万物の系譜

西暦1,801〜1,900年

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年月日 出来事
1,801 メイヤー・アムシェル・ロスチャイルドがヘッセン侯爵家の銀行事務弁理人に任命される。ヴィルヘルム9世の個人資金運用も委託され、投資事業も始めた。
1,801 7 4 第3代アメリカ大統領となっていたトーマス・ジェファーソンと第3代アメリカ副大統領アーロン・バーの熱烈な支持者で、共和党運動に精を出していた弁護士ジョージ・I・イーカーが、コロンビア大学の独立記念日に於けるスピーチで、アレクサンダー・ハミルトンの君主制構想を批判した。その後アレクサンダー・ハミルトンの長男フィリップ・ハミルトンは、新聞でスピーチを知り、イーカーへの復讐を決意した。
1,801 11 20 トーマス・ジェファーソンが、友人リチャード・プライスと共にパーク・シアター(アメリカのニューヨーク市マンハッタン区パーク・ロウ)に乗り込み、観劇していたジョージ・I・イーカーと対面する。見物人が凝視し始めると、イーカーは、ジェファーソンとプライスにロビーに来る様に言った。感情が昂っていた3名は、意見の相違を解決する為に酒場へ行ったが、物別れに終わった。夜、イーカーは、プライスから決闘を要求する書簡を受け取った。
1,801 11 22 ウィーホーケン(アメリカのニュージャージー州)にて以下2名の決闘が行われる。
①リチャード・プライス
②ジョージ・I・イーカー
お互い2発ずつ銃弾を放ったが、両者は無傷で決着は付かなかった。また、水面下でアレクサンダー・ハミルトン側が、イーカーの部下との休戦交渉を行ったが、徒労に終わり、ハミルトンとイーカーの決闘がジャージー・シティ(アメリカのニュージャージー州)の砂州で行われる事が決まった。フィリップ・ハミルトンはアレクサンダーから、イーカーが先に発砲する迄待つか、最初の発砲を無駄撃ちするかどちらかした方が良いと助言した。決闘を短くし、イーカーが狙撃した場合、出血した事を示す為であった。
1,801 11 23 ウィーホーケン(アメリカのニュージャージー州)にて以下2名の決闘が行われる。
①フィリップ・ハミルトン
②ジョージ・I・イーカー
フィリップは、アレクサンダー・ハミルトンの助言通りに、向きを変え、銃を持ち上げなかった。イーカーも暫く銃を持ち上げなかった。1分が経過すると、イーカーが銃を持ち上げフィリップを発砲した、フィリップも銃を持ち上げたが、イーカーの放った弾丸が、右腰の上に命中し左腕に留まった。フィリップは発砲し、地面に倒れた。フィリップの放った弾丸は流れ弾となった。フィリップはマンハッタンの叔母の家に運ばれた。
1,801 11 24 早朝、ホサック博士の治療を受けていたフィリップ・ハミルトンが、出血が止まらず銃弾を受けてから14時間後に死去する。
1,802 イギリスのコーンウォールの鉱山で働く親方の息子である、リチャード・トレビシックが世界初の軌道上を走る蒸気機関車を発明する。
1,802 江戸幕府が蝦夷地奉行を設立し、本格的に蝦夷地や周辺の島々の調査を開始する。
1,802 カール・ビュデルスが、陸軍給仕長に昇進する。
1,802 ピエール・サミュエル・デュポンが、ナポレオン・ボナパルト政権下のフランスへ戻り、様々な役職に就く。
1,802 7 19 第3代アメリカ大統領であったトーマス・ジェファーソンの後ろ盾を得て、エルテール・イレネー・デュポンが、アメリカのデラウェア州ウィルミントンのブランディワイン川沿いに火薬製造工場を設立し「デュポン・ド・ヌムール父子商会」を創業する。ブランディワイン川沿いには、火薬の原料として最適な白樺が多く生息していた為、この地が選ばれた。エルテールは火薬製造工場を建設するに当たって、当時火薬の輸出国であったイギリスと敵対していた、ナポレオン・ボナパルトの支配下にあったフランス政府に、アメリカに火薬工場を建設するメリットを説き、ナポレオンの全面的支援を得ていた。
1,803 ロスチャイルド家がイギリス王室の宮中代理人となる。
1,803 メイヤー・アムシェル・ロスチャイルドが、デンマーク政府に貸付を行う。
1,803 マリア・レイノルズが単身イギリスからフィラデルフィアに戻り、「マリア・クレメント」という名前で活動を始める。
1,803 5 15 ヘッセン・カッセル方伯が選帝侯に昇格し、ヘッセン・カッセル方伯領が「ヘッセン選帝侯国」に改名する。これに伴い、ヴィルヘルム9世が初代ヘッセン選帝侯に就任した。
1,804 ドイツの薬剤師フリードリヒ・ゼルチュルナーが、アヘンからモルヒネの単離に成功する。
1,804 ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドがロンドンへ移住し、「イギリス・ロスチャイルド商会」を創設する。この頃からロスチャイルドは、ヴィルヘルム9世から資産運用を任せられ、イギリス国債で運用しながら、それで得た地金を元手に、貴金属投機で利益率20%を叩き出した。この頃ロスチャイルドは、ドーバー(イギリスのケント州)とカレー(フランスのパ・ド・カレー県)にエージェントを配置し、彼らを使って船長に上乗せ料金を支払って至急便で手紙を運ばせる等して、情報網の構築と維持に努めた。
1,804 7 11 アーロン・バーがアレクサンダー・ハミルトンに決闘を挑み、西暦1,801年11月23日にフィリップ・ハミルトンが決闘を行ったウィーホーケンの岩棚の上で夜明けに開始される。ハミルトンが先制したものの、バーがハミルトンの下胸部を撃ち、弾丸は背骨に留まった。
1,804 7 12 アレクサンダー・ハミルトンが死去。ロスチャイルド側から見れば用済み厄介者の始末が完了したと言える。
1,805 オスマン帝国の一地方政権として、エジプト総督となり、実質的な独立政権を樹立する。
1,805 6 20 ミラノでグランドロッジ「イタリア大東社」が設立される。
1,806 ジョン・パーキンス・クッシングが、広東に「パーキンス商会」を設立する。
1,806 間宮林蔵が択捉島を測量。
1,806 3 15 江戸幕府が薪水給与令を発し、食料・薪水・燃料等が欠乏して帰国出来ない場合はそれらを給与する様定める。
1,806 6 ナポレオン・ボナパルト率いる軍のヘッセン侵攻に伴い、ヴィルヘルム9世がデンマークに逃亡する。其の際ヴィルヘルム9世は、メイヤー・アムシェル・ロスチャイルドに財産3,000,000ドルを安全に保管する様命じた。其処でメイヤーは此のヴィルヘルム9世の財産をロンドンにいるネイサン・メイヤー・ロスチャイルドに送り、財産管理を任せた。ネイサンはヨーロッパ中からヴィルヘルム9世の債権を回収し、得た資金をヴィルヘルム9世の許可を得て投資事業に転用し、莫大な利益を得る。又、秘密裏にボナパルトが成立させたライン同盟にも取り入り、敵味方双方から利益を得ていた。
1,806 7 12 ナポレオン・ボナパルトやカール・ビュデルス等が、神聖ローマ帝国内の以下の16のドイツ諸国を帝国から離脱させ、フランス帝国と同盟させて「ライン同盟」を成立させる。
①バイエルン王国
②ヴュルテンベルク
③レーゲンスブルク侯国
④バーデン選帝侯領
首座大司教侯にはレーゲンスブルク侯国大司教カール・テオドール・フォン・ダールベルクが就いた。ダールベルクはネイサン・メイヤー・ロスチャイルドと親交が有った。
1,806 10 14 ナポレオン・ボナパルト率いる軍とプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世率いるプロイセン王国軍が、現在のドイツのテューリンゲン州で交戦し、フランス帝国が勝利する。
1,806 10 22 ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドが、モーゼズ・モンテフィオーレの義妹且つロンドンの大富豪レヴィ・ベアレント・コーエンの娘で、カール・マルクスの祖母ナネッテ・コーエンと従姉妹関係にあるハナ・ベアレント・コーエンと結婚する。此れによってロスチャイルドは、イギリスの織物やインドの産物等をヨーロッパ大陸へ密輸するコーエン家の事業を引き継ぐ事となる。ハナは嫁入りの際、レヴィから与えられた3,248.14.06ポンドを生活扶助料受領権を得る目的で持参した。
1,806 11 1 ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍が、カッセルに侵攻する。その後ヴィルヘルム9世は、以下の順ホルシュタイン地方に逃亡し、イツェホーのプリンゼスホフ(現在のドイツのシュレースヴィヒ・ホルシュタイン州)に居住し、最終的にプラハに移った。カール・ビュデルスは、収用の責任者である将軍ラグランジュとの密約によってヴィルヘルム9世の金融資産47,000,000ギルダーの内27,000,000ギルダーを守り抜く事に成功した。これによりビュデルスは財政顧問となり、貴族の称号である「フォン・カールスハウゼン」を授与された。また、翌年以降ビュデルスとロスチャイルド家の関係もあり、ヴィルヘルム9世は、大規模な金融取引は全てロスチャイルド家を通して行った。
1,806 11 21 ナポレオン・ボナパルトがベルリン(現在のドイツ)で、大陸諸国に対して、対英貿易の禁止、イギリス人の逮捕と財産没収、イギリス本国・植民地産商品の没収を命じる「大陸封鎖令」を発した。此れにより、以下の品目等の大陸諸国がイギリスやその植民地からの輸入に頼っている商品の価格が高騰した。
①コーヒー
②砂糖
③煙草
④綿製品
一方イギリスでも其れ等の商品の価格が市場の喪失で暴落した。ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドは此れを利用し、イギリスで安く買って大陸へ密輸し、アムシェル・メイヤー・フォン・ロスチャイルドを始めとする父や兄弟達が大陸内で確立しているロスチャイルド家の通商ルートや情報網を使って各地で売り捌き、莫大な利益を得た。
1,806 11 30 ハナ・ベアレント・コーエンが、ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドの家に移住する為、マンチェスターへと向かう。ロスチャイルドは、商人・繊維製造業者・ロスチャイルド自身のスタッフで構成されるコミュニティで地位を確立していた。コーエンは、ロスチャイルド達の業務を手伝う様になり、通信・注文処理・小切手への署名等に従事した。コーエンはロスチャイルドに対し、戦略の提案や政治的・経済的発展に関する報告を書簡で行っていたが「ベッドから出る時はスリッパを履く様にお願いしなければなりません。季節は変わり易いので、風邪を引かない様気を付けて下さい」等とロスチャイルドを気遣う記載も行っていた。
1,807 江戸幕府が西蝦夷地を天領とする。
1,807 1 ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドが、ヴィルヘルム9世の在ロンドン特命全権公使ロレンツに資産運用を申し出たが拒絶される。
1,807 3 25 イギリス議会で奴隷貿易法が成立し、奴隷貿易が禁止される。イギリス船で奴隷が見つかった場合の科料は100ポンド/人とされた。これにより、イギリス経済は長期的な打撃を受けた。
1,807 12 7 ナポレオン・ボナパルトが没収したヘッセン選帝侯国領の領内にあるカッセルを首都としたヴェストファーレン王国が建国される。初代国王に、ナポレオンの弟であるジェローム・ボナパルトが就いた。
1,808 ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドが、ヴィルヘルム9世の代理で金利3%のコンソル公債を150,000ポンド分を額面の73.5%である110,250ポンドで購入する。カール・ビュデルスがヴィルヘルム9世に、資産運用をロスチャイルドに託す様働きかけていた。この年ロスチャイルドは、ヴィルヘルム9世の宮廷仲介人となった。それと同時にロンドンのグレート・セント・ヘレンズに「N・M・ロスチャイルド&ブラザーズ」という事務所を開設した。
1,808 10 4 イギリス軍艦フェートン号がオランダ国旗を掲げ国籍を偽り長崎に入港する。
1,809 江戸幕府が樺太の呼称を北蝦夷地と正式に定めた上で東北諸藩に警備を目的とした出兵を命じる。
1,809 カール・ビュデルスが、ロスチャイルド家に20,000ギルダーを預金し、ロスチャイルド家の匿名のパートナーとなる。
1,809 5 ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドが、セント・スウィシンズ・レーンのニュー・コートにオフィスを移転させる。
1,809 10 4 スペンサー・パーシヴァルが、第21代イギリス首相に就任する。以降ジョージ4世は、パーシヴァルに補助金をせびる様になった。又、ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドは、ナポレオン戦争が行われている隙にアメリカが領土拡大を狙っているとして、アメリカへの派兵をパーシヴァルに迫った。しかしパーシヴァルは、アメリカに割ける兵は無いとして拒絶し、ロスチャイルドを失望させた。
1,809 11 間宮林蔵が樺太北部の探索を終え、宗谷に戻る。
1,809 11 ミドルタウン(アメリカのコネチカット州)の海運商人ルーシー・オールソップの見習い事務員として、トレーダーのスキルを学んでいたサミュエル・ラッセルが、見習い期間を終え、ニューヨークへ移る。
1,809 12 ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドが、ヴィルヘルム9世の代理でコンソル公債を150,000ポンド分を購入する。その後手数料25%引きでコンソル公債を150,000ポンド分を追加購入した。以降も西暦1,813年12月頃迄に6度コンソル公債を追加購入し、総額は664,850ポンドに上った。
1,810 2 16 フランクフルト大公国が建国される。カール・ビュデルスは、ハーナウの領地議会議員となり、西暦1,813年迄務めた。
1,810 9 12 ベアリングス銀行創設者でロンドン証券取引所支配人のフランシス・ベアリングが死去する。これに伴い、ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドがロンドン証券取引所の大株主となり、21,000,000ポンドを支配した。
1,810 11 2 以下2名の6女アミーリアが丹毒の為死去する。
①ジョージ3世
②シャーロット・オブ・メクレンバーグ・ストレリッツ
其れから程無くして、ジョージ3世は精神疾患を再発させ、以下の身体的な症状も現出し、杖無しでは歩けない状態となった。
①発熱
②頻繁な嘔吐
③脚の腫れ
④胃痛
⑤頭痛
⑥関節の痛み
其の少し前にジョージ3世は、白内障の進行により、右目、左目の順にほぼ視力が失われていた。
1,811 イギリス大蔵省ジョン・チャールズ・ヘリーズが、イベリア半島で戦っていたアーサー・ウェルズリーに、金貨・金塊を供給しようと各金融機関に打診したが、ピレネー山脈を越えて運ぶリスクに難色を示された。しかしネイサン・メイヤー・ロスチャイルドはこれを引き受ける。ネイサンはロンドンで金塊を購入してジェームス・ド・ロスチャイルドに密輸し、ジェームスが金塊をスペイン・ポルトガルの金融業者宛為替手形に変え、ピレネー山脈を経由してウェルズリーに届けるというスキームであった。
1,811 2 6 ジョージ4世が摂政となる。ジョージ4世は、父ジョージ3世に代わり事実上の君主となり、イギリスとグレートブリテンを統治した。
1,811 6 25 ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドが自身の会社である「ロスチャイルド・ブラザーズ」を解散し、メイヤー・アムシェル・ロスチャイルドと共に投資銀行の「N・M・ロスチャイルド&サンズ」をロンドンで設立する。この頃からネイサンは5兄弟の中で威張り散らす様になり、専制的になった。
1,811 7 4 ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドがマンチェスターでの業務を終了する。
1,812 ベンジャミン・ゴールドシュミットと弟エイブラハム・ゴールドシュミットから成るゴールドシュミット兄弟の共同経営者モーゼス・モカッタの甥モーゼス・モンテフィオーレが、レヴィ・ベアレント・コーエンの娘ジュディス・コーエンと結婚する。
1,812 サミュエル・ラッセルが、ニューヨークを拠点とし、コネチカット州の家族関係を持つ投資家によって設立された商社である「ハル&グリズウォルド社」に入社する。ラッセルはスーパーカーゴとして会社の船を使って、手数料ベースでの取引を始めた。
1,812 5 11 17時頃、商人ジョン・ベリンガムがウェストミンスター宮殿内庶民院ロビーにて、至近距離からスペンサー・パーシヴァルを撃ち、暗殺する。
1,812 6 8 ロバート・ジェンキンソンが、第22代イギリス首相に就任する。西暦1,820年以降は、ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドと関係を持った。
1,812 6 9 ニコラス・ヴァンシッタートが、第106代イギリス財務大臣に就任する。前日に首相に就任したロバート・ジェンキンソンと同様、西暦1,820年以降は、ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドと関係を持った。
1,812 6 18 米英戦争が勃発する。ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドの望み通りとなった。
1,812 9 19 メイヤー・アムシェル・ロスチャイルドが死去する。アムシェル・メイヤー・フォン・ロスチャイルドが家長の座とフランクフルト・アム・マインの銀行を継ぐ。メイヤーは臨終の間際に、西暦1,796年に通達した事業に参画する人間を家長と実の息子に限定する事を改めて強調し、参画しない者が帳簿や書類に触れる事を禁じ、5名の息子に対しては、互いに愛と友情を持って交わる事を命じた。
1,813 ジョージ3世の四男エドワード・オーガスタスが、フリーメイソンのイングランド・古代派グランドロッジのグランドマスターに就任する。
1,813 ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドが、ロシア帝国への送金に難儀していたホープ商会に手を差し伸べ、ロシア帝国側の窓口の外交官ジェルヴェに、1,333,333ポンドの送金の為に1%に相当する13333.33ポンドの賄賂を渡し、送金を完遂する。ロスチャイルドとその兄弟達は報酬としてイギリスから2%の手数料と2%の実質負担、ロシア帝国から4%の手数料を受け取った。
1,813 10 26 ヴェストファーレン王国が消滅し、ヘッセン・カッセル方伯領が返還される。
1,813 11 20 チャールズ・ヴェーンが、第25軽竜騎兵連隊の司令官に昇進する。この頃からヴェーンは、ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドと親交を持ち始めた。
1,813 11 21 ヴィルヘルム9世が、ヘッセン・カッセル方伯領の自身の自宅に帰還する。この時迄カール・ビュデルスはヴィルヘルム9世に代わり、ヨーロッパ全土でロスチャイルド家とのサービスを利用し、金融取引を行なっていた。
1,814 M・M・ヴァールブルク&COが、N・M・ロスチャイルド&サンズの系列企業となる。
1,814 マルムーク(奴隷身分出身の軍人)の統治者ダウド・パシャによるユダヤ人迫害が始まる。
1,814 勅許状期限の満了と共に、インドに対するイギリス東インド会社の独占権が廃止される。ロスチャイルド家が利権を引き継ぎ、植民地支配を続ける。
1,814 ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドの専制的な行動に拍車が掛かり、他の兄弟達に対し「白痴」という表現を用いた書簡を送る様になる。ソロモン・メイヤー・フォン・ロスチャイルドは背中と脚に激しい痛みを覚える様になり、カール・メイヤー・フォン・ロスチャイルドも、床に伏せてしまった。これを見兼ねたハナ・ベアレント・コーエンの妹ジェシー・バレント・コーエンの夫メイヤー・デイビッドソンは「この様な屈辱的で、破壊的且つ嘆かわしい態度をとる事は、ロスチャイルド家の将来の団結を危険に晒す」と警告したが、ネイサンは「ならば事業を解体する」と聞く耳を持たなかった。
1,814 キャロライン・オブ・ブランズウィックが、イギリスを離れて無期限のヨーロッパの旅に出る。此の際ブランズウィックは、召使としてバルトロメオ・ペルガミを雇った。程無くして秘書となり、ブランズウィックの家政を担った。公の場で2人で登場した事で、恋愛関係にあるのではないかと噂された。此れはイギリス王室にとって不名誉な事であった。軈てペルガミの母親・兄弟姉妹・娘がブランズウィックの家政に雇われ、全員がコモ湖(現在のイタリアのロンバルディア州)のブランズウィックの邸宅に住む様になった。
1,814 1 ロスチャイルド家が、南フランスに侵攻したアーサー・ウェルズリーに600,000ポンド相当の金貨・銀貨を運ぶ事に成功する。これはロスチャイルドの兄弟達がドイツ・フランス・オランダで集めたもので、成功報酬は2%に当たる12,000ポンドであった。
1,814 4 2 ナポレオン・ボナパルトが退位する。
1,814 4 6 イギリスに亡命し、ジョージ4世に保護されていたルイ18世が、第7代ブルボン朝フランス国王に即位する。此の際ロスチャイルド家が200,000ポンドの資金提供を行なった。
1,814 4 16 ナポレオン・ボナパルトがエルバ島(現在のイタリアのトスカーナ州リヴォルノ県)に追放される。ピエール・サミュエル・デュポンは、同年に加わった臨時政府のメンバーとして追放に携わった。
1,814 8 ソロモン・メイヤー・フォン・ロスチャイルドが「ロンドンに居る弟ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドは最高司令官であり、私はネイサンの部下の元帥である」という主旨の発言を行う。
1,814 8 7 第251代ローマ教皇ピウス7世が勅書を発し、イエズス会再興を宣言する。
1,814 11 22 ナイメーヘン(現在のオランダのヘルダーラント州)のシナゴーグにて以下2名が結婚する。
①ハインリヒ・マルクス
②ヘンリエット・プレスバーグ
プレスバーグは20,000ギルダーの持参金を受け取った。其の後はトリーア(現在のドイツのラインラント・プファルツ州)に移り、マルクスは弁護士として成功を収めた。
1,815 2 26 ナポレオン・ボナパルトが流刑地のイタリアのエルバ島を脱出する。これを知ったネイサン・メイヤー・ロスチャイルドは、ナポレオン戦争が長期化すると考え、イギリスから大陸への資金送金ニーズを見越し、アーサー・ウェルズリーに送る為の金塊を大量に購入し、ジョン・チャールズ・ヘリーズに売却した。この時のヘリーズの勘定残高は9,789,778ポンドであった。ロスチャイルドは、ウェルズリーに金塊を送る際の手数料で390,000ポンドを稼ぐ皮算用をしていた。
1,815 3 1 ナポレオン・ボナパルトがフランスのカンヌ近郊に上陸する。ピエール・サミュエル・デュポンはこれを機に、再度アメリカに亡命した。
1,815 4 10 インドネシアのタンボラ山が噴火する。
1,815 6 9 ウィーン議定書が締結され、スイスが永世中立国として承認される。スイスに銀行を持つ事で戦争に際し、両陣営に資金を貸し付けたり、戦争で攻め込まれる事が無い為安全に資産を保管出来る事から、国際金融資本が推し進めた。
1,815 6 18 夕方、ワーテルロー(現在のベルギーのブラバン・ワロン州)にてナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍が、イギリス貴族院議員アーサー・ウェルズリー率いるイギリス・オランダ・プロイセン連合軍に敗れる事が決定的となった事を目の当たりにしたネイサン・メイヤー・ロスチャイルドの急使ロスワースが、ブリュッセル(現在のベルギー)を経由してオーステンデ(現在のベルギーのウェスト・フランデレン州)へ馬を走らせる。この日フランス軍は、8時間に及ぶ激戦の末、1/3の兵士を失いイギリス・オランダ・プロイセン連合軍に敗れた。これにより金価格が暴落し、ロスチャイルドが、ジョン・チャールズ・ヘリーズに売却した金塊の資産が大きく目減りした。また、カール・メイヤー・フォン・ロスチャイルドはこのワーテルローの戦いに先立った資金調達で、アムステルダムにて国債を売り捌いていた。
1,815 6 19 未明、ロスワースが、アーサー・ウェルズリーが勝利した事を伝える為、特別航行証のある快速艇「ロスチャイルド号」に乗船し、船員に2,000フランを渡し、オーステンデからフォークストン(現在のイギリスのケント州シェプウェー)に向けて出港する。
1,815 6 20 未明、ロスワースがフォークストンに到着し、ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドにワーテルローの戦況の書かれた報告書を渡す。ロスチャイルドは報告書に目を通し、ロンドン証券取引所へ向けて馬を走らせた。その後ロスチャイルドは、アーサー・ウェルズリー敗戦と見せかけ金利が約8%のコンソル公債を売却し、西暦1,815年6月16日のカトル・ブラの戦いでアーサー・ウェルズリーが敗れたという情報によって下落していたコンソル公債価格を額面の5%まで暴落させた所で密かに買い集め、オムニアム債450,000ポンド、年利3%のコンソル公債650,000ポンドを購入する等して、全体の6割近くを買い占めた。これにより資産が3,000,000ドルから7,400,000,000ドルとなる。またロスチャイルドは、イギリス政府最大の債権者となった事で、コンソル公債の価格や通貨供給量の操作が可能になった。さらに西暦1,807年の奴隷貿易法をきっかけとした、イギリス国内の恐慌も相まって、機に乗じてイングランド銀行を実質的支配下に置き、イングランド銀行の通貨発行権と管理権を手中に収めた。ロスチャイルドはこの購入した債券を西暦1,817年にかけて売却し、金価格の暴落により目減りしたジョン・チャールズ・ヘリーズに売却した金塊の損失を補填した。
1,815 6 21 23時、アーサー・ウェルズリーの使者ヘンリー・パーシーがロンドンに到着し、フランス軍の敗北を知らせる。
1,815 11 20 連合国とフランスの間で以下のパリ条約が締結される。
①フランス領土を西暦1,790年1月1日当時の領土へ縮小する。
②フランスに700,000,000フランの賠償金を課す。
③最長5年間の、連合国軍のフランス駐留経費の負担。
1,816 カール・ビュデルスが、この年から翌年にかけてドイツ連邦議会の特使としてヴィルヘルム9世に仕えた。
1,816 5 2 以下2名が、カールトン・ハウス(現在のイギリスのロンドンのシティ・オブ・ウェストミンスターのセント・ジェームズ地区ペル・メル)にて結婚する。
①ロスチャイルド家と関係の深いザクセン・コーブルク・ゴータ家のレオポルド1世
②シャーロット・オーガスタ・オブ・ウェールズ
1,816 7 西暦1,793年のジョージ・マカートニーに続き、対清全権使節ウィリアム・アマースト(初代アマースト伯爵)が貿易収支の改善を意図し、以下の2隻の船で第7代清皇帝嘉慶帝に謁見しようとするが、マカートニー同様に三跪九叩頭の礼を拒否した。結果、清側から即日退京させられ、謁見が叶わなかった。清側は前回のマカートニーに対する応対を反省し、三跪九叩頭の礼の厳守を謁見の条件とした。
①アルセスト号(艦長:マクスウェル)
②ライラ号(艦長:ホール)
1,817 メイヤー・アムシェル・ロスチャイルドの五男のジェームス・ド・ロスチャイルドがパリへ移住し、フランス・ロスチャイルド商会を創設する。
1,817 ベンジャミン・ディズレーリがネイサン・メイヤー・ロスチャイルドの命令で洗礼を受け、キリスト教徒となる。当時ユダヤ教徒は公職に就く事が禁じられていた為であった。
1,817 ハインリヒ・マルクスがルーテル教会で洗礼を受ける。
1,817 6 12 ドイツのカール・フォン・ドライス男爵が、自身の発明した自転車(人力二輪車)の原型となったドライジーネを一般公開する。
1,817 11 6 シャーロット・オーガスタ・オブ・ウェールズが、男児を死産し、間も無く死去する。王位継承者と目されていたシャーロットの死去により、イギリス王室は、王位継承者の選定を緊急で行う事となった。イギリス王室は、まだ結婚していなかったエドワード・オーガスタスに資金提供をちらつかせて、王位継承者を作ろうとした。
1,818 メイヤー・アムシェル・ロスチャイルドの以下5名の息子の資本金配分は以下であった。
①アムシェル・メイヤー・フォン・ロスチャイルド:7,776,000フラン
②ソロモン・メイヤー・フォン・ロスチャイルド:7,776,000フラン
③ネイサン・メイヤー・ロスチャイルド:12,000,000フラン
④カール・メイヤー・フォン・ロスチャイルド:7,488,000フラン
⑤ジェームス・ド・ロスチャイルド:7,488,000フラン
1,818 ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドが、プロイセン王国国債を5,000,000ポンド起債し、外国国債発行市場に本格参入する。これを皮切りに、この年から西暦1,832年迄にロンドンで26本の外国国債(総額37,600,000ポンド)が調印されるが、内7本はロスチャイルドが起債したものだった。イギリス・ロスチャイルド商会は西暦1,859年迄に50本の外国国債(総額250,000,000ポンド)を起債するが、ライバルのベアリング・ブラザーズは14本(総額66,000,000ポンド)と、他を圧倒した。
1,818 以下の5名がパートナーシップ協定を結ぶ。パートナーシップの形態としては、5名の共同責任に基づく、フランクフルト・ロンドン・パリの共同商事会社で、それを1つの包括的な合同会社を形成するとした。
①アムシェル・メイヤー・フォン・ロスチャイルド
②ソロモン・メイヤー・フォン・ロスチャイルド
③ネイサン・メイヤー・ロスチャイルド
④カール・メイヤー・フォン・ロスチャイルド
⑤ジェームス・ド・ロスチャイルド
1,818 5 29 以下2名が、アモールバッハ(ドイツのバイエルン州ミルテンベルク郡)にて結婚する。
①エドワード・オーガスタス
②ヴィクトリア・オブ・サクス・コバーグ・ザールフィールド
此の結婚に於いてオーガスタスは、ロスチャイルド家から資金提供を受けていた。
1,819 清は高い収益が見込めると考えたサミュエル・ラッセルが、広州に到着する。以下2名の提携によって設立された「エドワード・キャリントン・アンド・カンパニー」に代わり、アヘン等の様々な物品の貿易に従事した。非合法であったが故、高い利益を得た。
①プロビデンス(アメリカのロードアイランド州)のエドワード・キャリントン
②ミドルタウンのサミュエル・ウェットモア
1,819 ハインリヒ・マルクスの長男モーリッツ・マルクスが死去する。9人兄弟の3番目で弐男であったカール・マルクスは男兄弟の中で年長となった。
1,819 10 カール・マルクスの三従兄弟ハインリヒ・ハイネが、ボン(現在のドイツのノルトライン・ヴェストファーレン州)に所在するライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボンに進学する。伯父サロモン・ハイネが、ハインリヒに貿易の才能が無いと判断し、法律を学ばせた。しかし、ハインリヒは法律よりも歴史と文学に興味を持っていた。当時のドイツの政治は、保守派とリベラル派に分かれており、保守派は世の中をフランス革命前の状態に戻したかった。保守派は、ドイツ統一が革命思想の犠牲になるかも知れないと感じた為、ドイツ統一に反対した。ドイツの殆どの国家は、絶対主義君主制であり、報道機関は検閲されていた。対するリベラル派は、絶対主義を代表制・立憲政治・法の下の平等、報道の自由に置き換えることを望んでいた。ハイネは、急進的なリベラル派で、入学後即、クレメンス・フォン・メッテルニヒが西暦1,819年9月20日に導入した、カールスバッド法令に違反するパレードに参加した。
