万物の系譜

西暦1,926〜1,950年

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アドルフ・ヒトラーの父方の祖父はザーロモン・メイヤー・フォン・ロスチャイルド一元化

年月日 出来事
1,926 アングロ・アメリカン・南アフリカ社が、ダイヤモンド供給最大手のデビアス社の株式の過半数を取得する。
1,926 アルフレッド・グロートヤーンが「人間再生の衛生」を出版し、以下を提唱する。
①遺伝的欠陥者の拘束と強制不妊手術による計画的駆除。
②数量的・質的な面で人間の再生を合理化する方法として、人口の3分の1に相当する病者・醜者・劣者を人間社会から一掃する。
③虚弱者、てんかん患者、アルコール中毒者、廃人などの強制不妊手術。
④人口の約1%の永久亡命。
1,926 エルヴィン・バウアーがオイゲン・フィッシャーに、翌年に設立される「カイザー・ヴィルヘルム人類学・優生学・人類遺伝学研究所(現在のドイツのベルリン州ダーレム地区)」の所長就任を薦める。
1,926 ハリー・ラフリンが、西暦1,922年に続き、アメリカ各州の断種法について検討し、再度模範断種法を提示する。
1,926 フリッツ・ティッセンが、3コンツェルン合併による合同製鉄会社「ユナイテッド・スチールワークス社」を設立し、同社監査役会長に就任する。ティッセンは、アドルフ・ヒトラーの母方の祖父がザーロモン・メイヤー・フォン・ロスチャイルドである事を知っていた。ヒトラーは、ティッセンに経済的に依存していた。
1,926 1 6 豊田佐吉が、2年前に自身の出願した経糸停止装置の特許(第67066号)を取得する。
1,926 2 赤尾敏、津久井龍雄等が天皇中心主義をスローガンに掲げる「建国会」を創立する。
1,926 2 1 豊田佐吉が、自身の発明したスピンドル伝動装置の特許出願を行う。
1,926 2 26 豊田佐吉が、前年に自身の出願した投杼杼受装置の特許(第67628号)を取得する。
1,926 3 29 豊田佐吉が、自身の発明した遊動筏装置の特許出願を行う。
1,926 5 ロックフェラー財団がカイザー・ヴィルヘルム研究所のドイツ精神医学研究所に250,000ドルの資金提供を行う。
1,926 6 3 豊田佐吉が、自身の発明した自動織機の杼箱後側板抑圧装置の特許出願を行う。
1,926 6 23 豊田佐吉が、2年前に自身の出願した経糸送出装置の特許(第68677号)を取得する。
1,926 6 23 豊田佐吉が、2年前に自身の出願した経糸張力調整装置の特許(第68678号)を取得する。
1,926 7 アルバ・ヴァンダービルトが、フランスのロワレ県オージェルヴィル・ラ・リヴィエールに所在する「ドーゲルヴィル城」を購入する。ヴァンダービルトは、住居として、多くの改修と改築を行なった。ドーゲルヴィル城敷地内を流れる川の幅が足りない、として、川の幅を拡張させたり、ヴェルサイユから敷石を持ち込んで、ドーゲルヴィル城と村の間にある大きな砂で舗装された前庭を覆った。又、周囲の農地からドーゲルヴィル城と村を隔させる為に北側の入口道路に大規模なネオゴシック様式の門を設置した。更には、鍛鉄製の階段を取り替え、台所を地下に移動する等の変更を施し、ボウリング場を設置する等した。此れはフランスで最初のボウリング場であった。
1,926 7 17 豊田佐吉が、自身の発明した杼換式自動織機の残緯糸除去装置の特許出願を行う。
1,926 7 21 豊田佐吉が、前年に自身の出願した自動織機の杼換装置の特許(第68970号)を取得する。
1,926 9 9 豊田佐吉が、自身の発明した耳糸切断装置の特許出願を行う。
1,926 9 25 第一阿片条約が発効する。
1,926 9 30 豊田佐吉が、前年に自身の出願した自動織機の杼換装置の特許(第69591号)を取得する。
1,926 11 17 名古屋市の豊田紡織事務所にて「株式会社豊田自動織機製作所」の設立総会が開かれる。社長には、豊田佐吉の長女豊田愛子の夫豊田利三郎、常務取締役には豊田喜一郎が就いた。
1,926 11 18 株式会社豊田自動織機製作所の設立登記が為される。谷口房蔵と豊田利三郎は、当初は自動織機の完成品・自動織機の構成装置・鋳物フレーム等の構成部品を相互取引し、特許権の実施等も含む友好な関係であったが、自動杼換装置の特許(第17028号)の特許権期間延長の手続きを行った事に端を発した自動織機の基本特許の帰属を巡る紛争により、関係は消滅した。
1,926 12 ロックフェラー財団がベルリン大学社会衛生学正教授アルフレッド・グロートヤーン等のドイツの優生学者への資金提供を開始する。
1,927 アメリカの産児制限活動家マーガレット・サンガーの資金提供により「世界人口会議」がジュネーヴで開かれ、ドイツの優生学者オイゲン・フィッシャーが演説を行う。
1,927 西暦1,917年にエルヴィン・バウアーがカイザー・ヴィルヘルム協会申請した、植物育種研究所設立の認可が下りる。
1,927 サルヴァトーレ・フェラガモが、フィレンツェに靴工房「サルヴァトーレ・フェラガモ社」を設立する。
1,927 第2代東洋コルク工業株式会社社長松田重次郎が、同社を「東洋工業株式会社」に社名変更する。同社は機械製造に方向転換した。
1,927 2 18 豊田佐吉が、前年に自身の出願したスピンドル伝動装置の特許(第71061号)を取得する。
1,927 3 7 豊田佐吉が、前年に自身の出願した遊動筏装置の特許(第71279号)を取得する。
1,927 6 5 宇宙旅行協会がドイツで設立される。
1,927 7 22 豊田佐吉が、前年に自身の出願した自動織機の杼箱後側板抑圧装置の特許(第72741号)を取得する。
1,927 9 カイザー・ヴィルヘルム人類学・優生学・人類遺伝学研究所が設立され、所長にはオイゲン・フィッシャーが就いた。同研究所の建物の一部はロックフェラー財団の資金援助により建設された。
1,927 9 8 豊田佐吉が、2年前に自身の出願した経糸切断に因る停止装置の特許(第73318号)を取得する。
1,927 10 12 豊田佐吉が、前年に自身の出願した耳糸切断装置の特許(第73935号)を取得する。
1,927 11 豊田式織機株式会社が豊田佐吉に対し、自動杼換装置の特許(第17028号)の返還等を求める訴訟を提起する。
1,927 11 12 豊田佐吉が、勲三等瑞宝章を受章する。
1,928 エルンスト・リューディンがカイザー・ヴィルヘルム精神医学研究所に復帰する。また、第2クレペリン通りに同研究所の新しい施設の建設の為にロックフェラー財団が325,000ドルの資金提供を行った。その後他のアメリカの支援者も後に続いた。
1,928 優生学者E・S・ゴスニーと第5代南カリフォルニア大学学長ルーファス・B・フォン・クラインスミッドが、アメリカにおける強制不妊手術法に関する情報を収集・展開する事を目的とし優生学組織「人間改良財団」を設立する。ナチスへの情報提供を行なっていた。
1,928 以下2名が、シカゴの大学の構内にハンドメイドのペニーローファーやサドルシューズ等のメンズシューズ販売店を開業する。
①トラフトン・コール
②エディ・ハーン
1,928 CMBがロックフェラー財団から切り離され、独立財団となる。
1,928 6 蒋介石と里見甫が会見する。
1,928 6 4 奉天派の張作霖は、早朝に北京を引き揚げ、自らの根拠地である奉天へ向かった。同日5時半に奉天近くの皇姑屯駅を通過、瀋陽駅途中の鉄橋下で乗車中の列車が爆発し、重体となる。関東軍による犯行であった。張は自動車で私邸に担ぎ込まれたが、まもなく死亡した。関東軍は、国民革命軍の仕業に見せかけ、それを口実に南満洲を占領しようとしていた。
1,928 7 31 トルコ石油会社の株主間で持株比率が決定される。
1,928 9 17 ニュージャージー・スタンダード石油会社、ロイヤル・ダッチ・シェル、アングロ・ペルシアン石油会社の三者で生産、販売、輸出に関する協定を、スコットランドにあるヘンリ・デターディングの居城アクナキャリーで結ぶ。西暦1,928年当時の各社の売上比率を維持する為、総消費量が増加した場合には、その増加分を上記売上比率を基に配分する取り決めも行った。
1,928 9 29 エルヴィン・バウアーが、ミュンヒベルク(ドイツのバイエルン州オーバーフランケン行政管区ホーフ郡)に「カイザー・ヴィルヘルム植物育種研究所」が設立される。
1,928 11 12 豊田佐吉が、2年前に自身の出願した杼換式自動織機の残緯糸除去装置の特許(第78935号)を取得する。
1,929 アメリカのメリーランド州にフレデリック空港が建設される。生物兵器の使用や防護に関する研究が始まった。
1,929 宇宙旅行協会が液体燃料ロケットの研究を開始する。
1,929 ポール・カルボーネが、インドシナにあるフランスのアヘン公社から購入したアヘンをヘロインに加工する工場をバンドール(現在のフランスのヴァール県)に設立する。ここで生産されたヘロインはニューヨークに送られ、コーサ・ノストラ最高幹部ラッキー・ルチアーノの商流に入った。
1,929 児玉誉士夫が憲法学者上杉慎吉主宰の建国会に入会する。本部は東京府北豊島郡日暮里町の三河島(現在の東京都荒川区西日暮里)であった。幹部に赤尾敏がいた。
1,929 1 フレデリック・テイラー・ゲイツが、ロックフェラー財団の理事会で以下の発言を行う。
「貴方が死んで、全能の神の審判を受ける時、神は貴方に何を求めると思いますか?神は唯一つ尋ねるでしょう。『ロックフェラー財団の理事として、貴方は何をしましたか?』と」
1,929 2 11 ラテラノ条約がローマ教皇庁とイタリアの間で締結され、ローマ教皇庁の在るバチカン一帯がバチカン市国としてイタリア政府から政治的に独立した区域となる事が認められる。ベニート・ムッソリーニは、ローマ教皇領の権利放棄と引き換えにバチカン市国の主権国家としての地位とイタリアに対する免税特権を保証した。又此の条約には、バチカン市国に輸入される商品に対する関税の免除も盛り込まれた。此の時ムッソリーニは、バチカン市国以外の領地を放棄する代償として750,000,000リラ(現金40%、債券60%の割合)を支払う事に合意した。第259代ローマ教皇ピウス11世は、財産管理局を新設し、ベルナルディーノ・ノガーラにその管理を任せた。ノガーラ家はユダヤ教からカトリックに改宗しており、兄は神父として教皇に仕えていた。
1,929 3 4 ハーバート・フーヴァーが、第31代アメリカ大統領に就任する。この頃からボヘミアングローブのセコイアの森が共和党大統領の安息の地として機能し始め、ボヘミアングローブは秘密主義的となっていった。
1,929 10 24 アメリカでダウ工業株平均の暴落が始まり、アメリカ内で恐慌が発生する。
1,929 12 21 株式会社豊田自動織機製作所が、イギリスのプラット・ブラザー社に1,000,000円で特許譲渡する。「日本・中華民国・アメリカを除く国々で無停止杼換式豊田自動織機(G型)を製造・販売する権利を与える」という契約内容であった。杼換式自動織機の特許(第65156号)の優先権主張特許がイギリス等の5ヶ国で成立し、其の特許発明と技術提携契約には、副社長であった豊田喜一郎が当たった。
1,930 チェース・ナショナル銀行がエクイタブル・トラスト・カンパニーを買収する。このエクイタブル・トラスト・カンパニーの筆頭株主はジョン・ロックフェラー2世であった。
1,930 津久井龍雄、児玉誉士夫等が急進愛国党を組織する。
1,930 フランスのマフィアである「ユニオン・コルス」が青幇から購入したアヘンの上海租界-フランス間の密輸を開始する。
1,930 海運の運航委託会社経営者ジョサイア・メイシー・ジュニアの弐女ケイト・メイシー・ラッドが父に敬意を表し「ジョサイア・メイシー・ジュニア財団」を設立する。メイシー家は後にロックフェラー家の元でスタンダード・オイル社に組み込まれる事となる石油会社で財を成した。また、後に西洋医学を教育する医学学校に資金提供を行った。
1,930 5 17 スイスのバーゼルに中央銀行相互の決済を行うBIS(国際決済銀行)が設立される。第一次世界大戦の敗戦国であるドイツの賠償金支払いを円滑に進める為に、GE(ゼネラル・エレクトリック)社会長オーウェン・D・ヤングを委員長とする委員会にてヤングが提唱した案に基づいている。
1,930 6 ウィル・キース・ケロッグが「W.K.ケロッグ財団」を設立する。後に西洋医学を教育する医学学校に資金提供を行った。
1,930 6 9 西暦1,927年11月頃に提起された、自動杼換装置の特許(第17028号)の返還等を求める訴訟に於いて、以下の3者で和解契約が締結される。
①豊田佐吉
②豊田式織機株式会社
③株式会社豊田自動織機製作所
1,930 10 30 豊田佐吉が、脳溢血からの急性肺炎により死去する。
1,930 11 18 創価学会が設立される。
1,931 スイスのロレックス社が、世界初の全回転式ローター自動巻き機構であるパーペチュアルムーブメントを発表する。
1,931 ドイツの優生学者・人類遺伝学者オトマー・フライヘル・フォン・フェアシューアーが、障害者に対して不妊手術を行うべきだと主張する。当時ドイツは第一次世界大戦で敗戦して戦勝国への多額の債務があり、世界恐慌も重なって、国民の生活は困窮していた。障害者にまわす予算を健常者の為に役立てるべきだと考え、フェアシューアーは多くのドイツ国民を救うには、小さな犠牲は仕方ないとし、本人が同意があれば不妊手術を認めるという主旨の州レベルの法案を提案した。しかし当時のドイツの国レベルの法律では断種は違法であった為この法案は実現しなかった。
1,931 東洋工業株式会社が、広島県安芸郡府中村(現在の広島県安芸郡府中町)に新工場を設立する。此れにより同社は、自動車業界に進出した。
1,931 1 投資銀行「ブラウン・ブラザーズ・アンド・カンパニー」、プライベートバンキング及び投資会社である「W.A. ハリマン・アンド・カンパニー」、「ハリマン・ブラザーズ・アンド・カンパニー」が合併し「ブラウン・ブラザーズ・ハリマン社」が設立される。ジョージ・H・W・ブッシュの父プレスコット・ブッシュが共同経営者となった。
1,931 2 21 笹川良一が、国粋大衆党を設立する。
1,931 3 28 「野球統制令」が公布される。主に以下の規定が為された。
①小学校
❶学校長の承認の無い大会への参加の禁止
❷宿泊を伴う大会への参加の禁止
❸大会の主催者を府県体育団体と市町村体育団体に限定し、営利企業の主催を禁止する
❹試合日を土曜の午後と休日に限定
❺入場料と参加料の徴収、寄贈品・寄付金の収受の禁止
❻応援団の組織の禁止
②中等学校
❶全国大会を全国中等学校優勝野球大会・選抜中等学校野球大会・明治神宮体育大会に限定
❷地方的大会(隣接する数府県に渡る試合)と府県大会は、府県体育団体の主催の下、其々年1回の開催
❸県外チームとの対戦は関係する府県体育団体の公認を得て開催
❹試合日を土曜の午後と休日に限定
❺入場料の徴収は文部省の公認が有る場合か、府県体育団体主催の大会に限定
❻留年した選手の出場禁止
❼クラブチームへの参加の禁止
③大学・高等学校
❶野球連盟の名称・事務所所在地・代表者氏名・組織の規定・年度毎の事業や経理の文部省への報告と承認の義務
❷入場料の徴収と収支報告に対して文部省への報告と其の承認の義務
❸クラブチームへの参加の禁止
④入場料
❶会場費・試合の経費・体育団体の経費・学校の体育運動競技の経費を賄う目的以外での入場料の徴収の禁止
⑤試合褒章等
❶文部省の承認の無い外国への遠征と、来日外国チームとの試合の禁止
❷優勝旗・優勝牌以外の褒賞の禁止
❸選手を広告・宣伝に使う事の禁止
❹文部省の承認の無いプロ選手との試合の禁止
❺コーチ・審判が経費以外の金品を授受する事の禁止
❻選手を理由とした学費・生活費の支給の禁止
⑥応援
❶当該学校の関与の無い応援の禁止
❷応援の際に学生は制服・制帽を着用
1,931 5 11 オーストリアの銀行であるクレジット・アンシュタルトが破綻し、これがきっかけで2年前に発生したアメリカ国内の恐慌の影響が世界に広まる。
1,931 6 3 アメリカ陸軍少佐で医師のフレデリック・デトリックが心臓発作で死去する。これによりフレデリック空港が「デトリック・フィールド」に改称される。
1,931 8 戸畑鋳物株式会社が「ダット自動車製造株式会社」を買収する。
1,931 9 18 中華民国奉天(現在の中国遼寧省瀋陽市)の北方約7.5kmにある柳条湖付近で、南満洲鉄道の線路の一部が関東軍により破壊される。
1,931 10 里見甫が、関東軍で対満政策を担当する司令部第4課の嘱託辞令を受けて奉天(現在の中国遼寧省瀋陽市)に移り、奉天特務機関長土肥原賢二大佐の指揮下で、甘粕正彦と共に諜報・宣伝・宣撫活動を担当する。これらの活動を通じ、中国の地下組織との人脈が形成された。また、司令部第4課課長松井太久郎の指示により、満洲に於けるナショナル・ニュース・エージェンシー(国家代表通信社)設立工作に務め、陸軍省軍務局課長鈴木貞一の協力の下、以下の人間と交渉を行った。
①新聞聯合社創設者岩永裕吉
②新聞聯合社総支配人古野伊之助
③電通創業者光永星郎
1,931 10 東洋工業株式会社の完全自社開発の3輪トラック「マツダ号DA型」の生産が開始される。画期的な販売促進策も奏功し、瞬く間に業界の有力ブランドに成長した。其の後同社は、工作機械や削岩機の生産にも乗り出した。
