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≈は「頃」を意味しています。
皇室献上品 高級トイレットペーパー
| 年月日 | 出来事 | |||
|---|---|---|---|---|
| 1,854 | ジョージ・ピーボディがピーボディ,リグス&カンパニーにジューニアス・モルガンを招く。モルガンは資本金の9%弱と利益の28%を出資した。 | |||
| 1,854 | ルイ・ヴィトンが、パリのキャピュシーヌ大通りに旅行鞄の専門店を創業する。 | |||
| 1,854 | 1 | 3 | 徳川斉昭の命により、石川島(現在の東京都中央区佃)にて、大型船建造を意図し「石川島造船所」が設立される。 | |
| 1,854 | 2 | 11 | 帆走補給艦・輸送艦サザンプトンが、江戸湾に侵入する。 | |
| 1,854 | 2 | 13 |
マシュー・ペリー率いる艦隊の以下6隻が、江戸湾に侵入し、サザンプトンと合流して小柴沖に勢揃いする。 ①サスケハナ ②ミシシッピ ③蒸気外輪フリゲート艦ポーハタン ④帆走スループ艦マセドニアン ⑤帆走スループ艦ヴァンダリア ⑥帆走補給艦レキシントン 其の後、日本とアメリカで、応接地を何処にするかで駆け引きが発生した。 |
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| 1,854 | 2 | 27 | 香山栄左衛門が、日本とアメリカの応接地として横浜を提示し、マシュー・ペリー率いる艦隊の合意を取り付ける。 | |
| 1,854 | 3 | 4 |
10時、松代藩が、望月主水を総奉行とする警備隊を、洋銃を持った銃卒24名を一隊とする4隊と、大砲5門を管理する大砲要員30名を、横浜に派遣する。小倉藩の陣近くで鉄砲が使えない時の為に以下も装備した。 ①長柄の槍40筋 ②長巻20振 そして一行は、川崎宿(現在の神奈川県川崎市川崎区本町・砂子・旭町付近)に到着すると、応接の警備全般を統括する浦賀奉行伊沢政義から、火器の類は大小に限らず人目に付かぬ様、筵に包んで横浜に持ち込む様指示を受けた。大砲や鉄砲は直接見えない様に全て包んで持ち込まれた。後に佐久間象山が此の事に就いて質問した所、アメリカの艦船からは性能の良い望遠鏡で東海道を観察していて、どんな武器を持っているか、色まではっきり識別出来る為、大砲等の武器を持ち込んでいるという不必要な刺激を避ける為であるとの説明を受けた。 |
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| 1,854 | 3 | 5 | 佐久間象山が、軍議役として、望月主水率いる警備隊から1日遅れで、横浜へ向けて出発する。佐久間は此の日、神奈川宿(現在の神奈川県横浜市神奈川区東神奈川の東神奈川駅付近)に宿泊したが、其の際、佐久間の下を訪れた浦賀奉行所の同心と、マシュー・ペリー率いる艦隊の情報交換をした。 | |
| 1,854 | 3 | 6 | 佐久間象山が、前日に情報交換をした浦賀奉行所の同心の手配した、9名の水夫が漕ぐ浦賀奉行所の早舟に乗り、横浜に到着する。 | |
| 1,854 | 3 | 6 |
横浜に5棟から成る応接所が完成する。前年にミラード・フィルモアの親書の受け渡しを行った久里浜の応接所(現在の神奈川県横須賀市久里浜の久里浜駅付近)を解体して4日で移築した。江戸幕府は、沿海を警衛する諸藩とは別に、以下2藩に、此の応接所の警衛を命じた。 ①松代藩 ②小倉藩 |
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| 1,854 | 3 | 8 | マシュー・ペリー率いる艦隊が、横浜に上陸する。威圧を意図し、総勢600名中446名が乗り込んだ。 | |
| 1,854 | 3 | 8 |
