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≈は「頃」を意味しています。
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| 年月日 | 出来事 | |||
|---|---|---|---|---|
| 1,599 | 4 | 27 | 前田利家が大坂の自宅で死去。五大老の地位は長男の前田利長が引き継いだ。 | |
| 1,599 | 4 | 28 |
大坂の自宅にいた加藤清正に以下の6名が加わり、石田三成襲撃を計画する。 ①福島正則 ②黒田長政 ③浅野幸長 ④細川忠興 ⑤蜂須賀家政 ⑥藤堂高虎 |
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| 1,599 | 5 | 4 | 石田三成が隠居の為、佐和山城(現在の滋賀県彦根市古沢町)に入る。結城秀康が護衛を担当した。 | |
| 1,599 | 5 | 13 |
以下の五大老連名で前年の蔚山籠城に於ける黒田長政・蜂須賀家政の処分撤回と名誉回復を意図した書状が両氏に送られる。 ①徳川家康 ②毛利輝元 ③上杉景勝 ④前田利長 ⑤宇喜多秀家 |
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| 1,599 | 10 | 25 | 徳川家康が豊臣秀頼に重陽の節句の挨拶をする為、伏見城から大坂に入り、空いていた石田三成の屋敷に宿泊する。その際増田長盛から、浅野長政、豊臣秀頼・淀殿側近大野治長、土方雄久が大坂城入城中の家康を襲撃し暗殺する計画がある事を告げる。 | |
| ≈ | 1,600 | 2 | 15 | 藤田信吉が徳川家康に信念の祝詞を申し上げるべく、上杉家を代表して上杉景勝の代理で上洛する。その際、徳川家への奉公を誓った藤田に対して、徳川は銀子や青江直次の刀等を与えた。 |
| 1,600 | 4 | 19 | オランダ船リーフデ号が豊後国臼杵(現在の大分県)に漂着。出港時は110名程度いたが、到着時の生存者は24名だった。生存者の中でも立つ事が出来たのは6名だけで、重傷者が多かった。 | |
| 1,600 | 4 | 20 | リーフデ号の乗組員がさらに3名死亡する。翌年中までにさらに7名死亡し、最終的な生存者は14名となる。 | |
| 1,600 | 4 | 28 | 藤田信吉と栗田国時が上杉家中を辞し、江戸へ向けて出発する。 | |
| 1,600 | 5 | 6 | 藤田信吉が徳川秀忠と面会し上杉景勝に謀反の意がある事を報告する。 | |
| 1,600 | 7 | 18 | 後陽成天皇から徳川家康に晒布100反が下賜される。 | |
| 1,600 | 7 | 25 | 徳川家康が天野康景と佐野綱正を上杉征伐中の大坂城西の丸留守居に任命する。 | |
| 1,600 | 7 | 25 | 豊臣秀頼が徳川家康に金2万両と米2万石を下賜する。 | |
| 1,600 | 7 | 26 | 徳川家康直属の家臣3,000名、福島正則・池田輝政・山内一豊の軍勢55,000名が上杉征伐の為大阪城を出発し、伏見城に宿泊する。夜、徳川は鳥居元忠と酒を酌み交わし、徳川が「わしは手勢不足の為、伏見に残す人数は3000ばかり。そなたには苦労をかける」と述べると鳥居は「そうは思いませぬ。天下の無事の為ならば自分と松平近正両人で事足ります。将来殿が天下を取るには一人でも多くの家臣が必要でございます。もし変事があって大坂方の軍が包囲した時は城に火をかけ討死するほかないから、人数を多くこの城に残す事は無駄である為、一人でも多くの家臣を城からお連れ下さい」と答えた。家康はその言葉に喜び、深夜まで酒を酌んで別れた。 | |
| 1,600 | 7 | 28 | 徳川家康率いる軍勢が伏見城を出発する。 | |
