西暦632年は、イスラム共同体が創始者を失い、其れでも解体せずに存続し得るかが試された年である。2月22日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフはアブー・ドゥジャーナにマディーナの留守を託し、妻を含む10,000名と共にメッカへの大巡礼へ出発した。翌日には縫目の無い二切れの白布であるイフラームを纏い、愛用の雌駱駝「カスワ」に跨って出立し、3月3日にメッカへ到着してカアバ神殿の前で祈り、3月7日にはアラファト山に登って、アラファトが巡礼の不可欠な部分であり、巡礼がアブラハムからの崇高な遺産である事を説いた。5月、闘病中のムハンマドは、西暦629年のムウタで戦死したザイド・イブン・ハリタの子ウサーマ・ビン・ザイドを司令官に任じ、東ローマ帝国のバルカへの遠征を命じたが、6月8日、アラビア半島から異教徒を追放する事と、自らの死後もクルアーンに従う事を遺言して死去した。ウマル・イブン・ハッターブは死を認めようとしなかったが、アブー・バクルが遺体を示して納得させている。遠征は一度延期された後、6月26日に出発した。指導者を失った直後から、ザカートの支払いを拒む部族が各地で離反し、7月にはトゥライハ・イブン・クウェイリードの背教軍がマディーナへの攻撃準備を進めた。アブー・バクルは自ら出撃し、乗用駱駝を全て遠征軍に出していた為に荷物駱駝で戦わざるを得ず一度は退却したが、夜襲によって形勢を返し、8月1日にドゥ・キッサを占領した。9月1日にはハーリド・イブン・アル・ワリードが6,000名でブザカの背教軍35,000名を破り、10月にはナクラでスライム族を、ザファールではウンム・ズンマルの率いるサルマ族を、指揮官を狙い撃つ策で破った。年末には自らを預言者と名乗るムサイリマの征伐に向かい、アル・ヤママのアクラバ平原で最も激しい戦闘が行われた。

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≈は「頃」を意味しています。

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年月日 出来事
632 2 22 ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、メッカの迫害からヤスリブに逃れ、ムハンマドと行動を共にした人であるアンサールのアブー・ドゥジャーナを呼んで、自分が留守の間、マディーナを守るように言い付け、マディーナや近隣の村々やムハンマドの妻を含む10,000名がメッカのハッジ(大巡礼)の為出発した。夕方にマディーナ内のモスクのズルフライハで野営した。
632 2 23 朝、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフはイフラームと呼ばれるハッジ用の縫目の無い二切れの白布を纏い、ハッジ団の男性も其れに倣う。アブドゥッラーフは愛用の雌駱駝「カスワ」に跨り「貴方の前にいます、アッラーよ」と唱え、ハッジ団が復唱した。
632 3 3 ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ率いるハッジ団がメッカに到着する。アブドゥッラーフはカアバ神殿の前で「アッラーよ、此の家に祝福と栄光を与えて下さい」と祈った。モスクで礼拝を行った後、丘へ登り「アッラーの他に神はなく、彼に仲間もなく、主権と栄光はアッラーだけのもの。彼は生を与え、又死を与える。彼は全能で、総てを超えて至上の存在である」と唱えた。
632 3 6 ハッジ団がミナの谷へ下り一夜を明かした。
632 3 7 ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがアラファト山を登り、「アラファトはハッジの不可欠の部分であり、ハッジはアブラハムからの崇高な遺産である」と説いた。
