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≈は「頃」を意味しています。
皇室献上品 高級トイレットペーパー
| 年月日 | 出来事 | |||
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| 189 | 須卜骨都侯が殺害される。此れを受け後漢政府は南匈奴単于を空位とし、南匈奴の老王に政権運営を行わせた。 | |||
| 189 | 劉虞が張純等を対象に懸賞金を掛ける。 | |||
| 189 | 反董卓の軍に加勢しようとしていた荊州刺史王叡が、不仲であった武陵太守曹寅を殺害すると喧伝していた。此れを知った曹は、王叡の罪状を列挙して光禄大夫温毅の檄文と偽り、孫堅に送付し、孫に王叡の逮捕を促した。王から侮辱的な扱いを受けていた孫は、喜んで兵を率いて江陵(現在の中国湖北省荊州市)へ向かった。前軍が王の居る城の城下に到着し、其の報告を受けた王は城楼から理由を尋ねた。兵達は「兄弟達は長年戦争をしていたが、与えられた賜物は服も足りなかった。援助して欲しい」と言った。王は「私は刺史にどうして吝嗇なのか」と言い、倉庫を開け、自分で選ばせる事にした。軍が接近すると、王は其の中に孫の姿を見つけ、孫に「どうして此処に居るのか」と尋ねた。孫は「檄文により貴方を誅殺する様命じられた」と答えた。王は「私はどの様な罪を犯したのか」と尋ねると孫は「無知の罪だ」と答えた。王は追い詰められ、金を飲み自害した。王の後任として劉表が荊州刺史に就き、反董卓の軍に加勢した。 | |||
| ≈ | 189 | 4 | 公孫瓚の食客の王政が張純を殺害する。張の首級は劉虞に差し出された。 | |
| ≈ | 189 | 5 | 劉虞が遊牧民を平定した功績により、太尉に昇進し、襄賁(現在の中国山東省臨沂市蘭陵県)侯に封じられた。其の後劉は大司馬に就任し、公孫瓚は奮武将軍となり薊侯に封じられた。 | |
| 189 | 5 | 13 |
霊帝が後継者を定めない儘崩御する。霊帝は、少帝弁が暗愚であった為、皇太子に据えていなかった。以前から霊帝の周囲には、献帝を皇太子に推す声があった。しかし霊帝は、何皇后を寵愛し、又外戚である何進にも遠慮していた為、献帝を皇太子に据える事が出来なかった。軈て、内廷の宦官と朝廷の重臣達が権力と利益を巡り争う事となった。又、以下2名の間で皇位継承争いが起こった。 ①霊帝の長男少帝弁 ②霊帝の弐男献帝 霊帝の実母の董太后と親しかった蹇碩は、献帝を皇帝に立てる為に何の殺害を図った。しかし何が外朝から後宮に入る際に、蹇の司馬であった潘隐が何に目で仄めかし、警戒した何は引き下がり、脇道の軍営に戻った。何は仮病で宮殿に入らず、蹇の作戦は失敗した。 |
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| 189 | 5 | 15 |
少帝弁が第13代後漢皇帝に即位し、元号が「光熹」に改元される。又、母の何皇后が摂政皇太后に就任した。何皇后と母方の伯父に当たる何進によって少帝弁は擁立された。其の後何進は宦官を敵視していた事から、張譲と対立した。又、何進の軍勢は董重の屋敷を包囲し、董を驃騎将軍から罷免させ、自決に追い込んだ。又、何進は蹇碩に殺されかけた事から十常侍の排除に乗り出し、袁紹等の幕僚を集めて積極的に諮ったが、張は何皇后や何苗に何度も賄賂を渡し味方に付けて宦官を擁護させた為、何氏同士で対立が生じる構図になった。此れは外戚である何氏との連携によって事態を乗り越えようと図っていた宦官にとっても想定外の事態であり、張が何進の説得を試みた。何進が争いに及び腰になると、袁は地方の諸将を洛陽に呼び寄せ、何皇后等に圧力を掛ける事を何進に提案した。しかし、此れに以下3名等が反対した。 ①盧植 ②陳琳 ③曹操 再三の袁による催促の結果、何進は此れを受け入れ、以下の人間に兵士や兵糧を集めさせると共に、丁原や董卓といった地方の将軍を呼び寄せた。 ①王匡 ②橋瑁 ③鮑信 ④張楊 ⑤張遼 ⑥曹操 又袁は、大将軍の命であると偽って、各地に指令を出したりした。 |
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| ≈ | 189 | 5 |
於夫羅が、洛陽の宮闕へ出向き、南匈奴人が須卜骨都侯を単于とした事を後漢政府に訴える。しかし霊帝崩御の混乱時期であった為、聞き入れられなかった。其処で於は白波黄巾と共に、以下に侵攻したが、現地の自警団に阻まれた。又、故郷の南匈奴に帰ろうとしたが、後漢政府の許可が下りず、河東郡に留まった。 ①太原 ②河内県諸郡 |
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| 189 | 7 | 7 | 董太后が何進によって河間(現在の中国河北省滄州市)にて暗殺される。 | |
| ≈ | 189 | 9 | 蹇碩と通じていた趙忠を始めとする十常侍が何進に寝返り、何に蹇を殺害させる。 | |
