西暦191年は、孫堅の董卓征伐が最大の戦果を挙げる一方、関東連軍の内部分裂が露わになった年である。1月頃、孫堅は董卓征伐の進軍に際し、部下で長史の公仇称を派遣して兵糧を催促させると言い、魯陽城の東門の外に属官を集め、天幕を張って酒を飲みながら公仇称を見送った。董卓は孫堅の挙兵を聞き付けて東郡太守胡軫を魯陽に派遣し、其の先遣騎兵が酒宴の最中の孫堅を襲撃する。孫堅は部隊に陣容整備を命じ、兵に陣地を守り動かない様命じつつ、酒を飲み談笑していた。胡軫の騎馬隊が数を増すと孫堅はゆっくりと席を立って城内に兵を誘導し、直ぐに立ち上がらなかったのは恐れているという話を諸君の耳に入れない為だと兵達に語った。胡軫は孫堅の部隊の整然さ・規律・闘争心を見て戦意を失って敗走し、孫堅は戦わずして勝利した。同じ1月頃、王匡は韓浩に兵を率いさせて孟津(河内郡河陽県、現在の中国河南省孟県)に駐屯させ、泰山(現在の中国山東省泰安市)の兵を河陽津に派遣していたが、董卓の陽動作戦により平陰県から渡河してくると思い込んで川岸を守備していた所、小平津(現在の中国河南省洛陽市孟津区)経由で渡った軍に後方から襲撃され、軍はほぼ壊滅した。王匡は故郷の泰山へ帰って兵を募り、陳留郡(現在の中国河南省開封市)の張邈と接触して盟約を結ぶ事を検討した。2月頃、袁紹・韓馥・其の他関東連軍諸将が劉虞を皇帝に据える事を計画する。献帝はまだ若く董卓の支配下にあり、長安という離れた所で要塞に隔てられて生死が分からない一方、劉虞は宗室の中で最も賢明でありサポートする体制も整っているという理由であった。曹操は、挙兵に遠近から人々が呼応したのは行動が正義であるからだとし、今の皇帝は幼く奸臣に支配されてはいるが劉賀の様な亡国を招く過失は無いとして、北に劉虞を迎えつつ西の皇帝を奉ると述べた。袁紹と韓馥は袁術に対し、周勃や灌嬰の先例に倣って大司馬である劉虞を皇帝として尊ぶつもりだという書簡を送ったが、袁術は拒否し、劉虞本人も断固として拒否した。韓馥達は劉虞を尚書として制度に基づき官職を与える方法を採ろうとしたが、劉虞は此れも拒否した。3月頃、徐栄が梁県(現在の中国河南省汝州市)にて孫堅の軍を撃破し、李旻と張安が捕縛されて洛陽の畢圭苑に連行され、其の後董卓によって煮殺された。孫堅は十数名の騎兵と共に脱出し、情勢が緊迫した為に普段着用していた赤頭巾を脱いで部下の祖茂に被せ、追兵を引く様指示した。追兵は祖茂を孫堅と勘違いして追い掛け、孫堅は小道から脱出に成功する。祖茂は包囲されると墓の前の焼柱に赤頭巾を被せて叢の中に伏し、徐栄の軍は遠くから赤頭巾を見つけて幾重にも包囲したが、接近して焼柱と気付くと撤退した。孫堅は落伍者を集めて太谷陽人(現在の中国山西省呂梁市臨県)を占領し、軍の立て直しを行う。董卓は胡軫を大督護、呂布を騎督に任命して5,000名の歩騎で攻撃させたが、胡軫は傲慢且つ短気で部下の信頼も薄く呂布との折り合いも悪く、青綬を帯びる太守を一人斬れば静かになると言い放って諸将の不快を買っていた。陽人城から数十里離れた広城に夜遅く到着し休息が必要であったにも拘らず、呂布達は作戦を成功させたくない為に敵は逃げたと偽って出撃を促し、守りの堅い陽人城に着いた頃には兵達は飢えと渇きで士気が低下して武装を解いていた。