1,931 10 30 野球のアメリカ大リーグ選抜が来日する。正力松太郎が、発行部数を伸ばす為に手配した。翌月7日から同月30日迄の日程で、東京六大学野球チーム等と読売新聞社主催で日米野球が17戦行われ、アメリカ大リーグ選抜が全勝した。興行としては成功を収め、読売新聞社は開催前220,000部だった発行部数を270,000部に増加させた。
1,932 ロックフェラー財団の息のかかったエルンスト・リューディンが国際優生学会の学会長に任命される。
1,932 鰐の愛称で呼ばれた元テニス選手ルネ・ラコステが、ニット衣料品製造会社経営者アンドレ・ジリエと接触する。
1,932 以下2名が知己を得る。飛行機に関心の有った2人は意気投合した。
①山本五十六
②笹川良一
1,932 1 日本陸軍工兵少佐鎌田銓一が工兵第1連隊付としてアメリカ駐在となる。そこでアメリカ陸軍参謀総長ダグラス・マッカーサーと知己を得、GHQの首席接待委員となり「鎌田機関」を組織した。西暦1,934年3月迄大隊長待遇の隊付勤務を熟す傍らイリノイ大学・マサチューセッツ工科大学で学んだ。
1,932 3 オトマー・フライヘル・フォン・フェアシューアーがロックフェラー財団のパリ支部宛に書簡を送り、6つの研究計画に対する資金援助を依頼する。
1,932 3 1 満洲国が建国される。
1,932 4 戸畑鋳物株式会社が、東京での販売拠点として、銀座に「ダット自動車商会」を設立する。前月には、準備中に洪水に見舞われていた。
1,932 5 ロックフェラー財団パリ支部が2ヶ月前のオトマー・フライヘル・フォン・フェアシューアーからの6つの研究計画に対する資金援助依頼について了承する。
1,932 5 15 第29代首相犬養毅が暗殺される。
1,932 5 20 エンゲルベルト・ドルフースが、第14代オーストリア首相に就任する。ドルフースは、アドルフ・ヒトラーの母方の祖父がザーロモン・メイヤー・フォン・ロスチャイルドである事を知っていた。
1,932 6 14 マシュー・ペリーの兄オリバー・ハザード・ペリーの孫娘アリス・ペリーを妻に持つジョセフ・グルーが第13代駐日アメリカ大使に着任する。
1,932 8 第3代大日本国粋会総裁堀川辰吉郎の指示により、石井四郎が陸軍軍医学校に「防疫研究室」を設立する。その後石井は満洲へ渡り、背蔭河(現在の中国黒竜江省ハルビン市五常市)にて「関東軍防疫班」を組織した。
1,932 8 22 この日から2日間、第3回国際優生学会議が、多額の資金援助を行なったメアリー・ウィリアムソン・ハリマンに捧げられ、 アメリカの動物学者チャールズ・ダベンポートの主宰でアメリカ自然史博物館にて開催される。以下の講演があった。過去2回に参加したレオナルド・ダーウィンは今回は不参加であった。また、IFEO(優生学機関国際連合)の会長にスイス・ドイツの遺伝学者エルンスト・ルーディンが満場一致で選出された。
①ヘンリー・フェアフィールド・オズボーン
より良い子孫を残す為には、避妊よりも出生選択をすべきである。
②キューバの優生学者で白人移民支持者のドミンゴ・F・ラモス・デルガド
移民に有害な形質がないか慎重にチェックし、認められない形質が後に明らかになった場合はその子孫を国外追放にすべきである。
③ダーウィンの教え子でイギリスの優生学者のロナルド・フィッシャー
優生学的措置を講じなければ文明は滅亡する。
1,932 12 1 満洲の統一された情報網として「満洲国通信社」が設立され、主事に里見甫が就いた。
1,932 12 10 第7代チャクリー王朝シャム国王ラーマ7世により、タイで初めて憲法が公布される。以下が保障される。
①信仰の自由
②言論の自由
③出版の自由
④集会の自由
⑤結社の自由
⑥政党の結成
⑦通信の自由
1,933 ルネ・ラコステが、アンドレ・ジリエと共に、高湿度で炎天下の試合でも動き易く通気性の良い鹿の子編みの半袖シャツを開発する。
1,933 GE社研究所内で以下の人間のグループが組織され、研究活動を開始する。
①キャサリン・ブロジェット
②アーヴィング・ラングミュア
③ヴィンセント・シェーファー(ラングミュアの助手)
④ウィリス・ロドニー・ホイットニー
前年にラングミュアがシェーファーに助手になる様依頼し、シェーファーはこれを受け入れていた。主に以下の研究に従事し、報告書を多数発表した。
①表面化学技術
②電子顕微鏡技術
③偏光
④様々な表面に対する氷の親和性
⑤タンパク質やその他の単分子膜
⑥タンパク質膜
⑦テレビ管の輝度
⑧微小粒子
1,933 1 26 アルバ・ヴァンダービルトが死去する。ウッドローン墓地のオリバー・ハザード・ペリ-・ベルモントの隣に埋葬された。ドーゲルヴィル城は、アルバの娘のコンスエロ・ヴァンダービルトが相続した。ニューポートは、以下2名が所有権と、夏の別荘としての利用権を交互に所有し合った。
1,933 1 30 ソロモン・メイヤー・フォン・ロスチャイルドの孫であるアドルフ・ヒトラーが第15代ドイツ国首相に就任する。
1,933 2 23 関東軍が、張学良軍の財源であるアヘンを奪う為、熱河に侵攻する。
1,933 3 13 第2代ドイツ国大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクにより宣伝省設置法が公布され、国民啓蒙・宣伝省が設置される。
1,933 3 25 エリック・ヤン・ハヌッセンが、妻と共にベルリンにて暗殺される。ハヌッセンは、アドルフ・ヒトラーの母方の祖父がザーロモン・メイヤー・フォン・ロスチャイルドである事を知っていた。
1,933 6 26 ハンス・フランクが「ドイツ法律アカデミー」を設立する。フランクは、アドルフ・ヒトラーの母方の祖父がザーロモン・メイヤー・フォン・ロスチャイルドである事を知っていた。ヒトラーはフランクに対し、自身の父方の系譜を調査する様極秘の指示を出していた。
1,933 7 14 ナチスがハリー・ハミルトン・ローリンの研究を参考に「遺伝病子孫予防法(断種法)」を公布する。後に障害者や病人等400,000名の強制断種を行った。
1,933 9 7 ニュージャージー・スタンダード石油会社とソコニー・バキューム石油会社が、東アフリカからニュージーランドまでの地域の販売網を統合し、合弁会社であるスタンダード・バキューム石油会社を設立する。
1,934 チャールズ・ダベンポートが、実験進化研究所の所長を退任する。
1,934 1 26 ドイツとポーランドの間で不可侵条約が締結される。
1,934 2 ナチスの人種学者ハンス・ギュンターがミュンヘン大学の講堂にて聴衆に対し、「アメリカは世界でもっとも寛大な国だと思われているが、アメリカの移民法が圧倒的多数で可決された事は注目に値する」と述べる。また、マディソン・グラントとロスロップ・ストッダードが移民法制定の父であり、この法律をドイツのモデルにしようと提案した。
1,934 6 戸畑鋳物株式会社が「日産自動車株式会社」に社名変更する。
1,934 6 9 日本工業倶楽部(現在の東京都千代田区丸の内)にて「職業野球団発起人会」が開かれる。以下の4名が、西暦1,932年3月28日に公布された野球統制令により、再度アメリカ大リーグ選抜を招聘したとしても、大学チームと対戦させる事が出来なくなった為、正力松太郎に、職業野球チームを設立する事を働き掛けていた。
①読売新聞社運動部長市岡忠男
②読売新聞社運動部嘱託鈴木惣太郎
③学習院野球部監督浅沼誉夫
④元慶應義塾大学野球部監督三宅大輔
1,934 6 11 職業野球団発起人会の創立事務所が開設される。
1,934 7 25 エンゲルベルト・ドルフースが、オーストリア・ナチスの党員によって暗殺される。其の際、アドルフ・ヒトラーのユダヤ系の血統に関する書類が入っていたドルフースの金庫が空になっていた。
1,934 11 2 横浜にアメリカ大リーグ選抜が来日する。正力松太郎が招聘した。同月4日から翌月1日迄の日程で、日米野球が全国12都市18試合が行われ、興業的にも成功を収めた。
1,934 12 26 日本工業倶楽部にて「大日本東京野球倶楽部」の創立総会が開かれる。経営陣は以下の通り。
①大隈重信の娘婿で第12代平戸藩主松浦詮の五男の大隈信常(取締役会長)
②正力松太郎(取締役)
③元警視庁警部で読売新聞社庶務部長の庄田良
④第2代京成電気軌道社長後藤圀彦
⑤市岡忠男
⑥第2代吉本興業社長林正之助
株主としては、以下等が名を連ねた。
①京成電気軌道(筆頭株主)
②芝浦製作所
③目黒蒲田電鉄
④阪神電鉄
⑤吉本興業
⑥読売新聞社
1,935 欧米で、アンフェタミンが商品名「ベンゼドリン」として導入される。
1,935 アメリカの医学部の数が66(西暦1,904年比59%減)となる。
1,935 ロックフェラー財団が年次報告書にて「人類遺伝の知識をさらに深め、活用する事は人類にとって疑いのない必要課題である」と記載する。
1,935 2 5 関東軍が哈爾浜を占領し、「ハルピン新報」、「華北新報」、「晨光」、「国民公報」を廃刊にし、記者を逮捕する。
1,935 2 14 大日本東京野球倶楽部がアメリカ遠征に出発する。其の後、最初の目的地であるサンフランシスコに到着し、レフティ・オドールが監督を務める大リーグ傘下のAAAパシフィックコーストリーグ所属のサンフランシスコ・シールズと対戦した。オドールは、西暦1,931年・西暦1,934年の日米野球で、アメリカ大リーグ選抜の一員として来日していた。オドールは、大日本東京野球倶楽部マネージャー鈴木惣太郎に「大日本東京野球倶楽部というチーム名が長くて分かりにくい。ニックネームを付けたらどうだ」と、自身の在籍していた大リーグのナショナルリーグに所属する「ニューヨーク・ジャイアンツ」に因んで「ジャイアンツ」というチーム名を提案した。鈴木はオドールの案を採用し、アメリカ遠征中「東京ジャイアンツ」として活動した。129日間108試合の日程を熟し、75勝33敗という成績を残して帰国した。其の後大日本東京野球倶楽部は「東京巨人軍」と改称した。
1,935 4 国民党が「資源委員会」を設立し、以下に支部として管理所を設置し、タングステン・アンチモンの採掘を独占して、輸出で資金を稼いだ。主な輸出先は日本軍であった。国民党政府の買付価格が安く国際価格に及ばなかった事、日本軍が高い金額で買い付けていた事が要因として挙げられる。多くが広東省から輸出された。
①湖南省
②広東省
③広西省
④贛南道(現在の中国広西省)
その資金で以下の重工業の工場を建設した。
①鉄鋼
②石油製錬
③機械
④電力
1,935 4 25 朝鮮麻薬取締令が公布される。
1,935 9 21 東條英機が関東軍憲兵司令官兼関東局警務部長に就任する。中国の東北地区に渡り、満洲国の治安粛正を強化し、中国東北人民の抗日闘争を弾圧した。
1,935 10 里見甫が満洲国通信社を退社する。
1,935 12 関東軍の意向により、里見甫が天津の華字紙「庸報」の社長に就任する。
1,935 12 10 阪神電鉄事業課係長富樫興一が中心となり、阪神電鉄を親会社として「大阪野球倶楽部」が設立される。球団幹部には以下の人間が就いた。
①第4代・第6代首相を務めた松方正義の四男で浪速銀行頭取を務めた松方正雄(会長)
②富樫(専務取締役(球団代表))
③清宝バス専務取締役を務めた田中義一(専務取締役)
④中川政人(取締役支配人)
⑤吉江昌也(取締役)
⑥阪神電鉄専務取締役石井五郎(監査役)
⑦大村義雄(監査役)
此の設立に際して、第9代阪神電鉄社長今西与三郎も駆け付けた。株主には、読売新聞社が名を連ねた。本拠地は甲子園球場(兵庫県武庫郡鳴尾村(現在の兵庫県西宮市甲子園町))であった。
1,936 1 10 大阪野球倶楽部のチーム名が、懸賞付きの社内公募により「大阪タイガース」に決定される。
1,936 1 15 フォード・モーターの創業者ヘンリー・フォードとヘンリー・フォードの長男エドセル・フォードにより「フォード財団」が設立される。後に西洋医学を教育する医学学校に資金提供を行った。
1,936 1 15 新愛知新聞社主幹兼編集局長で國民新聞社代表取締役の田中斉が、新愛知新聞社を親会社として「名古屋軍」を設立する。オーナーには新愛知新聞社支配人大島一郎が就いた。本拠地は定めなかった。
1,936 1 20 旧西武鉄道(現在の西武鉄道の前身の1つ)が職業野球チーム「東京セネタース」を設立する。正力松太郎の呼び掛けに応じた貴族院議員有馬頼寧がオーナーに就任した。本拠地は上井草球場(現在の東京都杉並区)であった。
1,936 1 23 阪急電鉄が「阪急軍」を設立する。一昨年迄第3代阪急電鉄社長を務めていた小林一三がオーナーに就任した。本拠地は宝塚球場(兵庫県川辺郡小浜村(現在の兵庫県宝塚市小浜))であった。
1,936 2 5 12時、正力松太郎を中心として、日本工業倶楽部にて「日本職業野球連盟」の創立総会が開かれる。以下の7球団が加盟した。
①東京巨人軍
②大阪タイガース
③名古屋軍
④東京セネタース
⑤阪急軍
⑥新愛知新聞社傘下の國民新聞社
⑦名古屋新聞社
又、役員には主に以下が名を連ねた。
①大隈信常(総裁)
②第11代久留米藩主有馬頼咸の孫で有馬頼寧の弟の東京セネタース理事長安藤信昭(副総裁)
③松方正雄(副総裁)
④正力(相談役)
⑤小林一三(相談役)
1,936 2 15 國民新聞社が職業野球チーム「大東京軍」を設立する。新愛知新聞社主幹兼編集局長で國民新聞社代表取締役の田中斉の依頼で、以下2名が球団幹部となった。
①第31代警視総監を務めた宮田光雄(オーナー)
②元國民新聞社社会部長鈴木龍二(球団代表・常務)
本拠地は洲崎球場(東京府東京市城東区(現在の東京都江東区新砂))であった。
1,936 2 26 226事件の鎮圧軍として、米内光政の部下に稲川聖城がいた。
1,936 2 28 名古屋新聞社が職業野球チーム「名古屋金鯱軍」の設立登記を行う。名古屋新聞社社長森一兵が、オーナー兼球団社長に就任した。本拠地は鳴海球場(愛知県愛知郡鳴海町(現在の愛知県名古屋市緑区鳴海町姥子山))であった。
1,936 9 里見甫が満洲を去る。
1,936 10 1 フランシスコ・フランコが、ブルゴス(現在のスペインのカスティーリャ・イ・レオン州)で、アドルフ・ヒトラーとベニート・ムッソリーニの支持を得て反乱軍の総司令官となり、一方的に国家元首を宣言する。
1,936 12 國民新聞社が、不採算の為職業野球から撤退し、大橋松雄が大東京軍のオーナーに就任する。
1,936 12 25 「株式会社後楽園スタヂアム」が設立される。役員には以下が就いた。
①衆議院議員田辺七六(取締役会長)
②第22代東京米穀商品取引所理事長早川芳太郎(取締役社長)
③初代帝国拳闘協会拳道社会長田邊宗英(専務取締役)
株主として以下が名を連ねた。
①早川:2,130株
②水上金三郎:1,500株
③手塚丈夫:1,380株
④田邊:1,300株
⑤水上源太郎:1,100株
⑥投資家小田進平:1,090株
⑦共同印刷創業者大橋光吉の長男大橋松雄:1,050株
⑧小林一三:1,000株
⑨正力松太郎:1,000株
⑩東急電鉄創業者五島慶太:200株
⑪松竹共同創業者大谷竹次郎:200株
⑫東信銀行創業者土屋市兵衛
⑬佐藤勘次郎
⑭合資会社栄養と育児の会創業者長尾欽弥
⑮第5代岸本商店当主岸本吉左衛門
⑯北村新治郎
⑰下郷寅吉
1,937 カーネギー研究所の指導者達が、ハリー・ラフリンの研究について調査し、それを非科学的と見做して、ラフリンへの財政的支援を中止する。ラフリンに引退を迫り、EROを閉鎖して、優生学との関係を絶った。
1,937 1 18 以下2名等が職業野球チーム「後楽園イーグルス」を設立する。株式会社後楽園スタヂアムが親会社となった。本拠地は後楽園球場(東京府東京市小石川区(現在の東京都文京区))としたが、此の時点ではまだ未完成であった。
①球団設立の為に名古屋軍総監督を辞任していた河野安通志
②球団設立の為に名古屋軍相談役兼顧問兼マネージャーを辞任していた押川清
1,937 3 満洲国実業部総務司長岸信介と同主計処長古海忠之が関東軍の熱河アヘンを天津で売り捌いていた里見甫を訪ね、東條英機からの謝意と熱河アヘンの取扱量の更なる増大を伝える。
1,937 7 金子順一が731部隊に入る。
1,937 8 大橋松雄が、大東京軍という名称では経営が成り立たないとし、ライオン歯磨本舗株式会社小林商店をスポンサーとして招き「ライオン軍」と改称する。松雄は、スポンサーには、積極的に新聞広告を打っている会社が良いとして、同社以外にも以下の会社が候補に挙がっていた。
①味の素
②わかもと製薬
③近江兄弟社
しかし此れ等の会社は、ユニフォームに自社製品の名前を入れて欲しいと要望した為、ユニフォームに「LION」と入れてくれれば良いとしたライオン歯磨本舗株式会社小林商店に決定した。又此の頃松雄は、第2代田村駒社長田村駒治郎を経営に参加させた。背景として、松雄が印刷業以外に金を使う事に関し、大橋光吉の目が厳しくなり、妻同士が共済生命保険社長・帝国製麻社長・肥後銀行頭取等を歴任した安田善助の娘であった田村を招いたという経緯が有った。
1,937 8 28 豊田喜一郎が「トヨタ自動車工業株式会社」を設立する。
1,937 9 里見甫が天津から上海に移る。
