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≈は「頃」を意味しています。
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| 年月日 | 出来事 | |||
|---|---|---|---|---|
| 634 | 1 | ハーリド・イブン・アル・ワリードがフィラズに守備隊を置き、本隊に対しアル・ヒラへの帰還命令を下す。ワリードは、軍がアル・ヒラへ進行を始める迄後方で待機し、その後少数の護衛を従えてメッカへ向けて、未開拓の道を進み始めた。メッカに到着すると、巡礼を行い誓いを果たした。ワリード一行はアル・ヒラへ向けて出発し、本隊の最後の一団よりも早くアル・ヒラに到着した。 | ||
| ≈ | 634 | 1 | アブー・バクルが東ローマ帝国へ宣戦布告する。 | |
| ≈ | 634 | 1 | ハーリド・イブン・サイード・イブン・アルアーシュが、アブー・バクルにシリア進出の許可を求める。バクルは、東ローマ帝国に対する敵対行動を執ってはならないとして、偵察のみに限定して、アルアーシュにシリア進出を許可した。 | |
| 634 | 2 | 4 | アムル・イブン・アル・アース率いる軍が、東ローマ帝国のパラエスティナ・プリマ州ガザ(現在のパレスチナ国ガザ地区)近くのダティン村にて、セルギウス率いる東ローマ帝国軍を破る。アースはダティン村・バダン村付近で東ローマ帝国と交渉し、決裂していた。この戦いで東ローマ帝国はセルギウスを含む300名の戦死者を出し、4,000名の民衆も殺害された。 | |
| 634 | 4 | 24 | ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる騎兵隊が東ローマ帝国と同盟を結んでいたガッサーン朝とマルジュ・ラーヒト(現在のシリアのダマスカス県)で交戦する。ガッサーン朝はワリードのシリア進出を危険視し、タドモル(現在のシリアのホムス県)から峠を下るルート上に強力な戦士を配置していたが、ワリードの騎兵隊の迅速な突撃により、忽ち散り散りになった。ワリードは多くの戦利品及び捕虜を獲得した後、町を離れ野営地に戻った。 | |
| 634 | 4 | 25 | 朝、ハーリド・イブン・アル・ワリードがグータ(現在のシリアのダマスカス県)を急襲する任務を帯びてダマスカスに騎馬隊を派遣する。又、アブー・ウバイダを使者として送り、ボスラで報告する様指示を出した。ワリードは兵を率い、ダマスカスを迂回してボスラ征服へと向かった。途中、ダマスカスで戦利品や捕虜を補充した騎馬隊が、ワリードと合流した。 | |
| 634 | 5 | 13 | アル・ムサンナ・イブン・ハリサ率いるムスリム軍がアル・ヒラからバビロン近くのササン朝ペルシア軍に接近する。ササン朝ペルシアを率いていたホルモズド・ジャドウィーフは、東ローマ帝国征伐の為にハーリド・イブン・アル・ワリードが抜けたムスリムの戦力を試したいと考えていた。また、ササン朝ペルシアとムスリムが双方お互いを脅迫する書簡を交わしていた。ササン朝ペルシア軍はムスリムを怖がらせる為に戦象を投入した。しかしムスリムによって戦象は殺され、ササン朝ペルシア軍はクテシフォンに敗走した。 | |
| 634 | アル・ヒラ奪回を意図し、ササン朝ペルシアの将軍ロスタム・ファルロフザードが、将軍数名とイスパフブダン家の親戚の一部をナマラク(現在のクーファ(イラクのナジャフ県)付近)に派遣する。アル・ムサンナ・イブン・ハリサは、バビロンの戦いと同様にハーリド・イブン・アル・ワリード不在の為、孤軍奮闘した。ウマル・イブン・ハッターブがアブー・ウバイダに援軍を送り、最終的にササン朝ペルシア軍は敗北した。これを受け、カシュカール(現在のイラクのワーシト県カスカール)総督ナルシは領地に逃げ帰った。 | |||
| 634 |
