西暦1849年は、日本への帰国を目指すジョン万次郎が、捕鯨船フランクリン号での航海を終えた後、帰国費用を稼ぐためカリフォルニアの金鉱へ向かった年である。同年、イギリス東インド会社の帆船マリナー号が山本音吉を通訳として相模湾・浦賀・江戸湾の測量を行い、開国前夜の緊張が高まった。日本では徳川斉昭の藩政復帰が認められた。ヨーロッパではオランダ国王ウィレム2世が崩御してウィレム3世が即位し、ベルンハルト・ヴォルフがベルリンでヴォルフ電報局を設立、フランスではナポレオン3世が第二共和政大統領に就任し、オーストリアではフランツ・ヨーゼフ1世が即位した。アメリカではエイブラハム・クーンとソロモン・ローブが提携し、ザカリー・テイラーが第12代大統領に就任した。

以下の暦は全て西暦に変換しています。 日本の旧暦 / 中国の旧暦 / ユダヤ暦 / ヒジュラ暦 / ソビエト連邦暦 / フランス革命暦

≈は「頃」を意味しています。

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年月日 出来事
1,849 行商人としてアメリカのインディアナ州で衣類の卸売業を経営して生計を立てていたエイブラハム・クーンが、親戚のソロモン・ローブを呼び寄せる。そして同年エイブラハムは、ソロモン・ローブの妹レジーナ・ローブと結婚し、ソロモンは、エイブラハムの妹と結婚した。斯うして、エイブラハムとソロモンは共同経営者となった。
1,849 オーガスト・ベルモントが、プライベート社交クラブであるユニオンクラブ(アメリカのニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタンのアッパー・イースト・サイド)を通じて、マシュー・ペリーの娘キャロライン・スライデル・ペリーの叔父で、ルイジアナ州民主党の主要メンバーであるジョン・スライデルと出会う。スライデルは翌年迄に、ベルモントに政界入りを勧め、ベルモントは政界入りを果たした。しかし、ベルモントのビジネス上の知り合いの殆どはホイッグ党員であった。
1,849 1 11 ベルンハルト・ヴォルフが、ヴェルナー・フォン・ジーメンスの従兄弟の弁護士と共に、ベルリンのツィンマー通り(現在のフリードリヒスハイン・クロイツベルク区とミッテ区の間)にて「ヴォルフ電報局」を設立する。ヴェルナー・フォン・ジーメンスが2年前に設立したジーメンス・ウント・ハルスケ電信製造所と提携し、情報伝達に必要なインフラを確保する事で、電信の利用で優位に立った。
1,849 4 徳川斉昭の藩政復帰が認められる。
1,849 5 29 朝、イギリス東インド会社艦隊の帆船「マリナー号」が相模湾に到着する。山本音吉も通訳として乗船していたが「林阿多」と名乗り、清人に扮した。日本船と遭遇し、役人を名乗る二人を艦上に迎え、役人はその場にあった物を書き留め、これ以上湾内に進まない様警告するも、マリナー号は役人を艦上に乗せたまま浦賀水道にへ入り、浦賀近くで停泊した。武装した日本の船舶が警戒でやってきた為、マリナー号も武装準備を整え警戒態勢を取った。
1,849 5 30 6時、日本が用意した薪水を積載した50隻のボートがマリナー号の周りに寄せられている事をイギリス海軍中佐アルフレッド・ローレンス・ハローランが発見する。マリナー号の艦長が日本語で書かれた名刺を幕府高官に届けるよう役人に差し出すが、役人からは補給物資の支援が目的であり、外国人との交渉は法に背く行為である為出来ないと拒絶される。役人同行の下、苦情と警告を受けながらも、日没まで測量を行うマリナー号に戻ってから役人は、自分が切腹あるいは打首になるのは間違いないと悲嘆に暮れるが、ブランデーを飲んでいい気分になったと言う。
1,849 5 31 6時、役人数名がマリナー号を訪れ直ちに立ち去るように強く求めるも、風向きが思わしくなかった為昼前まで停泊する。11:30に出航するも、前日に測量できなかった江戸湾周辺の測量を行った為再び役人が懸念を伝える。
