西暦30年から311年は、当サイトの年表が最も古く遡る区間であり、後の千年を規定する事となる幾つもの流れが同時に始まった時代である。西暦30年頃、イエス・キリストがエルサレム神殿を頂点とするユダヤ教体制を批判した為に処刑され、其の3年後には原始キリスト教が最初の教会をエルサレムに置いた。西暦64年のローマ大火では第5代ローマ帝国皇帝ネロが放火の罪をキリスト教徒に着せて処罰し、西暦70年にはティトゥスが4個軍団でエルサレムを包囲して兵糧攻めを行い、8月にエルサレム神殿が破壊され、9月に市は完全に征圧された。西暦132年にはハドリアヌスの割礼禁止を契機にユダヤ人の反乱が起こり、西暦135年に鎮圧されてユダヤ人はエルサレムから追放された。東方では、西暦57年に奴国の国王が後漢へ遣使して漢委奴国王の金印を受け、西暦105年には蔡倫が樹皮・麻繊維・魚網から紙を作って献上し、西暦180年頃には倭国が乱れて卑弥呼が女王に据えられ、西暦238年には魏から親魏倭王の金印が与えられた。後漢は西暦184年の張角の挙兵に始まる黄巾の乱で揺らぎ、皇甫嵩・盧植・朱儁・曹操・孫堅らの征討、涼州の反乱、十常侍と何進の相討ち、董卓による献帝の擁立と長安遷都、関東連軍の挙兵へと動乱が続いた。西暦185年12月には約9,100光年彼方で起きた超新星爆発SN 185の光が地球に到達し、反乱軍の陣地を照らすと共に、東漢の天文学者によって客星として記録された。西方では西暦224年にパルティアの首都クテシフォンがササン朝ペルシアの侵攻を受け、西暦226年にパルティアが滅び、ゾロアスター教が国教とされた。西暦277年にはマニ教の開祖マニが獄死している。数学では、西暦150年頃にプトレマイオスが120分の377から、西暦250年頃に王蕃が45分の142から、西暦263年に劉徽が正192角形を用いて50分の157から、それぞれ円周率の近似を得た。そして西暦301年にアルメニア王国がキリスト教を国教とする一方、西暦303年にはローマ帝国副帝ガレリウスの布告によって迫害が始まり、西暦305年にディオクレティアヌスが退位し、西暦311年、東方正帝となったガレリウス自身が弾圧を止めて寛容令を発した。此の区間は、迫害から容認への転換点で閉じられている。

以下の暦は全て西暦に変換しています。 日本の旧暦 / 中国の旧暦 / ユダヤ暦 / ヒジュラ暦 / ソビエト連邦暦 / フランス革命暦

≈は「頃」を意味しています。

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年月日 出来事
30 4 7 イエス・キリストがエルサレムで、エルサレム神殿を頂点とするユダヤ教体制を批判した為処刑される。
33 ユダヤ教の中から、原始キリスト教が最初の教会をエルサレムに置き、成立する。
57 奴国の国王が後漢に使いを送り、初代後漢皇帝光武帝より漢委奴国王の金印を受け取る。
57 インドから後漢へ綿布が伝わる。
64 7 18 夜、ローマのキルクス(戦車競技場)周辺の商店通りから火災が発生する。放火犯の噂を立てられた第5代ローマ帝国皇帝ネロは、キリスト教徒に放火犯の罪を着せて処罰した。火災は6日後に鎮火された。
66 ユダヤ人の反乱軍がエルサレムに立て籠る。
70 4 14 ローマ帝国のエルサレム攻略の司令官であるティトゥスが、第5軍団マケドニカ、第12軍団フルミナタ、第15軍団アポリナリスの3つの軍団を市の西面に、第10軍団フレテンシスを市の東のオリーブ山に配置し、エルサレムを包囲し水と食糧の供給を絶つ兵糧攻めを行った。
70 8 ローマ帝国によってエルサレム神殿(第二神殿)が破壊される。
70 9 7 ローマ帝国がエルサレムを完全征圧する。
100 新約聖書が完成する。
105 宦官の蔡倫が、樹皮・麻繊維・魚網を用いて紙を作り、第4代後漢皇帝和帝に献上する。
107 倭国の王帥升が後漢に使いを送り、生口(捕虜)160名を献上する。
130 第14代ローマ帝国皇帝ハドリアヌスが、エルサレムをローマ風の都市に建設する。
132 ハドリアヌスが割礼を禁止する。これによりユダヤ人による反乱が始まる。
135 ローマ帝国がユダヤ人による反乱を鎮圧し、ユダヤ人をエルサレムから追放する。
138 第15代ローマ皇帝アントニヌス・ピウスが割礼を許可する。
150 天文学者クラウディオス・プトレマイオスが円周率に関し以下の式から3桁の精度を得る。
π= 377 120
=3.14166666667
180 倭国が乱れた為、卑弥呼を女王に据える。
181 4 2 第12代後漢皇帝霊帝の側室王栄により献帝が産まれる。此れに嫉妬した何皇后は王に刺客を送り毒酒で王を毒殺した。此れを知った霊帝は何皇后を退位させようとしたが、宦官達が執り成して阻止した。其の後霊帝は若くして母を亡くした献帝を不憫に思い韻文「追徳賦」「令儀頌」を詠んだ。以後献帝は嗇夫の朱直によって、宮中の女性が病気や罪を犯した際に監禁される部屋である「暴室」で養育された。
181 7 何皇后の父何真に対し、車騎将軍と舞陽(現在の河南省)侯が追贈される。
182 4 霊帝の母の董太后が朱直から献帝を引き取り、養育を始める。
183 何皇后の母舞陽君に称号が贈られる。
184 2 29 道教の一派である太平道の指導者張角や其の周囲の酋長・従者が、後漢政府打倒の為の挙兵準備を開始する。又張は、腹心の馬元義を洛陽(現在の中国河南省)に送り込んだ。馬は荊州・揚州(現在の中国江蘇省)に対し挙兵準備を通達し、鄴(現在の中国河北省邯鄲市臨漳県・現在の中国河南省安陽市安陽県)に兵を集めた。
184 3 14 張角の弟子である唐周が、後漢政府の徐庶等に張角の西暦184年4月3日に蜂起する計画を密告する内容の書簡を送る。此れを受け霊帝が以下の指示を出した。
①馬元義を捕らえ洛陽にて処刑。
②1,000名の馬の従者を殺害。
③冀州が張とその家族を捕らえる。