632 5 闘病中のムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、西暦629年9月10日のムウタでの戦闘で、アブドゥッラーフの養子でありウサーマ・ビン・ザイドの父ザイド・イブン・ハリタが殺害された件の復讐の為、司令官にザイドを任命し、東ローマ帝国のバルカ(現在のヨルダン)攻撃の遠征を命じる。ザイドは1,000名の騎兵を含む3,000名を招集し、スパイを送り込み、まだ敵兵がザイドの軍に気付いていない事を把握した。
632 6 8 ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが以下の遺言を残し死去する。
①アラビア半島から異教徒を追放する
②自分の死後もクルアーンに従う
ウサーマ・ビン・ザイドのバルカ遠征は延期となった。ウマル・イブン・ハッターブは「アブドゥッラーフは神に相談しに行き、直ぐに戻ってくる」という主旨の発言を行い「アブドゥッラーフは死んだ」と口にする者を脅した。マディーナに帰還したアブー・バクルはハッターブにアブドゥッラーフの遺体を見せて納得させ、落ち着かせた。其の後サキファ(現在のサウジアラビアのマディーナ州)でアンサールの集会が開かれた。集会が行われる事を知ったバクルとハッターブは現場に急行した。バクルは、クライシュ族以外の者を指導者に据えると不和になる可能性が高い、と警告を発すると同時に、ウマル・ブン・アル・ハッターブとアブー・ウバイダが、バクルをアブドゥッラーフの後継者としてとして推して、人々に支持を求めて働きかけた。ハバブ・イブン・ムンドヒールはクライシュ族とアンサール族が其々リーダーを選び、共同で統治する事を提案した。ハッターブはバクルを推薦し、周囲の者も其れに倣った。マディーナを拠点とするアラブのハズラジ族のサイダ一族の長サード・イブン・ウバダは此れに反発し、集会は解散となった。最終的にアブー・バクルが初代正統カリフに選出された。バクルは直様ウサーマ・ビン・ザイドに出撃命令を出した。
632 6 26 ウサーマ・ビン・ザイド率いる軍勢がマディーナを出発しタブーク(現在のサウジアラビア)へと向かう。主に以下の者を従えた。
①ウマル・イブン・ハッターブ
②サアド・イブン・アビー・ワッカース
③アブー・ウバイダ
632 7 アブー・バクルは、アサド族のトゥライハ・イブン・クウェイリードがマディーナへの攻撃準備を進めている事を知り、ムハージリーンとアンサールの中から主に以下の者を呼び寄せ司令官とし、戦闘部隊を構成した。バクルは此の部隊を使って、やって来た背教軍に前哨部隊を何もさせない内にドゥ・フッサへ追い返した。
①アリー・イブン・アビー・ターリブ
②タルハ・イブン・ウバイドゥラ
③ズバイル・イブン・アウワーム
632 7 15 背教軍がマディーナへの攻撃準備の為ドゥ・キッサからドゥ・フッサへ移動する。また、背教軍の拠点であるアブラクとドゥ・キッサにいる以下の民族に対し使者を送り、イスラム教に忠実である事、ザカートを払い続ける事を呼びかけた。
①ガタファーン族
②ハワジン族
③テイー族
632 7 16 アブー・バクルが本隊と共にマディーナを出発し、ドゥ・フッサへ向かった。乗用駱駝は全てウサーマ・ビン・ザイドの軍に属していた為、劣悪な荷物駱駝を馬として調達せざるを得なかった。此れ等の駱駝は戦闘訓練を受けていなかったので、ドゥ・フッサの背教軍から奇襲を受けた際に逃げ出した。其の結果、ムスリムはマディーナに退却し、背教軍は数日前に失った前哨部隊を奪還した。此れを受けアブー・バクルはマディーナで軍を再編成し、夜間に背教軍に奇襲を掛けた。結果、背教軍はドゥ・フッサからドゥ・キッサに退却した。
632 8 1 アブー・バクルの軍が、背教していた以下の反乱部族を破りドゥ・キッサを占領する。
①ガタファン族
②ハワジン族
③タイイ族