ムスリムがカシュカールに進軍する。ナルシは領地を守る為に迎え撃った。また、以下の3名のナルシの息子を指揮官として、側面を固めた。 ①ヴィスタム ②ヴィンドゥイ ③ティルイ ササン朝ペルシア軍は敗北したが、ナルシと息子達は戦場から脱出する事に成功した。ロスタム・ファルロフザードが、司令官ジャリヌスを派遣していたものの、到着した時には既にナルシ達は逃亡しており、間に合わなかった。 |
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| 634 | 6 | ハーリド・イブン・アル・ワリードが、アル・カルヤタイン(現在のシリアのホムス県)に進軍しガッサーン朝を破る。住民達はムスリムに抵抗したが、敗北し略奪された。 | ||
| 634 | 6 |
ハーリド・イブン・アル・ワリードが、ガッサーン朝の首都であるボスラに到着する。ボスラにはローマ将校が指揮する東ローマ帝国人とキリスト教アラブ人の軍隊が駐留していた。既にハウラン(現在のシリアのダルアー県・スワイダー県、現在のヨルダンのマフラク県)を占領していたアブー・ウバイダは、ワリードが到着する迄、ボスラに留まる様指示を受けていた。ウバイダはムスリムから成る以下の3つの部隊を指揮下に置いていたが、戦闘はせず、町を征服した事も無かった。 ①ウバイダの部隊 ②ヤズィード・イブン・アビ・スフィアンの部隊 ③シュラビル・イブン・ハサナの部隊 ウバイダは、ワリード到着後はワリードの指揮下に入る事を聞いた。それを受け、ボスラ占領を意図し、ハサナの部隊4,000名を差し向けた。ボスラの守備隊は、ハサナの部隊が見えると、要塞のある町へ逃げ込んだ。ハサナの部隊は先遣隊に過ぎず、さらに多くのムスリムが攻めて来る事を予測していた為である。ハサナはボスラの西側に着陣し、部下の部隊を砦の周囲に配置した。 |
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| 634 | 6 |
アブー・ウバイダがシュラビル・イブン・ハサナの部隊をボスラに差し向けた2日後、ハーリド・イブン・アル・ワリードが、ボスラへの行軍の最終日に出撃する。それを受けボスラの守備隊が、ボスラの外にいるムスリムに向かって出撃した。ハサナと東ローマ帝国軍司令官が、戦闘状態に入った軍を前にして会談を行い、ハサナは以下の3つの選択肢を提示した。 ①イスラム教への改宗 ②貢物を捧げる ③戦闘 午前中に東ローマ帝国軍が戦闘を選択し、戦いが始まった。最初の数時間は一進一退の状況が続いた。しかし正午過ぎに東ローマ帝国軍が優勢となり、ハサナの軍を両側面から挟み撃ちにした。そんな中、ボスラから1マイル離れた所にいたワリードが、風に乗って聞こえてくる戦闘の音を聞き、駆けつけた。東ローマ帝国軍は、ワリードに気付くと直ぐに撤退した。 |
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| 634 | 6 |
ハーリド・イブン・アル・ワリードがシュラビル・イブン・ハサナの部隊を援護した翌日、東ローマ帝国軍は、ムスリムの戦力は自軍と同程度であると把握し、長旅の疲れが癒える前に打ち負かすべく再攻撃を決意した。両軍はボスラ郊外の平原で戦闘準備を行なった。ワリードは、中央に自身の直轄部隊を置き、両翼の司令官に以下2名を任命した。 ①ラファイ・ビン・ウマイル(左翼) ②ディラール・ビン・アル・アズワル(右翼) ワリードは、直轄部隊の正面、アブー・バクルの息子アブド・アル・ラーハマーン・イブン・アブー・バクルの下に薄いスクリーンを置いた。戦闘が開始されると直ぐにラーハマーンは東ローマ帝国軍を撃破した。東ローマ帝国の将軍達は安全な遊軍部隊の下へ逃走する中、ワリードは前線全体に沿って攻撃を開始した。東ローマ帝国軍はムスリムの攻撃に忽ち混乱した。此の日は暑かった為、アズワルは鎖帷子を脱ぎ、続いてシャツを脱いだ。此の半裸の状態で攻撃を開始し、一騎討ちで立ち向かって来る東ローマ帝国兵を全て破った。東ローマ帝国軍は砦に撤退した。この時ワリードは、何にも跨らず自身だけで戦っていた。ワリードは東ローマ帝国軍を包囲する命令を下そうと振り返った時、アブー・ウバイダが、ムスリムの隊列から抜けて近付いて来るのが見えた。ウバイダは、西暦628年2月のカイバルの戦いでムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが使用していた黄色の旗を携えていた。ウバイダは其の旗をワリードに渡した。アズワルの活躍は一週間以内にシリア中に知れ渡った。 |
