西暦1853年(嘉永6年)は、マシュー・ペリーが率いるアメリカ海軍東インド艦隊が浦賀に来航した黒船来航の年である。ペリーは琉球王国や小笠原を経て浦賀に至り、久里浜でフィルモア大統領の親書を手渡して翌春の再来航を予告した。直後に第12代将軍徳川家慶が死去し、老中首座の阿部正弘は諸大名に開国対策を諮問、品川沖に台場が造営され大船建造の禁が解かれた。ロシアのプチャーチンも長崎に来航し、ジョン万次郎が幕府に招かれた。海外ではクリミア戦争が勃発し、太平天国が南京を陥落させ、リーバイスが創業した。

以下の暦は全て西暦に変換しています。 日本の旧暦 / 中国の旧暦 / ユダヤ暦 / ヒジュラ暦 / ソビエト連邦暦 / フランス革命暦

≈は「頃」を意味しています。

皇室献上品 高級トイレットペーパー 皇室献上品 高級トイレットペーパー
年月日 出来事
1,853 シャルル・フェリシアン・ティソと息子シャルル・エミール・ティソがル・ロックル(現在のスイスのヌーシャテル州)にて自宅を時計工房とし「ティソ」を設立する。
1,853 レーマンが円周率に関し、西暦1,776年にチャールズ・ハットンが発見した公式を、レオンハルト・オイラーが独立した公式として発見した以下の式用い、261桁の精度を得る。
4 π = 2 arctan 1 3 +arctan 1 7
π=3.1415926535897932384626433832795028841971693993751058209
74944592307816406286208998628034825342117067982148086513282
30664709384460955058223172535940812848111745028410270193852
11055596446229489549303819644288109756659334461284756482337
86783165271201909145648566923
1,853 ジョン・エマリーが、防水加工を施したウール生地を開発する。数年後に、其の製造方法の特許を取得し、ラテン語のアクア(水)とスクトゥム(盾)を使った「アクアスキュータム」を設立した。
1,853 リーヴァイ・ストラウスが、サンフランシスコのカリフォルニア・ストリートにて雑貨店・生地商「リーバイ・ストラウス社」を設立する。
1,853 デイヴィッド・サスーンがイギリス国籍を取得する。
1,853 2 18 以下2名の間に弐男オーガスト・ベルモント・ジュニアが生誕する。
①オーガスト・ベルモント
②キャロライン・スライデル・ペリー
1,853 3 19 太平天国軍が南京を陥落させ、天京と改名し、王朝を立てた。
1,853 5 4 マシュー・ペリーが上海に到着する。其の後ペリーは、以下4名と接触した。
①サミュエル・ウィリアムズ
②アメリカの外交官アントン・ポートマン
③駐清アメリカ公使ハンフリー・マーシャル
④駐清アメリカ臨時代理公使ピーター・パーカー
ウィリアムズは、西暦1,837年のモリソン号事件で日本を訪問した経験から、日本文化や外交に関する知識をペリーに与えた。マーシャルも、太平天国の乱や清の情勢をペリーに伝えた。又パーカーは、太平天国の乱に関する情報共有や外交助言をペリーに行った。パーカーは通訳者として、以下2名と共に黄埔を訪れた事も有った。 ①ケイレブ・クッシング
②ウォーレン・デラノ・ジュニア
1,853 5 17 マシュー・ペリー一行が、琉球王国へ向けて、以下の3隻の船で上海を出発する。
①ミシシッピ(旗艦)
②プリマス
③サラトガ
アメリカは、アジアに進出した西欧諸国に遅れをとらない様、琉球王国を開国させて、蒸気船に必要な石炭の補給基地の建設や、アメリカ船への物資の補給を行える様にするのが狙いであった。以下2名も帯同した。
①サミュエル・ウィリアムズ(主席通訳(中国語)としてペリーが雇用)
②アントン・ポートマン(艦隊書記・参謀としてペリーが雇用)
ポートマンは道中、ミラード・フィルモアの親書のオランダ語訳を作成した。
1,853 5 24 以下2名が、マシュー・ペリーから借りた蒸気フリゲート艦サスケハナに乗船し、揚子江を上って南京へ向かい、太平天国との接触を試みる。
①ピーター・パーカー
②ハンフリー・マーシャル
結果、接触に失敗し、上海に戻った。
