以下の暦は全て西暦に変換しています。 日本の旧暦 / 中国の旧暦 / ユダヤ暦 / ヒジュラ暦 / ソビエト連邦暦 / フランス革命暦
≈は「頃」を意味しています。
皇室献上品 高級トイレットペーパー
| 年月日 | 出来事 | |||
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| 1,837 | ブルース兄弟による最初のアッサム茶生産品46箱がコルカタ(現在のインドの西ベンガル州)のティーコミッティーに出荷される。 | |||
| 1,837 | ジョージ・ピーボディが、アメリカの投資銀行兼商社のブラウン・ブラザーズを通じてロンドンのビジネスに参入し、ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドの代理人となる。 | |||
| 1,837 |
以下が、第一次カルリスタ戦争で不安定化したスペイン帝国の資産に懸念を抱く様になり、オーガスト・ベルモントをニューヨーク経由でキューバに派遣する。 ①イギリス・ロスチャイルド商会 ②フランス・ロスチャイルド商会 ベルモントは、ハバナ(現在のキューバ)へ向かう途上でニューヨークに寄港し、7,000,000ドルの負債を抱えて倒産したロスチャイルド家のアメリカ代理店「J.L.&S.I.ジョセフ商会」を含む、何百ものアメリカ企業が倒産に直面した恐慌を目の当たりにした。其処で、キューバ行きを独自の判断で延期し、倒産したJ.L.&S.I.ジョセフ商会に取って代わってロスチャイルド家の権益を監督する事を意図し、ウォール街78番地に「オーガスト・ベルモント&カンパニー」を設立した。そして、恐慌を利用して安価で証券を買い漁り、最終的にベルモントとロスチャイルド家の双方が、恐慌以前よりも金銭的に潤う事となった。ベルモントは煙草と綿に投資し、外国為替通貨取引も扱った。ロスチャイルド家はベルモントの行動を追認し、ベルモントを年俸100,000ドルでアメリカに於ける代理人とした。ベルモントはニューヨークに留まり、ハバナには行かなかった。 |
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| 1,837 | フェルディナント・アドルフ・ランゲがパリ・スイス・イギリスへ時計職人修行の旅に出る。ランゲは此れ迄時計修行と並行してフランス語を学んでおり堪能であった。パリでは、ブレゲの弟子である時計師ヴィネルの下で4年間を過ごし、職長となった。ヴィネルは「もっと長く滞在して一緒に仕事をしないか」と持ち掛けたが、ランゲには別の人生プランが有った為断った。 | |||
| 1,837 | ティエリー・エルメスが、パリのバス・デュ・ルンパール通りに馬具工房を開業する。 | |||
| 1,837 | ジャマイカ議会議員ジョージ・ウィリアム・ハミルトンが、西暦1,833年8月23日にイギリス議会で成立した奴隷制廃止法による「奴隷補償法」により、奴隷商人として、7つの異なる補償請求の合計で、ジャマイカで所有していた671名の奴隷に対し、11,704ポンドの補償金を受け取る。 | |||
| ≈ | 1,837 | 2 | 林則徐が湖広総督に昇進する。 | |
| 1,837 | 3 |
以下の漂流民がルソン島からマカオに到着する。 ①原田庄蔵 ②寿三郎 ③熊太郎 ④力松 |
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| 1,837 | 5 | カール・ギュツラフが前年完成させた約翰福音之伝・約翰上中下書をシンガポールのアメリカ外国伝道協会の印刷所である「堅夏書院」から木板刷りで出版される。しかし誤りが多く、尾張の方言が混じっていた。 | ||
| ≈ | 1,837 | 6 | ザーロモン・メイヤー・フォン・ロスチャイルドの下で家政婦として働いていたマリア・アンナ・シックルグルーバーが、ロスチャイルドの子供を身籠る。シックルグルーバーから其の事実を聞いたロスチャイルドは、即日シックルグルーバーに口止めとして金銭を渡し、シックルグルーバーの故郷ストロネス(現在のオーストリアのニーダーエスターライヒ州ツヴェットル郡)の病院に送った。 | |
| 1,837 | 6 | 7 | マリア・アンナ・シックルグルーバーが、ストロネスにて、アロイス・ヒトラーを出産する。アロイスは、母親の名に因み、アロイス・シックルグルーバーと名乗った。 | |
| 1,837 | 7 | 3 |
以下の乗組員等38名がアメリカの商社オリファント商会の商船「モリソン号」に乗船する。元々カール・ギュツラフはモリソン号の姉妹船「ヒマレー号」で漂流民を送還する事をイギリス商務庁に訴えたが、外国船で日本に送還するのは危険であるので一旦琉球へ送った方が良いという理由から却下され、代わりにイギリス商務庁長官チャールズ・ポーレット・トムソンはイギリス軍艦「ローレィ号」でギュツラフと漂流民7名が琉球に行き、那覇でオリファント商会広東支配人チャールズ・キングの日本行きの船に乗り換える案を提案した。しかしキングは日本人がイギリス軍艦に乗って来た事実を知られると疑惑を抱かれるという理由から此の案に反対し、ギュツラフだけがローレィ号、漂流民7名はモリソン号に乗るという代替案を出し、採用された。 ①船長インガソル ②キング夫妻 ③医療宣教師ピーター・パーカー ④サミュエル・ウィリアムズ ⑤山本音吉 ⑥久吉 ⑦岩吉 ⑧原田庄蔵 ⑨寿三郎 ⑩熊太郎 ⑪力松 |