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| 634 | 7 | 東ローマ帝国軍がムスリムに降伏する。予備兵員がアジュナダイン(東ローマ帝国のパラエスティナ・プリマ州)にいるか、若しくは移動中であったので、援軍が望めなかった為である。ハーリド・イブン・アル・ワリードは貢物の献上を求めた。 | ||
| 634 | 7 |
ムスリムの指揮官ディラール・イブン・アル・アズワールが、アジュナダイン(現在のイスラエルのベイト・グブリン付近)にて東ローマ帝国軍を破り、2名の州知事を含む、多くの東ローマ帝国兵を殺害した。ヘラクレイオスが、弟のテオドロスを派遣したにも拘らず、この様な結果になってしまった事に関し、退却中に指揮官のテオドロスは、ヘラクレイオスに対し、敗因はヘラクレイオスと姪のマルティナの近親婚にあると非難した。ヘラクレイオスはテオドロスの指揮権を剥奪し、コンスタンティノープルに左遷した。ヘラクレイオスは、後任の指揮官としてセオドア・トリテュリウスを据え、自身はエメサ(現在のシリアのホムス県)から、より安全なアンティオキアへ撤退した。また、生き残った東ローマ帝国兵も城壁に囲まれた安全な町へ逃げた為、田舎が無防備な状態となった。パラエスティナ・プリマ州全域、特に海岸から離れた内陸部がムスリムの襲撃に遭った。そして多くの農村住民も町の城壁の内側に安全を求めた。ムスリムは幾つかの襲撃部隊に分かれ、東ローマ帝国軍の逃走・降伏により、以下の町を占領した。 ①内陸部 ❶ナーブルス(現在のパレスチナ国ヨルダン川西岸地区) ❷サバスティーヤ(現在のパレスチナ国ヨルダン川西岸地区) ❸ロード(現在のイスラエル) ❹イブナ(現在のイスラエル中央地区ヤブネ市) ❺イムワス(現在のパレスチナ国ヨルダン川西岸地区) ❻ベイト・ジブリン(現在のパレスチナ国ヨルダン川西岸地区) ②海岸部 ❶ヤッファ(現在のイスラエルのテルアビブ市) |
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| 634 | 7 | 30 | ダマスカスに進軍していたハーリド・イブン・アル・ワリードが、ヤルムーク川北岸のティベリアス湖付近のヤクサ(現在のイスラエル)にて、ヘラクレイオスの義理の息子トーマスが、ワリードのダマスカス進軍を遅らせる為に差し向けた東ローマ帝国軍と遭遇する。東ローマ帝国軍は戦える状態ではなかったが、ダマスカスの要塞が強化される迄ワリードの軍を足止めさせる為に戦闘を行い、短時間で敗北した。 | |
| 634 | 8 | 19 | ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍が、マルジュ・アル・サファール(現在のシリア)にて、トーマス率いる東ローマ帝国軍を破る。トーマスはワリードのダマスカス進軍の情報を掴み、エメサにいたヘラクレイオスに援軍を求める書簡を書いていた。又、此の戦いで、ウム・ハキーム・ビント・アル・ハターリス・イブン・ヒシャームは、後に「ウム・ハキーム橋」と名付けられる橋の近くでテントポールを使って、単独で7名の東ローマ帝国兵を殺害した。 | |
| ≈ | 634 | 8 | 20 |