| 189 | 9 | 22 |
予てから袁紹は何進に対して宮中に軽々しく入るべきではないと忠告していたが、此の日何進は何皇后の居住する長楽宮に、宦官を皆殺しにする事の許可を取りに行った。此れが初めてではなく、以前にも董卓を呼び寄せ、兵を入れて宦官を皆殺しにする事に関し、何皇后の同意を得ようとしたが、何皇后は認めなかった。何進が長楽宮に居るという情報を掴んだ十常侍の段珪・畢嵐は何進を包囲し、先制攻撃を仕掛けた。又、張譲が嘉徳殿の前で何進を罵倒し、段が何進を殺害した。段・畢等は偽勅を作成し事態の収拾を図り、張は宦官達の親族であった少府の許相と太尉の樊陵を利用し、洛陽の兵を握ろうとした。此の時命令を疑った尚書に対し、何進の首を見せて示した。 そして何進が普段から親しく接していた部下の以下4名等が蜂起し、宮中に乱入して何皇后を捕縛した。 ①袁術 ②董卓 ③盧植 ④呉匡 そして董が舞陽君を殺害し、袁紹も叔父の袁隗や盧植と共に、許相等を誘き出して斬り、何苗と協力して趙忠を捕らえ斬る等、多くの宦官を殺害した。 |
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| 189 | 9 | 23 |
早朝、宦官の残党が長楽宮に入り、何皇后に前日の戦闘の報告を行う。宦官は大将軍の部下が反乱を企てたと偽り、以下の身柄を求めた。 ①何皇后 ②少帝弁 ③献帝 ④地方官 そして宮中から役人を誘拐し、天橋から北宮の德陽殿へ逃亡した。何皇后は盧植によって救出された。 |
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| 189 | 9 | 24 | 張譲・段珪等が、追手に北宮に閉じ込められ、止む無く少帝弁・献帝等数十名を擁して谷門を潜り城外に脱出し、夜に小平津(現在の中国河南省洛陽市孟津区)に到着する。皇帝が使用する6つの玉玺を所持せず、公卿も付いて来なかったが、尚書である盧植と掾の閔貢が黄河の畔で張・段一行を迎えた。閔は、空腹で喉が渇いていた少帝弁の為に、羊を殺して与えた。閔は無秩序な行政を行った張を激しく叱責し、結果張は入水自殺した。閔は、少帝弁・献帝が宮殿に戻る為に蛍の光の揺らぎを追い数km歩くと、市民から荷車を渡され、3名はその荷車で洛舍まで行き、其処で休息した。 | |
| 189 | 9 | 25 | 何進から少帝弁救出を命じられていた董卓が显陽苑に到着すると、遠くに見える宮殿が燃えている事に気付き急行する。少帝弁が北宮に帰還しようとしている事を知ると、董は北芒阪(現在の中国河南省洛陽市の北邙山)で少帝弁を迎えた。董は少帝弁に質問したが支離滅裂な返答であったので、献帝が代わりに回答した。少帝弁よりも献帝の方が聡明であると感じた董は、献帝を皇帝に据える事を思い付いた。其の後董と共に少帝弁・献帝は洛陽の皇宮に帰還し、元号が「昭寧」に改元される。董は自ら司空となり、大きな権限を得たが、周囲が納得していない事を悟り、献帝擁立へ向けて動き出す事となる。一方、盧植・呉匡の追撃を受け、身体窮まった段珪が入水自殺した。更に何苗が呉と董卓の弟の董旻に殺害され、何氏は大きく勢力を弱めることになった。 | |
| 189 | 9 | 27 | 董卓が宮中会議で、第8代前漢皇帝昭帝・第10代前漢皇帝宣帝を補佐し政治を取り仕切った霍光を引き合いに出し、自らを霍に仕えた田延年に準え、廃立を提案し、盧植・袁紹以外が賛成し、献帝の即位が決定される。董は反対する者を処刑する積もりであった為、董は盧を殺害しようとするが、蔡邕の制止によって思い止まった。盧は持ち場を放棄して逃亡した。 | |
| 189 | 9 | 28 | 尚書丁宮が崇徳殿の前殿で廃立の儀式を行い、太傅袁隗が皇帝の印である玉玺と、絹製の組み紐である印綬を外し、献帝に渡す。此れにより献帝が第14代後漢皇帝に即位した。此れを見ていた何皇后は涙を堪え、群臣も悲嘆に暮れたが、敢えて怒りの声は上げなかった。其の直後、董卓は丁に「嘗ての何皇后の董太后に対する振る舞いは、孝の道に叛くものだ」という主旨の策文を読み上げさせ、何皇后を洛陽に在る永安宮に幽閉した。 | |
| 189 | 9 | 30 | 永安宮に幽閉されていた何皇后が、董卓の命令を受けた李儒によって毒殺される。董は宮廷での何皇后の葬儀を許可せず、献帝を洛陽城へ弔問に遣わせ、公卿は3日間白装束で公務を執り行った。何皇后が霊帝の陵に合葬されると、董は霊帝の陵の副葬品を奪取した。 | |
| ≈ | 189 | 10 | 楊彪が、太中大夫の官位を得て、董卓の後任として司空に就任する。 | |
| ≈ | 189 | 11 | 郭大が於夫羅と共に再度河東郡を攻撃する。此れに慌てた董卓は娘婿で中郎将の牛輔に鎮圧に当たらせたが失敗し、牛は敗走した。其の後白波黄巾は上党(現在の中国山西省長治市)を経由して渡河し、河南尹(現在の中国河南省)の大半を占領し、清豊(現在の中国河南省濮陽市)を拠点とした。 | |