其処へ呂布が孫堅の夜襲というデマを流した事で内部は戦わずして混乱し、兵達は鎧・馬・鞍を捨てて逃げ出した。孫堅は此れに乗じて胡軫の軍を撃破し、董卓の帳下の都督であった華雄を斬首して名声を上げた。袁術は孫堅が洛陽を占領して勢力を伸ばせば抑え難くなるとの進言を受け、食糧を送らなかった。孫堅は100里余り離れた魯陽に一夜で駆け戻り、我が身を投げ出すのは上は国家の為、下は袁家の仇を報じる為であるのに陰口を信じて疑うのかと袁術を激しく責め、袁術は恥入って直ぐに食糧を手配し、孫堅は前線に戻った。孫堅率いる軍は洛陽に攻め入り、函谷関(現在の中国河南省三門峡市霊宝市)にて兵力を分けて守備に当たらせた。3月24日、董卓は自らが朝廷に命じて光禄勲とした宣璠に持節させ、自らを太師として拝させ、各劉姓諸侯王よりも高い地位であるとした。董卓は李傕を孫堅への講和使者に任命して派遣したが、孫堅は此れを拒否した。4月頃、董卓は関中(現在の中国陕西省渭水)に入り、朱儁を洛陽に残して守備に当たらせる。5月頃、董卓は長安に入城する際、故意に御史中丞であった皇甫嵩を跪いて迎え、恥辱の目的を達成する様命じた。同じ5月頃、朱儁は山東の諸将と共謀して内応しようとしたが、董卓に襲撃される事を恐れて官職を捨て荊州に逃亡する。董卓が弘農(現在の中国河南省)の楊懿を河南尹に任命して洛陽を守備させると、朱儁は洛陽に進軍して楊懿を逃亡させ、一帯が破壊されて守備が出来ないと判断して中牟(現在の中国河南省鄭州市)に駐屯し、義兵を組織して董卓征伐の旗を掲げた。董卓は牛輔に鎮圧を命じ、牛輔は李傕・郭汜・張済と共に陝県を南下して中牟にて朱儁を破った。益州では劉焉が張魯を司馬に任命し、張魯と張修を遣わせて張修が漢中太守蘇固を殺害したが、趙嵩と陳調が敵を打った。又、袁術は孫堅に馬千頭の譲渡を断られ劉表にも兵糧の支給を断られた後、劉表が孫堅の行く手を遮ったのは兄袁紹の謀略であり、袁紹が劉表と結んで領土を狙っているとして、速やかな劉表討伐を促し自らは袁紹を討つという書簡を孫堅に送る。華南の袁紹の勢力を排除する様促された孫堅は荊州に入った。此の年、公孫瓚は袁術を支持し、劉表は袁紹を支持した。11月5日、以前から衛尉の身でありながら董卓と距離を置き恨みを買っていた張温が、袁術と共に姦通したと讒言され、長安にて鞭で打ち殺される。董卓は死んだ張温の首を刎ね、酒宴で其の首級を披露した。

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≈は「頃」を意味しています。

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年月日 出来事
191 1 孫堅が董卓征伐の為、進軍しようとする。其処で部下で長史の公仇称を派遣し兵糧を催促すると言い、魯陽城の東門の外に属官を集め、天幕を張り酒を飲んで公を見送った。董は孫堅が挙兵した事を聞き付け、東郡太守胡軫を魯陽に派遣した。胡の先遣騎兵は酒宴の最中であった孫を襲撃した。孫は部隊に陣容整備を命じ、兵に陣地を守り動かないように命じつつ、酒を飲み談笑していた。胡の騎馬隊が数を増すと、孫はゆっくりと席を立ち城内に兵を誘導した。そして兵達に「私が直ぐに立ち上がらなかったのは、恐れているという話を諸君の耳に入れない為だ」と言った。胡は孫の部隊の整然さ・規律・闘争心を見て戦意を失い、敗走した。孫は戦わずして勝利した。