1,849 6 1 マリナー号が剱崎(現在の神奈川県三浦市南下浦町)と須崎(現在の静岡県下田市)を測量する。経度測定の為伊豆大島に上陸するも、測定出来なかった。島民と遭遇し紫陽花を発見する。その後伊豆大島を離れ音吉の指示に沿って、下田湾に上陸するも直ちに役人がやってきて、戻るよう強く求められるが、魚を撮る為に網を投げていると、役人がそれに関心を持って楽しんだ。
1,849 6 2 マリナー号が測量を行う。
1,849 6 3 測量作業に必要な約40地点に上陸しながら作業を進める。役人は最初は警戒していたが、民家に近づく気配がない事を悟ると黙認する様になった。
1,849 6 4 マリナー号が測量を行う。
1,849 6 5 マリナー号が測量を行う。
1,849 6 7 マリナー号が日本が用意した56隻のボートに曳航されて下田湾を出港する。
1,849 6 23 マリナー号が種子島に到着する。黒潮に逆流した為16日間の航海となった。
1,849 6 30 マリナー号が上海に帰還する。
1,849 7 オーガスト・ベルモントが、サラトガ(アメリカのニューヨーク州)での休暇中に、ジョン・スライデルを通じてキャロライン・スライデル・ペリーと出会う。
1,849 8 フランクリン号が、以下を経由して、数千樽の鯨油を船倉一杯に積んで、ニューベッドフォードに帰港する。
①ギルバート諸島
②グアム
③セラム島(ジョン万次郎は、此処でウィリアム・ホイットフィールド一家へのお土産を買った)
④クパン
⑤セントヘレナ
万次郎は350ドルの配当金を受け取った。
1,849 8 11 オランダ船が1隻長崎に来航する。オランダ船長が語った内容を、ヨセフ・ヘンリー・レフィスゾーンが聞き、通詞によって風説書として、以下の主旨の内容が和訳され、老中宛に発送された。
①当年来日のオランダ船は、西暦1,849年7月8日にバタヴィアを出港し、海上異常無く本日長崎に到着した。此の1隻以外に仲間船は無い。
②台湾付近では清船は見掛けなかったが、日本近海で1隻見掛けた。
③西暦1,848年11月25日に長崎から出港したヨウセフイネ・カタリーナ号は、順調に航海し、西暦1,848年12月3日にバタヴィアに到着した。
④ジャワ島全域静謐である。其の他特に情報は無い。
1,849 8 オランダ船が長崎に到着する。以下の主旨の内容が齎され、ヨセフ・ヘンリー・レフィスゾーンが聞き、大通詞・小通詞によって別段風説書として和訳されて老中宛に発送された。
①本年オランダは予想外に困難だった。先年油絵で描かれた絵像が仕立てられたウィレム2世が、急な病で西暦1,849年3月17日に崩御した。ウィレム2世は若い頃から英才で武勇に優れ、軍事の際は、オランダ軍の大将軍として敵に挑んできた。西暦1,840年にウィレム1世の跡を継いで、仁愛を以って臣下を育て、臣下も又、ウィレム2世に忠誠を尽くしてきた。西暦1,848年11月頃にオランダ各地からの訴状を捌き、又此れ迄の制度を改め、オランダ国民は一層心服していた。西暦1,849年4月4日に、国王の礼に従い、手厚く葬儀を行い、デルフト(現在のオランダの南ホラント州)の国王一族の墓に葬られた。
②西暦1,817年2月17日生まれのウィレム2世の長男で王太子のウィレム3世が、第3代オランダ王国国王に即位した。
③西暦1,848年4月10日に、オランダ領東インド都督を務めた、摂政官ヘアヘハローフアンカベルレンが死去した。
④今年はヨーロッパ諸国で騒動が有り、オランダも又例外では無く、静謐とは言えない。