10時、此の頃迄に、松代藩は、横浜での警備の人員配置を終えていた。此の日は、横浜応接所に於ける日本とアメリカの最初の応接日であった。佐久間象山は、応接の様子を知りたいと考えていたが、松代藩の警備している地点は、横浜応接所から東に220mの所で、簡単に内部の様子を見る事は出来なかった。そんな折、日本側交渉委員の1人であった伊沢政義から真田幸教に、松代藩の警備に加わっていた、医師で松代藩御用絵師の高川文筌を、伊沢付き医師として派遣して欲しい旨の依頼が有った。真田は此れに応じ、佐久間に、高川・伊沢の近習に交じって横浜応接所に入って図取りする様命じた。佐久間は横浜応接所に入ってマシュー・ペリーを間近で見た。佐久間は、ペリー一行が上陸するに当たって使用した約5.44kgの榴弾砲を1挺ずつ積んだ12隻のボートが、祝砲として数十発発射したのを目撃した。佐久間は此れを見て「発砲の手際が良い」と記した。アメリカ兵達が、佐久間達の居る浜辺にやって来て、腰に差した6連発のピストルを手渡して見せた。佐久間は此れも「此の上無く見事」と賞賛した。又此の日佐久間は、以下の主旨の書簡を書いた。 正午頃、上陸したアメリカ兵達が調練宛らに整列している所へ、本船から短艇を1隻下ろし、数人が乗り込んであっという間に岸に着いた。先ず上官が応接小屋前の広場に上陸して歩兵に号令を掛けると、500名程の一団が忽ち隊列を組んだ。其の壮観さは何にも例えようが無い。尤も、此れは西洋では当たり前の事で、良く知られている話ではある。寧ろ知っておくべきは、横浜応接所の中の様子である。先ず、饗応の席は大層広い。其の奥に約12.96㎡の座敷が在り、此処が密談所である。三方に高さ約90cm程の床が設けられ、一面に毛氈が掛けてあった。其処へ士分の者44名、他に黒人の従者が4、5名入室し、其々床に腰を掛けた。日本側の役人衆も出座して同じく腰を掛け、通訳同士が向かい合って一礼する。其れから、茶・煙草盆・菓子等が出された。菓子はカステラと有平糖で、皆大層喜び、食べ残しを紙に包んでいた。此れが済むと、ペリー以下5名が、例の密談所へ案内されて入り、林復斎公・井戸覚弘公・伊沢政義公・鵜殿鳩翁公が出て、長い時間が過ぎた。極秘の話し合いで、外には何1つ漏れて来ない。其の間、残る39名には吸物・口取り・刺身と酒が出されたが、辛口の酒は好まず、甘い養老酒を頻りに飲んでいた。刺身は少し口にしたものの、他の料理には手を付けなかった。高川殿が頻りに写生していると、彼等も珍しく思ったのか、側に寄って来て「見せてくれ」と手真似をする。見せた所、大層喜んで「上手、上手」と日本語で褒めた。中には自分の肖像を描いて欲しいと手真似する者も居たので、望み通り描いてやると、皆大喜びで署名を求めて来た。「文筌写」と書くと、此れは何と書いてあるのかと聞く。「ぶんせん」と答えると、英語で書き付け、発音もすっかり覚えて「ぶんせん、ぶんせん」と繰り返していた。実に珍しい光景だった。他にも色々面白い事が有ったが、急ぐので書かないでおく。其れにしても思いの外穏やかな人々だった。体付きはオランダ人より一回り大きく、背も高く、肉付きも良くて随分と太っている。400名程のゲベール銃隊を1名の指揮で丸で手足の様に動かす。西洋では珍しくも無いのだろうが、驚かされた。但、全く聞くに堪えなかったのが音楽である。私は本当に閉口したが、面白がっている者も居た様だ。さて、あの密談には如何にも深い意味が有りそうに見える。何れ交易を認める事になるのは間違いない様子だが、余程都合の良い手立てでも有るのか、彼等は帰り際も皆で囁き合い、嬉しそうにしていた。尚、真田殿から命じられた図取りの御用も無事に果たした。他の家臣達は、上陸の際にこっそり覗き見しただけである。今日は正式な返書は渡されず、只礼を述べただけで終わった様子で、今後も返書は出ないのではないか。其の理由も、恐らくあの密談所に有るのだろう。我が藩の固め場は、応接所から約220mも離れた場所に在る。陣幕も、小倉藩の持ち場との境に一張り掛けただけで、兵の姿は見えなかった。皆、民家の陰に集まっていたのだが、此れは考え有っての事だろう。とは言え、出来る事なら、ゲベール銃隊を相手の目の前に整列させて見せてやりたいものだ。道中の評判は事の外良く、私等も気分が良かった。一方、小倉藩は彼方此方に陣幕を張り、方々に人を集めてはいたが、どうにも手薄に見えた。取り分け鉄砲が弾丸1発の重さ約11〜19g程の和筒で、異人達に「見せてくれ」と言われると、国禁だからと言い訳して断ってしまった。此れも余りに拙い。「彼等を恐れている」等と口にしていた。今後も応接は2、3度有る様で、今月一杯掛かるかも知れない。其れに付けても高川殿は、伊沢公の直属医師として頼まれた身だから、後数回じっくり見届ければ、図面を細部まで仕上げられると大喜びしていた。 |
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| 1,854 | 3 | 13 |