184 3 15 張角が、蜂起計画が漏れた為予定よりも早く挙兵する。又、自らを天公将軍と称し以下の2名の弟にも将軍の名を与えた。
①地公将軍張宝
②人公将軍張梁(張宝の弟)
184 3 15 馬元義が1,000名の従者と共に後漢政府側に河内県山陽郡(現在の中国河南省山陽市)にて捕らえられる。此れを受け直様張曼成が南陽(現在の中国河南省)にて挙兵した。
184 3 張曼成が、南陽太守褚貢を殺害し、宛城を居城とし自らを「神上使」と名乗る。
184 3 霊帝が何進を大将軍に任命し、兵を都亭に駐屯させ、八つの関に都尉を置き洛陽の守備を行わせる。
184 4 後漢政府が以下3名を任命し軍を派遣する。
①北中郎将盧植(冀州(現在の中国河北省衡水市)に派遣)
②左中郎将皇甫嵩(颍川(現在の中国河南省禹州市)に派遣)
③右中郎将朱儁(颍川に派遣)
184 4 朱儁が波才率いる黄巾軍と颍川で交戦し敗れ、長社(現在の中国河南省許昌市)に逃れる。
184 4 広陽(現在の中国北京市の宣武門〜和平門)の黄巾軍が、幽州刺史郭勲・広陽太守劉衛を殺害する。
184 4 汝南太守趙謙が、邵陵(現在の中国湖南省邵陽市)にて黄巾軍に敗れる。
184 5 波才が、追って大軍を率い、籠城している朱儁の逃亡先の長社の城を包囲する。其の夜、強風を利用して皇甫嵩は兵に城壁に登って火を放つ事を指示し、黄巾軍を奇襲した。其処に曹操が皇甫・朱に加わり、黄巾軍を破る。波は汝南(現在の中国河南省駐馬店市)に逃れた。其の後皇甫・朱が汝南、陳(現在の中国河南省周口市淮陽区)の黄巾軍を抑えた。又、朱の配下の孫堅が皇甫・朱に加わり、波は阳翟(現在の中国河南省禹州市)にて再度敗れた。
184 5 豫州刺史王允が、侍中荀爽・文人で孔子の20代の孫である孔融等を迎え、黄巾軍を撃破する。
184 6 西華(現在の中国河南省周口市)の黄巾軍司令官彭脱率いる軍が、皇甫嵩・朱儁の後漢政府軍に敗れる。
184 6 新たに南陽太守に就任した秦頡が、南陽にて張曼成を斬殺する。此れを受け張の後継者の趙弘が指揮官となり宛城に籠城した。又後漢政府側は、朱儁が徐璆・秦頡と合流し、宛城を包囲した。
184 6 7 洛陽に移送されていた馬元義が車裂きにて処刑される。
184 7 四府からの推挙を受け、霊帝から北中郎将に任命された盧植が、北軍中候の将軍として、同じく霊帝から護烏桓中郎将に任命された宗員と共に張角征伐へ向かう。盧は連勝を重ね、張率いる冀州の黄巾軍を10,000名以上殺害し、張は広宗(現在の中国河北省邢台市)に退却した。盧は張を追い広宗を包囲、塹壕を掘って攻城に備えた。其の後盧は雲梯を使って攻め立てた。其処に霊帝が軍の監察の使者である左豊を送り込んだ。左は盧に賄賂を要求した。しかし盧が拒否した為、左は霊帝に「盧は戦おうとしない」と讒言する。盧が洛陽に帰ると霊帝は盧に対し「広宗の城は崩しやすいと見ているが、盧は兵を控えている、神が張を殺すのを待っているのか?」と激怒し盧が就いていた尚書を罷免とする勅令を出し、後任に東中郎将として董卓を据え、盧に死刑判決が下った。しかし其の後無期懲役に減刑された。董は広宗攻めを止めて北上し、張宝のいる下曲陽県(現在の中国河北省石家庄市晋州市鼓城村)の攻撃を開始した。
184 8 後漢政府にて、2ヶ月経っても宛城を落とせない朱儁を洛陽に呼び戻すべきであるとの意見が出始める。此れに対し大司農張温が「秦の白起や燕の楽毅は敵に打ち勝つまで何年も掛かった」と答え、霊帝も同調した。此の出来事が切っ掛けで何者かが朱の更迭を進言しているとの噂が朱の耳に入る。此れにより朱は攻勢を強め趙弘の殺害に成功する。此れを受けて黄巾軍は、韓忠を指揮官に据え籠城を続けた。しかし、朱に就いていた孫堅自ら先頭に立って城壁を登り指揮を執る等して勝利を収めた。韓は朱に降伏を願い出たが、朱は此れを拒否した。包囲を緩めた隙に韓は逃亡し数十km北上したが、10,000名の黄巾軍の兵が殺害され、韓も秦頡によって斬首された。此れを受け黄巾軍は孫夏を指揮官に据えた。
184 9 皇甫嵩の軍が、兖州(現在の中国山東省・河南省)にて黄巾軍を平定する。此れを受け後漢政府は、皇甫に冀州の黄巾軍を攻める様指示する。皇甫は此の期待に応え、卜巳率いる軍を破り7,000名を殺害、卜を捕らえ斬首した。其の後洛陽に凱旋し、霊帝宛に書簡を送り、盧植が冀州の黄巾軍を平定した事を報告した。此れにより盧は、尚書に復職を果たした。
184 9 24 後漢政府が、董卓が2ヶ月以上経過しても張宝の居る下曲陽県を落とせなかった為、皇甫嵩の冀州派遣を決定する。又、董に対し「死刑を一度だけ免除する」裁定が下り、東中郎将も罷免された。
184 10 孫夏が、朱儁率いる軍に敗れ戦死し、南陽の黄巾軍が消滅する。
184 11 張梁率いる黄巾軍が、広宗にて皇甫嵩の軍と交戦し、30,000名の死者、50,000名の川への投身者を出す。梁も、皇甫によって斬殺された。又、既に病死していた張角の遺体は、棺から引き摺り出され、木に吊るされて晒された。
184 11 涼州(現在の中国甘粛省・寧夏回族自治区)にて、羌族・枹罕及び隴西郡(現在の中国甘粛省)河関の盗賊・宋建・王国等が反乱を起こし、北宮伯玉・李文侯を将軍として擁立する。彼等は阿陽県(現在の中国山西省晋城市陽城県)まで来たが、正面から戦っても勝ち目は無いと考え、金城郡(現在の中国甘粛省蘭州市・青海省西寧市・青海省海東市)にて、降参した振りをして、涼州総督辺章・韓遂等数十名を人質に取り、護羌校尉伶徴・金城太守陳懿を殺害した。しかし彼らは辺・韓を釈放し、両名を擁立した上で軍政を委ねた。此の為隴西郡では辺・韓が賊徒になったという噂が飛び交い、涼州が両名に対して懸賞首をかける事態となった。又、此の反乱を鎮める事が出来なかったとして、以下3名が涼州刺史を罷免された。
①左昌
②宋梟
③楊雍
