西暦1837年は、漂流民を送り届けに来た商船が、日本の砲台から撃たれた年である。7月3日、山本音吉・久吉・岩吉と原田庄蔵等を含む乗組員38名がアメリカの商社オリファント商会の商船「モリソン号」に乗船した。船名は西暦1834年8月1日に死去した宣教師ロバート・モリソンに由来する。カール・ギュツラフは当初姉妹船での送還をイギリス商務庁へ訴えたが、外国船で日本へ送還するのは危険であるとして却下されていた。7月4日にマカオを発ち、7月12日に那覇へ到着して水や食糧の支給を受け、7月15日に江戸へ向けて出発した。7月28日に伊豆大島を通過すると浦賀奉行所へ報告が上がり、7月30日、浦賀奉行太田運八郎は西暦1825年4月6日の「異国船打払令」に則って与力を出港させ観音崎と平根山へ人を配した。7月31日6時、モリソン号は夜中に海岸へ移された4門の大砲から砲撃を受け、白旗を揚げたが砲撃は止まなかった。インガソルは江戸湾の奥へ進むのは危険であり交渉の余地も無いと判断して退却している。8月10日には山川港へ入り、チャールズ・キングが漂流民7名の送還と通商を求める書簡を役人へ渡したが、鹿児島藩側は打払令を伝え、8月12日に島津久風の指示で砲撃した。全て空砲であった。8月13日、音吉・久吉・岩吉の3名は丸坊主にして祖国を捨てる覚悟を示し、キングは針路をマカオへ向けさせて、8月29日夕方に帰着している。西暦1832年11月3日に鳥羽浦を発ち、西暦1834年1月にアメリカへ漂着し、西暦1835年5月13日にロンドンを見た男達は、故郷の岸から撃たれた事になる。金融では、イギリスとフランスの両ロスチャイルド商会が第一次カルリスタ戦争で不安定化したスペイン帝国の資産に懸念を抱き、オーガスト・ベルモントをニューヨーク経由でキューバへ派遣した。ベルモントはハバナへ向かう途上でニューヨークに寄港し、7,000,000ドルの負債を抱えて倒れた代理店の後を引き受けている。西暦1834年にパリ・ナポリ・バチカンを旅した秘書の、独立であった。2月にはジョージ・ピーボディがメリーランド州債の起債代理人としてロンドンへ渡り、アメリカ州債とアメリカ向け為替を扱うマーチャント・バンカーへ転身した。又、ジャマイカ議会議員ジョージ・ウィリアム・ハミルトンが西暦1833年8月23日の奴隷制廃止法による「奴隷補償法」により、所有していた671名の奴隷に対し11,704ポンドの補償金を受け取っている。フェルディナント・アドルフ・ランゲはパリ・スイス・イギリスへ時計職人修行の旅に出て、パリでは西暦1775年にシテ島へ工房を開いたブレゲの弟子ヴィネルの下で4年を過ごし職長となった。ティエリー・エルメスがパリに馬具工房を開業し、ブルース兄弟による最初のアッサム茶生産品46箱がコルカタへ出荷されている。6月7日にはマリア・アンナ・シックルグルーバーがストロネスにてアロイス・ヒトラーを出産した。

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≈は「頃」を意味しています。

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年月日 出来事
1,837 ブルース兄弟による最初のアッサム茶生産品46箱がコルカタ(現在のインドの西ベンガル州)のティーコミッティーに出荷される。
1,837 以下が、第一次カルリスタ戦争で不安定化したスペイン帝国の資産に懸念を抱く様になり、オーガスト・ベルモントをニューヨーク経由でキューバに派遣する。
①イギリス・ロスチャイルド商会
②フランス・ロスチャイルド商会
