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≈は「頃」を意味しています。
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| 年月日 | 出来事 | |||
|---|---|---|---|---|
| ≈ | 636 | 3 | 15 | 東ローマ帝国軍のエメサの軍事総督ハービーズが、ムスリムに奇襲を仕掛け、砦の外で打ち破る計画を企図する。この頃、ムスリムは援軍を迎え、戦力を増強していた。 |
| ≈ | 636 | 3 | 16 | 朝、ハービーズ率いる軍が、ラスタン門から奇襲攻撃を行う。攻撃を受けた部隊は、ムスリムの幾つかに分散した戦力の中でも最大であった。にも拘らず、東ローマ帝国軍の素早い攻撃に翻弄され、劣勢となった。アブー・ウバイダは局面打開の為、ハーリド・イブン・アル・ワリードを派遣した。ワリード率いる機動警備隊は、現場を指揮し、兵の再配置を行なって防御策を講じた後に攻撃に転じた。日没近くに東ローマ帝国軍は砦に追い込まれ、奇襲は失敗に終わった。 |
| ≈ | 636 | 3 | 17 | 朝、アブー・ウバイダが軍議を開き、前日の戦闘に関し不満を述べる。ハーリド・イブン・アル・ワリードは「この東ローマ帝国人は、私がこれまで会った中で最も勇敢であった」と述べた。ウバイダは、ワリードに助言を求めた。ワリードは「翌朝、エメサから軍を引き上げ、包囲を強化する為に南下していると見せ掛ける。東ローマ帝国軍は追って後衛を攻撃するだろう。そこを転じて、東ローマ帝国軍を包囲して殲滅すれば良い」という主旨の返答をした。 |
| ≈ | 636 | 3 | 18 | ムスリムは、前日のハーリド・イブン・アル・ワリードの助言通りに軍を引き上げる振りをする。ハービーズは絶好の機会と捉え、5,000名の兵を招集し、砦の外へ出て、ムスリムの騎馬部隊を猛追した。軈てエメサから数マイルの所でムスリムに追い付き、打ち倒した。しかし、東ローマ帝国軍の主要部隊がムスリムに襲い掛かろうとした瞬間、突然向きを変え、猛烈な勢いで東ローマ帝国軍を攻撃した。ワリードが号令を掛けると、2つの騎馬部隊が東ローマ帝国軍の側面を駆け回り、後方から突撃した。ムスリムは着実に東ローマ帝国軍を追い詰め、四面楚歌の状態に追い込んだ。ワリードは、機動警備隊の精鋭戦士と共に東ローマ帝国軍の中央に到達し、戦闘中のハービーズを発見した。ワリードはハービーズの下へ向かったが、巨漢の将軍に阻まれた。しかし、ワリードは決闘の末これを破った。ハービーズは最終的に戦死した。ムスリムが、包囲している東ローマ帝国軍への攻撃を開始した時、マアズ・イブン・ジャバルは500騎を率い、逃走する東ローマ帝国軍が砦に入らない様にする為にエメサに駆け戻っていた。ジャバルの軍がエメサに近づくと、恐怖を感じた住民と追撃に参加しなかった東ローマ帝国軍の守備隊の残党は急いで砦に撤退し、門を閉めた。ジャバルは、東ローマ帝国兵が門から出てきたり、エメサの外の東ローマ帝国兵が侵入してくるのを防ぐ為に、門の前に兵を配置した。最終的に100名の東ローマ帝国兵が逃走した。ムスリムはエメサでの一連の軍事行動により235名の死者を出した。アブー・ウバイダは、地元住民の条件付きの降伏を受け入れ、1人当たり1ディナールのレートでジズヤを徴収した。 |
| ≈ | 636 | 5 |
ヘラクレイオスが、アンティオキア(現在のトルコのハタイ県アンタキヤ)に、以下の民族から構成された、セオドア・トリテュリウスを総司令官とした大軍を結成する。 ①スラヴ人 ②フランク人 ③グルジア人 ④キリスト教徒のアラブ人 ⑤ロンバルド人 ⑥アヴァール人 ⑦ハザール人 ⑧バルカン人 ⑨ギョクテュルク人 以下の五手に分かれた。 ①本隊(総司令官:トリテュリウス) ②アルメニア軍(野戦司令官:元エメサ守備隊司令官ヴァハン) ③スラブ人(司令官:スラブ王子ブッチネッター) ④キリスト教アラブ人(司令官:ガッサーン朝アラブ王ジャバラ・イブン・アル・アイハム) ⑤ヨーロッパ人(司令官:グレゴリーとダイルジャン) |
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| ≈ | 636 | 5 |
ムスリムが以下の四手に分かれる。 ①ハーリド・イブン・アル・ワリードとアブー・ウバイダ(エメサ) ②カーカ・イブン・アムル・アル・タミミ(パレスチナ) ③シュラビル・イブン・ハサナ(ヨルダン) ④ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン(カエサレア・ピリピ(現在のシリアのダマスカス)) |