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| 1,837 | 7 | 4 | 前日にモリソン号に乗船した乗組員38名がマカオを出港する。此の日はアメリカの独立記念日だったが、大砲を外した為祝砲は打たず、静かに神に感謝の祈りを奉げた。 | |
| 1,837 | 7 | 12 | 11時にモリソン号が琉球王国の那覇に到着する。 | |
| 1,837 | 7 | 13 |
モリソン号の乗組員が以下の支給を受ける。 ①飲み水 ②塩 ③卵 ④瓜 |
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| 1,837 | 7 | 14 |
モリソン号の乗組員が以下の支給を受ける。 ①飲み水 ②山羊 ③豚 ④サツマイモ チャールズ・キングは金貨で決済しようとしたが、琉球では流通していない為断られ、代わりにポケット字典とハンカチをプレゼントした。 |
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| 1,837 | 7 | 15 | カール・ギュツラフがローレィ号からモリソン号に乗り換え、江戸へ向けて出発する。 | |
| 1,837 | 7 | 28 | モリソン号が伊豆大島(現在の東京都大島町)を通過する。又、6時に三崎詰支配組与力香山助七郎が、城ヶ島遠見番所の同心から異国船を1隻発見したとの報告を受け、浦賀奉行所に注進し、浦賀奉行太田運八郎は直ちに江戸に報告する。 | |
| 1,837 | 7 | 30 |
太田運八郎が与力中嶋清司等を異国船見届けの為に出港させ、観音崎御備場には平井藤右衛門に出陣させる。自身は平根山御備場へ向かった。西暦1,825年4月6日に江戸幕府が発した「異国船打払令」に則り砲撃を行う為であった。11時に観音崎及び平根山から洲崎砲台(現在の千葉県館山市洲崎)に向けて合砲を打ち、洲崎砲台がそれに応えた為準備が整った。モリソン号は先ず平根山砲台からの砲撃を受け、更に追って観音崎砲台からも砲撃を受けた為、14時に三浦郡野比村(現在の神奈川県横須賀市野比)に停泊した。キング夫妻が現地の漁師等200名を後甲板後方に招きワイン・ビスケット・パンを振る舞った。更に、さらし木綿やアメリカの貨幣を与えた。キング達は役人を待ったが来なかった。又、太田は以下の老中4名に対し、打払の実行を報告した。打払を行なった後船は野比村に停泊、浦賀奉行組を偵察に送った所、西暦1,822年に来航した船に似ており、イギリス船と予測、乗組人数は不明とした。 ①松平乗寛 ②水野忠邦 ③太田資始 ④松平信順 |
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| 1,837 | 7 | 31 |
6時、モリソン号が夜中に海岸に移動した4門の大砲から砲撃を受ける。白旗を揚げたが砲撃は止む事無く続いた。インガソルはこれ以上江戸湾の奥を進むのは危険であり、日本側との交渉の余地も無いと判断し、退却した。退却する際に現地の日本人に自分達の国籍や来航目的を役人に伝えて欲しいと伝えたが、うまく行かなかった。夕方に石廊畸を通過し、吉田(現在の愛知県豊橋市)沖に差し掛かった頃会議を開き、交渉の可能性のある薩摩へ進路を変更した。又、太田運八郎が以下の老中4名に「夜は風雨が強かった為、野比村に停泊していたモリソン号を番船に監視させ、明るくなった所を砲撃、伊豆大島沖へ走り去った。監視船を出す様を指示を出した」と打払の実行を報告した。 ①松平乗寛 ②水野忠邦 ③太田資始 ④松平信順 |
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| 1,837 | 8 | 10 | モリソン号が山川港に入港する。チャールズ・キングは来航の目的を話し、漂流民7名の送還と通商を求める書簡を役人に手渡し、役人は直様これを第10代鹿児島藩主島津斉興に取り次ぐと約束し、斉興に提出した。又、鹿児島藩家老島津久風が山川に派遣され、モリソン号との交渉に当たった。鹿児島藩側は幕府からの異国船打払令を伝え、漂流民はオランダを介して送還するように言って、薪水と食糧を与えて船に帰した。 | |
| 1,837 | 8 | 12 | 島津久風の指示で鹿児島藩がモリソン号を砲撃する。しかし全て空砲であった。 | |
| 1,837 | 8 | 13 |
以下の漂流民3名が丸坊主にし、祖国を捨てる覚悟を示す。チャールズ・キングは針路をマカオに向けさせた。 ①山本音吉 ②久吉 ③岩吉 |
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| 1,837 | 8 | 18 | 此の日から5日間、モリソン号が台湾海峡を進行している際、清の漁船と遭遇する。カール・ギュツラフは此の漁師に中国語訳の聖書を上げ喜ばせた。 | |
| 1,837 | 8 | 29 | 夕方にモリソン号がマカオに帰着する。 | |