1,937 10 後楽園イーグルスが、経営不振による株式会社後楽園スタヂアムと球団との意見の相違により、経営関係を解消する。其の後、正力松太郎の誘いにより、第3代大阪麦酒社長高橋龍太郎がオーナーとなり、球団名を「イーグルス」に改称した。
1,937 11 里見甫が参謀本部第8課(謀略課)課長影佐禎昭に、中国の地下組織や関東軍との太い人脈と、中国語力を見込まれ、陸軍特務部大佐楠本実隆を通じて特務資金調達の為のアヘン売買を依頼される。満洲から金塊数十個、時価にして数百億円を上海に運び込み、ペルシャ産アヘンの輸入を始めた。最終的に里見はペルシャ産アヘンで20,000,000ドルの利益を得た。その利益は特務部に支払われ、特務部廃止後は興亜院に支払われた。
1,937 12 ドーゲルヴィル城が、スイスの会社に売却される。
1,938 ブルガン(クウェート)で油田が発見される。
1,938 ドイツ国がメタンフェタミンを商品名「ペルビチン」として使用を始める。
1,938 ヴィンセント・シェーファーが研究員に昇格する。それ以降、アーヴィング・ラングミュアが国家諮問委員会への関与を通じて獲得した多くのプロジェクト、特に第二次世界大戦直前および戦中の軍事問題に関連する以下のプロジェクト等でラングミュアと緊密に協力し続けた。
①ガスマスクによる煙の濾過
②バイノーラル音による潜水艦探知
③発煙装置による人工霧の形
これらのプロジェクトは、スコハリー渓谷(アメリカのニューヨーク州)のヴルーマンズ・ノーズの軍事監視員向けのデモンストレーションによって結実した。
1,938 テッド・ターナーが、シンシナティ(アメリカのオハイオ州)にて生誕する。
1,938 ウォーデンクリフの研究所・建物が、ピアレス・フォト・プロダクツ社に売却される。其の後、感光紙を生産する工場に改装された。
1,938 1 楠本実隆が里見甫に対し、特務部の為に多量のペルシャ産アヘンを売ってくれるかどうかを尋ねる。
1,938 1 3 第32代アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトによりポリオ研究のための非課税寄付を募る「全米小児麻痺財団」が設立される。
1,938 1 16 第34代首相近衛文麿がトラウトマン和平工作に対し、蒋介石率いる国民党政府が応じない事を原因として、「国民政府を対手とせず」とし、第25代中華民国大使川越茂に帰国命令を下し、国民党政府も第15代駐日中華民国大使許世英を帰国させた。
1,938 2 ドイツ国の迫害から逃れたユダヤ人難民の第1陣がシベリア鉄道に揺られて満洲国の最北端の満洲里駅に近いソ連側にあるオトポールに到着。
1,938 3 里見甫が、アヘン売買の為に三井物産主導で設置された「宏済善堂」の副董事長(事実上の社長)に就任する。宏済善堂はペルシャ・トルコ産アヘンを三井物産にアヘンを密輸入させ、青幇を経由して末端のアヘン窟に流した。青幇は表向き日本の敵であった蒋介石率いる国民党や、後にアメリカ統合参謀本部の部局として設立されるOSS(戦略情報局)とも通じていた。
1,938 3 1 南海鉄道が職業野球チーム「南海軍」を設立する。小林一三や大阪野球倶楽部の設立に尽力した細野躋が、以下2名に設立を勧めて実現した。
①第9代南海鉄道社長寺田甚吉
②南海鉄道専務取締役小原英一
本拠地は堺大浜球場(現在の大阪府堺市堺区大浜北町)であった。
1,938 4 三井物産がシンガポール丸で輸送されたペルシャ産アヘン978箱を上海維新政府阿片局へ輸入する。
1,938 9 ヘンリー・キッシンジャーが、ニューヨークに移住する。キッシンジャーの両親がユダヤ系であった為、ナチスの政策により移住を余儀無くされた。
1,938 10 第17代海軍次官であった山本五十六が、電話で笹川良一を次官室に呼び寄せる。笹川のイタリア・ドイツ訪問計画について話し合った。また2人は、将来は必ず航空機の時代になり、日米が戦えば苦境に立つのは日本である、との見解で一致していた。笹川は山本からアメリカやイギリスの経済的実力を教えられていた。
1,938 11 スイスのバーゼルにあるA・Gサンド社の研究室で、アルバート・ホフマンがLSDを開発する。
1,938 11 3 トヨタ自動車工業株式会社の挙母工場(愛知県西加茂郡(現在の愛知県豊田市))が竣工される。
1,938 11 9 夜、ナチスによってドイツとオーストリア全土のシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)とユダヤ人所有の店舗の窓が破壊される。翌朝未明まで続いた。
1,938 12 16 近衛内閣が対中国政策を一元的に統制指導する事を意図し、内閣直属機関である「興亜院」を設立する。以降アヘン取引による利益は興亜院が管理し、南京政府の財務省、宏済善堂に分配された。
1,938 12 22 オットー・ハーン、フリッツ・シュトラスマン、リーゼ・マイトナー、オットー・ロベルト・フリッシュにより、ウラン235に遅い中性子を当てると、バリウムとクリプトンに核分裂する事を発見する。
1,939 児玉誉士夫が外交官河相達夫の斡旋により、外務省情報部嘱託となり、上海を拠点に情報活動に従事する。
1,939 スイスの化学者パウル・ヘルマン・ミュラーが、衣類等の織物を蛾等の食害から防ぐ物質を探る過程でDDT(ジクロロジフェニルトリクロロエタン)に強い殺虫性が有る事を発見する。
1,939 ジェイコブ・シフの孫でニューヨーク市議会議員ジョージ・バッカーの妻のドロシー・シフが、バッカーの勧めで、ニューヨーク・ポストを買収し社主となる。ドロシーは、バッカーを発行人兼社長に就任させた。
1,939 1 三井物産が赤城山丸で輸送されたペルシャ産アヘン972箱を上海維新政府阿片局へ輸入する。
1,939 1 1 笹川良一がローマに到着する。その後ベニート・ムッソリーニと面会し、ローマの刑務所を見学した。4年間大阪刑務所に収監された笹川は、日本の囚人に対する扱いに義憤を感じていた為である。さらに戦時下のドイツの国状を視察し、ベルリンの刑務所も見学した。
1,939 3 1 日本職業野球連盟が「日本野球連盟」に改称する。
1,939 3 6 ウォルター・L・ジョンソンの妻サディー・E・ロビンソンが、ジョンソンの代理人として尽力し、ウォーデンクリフ・タワーの跡地が、プランタクレス社によって買い取られる。其の後は、ピアレス・フォト・プロダクツ社にリースされた。其の土地は、二コラ・テスラが所有していた元の土地の60702.8㎡を占めていた。
1,939 4 20 以下3社が各5,000,000円を共同出資し、表向きは、陸軍の旧式となった武器を中近東等の第三国に輸出し、タングステン等の軍需物資を現地調達する名目で、商社である「昭和通商」が設立される。実態は諜報活動とアヘン取引を行う陸軍の特務機関であった。
①三井物産
②三菱商事
③大倉産業
昭和通商は中国人工作員に以下の品目を持たせ、国民党軍の前線部隊の司令官と接触し、タングステンと物々交換をする等して、陸路・海路からタングステンを調達した。これは危険を伴い、海路では、バイアス湾(現在の中国広東省の大亜湾)にて海賊に襲われ、船員が1名を除き全員が射殺され、物資を奪われ船が焼かれるという事件があった。
①綿布
②綿糸
③硫安
1,939 4 26 三井物産が赤城山丸で輸送されたペルシャ産アヘン1,000箱を中支阿片局へ輸入する。
1,939 5 里見甫が昭和通商・青幇・紅幇等と連携し、上海でのアヘン密売を取り仕切る「里見機関」を設立する。ペルシャ・モンゴル産のアヘンの売買によって得た莫大な利益を関東軍の戦費に充て、一部は日本の傀儡であった中華民国の汪兆銘政権に資金を流した。また里見機関は、 関東軍が極秘に生産していた満洲産アヘンや、日本軍が生産していた海南島産アヘンも取り扱った。満洲産アヘンは、陸軍の指示により石油缶に入れられて、税関を通さず秘密裏に昭和通商が購入する事で中国国内に持ち込まれた。アヘンで得た資金は戦略物資の調達・宣撫工作に用いられた。当時のアヘンの価格は以下の通り。
①張家口(現在の中国河北省):20円/37g
②天津:40円/37g
③上海:80円/37g
④シンガポール:160円/37g
この活動を通じて以下の地下人脈が形成された。三井物産は35円/32gで軍に納入し、これを里見機関が22〜23円/gで宏済善堂に卸した。四川省産よりも品質の良いペルシャ産のアヘンはサスーン商会系によって上海に流入したが、これを三井物産上海支店が仕入れていた。この上海支店には佐藤喜一郎がおり、調達資金を工面していた。
①青幇杜月笙
②青幇盛文頤
③笹川良一
④児玉誉士夫
⑤吉田裕彦
⑥岩田幸雄
⑦許斐氏利
⑧阪田誠盛
⑨清水行之助
1,939 7 23 満洲国とモンゴルの国境ノモンハン付近で起こった日ソ両軍の大規模な武力衝突において、6:30に日本軍が砲撃を開始する。ノモンハン付近の国境について、日本側はハルハ河を、ソ連側は北方ノモンハン付近をそれぞれ国境と主張し、係争中であった。
1,939 7 26 ジェイコブ・シフの親戚であり第47代国務省長官のコーデル・ハルが、第24代在アメリカ日本大使堀内謙介を国務省に呼び、「日本の中国侵略に抗議する」として、日米通商航海条約を一方的に破棄する。
1,939 8 27 ドイツのハインケル社による「He 178」が世界初のジェット機の飛行に成功する。
1,939 10 三井物産が玉川丸で輸送されたペルシャ産アヘン1,000箱を中支阿片局へ輸入する。
1,939 12 里見甫がモンゴル産アヘンの販売を開始する。
1,940 カトリックであった山本五十六が第260代ローマ教皇ピウス12世に謁見する。
1,940 スイスの製薬会社であるガイギー社と同社の米国支社が、有機塩素系の殺虫剤・農薬である「DDT」に関し、殺虫剤として特許を取得する。
1,940 児玉誉士夫が、本年から翌年にかけて昭和通商の依頼でヘロインの密売を2度行う。そのヘロインは中国経由で南シナ海に持ち込まれ、タングステンと物々交換された。
1,940 カーネギー研究所が、コールド・スプリング・ハーバー研究所の優生学プログラムから資金を引き上げる。この頃、ドイツでのナチズムの台頭により、多くの科学者が優生学への支持を止めたが、チャールズ・ダベンポートは、優生学思想を堅持した。
1,940 ヴィンセント・シェーファーが、薄いプラスチックコーティングを使用して個々の雪の結晶のレプリカを作成する方法の開発し、注目を浴びる。シェーファーがアーヴィング・ラングミュアの助手を務めていた期間、ラングミュアは、シェーファー自身の研究を続ける事を許可し、奨励していた。
1,940 ベルコートが、アルバ・ヴァンダービルトが改装した儘の状態で、起業家ジョージ・ウォーターマンに1,000ドルで売却される。ウォーターマンは、ベルコートをアンティーク自動車博物館にすることを構想していた。売却の唯一の条件は、ウォーターマンが可能な限り、リチャード・モリス・ハントのオリジナルの設計に近い形で城を修復する事であった。ウォーターマンは3階の屋根の修復と中庭を見下ろす増築部分の撤去を担当した。しかし最終的に、ウォーターマンは、ゾーニングによりアンティーク自動車博物館の建設が許可されない事を知った。
1,940 1 28 阪田誠盛を長とし、諜報活動や特殊工作を行う陸軍の特務機関として「松機関」が設立される。主に以下に従事した。
①中国現地の情報収集
②アヘンの中国国内での密売
③「杉工作」と命名された登戸研究所(現在の神奈川県川崎市多摩区東三田)で印刷された偽札の中国国内への流通工作
里見機関は松機関から偽札の提供を受けていた。
1,940 3 20 南京に汪兆銘政権が樹立される。
1,940 4 日本軍が銀洲湖(現在の中国広東省江門市新会区)を封鎖する。それを受けて趙其休は国民党軍の司令官と連絡を取りつつ、汪兆銘軍へ寝返り、マカオの海軍の物資購入部門と以下品目等の密貿易を始める。密貿易に用いた船は日本軍の保護下にあり、海軍から証明書が発行された。また、趙は古兜山(現在の中国広東省江門市新会区)の麓の、国民党の政府機関が採掘していたタングステン鉱山からタングステンを密かに買い取っており、日本軍の侵攻によりこのタングステン鉱山が閉鎖されると、付近の地主や有力者が勝手に掘り始め、それを趙達が輸出した。
輸入
①布類
②石油
輸出
①桐油
②カシア油
③豚の毛
④食糧
1,940 5 ベルナルディーノ・ノガーラが、イタリアの保険会社ラフォンディアリアの株式を購入する。間もなくベニート・ムッソリーニがイギリスの保険会社ノリッジユニオンのイタリアの資産を国有化し、ラフォンディアリアに引き渡した。
1,940 6 4 731部隊が、農安(現在の中国吉林省長春市)にて、5gのペストに感染した蚤(ケオプスネズミノミ)を地上で散布する。結果、1次感染による死者は8名、2次感染による死者は607名であった。
1,940 6 4 731部隊が、此の日から同月7日にかけて、農安-大賚(現在の中国吉林省白城市大安市)間にて、10gのペストに感染した蚤(ケオプスネズミノミ)を地上で散布する。結果、1次感染による死者は12名、2次感染による死者は2,424名であった。
1,940 6 14 ドイツ軍がパリがに無血入城し、フランス第三共和政が崩壊する。
1,940 6 17 農安医院の裏に住む者1名が、ペストにより死亡する。
1,940 6 30 西暦1,940年6月17日に死亡した農安医院の裏に住む者を含む、急性疾患で死亡した数名を診察した農安医院の医師がペストを発病する。
1,940 7 ヘルベルト・ヴァークナーが、装甲の薄い軍艦や商船を攻撃する為の滑空爆弾の試作を開始する。
1,940 7 2 西暦1,940年6月30日にペストを発病した農安医院の医師が死亡する。731部隊のペスト班の責任者であった高橋正彦がその医師の腺腫からペスト菌を分離した。又、高橋は、現地のペスト菌を保有した鼠の移動を調査した。
1,940 7 12 満洲国民生部衛生保健司が、農安でのペスト流行を受け、新京(現在の中国吉林省長春市)から防疫班を派遣する。
1,940 7 13 前日に満洲国民生部衛生保健司が新京から派遣した防疫班が農安に到着し、5ヶ所の大隔離区と十数ヶ所の小隔離区に区分し、封鎖を実行する。
1,940 7 15 高橋正彦が、ペスト患者の腺腫からペスト菌を分離する。
1,940 8 14 此の時点で、農安のペストによる死者は120名を超えていた。
1,940 9 以下2部隊が、筧橋(現在の中国浙江省杭州市上城区)の中国国民党中央航空学校を接収する。以降浙江省への細菌攻撃の拠点となった。
①731部隊
②南京栄1644部隊
1,940 9 15 日本野球連盟理事会が、戦争の為、球団名を日本語化する決定を下す。
1,940 9 25 球団名を日本語化する決定が日本野球連盟理事会で為された事を受け、大阪タイガースが「阪神軍」に改称する。
1,940 9 23 新京で初めてペスト患者が発生する。
1,940 10 1 新京でのペスト流行を防ぐ為、以下の機関が防疫会議を開く。
①満洲国警務機関
②満洲国衛生機関
③満洲国軍
④満洲鉄道
⑤満洲国赤十字社
防疫本部を設置し、患者が集中していた以下の三角地域の交通を遮断し、同地の消毒と鼠・蚤の駆除を試みたが、失敗した。
①南広場
②東3条通
③曙町
④日本橋通
1,940 10 4 731部隊が、衢県(現在の中国浙江省衢州市)にて、8,000gのペストに感染した蚤(ケオプスネズミノミ)を空中から穀物と共に散布する。結果、1次感染による死者は219名、2次感染による死者は9,060名であった。穀物を食べに来た鼠に蚤が集り、鼠がペストに感染、其処から人間に広がっていくという機序であった。
1,940 10 6 球団名を日本語化する決定が日本野球連盟理事会で為された事を受け、イーグルスが「黒鷲軍」に改称する。
1,940 10 7 アメリカ海軍情報部極東課長アーサー・マッカラムが、日本に先制攻撃をさせる様仕向ける為に、挑発行動8項目覚書を以下の内容で作成する。
①太平洋のイギリス軍基地、特にシンガポールの使用についてイギリスとの協定締結
②オランダ領東インド(現在のインドネシア)内の基地施設の使用及び補給物資の取得に関するオランダとの協定締結
③中国の蒋介石政権に可能な、あらゆる援助の提供
④遠距離航行能力を有する重巡洋艦1個戦隊を東洋、フィリピンまたはシンガポールへ派遣する
⑤潜水戦隊2隊の東洋派遣
⑥現在太平洋のハワイ諸島にいるアメリカ主力艦隊を維持する
⑦日本の不当な経済的要求、特に石油に対する要求をオランダが拒否する様主張する
⑧イギリスが日本に対して押しつける通商禁止と併せて行われる、日本との全面的な通商禁止
1,940 10 7 731部隊が、新京に到着して「関東軍臨時ペスト防疫隊」と名乗り、ペスト流行を阻止すると宣言する。
1,940 10 10 731部隊が防疫本部を廃止し、本部長を石井四郎とした「関東軍臨時ペスト防疫隊本部」を国防会館に設置する。陣容は以下の通り。
①731部隊員・数ヶ所の陸軍病院から派遣された軍医・衛生将校:60名
②衛生下士官:57名
③衛生兵:160名
④別働隊:452名
別働隊は、ペスト患者や、ペストの疑いが有る者を、伝染病棟である新京千早医院や寛城子に在る臨時隔離所に収容し、ペスト菌検査を行った。更に、病理解剖隊による解剖学的検査・病理組織学的検査が行われた。又、連日石井の主宰で、国防会館にて防疫会議が開かれ、主に以下の機関が参加し、軍官民が三位一体となって防疫態勢を敷いた。
