西暦633年は、アラビア半島内部の反乱を鎮めたムスリムが、外部の二大国へ矛先を向けた年である。国境付近のアル・ヒラの部族長アル・マタナ・イブン・ハリタがメソポタミアのササン朝ペルシアの町を襲撃し、アブー・バクルの援軍を得て勝利を収め、司令官に任命された。ハリタは軽騎兵の機動力を活かし、砂漠近くの町を襲って砂漠に身を隠す戦法を採っている。3月、ハーリド・イブン・アル・ワリードが10,000名を率いてアル・ヤママを発ち、他部族を加えて18,000名でササン朝ペルシアへ侵入した。ワリードの戦い方は一貫して、駱駝の機動力で重装備の敵を疲弊させ、地の利の無い場所へ誘い出すというものであった。4月のカーズマとアル・マダール、5月のワラジャとウライで勝利を重ね、5月30日にはアル・ヒラを占領した。アラブの駱駝がペルシャの馬より水を飲む回数が少ない事も、砂漠を補給路として使う上で利いている。7月にはアンバールが陥落し、弓兵に敵兵の目を狙わせる戦術が用いられた。同月のアイン・アル・タムルでは、両翼で敵を包囲しながら本隊は後方で待機するという構えで、司令官アッカ・イブン・カイズ・イブン・バシールを困惑させた。8月にはドゥマット・アル・ジャンダルで膠着していたイヤド・イブン・ガンムの要請に応じて援軍に赴いている。秋以降、ササン朝ペルシア軍とキリスト教アラブ軍が各地に分散して集結すると、ワリードは前例の乏しい3方向からの同時夜襲という手法を採り、11月のムザイヤ、サニー、ズマイルで立て続けに用いて壊滅させた。12月にはユーフラテスの谷を征圧してフィラズに至り、同じ月、アブー・バクルはアムル・イブン・アル・アース・アブー・ウバイダ・シュラビル・イブン・ハサナ・ヤズィード・イブン・アビ・スフィアンの4名をシリア征服の司令官に任命した。

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年月日 出来事
633 ムスリムでササン朝ペルシアとの国境付近のアル・ヒラ(現在のクーファ(イラクのナジャフ県)付近)の部族長アル・マタナ・イブン・ハリタがメソポタミア地方のササン朝ペルシアの町を襲撃する。しかしササン朝ペルシアの反撃を受けた為アブー・バクルに援軍を要請し、結果勝利して相当量の戦利品を得た。其の後ハリタはマディーナへ赴きバクルに戦勝報告を行い、バクルから司令官に任命され、メソポタミア地方の襲撃に邁進する事となった。軽騎兵の機動力を活かし、砂漠近くの町を襲撃し、砂漠に身を隠す戦法を採った。バクルは此の戦い振りからメソポタミア地方の征服を決意し、アル・ヤママにいたハーリド・イブン・アル・ワリードに、指揮官として志願兵のみの軍を構成しアル・ヒラへ向かいササン朝ペルシアと戦う様指示した。ワリードはササン朝ペルシア総督ホルムズドに対して「イスラムに於ける人頭税であるジズヤの支払いに応じれば助ける」という主旨の降伏勧告の書簡を送る。しかしホルムズドが此れに応じなかった。又、ワリードは書簡の中でカーズマ(現在のクウェートのジャハラー県)を経由してアル・ウブッラ(現在のイラクのバスラ県)へと向かうルートで進軍するとホルムズドに思わせる様仕向けた。
633 3 14 ハーリド・イブン・アル・ワリードが10,000名の軍勢を率いアル・ヒラへ向けてアル・ヤママを出発する。その後他の部族も加わり、ワリードは18,000名の兵を率いササン朝ペルシアに入った。第38代ササン朝ペルシアのシャーのヤズデギルド3世が、司令官の報告からその事を知り、アラブ人キリスト教徒から成る部隊を編成した。また、万が一ワリードが勝利した場合に備え、将軍最高位のカリンにササン朝ペルシアの重要な港であるアル・ウブッラの守備を指示した。