マシュー・ペリー率いる艦隊が、以下を含む贈り物33品目を24艘の小舟で持参し、横浜で陸揚げされる。 ①蒸気機関車の模型一式 ②銅製ボート2隻 ③鳥かご台1つ ④合衆国絵図面1冊 ⑤合衆国海岸絵図1冊 ⑥羅紗1巻 ⑦天鵞絨1反 ⑧百里見遠眼鏡1本 ⑨香水類1箱 ⑩名酒1瓶 ⑪食物類1籠 ⑫茶3箱 ⑬書籍16冊 ⑭火鉢1つ ⑮道中羽袋2つ ⑯錦飾り5つ ⑰姿見大鏡1面 ⑱石摺の絵 ⑲馬上太刀12振 ⑳剣付鉄砲3挺 ㉑きりんび30畳敷 ㉒六連発の短筒1丁 ㉓鏡台の類一式 ㉔花の織物 ㉕電信機 ㉖標準天秤 |
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| 1,854 | 3 | 15 |
早朝と午後に、佐久間象山が、横浜応接所を巡警する。佐久間は、其の時の出来事を、以下の主旨の内容で日記に記した。 旗艦所属の画家・写真家のエリファレット・ブラウン・ジュニアが、ダゲレオタイプのカメラで、私の乗って来た馬を撮影した。其の場には、浦賀奉行所の同心も居た。私は、此の装置にはヨウ素を使うのか、其れとも臭素か同心に尋ねさせようとしたが、同心は、自分で直接聞いてみる様言った。私はカメラを指して尋ねると、ブラウン・ジュニアは「ダゲウロライペン(ダゲレオタイプのカメラ)」と言った。私も「ダゲウロライペン」と言った。ブラウン・ジュニアは喜び、手を挙げて招き寄せ、カメラを見せた。構造は概ね楢林鉄之助から入手した、カメラの製作法を記した本に載っていたものと同じだった。但し、匣の形は稍平たく、鏡を収める部分は横に突き出した黄銅の筒になっている。其の先端には雌ねじが切ってあり、写したい対象の遠近に応じてレンズを付け替えて使う仕組みだった。軈て、私の姿も写してくれた。 |
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| 1,854 | 3 | 31 |
横浜応接所にて、日米和親条約が締結される。日本側全権は林復斎、アメリカ側全権はマシュー・ペリーであった。以下の12条で構成された。 ①両国民の間に永久の和親を結び、場所や人柄による差別を設けない。 ②下田・箱館を開港し、薪水・食料・石炭などを供給する。下田は調印と同時、箱館は西暦1,855年4月頃から。値段表は日本の役人が渡し、代金は金銀銭で支払う。 ③漂着したアメリカ船を救助し、漂流民を下田か箱館へ送り届ける。所持品も同様。費用は互いに償わない。 ④漂着・渡来した者は他国並みに寛大に扱い、監禁しない。但し、正当な法には従わせる。 ⑤長崎の唐人・オランダ人の様な閉じ込めはしない。下田では港内の小島から七里以内を自由に歩ける。箱館は追って取り決める。 ⑥必要な品物其の他は、双方の協議で取り決める。 ⑦両港では金銀銭や品物で必要品を購入して良い。但し、日本の規定に従う。日本人が受け取りを断った品は引き取る事。 ⑧物資の調達は現地の役人が扱い、私的な取引は一切禁じる。 ⑨他国に与えた権利は、直ちにアメリカにも同様に与える。 ⑩暴風に遭った場合を除き、下田・箱館以外の港へ濫りに来航しない。 ⑪止むを得ない事情が有れば、調印から18ヶ月後以降、下田にアメリカの官吏を置く事が出来る。 ⑫両国は此の条約を堅く守る。アメリカ大統領がアメリカ議会と協議の上、書を送り、18ヶ月以内に批准書を交換する。 江川英龍は、通訳官兼外交顧問にする積もりでジョン万次郎を指導した。しかし、万次郎をアメリカからのスパイだと疑っていた徳川斉昭は「アメリカに恩義のある万次郎は、アメリカ側に立って案件を処理するに違いない」とし、登用に反対した。結果、万次郎は翻訳作業にしか携わる事が出来ず、マシュー・ペリーとの交渉は、江戸幕府のオランダ語通史との間で行われた。 |
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| 1,854 | 4 | 6 | マシュー・ペリーが、横浜応接所の浜辺に上陸し、横浜村(現在の神奈川県横浜市中区)を散策する。此の時、松代藩は横浜応接所付近の警備に当たっていたが、佐久間象山も居た。 | |
| 1,854 | 4 | 8 |
佐久間象山が、自身の正室で勝小吉の娘の勝順子に、以下の主旨の書簡を送る。 西暦1,854年4月6日にマシュー・ペリーが上陸した折の事だが、通り掛かりに我々の前を通り過ぎた時、鳥渡会釈して通った。ペリーは並みの人には会釈はしないという事であるが、此の様な事だったので、人々は彼此言っていた様に見えた。何程の事も無いのだが。 |