①関東軍参謀部
②関東憲兵隊司令部
③新京憲兵隊
④満洲国総務局
⑤新京市
⑥警察
⑦満洲国協和会
⑧満洲国赤十字社
⑨南満洲鉄道新京支社
⑩新京駐屯軍
1,940 10 17 球団名を日本語化する決定が日本野球連盟理事会で為された事を受け、東京セネタースが「翼軍」に改称する。
1,940 10 19 731部隊が、新京でのペスト流行の発生源を農安であると捉え、千数百名の「関東軍臨時防疫隊農安派遣隊」を新京から農安へ派遣する。又、第12代関東軍参謀長飯村穣が、南満洲鉄道総局に指示し、防疫隊に以下を提供した。
①トラック15台
②大型乗用車10台
関東軍臨時防疫隊農安派遣隊の目的は以下であった。
①ペスト菌株の収集
②ペストの発生と伝播の機序の解析
1,940 10 20 関東軍臨時防疫隊農安派遣隊が農安に到着する。此の時既に、農安の人口33,000名の内11,000名が逃亡し、265名がペストを発病していた。
1,940 10 21 衢県にて大量の死んだ鼠が発見される。
1,940 10 26 三井物産が最上川丸で輸送されたペルシャ産アヘン500箱を中支阿片局へ輸入する。
1,940 10 26 新京千早医院の解剖室や菌検査室が危険な状況となった為、此の日から馬疫研究所でも解剖が行われ始める。
1,940 10 27 731部隊が、新京のペスト流行が終息していないにも拘らず、新京からの撤退準備を宣言する。
1,940 10 27 731部隊が、寧波(現在の中国浙江省)にて、2,000gのペストに感染した蚤(ケオプスネズミノミ)を空中から、小麦の粒と共に、6:47と14:20の2回散布する。結果、1次感染による死者は104名、2次感染による死者は1,450名であった。
1,940 10 29 寧波にて最初のペスト患者が発生する。
1,940 10 31 寧波にて最初のペストによる死者が発生する。
1,940 11 2 寧波で防疫措置が執られ、流行地区が封鎖される。
1,940 11 4 寧波衛生院が、検査によりペスト患者を確認する。
1,940 11 6 寧波にて臨時防疫所が設置される。又、ペスト流行地区内に隔離病院も設置された。
1,940 11 7 731部隊が、新京からの撤退を決定する。
1,940 11 12 衢県にてペストが流行し始める。
1,940 11 13 新京でのペスト流行が終息する。西暦1,940年9月23日に初めてペスト患者が発生してから累計で28名のペスト患者が発生した。731部隊は、新京でペストに感染した者78名の肺・肝臓・腎臓等の臓器を取り出し、731部隊の本部へ直接持ち帰ったり、シャーレの培地に塗り、満洲国立衛生技術廠で培養してから、731部隊の本部へ送られる等した。
1,940 11 20 衢県衛生院で腺ペストの診断が下った患者が発生する。
1,940 11 22 衢県にて「ペスト防疫委員会」が設置され、ペストが流行している地区が警官によって封鎖される。しかし、後に日本軍の空襲により、封鎖地区からペスト患者が逃げ出し、住民も周辺の農村に疎開した為、ペストが近隣の農村にまで拡大した。
1,940 11 27 此の日から翌日にかけて、731部隊が、金華(現在の中国浙江省)にペスト生菌を含んだ顆粒を空中から散布する。顆粒を検査した所、グラム染色により陰性桿菌が発見され、ペスト菌の疑いが持ち上がった。生菌であった為、地上に落下するまでにペスト菌が死滅する為、ペストは流行しなかった。
1,940 11 29 浙江省衛生試験所の所員が金華に到着する。
1,940 11 30 関東軍臨時防疫隊農安派遣隊が、農安でのペスト流行が終息していないにも拘らず、農安から撤退する。最終的に、ペストによる死者48名の死体は解剖に回された。
1,940 11 30 夜、寧波のペスト流行地区内の全家屋115戸が焼き払われる。
1,940 11 30 衢県で防疫に協力していた浙江省衛生所所長が金華に到着する。顆粒を持ち帰って培養した所、繁殖能力を失ったペスト菌が確認された。
1,940 12 三井物産が加茂川丸で輸送されたペルシャ産アヘン500箱を中支阿片局へ輸入する。
1,940 12 1 マヌエル・アビラ・カマチョが第45代メキシコ大統領に就任する。カマチョが農業に関して掲げた第一の目標は、国家の工業化と経済成長に資する事であった。同年9月4日迄第11代農務長官を務め、メキシコ政府と共に農業開発に取り組む様ロックフェラー財団を説得していたヘンリー・A・ウォレスは、カマチョの掲げた目標が、アメリカの経済・軍事に有益であると考えた。ロックフェラー財団は、ミネソタ大学植物病理学助教授エルビン・スタックマンを含む3名の農学者に連絡を取り、ロックフェラー財団の指揮の下、土壌開発・トウモロコシと小麦の生産・植物の病理学に重点を置く特別研究局を設置し、アメリカとメキシコの科学者を配置する事を提案した。
1,940 12 2 寧波のペスト流行が終息する。死者は109名であった。
1,940 12 6 戦争に向けた世論形成、プロパガンダと思想取締の強化を目的に、内閣直属の情報機関である「情報局」が設置される。内閣情報部と外務省情報部、陸軍省情報部、海軍省軍事普及部、内務省警保局検閲課、逓信省電務局電務課に分属されていた情報事務を統一化する事を目指して設置された。国内の情報収集、戦時下における言論・出版・文化の検閲及び統制、マスコミの統合や文化人の組織化、および銃後の国民に対するプロパガンダを内務省、陸軍省、海軍省、大本営陸軍部、海軍部等と並行して行った。
1,940 12 7 此の時点で衢県のペスト患者が25名となり、24名が死亡した。
1,940 12 13 731部隊が散布したペスト菌によるペスト流行が終息する。此の時点でペスト患者は、判明しているだけで以下の通りであった。
①死亡:298名
②治癒:54名
③入院継続:2名
1,940 12 14 グレン・シーボーグ等がアメリカのカリフォルニア州バークレーで、プルトニウムを発見する。
1,940 12 22 此の日から3日間、衢県のペスト防疫委員会が、10戸67.266mを焼却する。
1,941 以下2名が、ソーホー(アメリカのニューヨーク市マンハッタン区ロウアー・マンハッタン)の倉庫で、紳士向けの皮革製品を下請生産する工房で「コーチ」の前身である「ゲイル」を設立する。6名の職人が生産を行なった。
①マイルズ・カーン
②マイルズの妻リリアン・カーン
1,941 球団名を日本語化する決定が日本野球連盟理事会で為された事を受け、ライオン軍が「朝日軍」に改称する。ライオンを既に日本語であると主張し、改称しない儘前シーズンを終えたが、改称を余儀なくされ、ライオン歯磨本舗株式会社小林商店とのスポンサー契約も解消された。
1,941 アドルフ・ヒトラーが、ドーレスハイムの町を完全に破壊し、軍事演習場へと変える。
1,941 1 金子順一が731部隊を離れ、日本に帰国する。
1,941 1 24 山本五十六が、笹川良一に対し「日米戦争が開始されれば、目指す所はグアム・フィリピン・ハワイ・サンフランシスコ等では無い。ワシントンD.C.まで攻めていって、講和させるぐらいの覚悟が必要だが、今日の為政者達にその覚悟と自信は有るのか」という主旨の書簡を送る。
1,941 2 3 徴兵により選手が不足した事を背景に、以下2球団が対等合併し「大洋軍」を結成する。
①名古屋金鯱軍
②翼軍
経営は旧西武鉄道が引き継いだ。
1,941 3 1 衢県にてペストの第2波が到来する。
1,941 4 アメリカ政府が、日本軍の中華民国侵攻に対抗する為に、義勇軍として「フライング・タイガース」を結成する。
1,941 6 ペストの防疫の為に、衛生署から博士ロバート・ポリッツァーが衢県に派遣される。
1,941 7 ボヘミアンクラブの毎年恒例のキャンプにて、以下3点が議論される。
①日本に対する経済封鎖の強化
②日本と戦っている中華民国政府への軍事支援
③原爆の開発・製造計画「マンハッタン計画」
1,941 7 1 ドイツがペルビチンを制限物質に分類する。
1,941 7 11 フランクリン・ルーズベルトにより、OWI(戦時情報局)が設置される。
1,941 7 11 以下2名等の説得により、フランクリン・ルーズベルトが「OCOI(情報調整局)」を設置する。
①ウィリアム・ドノバン
②劇作家ロバート・シャーウッド
ドノバンは、第26代アメリカ大統領を務めたセオドア・ルーズベルト孫カーミット・ルーズベルト・ジュニアを、ディーン・アチソンの特別補佐官として配属させた。
1,941 8 1 アメリカが日本への石油輸出を全面的に禁止する。
1,941 8 11 日本陸軍参謀本部井本熊男が、南京に到着する。
1,941 9 6 前月のアメリカの対日石油輸出禁止を受け、御前会議にて、アメリカ・イギリスに対する最低限の要求内容を定め、交渉期限を10月上旬に区切り、この時までに要求が受け入れられない場合、アメリカ・オランダ・イギリスに対する開戦方針が定められる。この会議の内容は全て吉田茂からジョセフ・グルーに伝えられた。またこの日の夜、首相であった近衛文麿が日米首脳会談による解決を決意し、ジョセフ・グルーと極秘に会談し、危機打開の為日米首脳会談の早期実現を訴えた。
1,941 9 16 第15代日本陸軍参謀総長杉山元が、常徳への細菌散布作戦の発動を命じる。
1,941 10 大日本製薬がメタンフェタミンを商品名「除倦覚醒剤ヒロポン」として発売を開始する。
1,941 10 少将山口多聞が戦艦「長門」の図上会議の際、第3次攻撃として燃料タンク、修理施設への攻撃を主張したが中将南雲忠一は受け入れなかった。
1,941 11 児玉誉士夫が、国粋大衆党総裁笹川良一の仲介及び海軍航空本部総務部長山縣正郷の頼みで、上海の海軍航空本部の嘱託として、軍需物資調達の為の組織である「児玉機関」を組織する。上海大厦に所在し、最上階には清の皇族川島芳子が住んでいた。主に以下のを買い上げたり、軍の権威を利用した拳銃を使った強盗等で調達した戦略物資を、海軍航空本部に納入する独占契約を貰っていた。京城にも出張所を置き、朝鮮各地で砂金や真鍮の収集を行った。
①タングステン
②ラジウム
③コバルト
④ニッケル
⑤銅
⑥プラチナ
⑦雲母
⑧潤滑油
また、軍票での物資の調達が出来なくなった際、陸軍の弾薬を児玉の船で台湾へ輸送し、砂糖やみかんを調達した。砂糖は上海で需要があり、物資の調達に一役買った。
1,941 11 4 6:50、731部隊航空班増田美保が九七式軽爆撃機を操縦し、常徳(現在の中国湖南省)に到着する。其の後南京栄1644部隊隊長大田澄の指揮により、常徳にて、1,600gのペストに感染した蚤(ケオプスネズミノミ)を、濃霧の中を低空飛行で空中から以下の物と共に散布する。
①粟等の穀物
②綿紙
③羊毛の繊維
④顆粒
綿紙は、蚤が落下中に分散するのを防ぐ役割があった。作戦の参加者は100名で、50名程度が731部隊であった。結果、1次感染による死者は310名、2次感染による死者は2,500名であった。17:00に警報が解除され、その後投下物の一部が収集され、広徳病院にて検査された。其の結果、穀物類のサンプルから作られた塗沫標本から、グラム染色により両端が着色した、陰性桿菌が発見され、ペスト菌である事が判明した。
1,941 11 5 朝、前日の広徳病院での検査でペスト菌が発見された事を受け、以下の機関で会合が開かれる。
①常徳県衛生院
②防護団
③国民革命軍警機関
④広徳病院
広徳病院の医師が以下2点を進言し、ペストの専門家の派遣を要請する電報を耒陽(現在の中国湖南省衡陽市)衛生所に打ったものの、初動が遅れ、再度要請を行った。
①防疫手段を直ちに執る
②ペスト患者用の隔離病院の設置
1,941 11 12 常徳の最初のペスト患者が、広徳病院に到着する。
1,941 11 13 常徳の最初のペスト患者が死亡する。此の日と翌日で、此の患者を含む3名がペストで死亡した。
1,941 11 20 「湖南常徳ペスト調査隊」が組織され、貴陽(現在の中国貴州省)から常徳へ向けて出発する。
1,941 11 24 湖南常徳ペスト調査隊が常徳に到着する。
1,941 11 25 湖南常徳ペスト調査隊が、前日死亡したペスト患者の解剖を行う。細菌培養・動物接種等の実験の結果、真性腺ペストに罹り、敗血性感染により死亡した事が判明した。
1,941 12 衢県でのペスト流行が終息する。同県での本年のペスト患者は281名で、内274名が死亡した。
1,941 12 2 湖南常徳ペスト調査隊が、常徳のペスト流行が終息したと見做し、貴陽へ向けて出発する。
1,941 12 6 湖南常徳ペスト調査隊が、貴陽に到着する。
1,941 12 7 真珠湾攻撃により、太平洋戦争が開戦する。農学者ノーマン・ボーローグは、軍に入隊しようとしたが、戦時中の労働規制により拒否された。
1,941 12 8 太平洋戦争が開戦し、里見機関はペルシャ・トルコ産アヘンの三井物産を通じた密輸入が出来なくなる。代わりに二反長音蔵が日本・満洲・朝鮮・内蒙古で栽培していたケシで代用する事となる。
1,941 12 12 湖南常徳ペスト調査隊が、常徳での活動を報告書に纏める。以下2点の結論を出した。
①常徳で確かに腺ペストが流行した。
②ペストの伝染源は西暦1,941年11月4日に日本軍が投下したペストに感染した蚤である。
1,941 12 21 ロバート・ポリッツァーが、常徳に到着する。
1,941 12 30 ロバート・ポリッツァーが、常徳衛生所所長に報告書を提出する。内容は、西暦1,941年12月12日に湖南常徳ペスト調査隊が提出した報告書をベースとしているが、人間に感染するに至る機序の中で、湖南常徳ペスト調査隊が否定した、鼠が保菌状態にある事に着目した。其の後、保菌状態にある鼠が大量に存在している事が調査から分かり、ポリッツァーは第2波の危険性を指摘した。
1,942 日南鉱業が京都府船井郡和知町(現在の京都府船井郡京丹波町)の鐘打鉱山のタングステン・モリブデン採掘を開始する。社長には児玉誉士夫が就いた。タングステンは物理的に非常に高い強度を持ち、対戦車砲の砲弾や戦車の装甲板に使用された。
1,942 日本軍が中国で細菌戦を展開しているとの報告を受け、アメリカ陸軍は生物兵器を開発する極秘プログラムの開始を決定する。ウィスコンシン大学の生化学者アイラ・ボールドウィンを同プログラムの責任者として雇い、新しい生物学研究施設の為の場所を探す様依頼した。ボールドウィンは、デトリック・フィールドと呼ばれるカトクティン・マウンテン(アメリカのメリーランド州)の下にある、廃墟と化した州兵の基地を選定した。
1,942 コンラート・ツーゼが、本年から西暦1,945年に掛けてプログラミング言語「Plankalkül」を設計する。此の時点で既に以下の様なプログラムに必要な処理を備えていた。
①代入文
②サブルーチン
③条件判断
④ループ
⑤浮動小数点計算
⑥配列
⑦レコード型
⑧例外処理
又、「Hello, world!」を出力するコードは以下である。
R1.1(V0[:sig]) => R0
R1.2(V0[:m x sig]) => R0
0 => i | m + 1 => j
[W [ i < j -> [ R1.1(V0[ i: m x sig ]) => R0 | I + 1 => I ] ] ]
END
R1.3() => R0
‘H’ ; ‘e’ ; ‘l’ ; ‘l’ ; ‘o’ ; ‘,’ ; ‘ ’ ; ‘w’ ; ‘o’ ; ‘r’ ; ‘l’ ; ‘d’ ; ’!’ => Z0[: m x sig] R1.2(Z0) => R0
END
1,942 農学者ノーマン・ボーローグが、デュポン・ド・ヌムール財団研究所(アメリカのデラウェア州ウィルミントン)の微生物学者として雇用される。ボーローグは、工業用及び農業用の以下の研究を主導する予定であった。
①殺菌剤
②防カビ剤
③防腐剤
しかし、ボーローグの所属していた研究室は、アメリカ軍の研究を行う為に転用された。最初のプロジェクトの1つは、南太平洋の暖かい塩水に耐えられる接着剤を開発する事であった。当時日本海軍は、ガダルカナル島を征圧し、日中空と海を哨戒していた。アメリカ軍がガダルカナル島に取り残された部隊に物資を輸送する唯一の方法は、夜間にスピードボートで接近し、缶詰やその他の物資が入った箱を波に投げ捨てて海岸に打ち上げるというものであった。しかし、これらの容器を結合している接着剤が塩水で分解するという問題があった。ボーローグは同僚と共に、数週間以内という僅かな期間で、腐食に強い接着剤を開発し、ガダルカナル島に取り残された部隊に物資を供給する事に成功した。ボーローグは他にも以下の研究等に従事した。
①迷彩服
②水筒の消毒剤
③マラリア予防の為のDDT
④小型電子機器の断熱材
1,942 1 2 金日成将軍伝説のモデルである金擎天が死去。
1,942 3 29 常徳にてペスト流行の第2波が到来する。
1,942 4 30 第21回衆院選で岸信介が初当選する。この際岸は里見甫から、鉄道省から上海の華中鉄道に出向していた岸の弟の佐藤栄作経由で2,000,000円の資金提供を受けていた。
1,942 5 12 フランクリン・ルーズベルトが核兵器開発の為の秘密プロジェクト開始の命令に署名する。
1,942 6 9 ヘルマン・ゲーリングの辞令により全ドイツの科学者を戦争に動員する為に、ハノーファー大学の工学者ヴェルナー・オーゼンベルクによりリストが作られる。