191 1 王匡は、韓浩に兵を率いさせ、孟津(河内郡河陽県、現在の中国河南省孟県)に駐屯させていた。又、泰山(現在の中国山東省泰安市)の兵を河陽津に派遣していた。董卓の陽動作戦により、王の軍は平陰県(現在の中国山東省済南市)から川を渡ってくるものと思い込み、川岸を守備していたが、小平津(現在の中国河南省洛陽市孟津区)経由で川を渡り、後方から襲撃し、王の軍はほぼ壊滅した。王は自軍がほぼ全滅した事を知ると、故郷の泰山へ帰り、兵を募った。又、陳留郡(現在の中国河南省開封市)の張邈と接触し、盟約を結ぶ事を検討した。
191 2 以下の人間が劉虞を皇帝に据える事を計画する。献帝はまだ若く、董卓の支配下にあり、長安という離れた所で要塞で隔てられており、生死が分からない。劉虞は宗室の中で最も賢明であり、劉を皇帝に据え、サポートする体制は整っているとした。
①袁紹
②韓馥
③その他関東連軍諸将
曹操は「我々が挙兵し、遠近から人々が呼応したのは、我々の行動が正義であるからだ。今の皇帝は幼く、奸臣に支配されているが、劉賀の様な亡国を招く過失は無い。では誰を擁立すれば天下は納得するだろうか。私は北に劉虞を迎え、西の皇帝を奉ります」という主旨の発言をした。袁紹と韓は袁術に対し「皇帝は霊帝の息子では無い。周勃や灌嬰が若君を退けて後任の皇帝を迎えたという先例に倣い大司馬である劉虞を皇帝として尊ぶつもりだ」という主旨の書簡を送るが袁術は拒否した。劉虞本人も断固として拒否した。其処で韓達は劉虞を尚書とし、制度に基づいて官職を与える方法を採ろうとしたが、劉虞は此れも拒否した。
191 3 徐栄が梁県(現在の中国河南省汝州市)にて孫堅の軍を撃破する。結果、李旻と張安が捕縛され、洛陽の畢圭苑に連行された。其の後董卓によって李と張は煮殺された。孫は十数名の騎兵と共に脱出し、敗走した。孫は、情勢が緊迫してきたので、普段から着用していた赤頭巾を脱ぎ、部下の祖茂に被せ、追兵を引く様指示した。追兵は祖を孫と勘違いし、続々と追い掛けて来た。結果、指示通りに追兵を引き離す事に成功し、孫を小道から脱出させた。しかし、其の後に祖は包囲されたが、一計を案じ、墓の前の焼柱に赤頭巾を被せ、自らは叢の中に伏して動かなかった。徐の軍は遠くから赤頭巾を見つけ、孫が居ると考え、幾重にも包囲し、接近するも焼柱である事に気付くと撤退した。
191 3 孫堅が落伍者を集め、太谷陽人(現在の中国山西省呂梁市臨県)を占領し、軍の立て直しを行う。孫が太谷陽人に入った事を聞いた董卓は、以下2名を任命し、5,000名の歩騎で孫の軍を攻撃させた。
①胡軫(大督護)
②呂布(騎督)
しかし、胡は傲慢且つ短気で、部下の信頼も薄く、呂との折り合いも悪かった。胡は「今斯うして軍を進めているが、鯔の詰まり、青綬を帯びる太守を一人斬れば静かになるのだ」と言い、呂以下の諸将は不快に感じた。胡率いる軍が陽人城から数十里離れた広城に到着した。夜の遅い時間であり、疲労が溜まっていた為、休息を取る必要があったが、呂以下の諸将は胡を嫌っており、作戦を成功させたくなかった。其処で呂達は「陽人城中の敵兵は逃げてしまった。早く追撃しないとチャンスが無い」と言って胡に出撃させる様誘導した。