1,853 5 26 マシュー・ペリー一行が那覇に到着する。ペリーは直様、首里城入城を要求した。王家の住む城に兵を入れ、今後の交渉を有利に進める狙いが有った。しかし、琉球王国政府は対応しようとしなかった。
1,853 5 30 マシュー・ペリー一行が、徒歩での琉球王国の調査を開始する。護国寺(現在の沖縄県那覇市若狭)から、以下を経由して中城湾を見下ろす丘(現在の沖縄県中頭郡北中城村付近)で一夜を過ごした。
①首里城
②弁ヶ嶽(現在の沖縄県那覇市首里鳥堀町)
1,853 5 31 マシュー・ペリー一行が、中城城を経由して北上し、金武湾に面した間切番所(現在の沖縄県うるま市)にて一泊する。
1,853 6 1 マシュー・ペリー一行が、金武湾に沿って北上し、金武村の番所(現在の沖縄県国頭郡金武町)にて一泊する。
1,853 6 2 マシュー・ペリー一行が、漢那(現在の沖縄県国頭郡宜野座村)を経由して、西海岸へ向かって山地を越え、名嘉真(現在の沖縄県国頭郡恩納村)を経由して恩納村(現在の沖縄県国頭郡)の間切番所にて一泊する。
1,853 6 3 マシュー・ペリー一行が、以下を経由して、北谷間切に宿泊する。
①読谷山間切
②比謝矼(現在の沖縄県中頭郡読谷村)
1,853 6 4 マシュー・ペリー一行が、以下を経由して、那覇に帰着する。
①宜野湾間切
②浦添間切
報告書には、沿道の各所に琉球松が繁り、石川(現在の沖縄県うるま市)や金武では、並木道も整備されており、間切番所も清潔で快適であったと記載された。ペリーに同行した画家ウィリアム・ハイネも、琉球の風物や人物等を描いた。又、同じくペリーに同行した医師で植物学者のジェームズ・モローは、集落内や周辺の道路に就いて以下の内容を記した。
琉球の道路は綺麗に整備されている。道幅は広く、表面に凹凸が無い。道路の両端には排水溝が走り、其の外側の土手の上には3〜6mの間隔を置いて松並木が走り、遠くから眺めると、2列の見事な緑の流れが山々の頂まで続き、豊かな田園風景の終着点となっている。市街の道路は、ヨーロッパ風の石畳道路で、世界のどの国にも劣らず整然としている。
1,853 6 6 マシュー・ペリーが、200名の兵を率い、琉球王国政府の抵抗を押し切って首里城に入城する。琉球王国政府は、偽の行政機関を設け、上層部の役人や王族が直接接触する事を避けた。そして、ペリーを北殿に通し、偽の役人が対応する事で、正殿や尚泰王を守り抜いた。
1,853 6 6 フランクリン・ブキャナンが艦長を務めるサスケハナが琉球王国に到着し、マシュー・ペリー一行に合流する。ペリーは、再度サスケハナを旗艦に指定した。
1,853 6 9 マシュー・ペリー側が、琉球王国に対し、友好条約の草案を提示する。
1,853 6 9 マシュー・ペリー一行が、以下の2隻で、アメリカの捕鯨船や商業船の為の避難港・補給基地を確保し、石炭貯蔵所や潜在的なアメリカ海軍拠点を構築する事を意図し、小笠原諸島へ向けて琉球王国を出発する。
①サスケハナ(旗艦)
②サラトガ
1,853 6 14 マシュー・ペリー一行が、二見港(現在の東京都小笠原村父島東町)に到着する。以降ペリーは、以下を行った。
①島内探検
②石炭貯蔵用地の購入
③アメリカ海軍管理下の父島植民地政府の樹立・現地島民へ指導
④③に当たり、ナサニエル・セイヴァリーを移民の頭目に任命
⑤母島での現地調査・アメリカ領有宣言の銘板の写しの設置
1,853 6 18 マシュー・ペリー一行が、琉球王国へ向けて、父島を出発する。
1,853 6 23 マシュー・ペリー一行が、琉球王国に帰着する。
1,853 6 23 マシュー・ペリー側と琉球王国政府の間で、簡易的な友好協定が結ばれる。此れにより、アメリカ船の琉球王国への寄港が許可された。
1,853 7 2 マシュー・ペリー一行が、以下の4隻で、琉球王国を出発する。
①サスケハナ(旗艦)
②ミシシッピ
③プリマス
④サラトガ
1,853 7 4 マシュー・ペリー一行が、アメリカ独立77周年を祝い、洋上で祝砲を放つ。
1,853 7 8 午前、マシュー・ペリーが以下の4隻を率い、浦賀水道を北上する。
①サスケハナ(旗艦)
②ミシシッピ
③プリマス
④サラトガ
以下の人間を始めとする、水兵・科学者・技術者・料理人・音楽隊員・通訳・旅行記録者等約1,000名がペリーに同行していた。
①ウィリアム・ハイネ
