西暦1793年は、フランス革命が最も苛烈な局面を迎えた年である。1月16日20時から17日20時に掛けて、国民公会はルイ16世を死刑にするか否かの投票を行い、議長ピエール・ヴェルニヨが悲痛な声で死刑を宣告した。1月18日には西暦1771年にフランス・フリーメイソンのグランドマスターとなったルイ・フィリップ2世までもが処刑に賛成票を投じ、1月21日、ルイ16世は「私は告発された全ての罪に就いて無実の儘死んでいくのだ」と言い残してギロチン処刑された。4月7日には自由の確立の為には暴力が必要であるとしてジョルジュ・ダントンを首班とする「公安委員会」が設けられ、7月27日、マクシミリアン・ロベスピエールが加わって第2代首班となる。10月16日にはマリー・アントワネットもジャコバン派によりギロチン処刑された。此の激動の中、ナポレオン・ボナパルトは2月にサルデーニャ島への遠征軍の砲兵将校として初陣を踏み、4月にはパスカル・パオリと対立した一家がコルシカ島を追われてトゥーロンへ逃れたが、9月にトゥーロンの砲兵隊司令官となってイギリス軍を撤退させ、頭角を現した。東方では9月14日、対清全権使節ジョージ・マカートニーがイギリス産の安価で大量の綿織物等の工業製品の輸出増と貿易収支の改善を意図し、ジョージ3世の信任状を携えて熱河で乾隆帝に謁見した。三跪九叩頭の礼を拒み、最終的に清側が譲歩して片膝を付く形となったが、求めは退けられている。西暦1757年11月に清が広州一港へ絞って以来、茶は売れても西暦1700年にキャラコを禁じてまで守った毛織物も西暦1740年にバージニアで育て始めた綿も買い手が付かず、銀が流れ出し続けていた其の是正の試みであり、三十六年を経ての直談判であった。7月16日にはアダム・ラクスマンが箱館を出港し、長崎へは向かわずオホーツクへ帰港した。交易が有望と見たロシアは、後に得撫島へ開拓民58名を送り基地を建設する事となる。9月18日、ジョージ・ワシントンが連邦議会議事堂の建設用地での定礎式にフリーメイソンの式服一式を身に纏い、肖像画を描かせた。西暦1789年4月30日の就任宣誓に続く、結社の装いを公にする振る舞いであった。10月28日にはイーライ・ホイットニーが綿繰り機の特許を申請している。又、8月1日にジャン・フランソワ・ボットがジャック・ドーファン・ムーリエと共に「ムーリエ&ボート」を設立した。

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年月日 出来事
1,793 1 1 ジェイコブ・クリングマンがジェームズ・モンローに対し、マリア・レイノルズは、不倫を巡る脅迫の書簡は、アメリカ財務省の投機計画の隠れ蓑であると主張していると伝える。
1,793 1 16 20時、ルイ16世を死刑にするか否かの国王裁判に於いて、投票が開始される。
1,793 1 17 20時、ルイ16世を死刑にするか否かの国王裁判に於ける投票が終了する。其の後集計が行われ、21時、以下の結果を以って国民公会議長ピエール・ヴェルニヨが悲痛な声でルイ16世の死刑を宣告した。
①投票総数721票(国民公会を構成する745名の内❶〜❺を除く721名が投票)
❶死亡者1名
❷病気による欠席6名
❸理由無き欠席者2名
❹公務による欠席者11名
❺投票を免除された者4名
②賛成:387票
❶減刑の余地をフランス王国民に保留しつつ死刑に投票した者1名
❷刑の執行の促進乃至遅延が適当であるか否かの検討を要求しつつ死刑に投票した者23名
❸ブルボン朝一族全員の追放の後迄刑の執行を猶予する事を要求しつつ死刑に投票した者8名
❹鉄鎖の刑に投票した者2名
③反対:334票
1,793 1 18 夫人が第3代ブルボン朝フランス国王ルイ14世の庶系の曾孫娘ルイーズ・マリー・ド・ブルボン・パンティエーヴルであったルイ・フィリップ2世が、ルイ16世の処刑に賛成票を投じる。
1,793 1 21 ルイ16世が「私は告発された全ての罪に就いて無実の儘死んでいくのだ」と言い残し、ギロチン処刑される。
1,793 2 ナポレオン・ボナパルトがコルシカ島の南にあるサルデーニャ島への遠征軍の砲兵将校として、初めて実戦を経験する。ナポレオンはサルデーニャ島周辺の小さな島の攻略をしていたが、そのときの水兵たちが反乱を起こし、ナポレオンが加わっていた遠征軍は撤退する。実はこの遠征軍はコルシカ島の独立を画策するパスカル・パオリに率いられていたという事を、ナポレオンの弟であるリュシアン・ボナパルトが告発する。
1,793 4 パスカル・パオリがパリに呼び戻されたが、独立を支持する島民たちはボナパルト家を襲撃。 この影響で、ボナパルト一家はコルシカ島を脱出してトゥーロンへ逃亡する。
1,793 4 7 フランスの国民公会によって、自由の確立の為には暴力が必要であるとし、「公安委員会」が設立される。首班にはジョルジュ・ダントンが就いた。
1,793 6 対清全権使節ジョージ・マカートニーが天津に来航する。
1,793 7 16 アダム・ラクスマンが箱館(現在の北海道函館市)を出港、長崎へは向かわずオホーツクに帰港する。ラクスマンの報告により、日本との交易が有望と考えたロシアは、後に得撫島に開拓民58名を送り、ロシアの基地を建設する事となる。
1,793 7 27 マクシミリアン・ロベスピエールが公安委員会に加入し、第2代首班となる。
1,793 8 1 ジャン・フランソワ・ボットがジャック・ドーファン・ムーリエと共に「ムーリエ&ボート」を設立する。
1,793 9 ナポレオン・ボナパルトがトゥローンで砲兵隊司令官に任命され、イギリス軍をトゥローンから撤退させる。
1,793 9 14 ジョージ・マカートニーが、イギリス産の安価で大量の綿織物等の工業製品の輸出増を実現し、貿易収支を改善する事を意図し、イギリス人が中国沿岸で居住し貿易ができるよう申し入れたジョージ3世の信任状を携え、第6代清皇帝乾隆帝に熱河(現在の中国河北省、遼寧省、内モンゴル自治区)にて謁見する。その際、三跪九叩頭の礼という3回跪き、その都度頭を3回、合計9回床に付けるという儀礼を求められたが、マカートニーは拒否する。最終的に清側が譲歩し、片膝を付き乾隆帝の手に接吻し、信任状を手渡すという方法が採られた。しかし、清側はあくまでもマカートニーを朝貢使節と見做し、実質的な交渉は行われなかった。また、乾隆帝は「中国は豊かな国であり何でもある。お前達が欲しいというからお情けで売る事を認めている。おまえたちから欲しいものは何もない。貿易拡大とは笑止千万である。」という主旨の書状をマカートニーに渡した。
1,793 9 18 ジョージ・ワシントンが、アメリカの連邦議会議事堂の建設用地での定礎式にフリーメイソンの式服一式を見に纏い、肖像画を描かせる。
1,793 10 ナポレオン・ボナパルトがコルシカ島に戻る。
1,793 10 16 マリー・アントワネットがマクシミリアン・ロベスピエール率いるジャコバン派によりギロチン処刑される。
1,793 10 28 綿繰り機を発明したアメリカのイーライ・ホイットニーが、特許を申請する。
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