1,820 ソロモン・メイヤー・フォン・ロスチャイルドがオーストリアのウィーンへ移住し、オーストリア・ロスチャイルド商会を創設する。
1,820 1 29 ジョージ3世が崩御する。此れにより、ジョージ4世が第4代ハノーヴァー朝国王に即位した。即位の最初の宣言は、カールトン・ハウスの階段で行われた。浪費家であったジョージ4世は、巨額の負債を抱え、後にネイサン・メイヤー・ロスチャイルドの融資を受けた。此れを切っ掛けにロスチャイルドは、イギリス王室との関係を構築した。
1,820 7 5 ジョージ4世が、教会裁判所を介さずに婚姻関係を解消する事を意図し「苦痛と罰則の法案」を提出する。
1,820 8 17 苦痛と罰則の法案を受けた裁判が開始される。検察側は、キャロライン・オブ・ブランズウィックとバルトロメオ・ペルガミが一緒に入浴・接吻・手を繋ぐ等非常に親密な関係にあったと述べ、弁護側は、ブランズウィックに不利な証言をする様賄賂を提供された証人を示した。
1,820 11 6 苦痛と罰則の法案が、第二読会を119対94で通過する。しかし其の後行われた第三読会では、賛成が僅か9票となり、庶民院で否決される可能性が略確実となると、第22代イギリス首相ロバート・ジェンキンソンは、此の措置に対する国民の感情を無視出来ないとして、苦痛と罰則の法案は今後追及しない事となった。
1,821 3 24 マリー・アントワネットの姉であるマリア・カロリーナを妻に持つ、ナポリ革命が鎮圧された両シチリア王国の王フェルディナンド1世(両シチリア王)の要請により、フェルディナンド1世(両シチリア王)が、オーストリア帝国軍の護衛の下ナポリに入城して以下を行う。
①議会の停止
②暫定憲法の廃止
これを切っ掛けにアムシェル・メイヤー・フォン・ロスチャイルドがメイヤー・アムシェル・ロスチャイルドの四男のカール・メイヤー・フォン・ロスチャイルドをナポリへ移住させ、「イタリア・ロスチャイルド商会」を創設する。カールは、イタリア財務大臣ルイージ・デ・メディチに接近し、イタリア・ロスチャイルド商会をナポリに於ける主要銀行とする事に成功した。またカールは、両シチリア王国への融資を行った。
1,821 5 5 ナポレオン・ボナパルトが砒素中毒により暗殺される。
1,821 7 19 ジョージ4世の戴冠式が、ウェストミンスター寺院(現在のイギリスのロンドンのシティ・オブ・ウェストミンスター)にて執り行われる。12,000個のダイヤモンドが付いた王冠が使用され、2,000名以上が晩餐会に出席した。しかしジョージ4世は、キャロライン・オブ・ブランズウィックの出席を拒否し、警察を使ってブランズウィックを会場から追い払った。民衆から「王妃は何処に行ったんですか」と言われる始末であった。此の日からブランズウィックは体調を崩し始めた。ブランズウィックは病床で「毒を盛られた」と訴え続けた。
1,821 8 7 キャロライン・オブ・ブランズウィックが、ハマースミス(現在のイギリスのロンドンのハマースミス・アンド・フラム)にて、腸閉塞で死去する。遺言で、シャーロット・オーガスタ・オブ・ウェールズの側に葬って欲しいと言い遺していたが聞き入れられず、故郷のブラウンシュヴァイク(現在のドイツのニーダーザクセン州)に葬られた。又、遺言書には「イギリス王妃キャロライン、ブランズウィック公の記憶に」と墓碑銘を記す様指示していたが、此れも聞き入れられなかった。
1,821 12 30 江戸幕府が蝦夷地の大半を松前藩に返却する。
1,822 9 23 初代オーストリア帝国国家宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒが長年の政治生活で金欠となっているとの情報を得たネイサン・メイヤー・ロスチャイルドとその兄弟達が、メッテルニヒに対し900,000ギルダーの融資を行う。メッテルニヒはこの頃、公的な通信手段よりも早く伝達出来るロスチャイルドの通信ネットワークを利用し、他国の政府に自身の見解を伝えた。
1,822 9 29 クレメンス・フォン・メッテルニヒの働き掛けにより、初代オーストリア皇帝フランツ2世がロスチャイルド家に対し、男爵位と5兄弟の団結を象徴する5本の矢を握るデザインの紋章を与える。
1,823 イギリス東インド会社の軍人、ブルース兄弟の兄少佐ロバート・ブルースにより茶を食し煮出して飲んでいる現地先住民シンプー族についての情報を得て、アッサムの奥地ラングプル(現在のインドのアッサム州シヴァサーガル県シブサガル)に遠征し、物品の交易を経てそのシンプー族首長ビザガウムとの面会に成功する。茶に酷似する植物を自らの目で確認した。これがアッサム種である。
1,823 イギリスが通貨法を制定し、イングランド銀行の銀行券発行量が「金・銀の地金を通貨換算した値に14,000,000ポンドを上乗せした分」と定められる。
1,823 3 ジェームス・ド・ロスチャイルドが、シンジケード団を組織しフランス政府の低利借り換えを意図して発行した120,000,000フランの公債を引き受ける。西暦1,789年以降に発効されたアッシニア紙幣の担保として教会領を没取された聖職者の反対があったが、押し切った形となった。しかし利率が低かった為シンジケート団から撤退する企業が相次いだ。しかしロスチャイルドは残った為、力を顕示する事となった。ロスチャイルドは、この公債を売却し、得た資金を投資家の貸付に流用して年間で50%の利息を稼いだ。
1,823 8 清がケシ栽培とアヘン製造を禁止する。
1,823 8 11 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが長崎に到着する。
1,823 10 1 ジョージ4世がウィンザー城(現在のイギリスのバークシャー州)に居を構える。しかし此の城は寒く、住むには不適格である事が判明し、イギリス議会は、改修の為の資金を承認した。ジョージ4世とイギリス財務省の要請により介入した趣味委員会には建築家ジェフリー・ワイアットビルに増改築を依頼した。イギリス財務省は、西暦1,783年のカールトン・ハウスの改修費用が膨らんだ反省から、趣味委員会に、歯止めとしての役割を期待した。ワイアットビルは、自身の設計した図面にジョージ4世と趣味委員会の署名を求め、此れが認められ、更に署名の無い図面も1部作成し、計2部が作成された。此の様に慎重を期したにも拘らず、費用は増大し、工期は遅延し、度重なる追加資金の要請が発生した。此の改修は西暦1,840年以降も続けられ、長きに渡った。
1,824 4 30 以下2名がニューヨーク・イブニング・ポスト紙にて「ラッセル商会」の設立を発表する。
①サミュエル・ラッセル
②フィリップ・アミドン
ラッセル商会は主に以下の品目を取り扱い成長し、西暦1,842年迄に清最大のアメリカ商社となった。
①絹
②茶
③アヘン
1,824 5 ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドが、イングランド銀行から地金1,000,000ポンド分の保証を受ける。
1,824 8 ハインリヒ・マルクスとヘンリエット・プレスバーグの間の以下7名の子供が、ルーテル教会にて洗礼を受ける。
①カール・マルクス
②ゾフィー・マルクス
③ヘルマン・マルクス
④ヘンリエット・マルクス
⑤ルイーズ・マルクス
⑥エミリー・マルクス
⑦カロリーヌ・マルクス
1,824 12 1 ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドが、イギリス政府の整理公債を預託する事を担保に、本年5月にイングランド銀行から保証を受けた地金1,000,000ポンド分の内500,000ポンドを持ち出し、フランス銀行に預ける。前年3月にジェームス・ド・ロスチャイルドがフランス政府から引き受けた公債の価格を維持する事を意図していた。
1,825 メイヤー・アムシェル・ロスチャイルドの以下5名の息子の資本金配分は以下であった。
①アムシェル・メイヤー・フォン・ロスチャイルド:18,943,750フラン
②ソロモン・メイヤー・フォン・ロスチャイルド:18,943,750フラン
③ネイサン・メイヤー・ロスチャイルド:26,875,000フラン
④カール・メイヤー・フォン・ロスチャイルド:18,643,750フラン
⑤ジェームス・ド・ロスチャイルド:18,643,750フラン
1,825 イギリスで、南アメリカへの投機が破綻した事に端を発した恐慌が発生する。株式市場は暴落し、770の銀行の内73行が破産した。ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドは、300,000ポンド相当のソブリン金貨をイングランド銀行に提供し、不足分をジェームス・ド・ロスチャイルドがパリから供給し、総額は10,000,000ポンドに達した。
1,825 4 6 江戸幕府が清船・オランダ船を除く外国船を発見次第砲撃し追い返す事を命じる「異国船打払令」を発する。また上陸した場合逮捕若しくは射殺を命じた。
1,825 11 ヘンリエット・プレスバーグが洗礼を受ける。此の改宗により、トリーアのラビであったハインリヒ・マルクスの父親と決別した。
1,826 デイヴィッド・サスーンがユダヤの族長であるシャイフに就任する。サスーン家は代々主席財務官とシャイフの地位を継承してきた。
1,826 カールトン・ハウスが取り壊される。ジョージ4世は、以下の何れも自分のニーズには合わないと考えていた。
①カールトン・ハウス
②セント・ジェームズ宮殿
③バッキンガム・ハウス
カールトン・ハウスの賃貸収益は、バッキンガム宮殿の建設費用に充てられた。カールトン・ハウスの正面の柱廊を形成していたコリント式柱の一部は、ナショナル・ギャラリー(イギリスのロンドンのシティ・オブ・ウェストミンスターのトラファルガー広場内)のポルチコや、バッキンガム宮殿の礼拝堂に再利用された。跡地は当初、セント・ジェームズ・パーク(現在のイギリスのロンドンのシティ・オブ・ウェストミンスター)の再開発の一部に組み入れられていた。建築家ジョン・ナッシュは、セント・ジェームズ・パークの北側に3つのテラスハウスを、バードケージ・ウォーク沿いの南側にも3つのテラスハウスを建設する案を出した。バードケージ・ウォーク沿いの南側のテラスハウス建設は実現せず、セント・ジェームズ・パークの北側も「カールトン・ハウス・テラス」という高価な白い漆喰の建物が2棟建設されたものの、1棟は実現しなかった。
1,827 7 26 オランダ船が長崎に来航する。オランダ船長が語った内容を第159代オランダ商館長ヘルマン・フェリックス・メイランが聞き、通詞目付・大通詞・小通詞によって風説書として、以下の内容が和訳され、老中宛に発送された。
①当年来日のオランダ船2隻、西暦1,827年7月1日バタヴィア(現在のインドネシアのジャカルタ)を同時に出港し、海上異常無く、本日1隻長崎に到着した。後船は当初8日程一緒で、其の後見失ったが、間も無く到着する事と思われる。此の2隻以外に仲間船は無い。昨年長崎から出港した船2隻は海上異常無く、西暦1,827年1月21日にバタヴィアに到着した。
②東インド付近は静かであるがヨーロッパ諸国のフランス王国・イギリス・スペインの間で戦争が起こるという情報も有るが、今の所明確で無い。
③第3代チャクリー王朝暹羅(現在のタイ)国王ラーマ3世が、交易の為バタヴィアに使いを寄越す。
④ガージャール朝がロシア帝国に攻め込んだが、ロシア帝国が大勝利を収め、ガージャール朝は敗走した。
⑤オスマン帝国の都府コンスタンティノープルで軍隊内で反乱が有ったが、速やかに第30代オスマン帝国皇帝マフムト2世が鎮定した。
⑥今回航海中の清船は見掛けなかった。其の他変わった情報は無い。
1,828 メイヤー・アムシェル・ロスチャイルドの以下5名の息子の資本金配分は以下であった。
①アムシェル・メイヤー・フォン・ロスチャイルド:19,693,750フラン
②ソロモン・メイヤー・フォン・ロスチャイルド:19,693,750フラン
③ネイサン・メイヤー・ロスチャイルド:28,200,000フラン
④カール・メイヤー・フォン・ロスチャイルド:19,393,750フラン
⑤ジェームス・ド・ロスチャイルド:19,393,750フラン
1,828 フランクフルトで叔父と祖母と共に暮らしていたオーガスト・ベルモントが、父であるサイモン・ベルモントが学費を払えなくなった為、メイヤー・アムシェル・ロスチャイルドがユダヤ教徒とキリスト教徒のコミュニティを統合する事を目的として設立した学校である「フィランスロピン」を退学する。そして、祖母が親戚であったドイツ・ロスチャイルド家に頼み込み、オーガストはビジネスの訓練を受ける事となった。オーガストは、見習いとして訓練や使い走りを行う傍ら、以下を教わった。
①フランス語
②英語
③作文
④算術
1,829 イギリスのベンガル総督のウィリアム・キャヴェンディッシュ・ベンティンクによって、インドの慣行である、亡夫の火葬の最中に寡婦が殉死するサティーが禁止される。
1,829 水戸藩で天狗党が発生する。
1,829 フェルディナント・アドルフ・ランゲが現在のドイツのザクゼン州にあるドレスデン工科大学に入学し、現在のドレスデン・ゼンパー歌劇場(現在のドイツのザクゼン州)の5分時計の製作者のヨハン・フリードリヒ・グートケスに弟子入りし、グートケスと共に週6日、3日は理論、3日は手作業にて修行する。
1,829 第9代マルムーク朝統治者ダウド・パシャによる前年から本年にかけてのユダヤ人迫害の為、デイヴィッド・サスーンが以下を経由してボンベイ(現在のインドのマハーラーシュトラ州ムンバイ市街県)へと向かった。
①バスラ(現在のイラク)
②ブーシェフル(現在のイラン)
1,829 カール・メイヤー・フォン・ロスチャイルドが在フランクフルト・シチリア総領事に任命される。
1,829 10 22 江戸幕府が、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトに日本国外への退去と再入国禁止の処分を下す。
1,829 10 31 第8代水戸藩主徳川斉脩が死去。程なくして斉脩の遺書が見つかり、江戸幕府の許可を得て徳川斉昭が第9代水戸藩主となる。
1,830 第30代オスマン帝国スルタンのマフムト2世がダウド・パシャの解任を命じる。
1,830 6 14 第8代ブルボン朝フランス国王シャルル10世がジェームス・ド・ロスチャイルドから80,000,000フランの資金提供を受け、侵略の為にアルジェリアに上陸する。
1,830 6 26 早朝、ジョージ4世が崩御する。其の後葬儀が営まれたが、葬儀屋達は泥酔していた。
1,831 ハインリヒ・ハイネが、拠点をドイツからパリに移す。其の後は、ヨハン・フリードリヒ・コッタの新聞社の1つである「フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング」のフランス特派員として勤務すると同時に、ジェームス・ド・ロスチャイルドの下で働き始めた。
1,832 デイヴィッド・サスーンがボンベイに到着し「サスーン商会」を設立する。イギリス東インド会社からインド産アヘンの専売権を取得し、インド産アヘンを清に密売して、銀を清から持ち出し莫大な利益を得る。またサスーンは紅茶の総元締めでもあり、茶葉の貿易にも関わっていた。
1,832 アメリカのイェール大学(アメリカのコネチカット州ニューヘイブン)の同期の以下2名が在学中に秘密結社「スカル&ボーンズ」を設立する。アダム・ヴァイスハウプトが設立許可を出していた。
①アルフォンソ・タフト
②サミュエル・ラッセルの従兄弟ウィリアム・ラッセル
ウィリアムは、ロスチャイルド家とベアリング家が支配するアヘン貿易の利権を分けて貰った麻薬貿易会社ラッセル社の一族であった。また、サミュエルとウィリアムの先祖に当たる牧師ノアディア・ラッセルは西暦1,701年のイェール大学創設に関わった10名の創設者の内の一人であり、同年から西暦1,713年迄同大学の理事を務めた。さらにノアディアは、西暦1,708年に採択された植民地会衆派の新憲法である「セイブルック綱領」の立案者の一人でもあった。
1,832 オーギュスト・アガシが時計販売会社に入社し、サン・ティミエ(現在のスイスのベルン州)に時計の各パーツや半完成品のエボーシュムーブメントを、各人の作業が終わると次の工程を請け負う作業者に回すエタブリサージュの時計工房を設立する。
1,832 ピエール・ジャン・ロビケがアヘンからコデインの単離に成功する。
1,832 イギリスが国会にて、イギリス東インド会社に与えられている対清貿易の独占権の西暦1,834年の免許状延長を行わない事を決定する。この頃のイギリスの対清貿易は1,200〜1,300tの商船で広州にて1航海当たり30,000〜40,000ドルの利益を上げていた。しかしアメリカは、自国の農産物をヨーロッパに運んでスペイン銀貨に換え、インドへ向かいインド産アヘンをマカオに運び、広州で茶葉や絹を仕入れ、350tの小型商船で1航海当たり40,000〜60,000ドルの利益を得ていた。
1,832 オーガスト・ベルモントが、ドイツ・ロスチャイルド商会から機密事務員に任命される。
1,832 1 カール・メイヤー・フォン・ロスチャイルドが、第254代ローマ教皇グレゴリウス16世を元を訪ねて騎士団勲章を受ける。ジェームス・ド・ロスチャイルドが400,000ポンドのローマ教皇庁への融資を手配した事が背景としてあった。改宗をしていないユダヤ人がローマ教皇に謁見するというは異例の事であった。元来ローマ教皇をイエス・キリストの代理者であるとするカトリックは、ローマ教皇に会う際に足にキスをする習慣があったが、ロスチャイルドはグレゴリウス16世の手にある指輪にキスをした。これはカトリックの怒りを買った。
1,832 2 林則徐が江蘇巡撫に任命される。
1,832 2 26 イギリス東インド会社の「ロード・アマースト号」がマカオを出港する。主に以下2名が乗船していた。
①リンゼイ(代表)
②ドイツ人宣教師カール・ギュツラフ
1,832 6 ロード・アマースト号が清に来航し通商を要求する。
1,832 7 林則徐が江蘇巡撫として蘇州(現在の中国江蘇省)に着任する。
1,832 7 1 以下2名がロスチャイルド家の提供した資金で「ジャーディン・マセソン商会」をマカオで設立する。
①元東インド会社の船医でマニアック商会の共同出資者であるウィリアム・ジャーディンと②コルカタで貿易商として独立し、マニアック商会の共同出資者であるジェームズ・マセソン
同商会はサミュエル・ラッセルと手を結び、ウィリアム・ラッセルの母校であるイェール大学にも清とのアヘン密貿易で得た利益が環流されていた。
1,832 10 22 1,500石の廻米や陶磁器等を江戸に運ぶ為に小野浦(現在の愛知県知多郡美浜町)を出港していた尾張藩の樋口重右衛門の所有する「宝順丸」が、時化の為鳥羽浦(現在の三重県鳥羽市)に入港する。乗組員は以下の14名であった。
船頭
①樋口重右衛門
水夫
②仁右衛門
③利七
④三四郎
⑤常治郎
⑥六右衛門
⑦吉治郎
⑧山本音吉
⑨久吉
⑩政吉
⑪岩吉
⑫仙之助
⑬勝五郎
⑭辰蔵
1,832 11 3 天候の回復を待っていた宝順丸が鳥羽浦を出港する。しかし間も無く暴風雨に遭い帆柱や舵を失い漂流が始まった。
1,833 イギリス政府が制定した「東インド会社特許法」により、イギリス東インド会社は領土をイギリス国王に委譲し、商業活動全般を停止する。同時にベンガル総督をインド総督に改称した。
1,833 アントワーヌ・ルクルトが、時計製造に於いて鋼鉄から歯車と一体の小さな歯車であるカナを切り出す機械を発明し、ル・サンティエ(現在のスイスのヴォー州)にて家族で使用していた小さな小屋を時計工房へと作り変え「ジャガー・ルクルト」を設立する。
1,833 イギリスが銀行条例により、額面5ポンド以上のイングランド銀行券を法定通貨として認める。
1,833 ウォーレン・デラノ・ジュニアがラッセル商会に入社する。直様広東十三行怡和行の主で清最大の行商人であったハウクアと知己を得て、協働で水上倉庫を建設する。密輸したアヘンを荷下ろし・格納し、合法的な積荷と入れ替え、珠江デルタを遡上し、広東に輸送する事を意図していた。ウォーレン・デラノ・ジュニアはラッセル商会の幹部社員として広東にアヘンを密輸し、巨万の富を築いた。
1,833 4 21 徳川斉昭一行が水戸へ向けて江戸を出発する。松戸で昼食を摂り、小金に宿泊した。
1,833 4 22 徳川斉昭一行が取手で昼食を摂り、牛久に宿泊した。
1,833 4 23 徳川斉昭一行が中村(現在の茨城県土浦市)で昼食を摂り、府中(現在の茨城県石岡市)に宿泊した。
1,833 4 24 徳川斉昭一行が長岡(現在の茨城県東茨城郡茨城町)で昼食を摂り、水戸に到着する。斉昭にとって初めての就藩(水戸藩主が水戸城に戻る事)となる。
1,833 7 27 オランダ船が長崎に来航する。オランダ船長が語った内容を第160代オランダ商館長ヤン・ヴィレム・フレデリック・ファン・シッタースが聞き、大通詞・小通詞によって風説書として、以下の内容が和訳され、老中宛に発送された。
①当年来日のオランダ船1隻西暦1,833年6月23日バタヴィアを出港、海上異常無く本日長崎に到着した。此の一隻以外の仲間船は無い。昨年当地より出港した2隻のオランダ船は西暦1,832年12月7日にバタヴィアに到着した。
②エジプト・トルコ戦争が勃発し、オスマン帝国が敗れた。
③昨年も報告したが、フランス王国内のブラバント(現在のベルギーのフラームス・ブラバント州、ブラバン・ワロン州、ブリュッセル)はオランダ王国の支配下にあったが、条約に背いた為断絶した。フランス王国・イギリスは承認したが、初代オランダ王国国王ウィレム1世は同意しない。其れ以降、フランス王国・イギリスの軍艦が出動し、バタヴィアとオランダ本国を往復する商船を拿捕し、オランダが承認する迄船を質に取るとの方針を受け、本年3月頃から、バタヴィアからオランダ本国への航海を停止している。
④ポルトガルでは、初代ブラジル帝国皇帝ペドロ1世が、第9代ブラガンサ王朝ポルトガル国王に即位した事に端を発した内戦が発生した。
⑤オランダ領東インド周辺では、特に変わった事は無い。
⑥台湾辺りで清へ向かう船を1隻見掛けたが、日本への交易船には見えなかった。
1,833 8 23 ウィリアム・ウィルバーフォース等の奴隷廃止運動により「奴隷制度廃止法」が成立し、イギリスの植民地に於ける奴隷制度が違法となった。此の際46,000名のイギリス人奴隷主に総額20,000,000ポンドの賠償金が支払われた。其の財源はイギリス政府による以下からの借金(利子付き)により賄われ、イギリス国民が税金として負担した。完済したのは西暦2,015年の事であった。
①イングランド銀行:5,000,000ポンド
②ネイサン・メイヤー・ロスチャイルド:15,000,000ポンド
③モーゼス・モンテフィオーレ:15,000,000ポンド
1,833 9 ウィリアム・ラッセルが、教師となり、プリンストン(アメリカのニュージャージー州)で教鞭を執り始める。
1,834 オーガスト・ベルモントが、ドイツ・ロスチャイルド商会のパートナーの1人の秘書兼旅行随行員となる。此れが切っ掛けでベルモントはドイツ国外へ初めて出る事となり、以下を旅した。
①パリ
②ナポリ
③バチカン
1,834 1 宝順丸が14ヶ月の漂流の末、アメリカのワシントン州ケープ・アラバ付近に漂着する。生存者は以下の3名であった。他の乗組員は壊血病により死亡した。3名はインディアンのマカ族に捕らえられ、奴隷同然に使役された。
①山本音吉
②久吉
③岩吉
1,834 5 31 徳川斉昭一行が江戸へ向けて水戸を出発する。長岡で昼食を摂り、府中に宿泊した。
1,834 6 1 徳川斉昭一行が中村で昼食を摂り、牛久に宿泊した。
1,834 6 2 徳川斉昭一行が取手で昼食を摂り、小金に宿泊した。
1,834 6 3 徳川斉昭一行が千住で昼食を摂り、江戸の水戸藩邸に到着した。
1,834 7 24 夜、ウィリアム・ジョン・ネイピア卿が、西暦1,816年のウィリアム・アマーストに続き3人目の対清全権使節として、軍艦を率い、貿易収支の改善を意図し広州に上陸し、商館を設置して直接交渉英国旗を掲げる。第19代イギリス外相ヘンリー・ジョン・テンプル(第3代パーマストン子爵)、ジャーディン・マセソン商会の強い要求が背景にあった。ネイピア卿は両広総督盧坤との直接交渉を申し込んだが、盧坤は、広東十三公行を通してでなければ貿易を受け付けないとし、退去を命じた。ネイピア卿はこれに応じなかった為、盧坤は商館を武力で閉鎖し、食糧の供給を絶った。ネイピアは報復として虎門寨の砲台を砲撃させた。しかし、ネイピア卿がマラリアにかかった為、これ以上は交戦せず、退却した。
1,834 8 年に1、2度獣皮類の取引の為にインディアンを訪れるハドソン湾会社の商船「ラーマ号」の船長ウイリアム・マックネルによってアメリカのワシントン州で以下の3名が発見される。マックネルは3名を買い取り救出、コロンビア川を遡行しハドソン湾会社の毛皮工場へと向かった。
①山本音吉
②久吉
③岩吉
1,834 8 1 宣教師ロバート・モリソンが死去する。モリソン号の由来となる。日本へのプロテスタント伝道を目指していた。この志はカール・ギュツラフへと引き継がれた。
1,834 8 4 オランダ船が長崎に来航する。オランダ船長が語った内容を、ヤン・ヴィレム・フレデリック・ファン・シッタースと、次期オランダ商館長ヨハネス・エルデウィン・ニーマンが聞き、長崎奉行所によって風説書として、以下の内容が和訳され、老中宛に発送された。
①当年渡来のオランダ船1隻は、西暦1,834年7月1日バタヴィアを出港したが、台湾付近より風向きが悪く、既に7〜8日前より日本の陸地を見て居たが、海上を漂い、事故無く本日到着した。此の1隻以外仲間船は無し。昨年当地より出港した船は海上事故なく西暦1,834年1月2日にバタヴィアに到着した。
②昨年、フランス王国内のブラバントをオランダの支配下に置いたが、国法に背いた為に断絶した事は申し上げた。初代ベルギー国王レオポルド1世が、此の独立したブラバントの王となるので、条約を作成した。レオポルド1世は、ブラバントの王に即位し、初代オルレアン朝フランス国王ルイ・フィリップ1世の長女ルイーズ・マリー・ドルレアンと再婚した。
③初代ボルボン朝(第1次復古)国王フェルナンド7世崩御後、フェルナンド7世の遺言により、イサベル2世を第2代ボルボン朝(第1次復古)国王とし、フェルナンド7世の王妃マリア・クリスティーナ・デ・ボルボンをイサベル2世の後見とした。しかし、フェルナンド7世の弟カルロス・マリア・イシドロ・デ・ボルボーンが王位を継ぐべきという勢力が有り、争いが起こり、国中が混乱している。
④ペドロ1世が、自身の娘マリア2世にブラガンサ王朝ポルトガル国王の座を譲位し、マリア2世は、ペドロ1世の後見を請うて、リスボンにて第10代ブラガンサ王朝ポルトガル国王に即位した。しかし、ペドロ1世の弟ミゲル1世が、ブラガンサ王朝ポルトガル国王の座を主張し、ポルトガル国内が混乱している。
⑤イギリスでは、ブリストル(イギリスのサウス・ウェスト・イングランド)を始め、所々で騒動が起こっており、此れは制度を改革しようと、支配者に逆らっているので、今専ら対策を評議中である。
⑥第11代ロマノフ朝ロシアツァーリのニコライ1世が、ポーランドを併合するが、ポーランドの有力者達が反旗を翻したので、軍を出動させ、ロシア帝国の支配下に置く。多くのポーランド人がシベリアに流刑となった。
⑦初代ムハンマド・アリー朝ワーリーのムハンマド・アリーが、マフムト2世との和睦の交渉に際して、無理押しをしたがオスマン帝国はアリーをエジプトの支配者として据え置いた。
⑧ジャワ近辺のインド諸国で昨年激しい地震が有り、津波も発生し、多くの人命が失われた。
⑨昨年報告したバタヴィアよりオランダ本国への往来の航海中止は解除となり、元通りとなった。
⑩此度台湾付近で清船を見掛けた。
⑪昨年バタヴィアに帰還したヨハネス・エルデウィン・ニーマンが、此度新オランダ商館長に就任する。
1,834 10 イギリス政府が、イギリス東インド会社による清との貿易独占権が廃止される。
1,834 11 フォート・バンクーバー(現在のアメリカのワシントン州)にいるハドソン湾会社の太平洋岸総責任者のジョン・マクローリンのもとを訪れていた以下の宝順丸の漂流民3名が、ダービー船長率いるブリッグ型帆船「イーグル号」にてロンドンへ向けて出港する。
①山本音吉
②久吉
③岩吉
1,834 12 イーグル号がオアフ島(現在のハワイ州ホノルル郡)に寄港する。
1,835 初代インド総督ウィリアム・キャヴェンディッシュ・ベンティンクが茶業委員会を設立し、発見者のブルース兄弟の弟チャールズ・アレクサンダー・ブルースを茶生産の責任者に任命する。これにより、アッサムでの紅茶産地開拓が始まる。
1,835 フェルディナント・アドルフ・ランゲがドレスデン工科大学を優秀な成績で卒業しヨハン・フリードリヒ・グートケスの下でアシスタントとして働く事となる。
1,835 清のアヘン密輸入量は60kg/箱で30,000箱以上となり、対1,799年比約30倍となった。
1,835 1 30 第7代アメリカ大統領アンドリュー・ジャクソンの暗殺未遂事件が発生する。
1,835 3 2 フェルディナント1世(オーストリア皇帝)が第2代オーストリア皇帝に即位する。その後ソロモン・メイヤー・フォン・ロスチャイルドは鉄道建設を請願し、鉄道免許を取り付ける。
1,835 5 ウィリアム・ラッセルが、プリンストンでの教師の職を終える。その後イェール大学でチューターの職に就いた。
1,835 5 13 以下の漂流民3名を乗せたイーグル号がロンドンに到着する。
①山本音吉
②久吉
③岩吉
1,835 5 28 以下の漂流民3名を乗せたイーグル号がロンドンを出発する。
①山本音吉
②久吉
③岩吉
1,835 10 カール・マルクスが、哲学と文学を学ぶ為に、ライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボンに留学する。しかし、ハインリヒ・マルクスはより実践的な学問として法律を主張した。カールは在学中、警察がマークしていた政治過激派から成る団体「詩人クラブ」に加入していた。更に「トリーア・タバーン・クラブ飲酒協会」にも参加し、其処で多くのアイデアが議論され、一時はクラブの共同会長を務めた。
1,835 10 22 シャルル・ルイ・アヴァスが、「アヴァス通信社」を設立する。
1,835 12 航海の途中でハドソン湾会社本社によって船長ダウンズによって「ジェネラル・パーマー号」に乗り換えた以下の漂流民3名が内伶停島(現在の中国深圳市南山区)に到着する。ダウンズは3名を駐清イギリス商務庁長官ジョージ・ベスト・ロビンソンに引き渡し、日本に送還する様求めた。その後ロビンソンは3名をマカオに送り、白鴿巢公園近くの商務庁の中国語通訳官であったカール・ギュツラフの自宅に預けた。マカオにて次官キャプテン・エリオットが取り調べを行い、アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルンの書いた日本地図を見せると名古屋と江戸の沿岸を辿って見せたので日本人であると確信した。
①山本音吉
②久吉
③岩吉
1,835 12 20 天草を出港し長崎へ向かう途中であった以下の乗組員の船が悪天候に遭い漂流を始める。
船頭
①原田庄蔵
水夫
②寿三郎
③熊太郎
④力松
1,835 12 25 キャプテン・エリオットがジョージ・ベスト・ロビンソンに対し「以下の漂流民3名は帰国を熱望しているが、外国船での送還は危険であり、慎重且つ友好的に行うべきである。イギリス船を使うのが良く、来年4月下旬に軍艦1隻をマカオに送って欲しい」という主旨の書簡を送り、臨時インド総督サー・チャールズ・メトカーフにも送る様要請した。