②画家エリファレット・ブラウン・ジュニア
③サミュエル・ウィリアムズ
④アントン・ポートマン
⑤植物学者ジェームズ・モロウ
ペリー一行は、以下を結ぶ日本の防衛線を越え、江戸方面へ蒸気船を進め、4隻で計73門の大砲で空砲を放った。 ①観音崎(現在の神奈川県横須賀市鴨居)
②富津岬(現在の千葉県富津市)
17時、晴天の下、4隻が一列に投錨し、浦賀の町に砲門を向けた。日本側の警備船が此れを取り囲み、国際外交の共通語であったフランス語で「即刻退去せよ」と書かれた大きな旗を掲げたが、ペリーは、日本側の役人の乗船を一切拒否した。警備船がサラトガにロープや鎖を投げて接舷しようとしたが、水兵がロープを切断し、槍・短剣・拳銃で追い払った。此の時江戸湾の防備に当たっていたのは以下の藩であった。
①川越藩
②彦根藩
③会津藩
④忍藩
其の後、以下2名が、異国船に対して退去を求める書類を携え、番船でマシュー・ペリーが乗船しているサスケハナに横付けした。
①浦賀奉行所与力で応接掛の中島三郎助
②小通詞堀達之助
堀は第一声、オランダ語で「I can speak Dutch」と、オランダ語が話せる事を主張した。ウィリアムズも片言の日本語で話しかけた。但、交渉自体は、ポートマンを介してオランダ語で行われた。ペリー側は、異国船に対して退去を求める書類を提示しても応じず、乗船も拒否した。ペリー自身も、ミラード・フィルモアの親書を持参しているので、相応の身分の役人としか会わない旨を伝え、船室に籠った儘面会を拒否した。其処で堀は、中島を副奉行として紹介した。浦賀奉行所に副奉行という役職は実際には存在しなかったが、此れにより中島・堀は乗船を許可された。中島・堀が甲板に上がると、サスケハナの乗組員達は、戦闘態勢を取っていた。中島は乗船中に船体構造・搭載砲(ペクサン砲・ダールグレン砲)・蒸気機関を入念に調査した。ペリー側は中島を「密偵の様だ」、「大胆で出しゃばり、しつこく詮索好き」と記録した。此の日佐久間象山は、木挽町(現在の東京都中央区銀座)の五月塾にて、砲術と経書を教授していた。
1,853 7 9 夜明け頃、佐久間象山が、木挽町の屋敷にて、マシュー・ペリーの浦賀来航の注進を受ける。佐久間は直様、外桜田(現在の千代田区霞が関)の松代藩上屋敷に出頭し、ご用番へ届け出て、足軽2名を連れて浦賀へ向かった。
1,853 7 9 浦賀奉行所与力香山栄左衛門が、浦賀奉行を詐称して、中島三郎助と共にサスケハナ号を訪れ、以下3名と会談する。
①サスケハナ艦長フランクリン・ブキャナン
②アメリカ海軍東インド艦隊参謀長ヘンリー・A・アダムズ
③アメリカ海軍東インド艦隊旗艦副官ジョン・コンティ
コンティが窓口となって中島・香山と最初に接触し、交渉が行われた。マシュー・ペリーは船室に籠り、姿を現さなかった。香山は、長崎への回航を要求したが、ブキャナンは拒否し「江戸幕府が国書受領に相応しい高官を派遣しないなら、武力に訴えてでも上陸し、ペリー自ら徳川家慶にミラード・フィルモアの親書を呈したい」という主旨の発言をした。香山は「江戸幕府に報告してから回答する」とし、4日の猶予を求めた。ペリーは「3日なら待つ」と回答した。此の日から浦賀には、見物人が集まり始めた。
1,853 7 9 マシュー・ペリーが、以下の艦隊所属の各艦から1隻ずつ、計4隻の武装した短艇を派遣し、浦賀湊内を測量させる。
①サスケハナ
②ミシシッピ
③プリマス
④サラトガ
浦賀奉行所は抗議したが、アメリカ側は無視した。
1,853 7 9 22時頃、佐久間象山一行が浦賀に到着する。佐久間達は、金川(現在の神奈川県横浜市神奈川区東神奈川付近)迄陸路で進み、其処で船に乗り、南風に逆らって大津(現在の神奈川県横須賀市)に上陸し、其処から陸路で浦賀に入った。佐久間は、以前から知っていた旅籠「小泉屋」に宿泊した。
1,853 7 10 早朝に起きた佐久間象山が、東浦賀から山を登って鴨居(現在の神奈川県横須賀市)からマシュー・ペリー率いる艦隊を双眼鏡で観察する。夕方にも佐久間は観察を行ったが、西日に照らされた艦隊をはっきりと観察出来、オランダ練兵のものと似た緩急の有る演奏が船中から聞こえた。
1,853 7 10 香山栄左衛門が、マシュー・ペリー率いるアメリカ海軍東インド艦隊の浦賀来航に関し、江戸詰の浦賀奉行井戸弘道に報告する。此の日の浦賀は、江戸からも見物人が殺到していた。
