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≈は「頃」を意味しています。
皇室献上品 高級トイレットペーパー
| 年月日 | 出来事 | |||
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| 1,850 | エイブラハム・クーンが、義兄であるソロモン・ローブとラファイエット(アメリカのインディアナ州)にて商品販売会社のゼネラル・パートナーシップを締結する。 | |||
| ≈ | 1,850 |
以下3名が土地会社を率い、数千エーカーの土地を購入し、アメリカのペンシルベニア州に「ウォーレン・デラノ・ジュニア」の名を冠した町(現在のアメリカのペンシルベニア州スクーカル郡デラノ)を設立する。 ①ウォーレン・デラノ・ジュニア ②ウォーレン・デラノ・ジュニアの弟フランクリン・デラノ ③ペンシルベニア州下院議員を務めたエイサ・パッカー |
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| 1,850 | アルフレッド・ノーベルがパリへ渡る。其処で、フランス貨幣委員会会長で、西暦1,846年に実験的な学校兼研究所を設立したテオフィル・ジュール・ペルーズの助手を務めていたアスカニオ・ソブレロと出会う。ソブレロは、西暦1,840年代に爆発性油と呼ばれる物質が入った試験管の爆発により、顔が傷だらけであった。ソブレロはノーベルに、従来の火薬よりも遥かに強力なニトログリセリンは、熱や圧力の変化で予測不可能に爆発する為、其の使用に強く反対した。しかしノーベルは、ニトログリセリンを商業的に使用可能な爆薬として制御し活用する方法に興味を持った。 | |||
| 1,850 | オーガスト・ベルモントが、オーストリア帝国政府のハンガリー革命鎮圧に抗議し、オーストリア帝国ニューヨーク総領事職を辞任する。 | |||
| 1,850 | ウォーレン・デラノ・ジュニアが、リバーサイド墓地(アメリカのマサチューセッツ州フェアヘイブン)に「デラノ家墓所」を設立する。 | |||
| ≈ | 1,850 | 1 | 第254代ローマ教皇ピウス9世がジェームス・ド・ロスチャイルドから資金提供を受ける。 | |
| ≈ | 1,850 | 4 | 高野長英が、青山百人町(現在の東京都港区南青山)の借家に移り住む。沢三伯と名乗り、町医者を営んだ。顔が見破られない様、硝酸で顔を焼き、人相を変えていた。 | |
| 1,850 | 5 | ジョン万次郎がカリフォルニアの金鉱に入る。ゴールドラッシュを利用して70日余りで600ドルを稼いだ。其の後、ホノルルへ向けて出発した。ウィリアム・ホイットフィールドに挨拶しなければという思いもあったが、会うのに半年程度掛かり、帰国への早る思いを抑える事が出来なかった。 | ||
| ≈ | 1,850 | 7 |
オランダ船が長崎に到着する。以下の主旨の内容が齎され、ヨセフ・ヘンリー・レフィスゾーンが聞き、レフィスゾーンと次期オランダ商館長のフレデリック・コルネリス・ローズの連名の別段風説書として和訳されて老中宛に発送された。又此の別段風説書は、西暦1,851年1月頃に藤原重遠によって写本された。 ①ウィレム3世の即位の大礼が、西暦1,849年5月12日にアムステルダムで執り行われた。 ②ウィレム2世を偲び、オランダ国民はウィレム2世の像を2体作り、アムステルダムとデン・ハーグに其々安置する考えである。 ③ウィレム3世と同じくルクセンブルク大公を兼務するが、西暦1,850年2月5日に自身の弟でウィレム2世の参男のヘンドリックをオランダ総督に任命し、実務を任せた。ヘンドリックは、幼少の頃からウィレム1世の軍艦で各地を訪問し、近年は、オランダ領東インドも訪れていた。 ④第2代ベルナドッテ王朝国王オスカル1世の長男カール15世は、西暦1,850年6月19日にウィレム1世の弐男フレデリックの長女ルイーゼと結婚した。ヨーロッパ全体が不穏であるが、オランダは此の様に安定している。 ⑤ヤン・ヤコブ・ロシュッセンは、西暦1,849年9月頃、マカッサル(現在のインドネシアの南スラウェシ州)・スラウェシ島及び其の付属地のハンセルマーシン・ボルネオ島を視察し、其れから再度ハンセルマーシン・マカッサル・スラバヤ(現在のインドネシアの東ジャワ州)を訪れた。ロシュッセンの旅行中は、オランダ領東インド副総督インストが、実務を担った。 ⑥ロシュッセンは、西暦1,849年にバリ島の酋長の暴挙を制する為に軍を派遣した所、西暦1,849年5月3日~6月29日にバリ島の酋長達がオランダ側の下に参集し、今後オランダの支配下に入り、漂着する異国船を襲う事をせず、奴隷の制度を止める事誓約する協定を行った。バリ島の酋長コロンコングは、西暦1,850年に死去した。 ⑦ジャワ島近辺は凶作で、食糧が払底し、民衆は苦境に陥っている。此れを受けて官府では、規定を設け、民衆が餓死しない様手配した。 ⑧オランダ領東インド海軍副提督マシトルセンが死去した。後継として、ウィレム3世の命により、ロシュッセンがファンデンポスを任命した。ファンデンポスは、オランダ領東インド海軍を過去に指揮した事が有り、最近は国務参事の任に就いていた。 ⑨西暦1,849年にパレンバン(現在のインドネシアの南スマトラ州)にて争乱が発生した。軍が出動し、程無くして収まった。 ⑩バンテン王国でも争乱が発生したが、大事には至らなかった。 ⑪清は、広東に外国人を居住させる事に腐心しており、徐広縉は、清国民との調整を図っている。 ⑫徐は、清政府の意向に従って取り計らっている。此れに対し道光帝は、徐に孔雀羽と玉の指輪を贈った。 ⑬イギリスの総督は、清政府に混乱する内容の意向を持ち掛けている。 ⑭西暦1,850年5月28日迄に、第3代イギリス香港総督ジョージ・ボナムが、スクリュー式の蒸気船「レイナルド号」をヒシリー港に停泊させて、多数の兵を伴い上海を訪問したとの情報が入った。レイナルド号は兵を乗せる為に準備したとの事である。此度のボナムの上海訪問は、其の儘北京へ赴き交渉する為と思われる。 ⑮⑭のボナムの上海訪問の情報には、東インドと清の近海に以下のイギリス・アメリカ・オランダの海軍の艦船が控えているとの内容も含まれていた。 ❶イギリス海軍 Ⅰ.ブリッグ船:アルバトロス(大砲16門を搭載、艦長はアーサー・ファークハー) Ⅱ.病院船:アリゲーター(大砲28門を搭載) Ⅲ.戦列艦:アマゾン(大砲26門を搭載、艦長はエドワード・トゥルーブリッジ) Ⅳ.ブリッグ船:アラブ(大砲12門を搭載、艦長はウィリアム・モリス) Ⅴ.フリゲート艦:カンブリアン(大砲36門を搭載、艦長はハンウェイ・プラムリッジ) Ⅵ.ブリッグ船:クレオパトラ(大砲12門を搭載、艦長はトーマス・マッシー) Ⅶ.蒸気外輪船:フューリー(大砲6門を搭載、艦長はジェームズ・ウィルコックス) Ⅷ.戦列艦:ヘイスティングス(大砲74門を搭載、艦長はJ. オースティン) Ⅸ.ブリッグ船:マリナー(大砲16門を搭載、艦長はミッチェル・マティソン) Ⅹ.蒸気外輪船:メデア(大砲4門を搭載、艦長はヘンリー・メイソン) Ⅺ.兵糧船:ミンデン(艦長はミッチェル) Ⅻ.ブリッグ船:パイロット(大砲16門を搭載、艦長はジョン・インス) XIII.蒸気スクリュー船:レイナード(大砲8門を搭載、艦長はピーター・クレイクロフト) XIV.ブリッグ船:ロイヤリスト(大砲6門を搭載、艦長はウィリアム・ベイト) XV.ブリッグ船:サーペント(大砲16門を搭載、艦長はチャールズ・バーカー) ❷アメリカ海軍 Ⅰ.フリゲート艦:プリマス(大砲22門を搭載、艦長はJ・ケリー) Ⅱ.ブリッグ船:ドルフィン(大砲12門を搭載、艦長はハーデ) ❸オランダ海軍 Ⅰ.フリゲート艦:レイン(大砲54門を搭載) ⑯道光帝が西暦1,850年2月25日に崩御し、道光帝の四男咸豊帝が、第9代清皇帝に即位した。 ⑰第75代ポルトガル領マカオ総督ジョアン・マリア・フェレイラ・ド・アマラルは、西暦1,849年7月頃、運上役所を接収し、ポルトガル領とした。