633 3 14 アブー・バクルが、イヤド・イブン・ガンムを中央アラビア・イラク・シリアからの経路が集合するアラビアの大規模商業都市であるドゥマット・アル・ジャンダル(現在のサウジアラビアのジャウフ州)へ派遣する。ガンムはドゥマット・アル・ジャンダルに到着し、ドゥマット・アル・ジャンダルとシリア東部の周縁が、アラブ人キリスト教徒のカルブ族に押さえられている事を知った。
633 4 ハーリド・イブン・アル・ワリードは兵を駱駝に跨らせ、機動力で重装備のササン朝ペルシア軍を疲弊させた上で攻撃を仕掛ける戦略を練っていた。ホルムズドがワリードの術中に嵌り、以前ワリードから受け取った書簡からワリードがカーズマを経由して来る事を予測し、アル・ウブッラからカーズマへと進軍する。しかしカーズマにはムスリムの気配は無かった。やがてホルムズドは斥候からワリードがフフェアに向かっているとの報告を受けた。フフェアはアル・ウブッラから21マイルしか離れていない為、ホルムズドの拠点のアル・ウブッラが危険に晒される事となった。直ちにホルムズドは50マイル離れたフフェアに兵を差し向けた。既にフフェアに到着していたワリードは、ホルムズドの軍がフフェアに向かっているとの報告を斥候から受けるとカーズマへ移動した。その後フフェアに到着したホルムズドの軍はワリードの軍がカーズマへ向かっている事を知ると、再びカーズマへの進軍を指示した。こうしてワリードのササン朝ペルシア軍を疲弊させる作戦が成功し、ワリードの軍とホルムズドの軍がカーズマで対峙する事になった。ホルムズドは将軍のクバズとアノシャガンに指示し、兵達を鎖で繋ぎ敵が数人を倒して突破する可能性を軽減する作戦を採った。ただこの作戦には容易に兵を撤退させる事が出来ないという欠点があった。ホルムズドはカーズマの西の端の前方に軍を展開し、都市を覆うような配置をとり、ハリードは砂漠を背にして軍を展開し、敗北した場合にはそこに退却出来る様にした。戦闘が始まったものの、ホルムズドは戦いの序盤で殺害され、疲弊したササン朝ペルシア軍は攻撃に耐える事が出来ず、将軍のクバズとアノシャガンは敗北を察知し、撤退命令を出した。しかし、鎖で繋がれていない兵は退却出来たものの、繋がれていた兵は速く動く事が出来ず、数千名が殺害された。
633 4 21 カーズマの戦いで敗れたササン朝ペルシアのクバズとアノシャガンの部隊がカリンとアル・ウブッラで合流する。クバズとアノシャガンは生存者の中にササン朝ペルシアを裏切りムスリムに与した兵がいた事を伝えると、アル・ウブッラから去る者が現れた。これに慌てたカリンは以下2点の理由からアル・マダール(現在のイラクのワーシト県)で戦う事にした。
①ムスリムに寝返った兵はアル・マダールを知らないであろうと考えた。
②ユーフラテス川に近く、ササン朝ペルシアの正規軍が到着し易いであろうと考えた。
ハーリド・イブン・アル・ワリードはササン朝ペルシア軍がアル・マダールにいる事を把握し、アル・ムサンナ・イブン・ハリサ率いる分遣隊を送りこみ、自身もアル・マダールへ向かった。ワリードが到着した時、ササン朝ペルシアの船が川の端に到着しているのを見て、まだ戦闘準備が整っていない事を理解した。ワリードの狙いは経験豊富なベテラン兵が到着する前に先制する事であった。ワリードは17,000名の兵を率い、アシム・イブン・アムル・アル・タミミとアディ・イブン・ハティムに両翼を任せ、ササン朝ペルシア軍と対峙した。対するカリンはクバズとアノシャガンに両翼を任せ、川を背にして展開し、川岸には撤退を容易にする為の船団が準備されていた。戦いは以下の3つの決闘で始まった。最初に挑戦状を叩きつけたのはカリンであった。それに対しマカル・ビン・アル・アシがムスリムの前列に乗り出して来た。アシは熟練した剣士であったのでワリードは呼び戻す事はしなかった。カリンが敗れ、殺されると、クバズとアノシャガンが名乗りを上げ、アシームとアディがそれに応じた。何れもムスリムが勝利し、本格的な戦闘が始まった。ササン朝ペルシア軍は暫くは持ち堪えたが、上位の将軍を失った事で混乱し、纏まりを失った。最終的には川岸へ向きを変えた。この戦いでササン朝ペルシアは30,000名が殺害された。
