西暦637年は、前年の二つの会戦の勝利が、二つの都の帰属という形で確定した年である。東方では、ズフラ・イブン・アル・ハウィヤ・アル・タミミ率いる前衛軍が1月にクータ、次いでヴァラシャバードに到達し、クテシフォンを包囲した。ササン朝ペルシア軍は橋を全て破壊してティグリス川を防壁としたが、寝返った義勇兵が渡河可能な地点を示し、6名の志願兵が馬で川を横断して東岸に足掛かりを築くと、縦隊が続々と渡って3月にクテシフォンは陥落した。ササン朝ペルシア政府の本拠地である白宮殿は無血開城し、ヤズデギルド3世は持ち運び可能な宝物を携えてハルワンへ逃亡した。此の包囲戦の途上、ササン朝ペルシア軍はライオンを突撃させてムスリムの馬を怯えさせたが、ハシム・イブン・ウトバが素手で打ち倒し、其の夜に矢を受けて戦死している。西方では4月、ウマル・イブン・ハッターブがパレスチナに到着した。エルサレムの降伏はハッターブ本人の署名を条件としており、外見の似たハーリド・イブン・アル・ワリードを代役に立てる案は見破られて失敗していた為である。協定は締結され、東ローマ帝国はエルサレムを明け渡し、キリスト教徒にはジズヤと引き換えに市民的及び宗教的自由が保証された。ソフロニウスはハッターブを聖墳墓教会に招いたが、ハッターブは後に教会がモスクに変えられる事を危惧して辞退している。此の後もシリア北部の征服は続き、6月のハジルの戦いでは司令官メナスが戦死し、キンナスリーンが降伏、10月にはアレッポのヨアヒムが降伏してイスラム教に改宗し、10月30日にアンティオキアの東ローマ帝国軍が降伏した。ジャラワの戦いを経て、11月には同要塞のササン朝ペルシア軍もジズヤの年次支払いを条件に降伏している。

以下の暦は全て西暦に変換しています。 日本の旧暦 / 中国の旧暦 / ユダヤ暦 / ヒジュラ暦 / ソビエト連邦暦 / フランス革命暦

≈は「頃」を意味しています。

皇室献上品 高級トイレットペーパー 皇室献上品 高級トイレットペーパー
年月日 出来事
637 1 1 ズフラ・イブン・アル・ハウィヤ・アル・タミミ率いるムスリムの前衛軍が、クテシフォンから17km離れたクータ(現在のイラクのバービル県テル・イブラヒム)に到着する。ササン朝ペルシア軍の分遣隊は抵抗した。
637 1 8 ズフラ・イブン・アル・ハウィヤ・アル・タミミ率いるムスリムの前衛軍が、ヴァラシャバード(現在のイラクのバービル県・ディヤーラー県・ワーシト県付近)に到着する。通常はササン朝ペルシア軍の守備隊が居るが、此の時は居なかった。前月のバビロン等と同様に、ジズヤを支払う事でササン朝ペルシアの住民は保護された。其の後ムスリムは、クテシフォンの入口までの全域を占領した。しかし、クテシフォンに進軍する途上、ササン朝ペルシア軍の分遣隊に阻まれ、計画は延期された。クテシフォンのササン朝ペルシア軍は、ムスリムがクテシフォンへ進軍する道を読み、ティグリス川の対岸に在るバフラシール(現在のイラクのバービル県ヴェー・アルダシル)側に現れると予測し、クテシフォンの周囲に深い塹壕を掘った。ムスリムの前衛軍がバフラシールに接近すると、ササン朝ペルシア軍守備隊が投石器で大きな石や岩を発射した。ムスリムは射程外に撤退し、寝返ったササン朝ペルシア工兵から装備の提供を受け、クテシフォンを包囲した。バフラシールは、周囲に物資を輸出していたが、同時にクテシフォンからも物資の供給を受けていた。