| 1,600 | 7 | 30 | 石田三成が上杉景勝の重臣直江兼続に書簡にて、徳川家康誅伐の為に挙兵する意思を伝え、戦略について問い合わせる。 | |
| 1,600 | 8 | 2 | 徳川家康率いる軍勢が浜松に宿営する。 | |
| 1,600 | 8 | 3 | 徳川家康率いる軍勢が島田に宿営する。 | |
| 1,600 | 8 | 4 | 徳川家康率いる軍勢が駿府に宿営する。 | |
| 1,600 | 8 | 5 | 徳川家康率いる軍勢が三島に宿営する。 | |
| 1,600 | 8 | 6 | 徳川家康率いる軍勢が小田原に宿営する。 | |
| 1,600 | 8 | 7 | 徳川家康率いる軍勢が藤沢に宿営する。 | |
| 1,600 | 8 | 8 | 徳川家康率いる軍勢が鶴岡八幡宮に参拝し戦勝を祈願する。 | |
| 1,600 | 8 | 9 | 宇喜多秀家が豊国神社(現在の京都府京都市東山区茶屋町)にて出陣式を行う。 | |
| 1,600 | 8 | 10 |
徳川家康が江戸城に入り、諸将に参陣を要請し、後に以下の武将が徳川に続き江戸に入った。 ①福島正則 ②黒田長政 ③細川忠興 ④堀尾忠氏 ⑤浅野幸長 ⑥池田輝政 ⑦中村一忠 |
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| 1,600 | 8 | 10 | 大谷吉継が徳川家康の上杉征伐軍に加わる為に3,000名の兵を率い敦賀から南下してきた所を、石田三成が垂井(現在の岐阜県不破郡)にて出迎え、その後佐和山城に誘う。大谷は三成と徳川家康を仲直りさせる為に三成の嫡男石田重家を自らの軍に従軍させようとするが、そこで三成は徳川誅伐の意思を伝える。大谷は3度に渡り「無謀であり、三成に勝機無し」と反対するが、最終的には息子の大谷吉治・木下頼継と共に西軍に与する。 | |
| 1,600 | 8 | 15 | 徳川家康が江戸城に諸将を集め持て成す。また、上杉征伐の軍令を発した。 | |
| 1,600 | 8 | 20 | 大谷吉継・増田長盛・安国寺恵瓊等が佐和山城にて会談し、毛利輝元を西軍の総大将に迎える事を決定する。 | |
| 1,600 | 8 | 21 | 榊原康政率いる先鋒隊が江戸から会津へ向けて出陣する。 | |
| 1,600 | 8 | 23 | 鳥居元忠等が伏見城での籠城を開始する。 | |
| 1,600 | 8 | 23 | 毛利輝元が大谷吉継・増田長盛・安国寺恵瓊等の求めに応じ、西軍の総大将となり、海路で大坂へと向かう。 | |
| 1,600 | 8 | 24 | 細川忠興が徳川家康に従い、上杉征伐に出陣する為大阪玉造の屋敷を出発する。忠興は屋敷を離れる際は「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、我が妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣たちに命じるのが常で、この時も同じように命じた。その後忠興の正室細川ガラシャを人質にとる為に石田三成の使者が来たが拒絶した。家老小笠原秀清は再度要求のあった場合は自害すると決定した。 | |
| 1,600 | 8 | 25 | 前田玄以・増田長盛・長束正家の上坂要請を受けた毛利輝元が大坂城に入る。輝元の養子毛利秀元も大坂城西之丸に入る。 | |
| 1,600 | 8 | 25 |