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| ≈ | 636 | 5 | ムスリムが、北シリア全体の占領を意図し、ハマー(現在のシリア)を経由して、シャイザール(現在のシリアのハマー県)に到着する。ムスリムはここで、少数の兵士に護衛され、食糧をキンナスリーン(現在のシリアのアレッポ県)に運ぶ東ローマ帝国の船団を見つけ、ハーリド・イブン・アル・ワリードがこれを妨害し、捕縛した。尋問により、ヘラクレイオスの計画と、東ローマ帝国の大軍が陣を張っている場所を聞き出した。ワリードは軍議を開き、アブー・ウバイダに対し、パレスチナとシリア北中部から撤退し、ガッサーン朝の首都ジャビヤ(現在のシリアのダマスカス県)に兵力を集中させる事を指示した。ウバイダはガッサーン朝の襲撃を退け、ジャビヤを征圧した。これにより、ウマル・イブン・ハッターブからの援軍が合流し易くなり、ジャビヤ近郊の広大な平原に戦力を集中させる事が可能となった。また、撤退が必要となった際に、ナジュド(現在のサウジアラビア)の要塞に逃げ込み易いという利点があった。また、ジズヤを支払った人々へ返還を行う様、指示が下された。 | |
| ≈ | 636 | 5 | ヘラクレイオスが、カエサレア・ピリピを包囲していたヤズィード・イブン・アビ・スフィアンを討つ事を意図し、自身の長男コンスタンティノス3世を現地に派遣する。ヘラクレイオスは、ムスリムの戦力が分散している内に各部隊に対し、大規模な兵力を投入する作戦を立てていた。 | |
| ≈ | 636 | 5 |
ムスリムが、カイサリア(現在のイスラエルのハイファ地区)に強力な東ローマ帝国軍が駐屯しており、後方から襲撃される恐れがあった為、ワリードの助言により、以下の2箇所に後退した。 ①ダルアー(現在のシリア) ②デイル・アイユーブ(現在のパレスチナ国ヨルダン川西岸地区ラマッラー・アル・ビーレ県) そして、ヤルムーク渓谷とハラ溶岩平原をカバーし、陣を敷いた。これにより、ヘラクレイオスの、ムスリムの戦力が分散している内に各部隊を叩くという目論見は外れた。この間、ハーリド・イブン・アル・ワリードの精鋭軽騎兵隊と、東ローマ帝国の先遣隊の間で小競り合いがあったものの、大きな戦闘は無かった。 |
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| ≈ | 636 | 6 | 15 | 東ローマ帝国軍が、アンティオキアを含む北シリアから撤退する。 |
| 636 | 7 |
以下の3つのカテゴリーに分類された60,000名のササン朝ペルシア軍が、カーディシーヤ(現在のイラクのナジャフ県)に到着する。 ①歩兵 ②重騎兵 ③象軍団 その後、アティーク川東岸に堅固な野営地を築いた。 |
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| 636 | 7 | ムスリムの主力部隊が、シャラフからカーディシーヤに入り陣を張る。防御を強固にし、川源を確保した。サディ・ブン・アビ・ワッカスは、スワド襲撃の為に部隊を差し向け、ウマル・イブン・ハッターブと継続的に連絡を取り、ムスリムの野営地・カーディシーヤ・マディーナ・ササン朝ペルシア軍が参集している場所の地域間の地理的特徴に関する報告書をハッターブに送付した。 | ||
| 636 | 7 | ムスリムの主力部隊が、シャラフからカーディシーヤに入り陣を張る。防御を強固にし、川源を確保した。サディ・ブン・アビ・ワッカスは、スワド襲撃の為に部隊を差し向け、ウマル・イブン・ハッターブと継続的に連絡を取り、ムスリムの野営地・カーディシーヤ・マディーナ・ササン朝ペルシア軍が参集している場所の地域間の地理的特徴に関する報告書をハッターブに送付した。この時点でムスリムは騎兵7,000名を含む30,000名を擁していたが、シリアからの派遣部隊と周囲のアラブ同盟国からの援軍により36,000名まで規模を拡大させた。ワッカスは坐骨神経痛を発症し、全身におできが発生していたが、カーディシーヤの旧王宮から戦場を眺め、作戦を指揮した。ワッカスは、ハーリド・イブン・ウルフタを副官に任命し、ウルフタは、ワッカスの伝令に基づいて戦闘を行った。ムスリムは、150m間隔で4個師団に分かれ、後方に独自の騎兵連隊を配置した。ムスリムは、ササン朝ペルシア軍の銀色のヘルメットに似た、金色のヘルメットを被っていた。鎖帷子はヘルメットからの当て物として、また、メイルコイフとして顔・首・頬を保護する為に用いられた。重厚なレザーサンダルを履き、硬い革の鱗や層状の鎧、鎖帷子を身に纏った。歩兵は騎兵よりも重装甲で、柄の長い槍だけで無く、大型木製や枝編み細工の盾も使用された。歩兵の槍の長さは2.5m、騎兵の槍は最大5.5mであった。弓の長さは支柱を外した状態で2m、最大射程は150mであった。ササン朝ペルシア戦線に投入されたムスリムの装備は、東ローマ帝国に配備された部隊と比較して軽装甲であった。 | ||