1,942 6 13 フランクリン・ルーズベルトが以下を意図しOSSを設置する。OSSは自白剤の研究も行っていたが道半ばで頓挫した。
①戦時中の情報収集と分析
②スパイ活動の計画と実施
③プロパガンダ・戦後の計画
1,942 6 27 第260代ローマ教皇ピウス12世が、宗務委員会を改組し「IOR(宗教事業協会)」を、ラテラノ条約締結後にイタリアから支払われたローマ教皇領の没収に係る補償金を資本に設立する。此のIORの設立はロスチャイルド家の肝入りであった。IORは、麻薬資金等のマネーロンダリング装置として悪用される様になり、資金洗浄額の10%以上を手数料として取り、得た利益を東欧や中南米の反共組織に送金していた。
1,942 7 常徳にてペスト流行の第2波が終息する。此れによる死者は少なくとも31名存在した。
1,942 8 13 マンハッタン計画が発足する。
1,942 8 19 731部隊が、此の日から同月21日に掛けて、以下の3ヶ所にて、131gのペストに感染した蚤(ケオプスネズミノミ)を地上で散布する。結果、1次感染による死者は42名、2次感染による死者は9,210名であった。
①広信(現在の中国江西省上饒市)
ペスト菌を注射した鼠も放した。
②広豊(現在の中国江西省上饒市)
③玉山(現在の中国江西省上饒市)
鼠も放し、ペストの乾燥菌を付着させた米も散布した。米→鼠→蚤→人間への経路での感染を狙った。
1,942 8 27 731部隊が、以下の細菌散布を行う。
①江山(現在の中国浙江省衢州市):コレラ菌(井戸に直接入れる、食物に付着させる、果物に注射する等した)
②常山(現在の中国浙江省衢州市):コレラ菌(井戸に直接入れる、食物に付着させる、果物に注射する等した)
③麗水(現在の中国浙江省):チフス菌、ペストに感染した蚤
1,942 9 GE社社長チャールズ・E・ウィルソンが、ワシントンD.C.に呼び出され、WPB(戦時生産委員会)の常務副委員長に任命される。
1,942 9 第4代西日本鉄道社長村上巧児が、大洋軍を買収し、チーム名を「西鉄軍」とする。
1,942 9 1 戦時中の新聞統合により、お互い競合紙であった以下2社が合併し「中部日本新聞」を創刊する。大島一郎が初代中部日本新聞社社長に就いた。
①新愛知新聞社
②名古屋新聞社
大島は、以降も自己資金を投じて名古屋軍を存続させた。
1,942 9 12 高橋龍太郎が黒鷲軍を大和工作所社長佐伯謙吉に譲渡した事に伴い、黒鷲軍が「大和軍」に改称する。佐伯は黒鷲軍の後援会を務めていた。
1,943 アルバート・ホフマンがLSDの幻覚作用を発見する。
1,943 イリノイ大学の大学院生だったアーサー・ガルストンが、大豆の開花を促す為にTIBA(2,3,5-トリヨード安息香酸)の使用を研究し、高濃度の場合は枯葉剤の効果がある事を発見する。
1,943 尼崎汽船所有であった第二君が代丸が、関西汽船所有となる。
1,943 アーヴィング・ラングミュアとヴィンセント・シェーファーが、以下の研究を始める。
①降水静力学
②航空機の着氷
③氷核
④雲物理学
実験の大半はワシントン山天文台(アメリカのニューハンプシャー州)で行われた。
1,943 ジョージ・ウォーターマンが、ベルコートをエドワード・ダンに売却する。ダンは荒廃した城の厩舎をアメリカ軍に貸し出し、機器の修理に使用させた。
1,943 グリエルモ・マルコーニの、西暦1,904年6月28日に公開された特許US763772Aが、アメリカに於いて無効との判決をアメリカ最高裁判所が下す。二コラ・テスラの特許に含まれていないものは何も無いとの理由からであった。
1,943 以下2名が知己を得る。
①ナチス武装親衛隊司令官フリッツ・クレーマー
②ヘンリー・キッシンジャー
クレーマーは、此の当時一般歩兵であったキッシンジャーが、戦後のドイツで地位を確保出来る様手助けした。其の一環で、キッシンジャーは、同年ドイツ国籍を取得した。
1,943 2 旧西武鉄道が、赤字経営を理由に、西日本鉄道に西鉄軍を譲渡する。元衆議院議員野田俊作が斡旋した。
1,943 3 金子順一が、石井機関の要である陸軍軍医学校(現在の東京都新宿区戸山)防疫研究室に入る。内藤良一と共に同研究室を取り仕切った。
1,943 3 9 デトリック・フィールドの航空センター業務が廃止され、アメリカ政府は用地を拡張し、「キャンプ・デトリック」と改称、アメリカ陸軍の生物兵器研究所の本部とした。さらにプライバシーを確保する為に隣接する幾つかの農場を購入した。
1,943 4 金子順一が、陸軍技術本部第9研究所の研究所員を兼務する。
1,943 7 6 やまと新聞を経営していた岩田富美夫が死去し、児玉誉士夫が経営を継承する。
1,943 7 24 イル・ポポロ・ディタリアが廃刊となる。
1,943 9 23 国内必勝勤労対策が閣議決定される。内容は以下の通り。
①販売店員、出改札係、車掌、理髪師など17職種の男子就業禁止
②25歳未満の女子を勤労挺身隊として動員する
1,943 11 6 大和軍が最後の公式戦を戦う。翌月、河野安通志が、戦局悪化を理由に大和軍を解散させた。
1,943 11 7 西鉄軍が最後の公式戦を戦う。同年限りで、戦争による資金難や、選手の徴兵等の理由で、西鉄軍は解散した。
1,943 12 里見甫が宏済善堂を辞し、南満洲鉄道と中華航空の顧問となる。
1,944 NIH(アメリカ国立衛生研究所)がDDTが、小児麻痺に見られるのと同じ脊髄の箇所に損傷を与えると報告する。
1,944 タングステン・モリブデン採掘を意図し、山梨県塩山市千野(現在の山梨県甲州市塩山千野)の乙女鉱山会社を開発会社として児玉機関が乙女鉱床の鉱業権を取得する。
1,944 1 12 日本野球連盟が「日本野球報国会」に改称する。球団間の選手の引き抜きが禁じられ、球団間の移籍は日本野球報国会会長が統制する事となった。
1,944 4 大島一郎が、資金の枯渇と戦争の戦況悪化を理由に、名古屋軍を、理研コンツェルン傘下の理研工業に預ける。名古屋軍は「産業軍」に改称した。オーナーには、理研工業副社長松根宗一が就いた。旧名古屋新聞社社員で名古屋金鯱軍の球団代表を務めた名古屋軍球団理事赤嶺昌志が仲介した。
1,944 6 1 戦時中の企業統合政策により、以下2社が合併し「近畿日本鉄道」が発足する。
①南海鉄道
②関西急行鉄道
両社の経営戦略に基づかない合併であった。此れにより同日、南海軍が「近畿日本軍」に改称し、親会社が近畿日本鉄道となった。
1,944 7 エルビン・スタックマンからプロジェクトリーダーに選ばれた博士ジェイコブ・ジョージ・ダッチ・ハラーが、メキシコで新たに立ち上がった小麦の共同研究・生産プログラムの責任者としてノーマン・ボーローグを迎える。ボーローグは、デュポン・ド・ヌムール財団研究所の給料を2倍にするという引き止めを拒否し、妻と娘を残して単身メキシコシティへ向かう。そして、ロックフェラー財団メキシコ農業協力計画研究員として、メキシコ政府とロックフェラー財団の下で進められていた小麦の育種及び生産計画に携わった。そして同年、日本在来の小麦品種である農林10号と、メキシコ在来の春小麦を交配させ、草丈が90〜120cmと低い、半矮性の肥料に良く反応する小麦の高収量品種を開発した。この頃メキシコは、小麦の需要の半分を輸入で賄っていた。
1,944 7 22 西暦1,912年の第32回アメリカ大統領選でウッドロウ・ウィルソンの選挙活動を支援したヘンリー・モーゲンソウの息子で第52代アメリカ財務長官のヘンリー・モーゲンソウ・ジュニア主導で、ブレトン・ウッズ(アメリカのニューハンプシャー州)にて、以下2機関の設立に関する協定が44ヶ国で結ばれる。
①IMF(国際通貨基金)
②IBRD(国際復興開発銀行)
また、アメリカ・ドルが基軸通貨に設定され、1オンス35ドルの金兌換で、固定相場制とした。
1,944 11 10 大日本東京野球倶楽部が、第二次世界大戦の戦局悪化を理由に解散し、休眠会社となる。
1,944 12 7 アメリカが核兵器を用い、現在の和歌山県東牟婁郡太地町沖で地震を発生させる。
1,944 12 13 6日前の地震によって津波の被害に遭った名古屋地域の航空機工場を中心とする一帯に、アメリカ軍が大規模な空襲を行う。
1,944 12 19 第48代アメリカ国務長官エドワード・ステティニアス、第54代アメリカ陸軍長官でスカル&ボーンズ会員のヘンリー・スティムソン、第48代海軍長官ジェームズ・フォレスタルにより、SWNCC(国務・陸軍・海軍調整委員会)が設立される。
1,945 アイラ・ボールドウィンがキャンプ・デトリックにて生物兵器プログラムを立ち上げ、運営を始める。シドニー・ゴッドリーブも参加していた。
1,945 サヴィル・ロウ(現在のイギリスのロンドンのシティ・オブ・ウェストミンスターにあるメイフェア通り)にて修行を積んだ以下2名が、ローマにて紳士服ブランド「アトリエ・ブリオーニ」を設立する。
①仕立て屋ナザレノ・フォンティコーリ
②ガエターノ・サヴィーニ
1,945 セリーヌ・ヴィピアナが、夫のリチャード・ヴィピアナと共に、パリの11区マルトゥ通りに革製子供靴専門店「セリーヌ」を開業する。名前はデザイナー担当のセリーヌから名付けられた。
1,945 ヘンリー・キッシンジャーが、アメリカ軍と共にドイツに戻り、第970対敵諜報部隊(CIC)の特別捜査官として配属され、軍曹に昇進する。
1,945 3 ポーランド人でヴェルナー・オーゼンベルクの実験助手が、トイレできちんと流されていない、オーゼンベルクのリストの切れ端を発見する。
1,945 3 ヘンリー・キッシンジャーが、クレーフェルト(現在のドイツのノルトライン・ヴェストファーレン州)の行政官の任務に就く。
1,945 3 10 未明に「ミーティングハウス2号作戦」による、爆撃を行った325機のボーイング社製B-29の内、279機による1,665tのナパーム弾投下が東京都江東区・墨田区・台東区・中央区に対して開始され、結果死者100,000名、罹災者1,000,000名超の被害を出した。
1,945 4 本月から翌月に掛けて、ヘンリー・キッシンジャーがハノーファーにて、対諜報活動に従事し、ゲシュタポのメンバーを追跡する。
1,945 4 7 戦艦大和が沈没する。
1,945 5 7 ドイツが、連合国に対する無条件降伏文書に署名する。
1,945 5 22 アメリカ軍の兵器開発部局であるアメリカ陸軍武器科とジェットエンジン開発部門のロンドン支部の責任者であったロバート・B・ステイバー少佐が、アメリカ国防総省に外電を送り、ドイツ人技術者を、太平洋戦争遂行に必要であるとし、ドイツ人技術者とその家族を米国に避難させる事となった。その中の一人にヘルベルト・ヴァーグナーがいた。ヴァーグナーはロングアイランドに住居を与えられた。
1,945 5 23 第二君が代丸が、姫島(大分県東国東郡)付近でアメリカ軍の飢餓作戦により敷設された機雷に接触して沈没する。
1,945 5 24 新聞統制と空襲被害の為、やまと新聞が休刊する。
1,945 6 ヘンリー・キッシンジャーが、ベンスハイム(現在のドイツのヘッセン州ベルクシュトラーセ郡)のCIC分遣隊の指揮官に任命される。同地の非ナチ化政策を担った。
1,945 7 11 OSSのベルン支局長アレン・ウェルシュ・ダレスの秘書ゲフェルニッツが、ダレスに対し「BIS経済顧問ペール・ヤコブソンの行動については、出来る限り最小限の者のみが承知しておく事が極めて肝要である、と私はヤコブソンに言い、スイスの日本側を別とすれば、以下の人間に限るという点で一致した。
①110(OSSメンバーを指す暗号)
②476(OSSメンバーを指す暗号)
③ロバート・シーア
④ポール・ブルーム
という主旨の書簡を送る。
1,945 7 13 アレン・ウェルシュ・ダレスがゲフェルニッツに対し、「BIS理事北村孝治郎は然したる権威も後ろ盾も無しに、観測気球を上げているのではないか、という考えに傾いている。岡本清福の事は余り良く知らない。君かポール・ブルームが北村の本国での地位が持ち得る力について何か情報が得られたら、知らせてくれるとありがたい」という主旨の書簡を送る。
1,945 7 31 昭和天皇が、木戸幸一を呼び、天叢雲剣を疎開させる意向を伝える。其の後、疎開先の調査が行われた。
1,945 8 6 アメリカ軍が広島市に砲弾型原爆リトルボーイを投下する。ウランの同位体(中性子の数が異なる)であるウラン235を臨界量より少ない量の2つの固まりに分け、火薬の爆発力により、一方の固まりが他方の固まりに衝突し、一瞬の内に臨界量に達し、核分裂を起こさせた。
1,945 8 8 731部隊少年隊が、機密保持の為、施設内の研究室を破壊するよう命じられる。
1,945 8 9 ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し、満洲と朝鮮半島北部に侵攻する。これを受けて関東軍は、満洲にあるアヘン12tを日本に輸送しようとした。しかしGHQにその計画が漏れ、首謀者全員が逮捕された。
1,945 8 9 ソ連の満洲侵攻直後に、731部隊の本部が工兵隊により爆破される。また、不要となった捕虜は、少年兵達によって殺害され、ガソリンを掛けて燃やした。
1,945 8 9 アメリカ軍が長崎市に爆縮型原爆ファットマンを投下する。プルトニウムの同位体であるプルトニウム239を臨界量に満たない固まりに分け、球状のケースに納め、ケースを囲んでいる火薬の爆発力で中心部に圧縮し、核分裂を起こさせた。
1,945 8 11 国務・陸軍・海軍調整委員会にて、第33代アメリカ大統領ハリー・S・トルーマンの承認を経て、朝鮮半島の北緯38度を境に北部をソ連、南部をアメリカが占領する事になった。
1,945 8 11 ソ連が日本領の南樺太の攻撃を開始する。
1,945 8 14 日本が、以下の三人委員会の人間によって書かれた「ポツダム宣言」の受諾を決定する。
①ジョセフ・グルー
②ヘンリー・スティムソン
③ジェームズ・フォレスタル
1,945 8 14 午後、海軍航空本部から軍需物資の調達を頼まれた児玉誉士夫が、児玉機関のチャーターした朝日新聞社機で上海から島根空港へ、中国大陸で集めた以下の貴金属等20,000,000,000円相当を輸送し、島根から東京の銀座に運ばれ、児玉機関が東京本部として使っていたビルの地下室に収蔵された。
①金の延べ棒
②プラチナ
③ダイヤモンド
④ヒスイ
その後これらを皇室に献上しようとしたが、第12代宮内大臣石渡荘太郎が、皇室が日本に進駐している連合国軍に怒られ迷惑する事を理由に持ち帰る様言われる。その後慶應義塾大学(現在の神奈川県横浜市港北区日吉)の地下室に運ばれたが、GHQから海軍航空本部に所有物資の提出命令があり、これらは接収された。GHQは、旧軍部が各地に隠匿していた貴金属類を摘発し、日銀本店(現在の東京都中央区日本橋本石町)の地下金庫に保管したが、今回輸送された貴金属も同じ様にこの金庫に保管された。
1,945 8 14 午後、藤村義朗がスイスから国際電話を掛ける。海軍大臣副官が「藤村、あの和平の話、何とかならんかね」と切迫して用件を伝えると、藤村は「アレン・ウェルシュ・ダレスとの交渉の事ですか」と返すと、側に居たフリードリヒ・ハックは読んでいた新聞を丸め「馬鹿野郎、百日遅い。 今頃何を言ってんだ。皆滅びるしか無いであろう」と叫んだ。
1,945 8 15 終戦の詔書が出される。
1,945 8 15 児玉誉士夫が朝鮮銀行に多額の預金を残す。この時児玉の財産は175,000,000ドルに膨れ上がっていた。児玉機関副機関長吉田彦太郎が日本に帰国した後、児玉は三菱銀行麹町支店に預金していた60,000,000円以上の資金を全て引き出し、自身が20,000,000円を持ち、吉田に残り40,000,000円を渡した。
1,945 8 15 第4代軍需大臣豊田貞次郎が、第一軍需工廠長官中島喜代一に対し、中島飛行機の生産停止命令を下す。
1,945 8 16 2時頃、神風特別攻撃隊の創設者の一人である海軍中将大西瀧治郎が南平台町(東京都渋谷区)の官舎にて腹を十字に切り、首と胸を刺して切腹する。しかし失敗し、大西は生きていた。やがて官舎の使用人が現場を目撃し、第22代海軍次官多田武雄が軍医を連れて急行した。さらに児玉誉士夫も駆け付け、矢次一夫も昼過ぎに熱海から到着した。大西は軍医に「生きる様にはしてくれるな」と言い、児玉に「貴様がくれた刀が斬れぬばかりにまた会えた。全てはその遺書に書いてある。第三〇二海軍航空隊司令小園安名に軽挙妄動は慎めと大西が言っていたと伝えてくれ」という主旨の発言を行った。児玉は大西に殉じようとしたが、大西は「馬鹿者。貴様が死んで糞の役に立つか。若い者は生きるんだよ。生きて新しい日本を作れ」と諌め、介錯・助命を拒否した儘、以下の5通の遺書を残し死去した。
①旧部下
タイトルは「特攻隊の英霊に曰す」で「自らの死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝す」とし、一般青壮年に対しては「軽挙妄動を慎み日本の復興、発展に尽くすよう」とした。また、別紙にて軍令部第一部長富岡定俊に対し「青年将兵指導上の一助ともならばご利用ありたし」とした。
②淑恵夫人
「全て淑恵の所信に一任する事、安逸を貪らず世の為人の為天寿を全うする事、本家とは親睦保持する事、但し必ずしも大西の家系から後継者を入れる必要はない」とし、「これでよし百万年の仮寝かな」という辞世の句を詠んで結んだ。