前田玄以・増田長盛・長束正家が、大坂城西の丸にいた天野康景と佐野綱正を追放し、前田・増田・長束の連署から成る以下の「徳川家康の罪状13か条」を書き連ねた弾劾状を諸大名に送付し、徳川が豊臣秀吉の遺訓に背いて豊臣秀頼を蔑ろにして挙兵したとし、秀吉の恩を忘れていなければ、秀頼への忠節を尽くす為、味方する様訴えた。佐野は与力・同心を率い伏見城に入る。さらに佐野は大坂城西の丸の明け渡しの条件として徳川側室の雲光院・英勝院・養珠院を逃がし、八幡の知人に預けた。 ①五大老・五奉行と誓紙を取り交わして幾らも経たないのに五奉行の内、石田三成と浅野長政を追い込めた。 ②五大老の前田利家に関し、誓紙を差し出し違背の無い事を誓ったにも拘らず、先ず上杉景勝を討つと言って、利家から人質を取り追い込めた。 ③上杉景勝には何の咎もないのに、誓紙の内容に背いた上に、秀吉の遺命に背き、此の度上杉征伐を企てたのは嘆かわしく、様々に思い止まる様申し述べたのに、許可なく出兵に踏み切った。 ④知行の事は、自分が受ける事は勿論、取次ぎもしてはならないという決まりがあるのに、その誓紙に背き、無い者に対して、知行を与えた。 ⑤秀吉が伏見城の留守居役として置いた者を追い出し、勝手に家康の家臣を入れた。 ⑥五大老・五奉行以外の者との誓紙のやり取りは、誓紙にもある通り禁じられているのに、数多く取り交わしている。 ⑦北政所の御座所である大坂城西の丸に入った。 ⑧大坂城西の丸に御本丸のような天守を築いた。 ⑨国元へ贔屓にしている諸将の妻子を返した。 ⑩縁組みの件に関し、遺命に背いている事を、何度も指摘し、了承した筈なのに、重ねて数多くの縁組みを行っている。 ⑪若い者を扇動し徒党を立てさせた。 ⑫五大老が連署すべき書類に一人で署名している。 ⑬内縁者に有利なように、八幡の検地を免除した。 この様に誓紙の内容に全く従おうとせず、豊臣秀吉の遺命に背いては、何を以て政を行うべきか。この上は一人残らず、決意の上秀頼様一人を主に戴く事、誠に当然の事であろう。 |
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| 1,600 | 8 | 25 | 前日に続き大阪玉造の細川忠興の屋敷に再度石田三成の使者500名が来る。この日は屋敷を取り囲み実力行使に出た。しかし小笠原秀清が人質要求を拒否し、家臣達が状況を細川ガラシャに伝えた。小笠原、河北一成、ガラシャが敵が力ずくで奪おうとするならば奥方を刺して自害する事で合意した。ガラシャは少し祈った後、屋敷内の侍女・婦人を全員集め「夫が命じている通り自分だけが死にたい」と言い、彼女たちを外へ出した。その後、自殺はキリスト教で禁じられている為、小笠原が奥方と同室するのは失礼であるとして、次室からガラシャを薙刀で介錯し、ガラシャの遺体が残らぬように河北が屋敷に爆薬を仕掛け火を放ち、共に自刃した。また、介錯した田辺六左衛門も火に飛び込んで殉死した。しかし護衛の稲富祐直は包囲部隊に弟子が多数居た為逃げるように懇願され、ガラシャを置き去りにして逃亡した。 | |
| 1,600 | 8 | 27 |
徳川秀忠率いる前軍である徳川本隊が江戸から会津へ向けて出陣する。この本隊には以下の人間も参加していた。 ①本多忠勝 ②石川康長 ③真田昌幸 ④徳川の兄結城秀康 ⑤結城の弟松平忠吉 |
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| 1,600 | 8 | 27 | 鳥居元忠が籠城している伏見城が攻囲される。 | |
| 1,600 | 8 | 29 | 徳川家康が江戸から会津へ向けて出陣する。その後に福島正則が6,000名の兵を率い従軍し、他の諸将も続いた。 | |
| 1,600 | 8 | 29 |
徳川家康に就いて上杉征伐の為会津に向かっていた以下の3名が犬伏(現在の栃木県佐野市)に到着する。其処に石田三成からの豊臣方に味方する様促す主旨の密書が届く。直様新町薬師堂にて以下の3名で会談が持たれ、昌幸が石田三成に就く事を告げると、石田方の大谷吉継の娘である竹林院を正室に迎えていた信繁が同意し、徳川方の本多忠勝の娘である小松姫を正室に迎えていた信之が徳川方に就く事となった。 ①真田昌幸 ②昌幸の長男真田信之 ③昌幸の弐男真田信繁 |