184 12 皇甫嵩の軍が、鉅鹿太守郭典と共に曲陽(現在の中国河北省保定市)にて張宝率いる黄巾軍を破る。張を殺害し、100,000名以上を殺害し死体を積み上げ京観を築き、黄巾軍は指導者を失う事となった。此の武功により皇甫は左車騎将軍に任命され、槐里(現在の中国陝西省咸陽市)に移封する。又、8,000戸の食邑を与えられ冀州牧となった。
184 12 皇甫嵩が、十常侍趙忠の屋敷の豪華さが規定に反する事を知っていた為、後漢政府に上奏・没収される。其の際張譲から賄賂を要求されていたが皇甫は拒否した為、趙と張が霊帝に讒言した。結果、皇甫は左車騎将軍を罷免され都郷侯に位を戻され、食邑6,000戸を没収された。
185 張温が車騎将軍と假节に任命される。執金吾袁滂を副将とし、袁・盪寇将軍周慎・北宮伯玉が張温の指揮下に入った。此れを受け、以下の人間が張温への従軍を志願した。
①張純
②孫堅
③陶謙
しかし孫・陶は受け入れられたが、烏桓族を率いたがっていた張純は張温によって退けられた。更に公孫瓚を招き入れた。此の時董卓は破虜将軍の地位にあり、張温の指揮下にあった。
185 洛陽の宮殿が火災に遭う。此れを受け、修繕の為各地に対し税の追徴を行うが、張譲等が此れを着服した為、翌年になっても修繕は完了せず、負担に苦しむ地方の太守や民達の恨みを買った。
185 2 16 董卓が後漢政府から恩赦を受ける。
185 4 李文侯・韓遂・辺章が数万名の兵を率い宦官殺しを旗印に三輔(長安(現在の中国陝西省西安市)周辺)を攻め、皇帝や王妃の墓である園陵へ侵攻した。霊帝は皇甫嵩と董卓を派遣して征服しようとしたが果たせず、反乱軍が100,000名へと勢力を拡大する。
185 8 後漢政府が張温を美陽(現在の中国陝西省宝鶏市扶風県)に送り込み、歩兵・騎兵総勢100,000名を率いさせた。韓遂・辺章の軍も間も無く美陽に着陣し、戦闘が行われ反乱軍が勝利した。
185 11 4 司空に再任されたばかりの楊賜が死去する。楊は陳寔よりも先に出世してしまった事を嘆いていた。
185 12 7 夜、紀元前8,905年12月7日頃に発生したSN 185(距離9,100光年)の超新星爆発による光が地球に到達し、韓遂・辺章率いる反乱軍の陣地を照らし、驢馬や馬が嘶く。此れを不吉な予兆と受け止め、反乱軍は撤退準備を始める。董卓は其の状況を知って喜んだ。
185 12 7 東漢の天文学者が超新星爆発のプロセスを観察して客星として記録に残した。後の後漢書には、「十月癸亥、一つの客星が南門に出現、笠のように大きく色鮮やかで、其の後徐々に衰え、翌年六月には無くなった」 という主旨の記載がある。
185 12 8 董卓が右扶風鮑鴻と共に韓遂・辺章率いる反乱軍を襲撃し、数千の首を刎ねた。韓遂・辺章含む残党は楡中(現在の中国甘粛省蘭州市)に敗走した。張温は周慎に30,000名の兵を率いさせ韓・辺を追撃させた。張温の部下で軍参謀の孫堅は「楡中は食糧が不足しているので、私が10,000名の兵を率い反乱軍の穀物輸送ルートを断ち、兵糧攻めを行い羌の後背地に退却する様誘導し、その後包囲して梁州を平定する」という主旨の進言を行ったが、周は聞き入れず楡中城を包囲した。しかし韓・辺が兵を分けて渓谷を守り、逆に穀物輸送ルートを断ち切られた。慌てた周は食糧を捨て敗走した。董は川に堰を作り、魚や海老を捕るふりをして密かに兵を率いて川を渡り逃走した。反乱軍が追撃しようとしたところ、堤防に阻まれた川の水深が大きく、川を渡る事が出来なかった。結果、後漢政府軍の将軍の内、董だけが全軍を引き連れて帰還した。
186 張温が洛陽にて太尉に任命される。此の張以降太尉は在外太尉として洛陽の外にて政務を執り行う様になった。又、今回の張の太尉就任は賄賂によって得られたものではないかと噂された。年内に張は洛陽に呼び戻された。
186 公孫瓚が後漢政府から張温の援軍として出撃を命じられる。此の時公孫は関や津を通過する際の身分証明である都督行事の割符を与えられ、幽州の烏桓族3,000名の突騎の指揮を任された。しかし薊県(現在の中国北京市大興区)にて烏桓族に食糧を持ち逃げされた。
186 12 辺章が病死する。
187 張純が、2年前に張温に従軍を断られた恨みから、自らを「弥天安定王」と名乗り、以下の人間と共に反乱を起こし、右北平郡(現在の中国河北省唐山市豊潤区)と遼西郡(現在の中国河北省・遼寧省)を攻略する。
①泰山太守張挙
②烏桓族の大人丘力居
又、張挙は自らを天子とし「張挙が、漢に代わった。天子を位から降ろせ。公卿は張挙を迎えよ」という主旨の書簡を各郡に送付した。
187 3 滎陽(現在の中国河南省鄭州市)の農民軍が中矣令を殺害する。
187 4 何苗が滎陽の農民軍を破り車騎将軍に任じられ、済陽(現在の中国河南省)侯となった。
187 4 韓遂が涼州にて反乱を起こす。後漢政府が涼州刺史に耿鄙を任命する。耿は佞吏を信用した為、氐族・羌族が反乱を起こし、治中程球を先鋒として涼州6郡を包囲し、兵と馬の徴発を開始して韓率いる反乱軍と対峙した。耿は程を気に入っていたが、程は裏切り者で強欲であった為、涼州の民から嫌われていた。反乱軍は北宫伯玉・李文侯と北宫伯玉の従者数百名を殺害し、100,000名の兵を奪い、隴西郡を包囲した。隴西太守李相如が韓と連なり、反乱軍に寝返った。又、漢陽太守盖勳は優れた実績を持っていたが、耿から軽蔑されていた為、故郷に帰った。後任として傅燮が漢陽太守に就任した。傅は耿に対し「訓練を受けていない者を戦場に連れて行くのは、人命を無駄にする事だ」と孔子の言葉を引き合いに出し、更に「貴方はまだ涼州に来て間もない。今、貴方が訓練を受けていない人達を率いて、大長征という危険な障害を乗り越えようとしているのは、100%危険な事で、政府軍が来ると聞けば、反乱軍は団結する事だろう。 休戦を宣言して、報酬と罰を明確にした軍事的規律を定めたらどうだろう。私達が抵抗しないのを見ると、反政府勢力は私達を臆病者だと思い、多くの反政府勢力のリーダーが権力と利益を求めて再び内部抗争を起こすだろう。 貴方は危険で誤った決断をしたと思っている。又、程がいては官軍の心が1つに纏まらない」と続けた。しかし耿は応じなかった。