1,853 7 11 早朝、アメリカ海軍東インド艦隊の測量艇隊が、江戸湾内に約20km侵入する。ミシシッピが護衛に付いた。此れを受けて江戸幕府は、警備船を送った。ミシシッピ号の小艇に乗っていたサイラス・ベントは、測量の際、日本側の槍・火縄銃で武装した武士の乗る40隻の警備船に遭遇した。ベントは、警備船の間を突き進んで進路を変え、ミシシッピに伝令として船を送り、ミシシッピ艦長シドニー・スミス・リーに、ミシシッピを接近させる様要請した。ミシシッピが接近すると、警備船は退去した。
1,853 7 11 佐久間象山が、松代藩江戸詰家老望月主水に対し、以下の主旨の書簡を足軽経由で送る。
蒸気船の速さは、とても言葉に出来ない程です。松輪崎(現在の神奈川県三浦市南下浦町松輪)に異国船の帆影が見えたかと思うと、矢のような速さで走って来ました。彦根藩の台場からも止めようとしましたが、まるで追い付けません。先頭の一隻は浦賀港を素通りして、鴨居(現在の神奈川県横須賀市)の辺りに錨を下ろしました。続いて帆船が1隻、此れは先の蒸気船が曳いて来たもののようです。更に蒸気船1隻と帆船1隻が来て、合わせて4隻が、浦賀港から江戸の方へ向けて縦一列に停泊しました。此れ迄の異国船とは丸で様子が違い、乗組員も取り分け高慢です。従来は異国船が来る度に与力が乗り込んで様子を確かめるのが慣例でしたが、今回は同心・与力といった下役の乗船は許されず、「奉行なら乗せる」と言って、近づく者は手振りで追い払います。無理に近づけば鉄砲を持ち出して撃ち兼ねない勢いで、一番船に向かった与力も其の儘引き返しました。彦根藩の受け持ちからも強いて乗り込もうとした者が居ましたが、空砲とはいえ2発撃たれ、恐れを成して戻っています。何処の国かと尋ねても、小泉屋の主人にも分かりませんでした。西暦1,853年7月10日の早朝に起き出し、東浦賀(現在の神奈川県横須賀市)から山を登って鴨居から一通り眺めました。浦賀の港口から東南へ約1.8km程の所に大砲28門を備えたコルベット艦が1隻、其処から東北へ約440m離れて蒸気船が1隻。形はコルベット艦より遥かに大きく、大きさの比は5:3といった所です。コルベット艦の全長は約45m、蒸気船は約72m程に見えました。其の東北にも同じく蒸気船が1隻在り、此れは先のものよりもやや大きかったです。何れも船腹に外輪を備えていて、輪の直径は凡そ12m、蒸気を起こす筒と思しきものが直径約1.5mばかりで、舷側より約6m余り高く突き出ています。大砲は、外輪の前に4門、後ろに2門、此処は砲門が開いていたのではっきり見えました。其の上に更に6門、此方は砲門を閉じていたので微かにしか見えませんが、合わせて24門程を備えている様です。更に其の東北に28門のコルベット艦がもう1隻。船と船の間隔はどれも約440m程で、間をとって並び、両端にコルベット艦、中程に蒸気船2隻を置く配置の様です。船の構えは如何にも煌びやかで、乗組員は4隻合わせて2,000名ばかり。掲げている旗(アメリカ国旗)は、此の様な形で、四隅の黒白は俗にいう一抹の様に見えます。持参した望遠鏡が格別良いものではないので細部までは分からず、詳しくは追って報告します。其の後小泉屋に戻り、浦賀奉行所の伝手を辿って、異国船到来の経緯を聞き込みました。皆、今度ばかりは事件になると覚悟を決めている様子です。与力の中島三郎助という者が、オランダ通詞の堀達之助と共に、旗艦と思われる船(浦賀側から3番目、江戸側から2番目)に漕ぎ寄せました。乗船を拒まれながらも強引に乗り込み、「何処の国から、何の用で来たのか」と尋ねたところ、相手は「北アメリカのワシントンだ」と答え、「今回の用向きは江戸へ直接出向くことだから、お前達の世話にはならない。通訳も居るので不要だ」と言い放ったとの事です。其の通訳をした者は確かに通詞の様で、日本語を操りますが、長崎の人の様な発音だったと言います。他に辮髪の者も乗っている様で、此れは清国人と思われ、漢文での遣り取りに備えているのでしょう。昨年来、江戸幕府から此処へ出ているお達しでは、オランダの書簡でさえ今後は受け取らず封の儘返すと定められ、異国の文書類は一切受理しない様に、との事でした。ですから今回の異国船も、彼等の言う儘に江戸湾の奥へ入れてしまっては済む話ではありません。又、持参した国書を浦賀奉行へ直接渡すというのなら本来そう取り計らうべき所ですが、兼ねてのお達しもあり、浦賀奉行が直に受け取るのは一大事です。