| 636 | 7 |
ウマル・イブン・ハッターブが、以下2名にイスラム教への改宗を勧める為に使者を派遣する様、サディ・ブン・アビ・ワッカスに指示を出す。 ①ヤズデギルド3世 ②ロスタム・ファルロフザード アン・ヌマーン・イブン・ムカリンが、クテシフォンへの使者の派遣を手配する等し、イスラム教へ改宗するか、ジズヤの支払いに応じるかの選択を迫った。 |
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| ≈ | 636 | 7 | ヤズデギルド3世が、ムスリムを辱める為、交渉に於いてアシム・イブン・アムル・アル・タミミの頭に土を一杯に入れた籠を置く様家臣に命じる。家臣が指示通りに実行すると、ムスリムはササン朝ペルシアが自発的に領土を明け渡したものと解釈した。ロスタム・ファルロフザードも同じ見解であった。ムスリムは籠を持ち去り、ファルロフザードは、ササン朝ペルシアが自発的に領土を明け渡した事を意味するとして、ヤズデギルド3世を非難した。ヤズデギルド3世は、ムスリムを追跡し、籠を取り返す様兵士達に命じた。しかしムスリムは既に本拠地に帰還していた。ササン朝ペルシアとムスリムの交渉はその後も続けられた。 | |
| ≈ | 636 | 7 |
東ローマ帝国軍が以下の計画を立てる。 ①ジャバラ・イブン・アル・アイハムの軍が、軽武装したキリスト教アラブ人を率い、ハマーを経由してエメサに進軍し、ムスリムの主力部隊を迎え撃つ。 ②ダイルジャンの軍は、アレッポ(現在のシリア)より西の地中海沿岸を進み、アイハムがムスリムを押さえ付けている間に、ムスリムの左翼を攻撃する。 ③グレゴリーの軍は、メソポタミアを経由してムスリムの右翼を攻撃する。 ④ブッチネッターの軍は、地中海沿岸を進軍し、ベイルート(現在のレバノン)を占領して、そこから防御の弱いダマスカスを西から攻撃してエメサでムスリムの主力部隊をを遮断する。 ⑤ヴァハンの軍は予備軍として、ハマーを経由してエメサに接近する。 |
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| ≈ | 636 | 7 | 15 | ヴァハンが、ハーリド・イブン・アル・ワリードを招き、和平交渉を行い、1ヶ月の休戦が実現する。 |
| ≈ | 636 | 7 | 25 | ヴァハンが、軽装甲のキリスト教アラブ人と共にジャバラ・イブン・アル・アイハムを派遣したが、ムスリムの機動警備隊により撃退される。 |
| 636 | 8 | 15 |
明け方、ヤルムーク川(現在のシリア、ヨルダン、イスラエル)にて、東ローマ帝国軍とムスリムが、1マイル未満の距離で対峙する。東ローマ帝国軍の右翼中央部の部隊の指揮官ジョージは、馬でムスリムの戦線まで駆け上がり、イスラム教に改宗した。ムスリムとして戦ったが、同日戦死した。ムスリムのムバリズンと東ローマ帝国軍の戦士との決闘で戦いは始まった。東ローマ帝国軍は、決闘により多くの戦士を失ったが、数で優っていた。ヴァハンは、歩兵部隊の1/3を使って攻撃した。ムスリムの戦線は弱かったが、東ローマ帝国軍は決意に欠けており、ムスリムの西暦624年3月17日のバドルの戦いに参加した、以下2名を含む老兵100名に対して攻撃を加える事が出来なかった。 ①ズバイル・イブン・アウワーム ②アブー・スフヤーン ヴァハンは増援を送らず、2/3の兵は温存された。日没と共に両軍は其々の陣営に戻った。 |
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| 636 | 8 | 16 | ヴァハンが、軍議にて、夜明け直前に朝の祈りを行なっているムスリムを襲撃する事を決定する。ヴァハンは、中央の2つの部隊をムスリムの中央の部隊と交戦させ、主力をムスリムの両翼に差し向け、ムスリムを離散させるか、中央部に押し込む事を計画していた。戦場を観察する為に、ヴァハンは右翼の後ろに、アルメニアのボディーガード部隊と共にパビリオンを建設させ、奇襲の準備を命じた。一方、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、夜間に前線の戦力を増強させ、奇襲に備えた。戦闘が始まると、東ローマ帝国軍は、ムスリムの中央の部隊を釘付けにし、援軍の合流を阻止した。カナティールは、主にスラブ人で構成された東ローマ帝国軍の左翼を指揮し、大軍で攻撃した。結果、ムスリムの右翼は撤退を余儀無くされた。ムスリムの右翼の指揮官アムル・イブン・アル・アースは騎兵連隊に反撃を命じ、東ローマ帝国軍の侵攻を食い止めたが、多勢に無勢で、最終的に基地に後退した。 | |
| 636 | 8 | 16 |