ベルモントは、ハバナ(現在のキューバ)へ向かう途上でニューヨークに寄港し、7,000,000ドルの負債を抱えて倒産したロスチャイルド家のアメリカ代理店「J.L.&S.I.ジョセフ商会」を含む、何百ものアメリカ企業が倒産に直面した恐慌を目の当たりにした。其処で、キューバ行きを独自の判断で延期し、倒産したJ.L.&S.I.ジョセフ商会に取って代わってロスチャイルド家の権益を監督する事を意図し、ウォール街78番地に「オーガスト・ベルモント&カンパニー」を設立した。そして、恐慌を利用して安価で証券を買い漁り、最終的にベルモントとロスチャイルド家の双方が、恐慌以前よりも金銭的に潤う事となった。ベルモントは煙草と綿に投資し、外国為替通貨取引も扱った。ロスチャイルド家はベルモントの行動を追認し、ベルモントを年俸100,000ドルでアメリカに於ける代理人とした。ベルモントはニューヨークに留まり、ハバナには行かなかった。
1,837 フェルディナント・アドルフ・ランゲがパリ・スイス・イギリスへ時計職人修行の旅に出る。ランゲは此れ迄時計修行と並行してフランス語を学んでおり堪能であった。パリでは、ブレゲの弟子である時計師ヴィネルの下で4年間を過ごし、職長となった。ヴィネルは「もっと長く滞在して一緒に仕事をしないか」と持ち掛けたが、ランゲには別の人生プランが有った為断った。
1,837 ティエリー・エルメスが、パリのバス・デュ・ルンパール通りに馬具工房を開業する。
1,837 ジャマイカ議会議員ジョージ・ウィリアム・ハミルトンが、西暦1,833年8月23日にイギリス議会で成立した奴隷制廃止法による「奴隷補償法」により、奴隷商人として、7つの異なる補償請求の合計で、ジャマイカで所有していた671名の奴隷に対し、11,704ポンドの補償金を受け取る。
≈ 1,837 2 林則徐が湖広総督に昇進する。
1,837 2 ジョージ・ピーボディが、メリーランド州債の起債代理人としてロンドンに渡る。メリーランド州が起債代理人を3名任命し、1名が辞退した後にピーボディが其の席を得たという背景が有った。ピーボディは、アメリカの投資銀行兼商社のブラウン・ブラザーズを通じてロンドンのビジネスに参入し、アメリカ州債とアメリカ向け為替を扱うマーチャント・バンカーへ転身した。同年ピーボディは、恐慌で窮したブラウン・ブラザーズがイングランド銀行の支援を得る際、其の保証の取り纏めに関与した。
1,837 3 以下の漂流民がルソン島からマカオに到着する。
①原田庄蔵
②寿三郎
③熊太郎
④力松
1,837 5 カール・ギュツラフが前年完成させた約翰福音之伝・約翰上中下書を、シンガポールのアメリカ外国伝道協会の印刷所である「堅夏書院」が木板刷りで出版する。しかし誤りが多く、尾張の方言が混じっていた。
≈ 1,837 6 ザーロモン・メイヤー・フォン・ロスチャイルドの下で家政婦として働いていたマリア・アンナ・シックルグルーバーが、ロスチャイルドの子供を身籠る。シックルグルーバーから其の事実を聞いたロスチャイルドは、即日シックルグルーバーに口止めとして金銭を渡し、シックルグルーバーの故郷ストロネス(現在のオーストリアのニーダーエスターライヒ州ツヴェットル郡)の病院に送った。
1,837 6 7 マリア・アンナ・シックルグルーバーが、ストロネスにて、アロイス・ヒトラーを出産する。アロイスは、母親の名に因み、アロイス・シックルグルーバーと名乗った。
1,837 7 3 以下の乗組員等38名がアメリカの商社オリファント商会の商船「モリソン号」に乗船する。元々カール・ギュツラフはモリソン号の姉妹船「ヒマレー号」で漂流民を送還する事をイギリス商務庁に訴えたが、外国船で日本に送還するのは危険であるので一旦琉球へ送った方が良いという理由から却下され、代わりにイギリス商務庁長官チャールズ・ポーレット・トムソンはイギリス軍艦「ローレィ号」でギュツラフと漂流民7名が琉球に行き、那覇でオリファント商会広東支配人チャールズ・キングの日本行きの船に乗り換える案を提案した。しかしキングは日本人がイギリス軍艦に乗って来た事実を知られると疑惑を抱かれるという理由から此の案に反対し、ギュツラフだけがローレィ号、漂流民7名はモリソン号に乗るという代替案を出し、採用された。
①船長インガソル
②キング夫妻
③医療宣教師ピーター・パーカー
④サミュエル・ウィリアムズ
⑤山本音吉
⑥久吉
⑦岩吉
⑧原田庄蔵
⑨寿三郎
⑩熊太郎
⑪力松
