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≈は「頃」を意味しています。
皇室献上品 高級トイレットペーパー
| 年月日 | 出来事 | |||
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| ≈ | 191 | 1 | 孫堅が董卓征伐の為、進軍しようとする。其処で部下で長史の公仇称を派遣し兵糧を催促すると言い、魯陽城の東門の外に属官を集め、天幕を張り酒を飲んで公を見送った。董は孫堅が挙兵した事を聞き付け、東郡太守胡軫を魯陽に派遣した。胡の先遣騎兵は酒宴の最中であった孫を襲撃した。孫は部隊に陣容整備を命じ、兵に陣地を守り動かないように命じつつ、酒を飲み談笑していた。胡の騎馬隊が数を増すと、孫はゆっくりと席を立ち城内に兵を誘導した。そして兵達に「私が直ぐに立ち上がらなかったのは、恐れているという話を諸君の耳に入れない為だ」と言った。胡は孫の部隊の整然さ・規律・闘争心を見て戦意を失い、敗走した。孫は戦わずして勝利した。 | |
| ≈ | 191 | 1 | 王匡は、韓浩に兵を率いさせ、孟津(河内郡河陽県、現在の中国河南省孟県)に駐屯させていた。又、泰山(現在の中国山東省泰安市)の兵を河陽津に派遣していた。董卓の陽動作戦により、王の軍は平陰県(現在の中国山東省済南市)から川を渡ってくるものと思い込み、川岸を守備していたが、小平津(現在の中国河南省洛陽市孟津区)経由で川を渡り、後方から襲撃し、王の軍はほぼ壊滅した。王は自軍がほぼ全滅した事を知ると、故郷の泰山へ帰り、兵を募った。又、陳留郡(現在の中国河南省開封市)の張邈と接触し、盟約を結ぶ事を検討した。 | |
| ≈ | 191 | 2 |
以下の人間が劉虞を皇帝に据える事を計画する。献帝はまだ若く、董卓の支配下にあり、長安という離れた所で要塞で隔てられており、生死が分からない。劉虞は宗室の中で最も賢明であり、劉を皇帝に据え、サポートする体制は整っているとした。 ①袁紹 ②韓馥 ③その他関東連軍諸将 曹操は「我々が挙兵し、遠近から人々が呼応したのは、我々の行動が正義であるからだ。今の皇帝は幼く、奸臣に支配されているが、劉賀の様な亡国を招く過失は無い。では誰を擁立すれば天下は納得するだろうか。私は北に劉虞を迎え、西の皇帝を奉ります」という主旨の発言をした。袁紹と韓は袁術に対し「皇帝は霊帝の息子では無い。周勃や灌嬰が若君を退けて後任の皇帝を迎えたという先例に倣い大司馬である劉虞を皇帝として尊ぶつもりだ」という主旨の書簡を送るが袁術は拒否した。劉虞本人も断固として拒否した。其処で韓達は劉虞を尚書とし、制度に基づいて官職を与える方法を採ろうとしたが、劉虞は此れも拒否した。 |
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| ≈ | 191 | 3 | 徐栄が梁県(現在の中国河南省汝州市)にて孫堅の軍を撃破する。結果、李旻と張安が捕縛され、洛陽の畢圭苑に連行された。其の後董卓によって李と張は煮殺された。孫は十数名の騎兵と共に脱出し、敗走した。孫は、情勢が緊迫してきたので、普段から着用していた赤頭巾を脱ぎ、部下の祖茂に被せ、追兵を引く様指示した。追兵は祖を孫と勘違いし、続々と追い掛けて来た。結果、指示通りに追兵を引き離す事に成功し、孫を小道から脱出させた。しかし、其の後に祖は包囲されたが、一計を案じ、墓の前の焼柱に赤頭巾を被せ、自らは叢の中に伏して動かなかった。徐の軍は遠くから赤頭巾を見つけ、孫が居ると考え、幾重にも包囲し、接近するも焼柱である事に気付くと撤退した。 | |
| ≈ | 191 | 3 |