ハーリド・イブン・アル・ワリードは両翼の状況を認識し、右翼の騎兵隊に、東ローマ帝国軍の左翼の北側面を攻撃する様命じ、一方自身は、機動警備隊と共に東ローマ帝国軍の左翼の南側面を攻撃し、ムスリムの右翼の歩兵は正面から攻撃した。此の3方面からの攻撃により、東ローマ帝国軍の左翼は、獲得したムスリムの陣地を放棄せざるを得なくなった。アムル・イブン・アル・アースは失地を奪回し、部隊の再編成を行なった。ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン率いる左翼の状況は深刻で、右翼の様に機動警備隊のサポートも無く、東ローマ帝国軍に数で圧倒されて陣地を蹂躙され、基地へ後退した。東ローマ帝国軍のグレゴリーの部隊は、テストゥドの陣形を採用したが、動きは遅かったものの、守備は堅固であった。スフィアンは騎兵連隊を使って反撃したが、返り討ちに遭った。ムスリムの中央の部隊は釘付けとなり、側面は押し戻された。士気が著しく低下したが、両側面は崩れなかった。撤退したムスリムを、ハインド率いる凶暴なアラブ人女性が基地で迎えた。ハインド達は、テントを解体し、テントポールで武装し、西暦625年3月23日のウフドの戦いでムスリムに向けられた以下の即興歌を歌った。 絶え間ない女から逃げる者よ 美と徳を兼ね備えた女から逃げ去る者よ 彼女を異教徒に委ね 憎むべき邪悪な異教徒に 辱めと破滅を与えよ 此れにより、ムスリムは士気を高め戦場に戻った。 |
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| 636 | 8 | 16 | ハーリド・イブン・アル・ワリードは、右翼の陣地を安定させた後、機動警備隊に左翼を救援する様命じる。更に、ディラール・ビン・アル・アズワル指揮下の1個連隊を切り離し、陽動を作り出して中央左翼のダイルジャンの軍を攻撃する様命じた。ワリード自身は残りの騎兵予備隊と共に、グレゴリーの軍の側面を攻撃した。正面と側面からの同時攻撃を受けた東ローマ帝国軍は、陣形を維持しながらゆっくりと後退した。最終的にダイルジャンは戦死、ヴァハンは作戦に失敗し、ムスリムは士気を高め、日没と共に戦闘は中断された。 | |
| 636 | 8 | 17 | 戦闘が再開され、東ローマ帝国軍がムスリムの右翼と中央右翼を攻撃する。ムスリムは東ローマ帝国軍の攻撃を食い止めた後に後退し、再度凶暴なアラブ人女性に迎えられ、虐待されて辱めを受けた。ムスリムは少し離れた所で軍隊を再編成し、反撃に備えた。東ローマ帝国軍がムスリムの右翼を集中的に狙っている事に気付いていたハーリド・イブン・アル・ワリードは、右翼騎兵と共に機動警備隊を率いて攻撃を開始した。ワリードは、東ローマ帝国軍の左翼中央部の右側を攻撃し、ムスリムの右翼中央部の騎兵予備隊は、東ローマ帝国軍の左翼中央部の左側を攻撃した。更にワリードは、ムスリムの右翼の騎兵隊に対し、東ローマ帝国軍の左翼の左側を攻撃する様命じた。戦闘は直ぐに血祭りに発展した。ワリードの適時側面攻撃によりムスリムは再び窮地を救われ、東ローマ帝国軍は戦闘開始時の陣地まで押し戻された。 | |
| 636 | 8 | 18 |
ヴァハンはムスリムの右翼に損害を与える事に成功した為、前日の戦闘を推し進める事を決定する。カナティールは、ジャバラ・イブン・アル・アイハム率いるアルメニア人とキリスト教アラブ人の支援を受け、ムスリムの右翼と右翼中央部に対抗する為の2部隊を率いた。結果、ムスリムの右翼と右翼中央部は再び後退した。ハーリド・イブン・アル・ワリードは、機動警備隊を率い再度戦場へ赴き、アブー・ウバイダと左翼の左側に、東ローマ帝国軍の前線を攻撃する様命じた。更にワリードは、機動警備隊を2個師団に分け、東ローマ帝国軍の左翼中央部を攻撃し、更にムスリムの右翼の歩兵を正面から突撃させた。3方面からの攻撃を受け、東ローマ帝国軍の左翼中央部は後退した。又、南側面が手薄となっていた東ローマ帝国軍の左翼も後退した。其の頃、東ローマ帝国軍の弓騎兵が以下2名の部隊に矢の雨を降らせた。 ①ウバイダ ②ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン スフィアンを含む多くのムスリム兵が目に矢を受け、甚大な被害を被った。ムスリムは、ウバイダの左側にいた、ワリードの幼馴染であるイクリマ・イブン・アビー・ジャハル率いる1個連隊を除き、退却した。ジャハルは騎兵400名を率いてムスリムの退却を援護したが、全員が重傷を負い、死亡者も発生した。夕方、ジャハルは致命傷を負い死亡した。退却したムスリムは反撃して失われた陣地を取り戻す為、部隊の再編成を行なった。 |
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| 636 | 8 | 19 |