⑤オランダ領東インドから最近になって軍勢をバリ島へ派遣し、其処の酋長が規定に違反した事を正したが、当地の海浜に住む者達が、難破船から財貨を奪った。貿易の支障となるので此れを征伐した。昨年国王ヘリリングの要害を攻撃し、バリ島側に死亡者が多数発生したが、勝利には至らなかった。オランダ本国から、勝利に持ち込める程の軍勢を派遣するは困難との連絡が有った為、全軍ジャワ島に撤退した。
⑥今年派遣した将官アフユミシイールス率いる軍勢は、以下の戦力を保有していた。
❶海軍フリゲート艦3隻
❷コルベット艦2隻
❸スクーナーブリッグ船5隻
❹スクーナー船2隻
❺蒸気船7隻
❻武器運搬船2~3隻
又外商船数隻を、軍勢の輸送の為借り入れた。此の軍勢は、以下2ヶ所の酋長達を穏やかに帰服させる為に、説得を行った。
❶ヘリリング
❷カランガスム(現在のインドネシアのバリ州)
しかし此れは徒労に終わり、西暦1,848年5月17日・18日にヘリリングの酋長デイヤガラガと激戦となり、最終的に、ヘリリングの要害を占領した。酋長達は山中に逃走したが、程無くして軍将クーチーテイランチーキと共に、配下の者に殺害された。
⑦西暦1,848年5月中旬頃、オランダの大将コロンコンクは、酋長達を従わせようと、再度乗船した。スーンギラーウスやカスーンでも酋長達が謀反を企てているので、西暦1,848年5月頃に此れ等の場所に進軍した所、不意にオランダ軍の陣地に厳しい攻撃が有った。酋長側は戦死者1,000名・負傷者800名を出し、逃走した。オフシ―ルであるハシシール・オントルオフシール4名を含む戦死者を出した。ハシシールは非常に勇敢な者であったが、此の様な結果となり気の毒である。酋長達はオランダ軍の戦力を恐れ、一旦は服従したものの、オランダ軍将の死や兵達の間での病気流行に乗じて再度反抗し、コロンコングやキャンアルで開催された酋長達の集会にも出席しなかった。其処で、中佐ランスーイーテンを司令として酋長側を攻め、スワンキーワスやトユーハに布陣していた軍勢を破った。酋長達はバタヴィアに使節を送り、和睦を請うたので、バリ島に派遣されていた軍は撤退し、ジャワ島へ向かった。
⑧オランダ領東インドに於けるオランダ軍の総司令は、ウィレム2世からサーキンウェイマルエイセナク島の総督に命ぜられており、30年余軍籍に有り、毎度名誉を得ている。
⑨西暦1,848年4月頃、オランダ軍艦2隻をソーロー島に派遣した。此れは、ソーロー島の島主の部下が海賊行為を行ったので、問い質し、捕らえられたオランダ領東インド奉行所の役人を取り返す為である。ソーロー島の島主が拒否の返答をした為、期限を区切り、軍艦2隻で都市を焼き討ちにした。此の2隻がソーロー島に停泊すると、数千の島民が逃げ去った。其の時に停泊している2隻に向かって泳いで来た者達が居た。其の中に捕らえられていたオランダ領東インド奉行所の役人も含まれていた。彼等は自由の身となり、故郷へ帰った。
⑩清では、現地人とイギリス人との確執が続いている。イギリス人は、西暦1,842年8月29日に締結された南京条約に基づき、西暦1,847年4月6日から外国人が広東を徘徊出来る様にする事を所望している。しかし、ジョン・デイビスが2年間猶予を与えた。広東の住民は此の猶予した条件すら拒否し、清政府も、国民の意思に逆らって処理を進める事も出来ずにいる様である。此の一件から、再び戦争が起きるのではないかと見ている。しかし清に派遣したイギリス海軍も現在減少しているので、直ぐには争乱には発展しないと見られている。
⑪西暦1,849年4月25日付の新聞によれば、清に派遣した各国海軍は以下の通りである。
❶イギリス
Ⅰ.病院船アリゲーター(艦長ハンギール)
Ⅱ.ブリッグ船アラブ(艦長ウィリアム・モリス、大砲12門を搭載)
Ⅲ.ブリッグ船コロンバイン(艦長ジョン・ヘイ、大砲16門を搭載)
Ⅳ.外輪式蒸気船フューリー(艦長ジェームズ・ウィルコックス、大砲6門を搭載)
Ⅴ.外輪式蒸気船インフレキシブル(艦長ジョン・ホセアソン、大砲6門を搭載)
Ⅵ.フリゲート艦メアンダー(艦長ヘンリー・ケッペル、大砲44門を搭載)
