西暦1,940年は、731部隊が中国各地でペスト菌を散布し、アーサー・マッカラムが挑発行動8項目覚書を作成した年である。6月4日、731部隊が、農安(現在の中国吉林省長春市)にて、5gのペストに感染した蚤(ケオプスネズミノミ)を地上で散布する。1次感染による死者は八名、2次感染による死者は六百七名であった。同日から7日にかけては農安-大賚間にて10gの同じ蚤を地上で散布し、1次感染による死者は十二名、2次感染による死者は二千四百二十四名に上った。6月17日には農安医院の裏に住む者一名がペストにより死亡し、6月30日には其の者を含む急性疾患で死亡した数名を診察した農安医院の医師がペストを発病、7月2日に死亡した。731部隊のペスト班の責任者であった高橋正彦が其の医師の腺腫からペスト菌を分離し、現地のペスト菌を保有した鼠の移動を調査している。7月12日には満洲国民生部衛生保健司が、農安でのペスト流行を受け、新京(現在の中国吉林省長春市)から防疫班を派遣した。防疫班は翌13日に農安に到着し、五ヶ所の大隔離区と十数ヶ所の小隔離区に区分し、封鎖を実行する。7月15日には高橋正彦が、ペスト患者の腺腫からペスト菌を分離した。8月14日時点で、農安のペストによる死者は百二十名を超えていた。9月には731部隊と南京栄1644部隊が、筧橋の中国国民党中央航空学校を接収する。以降浙江省への細菌攻撃の拠点となった。9月23日には新京で初めてペスト患者が発生し、10月1日には満洲国警務機関・満洲国衛生機関・満洲国軍・満洲鉄道・満洲国赤十字社が防疫会議を開き、防疫本部を設置し、患者が集中していた南広場・東3条通・曙町・日本橋通の三角地域の交通を遮断し、同地の消毒と鼠・蚤の駆除を試みたが、失敗した。10月4日には731部隊が、衢県(現在の中国浙江省衢州市)にて、8,000gのペストに感染した蚤を空中から穀物と共に散布する。1次感染による死者は二百十九名、2次感染による死者は九千六十名であった。穀物を食べに来た鼠に蚤が集り、鼠がペストに感染、其処から人間に広がっていくという機序であった。10月7日には731部隊が、新京に到着して「関東軍臨時ペスト防疫隊」と名乗り、ペスト流行を阻止すると宣言する。10月10日には防疫本部を廃止し、本部長を石井四郎とした「関東軍臨時ペスト防疫隊本部」を国防会館に設置した。陣容は、731部隊員と数ヶ所の陸軍病院から派遣された軍医・衛生将校が六十名、衛生下士官が五十七名、衛生兵が百六十名、別働隊が四百五十二名であった。別働隊は、ペスト患者や、ペストの疑いが有る者を、伝染病棟である新京千早医院や寛城子に在る臨時隔離所に収容し、ペスト菌検査を行った。更に、病理解剖隊による解剖学的検査・病理組織学的検査が行われている。又、連日石井の主宰で、国防会館にて防疫会議が開かれ、関東軍参謀部・関東憲兵隊司令部・新京憲兵隊・満洲国総務局・新京市・警察・満洲国協和会・満洲国赤十字社・南満洲鉄道新京支社・新京駐屯軍等が参加し、軍官民が三位一体となって防疫態勢を敷いた。10月19日には731部隊が、新京でのペスト流行の発生源を農安であると捉え、千数百名の「関東軍臨時防疫隊農安派遣隊」を新京から農安へ派遣する。又、第12代関東軍参謀長飯村穣が、南満洲鉄道総局に指示し、防疫隊にトラック十五台と大型乗用車十台を提供した。派遣隊の目的は、ペスト菌株の収集とペストの発生と伝播の機序の解析であった。派遣隊は10月20日に農安に到着したが、此の時既に、農安の人口三万三千名の内一万一千名が逃亡し、二百六十五名がペストを発病していた。10月27日には731部隊が、新京のペスト流行が終息していないにも拘らず、新京からの撤退準備を宣言する。同日、731部隊は寧波(現在の中国浙江省)にて、2,000gのペストに感染した蚤を空中から、小麦の粒と共に、6時47分と14時20分の二回散布した。1次感染による死者は百四名、2次感染による死者は千四百五十名であった。