187 5 耿鄙が兵を率い狄道(現在の中国甘粛省定西市臨洮県)に向かったが、別駕によって先ず程球が、次に耿が殺害され、軍が散り散りになった。城中の兵は少なく、食糧も尽きたが傅燮は城を守った。扶風(現在の中国陝西省宝鶏市)の司馬馬騰と漢陽人王国が韓遂率いる反乱軍に寝返った。王は自らを「連民将軍」と名乗り、韓と馬は反乱軍の指導者として王を支持し、王と共に三輔に侵攻した。王は傅燮に対し酒泉太守の黃衍を遣わせ「天は既に後漢に無い。我が軍を率いて貰えないか」と後漢政府軍から傅燮を引き抜こうとするが、傅燮は剣を掴み「私に賊になれと言うのか」と黃を叱った。さらに、司徒の崔烈が傅燮に涼州を放棄する事を提案するが、傅燮に激しく批判された。一方、胡騎数千名が韓遂に従った。胡騎は城外で「傅燮を故郷の霊州(現在の中国寧夏回族自治区銀川市)に送りたい」と叩頭した。傅燮の息子傅幹は傅燮に対し「後漢はもう駄目です。此の漢陽は守れません。氐族・羌族に甘えて故郷に帰りましょう」と進言するが、言い終える前に「伯夷はどれだけ殷が駄目でも周に仕えなかった。私も後漢に殉ずる。俸禄を賜った以上は逃げるわけにはいかない。お前には才智がある。努力せよ。主簿の楊會は、私にとっての程嬰だ。傅幹は、楊を頼れ」と返すと傅幹は喉を詰まらせて言葉にならず、周囲の者達も皆泣き崩れた。そして傅燮は両翼の軍勢を率いて進撃し戦死した。反乱軍は漢陽軍を包囲し、漢陽太守の傅燮が戦死した事で後漢政府は涼州の支配権を失った。
187 5 張温が、反乱を鎮められなかったとして太尉を罷免され、後任に崔烈が就いた。張は其の後衛尉に転任した。
187 6 前月に太尉に就任した崔烈の後任として許相が司徒に就く。更に光禄勲であった沛国(現在の中国安徽省・河南省・江蘇省・山東省)の丁宮が司空に任命された。
187 7 以下の人間が張純率いる軍に殺害される。
①護烏桓校尉公綦稠
②右北平太守劉政
③遼東太守陽終
其の後公孫瓚が3,000名の兵を率い張を追撃して撃破し、烏桓族を率いていた貪至王が公孫に降伏した。戦功として公孫は騎都尉に昇進した。
187 10 11 太丘県(現在の中国河南省商丘市永城市)の長の陳寔が死去し、淇陽城(現在の中国河南省安陽市林州市)に葬られた。葬儀には30,000名が参列し、中郎将蔡邕が碑文を刻み、大将軍何進が使者を遣わせ弔辞を読ませた。又、司空荀爽や太僕韓融等多数の人々が喪に服した。
187 11 長沙郡(現在の中国湖南省)の反乱軍の指導者であった区星が、住民を10,000名余り集め、長沙城を攻撃する。しかし議郎であった孫堅が長沙太守に就任し、一ヶ月で此れを鎮圧した。更に、区に呼応した以下2名等も孫によって鎮圧された。其の際宜春(現在の中国広西省)長であった廬江(現在の中国安徽省合肥市)太守陸康の従子は、反乱軍に攻め入られた為、使いを送り孫に助けを求めた。孫が出撃準備に取り掛かると、主簿は止めようとした。しかし孫は「太守には文徳が無く、征伐を功としてきた。郡界を越えて攻討し、異国を全うするのだ。此れによって罪を獲たとて、どうして海内に媿じようか?」と言って静止を振り切り出撃した。反乱軍は孫がやって来る事を知って逃走した。其の後霊帝は孫の功績を讃え、烏程(現在の中国浙江省湖州市)侯に封じた。
①零陵郡(現在の中国湖南省・広西チワン族自治区)の周朝
②桂陽郡(現在の中国湖南省・広東省・広西チワン族自治区)の郭石
187 12 崔烈が太尉を解任され、後任に大司農の曹嵩が就いた。
188 公孫瓚が張純を追撃し、南匈奴右賢王於夫羅を指揮官として、石門(現在の中国遼寧省丹東市東港市前陽鎮)にて張・丘力居や鮮卑族と戦闘となる。結果、公孫が再度張を撃破し、張は妻を残し鮮卑族の領地内へ敗走した。公孫は更に追撃したが遼西郡の管子城にて丘に200日以上包囲された。軈て公孫側は食糧が尽き多数の兵を失った。又、丘側も疲弊し柳城(現在の中国遼寧省朝陽市)に兵を引いた。其の後公孫の勇敢さを恐れた烏桓族は再び公孫を攻める事は無かった。此の戦功により公孫は中郎将・都亭侯となった。公孫は屡々白馬に跨り、乗馬や射撃に長けた数十名の部下に脇を固めさせ「白馬義従」と名乗った。
188 1 胡族である南匈奴の休屠各が5,000,000銭で関内侯を売り、反乱を起こす。
188 3 郭大が白波谷(現在の中国山西省臨汾市襄汾県永固郷)にて挙兵する。南匈奴於夫羅と手を組み100,000名の兵を集め「白波黄巾」と呼ばれた。又、以下に進軍して突破した。
①太原(現在の中国山西省)
②河内(現在の中国山西省)
其処から更に南下して河東郡(現在の中国山西省)を攻撃した。
188 劉焉・侍中董扶が荊州(現在の中国湖北省)の東の州境で道が塞がり立ち往生した為、荊州の国境付近に駐屯する。その頃、以下2名等が綿竹県で「黄巾党」を名乗り挙兵した。
①馬相
②趙祗
金品で益州(現在の中国四川省)刺史のポストを買った郤倹による重税に苦しんでいた民衆に加勢を促し、数千名の同意を得た。その後綿竹令李昇を殺害した。そして更に多くの吏民が加勢し、馬は自らを天子と称し、10,000名余の兵を率い、趙祗と共に郤の殺害と雒城(現在の中国四川省広漢市)の落城に成功した。又、巴郡(現在の中国重慶市・四川省)を征圧し、巴郡太守趙部を殺害した。更に以下の占領にも成功したが、賈龍に殺害された。
①益州
②犍為(現在の中国四川省楽山市)
其の後賈は劉を迎え入れ、綿竹県に駐屯した。劉は賈を校尉に任命した。
188 4 休屠各が并州刺史張懿を殺害する。又、其の頃董扶が密かに、交趾(現在のベトナム東北部・紅河デルタ・西北部・北中部)行きを希望していた劉焉に対し「益州には天子の気がある」と進言した。此れを聞いた劉は「四方を敵に包囲され、刺史の威厳が損なわれこの様な反乱が起きている。牧伯の首を挿げ替え、明晰な人物を就任させるべきである」と後漢政府に説き、益州牧への就任を願い出て承諾された。又、董も蜀郡(現在の中国四川省成都市)都尉に任命され、劉に同行する事が決定した。益州広漢郡綿竹県(現在の中国四川省)出身であった董は故郷へ帰還する事となった。更に後漢政府は以下2名を取り立てた。