其処で一昨夜、与力の香山栄左衛門が、其の指示を仰ぐ為に早舟で江戸へ向かった様です。異国人の言い分では、もし今回国書を受け取らないとなれば、きっと乱暴を働いて帰る、と言い出しているそうです。そうした情勢なので、下曽根信敦殿等も家来2名に「非常の覚悟で来る様に」と申し送り、戸田氏栄殿も、何れ事件になる以上、其の時に夷人の手に掛かるのは無念だからと、寺で自害するつもりで寺の掃除を命じた、との事です。私見を言えば、寺へ行くくらいなら、最早逃れられないと悟った時には、浦賀奉行所に火を放って自決する方が良いと思います。浦賀の商家でも、各々逃げ出そうとして、長持や其の他の家財を運び出す者が屡々見られます。異国船は又四隻やって来る、と夷人共が言っているとも聞きました。何れにせよ、今回は容易には収まらないと思います。もし彼等の言う儘に要求を認めてしまえば、其れが前例となり、他の国々も武力を盾に同じ様な要求を持ち出すでしょう。其れをも次々に認めていけば、我が国が軈て四分五裂するのは目前の事です。まさか今回、要求を認める事は無いでしょうが、然りとて軍艦を4隻も8隻も仕立てて渡来し、条件次第では乱暴もする、と言い出している以上、要求が通らなければ只では帰るまいと思われます。抑抑今回の様な事態が起きたのは、全く実の有る武備が無いからです。近年、江戸近海に新しい台場等を築いてはいますが、兼ねて申し上げているとおり、1つとして理にかなって異国船の防御になるものがありません。私の目から見れば、彼等も一目で此方の技量の程を見抜いている筈で、大船も無く砲術も極めて未熟だと見込んでいるでしょうから、どんな乱暴に出るか測り兼ねます。浦賀辺りへの乱暴なら、どの程度のものであれ、高が知れています。しかし内海に乗り入れ、江戸へ一発でも砲弾を撃ち込む様な事が有れば、只大変では済みません。後の禍を顧みず今回の件を受け入れるか、それとも戦になる恐れを承知で拒むか、其れは幕閣のご判断であって、私共の考えの及ぶ所ではありません。どちらに転ぶかも見通せません。先ずは人員配備の手配を第一にお願いし、万一の際には御前様方のお立ち退きの用意まで為さる様お願い致します。1つ1つ手配下さり、其れが不要に終われば、此れに勝る喜びはありません。何分、手違いの無い様お願い致します。取り急ぎ申し上げました。
追伸-此の手紙を書いている間にも、西暦1,853年7月12日迄に国書を受け取るか否かの返答が無ければ大砲で打ち払うと言って来たとの事です。浦賀奉行所から確かに聞きました。此の様子では、私も直ぐに帰る事にします。
1,853 7 11 阿部正弘が「国法には反するが、国書を受け取るだけなら条約を結んだ訳でも通商を認めた訳でも無い。だから主権を譲り渡した主権侵害にはならない」とし、ミラード・フィルモアの親書を、長崎奉行を通さずに久里浜で受理する事を決定する。此の時、徳川家慶は病床に伏せていた。阿部は、浦賀奉行井戸弘道に浦賀へ行き、浦賀奉行戸田氏栄と協議し、フィルモアの親書を受け取る様命じた。
1,853 7 11 佐久間象山が、1隻の蒸気船が観音崎を越えて内海に入ったと耳にする。佐久間は、江戸は大騒ぎであろうと考え、松代藩の屋敷が気に掛かり、急遽大津で船を手配し江戸へ向かった。其の船上から、ミシシッピが、大尉サイラス・ベントの指揮する2隻の測量ボートを使って測量して東に向かい、戻って来る行動を観察した。佐久間は途中で船を乗り換えた。
1,853 7 11 18時過ぎ、佐久間象山が、浦賀から自身の屋敷に帰着する。佐久間は直ちに松代藩上屋敷に向かい、以下2名と面会した。
①第9代松代藩主真田幸教
②望月主水
佐久間は、今回ミシシッピが内海に侵入して測量を行った沿岸に於いて、警備をする諸藩から目立った抵抗も無かったとして、此れでは近々、彼等夷人が悪事に及び兼ねず、松代藩としては、大小銃や弾薬の用意が最重要になると申し立てた。真田は、尤もであるとして、望月に準備を命じた。更に真田は、佐久間に対し、別の考えがあれば述べる様に促した。佐久間は、大砲の準備と其の運用に就いて、大砲御用掛や運用頭取の任命を進言し、自身の弟子の中から熟達者を選抜した。