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| 1,600 | 9 | 1 | 鳥居元忠の急使により、徳川家康が此の日到着した小山(現在の栃木県)にて、石田三成等が徳川打倒の兵を挙げた事を知る。 | |
| 1,600 | 9 | 1 | 真田昌幸・真田信繁が引き返した事を徳川方が知る。 | |
| 1,600 | 9 | 1 | 第17代伊達氏当主伊達政宗が、上杉景勝が支配下に置く白石城(現在の宮城県白石市益岡町)の攻撃を開始する。伊達家家臣片倉景綱は七ヶ宿・越河・米沢・福島-白石間の道を塞ぎ上杉軍を孤立させる作戦を取った。また、白石城代は甘粕景継であったが、上杉景勝の指示で若松城に詰めていた為、甥の登坂勝乃が代理として守備していた。登坂は降伏しようとしたが西暦1,585年11月29日に主君である二本松義継を伊達政宗に殺害され、さらに父も殺された鹿子田右衛門は降伏に反対した。しかし登坂は鹿子を殺害した。また、景綱の長男片倉重長は亘理城を守備する予定であったが、密かに攻撃に参加していた。 | |
| 1,600 | 9 | 2 | 徳川家康が小山に諸将を招集し、大坂の状況を説明した上で去就を問う。福島正則が、大坂に残してきた妻子を犠牲にしても、家康に従い石田三成を討つ事を誓うと、黒田長政も其れに続いた。又、山内一豊が居城の掛川城を家康に開放すると進言した。結論として石田征伐の為に西上する事となった。 | |
| 1,600 | 9 | 3 | 細川幽斎が籠城を指揮している田辺城が、小野木重勝・前田茂勝等が率いる15,000名の軍に攻囲される。 | |
| 1,600 | 9 | 3 | 前日の小山評定に参加した諸将が徳川家康と其の家臣の元を離れ西上を始める。 | |
| 1,600 | 9 | 7 | 石田三成が真田昌幸に対し、自らの使者を真田が警護を付けて沼田(現在の群馬県)を経由して会津へ送って欲しい旨を伝える書簡を送る。 | |
| 1,600 | 9 | 11 | 徳川家康が江戸へ向けて小山を出発する。 | |
| 1,600 | 9 | 12 | 石田三成が真田家に対し「我らに味方すれば、信濃国一国(小諸・深志・川中島・諏方)を与える」という主旨の書簡を送る。 | |
| 1,600 | 9 | 13 | 石田三成が前日の書簡に加え「甲斐国も与える」という主旨の書簡を真田家に送る。 | |
| 1,600 | 9 | 30 | 徳川秀忠が徳川家康に向けて、「上田城の真田征伐の為、明日出発する」旨を伝える書簡を送る。 | |
| 1,600 | 10 | 1 | 宇都宮にいた徳川秀忠の軍が、上田城の真田征伐の為西上を開始する。 | |
| 1,600 | 10 | 6 | 徳川家康が江戸から徳川秀忠に向けて「こちらは西暦1,600年10月7日に江戸を発ち東海道を進むので、秀忠も上田城攻めは行わず中山道を西へ進み西暦1,600年10月15日美濃赤坂に参れ」という主旨の書簡を送る。 | |
| 1,600 | 10 | 7 | 徳川秀忠の軍が中山道の碓氷峠を通過し軽井沢に到着する。 | |
| 1,600 | 10 | 8 | 徳川秀忠が、30,000名以上の兵を率い中山道から分岐する北国街道から小諸城に入る。真田昌幸の兵は3,000名程度であった為、真面に抵抗しないと考え、降伏勧告の使いを送り、真田が応じた。 | |
| 1,600 | 10 | 9 | 徳川秀忠が真田信之を上田に使いとして送り、父の真田昌幸と上田城明け渡しの交渉を行わせる。昌幸は「清掃の為明日迄待って欲しい」と信之に伝えた。其れを聞いた徳川は「さもあらん」と喜んだ。 | |
| 1,600 | 10 | 10 | 真田昌幸が「漸く戦いの支度も万端整った故、存分に攻めて来られよ」と徳川秀忠の軍を挑発する。 | |