Ⅶ.ブリッグ船マリナー(艦長チャールズ・ミッチェル、大砲16門を搭載)
Ⅷ.兵糧船ミンデン(艦長マイケル・クイン)
Ⅷ.蒸気船フィリケトル(艦長ニフレット、大砲4門を搭載)
Ⅷ.ブリッグ船パイロット(艦長ジョン・インス、大砲16門を搭載)
❷アメリカ
Ⅰ.ブリッグ船ドルフィン(艦長オクステン、大砲10門を搭載)
Ⅱ.フリゲート艦バーモント(艦長キーモンス・ケトネイ、大砲22門を搭載)
Ⅲ.フリゲート艦プレブル(艦長キリン、大砲16門を搭載)
❸フランス
Ⅰ.コルベット艦テハヨンナイセ号(艦長ラカフィーネ、大砲36門を搭載)
⑫耆英が退任し、後任として、徐広縉が第44代両広総督と通商事務の任に就いた。
⑬死去した駐清公使アレキサンダー・ヒル・エヴェレットに代わり、ジョン・デイビス(上記とは同姓同名の別人)が後任として駐清公使の任に就いた。
⑭上述のキリン率いるプレブル号が、長崎から漂流民を伴い香港へ戻った。
⑮西暦1,849年3月20日、暹羅在住の清人が一揆を起こしたが、鎮圧された。
⑯イギリス領インドでは、シク王国が一揆を起こした。シク王国は、イギリス領インドの奉行所との間で条約を結んでいたが、此の条約に背いた。最終的にシク王国は降伏し、イギリス領インドに併合された。
⑰セイロン島(現在のスリランカ)で一揆が起こったが、直ぐに鎮圧された。
⑱イギリス人は現在、ボルネオ島付近のラブアン島(現在のマレーシアの連邦直轄領)への移住を計画している。イギリス人は此の地に石炭山を開発する意向である。しかし此の地は、外国から移住するには、気候が不適当である。
⑲近頃、カリフォルニアの深さが僅かの所で大量の金が産出された。此の金山を最初に発見した者達は大金持ちとなり、現在では各地から人々が食糧を運び、金と交換する。此れに伴い、住民が急速に増加し、交易も繁盛して、太平洋の船の往来も盛んになるものと思われる。
⑳パナマ地峡の通路が、開通に向けて整備が進められており、水路・鉄道の敷設工事に着手している。
㉑オーストラリアで、カリフォルニア以上の金が採掘されたとの情報が有る。
㉒ザカリー・テイラーが第12代アメリカ大統領に就任し、前任のジェームズ・ポークと交代した。
㉓西暦1,848年4月頃から、ヨーロッパ各国の情勢は不穏となり、大乱の兆しが有る。
㉔フランス王国では、西暦1,848年2月に一揆が起こり、全てのフランス王国民は、自己の財産を否定し、全て平等に分配する事を企図した。同年6月にはパリで騒動となり、数千名が死傷した。一揆を鎮圧したカラアイナクが数ヶ月間政務を担った。
㉕フランスは、国政を改める為国民評議し、大統領を選び、1期4年限りで交代する様定めた。
㉖ナポレオン・ボナパルトの甥のナポレオン3世が大統領選挙で当選し、フランス第二共和政大統領に就任した。ボナパルトは数ヶ国を掌握したが、西暦1,821年5月5日にセントヘレナ島にて死去した。
㉗ナポレオン3世は、ナポレオン・ボナパルトの様に諸国を掌握する気は無い様だが、国政を一手に掌握する気は有る様に見える。
㉘フランス国民の大半は、西暦1,848年2月の乱にて王位を追われたルイ・フィリップ1世を嘆き、王族やブルボン家の人々は、ルイ・フィリップ1世を再度王位に就けたいと思っている。
㉙ドイツは以前から諸国に分立していたが、一国一政の王を立てたいと多くの人間が考えていた。しかし各国の首長の意向が異なり、政権を1人に委ねる事を嫌い、容易には実現出来ない。
㉚最初は、オーストリア帝国の貴族の1人をドイツの首長にしてはどうかと評議が行われたが、ドイツ各国の人々がフランクフルトに集い、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世をドイツ皇帝に立てる事にした。しかし、ヴィルヘルム4世は此れを拒否し、二度と選ばぬ様にと釘を刺した。