①山本音吉
②久吉
③岩吉
1,836 清のアヘンの国内年間生産量が300tであった。以降四川省等を中心にケシ栽培が拡がり、生産量が急増する事となる。
1,836 アッサムで生産されたアッサム茶の最初の試供品がロンドンに送られる。
1,836 サミュエル・ラッセルがラッセル商会から手を引く。
1,836 結核の症状を示していたカール・マルクスが兵役を免除される。
1,836 1 10 天草を出港し長崎へ向かう途中であった以下の乗組員の船が米・水を切らす。神・仏に祈り、苦しい日々を過ごした。
船頭
①原田庄蔵
水夫
②寿三郎
③熊太郎
④力松
1,836 1 14 ジョージ・ベスト・ロビンソンがカール・ギュツラフに対し「以下の漂流民に対し、帰国に際しての危険性を疑っているか、また、イギリス船での送還を望むのであれば本年4月迄待てるかどうかを聞き出し、自身の意見も添えて返信して欲しい」という主旨の書簡を送る。
①山本音吉
②久吉
③岩吉
1,836 1 15 カール・ギュツラフがジョージ・ベスト・ロビンソンに対し前日の書簡に対する返信を行う。「漂流民はすぐにでも帰国したいという願望があり、中国船よりもイギリス船で帰国したいと考えている。我々の意見としては、送還に際し、イギリス船を用いるのがベストな選択であり、艦長はインド総督若しくはその他政府高官の書簡を携帯すべきである」という主旨であった。
1,836 1 24 天草を出港し長崎へ向かう途中であった以下の乗組員の船がルソン島(現在のフィリピン)の北岸に漂着する。
船頭
①原田庄蔵
水夫
②寿三郎
③熊太郎
④力松
1,836 2 22 ルソン島の以下の漂流民4名がマニラへ向けて移動を開始する。
船頭
①原田庄蔵
水夫
②寿三郎
③熊太郎
④力松
1,836 6 10 清のアヘンの輸入量が増加し、銀の大量流出から国民の手にする銅貨での銀レートが上昇し、アヘン代金によって国民の生活が苦しくなっている事を背景とした第8代清皇帝道光帝のアヘン貿易に関する諮問に対し、太常寺小卿許乃済が以下の「アヘン弛禁論」の建議書を道光帝に上奏する。
①アヘン貿易の物々交換による合法化
②民間人によるアヘン吸引の合法化
③清国内に於けるケシ栽培・アヘン製造の合法化
1,836 6 20 宣教師サミュエル・ウィリアムズが久吉と英語で交わした会話の内容等を記す。
1,836 7 28 ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドが死去し、長男のライオネル・ド・ロスチャイルドが第2代イギリス・ロスチャイルド家当主となる。
1,836 8 カール・マルクスが、ライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボンのボルシア軍団のメンバーとの決闘に参加する。マルクスは、第1学期の成績は良かったが、直ぐに悪化し、ハインリヒ・マルクスによって、より厳粛で学術的なベルリン大学へ転校させられた。
1,836 9 ウィリアム・ラッセルが、ニューヘブン(アメリカのコネチカット州)の小さな住宅に男性向けの私立予備学校を開設する。この学校は後に「ニューヘブン大学商業研究所」として知られる様になった。当初は少数の生徒しかいなかったが、後に有名になり、4,000名程度の卒業生を輩出した。
1,836 11 清の江南省(現在の中国江蘇省・安徽省・上海市)の役人である袁玉麟が「アヘン弛禁論は国民に害を齎す。官吏・学者・軍人のアヘン使用は禁止し、一般人のアヘン使用は禁止しないという政策は不可能であるばかりでなく、政府による統制を損なうので好ましくない。アヘンの関税収入は、100,000〜200,000テール/年の銀貨に過ぎず、国の為になるどころか、僅かな利益のために大義を害し、その損失以上に不利益を被ることになった。 解禁になれば、ますます使用者・アヘンの輸入・銀の流出が増えるだろう。本土でのケシ栽培を認めると、無知な人々が利益の為に農業を放棄し、肥沃な地域をアヘン畑にする事に繋がる」という主旨の請願書を道光帝に上奏する。
1,836 11 カール・ギュツラフが前年12月から以下の漂流民に協力して貰い翻訳していた新約聖書の一部である「約翰福音之伝」及び「約翰上中下書」を完成させる。
①山本音吉
②久吉
③岩吉
1,837 ブルース兄弟による最初のアッサム茶生産品46箱がコルカタ(現在のインドの西ベンガル州)のティーコミッティーに出荷される。
1,837 ジョージ・ピーボディが、アメリカの投資銀行兼商社のブラウン・ブラザーズを通じてロンドンのビジネスに参入し、ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドの代理人となる。
1,837 以下が、第一次カルリスタ戦争で不安定化したスペイン帝国の資産に懸念を抱く様になり、オーガスト・ベルモントをニューヨーク経由でキューバに派遣する。
①イギリス・ロスチャイルド商会
②フランス・ロスチャイルド商会
ベルモントは、7,000,000ドルの負債を抱えて倒産したロスチャイルド家のアメリカ代理店「J.L.&S.I.ジョセフ商会」を含む、何百ものアメリカ企業が倒産に直面した恐慌を目の当たりにした。そこで、キューバ行きを独自の判断で延期し、倒産したJ.L.&S.I.ジョセフ商会に取って代わってロスチャイルド家の権益を監督する事を意図し、ウォール街78番地に「オーガスト・ベルモント&カンパニー」を設立した。ロスチャイルド家はベルモントの行動を追認し、ベルモントをアメリカに於ける代理人とした。
1,837 フェルディナント・アドルフ・ランゲがパリ・スイス・イギリスへ時計職人修行の旅に出る。ランゲは此れ迄時計修行と並行してフランス語を学んでおり堪能であった。パリでは、ブレゲの弟子である時計師ヴィネルの下で4年間を過ごし、職長となった。ヴィネルは「もっと長く滞在して一緒に仕事をしないか」と持ち掛けたが、ランゲには別の人生プランが有った為断った。
1,837 ティエリー・エルメスが、パリのバス・デュ・ルンパール通りに馬具工房を開業する。
1,837 ジャマイカ議会議員ジョージ・ウィリアム・ハミルトンが、西暦1,833年8月23日にイギリス議会で成立した奴隷制廃止法による「奴隷補償法」により、奴隷商人として、7つの異なる補償請求の合計で、ジャマイカで所有していた671名の奴隷に対し、11,704ポンドの補償金を受け取る。
1,837 2 林則徐が湖広総督に昇進する。
1,837 3 以下の漂流民がルソン島からマカオに到着する。
①原田庄蔵
②寿三郎
③熊太郎
④力松
1,837 5 カール・ギュツラフが前年完成させた約翰福音之伝・約翰上中下書をシンガポールのアメリカ外国伝道協会の印刷所である「堅夏書院」から木板刷りで出版される。しかし誤りが多く、尾張の方言が混じっていた。
1,837 7 3 以下の乗組員等38名がアメリカの商社オリファント商会の商船「モリソン号」に乗船する。元々カール・ギュツラフはモリソン号の姉妹船「ヒマレー号」で漂流民を送還する事をイギリス商務庁に訴えたが、外国船で日本に送還するのは危険であるので一旦琉球へ送った方が良いという理由から却下され、代わりにイギリス商務庁長官チャールズ・ポーレット・トムソンはイギリス軍艦「ローレィ号」でギュツラフと漂流民7名が琉球に行き、那覇でオリファント商会広東支配人チャールズ・キングの日本行きの船に乗り換える案を提案した。しかしキングは日本人がイギリス軍艦に乗ってきた事実を知られると疑惑を抱かれるという理由からこの案に反対し、ギュツラフだけがローレィ号、漂流民7名はモリソン号に乗るという代替案を出し、採用された。
①船長インガソル
②キング夫妻
③医療宣教師ピーター・パーカー
④サミュエル・ウィリアムズ
⑤山本音吉
⑥久吉
⑦岩吉
⑧原田庄蔵
⑨寿三郎
⑩熊太郎
⑪力松
1,837 7 4 前日にモリソン号に乗船した乗組員38名がマカオを出港する。この日はアメリカの独立記念日だったが、大砲を外した為祝砲は打たず、静かに神に感謝の祈りを奉げた。
1,837 7 12 11時にモリソン号が琉球王国の那覇に到着する。
1,837 7 13 モリソン号の乗組員が以下の支給を受ける。
①飲み水
②塩
③卵
④瓜
1,837 7 14 モリソン号の乗組員が以下の支給を受ける。
①飲み水
②山羊
③豚
④サツマイモ
チャールズ・キングは金貨で決済しようとしたが、琉球では流通していない為断られ、代わりにポケット字典とハンカチをプレゼントした。
1,837 7 15 カール・ギュツラフがローレィ号からモリソン号に乗り換え、江戸へ向けて出発する。
1,837 7 28 モリソン号が伊豆大島(現在の東京都大島町)を通過する。また、6時に三崎詰支配組与力香山助七郎が、城ヶ島遠見番所の同心から異国船を1隻発見したとの報告を受け、浦賀奉行所に注進し、浦賀奉行太田運八郎は直ちに江戸に報告する。
1,837 7 30 太田運八郎が与力中嶋清司等を異国船見届けの為に出港させ、観音崎御備場には平井藤右衛門に出陣させる。自身は平根山御備場へ向かった。西暦1,825年4月6日に江戸幕府が発した「異国船打払令」に則り砲撃を行う為である。11時に観音崎及び平根山から洲崎砲台(現在の千葉県館山市洲崎)に向けて合砲を打ち、洲崎砲台がそれに応えた為準備が整う。モリソン号は先ず平根山砲台からの砲撃を受け、さらに追って観音崎砲台からも砲撃を受けた為、14時に三浦郡野比村(現在の神奈川県横須賀市野比)に停泊した。キング夫妻が現地の漁師等200名を後甲板後方に招きワイン・ビスケット・パンを振る舞った。さらに、さらし木綿やアメリカの貨幣を与えた。キング達は役人を待ったが来なかった。また、太田は以下の老中4名に対し、打払の実行を報告する。打払を行なった後船は野比村に停泊、浦賀奉行組を偵察に送った所、西暦1,822年に来航した船に似ており、イギリス船と予測、乗組人数は不明とした。
①松平乗寛
②水野忠邦
③太田資始
④松平信順
1,837 7 31 6時にモリソン号が夜中に海岸に移動した4門の大砲から砲撃を受ける。白旗を揚げたが砲撃は止む事無く続いた。インガソルはこれ以上江戸湾の奥を進むのは危険であり、日本側との交渉の余地も無いと判断し、退却した。退却する際に現地の日本人に自分達の国籍や来航目的を役人に伝えて欲しいと伝えたが、うまくいかなかった。夕方に石廊畸を通過し、吉田(現在の愛知県豊橋市)沖に差し掛かった頃会議を開き、交渉の可能性のある薩摩へ進路を変更した。また、太田運八郎が以下の老中4名に「夜は風雨が強かった為、野比村に停泊していたモリソン号を番船に監視させ、明るくなった所を砲撃、伊豆大島沖へ走り去った。監視船を出す様を指示を出した」と打払の実行を報告する。
①松平乗寛
②水野忠邦
③太田資始
④松平信順
1,837 8 10 モリソン号が山川港に入港する。チャールズ・キングは来航の目的を話し、漂流民7名の送還と通商を求める書簡を役人に手渡し、役人は直様これを第10代鹿児島藩主島津斉興に取り次ぐと約束し、斉興に提出した。また、鹿児島藩家老島津久風が山川に派遣され、モリソン号との交渉に当たった。鹿児島藩側は幕府からの異国船打払令を伝え、漂流民はオランダを介して送還するように言って、薪水と食糧を与えて船に帰した。
1,837 8 12 島津久風の指示で鹿児島藩がモリソン号を砲撃する。しかし全て空砲であった。
1,837 8 13 以下の漂流民3名が丸坊主にし、祖国を捨てる覚悟を示す。チャールズ・キングは針路をマカオに向けさせた。
①山本音吉
②久吉
③岩吉
1,837 8 18 この日から5日間モリソン号が台湾海峡を進行している際、清の漁船と遭遇する。カール・ギュツラフはこの漁師に中国語訳の聖書を上げ喜ばせた。
1,837 8 29 夕方にモリソン号がマカオに帰着する。
1,838 パリにロスチャイルド&カンパニーが設立される。
1,838 ジョージ・ピーボディが銀行会社「ピーボディ,リグス&カンパニー」を設立する。
1,838 清のアヘン密輸入量は60kg/箱で40,000箱以上となり、対西暦1,835年比約1.33倍となった。以下の通り大幅なスペイン銀貨の国外流出が常態化していた。
①歳入
茶葉の輸出:20,000,000スペインドル
②歳出
アヘンの密輸入:20,000,000スペインドル
綿花の輸入:10,000,000スペインドル
1,838 ウィリアム・ラッセルが、ニューヘブン大学商業研究所を経営する傍ら、エール大学医学部を卒業し、医学博士号を取得する。
1,838 イマヌエル・ノーベルが、家族をストックホルムに残し、単身サンクトペテルブルクに移る。建築資材を積んだ艀船の損失による様々な事業の失敗の結果、ノーベルは破産していた。サンクトペテルブルクでは、工作機械と爆薬の製造会社を設立し事業に成功した。ノーベル家は貧しかったが、此の成功により裕福になった。ノーベルは、現代の合板の製造を可能にするベニヤ旋盤を発明し、海軍の地雷の開発に取り組んだ。
1,838 5 8 ブルース兄弟による最初のアッサム茶の選別品がロンドンに向けて出港する。
1,838 6 2 鴻臚寺卿黄爵滋がアヘン吸煙者の死刑を道光帝に上奏する。
1,838 6 28 林則徐が黄爵滋のアヘン吸煙者の死刑に対する賛成上奏を行う。
1,838 7 水野忠邦がオランダ商館長によって齎されたオランダ風説書を第95代長崎奉行久世広正経由で受け取り、モリソン号が日本人漂流民を送り届けに来た事、通商を求めて来た事を知った。水野は昌平坂学問所大学頭林述斎等の幕閣に意見を求め、評議を行った。また、異国船に日本人漂流民がいた場合の対策について、評定所に答申を出すように命じた。評定所は「漂流民受け取りの必要無し。モリソン号再来の場合は再び打ち払うべし」と答申した。しかし水野は強硬策には危惧の念を抱き、評定所に対しては再度の上書を促し、勘定奉行所等の諸機関へも独自の上書を提出するように命じた。結果、水野は穏健策を採用し、漂流民を引き取る政策を実行した。
1,838 10 道光帝がアヘン禁止令の強化を意図し、穆彰阿郭佳にアヘン禁止令の綱領を纏める様命じる。
1,838 11 21 辰ノ口評定所(現在の東京都千代田区丸の内)記録方芳賀市三郎が「尚歯会」の集まりの席上で、モリソン号の来航についての評議書の写しを以下の南蛮学同好会の「蛮社」の人々に見せる。
①渡辺崋山
②高野長英
③小関三英
④鈴木春山
1,838 12 7 高野長英が著書「戊戌夢物語」を公表する。具体的なデータでイギリスの国力を示し、清に於けるイギリスの立場、イギリスの勢力が日本近海の島々に及んでいる事を明らかにした。また、例えどの様な口実であっても漂流民を送り届けるという人道的な意図を明らかにしている以上、打ち払いを行えば日本は不仁の国と見なされる。妄りに打ち払いなどすべきではないとし、異国船打払令を否定、幕政批判を行った。
1,839 黄爵滋が、アヘンの中国流入とその吸飲に対する厳禁策を上奏し、アヘン禁止政策を決定させる。
1,839 清の湖広総督林則徐が、アヘン厳禁策を道光帝に進言して認められ,欽差大臣として広州へ赴任する。
1,839 ウィリアム・ホイットフィールドが、ブリッジウォーター(アメリカのマサチューセッツ州)のアルベルティーナ・キースと婚約する。
1,839 1 10 ブルース兄弟による最初のアッサム茶の選別品がロンドンオークションで熱狂的歓迎に包まれ、全て高値で競り落とされる。
1,839 3 18 林則徐が外国人商人所有のアヘン引き渡しを要求する。
1,839 5 1 チェコ人時計職人フランティシェック・チャペックとポーランド人実業家アントニ・パテックが共同で事業を開始する事で同意し、ジュネーヴに「パテック, チャペック社」を設立する。
1,839 6 6 ウィーン-ブジェツラフ間を結ぶ「フェルディナンド皇帝北部鉄道」が開通する。
1,839 6 23 林則徐が没収したアヘンの焼却を開始する。
1,839 6 24 渡辺崋山が、北町奉行所からの差紙により出頭し、伝馬町牢屋敷の揚屋に投獄される。
1,839 6 28 夜、渡辺崋山が投獄された事を知った高野長英が北町奉行所に自首する。高野は詰め小屋に入れられ、一夜を明かした。
1,839 6 29 高野長英が伝馬町牢屋敷に投獄される。高野は武士や公認の医者では無かった為、百姓牢に入れられた。
1,839 8 3 オランダ船が長崎に来航する。オランダ船長が語った内容を第162代オランダ商館長エドゥアルド・グランディソンが聞き、岩瀬弥十郎・楢林栄三郎・岩瀬弥七郎によって風説書として、以下の内容が和訳され、老中宛に発送された。
①当年来日のオランダ船1隻、西暦1,839年6月30日バタヴィアを出港し、海上別条無く、本日長崎に到着した。此の1隻以外連れ船は無い。昨年長崎から出港した船は、西暦1,838年12月8日に、海上での遅滞無くバタヴィアに到着した。
②ドイツ連邦の一員であるオーストリア帝国は、ロンバルディア(現在のイタリア)とヴェネツィア(現在のイタリアのヴェネト州)を領有した。
③ドイツ連邦の中に在るイギリス領ハンブルクは、第5代ハノーヴァー朝イギリス国王ウィリアム4世崩御後、ウィリアム4世の参男フレデリック・フィッツクラレンスの支配下にある。
④昨年報告したスペインの内戦は未だに終了していないが、其れ以外のヨーロッパ各国は平和である。
⑤メキシコ人等がフランス王国の国旗を奪い取った事で、夫を取り返そうと戦争となった。フランス王国軍は、メキシコの港口を多くの軍艦で取り囲み、ベラクルス(メキシコ)という城を大砲で攻撃し、終いに奪取した。
⑥昨年報告のアメリカ州内のイギリス支配下にあるカナダで反乱が起き、未だに沈静化していない。
⑦広東では、イギリス人が行うアヘン密売を禁止する為に、朝廷より林則徐を派遣して、隠匿するアヘンを全て提出する様厳命があった。此れにより、アヘンを貯蔵する者は非常に苦境に追い込まれた。更に順天府でも、アヘンを使う者が居ると聞けば、何れも刑に処する旨の命令があった。其の中で此の命令に反した者は厳罰に処せられる事になる。
⑧昨年報告したが、ウィレム1世の孫が軍艦でバタヴィアに到着した。其の後各地を回り、昨年の暮れにオランダ本国に帰還した。
⑨ルイ・フィリップ1世の妃マリー・アメリー・ド・ブルボンが男子を出産し、其の子がフランス王国の跡取りとなる。
⑩今回台湾付近で清船を2隻見掛けたが、日本との通商船とは思われない。
1,839 8 19 フランスのルイ・ジャック・マンデ・ダゲールにより、銀板写真法が発表される。これは、銀メッキを施した金属板などを感光材料として使う世界初の実用的写真技法である。
1,840 イギリスで法律を学んでいたアームストロングが、機械に興味を持ち、水力発電機を発明する。
1,840 エイブラハム・クーンが以下2名の兄と共に、生まれ故郷のヘッセン大公国のハルックスハイム(現在のドイツのラインラント・プファルツ州)からニューヨークへ移住する。
①ソロモン
②マックス
1,840 ウィリアム・ラッセルが来るべき南北戦争に備え、アメリカ軍として従軍させる為に、ニューヘブン大学商業研究所に厳格な軍事訓練・規律を導入する。結果、南北戦争の勃発時には訓練教官として入隊した者も現れた。
1,840 1 22 第29代南町奉行筒井政憲が、渡辺崋山を田原藩への蟄居とする判決を下す。また同日、高野長英は永牢の判決を下された。
1,840 2 24 徳川斉昭一行が水戸へ向かう為、利根川を渡り取手に宿泊する。
1,840 7 29 オランダ船が長崎に来航する。オランダ船長及び事務長が語った内容をエドゥアルド・グランディソンが聞き、長崎奉行所によって風説書として、以下の内容が和訳され、老中宛に発送された。
①当年来日のオランダ船1隻、西暦1,840年7月7日にバタヴィアを出港し、海上事故無く本日到着致した。此の1隻以外の仲間船は無い。昨年長崎を発った船は西暦1,839年12月15日、海上事故無くバタヴィアに到着した。
②ロシア帝国皇太子アレクサンドル2世がオランダを通過する際、ウィレム1世と面会した。
③ヴィクトリアが第6代イギリス・ハノーヴァー朝国王に推戴された。
④オランダ皇太子ウィレム2世は、ウィンデンブルグ国の女王ソフィアと婚約した。
⑤マフムト2世が崩御。マフムト2世の息子アブデュルメジト1世が第31代オスマン帝国皇帝に即位した。
⑥第14代オルデンブルク朝デンマーク国王フレデリク6世が崩御。第12代オルデンブルク朝デンマーク国王フレデリク5世の孫クリスチャン8世が、第15代オルデンブルク朝デンマーク国王に即位した。
⑦ヴィクトリアが、ザクセン・コーブルク・ゴータ公国の王子アルバートを婿に取る。
⑧第13代オランダ領東インド総督ドミニク・ジャック・デ・エーレンスが病死したので、カレル・シラルドゥス ウィレム・ファン・ホーゲンドルプがオランダ領東インド総督代理に就任した。
⑨清では、イギリス人に対し無理非道有りとの事で、イギリスは軍を清に派遣し、イギリスは勿論、ケープタウン(現在の南アフリカの西ケープ州)及びイギリス領インドで兵を整え、清への報復を準備している。
⑩上記以外インド付近で変わった事は無い。
⑪台湾付近で清船を7隻見掛けたが、通商の船では無いと思われる。又、ヨーロッパの船2隻を見掛けたが、イギリスの船ではないかと思われる。
1,840 10 3 林則徐が欽差大臣を罷免され、琦善が後任となる。
1,841 マカオにいた原田庄蔵と寿三郎が九州の家族へ向けた書簡をオランダ人に託して送って貰う。主に以下の内容であった。
①西暦1,835年12月20日に天草から長崎へ船で向かっている途中で悪天候で漂流開始。
②西暦1,836年1月10日に米・水を切らし苦しい日々を過ごす。
③西暦1,836年1月24日にルソン島に漂着。
④マカオに送られ、尾張の漂流民3名と出会い、帰国の為日本に向けて出航したが、江戸・薩摩で砲撃を受け、岩吉が危うく命を落とす所であった。
⑤現在はマカオに住んでいる。
1,841 フェルディナント・アドルフ・ランゲが時計職人修行の旅を終え、ドレスデン(現在のドイツのザクゼン州)に戻る。
1,841 イマヌエル・ノーベルの参男アルフレッド・ノーベルが、本年から翌年にかけて18ヶ月間、ストックホルムの聖ヤコブ学校に通う。ノーベルが学校教育を受けたのは、此の時が唯一であった。
1,841 1 27 早朝、以下5名が足摺岬(現在の高知県土佐清水市)での鯵・鯖を対象とした漁の為、宇佐浦(現在の高知県土佐市宇佐町宇佐)を出港する。
①筆之丞(船頭)
②筆之丞の弟重助(漁撈係)
③五右衛門(櫓係)
④寅右衛門(櫓係)
⑤ジョン万次郎(炊係)
1,841 1 30 以下5名の乗った漁船が、強風により難破する。
①筆之丞
②重助
③五右衛門
④寅右衛門
⑤ジョン万次郎
1,841 2 4 以下5名の乗った漁船が鳥島(現在の東京都伊豆諸島)に漂着する。
①筆之丞
②重助
③五右衛門
④寅右衛門
⑤ジョン万次郎
その日の内に洞窟を発見し、寒さを凌ぎ、以降その洞窟を住居とした。鳥島は火山島の為、岩から水が染み出してくる場所があり、そこで水分を摂り、海藻を食べた。また、鳥島はアホウドリの繁殖地あり、アホウドリを捕まえて天日干しで食したりもした。
1,841 6 27 鳥島に居た以下5名が、海亀を食糧として捕獲する為に鳥島に立ち寄った、船長ウィリアム・ホイットフィールド率いるアメリカの捕鯨船「ジョン・ハウランド号」の乗組員に発見され、鳥島から救助される。海亀のスープがアメリカ人にとって珍味であった。
①筆之丞
②重助
③五右衛門
④寅右衛門
⑤ジョン万次郎
ジョン・ハウランド号は、ホイットフィールドと親友ウォーレン・デラノ・ジュニアが共同で船主を務め、西暦1,620年11月21日にプリマス(現在のイギリスのデヴォン州)からプロビンスタウン(アメリカのマサチューセッツ州)に上陸したメイフラワー号の乗組員の一人であったジョン・ハウランドの子孫に当たるハウランド家がオーナーを務めた船であった。飢えていた5名は以下の食糧を与えられた。
①麦の粉と油
②塩を入れて蒸した餅
1,841 7 3 鳥島にて救助された以下5名の体力が回復してくる。それにつれて、ウィリアム・ホイットフィールドを始めとする船員達の働きぶりを目の当たりにした。
①筆之丞
②重助
③五右衛門
④寅右衛門
⑤ジョン万次郎
また5名はこの頃から、以下の食糧を与えられる様になった。
①白飯
②野菜の煮付け
③肉
5名の中で唯一万次郎だけが、貪欲に英語を覚えようとした。これを見たポールという船員が、万次郎に英語を教え始めた。ポールは船内を案内して器具等の名前を教えて、万次郎は貰ったノートに名前を記していった。
1,841 10 ジョン・ハウランド号が、鯨漁の季節が終わった為、ホノルルへと向かう。
1,841 11 20 ジョン・ハウランド号がハワイ王国のホノルル(現在のアメリカのハワイ州)の港に寄港する。この航海で15頭の鯨を捕獲した。ウィリアム・ホイットフィールドは役所へ行き、以下5名を連れて事情を説明した。
①筆之丞
②重助
③五右衛門
④寅右衛門
⑤ジョン万次郎
ホイットフィールドは、当面の生活が出来る様、各々に対し以下を与えた。
①洋服1着
②50セント銀貨
また、他の船員達もお金を出し合い、外套を与えた。ホイットフィールドは、万次郎の聡明さを見抜き、筆之丞に対し、万次郎を北米大陸に連れて行き、教育を受けさせたい旨を伝えた。筆之丞は、万次郎に判断を委ねさせた。ホイットフィールドは、自身の故郷であるフェアヘイヴン(アメリカのマサチューセッツ州)へと誘った。万次郎は、ホイットフィールドから世界地図を見せられ、日本が如何に小さいかを自覚し、好奇心から同行させて欲しいと願い出た。
1,841 11 23 田原藩の池ノ原屋敷で蟄居中の渡辺崋山の一家の貧窮ぶりを憂慮した渡辺崋山の高弟福田半香等の計らいで渡辺の絵を売る義会を始めていた。以下の作品等を描くが「罪人身を慎まず」と悪評が起こり、これを田原藩は問題視した。渡辺は第11代田原藩主三宅康直に罪が降りかかるのを恐れ「餓死るとも二君に仕ふべからず」という遺書を残し切腹する。
①于公高門図
②千山万水図
③月下鳴機図
④虫魚帖
⑤黄粱一炊図
1,842 フェルディナント・アドルフ・ランゲがヨハン・フリードリヒ・グートケスの時計事業を引き継ぐ。ランゲは嘗て銀採掘で栄えたが衰退してしまったグラスヒュッテ(現在のドイツのザクゼン州)に繁栄を齎したいと考え、ザクセン州の高等法院に、時計製造業を中心とした町の活性化を訴え、事業計画を提出する主旨の書簡を送り採用された。其の書簡にてランゲは「高等法院が10〜15名の若者による福祉と施設の設立の為の資金提供が為され、其の指導を私に任せてくれるなら、近い将来、此の不幸な人々の間に生活と繁栄が広まると確信している」と主張した。
1,842 以下の家族が、イマヌエル・ノーベルの居るサンクトペテルブルクに引っ越す。
①イマヌエルの妻アンドリエッテ・ノーベル
②イマヌエル・ノーベルの長男ロバート・ノーベル
③イマヌエル・ノーベルの弐男ルートヴィヒ・ノーベル
④アルフレッド・ノーベル
1,842 カール・マルクスが、ケルン(現在のドイツのノルトライン・ヴェストファーレン州)へ移住する。其処で急進的な新聞「ラインラント・ニュース」に、社会主義に対する初期の見解と、経済学への関心の高まりを寄稿した。又、ヨーロッパの右翼政府・自由主義運動・社会主義運動のに携わる人間達を無能と批判した。ラインラント・ニュースはプロイセン王国政府にマークされ、毎号印刷前に扇動的な内容が無いかチェックした。マルクスは「我々の新聞は警察に記事を提出しなければならず、非キリスト教的若しくは非国民的な記事は掲載を許可されません」と嘆いた。ロシア帝国の君主制を批判する記事を掲載した際は、第11代ロシア帝国ロマノフ朝皇帝ニコライ1世が記事の差し止めを要請し、プロイセン王国政府が翌年応じた。
1,842 7 26 オランダ船が2隻長崎に来航する。オランダ船長が語った内容を、エドゥアルド・グランディソンと、次期オランダ商館長ピーター・アルバート・ビックが聞き、長崎奉行所によって風説書として、以下の内容が和訳され、老中宛に発送された。
①当年来日のオランダ船2隻、西暦1,842年6月26日にバタヴィアを一緒に出港し、海上事故無く本日長崎到着した。此の2隻以外の仲間船は無い。一昨年長崎を発った船は西暦1,840年12月4日、事故無くバタヴィアに到着した。
②昨年日本に向け、西暦1,841年7月8日バタヴィアを出港したが、台湾で台風に遭い、帆や艀2隻が吹き飛ばされ、船具も全て失い、船も動揺して浸水も151.515cmに及び、12tの砂糖が水浸しとなり、更に舵の方からも、90.909cm程度浸水し、状況は悪くなった。転覆を恐れて澳門に乗り入れ、荷物を取り去り、舵の修理を決めた。従って、修理代を支払う為に荷物の大半を売り払った。此れにより、日本へは既に時期遅れで航海出来ず、西暦1,841年11月7日に澳門からバタヴィアに向けて出港した。ところが又台風に遭い、帆柱も折れ難渋したが、西暦1,841年12月18日に何とかバタヴィアに帰港した。
③ウィレム1世は国王の位を、自身の長男ウィレム2世に譲った。
④第5代プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が崩御。フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の長男フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が第6代プロイセン国王に即位する。 ⑤ヴィクトリアが乗る馬車が2発銃撃され、危ない所だった。
⑥ヴィクトリアがエドワード7世を出産した。
⑦初代ボルボン朝(第1次復古)国王フェルナンド7世が、国政を自身の弐女イサベル2世に譲った。スペインは未だに混乱が続いている。
⑧フランス王国の所々で暴動が有ったが、直ぐに鎮まった。
⑨清とイギリスの戦争は今も穏やかにならない。一昨年以来の事は追って別段に報告する。
⑩アフガニスタン首長国では、国民がイギリスの支配に対し反乱を起こし、イギリス人を多数殺害した。其の為戦争が起こり、今の所収まっていない。
⑪東インドのオランダ領は何れも静謐である。
⑫台湾辺りで清に向かう船3隻、ヨーロッパ船2隻見掛ける。イギリス船と思われる。
⑬二番船で、ビックが第163代オランダ商館長として赴任した。
1,842 8 28 江戸幕府が異国船打払令を撤廃し、西暦1,806年に続き再度「薪水給与令」を発する。遭難した外国船に限り、食料・薪水・燃料等が欠乏して帰国出来ない場合はそれらを給与する様定めた。
1,842 8 29 イギリスと清の間で南京条約が結ばれ、アヘン戦争が終結する。条約の主な内容は以下であった。
①香港の割譲
②広州・厦門・福州・寧波・上海の五港を開港し、各地に領事を置く
③戦費賠償金12,000,000ドル、没収アヘンの賠償6,000,000ドル等計21,000,000ドルの支払い
④公行制度の廃止
⑤相互の合意による関税率の協定
1,842 12 7 広州の民衆による英国商館焼き打ち事件が起こる。
1,843 以下3名の兄弟が、家庭教師の指導を受け始める。西暦1,850年迄続いた。
①ロバート・ノーベル
②ルートヴィヒ・ノーベル
③アルフレッド・ノーベル
アルフレッドに関しては、特に化学と語学に於いて優秀な成績を収め、以下の言語を流暢に話せる様になった。
①英語
②フランス語
③ドイツ語
④ロシア語
⑤イタリア語
1,843 5 7 ジョン・ハウランド号が、以下を経由して、ニューベッドフォード(アメリカのマサチューセッツ州ブリストル郡)に帰港する。
①タヒチ
②フィジー
③グアム
この日、ジョン万次郎は、フェアヘイブンのチェリーストリートのウィリアム・ホイットフィールドの自宅で一晩を過ごした。
1,843 5 8 ウィリアム・ホイットフィールドが、結婚の為、シピオ(アメリカのニューヨーク州カユガ郡)に居る叔父ジョージの下へ向かう。ホイットフィールドは、その間ジョン万次郎を、フェアヘイブンのオックスフォードストリートにある、ホイットフィールドの友人エベン・アキンの自宅に下宿出来る様手配した。また、アキンの提案により、万次郎は、隣にある「オールド・ストーン・スクール」の教師を務めていた、以下の姉妹の家に通い、英語の読み書きを教わった。