③多田
④児玉
⑤矢次
1,945 8 17 中島飛行機製作所が「富士産業株式会社」に改称される。同日、中島知久平が第5代軍需大臣に就任した。
1,945 8 18 ソ連が千島列島侵攻を開始する。
1,945 8 20 児玉機関の最高幹部で計画立案を担っていた高源重吉が、吉田彦太郎が華中・華南地区に置いて来た貴金属等の財産を取りに行く為、朝日新聞社機で上海へと向かう。
1,945 8 22 旧立憲政友会の以下3名の求めに応じ、軽井沢から上京した鳩山一郎が、自身の音羽(東京都文京区)の自宅が空襲で半焼した為、東京都港区麻布のブリジストンタイヤ(現在のブリジストン)創業者石橋正二郎の自宅に間借り住まいを始め、新党結成の準備を開始する。石橋の長女鳩山安子は鳩山一郎の長男鳩山威一郎の妻であった。また、三田台町(現在の東京都港区三田4丁目)の自宅が戦災に遭って本庄(埼玉県)に疎開していた松野鶴平も新党結成の準備に加わった。
①芦田均
②安藤正純
③植原悦二郎
1,945 8 22 天叢雲剣が、飛騨一宮水無神社(現在の岐阜県高山市一之宮町)に運び込まれる。翌月19日迄安置された。
1,945 8 24 ソ連が平壌に入る。
1,945 8 25 高源重吉が金・ダイヤモンド等3,2000,000,000円分を海軍の爆撃機に載せ上海の飛行場を発とうとしたが、重さにより離陸に失敗し、滑走路の端で機体が破損する。高源は別の爆撃機に貴金属等の載せ替え上海を発った。しかし大阪の飛行場に着陸する際、機体がひっくり返り破損し使用出来なくなった。そこで別の軍用機に載せ替えて東京に持ち込み、日銀本店の地下金庫に保管した。
1,945 8 児玉誉士夫が第24代海軍大臣米内光政に対し、上海から日銀の地下金庫に輸送した貴金属を含む財産の全てを海軍に引き渡す事を申し出るが、米内は「受け取るべき海軍はもう無い、これは全て君の裁量で国家の為に使え」と言った。
1,945 8 30 ダグラス・マッカーサー率いるGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が厚木飛行場(現在の神奈川県綾瀬市・大和市)に降り立つ。鎌田銓一が、鎌田と陸軍士官学校の同期(第29期)の有末精三の推薦により出迎え役を務めた。以降鎌田は、GHQに出入り自由のフリーパスとなり、GHQの高官を鎌田の自宅で接待する様になった。鎌田の自宅にはGHQに取り入ろうと、以下の人間等が日参していた。
①森脇将光
②小佐野賢治
1,945 9 児玉誉士夫が米内光政に財産の引き渡しを断られた数日後、辻嘉六が児玉を訪ね、立憲政友会再建の為に児玉の財産を使わせて欲しいと頼む。
1,945 9 G2(GHQ参謀第2部)部長チャールズ・ウィロビーが陸軍参謀本部第2部長で諜報活動の責任者であった有末精三をスパイとして雇う。戦犯として起訴される可能性のあった有末は、それを回避する為に、終戦前から敵国に提供する諜報関係資料の収集を行い、アメリカ軍に工作員として雇って貰う様働き掛けていた。ウィロビーはその後も次々と日本人スパイを獲得していった。しかし実態はスパイではなく右翼体制の復活と諜報活動による稼業が目的の政治団体であった。
1,945 9 GHQの命により、キャンプ・デトリックの細菌戦の専門家であったマレー・サンダースが、以下2名を窓口にして、カール・コンプトン率いる科学情報調査団の一員として、横浜に上陸する。その後、本月から翌月にかけて、731部隊の調査を行った。
①陸軍軍医内藤良一
②亀井貫一郎
1,945 9 8 ダグラス・マッカーサーが仁川に到着する。
1,945 9 9 朝鮮総督府が、連合国軍への降伏文書に調印する。
1,945 9 15 岸信介が、A級戦犯容疑者として戦争責任を問われ逮捕される。巣鴨拘置所に収監される際、自身がA級戦犯容疑者として田布施を離れる時に恩師の杉敏介から贈られた「名を惜しむなら命を捨てよ」という意味の自決を促す短歌の返歌として、以下の戦前・戦中の役割を正当化する歌を杉に送った。
名にかへて このみいくさの正しさを 来世までも語り残さむ
1,945 10 1 児玉誉士夫等がやまと新聞を復刊させる。
1,945 10 5 以下2名が府中刑務所を訪れる。
①アメリカ国務省ジョン・エマーソン
②カナダ外務省エドガートン・ハーバート・ノーマン
そこで以下3名等の共産主義者と面会した。
①徳田球一
②志賀義雄
③金天海
1,945 10 7 外地で終戦を迎えた日本人が、釜山から舞鶴へ雲仙丸で入港(2,100名)。
1,945 10 9 幣原喜重郎が第44代首相に就任する。
1,945 10 14 金成柱が金日成に成り済まし、民衆の前に登場し演説する。偽物が出てきた為、聴衆は皆唖然とした。朝鮮語が辿々しく、そのまま会場から出て行く者もいた。
1,945 10 23 石橋正二郎の自宅で開催の鳩山新党結成準備会に児玉誉士夫と辻嘉六が参加する。児玉機関の財産を鳩山新党の政治資金として寄付する事に合意し、児玉が一郎に対し「絶対に天皇制を護持して下さい」と言うと、鳩山は「絶対にそうせねばならない」と涙で溢れながら答えた。
1,945 11 2 夜、児玉誉士夫と辻嘉六が鳩山一郎を訪ね、鳩山が設立準備していた日本自由党に対し70,000,000円の資金提供とダイヤモンド等の貴金属の寄贈を行う事で合意する。鳩山はこの貴金属を売り捌いた。また、児玉は残った財産を後に辻に預け、辻は自宅の庭にラジウム等を埋めた。
1,945 11 6 元東京セネタースの選手・監督で審判を務めていた横沢三郎等が、セネタース再興を目指し「セネタース」を設立する。横沢個人の資金で成り立っていた為、財政的に厳しく、ユニフォームは戦前の阪急軍のお下がりだった。外務省嘱託職員や近衛内閣嘱託職員を務めた西園寺公一がオーナーとなり、銀座のキャバレー経営者で高利貸しをしていた織手登がスポンサーとなった。本拠地は定めなかった。
1,945 11 2 以下の人間等が無産政党及び社会主義各派を糾合し「日本社会党」を結党する。
①西尾末広
②平野力三
③水谷長三郎
1,945 11 6 全球団が参集し、日本野球報国会が「日本野球連盟」に名称を戻す。又、リーグ戦の再開を決定した。以下が重職に就いた。
①鈴木龍二(会長)
②鈴木惣太郎(副会長)
1,945 11 9 以下5名等が日比谷公会堂で日本自由党の結党式を開催する。
①鳩山一郎(総裁)
②河野一郎(幹事長)
③第14代厚生大臣芦田均
④安藤正純(政調会長)
⑤三木武吉(総務会長)
1,945 11 16 翼賛体制主流の大日本政治会の多数派が、鶴見祐輔等を中心として「日本進歩党」を結党する。
1,945 11 19 GHQが以下11名の逮捕を命令する。
①荒木貞夫
②小磯国昭
③松岡洋右
④松井石根
⑤南次郎
⑥白鳥敏夫
⑦本庄繁
⑧鹿子木員信
⑨久原房之助
⑩葛生能久
⑪真崎甚三郎
1,945 11 21 ポツダム勅令により治安警察法の廃止が公布される。
1,945 12 2 GHQが、戦犯容疑で以下59名の逮捕を命令する。
①梨本宮守正王
②正力松太郎
③笹川良一
④児玉誉士夫
⑤平沼騏一郎
⑥広田弘毅
⑦畑俊六
⑧星野直樹
⑨大川周明
⑩佐藤賢了
⑪鮎川義介
⑫天羽英二
⑬安藤紀三郎
⑭青木一男
⑮有馬頼寧
⑯藤原銀次郎
⑰古野伊之助
⑱郷古潔
⑲後藤文夫
⑳秦彦三郎
㉑本多熊太郎
㉒井田磐楠
㉓池田成彬
㉔赤木桁平
㉕石田乙五郎
㉖石原広一郎
㉗上砂勝七
㉘河辺正三
㉙菊池武夫
㉚木下栄市
㉛小林順一郎
㉜小林躋造
㉝松阪広政
㉞水野錬太郎
㉟牟田口廉也
㊱長友次男
㊲中島知久平
㊳中村明人
㊴西尾寿造
㊵納見敏郎
㊶岡部長景
㊷大倉邦彦
㊸大野広一
㊹太田耕造
㊺太田正孝
㊻桜井兵五郎
㊼下村宏
㊽進藤一馬
㊾塩野季彦
㊿四王天延孝
❶多田駿
❷高橋三吉
❸高地茂都
❹谷正之
❺徳富蘇峰
❻豊田副武
❼津田信吾
❽後宮淳
❾横山雄偉
1,945 12 11 笹川良一が、自分から進んで巣鴨拘置所に収容される。
1,945 12 16 ソ連のモスクワで三国外相会議が開始される。
1,945 12 17 三国外相会議で以下の声明が出され、各外相が署名した。朝鮮では、既にアメリカ軍とソ連軍が対立している事から共同委員会自体の成立が懸念され、朝鮮の独立が為されるまで信託統治が行われる事となった。期間は第49代アメリカ国務長官ジェームズ・フランシス・バーンズは5〜10年、第3代ソ連外相ヴャチェスラフ・モロトフは最長5年を主張していた。
①イタリア、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、およびフィンランドとの平和条約の準備
②日本における極東委員会の創設と、対日理事会設置
③アメリカとソ連による共同委員会を設置し、朝鮮における単一の自由国家の成立を勧告する
④中国、ルーマニア、ブルガリアの領土的処遇
⑤原子力のコントロールに関する委員会を国連によって設立する
⑥アメリカ、ソ連、イギリス、中国による、最長5年間の信託統治(まだ十分に自立する能力をもっていない人民が居住する地域を、施政権者に指定された国が、国連の監督を受けて統治する)を要する
1,945 12 27 三国外相会議が終了する。
1,946 ジョン・B・カルフーンが、ジョンズ・ホプキンス大学公衆衛生大学院に勤務を始める。小型哺乳類の捕獲に関する訓練を行なったが、これは西暦1,956年迄に調整する予定であった小型哺乳類の個体数と種を記録する統計調査プロジェクトに活かされた。また、カルフーンはここでラットを使った実験を初めて実施した。
1,946 朝日軍が「パシフィック」に改称する。
1,946 近畿日本軍が「近畿グレートリング」に改称する。以下3点が由来であった。
①機関車の大動輪
②近畿日本鉄道の社章
③沿線の大和地区
しかし、観戦に訪れた駐留米兵は、近畿が「Kinky」に似ており、グレートリングは女性器のスラングであった事から大笑いしていた。
1,946 ミケーレ・シンドーナがミラノに移る。シンドーナは、CIAがイタリア共産党の拡大を阻止する為にCIAがバチカン市国とキリスト民主党に資金提供した際の仲介役を務めた。其れが切っ掛けで、シンドーナとパウロ6世は知己を得た。
1,946 以下2名の夫妻が、5,675,000ドル寄付金を受けて「ジェネラル・サービス財団」を設立する。
①クリフトン・マッサー
②マーガレット・マッサー
此の財団は、西暦1,970年以降、世界の人口抑制に力を入れ、以下の機関と協力した。
①プランド・ペアレントフッド
②アメリカン・フレンズ・サービス委員会
③人口評議会
④人口危機委員会
⑤コロンビア大学
1,946 1 児玉誉士夫が自首し、自ら進んでA級戦犯容疑者として逮捕され、巣鴨拘置所に収容される。
1,946 1 日本野球報国会が活動を再開する。
1,946 1 4 正力松太郎が公職追放処分となる。
1,946 2 中部日本新聞が球団運営に復帰し、産業軍を「中部日本」に改称する。
1,946 2 田村駒から独立し、奈良県南葛城郡御所町(現在の奈良県御所市)の会社の工場長を務めていた田村駒治郎の後輩の橋本三郎が、田村から連絡が無かったという理由で、軍事工場の運営を名目に御所町に疎開して野球を続けていた朝日軍の選手の大部分を母体に「ゴールドスター」を大阪で設立する。本拠地は定めなかった。マネージャーには、ジャニー喜多川の父喜多川諦道が就いた。
1,946 2 イタリアへ国外追放となったラッキー・ルチアーノが、ニューヨーク港を出発する。
1,946 3 20 米ソ共同委員会の本会談が、米ソ両軍それぞれ5名からなる代表団により、ソウルで開始される。
1,946 3 25 阪神軍が大阪タイガースにチーム名を戻す。
1,946 3 26 藤村義朗がスイスから日本に帰国する。
1,946 4 16 外地で終戦を迎えた日本人が、上海から舞鶴へ入港。
1,946 7 ヴィンセント・シェーファーが、実験用のコールドボックスが、実施しようとしている実験には暖かすぎる事に気付く。ドライアイスをコールドボックスの底に置き、息を吹き掛けながら雲を作ると、これまで見た事も無い様な青みがかった靄が突然発生し、それが何百万という微細な氷の結晶となって、ストロボの光に照らされたチャンバーの中でシェーファーの目を眩ませた。過冷却水中の熱と冷たさ、湿度の急激な変化が、何十億もの氷の核を自然に生成するという刺激効果であった。数多くの実験を繰り返し、十分に湿った低温の雲(過冷却水)に氷核ドライアイスとヨウ化銀を放出し、人工降雨を誘発する方法を開発した。その後シェーファーは、台風を、それに含まれる数千tの水を沈殿させる事により破壊する実験を行った。シェーファー達は、ドライアイスの放出が大雨を誘発し、台風の目の中の温度を下げ、台風を弱める可能性が有ると結論付けた。この実験にはアメリカ陸海軍も協力した。
1,946 7 16 ポール・ブルームが、自身の父アンリ・ブルームの所有していた山下町(神奈川県横浜市中区)と神戸市の2ヶ所の土地の状況を照会する。山下町の方は、アンリの経営していたヴィトコフスキー商会の拠点であった。
1,946 8 1 AEC(アメリカ原子力委員会)が発足し、マンハッタン計画が継承される。
1,946 8 9 東京巨人軍が、読売新聞社の運営となる。
1,946 9 友人の自宅を訪ねて旧陸軍の無線用小型エンジンを使って補助付き自転車を作って試走する。
1,946 10 本田宗一郎が、現在の静岡県浜松市中央区山下町の99.1736㎡足らずの木造バラックの機械加工工場にて、原資450,000円で、原動機付自転車を製造・販売する「本田技術研究所」を設立する。此の機械加工工場に工作機械を入れ、旧陸軍のエンジンを買い集め、客が持ち込んだ自転車に取り付けた。
1,946 10 3 民団(在日本朝鮮居留民団)が発足する。
1,946 10 8 クリスチャン・ディオールが、繊維メーカー経営者マルセル・ブサックの支援を受け、パートナーシップを結び「クリスチャン・ディオール社」を設立する。
1,946 11 13 ヴィンセント・シェーファーが、アメリカのマサチューセッツ州バークシャー郡の山脈の雲に飛行機からドライアイスを放出する事で雲を修正し、氷と雪を生成する事に成功する。その後、気象修正に取り組んでいる世界中の科学者や、雪や雨を必要とする人々からの問い合わせが相次いだ。また、人工降雨を通じた気象修正に関する妥当性に関する議論にも繋がり、アメリカ政府は、気象修正と人工降雨の追加研究を支援する為の資金提供を行った。
1,946 11 23 南朝鮮労働党が創立される。
1,946 11 30 平安道(現在の北朝鮮)出身者を中心とする西北青年会が結成される。
1,946 12 五島慶太が、350,000円(球団権利金240,000円を含む)で経営難のセネタースを買収する。東急電鉄専務黒川渉三が仲介した。
1,946 12 8 シベリア抑留から解放された抑留者がナホトカから舞鶴へ大久丸で入港(2,555名)。シベリアからの最初の引き上げとなる。
1,946 12 8 クリスチャン・ディオールが、パリ8区モンテーニュ通りにクチュールメゾンを開業する。
1,946 鈴木惣太郎の提案により、球団に愛称が義務付けられる。
1,947 ジョン・B・カルフーンが、ロックフェラー財団の資金提供を受けて、ジョンズ・ホプキンス大学の齧歯類の個体数管理のプロジェクトの一環として、ノルウェー・ラットのコロニーの研究を開始する。カルフーンは、タウソン(アメリカのメリーランド州)の隣人の家の裏にある使われなくなった森林にラットの小屋を建てる許可を取り付けた。面積は約1011.75㎡でキャパは5,000匹以上を想定していた。そこに5匹の妊娠中の雌を播種した。カルフーンはラットの繁殖を27ヶ月観察したが、観察終了迄に150匹で横這いとなり、200匹を超える事は無かった。さらにカルフーンは、タウソンの小屋とは別にパーソンズ島(アメリカのメリーランド州)のチェサピーク湾でも、齧歯類の個体数管理の研究を行なった。また、カルフーンの同僚のジョン・J・クリスチャンは、西暦1,931年にロックフェラー財団からの奨学金を受けてジョンズ・ホプキンス大学に移ってストレスの研究をしていた生理学者ハンス・セリエのストレスの概念に着目した。戦闘や逃走に於けるアドレナリンは、極端若しくは長期的なストレスの状況下では適応出来ず、身体システムの崩壊に繋がるというものであった。これは以下の3つの身体的変化で現出された。
①副腎肥大
②リンパ構造の萎縮
③胃と十二指腸の潰瘍化
そして、通常のトンネルを掘る行動を取らず、土を丸めてボールを作る等、奇妙な行動が観察される様になった。そして個体同士で争いを始めた。クリスチャン達は、人口密集によるストレスの社会的・生理学的・進化的影響を特定し再現する為に、ラットやマウスだけでなく、以下の種にも着目した。
①ハタネズミ
②レミング
③カンジキウサギ
④エゾシカ
⑤サル
⑥ネコ
1,947 コーネル大学でジャガイモの病気の研究をしていたジョン・ニーダーハウザーが、エルビン・スタックマンの教え子であったジョージ・ハラールに雇用され、ロックフェラー財団メキシコ農業協力計画に参画し始める。
1,947 ゴールドスターが「金星スターズ」に改称する。