孫堅が落伍者を集め、太谷陽人(現在の中国山西省呂梁市臨県)を占領し、軍の立て直しを行う。孫が太谷陽人に入った事を聞いた董卓は、以下2名を任命し、5,000名の歩騎で孫の軍を攻撃させた。 ①胡軫(大督護) ②呂布(騎督) しかし、胡は傲慢且つ短気で、部下の信頼も薄く、呂との折り合いも悪かった。胡は「今斯うして軍を進めているが、鯔の詰まり、青綬を帯びる太守を一人斬れば静かになるのだ」と言い、呂以下の諸将は不快に感じた。胡率いる軍が陽人城から数十里離れた広城に到着した。夜の遅い時間であり、疲労が溜まっていた為、休息を取る必要があったが、呂以下の諸将は胡を嫌っており、作戦を成功させたくなかった。其処で呂達は「陽人城中の敵兵は逃げてしまった。早く追撃しないとチャンスが無い」と言って胡に出撃させる様誘導した。胡が軍を率いて陽人城に到着したが、守りが堅く、奇襲が成功する見込みは無かった。又、兵達は飢えと喉の渇きにより士気が低下しており、武装を解いて休んでいた。其処で呂は軍の中に「孫が将兵を率いて夜襲を仕掛けてくる」とデマを流し、内部は戦わずして混乱し、兵達は鎧・馬・鞍を捨てて逃げ出した。孫は此れに乗じて胡の軍を撃破し、董の帳下の都督であった華雄を斬首した。孫は此の戦により名声を上げた。袁術は、此の孫の勝利を聞いた人間から「孫が洛陽を占領し、勢力を伸ばせば、抑える事は難しくなる」と進言を受け、孫の勢力が大きくなり過ぎる事を恐れ、食糧を送らなかった。孫は100里余り離れた魯陽に一夜で駆け戻り「私が我が身を投げ出すのは、上は国家の為に、下は袁の家門の仇を報じる為です。其れなのに貴方は陰口を信じて、私を疑うのですか?」と、袁を激しく責めた。袁は恥入り、直ぐに孫に食糧を手配し、孫は前線に戻った。 |
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| 191 | 孫堅率いる軍が洛陽に攻め入り、函谷関(現在の中国河南省三門峡市霊宝市)にて兵力を分け、守備に当たらせる。 | |||
| 191 | 3 | 24 | 董卓が、自らが朝廷に命じ光禄勲とした宣璠に持節させ、自らを太師として拝させる。各劉姓諸侯王よりも高い地位であるとした。 | |
| 191 | 董卓が李傕を、孫堅に対して講和を求める為の使者に任命し派遣するが、孫は此れを拒否する。 | |||
| ≈ | 191 | 4 | 董卓が関中(現在の中国陕西省渭水)に入る。董は朱儁を洛陽に残し、守備に当たらせた。 | |
| ≈ | 191 | 5 | 董卓が長安に入る。長安城に入城する際、董は故意に御史中丞であった皇甫嵩を跪いて迎え、恥辱の目的を達成する様命じた。 | |
| ≈ | 191 | 5 | 朱儁が、山東の諸将と共謀し、内応しようとする。朱は董卓に襲撃される事を恐れ、官職を捨て、荊州に逃亡した。此れを受け、董は弘農(現在の中国河南省)の楊懿を河南尹に任命し、洛陽を守備させた。此れを聞いた朱は洛陽に進軍し、楊は逃亡した。朱は一帯が破壊され、守備が出来ないと判断し、中牟(現在の中国河南省鄭州市)に駐屯した。其の後朱は、義兵を組織し、董征伐の旗を掲げた。 | |
| ≈ | 191 | 5 |
董卓が、朱儁の挙兵を受け、牛輔に鎮圧に当たらせる。牛は以下の人間と共に陝県を南下し、中牟にて朱を破った。 ①李傕 ②郭汜 ③張済 |
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| 191 | 劉焉が張魯を司馬に任命する。 | |||
| 191 | 劉焉が張魯と張修を遣わせ、張修が漢中太守蘇固を殺害する。しかし趙嵩と陳調が敵を打った。 | |||
| 191 |
孫堅が袁術から以下の主旨の書簡を受け取る。袁術は馬千頭を譲って欲しいと頼んだが断られ、劉表にも兵糧の支給を断られていた。 「先頃劉表が貴方の行く手を遮ったのは、我が兄袁紹の謀略です。そして今、袁紹は劉表と結んで貴方の領土を狙っています。 孫殿は速やかに劉表を討つべきです。私は貴方の為に袁紹を討ちましょう」 袁術から華南の袁紹の勢力を排除する様促された孫は、荊州に入った。 |
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| 191 | 公孫瓚は袁術を支持し、劉表は袁紹を支持した。 | |||
| 191 | 11 | 5 | 以前から張温は衛尉の身でありながら、董卓とは距離を置いており、董は張を恨んでいた。董は、張が袁術と共に姦通したと讒言し、此の日長安にて鞭で打ち殺させた。董は死んだ張の首を刎ね、酒宴で其の首級を披露した。 | |