西暦1910年は、寺内正毅と李完用が漢城で条約に調印し、韓国併合(日韓併合条約)によって大韓帝国の統治権が日本に譲渡された年である。フランスではガブリエル・シャネルがパリに帽子店シャネル・モードを開き、CHANELの歴史が始まった。ドイツではアウグスト・ホルヒ自動車工業社がアウディへと社名を変更した。アメリカではエイブラハム・フレクスナーがフレクスナー・レポートを発表して医学教育の大規模な再編を促し、チャールズ・ダベンポートはハリー・ラフリンとともにコールド・スプリング・ハーバーにERO(優生学記録局)を設立した。日本では鮎川義介が日産自動車の源流となる戸畑鋳物を設立し、豊田佐吉は渡米して織機産業を視察した。

以下の暦は全て西暦に変換しています。 日本の旧暦 / 中国の旧暦 / ユダヤ暦 / ヒジュラ暦 / ソビエト連邦暦 / フランス革命暦

≈は「頃」を意味しています。

皇室献上品 高級トイレットペーパー 皇室献上品 高級トイレットペーパー
年月日 出来事
1,910 ロックフェラー家がアメリカ政府に対し「ロックフェラー財団」の設立許可申請を行う。
1,910 本年から翌年にかけて、エドモン・バンジャマン・ド・ロスチャイルドが以下の石油会社2社の株式の大半を2,000,000ルーブルで取得する。
①ネフチ会社
②G・M・リャノゾフ&サンズ会社
1,910 ガブリエル・シャネルが、恋人のアーサー・カペルの資金提供を受け、パリのカンボン通りに帽子店「シャネル・モード」をオープンする。
1,910 エルメネジルド・ゼニアが、トリヴェロ(イタリアのビエッラ県)に所在する父アンジェロ・ゼニアの羊毛工場を継ぐ。
1,910 モンテフィオーレ慢性病患者ホームが、アメリカのニューヨーク州ニューヨーク市ブロンクス区に移転する。
1,910 1 4 エイブラハム・フレクスナーが「フレクスナー・レポート」を発表し、以下を訴えた。
①アメリカの医学部に対し、より高い入学・卒業基準を制定し、教育や研究において主流科学のプロトコルを厳格に遵守する。
②医療機関の改革と中央集権が必要である。
③科学研究に基づく医学以外は科学的妥当性が無く、病気の予防と治療の為のワクチン等の治療を行わない医学は藪医者同然である。
以下の分野を教えていた医学部は、此れ等のコースをカリキュラムから外すか、認定と資金援助の停止を言い渡された。一時は抵抗する学校も在ったが、最終的にはほとんどが報告書に倣い門戸を閉ざした。
❶自然療法(ホメオパシー・植物療法)
❷オステオパシー
❸漢蘭折衷
❹電磁波療法
❺光線療法
❻物理医学
④アメリカは医学部・医師が過剰であるので、155校から31校に医学部を減らし、訓練が不十分な医師を減らす。
フレクスナーはジョンズ・ホプキンス大学(アメリカのメリーランド州ボルチモア)を「小さいながらも理想的な医学部であり、イギリス・フランス・ドイツの医学教育の最良の特徴をアメリカの事情に合わせ、斬新な方法で体現している」とし、他の全ての医学部は同大学より劣っているとした。アメリカの医学部の多くは、フレクスナーの求めた水準に達しておらず、私立の医学部は閉鎖するか、既存の大学に編入する事を提言した。独立した医学部は学生側の金銭的負担を大きくせざるを得ない為である。後に半数近くの大学が統廃合を行った。歴史的に黒人の多い医学部がハワード大学(アメリカのワシントンD.C.)、メハリー医科大学(アメリカのテネシー州ナッシュビル)以外全て閉鎖された。フレクスナーは黒人医師は、黒人患者のみを治療し白人医師に従属すべきであると考えていた。アメリカの大学は入学者の減少の為、男性のみの入学者選抜プログラムに戻される事となった。西暦1,833年設立の男女共学のオバーリン大学(アメリカのオハイオ州)、西暦1,861年設立の女子大であるヴァッサー大学(アメリカのニューヨーク州ダッチェス郡ポキプシー)等、女性入学者を増やし始めたばかりであった。更には、電気療法の専門学校も閉鎖された。
⑤医学研修に入る為の前提条件を増やす。
フレクスナーは高校卒業資格と少なくとも2年間の基礎科学を中心とした大学での学習が必要だと考えていた。当時此れを満たしていたのは16/155校だけであった。しかし、西暦1,920年にはアメリカの医学部の92%が志願者に此れを課す様になった。又、医学教育の期間を4年とし、その内容も西暦1,905年にCMEが合意したものにすべきだと主張した。
⑥科学的な診療を行う医師を養成し、医学部教員を研究に従事させる。
⑦病院での臨床指導を医学部が管理できるようにする。
フレクスナーは既存の医学部教授達の反対にも拘らず、慈善事業以外の全ての診療を禁じられる臨床専門の教授を配置する事を長年に渡って追及した。
⑧医師免許に関する州の規制を強化する
此の当時、アメリカの医学部の多くは、少数の地元の医師が所有し非常勤で教える、大学に於ける組織内組織であり営利団体であった。医学部の学位は、通常2年間の勉強で授与され、実験や解剖は任意であった。州政府による医療従事者の規制は緩く、人体生理学の科学的理解に大きな差があった。
1,910 2 ポール・ウォーバーグが、アメリカの金融機関であるウェルズ・ファーゴ社の取締役に就任する。
1,910 3 14 豊田佐吉が、自身の発明した杼換準備装置の特許出願を行う。
