西暦635年は、東西の二つの流れが同時に動いた年である。東方では、ネストリウス派司教の阿羅本がアッシリア東方教会の使いとして宣教団を率いて唐の長安に到着し、太宗は房玄齢に出迎えさせて宮中で経典を翻訳させた。西方では3月、ハーリド・イブン・アル・ワリードが一騎打ちでテオドールを殺害し、アブー・ウバイダがバールベックを占領して、12月にはエメサへ進軍した。

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年月日 出来事
635 キリスト教ネストリウス派司教の阿羅本が、アッシリア東方教会の使いとして宣教団を率い、東ローマ帝国のシリアから唐の長安に到着する。第2代唐皇帝太宗は、尚書左僕射の房玄齢に長安郊外まで出迎えさせた。そして、宮中にて経典を翻訳させた。
635 ヘラクレイオスが、ササン朝ペルシアとの同盟を強固にする為、娘マニャンをヤズデギルド3世と結婚させる。
635 1 前年7月のアジュナダインの戦いで敗れた東ローマ帝国軍の残兵は、以下の2ヶ所に集結していたが、ムスリムの追撃に遭う。
①ペラ(現在のヨルダンのイルビド県タバカット・ファハル)
②スキトポリス(現在のイスラエル北部地区ベト・シェアン)
ペラでは、東ローマ帝国軍が灌漑用水路を切り開いて洪水を起こし、ムスリムの進軍を食い止めようとした。しかしムスリムは、泥だらけの土地を横断し、最終的に東ローマ帝国軍を破った。さらに、スキトポリスとティベリア(現在のイスラエル北部地区)も、ムスリムの分遣隊による包囲の後に降伏した。
635 3 ダマスカスを守備する部隊が、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン率いる軍のみとなり、ヘラクレイオスが好機と捉え、テオドールの指揮下に兵を送る。テオドールは騎兵隊を中心とした軍を指揮し、ダマスカスを奪回した。その後、ムスリムの下にもテオドールの動きが耳に入り、以下2名がテオドール征伐へと向かった。
①アブー・ウバイダ
②ハーリド・イブン・アル・ワリード
テオドールはさらに、シャナシュ・アル・ローマ率いる騎兵隊を含む援軍を受けた。最終的に両軍はマルジュ・アル・ラムにて対峙した。戦いはローマとウバイダによる決闘で幕を開けた。決闘はウバイダが勝利し、その後は均衡した戦いとなった。しかし、以下2名を含む東ローマ帝国軍の一部が撤退し、ダマスカスが東ローマ帝国軍の攻撃を受けている事がムスリムに知れた。
①テオドール
②シェオドール
ワリード達は戦闘を止め、ダマスカスに急行した。テオドールとシェオドールの指揮下の東ローマ帝国軍がダマスカスに到着すると、スフィアンが迎え撃った。スフィアンの軍は数で劣勢であったが、健闘した。やがてワリードと騎兵隊が到着し、東ローマ帝国軍を背後から攻撃し、挟み撃ちとなった。その後、ワリードは一騎打ちでテオドールを殺害した。また、シェオドールも殺され、東ローマ帝国軍の前線が混乱し、戦場から逃走した。ムスリムは直ちに、東ローマ帝国軍の以下の物を押収し、スフィアンは、ワリードや兵にそれらを分け与えた。
①武器
②衣服
③騎馬
≈ 635 3 ハーリド・イブン・アル・ワリードが一騎打ちでテオドールを殺害した一週間後、アブー・ウバイダ率いる軍が、木星の神殿の建っていたバールベック(現在のヨルダンのバールベック・ヘルメル県)を占領する。その後ウバイダは、ワリードをエメサ襲撃の為に派遣した。
635 5 ヘラクレイオスが、ムスリムの侵攻を止め、失われた領土を取り戻す事を意図し、レバント地方(現在のシリア・レバノン・ヨルダン・イスラエル・パレスチナ自治区)に遠征軍を派遣する。
635 12 アブー・ウバイダが、エメサ占領を意図し、後方の東ローマ帝国軍を排除する。その後、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる機動警備隊を先頭に、エメサへと進軍した。機動警備隊は、東ローマ帝国軍のエメサの守備隊を退け、東ローマ帝国軍は砦内に退避し、門を閉めざるを得なくなった。ウバイダが遅れてエメサに到着し、以下の4つの門の向かいに部隊を配置した。
①マスドゥド門(南西)
②タドムル門(北東)
③ドゥライブ門(東)
④ハド門(西)
エメサは直径1マイル未満の円形の要塞都市で、堀で囲まれていた。砦内の丘の上には城塞もありました。外側には肥沃な平野が広がっており、オロンテス川(現在のレバノン・シリア・トルコ)によって西側のみが分断されていた。ウバイダは、ワリードに司令官としての役割を与え、自身はラスタン門から少し離れた北側に布陣した。東ローマ帝国軍は、ムスリムはエメサの冬の寒さに耐えられず撤退するだろうと考えていたが、ムスリムが寒さによって受けた影響は軽微であった。