寧波では10月29日に最初のペスト患者が、10月31日に最初の死者が発生し、11月2日に防疫措置が執られ流行地区が封鎖され、11月4日には寧波衛生院が検査によりペスト患者を確認、11月6日には臨時防疫所とペスト流行地区内の隔離病院が設置された。11月30日の夜には寧波のペスト流行地区内の全家屋百十五戸が焼き払われ、12月2日に流行が終息した。死者は百九名であった。11月7日には731部隊が新京からの撤退を決定する。11月13日には新京でのペスト流行が終息した。9月23日に初めてペスト患者が発生してから累計で二十八名のペスト患者が発生している。731部隊は、新京でペストに感染した者七十八名の肺・肝臓・腎臓等の臓器を取り出し、731部隊の本部へ直接持ち帰ったり、シャーレの培地に塗り、満洲国立衛生技術廠で培養してから、731部隊の本部へ送られる等した。11月30日には関東軍臨時防疫隊農安派遣隊が、農安でのペスト流行が終息していないにも拘らず、農安から撤退する。最終的に、ペストによる死者四十八名の死体は解剖に回された。衢県では、10月21日に大量の死んだ鼠が発見され、11月12日にペストが流行し始め、11月20日に衢県衛生院で腺ペストの診断が下った患者が発生、11月22日には「ペスト防疫委員会」が設置され、ペストが流行している地区が警官によって封鎖された。しかし、後に日本軍の空襲により、封鎖地区からペスト患者が逃げ出し、住民も周辺の農村に疎開した為、ペストが近隣の農村にまで拡大している。12月7日時点で衢県のペスト患者は二十五名となり、二十四名が死亡した。12月22日からは三日間、衢県のペスト防疫委員会が、十戸67.266mを焼却している。11月27日から翌日にかけては、731部隊が、金華(現在の中国浙江省)にペスト生菌を含んだ顆粒を空中から散布した。顆粒を検査した所、グラム染色により陰性桿菌が発見され、ペスト菌の疑いが持ち上がったが、生菌であった為、地上に落下するまでにペスト菌が死滅する為、ペストは流行しなかった。11月29日には浙江省衛生試験所の所員が金華に到着し、11月30日には衢県で防疫に協力していた浙江省衛生所所長が金華に到着、顆粒を持ち帰って培養した所、繁殖能力を失ったペスト菌が確認された。12月13日には731部隊が散布したペスト菌によるペスト流行が終息する。此の時点でペスト患者は、判明しているだけで死亡が二百九十八名、治癒が五十四名、入院継続が二名であった。戦争・外交では、6月14日にドイツ軍がパリに無血入城し、フランス第三共和政が崩壊する。10月7日にはアメリカ海軍情報部極東課長アーサー・マッカラムが、日本に先制攻撃をさせる様仕向ける為に、挑発行動8項目覚書を作成した。太平洋のイギリス軍基地、特にシンガポールの使用についてのイギリスとの協定締結、オランダ領東インド内の基地施設の使用及び補給物資の取得に関するオランダとの協定締結、中国の蒋介石政権への可能なあらゆる援助の提供、遠距離航行能力を有する重巡洋艦の東洋・フィリピンまたはシンガポールへの派遣、潜水戦隊の東洋派遣、太平洋のハワイ諸島にいるアメリカ主力艦隊の維持、日本の不当な経済的要求、特に石油に対する要求をオランダが拒否する様主張する事、イギリスが日本に対して押しつける通商禁止と併せて行われる日本との全面的な通商禁止が其の内容であった。12月6日には戦争に向けた世論形成、プロパガンダと思想取締の強化を目的に、内閣直属の情報機関である「情報局」が設置される。内閣情報部と外務省情報部、陸軍省情報部、海軍省軍事普及部、内務省警保局検閲課、逓信省電務局電務課に分属されていた情報事務を統一化する事を目指して設置された。国内の情報収集、戦時下における言論・出版・文化の検閲及び統制、マスコミの統合や文化人の組織化、および銃後の国民に対するプロパガンダを内務省、陸軍省、海軍省、大本営陸軍部、海軍部等と並行して行っている。3月20日には南京に汪兆銘政権が樹立された。アヘン・特務機関を巡っては、1月に満洲国民生部の外局として「禁煙総局」が設置される。表向きはアヘンを禁止し、厚生部がアヘン中毒者の治療・救済を行なったが、裏では、専売制を通じたアヘンの販売を継続した。