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| 1,854 | 4 | 10 |
マシュー・ペリー率いる以下の2隻が、横浜村沖を離れ、江戸に近付いた後に引き返す。 ①ポーハタン ②ミシシッピ ペリーは、日本側の役人に、蒸気船を江戸の近くには停泊させない事を約束した上で、同乗した以下3名の求めに応じて、引き返した。 ①平山省斎 ②森山栄之助 ③合原猪三郎 平山・森山・合原は、江戸への接近を止める様ペリーに懇請したが聞き入れられず、出航に至った。其の後以下の7隻は、小柴沖に停泊した。 ①ポーハタン ②ミシシッピ ③サザンプトン ④サプライ ⑤マセドニアン ⑥ヴァンダリア ⑦レキシントン |
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| 1,854 | 4 | 11 |
此の日から、以下5隻が順に、下田へ向けて、小柴沖を出港する。 ①サザンプトン ②サプライ ③マセドニアン ④ヴァンダリア ⑤レキシントン |
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| 1,854 | 4 | 15 |
以下2隻が、下田に入港する。 ①サザンプトン ②サプライ |
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| 1,854 | 4 | 15 | 吉田松陰が、自身の弟子で萩藩の足軽である金子重之輔と共に、徒歩で下田に到着する。吉田・金子は、西暦1,854年3月31日頃に、横浜に停泊していたマシュー・ペリー率いる艦隊に近付こうとして舟を借りる相手を探したが果たせず、ペリー率いる艦隊が下田へ向けて出航すると、陸路で後を追っていた。そして、役人の目を逃れる為に、吉田は「瓜中万二」、金子は「市木公太」と変名し、岡村屋(現在の静岡県下田市二丁目)に宿泊した。皮膚病を患っていた吉田は、治療の為、蓮台寺(現在の静岡県下田市)の共同浴場を訪れ、其処で村医者・村山行馬郎と知り合い、吉田は数日間村山の屋敷に身を寄せた。そんな中でも吉田は、昼夜を問わず海岸に出てペリー率いる艦隊の様子を伺っていた。 | |
| 1,854 | 4 | 17 |
以下2隻が、下田に入港する。 ①ヴァンダリア ②レキシントン |
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| 1,854 | 4 | 18 |
早朝、以下2隻が、下田へ向けて、小柴沖を出港する。 ①ポーハタン ②ミシシッピ 同日15時頃、此の2隻は下田に入港した。 |
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| 1,854 | 4 | 21 |
マシュー・ペリーが、7名を随行させて弁天橋(現在の静岡県下田市三丁目)近くに上陸する。そして、休息所として提供された了仙寺(現在の静岡県下田市三丁目)までの約700mを歩いた。群集が見物する中、了仙寺で浦賀奉行支配組頭黒川嘉兵衛による以下等の饗応が行われた。 ①保命酒 ②九年母 ③菓子 |
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| 1,854 | 4 | 21 | 江戸幕府が、伊沢政義を、第16代下田奉行に任命する。 | |
| 1,854 | 4 | 22 |
夜、以下2名が、マシュー・ペリー艦隊に漕ぎ着けて乗船を直談判する事を意図し、稲生沢川河口(現在の静岡県下田市武ガ浜付近)から伝馬船を漕ぎ出す。 ①吉田松陰 ②金子重之輔 しかし、悪天候と高波で断念した。 |
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| 1,854 | 4 | 23 |
吉田松陰・金子重之輔が、以下2名に渡航を懇請する為の「投夷書」を渡す。 ①サミュエル・ウィリアムズ ②アントン・ポートマン 投夷書は漢文で書かれていて、漢文が読めるウィリアムズは其れを読んだ。 |
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| 1,854 | 4 | 24 |