①◯マカル・ビン・アル・アシ(ムスリム)vsカリン(ササン朝ペルシア)●
②◯アシーム(ムスリム)vsアノシャガン(ササン朝ペルシア)●
③◯アディ(ムスリム)vsクバズ(ササン朝ペルシア)●
633 4 ヤズデギルド3世がクテシフォン(現在のイラクのバービル県)にてアル・マダールで自軍の敗北報告を受け、追加で2つの軍を招集して軍を再編成する。数日後には第一陣の出撃準備が整った。ヤズデギルド3世は、ムスリムが撤退する場合に備え砂漠を背に戦うと読み、ワラジャ(ユーフラテス川の現在のムサンナー県とカーディーシーヤ県の県境付近)を戦闘場所に選んだ。ホラーサーン統治者アンダルザガールが、ワラジャに出撃する様命じられ、間も無く別の軍と合流し、イラン人とキリスト教アラブ人から成る軍を率いてクテシフォンを出発した。その後カシュカルでティグリス川を渡り、南西に移動してユーフラテス川を渡り、ワラジャに布陣した。その道中何千名ものアラブ人が合流し、カーズマとアル・マダールでの戦の残党も加わった。アンダルザガールは数日後にワラジャに到着する予定のササン朝ペルシア軍最高幹部の一人の司令官バフマン・ジャドゥヤの軍を待つ事にした。アンダルザガールよりも数日遅くクテシフォンを出発した為遅れる事になった。ジャドゥヤもヤズデギルド3世からワラジャへ挙兵する事を命じられ、計画では総司令官として軍を指揮する予定であった。同じ頃ハーリド・イブン・アル・ワリードが、送り込んだスパイから以下の報告を受けた。
①ササン朝ペルシア軍がワラジャに布陣している。
②兵の数がかなり多い。
③別の軍と合流する為にワラジャに留まっている。
ワリードは元々アル・ヒラに向かう予定であり、ワラジャは丁度そのルートの中に入っていた。ワリードはアル・ヒラの方角へ向かって、5,000名の騎兵と10,000名の歩兵を率い出撃した。ワリードはジャドゥヤのワラジャ到着予定日の数日前にワラジャの近くに宿営した。
633 5 ハーリド・イブン・アル・ワリードは、バフマン・ジャドゥヤの軍がワラジャに到着する前にアンダルザガールの軍を殲滅する作戦を取った。ハリードはスウェイド・ビン・ムカーリンに、征服した地区の管理を役人と行うよう指示し、北と東からの敵が来る可能性がある為ティグリス川下流を守る事を意図し分遣隊を配置した。また、ワリードは兵の数がササン朝ペルシア軍を上回っていた事を知っていた為、戦の前夜に騎兵を二手に分けササン朝ペルシア軍を包囲した。さらにアル・マダールでの戦闘と同じくアシム・イブン・アムル・アル・タミミとアディ・イブン・ハティムに両翼を任せた。アンダルザガールは先にムスリムに攻撃させて、疲弊した所を反撃する作戦を取った。当初はアンダルザガールの作戦通りに事が運んだものの、最終的には数の力で圧倒され、ササン朝ペルシア軍は敗北した。しかし数千名の兵はムスリムの包囲網から脱出する事が出来た。アンダルザガールも脱出に成功したが、砂漠で遭難し脱水症状で死亡した。
633 5 15 ワラジャでの戦闘で敗れたササン朝ペルシア軍の残党が、ユーフラテス川の支流ハシーフ川を渡り、ユーフラテス川の間を移動しながらウライ(現在のイラクのアルカディシーヤ県)に落ち延びた。ムスリムはウライにササン朝ペルシア軍の残党がいる事を認識していたが、数が少なく問題視していなかった。しかし、アル・ヒラとウライの間にいた、ワラジャの戦いで2名の息子を殺害されたアブドゥル・アスワド率いるキリスト教系アラブ部族であるバニ・バクル族が大軍で合流した事で、ハーリド・イブン・アル・ワリードはハシーフ川を渡り、ウライに正面から接近した。アスワドはムスリムへの復讐を考えていた。