637 2 ソフロニウスが、ウマル・イブン・ハッターブがエルサレムに来て協定に署名し、降伏を受け入れる事を条件に、エルサレムを降伏させジズヤを支払う事を申し出る。シュラビル・イブン・ハサナは、ハッターブがマディーナから来るのを待つのではなく、外見がハッターブに似ていたハーリド・イブン・アル・ワリードを送り出す事を提案した。ハサナの案が採用されたが、ワリードはキリスト教アラブ人に見破られ、ソフロニウスによって交渉を拒否された。ワリードの任務失敗の報告を受けたアブー・ウバイダは、ハッターブに書簡を送り、エルサレムに来る様願い出た。
637 3 ササン朝ペルシア軍が、ムスリムの包囲網を突破する事を意図し、クテシフォンを離れる。ササン朝ペルシア軍は、ムスリムの前線まで進軍し、ライオンを突撃させた。ムスリムの馬は恐怖して逃げ出した。ハシム・イブン・ウトバは、ライオンに向かって走り、殴った。此れが上手く当たり、ライオンは死亡した。サディ・ブン・アビ・ワッカスは、前例の無いウトバの英雄的行為を賞賛し、ウトバの額に接吻をした。其の夜、ウトバは矢を受け深手を負い、其の儘死亡した。此の戦闘でムスリムは、ササン朝ペルシア軍の指揮官を殺害した。戦闘が中断した後、ササン朝ペルシア軍の使者が、ヤズデギルド3世の伝言を携えムスリムの野営地へ赴いた。使者は「私達の皇帝は、ティグリス川が貴方達と私達の間の境界線として機能し、其の東に広がる部分は引き続き私達のものであり、西のものは貴方方のものであるという事実に基づいた平和に賛成するかどうか尋ねています。此れで貴方の国の飢えが満たされなければ、何をしても貴方方を満足させる事は出来ません」と伝えると、ムスリムはジズヤの支払いに応じるか、戦闘を継続するかの2択を迫った。ササン朝ペルシア軍は戦闘継続を選択した。
637 3 ササン朝ペルシア軍が戦闘継続を選択した翌日、自衛の為にクテシフォンを封鎖したササン朝ペルシア軍とバフラシールの住民が、クテシフォンの大部分の封鎖を解き、ティグリス川に架かる橋を全て破壊する。更に、川の西岸から全てのボートを撤去し、東岸に停泊させた。ササン朝ペルシア軍は、クテシフォンの南端からティグリス川までを監視下に置き、残りの郊外には塹壕を掘った。ヤズデギルド3世は、此れにより国内の他の地方からの援軍を受け入れ、ムスリムに対抗出来ると主張した。軈てムスリムはバフラシールを占領したが、既に人影は無かった。ティグリス川は川幅が750mあったが、ムスリムはバフラシールを占領した時には満水で、且つ渡れる船も無かった。クテシフォンのササン朝ペルシア軍は、以下2名が指揮していた。
①ミフラン・ラジ
②ロスタム・ファルロフザードの兄ファッルフザード
ムスリムを受け入れたササン朝ペルシア軍から寝返った義勇兵は、サディ・ブン・アビ・ワッカスに、ティグリス川を渡る事の出来る下流の地点を示した。しかし水位が高かった為、渡れるかどうか確信が持てなかった。
637 3 ササン朝ペルシア軍から寝返った義勇兵がサディ・ブン・アビ・ワッカスにティグリス川を渡る事の出来る下流の地点を示した翌朝、ワッカスは義勇兵に、馬に乗ってティグリス川を渡る様頼んだ。先ず、アシム・イブン・アムル・アル・タミミの命により、6名の志願した義勇兵が馬に乗ってティグリス川を横断した。ササン朝ペルシア軍はこれを受け、ティグリス川の水域に入り応戦した。ムスリム側はこの戦闘を優位に進め、東岸に到達した。其の後も縦隊が続々と上陸し、ボートを東岸に着けた。其の後もササン朝ペルシア軍の劣勢は続き、クテシフォンは陥落し、アシム・イブン・アムル・アル・タミミもクテシフォンに入った。そして、ササン朝ペルシア政府の本拠地である白宮殿は無血開城するに至った。ヤズデギルド3世は、持ち運びが可能な宝物や貴重品を全て持参しハルワン(現在のイラクのディヤーラー県)に逃亡した。ワッカスは、残ったササン朝ペルシア国民に恩赦を与えると宣言した。ササン朝ペルシア側は降伏条件を予め理解しており、ジズヤの支払いに応じ、和平協定が締結された。ムスリムは、ササン朝ペルシア国民に通常の職業に戻る様促し、東ローマ帝国の国境にある要塞カルキーシアとヒートを占領する為に分遣隊を派遣した。ワッカスは、白宮殿を本拠地とし、大中庭にモスクを建設した。ササン朝ペルシア軍は、クテシフォンこそ奪われたものの、依然以下の都市では活動していた。