1月28日には阪田誠盛を長とし、諜報活動や特殊工作を行う陸軍の特務機関として「松機関」が設立される。中国現地の情報収集・アヘンの中国国内での密売・「杉工作」と命名された登戸研究所で印刷された偽札の中国国内への流通工作に主に従事した。里見機関は松機関から偽札の提供を受けている。4月には東條英機の一番子分で里見甫の親友の塩沢清宣が、興亜院華北連絡部次長兼華北連絡部長官心得に就任した。興亜院華北連絡部は、上海にもアヘンを流していた為、塩沢は巨利を得ている。塩沢は、日本陸軍機を使って、立川陸軍飛行場経由で東條に現金で資金提供していた。児玉誉士夫は、本年から翌年にかけて昭和通商の依頼でヘロインの密売を二度行う。其のヘロインは中国経由で南シナ海に持ち込まれ、タングステンと物々交換された。4月頃には日本軍が銀洲湖を封鎖する。其れを受けて趙其休は国民党軍の司令官と連絡を取りつつ、汪兆銘軍へ寝返り、マカオの海軍の物資購入部門と、布類・石油を輸入し桐油・カシア油・豚の毛・食糧を輸出する密貿易を始めた。密貿易に用いた船は日本軍の保護下にあり、海軍から証明書が発行されている。又、趙は古兜山の麓の、国民党の政府機関が採掘していたタングステン鉱山からタングステンを密かに買い取っており、日本軍の侵攻により此のタングステン鉱山が閉鎖されると、付近の地主や有力者が勝手に掘り始め、其れを趙達が輸出した。10月26日と12月には三井物産が、最上川丸と加茂川丸で輸送されたペルシャ産アヘン五百箱を其々中支阿片局へ輸入している。科学では、12月14日にグレン・シーボーグ等がアメリカのカリフォルニア州バークレーで、プルトニウムを発見する。又、スイスの製薬会社であるガイギー社と同社の米国支社が、有機塩素系の殺虫剤・農薬である「DDT」に関し、殺虫剤として特許を取得した。ヴィンセント・シェーファーは、薄いプラスチックコーティングを使用して個々の雪の結晶のレプリカを作成する方法を開発し、注目を浴びている。シェーファーがアーヴィング・ラングミュアの助手を務めていた期間、ラングミュアは、シェーファー自身の研究を続ける事を許可し、奨励していた。7月にはヘルベルト・ヴァークナーが、装甲の薄い軍艦や商船を攻撃する為の滑空爆弾の試作を開始している。優生学では、カーネギー研究所が、コールド・スプリング・ハーバー研究所の優生学プログラムから資金を引き上げる。此の頃、ドイツでのナチズムの台頭により、多くの科学者が優生学への支持を止めたが、チャールズ・ダベンポートは、優生学思想を堅持した。12月1日にはマヌエル・アビラ・カマチョが第45代メキシコ大統領に就任する。カマチョが農業に関して掲げた第一の目標は、国家の工業化と経済成長に資する事であった。同年9月4日迄第11代農務長官を務め、メキシコ政府と共に農業開発に取り組む様ロックフェラー財団を説得していたヘンリー・A・ウォレスは、カマチョの掲げた目標が、アメリカの経済・軍事に有益であると考えた。ロックフェラー財団は、ミネソタ大学植物病理学助教授エルビン・スタックマンを含む三名の農学者に連絡を取り、ロックフェラー財団の指揮の下、土壌開発・トウモロコシと小麦の生産・植物の病理学に重点を置く特別研究局を設置し、アメリカとメキシコの科学者を配置する事を提案した。野球では、9月15日に日本野球連盟理事会が、戦争の為、球団名を日本語化する決定を下す。此れを受けて9月25日に大阪タイガースが「阪神軍」に、10月6日にイーグルスが「黒鷲軍」に、10月17日に東京セネタースが「翼軍」に改称した。其の他、カトリックであった山本五十六が第260代ローマ教皇ピウス12世に謁見する。5月にはベルナルディーノ・ノガーラが、イタリアの保険会社ラフォンディアリアの株式を購入した。間もなくベニート・ムッソリーニがイギリスの保険会社ノリッジユニオンのイタリアの資産を国有化し、ラフォンディアリアに引き渡している。4月28日には同年エンツォ・フェラーリが設計・製造した「アウト・アヴィオ・コストルツィオーニ815」が、自動車レースであるミッレミリアに参戦した。此処でもフェラーリの名は名乗れなかった。