりの際には謝恩使を江戸に派遣するのが習わしとなった。
1,610 9 12 尚寧王一行が江戸城に登城し、再度徳川秀忠に謁見する。
1,610 9 13 尚寧王一行が具志頭朝盛の訃報を聞く。最大の理解者であった弟の死に尚寧王の嘆きは大きく、供の者も皆、涙を流して悲嘆に暮れた。往路は東海道経由で江戸へ向かったが、帰路は中山道だった為、尚寧王は弟の墓に手を合わせる事が叶わなかった。
1,610 12 24 尚寧王一行が薩摩に戻る。
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