以下の暦は全て西暦に変換しています。 日本の旧暦 / 中国の旧暦 / ユダヤ暦 / ヒジュラ暦 / ソビエト連邦暦 / フランス革命暦
≈は「頃」を意味しています。
皇室献上品 高級トイレットペーパー
| 年月日 | 出来事 | |||
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| 1,844 | チャールズ・ホイートストンが、イギリスのスウォンジー湾に絶縁電線を沈め、ボートからマンブルズ灯台に信号を送る。 | |||
| 1,844 | ウィリアム・ホイットフィールドが「ウィリアム・アンド・エリザ号」の船長として、ニューベッドフォードから出航する。 | |||
| 1,844 |
以下2名の間に娘ジェニーが生誕する。此れを切っ掛けに生活環境が悪かった家から、同じヴァノー通りの別の家に引っ越した。 ①カール・マルクス ②イェニー・フォン・ヴェストファーレン |
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| 1,844 | オーガスト・ベルモントが、オーストリア帝国政府の任命により、オーストリア帝国ニューヨーク総領事に就任する。以前からベルモントは、ロスチャイルド家とクレメンス・フォン・メッテルニヒの密接な繋がりを活かし、中米やヨーロッパの外交・金融業務を支援していた。 | |||
| 1,844 | 6 | 3 | 徳川斉昭に江戸幕府から江戸召還の命がもたらされる。 | |
| 1,844 | 6 | 21 |
徳川斉昭が隠居謹慎処分、藤田東湖が罷免処分となる。 理由として、 ①神道中心の宗教改革を採用して寺院を整理した ②寺請制度に代わって氏子改めを行った ③寺の鐘を潰して大砲を鋳造した ④度々蝦夷地開拓を出願した ⑤藩校弘道館を設置し神儒一致思想を鼓吹した ⑥江戸定府である水戸藩主が長期間水戸に滞在した 具体的には、200寺以上を整理し、大砲を作る為に約600個もの梵鐘を鋳潰した。神仏混淆であった水戸東照宮(主祭神は徳川家康)も神道一方にしようとした。これにより徳川慶篤が家督を相続し、第10代水戸藩主となる。分家の三連枝(第10代高松藩主松平頼胤、第5代守山藩主松平頼誠、第9代府中藩主松平頼縄)による後見が命じられた。 |
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| 1,844 | 7 | 3 | マカオ郊外の望厦村(現在の中国広東省中山市)で、清とアメリカの間で、イギリスに南京条約で認めた内容とほぼ同様の事を定めた修好通商条約が結ばれた。 | |
| ≈ | 1,844 | 7 | ピーター・アルバート・ビックが、以下の主旨の報告を江戸幕府に行う。 西暦1,844年8月1日から同年8月15日にウィレム2世のフリゲート艦パレンバン号・コルベット艦ボレアス号・其の他ウィレム2世所有の船により、此度ウィレム2世から徳川家慶殿に差し上げる書簡を送る。此の書簡は貴国の政治に役立つ事を申し上げるものである。尚此の書簡は、オランダの交易に関わるものでは無いと存じる。 | |
| 1,844 | 7 | 29 |
オランダ船が1隻長崎に来航する。オランダ船長・事務長が語った内容を、ピーター・アルバート・ビックが聞き、通詞によって風説書として、以下の主旨の内容が和訳され、老中宛に発送された。 ①昨年長崎より出港した船は、日本の陸地近辺で大嵐に遭い、本船は大揺れで浸水が酷く、香港に立ち寄り修理を行った。其の様な訳で漸く西暦1,844年2月9日バタヴィアに到着した。 ②当年来日のオランダ船1隻は西暦1,844年6月30日にバタヴィアを出港し、海上異常無く西暦1,844年7月29日に長崎に到着した。途中外国船や清船は見掛けなかった。 ③ヴィクトリアが表敬で、ルイ・フィリップ1世並びにレオポルド1世を訪問した。 ④ウィレム1世は西暦1,843年12月12日に崩御した。 ⑤ニコライ1世が、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世を表敬訪問した。 ⑥スペインの内乱は収束して、イサベル2世が第2代ボルボン朝(第1次復古)国王に即位した。 ⑦フランス王国の使節が清へ、軍艦を率いて渡来した。 ⑧清とイギリスのアヘン戦争後の状況は、詳細を別段で提出する。 |