早朝、ヴァハンが、新たな交渉が行える様、今後数日間の休戦を求めてムスリムに特使を派遣する。ヴァハンは、前日迄の4日間で突破口を開く事が出来ず、特にムスリムの機動警備隊の側面を攻撃した際に多数の死傷者を出していた。しかし、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、勝利が手の届く所にあると判断し、其の申し出を断った。此れ迄ムスリムは、防御を中心とした戦術を使っていたが、東ローマ帝国軍が戦意を失っている事を知り、攻撃に転じる為に部隊を再編成した。全ての騎兵連隊は、機動警備隊を中核とする8,000名の騎馬部隊に纏められた。ワリードは、東ローマ帝国軍を罠に嵌め、逃げ道を遮断する作戦を採った。周囲には以下の3つの渓谷が有り、障壁となっていた。 ①東のワディ・アル・アッラー ②西のワディ・ウル・ラッカド ③南のワディ・アル・ヤルムーク 北に障壁が無かった為、騎兵隊が封鎖する事となった。夜、ワリードは、ワディ・ウル・ラッカドを横切るアイン・アル・ダカール橋が戦略的に重要であると位置付け、500名の騎兵を派遣した。派遣された騎兵は、東ローマ帝国軍を北側から回り込んで、アイン・アル・ダカール橋を占領した。 |
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| 636 | 8 | 20 | ハーリド・イブン・アル・ワリードは、騎兵部隊を率いて東ローマ帝国軍を戦場から追い出し、増援を受け取れない様分断して、側面や後方を攻撃してワディ・ウル・ラッカドへ追い込む作戦を計画する。ワリードは総攻撃を指示し、騎兵隊を東ローマ帝国軍の左翼へ差し向け、交戦させた。残りの兵は東ローマ帝国軍の左翼の後部を攻撃した。更にムスリムの右翼が正面から圧力を掛け、2方向からの攻撃を受けた東ローマ帝国軍左翼は後退して北に敗走した。次にムスリムの右翼歩兵は東ローマ帝国軍の左翼中央部の左側面を攻撃し、ムスリムの右翼中央部は正面から突撃した。ヴァハンはムスリムの騎兵隊の機動力に気付き、騎兵隊に集団を作る様命じたが、重騎兵中隊を編成している最中にワリードは正面と側面から攻撃させ、東ローマ帝国軍は混乱し、散り散りになり北へ向かって敗走した。更にワリードは、東ローマ帝国軍の左翼中央部を再度攻撃し、壊滅させた。敗北が決定的となった東ローマ帝国軍の撤退が始まり、ワリードは北への逃走を防ぐ為に騎兵を差し向けた。東ローマ帝国軍はワディ・ウル・ラッカドへ向かったが、前日にアイン・アル・ダカール橋を占領した騎兵が待ち受けていた。四面楚歌となった東ローマ帝国兵は、逃走を図ったが、急な斜面から深い渓谷に落ちた者も居れば、水中に逃げようとしたが下の岩に打ちつけられ命を落とした者も居た。しかし其れでも多くの兵が逃れる事に成功したが、セオドア・トリテュリウスは戦死した。ヘラクレイオスの従兄弟ニケタスは、エメサへの脱出に成功した。ジャバラ・イブン・アル・アイハムも逃亡に成功し、其の後イスラム教に改宗した。ムスリム側もヨナが戦死し、犠牲を払った。ワリードは、逃走する東ローマ帝国兵を追跡しダマスカス付近で攻撃を仕掛けた。其の後ワリードはダマスカスの奪還に成功し、地元住民に歓迎された。ヘラクレイオスは、東ローマ帝国軍の敗北を知り激怒した。しかし、ヘラクレイオスは敗因として姪のマルティナとの結婚を挙げ、アンティオキアの大聖堂に退却し、会議を招集した。夜、ヘラクレイオスは、真の十字架の聖遺物を携え、エルサレム総主教ソフロニウスによって秘密裏に船に乗せられ、コンスタンティノープルへと向かった。此の戦闘により、東ローマ帝国のシリア支配が終焉し、キリスト教の影響の強かったレバント地方は以後イスラム化が進んでいく事となる。 | |
| ≈ | 636 | 8 | ウマル・イブン・ハッターブが、ハーリド・イブン・アル・ワリードを最高司令官から罷免させ、アブー・ウバイダを据える。軍が再編成され、ワリードはウバイダの副官の1人として従属する事となった。 | |
| ≈ | 636 | 8 | ウマル・イブン・ハッターブが、シリア戦線の緊張が緩和された事を理由に、ササン朝ペルシアとムスリムの交渉を打ち切る。 | |
| ≈ | 636 | 9 | ムスリムがタルトゥース(現在のシリア)を征圧する。アブー・ウバイダは、部下のウバダ・イブン・アル・サミットに対し、ラオディキア(現在のトルコのデニズリ県エスキヒサール)に進軍する様指示を出した。 | |
| ≈ | 636 | 9 |