①ティクリート(現在のイラクのサラーフッディーン県)
②モースル(現在のイラクのニーナワー県)
637 4 1 ウマル・イブン・ハッターブがパレスチナに到着する。その後ジャビヤへ向かい、以下3名等が出迎え、ハッターブに合流した。この時アムル・イブン・アル・アースは、エルサレム包囲の指揮官として従事していた。
①アブー・ウバイダ
②ハーリド・イブン・アル・ワリード
③ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン
その後一行はエルサレムに向かい、ハッターブの署名により協定が締結された。証人は以下の4名であった。
①ワリード
②アース
③アブド・アルラフマン・イブン・アウフ
④ムアーウィヤ1世
これにより東ローマ帝国は、エルサレムをムスリムに明け渡し、ジズヤと引き換えにキリスト教徒に市民的及び宗教的自由の保証を与えられた。その後ソフロニウスは、ズフルの礼拝の際、ハッターブを再建された聖墳墓教会(現在のパレスチナ国ヨルダン川西岸地区エルサレム県)に招待した。しかしハッターブは、キリスト教の礼拝の場としての教会の立場が危険に晒され、ムスリムが協定を破り教会をモスクに変える事を危惧し、辞退した。ソフロニウスはハッターブを、神殿の丘(現在のパレスチナ国ヨルダン川西岸地区エルサレム県)にも案内しており、その際ハッターブは、かつて寺院のあった場所の劣悪な状態を見て、その場所に木造のモスクを建てる前に、塵や瓦礫を取り除くよう命じた。
637 4 10 ウマル・イブン・ハッターブがマディーナへ向けて出発する。またハッターブは、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアンに指示を出し、カイサリアを包囲させた。以下2名はパレスチナ占領を完遂させる為に留まった。
①アムル・イブン・アル・アース
②シュラビル・イブン・ハサナ
さらに、以下2名はシリア北部の征服する為に、17,000名を率いエルサレムを出発した。
①アブー・ウバイダ
②ハーリド・イブン・アル・ワリード
637 4 ハシム・イブン・ウトバが、ウマル・イブン・ハッターブの命により、12,000名の兵を率いジャラワ(現在のイラクのディヤーラー県)へ向けて進軍する。サディ・ブン・アビ・ワッカスがハッターブに対し、ジャラワにクテシフォンから敗走したササン朝ペルシア軍残党等が集結している事を報告した上で、ハッターブが出した結論であった。ジャラワは以下の地域に通じるルートが在り、戦略上重要な場所であった。
①現在のイラク北部
②ホラーサーン(現在のイラン・アフガニスタン・トルクメニスタン)
③現在のアゼルバイジャン
ハッターブは、ティクリートとモースルを攻める前に後方の敵を掃討しようとしていた。また、ジャラワへのササン朝ペルシア軍の戦力の集中は、ムスリムがイラク北部へ侵攻する上でのボトルネックとなっていた。ジャラワのササン朝ペルシア軍は、以下の2名が指揮していた。
①ミフラン・ラジ(指揮官)
②ファッルフザード(副官)