①太僕黄琬→豫州牧
②東海郡の宗正劉虞→幽州牧
後漢政府は劉に対し、以下2名の征伐を命じた。又霊帝の詔により、於夫羅の父で第18代南匈奴単于羌渠は劉に従い、援軍を差し向けた。
①張純
②丘力居
劉は幽州に到着すると、使者を送り遊牧民に危機を伝え、張の首を取る様命じた。劉の到着を聞いた丘は、使者を遣わせ降伏を伝えようとしたが、劉が手柄を立てる事を恐れた公孫瓚の送り込んだ刺客により、道中殺害された。此れを知った遊牧民は、迂回して劉に丘の降伏を伝えた。劉は後漢政府に丘の降伏を報告し、兵を引いた。結果、右北平郡に駐留する公孫率いる10,000名以上の兵だけが残った。
188 4 羌渠による援兵派遣が止まらないと読んだ南匈奴の醢落や休屠各の白馬銅等100,000名が、羌に対し謀反を起こし、羌を殺害する。此れにより於夫羅が第19代南匈奴単于に就任した。しかし南匈奴人は須卜骨都侯を単于とした。
188 9 董重が驃騎将軍に任命される。
189 須卜骨都侯が殺害される。此れを受け後漢政府は南匈奴単于を空位とし、南匈奴の老王に政権運営を行わせた。
189 劉虞が張純等を対象に懸賞金を掛ける。
189 反董卓の軍に加勢しようとしていた荊州刺史王叡が、不仲であった武陵太守曹寅を殺害すると喧伝していた。此れを知った曹は、王叡の罪状を列挙して光禄大夫温毅の檄文と偽り、孫堅に送付し、孫に王叡の逮捕を促した。王から侮辱的な扱いを受けていた孫は、喜んで兵を率いて江陵(現在の中国湖北省荊州市)へ向かった。前軍が王の居る城の城下に到着し、其の報告を受けた王は城楼から理由を尋ねた。兵達は「兄弟達は長年戦争をしていたが、与えられた賜物は服も足りなかった。援助して欲しい」と言った。王は「私は刺史にどうして吝嗇なのか」と言い、倉庫を開け、自分で選ばせる事にした。軍が接近すると、王は其の中に孫の姿を見つけ、孫に「どうして此処に居るのか」と尋ねた。孫は「檄文により貴方を誅殺する様命じられた」と答えた。王は「私はどの様な罪を犯したのか」と尋ねると孫は「無知の罪だ」と答えた。王は追い詰められ、金を飲み自害した。王の後任として劉表が荊州刺史に就き、反董卓の軍に加勢した。
189 4 公孫瓚の食客の王政が張純を殺害する。張の首級は劉虞に差し出された。
189 5 劉虞が遊牧民を平定した功績により、太尉に昇進し、襄賁(現在の中国山東省臨沂市蘭陵県)侯に封じられた。其の後劉は大司馬に就任し、公孫瓚は奮武将軍となり薊侯に封じられた。
189 5 13 霊帝が後継者を定めない儘崩御する。霊帝は、少帝弁が暗愚であった為、皇太子に据えていなかった。以前から霊帝の周囲には、献帝を皇太子に推す声があった。しかし霊帝は、何皇后を寵愛し、又外戚である何進にも遠慮していた為、献帝を皇太子に据える事が出来なかった。軈て、内廷の宦官と朝廷の重臣達が権力と利益を巡り争う事となった。又、以下2名の間で皇位継承争いが起こった。
①霊帝の長男少帝弁
②霊帝の弐男献帝
霊帝の実母の董太后と親しかった蹇碩は、献帝を皇帝に立てる為に何の殺害を図った。しかし何が外朝から後宮に入る際に、蹇の司馬であった潘隐が何に目で仄めかし、警戒した何は引き下がり、脇道の軍営に戻った。何は仮病で宮殿に入らず、蹇の作戦は失敗した。
189 5 15 少帝弁が第13代後漢皇帝に即位し、元号が「光熹」に改元される。又、母の何皇后が摂政皇太后に就任した。何皇后と母方の伯父に当たる何進によって少帝弁は擁立された。其の後何進は宦官を敵視していた事から、張譲と対立した。又、何進の軍勢は董重の屋敷を包囲し、董を驃騎将軍から罷免させ、自決に追い込んだ。又、何進は蹇碩に殺されかけた事から十常侍の排除に乗り出し、袁紹等の幕僚を集めて積極的に諮ったが、張は何皇后や何苗に何度も賄賂を渡し味方に付けて宦官を擁護させた為、何氏同士で対立が生じる構図になった。此れは外戚である何氏との連携によって事態を乗り越えようと図っていた宦官にとっても想定外の事態であり、張が何進の説得を試みた。何進が争いに及び腰になると、袁は地方の諸将を洛陽に呼び寄せ、何皇后等に圧力を掛ける事を何進に提案した。しかし、此れに以下3名等が反対した。
①盧植
②陳琳
③曹操
再三の袁による催促の結果、何進は此れを受け入れ、以下の人間に兵士や兵糧を集めさせると共に、丁原や董卓といった地方の将軍を呼び寄せた。
①王匡
②橋瑁
③鮑信
④張楊
⑤張遼
⑥曹操
又袁は、大将軍の命であると偽って、各地に指令を出したりした。
189 5 於夫羅が、洛陽の宮闕へ出向き、南匈奴人が須卜骨都侯を単于とした事を後漢政府に訴える。しかし霊帝崩御の混乱時期であった為、聞き入れられなかった。其処で於は白波黄巾と共に、以下に侵攻したが、現地の自警団に阻まれた。又、故郷の南匈奴に帰ろうとしたが、後漢政府の許可が下りず、河東郡に留まった。
①太原
②河内県諸郡
189 7 7 董太后が何進によって河間(現在の中国河北省滄州市)にて暗殺される。
189 9 蹇碩と通じていた趙忠を始めとする十常侍が何進に寝返り、何に蹇を殺害させる。
189 9 22 予てから袁紹は何進に対して宮中に軽々しく入るべきではないと忠告していたが、此の日何進は何皇后の居住する長楽宮に、宦官を皆殺しにする事の許可を取りに行った。此れが初めてではなく、以前にも董卓を呼び寄せ、兵を入れて宦官を皆殺しにする事に関し、何皇后の同意を得ようとしたが、何皇后は認めなかった。何進が長楽宮に居るという情報を掴んだ十常侍の段珪・畢嵐は何進を包囲し、先制攻撃を仕掛けた。又、張譲が嘉徳殿の前で何進を罵倒し、段が何進を殺害した。段・畢等は偽勅を作成し事態の収拾を図り、張は宦官達の親族であった少府の許相と太尉の樊陵を利用し、洛陽の兵を握ろうとした。此の時命令を疑った尚書に対し、何進の首を見せて示した。 そして何進が普段から親しく接していた部下の以下4名等が蜂起し、宮中に乱入して何皇后を捕縛した。
