西暦1842年(天保13年)は、イギリスと清の間で南京条約が結ばれてアヘン戦争が終結し、香港の割譲と五港の開港、2100万ドルの賠償が定められた年である。年末には広州で民衆による英国商館焼き打ち事件も起きた。日本では江戸幕府が異国船打払令を撤廃し、1806年に続いて再び薪水給与令を発した。長崎に来航したオランダ船がもたらした風説書には、ヴィクトリア女王の馬車銃撃事件とエドワード7世の誕生、プロイセンとスペインの王位継承などが記された。ヨーロッパでは、ヨハン・ゲオルク・ヒードラーとマリア・アンナ・シックルグルーバーが結婚したが、息子アロイスはシックルグルーバー姓のまま、のちにヨハン・ネポムク・ヒュットラーに預けられた(ヒトラー姓の起源)。カール・マルクスはケルンに移って急進新聞ラインラント・ニュースに寄稿し、フェルディナント・アドルフ・ランゲはグラスヒュッテで時計事業を引き継いだ。ノーベル家はアルフレッドらとともにサンクトペテルブルクのイマヌエルのもとへ移り、ロスチャイルド家の代理人ニコラス・ビドルはアメリカ政府への資金提供を停止して同国を不況に陥れた。

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≈は「頃」を意味しています。

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年月日 出来事
1,842 フェルディナント・アドルフ・ランゲがヨハン・フリードリヒ・グートケスの時計事業を引き継ぐ。ランゲは嘗て銀採掘で栄えたが衰退してしまったグラスヒュッテ(現在のドイツのザクゼン州)に繁栄を齎したいと考え、ザクセン州の高等法院に、時計製造業を中心とした町の活性化を訴え、事業計画を提出する主旨の書簡を送り採用された。其の書簡にてランゲは「高等法院が10〜15名の若者による福祉と施設の設立の為の資金提供が為され、其の指導を私に任せてくれるなら、近い将来、此の不幸な人々の間に生活と繁栄が広まると確信している」と主張した。
1,842 以下の家族が、イマヌエル・ノーベルの居るサンクトペテルブルクに引っ越す。
①イマヌエルの妻アンドリエッテ・ノーベル
②イマヌエル・ノーベルの長男ロバート・ノーベル
③イマヌエル・ノーベルの弐男ルートヴィヒ・ノーベル
④アルフレッド・ノーベル
1,842 カール・マルクスが、ケルン(現在のドイツのノルトライン・ヴェストファーレン州)へ移住する。其処で急進的な新聞「ラインラント・ニュース」に、社会主義に対する初期の見解と、経済学への関心の高まりを寄稿した。又、ヨーロッパの右翼政府・自由主義運動・社会主義運動のに携わる人間達を無能と批判した。ラインラント・ニュースはプロイセン王国政府にマークされ、毎号印刷前に扇動的な内容が無いかチェックした。マルクスは「我々の新聞は警察に記事を提出しなければならず、非キリスト教的若しくは非国民的な記事は掲載を許可されません」と嘆いた。ロシア帝国の君主制を批判する記事を掲載した際は、第11代ロシア帝国ロマノフ朝皇帝ニコライ1世が記事の差し止めを要請し、プロイセン王国政府が翌年応じた。
1,842 第3代第二合衆国銀行総裁を務めた、ロスチャイルド家の代理人であるニコラス・ビドルが、アメリカ政府への資金提供を停止する。此れによりアメリカは不況に陥った。
1,842 5 10 以下2名が結婚する。
①貧しい放浪農夫で製粉職人見習いのヨハン・ゲオルク・ヒードラー
②マリア・アンナ・シックルグルーバー
しかし、アロイス・シックルグルーバーは養子にはされず、シックルグルーバー姓を維持した。軈てアロイスは、比較的裕福な農家でシュピタル(現在のオーストリアのニーダーエスターライヒ州グミュント郡)に農場を持つ、ヒードラーの弟のヨハン・ネポムク・ヒュットラーの下に預けられた。アロイスは、ヒュットラーに実子の様に可愛がられた。ヒュットラーもヒードラーもヒトラーも何れも「小さな農地の所有者」を意味する一般的な姓で、綴りは以下のバリエーションが存在する。
①Hydler
②Hytler
③Huetler
④Hietler
⑤Hüetler
⑥Hietler
1,842 7 26 オランダ船が2隻長崎に来航する。オランダ船長が語った内容を、エドゥアルド・グランディソンと、次期オランダ商館長ピーター・アルバート・ビックが聞き、長崎奉行所によって風説書として、以下の主旨の内容が和訳され、老中宛に発送された。
①当年来日のオランダ船2隻、西暦1,842年6月26日にバタヴィアを一緒に出港し、海上事故無く本日長崎到着した。此の2隻以外の仲間船は無い。一昨年長崎を発った船は西暦1,840年12月4日、事故無くバタヴィアに到着した。
②昨年日本に向け、西暦1,841年7月8日バタヴィアを出港したが、台湾で台風に遭い、帆や艀2隻が吹き飛ばされ、船具も全て失い、船も動揺して浸水も151.515cmに及び、12tの砂糖が水浸しとなり、更に舵の方からも、90.909cm程度浸水し、状況は悪くなった。転覆を恐れて澳門に乗り入れ、荷物を取り去り、舵の修理を決めた。従って、修理代を支払う為に荷物の大半を売り払った。此れにより、日本へは既に時期遅れで航海出来ず、西暦1,841年11月7日に澳門からバタヴィアに向けて出港した。ところが又台風に遭い、帆柱も折れ難渋したが、西暦1,841年12月18日に何とかバタヴィアに帰港した。
③ウィレム1世は国王の位を、自身の長男ウィレム2世に譲った。
④第5代プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が崩御。フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の長男フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が第6代プロイセン国王に即位する。
⑤ヴィクトリアが乗る馬車が2発銃撃され、危ない所だった。
⑥ヴィクトリアがエドワード7世を出産した。
⑦初代ボルボン朝(第1次復古)国王フェルナンド7世が、国政を自身の弐女イサベル2世に譲った。スペインは未だに混乱が続いている。
⑧フランス王国の所々で暴動が有ったが、直ぐに鎮まった。
⑨清とイギリスの戦争は今も穏やかにならない。一昨年以来の事は追って別段に報告する。
⑩アフガニスタン首長国では、国民がイギリスの支配に対し一揆を起こし、イギリス人を多数殺害した。其の為戦争が起こり、今の所収まっていない。
⑪東インドのオランダ領は何れも静謐である。
⑫台湾辺りで清に向かう船3隻、ヨーロッパ船2隻見掛ける。イギリス船と思われる。
⑬二番船で、ビックが第163代オランダ商館長として赴任した。
1,842 8 28 江戸幕府が異国船打払令を撤廃し、西暦1,806年に続き再度「薪水給与令」を発する。遭難した外国船に限り、食料・薪水・燃料等が欠乏して帰国出来ない場合はそれらを給与する様定めた。
1,842 8 29 イギリスと清の間で南京条約が結ばれ、アヘン戦争が終結する。条約の主な内容は以下であった。
①香港の割譲
②広州・厦門・福州・寧波・上海の五港を開港し、各地に領事を置く
③戦費賠償金12,000,000ドル、没収アヘンの賠償6,000,000ドル等計21,000,000ドルの支払い
④公行制度の廃止
⑤相互の合意による関税率の協定
1,842 12 7 広州の民衆による英国商館焼き打ち事件が起こる。
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