ヤズデギルド3世はバフマン・ジャドゥヤにアラブの部隊を指揮しウライでムスリムの侵攻を止める様指示した。ジャドゥヤは、上級将軍ジャバンにササン朝ペルシア軍を率いさせてウライに向けて先行させ、自身が到着する迄戦闘を避ける様指示した。ジャバンは出陣したものの、ヤズデギルド3世と、ある問題について話し合う為にクテシフォンに戻った。しかしヤズデギルド3世が重病である事を知り、看病を行う事になった。ササン朝ペルシア軍はムスリムの目的はアル・ヒラを占領する事であると読んでいた。ムスリムの司令官の一人アル・ムタンナ・イブン・ハリサが軽騎兵の斥候と共にウライへ進軍し、ワリードにササン朝ペルシア軍の居場所を知らせた。ワリードは自軍を大きく上回る軍勢との戦闘を避ける為に援軍が到着する前に、ウライに到着しようとしたが失敗した。ワリードはササン朝ペルシア軍が作戦を練る前に戦闘を開始する事を計画し、当日中に襲撃した。ワリードは以下2名に両翼を任せ、軍陣を整列させた。
①左翼:ウマル・イブン・ハッターブの息子アシム・イブン・ウマル
②右翼:ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフの仲間であったアラブ人キリスト教指導者ハティム・アット・タイの息子で元キリシタンのアディ・イブン・ハティム
昼前、ジャバンがムスリム侵攻の報告を受けた。ササン朝ペルシア軍はそれを受け、食事の時間であったがムスリムに対し強靱さを示す為に、食事を摂らずに軍の編成を行った。中央にササン朝ペルシア軍、両翼を以下2名のアラブ人キリスト教徒に任せた。
①左翼:部族長アブジャル
②右翼:部族長アブドゥル・アスワド
しかしアスワドは決闘でワリードに敗れ殺害された。
633 5 17 ムスリムとササン朝ペルシア軍の戦闘が最も激しかったのはカセーエフ川であった。ハーリド・イブン・アル・ワリードはササン朝ペルシア軍の防衛線を突破出来ずに苦戦している最中、アッラーに祈り、戦いに勝てば敵兵の血を川に流すと約束した。ムスリムは砂漠の戦闘の経験値が豊富であった為、兵力ではササン朝ペルシア軍に劣っていたが、劣勢になると砂漠に身を隠す等して、地の利を活かした。また、アラブの駱駝は、ペルシャの馬に比べて水を飲む回数が少なかった。ワリードは砂漠を駱駝の補充に利用した。ワリードは賄賂により他の部族もササン朝ペルシア軍に与して補給路を断たれる事を危惧していた。午後の早い時間にササン朝ペルシア軍はムスリムの攻撃に耐えきれず、アル・ヒラの方角へ退却し、川岸に追い詰められた。ワリードはササン朝ペルシア軍の捕縛した兵を全員斬首させ、何千名もの死者の血により、カセーエフ川の岸辺は死者の多さで真っ赤に染まり、アッラーとの約束を守った。また、ジャバンは逃走した。ワリードは、戦闘の最中ムスリム指揮官の一人であるカーカ・イブン・アムル・アル・タミミの助言により、川のダムを開くよう命じ、水を流し込んで粉砕機を動かし、それでパンを作り、3日間18,000名の兵士を養った。ワリードはウライの住民にジズヤとイランへのスパイとして活動する事を課した。
633 5 30 ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍がアル・ヒラにてササン朝ペルシアと戦闘を行いアル・ヒラを占領、地元住民はムスリムに多額の貢物を払い、ウライの住民と同様にジズヤとスパイとしての活動を課せられた。その後ムスリムは1ヶ月の休息に入った。
633 7 ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍がアンバール(現在のイラク)を包囲する。ワリードは多数の弓兵に敵兵の目を狙う様指示した。ササン朝ペルシアは激しく抵抗したものの最終的に総督シルザードが降伏し、アンバールは陥落した。