| 1,600 | 10 | 11 | 真田信繁が入っていた戸石城を真田信之の軍が略無傷で確保する。信繁は信之が攻めて来た事を知ると城を放棄した。 | |
| 1,600 | 10 | 12 | 徳川秀忠の軍が上田城を一望出来る染屋城に本陣を置き、上田城攻めを開始する。先ず牧野康成・康成の長男牧野忠成が刈田を行い、真田勢を挑発した。対する真田昌幸は鉄砲隊を出撃させるが、徳川勢の反撃によって一旦退却した。しかし徳川軍が城際まで迫ったタイミングで、城から弓等で反撃を行ない撃退した。その後昌幸と真田信繁が徳川軍の目前に偵察に現れて挑発し、其れに乗った徳川勢は昌幸を討とうと先陣が神川を渡り、真田勢と激突した。大久保忠隣・酒井家次・本多正信等の軍が援軍に出たが、昌幸は上流で塞き止めていた神川の水を開放し、城に配置していた兵も動かして反撃に出た為徳川勢は混乱した。しかも戸石城近くの虚空蔵山に配置していた兵に徳川の本陣を急襲させた為、徳川勢は混乱の中で小諸城まで撤退を余儀なくされ、多くが増水した神川で溺死した。 | |
| 1,600 | 10 | 15 | 徳川秀忠が小諸城にて本多正信から「上田城を攻め始めて4日が経過している。簡単には落ちないかも知れない。信濃の諸将を城の押さえとして残し、我々は先を急ぐべきである」という主旨の進言を行う。其処に徳川家康の使いがやって来て西暦1,600年10月6日に徳川家康が送った書簡を手渡した。大雨の影響で10日程度遅れての到着であった。秀忠は其れを読み、仙石秀久は自身を残して家康の元へ向かう様勧めた。直様森忠政・仙石に真田に対する押さえを指示し、軍を率い美濃赤坂へ向けて出発した。 | |
| 1,600 | 10 | 19 | 徳川秀忠の軍が真田勢の追撃を警戒し、本道から外れた古道を使い下諏訪宿に到着する。 | |
| 1,600 | 10 | 19 | 徳川家康の軍が岐阜城に着陣する。 | |
| 1,600 | 10 | 21 | 美濃国不破郡関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)で野戦が発生する。 | |
| 1,600 | 10 | 23 | 徳川秀忠が妻籠宿にて「西暦1,600年10月21日に決戦が行われ東軍が勝利した」という主旨の書簡を受け取る。 | |
| 1,600 | 10 | 24 | 島津氏第17代当主島津義弘、その第一家老川上四郎兵衛等13名が平等寺(現在の奈良県桜井市三輪)に落ち延びる。 | |
| 1,600 | 10 | 24 | 真田信繁が、徳川秀忠から上田城監視を命じられていた井戸宇右衛門が城代を務める葛尾城を夜襲する。 | |
| 1,600 | 10 | 26 | 徳川家康と徳川秀忠が大津城にて合流する。しかし家康は「気分が優れない」として面会しなかった。その後仙石秀久が取り成した。 | |
| 1,600 | 10 | 27 | 徳川家康と徳川秀忠が面会する。秀忠が遅参について謝ると、家康は「参陣の期限を伝えた使いの者が言い間違いをしたのではないか。お前が心配する必要はない。大きな戦いは囲碁と同じ様なものであり、関ヶ原で勝てば真田の様な小者が幾ら城を固めても結局は明け渡し降参する他ない。此の様な意見を言った者はいないか?」と問い、秀忠が「戸田一西がそう言いました」と答えると、家康は戸田を御前に呼んで褒めた。 | |
| 1,600 | 10 | 29 | 真田信繁が、徳川秀忠から上田城監視を命じられていた井戸宇右衛門が城代を務める葛尾城を朝駆けする。森忠政と不仲であった井戸は、門を開いて真田軍を城内に入れ、二の丸まで迫られた。 | |
| 1,600 | 12 | 31 | イングランド王国テューダー朝第5代王エリザベス1世の特許状を受け、イギリス東インド会社が設立される。 | |