東ローマ帝国軍支配下のラオディキアが、以下2名の指揮するムスリムによって包囲される。 ①アブー・ウバイダ ②ウバダ・イブン・アル・サミット 包囲中、サミットは地元の守備隊からの激しい抵抗に遭った。サミットは大勢の人でないと開ける事の出来ない巨大な門がある事に気付いた。サミットは、ラオディキアから離れた場所に野営する事を命じ、ムスリムは騎兵隊が身を隠すのに十分な深さの塹壕を掘り、日中の内にホムスに戻る振りをした。夜、ムスリムは敵に気付かれない様塹壕に戻り、待機した。ラオディキアの住民は、ムスリムが去ったと思い込み、門を開けて牛を放した。すると、サミットは直ちに全軍に攻撃を命じた。不意を突かれた東ローマ帝国軍は門を閉じる事が出来ず、サミットは「アッラーフ・アクバル」の雄叫びを上げ城壁を登り、ムスリム達によってラオディキアは占領された。東ローマ帝国軍と地元住民はサミットに降伏した。サミットは、ハラージを支払う事を条件に、住民の帰還を許可した。サミットは、ラオディキアに留まりモスク「ジャミ・アル・バザール」の建設を監督し、地元住民にムスリムの法律を課す一方、街に攻撃等は加えなかった。 |
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| ≈ | 636 | 9 | ヴァラシャバード(現在のイラクのバービル県)に居たロスタム・ファルロフザードは、カーディシーヤのムスリムの野営地を破り、和平交渉を再開する。ファルロフザードはムスリムに書簡を送った。ムスリム側は、サディ・ブン・アビ・ワッカスが最初にラビ・ビン・アミール、後にムギラ・ビン・ズララを派遣し交渉に応じた。ファルロフザードはズララに対し「我々はこの地に確固たる地位を築いており、敵に勝利し、諸国民の間で高貴である。どの王も我々の権力・名誉・支配権を持っていない」と言ったが、ズララはファルロフザードを遮り「もし我々の保護が必要なら、我々の保護を受けて、謙虚にジズヤを支払え。然も無ければ剣だ」と言うと、ファルロフザードは酷く侮辱され怒りを感じ「私が貴方達全員を殺すまで、明日の夜明けは無いだろう」とズララを脅した。 | |
| ≈ | 636 | 10 | ロスタム・ファルロフザードが、ムスリムとの戦闘に備えつつ、自身の兄ファッルフザードに書簡を送り、兵を集めてアゼルバイジャンに行って祈る様伝える。又、ファルロフザードは、ヤズデギルド3世こそが、ササン朝ペルシアから残された唯一の遺産である事をファッルフザードに思い出させた。其の後ファルロフザードはクテシフォンから出陣し、カーディシーヤでムスリムと対峙した。 | |
| ≈ | 636 | 10 | 1 |
アブー・ウバイダが軍議を開く。以下の2箇所のどちらを占領するか議論が為されたが、結論は出なかった。 ①カイサリア ②エルサレム ウバイダは、ウマル・イブン・ハッターブに書簡を送り指示を仰いだ。ハッターブはエルサレムを占領する様返答した。ウバイダ達は、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる機動警備隊を先頭にジャビヤからエルサレムへ向けて進軍した。 |
| ≈ | 636 | 11 | 1 | ムスリムがエルサレムに到着する。その後包囲を開始した。 |
| 636 | 11 | 16 |
未明、ササン朝ペルシア軍が、ロスタム・ファルロフザードの命により、間にある運河を塞いで道路にしていた所を通過しアティーク川西岸を越える。ファルロフザードは45,000名の歩兵を4個師団に分け、150m置きに、南西を向いて川を背にして配置した。更に、15,000騎の騎兵も4個師団に分けられ、予備として待機した。4個師団には其々8頭ずつ計33頭の象が居た。戦線は4kmに及んだ。指揮官は以下の通り。 ①右翼:ホルムザン ②右中央:ジャリヌス ③後衛:ピルツ・ホスロー ④左翼:ミフラン・ラジ ファルロフザードは、右中央後方の天蓋で日陰になった所に陣取り、戦場を俯瞰で眺めた。対するムスリムは、ササン朝ペルシア軍と500m離れた所で北東を向いて対峙した。戦闘直前にサディ・ブン・アビ・ワッカスは「此れは貴方方の神が貴方方に約束した遺産だ。神は3年前に貴方方に其れを利用出来る様にされたが、貴方方は今日迄その恩恵を受け、人々を捕らえ、身代金を要求し、殺してきた」と兵達を激励した。また、カーカ・イブン・アムル・アル・タミミの弟アシム・イブン・アムル・アル・タミミも騎手達に「貴方方は彼等よりも優れており、神は貴方方と共におられます。もし貴方方が粘り強く正しい方法で攻撃すれば、彼らの富・女性・子供達は貴方方のものになるでしょう」と励ました。戦いは決闘から始まった。成る可く多くの指揮官を殺害して敵軍の士気を下げる狙いがあった。先ず、ムスリムの決闘者ムバリズンが進み出た。双方で多くの死者が発生した。決闘で数名の指揮官を失ったファルロフザードは、左翼に対し、ムスリムの右翼を攻撃する様指示した。ササン朝ペルシア軍は、大量の矢の雨を降らせ、戦象を突撃させて、ムスリムの右翼に甚大な被害を与えた。