633 7 28 アイン・アル・タムル(現在のイラクのカルバラー県)にて、ササン朝ペルシアを支援するアラブ人キリスト教徒による補助部隊がハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍と交戦する。ワリードは、両翼に補助部隊の両翼を包囲させ、自身の率いる本隊は後方で待機した。以前ムスリムとの契約を破った非ムスリムでアラブ人キリスト教徒で補助部隊の司令官のアッカ・イブン・カイズ・イブン・バシールは、ワリードが兵を動かさない事に驚き、自軍を包囲したムスリムの両翼の部隊との戦いに専念する事にした。イランのミハラン家貴族ミハラン・バフラム・イ・チュビン等のササン朝ペルシア兵はアイン・アル・タムル城内で待機していた。そんな中ワリードを護衛していた少数の部隊が不意を突いて、バシールに戦いを挑んだ。最終的にワリードはバシールを自らの両手で抱えて捕縛した。補助部隊はバシールが生きて捕らえられた事で戦意を失い、直ちにムスリムに対し全面降伏した。その後ムスリムバシールを晒してアイン・アル・タムルを行進し、アラブ人キリスト教徒が待機していたアイン・アル・タムル城を包囲して、アラブ人を大量に含むササン朝ペルシアの補助部隊を降伏させる。さらに守備隊の防衛者の前に並び「降伏して門を開けないなら処刑する」と脅した。守備隊が拒否した為、壁の後ろで戦い、ワリードは直ちにバシールを含むすべての捕虜を直ちに処刑するよう命じた。また、ムスリムはアイン・アル・タムルを征圧の際、修道院の中で40名のアラブ人キリスト教徒の聖歌隊を発見し、その40名の子供達をマディーナへ連行し、改宗させた。この聖歌隊の殆どが後のイスラムの重要人物の祖先である。その重要人物は以下である。
①ウマイヤ朝総督ムーサ・ビン・ヌサイル(副官であったタリク・ビン・ジヤドの下で父も従軍し、スペインを征服した軍隊の最高司令官であった)
②イスラム神学者イブン・シリン
③アッバース朝の歴史家フナイン・イブン・イスハーク
④詩人アブダッラー・イブン・アムラー
633 8 アブー・バクルからドゥマット・アル・ジャンダルにてアラブ反乱軍を鎮圧する様命を受けたイヤド・イブン・ガンムが、マリッドと呼ばれる砦の南面に軍を展開し、弓矢にてドゥマット・アル・ジャンダルを守備していたカルブ族を攻撃し、数週間戦闘を行ったが膠着状態となり任務に失敗、ガンムはある将校の「状況によっては、知恵は大軍よりも優れている」という進言により、ハーリド・イブン・アル・ワリードに助けを求める主旨の書簡を送る。ワリードはアイン・アル・タムルからアル・ヒラに向かおうとしている際に其の書簡を受け取った。
633 8 ハーリド・イブン・アル・ワリードが前日のイヤド・イブン・ガンムの書簡を受けて、6,000名の兵を率い援軍としてアイン・アル・タムルを出発しドゥマット・アル・ジャンダルへと向かう。
633 8 25 ハーリド・イブン・アル・ワリードがドゥマット・アル・ジャンダルに到着し、イヤド・イブン・ガンムと合流する。しかしワリードの軍の行動はドゥマット・アル・ジャンダルを守備していたアラブ反乱軍に何日も前から把握されていた。ササン朝ペルシアはワリードが軍の大部分を連れてアラビアに戻ったと考え、ムスリムを砂漠へ追いやり、失った自国の領土と威信を取り戻そうと考えた。ガンムの軍だけなら打ち払う事が出来るがワリードの軍が加われば持ち堪えられないと考え、近隣の部族に急使を送り援軍を要請した。結果、ガッサーン族・カルブ族等の幾つかの部族が駆け付け、砦の守備に付いた。ワリードはガンムを指揮下に置き、砦の周囲を押さえアラビア・イラク・ヨルダンへと繋がるルートを遮断してアラブ反乱軍を包囲し、敵が攻撃を仕掛けて来るのを待った。先制すれば多大な犠牲を払うと考えた為である。アラブ反乱軍の指揮官ジュディはムスリムが攻撃して来るのを待っていたが、動いて来なかった為、ワリードとガンムの陣を攻撃する為二手に分かれ、先制攻撃を仕掛けた。しかしワリードとガンムの軍にそれぞれ圧倒され、ジュディは仲間数百名と共に捕らえられ、ワリードがムスリム達に見える様砦の近くまで連行し、部下にジュディとその仲間の首を刎ねさせた。結果、アラブ反乱軍の大半が殺害され、多くの若者・女性・子供が捕虜となった。