1,853 7 12 香山栄左衛門が、サスケハナへ向かい、西暦1,853年7月14日に久里浜の海岸でミラード・フィルモアの親書を受け取る旨をアメリカ側に伝える。其の後香山は、フィルモアの親書受け渡しの交渉成立を祝い、サスケハナの船内を案内された。地球儀を見せられた香山は、アメリカ側の予想に反して、平然とニューヨークやワシントンD.C.の位置を指し示し、アメリカ側を驚かせた。
1,853 7 12 夕方、江戸幕府が、御固の一環で御殿山を福井藩に割り振る。
1,853 7 14 早朝、佐久間象山が、望月主水の下を訪ねる。佐久間は、以下の主旨の進言をした。
第8代松代藩主真田幸貫殿は、終身外寇の件に於いてご苦労なされました。此処江戸藩邸で大砲を製作され、松代藩から取り寄せた事も有ります。此れは恐らく、今回の様な非常時に備え、江戸幕府の警備の役にも立てようというお考えだったのだと思います。近い内に、防衛の為、諸藩にも出兵の要請が出されるでしょう。此方から何も言わなくても、我が藩邸に大砲が数門在る事は世間に知られていますから、今日にでも警備の持ち場への出動を命じられるかも知れません。増して、もし再び異国船が内海に入り込んで乱暴を始めれば、防戦を命じられるのは先ず間違いありません。但、大砲は地形を踏まえて使う事が軍事上肝心です。其れなのに、いざ急場となれば、江戸幕府が大砲の門数で以って細かく配置を決める事は先ず出来ません。そうなると、場合によっては、大砲を活かし難い場所への出動を命じられ兼ねず、其の時には幸貫殿が生涯を懸けて造り上げられた武器も、有っても無いのと同じになってしまいます。更に、地の利も考えずに大砲を引っ張り出して来て、万一にも敵に奪われ、其の大砲を逆に此方へ撃ち返される様な事が有れば、利点を失うどころか、真田家にとって末代までの不名誉となります。ですので、大砲を用いるには、先ず有利な地形を選ぶ事が必要です。江戸の市中を焼き払いでもしない限り、最も江戸の市中に近い場所で大砲を運用出来る所を選ぶとすれば、御殿山(現在の東京都品川区東品川)の近辺以外には在りません。異国船が入って来た際には、此処が要所となり、防ぐのに好都合な土地です。此の御殿山に場所を定め「今回の防衛は是非我が藩に」と江戸幕府の上層部へ内々に願い出れば、幸貫殿の忠義のお心を受け継ぐ事になり、此の上無い親孝行になります。又、江戸幕府に対しても、外敵と打つかる最前線を引き受ける事になりますから、立派な忠節となります。無論、松代藩の家臣団が国家の為に命を捧げるのは当然の事ですが、其れでも、無謀に動いてむざむざ命を散らすのは痛ましい事です。御殿山であれば、敵の砲撃を躱しながら大砲を撃つ手立ても有りますし、仮令真田幸教殿ご自身が出陣為さっても、御殿山なら西洋でボムフレイと呼ばれる防弾施設も造れるでしょう。此れを早速造らせ、其の中に幸教殿がお入り頂ければ、斯うした非常時には却って藩邸に居られるよりも安心していられます。凡ゆる面で万全を期すべき今、此れ以上の策はありません。
望月は、真っ当な意見であるとし、同意した。佐久間は「私を幕閣へ向かう正式な使者に随行する御内使者に任命し、阿部正弘殿が牧野忠雅殿の下へ派遣して頂ければ、細かい点は私が其の場で臨機応変に説明します」という主旨の発言をした。望月は、此の佐久間の提案を幸教に取り次ぎ、幸教の裁可を得て、正式に受理された。此れを受けて、佐久間は直様以下2名の屋敷を訪問し、御殿山守備を訴えた。
①阿部
②牧野
阿部は、佐久間の訴えは尤もであり、道理に適っているとし、評議の為に正式な口上書を提出する様言った。佐久間は此れを提出した。又幸教は、佐久間を軍議役に任命し、関係する松代藩士が全員佐久間の門下に入り、佐久間は、其の者達を束ねて砲術隊を組織する様命じられた。早速江戸藩邸の御殿にて入門式が行われ、佐久間は馬場へ出て、大砲の装法や打ち方を指導した。
1,853 7 14 8時、日本側がサスケハナに向かい、10時、アメリカ海軍東インド艦隊が、久里浜に上陸する。サスケハナの13発の礼砲の下、マシュー・ペリーは、250名の水兵・海兵隊を率い、15隻のボートで盛大に上陸した。国書伝達式が執り行われ、海兵隊が捧げ銃をし、軍楽隊が「ヘイル・コロンビア」を演奏し、ミラード・フィルモアの親書が、以下2名に手渡された。
①戸田氏栄
②井戸弘道
伝達式は20分程度で終了した。親書には、以下の要求が書かれていた。
①通商
②石炭と食糧の供給
③難破民の保護