ムスリムの右翼総司令官アブドゥッラー・イブン・アルムタムは、右翼騎兵司令官ジャービル・イブン・アブド・アッラーに対し、ササン朝ペルシア軍の戦象に対処する様命じた。しかし、アブド・アッラーの騎兵隊は、ササン朝ペルシア軍の重騎兵隊に行手を阻まれ、戦象の前進によってムスリムの歩兵は後退し始めた。ワッカスは、右中央の騎兵隊司令官アル・アシャス・イブン・カイスに、前進するササン朝ペルシア軍を食い止める様指示した。カイスは、騎兵連隊を率いて右翼騎兵の増援として戦闘に加わり、ササン朝ペルシア軍左翼の側面に対し、反撃を開始した。一方ワッカスは、右中央の総司令官ズフラ・イブン・アルハウィヤに、歩兵連隊の右翼への派遣を命じた。此れを受けてアルハウィヤは、ハンマル・イブン・マリク指揮下の歩兵連隊を派遣し、右翼の増援としてササン朝ペルシア軍への反撃を支援した。ササン朝ペルシア軍左翼は、カイスとマリクの増援を受けたムスリムの右翼歩兵による正面攻撃と、右中央からの騎兵連隊の支援を受けたムスリム騎兵による側面攻撃を受けて後退した。ファルロフザードは、右中央と右翼にムスリムの騎兵隊に向かって前進する様命じた。先ず、ムスリムの左翼と左中央に激しい矢を雨を浴びせ、続いてササン朝ペルシア軍の右翼と右中央の戦象が突撃した。これにより、ムスリムの左翼と左中央はパニックに陥った。ワッカスはタミミに戦象の征伐を指示する伝言を送った。アシムは、戦象に乗った射手を打ち破り、鞍の胴回りを切る作戦を採った。此の作戦が功を奏し、ササン朝ペルシア軍が戦象を退却させると、ムスリムは反撃に転じた。ササン朝ペルシア軍の右中央が撤退し、続いて右翼全体が撤退した。午後迄に、ムスリムの左翼と左中央に対して行われていたササン朝ペルシア軍による攻撃も阻止された。機に乗じてワッカスは更なる反撃を命じ、ムスリムの騎兵隊が側面から全力で突撃した。最終的にファルロフザードはムスリムの攻撃を退ける事に成功したが、数ヶ所負傷した。夕方、双方多大な損害を受け、決着の着かない儘此の日の戦闘は終了した。 |
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| 636 | 11 | 17 | サディ・ブン・アビ・ワッカスは、前日と同様にムバリズンによる決闘から戦闘を始める事を決定する。正午、まだ決闘が続いている最中に、カーカ・イブン・アムル・アル・タミミ率いる前衛部隊がムスリムの増援として加わり、続いてワッカスの父方の甥ハシム・イブン・ウトバ率いる本軍が到着した。タミミは、前衛部隊を幾つかに分けて、順番に戦場に到着する様指示した。大規模な増援部隊が加わったとササン朝ペルシア軍に印象付ける狙いがあった。此の戦略が嵌まり、ササン朝ペルシア軍の士気は著しく低下した。タミミは、バフマン・ジャドゥヤの殺害に成功した。ワッカスは、此の日のササン朝ペルシア軍に戦象が居なかった為、総攻撃を命じ、突破口を見つけようとした。ムスリムの4個師団は前進したが、ササン朝ペルシア軍は粘り強く攻撃を撃退していった。此の最中、タミミは駱駝を奇妙な怪物の様に偽装する独創的な装置を使って、ササン朝ペルシア軍の前線に投入した。これを見たササン朝ペルシア軍の馬達は向きを変えて飛び出した。これにより左中央が脆弱になった。ワッカスは攻撃をさらに強めた。タミミは、ロスタム・ファルロフザードの首を狙い、ムバリズンの一団を率いて、ササン朝ペルシア軍の右中央を通過し、ファルロフザードの居る本軍へ向けて進軍した。ファルロフザードは応戦したが、突破口は開けなかった。夕方、両軍は野営地に帰還した。 | |
| 636 | 11 | 18 | ムスリムの援軍が到着する前に決着を付けようとしていたロスタム・ファルロフザードが、戦象を前線に出して戦闘を優位に進める。更にファルロフザードは、4個師団を全て前進させ、総攻撃を命じた。ササン朝ペルシア軍は、正面から矢を浴びせて、ムスリムの射手の反撃を封じた。多大な損害を被ったムスリムに、ササン朝ペルシア軍の歩兵と騎兵の支援を受けた戦象が突撃を仕掛け、追い打ちを掛けた。戦象が近づいて来ると、ムスリムの騎兵達は動揺し、後退した。ファルロフザードは其の隙に、サディ・ブン・アビ・ワッカスが駐屯していた旧宮殿を占領した。ファルロフザードは、ワッカスを殺害、若しくは捕虜にしてムスリムの士気を下げようとした。しかし、強力なムスリムの騎兵隊が現場に急行し、此れを阻んだ。ワッカスは、戦いに勝つには戦象を殲滅するしか無いと考え、戦象の目を盲目にし、鼻を切断する様指示を出した。そしてムスリムは、戦象を戦場から追い払うのに十分な鼻の切断に成功した。怯えた戦象達は、ササン朝ペルシア軍の隊列を駆け抜けて、川へと向かった。正午迄には、戦象は戦場から居なくなった。ササン朝ペルシア軍は混乱した。ワッカスは機に乗じて総攻撃を命じた。前日に続き駱駝を奇妙な怪物に偽装する作戦を採ったが、今回は馬が踏ん張った。此の日は夜通し激しい戦いが繰り広げられ、双方に多くの死傷者が出て、戦場には戦士の死体が散乱した。戦いは夜明けに終了した。 | |