632 8 4 ウサーマ・ビン・ザイドの軍勢がマディーナに帰還する。アブー・バクルはザイドに休息と、部下への補給を指示した。
632 9 1 ハーリド・イブン・アル・ワリードが6,000名の兵を率い、ブザカ(現在のサウジアラビアのハーイル州)でアディ・イブン・ハティム・トゥライハ率いる背教軍35,000名を破り勝利する。その後ガムラ(現在のサウジアラビアのマディーナ州)にて、ワリードの軍がブザカから逃亡した残存兵を撃退する。
632 10 1 ハーリド・イブン・アル・ワリードの軍とアラブ部族であるスライム族との戦闘がナクラ(現在のサウジアラビアのリヤード州)で行われ、ワリードの軍が同部族の大半を殺戮し勝利する。
632 10 21 ハーリド・イブン・アル・ワリードの軍がウンム・ズンマル率いるサルマ族背教軍とザファール(現在のサウジアラビアのマッカ州)で交戦する。ワリードは背教軍の強さをズンマルのリーダーシップにあると考え、母の遺した駱駝に跨り背教軍を指揮していたズンマルを狙い撃ちにする様射手に指示した。結果、ズンマルを乗せた駕籠が落下し直ちにムスリムによって殺害され、ワリードの軍が戦闘を優位に進め勝利する。
632 10 31 アブー・バクルが、戦闘を行わずに自らを預言者と名乗るムサイリマと接触し拘束する事を意図し、イクリマ・イブン・アビー・ジャハルをアル・ヤママ(現在のサウジアラビアのリヤード州)に差し向ける。ジャハルは十分な兵力を持っていなかった為、ハーリド・イブン・アル・ワリードの軍の背教軍征伐の谷間期間に兵を借りた。又、ジャハルは次の指示が出る迄待機する様命じられていたが、以下の報告を受け兵を動かし、ムサイリマに敗北する。バクルに書簡を送り行動の全容を報告した。報告を受けたバクルはジャハルの軽率な行動に怒りを覚えた。
①前月1日にワリードがアディ・イブン・ハティム・トゥライハ率いる背教軍を破り勝利した。
②ジャハルと同様にジャハルは次の指示が出る迄待機する様命じられていたイスラム教改宗者でサハーバのシュラビル・イブン・ハサナが、ジャハルと合流する為に進軍しており数日で到着する事が見込みであった。
③ワリードがサルマを征圧した。
バクルはアルファジャの援護の為にマフラ(現在のイエメン)に向かい、ジャハルに対してもムハージルーンを助ける為にイエメンに向かう様指示した。ハサナはアル・ヤママに留まった。バクルはハサナがジャハルと同じ過ちを犯さない様書簡にてアル・ヤママに留まって次の指示を待つ様念を押し、ワリードに対しムサイリマ征伐の指示を出した。更にハサナに対して後日到着するワリードの軍の指揮下に入る様書簡にて指示を出した。
632 11 シュラビル・イブン・ハサナが、前月のイクリマ・イブン・アビー・ジャハルと同様に待ちきれずに兵を動かしムサイリマに敗北する。その数日後ハーリド・イブン・アル・ワリードが到着し、アル・ヤママのアクラバ平原にムサイリマが40,000名の兵と共に野営しているとの情報を入手した。
632 12 ハーリド・イブン・アル・ワリードがムサイリマ征伐の為出陣する。最も激しい戦闘が行われたのはワディ(現在のサウジアラビアのリヤード州)に流れ落ちる渓谷であった。ムサイリマの軍が戦闘可能な状態にある兵が7,000名、1/4程度となった段階で城壁のある庭園へ避難し、少数の護衛が援護した。アンサールでサハーバのアルバラ・イブン・マリクが仲間に頼んで壁を登らせ、そこにいる衛兵を殺して門を開け庭園を侵入した。ムサイリマは、西暦625年3月23日のウフドの戦いでムハンマド・イブン・アブドゥッラーフの叔父ハムザ・イブン・アブド・アル・ムッタリブを殺害し、その後イスラム教に改宗したワフシー・イブン・ハルブの標的となり、ハルブはムッタリブを殺害した時と同様に槍を投げた。槍はムサイリマの腹に的中しアブー・ドゥジャーナがムサイリマを斬首、7,000名の兵が虐殺された。
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