①ジェーン・アレン
②チャリィティー・アレン
ジェーンは、本年の秋から、正式な学校教師になる予定であり、その準備として万次郎を指導した。また万次郎は、アレン家の半地下室兼台所で、姉妹手作りのお菓子をご馳走になったりしていた。
1,843 5 31 以下2名が結婚する。
①ウィリアム・ホイットフィールド
②アルベルティーナ・キース
以降ジョン万次郎は、ホイットフィールドの自宅や、スコンティカット・ネック(アメリカのマサチューセッツ州フェアヘイブン)にあるホイットフィールドの所有する農場で生活した。その後万次郎は、初級学校のオールド・ストーン・スクールに入学した。万次郎以外は全員ネイティブで、英語の読み書きに苦労したが、優秀な成績で卒業した。さらに、高等学院である「バーレット・アカデミー」に入学し、以下を学んだ。
①航海術
②測量
③造船学
1,843 8 4 オランダ船が1隻長崎に来航する。オランダ船長が語った内容を、ピーター・アルバート・ビックが聞き、通詞によって風説書として、以下の内容が和訳され、老中宛に発送された。
①当年来日のオランダ船1隻、西暦1,843年7月2日バタヴィアを出港し、海上事故無く西暦1,843年8月4日到着した。此の1隻以外の仲間船は無い。
②昨年長崎を発った船は西暦1,842年12月13日、海上事故無くバタヴィアに到着した。
③初代フランス王国オルレアン朝国王で王太子フェルディナン・フィリップは、馬車から落ち、其れが元で死去した。
④西暦1,842年9月1日、清とイギリスの和睦が整った。
⑤ウィレム2世の長女ソフィー・ファン・オラニエ・ナッサウは、第5代ザクセン・ヴァイマル・アイゼナハ大公国大公カール・フリードリヒ弐男で公太子のカール・アレクサンダーとの婚姻が成立した。
⑥台湾辺りに漂着したイギリス船2隻を清国民が破壊し乗組員を殺害した件で、イギリスは軍艦を派遣して調査し、清政府の報告をした。道光帝より厳命が有り、台湾の清総督を逮捕し、取調べの上処罰した。
⑦今回途中で清船は見掛けなかった。他に変わった情報は無い。
1,843 8 30 江戸幕府が、海外で救助された日本人漂流者は清船・オランダ船以外は受け取ってはならないと定め、オランダ商館のカピタンにも通達し、外国にも伝えさせた。
1,843 10 以下2名がパリのヴァノー通りに移住する。
①カール・マルクス
②カール・マルクスの妻イェニー・フォン・ヴェストファーレン
移住の切っ掛けとして、カールが寄稿していたラインラント・ニュースのプロイセン王国政府による弾圧があった。
1,843 12 ハインリヒ・ハイネと以下2名が知己を得る。
①カール・マルクス
②イェニー・フォン・ヴェストファーレン
マルクスはハイネを崇拝していた。ハイネは、マルクスにプロレタリア革命思想を植え付けた。
1,844 チャールズ・ホイートストンが、イギリスのスウォンジー湾に絶縁電線を沈め、ボートからマンブルズ灯台に信号を送る。
1,844 ウィリアム・ホイットフィールドが「ウィリアム・アンド・エリザ号」の船長として、ニューベッドフォードから出航する。
1,844 以下2名の間に娘ジェニーが生誕する。此れを切っ掛けに生活環境が悪かった家から、同じヴァノー通りの別の家に引っ越した。
①カール・マルクス
②イェニー・フォン・ヴェストファーレン
1,844 6 3 徳川斉昭に江戸幕府から江戸召還の命がもたらされる。
1,844 6 21 徳川斉昭が隠居謹慎処分、藤田東湖が罷免処分となる。
理由として、
①神道中心の宗教改革を採用して寺院を整理した
②寺請制度に代わって氏子改めを行った
③寺の鐘を潰して大砲を鋳造した
④度々蝦夷地開拓を出願した
⑤藩校弘道館を設置し神儒一致思想を鼓吹した
⑥江戸定府である水戸藩主が長期間水戸に滞在した
具体的には、200寺以上を整理し、大砲を作る為に約600個もの梵鐘を鋳潰した。神仏混淆であった水戸東照宮(主祭神は徳川家康)も神道一方にしようとした。これにより徳川慶篤が家督を相続し、第10代水戸藩主となる。分家の三連枝(第10代高松藩主松平頼胤、第5代守山藩主松平頼誠、第9代府中藩主松平頼縄)による後見が命じられた。
1,844 7 3 マカオ郊外の望厦村(現在の中国広東省中山市)で、清とアメリカの間で、イギリスに南京条約で認めた内容とほぼ同様の事を定めた修好通商条約が結ばれた。
1,844 7 ピーター・アルバート・ビックが、以下の主旨の報告を江戸幕府に行う。 西暦1,844年8月1日から同年8月15日にウィレム2世のフリゲート艦パレンバン号・コルベット艦ボレアス号・其の他ウィレム2世所有の船により、此度ウィレム2世から徳川家慶殿に差し上げる書簡を送る。此の書簡は貴国の政治に役立つ事を申し上げるものである。尚此の書簡は、オランダの交易に関わるものでは無いと存じる。
1,844 7 29 オランダ船が1隻長崎に来航する。オランダ船長・事務長が語った内容を、ピーター・アルバート・ビックが聞き、通詞によって風説書として、以下の内容が和訳され、老中宛に発送された。
①昨年長崎より出港した船は、日本の陸地近辺で大嵐に遭い、本船は大揺れで浸水が酷く、香港に立ち寄り修理を行った。其の様な訳で漸く西暦1,844年2月9日バタヴィアに到着した。
②当年来日のオランダ船1隻は西暦1,844年6月30日にバタヴィアを出港し、海上異常無く西暦1,844年7月29日に長崎に到着した。途中外国船や清船は見掛けなかった。
③ヴィクトリアが表敬で、ルイ・フィリップ1世並びにレオポルド1世を訪問した。
④ウィレム1世は西暦1,843年12月12日に崩御した。
⑤ニコライ1世が、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世を表敬訪問した。
⑥スペインの内乱は収束して、イサベル2世が第2代ボルボン朝(第1次復古)国王に即位した。
⑦フランス王国の使節が清へ、軍艦を率いて渡来した。
⑧清とイギリスのアヘン戦争後の状況は、詳細を別段で提出する。
1,844 8 13 高野長英が伝馬町牢屋敷で働いていた非人・栄蔵に放火させる。これにより高野は、焼死を防ぐため牢の扉を開放する「切り放ち」で外へ出た。3日後の西暦1,844年8月16日迄に出頭しなければならなかったが、その儘逃亡した。
1,844 8 28 カール・マルクスが、カフェ・ド・ラ・レジャンス(現在のフランスのパリ1区サン・トノレ通り)にてドイツの社会主義者フリードリヒ・エンゲルスと出会う。エンゲルスは本年出版されたばかりの「イギリスに於ける労働者階級の状況」をマルクスに見せ、労働者階級が歴史における最後の革命の主体であり道具となる事をマルクスに説いた。
1,844 8 31 「ピール銀行条例」が発効される。第31代イギリス首相ロバート・ピールに対し庶民院議員ベンジャミン・ディズレーリが働きかけた事で実現した。内容は以下の通り。
①西暦1,844年8月31日以降、イングランド銀行を一般銀行業務を行う「銀行部」と、銀行券の発行を行う「発行部」に分け、両部署を独立させる。
②銀行部はイギリス政府の債権を含む14,000,000ポンドの有価証券を発行部に交付し、発行部はそれを兌換準備として同額の銀行券を発行し銀行部に交付する。それ以上の銀行券を発行する場合は同額の金準備を行う。本位貨幣の準備中、銀の保有量は金の保有量の1/4を超えてはならない。
③西暦1,844年5月6日時点で銀行券を発行する各銀行は、同年4月27日以前の12週間の平均発行額を限度とし、銀行券の発行を継続出来、その兌換準備の内容は各銀行の自由とするが、何らかの理由により銀行券の発行を停止する際は、以降の銀行券の発行は認められない。
④③によって銀行券の発行を停止した銀行の発行額の1/3を限度としてイングランド銀行がこれを継承し、その額だけ②で規定するイングランド銀行の保証準備発行額を増加させる事が出来る。これによって生じた利益はイギリス政府のものとする。
⑤金標準3.179ポンド/オンスで金と引き換えに銀行券を交付する。
⑥ロンドンから半径65マイル以内で6名以上の組合員で営業する銀行に於いて、持参人要求払の為替手形の振り出し・引き受け・裏書を禁止する。各銀行は代わりにイングランド銀行券の発行・流通をサポートする。
兌換銀行券をイングランド銀行に独占的に発行させ、それ以外の株式銀行72行・個人銀行207行の新規銀行券の発行を禁じ、銀の流通を制限した。これによりイングランド銀行は、民間銀行からイギリスの中央銀行となった。
1,844 9 13 高野長英が、大間木(現在の埼玉県さいたま市緑区)に在る、自身の門人で蘭方医の高野隆仙の離座敷に匿われる。隆仙の弟で板橋(現在の東京都)で医者を営む水村玄銅が長英を導いた。水村は長英の脱獄前に、長英の釈放運動をしていた。
1,844 9 20 高野長英が、高野隆仙の離座敷を出発する。
1,844 9 21 夜、高野隆仙の下に迎え駕籠がやって来る。「これに乗って患者を診て欲しい」と言われ応じるが、連れて行かれたのは鴻巣(現在の埼玉県)の同心詰所であった。ここで高野は石抱による拷問を受けた。
1,844 10 24 黄埔近くに停泊するフランス軍艦アルシメード号の艦上で修好通商条約が締結される。ほぼ望厦条約に倣っている(黄埔条約)。
1,844 12 徳川斉昭の隠居謹慎処分が解除される。
1,844 12 30 高野隆仙が同心詰所から釈放される。隆仙は高野長英の行き先に関し、一切口を割らなかった。
1,845 チャールズ・ホイートストンが、イギリス海峡の海底ケーブルの絶縁コーティングにガッタパーチャの使用を提案する。
1,845 イギリスが上海の黄浦江西岸を永久租借し、領事館を設置する。
1,845 高野隆仙が、拷問で受けた傷を再発させる。
1,845 2 プロイセン王国の要請を受けたフランス政府によって追放されたカール・マルクスが、ブリュッセルへの移住を決意する。しかし、実現する為には現代政治をテーマにした物は一切出版しないと誓約しなければならなかった。マルクスはブリュッセルに移った後、以下のヨーロッパ各地から亡命した社会主義者達と交流し、共産主義を目指す革命組織活動を始めた。
①モーゼス・ヘス
②カール・ハインツェン
③ヨーゼフ・ヴァイデマイヤー
1,845 3 イギリスの土木技師フランシス・ウィショーの芸術協会にて、マイケル・ファラデーの提案で、ヴェルナー・フォン・ジーメンスが、絶縁コーティングにガッタパーチャを用いたケーブルのデモを行う。
1,845 3 フリードリヒ・エンゲルスが、バルメン(現在のドイツのノルトライン・ヴェストファーレン州ヴッパータール)からブリュッセルに移住する。その後カール・マルクスと、ブリュッセルを拠点にしようとしていた共産主義秘密結社「正義者同盟」と合流した。そしてエンゲルスの長年の仲間であったメアリー・バーンズもマンチェスターからやって来てエンゲルスに合流した。
1,845 4 フリードリヒ・エンゲルスが、バルメン(現在のドイツのノルトライン・ヴェストファーレン州ヴッパータール)からブリュッセルに移住する。その後カール・マルクスと、ブリュッセルを拠点にしようとしていた共産主義秘密結社「正義者同盟」と合流した。
1,845 7 24 オランダ船が1隻長崎に来航する。オランダ船長が語った内容を、ピーター・アルバート・ビックが聞き、通詞によって風説書として、以下の内容が和訳され、老中宛に発送された。
①当年来日のオランダ船1隻、西暦1,845年6月30日バタヴィアを出港し、海上別条無く、西暦1,845年7月24日到着致した。途中海上で外国船や清船は見掛けなかった。西暦1,844年11月9日に長崎を発った交易船は、西暦1,844年12月6日に海上遅れ無くバタヴィアに到着した。西暦1,844年11月27日に長崎より帰還したオランダ船パレンバン号は、西暦1,844年12月27日に滞り無くバタヴィアに到着し、西暦1,845年3月8日にオランダ本国へ向けて出港した。
②第14代オランダ領東インド総督ピーター・メルクスは、西暦1,844年8月2日に死去した。ウィレム2世は後任として、オランダ財務大臣を務めたヤン・ヤコブ・ロシュッセンを第15代オランダ領東インド総督に据えた。
③ニコライ1世の参女アレクサンドラ・ニコラエヴナは、第3代ヘッセン・カッセル方伯家家長フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ヘッセン・カッセルの内室だが、西暦1,844年8月10日死去した。
④ルイ・フィリップ1世は、ヴィクトリアを訪問した。
⑤ニコライ1世は、ヴィクトリアとウィレム2世を訪問した。
1,845 9 20 イギリス、ベルギー、オランダ、ドイツ、北欧を結ぶ事を意図した「北部鉄道」が、ジェームス・ド・ロスチャイルド、ジャン・アンリ・オタンゲル、エドワード・ブラント等により設立される。
1,845 11 29 上海政府とイギリス領事が「上海土地規程」を締結し治外法権を持つ外国人居住地域「上海イギリス租界」が設立される。
1,845 12 デイヴィッド・サスーンが弐男イライアス・サスーンを上海に派遣し、江西路と九江路の交差した所(現在の中国上海市黄浦区)にサスーン商会上海支店を設立する。
1,845 12 7 フェルディナント・アドルフ・ランゲがザクセン州の高等法院から資金提供を受け、以下の人間を中心とした15名の見習い工と共にドレスデンからグラスヒュッテへ移住し「A.ランゲ&カンパニー」を設立する。
①ユリウス・アスマン
②アドルフ・シュナイダー
③モーリッツ・グロスマン
1,846 ウィリアム・ラッセルが、本年から翌年にかけて、コネチカット州議会にてニューヘイブンの代表として、ホイッグ党の議員を務める。
1,846 ウォーレン・デラノ・ジュニアがアメリカに帰国する。その後家族を作り、株式投資により安泰な生活を送った。度々、フェアヘイブンで暮らしていたジョン万次郎を訪れていた。
1,846 ジョン万次郎が、バーレット・アカデミーを優秀な成績で卒業する。
1,846 重助が病死する。オアフ島のカネオヘ(現在のアメリカのハワイ州)に埋葬された。
1,846 3 15 予てから徳川斉昭が、オランダから届いた国書とそれに対する幕府の返書を内緒で見せて欲しいと老中首座阿部正弘に申し入れていたが、この日それが実現し、阿部は徳川から意見を受ける。
1,846 3 26 再度徳川斉昭が、オランダから届いた国書と、それに対する幕府の返書を阿部正弘から見せてもらい、阿部は徳川から意見を受ける。
1,846 5 3年前にジョン・ハウランド号にジョン万次郎と共に乗船していたアイラ・デービスが、万次郎の下を訪ね、万次郎に捕鯨船フランクリン号の乗組員に誘う。万次郎は、日本近海に向かう事を知り、母に会う為に帰国を決意した。
1,846 5 16 フランクリン号が、アイラ・デービスを船長として、ニューベッドフォードを出港する。ジョン万次郎は、荷物の中に遭難以来、大切に持ち続けていた母の作った一枚の着物を詰め込み、給仕係として乗船した。
1,846 7 第164代オランダ商館長ヨセフ・ヘンリー・レフィスゾーンが聞き、通詞目付・大通詞・小通詞によって別段風説書として、以下の内容が和訳され、老中宛に発送される。
①ウィレム2世は、偉大且つ武勇に優れ、大変しっかりした性格であり、当然ながらオランダは安定しており、益々繁栄している。
②ウィレム2世は、国務大臣に東インド領の総督を命じ、政治を任せている。
③バリ島の国王が東インド総督府に対して反抗的で、争乱の兆しが有るので、オランダ軍の軍艦数隻を征伐の為派遣した。ロンボク島(現在のインドネシア西ヌサ・トゥンガラ州)の国王等は、此れに理解を示し、協力を申し出たが、オランダ軍だけで十分であり、礼を尽くして断った。
④アルジェリアでは、国王アブド・アルカーディルの軍勢が20,000名増加している。フランスとイギリスは協力してメリナ王国(現在のマダガスカル)のタマターフェに軍を派遣した。此れは、タマターフェの女王が、現地のフランスとイギリスの商人を理由無く追放した事に拠る。タマターフェの女王に対する交渉は、近くのイギリス領マンテイラエス島・ボウルホン島より行った。
⑤フランスの公使ラケンネと清が黄埔条約を結び、外国向けに開港した5港をフランスも使用する事となった。又非常時には、其れ以外の港に入っても良い事になった。
⑥フランスはタヒチ及びエイモーの島に自国の旗を立てて、領有を目論み、現地の島民と戦争を始めた。従って、マルキーズ諸島に居住するのは不安定である。
⑦アヘン戦争による清の5港開港条約前後のイギリスの交易銀高は以下の通り。但し、売上高には、アヘンが含まれておらず、此れを加えると倍の売上高になる。
❶西暦1,831年以前:売上高9,236,223ドル、買入高13,176,537ドル
❷西暦1,844年開港以降:売上高20,356,580ドル、買入高20,765,514ドル
⑧広東では数度混乱が起きている。原因は、イギリス人が市中を徘徊する事を清国民が嫌い、もしイギリス人が市中を徘徊するなら、イギリス商館を焼き払う姿勢を見せている。此れを受けて清の役所は、西暦1,846年3月9日に御触書を出して鎮めた。又イギリスが、アヘン戦争の賠償金を清が支払う迄という名目で舟山(現在の中国浙江省)を占拠しており、イギリス軍の舟山からの撤退時期も絡み、不満が高まっている。
⑨西暦1,845年10月頃、イギリスの蒸気船プシゲトン号の艦長ロスは、第12代イギリス領インド総督ヘンリー・ハーディングの使いとして、第3代阮朝皇帝紹治帝への書簡と贈り物を運んだ。此れは過去にイギリス船2隻が阮朝海岸で難破した際、人道的取扱を受けた事に対するお礼であった。ロスは、阮朝で厚遇を受け、紹治帝からヴィクトリアへ宛てた書簡を受け取って帰った。
⑩イギリスと東インド・清との定期航路便として、蒸気船2隻が投入された。1隻はイギリスからアレクサンドリア(現在のエジプト)に2回/月通い、もう1隻は、エジプトとの航路を通う。同様の方法で、香港→マニラ→バタヴィアの便は、オランダ蒸気船で航路を確保する。又、ジャワ島とオランダ領東インド所属の島々との定期便航路が有る。イギリス当局は、インドと清への蒸気船航路をニューリードアフレスへ延長したい考えである。
⑪イギリス領東インド総督府より、配下数百名を、ボルネオ島(現在のインドネシア・マレーシア・ブルネイ)の北岸に派遣した。ブルネイよりラブアン島(現在のマレーシア)を引き渡す取り決めが有った。但し此の北岸は、元々オランダ領では無かった。イギリスは序に、北岸の海賊を攻め、海賊は度々敗北した。第24代ブルネイ国王オマル・アリ・サイフディン2世は、イギリスにラブアン島を引き渡す取り決めに関わり、利を得た大臣達を皆殺しにした。
⑫フランス使節ラケンネと・フランス提督セシルが、バシラン島(現在のフィリピンのバシラン州)を譲る件で、ルイ・フィリップ1世は乗り気では無い。
⑬ニュージーランドでは、現地民とイギリス人との争いが絶えない。
⑭イギリスがハワイ島を領有する事にヴィクトリアは反対している。
⑮西暦1,845年12月13日、ヘンリー・ハーディングが、ラホールの役所の兵が理由無くイギリスの領地を占領した為、高札を立て、ラホールの役所へ軍を派遣する事を通告した。其の後、西暦1,845年12月18日・21日・22日に、イギリス兵とラホール兵が戦ったが、双方共予想以上に苦戦した。だが軈てイギリス軍が優位になり、大砲79門を奪取した。其の後西暦1,846年1月29日に再戦し、イギリス軍が大砲67門を奪取した。西暦1,846年3月12日には、最後の決戦が有り、10,000名のイギリス兵がラホールを包囲し、ラホール軍の大将は自領に退却した。
⑯フランス王国の新聞によれば、ステイルレソイドセーとインド洋を通行するのに、パナマを越境する蒸気車と鉄道の技術、或いは運河を掘削するかによって便利にする方法が有ると述べている。此の為の費用は10,000,000フランであるとの事である。
⑰アメリカと清の条約概略は末尾に示す。
⑱メキシコの属国であったテキサスがアメリカに編入した。カリフォルニアは此の通りにならなかった。しかしアメリカは、カリフォルニアを領有する意思が有る。
⑲コロンビア川の北方に当たるオレゴンは、イギリスとアメリカの争点であり、此れは将来争乱の火種になると人々は考えている。
⑳ロシア当局は、カスピ海の航海の為、蒸気船3隻を建造した。此れはコーカサス・ペルシャ・ミロデラーシーへの通行の利便性を向上させる為である。
㉑第3代ガージャール朝シャーのモハンマド・シャーが老衰を理由に、嗣子後見を依頼する為、カスピ海に所在する属国の1つをロシア帝国に譲った。其処は、石炭が大量に産出される場所であった。
㉒コーカサス地方の山岳民族は、ロシア帝国に服従する事を嫌っている。先般ロシア帝国が山林を焼き払った。
㉓北米へ移住するドイツ人は、年々500名ずつ増加し、特にテキサスへの移住者が多い。
㉔オーストリアでは、紅海と地中海の通行に運河を通す事をエジプトの支配者と打合せ、同意を得ている。
㉕琉球王国にフランスの者が居住し、キリスト教を広めようとしている件に就いては、フランス政府からの指示である、という事は明らかにしていない。
㉖提督ジェームズ・ビドルの指揮するアメリカのフリゲート艦コロンバス号が日本へ向かった事が広東の新聞に出ている。アメリカ国民の取り扱いに就いて改善を要望する為と云う。
㉗フランス王国の提督セシールが、フリゲート艦サピーネ号で日本へ向かうとの事である。此れは日本の海岸でフランス王国の鯨漁船が難破したとの噂が有り、其の乗組員を捜索する為である。
清・イギリス・フランス王国・アメリカと締結した条約文を此処に添付する。先ずは西暦1,844年10月24日に締結された黄埔条約である。
①両国の人民は代々平和を守り、親密たる事。
②フランス人及び其の家族は、広東・厦門・舟山・寧波・上海に居住する事が出来る。
③②で挙げた5港に於いて、フランス人の所有物を盗んではならない。
④②の5港にフランス軍艦を停泊させる事が出来る。
⑤輸出入の全ての荷物は、関税表に照らし、此の関税率に従い運上銀を定める。此の件に関し、税関の役人に贈り物等をしてはならない。又此の運上銀は、他国の納める金額よりも増額してはならない。現地の業者と同様に扱う事。
⑥輸入品は、運上銀を支払い次第フランス王国内に取り入れる。もし他所に送る際は別途運上銀を支払う必要が有る。其の際、清の税関の役人に贈り物をしてはならない。
⑦密輸入貨物は税関の役人が取り上げる事。
⑧全ての荷物は勝手に清と売買してはならない。
⑨売買荷物の償銀に関し、双方の奉行所は保障しない。担当役人の監督の下、お互い約束違反無く支払う事。
⑩港内の水先案内人に就いては取り決めて置く事。
⑪清の役人の指揮でフランス船が港に停泊している間は、護衛する事。護衛の者は、フランス船への乗船や小船での護衛を行って構わない。但し護衛費用は、船主が支払うのでは無く、其の港の運上所が負担する事。
⑫フランス船は入港後2日以内に船名・船の大きさ・積荷書を差し出す事。もし遅延した場合は罪となる。
⑬入港したフランス船が、荷上げ前2日以内に港から出航する場合は、使用料としての運上銀を支払う必要は無い。商売をした港で支払う事。
⑭港の使用料は、150t以上の船の場合、銀18.75g/t、其れ以下の場合、3.75g/tと定める。停泊日数に関わらず一度支払えば良い。又、乗組員や、郵便・食糧を運搬する船は支払う必要は無い。
⑮清の税関の役人は荷物検査と関税徴収を行う事。
⑯関税は荷上げの際に支払う事。支払い済みとなれば、荷物を再度積み入れて持ち帰る際は再度の支払いは不要である。
⑰買入荷物の関税は、荷積みの際に支払う事。此れは清の貨幣でも、他国の銀でも良い。
⑱②の5港の運上所に於いて、広東で定めた度量衡を適用する事。
⑲積荷を別の船に移す際の規則を作る事。
⑳フランス船主及び商人は、荷物の上げ下ろしの為に、清の小船や労働者を自由に雇い入れて良い。
㉑フランス人が②の5港に於いて、住居や土地を借りて、造作を行い、且つ寺院・病院・墓所等を建てた際、もし清の人間が乱妨狼藉を働いた場合、厳しく罰する事。
㉒②の5港に滞在するフランス人は、両国の役人の取り決めた場所以外に妄りに徘徊してはならない。
㉓フランス人は②の5港に於いて、通訳・手芸職人・水夫・清の諸地方の方言に熟達した者を雇ったり、フランスの書物の販売・清の書物の購入は自由である。
㉔フランス人と清の人間の間で争いが起きた際、フランスの役人が解決する事。但し、止むを得ない場合は、清の役人も解決に当たる事。
㉕清は、フランス人に対し妨害を行わぬ様、関係当局は注意を払う事。もし盗賊・フランス商館・病人養生所・居宅等に暴行や放火を行った場合、其の罪に応じて厳刑に処する事。
㉖㉕に於いて、罪を働いた清の者は、清の奉行所に捕らえられ、其の罪は赦されてはならない。
㉗フランス人同士の争いを含む、外国人同士の争いを、清の役人に処理させてはならない。
㉘清の奉行所より、フランス船に対する海賊行為が為されぬ様対策を行う事。もし発生した場合は、海賊を捕らえ、荷物は関係者に返還する事。
㉙フランス軍艦の乗組員は、②の5港の何れでも客分として扱われる事。商船に問題が有れば丁重に扱い、破損が有れば、修理を補助する事。
㉚フランス人で逃げた者が居たら、逮捕してフランスの役人に引き渡す事。又清の罪人がフランス人の居宅や船中に隠れていた場合は、清の役人の要求で引き渡す事。
㉛清と、フランス以外の外国との間で争乱が発生した場合、フランスは何方にも加担せず、中立を守る。
㉜清・フランス両国の取り交わしの文体を定め、文通を含めて、両国が平等な立場で接する事。
㉝フランス政府から北京政府へ文通する際、フランス領事より、広東の欽差大臣又は両広総督の役所へ提出する事。返書も然りである。
㉞上記取り決めは12年間変更してはならない。但し、他国がより良い条件で清と条約を締結した場合、フランスにも適用される事。
次に、西暦1,844年7月3日に望厦村(現在の中国マカオ花地瑪堂区)にて、特命全権公使ケイレブ・クッシングと両広総督と通商事務を兼任していた耆英によって締結された望厦条約に就いて記す。
①アメリカと清の両国の人民は、代々に渡り平和である事。
②売買する商品の関税に当たる運上銀は、取り決めた箇条書に定めた価格に沿って決める事。運上銀に関しては、どの国も定めた金額よりも増加してはならず、且つ進物の代金は除外する事。尚、清からアメリカを除く他国に便宜を図った場合、アメリカにも同様の対応を行う事。
③アメリカ人及び其の家族は、広東・厦門・舟山・寧波・上海の5港への入港・居住を自由に行う事が出来る。
④③の5港に於いて、領事と関係役人は、相互に公用・私用の文通を対等に行い、不都合有れば都度改める事。
⑤アメリカ人が自国或いは他国の商品を売り込み、且つ買い入れた商品を自国或いは他国へ持ち出す際、取り決めから漏れていない商品に関しては、運上銀を支払い次第、自由に取引を行って良い。
⑥港の使用料は、1,500t以上の船の場合、銀18.75g/t、其れ以下の場合、3.75g/tと定める。使用料は、一度支払えば、仮令別の港に入港して取引を行っても使用料を払う必要は無い。
⑦乗組員の移動・郵便・食糧運送に用いる船は、港の使用料を支払う必要は無い。
⑧荷物を運送する船の借り入れ・港の水先案内人の補助・商品を売り込む際の通訳・各職種の職人を雇うのは自由である。
⑨清は税関に役人を配備し、港に停泊している船に注意を払う事。其の際役人は、船中に居ても小船に居ても良い。但し乗組員から贈り物や食糧を受け取ってはならない。
⑩入港する船は、2日以内船名等を届け出なければならない。怠った場合は罪となる。定例の手続きが済んだら荷上げは自由に行って良い。もし荷上げ前2日以内に出港する場合は運上銀の支払いは不要であるが、其れを過ぎた場合は所定の運上銀を支払う事。
⑪荷物の荷上げや船への積み込みに関し、揉め事が起きた際は詮議する事。
⑫③の5港に於いて、清と自由に取引しても良いが、買い占めて売り捌くのは禁止とする。
⑬両国の商人が借金で揉めても、奉行所は補填しない。当事者同士で債務が履行される様計らう事。又、一度取り決めしたのであるから、違背の無い様気を付ける事。
⑭アメリカ人の居住・生活の為に、住居・寺院・病院・墓所や土地を貸す事。又、アメリカ人は③の5港及び近隣の往来は自由とする。但し、地方の村へ行く事は禁止とする。
⑮アメリカ人は、清の各地の学者を招いて其の地方の方言を学習したり、清の書籍を購入しても良い。
⑯清の奉行所は、現地民がアメリカ人に対し不埒な事をせぬ様、護衛の役人を手配する事。
⑰荷物を他の港へ移動させる際は、関税に当たる運上銀を支払う必要は無い。
⑱両国の奉行所は、罪人が在れば逮捕し、刑を執行する事。
⑲清とアメリカ以外の外国との間に戦争が発生した場合、アメリカは何れにも加担しない。
⑳③の5港に駐在する領事は、毎年貿易高を北京の役館に報告する事。
㉑アメリカとアメリカ以外の外国人の間で発生した揉め事には清は干渉しない。
㉒アメリカ人が清の役人へ文通する場合は、事前に領事に報告して指示を受ける事。又、清の役人からの書簡も同様に、清の外国掛の指示によって提出される。
㉓商船の乗組員はアメリカの役人の管轄であり、清の奉行所では、アメリカ人とアメリカ以外の外国人との争いの裁定には関与しない。但し、清に関係する海賊等は防御の事。もし海賊行為が有れば、犯人を逮捕し、盗難品を取り上げて持主に返還する様にする事。
㉔難破船に関し、乗組員や荷物に不都合が無い様に警固し、船の修理にも協力し、荷物の紛失が有れば変換する事。
㉕居住者や船中に於いて、どの様な問題が起きても、清側から包囲をしない事。
㉖アメリカ船乗組員が逃げ出した場合は逮捕し、領事又は他の役人に引き渡す事。清の罪人がアメリカ船若しくは居宅に隠れた場合、清の役人の要請によって引き渡す事。
㉗往復の文書の形式を定め、全て平等と心得、両国の奉行所は互いに贈り物をしない事。
㉘アメリカ政府から清政府への書簡は、清の外交を司る欽差大臣或いは両江総督・両広総督の指示により差し出す事。
㉙軍艦は、清の何れの港でも客分の扱いとし、食糧調達に気を配り、不自由の無い様にする事。
㉚通商が認められていない港で、停止された品物を売り払ったり、アヘン等の禁止された品物を持ち込んだ場合、清の奉行所では取り扱わない事。
㉛上記の取り決めた条文は12年間変えず、アメリカ人が清に来た時は、総督が取り仕切る事。
1,846 7 19 アメリカ海軍士官ジェームズ・ビドルが戦列艦「コロンバス」および戦闘スループ「ビンセンス」を率いて、マカオから浦賀に入港した。事前にオランダ風説書で予告されていた。
1,846 8 12 オランダ船が1隻長崎に来航する。オランダ船長・事務長が語った内容を、ヨセフ・ヘンリー・レフィスゾーンが聞き、以下の通詞目付によって風説書として和訳された。
①本木昌左衛門
②西与一郎
③楢林鉄之助
④森山源左衛門
⑤植村作七郎
⑥中川索左衛門
⑦西記志十
⑧志筑龍吉
⑨岩瀬弥七郎
⑩名村貞五郎
⑪横山源吾
⑫楢林寛一郎
以下の内容が老中宛に発送された。
①当年来日のオランダ船1隻、西暦1,846年7月14日バタヴィアを出港し、海上異常無く、西暦1,846年8月12日に長崎に到着した。此の1隻のみで仲間船は無い。
②西暦1,845年11月2日に長崎を出港したデンユルスホウト号は、海上事故無く、西暦1,845年11月29日にバタヴィアに到着した。清へ向かうヨーロッパ商船を数隻見掛けた。
③昨年帰国したオランダ船が預かった江戸幕府からウィレム2世に宛てた返書は、ブリックのスワーリユ号で西暦1,845年12月2日にオランダ本国へ送った。此の船の艦長はヘットホーフト中佐。又返書と一緒に頂いた贈り物は西暦1,846年1月10日にフリゲートのヤーソン号で送った。
④ピーター・メルクスの後任として、ウィレム2世の命で、ヤン・ヤコブ・ロシュッセンがオランダ領東インド総督として、西暦1,845年9月28日にバタヴィアに赴任した。即日、オランダ領東インド総督代理ジョアン・コーネリス・ラインストから引継ぎを行った。
⑤2年前、ジャワ島への船は1,706隻入港した。此の内1,375隻はオランダ船で、331隻は外国船である。同年ジャワ島から1,658隻が入港し、内1,238隻がオランダ船、320隻が外国船であった。