夜、以下2名が、弁天島(現在の静岡県下田市柿崎)から舟を漕ぎ出す。 ①吉田松陰 ②金子重之輔 先ずミシシッピに漕ぎ着けたが、其処で旗艦のポーハタンへ行く様言われ、吉田・金子は、ポーハタンまで漕いで、梯子に飛び移って乗り込んだ。吉田・金子は船室へ通され、改めてアメリカへ連れて行って欲しいと懇願した。応対したサミュエル・ウィリアムズは「条約を結んだばかりで信義に反する。江戸幕府の許可の無い渡航はさせられない」として断った。吉田・金子は、下級士官がオールを漕ぐ小船で福浦海岸(現在の静岡県下田市柿崎)に送り返された。 |
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| 1,854 | 4 | 25 |
以下2名が、柿崎名主増田平右衛門の屋敷を訪れ、下田奉行所への取り次ぎを頼んだ上で自首する。 ①吉田松陰 ②金子重之輔 吉田・金子は、下田番所(現在の静岡県下田市三丁目)で取り調べを受けた。吉田は取り調べの際、国家の為、異国の情勢を探知する為の企てであったと説いた。夜、下田奉行所の同心が、吉田・金子を引き取りに来た。其の後吉田・金子は、長命寺(現在の静岡県下田市四丁目)に一時拘禁され、平滑の獄(現在の静岡県下田市四丁目)にて、黒川嘉兵衛による取り調べを受けた。 |
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| 1,854 | 5 | 2 | マセドニアンが下田に入港する。マシュー・ペリーの指示により父島に立ち寄ってからの入港であった。 | |
| 1,854 | 5 | 7 |
以下2名が、縄を掛けられ、唐丸籠で、江戸へ向けて下田を出発する。 ①吉田松陰 ②金子重之輔 其の後天城山を越えて江戸へ護送され、伝馬町牢屋敷へ送られた。 |
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| 1,854 | 6 | 17 | 下田条約が締結され、玉泉寺(現在の静岡県下田市柿崎)と了仙寺(現在の静岡県下田市七軒町)がアメリカ人の休息所となる。また、アメリカ人の上陸遊歩の範囲は、犬走島を中心に半径7里以内と定められていたが、止宿は許されていなかった。 | |
| 1,854 | 7 | 14 | サイード・パシャが第4代ムハンマド・アリー朝君主に即位する。此れを機に嘗てパシャの家庭教師であったフランスの外交官フェルディナン・ド・レセップスがパシャに接近し、スエズ運河建設を訴え始める。 | |
| 1,854 | 9 | 27 |
以下2名の間に長女フレデリカ・ボルトン・ベルモントが生誕する。 ①オーガスト・ベルモント ②キャロライン・スライデル・ペリー |
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| 1,854 | 9 | 27 | オーガスト・ベルモントが、正式な駐ハーグアメリカ大使となる。 | |
| 1,854 | 10 | ジューニアス・モルガンがジョージ・ピーボディのパートナーとなりロンドンに移住する。 | ||
| 1,854 | 10 | 14 |
日英和親条約が締結される。長崎奉行水野忠徳及び同目付永井尚志が調印した。以下が規定された。 ①下田・箱館の開港 ②難破船乗員の救助 ③薪水の供給 ④最恵国待遇の承認 ⑤領事駐在権の容認 |
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| 1,854 | 11 | 30 |
フェルディナン・ド・レセップスがサイード・パシャから以下の内容のスエズ運河建設の許可書を手にする。 ①国際スエズ運河会社の99年間の権利期限 ②スエズ運河の国際無差別性と自由航路 更に、土木・鉄道建設技師アロイス・ネグレッリの作成した計画に基づいて全ての国の船舶に開放された運河を建設する会社を設立し、関連する土地をリースする許可を得た。 |
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| ≈ | 1,854 | 12 |
マシュー・ペリーが、ハーグに居る娘夫婦を訪ねる。其の際、以下の人間が出迎えた。 ①オーガスト・ベルモント ②キャロライン・スライデル・ペリー ③オーガストのペリー・ベルモント ④オーガストのオーガスト・ベルモント・ジュニア ⑤オーガストのフレデリカ・ボルトン・ベルモント ⑥マシューの妻ジェーン・スライデル・ペリー,br> ⑦マシューとジェーンの末娘イザベラ・ボルトン・ペリー |
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