江戸幕府は此れを受けて、徳川家慶が病気の為、決定が出来ない旨を伝えた。ペリーは、戸田・井戸と会談したものの、外交交渉は一切行われず、親書の受け渡しのみで終わった。江戸幕府は、受領書をアメリカ側に渡したが「国書は受け取ったのだから、速やかにお引き取りを願いたい」旨が書かれていた。しかしペリー率いる艦隊は、親書の受け渡し後、此の日から翌日に掛けて、内海の停泊候補地域の測量を行い、武蔵国橘樹郡生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区)辺りにまで進入して測量し、次回来航時の停泊地の決定に備えた。
1,853 7 15 マシュー・ペリー率いる艦隊が退去する様子を見せない為、浦賀奉行が、再度香山栄左衛門を派遣し、退去を迫る。香山は此の日、夏島(現在の神奈川県横須賀市)で一晩を明かした。
1,853 7 15 佐久間象山が、江戸幕府からの出兵命令に備え、福井藩との調整の為、歩行新宿の北側にある清水横町(現在の東京都品川区北品川)から鉄砲坂を上り、御殿山へ赴く。其処には、左右には出兵した人数を待機させるのに都合の良い屋敷が在り、福井藩の現地責任者との調整も完了した。佐久間の名前は福井藩でも知られており、福井藩は佐久間に助言を求めた。佐久間は、福井藩から、前日にマシュー・ペリー率いる艦隊の4隻の異国船が全て内海に入り、其の内の1隻は、武蔵国橘樹郡生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区)近くまで進入した事を聞いた。此れに危機感を抱いた佐久間は、汗馬に鞭を当てて松代藩邸に駆け戻り、御殿山の見積もりや、生麦近くまで異国船が進入した事を報告し、御馬奉行に、翌日早朝に借りる馬の準備を頼んで、自身の屋敷に戻って休息を取った。
1,853 7 15 夕方、アメリカ海軍東インド艦隊が、以下4隻を北上させ、江戸湾深くに侵入する。
①サスケハナ
②ミシシッピ
③プリマス
④サラトガ
此の時マシュー・ペリーは、ミシシッピに乗船していた。サスケハナとミシシッピは、江戸の街を見渡せる所まで艦を進ませた。そして、日が暮れてから大砲を放ち、威嚇した。其の後アメリカ海軍東インド艦隊は、小柴沖(現在の神奈川県横浜市金沢区柴町)に引き返した。
1,853 7 16 マシュー・ペリーが、大津沖にやって来て、翌日の退去を約束する。
1,853 7 17 アメリカ海軍東インド艦隊が、浦賀を出航する。マシュー・ペリーは、翌春の再来航を予告し、琉球王国へと向かった。
1,853 7 20 江戸幕府がマシュー・ペリー来航を朝廷に上奏。
1,853 7 24 チャールズ・ダーウィンが、自身の従弟で遺伝学者のフランシス・ゴルトンの著作である「熱帯南アフリカの探検家物語」を読了した感想として、ゴルトンへ書簡を送る。ダーウィンとゴルトンは、共通の祖父として医師エラズマス・ダーウィンを持ち、ダーウィン家とゴルトン家は長年の交流が有った。書簡の内容は以下の通り。
私達の知り合いが長い間途絶えていた後で、私から手紙を受け取って驚かれるかもしれません。しかし、私は昨夜、貴方の本を読み終え、非常に興味深く感じたので、貴方の探検と其の素晴らしい記録に対する私の賞賛を表現する誘惑に抗えませんでした。貴方は多くの優れた識者から称賛を受けているでしょうから、私の言葉など気にされないかもしれませんが、貴方の本の精神とスタイルをどれほど強く賞賛しているかを伝えたくてなりません。貴方はどれ程の労苦と危険を乗り越えて来たのでしょう。私は貴方が其れ等を生き延びられたのが信じられません。貴方は以前はそれ程強そうには見えませんでしたから、貴方は自身の南アフリカのワゴンと同じくらい頑丈に違いありません!もし貴方がいつか私に手紙を送る気があるなら、貴方の将来の計画と何処に定住する積もりかを聞かせて頂けると大変嬉しいです。私は、外見は強そうですが、体が弱っている為、殆ど家を離れません。其の為、ロンドンで貴方に会う機会は殆ど無く、地理学会のメンバーから貴方の噂を聞くだけでした。私はケントのファーンボロー近郊のダウン(イギリスのロンドンのグレーター・ロンドン)という村に住んでおり、動物学に携わっています。しかし、私の研究対象は非常に小さなものばかりで、犀やライオンに慣れた人には、途方もなく取るに足らないものに思えるでしょう。私達は今、子供達7名全員を連れて、数週間海水浴の為に此処に来ています。貴方の兄弟のダーウィンとエラズマスに就いて何か聞かせて頂けると嬉しいです。私はラーチズ(イギリスのランカシャー州プレストン)での楽しい訪問をはっきり覚えています。何年も前の事ですが、彼等と一緒に鐙無しでポニーに乗って何度も散策したものです。貴方の家族で此処数年会ったのはエマだけです。数年前のバーミンガムの英国科学振興協会で、私と妻に非常に温かく挨拶してくれました。此の手紙で貴方を煩わせているのを謝るべきかどうかわかりませんが、私を駆り立てた精神が私の言い訳です。どうか信じてください。