⑥西暦1,845年7月3日、オスマン帝国の港で大火が有り、17時間で5,000軒の家が焼失し、24,000,000ギュルデンの損害が出た。
⑦西暦1,845年7月頃に、ウィレム2世がイギリスを表敬訪問した所、ヴィクトリアの大変丁寧な饗応が有り、元帥として扱われた。
⑧西暦1,845年8月頃、ヴィクトリアがプロイセン王国を表敬訪問した。其の道中、ライン川付近で第4代プロイセン王国国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が待ち受けて面会した。帰路、ヴィクトリアは、ルイ・フィリップ1世を短時間表敬訪問した。
⑨北米のケベック(現在のカナダ)で出火し、2,000戸が焼失し、9,000,000ギュランの損失が出た。又、ニューヨークでも100戸の家が焼失した。
⑩西暦1,846年1月頃、ニコライ1世がイタリアを訪問した。
⑪西暦1,845年7月1日から西暦1,846年2月下旬にかけて、81隻の船で清からヨーロッパに以下の茶を運んだ。
➊黒茶:33,656,317ポンド
❷青茶:5,807,524ポンド
⑫西暦1,846年2月16日夕暮れ、イギリス領セントヘレナ島で地震が有った。最初は其れ程激しく無かったものの、夜になり次第に激しくなり、翌日になって13隻の船が破損し、陸地でも被害は少なく無かった。
⑬バリ島の近海で、オランダ領ヒリリング(現在のインドネシア)の船とオランダの船が出会った時、旗を揚げなかった事で問題が起こった。ヒリリングの酋長とはオランダ領東インド政庁との決め事も有ったのにも拘わらず此れに背いた。此れを受けて、此れ迄の約束を実行させる為、陸海軍の一隊をバリ島へ派遣した。西暦1,846年6月28日、ハレイン村の東方に陣を構え、海軍の援兵で大砲60挺を備えた。結果、ハレイン村を占拠した。翌日、軍勢はシンガレデイヤに赴き、ヒリリングの王の城を取り囲んで焼き払った。恐らくヒリリング王は僅かの近習と共に山中に逃れたものと思われる。ジャワ島全体は静謐である。
⑭此度バタヴィアから長崎への航海中、清船は見掛けなかった。
1,846 9 ウィリアム・ホイットフィールドが、ホノルルに上陸する。その後以下2名を日本に帰国させるべく船を手配した。
①筆之丞
②五右衛門
帰国の件は当初は寅右衛門には知らされなかったが、筆之丞によって伝えられた。
1,846 12 以下2名を乗せた船が、日本へ向けてホノルルを出港する。
①筆之丞
②五右衛門
寅右衛門は当初は帰国に傾いていたが、出港直前に翻意した。
1,847 洪秀全が拝上帝会を創設。
1,847 ヴェルナー・フォン・ジーメンスが、モールス符号を使わずに針で文字盤の文字を指す事で電文を伝える電磁式指針電信機と、地下ケーブルを発明する。
1,847 寅右衛門が、オアフ島の現地の女性と結婚する。寅右衛門は大工に就いていた。
1,847 ヨセフ・ヘンリー・レフィスゾーンが聞き、本木昌左衛門・西与一郎によって別段風説書として、以下の内容が和訳され、老中宛に発送される。
①ウィレム2世は益々尊敬され、親族に至る迄恙無く暮らしている。
②オランダ領インドの船が難破した時、酋長ボーダーが、乗組員を拘束し、積荷を奪取する事件が有った。元々ボーダーは、東インドの奉行所の支配下であるビーマー王に仕えていた。
③ヤン・ヤコブ・ロシュッセンが、ビーマーに軍艦を派遣し、ビーマー王・ボーダーを襲撃した。ビーマー王・ボーダーは、奪った荷物を返し、犯した罪を反省し、赦免を請うた。荷物が返された後、ロシュッセンは集会を開き、ビーマー王・酋長達も列席した。其の中でボーダーは赦免を公に願い出て、奉行所は赦免を認めた。
④マカッサル(現在のインドネシア南スラウェシ州)に、外国船の通商の為の港が設置され、荷物の積卸が自由になり、陸海共に運上する必要が無くなった。
⑤一昨年にインドからオランダ本国に160隻で以下の荷物が送られ、奉行所が勘定に当たった。
❶コーヒー豆:932,667樽
❷砂糖:223,860俵
❸青黛:12,623箱
❹ジャワ産茶8,419箱
他にも多数の荷物が有った。
⑥清とイギリスの間で、アヘン戦争の和睦が整った際、舟山を戦費賠償の質としてイギリスに渡した。其の後賠償が支払われたので、西暦1,846年4月4日、舟山返還条約が締結され、イギリスは舟山を返還した。
⑦イギリスは、清が約定を守るものと考えていた。しかし広東では、下輩の者が、外国人が勝手に入る事に反発し、混乱が絶えない。此の混乱を鎮める為、第2代香港総督ジョン・デイビスが、西暦1,847年4月2日、蒸気船3隻・其の他軍艦を含む海軍一隊を率いての川に赴いた。ホッカーテイクルヌの砦をいとも簡単に奪取し、其の夜、イギリス船はワンポーに停泊した。翌朝、蒸気船2隻で広東に赴き、砦を占領した。西暦1,847年4月6日、耆英がジョン・デイビスの下を訪れ、以下が取り決められた。
❶今後2年間、イギリス人の広東への出入りは自由である。
❷イギリス人が広東近隣の地に、職業又は発散の為、上海同様に居住する事を許可する事。もし居住を妨げる者が居れば厳罰を科す事。
❸西暦1,846年11月29日に船員に乱暴した者、西暦1,846年4月7日に福州で大佐セスネイ等に乱暴した者に就いては、見せしめの罪に処す事。但し、セスネイに乱暴した者に就いては、広東に引き連れ、ヴィクトリアの執政から其の為に派遣された者の立ち合いの下、刑を執行する事。
❹川より江南側に在る広地は、イギリス商人達に家屋倉庫建設の為に貸し渡す。但し、場所に関しては、執政が広東を去る前に決定する事。
❺外国商館が有する土地の近隣は、寺院の為貸し渡し、黄埔の中で相応しい土地を墓地として定める事。
❻両花地間に、橋等の構造物を造るのは構わない。但し、海辺に店を造ってはならない。
❼混雑を避ける為、川の入口に停泊する船は商館より離す事。
⑧イギリス人達は、奪取した砦の大砲800挺の火門に釘を打ち込み使用不能にした。
⑨西暦1,846年12月6日、香港からイギリスへ向けて、清船1隻が出港した。「ケイング号」と称し、船長はイギリス人のケルレッテだが、乗組員は主に清の人間であり、此の様な遠海危難の波涛を清船が航海する事は此れ迄無かった。
⑩新任の駐清アメリカ公使エヴェレットが、清との取り決めの為マカオに赴き、広東総督ケイイングと会談を行った。
⑪フォルトローネンが、駐清フランス公使に任ぜられた。
⑫東インドに駐留するイギリス海軍の多数が、2~3度フーロービナングに集結した。軍艦フェルーンに乗り込み、ボメオとトロクの間に赴いている。
⑬阮朝のファウロンネの港内で、フランス王国軍艦4隻と阮朝軍艦5隻の戦闘が有った。フランスの執政を陸に呼び寄せ、其の隙にフランス王国軍艦を奪おうと、順化(現在のベトナムのトゥアティエン・フエ省フエ市)から派遣された者が襲ったと見られる。僅かな時間で阮朝軍艦3隻が飛散し、残り2隻はフランス王国軍が奪って焼き捨てた。フランス王国側は死者1名・負傷者1名を出し、阮朝側は1,000名程度が討死した。
⑭ラーマ3世は、外国との商売を重要と考えている様である。ラーマ3世の命で、美しいフリゲート艦を建造し、暹羅からイギリスへの砂糖の輸送に使用している。他にも現在4隻を、雑用の為建造中である。
⑮オーストラリア国内のイギリスの領有する土地が次第に拡がっている。其の為、アデレート(現在のオーストラリアの南オーストラリア州)の港は取引で入港する隻数の割には狭いという説が有る。
⑯スタヲールフォレスの北方に在るニューカッスル(現在のオーストラリアのニューサウスウェールズ州)の港に保税倉庫を設置する事となった。
⑰西暦1,846年7月頃、イギリスが多数の艦船で、オマル・アリ・サイフディン2世がブルネイ近海で悪事を働く海賊に加担したという理由によりブルネイを攻撃した。
⑱イギリスが、清やシンガポールを往復する蒸気船の為の石炭を採取する石炭山を開拓する事を意図し、ラブアン島(現在のマレーシアのサバ州)を領有した。
⑲フランスはタヒチ島を取り鎮めようとしているに違い無く、援軍を求めている。
⑳イギリス人とニュージーランド国民との確執は収まらず、加勢する者が在り、勢力が増している。又、退役した兵に土地を渡し、家族を呼び寄せ居住させる計画が有るとの噂を聞く。
㉑ロンドンから東インドへ航海する際、シンガポール・ヤーフハ・ティモール・ホルトエス・セングトン・トレス海峡・ネウストレ・シティレイを経由する事が有る。又、セイロン(現在のスリランカ)・スワン川(現在のオーストラリアの西オーストラリア州)・アデレートを経由して速やかにオーストラリアに到着出来るとは最早言えない。ところが、掘切りを大船の水路とすれば非常に便利になる。此の事業は現在イギリス・フランス・オーストリアによって進められている。
㉒ムハンマド・アリー朝では、原野に水を注ぐ為に、ナイル川に堰を造る事に精を出している。
㉓シベリア、特にウラル川(現在のロシア・カザフスタン)流域では、現在大量の金を掘り出している。其の量は昨年12,893.363kgに及んだ。
㉔コロンビア川(現在のカナダのブリティッシュコロンビア州~現在のアメリカのオレゴン州)にて、イギリスとアメリカの間で、国境に関する両国の確執が有ったが、西暦1,846年6月15日のオレゴン条約により、オレゴンはアメリカに属する事となった。
1,847 3 ジョン万次郎が、以下を経由して琉球王国に上陸する。
①ボストン
②ファイアル島
③カーボベルデ群島
④ニューアムステルダム島(現在のフランスのアムステルダム島)
⑤クパン(現在のインドネシアの東ヌサ・トゥンガラ州)
⑥セラム島(現在のインドネシア)
⑦ニューアイルランド島
⑧グアム
⑨父島
しかし、鹿児島藩の役人に、外国船から降りて来た人間を上陸させられないと言われ断られる。これまでの事情を説明しようとするも、片言の日本語しか話せなくなっていた。
1,847 3 31 以下2名が八丈島への上陸を試みるが、波風が強く失敗する。
①筆之丞
②五右衛門
1,847 4 以下2名が蝦夷の東海岸に上陸したが、全く人がおらず、船長の指示で引き上げた。
①筆之丞
②五右衛門
1,847 4 14 西暦1,843年8月30日に江戸幕府が通達した「海外で救助された日本人漂流者は清船・オランダ船以外は受け取ってはならない」という内容がオランダ政府から第17代アメリカ国務長官ジェームズ・ブキャナンに口上書にて伝えられる。
1,847 5 7 世界三大医学雑誌であるJAMAの発行元であるAMA(アメリカ医師会)がニューヨーク・メディカル・ソサイアティによって、アメリカ各州の医師会の連合体としてイリノイ州シカゴにて設立される。AMAは自然医学に反対の立場をとっており、西洋医学を推し進めた。
1,847 8 6 オランダ船が1隻長崎に来航する。オランダ船長が語った内容を、ヨセフ・ヘンリー・レフィスゾーンが聞き、通詞目付・大通詞・小通詞によって風説書として、以下の内容が和訳され、老中宛に発送された。
①当年来日のオランダ船1隻、西暦1,847年7月7日にバタヴィアを出港し、海上異常無く、西暦1,847年8月6日に長崎に到着した。此の1隻以外に仲間船は無い。
②台湾で清船約12隻、日本の陸地近くで4隻見掛けた。
③西暦1,846年11月24日に長崎を出港したファンネイ号は、西暦1,846年12月14日にバタヴィアに到着した。バンカ島(現在のインドネシアのバンカ・ブリトゥン州)付近で清船1隻を見掛けたが、此の船は西暦1,846年12月20日にバタヴィアに到着した。
④昨年報告した様に、ヒリリング王とカランガスム(現在のインドネシアのバリ州)を支配しているヒリリング王の兄弟は、山中に隠れて其処から出られず、ヤン・ヤコブ・ロシュッセンの赦免を得る為に使者を送って来た。ヒリリング王が改めて奉行所の指示に従う様取り決め赦免した。ゼリング中に砦を築き、オランダ兵を一部残し、残りの兵と軍艦はジャワ島に引き揚げた。
⑤ウィレム2世は、④の内容の報告を受け、特別軍功の有った兵への表彰を行う。
⑥西暦1,846年7月頃~1,847年1月頃迄の間、清はイギリスに、茶を29,618,285ポンド輸出した。
⑦ジャワ島は静謐である。其の他変わった事は無い。
1,847 10 以下2名がホノルルへ帰港する。
①筆之丞
②五右衛門
1,847 10 フランクリン号が、マニラを経由してホノルルに寄港する。ジョン万次郎は、別れた漂流民に会う為に役所に行き、日本人1名が住んでいるという場所を教えて貰い、そこへ向かい、寅右衛門と再会した。さらに以下2名とも会い、本年3月に八丈島への上陸に失敗した旨を聞いた。
①筆之丞
②五右衛門
万次郎は「また機会がある、3人で日本に帰ろう」と言って励ました。
1,847 10 12 ヴェルナー・フォン・ジーメンスとJ・G・ハルスケが、ドイツのベルリンに「ジーメンス・ウント・ハルスケ電信製造所」を設立する。
1,847 11 フランクリン号が、ホノルルを出港する。この頃からアイラ・デービスが精神病になり、刀や鉄砲を振り回す様になった。デービスは乗組員によって監禁された。そこで、新しい船長を選ぶ為に投票を行い、一等航海士アイザック・エーキンとジョン万次郎が同票でトップとなった。結果、年長のエーキンが船長となった。
1,848 200家族(株主総会への出席を許可されている出資額上位200名)によってフランス銀行が独占支配される。
1,848 ルイ・ブランがラ・ショー・ド・フォン(現在のスイスのヌーシャテル州)に懐中時計組立の時計工房を開く。
1,848 ロスチャイルド家のフランクフルト本部で書記官をしていたラファエル・エルランガーが銀行会社「エルランガー&ゾーネ」を設立する。
1,848 前年迄カザン大学(現在のロシアの地方政府タタールスタン共和国)工業化学教授であったニコライ・ジーニンが、サンクトペテルブルク医科外科アカデミーの化学教授に就任する。そして、アルフレッド・ノーベルの指導を行った。
1,848 2 カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが「共産党宣言」を発表する。これまでのすべての社会の歴史は階級闘争の歴史であり、資本主義社会は自らが産み出した労働者階級プロレタリアートにより打倒されるとし、労働者の国際的団結を呼びかけた。
1,849 行商人として生計を立てていたエイブラハム・クーンが、ソロモン・ローブの妹レジーナ・ローブと結婚する。
1,849 オーガスト・ベルモントが、マシュー・ペリーの娘キャロライン・スライデル・ペリーの叔父で、ルイジアナ州民主党の主要メンバーであるジョン・スライデルと出会う。スライデルは翌年迄に、ベルモントに政界入りを勧め、ベルモントは政界入りを果たした。しかし、ベルモントのビジネス上の知り合いの殆どはホイッグ党員であった。
1,849 4 徳川斉昭の藩政復帰が認められる。
1,849 5 29 朝、イギリス東インド会社艦隊の帆船「マリナー号」が相模湾に到着する。山本音吉も通訳として乗船していたが「林阿多」と名乗り、清の人間に扮した。日本船と遭遇し、役人を名乗る二人を艦上に迎え、役人はその場にあった物を書き留め、これ以上湾内に進まない様警告するも、マリナー号は役人を艦上に乗せたまま浦賀水道にへ入り、浦賀近くで停泊した。武装した日本の船舶が警戒でやってきた為、マリナー号も武装準備を整え警戒態勢を取った。
1,849 5 30 6時、日本が用意した薪水を積載した50隻のボートがマリナー号の周りに寄せられている事をイギリス海軍中佐アルフレッド・ローレンス・ハローランが発見する。マリナー号の艦長が日本語で書かれた名刺を幕府高官に届けるよう役人に差し出すが、役人からは補給物資の支援が目的であり、外国人との交渉は法に背く行為である為出来ないと拒絶される。役人同行の下、苦情と警告を受けながらも、日没まで測量を行うマリナー号に戻ってから役人は、自分が切腹あるいは打首になるのは間違いないと悲嘆に暮れるが、ブランデーを飲んでいい気分になったと言う。
1,849 5 31 6時、役人数名がマリナー号を訪れ直ちに立ち去るように強く求めるも、風向きが思わしくなかった為昼前まで停泊する。11:30に出航するも、前日に測量できなかった江戸湾周辺の測量を行った為再び役人が懸念を伝える。
1,849 6 1 マリナー号が剱崎(現在の神奈川県三浦市南下浦町)と須崎(現在の静岡県下田市)を測量する。経度測定の為伊豆大島に上陸するも、測定出来なかった。島民と遭遇し紫陽花を発見する。その後伊豆大島を離れ音吉の指示に沿って、下田湾に上陸するも直ちに役人がやってきて、戻るよう強く求められるが、魚を撮る為に網を投げていると、役人がそれに関心を持って楽しんだ。
1,849 6 2 マリナー号が測量を行う。
1,849 6 3 測量作業に必要な約40地点に上陸しながら作業を進める。役人は最初は警戒していたが、民家に近づく気配がない事を悟ると黙認する様になった。
1,849 6 4 マリナー号が測量を行う。
1,849 6 5 マリナー号が測量を行う。
1,849 6 7 マリナー号が日本が用意した56隻のボートに曳航されて下田湾を出港する。
1,849 6 23 マリナー号が種子島に到着する。黒潮に逆流した為16日間の航海となった。
1,849 6 30 マリナー号が上海に帰還する。
1,849 8 フランクリン号が、以下を経由して、数千樽の鯨油を船倉一杯に積んで、ニューベッドフォードに帰港する。
①ギルバート諸島
②グアム
③セラム島(ジョン万次郎は、ここでウィリアム・ホイットフィールド一家へのお土産を買った)
④クパン
⑤セントヘレナ
万次郎は350ドルの配当金を受け取った。
1,849 10 日本への帰国を目指していたジョン万次郎が、日本近海を通る捕鯨船が見つからず、水夫として船に乗り込み、帰国費用を稼ぐ為に、海路でカリフォルニアの金鉱へ向かう。
1,849 11 7 オーガスト・ベルモントが、キャロライン・スライデル・ペリーと結婚する。その後、ニューヨーク5番街18番通りに豪邸を建設し、客人を持て成した。此の豪邸は西暦1,893年に売却される迄ベルモント家が使用した。
1,850 エイブラハム・クーンが、義兄であるソロモン・ローブとラファイエット(アメリカのインディアナ州)にて商品販売会社のゼネラル・パートナーシップを締結する。
1,850 以下3名が土地会社を率い、数千エーカーの土地を購入し、アメリカのペンシルベニア州にウォーレン・デラノ・ジュニアの名を冠した町(現在のアメリカのペンシルベニア州スクーカル郡デラノ)を設立する。
①ウォーレン・デラノ・ジュニア
②ウォーレン・デラノ・ジュニアの弟フランクリン・デラノ
③ペンシルベニア州下院議員を務めたエイサ・パッカー
1,850 アルフレッド・ノーベルがパリへ渡る。其処で、フランス貨幣委員会会長で、西暦1,846年に実験的な学校兼研究所を設立したテオフィル・ジュール・ペルーズの助手を務めていたアスカニオ・ソブレロと出会う。ソブレロは、西暦1,840年代に爆発性油と呼ばれる物質が入った試験管の爆発により、顔が傷だらけであった。ソブレロはノーベルに、従来の火薬よりも遥かに強力なニトログリセリンは、熱や圧力の変化で予測不可能に爆発する為、其の使用に強く反対した。しかしノーベルは、ニトログリセリンを商業的に使用可能な爆薬として制御し活用する方法に興味を持った。
1,850 1 第254代ローマ教皇ピウス9世がジェームス・ド・ロスチャイルドから資金提供を受ける。
1,850 4 高野長英が、青山百人町(現在の東京都港区南青山)の借家に移り住む。沢三伯と名乗り、町医者を営んだ。顔が見破られない様、硝酸で顔を焼き、人相を変えていた。
1,850 5 ジョン万次郎がカリフォルニアの金鉱に入る。ゴールドラッシュを利用して70日余りで600ドルを稼いだ。その後、ホノルルへ向けて出発した。ウィリアム・ホイットフィールドに挨拶しなければという思いもあったが、会うのに半年程度掛かり、帰国への早る思いを抑える事が出来なかった。
1,850 8 31 ジョン万次郎が、ホノルルに到着し、以下3名と再会する。
①筆之丞
②五右衛門
③寅右衛門
万次郎は、日本への帰国計画を話し、筆之丞と五右衛門は即座に賛成した。しかし、寅右衛門は、妻子や大工の仕事がある為、現地に留まる事となった。また、現地でお世話になっていたデーモン牧師から、上海行きの商船「サラ・ボイド号」の船長ホイットモアを紹介して貰った。交渉の結果、日本近海まで乗船させて貰える事になった。さらに、上陸用の小舟をイギリス人から購入し「アドベンチャー号」と命名した。デーモン牧師は、アメリカ領事に働きかけ、万次郎達が遭難してから今日に至るまでの経緯等を述べた上で、3人の身分証明書を書いて貰った。万次郎は、ハワイを出発する前に、ウィリアム・ホイットフィールドに、 今まで育ててくれ、アメリカの高等教育まで受けさせてくれた事への恩と、感謝の気持ちを綴った書簡を作成した。
1,850 12 3 夕方、高野長英が、出先から潜伏先の青山百人町に戻る際、小路にて、何者かの密告により町奉行に踏み込まれ捕縛される。何人もの捕方に十手で殴打され、縄を掛けられた時には既に半死半生だった為、止むを得ず駕籠で南町奉行所へ護送している最中に高野は自身の喉を突いて自刃した。
1,850 12 17 以下3名が、デーモン牧師に礼を述べ、サラ・ボイド号に乗船し、琉球王国へ向けてホノルルを出港する。
①筆之丞
②五右衛門
③ジョン万次郎
1,851 ジョージ・ピーボディが「ピーボディ商会」を設立する。
1,851 ジョン・エマリーが、ロンドンの高級住宅地であるリージェント・ストリートに、紳士服店を開業する。
1,851 アルフレッド・ノーベルが、1年間アメリカに留学する。其処で、蒸気機関の開発や軍艦の設計を行なっていた機械技師ジョン・エリクソンの下で働いた。
1,851 1 11 洪秀全が広西省桂平県金田村(現在の中国広西チワン族自治区)で挙兵、太平天国を建国した。
1,851 2 2 ジョン万次郎がホイットモアに頼み、喜屋武岬(現在の沖縄県糸満市)の沖合でアドベンチャー号を下ろして貰う。その際万次郎は、寅右衛門に対し、英語で書いた書簡を託した。
1,851 2 3 以下3名がアドベンチャー号で、摩文仁間切の小渡浜(現在の沖縄県糸満市大度)に上陸する。
①筆之丞
②五右衛門
③ジョン万次郎
3名は小渡の村人に歓迎され、ふかし芋をご馳走された。また、3名は、持参してきた牛肉やコーヒーを火に掛け、その場で食して見せた。その後3名は、摩文仁間切番所(現在の沖縄県糸満市米須)の役人に以下の所持物等を没収された。
①航海術書
②数学書
③ジョージ・ワシントン伝記
④地図
⑤八分儀
⑥コンパス
⑦ピストル
1,851 2 以下3名が、摩文仁間切番所から取り調べを受ける。
①筆之丞
②五右衛門
③ジョン万次郎
役人からご飯とお箸を渡され、3名共上手に使い熟した事から、日本人であると認められた。その後は那覇へ向けて、以下を経由して護送された。
①真壁(現在の沖縄県糸満市)
②兼城(現在の沖縄県糸満市)
③高嶺(現在の沖縄県豊見城市)
④豊見城間切(現在の沖縄県豊見城市)
しかし道中、3名が、キリスト教宣教師バーナード・ジャン・ベッテルハイムと会う事を恐れた鹿児島藩・琉球王国の役人が豊見城間切に戻す様指示し、翁長(現在の沖縄県豊見城市)の高安家に幽閉された。囚われの身ではあったが、綱引きや毛遊び等の行事に参加し、現地の人々と交流していた。曽て琉球の進貢船が遭難した際、高知藩に助けられた事から、第19代第二尚氏王統琉球国王尚泰王は、3名を手厚く保護し、以下の品目等を贈った。
①豚
②鳥
③魚
④泡盛
⑤衣服
1,851 4 30 駐米オランダ代理公使バロン F. テスタが第19代アメリカ国務長官ダニエル・ウェブスターに対し、西暦1,842年8月28日に江戸幕府が発した薪水給与令の事を伝える。
1,851 5 29 第13代アメリカ大統領ミラード・フィルモアが、日本の開国と通商関係を結ぶ為に、ジョン・オーリックを遣日特使に任命する。
1,851 8 27 以下3名が、鹿児島藩に護送される。以降西田町下会所(現在の鹿児島県鹿児島市西田)に留置され、交代で見張りに来る鹿児島藩の足軽から監視された。
①筆之丞
②五右衛門
③ジョン万次郎
第11代鹿児島藩主島津斉彬の命により、鹿児島藩士は3名を丁重に扱い、毎日の様に山海の珍味佳肴で饗応し、美酒を振る舞う等して厚遇した。また、島津は田原直助と船大工数名を毎日派遣し、以下を学ばせた。
①造船術
②捕鯨術
③航海術
さらに、島津は3名を鹿児島城に招き、万次郎に対し直々に海外の情勢や文化等について質問した。その後島津は、万次郎とのやり取りを書簡に纏め、長崎奉行所に送付した。その報告を、第104代長崎奉行内藤忠明が、第36代韮山代官江川英龍に知らせ、最終的に、万次郎の存在は江戸幕府に認識される事となった。
1,851 9 27 以下3名が、長崎に護送される。以降長崎奉行所による取り調べを受けた。
①筆之丞
②五右衛門
③ジョン万次郎
長崎奉行所は、海外から持ち込んだ書物を全て没収し、キリスト教徒では無い事を確認する為に踏み絵を行った。長崎奉行所は、最終的に3名に対し、無罪の裁定を下した。
1,851 10 10 ポール・ジュリアス・ロイターが、ロンドンのシティ地区にある王立取引所の裏に「ロイター通信」を設立する。最初の顧客はライオネル・ド・ロスチャイルドであった。世界中に広がるイギリス植民地の商人ネットワークから届く情報をイギリスの投資家や政府に提供する事で、彼らを儲けさせ、大きな利益を得た。イギリス政府や商社はロイターの力で成長する事となる。
1,851 11 13 世界初の海底電信ケーブルがドーバー海峡(イギリス-フランス間)に敷かれる。
1,851 12 28 以下2名の間に長男ペリー・ベルモントが生誕する。
①オーガスト・ベルモント
②キャロライン・スライデル・ペリー
1,852 梅田雲浜が第12代小浜藩主酒井忠義に海防策を建言した所、幕政批判と捉えられ、士籍を剥奪される。
1,852 1 24 ジョン・オ-リックの後任としてマシュー・ペリーが東インド艦隊司令官に任命される。
1,852 7 21 オランダ商館長のヤン・ドンケル・クルティウスが、長崎奉行にアメリカが日本との条約締結を求めており、その為に艦隊を派遣する事が記載されている別段風説書を長崎奉行に提出する。
1,852 8 10 以下3名が、高知藩へ向けて長崎を出発する。
①筆之丞
②五右衛門
③ジョン万次郎
1,852 8 25 以下3名が、高知藩に到着する。
①筆之丞
②五右衛門
③ジョン万次郎
第15代高知藩主山内容堂は、万次郎から直接西洋事情を聞き取った。その際、異国の服装で召し出し、見物した。また、吉田東洋が取り調べを行うが、3名が日本語を殆ど忘れていた為、取り調べが出来ず、蘭学の知識のあった画家河田小龍を立ち合わせた。河田は、高知藩の許可を得て、万次郎を自宅に寄宿させ、日本語の読み書きを教育しつつ、万次郎から英語や西洋事情等を学び、聞き取った。その後河田は、聞き取った内容を「漂巽紀畧」として全4巻の書物に纏め、山内に献上した。
1,852 11 2 以下3名が、宇佐に到着する。
①筆之丞
②五右衛門
③ジョン万次郎
万次郎は母汐と兄弟に再会した。汐は溢れる涙を止めず、姉と妹は、万次郎を失って置いた苔むした墓石を抱いて咽び泣いた。万次郎は以下のお土産を持参した。
①訪れた全ての海岸で拾った貝殻(汐)
②鏡(長姉)
③ボタン(妹)
④賽子一組(長姉の夫)
⑤白砂糖の小さな袋(弟)
⑥針
⑦鋏
⑧薬
⑨本
⑩地図
1,852 11 5 ジョン万次郎が、高知藩の上席定小者に召し抱えられ、定小者となり士分に取り立てられる。そして、高知城下の藩校「教授館」の教授となる。以下2名等が指導を受けた。
①後藤象二郎
②岩崎弥太郎
1,853 シャルル・フェリシアン・ティソと息子シャルル・エミール・ティソがル・ロックル(現在のスイスのヌーシャテル州)にて自宅を時計工房とし「ティソ」を設立する。
1,853 レーマンが円周率に関し、西暦1,776年にチャールズ・ハットンが発見した公式を、レオンハルト・オイラーが独立した公式として発見した以下の式用い、261桁の精度を得る。
4 π = 2 arctan 1 3 +arctan 1 7
π=3.1415926535897932384626433832795028841971693993751058209
74944592307816406286208998628034825342117067982148086513282
30664709384460955058223172535940812848111745028410270193852
11055596446229489549303819644288109756659334461284756482337
86783165271201909145648566923
1,853 ジョン・エマリーが、防水加工を施したウール生地を開発する。数年後に、その製造方法の特許を取得し、ラテン語のアクア(水)とスクトゥム(盾)を使った「アクアスキュータム」を設立した。
1,853 リーヴァイ・ストラウスが、サンフランシスコのカリフォルニア・ストリートにて雑貨店・生地商「リーバイ・ストラウス社」を設立する。
1,853 2 18 以下2名の間に弐男オーガスト・ベルモント・ジュニアが生誕する。
①オーガスト・ベルモント
②キャロライン・スライデル・ペリー
1,853 3 19 太平天国軍が南京を陥落させ、天京と改名し、王朝を立てた。
1,853 5 4 マシュー・ペリーが上海に到着する。その後同地でウォーレン・デラノ・ジュニアと会談を行い、ペリーは日本を開港させる為にはどうすれば良いか、事情を尋ねた。ペリー家とデラノ家を間を取り持ったのはハウランド家であった。
1,853 7 8 マシュー・ペリーが浦賀沖に来航。事前にオランダ風説書で予告されていた。ペリーが江戸幕府に開港を迫っている間、アメリカの植物学者数名が、伊豆半島から函館まで行って、日本在来の植物を350種採取した。
1,853 7 14 浦賀奉行がアメリカ国書を受け取る。
1,853 7 20 江戸幕府がマシュー・ペリー来航を朝廷に上奏。
1,853 7 27 第12代江戸幕府征夷大将軍徳川家慶が死去。
1,853 8 5 江戸幕府老中首座阿部正弘が、各大名、旗本等にマシュー・ペリーの開国要求に対する対策を諮問する。700余りの意見が集まった。幕府の権威を弱めるきっかけとなる。
1,853 8 21 ロシアの海軍中将エフィム・プチャーチンが、軍艦パラーダ号で、日本との通商を求めて長崎に来航する。
1,853 8 29 ジョン万次郎が江戸幕府から招聘され、江戸へ向けて出発する。
1,853 9 12 松平春嶽が阿部正弘に徳川慶喜を継嗣にすべきと申し入れた。阿部は同意したものの、時期尚早と判断し、春嶽に口外する事を戒めた。
1,853 9 26 阿部正弘が、勘定吟味役の江川英龍等に台場造営を命ずる。品川沖に11か所の台場が造営される事となった。
1,853 10 2 ジョン万次郎が、鍛冶橋(現在の東京都中央区)の高知藩上屋敷に到着する。
1,853 10 5 ロシア帝国と、オスマン帝国・フランス帝国・イギリス帝国・サルデーニャ王国の4ヶ国連合の間で、クリミア戦争が勃発する。イマヌエル・ノーベルが設立した、軍需品を扱う「ノーベル・フィルズ鋳物・機械工場」は、クリミア戦争向けの兵器を生産し、大きな利益を叩き出した。
1,853 10 11 第14代アメリカ大統領フランクリン・ピアースの任命により、オーガスト・ベルモントが、臨時の駐ハーグ(オランダの南ホラント州)アメリカ大使に着任する。
1,853 10 14 阿部正弘が、ジョン万次郎からアメリカ事情を聴取する。主に以下の人間が列席した。
①江川英龍
②川路聖謨
③林復斎
④筒井政憲
主に万次郎はアメリカについて、主に以下の発言を行った。
①アメリカの東西南北の位置(東西横断に陸路なら4ヶ月、南北横断に海路なら7〜8ヶ月)
②日本とアメリカの位置関係(江戸からカリフォルニアは3,000里程度)
③隣国との関係・気候・産業構成・通商関係・独立事情・34州による共和政治・風俗
④アメリカ人の気質
⑤大統領は、4〜8年任期の選挙によって選ばれ、国内が良く治っている。州は知事が統治
