西暦188年は、地方の反乱が全国に波及し、州牧の任命によって後漢の統治構造が大きく組み替えられた年である。3月頃に郭大が白波黄巾を率いて挙兵し、4月頃には劉焉が益州牧、黄琬が豫州牧、劉虞が幽州牧に任じられた。公孫瓚は張純を破り、白馬義従を名乗った。

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年月日 出来事
188 公孫瓚が張純を追撃し、南匈奴右賢王於夫羅を指揮官として、石門(現在の中国遼寧省丹東市東港市前陽鎮)にて張・丘力居や鮮卑族と戦闘となる。結果、公孫が再度張を撃破し、張は妻を残し鮮卑族の領地内へ敗走した。公孫は更に追撃したが遼西郡の管子城にて丘に200日以上包囲された。軈て公孫側は食糧が尽き多数の兵を失った。又、丘側も疲弊し柳城(現在の中国遼寧省朝陽市)に兵を引いた。其の後公孫の勇敢さを恐れた烏桓族は再び公孫を攻める事は無かった。此の戦功により公孫は中郎将・都亭侯となった。公孫は屡々白馬に跨り、乗馬や射撃に長けた数十名の部下に脇を固めさせ「白馬義従」と名乗った。
188 1 胡族である南匈奴の休屠各が5,000,000銭で関内侯を売り、反乱を起こす。
≈ 188 3 郭大が白波谷(現在の中国山西省臨汾市襄汾県永固郷)にて挙兵する。南匈奴於夫羅と手を組み100,000名の兵を集め「白波黄巾」と呼ばれた。又、以下に進軍して突破した。
①太原(現在の中国山西省)
②河内(現在の中国山西省)
其処から更に南下して河東郡(現在の中国山西省)を攻撃した。
188 劉焉・侍中董扶が荊州(現在の中国湖北省)の東の州境で道が塞がり立ち往生した為、荊州の国境付近に駐屯する。その頃、以下2名等が綿竹県で「黄巾党」を名乗り挙兵した。
①馬相
②趙祗
金品で益州(現在の中国四川省)刺史のポストを買った郤倹による重税に苦しんでいた民衆に加勢を促し、数千名の同意を得た。その後綿竹令李昇を殺害した。そして更に多くの吏民が加勢し、馬は自らを天子と称し、10,000名余の兵を率い、趙祗と共に郤の殺害と雒城(現在の中国四川省広漢市)の落城に成功した。又、巴郡(現在の中国重慶市・四川省)を征圧し、巴郡太守趙部を殺害した。更に以下の占領にも成功したが、賈龍に殺害された。
①益州
②犍為(現在の中国四川省楽山市)
其の後賈は劉を迎え入れ、綿竹県に駐屯した。劉は賈を校尉に任命した。
≈ 188 4 休屠各が并州刺史張懿を殺害する。又、其の頃董扶が密かに、交趾(現在のベトナム東北部・紅河デルタ・西北部・北中部)行きを希望していた劉焉に対し「益州には天子の気がある」と進言した。此れを聞いた劉は「四方を敵に包囲され、刺史の威厳が損なわれこの様な反乱が起きている。牧伯の首を挿げ替え、明晰な人物を就任させるべきである」と後漢政府に説き、益州牧への就任を願い出て承諾された。又、董も蜀郡(現在の中国四川省成都市)都尉に任命され、劉に同行する事が決定した。益州広漢郡綿竹県(現在の中国四川省)出身であった董は故郷へ帰還する事となった。更に後漢政府は以下2名を取り立てた。
①太僕黄琬→豫州牧
②東海郡の宗正劉虞→幽州牧
後漢政府は劉に対し、以下2名の征伐を命じた。又霊帝の詔により、於夫羅の父で第18代南匈奴単于羌渠は劉に従い、援軍を差し向けた。
①張純
②丘力居
劉は幽州に到着すると、使者を送り遊牧民に危機を伝え、張の首を取る様命じた。劉の到着を聞いた丘は、使者を遣わせ降伏を伝えようとしたが、劉が手柄を立てる事を恐れた公孫瓚の送り込んだ刺客により、道中殺害された。此れを知った遊牧民は、迂回して劉に丘の降伏を伝えた。劉は後漢政府に丘の降伏を報告し、兵を引いた。結果、右北平郡に駐留する公孫率いる10,000名以上の兵だけが残った。
≈ 188 4 羌渠による援兵派遣が止まらないと読んだ南匈奴の醢落や休屠各の白馬銅等100,000名が、羌に対し謀反を起こし、羌を殺害する。此れにより於夫羅が第19代南匈奴単于に就任した。しかし南匈奴人は須卜骨都侯を単于とした。
≈ 188 9 董重が驃騎将軍に任命される。