此れによって交易が阻害され、清の商人達はマカオを去った。 ⑱アマラルは、清の商人がマカオから去る事を防ぐ為に、マカオに土地を所有する者が許可無くマカオを去った場合、土地・財産を没収する事にした。しかし其れでも、清の商人の流出を防ぐ事は出来なかった。清の商人にとって認められなかったのは以下2点であった。 ❶清人の墓地を取り払い、マカオの新道を作る ❷清の運上役所に掲げる清国旗竿を破却した ⑲清の商人達は、徐に対し、アマラルに反抗する旨の書かれた書簡を提出した。 ⑳西暦1,849年8月22日、マカオ付近で、清人がアマラルを殺害し、首と手を切断して持ち去った。マカオの奉行所に疑わしい3名が逮捕された。清とポルトガルの双方の交渉の末、ポルトガルは3名の捕虜を清に引き渡し、一方アマラルの首と手は、ポルトガルに引き渡された。 ㉑ポルトガル・ブラジル・ゴア(現在のインド)から、陸海両軍をマカオに送り込む。 ㉒アマラルの後任として、ペドロ・アレクサンドリーノが第76代ポルトガル領マカオ総督に就任した。アレクサンドリーノは、マカオに向かっている最中である。 ㉓清では絶えず海賊の被害が有るので、取り締まりの為、イギリス主導で諸国の海軍が出動した。 ㉔西暦1,849年9月頃、海賊「サップンクチュイ」及び賊船40隻をコルキス(現在のジョージア西部)の近海で発見したので、蒸気船「プレゲトン号」・「フュレイ号」及びブリッグ船「コロンビネ号」で対応した。程無くしてサップンクチュイは清政府に降伏したので、憐憫に思い赦免した。 ㉕西暦1,849年2月頃、暹羅の使節が、イギリス領マルナインの首長スパルクスを訪問した。此の使節と暹羅国民がマルナインへの移住を所望しているとの噂が有る。彼等が暹羅を去る理由として、ラーマ3世の理不尽な為政が有ったのではないかと考えている。 ㉖西暦1,849年5月29日、イギリスの奉行所は、ソーローの首長モハメット・アルヤヒールと、海賊対策に就いて話し合った。此れはヴィクトリアの命令で、ラブラン島(現在のマレーシア直轄領)総督ジェームス・ブルックが取り決めた。此の島は、石炭も産出するが、土地の気候は悪く、命を失う現地の者が少なからず居る。 ㉗イギリスでは、其の領地である喜望峰を、罪人の流刑地とすべく考えたが、現地の者が反対していた。西暦1,850年に激しい反対運動が起こったので、第36代喜望峰総督ハリー・スミスは、騒動を鎮静化する為、イギリスからネプテイユ号で運んで来た罪人を下ろす事を許可しなかった。此れによって騒動も鎮まり、現地の者からイギリス政府への嘆願も有り、喜望峰を罪人の流刑地とする事を取り止めた。 ㉘ヨーロッパ各国に於いて、人民の騒動が続いている。フランスでは、人民が財産を平等に分配する様意見したが、西暦1,848年6月頃には、其の意見は沈静化していた。しかし最近復活して来た。特にパリの貧しい住民が荷担している。西暦1,849年5月頃にパリとリヨン(現在のフランスのメトロポール・ド・リヨン県)で暴動が起きたが、フランス政府の命により鎮圧し、関係者は殺害された。 ㉙現在亡命中のピウス9世の復官願に就いて、初代フランス第二共和政大統領ナポレオン3世は、第3代オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世、第3代両シチリア王国国王フェルディナンド2世、イサベル2世と会議を行った。此の件で、昨年の初め頃、フランス軍がオンデイノウトを軍将とし、ローマ近傍の港チヴィタヴェッキア(現在のイタリアのラツィオ州ローマ県)に侵攻した。しかし、現地住民は怒り、此の軍勢を拒否した。 ㉚ローマの人民は、政府の方針に逆らい、ピウス9世の受け入れに反対しており、此れに加担する為に他国からの浪人も入り込んでいる。 ㉛西暦1,849年6月30日にフランス軍がローマに侵攻した。此れ以前はローマ教皇は有名無実であったが、此の進行により、ローマ教皇の権威が復活した。 ㉜西暦1,849年5月26日にフランスの此れ迄の執事は退任し、フランス国民によって選出された者が任命された。 ㉝本年イギリスでは、航海運上に関する規定が改められた。此れは、輸出入の運上を大幅に引き下げるものであった。但し、イギリス船と其れ以外の船の運上差別を無くし、平等に取り扱うとの条件が付け加えられた。此れによって、ヨーロッパ諸国の商売が繁盛する事になる。恐らくヨーロッパ諸国は、イギリスの方式に倣うだろう。 ㉞イギリス領インドの多くの商人達が、バーミンガムの商人と協力し、清・日本・其の他の国との通商に関し、イギリスの奉行所に書面を提出した。此れに対し、イギリス政府側のハーウィディングトンから以下の主旨の回答が有った。 貴方方及びバーミンガムの商人から提出された書類に関し、日本・交趾・李氏朝鮮・暹羅とイギリスとの通商を始めるに当たり、規定は承知した旨を通達する様、第23代イギリス外務大臣ヘンリー・ジョン・テンプルから私に申し伝えられました。テンプルから私への回答は、貴方方から提出された書面の内容は特に問題が無いと承知し、良く検討しました。しかしイギリスの奉行所に於いてもまだ結論が出ていない事項が有るという事です。 ㉟ドイツは、数多くの郡を有している為、共和制の国にしたいという意向が有るが、其の目的は達成出来ていない。 ㊱フランクフルトの評定所は、統一の熱気が無くなり、諸国の使節も集まらなくなった為、西暦1,849年5月頃に、此の議会をシュトゥットガルト(現在のドイツのバーデン・ヴュルテンベルク州)に移した。此処では、国民会議議長職の廃止に伴い、センクラーという者が、諸侯の中から6名を選び、摂政に任命した。 ㊲ドイツの政治制度をプロイセン王国で新たに決定し、ドイツの中で実施した所、1つか2つの国は、異議無く此れを受け入れた。此の方式では、プロイセン王国国王が、ドイツ国王の役割に相当する事となる。摂政に選ばれた6名はドイツ国王に次ぐ席となる。 ㊳ドイツは、国政に関する評議を以下の2ヶ所で行う事とした。 ❶官吏の役所を設置し、大臣及び国政に携わる評議役の者が参集して会議を行う。 ❷国民参加の場を設置し、地域の民が選んだ者が参集して評議を行う。 ㊴プロイセン王国で取り決められたドイツの制度はオーストリア帝国では採用しない事となった。其の理由は、オーストリア帝国もプロイセン王国と同様にドイツ国王の任に当たりたいと考えている為である。 |
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| ≈ | 1,850 | 8 | 31 |
ジョン万次郎が、ホノルルに到着し、以下3名と再会する。 ①筆之丞 ②五右衛門 ③寅右衛門 万次郎は、日本への帰国計画を話し、筆之丞と五右衛門は即座に賛成した。しかし、寅右衛門は、妻子や大工の仕事がある為、現地に留まる事となった。又、現地でお世話になっていたデーモン牧師から、上海行きの商船「サラ・ボイド号」の船長ホイットモアを紹介して貰った。交渉の結果、日本近海まで乗船させて貰える事になった。更に、上陸用の小舟をイギリス人から購入し「アドベンチャー号」と命名した。デーモン牧師は、アメリカ領事に働きかけ、万次郎達が遭難してから今日に至るまでの経緯等を述べた上で、3人の身分証明書を書いて貰った。万次郎は、ハワイを出発する前に、ウィリアム・ホイットフィールドに、 今まで育ててくれ、アメリカの高等教育まで受けさせてくれた事への恩と、感謝の気持ちを綴った書簡を作成した。 |
| 1,850 | 12 | 3 | 夕方、高野長英が、出先から潜伏先の青山百人町に戻る際、小路にて、何者かの密告により町奉行に踏み込まれ捕縛される。何人もの捕方に十手で殴打され、縄を掛けられた時には既に半死半生だった為、止むを得ず駕籠で南町奉行所へ護送している最中に高野は自身の喉を突いて自刃した。 | |
| 1,850 | 12 | 17 |
以下3名が、デーモン牧師に礼を述べ、サラ・ボイド号に乗船し、琉球王国へ向けてホノルルを出港する。 ①筆之丞 ②五右衛門 ③ジョン万次郎 |
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