⑥現在の大統領は、第13代アメリカ大統領ミラード・フィルモアであり、先日来航したのは、ロード・アイランドで生まれ、メキシコとの戦いで戦功のあるマシュー・ペリーである。日本との接触はフィルモアからの要望であり、自国・他国の分け隔て無い扱いを望んでいる
⑦日本と異なり、戦闘で刀剣を腰に差す様な事はしない。海では大砲と台場での戦闘が有り得るが、台場で勝利する事は難しく、海軍の創設は急務である。軍艦に乗り込む人数は平時で500名、戦闘時は1,500名が必要。沖合から陸地を攻める場合は、大砲だけでなく短艇も使用する。短艇にも口径8cm程度の大砲を装備させる
⑧ペリー再来航の際、通訳にはオランダ語ではなく、アメリカ語が必要
その後江川は、ペリーの再来航に備え、万次郎を自らの配下としたい旨を江戸幕府に訴え、認められた。万次郎は、江川の江戸屋敷の長屋に居住する事となった。万次郎は以下の業務に従事した。
①翻訳
②通訳
③造船指揮
④人材育成
江川は、長崎で没収された万次郎の所持物を返還させた。また川路は、万次郎から聴取したアメリカ事情を糾問書に纏めた。
1,853 10 17 江戸幕府が大船建造の禁を解く。
1,853 12 5 ジョン万次郎が直参旗本に取り立てられる。
1,854 ジョージ・ピーボディがピーボディ,リグス&カンパニーにジューニアス・モルガンを招く。モルガンは資本金の9%弱と利益の28%を出資した。
1,854 ルイ・ヴィトンが、パリのキャピュシーヌ大通りに旅行鞄の専門店を創業する。
1,854 2 13 マシュー・ペリーが再度浦賀に来航する。
1,854 3 31 日米和親条約が締結される。主な内容は以下である。
①下田,箱館の両港を開港
②難破したアメリカ船舶に対する便宜を供与する
③アメリカは常駐代表を下田に設置する
江川は、通訳官兼外交顧問にするつもりでジョン万次郎を指導した。しかし、万次郎をアメリカからのスパイだと疑っていた徳川斉昭は「アメリカに恩義のある万次郎は、アメリカ側に立って案件を処理するに違いない」とし、登用に反対した。結果、万次郎は翻訳作業にしか携わる事が出来ず、マシュー・ペリーとの交渉は、江戸幕府のオランダ語通史との間で行われた。
1,854 6 17 下田条約が締結され、玉泉寺(現在の静岡県下田市柿崎)と了仙寺(現在の静岡県下田市七軒町)がアメリカ人の休息所となる。また、アメリカ人の上陸遊歩の範囲は、犬走島を中心に半径7里以内と定められていたが、止宿は許されていなかった。
1,854 7 14 サイード・パシャが第4代ムハンマド・アリー朝君主に即位する。これを機に嘗てパシャの家庭教師であったフランスの外交官フェルディナン・ド・レセップスがパシャに接近し、スエズ運河建設を訴え始める。
1,854 9 27 以下2名の間に長女フレデリカ・ボルトン・ベルモントが生誕する。
①オーガスト・ベルモント
②キャロライン・スライデル・ペリー
1,854 9 27 オーガスト・ベルモントが、正式な駐ハーグアメリカ大使となる。
1,854 10 ジューニアス・モルガンがジョージ・ピーボディのパートナーとなりロンドンに移住する。
1,854 10 14 日英和親条約が締結される。長崎奉行水野忠徳及び同目付永井尚志が調印した。以下が規定された。
①下田・箱館の開港
②難破船乗員の救助
③薪水の供給
④最恵国待遇の承認
⑤領事駐在権の容認
1,854 11 30 フェルディナン・ド・レセップスがサイード・パシャから以下の内容のスエズ運河建設の許可書を手にする。
①スエズ運河会社の99年間の権利期限
②スエズ運河の国際無差別性と自由航路
1,854 12 マシュー・ペリーが、ハーグに居る娘夫婦を訪ねる。其の際、以下の人間が出迎えた。
①オーガスト・ベルモント
②キャロライン・スライデル・ペリー
③オーガストのペリー・ベルモント
④オーガストのオーガスト・ベルモント・ジュニア
⑤オーガストのフレデリカ・ボルトン・ベルモント
⑥マシューの妻ジェーン・スライデル・ペリー,br> ⑦マシューとジェーンの末娘イザベラ・ボルトン・ペリー
1,855 江戸幕府が蝦夷地の内、渡島半島の一部を除き天領とする。幕府は財政負担軽減の為に仙台藩、盛岡藩、弘前藩、久保田藩、松前藩の東北の大藩に対して沿岸の警備義務を割り当て、会津藩と庄内藩の2藩もそれに続いた。
1,855 バジル・ザハロフが、コンスタンティノープルにて売春宿の客引きを始める。又、ガラタ(現在のトルコのイスタンブール県)のツアーガイドにも従事した。其の後、コンスタンティノープルの消防隊の放火犯となった。其の消防隊は、裕福な人間の宝物を回収して引き揚げる事で報酬を得ていた。他にも、重婚・強盗・殺人・横領・詐欺・売春宿経営等に手を染めた。
1,855 2 7 下田で日露和親条約がエフィム・プチャーチンと日米和親条約に準じて、以下の内容で締結される。
①下田・箱館・長崎の開港
②択捉島、得撫島間を日露の国境とする
③樺太を両国人の雑居地とする
1,855 3 10 カール・メイヤー・フォン・ロスチャイルドが死去する。
1,855 8 4 タウンゼント・ハリスが、第14代アメリカ大統領フランクリン・ピアースから初代米国総領事に任命される。
1,855 11 18 老中の堀田正睦が、老中首座であった阿部正弘の推挙を受けて再任されて老中になり、阿部から老中首座を譲られる。
1,855 12 6 アムシェル・メイヤー・フォン・ロスチャイルドが死去する。アムシェルには子供が居なかった為、N・M・ロスチャイルド&サンズの事業は、以下2名が共同社長となり引き継いだ。
①カール・メイヤー・フォン・ロスチャイルドの長男メイヤー・カール・フォン・ロスチャイルド
②カール・メイヤー・フォン・ロスチャイルドの参男ヴィルヘルム・カール・フォン・ロスチャイルド
1,856 アヴァス通信社とロイター通信が、お互いの国内金融市場に関する相場情報を交換し、首都での取引結果を伝えるという協定に調印する。その後間も無くヴォルフ電報局も招かれ、ベルリン証券取引所のデータを共有する事となった。
1,856 スカル&ボーンズが「ラッセル・トラスト」と改称し法人化され、以下2名が要職に就く。後に「ラッセル・トラスト協会」に再度改称された。
①ウィリアム・ラッセル(社長)
②ダニエル・コイト・ギルマン(財務責任者)
同協会は非課税団体で、イェール大学の学内にあるスカル・アンド・ボーンズ・ホール及びボストン(アメリカのマサチューセッツ州)にあるディア島を所有していた。ギルマンは後に、カリフォルニア大学バークレー校とジョンズ・ホプキンス大学の学長を歴任し、カーネギー財団の初代会長となる為に退職した。また、ギルマンは、ラッセル・セージ財団の初代理事の一人であった。
1,856 服地商の見習い職人として経験を積んだトーマス・バーバリーが、ベイジングストーク(イギリスのハンプシャー州)に、コートを主に取り扱う洋服店「T.バーバリー・サンズ」を開業する。
1,856 1 30 日蘭和親条約が締結される。
1,856 3 30 クリミア戦争が終結する。ノーベル・フィルズ鋳物・機械工場は武器の契約をキャンセルされた。其の後は、ロシア国内向けの兵器生産に回帰したが、需要が少なく、イマヌエル・ノーベルは全財産を失い、破産申請した。
1,856 4 11 以下2名の間に弐女ジェーン・ポーリーン・ベルモントが生誕する。
①オーガスト・ベルモント
②キャロライン・スライデル・ペリー
1,856 8 21 タウンゼント・ハリスが、秘書兼通訳としてヘンリー・コンラッド・ジョアンズ・ヒュースケンを伴い、サン・ジャシント号にて下田を来航する。しかし、江戸幕府は拒否する。日米和親条約の条文解釈の違いが原因であった。強硬な主張をするハリスに幕府が折れ、玉泉寺を仮の宿所とする事で同意する。
1,856 9 3 タウンゼント・ハリスが玉泉寺に入る。
1,856 9 4 タウンゼント・ハリスが星条旗を掲げる。
1,857 4 21 島津斉彬が徳川慶喜と初めて顔を合わせる。目的は一橋派の諸侯を代表して、慶喜を値踏みをする事であった。
1,857 4 25 島津斉彬が、松平春嶽に対し徳川慶喜が将軍継嗣に相応しい人物と高く評価した内容の書簡を送る。一方で、斉彬は慶喜の自信過剰な態度を戒める必要を助言する事を忘れなかった。
1,857 8 6 阿部正弘が老中在任中のまま死去。
1,857 8 11 ニューヨーク最古の小麦粉・穀物会社であるN・H・ウォルフ・アンド・カンパニーが破綻する。投資家の信用が揺らぎ、市場の緩やかな下落が始まり、本月下旬迄続いた。これに端を発して世界恐慌が起こった。この恐慌によりウォーレン・デラノ・ジュニアの所有株は暴落し、大損した。
1,857 9 22 オーガスト・ベルモントが、駐ハーグアメリカ大使を退任する。
1,857 11 19 箱館奉行所与力次席を拝命したジョン万次郎が、幕命により、捕鯨指導の為箱館へ向けて江戸を出発する。
1,857 11 23 タウンゼント・ハリスが下田を出発し、江戸へ向かう。
1,857 12 7 タウンゼント・ハリスが第13代江戸幕府征夷大将軍徳川家定に謁見し、フランクリン・ピアースの親書を読み上げ、提出する。加えて、通商条約の交渉を要求する。
1,857 12 12 タウンゼント・ハリスが堀田正睦と会見し、アヘン戦争に於ける清を引き合いに出し、開国の必要性を説いた。また、イギリスは清同様に日本にもアヘンを持ち込む意図がある事を警告した。これにより江戸幕府は、後に諸外国と結ぶ通商条約に於いて、アヘン持ち込みを禁じる条項を盛り込む事となる。
1,857 12 26 堀田正睦が、溜詰・大廊下・大広間の大名に通商条約に対する意見を求める。大多数から条約締結に肯定的な意見が寄せられた。
1,858 1 1 ジョン万次郎が箱館に到着する。
1,858 1 2 ジョン万次郎が病気の名目で出勤せず。箱館の住民は余所者は乗せないとして、万次郎の西洋式帆船「箱館丸」への乗船を拒否した。また、万次郎はアメリカ式の捕鯨を根付かせようとしたが、箱館の技術の方が優れていた。
1,858 1 6 ジョン万次郎が出勤する。その時来航したアメリカ船に対しては、万次郎は直接捕鯨指導せず、他の人間を派遣して指導させた。
1,858 1 11 ジョン万次郎が、江戸へ向けて箱館を出発する。
1,858 1 25 タウンゼント・ハリスと下田奉行井上清直、目付岩瀬忠震の間で通商条約の交渉が始まる。
1,858 1 27 江戸幕府が、朝廷に通商条約を締結する旨を伝える。
1,858 2 27 日米修好通商条約の調印勅許を得る目的で堀田正睦が上京する為、第121代天皇の孝明天皇が、左大臣近衛忠煕、右大臣鷹司輔煕、内大臣三条実万及び議奏、武家伝奏へ開国か鎖国か下問をする。
1,858 3 2 孝明天皇が関白九条尚直に対し、「アメリカの思い通りになってしまっては、天下の一大事だ。朕の代にこの様な事になるのは、後代までの恥となる」と表明する。
1,858 4 25 関白九条尚忠が朝廷に条約の議案を提出するが、堂上公家137家の内、岩倉具視や中山忠能等計88名が条約案の撤回を求めて抗議の座り込みを行う。
1,858 5 21 シャルル・ルイ・アヴァスがブージヴァル(現在のフランスのイヴリーヌ県)で死去し、弐男のオーギュスト・アヴァスがオーナーの座を引き継ぐ。
1,858 6 4 井伊直弼が老中から大老職拝命を伝えられ、大老に就任する。
1,858 6 26 清とイギリスの間で天津条約が署名される。主な内容は以下である。
①外交使節の北京常駐
②内地旅行と揚子江沿岸開港場への自由往来
③新たな貿易規則と関税改正の為の会議の開催(アヘン貿易が合法化される)
④牛荘、登州、漢口、九江、鎮江、台南、淡水、潮州(後に同地方の汕頭に変更)、瓊州、南京の開港
⑤キリスト教布教の自由と宣教師の保護
⑥軍事費の賠償(イギリスに対し4,000,000両、フランスに対し2,000,000両の銀)
1,858 7 6 タウンゼント・ハリスと井上清直が下田協約を締結する。主な内容は以下の通り。
①日米貨幣交換比率改定
②下田・箱館における米人居住権
③長崎港の追加開港
④領事の日本国内旅行権
⑤領事裁判権の承認
1,858 7 29 日米修好通商条約が、タウンゼント・ハリスと井上清直、岩瀬忠震との間で締結される。 日本側には不利な不平等条約であった。内容は以下の通り。
①下田・箱館・神奈川等の開港
②江戸・大坂の開市
③下田・箱館の外国人居留地の設定
④治外法権、自由貿易を認める
⑤関税自主権を否定
1,858 8 1 日米修好通商条約締結が諸大名に公表される。
1,858 8 2 堀田正睦、松平忠固両老中が罷免される。
1,858 8 2 御三卿による将軍への公式な面会日であった徳川慶喜が登城し、条約締結を違勅として井伊直弼を詰問する。
1,858 8 3 徳川斉昭、第16代福井藩主松平春嶽、第14代尾張藩主徳川慶勝が不時登城を行う。入れ替わり立ち代わり井伊直弼に面会しその失政を追求したが、井伊直弼はひたすら平身低頭を繰り返す老獪な戦法で、これをかわす。春嶽は老中久世広周に将軍継嗣発表の延期を勧説した。
1,858 8 4 徳川家定の意思により、徳川家茂の継嗣発表が為される。
1,858 8 6 日米修好通商条約調印の旨が、宿継奉書で朝廷に知らされる。
1,858 8 7 日米修好通商条約の締結を聞いた孝明天皇は、左大臣、右大臣、内大臣の三役等に「天皇の位から降りる」と伝えるほどの怒りを見せる。孝明天皇が九条尚忠に譲位の意思を示した宸翰を下す。
1,858 8 8 朝議が開かれ、公家たちの説得で孝明天皇が譲位を思いとどまる。
1,858 8 13 徳川家定から、徳川慶喜に登城停止、徳川斉昭、松平春嶽等に隠居謹慎処分が発表される。
1,858 8 14 徳川家定が死去。
1,858 8 14 第10代水戸藩主徳川慶篤に登城停止処分が下される。
1,858 8 30 孝明天皇が近衛忠煕に譲位の意思を示した宸翰を下す。
1,858 10 9 フランスの外交官のジャン・バティスト・ルイ・グロ男爵と日本の外国奉行(水野忠徳、永井尚志、井上清直、堀利煕、岩瀬忠震)及び野々山鉦蔵との間で日仏修好通商条約が締結される。
1,858 11 12 以下2名の間に参男オリバー・ハザード・ペリ-・ベルモントが生誕する。
①オーガスト・ベルモント
②キャロライン・スライデル・ペリー
1,858 12 15 フェルディナン・ド・レセップスが、資本金200,000,000フランの「国際スエズ運河会社」を設立する。400,000株が公募されたが、その内207,160株をフランス人が、177,642株をエジプト政府が引き受けた。このころイギリスは、インドへのルートとして、スエズ-アレクサンドリア間の鉄道建設を始めており 、レセップスの運河計画に反対していた為、申込みをしなかった。
1,859 西暦1,957年の恐慌が契機となり、ウォーレン・デラノ・ジュニアが広東に単身赴任し、ラッセル商会に復帰する。その後香港で失った財産を取り戻した。後に発生した南北戦争ではアメリカ陸軍省医務局にアヘンを出荷していた。
1,859 五右衛門が死去する。
1,859 ジョン万次郎が、著書「英米対話捷径」を発表する。アルファベット・ABCの歌・数の数え方を前述として、213の日常英会話に対訳が付けられている。
1,859 高野隆仙が、拷問の傷が癒えない儘死去する。
1,859 イマヌエル・ノーベルが、ノーベル・フィルズ鋳物・機械工場の管理を、ルートヴィヒ・ノーベルに任せる。ルートヴィヒは事業の改善に努めた。其の後以下3名はストックホルムに戻った。
①イマヌエル
②アンドリエッテ・ノーベル
③アルフレッド・ノーベル
アルフレッドは、両親と行動を共にせず、ロシア帝国に留まり、爆薬、取り分けニトログリセリンの安全な製造と使用の研究に邁進した。
1,859 1 27 江戸幕府が老中間部詮勝を京都へ派遣する。
1,859 2 ジャーディン・マセソン商会が、上海支店のウィリアム・ケズウィックを長崎に派遣し、日本での貿易見通しを探らせた。ケズウィックは日本の生糸が安く良質な事を掴んだ。
1,859 4 江戸幕府が難破したロシア船員と共同で沼津藩戸田村(現在の静岡県)にて建造した西洋式帆船君沢形一番「ヘダ号」を、ジョン万次郎が指揮する。品川を出港して小笠原諸島へ向かったが、暴風雨でヘダ号は損傷し、航海は中止された。
1,859 4 25 ポートサイド(現在のエジプト)でスエズ運河の起工式が挙げられる。フェルディナン・ド・レセップスは、「あなた方が運ぶものは、単なる土ではない。それは、あなた方の家庭とこの国に、繁栄を運ぶのだ」と宣言したが、実際の工事は150,000名のエジプト人による無給労働によって行われた。また、工事中120,000名が主にコレラによって命を落とした。イギリスは、スエズ-アレクサンドリア間の鉄道建設のときはエジプトの強制労働に頼ったにも拘らず、それを棚に上げてフランスによる強制労働を非難した。
1,859 7 1 横浜が自由貿易港として開港する。ジャーディン・マセソン商会が進出する。船を事務所にして取引していた。
1,859 7 4 長崎が自由貿易港として開港する。
1,859 7 15 パリでベルンハルト・ヴォルフとポール・ジュリアス・ロイターが、シャルル・ルイ・アヴァスの長男シャルル・ギヨーム・アヴァスとオーギュスト・アヴァスに迎えられ、3年前に交わした協定を改定し、情報の交換対象を一般ニュースに拡げ、暫定協定を正式協定に進展させる。
1,859 7 18 ストラスブール(現在のフランスのバ・ラン県)のオテルブリオンにあるアヴァス通信社本社にて、ロイター通信、ヴォルフ電報局を含む3社にてヨーロッパを分割し、独占的に取材・配信出来る地域を定める協定が結ばれる。
1,859 8 28 アメリカのペンシルベニア州で鉄道員だったエドウィン・ドレークが油井機械掘りを行い、岩盤下深度21mの所で、4770L/日の石油の採掘に成功する。
1,859 9 1 太陽嵐が発生する。
1,859 9 16 トーマス・ブレーク・グラバーが上海から長崎に向けて出航する。当時上海には父のトーマス・ベリー・グラバーもいたが、同行せずアバディーン(イギリス・スコットランド)に戻り、造船業に従事し、萩藩、鹿児島藩等に向けた軍艦・蒸気船・艦船の建造を行った。
1,859 9 19 トーマス・ブレーク・グラバーが長崎に来日。
1,859 9 25 徳川慶喜が隠居謹慎処分となる。
1,859 11 21 吉田松陰が処刑される。
1,860 靴職人の息子エドゥアルト・ホイヤーがサン・ティミエ(現在のスイスのベルン州)に時計工房「エドゥアルト・ホイヤー・ウォッチメーカーズ」を設立する。
1,860 肉屋・理髪店・八百屋・焼き栗屋経営者ジョヴァンニ・パネライがフィレンツェのグラツィエ橋に時計の販売店・時計工房・時計製造学校である「オフィチーネ・パネライ」を設立する。
1,860 エイブラハム・クーンとソロモン・ローブが、経営する商品販売会社を紳士服メーカーに転身させ「クーン・ネッター社」とし、その後シンシナティ(アメリカのオハイオ州)で乾物商として成功を収め、軍服の製造・供給で財を成す。
1,860 1 ジャーディン・マセソン商会横浜支店の「英一番館」が完成する。
1,860 2 庄内藩清河八郎、幕臣の山岡鉄舟、松岡万等15名により、虎尾の会が結成される。
1,860 2 4 アメリカ海軍の外輪フリゲート艦「ポーハタン号」の護衛と遠洋実習の名目で江戸幕府の軍艦「咸臨丸」が品川を出港する。江戸幕府は、タウンゼント・ハリスの勧めもあり、日米修好通商条約の批准書交換の為、使節団をポーハタン号に乗船させ、アメリカに派遣する事を決定していた。咸臨丸には以下の人間が乗船していた。
①軍艦奉行木村芥舟
②勝海舟
③福澤諭吉
④ジョン万次郎(主席通弁官)
⑤塩飽諸島出身の水夫等92名
1,860 2 10 咸臨丸が浦賀を出港する。
1,860 2 13 以下3名を始めとする日本使節団77名の乗船するポーハタン号が、ワシントンD.C.へ向けて横浜を出港する。
①正使新見正興
②副使村垣範正
③監察小栗忠順
1,860 3 17 咸臨丸がサンフランシスコに到着する。浦賀を出港してから38日での到着であったが、その内34日は荒天であった。木村芥舟と勝海舟は船酔いが酷く、船室に篭りきりであった。特に勝は、38日の航海で3度しか船室を出なかった。一行はお土産として、以下の品物を購入した。
①ミシン
②カメラ
③本(ジョン万次郎が福澤諭吉に購入を勧めたウェブスター辞典を含む)
1,860 3 24 江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞が関)で水戸藩脱藩浪士17名と鹿児島藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、大老井伊直弼を暗殺する。
1,860 3 28 日本使節団の乗船するポーハタン号がサンフランシスコに寄港する。途中燃料を使い過ぎて補給の為ホノルルに立ち寄った事から、予定より遅れての到着であった。
1,860 4 7 咸臨丸が、日本へ向けてサンフランシスコを出港する。往路の反省から、運用体制を見直し、日本人乗組員の技量不足を補う為にアメリカ人乗組員を5名雇った。但しこれは問題の先送りに過ぎなかった。
1,860 4 21 久世広周が、老中安藤信正の推挙を受け、老中に再任される。
1,860 4 23 此の日から同年5月3日迄、チャールストン(アメリカのサウスカロライナ州)にて、アメリカ民主党の全国大会が開かれる。オーガスト・ベルモントは議長を務めた。奴隷制を強く支持し、アメリカからの脱退を促し、南部諸州の独立を唱える南部過激派「ファイア・イーター」に従う形で、南部民主党員の一部が退席した。
1,860 5 15 日本使節団の乗船する「ノーロック号」がワシントンD.C.に到着する。途中パナマでポーハタン号から乗り換えていた。その後第15代アメリカ大統領ジェームズ・ブキャナンに謁見し、以下を訪問した。
①スミソニアン博物館(アメリカのワシントンD.C.北西地区)
②アメリカ議会議事堂(アメリカのワシントンD.C.)
③ワシントン海軍工廠(アメリカのワシントンD.C.南東地区)
④アメリカ海軍天文台(アメリカのワシントンD.C.北西地区)
1,860 5 22 日本使節団が日米修好通商条約の批准書を交換する。
1,860 5 23 咸臨丸が浦賀に帰港する。往路と異なり天候には恵まれた。
1,860 6 1 幕命により、京都所司代酒井忠義が九条尚忠に、和宮親子内親王の将軍家降嫁を奏請する。
1,860 6 8 日本使節団が、ニューヨークへ向けてワシントンD.C.を出発する。
1,860 6 16 日本使節団が以下を経由してニューヨークに到着する。
①ボルチモア(アメリカのメリーランド州)
②フィラデルフィア
その後ブロードウェイでパレードを行い、500,000名の人々から歓迎された。
1,860 6 28 処女航海であったグレート・イースタン号がニューヨークに入港する。日本使節団は、巨大な船体を見て仰天した。
1,860 6 29 日本使節団が、ナイアガラ号に乗船し日本へ向けて出港する。
1,860 10 17 徳川慶喜の隠居謹慎処分が解除となる。
1,860 11 6 第19回アメリカ大統領選が行われる。候補者は以下の4名であった。
①エイブラハム・リンカーン(共和党)
②ジョン・ブレッキンリッジ(南部民主党)
③ジョン・ベル(立憲連合党)
④スティーブン・ダグラス(北部民主党、ダグラスの計らいで民主党全国委員会委員長に就いていたオーガスト・ベルモントが資金提供)
結果、反奴隷制の北部民主党と奴隷制維持の南部民主党に分裂した事で、リンカーンが、南部で1州も勝てなかったにも拘らず、第16代アメリカ大統領に選出された。
1,860 11 9 日本使節団が品川に帰港する。以下を経由した。
①北大西洋
②カーボベルデ
③アンゴラ
④喜望峰
⑤バタヴィア
⑥香港
1,860 11 30 孝明天皇が、和宮親子内親王の将軍家降嫁を勅許する。
1,861 大浦(長崎県長崎市)でトーマス・ブレーク・グラバーが、ジャーディン・マセソン商会の長崎代理人としてグラバー商会を設立し、海産物の輸出を始める。
1,861 ジョン・モルガンがアメリカのニューヨークでJ.P.モルガン商会を設立する。
1,861 肥後勤王党が結成される。熊本藩宮部鼎蔵が参加する。
1,861 ヴィクトール・ピニャテルが、江戸幕府の斡旋により、父ウジェーヌと共に来日する。
1,861 ジェイコブ・シフが、見習いとして銀行や証券会社に就職する。
1,861 1 14 ヘンリー・コンラッド・ジョアンズ・ヒュースケンが、プロイセン王国使節宿舎であった赤羽接遇所(現在の東京都港区東麻布)からアメリカ公使館が置かれた善福寺(現在の東京都港区元麻布)への帰途、鹿児島藩の伊牟田尚平、樋渡八兵衛に腹部を深く斬られる。その後善福寺に運ばれた。
1,861 1 15 ヘンリー・コンラッド・ジョアンズ・ヒュースケンが死去。
1,861 2 8 前年の第19回アメリカ大統領選の結果を不服としてアメリカから脱退した、以下の6州の代表が、モンゴメリー(アラバマ州)に集まり「アメリカ連合国」を建国する。
①サウスカロライナ州
②ジョージア州
③フロリダ州
④アラバマ州
⑤ミシシッピ州
⑥ルイジアナ州
1,861 3 2 テキサス州がアメリカから脱退し、アメリカ連合国に加入する。
1,861 4 12 南北戦争が勃発する。両軍は以下の支援を受けていた。
アメリカ軍(北部)
①オーガスト・ベルモント
②ジョセフ・セリグマン(兄弟で200,000,000ドルの北部債を購入)
③ウィリアム・セリグマン
④ジェームス・セリグマン
⑤ジェシー・セリグマン
⑥ジェームス・ド・ロスチャイルド(北部の輸入支援、ナサニエル・ロスチャイルドにも北部債の購入を促す)
⑦エイブラハム・クーン(アメリカ軍に軍服を売る)
アメリカ連合国軍(南部)
①オーガスト・ベルモント(南部債を買う)
②ラファエル・エルランガーとその兄弟
③ピーボディ商会
④ジューニアス・モルガン(親子で戦局を利用した金投機で稼ぐ)
⑤ジョン・モルガン
⑥トーマス・ウィリアム・ハウス・シニア
1,861 4 17 バージニア州がアメリカから脱退し、アメリカ連合国に加入する。その後以下の3州もバージニア州に続いた。
①ノースカロライナ州
②テネシー州
③アーカンソー州
1,861 7 5 水戸藩脱藩浪士14名が東禅寺(現在の東京都港区高輪)のイギリス公使ラザフォード・オールコック等を襲撃する。
1,861 7 17 アメリカ財務省による南北戦争の戦費調達の為の以下の不換紙幣発行がアメリカ議会で承認される。
①5ドル
②10ドル
③20ドル
1,861 9 ジョン・スライデルが、アメリカ連合国のフランス担当の外交官に指名される。スライデルは直ぐに受諾した。
1,861 9 土佐勤王党が、江戸にて高知藩武市瑞山等によって結成される。坂本龍馬は江戸では9番目、高知藩では筆頭として加盟した。
1,861 11 22 和宮親子内親王一行が京都を出発する。京方10,000名、江戸方15,000名、諸藩の警固10,000名、その他人足や賄の人数を含め総勢80,000名の大所帯であった。
1,861 12 4 和宮親子内親王一行が藪原宿(現在の長野県木曽郡木祖村)で御泊りする。
1,861 12 5 和宮親子内親王一行が奈良井宿(現在の長野県塩尻市奈良井)で御小休をとる。その後贄川宿(現在の長野県塩尻市)で御昼をとり、本山宿(現在の長野県塩尻市)で御泊りする。
1,861 12 6 和宮親子内親王一行が洗馬宿(現在の長野県塩尻市)で御小休をとる。その後塩尻宿(現在の長野県塩尻市)で御昼をとる。
1,861 12 16 和宮親子内親王一行が江戸城内の清水屋敷に入る。
1,862 フランス第二帝政皇帝ナポレオン3世とロスチャイルド家が金融提携を結ぶ。
1,862 ウォーレン・デラノ・ジュニアが、妻キャサリン・ロビンズ・ライマンと以下の子供を滞在先の広東に呼び寄せる。
①ルイーザ・チャーチ・デラノ
②デボラ・ペリー・デラノ
③アン・ライマン・デラノ
④ウォーレン・デラノ4世
⑤サラ・アン・デラノ
⑥フィリップ・デラノ
⑦キャサリン・ロビンズ・デラノ
1,862 ジョン万次郎が、江戸幕府の軍艦操練所の教授となる。スクーネル船「一番丸」の船長に任命され、小笠原諸島で捕鯨に従事した。
1,862 ノーベル・フィルズ鋳物・機械工場が、債権者によって売却される。
1,862 1 3 外国奉行水野忠徳を団長とする小笠原諸島の使節団が、咸臨丸にて品川を出港する。ジョン万次郎も通訳として同行し、父島・母島の調査と図面造りを行った。
1,862 1 6 水野忠徳率いる小笠原諸島の使節団が、咸臨丸にて浦賀を出港する。
1,862 1 15 水野忠徳率いる小笠原諸島の使節団が南硫黄島を発見する。
1,862 1 18 水野忠徳率いる小笠原諸島の使節団が父島の二見港に到着する。水野は、安藤信正に反対されていたにも拘らず、祝砲7発を打ち上げた。
1,862 1 21 父島に投錨していた咸臨丸が、強風で流され左舷の錨鎖を切断する。
1,862 2 12 坂本龍馬が武市瑞山の書簡を久坂玄瑞に届ける為に萩藩を訪ねる。松本村の鈴木勘蔵の旅館(現在の山口県萩市椿東)に泊まった。鹿児島藩田上藤七も久坂玄瑞に用があった為宿泊していた。
1,862 2 13 水戸藩脱藩浪士6名が坂下門外(現在の東京都千代田区千代田)で老中安藤信正を襲撃し、負傷させる。
1,862 2 13 坂本龍馬が他国者の為の無料宿泊施設である「文武修行館」(現在の山口県萩市江向)へ移る。
1,862 2 18 水野忠徳率いる小笠原諸島の使節団が母島に到着する。
1,862 2 21 坂本龍馬が高知藩に戻る為萩藩を出発する。
1,862 2 25 エイブラハム・リンカーンが法案に署名し、南北戦争の戦費調達を意図した、負債・利子の無い、公的・私的な全ての借金の法定通貨で、裏面が緑色の政府紙幣である「グリーンバック紙幣」の、アメリカ財務省からの150,000,000ドルの発行がアメリカ議会に認められる。1ドル当たりアメリカ金貨1ドルと同等の価値を有した。リンカーンが法案に署名した背景として、戦費を調達しようとするも、銀行家から24〜36%の高利を要求され、借りる事が出来ずに悩んでいたリンカーンに対し、第25代アメリカ財務長官サーモン・チェイスが「リンカーン何故悩むの。そんなことは簡単だよ。財務省が印刷する紙幣を法的に有効な通貨と認める法案を議会で可決させればいいんだよ。そしてその印刷した紙幣で兵達の給料を払って、そのお金を使って軍需物資を調達すれば今度の戦争だって勝つことが出来る」とアドバイスした事が背景にあった。リンカーンは「国民はそんな紙幣を信用するのだろうか?」と聞いたが、チェイスは「もし君がその通貨を法的に認めさえすれば、国民はこの事に関しては選択出来ない。通貨決定の権利は憲法によって明確に議会に与えられているんだから、国民は政府の決定を全面的に承認し、新通貨は今まで流通していた如何なる通貨とも同じ様に価値があるのだよ」と言った。その後リンカーンは以下を国民に説いた。
①債券は不要であり、起源に於いて、債務のない国家の富に比例して発行される紙幣のみが許可されるべき通貨である。
②政府は政府の費用を賄い、一般国民の消費に必要な全ての通貨を自分で発行し流通させるべきである。
③全ての通貨は、政府が創造・発行・流通させるべきである。そして信用創造量は政府の支払い能力と消費者の購買力の両方に見合ったものでなければならない。この原理原則に則るなら、納税者は莫大な額の利息を払うことから解放される。その時、お金は人間の主人であることを止め、人間の僕となる。民主主義が「金と権力」の上位に立つのである。
④通貨を作成し発行する特典は、政府のたった一つの特権であるばかりでなく、政府最大の建設的な機会なのである。
⑤この原理を取り入れる事によって、納税者は計り知れない程の金額の利子を節約出来る。
このグリーンバック紙幣は、アメリカに金本位制を導入させようとしていたロスチャイルド家の方針と真っ向から対立するものであった。さらに、この日アメリカ議会は、利率5%で、20年満期ながら期限前(最低5年)に償還する権利を持つペンシルベニア州の戦時公債である中期国債「ファイブ・トゥエンティー・ボンド」を承認した。