フェッルッチオ・ランボルギーニは、イタリア空軍に召集され、ロドス島(現在のギリシャ)の駐屯地で整備兵として従事し始める。後にランボルギーニは、車両整備部門の監督者となった。ベルコートは、アルバ・ヴァンダービルトが改装した儘の状態で、起業家ジョージ・ウォーターマンに千ドルで売却された。ウォーターマンは、ベルコートをアンティーク自動車博物館にすることを構想していた。売却の唯一の条件は、ウォーターマンが可能な限り、リチャード・モリス・ハントのオリジナルの設計に近い形で城を修復する事であった。ウォーターマンは3階の屋根の修復と中庭を見下ろす増築部分の撤去を担当したが、最終的に、ゾーニングによりアンティーク自動車博物館の建設が許可されない事を知った。

以下の暦は全て西暦に変換しています。 日本の旧暦 / 中国の旧暦 / ユダヤ暦 / ヒジュラ暦 / ソビエト連邦暦 / フランス革命暦

≈は「頃」を意味しています。

皇室献上品 高級トイレットペーパー 皇室献上品 高級トイレットペーパー
年月日 出来事
1,940 カトリックであった山本五十六が第260代ローマ教皇ピウス12世に謁見する。
1,940 スイスの製薬会社であるガイギー社と同社の米国支社が、有機塩素系の殺虫剤・農薬である「DDT」に関し、殺虫剤として特許を取得する。
1,940 児玉誉士夫が、本年から翌年にかけて昭和通商の依頼でヘロインの密売を2度行う。其のヘロインは中国経由で南シナ海に持ち込まれ、タングステンと物々交換された。
1,940 カーネギー研究所が、コールド・スプリング・ハーバー研究所の優生学プログラムから資金を引き上げる。この頃、ドイツでのナチズムの台頭により、多くの科学者が優生学への支持を止めたが、チャールズ・ダベンポートは、優生学思想を堅持した。
1,940 ヴィンセント・シェーファーが、薄いプラスチックコーティングを使用して個々の雪の結晶のレプリカを作成する方法の開発し、注目を浴びる。シェーファーがアーヴィング・ラングミュアの助手を務めていた期間、ラングミュアは、シェーファー自身の研究を続ける事を許可し、奨励していた。
1,940 ベルコートが、アルバ・ヴァンダービルトが改装した儘の状態で、起業家ジョージ・ウォーターマンに1,000ドルで売却される。ウォーターマンは、ベルコートをアンティーク自動車博物館にすることを構想していた。売却の唯一の条件は、ウォーターマンが可能な限り、リチャード・モリス・ハントのオリジナルの設計に近い形で城を修復する事であった。ウォーターマンは3階の屋根の修復と中庭を見下ろす増築部分の撤去を担当した。しかし最終的に、ウォーターマンは、ゾーニングによりアンティーク自動車博物館の建設が許可されない事を知った。
1,940 フェッルッチオ・ランボルギーニが、イタリア空軍に召集され、ロドス島(現在のギリシャ)の駐屯地で整備兵として従事し始める。後にランボルギーニは、車両整備部門の監督者となった。
1,940 1 満洲国民生部の外局として「禁煙総局」が設置される。表向きはアヘンを禁止し、厚生部がアヘン中毒者の治療・救済を行なった。しかし裏では、専売制を通じたアヘンの販売を継続した。
1,940 1 28 阪田誠盛を長とし、諜報活動や特殊工作を行う陸軍の特務機関として「松機関」が設立される。主に以下に従事した。
①中国現地の情報収集
②アヘンの中国国内での密売
③「杉工作」と命名された登戸研究所(現在の神奈川県川崎市多摩区東三田)で印刷された偽札の中国国内への流通工作
里見機関は松機関から偽札の提供を受けていた。
1,940 3 20 南京に汪兆銘政権が樹立される。
1,940 4 日本軍が銀洲湖(現在の中国広東省江門市新会区)を封鎖する。其れを受けて趙其休は国民党軍の司令官と連絡を取りつつ、汪兆銘軍へ寝返り、マカオの海軍の物資購入部門と以下品目等の密貿易を始める。密貿易に用いた船は日本軍の保護下にあり、海軍から証明書が発行された。又、趙は古兜山(現在の中国広東省江門市新会区)の麓の、国民党の政府機関が採掘していたタングステン鉱山からタングステンを密かに買い取っており、日本軍の侵攻により此のタングステン鉱山が閉鎖されると、付近の地主や有力者が勝手に掘り始め、其れを趙達が輸出した。