633 9 1 ハーリド・イブン・アル・ワリードがイヤド・イブン・ガンムを副将軍に任命し、アル・ヒラへと向かう。
633 9 バフマン・ジャドゥヤが以下の人間で新しい軍隊を組織する。
①ウライの戦いの残党
②ササン朝ペルシア領内の駐屯地から引き抜いたベテラン兵
③新兵
多くの新兵がいた為、戦力は以前と比べると劣っていた。そこでキリスト教アラブ人に従軍を依頼した。キリスト教アラブ人は前月に戦死した、自分達の指導者であったアッカ・イブン・カイズ・イブン・バシールの敵を打つ事を計画し、ムスリムに奪われた土地を取り戻し、捕縛された仲間の解放を切望していた為、快く引き受けた。戦力の増強の目処が立ったジャドゥヤは、以下2名を指揮官に指名しクテシフォンから出撃させた。
①ルズビー(フサイドに配置)
②ザルマー(カナフィス(現在のシリアのホムス県)に配置)
この時点ではキリスト教アラブ人が戦闘の準備が整っていなかったので、これらの場所から動く事は無かった。ジャドゥヤは作戦を以下の2択で考えていた。
①ササン朝ペルシア軍を一ヶ所に集中させムスリムの攻撃を待つ。
②南下してアル・ヒラでムスリムと戦う。
この作戦はハーリド・イブン・アル・ワリードがアル・ヒラに到着する前に予期していたものであった。
この時点ではキリスト教アラブ人は以下の三手に戦力を分散させていた。
①ムザイヤ(現在のイラクのアンバール県)、隊長はフザイル・ビン・イムラン
②サニー(現在のイラクのアンバール県)、隊長はラビア・ビン・ブジャイル
③ズマイル(現在のイラクのアンバール県)、隊長はブジャイル(サニーと兼任)
633 9 22 ハーリド・イブン・アル・ワリードがアル・ヒラに到着する。分散したササン朝ペルシア軍が団結して攻勢をかけてきた場合、状況が不利になると読んだワリードは、個別に戦う事を意図し、ムスリムを二手に分け以下の2名の指揮下に置いた。
①カーカ・イブン・アムル・アル・タミミ
アル・バララとアル・キヤラ(指揮官はイスマ・イブン・アブダラ)の2師団から成る。
②アブ・ライラ
ワリードは、アル・ヒラの守備の為にイヤド・イブン・ガンムを残し、これらの部隊と共にアイン・アル・タムルへ向かった。その後前月のドゥマット・アル・ジャンダルの戦いに参戦した兵を休息させ、その兵を率い自身も合流した。
633 9 28 ハーリド・イブン・アル・ワリードが、全軍をアイン・アル・タムルに集結させる。その後カーカ・イブン・アムル・アル・タミミの部隊をフサイドへ、アブ・ライラの部隊をカナフィスへ派遣した。また、予備軍をアイン・アル・タムルに残し、サニーとズマイルに布陣しているササン朝ペルシア軍がアル・ヒラを攻撃しないか警戒していた。やがてタミミとルズビー、アブ・ライラとザルマーの戦闘が開始された。タミミは直様ハーリド・イブン・アル・ワリードが以前敵軍に遭遇する度に指示した様に疾走する様命じた。これに対しザルマーは、アブ・ライラと交戦しているルズビーに対し、アブ・ライラと交わるのを止め、自軍を助ける様求めた。しかしザルマーはタミミ自身の手で殺害され、ルズビーもイスマ・イブン・アブダラによって殺害された。フサイドのササン朝ペルシア軍は、劣勢であると悟りカナフィスに逃げ込んだ。さらにザルマーの死を知ると、カナフィスを放棄して防御が強固であるムザイヤに退却し、キリスト教アラブ人と合流した。その後アブ・ライラはカナフィスに入ったが、ササン朝ペルシア軍が退却した後であった。ワリードは目標を以下の3箇所に定めた。