1,947 テッド・ターナーが、家族と共にアトランタに引っ越す。テッドの父ロバート・エドワード・ターナー2世は広告看板会社を設立した。テッドは、テネシー州のジョージア・ミリタリー・アカデミーで教育を受け、剥製術への興味や、部屋で芝生を育てるという風変わりな行動から「テリブル・テッド」という渾名が付けられた。
1,947 本田宗一郎が開発した独自のエンジンである、50ccで0.5馬力の2ストロークのA型エンジンの生産が開始される。
1,947 ヘンリー・キッシンジャーがアメリカに帰国する。其の後キッシンジャーは、ハーバード大学に入学し、政治学を学んだ。
1,947 1 7 セネタースが「東急フライヤーズ」に改称する。そしてオーナーに、前月五島慶太からヘッドハンティングされ東急電鉄に入社していた、五島の鉄道省時代の後輩の大川博が就いた。
1,947 3 中部日本が、第2代中部日本新聞社社長で中部日本のオーナーである杉山虎之助の干支の辰に因んで「中日ドラゴンズ」に改称する。
1,947 3 パシフィックが「太陽ロビンス」に改称する。「太陽」は、田村駒が嘗て製販一体を目指して設立した子会社「太陽レーヨン」、「ロビンス」は、駒鳥の英語「Robin」に因んでいる。
1,947 3 15 高野山電気鉄道が「南海電気鉄道」に改称する。
1,947 4 3 東京巨人軍が、球団名を「東京読売巨人軍」に改称し、チーム名を「読売ジャイアンツ」とする。
1,947 5 3 ポール・マルチンクスが、シカゴ大司教区の司祭に叙階される。聖クリスティーナ教会と聖十字架教会の両方で教区を担当した。
1,947 5 21 野球統制令が廃止される。
1,947 6 石井四郎が細菌戦研究の成果を執筆し、アメリカ軍に引き渡す。
1,947 6 1 近畿日本鉄道が、旧南海鉄道の事業を全て南海電気鉄道に譲渡した事に伴い、近畿グレートリングが「南海ホークス」に改称する。
1,947 7 4 ソ連の方針により、北方四島(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)からの日本人の強制送還が開始される。当時四島には17,291名(3,123世帯)が居住していた。引揚げを命じられた日本人は、まず海路、樺太の真岡に移送され、厳しい所持品検査を受けた後、樺太地区の日本人居住者と共に函館に送還された。
1,947 7 10 米ソ共同委員会が決裂する。
1,947 8 23 WMWFG(世界政府のための世界運動)の第1回総会が、モントルー(スイスのヴォー州)にて開催される。23ヶ国から51の団体代表が参加し、以下のモントルー宣言が行われた。
①全世界の諸国・諸民族を全て加盟させる。
②世界的に共通な問題に就いては、各国家の主権の一部を世界連邦政府に委譲する。
③世界連邦法は、国家に対してではなく、個人を対象として適用される。
④各国の軍備は全廃し、世界警察軍を設置する。
⑤原子力は世界連邦政府のみが所有し、管理する。
⑥世界連邦の経費は各国政府の供出ではなく、個人からの税金で賄う。
1,947 9 二度目の北方四島からの日本人の強制送還。
1,947 9 タビストック・クリニックのエリオット・ジェイクス等によって、タビストック人間関係研究所が設立される。設立資金はイギリス王室とロスチャイルド家が捻出した。表向きには精神病理学、臨床心理学の拠点であったが、実際は、洗脳やプロパガンダ研究に関する秘密機関且つ国際諜報機関であった。アナバシン(アルカロイド)、スコポラミン、メスカリンの使用を中心とした薬物試験やスパイの雇用等から成るチャーター計画が始まる。
1,947 9 正力松太郎が不起訴となり巣鴨拘置所から釈放される。CIAは正力に、エージェントとして働く事を約束させ、それと引き換えに釈放した。
1,947 9 17 アメリカが国連事務局に朝鮮独立問題を提案する。
1,947 9 18 アメリカでCIA(中央情報局)が設立される。MI6から派生している。
1,947 10 三度目の北方四島からの日本人の強制送還。
1,947 10 13 早朝、シーラス計画の第53気象偵察グループに属するマクディルフィールド(アメリカのフロリダ州)から派遣された以下3機が、ジャクソンビル(アメリカのフロリダ州)の東約563.27kmの地点に、台風の中に90.7185kgのドライアイスを投下する。
①B-17:2機
②B-29:1機
結果、雲の様子は変化したが、決定的なものでは無かった。投下した直後、台風は西に130度進路を変え、サバンナ(アメリカのジョージア州)に上陸し、2,000,000ドル相当の被害が発生した。 ジョージア州は大衆は、この被害の原因はドライアイスの投下を批判したアメリカ政府であると非難し、アーヴィング・ラングミュアは、ドライアイスの投下が進路変更の原因だと主張し、訴訟に発展した。ドライアイスの投下時に既に台風が進路を変え始めていた事を示す証拠により訴訟は終結した。その後の調査により、実際には大きな海嶺が原因であるとした。
1,947 11 14 国連に招請する朝鮮人の代表者選定選挙の監視の為にUNTCOK(国際連合臨時朝鮮委員会)が設置される。
1,947 12 ポール・ブルームが駐日アメリカ大使館のアタッシェとして来日する。三井本館(東京都中央区日本橋室町)のGHQ外交局に勤務した。裏の肩書は初代CIA東京支局長であったが、伏せられていた。また、藤村義朗と再会し、親密な関係となった。
1,948 スワイヤー商会が、香港のフラッグ・キャリアであるキャセイパシフィック航空の株式の45%を取得し、筆頭株主となる。
1,948 児玉誉士夫と巣鴨拘置所で知り合った福田太郎が、広報PRの個人事務所である「福田渉外事務所」を設立する。
1,948 1 10 第3代大映社長永田雅一が、小西得郎の仲介で、中部日本新聞社と対立を深めて中部日本ドラゴンズの選手12名・マネージャー1名を引き連れ退団した赤嶺昌志と野球チームを結成する。其の後、日本野球報国会に加入を申し入れるが拒否された。そんな中永田は、自身が面倒を見ていた公職追放となった元政治家を動かし、五島慶太が球団を手放したがっているという情報を聞き付け、球団代表の猿丸元に球団買収を申し入れた。猿丸は、東急本社の役員会議で承認を得ようとし、会議直前に球団売却の話を大川博にしたが、大川は「フライヤーズは東急だけのものでは無い。戦争で憔悴した人々の心の拠り所だ。1年で投げ出すと、東急電鉄の信用に関わる」と反対した。此れにより猿丸は、球団売却の件を議題に上げるのを止めた。
1,948 2 本田宗一郎が、現在の静岡県浜松市中央区野口町の織物工場を買収し、エンジン組立工場として改造する。此の時点の生産規模を超える設備投資を行い、ベルトコンベアラインを導入した。
1,948 2 19 笠信太郎がスイスから日本に帰国する。
1,948 2 20 大映の野球チームと、東急フライヤーズが合併する。東急は、球団売却こそ断ったものの、空襲で多くの映画館を失っていた傘下の東横映画が映画館確保の為大映と提携し、大映株を大量に借り入れて大株主となったり、京都に在る大映の第2撮影所を借り受ける等、大映に借りが有った為、球団経営への参画までは断れなかった。
1,948 2 26 南朝鮮での単独選挙実施案が、国連小総会で賛成31票、反対2票、棄権11票で可決される。
1,948 3 第50代アメリカ国務長官ジョージ・マーシャルが初代アメリカ国務省政策企画本部長ジョージ・ケナン(外交官)を日本に派遣する。ケナンはダグラス・マッカーサーと会談し「日本は政治改革よりも経済復興の方が重要で、実現も容易である。共産国になりそうな中国に対し分解した機材を戦時賠償として日本の産業を解体してまで送るのは正しいのか」とし、マッカーサーを説得した。
1,948 3 1 日本野球連盟が、公益法人から社団法人に改組する。
1,948 3 1 済州島で、西暦1,919年3月1日の独立運動を記念する集会が開かれる。この集会で子供とぶつかったにも拘らず立ち去った警察に対し参加者が抗議した。それに対し警察側が発砲、6名が死亡した。
1,948 3 10 学生、教員、公務員、警察等済州島民の95%がストライキを敢行する。
1,948 4 3 南朝鮮労働党主導で350名が武装蜂起する。西暦1,948年5月10日に行われる予定であった南朝鮮単独選挙に反発した。
1,948 4 7 WHO(世界保健機関)が設立される。以降ロックフェラー財団の資金提供を継続的に受ける事となる。
1,948 4 9 東急フライヤーズが「急映フライヤーズ」に改称する。
1,948 4 14 以下等を目的に資本金10,000,000円で「株式会社日本野球連盟」が設立される。
①日本選手権試合の興行
②出版物の発行・販売
③文房具・玩具・運動具・遊戯具・図書・写真印刷物類の製造販売
全球団に、興行契約金の名目で1,250,000円ずつ差し入れ、年間優待指定席等の株主優待制度を設け、80円(額面50円)/株(配当6%)で売り出された。社長には鈴木龍二が就いた。同社は、公式戦のチケット収入の13%を吸い上げた。
1,948 5 10 南朝鮮で単独選挙が実施され、全体で投票率が95%を超えたが、済州島では3つの選挙区のうち2つがボイコットにより不成立となった。アメリカ軍は2選挙区の無効を公表し、同年 6月23日に再選挙を実施すると発表した。しかし、選挙を行う為の与件が整わず、無期延期となった。
1,948 7 最後の北方四島からの日本人の強制送還。
1,948 8 15 韓国が建国される。
1,948 9 9 北朝鮮が建国される。
1,948 9 24 本田宗一郎が、本田技術研究所を株式会社に改組し「本田技研工業株式会社」を設立する。従業員は34名、資本金は1,000,000円であった。
1,948 9 25 主に以下3名が反共工作について会談を行う。
①河辺虎四郎
②辰巳栄一
③G2大佐レイシー
河辺は活動全体がG2の資金で賄われる反共工作計画「タケマツ作戦」を立案し、G2に対し初期活動費87,000円を要求した。「タケ」は海外情報収集活動、「マツ」は日本国内での反共活動を意味した。
1,948 10 初代韓国大統領李承晩が、海岸線より5km以上の地域に出入りする人間を暴徒と見なし無条件射殺する、という布告を発する。
1,948 10 7 ジョージ・ケナンがアメリカ国務省に提出した対日講和は時期尚早であるとの文書を基に、NSC(アメリカ国家安全保障会議)が作成した「アメリカの対日政策に関する勧告」が採択される。主に以下が提言された。
①沖縄の長期支配
②横須賀海軍基地の拡張
③日本の国内警察力の強化
④対日講和の非懲罰的な方針への変更
⑤旧政財界人の公職復帰
1,948 10 9 韓国でハングル専用法が制定され、公文書がハングルで記載される事が正式に決定される。
1,948 10 9 主に以下2名がタケマツ作戦について会談を行う。G2から当座で37,000円が河辺に提供された。
①河辺虎四郎
②レイシー
1,948 11 17 済州島で戒厳令(戦争や内乱等の非常時に際し、立法権、行政権、司法権の行使を軍部に委ねる)が敷かれる。
1,948 11 20 主に以下3名がタケマツ作戦について会談を行う。
①河辺虎四郎
②レイシー
③有末精三
河辺がレイシーに南日本でのタケ作戦の概要を以下の通り説明した。
①防府(山口県)を拠点にスパイを南朝鮮(韓国)に派遣し、防府の貿易ルートを活用し北緯38度線を越え、北朝鮮と満洲の情報を伝える。
②対馬への情報拠点設置が可能である。南朝鮮からの密貿易に使われており、日本人工作員の南朝鮮潜入に利用する。ソ連船の情報獲得の為対馬の漁民を工作員として雇う事も可能である。
③アメリカの無線機を用い以下の言語の放送を傍受する。
❶中国語
❷朝鮮語
❸ロシア語
河辺は半年間の南日本での活動経費としてG2に対し3,905,000円を提示し、レイシーは必要な機材の手配を約束した。更に河辺は、北日本でのタケ作戦の概要を以下の通り説明した。
①翌年4月に作戦を開始し美唄(北海道)に本部を、札幌・函館・礼文島(北海道)に支部を設置する。
②樺太在住の信頼出来る日本人に接触し、樺太や千島列島からの帰還者をスパイとして送り返す。また、故意に船を難破させソ連に船員を送り込む事で、万年筆や時計の密輸ルートをソ連領内に開拓する。周辺海域を高速艇で監視し、無線を傍受する。
河辺は、半年間の北日本での活動経費としてG2に対し5,962,000円を提示した。其れと引き換えに河辺は、チャールズ・ウィロビーに対して10,000,000円を要求し、スパイを送って極東各地を支援する事と、蒋介石率いる国民党を支援する事を約束した。又有末は、タケ作戦に於ける北朝鮮での工作活動に渡辺渡を起用するが、使い物にならず、作戦は悉く失敗した。
1,948 12 2 「中日スタヂアム」が完成する。翌年から中日ドラゴンズが本拠地として使用した。
1,948 12 3 主に以下2名がタケマツ作戦について会談を行う。
①河辺虎四郎
②レイシー
レイシーは河辺に対し、チャールズ・ウィロビーが北日本の作戦を優先する様求めている事、但し南日本の作戦も了承している事を河辺に説明した。
1,948 12 12 第3回国連総会にて、南朝鮮で合法的な政府が設立された旨のUNTCOKの報告書を承認される。また、UNTCOKに代えて国連朝鮮委員会を設置される。
1,948 12 21 辻嘉六が死去し、鳩山一郎が辻の家族からの電話を受け、辻の自宅を訪れる。
1,948 12 21 永田雅一が、経営危機の金星スターズを買収する。チーム名は「大映スターズ」とした。永田は、急映フライヤーズに預けていた選手を引き上げ、東急電鉄との共同経営を解消した。同日、急映フライヤーズはチーム名を「東急フライヤーズ」に戻した。
1,948 12 23 0時1分30秒、以下の7名の絞首刑が執行される。
①板垣征四郎
②木村兵太郎
③土肥原賢二
④東條英機
⑤武藤章
⑥松井石根
⑦広田弘毅
1,948 12 24 以下19名が不起訴となり巣鴨拘置所から釈放される。
①笹川良一
②児玉誉士夫
③岸信介
④青木一男
⑤安倍源基
⑥天羽英二
⑦安藤紀三郎
⑧石原広一郎
⑨岩村通世
⑩後藤文夫
⑪須磨弥吉郎
⑫寺島健
⑬西尾寿造
⑭本多熊太郎
⑮葛生能世
⑯大川周明
⑰多田駿
⑱谷正之
⑲高橋三吉
CIAは笹川・児玉・岸に、エージェントとして働く事を約束させ、それと引き換えに釈放した。
1,948 12 24 辻嘉六の葬儀が築地本願寺で営まれる。鳩山一郎が参列した。
1,948 12 28 児玉誉士夫が、進駐していたESS(経済科学局)にラジウムを渡す。このラジウムには、香港サナトリウム病院(現在の香港島湾仔区)から略奪した物も含まれていた。
1,948 12 30 CIAが「自由欧州放送」等の宣伝戦争を支援する為に設けた偽装組織である「自由欧州全国委員会」の初代委員長に就任する。
1,948 12 31 チャールズ・ウィロビーによる情報組織の設立要請により、河辺虎四郎が「河辺機関」を設立する。主に以下の人間が参加した。
①有末精三
②下村定
③鎌田銓一
④岩畔豪雄
⑤宇垣一成
⑥服部卓四郎
⑦辻政信
⑧辰巳栄一
⑨岡村寧次
⑩土居明夫
しかし河辺や有末は常習的にG2を騙し、報告した情報は、大半が嘘かでっち上げであった。しかも在日中国人に情報を売っていた。ただウィロビーは有末を信用し、G2とCIAの内部抗争について話していた。また、国民党許崇智に日本人を送り込み、大量のバナナや砂糖を貰い受け、それを日本で売り捌いて巨利を得た。また、ウィロビーの通訳担当で三菱財閥の娘の荒木光子はG2の情報を日本政府に流していた。荒木はウィロビー邸に自由に出入り出来た唯一の日本人で、ドイツ語やロシア語が堪能であった。
1,949 アメリカ陸軍がキャンプ・デトリックに化学者達の極秘チームである「特別作戦部(SO部門)」を設立する。毒性バクテリアの軍事的利用法を見つける事を任務としていた。毒物の強制使用は新しい分野であり、化学者達はどの様に研究を始めるかを決めなければならなかった。
1,949 ペンシルベニア大学のジョン・プレスパー・エッカートとジョン・モークリーによって設計された世界初の汎用電子デジタルコンピュータ「ENIAC」にて円周率に於いて2,037桁の精度を得る。計算に70時間を要した。
π=3.1415926535897932384626433832795028841971693993751058209
74944592307816406286208998628034825342117067982148086513282
30664709384460955058223172535940812848111745028410270193852
11055596446229489549303819644288109756659334461284756482337
86783165271201909145648566923460348610454326648213393607260
24914127372458700660631558817488152092096282925409171536436
78925903600113305305488204665213841469519415116094330572703
65759591953092186117381932611793105118548074462379962749567
35188575272489122793818301194912983367336244065664308602139