輸入
①布類
②石油
輸出
①桐油
②カシア油
③豚の毛
④食糧
1,940 4 東條英機の一番子分で里見甫の親友の塩沢清宣が、興亜院華北連絡部次長兼華北連絡部長官心得に就任する。興亜院華北連絡部は、上海にもアヘンを流していた為、塩沢は巨利を得た。塩沢は、日本陸軍機を使って、立川陸軍飛行場経由で東條に現金で資金提供していた。
1,940 4 28 同年エンツォ・フェラーリが設計・製造した「アウト・アヴィオ・コストルツィオーニ815」が、自動車レースであるミッレミリアに参戦する。此処でもフェラーリの名は名乗れなかった。
1,940 5 ベルナルディーノ・ノガーラが、イタリアの保険会社ラフォンディアリアの株式を購入する。間もなくベニート・ムッソリーニがイギリスの保険会社ノリッジユニオンのイタリアの資産を国有化し、ラフォンディアリアに引き渡した。
1,940 6 4 731部隊が、農安(現在の中国吉林省長春市)にて、5gのペストに感染した蚤(ケオプスネズミノミ)を地上で散布する。結果、1次感染による死者は8名、2次感染による死者は607名であった。
1,940 6 4 731部隊が、此の日から同月7日にかけて、農安-大賚(現在の中国吉林省白城市大安市)間にて、10gのペストに感染した蚤(ケオプスネズミノミ)を地上で散布する。結果、1次感染による死者は12名、2次感染による死者は2,424名であった。
1,940 6 14 ドイツ軍がパリがに無血入城し、フランス第三共和政が崩壊する。
1,940 6 17 農安医院の裏に住む者1名が、ペストにより死亡する。
1,940 6 30 西暦1,940年6月17日に死亡した農安医院の裏に住む者を含む、急性疾患で死亡した数名を診察した農安医院の医師がペストを発病する。
1,940 7 ヘルベルト・ヴァークナーが、装甲の薄い軍艦や商船を攻撃する為の滑空爆弾の試作を開始する。
1,940 7 2 西暦1,940年6月30日にペストを発病した農安医院の医師が死亡する。731部隊のペスト班の責任者であった高橋正彦がその医師の腺腫からペスト菌を分離した。又、高橋は、現地のペスト菌を保有した鼠の移動を調査した。
1,940 7 12 満洲国民生部衛生保健司が、農安でのペスト流行を受け、新京(現在の中国吉林省長春市)から防疫班を派遣する。
1,940 7 13 前日に満洲国民生部衛生保健司が新京から派遣した防疫班が農安に到着し、5ヶ所の大隔離区と十数ヶ所の小隔離区に区分し、封鎖を実行する。
1,940 7 15 高橋正彦が、ペスト患者の腺腫からペスト菌を分離する。
1,940 8 14 此の時点で、農安のペストによる死者は120名を超えていた。
1,940 9 以下2部隊が、筧橋(現在の中国浙江省杭州市上城区)の中国国民党中央航空学校を接収する。以降浙江省への細菌攻撃の拠点となった。
①731部隊
②南京栄1644部隊
1,940 9 15 日本野球連盟理事会が、戦争の為、球団名を日本語化する決定を下す。
1,940 9 23 新京で初めてペスト患者が発生する。
1,940 9 25 球団名を日本語化する決定が日本野球連盟理事会で為された事を受け、大阪タイガースが「阪神軍」に改称する。
1,940 10 1 新京でのペスト流行を防ぐ為、以下の機関が防疫会議を開く。
①満洲国警務機関
②満洲国衛生機関
③満洲国軍
④満洲鉄道
⑤満洲国赤十字社
防疫本部を設置し、患者が集中していた以下の三角地域の交通を遮断し、同地の消毒と鼠・蚤の駆除を試みたが、失敗した。
①南広場
②東3条通
③曙町
④日本橋通
1,940 10 4 731部隊が、衢県(現在の中国浙江省衢州市)にて、8,000gのペストに感染した蚤(ケオプスネズミノミ)を空中から穀物と共に散布する。結果、1次感染による死者は219名、2次感染による死者は9,060名であった。穀物を食べに来た鼠に蚤が集り、鼠がペストに感染、其処から人間に広がっていくという機序であった。