①ムザイヤ
②サニー
③ズマイル
ワリードは、サニーとズマイルは後からでも対処出来ると考え、次の目的地をムザイヤに決定し、アイン・アル・タムルで馬から駱駝に乗り換え、タミミ、アブ・ライラと合流しムザイヤへ追撃した。
633 11 ムザイヤに宿営しているササン朝ペルシア軍の正確な位置を把握していたハーリド・イブン・アル・ワリードが、過去に殆ど例の無い、難易度の高い3方向からの同時夜襲を計画する。ムザイヤに宿営しているササン朝ペルシア軍の正確な位置を把握していたハーリド・イブン・アル・ワリードが、過去に殆ど例の無い、難易度の高い3方向からの同時夜襲を計画する。ワリードは、以下の3箇所に布陣していた軍をムザイヤから数km離れた場所に集合させ、襲撃時刻を伝え、三手に兵を分散させた。
①フサイド
②カナフィス
③アイン・アル・タムル
夜襲が開始されると、ササン朝ペルシア軍は足取りを掴む事が出来ず数千人が虐殺された。ムスリムは殲滅しようとしたが、暗闇に紛れた敵兵を取り逃した。生き残ったキリスト教アラブ人とササン朝ペルシア兵はサニーへ逃走し、アラブ反乱軍と合流した。夜襲が開始されると、ササン朝ペルシア軍は足取りを掴む事が出来ず数千人が虐殺された。ムスリムは殲滅しようとしたが、暗闇紛れた敵兵を取り逃した。生き残ったキリスト教アラブ人とササン朝ペルシア兵はサニーへ逃走し、アラブ反乱軍と合流した。
633 11 10 ハーリド・イブン・アル・ワリードはムザイヤと同じく3方向からの同時夜襲を計画し、夜に三手に分かれていた軍を集結させる。ワリードは直進ルートで、他の二手はワリードを挟むルートで集合した。ムザイヤの戦いと同じく夜襲時刻を伝え、三手に分かれてサニーのキリスト教アラブ軍を襲撃した。虐殺を免れた兵は少なく、サニーとズマイルの隊長を兼任していたラビア・ビン・ブジャイルも殺害された。女性や多数の若者は捕虜となった。
633 11 13 夜、ハーリド・イブン・アル・ワリードがズマイルに到着し、ムザイヤ・サニーと同じく3方向からの同時夜襲を行う。キリスト教アラブ軍はムスリムの奇襲に耐えられず、直ぐに分散したが、戦場から脱出できず、ほぼ全軍が虐殺された。
633 12 1 ハーリド・イブン・アル・ワリードがフィラズ(現在のイラクのアンバール県)に到着する。この時点でムスリムはユーフラテスの谷を征圧していたが、ササン朝ペルシアとビュザンティオンの境界にあるフィラズにはまだササン朝ペルシア軍の前哨基地が存在していた。ワリードはこの前哨基地を襲撃する為にフィラズに来ていた。ビュザンティオンはササン朝ペルシアを援護する事を決定した。ホルモズド・ジャドウィーフも鶏と豚の飼育員を率いてササン朝ペルシア軍に属していた。ワリードはササン朝ペルシア・ビュザンティオン連合軍がユーフラテス川を渡るまで待機し、渡り切ると直ぐにムスリムに出撃を命じた。ワリードは同年4月21日頃のアル・マダールでの戦闘と同じく両翼から挟み撃ちにする戦法を採用した。また、ムスリムが不利な形勢になると思われた時、ワリードはこの戦いに勝利したらメッカに巡礼すると誓いを立てた。前線が戦闘を開始した後、後方が透かさず橋を占拠し退路を塞ぎ、両翼に分かれ連合軍を包囲した。結果、ムスリムは連合軍を100,000名殺害し、フィラズを占領した。
633 12 アブー・バクルが、シリア征服の為に以下の4名を司令官に任命し、現地に派遣する。
①アムル・イブン・アル・アース
②アブー・ウバイダ
③シュラビル・イブン・ハサナ
④ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン
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