49463952247371907021798609437027705392171762931767523846748
18467669405132000568127145263560827785771342757789609173637
17872146844090122495343014654958537105079227968925892354201
99561121290219608640344181598136297747713099605187072113499
99998372978049951059731732816096318595024459455346908302642
52230825334468503526193118817101000313783875288658753320838
14206171776691473035982534904287554687311595628638823537875
93751957781857780532171226806613001927876611195909216420198
93809525720106548586327886593615338182796823030195203530185
29689957736225994138912497217752834791315155748572424541506
95950829533116861727855889075098381754637464939319255060400
92770167113900984882401285836160356370766010471018194295559
61989467678374494482553797747268471040475346462080466842590
69491293313677028989152104752162056966024058038150193511253
38243003558764024749647326391419927260426992279678235478163
60093417216412199245863150302861829745557067498385054945885
86926995690927210797509302955321165344987202755960236480665
49911988183479775356636980742654252786255181841757467289097
77727938000816470600161452491921732172147723501414419735685
48161361157352552133475741849468438523323907394143334547762
41686251898356948556209921922218427255025425688767179049460
16534668049886272327917860857843838279679766814541009538837
86360950680064225125205117392984896084128488626945604241965
28502221066118630674427862203919494504712371378696095636437
19172874677646575739624138908658326459958133904780275900994
65764078951269468398352595709825822
1,949 ポール・マルチンクスが、シカゴ大司教区の結婚法廷の委員に任命される。有効な結婚と推定される事案の無効を認める請願を処理した。
1,949 1 22 GHQが、児玉誉士夫がESSにラジウムを渡した件に関し、メモランダムにて日本政府に対し調査を委嘱する。
1,949 2 19 GHQが、児玉誉士夫がESSにラジウムを渡した件に関し、スキャッピンとメモランダムにて日本政府に対し調査を委嘱する。
1,949 2 23 以下の人間等が、第2代GHQ経済科学局長ウィリアム・マーカットの権威を利用して、正力松太郎を新設した日本野球連盟の名誉総裁兼コミッショナーとして迎える。
①鈴木龍二
②鈴木惣太郎
③読売ジャイアンツの球団代表を務めた野口務
此の頃の日本野球連盟は、龍二・惣太郎・野口を始めとする連盟主導派と、球団主導派に割れていた。
1,949 3 30 児玉誉士夫がESSにラジウムを渡した件に関し、引揚援護庁の残務処理部から外務省の特殊財産局長宛に「児玉誉士夫から引き渡されたラジウムの情報の件」というタイトルの文書及び添付書類が送付される。文書の主旨は「これらの文書は児玉と米軍情報機関との関係を解明するのに役立つものであり、また外務省に保管されているべきものだと考えるが、これを調査の上、提出願いたい」というものであった。最終的に、引き渡したラジウムの内6割が児玉の物として与えられる事になったが、贈与や売却という体になる事を嫌い、癌研究会付属病院(東京都豊島区上池袋)にて保管される事となり、癌治療に使われた。
1,949 4 15 正力松太郎が、日本野球連盟の就任会見で、2〜3年の内に球団を増やして2リーグにしたいと発言する。正力は1リーグ8球団の計16球団まで、球団を増やすつもりでいた。
1,949 5 済州島で前年ボイコットとなった2つの選挙区の再選挙が成立する。
1,949 5 以下2名が、第8代毎日新聞社社長本田親男に、日本野球連盟への加盟を持ち掛ける。
①正力松太郎
②永田雅一
しかし本田は乗り気では無かった。其の後程無くして永田はアメリカへ渡った。正力は、西暦1,950年に2球団増やして1リーグ10球団、西暦1,951年に更に2球団増やして、1リーグ6球団の2リーグ制に移行し、日本選手権を争うという構想を永田に打ち明けていた。正力は、2リーグにした際、片方のリーグを永田と毎日新聞社に託そうとしていた。
1,949 5 2 正力松太郎が、日本野球連盟名誉総裁兼コミッショナーを辞任する。まだ公職追放処分が解除されていない正力に対する、GHQ参謀第二部の意向を受けた法務庁特別審査局の圧力が有った。
1,949 5 24 正力松太郎が株式会社日本野球連盟取締役会長に就任する。又、以下3名が日本野球連盟コミッショナー代行となった。
①最高裁判事を務めた井上登
②東京帝国大学医学部教授で東大野球部長や六大学野球連盟理事長を歴任した内村祐之
③東京帝国大学法学部教授で貴族院議員を務めた宮澤俊義
1,949 6 7 武装蜂起隊総責任者の李徳九が射殺される。
1,949 7 児玉誉士夫が闇金にラジウムを持ち込み、それを担保に萩原吉太郎が社長を務める北海道炭礦汽船の子会社の「小倉商事」名義の手形を大量に振り出す。
1,949 7 毎日新聞社が、非公式に日本野球連盟への加盟申請を打診する。
1,949 8 永田雅一が帰国する。
1,949 9 3 ソ連がセミパラチンスク核実験場(現在のカザフスタン東カザフスタン州)でプルトニウム型原爆の核実験に成功する。ロスアラモス研究所のクラウス・フックスがソ連に情報提供していた。裏で糸を引いていたのはイギリスのケンブリッジ大学の以下の4名で、さらにその背後には第5代イギリス・ロスチャイルド商会当主ヴィクター・ロスチャイルドがいた。
①MI6キム・フィルビー
②イギリス王室美術顧問アンソニー・ブラント
③BBCガイ・バージェス
④イギリス外務省駐カイロ英国大使館参事官ドナルド・マクリーン
1,949 9 14 近畿日本鉄道が、日本野球連盟への加盟を申請する。
1,949 9 20 西日本鉄道が、日本野球連盟への加盟を申請する。
1,949 9 21 毎日新聞社が、日本野球連盟への加盟を申請する。
1,949 9 24 大洋漁業が、日本野球連盟への加盟を申請する。
1,949 9 28 星野組が、日本野球連盟への加盟を申請する。
1,949 9 28 名古屋金鯱軍時代の同僚であった赤嶺昌志から広島球団の創設を勧められた元名古屋金鯱軍理事山口勲から要請を受けていた、第40代山梨県知事や第62代内務省警保局長を歴任した谷川昇が、広島球団の日本野球連盟への加盟を申請する。其の際以下3点の理由からチーム名を「カープ」として申請したが、野球チームは選手の集団であるから、複数形にするのが妥当ではないかという指摘を受け「カープス」に改められた。
①太田川は鯉の名産地である
②広島城が鯉城と呼ばれている
③鯉は出世魚であり、滝登りをする躍進の魚である
しかし、大学生の「鯉には複数形のsは付かない。此れは誤りではないか」という主旨の投書が有り、英文学者の判断を仰いだ。英文学者は、何れも間違いでは無いとの回答をした。最終的に、若い人の意見を尊重しようとカープを採用した。
1,949 9 29 東京會舘(東京都千代田区丸の内)にて、以下の日本野球連盟の既存球団による代表者会議が開かれる。此の時点で数球団から日本野球連盟への加盟申請が有り、受け入れに関し、以下の通り、賛成派と反対派に分かれた。
①賛成派
❶大阪タイガース
❷南海ホークス
❸阪急ブレーブス
❹大映スターズ
❺東急フライヤーズ
②反対派
❶読売ジャイアンツ
❷中日ドラゴンズ
❸太陽ロビンス
議論の途中で、読売ジャイアンツ球団代表四方田義茂が、球団代表の会議であるという理由で正力松太郎を追い出すという一幕が有った。
1,949 10 大阪タイガースが、数球団の日本野球連盟への加盟に関し、反対派に転じる。読売ジャイアンツの説得が有った。
1,949 10 1 中国の建国が北京で宣言される。
1,949 11 26 10時、東京會舘に正力松太郎や各球団の代表が集まり、日本野球連盟顧問代表者会議が開かれる。其処で、2リーグ制の実施が決定された。13時、毎日新聞社本社別館のレストランのセント・ポールにて、以下の4球団が「太平洋野球連盟」を設立した。
①南海ホークス
②阪急ブレーブス
③大映スターズ
④東急フライヤーズ
そして、以下2名を始めとする役員人事が決定された。
①大川博
②猿丸元
更に、以下3社が加入願を提出し、満場一致で承認された。
①近畿日本鉄道
②西日本鉄道
③毎日新聞社
又同日「セントラル野球連盟」の設立が発表された。
1,949 12 蒋介石が成都から、息子の蔣経国と共に飛び立ち台湾の台北に遷都する。
1,949 12 5 CIC(対敵諜報部隊)の秘密メモで、児玉誉士夫の人物分析に関し、「彼は恐らく、共産主義反対という点において誠実である。他方彼の記録は、ヤクザ的性格を示している。疑いなく、彼は日本政府高官と接触があり、重要な情報へのアクセスを持っている」と記される。
1,949 12 13 ルーヴェン・シロアッフの勧めでダヴィド・ベン・グリオンは、上記3組織の諜報活動の監督と調整の為に首相府と外務省両属の諜報保安集中調整庁創設をシロアッフに命令する。後のモサド(イスラエル諜報特務庁)である。
1,949 12 15 読売新聞社本社(東京都中央区銀座)にて、セントラル野球連盟の代表者会議が開かれる。結果、以下3チームの加盟が承認された。
①西日本新聞社
②大洋漁業
③広島野球倶楽部
従って、以下4チームと合わせて、7チーム体制となった。
①読売ジャイアンツ
②大阪タイガース
③中日ドラゴンズ
④太陽ロビンス
重役には以下が就いた。
①読売新聞社編集局顧問・編集局長・代表取締役主幹を歴任した安田庄司(会長)
②中日ドラゴンズ球団代表中村三五郎(理事長)
1,950 LSD・電気ショック・神経ガス等を用いたマインドコントロール実験計画である「ブルーバード計画」が立ち上がる。
1,950 児玉誉士夫がCIAから、タングステンを中国大陸から日本に密輸入する仕事を請け負い、CIAが児玉に対し150,000ドルを支払う。だが児玉は「タングステンを積んだ船が途中で沈没した」と報告、受け取った150,000ドルは返金しなかった。
1,950 ポール・マルチンクスが、グレゴリアン大学に留学し、教会法を学び始める。ローマ教皇庁の特別任務の遂行を開始し、パウロ6世と知己を得、親交を深めた。
1,950 ヘンリー・キッシンジャーが、ハーバード大学の政治学学士の学位を最優等で取得し、卒業する。此の頃キッシンジャーは、MI6の実地活動の責任者であるジョン・ウィーラー・ベネットから個人的に指導を受けていた。キッシンジャーは其の儘同大学の大学院に進学し、ウィリアム・ヤンデル・エリオットの指導を受ける様になった。
1,950 2 河辺虎四郎が最高司令官を宇垣一成、自身を参謀総長とした以下の部隊から成る「警察軍」構想を旧日本軍幹部と共に立案する。後に第49代首相吉田茂にも提案した。
①毒ガス隊
②機関銃隊
③戦車隊
1,950 3 31 JSOB(合同特殊工作委員会)に配布された児玉誉士夫の個人ファイルにて「児玉の強みは、非常に任侠的な点。私欲の無い愛国者。全面的に反共産主義。若者の指導に深い関心あり。カネには非常に無関心である。また、児玉の弱点は、感情的な男である事。悪い友達から逃れられないので、簡単に騙され易い」と記される。
1,950 6 クーン・ローブ商会のルイス・シュトラウスが、ロックフェラー兄弟の財政顧問となる。シュトラウスは、プロジェクト・資金調達・投資に関する意思決定に参加し、ロックフェラーの投資はクーン・ローブ商会の承認を受ける様になった。
1,950 6 12 CIAと関係の深いMRA(道徳再武装)でヘンリー・キッシンジャー等のCFR会員と知己を得ていた中曽根康弘を含む国会議員7名等72名が、MRAの本部のあるコー(スイスのヴォー州)で開催のMRA世界大会に出席する。中曽根以外の主な出席者は以下の通り。
①第20代広島市長浜井信三
②第17代長崎市長大橋博
③第4代東京芝浦電気社長石坂泰三
④第8代毎日新聞社社長本田親男
また、他にもドイツ・フランス・イギリスを歴訪し、同年8月15日に帰国した。
1,950 6 25 北朝鮮軍が北緯38度線を越えて韓国側に侵攻する。
1,950 7 初代ソ連書記長ヨシフ・スターリンが、ハバロフスク捕虜収容所に監禁されていた969名の日本人捕虜が移管、収容し、洗脳が始まる。
1,950 7 本月から翌月に掛けて、企業再建整備法による第二会社として富士産業株式会社から分社化された以下12社が発足する。
①富士工業株式会社
②富士精密工業株式会社
③愛知富士産業株式会社
④富士自動車工業株式会社
⑤大宮富士工業株式会社
⑥宇都宮車輛株式会社
⑦岩手富士産業株式会社
⑧富士機械工業株式会社
⑨富士機器株式会社
⑩田沼木材工業株式会社
⑪株式会社富田機器製作所
⑫東京富士産業株式会社
1,950 7 1 アメリカ上院議員カール・ムントが、ダグラス・マッカーサーに対し、反共主義の促進を名目に、世界中でテレビ放送ネットワークを建設し、映像メディアを活用する計画「ビジョン・オブ・アメリカ」の一環で、日本に放送システムを作る様提案する。その後、マッカーサーは「日本にその様な放送システムを建設する予定は無い。また、仮に作ったとしても、日本はサンフランシスコ講和会議以後主権を取り戻す為、放送システムは日本に所有される事になるので無駄である」と返答した。
1,950 7 8 連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが吉田茂に「警察予備隊」の設立と海上保安庁増員の指示を主旨とした書簡を送る。これにより河辺虎四郎が練っていた警察軍創設構想が頓挫し、旧日本軍将官の復権は実現不能となった。
1,950 8 10 警察予備隊令が公布、施行される。
1,950 9 金子順一が、武田薬品工業に入る。西暦1,973年3月迄勤務し、山口県光市の工場等でワクチン製造に携わった。
1,950 10 7 マザー・テレサを含む12名の修道女が、カルカッタ教区から認可を得て、カルカッタにてカトリック組織「神の愛の宣教者会」を設立する。受け取った寄付金から100,000,000〜150,000,000ドル/年を捻出しIORに送金していた。
1,950 11 富山化学工業が、第2四半期割当量52,000本を大幅に上回る5,000,000本の覚醒剤「ネオアゴチン」を6月から販売していた。大半が製造元の密造品であった。同年末から翌年1月にかけて発生した埼玉青少年集団輪姦事件に関与した百数十名以上の大半がネオアゴチンの常用者であった。
1,950 11 15 ウィリアム・ヤンデル・エリオットが、H・ゲイツ・ロイドに、ハーバード大学でのサマースクール計画及び国際セミナー設立の早期実現を促す書簡を送る。此の書簡の中には、ヘンリー・キッシンジャー宛の資料も同封された。其の資料には、キッシンジャーとCIA初期メンバーのクリーブランド・クラムが提案内容に就いて協議した事が記載された。又、エリオットの他の文書には、キッシンジャーが、CIAの秘密作戦部門であるOPC(政策調整局)の契約コンサルタントとして活動していた事も記載されていた。クラムは程無くしてエリオット及びキッシンジャーと連絡を取り、サマースクール計画に関わる様になった。又キッシンジャーはロイドに、サマースクールに於ける費用を項目別に記載した書簡を送った。



キッシンジャー主催のサマースクール「ハーバード国際セミナー」でディープステートの教えを叩き込まれたピエール・トルドー、ヴァレリー・ジスカール・デスタン、中曽根康弘、イーガル・アロン一元化




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