胡が軍を率いて陽人城に到着したが、守りが堅く、奇襲が成功する見込みは無かった。又、兵達は飢えと喉の渇きにより士気が低下しており、武装を解いて休んでいた。其処で呂は軍の中に「孫が将兵を率いて夜襲を仕掛けてくる」とデマを流し、内部は戦わずして混乱し、兵達は鎧・馬・鞍を捨てて逃げ出した。孫は此れに乗じて胡の軍を撃破し、董の帳下の都督であった華雄を斬首した。孫は此の戦により名声を上げた。袁術は、此の孫の勝利を聞いた人間から「孫が洛陽を占領し、勢力を伸ばせば、抑える事は難しくなる」と進言を受け、孫の勢力が大きくなり過ぎる事を恐れ、食糧を送らなかった。孫は100里余り離れた魯陽に一夜で駆け戻り「私が我が身を投げ出すのは、上は国家の為に、下は袁の家門の仇を報じる為です。其れなのに貴方は陰口を信じて、私を疑うのですか?」と、袁を激しく責めた。袁は恥入り、直ぐに孫に食糧を手配し、孫は前線に戻った。
191 孫堅率いる軍が洛陽に攻め入り、函谷関(現在の中国河南省三門峡市霊宝市)にて兵力を分け、守備に当たらせる。
191 3 24 董卓が、自らが朝廷に命じ光禄勲とした宣璠に持節させ、自らを太師として拝させる。各劉姓諸侯王よりも高い地位であるとした。
191 董卓が李傕を、孫堅に対して講和を求める為の使者に任命し派遣するが、孫は此れを拒否する。
191 4 董卓が関中(現在の中国陕西省渭水)に入る。董は朱儁を洛陽に残し、守備に当たらせた。
191 5 董卓が長安に入る。長安城に入城する際、董は故意に御史中丞であった皇甫嵩を跪いて迎え、恥辱の目的を達成する様命じた。
191 5 朱儁が、山東の諸将と共謀し、内応しようとする。朱は董卓に襲撃される事を恐れ、官職を捨て、荊州に逃亡した。此れを受け、董は弘農(現在の中国河南省)の楊懿を河南尹に任命し、洛陽を守備させた。此れを聞いた朱は洛陽に進軍し、楊は逃亡した。朱は一帯が破壊され、守備が出来ないと判断し、中牟(現在の中国河南省鄭州市)に駐屯した。其の後朱は、義兵を組織し、董征伐の旗を掲げた。
191 5 董卓が、朱儁の挙兵を受け、牛輔に鎮圧に当たらせる。牛は以下の人間と共に陝県を南下し、中牟にて朱を破った。
①李傕
②郭汜
③張済
191 劉焉が張魯を司馬に任命する。
191 劉焉が張魯と張修を遣わせ、張修が漢中太守蘇固を殺害する。しかし趙嵩と陳調が敵を打った。
191 孫堅が袁術から以下の主旨の書簡を受け取る。袁術は馬千頭を譲って欲しいと頼んだが断られ、劉表にも兵糧の支給を断られていた。
「先頃劉表が貴方の行く手を遮ったのは、我が兄袁紹の謀略です。そして今、袁紹は劉表と結んで貴方の領土を狙っています。 孫殿は速やかに劉表を討つべきです。私は貴方の為に袁紹を討ちましょう」
袁術から華南の袁紹の勢力を排除する様促された孫は、荊州に入った。
191 公孫瓚は袁術を支持し、劉表は袁紹を支持した。
191 11 5 以前から張温は衛尉の身でありながら、董卓とは距離を置いており、董は張を恨んでいた。董は、張が袁術と共に姦通したと讒言し、此の日長安にて鞭で打ち殺させた。董は死んだ張の首を刎ね、酒宴で其の首級を披露した。
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