1,940 10 6 球団名を日本語化する決定が日本野球連盟理事会で為された事を受け、イーグルスが「黒鷲軍」に改称する。
1,940 10 7 アメリカ海軍情報部極東課長アーサー・マッカラムが、日本に先制攻撃をさせる様仕向ける為に、挑発行動8項目覚書を以下の内容で作成する。
①太平洋のイギリス軍基地、特にシンガポールの使用についてイギリスとの協定締結
②オランダ領東インド(現在のインドネシア)内の基地施設の使用及び補給物資の取得に関するオランダとの協定締結
③中国の蒋介石政権に可能な、あらゆる援助の提供
④遠距離航行能力を有する重巡洋艦1個戦隊を東洋、フィリピンまたはシンガポールへ派遣する
⑤潜水戦隊2隊の東洋派遣
⑥現在太平洋のハワイ諸島にいるアメリカ主力艦隊を維持する
⑦日本の不当な経済的要求、特に石油に対する要求をオランダが拒否する様主張する
⑧イギリスが日本に対して押しつける通商禁止と併せて行われる、日本との全面的な通商禁止
1,940 10 7 731部隊が、新京に到着して「関東軍臨時ペスト防疫隊」と名乗り、ペスト流行を阻止すると宣言する。
1,940 10 10 731部隊が防疫本部を廃止し、本部長を石井四郎とした「関東軍臨時ペスト防疫隊本部」を国防会館に設置する。陣容は以下の通り。
①731部隊員・数ヶ所の陸軍病院から派遣された軍医・衛生将校:60名
②衛生下士官:57名
③衛生兵:160名
④別働隊:452名
別働隊は、ペスト患者や、ペストの疑いが有る者を、伝染病棟である新京千早医院や寛城子に在る臨時隔離所に収容し、ペスト菌検査を行った。更に、病理解剖隊による解剖学的検査・病理組織学的検査が行われた。又、連日石井の主宰で、国防会館にて防疫会議が開かれ、主に以下の機関が参加し、軍官民が三位一体となって防疫態勢を敷いた。
①関東軍参謀部
②関東憲兵隊司令部
③新京憲兵隊
④満洲国総務局
⑤新京市
⑥警察
⑦満洲国協和会
⑧満洲国赤十字社
⑨南満洲鉄道新京支社
⑩新京駐屯軍
1,940 10 17 球団名を日本語化する決定が日本野球連盟理事会で為された事を受け、東京セネタースが「翼軍」に改称する。
1,940 10 19 731部隊が、新京でのペスト流行の発生源を農安であると捉え、千数百名の「関東軍臨時防疫隊農安派遣隊」を新京から農安へ派遣する。又、第12代関東軍参謀長飯村穣が、南満洲鉄道総局に指示し、防疫隊に以下を提供した。
①トラック15台
②大型乗用車10台
関東軍臨時防疫隊農安派遣隊の目的は以下であった。
①ペスト菌株の収集
②ペストの発生と伝播の機序の解析
1,940 10 20 関東軍臨時防疫隊農安派遣隊が農安に到着する。此の時既に、農安の人口33,000名の内11,000名が逃亡し、265名がペストを発病していた。
1,940 10 21 衢県にて大量の死んだ鼠が発見される。
1,940 10 26 三井物産が、最上川丸で輸送されたペルシャ産アヘン500箱を中支阿片局へ輸入する。
1,940 10 26 新京千早医院の解剖室や菌検査室が危険な状況となった為、此の日から馬疫研究所でも解剖が行われ始める。
1,940 10 27 731部隊が、新京のペスト流行が終息していないにも拘らず、新京からの撤退準備を宣言する。
1,940 10 27 731部隊が、寧波(現在の中国浙江省)にて、2,000gのペストに感染した蚤(ケオプスネズミノミ)を空中から、小麦の粒と共に、6:47と14:20の2回散布する。結果、1次感染による死者は104名、2次感染による死者は1,450名であった。
1,940 10 29 寧波にて最初のペスト患者が発生する。
1,940 10 31 寧波にて最初のペストによる死者が発生する。
1,940 11 2 寧波で防疫措置が執られ、流行地区が封鎖される。
1,940 11 4 寧波衛生院が、検査によりペスト患者を確認する。
1,940 11 6 寧波にて臨時防疫所が設置される。又、ペスト流行地区内に隔離病院も設置された。