1,853 7 25 阿部正弘が、高知藩江戸留守居役広瀬源之進を呼び出し、ジョン万次郎を江戸へ連れて来る様命じる。以下の人間が阿部に万次郎招聘を進言した。
①江川英龍
②大槻磐渓
③林復斎
事前に万次郎には、長崎奉行から心配無いと伝える様根回しが行われた。
1,853 7 27 第12代江戸幕府征夷大将軍徳川家慶が死去。
1,853 8 5 江戸幕府老中首座阿部正弘が、各大名、旗本等にマシュー・ペリーの開国要求に対する対策を諮問する。700余りの意見が集まった。幕府の権威を弱めるきっかけとなる。
1,853 8 21 ロシアの海軍中将エフィム・プチャーチンが、軍艦パラーダ号で、日本との通商を求めて長崎に来航する。
1,853 8 29 ジョン万次郎が江戸幕府から招聘され、江戸へ向けて出発する。
1,853 9 12 松平春嶽が阿部正弘に徳川慶喜を継嗣にすべきと申し入れた。阿部は同意したものの、時期尚早と判断し、春嶽に口外する事を戒めた。
1,853 9 26 阿部正弘が、勘定吟味役の江川英龍等に台場造営を命ずる。品川沖に11か所の台場が造営される事となった。
1,853 10 2 ジョン万次郎が、鍛冶橋(現在の東京都中央区)の高知藩上屋敷に到着する。
1,853 10 5 ロシア帝国と、オスマン帝国・フランス帝国・イギリス帝国・サルデーニャ王国の4ヶ国連合の間で、クリミア戦争が勃発する。イマヌエル・ノーベルが設立した、軍需品を扱う「ノーベル・フィルズ鋳物・機械工場」は、クリミア戦争向けの兵器を生産し、大きな利益を叩き出した。
1,853 10 11 第14代アメリカ大統領フランクリン・ピアースの任命により、オーガスト・ベルモントが、臨時の駐ハーグ(オランダの南ホラント州)アメリカ大使に着任する。
1,853 10 14 阿部正弘が、ジョン万次郎からアメリカ事情を聴取する。主に以下の人間が列席した。
①江川英龍
②川路聖謨
③林復斎
④筒井政憲
主に万次郎はアメリカについて、主に以下の発言を行った。
①アメリカの東西南北の位置(東西横断に陸路なら4ヶ月、南北横断に海路なら7〜8ヶ月)
②日本とアメリカの位置関係(江戸からカリフォルニアは3,000里程度)
③隣国との関係・気候・産業構成・通商関係・独立事情・34州による共和政治・風俗
④アメリカ人の気質
⑤大統領は、4〜8年任期の選挙によって選ばれ、国内が良く治っている。州は知事が統治
⑥現在の大統領は、第13代アメリカ大統領ミラード・フィルモアであり、先日来航したのは、ロード・アイランドで生まれ、メキシコとの戦いで戦功のあるマシュー・ペリーである。日本との接触はフィルモアからの要望であり、自国・他国の分け隔て無い扱いを望んでいる
⑦日本と異なり、戦闘で刀剣を腰に差す様な事はしない。海では大砲と台場での戦闘が有り得るが、台場で勝利する事は難しく、海軍の創設は急務である。軍艦に乗り込む人数は平時で500名、戦闘時は1,500名が必要。沖合から陸地を攻める場合は、大砲だけで無く短艇も使用する。短艇にも口径8cm程度の大砲を装備させる
⑧ペリー再来航の際、通訳にはオランダ語ではなく、アメリカ語が必要
其の後江川は、ペリーの再来航に備え、万次郎を自らの配下としたい旨を江戸幕府に訴え、認められた。万次郎は、江川の江戸屋敷の長屋に居住する事となった。万次郎は以下の業務に従事した。
①翻訳
②通訳
③造船指揮
④人材育成
江川は、長崎で没収された万次郎の所持物を返還させた。又川路は、万次郎から聴取したアメリカ事情を糾問書に纏めた。
1,853 10 17 江戸幕府が大船建造の禁を解く。
1,853 12 5 ジョン万次郎が直参旗本に取り立てられる。
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