| 636 | 11 | 19 | サディ・ブン・アビ・ワッカスの同意を得て野戦指揮官に付いていたカーカ・イブン・アムル・アル・タミミが「後1時間程戦えば、敵は敗北するだろう。バヌ・タミム族の戦士がもう一度挑戦すれば、勝利は貴方達のものになるだろう」と部下に話した。タミミは左中央を指揮し、ササン朝ペルシア軍の右中央を攻撃した。続いてムスリムは総攻撃を仕掛けた。ササン朝ペルシア軍は、戦いの再開に驚き、左翼と左中央が押し戻された。タミミは、ムバリズンの集団を率いて、ササン朝ペルシア軍の左中央を攻撃し、正午迄に中央部を突破した。更にロスタム・ファルロフザードが討ち取られ、ササン朝ペルシア軍の戦線は崩壊した。ササン朝ペルシア軍は、一部は部隊を維持した儘撤退したが、残りはパニックを起こして川へ向かった。ジャリヌスは、残存部隊の指揮を執り、橋頭堡を征圧して軍の大部分を橋を安全に渡らせる事に成功した。ワッカスは、逃走するササン朝ペルシア兵を追跡する為、騎兵連隊を様々な方角へ向けて派遣した。此の追跡によりササン朝ペルシア兵は多数の死傷者を出し、捕虜も発生した。ムスリムは、宝石が散りばめられた王旗を含む多数の戦利品を獲得した。その王旗に含まれていた宝石は、王旗と切り離され、マディーナで売られた。ワッカスは、ウマル・イブン・ハッターブに部下を差し向け、戦勝報告を行った。ハッターブはワッカスに、クテシフォンの占領を行う様指示した。此のムスリムのカーディシーヤでの勝利は、ササン朝ペルシアのイラク支配を根底から揺るがした。しかし、クテシフォンが残っている限り、ササン朝ペルシアが反撃する可能性が常に存在した。その後ワッカスはアル・ヒラに入り、アラブ人入植者を入れて町「クーファ」を建設した。 | |
| ≈ | 636 | 12 | 1 |
サディ・ブン・アビ・ワッカスが、15,000名の兵を率いクテシフォンに進軍する。ヤズデギルド3世は、諜報機関からムスリム進軍の報告を受けると、必要な防御を行う為に、クテシフォンと、クテシフォンに通じる道路に、時間稼ぎの為の分遣隊を派遣した。クテシフォンの幹線道路に分遣隊が居る事を知ったワッカスは、機動性を高める為、以下の五手に軍を分けた。 ①アブド・アッラー・ビン・ムイム ②シュラービール・ビン・アル・シムト(ワッカス含む) ③ハシム・イブン・ウトバ ④ハーリド・ビン・ウルファタ ⑤ズフラ・イブン・アル・ハウィヤ・アル・タミミ タミミは、騎兵のみで構成された前衛部隊の指揮を引き継ぎ、クテシフォンへの道沿いに在る、敵の主な防御陣地に向かって迅速に移動する様命令を受けた。タミミはナジャフを占領し、援軍を待った。其の後ユーフラテス川を渡り、クテシフォンへ向けて兵を進めた。 |
| ≈ | 636 | 12 | 1 | ズフラ・イブン・アル・ハウィヤ・アル・タミミが、ブルスとビルス・ニムルド(現在のイラクのバービル県ボルシッパ)付近で、ササン朝ペルシア軍の司令官ブスブーラを一騎討ちで破る。タミミの部隊は現地のササン朝ペルシアの抵抗に遭っていたが、ブスブーラを討った事で収まった。タミミは、ブルスでムスリムが合流して来るのを待った。タミミの次の狙いはバビロンであった。何故なら、ティグリス川とユーフラテス川に挟まれたサディ・ブン・アビ・ワッカスの領地にアクセスする為には、バビロンを落とさなければならなかったからである。 |
| ≈ | 636 | 12 | 15 |
この頃迄にムスリムは、ユーフラテス川を掌握し、バビロン郊外に布陣した。バビロンのササン朝ペルシア軍は、以下の人間が指揮していた。 ①ピルツ・ホスロー ②ホルムザン ③ミフラン・ラジ ④ナキラガン しかし、ホルムザンが、属州のアフヴァーズ(現在のイランのフーゼスターン州)に撤退し、ホスロー・ラジ・ナキラガンも、部隊を帰還させて北へ退却した。その後、バビロンのササン朝ペルシア国民はムスリムに降伏し、ジズヤの支払いという異例の条件で保護された。ササン朝ペルシア国民の中には、ササン朝ペルシア軍の配置に関する情報をムスリムに提供する者や、道路や橋の建設に雇用された技術者も居た。こうしてムスリムがバビロンに駐留している間に、サディ・ブン・アビ・ワッカスは、ズフラ・イブン・アル・ハウィヤ・アル・タミミに対し、撤退したササン朝ペルシア軍が何処かで集合して対抗して来る前に追撃する様指示を出した。タミミは、ムスリム前衛軍を指揮し、スーラー(現在のイラクのナジャフ県)で背後からササン朝ペルシア軍を襲撃し、デリ・カブへ撤退させた。タミミは更にデリ・カブへと追撃し、ササン朝ペルシア軍の分遣隊を破り、バビロンのササン朝ペルシア国民と同じ条件で現地の人間を保護した。 |