そしてムスリムは、ジャラワの要塞の外でササン朝ペルシア軍と遭遇した。そこはディヤーラー川と崩れた地面に囲まれていた。崩れた地面は騎兵・歩兵の移動には不向きであった。ラジは、ムスリムとの戦闘経験の有るベテラン将軍であり、ムスリムの戦い方を熟知していた。ラジは、ムスリムの進軍を遅らせる為に、塹壕を掘り、その前にカルトロップを置いた。ラジの戦略は、ムスリムに正面攻撃を仕掛け、射手や攻城兵器の大砲によってムスリムを疲弊させるというものであった。ムスリムは、ラジの仕掛けたカルトロップによって、進軍を妨げられた。ラジは、ムスリムの中核が疲弊したタイミングで攻撃する事を意図し、古典的な陣形で布陣した。ハシムも戦場に駆け付けるが、現場のディヤーラー川に囲まれた地形と崩れた地面を見て、側面からの攻撃は困難で、正面からの攻撃は多大な犠牲を払うと判断した。ハシムは、塹壕とカルトロップに守られたササン朝ペルシア軍を誘き出す為に、敢えて正面から攻撃し、退却する振りをして、ササン朝ペルシア軍が塹壕から離れたら、騎兵隊が塹壕の上の橋を占領して逃げ道を塞ぐ作戦を立てた。ムスリムの陣容は以下の通り。
①ハシム(総司令官)
②カーカ・イブン・アムル・アル・タミミ(前衛)
③シル・ビン・マリク(右翼)
④アムル・ビン・マリク・ビン・ウトバ(左翼)
⑤アムル・ビン・ムラ・アル・ジュハーニ(後衛)
後から増援として以下の人間がやって来た。
①タルハ・イブン・クワイリッド・イブン・ナウファル・アル・アサディ
②アムル・ビン・マアディ・ヤクリブ
③カイス・ブン・マクシュフ
④フジュル・ビン・アディ
ムスリムは正面攻撃を開始した。暫く交戦した後、予定通り退却する振りをして全体を後退させた。ラジは、攻撃を開始する時が近づいている事を察知し、塹壕を埋めさせた上で総攻撃を命じた。ここまでは両陣営は思惑通りに戦闘を進めた。ラジが野原でムスリムと交戦すると、ハシムはタミミ率いる騎兵連隊に、警備が手薄になっていた塹壕に架かる橋を占領させた。タミミは、ササン朝ペルシア軍の右翼を迂回して橋を占領した為、ササン朝ペルシア軍の後方に位置する事となった。これにより、ササン朝ペルシア軍はディヤーラー川とムスリムに挟まれた形となり、士気が著しく低下した。ハシムは歩兵を使って正面攻撃を開始した。タミミは戦況を見ているだけであった。ササン朝ペルシア軍は、多数の死傷者を出し大敗した。それでも数千名の兵が、このムスリム包囲網を何とか抜け出し、ジャラワの要塞に辿り着いた。ハシムは戦闘後にジャラワを包囲した。現地のササン朝ペルシアの女性・子供は戦利品として奴隷となった。ハッターブは「これから生まれてくる奴隷の女たちの子供達を恐れ、私はアッラーに帰依します」と言った。
637 6 以下2名率いる軍が、ダマスカスを経由してエメサに到着、その数日後にハジル(現在のシリアのアレッポ県マウントシメオン地区)に入る。
①アブー・ウバイダ
②ハーリド・イブン・アル・ワリード
ワリードと機動警備隊を先頭としていた。そこで司令官メナス率いる7,000名の東ローマ帝国軍守備隊の攻撃を受けた。メナスは、もしキンナスリーンに留まれば、ムスリムに包囲され、ヘラクレイオスからの助けは期待出来ない為、最終的に降伏する事になるだろうと考え、本隊が合流する前に先制する作戦を採った。戦闘はアル・ハヘル(現在のシリアのアレッポ県マウントシメオン地区)の農村で始まった。メナスはワリードと同様に前線で軍を率い、中央部隊と両翼に兵を配置した。メナスは戦いの序盤で殺害された。メナスの戦死の情報が東ローマ帝国軍に広まると、兵達は怒り、敵討ちの為激しい攻撃を行った。しかし東ローマ帝国軍は、ワリード率いる騎兵連隊に後方から攻撃を受けて包囲され、メナス率いる守備隊にとって嘗て無い大敗を喫した。戦闘が終了すると、直ぐにハジルのアラブ人は、ワリードを出迎え、敵対するつもりは無い事を主張した。ワリードは降伏を受け入れ、キンナスリーンへと向かった。