①袁術
②董卓
③盧植
④呉匡
そして董が舞陽君を殺害し、袁紹も叔父の袁隗や盧植と共に、許相等を誘き出して斬り、何苗と協力して趙忠を捕らえ斬る等、多くの宦官を殺害した。
189 9 23 早朝、宦官の残党が長楽宮に入り、何皇后に前日の戦闘の報告を行う。宦官は大将軍の部下が反乱を企てたと偽り、以下の身柄を求めた。
①何皇后
②少帝弁
③献帝
④地方官
そして宮中から役人を誘拐し、天橋から北宮の德陽殿へ逃亡した。何皇后は盧植によって救出された。
189 9 24 張譲・段珪等が、追手に北宮に閉じ込められ、止む無く少帝弁・献帝等数十名を擁して谷門を潜り城外に脱出し、夜に小平津(現在の中国河南省洛陽市孟津区)に到着する。皇帝が使用する6つの玉玺を所持せず、公卿も付いて来なかったが、尚書である盧植と掾の閔貢が黄河の畔で張・段一行を迎えた。閔は、空腹で喉が渇いていた少帝弁の為に、羊を殺して与えた。閔は無秩序な行政を行った張を激しく叱責し、結果張は入水自殺した。閔は、少帝弁・献帝が宮殿に戻る為に蛍の光の揺らぎを追い数km歩くと、市民から荷車を渡され、3名はその荷車で洛舍まで行き、其処で休息した。
189 9 25 何進から少帝弁救出を命じられていた董卓が显陽苑に到着すると、遠くに見える宮殿が燃えている事に気付き急行する。少帝弁が北宮に帰還しようとしている事を知ると、董は北芒阪(現在の中国河南省洛陽市の北邙山)で少帝弁を迎えた。董は少帝弁に質問したが支離滅裂な返答であったので、献帝が代わりに回答した。少帝弁よりも献帝の方が聡明であると感じた董は、献帝を皇帝に据える事を思い付いた。其の後董と共に少帝弁・献帝は洛陽の皇宮に帰還し、元号が「昭寧」に改元される。董は自ら司空となり、大きな権限を得たが、周囲が納得していない事を悟り、献帝擁立へ向けて動き出す事となる。一方、盧植・呉匡の追撃を受け、身体窮まった段珪が入水自殺した。更に何苗が呉と董卓の弟の董旻に殺害され、何氏は大きく勢力を弱めることになった。
189 9 27 董卓が宮中会議で、第8代前漢皇帝昭帝・第10代前漢皇帝宣帝を補佐し政治を取り仕切った霍光を引き合いに出し、自らを霍に仕えた田延年に準え、廃立を提案し、盧植・袁紹以外が賛成し、献帝の即位が決定される。董は反対する者を処刑する積もりであった為、董は盧を殺害しようとするが、蔡邕の制止によって思い止まった。盧は持ち場を放棄して逃亡した。
189 9 28 尚書丁宮が崇徳殿の前殿で廃立の儀式を行い、太傅袁隗が皇帝の印である玉玺と、絹製の組み紐である印綬を外し、献帝に渡す。此れにより献帝が第14代後漢皇帝に即位した。此れを見ていた何皇后は涙を堪え、群臣も悲嘆に暮れたが、敢えて怒りの声は上げなかった。其の直後、董卓は丁に「嘗ての何皇后の董太后に対する振る舞いは、孝の道に叛くものだ」という主旨の策文を読み上げさせ、何皇后を洛陽に在る永安宮に幽閉した。
189 9 30 永安宮に幽閉されていた何皇后が、董卓の命令を受けた李儒によって毒殺される。董は宮廷での何皇后の葬儀を許可せず、献帝を洛陽城へ弔問に遣わせ、公卿は3日間白装束で公務を執り行った。何皇后が霊帝の陵に合葬されると、董は霊帝の陵の副葬品を奪取した。
189 10 楊彪が、太中大夫の官位を得て、董卓の後任として司空に就任する。
189 11 郭大が於夫羅と共に再度河東郡を攻撃する。此れに慌てた董卓は娘婿で中郎将の牛輔に鎮圧に当たらせたが失敗し、牛は敗走した。其の後白波黄巾は上党(現在の中国山西省長治市)を経由して渡河し、河南尹(現在の中国河南省)の大半を占領し、清豊(現在の中国河南省濮陽市)を拠点とした。
190 1 楊彪が、黄琬の後任として司徒に就任する。黄は太尉に転任となった。
190 2 献帝の即位後に丞相、後に太師に就任し、後漢政府の全権を掌握していた董卓の専横に反発した兗州刺史で東郡太守であった橋瑁が、太師・太傅・太保の三公回付の公文書を偽造し、打倒董卓の挙兵を呼び掛ける檄文を偽造する。又、臧洪が主君の広陵太守張超に「明府は先祖代々国恩を受けており、貴方達兄弟は何れも一方の大郡を掌握している。現在、王室はこの災難を経て乱臣賊子は処罰されていない。此れは正に天下義烈の士が報恩に尽くす時である。現在広陵郡は比較的安定しており、郡内は非常に裕福である。動員すれば少なくとも20,000名を集める事が出来、此れによって国賊を殺し、天下人に手本を示す事が出来、其れは最大の節義である」と進言した事で、張超は臧と共に陳留太守張邈に会いに行き、出兵について相談した。張邈は同意し、同盟を結んだ。此れに呼応し、以下の州郡牧守も蜂起する。
①渤海太守袁紹(盟主)
②後将軍袁術
③冀州牧韓馥
④豫州刺史孔伷
⑤兗州刺史劉岱
⑥河内太守王匡
⑦東郡太守橋瑁
⑧山陽太守袁遺
⑨済北国相鮑信
⑩陳国相許瑒
⑪潁川太守李旻
⑫西河太守崔鈞
董の軍隊は洛陽の富を略奪し、女性を強姦する等凡ゆる犯罪を犯し、其の後洛陽を焼き尽くしていた。牧守の領土は北東と南東に多かった為「関東連軍」と呼ばれた。同軍は、北・東・西の三方面から洛陽を包囲した。
190 2 董卓が、関東連軍の挙兵を受け、洛陽から長安への遷都を計画する。しかし、楊彪は盤庚の悪政と同じ轍を踏むとして反対した。又、黄琬も「楊の発言は検討の余地がある」とした。結果董は司徒であった楊を罷免し、黄も太尉を罷免された。
190 2 楊彪が、司徒を罷免された10日後に光禄大夫として復帰し大鴻臚に就任する。其の後、黄琬も光禄大夫として復帰し、司隷校尉に任命された。