ヘラクレイオスが、包囲された東ローマ帝国軍の守備隊を救援する為に、ダマスカスへ兵を差し向ける。ハーリド・イブン・アル・ワリードは、ダマスカスを他の地域から孤立させる戦略を練り、パレスチナへ至る道の南と、ダマスカス-エメサ間のルートの北に分遣隊を配置した。更に、ダマスカスへ向かうルートに、他の幾つかの小規模な分遣隊を配置した。此れ等の分遣隊は以下2点の任務を帯びていた。 ①偵察 ②東ローマ帝国軍への増援を遅延させる ムスリムはヘラクレイオスの軍に対し、当初は優勢であったものの、ワリードが援軍を率いウカブ(鷲)峠に到着した際、敗北した。 |
| 634 | 8 | 21 |
ダマスカスを孤立させたハーリド・イブン・アル・ワリードが、ムスリムに対しダマスカスを包囲する様命じる。又、以下の6つの門に指揮官を配置し4,000〜5,000名を率いさせ、東ローマ帝国軍の攻撃を撃退し、激しい攻撃があった場合は支援を求める様指示した。 ①トーマスの門:シュラビル・イブン・ハサナ ②ジャビヤ門:アブー・ウバイダ(副司令官) ③ファラディの門:アムル・イブン・アル・アース ④ケイサン門:ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン ⑤小さな門:ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン ⑥東門:ラファイ・ビン・ウマイル(主要部隊) ディラール・ビン・アル・アズワルは、機動警備隊の騎兵2,000名に、夜間に門の間の空き地を巡回し、東ローマ帝国軍に攻撃された軍団を援軍する様命じた。又、ワリードは、東門近くの修道院に本部を置いた。ワリード率いる軍はダマスカスへの物資の流れを止めたが、グータだけはワリード達や騎馬に必要な物資の供給地点として機能した。 |
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| 634 | 8 | 23 | アブー・バクルが病の為死去し、生前に指名したウマル・イブン・ハッターブが第2代正統カリフに即位する。 | |
| 634 | 9 | 9 | ヘラクレイオスが、ダマスカスが包囲された事を受け、12,000名の救援軍を派遣する。ダマスカス-エメサ間のルートにいたムスリムの偵察兵から、この東ローマ帝国軍の状況を聞いたハーリド・イブン・アル・ワリードは、ラファイ・ビン・ウマイルに5,000名の兵を率いさせ、ウカブ峠で偵察兵と合流した。しかし兵力が不十分であった為、東ローマ帝国軍に包囲された。しかし、東ローマ帝国軍がムスリムの分遣隊を破る前に、ワリードは4,000名の縦隊と共に分遣隊に合流し、東ローマ帝国軍を退けた。此の戦いでムスリムは疲弊した為、ワリードは急いでダマスカスへ帰還した。 | |
| ≈ | 634 | 9 | 14 |
シュラビル・イブン・ハサナ率いる軍に包囲されていたトーマスが、凡ゆる所から兵を召集し、5,000名の兵を率い、ムスリムに矢の雨を降らせ、先制攻撃を仕掛ける。東ローマ帝国軍は、城壁の射手の援護を受けて門を突破し、扇形の陣形を敷いた。しかし、襲撃を主導していたトーマスが、右目に矢を受けた。東ローマ帝国軍は、ムスリムの戦線を突破する事が出来ず、後退した。負傷したトーマスは、代わりに千の目を奪うと誓った。夜、トーマスは再度出撃命令を下した。トーマスは以下の4つの門から同時出撃し、駐留している疲労の溜まったムスリムを叩く作戦を立てた。 ①トーマスの門(主導) ②ジャビヤ門 ③小さな門 ④東門 ジャビヤ門・小さな門・東門は、ムスリムを拘束して、トーマスの門にいるハサナを支援出来ない様にする役割を担った。東ローマ帝国軍が、東門に多くの兵を集めた為、ハーリド・イブン・アル・ワリードはハサナを支援する事が出来なかった。トーマスは、突破した門に兵を集める戦術を採った。トーマスはワリードを生け捕りにする様命じた。ジャビヤ門では、アブー・ウバイダ率いる軍が、東ローマ帝国軍を撃退した。小さな門では、先頭が激化した。ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン率いる軍の兵力は小さかったが、ディラール・ビン・アル・アズワル率いる機動警備隊の騎兵2,000名が援護し、東ローマ帝国軍を退けた。