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| 1,844 | 8 | 13 | 高野長英が伝馬町牢屋敷で働いていた非人・栄蔵に放火させる。此れにより高野は、焼死を防ぐため牢の扉を開放する「切り放ち」で外へ出た。3日後の西暦1,844年8月16日迄に出頭しなければならなかったが、其の儘逃亡した。 | |
| 1,844 | 8 | 28 | カール・マルクスが、カフェ・ド・ラ・レジャンス(現在のフランスのパリ1区サン・トノレ通り)にてドイツの社会主義者フリードリヒ・エンゲルスと出会う。エンゲルスは本年出版されたばかりの「イギリスに於ける労働者階級の状況」をマルクスに見せ、労働者階級が歴史における最後の革命の主体であり道具となる事をマルクスに説いた。 | |
| 1,844 | 8 | 31 |
「ピール銀行条例」が発効される。第31代イギリス首相ロバート・ピールに対し庶民院議員ベンジャミン・ディズレーリが働きかけた事で実現した。内容は以下の通り。 ①西暦1,844年8月31日以降、イングランド銀行を一般銀行業務を行う「銀行部」と、銀行券の発行を行う「発行部」に分け、両部署を独立させる。 ②銀行部はイギリス政府の債権を含む14,000,000ポンドの有価証券を発行部に交付し、発行部はそれを兌換準備として同額の銀行券を発行し銀行部に交付する。それ以上の銀行券を発行する場合は同額の金準備を行う。本位貨幣の準備中、銀の保有量は金の保有量の1/4を超えてはならない。 ③西暦1,844年5月6日時点で銀行券を発行する各銀行は、同年4月27日以前の12週間の平均発行額を限度とし、銀行券の発行を継続出来、その兌換準備の内容は各銀行の自由とするが、何らかの理由により銀行券の発行を停止する際は、以降の銀行券の発行は認められない。 ④③によって銀行券の発行を停止した銀行の発行額の1/3を限度としてイングランド銀行がこれを継承し、その額だけ②で規定するイングランド銀行の保証準備発行額を増加させる事が出来る。これによって生じた利益はイギリス政府のものとする。 ⑤金標準3.179ポンド/オンスで金と引き換えに銀行券を交付する。 ⑥ロンドンから半径65マイル以内で6名以上の組合員で営業する銀行に於いて、持参人要求払の為替手形の振り出し・引き受け・裏書を禁止する。各銀行は代わりにイングランド銀行券の発行・流通をサポートする。 兌換銀行券をイングランド銀行に独占的に発行させ、それ以外の株式銀行72行・個人銀行207行の新規銀行券の発行を禁じ、銀の流通を制限した。これによりイングランド銀行は、民間銀行からイギリスの中央銀行となった。 |
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| ≈ | 1,844 | 9 | 13 | 高野長英が、大間木(現在の埼玉県さいたま市緑区)に在る、自身の門人で蘭方医の高野隆仙の離座敷に匿われる。隆仙の弟で板橋(現在の東京都)で医者を営む水村玄銅が長英を導いた。水村は長英の脱獄前に、長英の釈放運動をしていた。 |
| ≈ | 1,844 | 9 | 20 | 高野長英が、高野隆仙の離座敷を出発する。 |
| ≈ | 1,844 | 9 | 21 | 夜、高野隆仙の下に迎え駕籠がやって来る。「此れに乗って患者を診て欲しい」と言われ応じるが、連れて行かれたのは鴻巣(現在の埼玉県)の同心詰所であった。ここで高野は石抱による拷問を受けた。 |
| 1,844 | 10 | 24 | 黄埔近くに停泊するフランス軍艦アルシメード号の艦上で修好通商条約が締結される。ほぼ望厦条約に倣っている(黄埔条約)。 | |
| ≈ | 1,844 | 12 | 徳川斉昭の隠居謹慎処分が解除される。 | |
| ≈ | 1,844 | 12 | 30 | 高野隆仙が同心詰所から釈放される。隆仙は高野長英の行き先に関し、一切口を割らなかった。 |