以下の暦は全て西暦に変換しています。 日本の旧暦 / 中国の旧暦 / ユダヤ暦 / ヒジュラ暦 / ソビエト連邦暦 / フランス革命暦
≈は「頃」を意味しています。
皇室献上品 高級トイレットペーパー
| 年月日 | 出来事 | |||
|---|---|---|---|---|
| 1,848 | 200家族(株主総会への出席を許可されている出資額上位200名)によってフランス銀行が独占支配される。 | |||
| 1,848 | ルイ・ブランがラ・ショー・ド・フォン(現在のスイスのヌーシャテル州)に懐中時計組立の時計工房を開く。 | |||
| 1,848 | ロスチャイルド家のフランクフルト本部で書記官をしていたラファエル・エルランガーが銀行会社「エルランガー&ゾーネ」を設立する。 | |||
| 1,848 | 前年迄カザン大学(現在のロシアの地方政府タタールスタン共和国)工業化学教授であったニコライ・ジーニンが、サンクトペテルブルク医科外科アカデミーの化学教授に就任する。そして、アルフレッド・ノーベルの指導を行った。 | |||
| 1,848 | ピウス9世が、ロスチャイルド家から50,000,000フランを借り入れる。 | |||
| 1,848 | 2 | カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが「共産党宣言」を発表する。これまでのすべての社会の歴史は階級闘争の歴史であり、資本主義社会は自らが産み出した労働者階級プロレタリアートにより打倒されるとし、労働者の国際的団結を呼びかけた。 | ||
| 1,848 | 7 | 29 |
オランダ船が1隻長崎に来航する。オランダ船長が語った内容を、ヨセフ・ヘンリー・レフィスゾーンが聞き、大通詞・小通詞によって風説書として、以下の主旨の内容が和訳され、老中宛に発送された。 ①当年来日のオランダ船は、西暦1,848年6月25日にバタヴィアを出港し、海上異常無く本日長崎に到着した。此の1隻以外に仲間船は無い。 ②台湾や日本近海で清船は見掛けなかった。 ③西暦1,847年11月22日に長崎を出港したスヘルトーヘンボス号は、西暦1,847年12月6日にバタヴィアに到着した。 ④西暦1,847年4月15日に長崎からアメリカへ向けて、アメリカ人を送還した。 ⑤ジャワ島は静謐である。其の他特段の情報は無い。 又同日、以下の別段風説書も送られて来た。 ①ウィレム2世の弐男アレクサンダー・ファン・オラニエ・ナッサウは、胸を患っていたが、西暦1,847年11月に、マデイラ島(現在のポルトガル領マデイラ諸島)の気候が寒さを凌ぐのに良いという事で療養したが、西暦1,848年2月20日に死去した。此れを受けて国中が忠勤を尽くした。当年は、フランスの2月革命やドイツの3月革命により、ヨーロッパ諸国の大半が動乱に見舞われたが、オランダに関しては安定していた。 ②西暦1,848年4月1日、オランダ領東インドに於いて、法令を改定し、全ての事象を掟書に則って取り扱う事となった。 ③駐広東オランダ総督センファパセルは職を辞し、ヘエルブロウンに譲った。 ④昨年のオランダのヨーロッパ諸国・アメリカへの茶の輸出は55,790,135ポンドであった。 ⑤清とイギリスの関係は未だ穏やかにならず、広東の者は外国人を憎んでいる。 ⑥西暦1,847年12月5日、イギリスの若者6名が、広東近隣の川で遊ぶ為に上陸した所、暴徒が多数押し寄せて彼等を殺害した。ケイイングは、此の暴徒達を処罰したが、イギリス人は、其の罰が軽いという事で怒りが収まらず、自分達の身の安全や財産保全に不安を覚え、非常に用心している。 ⑦ケイイングは命を受け、西暦1,847年2月25日に広東から北京へ向かった。道光帝は、ケイイングの息子キングシーに命じ、ケイイングとキングシーは面会した。 ⑧次期両広総督への交代は、次席のセンフタイネンが司る事となった。 ⑨清が不法な行為をしているという事を、イギリスの僧侶が気付き、其れ以来上海のイギリス総督は、同所を取り締まる為に、イギリス軍艦で舟山港を封鎖し、不法を働く者を戒め、北京へ送る穀物を差し止めた。 ⑩香港のイギリス新聞に拠ると、琉球に駐留する外国人が殺害されたとの事である。 ⑪ジョン・デイビスが香港総督を辞し、サミュエル・ボナムに譲った。此れにより、ボナムは第3代香港総督となった。ボナムは過去に以下の総督を歴任していた。 ❶ペナン島(現在のマレーシア) ❷マラッカ(現在のマレーシア) ❸シンガポール ⑫清の海域に防衛の為展開中の海軍の戦力は以下の通り。 ❶病院船:アリゲーター ❷ブリッグ船:アルバトロス(大砲16門を搭載) ❸ブリッグ船:コロンバイン(大砲16門を搭載) ❹ブリッグ船:サーペント(大砲12門を搭載) ❺蒸気船:メディア(大砲4門を搭載) ❻フリゲート艦:メアンダー(大砲42門を搭載) ❼兵糧船:ミンデン ❽蒸気船:フューリー(大砲4門を搭載) ❾スループ船:スカウト(大砲16門を搭載) ⑬西暦1,846年10月18日、清船ケイイング号が香港島からイギリスへ向けて出港したが、逆風の為着船出来なかった。止むを得ず北米へと向かい、西暦1,847年7月7日にニューヨークに到着した。そして西暦1,848年3月頃に再度イギリスへ向けて出港し、漸くロンドンに到着した。 ⑭紹治帝が西暦1,847年11月4日に崩御し、紹治帝の弐男嗣徳帝が第4代阮朝皇帝に即位し、家督を相続した。嗣徳帝は北京へ使者を遣わせ、清政府の許可を請うた。結果、阮朝の家督は規定通りに承認された。 ⑮西暦1,848年5月頃、マニラに在勤していたスペインの奉行が、スールー諸島(現在のフィリピン)内のホロ島(現在のフィリピンのスールー州)の住民を征伐する為に軍を派遣した。ホロ島の住民は海賊を生業としており、他の島の住民を略奪し、奴隷として売っていた。此のスペイン軍の戦力は以下の通り。 ❶蒸気船3隻 ❷スクーナー艦3隻 ❸砲艦8隻 ❹兵卒600名 ❺砲兵50名 ❻野戦砲2門 ホロ島の海賊は激しく抵抗したものの、砦を占拠された。又、150隻余の船を破壊され、大砲124門が奪われた。そして、スペイン軍の手により奴隷200名が解放された。海賊達は、誰一人逃亡する事が出来なかった。 ⑯⑮の報告を受ける前に、オランダ領東インド政庁からも、ホロ島の海賊征伐の為に海軍を派遣したが、まだ帰国出来ていない。 ⑰第4代タヒチ王国国王ポマレ4世及び其の部下が、フランスを欺き援助を受けていた事を理由に、フランス人はタヒチ王国を占領する事を決定した。 ⑱ハワイ諸島の内、ホノルル市街は家屋が立ち並び、美麗となった。しかし、コロフォルニーが近隣に在る為、交易は進まず、繁盛しないと思われる。 ⑲ヘンリー・ハーディングに代わり、初代ダルハウジー侯爵ジェイムズ・ラムゼイが、第13代イギリス領インド総督に就任した。ラムゼイは以前高官を務めた事が有るとの事である。ラムゼイは西暦1,848年1月頃、業務の引継ぎの為マダガスカルに到着し、其の後カルカッタに到着した。そして、イギリス以外の国々との関係を調整し、関税を平等にした。又、東インド内のイギリス領諸港との往復に関し、貨物の関税を廃止した。 ⑳喜望峰内のイギリス領に向ってカッフル人が蜂起したが、第52代ケープ植民地総督ハリー・スミスが智略を以って鎮圧した。 ㉑第24代アラウィー朝スルターンのアブドゥルラフマーンは、アルジェリアに於いて、数年来フランス王国に抵抗していたが、西暦1,848年1月21日、ルイ・フィリップ1世の五男アンリ・ドルレアンに降伏した。ドルレアンはオマール公爵で、第6代フランス領アルジェリア総督も兼務している。アブドゥルラフマーンはフランスに送られ、丁重に扱われたが、再度抵抗する可能性が有る為幽閉された。 ㉒米墨戦争が勃発した。アメリカ軍の将軍ウィンフィールド・スコットは、西暦1,847年9月15日にメキシコに進撃し、市街を占領した。最終的に此の戦争の和議は、メキシコがカリフォルニアを渡す事により成立した。此れによりアメリカの領土は、北はオレゴン川、南は北緯32度に至る太平洋に接した範囲となった。 ㉓アメリカの人口は西暦1,780年は僅か2,000,000人であったが、最近の調査では28,700,000人となった。此れにより商業が発達し、アメリカ国民は年々荒野を開拓して田地としている。 ㉔昨年、ヨーロッパ諸国は凶作で、食糧の価格が高騰して苦労したが、今年は幸い難を逃れた。 ㉕ポルトガル国内の一揆は、イギリス・フランス・スペインが協力して鎮圧した。西暦1,847年4月28日に第10代ブラガンサ朝国王マリア2世の命により、一揆を起こした者達を赦免した。 ㉖スイスにて一揆が起こり、西暦1,848年1月頃に戦争に発展するかに思えたが、事無く治まった。 ㉗ヨーロッパ諸国の大半が穏やかで無く、現地住民による一揆が各地で発生している。西暦1,848年2月22日にパリで激しい騒動が起こった。3日間に渡り一揆軍とフランス王国軍が睨み合い、一揆軍が国政を支配する様になり、ルイ・フィリップ1世は、一族を引き連れてイギリスへ亡命した。一揆軍は新たな国王は立てず、フランス王国民の中から優れた指導者を選び、統治する事を望んでいる様に見える。しかし此れはとても長続きする様には思えない。 ㉘オーストリア・プロイセン王国・其の他ドイツ諸国でも同時に騒動が起こっているが、詳細は分からない。唯はっきりしているのは、国民が国政に関与し、困窮する者達を救う事を動機としている点である。 ㉙第2代バイエルン王国国王ルートヴィヒ1世が退位し、ルートヴィヒ1世の長男マクシミリアン2世が第3代バイエルン王国国王に即位した。 ㉚シレジア地方(現在のポーランドのドルヌィ・シロンスク県、オポーレ県、シロンスク県付近)、ホルシュタイン地方(現在のドイツのシュレースヴィヒ・ホルシュタイン州)の大部分が元来ドイツ人であるので、デンマークの支配から逃れるべく運動していた。此の動きを、デンマークは軍を使って抑えていたが、ドイツ諸国の一部は、此の支配を止めさせるべく、評議の上、武力行使する事にした。 ㉛イタリア、特に両シチリア王国では、数年来騒動が起きていたが、西暦1,848年1月12日、パレルモ(現在のイタリアのシチリア州)で一揆が起き、国中が騒乱となった。一揆軍は、旧シチリア王国と旧ナポリ王国の政治を区別する事を要求した。しかし結局、此れ迄通り、フェルディナンド1世が両シチリア王国国王として統治する事となった。 ㉜第255代ローマ教皇ピウス9世は、異国の民衆を支配する事に関与しており、現地住民の代表達と一堂に会し、話し合った。 ㉝ロンバルディア地方及びヴェネツィア地方の住民は、数年来オーストリア帝国の支配下に在るが、此度支配者に対し一揆を起こした。第7代サルデーニャ王国国王カルロ・アルベルトは、自らの兵で此の一気に加勢した。最終的に、オーストリア帝国軍は、イタリアの各地から追い払われた。 |
|