1,862 3 11 和宮親子内親王と第14代江戸幕府征夷大将軍徳川家茂の婚礼が行われる。それまでの13代の将軍達の婚儀とは異なり、和宮が征夷大将軍よりも高い身分で降嫁した為、嫁入りした和宮が主人、嫁を貰う家茂が客分という立場で行われた。これは後々まで、江戸城内において様々な形で尾を引く事となる。
1,862 3 26 水野忠徳率いる小笠原諸島の使節団が父島に到着する。
1,862 4 ウィリアム・ラッセルが少将に任命される。
1,862 4 14 島津斉彬の異母弟の島津久光が上洛の為、1,000名の鹿児島藩兵を率い薩摩を出発する。
1,862 4 22 夜、坂本龍馬と沢村惣之丞が高知藩を脱藩する。
1,862 5 水野忠徳率いる小笠原諸島使節団が江戸に帰港する。水野は復命書の中で、小笠原諸島の領有権の回復後の開拓には、捕鯨業が重要且つ有望であると建議した。その後ジョン万次郎は、江戸幕府の軍艦操練所の教授となり、スクーネル船「一番丸」の船長に任命され、小笠原諸島で捕鯨に従事した。
1,862 5 9 老中安藤信正が罷免される。
1,862 5 11 島津久光の軍勢が京都に入る。久光は藩主の父ではあるが大名になった事も無く、無位無官であった。このような人物が兵を率いて京都へ入り、幕府に無断で公家と接触するなどという事態は、幕府健在のころであれば許されざる暴挙であったが、権威の失墜しつつあった江戸幕府にそれを阻止する力は無かった。
1,862 5 20 ジェイ・クック商会が、西暦1,862年2月25日にアメリカ議会で承認された、ファイブ・トゥエンティー・ボンド50,000,000ドルを引き受ける。
1,862 6 26 東禅寺警備の松本藩伊藤軍兵衛がイギリス兵2名を斬殺する。
1,862 7 イングランド銀行が、アメリカの銀行業者間に以下を主旨とした「ハザード・バンキング回報」を配布する。
「奴隷制度は戦争の力で廃止されるだろう。それには私も、私のヨーロッパの友人達も賛成である。何故なら奴隷制度は、労働力を所有する事に他ならず、それには労働者の面倒を見るという事が伴う。一方ヨーロッパ流のやり方では、特にイギリスが先導役であるが、資本が賃金を管理する事によって労働力を支配する。戦争の結果生じている膨大な負債は、資本家達が処理する事になるだろうが、貨幣の価値を管理する為に使われなければならない。これを達成する為には、銀行業務の基本としては、国債が使われなければならない。サーモン・チェイスのそうした勧告を我々は待ってはいられない。グリーンバックと呼ばれている政府発行紙幣を、如何なる期間も通貨として流通させてはならない。我々がそれを管理出来ないからである。しかし国債ならば我々に管理が可能だし、それを通して銀行問題を統制する事も出来る」
1,862 7 グリーンバック紙幣の100,000,000ドルの追加発行が、アメリカ議会に認められる。
1,862 7 7 公卿大原重徳が、島津久光の軍勢と共に江戸に入る。
1,862 8 ジェイ・クックが、アメリカのワシントンD.C.に「ジェイ・クック商会」を設立する。
1,862 8 4 政事総裁職が新設され、松平春嶽が就く。当初春嶽は大老を打診されたが、譜代大名がなるものと主張した事から新設に至った。
1,862 8 15 島田正辰が暗殺される。
1,862 9 14 武蔵国橘樹郡生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区)で、鹿児島藩主島津忠義の父島津久光の行列に騎馬のイギリス人達を供回りの奈良原喜左衛門、海江田信義等が殺傷(1名死亡、2名重症)した。
1,862 9 22 エイブラハム・リンカーンが西暦1,863年1月1日までに南部諸州が連邦に復帰しなければ、その日を期して黒人奴隷を解放するという、奴隷解放予備宣言を行う。
1,862 9 24 幕府の召命に応じて登城した第9代会津藩主松平容保は、征夷大将軍より京都守護職に任じられ、役料として50,000石を加増し、30,000両を貸し与えた。当初容保は断っていたが、松平春嶽が藩祖である保科正之の遺訓を持ち出し説得を続けた。
1,862 10 サーモン・チェイスが、ジェイ・クックを、西暦1,862年2月25日にアメリカ議会で承認された、ファイブ・トゥエンティー・ボンドを売る特別代理人に任命する。その後ジェイ・クックは、ジェイ・クック商会を通じてファイブ・トゥエンティー・ボンド50,000,000の売却に成功した。
1,862 10 29 徳川家茂に上洛の通達が出される。
1,863 現在の長崎市南山手町のグラバー邸が完成する。
1,863 ジョン・ロックフェラーが、パートナーと共に、投資組合(パートナーシップ)による石油精製工場を設立する。
1,863 第27代アメリカ陸軍長官エドウィン・スタントンがウェストポイント(アメリカのニューヨーク州オレンジ郡)を視察し、報告書を作成する為の訪問者委員会にウィリアム・ラッセルを任命する。他に以下2名も委員であった。
①ラルフ・ワルド・エマーソン
②ヘンリー・バーナード
1,863 アルフレッド・ノーベルがストックホルムに戻り、イマヌエル・ノーベルと合流する。其の後アルフレッドは、本年中に、火薬を使用してニトログリセリンを意図的に爆発させる、起爆装置を発明した。
1,863 1 グリーンバック紙幣の100,000,000ドルの追加発行が、アメリカ議会に認められる。
1,863 1 1 前年の奴隷解放予備宣言に対し、南部諸州に動きが無かった為、予定通り奴隷解放宣言を行う。それに伴い、イギリスが北部支持に寝返った。
1,863 1 3 江戸幕府が浪士募集策の実行の決議する。
1,863 1 31 御殿山(現在の東京都品川区北品川)に建設中のイギリス公使館が焼き討ちにされる。実行者は以下の通り。
隊長:高杉晋作
副将:久坂玄瑞
火付け役:井上馨、伊藤博文、寺島忠三郎
護衛役:品川弥二郎、堀真五郎、松島剛蔵
斬捨役:赤根武人、白井小助、山尾庸三、等
1,863 2 12 松平容保が会津藩兵1,000名を率いて入京する。
1,863 2 27 江戸幕府が、清河八郎の献策を受け入れ、徳川家茂の上洛を警護する名目で、江戸で浪士を募集、伝通院(現在の東京都文京区小石川)に300名近い浪士が集まる。この中に、近藤勇、土方歳三、井上源三郎、沖田総司、芹沢鴨がいた。
1,863 3 グリーンバック紙幣の100,000,000ドルの追加発行が、アメリカ議会に認められる。
1,863 3 3 浪士組が結成され、京都へ向けて江戸を出発する。中山道を通った。年長者や身体の弱い者は駕籠や馬の利用を許された。
1,863 3 4 浪士組一行が本庄宿に到着する。ここで、先番宿割を任されていた近藤勇が芹沢鴨の宿を取り忘れ、怒った芹沢が路上で大篝火を焚くという騒動を起こすが、近藤が池田徳太郎と共に芹沢に謝罪して解決した。
1,863 3 6 浪士組一行が松井田宿に到着する。
1,863 3 8 浪士組一行が長久保宿に到着する。
1,863 3 9 浪士組一行が下諏訪宿に到着する。
1,863 3 10 浪士組一行が奈良井宿に到着する。
1,863 3 12 浪士組一行が中津川宿に到着する。
1,863 3 14 浪士組一行が加納宿に到着する。
1,863 3 16 浪士組一行が武佐宿に到着する。
1,863 3 17 浪士組一行が大津宿に到着する。
1,863 3 18 清河八郎が、徳川家茂上洛の前衛の名目で浪士組を率い京都に到着し、壬生村(現在の京都府京都市中京区)に分宿した。夕刻、浪士組全員が新徳寺(現在の京都府京都市中京区壬生賀陽御所町)に集められ、本懐は徳川家茂の警護ではなく尊王攘夷であるという趣旨の演説を行い、その場で血判状を集め始める。
1,863 3 31 徳川家茂が、前年の和宮親子内親王降嫁の条件である攘夷決行を迫る朝廷に応えるという名目で上洛する為、3,000名を率い江戸を出発し、同日川崎に到着。
1,863 4 1 徳川家茂一行が戸塚に到着する。
1,863 4 2 徳川家茂一行が大磯に到着する。
1,863 4 3 徳川家茂一行が小田原に到着する。
1,863 4 3 芹沢鴨、近藤勇等17名が徳川家茂が江戸に帰還するまでの京都残留の嘆願書を提出する。
1,863 4 4 徳川家茂一行が三島に到着する。
1,863 4 5 徳川家茂一行が吉原に到着する。
1,863 4 6 徳川家茂一行が興津に到着する。
1,863 4 7 徳川家茂一行が駿府に到着する。
1,863 4 9 徳川家茂一行が藤枝に到着する。
1,863 4 10 徳川家茂一行が掛川に到着する。
1,863 4 11 徳川家茂一行が浜松に到着する。
1,863 4 12 徳川家茂一行が吉田に到着する。
1,863 4 13 徳川家茂一行が岡崎に到着する。
1,863 4 14 徳川家茂一行が熱田に到着する。
1,863 4 15 徳川家茂一行が桑名に到着する。
1,863 4 16 徳川家茂一行が四日市に到着する。
1,863 4 17 徳川家茂一行が亀山に到着する。
1,863 4 18 徳川家茂一行が土山に到着する。
1,863 4 19 徳川家茂一行が石部に到着する。
1,863 4 20 徳川家茂一行が大津に到着する。
1,863 4 21 徳川家茂一行が二条城に到着する。
1,863 4 29 壬生村に残留していた浪士が、松平容保の預かりとなり、壬生浪士組が結成される。
1,863 5 30 清河八郎が佐々木只三郎、窪田泉太郎等6名によって麻布赤羽橋で首を討たれた。
1,863 6 萩藩高杉晋作の発案で、奇兵隊が結成される。萩藩吉田稔麿が参加していた。
1,863 6 24 イギリス公使代理のジョン・ニールが幕府から生麦事件の賠償金100,000ポンドを受け取る。
1,863 6 27 総領事エイベル・ガウワーの斡旋で、萩藩の伊藤博文、井上馨、井上勝、山尾庸三、遠藤謹助がジャーディン・マセソン商会の船のチェルスウィック号で横浜を出港し、上海に向かう。
1,863 7 19 以下2名の間に四男レイモンド・ロジャース・ベルモントが生誕する。
①オーガスト・ベルモント
②キャロライン・スライデル・ペリー
1,863 7 28 徳川家茂一行が船で大坂を出発する。
1,863 7 31 徳川家茂一行が江戸に到着する。
1,863 9 30 萩藩を中心とする尊攘派が朝廷を動かし、挙兵討幕の手段として攘夷親征・大和行幸の詔を出させた事に対し、公武合体派の鹿児島藩が京都守護職松平容保等と謀って、機先を制し御所を警固して朝議を一変し、急進派の公家の参内を禁じた。萩藩は御所警衛の任を解かれ,三条実美ら尊攘派の公家は萩藩へのがれた。尊攘派勢力は一時衰退した。
1,863 10 14 アルフレッド・ノーベルが、「ニトログリセリンの調製方法」のスウェーデンの特許を取得する。
1,863 11 6 松平容保から新撰組を拝命し、壬生浪士組から改名する。
1,864 ジューニアス・モルガンがジョージ・ピーボディから事業を完全譲渡され、ピーボディ・モルガン・アンド・カンパニーを、ジューニアス・スペンサー・モルガン・アンド・カンパニー(J.S.モルガン商会)に社名変更する。
1,864 鹿児島藩が洋学校「開成所」を設立する。
1,864 6 新選組諸士調役兼監察の山崎丞・島田魁らが、四条小橋上ル真町で炭薪商を経営する古高俊太郎の存在を突き止め、会津藩に報告。俊太郎は梅田雲浜とも親交があった。この頃、萩藩の人間が、京都三条木屋町にあった旅籠の池田屋周辺で見掛けられていた。
1,864 7 グリーンバック紙幣が、度重なる増刷により39セントに下落する。
1,864 7 8 新撰組一番隊組長沖田総司、二番隊組長永倉新八、十番隊組長原田左之助等隊士20数名を率いて壬生の屯所を出発し、池田屋に突入した。寝込みを襲ったものの、万が一に備えていた雇人達は素早く逃げた。ただ主の古高俊太郎だけは、書類に火をつけていた。そこを捕えられ、屯所まで連行される。副長土方歳三が拷問を加え、萩藩浪士が、7/23前後の風の強い日を選んで京都御所を中心に京都の町への放火、松平容保の殺害、孝明天皇を拉致して萩藩に連行する計画を自白する。それを受け、副長山南敬助等6名が屯所に残り、午後に局長近藤勇以下34名が出動する。会津藩との取り決めでは祇園町会所を20時に出動、新選組は会津藩兵と共に四条から三条へ北上、会津藩は二条から三条に南下しつつ、捜索していく計画であったが、会津藩の対応が遅い為、近藤と土方が19時に先に出動する。一方、会津藩内では、新選組と共に出動する事によって、萩藩との対立が深刻化する事を懸念する声もあったが、病床にあった容保の指示で出動が決まり、22時頃に捜索を開始した。近藤が9名、土方が23名を率いる事とし、土方はさらに自隊を2つに分けた。また新選組には一番から八番までの組があり、それぞれを8人の副長助勤が組長となって率いたが、その8人が近藤隊(沖田、永倉、藤堂平助、安藤早太郎)と土方隊(井上源三郎、斎藤一、原田、松原忠司)に分かれた。土方の2小隊は井上と松原がそれぞれ指揮する事となった。近藤が1小隊、土方が2小隊を率いる事としたのは近藤隊が鴨川西の木屋町筋を探索するのに対し、土方隊が鴨川東岸の茶屋の多い縄手通を担当する為である。浪士らの出入りしそうな場所を探索するも近藤隊、土方隊ともに空振りが続いた。そして、22時頃四条から木屋町筋を探索しつつ北上していた近藤隊が、三条の池田屋に到達する。近藤は踏み込む前に池田屋の間取りを確認し、表口、裏口を3名ずつで固めさせ、近藤、沖田、永倉、藤堂の4名で、古高を奪還する為の相談で集まっていた約30名の尊攘派を襲撃する。結果尊攘派の宮部鼎蔵、吉田稔麿、高知藩北添佶摩等が命を落とした。
1,864 7 19 天京にて清と太平天国の戦いにより天京が陥落し、太平天国が滅亡した。
1,864 9 3 イマヌエル・ノーベルが所有するヘレネボリ工場(スウェーデンのストックホルム県)にて、ニトログリセリンの準備に使用されていた小屋が爆発し、イマヌエルの四男エミール・ノーベルを含む5名が死亡した。此の事故により、アルフレッドは爆発物の製造免許を剥奪された。其の後アルフレッドは、より孤立した場所で作業を続ける為に、同年、ヴィンテルヴィーケン(スウェーデンのストックホルム県)に「ニトログリセリンAB社」を設立した。
1,864 9 14 坂本龍馬が、勝海舟の使者として京都で西郷隆盛と会談する。
1,864 9 28 カール・マルクスが、第1インターナショナル(国際労働者協会)の設立を、セント・マーティン・ホール(現在のイギリスのロンドンのシティ・オブ・ウェストミンスターのロング・エイカー)で宣言する。ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドの長男ライオネル・ド・ロスチャイルドもメンバーに名を連ねていた。
1,864 11 7 デイヴィッド・サスーンがプーナ(現在のインドのマハーラーシュトラ州プネー)で死去し、長男アルバート・サスーンが後を継ぐ。
1,864 11 8 第20回アメリカ大統領選が行われ、エイブラハム・リンカーンが再選を果たす。オーガスト・ベルモントはリンカーンに対し多額の資金提供を行なっていた。
1,864 11 21 エイブラハム・リンカーンが、友人に「国際金融権力は平和時には国家を食い物にし、逆境のときには国家に対して陰謀を企てる。君主制よりも横暴で、独裁政治よりも身勝手だ」という主旨の書簡を送る。
1,864 12 8 小栗忠順が第2代駐日フランス公使レオン・ロッシュに造船所建設を委ねる。
1,864 12 24 小栗忠順、栗本鋤雲、レオン・ロッシュが造船所建設地を横須賀に決定する。長浦(現在の千葉県袖ケ浦市蔵波)、横須賀にて実地検分を行っていた。
1,865 アメリカのマサチューセッツ州でキダー・ピーボディ証券が設立される。ジョージ・ピーボディはこの一族である。
1,865 イギリスのロスチャイルド家の代理人ジェイコブ・シフが渡米する。
1,865 ジョルジュ・ファーヴル・ジャコがル・ロックルに時計工房を立ち上げ、「ゼニス」を設立する。
1,865 エイブラハム・クーンとソロモン・ローブが、サミュエル・ウォルフと共に、経営するクーン・ネッター社を衣料品事業から銀行事業に転身させる。
1,865 アルフレッド・ノーベルが、爆発の起爆に水銀を使う方法を導入する。ノーベルは此の発明の特許を取得し、世界各地を旅して、以下にニトログリセリンの製造工場を建設し、世界中に出荷した。
①ストックホルム
②ハンブルク
ノーベルは本年からゲーストハッハト(現在のドイツのシュレースヴィヒ・ホルシュタイン州)に住み始めた。
1,865 1 ジャーディン・マセソン商会が、アヘン取引で稼いだ資金をイングランド銀行に送金する為に払込資本金2,500,000ドルで「香港上海銀行」を設立する。発起人は主に以下である。
①トーマス・サザーランド
②デント商会
③オーガスティンハード商会
④ラッセル家
⑤サスーン商会
最大の株主はデイヴィッド・サスーンの五男でネイサン・メイヤー・ロスチャイルドの義理の兄であるアーサー・サスーンであった。業務内容としては、アヘン貿易商社の資金融通や、送金の請負であった。
①ジャーディン・マセソン商会
②デント商会
③サスーン商会
1,865 1 6 江戸幕府がレオン・ロッシュを老中諏訪忠誠の屋敷に招き、老中水野忠精、老中阿部正外、諏訪、ロッシュの四者で会談を行う。幕府はフランスとの協定を強固にする為に使節の派遣を申し出て、フランスもこれを了承した。これが後の柴田剛中を組頭とした遣欧使節となる。またロッシュは、先に造船の技術者として推薦したレオンス・ヴェルニーが上海での仕事を終え来日する予定なので、ヴェルニーが到着した際は、幕府が現在保有している製鉄機械類を見た上で、不足する分があれば遣欧使節に、フランスに於いて購入して貰う事を提案し、幕府側もこれに賛同した。また老中達は、懸念していた造船所の建設費用に関し、幕府の財政状況が厳しい事をロッシュに訴え、生糸のフランスへの輸出で活路を見出そうとした。しかしロッシュは疑念を生むとして躊躇し、結論は出なかった。
1,865 1 21 筆之丞が死去する。
1,865 2 13 鹿児島藩で視察員4名と、鹿児島藩開成所を中心に留学生15名が選ばれ、留学渡航の藩命が下される。
1,865 2 15 使節団長の新納に率いられ鹿児島を出発し鹿児島藩留学生一行16名は、苗代川(現在の鹿児島県日置市美山)に一泊する。
1,865 2 16 鹿児島藩留学生一行16名は市来湊から船に乗って羽島に渡る。留学生一行はトーマス・ブレーク・グラバーが用立てた船に乗船する事となっており、その船が長崎から羽島沖に迂回される事になっていた。
1,865 3 3 香港上海銀行香港本店が設立される。
1,865 4 香港上海銀行が上海支店を設立される。
1,865 4 9 アメリカ連合国が降伏する。アメリカ連合国将軍アルバート・パイクはエイブラハム・リンカーンに恩赦を申請した。
1,865 4 14 22時14分、フォード劇場(アメリカのワシントンD.C.ノースウェスト)2階の特別ボックスにて、以下3名と共に「われらのアメリカのいとこ」を観劇中であったエイブラハム・リンカーンが、ゴールデン・サークル騎士団のメンバーであるジョン・ウィルクス・ブースに銃撃される。
①メアリー・トッド・リンカーン
②ヘンリー・ラスボーン
③クララ・ハリス
ラスボーンとハリスは、アメリカ軍将軍ユリシーズ・グラント夫妻が来れなくなった事による代役であった。また、この銃撃には以下の人間も加担していた。
①アルバート・パイク
②第3代アメリカ連合国国務長官ジュダ・ベンジャミン
③ジョン・スライデル
④アメリカ有色軍志願兵部隊大佐ジョージ・ウィリアム・ベアード
⑤トーマス・ウィリアム・ハウス・シニア
1,865 4 14 イギリス渡航に係る手続きの為長崎に滞在していた五代友厚、寺島宗則、堀孝之の3名が羽島に到着し、鹿児島藩留学生一行と合流。
1,865 4 15 朝、エイブラハム・リンカーンが死去する。これにより、第16代アメリカ副大統領で、フリーメイソンのアンドリュー・ジョンソンが、第17代アメリカ大統領に就任した。
1,865 4 16 乗船する蒸気船オースタライエン号が羽島沖に現れる。その後、荷物を積み込み鹿児島藩留学生一行は、羽島沖で停泊する船内で寝る事となる。
1,865 4 17 鹿児島藩留学生一行が昼前にイギリスへ向けて出航する。
1,865 4 21 鹿児島藩留学生一行が夕刻に香港に到着する。ガス燈で彩る香港の夜景に見惚れた彼らは、感嘆の声を上げる。同時に、薩英戦争時に戦ったイギリス戦艦ユーリアラス号が停泊していた事にも驚く。洋服を仕立て上陸した彼らは、紅茶を飲んだり、時計を買ったりとそれぞれ香港の街を満喫した。
1,865 4 26 イギリス外務次官エドマンド・ハモンド(初代ハモンド男爵)が第2代駐日英国大使ハリー・パークスに対し、「日本において体制の変化がおきるとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない」という主旨の書簡を送る。
1,865 4 29 P&O汽船会社の客船マドラス号に乗り換えた鹿児島藩留学生一行が香港を発つ。マドラス号は、乗船人数250名、客室30室の蒸気客船で食堂、浴室、トイレが完備されていた。洋式の便器を初めて見た五代友厚は、きれいな陶器に水が流れる便器を見て、洗面器と勘違いして顔を洗った、と後に財部実行は述べている。
1,865 5 1 ヴォルフ電報局が会社組織に改組され株式公開する。主な株主は以下である。
①ベルンハルト・ヴォルフ
②銀行家
③プロイセン政府
プロイセン政府の支援により国内でのヴォルフの地位は磐石なものとなった。
1,865 5 5 鹿児島藩留学生一行が午前中にシンガポールに到着する。彼らはここで、初めてパイナップルを食べた。味は日本の桃のようで、形は丸く少し長く、皮は松の皮に以て黄色で実は白く、漢字にすると松笠果物ではないか、と感想を述べている。
1,865 5 6 鹿児島藩留学生一行がペナン島へ向けてシンガポールを出航する際、新たに20人程のオランダ人が乗船してきた。 松村淳蔵はオランダ人乗客が家族との別れの際にキスをする姿に驚いた。
1,865 6 幕府機関である神戸海軍操練所の解散に伴い、鹿児島藩と長崎の豪商小曽根乾堂の援助を得て、長崎の亀山(現在の長崎県長崎市伊良林)に「亀山社中」が結成される。グラバー商会と銃器の取引を開始し藩に銃器などを卸す。物資の輸送や航海訓練等も行なった。
1,865 6 24 アルバート・パイクが、アンドリュー・ジョンソンに恩赦を申請する。それまでのアメリカ憲法の解釈を破棄し「平和のための芸術を追求し、自分の職業を実践し、本に囲まれて生活し、政治的な方法以外で仲間や人種のために働く事を計画している」と述べた。
1,865 6 28 坂本龍馬が木戸孝允と会談し、萩藩と鹿児島藩の和解を説いた。
1,865 7 2 西郷隆盛が木戸孝允との会談予定を破り、そのまま京都へ向かう。
1,865 7 21 西郷隆盛を説得する為中岡慎太郎、坂本龍馬が京都へ向かう。
1,865 8 大村益次郎の勧めで、伊藤博文が坂本龍馬の甥で亀山社中の坂本直の仲介で、トーマス・ブレーク・グラバーから当時の最新式のミニエー銃(エンフィールド短小銃)4,300挺と、ゲベール銃3,000挺を92,400両で買い付ける。
1,865 8 6 ジェイコブ・シフがニューヨークに到着する。
1,865 10 前々月萩藩が買い付けたミニエー銃(エンフィールド短小銃)4,300挺と、ゲベール銃3,000挺が、鹿児島藩の船である「胡蝶丸」、「海門丸」で三田尻(現在の山口県防府市)へ輸送される。
1,865 10 15 トーマス・ブレーク・グラバーが「ユニオン号」で下関を訪れる。前々月のミニエー銃(エンフィールド短小銃)4,300挺と、ゲベール銃3,000挺の92,400両の支払いに関し、貨幣に米・麦・塩を加えて支払う事で萩藩と合意した。
1,865 11 15 横須賀造船所の鍬入れ式が執り行われる。
1,866 福井藩脱藩浪士吉田健三がイギリスへ密航する。
1,866 初代イタリア王国国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がユダヤ人にイタリア人と同じ権利を保証する。
1,866 ジョン万次郎が鹿児島藩の開成所の教授に就任する。以下を指導した。
①航海
②造船
③測量
④英語
1,866 山内容堂の命により、以下2名が中心となり、殖産興業・富国強兵を推し進める事を意図し、高知藩の藩校「開成館」を設立する。
①ジョン万次郎
②後藤象二郎
さらに万次郎は、後藤等と上海に渡り、船を購入し「夕顔号」と名付けた。
1,866 アルフレッド・ノーベルがアメリカを訪れ、以下に工場を建設する。
①ニューヨーク州
②カリフォルニア州サンフランシスコ
1,866 4 23 アンドリュー・ジョンソンがアルバート・パイクを赦免する。
1,866 5 香港上海銀行が横浜支店を設立される。
1,866 7 13 ヴァレンティア島(現在のアイルランドのケリー県)とニューファンドランド島(現在のカナダのニューファンドランド・ラブラドール州)を結ぶ海底電信ケーブルが完成する。前年にグレートイースタン号がテムズ川に落としたケーブルは引き上げられた。
1,866 8 29 徳川家茂が大坂城で毒殺される。
1,866 9 25 ジェロームパーク競馬場が、ニューヨーク州ウェストチェスター郡フォーダム(現在のアメリカのニューヨーク州ニューヨーク市ブロンクス区)にオープンする。以下2名等が設立に尽力した。
①ウィンストン・チャーチルの母方の祖父レナード・ジェローム
②オーガスト・ベルモント
1,866 11 21 ジェイコブ・シフがブローカーになる。
1,867 以下2名が「クーン・ローブ商会」をニューヨークで創業する。
①エイブラハム・クーン
②ソロモン・ローブ
1,867 ホープタウン(現在の南アフリカの北ケープ州)で農夫の息子であるエラスムス・ジェイコブスが、オレンジ川付近でユーレカダイヤモンドを拾う。ナサニエル・ロスチャイルドは其れを聞き直様アングロ・アフリカン・ダイヤモンド鉱山社に出資した。
1,867 イライアス・サスーンが「E.D.サスーン&カンパニー」を設立し、サスーン商会と共に以下の品目の取引を開始する。
①ドライフルーツ
②南京で製造された黄色の綿
③金属
④茶
⑤絹
⑥スパイス
⑦樟脳
1,867 1 30 孝明天皇が暗殺される。
1,867 2 6 ジョージ・ピーボディが有価証券1,000,000ドルを投じ「ピーボディ教育基金」を設立する。表向きは南北戦争後の南部黒人の教育を設立の目的としていたが、実際は北部の資本家が南部の土地の支配権を獲得し、南部諸州の政府を支配する事が狙いであった。
1,867 3 16 ジョージ・ピーボディが1,100,000ドル程度の有価証券をピーボディ教育基金に投資する。
1,867 3 30 アメリカが、ロシア帝国からアラスカを買収する。
1,867 6 19 オーガスト・ベルモントの名を冠した、アメリカクラシック三冠の1つである「ベルモントステークス」が、ジェロームパーク競馬場にて初開催される。
1,867 10 11 坂本龍馬が出島のオランダ商人ハットマンからミニエー銃1,300挺を18,875両で購入する。
1,867 10 12 坂本龍馬が長崎の鹿児島藩蔵屋敷から鋏屋与一郎、広瀬屋丈吉を保証人として5,000両を借り、4,360両の内金の内4,000両をハットマンに支払い360両を値引きして貰う。また、鋏屋と広瀬屋には抵当としてミニエー銃100挺を出島で渡した。その場には陸奥宗光もいた。残った1,000両は以下の使い道であった。
①海援隊の人件費200両
②海援隊の運営経費150両
③長崎商人への仲介料150両
④田辺藩への資金提供500両
1,867 10 14 坂本龍馬が海援隊の部下に対し、大量の石炭購入を指示する。
1,867 10 15 早朝、坂本龍馬が、広島藩から借りた「震天丸」にライフル銃1,200挺を積み長崎を出港する。
1,867 10 21 坂本龍馬が浦戸(現在の高知県高知市)に入港し、京都の状況を簡潔に記した書簡を使者に持たせ、高知藩仕置役斎藤利行に届けさせる。18時頃、坂本は松ヶ鼻(現在の高知県高知市)の茶亭にて斎藤、大目付本山只一郎等と会談し、武力討幕に向け萩、鹿児島の両藩の活動が活発化している京都の緊迫した情勢を伝えた。それを受け高知藩は、坂本が持ち込んだミニエー銃1,200挺を買い入れる事で合意した。
1,867 10 26 坂本龍馬が脱藩以来5年振りに実家に帰り、兄の坂本権平、姉の坂本乙女、姪の坂本春猪等と再会する。
1,867 11 8 鹿児島藩に対し、倒幕の偽勅が秘密裏に下される。
1,867 11 9 徳川慶喜が政権返上を第122代天皇明治天皇へ奏上する。
1,867 11 9 萩藩に対し、倒幕の偽勅が秘密裏に下される。
1,867 11 10 明治天皇が徳川慶喜の奏上を勅許する。
1,867 12 10 高知藩を脱藩した中岡慎太郎、坂本龍馬と龍馬の従僕であった山田藤吉の3人が京都河原町通蛸薬師下ルの近江屋井口新助邸において襲撃され、坂本が死去する。
1,867 12 11 山田藤吉が死去。
1,867 12 12 中岡慎太郎が死去。
1,868 アメリカのボストン出身のフロレンタイン・アリオスト・ジョーンズがシャフハウゼン(現在のスイス)にて「IWC」を設立する。ジョーンズはスイスの時計職人の職人技や時計製造の専門知識を活かし、当時ヨーロッパで一般的であった安い人件費を利用する算段を立てていた。ジョーンズはジュネーヴにて時計工房を一箇所に集約する事をプレゼンしたが、時計は自宅や時計工房で製作するのが一般的であった為懐疑的に受け止められた。そんな中時計職人インリッヒ・モーザーと出会い、モーザーは滝の水の力を利用した水力発電をジョーンズに提案し受け入れられた。
1,868 吉田健三が英一番館の横浜支店長に就任し、以降3年間日本政府を相手に軍艦・武器・生糸の売買に従事し、目覚ましい業績を上げる。
1,868 1 1 正午、イギリス海軍ネルソン級戦艦「ロドニー」等イギリス・アメリカの戦艦18隻から祝砲が撃たれ、神戸が開港する。小栗忠順、レオン・ロッシュもその場にいた。
1,868 1 3 王政復古の大号令が発せられる。
1,868 3 18 西郷隆盛の軍が駿府に進軍する。
1,868 4 1 ハリー・パークスの部下で通訳のアーネスト・サトウが、江戸の情勢を探る為勝海舟に会う。
1,868 4 1 幕臣山岡鉄舟が徳川家処分の交渉の使者として西郷隆盛に会う。この際山岡に同行した薩摩藩益満休之助が、山岡と西郷の仲介を行った。
1,868 4 1 有栖川宮熾仁親王から西郷隆盛に対し西暦1,868年4月7日に江戸を攻撃する様命令が下る。
1,868 4 3 西郷隆盛の軍が江戸攻撃の為駿府を出発する。
1,868 4 5 萩藩木梨精一郎が西郷隆盛の命令でハリー・パークスを訪ね、江戸攻撃の際山手(現在の神奈川県横浜市中区山手町)に駐留しているイギリス兵1,000名を動かさない様依頼する。
1,868 4 5 高輪の薩摩藩下屋敷で勝海舟と西郷隆盛が会談を行う。会談の提案、場所の指定は勝海舟が行った。
1,868 4 6 勝海舟が田町の薩摩藩蔵屋敷を訪ね、西郷隆盛と会談する。西郷は、翌日に予定していた江戸攻撃の中止を約束した。
1,868 4 7 西郷隆盛が京都へ向けて出発する。
1,868 4 8 西郷隆盛が駿府に到着する。
1,868 4 11 西郷隆盛が京都に到着する。
1,868 4 12 西郷隆盛が京都御所を参内し、明治天皇から徳川慶喜助命の勅裁を得る。
1,868 4 14 西郷隆盛が京都を出発する。
1,868 4 20 西郷隆盛が横浜でハリー・パークスと会談する。
1,868 4 20 西郷隆盛が本門寺(現在の東京都大田区池上)に到着する。
1,868 4 27 西郷隆盛が大久保利通に対し勝海舟に会わない旨の手紙を書く。
1,868 5 1 勝海舟が旧幕府軍の処遇等について嘆願する為本門寺を訪れ、木梨精一郎、海江田信義と会談する。
1,868 5 2 勝海舟が前日に続き本門寺を訪れ、木梨精一郎、海江田信義、西郷隆盛と会談する。
1,868 5 3 朝、徳川慶喜は謹慎先の寛永寺(現在の東京都台東区上野桜木)から、新たな謹慎先である水戸へと出発する。この日は松戸に宿泊した。