東門では、東ローマ帝国軍が大きな戦力を割いていた。ラファイ・ビン・ウマイル率いる軍は東ローマ帝国軍の攻勢に耐える事が出来なかった。その頃、ワリードは予備の古参騎兵400名を率いてウマイルに加勢し、東ローマ帝国軍を側面から攻撃した。トーマスの門では、トーマスが自ら指揮し、激しい戦闘を行ったが、ムスリムの前線に弱体化が見られない為、これ以上攻撃を続けても自軍の死傷者を増やすだけであると考え、撤退命令を下した。東ローマ帝国軍は一定のペースで後退したが、その間にムスリムの集中的な矢の雨を浴びたが、逃走に成功した。 |
| 634 | 9 | 18 |
シリアの単性論者の司祭ヨナが、夜にダマスカスに祭りが行われる事をハーリド・イブン・アル・ワリードに知らせる。此の機にワリードは、ヨナから教えられた、夜間に比較的防御が薄くなる城壁への奇襲攻撃を計画した。其の城壁の情報はヨナによって齎された。全軍の連携した攻撃計画を立てる時間が無かった為、ワリードは自ら東門を襲撃する事を計画した。ワリードと以下2名は門の横から手を繋いで壁を登った。 ①カーカ・イブン・アムル・アル・タミミ ②マズル・イブン・アディ 登った先には、東ローマ帝国軍の警備兵は配置されていなかった。上部に到着後、ロープを壁に固定し、基地で待機している選任された100名の兵に対しロープを下ろした。ワリードは、ロープを使って城壁を登る事を支援する人間数名を残して城壁を下り、東門の内側で警備兵を殺害した。ワリードとアムルが勢い良く門を開け、ワリードの残りの部隊がダマスカスに入り、激しい戦闘を続けた。残りの軍勢が他の門から動かないのを見たトーマスは、ワリードの軍勢だけがダマスカスに入ったと予測し、他の指揮官は防御の突破に気付いていないと考えた。 トーマスはジャビヤ門に使者を送り、アブー・ウバイダに対し、砦の明け渡しとジズヤの支払いを申し出た。平和的な考えで知られていたウバイダは、ワリードもこの条件を受け入れるだろうと考え、申し出を受け入れた。このトーマスの申し出は全ての指揮官に共有された。 |
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| 634 | 9 | 19 |
アブー・ウバイダが、ジャビヤ門からダマスカスに入る。他の指揮官もこれに続き、其々の門からダマスカスに入った。ウバイダは以下の人間を伴ってダマスカス中心部へと向かい、其の後マリアミテ大聖堂に入った。 ①トーマス ②高官数名 ③ダマスカスの司教 ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍は、東門からダマスカスの中心部へ向かって戦い、抵抗する者を全員殺害した。其の後ワリード達はマリアミテ大聖堂に入った。和平交渉では、ワリードは武力でダマスカスを征服したと主張し、ウバイダはトーマスとの和平合意でダマスカスは降伏したと主張した。他の指揮官も状況について話し合い、ワリードに、和平合意は尊重されるべきだと伝え、ワリードは渋々此れに同意した。和平協定の条件として以下が起草され、ワリードが此れに署名した。 ①誰も奴隷にしない ②寺院に危害を加えない ③戦利品として何も奪わない ④トーマスを含む、ムスリムの支配下で生きる事を望まないダマスカス市民全員に安全な通行を与える ⑤和平は3日後に終了し、ムスリムは此の3日後に協定に違反する事無く攻撃する事が出来る |
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| 634 | 9 | 22 |