637 6 ハーリド・イブン・アル・ワリードはキンナスリーンに入り、東ローマ帝国軍の駐屯地に向けて「もし貴方方が雲の中に居るなら、アッラーは私達を貴方方の所に引き上げるか、戦いの為に貴方方を私達の所に降ろすでしょう」と通告する。程無くして砦に立て籠ったメナスに同行せずハジルに出陣しなかった東ローマ帝国軍守備隊は降伏した。ウマル・イブン・ハッターブは、ハジルの戦いの報告を受け「ワリードは真の司令官です。アブー・バクルにアッラーのご慈悲が有ります様に。彼は私よりも優れた判断力を持っていました」と叫び、ワリードを称賛すると同時に、ワリードを司令官から解任した事は自らの判断ミスであると初めて認めた。
637 8 以下2名がキンナスリーンで合流し、アレッポ(現在のシリア)に進軍する。
①アブー・ウバイダ
②ハーリド・イブン・アル・ワリード
アレッポは、城壁に囲まれた大きな都市と、都市郊外の丘の上に在る、幅が400m強の、幅の広い堀に囲まれた小さいながらも難攻不落とされる砦で構成されていた。その砦をヨアヒム率いる東ローマ帝国軍守備隊が守っていた。ヨアヒムは、砦の外でウバイダとワリードの率いるムスリムに遭遇し、交戦した。敗れたヨアヒムは直様砦に撤退した。その後ヨアヒムは、ムスリムの包囲網を破る為に何度も攻撃を仕掛けるが、全て失敗した。ヨアヒムは、ヘラクレイオスから何の支援も受けていなかった。
637 10 ヨアヒムが、駐留している東ローマ帝国軍守備隊が安全に立ち去る事が出来るという条件で降伏する。ヨアヒムはイスラム教に改宗した。その後アブー・ウバイダは、マリク・イブン・アシュタル率いる縦隊を差し向け、アアザーズ(現在のシリアのアレッポ県)を占領させた。これはアレッポ以北に東ローマ帝国軍の大軍を残さない様にする為に採った作戦で、これにより、東ローマ帝国軍の側面と後方を攻撃出来る様になった。ウバイダは、アシュタルが軍に合流すると直ぐにアンティオキア占領の為、西に進軍した。
637 10 ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる機動警備隊が前衛となり、アブー・ウバイダ一行はハリム(現在のシリアのイドリブ県)を経由してアンティオキアへと向かう。マフルバの近くのオロンテス川に架かる鉄橋付近でアンティオキアを守備する東ローマ帝国軍とムスリムが交戦する。この戦闘でワリードは大きな役割を果たし、東ローマ帝国軍は多数の死傷者を出して大敗し、残存兵はアンティオキアへ逃亡した。その後ムスリムはアンティオキアを包囲した。
637 10 30 アンティオキアに駐留する東ローマ帝国軍が降伏する。その後ムスリムは、地中海沿岸に沿って南下し、以下を占領した。
①ラタキア(現在のシリア)
②ジャブラ(現在のシリアのラタキア県)
③タルトゥース(現在のシリア)
また他にもムスリムは、シリア北部に残存する抵抗勢力の鎮圧を行った。ハーリド・イブン・アル・ワリードは、マンビジュ(現在のシリアのアレッポ県)付近へ派遣され、騎兵隊を率い進軍した。
637 11 ジャラワの要塞のササン朝ペルシア軍が、ジズヤの年次支払いを条件にムスリムに降伏する。ヤズデギルド3世は、ジャラワに救援を送る事が出来なかった。
皇室献上品 高級トイレットペーパー 皇室献上品 高級トイレットペーパー