1,940 11 7 731部隊が、新京からの撤退を決定する。
1,940 11 12 衢県にてペストが流行し始める。
1,940 11 13 新京でのペスト流行が終息する。西暦1,940年9月23日に初めてペスト患者が発生してから累計で28名のペスト患者が発生した。731部隊は、新京でペストに感染した者78名の肺・肝臓・腎臓等の臓器を取り出し、731部隊の本部へ直接持ち帰ったり、シャーレの培地に塗り、満洲国立衛生技術廠で培養してから、731部隊の本部へ送られる等した。
1,940 11 20 衢県衛生院で腺ペストの診断が下った患者が発生する。
1,940 11 22 衢県にて「ペスト防疫委員会」が設置され、ペストが流行している地区が警官によって封鎖される。しかし、後に日本軍の空襲により、封鎖地区からペスト患者が逃げ出し、住民も周辺の農村に疎開した為、ペストが近隣の農村にまで拡大した。
1,940 11 27 此の日から翌日にかけて、731部隊が、金華(現在の中国浙江省)にペスト生菌を含んだ顆粒を空中から散布する。顆粒を検査した所、グラム染色により陰性桿菌が発見され、ペスト菌の疑いが持ち上がった。生菌であった為、地上に落下するまでにペスト菌が死滅する為、ペストは流行しなかった。
1,940 11 29 浙江省衛生試験所の所員が金華に到着する。
1,940 11 30 関東軍臨時防疫隊農安派遣隊が、農安でのペスト流行が終息していないにも拘らず、農安から撤退する。最終的に、ペストによる死者48名の死体は解剖に回された。
1,940 11 30 夜、寧波のペスト流行地区内の全家屋115戸が焼き払われる。
1,940 11 30 衢県で防疫に協力していた浙江省衛生所所長が金華に到着する。顆粒を持ち帰って培養した所、繁殖能力を失ったペスト菌が確認された。
1,940 12 三井物産が、加茂川丸で輸送されたペルシャ産アヘン500箱を中支阿片局へ輸入する。
1,940 12 1 マヌエル・アビラ・カマチョが第45代メキシコ大統領に就任する。カマチョが農業に関して掲げた第一の目標は、国家の工業化と経済成長に資する事であった。同年9月4日迄第11代農務長官を務め、メキシコ政府と共に農業開発に取り組む様ロックフェラー財団を説得していたヘンリー・A・ウォレスは、カマチョの掲げた目標が、アメリカの経済・軍事に有益であると考えた。ロックフェラー財団は、ミネソタ大学植物病理学助教授エルビン・スタックマンを含む3名の農学者に連絡を取り、ロックフェラー財団の指揮の下、土壌開発・トウモロコシと小麦の生産・植物の病理学に重点を置く特別研究局を設置し、アメリカとメキシコの科学者を配置する事を提案した。
1,940 12 2 寧波のペスト流行が終息する。死者は109名であった。
1,940 12 6 戦争に向けた世論形成、プロパガンダと思想取締の強化を目的に、内閣直属の情報機関である「情報局」が設置される。内閣情報部と外務省情報部、陸軍省情報部、海軍省軍事普及部、内務省警保局検閲課、逓信省電務局電務課に分属されていた情報事務を統一化する事を目指して設置された。国内の情報収集、戦時下における言論・出版・文化の検閲及び統制、マスコミの統合や文化人の組織化、および銃後の国民に対するプロパガンダを内務省、陸軍省、海軍省、大本営陸軍部、海軍部等と並行して行った。
1,940 12 7 此の時点で衢県のペスト患者が25名となり、24名が死亡した。
1,940 12 13 731部隊が散布したペスト菌によるペスト流行が終息する。此の時点でペスト患者は、判明しているだけで以下の通りであった。
①死亡:298名
②治癒:54名
③入院継続:2名
1,940 12 14 グレン・シーボーグ等がアメリカのカリフォルニア州バークレーで、プルトニウムを発見する。
1,940 12 22 此の日から3日間、衢県のペスト防疫委員会が、10戸67.266mを焼却する。
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