㉛第2代オーストリア帝国皇帝フェルディナント1世は、西暦1,848年12月2日に退位し、甥のフランツ・ヨーゼフ1世が、第3代オーストリア帝国皇帝に即位した。フェルディナント1世は、オーストリアで一揆が起こった事に因り、西暦1,848年5月20日にウィーンを退去していた。
㉜西暦1,848年10月30日に、クロアチア軍とオーストリア官軍の連合軍がウィーンを奪回する。フェルディナント1世に対し一揆を起こした者達が、ウィーンの一揆に加勢し進軍したが、オーストリア官軍の主将ウィンテェル・ラデッキが一揆軍を破った。オーストリア官軍はハンガリーに帰還したが、未だに戦争は続いている。
㉝ニコライ1世は、モルダヴィア地方(現在のルーマニア・モルドバ・ウクライナ)とワラキア地方(現在のルーマニア南部)に於いて、武備を整え、兵を派遣している。此れにより、ロシア帝国とオスマン帝国との和睦が破れ、争乱になるのでは無いかとの懸念が人々の間で広がっている。
㉞ニコライ1世は、民衆の蜂起で苦しむオーストリア帝国への援軍をゼーフェンベルゲン(現在のオランダの北ブラバント州)に集結させている。
㉟オーストリアは、政治改革を行い、フランツ・ヨーゼフ1世の即位により騒動が収まった。
㊱ロンバルド・ヴェネト王国のロンバルディア及びヴェネツィアにて一揆が発生したが、オーストリア帝国は抑えている。第7代サルデーニャ王国国王カルロ・アルベルトは、此のロンバルディアとヴェネツィアを奪取して支配下にしようとし、2度出撃したが、ヨーゼフ・ラデツキー率いるオーストリア帝国軍に敗れた。アルベルトは退位し、自身の長男ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に譲位した。
㊲ピウス9世はオーストリア帝国を支持しており、独立を求めるローマの人々と対立した。暴動を恐れたピウス9世は、両シチリア王国のガエータ(現在のイタリアのラツィオ州ラティーナ県)に逃亡した。ピウス9世は速やかに帰還する様求められ、そうしなければ、ローマ教皇領の内政が乱れ、強盗が蔓延ると云われた。最終的には、第3代両シチリア王国国王フェルディナンド2世が一揆を鎮めた。しかし、シチリア島(現在のイタリア)までは占領出来ず、特にメッシーナやシラクサでは一揆軍が占領しており、今も戦争が絶えない。
㊳シュレースヴィヒ公国及びホルシュタイン公国の帰属を巡り、デンマークとドイツの間で戦争が起きた。結果、デンマークは敗北し、戦列艦1隻が焼き討ちに遭い、別の1隻はドイツ側に奪われた。
㊴ヨーロッパでは、西暦1,845年の馬鈴薯、西暦1,846年の小麦と2年凶作が続き、食糧が払底したが、昨年から豊作となった。
㊵昨年は、ヨーロッパとエジプトでコレラが流行したが、前回程の被害は出なかった。
㊶ムハンマド・アリーは老衰の為、自身の養子イブラーヒーム・パシャを、第2代ムハンマド・アリー朝ワーリーに即位させ、国政を引き継いだ。しかし、パシャも間も無く崩御し、アリーの孫アッバース・パシャが第3代ムハンマド・アリー朝ワーリーに即位した。アッバースは、宗主国であるオスマン帝国のコンスタンティノープルへ挨拶へ行き、第35代オスマン帝国皇帝メフメト5世からムハンマド・アリー朝ワーリーとして認められた。帰国後アッバースは閣僚や外国人専門家を罷免した。
1,849 10 日本への帰国を目指していたジョン万次郎が、日本近海を通る捕鯨船が見つからず、水夫として船に乗り込み、帰国費用を稼ぐ為に、海路でカリフォルニアの金鉱へ向かう。
1,849 11 7 オーガスト・ベルモントが、キャロライン・スライデル・ペリーと結婚する。其の後、ニューヨーク5番街18番通りに豪邸を建設し、客人を持て成した。此の豪邸は西暦1,893年に売却される迄ベルモント家が使用した。
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