1,837 7 4 前日にモリソン号に乗船した乗組員38名がマカオを出港する。此の日はアメリカの独立記念日だったが、大砲を外した為祝砲は打たず、静かに神に感謝の祈りを捧げた。
1,837 7 12 11時にモリソン号が琉球王国の那覇に到着する。
1,837 7 13 モリソン号の乗組員が以下の支給を受ける。
①飲み水
②塩
③卵
④瓜
1,837 7 14 モリソン号の乗組員が以下の支給を受ける。
①飲み水
②山羊
③豚
④サツマイモ
チャールズ・キングは金貨で決済しようとしたが、琉球では流通していない為断られ、代わりにポケット字典とハンカチをプレゼントした。
1,837 7 15 カール・ギュツラフがローレィ号からモリソン号に乗り換え、江戸へ向けて出発する。
1,837 7 28 モリソン号が伊豆大島(現在の東京都大島町)を通過する。又、6時に三崎詰支配組与力香山助七郎が、城ヶ島遠見番所の同心から異国船を1隻発見したとの報告を受け、浦賀奉行所に注進し、浦賀奉行太田運八郎は直ちに江戸に報告する。
1,837 7 30 太田運八郎が、与力中嶋清司等を異国船見届けの為に出港させ、観音崎御備場には平井藤右衛門を出陣させる。自身は平根山御備場へ向かった。西暦1,825年4月6日に江戸幕府が発した「異国船打払令」に則り砲撃を行う為であった。11時に観音崎及び平根山から洲崎砲台(現在の千葉県館山市洲崎)に向けて合砲を打ち、洲崎砲台がそれに応えた為準備が整った。モリソン号は先ず平根山砲台からの砲撃を受け、更に追って観音崎砲台からも砲撃を受けた為、14時に三浦郡野比村(現在の神奈川県横須賀市野比)に停泊した。キング夫妻が現地の漁師等200名を後甲板後方に招きワイン・ビスケット・パンを振る舞った。更に、さらし木綿やアメリカの貨幣を与えた。キング達は役人を待ったが来なかった。又、太田は以下の老中4名に対し、打払の実行を報告した。打払を行なった後船は野比村に停泊、浦賀奉行組を偵察に送った所、西暦1,822年に来航した船に似ており、イギリス船と予測、乗組人数は不明とした。
①松平乗寛
②水野忠邦
③太田資始
④松平信順
1,837 7 31 6時、モリソン号が夜中に海岸に移動した4門の大砲から砲撃を受ける。白旗を揚げたが砲撃は止む事無く続いた。インガソルはこれ以上江戸湾の奥を進むのは危険であり、日本側との交渉の余地も無いと判断し、退却した。退却する際に現地の日本人に自分達の国籍や来航目的を役人に伝えて欲しいと伝えたが、うまく行かなかった。夕方に石廊崎を通過し、吉田(現在の愛知県豊橋市)沖に差し掛かった頃会議を開き、交渉の可能性のある薩摩へ進路を変更した。又、太田運八郎が以下の老中4名に「夜は風雨が強かった為、野比村に停泊していたモリソン号を番船に監視させ、明るくなった所を砲撃、伊豆大島沖へ走り去った。監視船を出す様指示を出した」と打払の実行を報告した。
①松平乗寛
②水野忠邦
③太田資始
④松平信順
1,837 8 10 モリソン号が山川港に入港する。チャールズ・キングは来航の目的を話し、漂流民7名の送還と通商を求める書簡を役人に手渡し、役人は直様これを第10代鹿児島藩主島津斉興に取り次ぐと約束し、斉興に提出した。又、鹿児島藩家老島津久風が山川に派遣され、モリソン号との交渉に当たった。鹿児島藩側は幕府からの異国船打払令を伝え、漂流民はオランダを介して送還するように言って、薪水と食糧を与えて船に帰した。
1,837 8 12 島津久風の指示で鹿児島藩がモリソン号を砲撃する。しかし全て空砲であった。
1,837 8 13 以下の漂流民3名が頭を丸坊主にし、祖国を捨てる覚悟を示す。チャールズ・キングは針路をマカオに向けさせた。
①山本音吉
②久吉
③岩吉
1,837 8 18 此の日から5日間、モリソン号が台湾海峡を進行している際、清の漁船と遭遇する。カール・ギュツラフは此の漁師に中国語訳の聖書を上げ喜ばせた。
1,837 8 29 夕方にモリソン号がマカオに帰着する。
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