ヨナからアンティオキアへの近道を教えて貰っていたハーリド・イブン・アル・ワリードが、アラブ人の服装を身に纏った騎兵連隊を率い、ジャバル・アンサリヤ山脈(現在のシリアのラタキア県)を超えて、アンティオキア近郊の海上で東ローマ帝国の難民の船団に追い付く。アラブ人の服装は、ムスリムと悟られない様にする為で、ヨナの提案であった。此の日は激しい豪雨であった。又、ヨナは3日間の停戦期間が過ぎたら東ローマ帝国軍を追撃する様ワリードに提案していた。東ローマ帝国軍は雨を避けて、台地に散り散りになり、錦の束が地面に散らばった。ヨナを含む偵察隊は、東ローマ帝国軍に知られる事無く、軍勢の位置を特定し、ワリードの軍が攻撃するのに十分な情報を取得した。ワリードは、以下の東西南北の4方面からの攻撃を計画した。 ①東:ラーフェ・ビン・ウメール率いる1,000名の騎兵連隊 ②西:ワリード率いる1,000名の騎兵連隊 ③南:ディラール・ビン・アル・アズワル率いる1,000名の騎兵連隊 ④北:アブー・バクルの息子アブドゥルラフマン・イブン・アブー・バクル率いる1,000名の騎兵連隊 先ず、アズワルの軍が後方から東ローマ帝国軍を急襲した。其れ迄、東ローマ帝国軍はムスリムの存在に気が付いていなかった。30分後、ウメールの部隊が東から現れ、東ローマ帝国軍の右翼を攻撃した。更に30分以内にバクルの部隊も西から左翼を攻撃し、最後にワリードの軍が東ローマ帝国軍を包囲した。又、ワリードは決闘によりトーマスを殺害した。東ローマ帝国軍は劣勢となったが、数の上ではムスリムに勝っていた為、数千名の東ローマ帝国兵が、安全な場所へ避難する事が出来た。ムスリムは戦利品として、サテン地に浮き模様を織り出した織物であるブロケードを奪い、多数の捕虜も得た。トーマスの妻且つヘラクレイオスの娘である女性を捕縛した。ヨナは後に婚約者を得ていたが、ダマスカス包囲が始まった為、結婚は延期となっていた。ヨナがイスラム教に改宗した事を知ると其の女性は婚約を破棄し、東ローマ帝国人と共にアンティオキアに移住する事にしたが、ヨナの目の前で、ドレスの襞から短剣を抜き、自殺した。ヨナは瀕死の状態となった婚約者の隣に座り、他の女性には目を向けないと誓った。代わりにワリードが、捕縛したヘラクレイオスの娘を差し出したが、ヨナは辞退した。 |
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| ≈ | 634 | 10 | ウマル・イブン・ハッターブが、指揮官をアル・ムサンナ・イブン・ハリサからアブ・ウバイド・アル・サカフィーに変更する為、サカフィーをメソポタミアに派遣する。 | |
| 634 | 10 |
アブ・ウバイド・アル・サカフィーが、メソポタミアへ向かう道中クーファ付近でバフマン・ジャドゥヤ率いるササン朝ペルシア軍と遭遇し、ユーフラテス川を挟んで対峙する。ジャドゥヤは、誰が橋を渡って来るか決める様ムスリムに言い、サカフィーを含むムスリムが橋を渡りササン朝ペルシア軍と交戦した。しかし、堅固な戦線を形成していたササン朝ペルシア軍の白象にムスリムの馬が恐れを抱き、サカフィー自身も、白象に馬から引き剥がされ、踏み付けられて殺害された。ムスリムは歯が立たず、パニックに陥り敗走した。その後も残ったムスリムは以下2名を指揮官として戦闘を継続した。 ①サカフィーの弟アル・ハカム ②ジャブル しかし、ハカムとジャブルも殺害され、最終的にはアル・ムサンナ・イブン・ハリサが指揮官となったが、3,000名のムスリムが川に流される等して、敗北を喫した。 |
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| 634 | 11 | 9 |
前月にムスリムに勝利したササン朝ペルシア軍が、ムスリムの残党を追ってクーファ付近に進軍する。ウマル・イブン・ハッターブは援軍を送った。アル・ムサンナ・イブン・ハリサは、敵を包囲する事を意図し、数で圧倒出来る場所まで敵を引き付ける作戦を採った。キリスト教アラブ人の援助も有り、ハリサの作戦は成功した。ササン朝ペルシア軍指揮官ミフラン・ビン・バダンは、以下3名により殺害された。 ①ジャービル・イブン・アブド・アッラー ②ジャリール ③イブン・ホーバー |
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