190 3 6 関東連軍が少帝弁を擁立する事を恐れた董卓が、少帝弁を自らの館に入れ、郎中令であった李儒を遣わせ「此の薬を飲んで厄除けをして下さい」という主旨の発言をし、毒酒を少帝弁に献上する。少帝弁は「私は病気では無い。此れは私を殺そうとするものだ」と言い飲むのを拒んだが、李は無理矢理飲ませた。其の後少帝弁は正室唐姫・側室・従者達と宴会を行なった。其の席で少帝弁は唐姫に対し「天道に従う事は簡単であるというが私にはどうしてこんなに艱しいのであろう。万乗を棄てて藩王の身分に退いた。其れなのに逆臣に迫られて命を永らえる事は出来ぬ。此処に汝から去って幽冥の世界に逝こう」という主旨の発言を行い、唐姫は袖を上げて踊り、そして「天は崩れ、地は滅びました。私は皇帝の妻として私が貴方に従わなければ悲しむでしょう。でも私達に別れが来ました。生者と死者が一緒に歩む事は出来ません。嗚呼、悲しいです。私は心に悲しみを抱えています」と歌った。其の様子を見ていた周囲の人々は啜り泣いた。そして少帝弁は「君は皇妃である。吏民と再婚してはならぬ。自愛せよ。此れにて然らばだ」と言い残し死去した。
190 3 献帝が少帝弁を趙忠の墓に葬る。
190 3 10 董卓が献帝を連れて遷都の為、洛陽から長安へ向けて出発する。董は宮殿に火を放ち、人民を略奪し、洛陽の周囲200里を荒廃させていた。其の後王允が司徒に任命された。王は表向きは董に付いていたが、裏では献帝を中心に据える事を考え、宮廷の役人を味方に付けていた。関東連軍は董率いる梁州の精鋭部隊の戦力を恐れ、洛陽の西に進む事が出来ず、全軍を酸棗(現在の中国河南省新郷市)に駐留させた。
190 4 董卓征伐に消極的で酒宴ばかりしていた関東連軍に業を煮やし、以下6名が成皋県(現在の中国河南省鄭州市滎陽市)攻略を意図し、酸棗から出陣する。
①曹操
②曹操の従弟曹洪
③鮑信
④鮑信の弟鮑韜
⑤張邈
⑥張の部下衛茲
汴水(現在の中国河南省鄭州市滎陽市)にて、董の命で豫州に出撃していた徐栄と遭遇し戦闘となったが、徐の軍に圧倒され、衛・鮑韜が戦死し、曹操も流れ矢に当たり負傷し、鮑信も負傷、大敗した。曹操は曹洪に救助され、酸棗に引き返した。曹操が酸棗は攻略されにくいと考えた為である。
190 4 26 献帝を連れていた董卓が長安に到着し、遷都が完了する。
190 8 孫堅が、南陽太守張咨に食糧を供給する様求める書簡を送った上で、牛や酒を携え張の下を訪れる。此の時既に袁術が孫の代理中郎将就任を奏請していた。張は部下に孫をどの様に扱うべきか尋ねた所「孫は隣の郡の太守にすぎず、私達の食糧供給を受ける権利は無い」と言った。
190 8 孫堅は張咨を訪ねた翌日、宴会を開き張を招く。すっかり酔っ払った頃、孫の主簿が入ってきて「以前張に書簡を送ったが、道路の整備が終わっておらず、軍の金銭・食糧も足りていないので、張を捕らえて主簿に引き渡して尋問して下さい」という主旨の発言を行う。張は劣勢であると見て其の場を立ち去ろうとしたが、兵に包囲されており逃げ場が無かった。暫くすると再度主簿が入って来て「張は義兵を止めたので、賊を討ち、軍法に従って処罰して下さい」と言うと、孫は部下に張を軍門に押し出して斬首させた。南陽軍の役人は大きな衝撃を受け、以降孫の軍は欲しい物は何でも与えられる様になった。其の後孫は、魯陽(現在の中国河南省平頂山市魯山県)へ行き袁術と面会した。袁と孫は手を組む事となり、袁は孫に破虜将軍代行と豫州刺史を兼任させる事にした。孫は魯陽に留まり、兵を休養させ、董卓征伐の為の進軍準備を行なった。
191 1 孫堅が董卓征伐の為、進軍しようとする。其処で部下で長史の公仇称を派遣し兵糧を催促すると言い、魯陽城の東門の外に属官を集め、天幕を張り酒を飲んで公を見送った。董は孫堅が挙兵した事を聞き付け、東郡太守胡軫を魯陽に派遣した。胡の先遣騎兵は酒宴の最中であった孫を襲撃した。孫は部隊に陣容整備を命じ、兵に陣地を守り動かないように命じつつ、酒を飲み談笑していた。胡の騎馬隊が数を増すと、孫はゆっくりと席を立ち城内に兵を誘導した。そして兵達に「私が直ぐに立ち上がらなかったのは、恐れているという話を諸君の耳に入れない為だ」と言った。胡は孫の部隊の整然さ・規律・闘争心を見て戦意を失い、敗走した。孫は戦わずして勝利した。
191 1 王匡は、韓浩に兵を率いさせ、孟津(河内郡河陽県、現在の中国河南省孟県)に駐屯させていた。又、泰山(現在の中国山東省泰安市)の兵を河陽津に派遣していた。董卓の陽動作戦により、王の軍は平陰県(現在の中国山東省済南市)から川を渡ってくるものと思い込み、川岸を守備していたが、小平津(現在の中国河南省洛陽市孟津区)経由で川を渡り、後方から襲撃し、王の軍はほぼ壊滅した。王は自軍がほぼ全滅した事を知ると、故郷の泰山へ帰り、兵を募った。又、陳留郡(現在の中国河南省開封市)の張邈と接触し、盟約を結ぶ事を検討した。
191 2 以下の人間が劉虞を皇帝に据える事を計画する。献帝はまだ若く、董卓の支配下にあり、長安という離れた所で要塞で隔てられており、生死が分からない。劉虞は宗室の中で最も賢明であり、劉を皇帝に据え、サポートする体制は整っているとした。
①袁紹
②韓馥
③その他関東連軍諸将
曹操は「我々が挙兵し、遠近から人々が呼応したのは、我々の行動が正義であるからだ。今の皇帝は幼く、奸臣に支配されているが、劉賀の様な亡国を招く過失は無い。では誰を擁立すれば天下は納得するだろうか。私は北に劉虞を迎え、西の皇帝を奉ります」という主旨の発言をした。袁紹と韓は袁術に対し「皇帝は霊帝の息子では無い。周勃や灌嬰が若君を退けて後任の皇帝を迎えたという先例に倣い大司馬である劉虞を皇帝として尊ぶつもりだ」という主旨の書簡を送るが袁術は拒否した。劉虞本人も断固として拒否した。其処で韓達は劉虞を尚書とし、制度に基づいて官職を与える方法を採ろうとしたが、劉虞は此れも拒否した。