1,910 3 14 豊田佐吉が、自身の発明した二挺杼転換装置の特許出願を行う。
1,910 3 28 豊田佐吉が、自身の発明した経糸停止装置の特許出願を行う。
1,910 3 29 豊田佐吉が、自身の発明した綻絖枠の特許出願を行う。
1,910 4 5 豊田式織機株式会社の臨時緊急重役会議にて、豊田佐吉が常務取締役を辞任する。豊田は、受注した織機の納期が近くても、改良すべき所に気が付くと、解体して始めからやり直させる等、製品の開発・改良を優先させ、営利を追求する会社の意に反する行動をとっていた為、谷口房蔵から辞任を勧告されていた。又、同社は長期間に渡る業績不振に陥っていた。此の豊田の辞任は、三井物産にとって想定外の出来事であった。
1,910 4 10 機械工学技師グスタフ・オットーが、アヴィアティック社の複葉機でパイロット免許を取得する。
1,910 4 25 アウグスト・ホルヒ自動車工業社が「アウディ自動車工業社」に社名変更する。
1,910 5 豊田佐吉が、三井物産大阪支店長藤野亀之助の勧めでアメリカへ渡る。目的は、織機の視察・比較研究、豊田式織機のアメリカに於ける特許取得と普及・休養であった。先ず、西海岸で広大な農園や高性能の蒸気機関車に触れ、大陸を横断し、東海岸では、高層建築、そして何より、街を走る自動車に驚かされた。又、ボストンを中心に、東海岸北部の織布工場を見学した。どの織機メーカーも、桁違いの工場の規模と立派な試験室を持っていた事に驚いたが、其処で使用されている織機に関しては、欠点も目に付き、豊田は、自分の開発した織機に自信を深めた。更に、高峰譲吉のニューヨークの自宅を度々訪ね、アミラーゼの一種であるジアスターゼを植物から抽出した「タカジアスターゼ」の創製や、廃棄される家畜の内臓物を用いてアドレナリンの抽出する研究での苦難を聞き、豊田は大いに勇気付けられた。高峰は豊田に「発明家たる者、其の発明が実用化されて社会的に有用な成果が得られる迄は、決して発明品から離れてはならない。其れが発明家の責任である」と助言した。豊田は過去に、自動杼換装置を装備した、無停止杼換式自動織機の製作と試験を人任せにした為に、鐘淵紡績が此の装置を広幅の織機に取り付けて性能試験を行った際、思う様な結果が出せなかった。其の時の反省と高峰の助言から、完全な営業的試験を行わなければ、発明の真価を世に問うてはならない」という信念が生まれた。其の後イギリスへ渡り、マンチェスター地方の織機製造や紡織産業を見学した。豊田は更に自身の発明した織機に自信を深め、気分を一新して、帰国の途に就いた。
1,910 6 25 鮎川義介が、井上馨の口利きによる以下からの資金提供により、福岡県遠賀郡戸畑町(現在の福岡県北九州市戸畑区)に、可鍛鋳鉄工場である「戸畑鋳物株式会社」を設立する。
①久原鉱業
②貝島太助
③藤田文
④三井物産
1,910 7 4 第二次日露協約が締結される。ジェイコブ・シフは、日本が満洲の特殊権益を守る為に結んだ協約は忘恩行為であるとして「日本が人類の敵であるロシア帝国と手を握るとは。酷く悔しい思いがする」と激怒した。しかしシフと高橋是清の関係は継続し、後に日本の中華民国進出に関し、中華民国が安定すると、シフは理解を示した。
1,910 7 8 豊田佐吉が、同年に自身の出願した杼換準備装置の特許(第18263号)を取得する。特許権者は豊田式織機株式会社であった。
1,910 8 1 東京府からの瓦斯局の払い下げにより、業平橋(現在の東京都墨田区業平)付近に「東京瓦斯電気株式会社」が設立される。ガスマントル・ペンダント等を取り扱った。
1,910 8 22 漢城で第7代陸軍大臣寺内正毅と初代大韓帝国第2期内閣総理大臣李完用が、大韓帝国の統治権を完全且つ永久に日本に譲渡する事等を規定した条約に調印する。
1,910 8 29 大韓帝国の統治権を日本に譲渡する条約が、裁可し公布される。
1,910 9 12 豊田佐吉が、同年に自身の出願した杼換準備装置の特許(第18548号)を取得する。特許権者は豊田式織機株式会社であった。
1,910 10 チャールズ・ダベンポートが、エドワード・ヘンリー・ハリマンの妻メアリー・ウィリアムソン・ハリマンの資金提供により、ロングアイランドのコールド・スプリング・ハーバー研究所に「ERO(優生学記録局)」を設立する。アメリカ育種家協会優生学部門の事務局長でもあったダベンポートが局長に就いた。ダベンポートは、ハリー・ラフリンにロングアイランドに移住してほしいと頼み、副局長に招いた。独自の建物・研究設備・専任職員を有する世界でも類を見ない優生学研究機関であった。ダベンポートはハリー・ラフリンと共に「劣悪人物の家系に関する研究」を行った。此れはアメリカの移民排斥に理論的根拠を与え、ナチスの優生思想にも影響を与えた。
1,910 10 8 豊田佐吉が、同年に自身の出願した経糸停止装置の特許(第18663号)を取得する。特許権者は豊田式織機株式会社であった。
1,910 12 12 以下2名が「オットー・アルベルティ航空機製造社」を、プッフハイム飛行場(現在のドイツのバイエルン州フュルステンフェルトブルック郡)にて商業登記する。
①グスタフ・オットー
②エンテ型航空機共同設計者ヘルベルト・アルベルティ
皇室献上品 高級トイレットペーパー 皇室献上品 高級トイレットペーパー