191 3 徐栄が梁県(現在の中国河南省汝州市)にて孫堅の軍を撃破する。結果、李旻と張安が捕縛され、洛陽の畢圭苑に連行された。其の後董卓によって李と張は煮殺された。孫は十数名の騎兵と共に脱出し、敗走した。孫は、情勢が緊迫してきたので、普段から着用していた赤頭巾を脱ぎ、部下の祖茂に被せ、追兵を引く様指示した。追兵は祖を孫と勘違いし、続々と追い掛けて来た。結果、指示通りに追兵を引き離す事に成功し、孫を小道から脱出させた。しかし、其の後に祖は包囲されたが、一計を案じ、墓の前の焼柱に赤頭巾を被せ、自らは叢の中に伏して動かなかった。徐の軍は遠くから赤頭巾を見つけ、孫が居ると考え、幾重にも包囲し、接近するも焼柱である事に気付くと撤退した。
191 3 孫堅が落伍者を集め、太谷陽人(現在の中国山西省呂梁市臨県)を占領し、軍の立て直しを行う。孫が太谷陽人に入った事を聞いた董卓は、以下2名を任命し、5,000名の歩騎で孫の軍を攻撃させた。
①胡軫(大督護)
②呂布(騎督)
しかし、胡は傲慢且つ短気で、部下の信頼も薄く、呂との折り合いも悪かった。胡は「今斯うして軍を進めているが、鯔の詰まり、青綬を帯びる太守を一人斬れば静かになるのだ」と言い、呂以下の諸将は不快に感じた。胡率いる軍が陽人城から数十里離れた広城に到着した。夜の遅い時間であり、疲労が溜まっていた為、休息を取る必要があったが、呂以下の諸将は胡を嫌っており、作戦を成功させたくなかった。其処で呂達は「陽人城中の敵兵は逃げてしまった。早く追撃しないとチャンスが無い」と言って胡に出撃させる様誘導した。胡が軍を率いて陽人城に到着したが、守りが堅く、奇襲が成功する見込みは無かった。又、兵達は飢えと喉の渇きにより士気が低下しており、武装を解いて休んでいた。其処で呂は軍の中に「孫が将兵を率いて夜襲を仕掛けてくる」とデマを流し、内部は戦わずして混乱し、兵達は鎧・馬・鞍を捨てて逃げ出した。孫は此れに乗じて胡の軍を撃破し、董の帳下の都督であった華雄を斬首した。孫は此の戦により名声を上げた。袁術は、此の孫の勝利を聞いた人間から「孫が洛陽を占領し、勢力を伸ばせば、抑える事は難しくなる」と進言を受け、孫の勢力が大きくなり過ぎる事を恐れ、食糧を送らなかった。孫は100里余り離れた魯陽に一夜で駆け戻り「私が我が身を投げ出すのは、上は国家の為に、下は袁の家門の仇を報じる為です。其れなのに貴方は陰口を信じて、私を疑うのですか?」と、袁を激しく責めた。袁は恥入り、直ぐに孫に食糧を手配し、孫は前線に戻った。
191 孫堅率いる軍が洛陽に攻め入り、函谷関(現在の中国河南省三門峡市霊宝市)にて兵力を分け、守備に当たらせる。
191 3 24 董卓が、自らが朝廷に命じ光禄勲とした宣璠に持節させ、自らを太師として拝させる。各劉姓諸侯王よりも高い地位であるとした。
191 董卓が李傕を、孫堅に対して講和を求める為の使者に任命し派遣するが、孫は此れを拒否する。
191 4 董卓が関中(現在の中国陕西省渭水)に入る。董は朱儁を洛陽に残し、守備に当たらせた。
191 5 董卓が長安に入る。長安城に入城する際、董は故意に御史中丞であった皇甫嵩を跪いて迎え、恥辱の目的を達成する様命じた。
191 5 朱儁が、山東の諸将と共謀し、内応しようとする。朱は董卓に襲撃される事を恐れ、官職を捨て、荊州に逃亡した。此れを受け、董は弘農(現在の中国河南省)の楊懿を河南尹に任命し、洛陽を守備させた。此れを聞いた朱は洛陽に進軍し、楊は逃亡した。朱は一帯が破壊され、守備が出来ないと判断し、中牟(現在の中国河南省鄭州市)に駐屯した。其の後朱は、義兵を組織し、董征伐の旗を掲げた。
191 5 董卓が、朱儁の挙兵を受け、牛輔に鎮圧に当たらせる。牛は以下の人間と共に陝県を南下し、中牟にて朱を破った。
①李傕
②郭汜
③張済
191 劉焉が張魯を司馬に任命する。
191 劉焉が張魯と張修を遣わせ、張修が漢中太守蘇固を殺害する。しかし趙嵩と陳調が敵を打った。
191 孫堅が袁術から以下の主旨の書簡を受け取る。袁術は馬千頭を譲って欲しいと頼んだが断られ、劉表にも兵糧の支給を断られていた。
「先頃劉表が貴方の行く手を遮ったのは、我が兄袁紹の謀略です。そして今、袁紹は劉表と結んで貴方の領土を狙っています。 孫殿は速やかに劉表を討つべきです。私は貴方の為に袁紹を討ちましょう」
袁術から華南の袁紹の勢力を排除する様促された孫は、荊州に入った。
191 公孫瓚は袁術を支持し、劉表は袁紹を支持した。
191 11 5 以前から張温は衛尉の身でありながら、董卓とは距離を置いており、董は張を恨んでいた。董は、張が袁術と共に姦通したと讒言し、此の日長安にて鞭で打ち殺させた。董は死んだ張の首を刎ね、酒宴で其の首級を披露した。
192 孫堅が死去し、以下4名が呉景に身を寄せる。
①呉の甥
②孫堅の長男孫策
③呂範
④孫河
192 10 李傕が李儒を侍中に推挙する。しかし献帝は拒否した。
224 パルティアの首都クテシフォン(現在のイラク)がササン朝ペルシアの侵攻により滅亡する。
226 パルティアが滅亡する。初代ササン朝ペルシアのシャー(王)に即位する。ゾロアスター教を国教とした。
238 卑弥呼が魏に使いを送り、第2代魏皇帝明皇帝から親魏倭王の金印が与えられる。
247 卑弥呼死去。
250 呉の天文学者・数学者の王蕃が円周率に関し以下の式を用い1桁の精度を得る。
π= 142 45
=3.15555555556
263 魏の数学者劉徽が円周率に関し、正192角形を用いて、以下の式から2桁の精度を得る。
π= 157 50
=3.14
277 2 26 マニ教の開祖のマニが獄死する。
301 アルメニア王国でキリスト教が国教化される。
303 2 24 ローマ帝国副帝ガレリウスの布告により、キリスト教徒の迫害が始まる。
305 キリスト教に迫害を加えたローマ帝国皇帝ディオクレティアヌスが退位する。
311 ローマ帝国東方正帝となったガレリウスは、キリスト教徒に対する弾圧を止め、寛容令を発した。
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