1,868 5 3 江戸城が開城する。
1,868 5 4 徳川慶喜が我孫子で昼食を摂り、取手で休息、藤代に宿泊した。
1,868 5 5 徳川慶喜が土浦に宿泊する。
1,868 5 6 徳川慶喜が堅倉に宿泊する。
1,868 5 7 徳川慶喜が水戸に到着し、弘道館の至善堂に入り再び謹慎を開始する。
1,868 5 26 アルフレッド・ノーベルが、ニトログリセリンと、以下の非爆発性の多孔質物質を混合する事で、ニトログリセリンの爆発力を失う事無く、爆発や其の他特性が大幅に変わり、輸送・保管・使用の安全性を向上させる事に関する特許を取得する(US78317A)。
①珪質泥
②酸化ケイ素を主成分にとする研磨剤トリポリ
③金属やガラスの研磨に使用される研磨剤ロットンストーン
ノーベルは、重量の75%がニトログリセリン、25%がロットンストーンという組成が、取り扱いや爆発力の面で理想的である事を発見した。今回発明された組成物は、通常の梱包で空気中に晒されて火が付いても、火薬と異なり爆発せずに燃焼するだけであり、安全な物であった。此の組成物を爆発させるには、パッケージに確りと封止し、発破用の導火線で点火した雷管で爆発させる必要が有った。此の技術は、鉱業や交通網の建設に於いて、世界中で使用された。
1,868 7 17 江戸府が東京府に改称される。
1,868 11 4 明治天皇が多くの公卿の反対を押し切り、東京への行幸の為、京都を出発する。
1,868 11 26 明治天皇が江戸城を行幸中の皇居と定め、東京城と改称する。
1,869 エイブラハム・クーンが妻の死去により、クーン・ローブ商会の経営への直接的な関与を止め、幼い以下2名の娘と共に、フランクフルトのフォイヤバッハ通り14番(大きな庭のある家)に居を構える。
①アイーダ
②エミリー
以降も西暦1,887年迄パートナーとしてクーン・ローブ商会に関与した。
1,869 ジョン万次郎が、開成学校の徴士(二等教授)となる。英語教授として指導に当たった。この年から11年間指導に当たり、高知藩下屋敷(現在の東京都江東区北砂)に居住していた。
1,869 6 10 ポール・ジュリアス・ロイターがヴォルフ電報局を買収しようとした事に反発し、ベルンハルト・ヴォルフが第22代プロイセン王国首相オットー・フォン・ビスマルクと提携して「大陸電報社」と改称する。報道部門は大陸電報局と呼ばれる様になった。当時ビスマルクはプロイセン国庫から100,000ターレ/年の資金提供をヴォルフ電報局に行っていた。
1,869 11 17 スエズ運河の開通式が開かれる。招かれたヨーロッパ各国の元首を乗せた48隻の船がポートサイドから、そしてスエズ側からはエジプトの軍艦が運河に入り、中間点のティムサーハ湖(現在のエジプトのイスマイリア県)で合流した。 この日ヴェルディのオペラである「アイーダ」の上演が予定されていたが、完成が間に合わず、代わりに「リゴレット」が上演された。「アイーダ」が披露されるのは後の西暦1,871年となる。工事費用は当初200,000,000フランの予定であったが、結果的に425,000,000フランを要した。差額はエジプトが負担した。
1,870 フェルディナン・ド・レセップスが、第6代イギリス・ハノーヴァー朝国王ヴィクトリアから勲章を受け、スエズ運河建設に反対していたイギリスが態度を一変させる。利用する船も、毎年一番多いのはイギリス船であった。イギリスは、スエズ運河会社の株を買い入れる機会を窺う様になった。
1,870 エゼキエル・カドゥーリがカルカッタ(現在のインドの西ベンガル州コルカタ)のサスーン商会に入社する。
1,870 ジョン万次郎が開成学校の中博士(教授)となる。
1,870 チャールズ・テイズ・ラッセルが、キリスト教系の新宗教である「聖書研究会」を開く。後に「エホバの証人」と呼ばれる様になった。
1,870 病弱であったセシル・ローズが、気候により健康状態が良くなるかも知れないという期待を込めて、家族によって南アフリカに送られる。
1,870 アルフレッド・ノーベルが、自身の会社の本社と研究所をパリに移す。そして、ニトログリセリン以外の爆薬の開発に注力した。
1,870 1 10 ジョン・ロックフェラーが、アメリカのオハイオ州に「スタンダード・オイル・オブ・オハイオ社」を設立する。
1,870 8 1 ジェイコブ・シフが以下の人間と共に「ニューヨーク・コンチネンタル銀行」を設立する。
①乾物の卸売会社「バルクリー&クラフリン」創業者ホレス・ブリガム・クラフリン
②武器商人マーセラス・ハートレー
③ニューヨーク証券取引所ロバート・リビングストン・カッティング
④ジョセフ・セリグマン
1,870 9 20 イタリア王国がローマ教皇領へ侵攻する。
1,870 9 23 以下4名を含む普仏戦争視察団が、横浜を出港する。
①林有造
②大山巌
③品川弥二郎
④ジョン万次郎
1,870 10 6 イタリアが住民投票により、ローマを併合する。イタリアの統一によって教皇領を奪われたローマ・カトリック教会は、それまで領地からの得ていた収入を絶たれ、深刻な財政難に陥る。これを受けてロスチャイルド家がローマ・カトリック教会に対し200,000ドルを融資する。以降バチカンの資金運用はロスチャイルド人脈が担う事となる。
1,870 11 ジョン万次郎が、フェアヘイヴンにてウィリアム・ホイットフィールドと再会する。互いに涙した。
1,871 セシル・ローズが、キンバリー(現在の南アフリカ北ケープ州)にて、ダイヤモンド取引に参入する。ビジネス仲間のチャールズ・ダネル・ラッドと共に、以下の業務を行っていた。
①ダイヤモンドの取引
②ポンプの貸し出し
③製氷機の操作
1,871 8 15 アルバート・パイクがジュゼッペ・マッツィーニに以下の内容の書簡を送る。
①第一次世界大戦は、ロシアのツァーリズムを破壊し、広大な地をイルミナティのエージェントの直接の管理下に置く為に仕組まれる。そして、ロシアはイルミナティの目的を世界に促進させる為の「お化け役」として利用される。
②第二次世界大戦は、「ドイツの国家主義者」と「政治的シオニスト」の圧倒的な意見の相違の操作の上に実現される。その結果、ロシアの影響領域の拡張と、パレスチナに「イスラエル国家」の建設が為されるべきである。
③第三次世界大戦は、シオニストとアラブ人との間に、イルミナティ・エージェントが引き起こす、意見の相違によって起こるべきである。世界的な紛争の拡大が計画されている。
1,871 10 セシル・ローズが、キンバリー(現在の南アフリカ北ケープ州)にて、N・M・ロスチャイルド&サンズの資金提供により、ダイヤモンド取引に参入する。ビジネス仲間のチャールズ・ダネル・ラッドと共に、以下の業務を行っていた。
①ダイヤモンドの取引
②ポンプの貸し出し
③製氷機の操作
以降、西暦1,888年迄、キンバリーの全ての小規模ダイヤモンド採掘事業を買収した。
1,872 イライアス・サスーンがサスーン商会から独立し、上海で「新サスーン商会」を設立する。
1,872 バッジ・シフ・アンド・カンパニーが解散する。その後ジェイコブ・シフはドイツに帰国した。
1,872 バジル・ザハロフが、ブリストル(イギリスのサウス・ウェスト・イングランド)にてイギリス人女性と結婚する。
1,872 5 17 サンフランシスコの日刊紙「サンフランシスコ・エグザミナー」の記者5名を中心に、ジャーナリスト・芸術家・ミュージシャンによって、ジャーナリズムを一般大衆の評価に値する地位へと高める為の、文学・芸術・音楽・演劇を専門とする紳士、及びそれらの作品への愛着・評価や参加に関心の有る紳士の社交クラブとして「ボヘミアンクラブ」が設立される。初期には茹でた縞鱸の白ワイン煮や、デミタスコーヒーが振る舞われ、以下のメンバーが参加していた。
①小説家マーク・トウェイン
②作家ブレット・ハート
③ジャーナリストのヘンリー・モートン・スタンリー
④作家ジャック・ロンドン
⑤作家ヘンリー・ジョージ
1,873 ロシア帝国のバクー(現在のアゼルバイジャン)で最初の油井が噴出する。
1,873 アルバート・サスーンがイギリスを訪れる。
1,873 「ロンドン&ハンゼアティック銀行」が設立され、ジェイコブ・シフが同行ハンブルク支店支店長に就任する。
1,873 セシル・ローズが、オックスフォード大学の構成カレッジの1つである、オリオル・カレッジに入学し、本年から西暦1,881年迄断続的に通う。西暦1,874年に1学期だけ滞在し、西暦1,876年に2学期目の滞在を行った。その間、チャールズ・ダネル・ラッドがダイヤモンド取引等の業務を管理した。美術評論家ジョン・ラスキンの講義に影響を受けた。
1,873 貿易商である叔父の仕事を手伝っていたバジル・ザハロフが、コンスタンティノープルからロンドンへの商品の輸出の際、店の資金を横領した事が発覚し、法廷に召喚される。コンスタンティノープル出身のロンドンのギリシャ人達は、自分達のコミュニティの人間が関係する紛争はイギリスの法廷外で解決する事を望んだ。ザハロフは原告に100ポンドの賠償金を支払い、法廷の管轄内に留まる事を条件に釈放された。ザハロフは直ぐにアテネへ向かい、ステファノス・スクルディスと出会った。雄弁なザハロフは、ロンドンでの訴訟の正当性を訴え、スクルディスを説得する事に成功した。
1,873 アルフレッド・ノーベルが、ゲーストハッハトからパリ16区のマラコフ通りに引っ越す。パリに住んでいる間、プロテスタントの1つのルター派であったノーベルは、ウプサラ大学の教会に定期的に通い、司祭ナータン・セーデルブロムの指導を受けていた。
1,873 3 ロバート・ノーベルがバクーを訪れ、ビビ・エイバート油田及び当地の製油所を購入し、石油事業を開始する。
1,873 4 イギリスの数学者ウィリアム・シャンクスが円周率に関し西暦1,706年・1,794年に用いられたジョン・マチンの公式を用い527桁の精度を得る。当初707桁を達成したが、西暦1,945年にD.F.ファーガソンが541桁まで計算を行い、シャンクスの誤りを指摘した。それまではシャンクスの計算は信用されていた。
4 arctan 1 5 -arctan 1 239 = 4 π
π=3.1415926535897932384626433832795028841971693993751058209
74944592307816406286208998628034825342117067982148086513282
30664709384460955058223172535940812848111745028410270193852
11055596446229489549303819644288109756659334461284756482337
86783165271201909145648566923460348610454326648213393607260
24914127372458700660631558817488152092096282925409171536436
78925903600113305305488204665213841469519415116094330572703
65759591953092186117381932611793105118548074462379962749567
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1,873 8 24 ロスチャイルド家のブローカーであった、ジェイコブ・シフの父モーゼス・シフが死去する。これを受け、ジェイコブは生まれ故郷のフランクフルトへ戻る事となった。
1,874 ランカスター(アメリカのペンシルベニア州)にて「アダムス&ペリー・ウォッチ・カンパニー」が設立される。
1,874 清の数学者曾紀鴻が円周率に関し100桁の精度を得る。
π=3.1415926535897932384626433832795028841971693993751058209
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1,874 ジョルジュ・エドワール・ピアジェがラ・コート・オー・フェ(現在のスイスのヌーシャテル州)にあるピアジェ家の農場内の建物に時計工房を構え、「ピアジェ」を設立する。
1,874 アルバート・サスーンがボンベイにサスーン商会の子会社「サスーン・スピニング・アンド・ウェービング・カンパニー」を設立し、綿工場を数ヶ所開設した。
1,874 ジェイコブ・シフが、エイブラハム・クーンの誘いを受けニューヨークへ戻り、クーン・ローブ商会に入る。クーンが銀行家ジャック・ドレフュスの自宅でシフと会った事が切っ掛けであった。
1,875 デュポン社が、カリフォルニア火薬工場の株式の43%を買収する。
1,875 ロバート・ノーベルがバラハニ油田を購入する。
1,875 アルバート・サスーンがボンベイの埋立地に、廃水を完全には行わない湿式ドックを建設し、海運事業を始めた。
1,875 アルバート・サスーンがイギリスに移住し、ロンドンからサスーン商会を指揮し始める。ボンベイでのサスーン商会の経営は弟のソロモン・デイヴィッド・サスーンが継いだ。
1,875 以下の3社がランカスター(アメリカ)の時計工房に入居し、事業成功に向けて時計製造を開始する。
①アダムス&ペリー・ウォッチ・カンパニー
②ランカスター・ウォッチ・カンパニー
③キーストーン・スタンダード・ウォッチ・カンパニー
1,875 アルフレッド・ノーベルが、プラスチック爆薬である「ゼリグナイト」を発明する。此れは、コロジオン綿をニトログリセリン又はニトログリコールに溶かし、木材パルプと、硝石(硝酸ナトリウム又は硝酸カリウム)を混ぜた物で、以前に自身が発明したニトログリセリンを用いた爆薬よりも安定性と威力が増大した。更には、水中でも使用出来、形状を変え易く、漏れ出る心配も無いという利点が有った。
1,875 1 ジェイコブ・シフが、エイブラハム・クーンの招待を受け、以下の人間との人脈をクーン・ローブ商会に持ち込む。
①アーネスト・カッセル
②投資信託会社創業者ロバート・フレミング
③パリ銀行経営者エドゥアール・ノーツリン
1,875 5 6 ジェイコブ・シフが、ソロモン・ローブの娘テレーズ・ローブと結婚する。
1,875 5 7 樺太・千島交換条約が結ばれ、樺太に対する日本の領有権と得撫島以北のロシア領の千島列島を交換する。
1,875 9 20 李氏朝鮮の漢江の河口に位置する江華島(現在の韓国仁川広域市江華郡)に於いて、測量の名目で示威活動中の大日本帝国海軍の軍艦雲揚(旧萩藩の砲艦)が、江華島砲台の砲撃を受ける。
1,875 11 14 夕刻、ロスチャイルド邸でライオネル・ド・ロスチャイルドと食事をしていた第40代イギリス首相ベンジャミン・ディズレーリが、召使からサイード・パシャが177,000株(4,000,000ポンド)のスエズ運河会社の株を売り出そうとしているという情報を聞き、購入を決めた。
1,875 11 15 ベンジャミン・ディズレーリがスエズ運河会社の買収費用をロスチャイルド家から借金する事に決め、閣僚の委任を取り付け「翌日までに4,000,000ポンドを用立てて欲しい」とライオネル・ド・ロスチャイルドに頼み、イギリス政府を担保とする事を条件に了承される。48時間後には、スエズ運河会社の株がエジプトからイギリスに渡った。これによりイギリスはスエズ運河会社の44%の株を取得し、筆頭株主となった。
1,875 12 17 父の店で時計製造技術を学んでいたジュール・ルイ・オーデマがスイスのヴォー州ル・ブラシュの実家の農場で時計店を開く決意をする。其の後学友でオーデマと同じく実家で時計製造技術を学んでいたエドワード・オーギュスト・ピゲに協力を求め「オーデマ・ピゲ」を設立する。オーデマがムーブメントの製作・ケースへの取り付け・仕上げを担当し、ピゲは最終的な調整役を担った。
1,876 マーカス・サミュエルがイギリスのサミュエル商会の横浜支店を開設し、弟のサムと共に日本製雑貨類のイギリスへの輸出を開始する。
1,876 以下3名の共同出資によりバクーに石油の蒸留所が設立される。
①ロバート・ノーベル(25,000ルーブル)
②ピーター・フォン・ビルダーリング男爵(300,000ルーブル)
③スタンダートスキョルド男爵(150,000ルーブル)
1,876 ルートヴィヒ・ノーベルが石油事業に参加する。ルートヴィヒは、石油生産でなく石油輸送に着目し、バラハニ油田から製油所までの15kmに及ぶパイプラインを敷設する。又、船倉にタンクを作り直接石油を詰め込む「タンカー」という輸送手段を考案し、スウェーデンの造船会社に発注した。
1,876 初代ドイツ帝国帝国宰相となったオットー・フォン・ビスマルクが、「南北戦争は欧州の金融権力によって誘発された」と話す。
1,876 アメリカ南部の以下の11州が、黒人の一般公共施設の利用を禁止、制限する等の人種差別法であるジム・クロウ法が制定される。州により法規は異なる。
①バージニア州
②ノースカロライナ州
③サウスカロライナ州
④ジョージア州
⑤フロリダ州
⑥アラバマ州
⑦ミシシッピ州
⑧ルイジアナ州
⑨テキサス州
⑩テネシー州
⑪アーカンソー州
1,876 ベルタ・フォン・ズットナーが、アルフレッド・ノーベルの秘書兼ノーベルの自宅の家政婦として働き始める。ノーベルの募集広告に応募した事が切っ掛けであった。ベルタは、アルトゥール・グンダッカー・フォン・ズットナーと結婚する為に、短期間でノーベルの下を去ったが、ベルタは、ノーベルが死去する迄文通をし、関係を継続して、ノーベル平和賞創設に関する助言をした。
1,876 アルフレッド・ノーベルが、バーデン(現在のオーストリアのニーダーエスターライヒ州)にて、花屋で働いていた、キリスト教に改宗したユダヤ人ソフィア・ヘスと出会う。其の後ヘスは、別の男性との間に子供を身籠ったが、ノーベルはヘスを経済的に支援し続けた。
1,876 2 26 日本の全権大使黒田清隆、副使井上馨と、李氏朝鮮簡判中枢府事申櫶、副総管尹滋承の間で、以下の内容の条約が締結され同日発効される。
①外交使節の首都派遣
②既に日本公館が存在する釜山以外二港(具体的な開港地は後に協議)の開港と自由貿易
③開港場における居留地の設定
④領事による居留民の管理
⑤開港場における領事裁判権
⑥朝鮮沿海の測量、海図作成の権利
⑦開港場から4km以内への内地旅行、通商権
⑧開港場における日本通貨の使用
⑨朝鮮からの米穀輸出の自由
⑩輸出入税の免除
1,876 3 10 アレクサンダー・グラハム・ベルが特許公告の3日後、電話の実験に成功。
1,876 3 21 海軍省の外郭団体として、「水交社」が現在の東京都中央区築地5丁目6番付近に設立される。
1,877 大蔵省松方正義が、渡欧してフランス蔵相レオン・セーと会談し、日本の中央銀行設立を勧める。このレオン・セーのボスは、ジェームス・ド・ロスチャイルドの長男アルフォンス・ド・ロスチャイルドであった。
1,877 以下の3社が「ランカスター・ペンシルベニア・ウォッチ・カンパニー」として1つに纏まる。
①アダムス&ペリー・ウォッチ・カンパニー(母体)
②ランカスター・ウォッチ・カンパニー
③キーストーン・スタンダード・ウォッチ・カンパニー
1,877 イタリア大東社の傘下で秘密結社「ロッジP2」がトリノで活動を始める。
1,877 9 12 ジョン・トンプソンが、チェース・ナショナル銀行を設立する。
1,877 9 24 西郷隆盛が切腹。
1,877 10 14 バジル・ザハロフが、スウェーデンの武器製造会社のトールステン・ノルデンフェルト社の代理店の主任として招聘される。ザハロフの外交センスを評価していたステファノス・スクルディスは、トールステン・ノルデンフェルト社の代理店の主任をしていたスウェーデン人大尉の友人が退職する意向であった為、後任としてザハロフを推薦していた。
1,878 ルートヴィヒ・ノーベルが発注した、世界初の石油タンカー船「ゾロアスター号」が完成する。
1,878 ジャン・エグラーと妻のアンナ・マリア・ラムザーがビール(現在のスイスのベルン州)に時計工房を設立する。
1,878 3 3 露土戦争が終結する。其の後ギリシャでは軍備増強の機運が高まっていた。バジル・ザハロフは武器を売ろうとするが、以下の同業他社と比べると分が悪かった。
①クルップ社
②シュナイダー社
③ヴィッカース社
1,878 5 14 大久保利通が東京紀尾井町で暗殺される。
1,878 6 29 夜、舞台俳優で、ボヘミアンクラブの創設メンバーであるヘンリー・ハリー・エドワーズの壮行会が、セコイアが生えている森(現在のアメリカのカリフォルニア州マリン郡のサミュエル・P・テイラー州立公園)にて開催される。エドワーズは、キャリアを更に高める為にニューヨーク市に拠点を移す事となっていた。参加者は100名弱であった。飲み放題の酒と提灯がお祭りを盛り上げ、クラブメンバーは、セコイアの密生した上にマットを敷き、細やかな安らぎを得ながら、遅い時間に退散した。この時迄にボヘミアンクラブはサンフランシスコを拠点とする実業家に買収され、創設の中心メンバーであった記者5名は追い出されていた。以降実業家達は、キャンプ地とする為の森と施設を取得するのに必要な資金を提供した。しかし、依然として芸術家や音楽家を所属させ、様々な国の会員やゲストを楽しませ続けた。エドワーズが抜けて以降もこの地で宴会が催され、この森はボヘミアンクラブの毎年恒例のキャンプ地となった。また、西暦1,882年迄、以下の場所を含む、アメリカのカリフォルニア州マリン郡・ソノマ郡の様々な場所でキャンプを行なった。
①ミュア・ウッズ国定公園(アメリカのカリフォルニア州マリン郡のタマルパイス山)
②ダンカンズ・ミルズ(アメリカのカリフォルニア州ソノマ郡)
1,878 7 13 ベルリン会議が終了する。イギリスが、オスマン帝国からキプロスを租借する事となった。此れを受け、バジル・ザハロフはイギリスに戻る事となった。此の後も以下の諸国の政治・軍事での不安定な情勢は続き、機を逃さずザハロフは武器を売った。
①バルカン諸国
②トルコ
③ロシア帝国
1,879 デュポン社が、ハザード社、ラフリン・アンド・ランド社と共同でオリエンタル火薬工場の株式の全てを取得する。
1,879 ランカスター・ペンシルベニア・ウォッチ・カンパニーが再編成され「ランカスター・ウォッチ」となる。
1,879 5 18 ロバート・ノーベルが、自身が西暦1,876年にバクーに設立した蒸留所を基に、ルートヴィヒ・ノーベルと共に「ノーベル兄弟産油会社」をサンクトペテルブルクに本社を置く持株会社として設立する。株式資本は以下の通り分割された。
①ルートヴィヒ・ノーベル53.7%
②ピーター・フォン・ビルダーリング男爵31%
③I.J.ザベルスキフ4.7%
④アルフレッド・ノーベル3.8%
⑤ロバート・ノーベル3.3%
⑥アレクサンドル・フォン・ビルダーリング男爵1.7%
1,879 10 21 アメリカのトーマス・エジソンが、竹をフィラメントにした白熱電球を発明する。
1,880 清のインド産アヘンの年間輸入量が6,500tであった。対西暦1,775年比86.67倍に増加する。また、国内年間生産量も6,500tとなり、対西暦1,836年比21.67倍に増加した。
1,880 ロスチャイルド家の資金提供を受け、以下2名が「デビアス鉱山会社」を設立する。
①セシル・ローズ
②チャールズ・ダネル・ラッド
ラッドは取締役として、鉱山向け機械の主要なサプライヤーにも大きな権益を持っていた。
1,880 アルフレッド・ダンヒルの父が、馬具専門製造卸売業をロンドンで始める。
1,880 2 21 釜山港在勤の管理官の前田献吉が、総領事に着任し元山に在勤する。
1,880 3 21 イライアス・サスーンが死去し、息子のヤコブ・サスーンが新サスーン商会を継ぐ。
1,880 5 李氏朝鮮の元山が開港する。
1,880 5 20 エリス・カドゥーリとエリ・カドゥーリが兄のエゼキエル・カドゥーリに請われ上海に到着し、新サスーン商会に入社する。
1,880 12 26 世界最大の金・ダイヤモンド鉱山を支配する為にイギリスが南アフリカに介入し、第一次ボーア戦争が勃発する。
1,881 セシル・ローズが、ケープ植民地(現在の南アフリカ)の議会議員となる。
1,881 ジャン・エグラーの時計工房がマニュファクチュールとなる。又、此の頃ビールのベールブルグ(現在のスイスのベルン州)にて、歯車を一定速度で回転させる為の部品であるアンクル脱進機を搭載した小型の婦人用時計の製造に専念していた。
1,881 ボヘミアンクラブの共同創設者の1人で、西暦1,876〜1,878年迄ボヘミアンクラブの書記を務めていたジャーナリストで詩人のジェームズ・F・ボウマン制作の儀式作品「ケアの火葬」が上演される。フードを被った人間がボートを漕いでボヘミアングローブの人造湖を渡り、人造湖に在る12.192mのミネルヴァの梟像の前で人形を焼く以降毎年恒例のキャンプの初日の夜に上演される事となった。
1,881 1 15 エジプトの大佐アフマド・オラービーが、アラブ系軍人に対する差別人事を改めるよう政府に嘆願書を提出する。
1,881 7 2 第20代アメリカ大統領ジェームズ・ガーフィールドが銃撃される。
1,881 7 3 お茶を運ぶ為にダージリン鉄道が開通される。
1,881 9 19 ジェームズ・ガーフィールドが死去。
1,882 ロシアにてポグロムが発生する。
1,882 1 2 スタンダード・オイル・オブ・オハイオ社が、スタンダード・オイル・トラスト社が、傘下の企業を支配する体制に再編成する。ヘンリー・H・ロジャーズ、ウィリアム・ロックフェラー、ジョン・ロックフェラーが関わっていた。
1,882 3 14 伊藤博文が、憲法調査で以下のヨーロッパの国々等を巡る為、横浜を出発する。滞在期間は1年2ヶ月であった。
①イギリス
イギリス・ロスチャイルド商会と接触する。ロスチャイルド側は「日本の様な後進国にはイギリスの最先進国の政治体制は似合わない。プロイセン王国ぐらいが丁度良い」とし、ルドルフ・フォン・グナイストとローレンツ・フォン・シュタインを紹介された。
②ドイツ
グナイストとグナイストの弟子アルベルト・モッセの講義を受けた。
③オーストリア
ウィーンで2ヶ月間、シュタインの自宅で国家学の講義を受けた。
1,882 8 19 将軍サー・ガーネット・ヴォルズリー率いる20,000名のイギリス軍がアレクサンドリア(現在のエジプト)に上陸し、スエズ運河一帯を占領する。
1,882 10 10 日本銀行が設立される。
1,883 オーストリア、ハンガリー、イギリスにロシア灯油が登場する。
1,883 チャールズ・ダーウィンの従兄で遺伝学者のフランシス・ゴルトンが、劣等な子孫の誕生を抑制し、優等な子孫の誕生を促進、保存する事を研究する学問である「優生学」を提唱する。
1,883 フランス・ロスチャイルド商会が出資していた、バクーからコーカサス山中を縦断しバトゥミ(現在のジョージア)に至る「トランスコーカサス鉄道」が完成する。其の後以下の人間等により、バクー-バトゥミ間の石油パイプライン設置が検討され始めた。
①アルフォンス・ド・ロスチャイルド
②ハジ・ゼイナラブディン・タギエフ
③ムサ・ナギエフ
④イワン・イリモフ
⑤アレクサンダー・ベンケンドルフ
⑥S・バギロフ
1,883 バジル・ザハロフは、ゴールウェイ(現在のアイルランド)の海運代理店で働いていた。アメリカの工場で働く女性を募集した。又、アメリカに滞在し、セントルイス(アメリカのミズーリ州)の鉄道車両会社のセールスマンとしても活動した。
1,883 ジャンヌ・ランバンが、パリのフォーブル・サントノーレ15番街の婦人用帽子店で、製作の見習い修行を始める。
1,883 1 李氏朝鮮の仁川が開港する。
1,883 5 16 アルフォンス・ド・ロスチャイルドがトランスコーカサス鉄道に対する融資と引き換えにバクーの石油権益を獲得し「カスピ海・黒海石油産業貿易会社」を設立する。6,000,000ルーブルと25,000,000フランの初期資本をロシア帝国の金庫に納め、アドリア海沿岸の自らの製油所に石油を送り始めた。又、135社の中小企業の小規模製油業者と互いに有利な条件で灯油を買い取り、ロシア灯油の最大輸出業者となり、以下の輸送ルート等を構築し、ヨーロッパでの販売網の整備を進めた。
①バクー→アントウェルペン(ベルギー)(石油汽船ファーガソン号で輸送)
②バクー→ロンドン
又、以下の3箇所で石油に関する情報を収集した。
①バクー
②パリ
③サンクトペテルブルク
其の知識を基に、ロシア帝国内の石油生産の変化に迅速に対応する事により、以下の土地で確固たる地位を築いた。
①バクー
②グロズヌイ(現在のロシア)
③マイコープ(現在のロシア)
④トルクメニスタン
1,883 6 26 ハイラム・マキシムの、マキシム機関銃に繋がる最初の特許が登録される(イギリス第3178号)。
1,883 7 16 ハイラム・マキシムの、マキシム機関銃に繋がる特許が登録される(イギリス第3493号)。
1,884 レオン・ブライトリングがサン・ティミエに時計工房「G.レオン・ブライトリング」を設立する。
1,884 銀細工職人ソティリオ・ブルガリが、ローマのシスティーナ通りに宝飾品店を開業し、宝飾品ブランド「ブルガリ」を創業する。
1,884 アルフレッド・ノーベルが、スウェーデン王立科学アカデミーの会員に選出される。
1,884 10 ハイラム・マキシムの開発したマキシム機関銃の最初の試作型が、招待客に展示される。
1,884 フランス・ロスチャイルド商会が此の年、バクーから39,312tの石油製品を輸出する。又、本年は91,728tの石油製品がトランスコーカサス鉄道で輸送された。
1,885 ジェイコブ・シフが、クーン・ローブ商会の代表に就任する。
1,885 バジル・ザハロフが、王子を装いフィラデルフィアの相続人ジェニー・ビリングスと結婚する。しかし、西暦1,872年に結婚した事を知るイギリス人に重婚を暴露され、刑事にロッテルダムまで追われた。
1,885 4 18 農商務省工務局商標登録所所長兼農商務省工務局専売特許所所長の高橋是清等により「専売特許条例」が公布される。新聞で此れを知った豊田佐吉は、触発され、自分もお国の為に何か発明したいと、発明家を志し、友人と2名で横須賀造船所を訪ね、様々な機械を見て回った。大いに刺激を受けた豊田は、地元に帰り、無限動力機械等を作った。
1,885 9 21 ジョージ・ギャレットの設計した蒸気駆動潜水艦「ノルデンフェルトI」のデモが、オスマン帝国武官を含む39名の前で行われる。トールステン・ノルデンフェルト社も開発に一枚噛んでいた。デモは成功とは言い難かったが、当時まだ珍しかった潜水艦に目を付けていたバジル・ザハロフは、寛大な支払い条件を約束してギリシャに販売した。其の後、ギリシャと対立していたオスマン帝国に対し「ギリシャの潜水艦が脅威である」と言い2隻を売り付けた。更に、ロシア帝国にも「黒海に新たな脅威が存在する」として2隻を販売した。しかし、此れ等の潜水艦は何れも欠陥品であった。 機構は蒸気駆動であったが、水中航行には全く不十分であり、各海軍による海上試験をパスしなかった。推進システムの欠陥という根本的な問題に加えて、慢性的に不安定でもあった。そんな中、オスマン帝国海軍の潜水艦1隻が魚雷発射実験中に転覆し、垂直姿勢で上昇した後、船尾から沈没した。
1,886 ロシア帝国で、排水量1224tの砲艦マンジュールが建造される。
1,886 キーストン・ウォッチ・カンパニーがランカスター・ウォッチを買収する。
1,886 マキシム機関銃に目を付けたバジル・ザハロフが、ハイラム・マキシムに接触する。本年から西暦1,888年に掛けてザハロフは、マキシムが自身の開発したマキシム機関銃の性能を証明しようとした以下のデモに関与し、マキシム機関銃への評価を矮小化する為の工作を行なった。
①最初のデモはラ・スペツィア(イタリアのリグーリア州)にて行われた。マキシムとトールステン・ノルデンフェルト社の機関銃が、第4代ジェノヴァ公フェルディナンド王子を含む著名な観客の前で披露される筈であったが、前日の夜に、ザハロフの関係者がラ・スペツィアに居たマキシムの関係者を待ち伏せして行く手を阻んだ所為で、マキシムの代表者は出席出来なかった。
②2回目のデモはウィーンで行われ、出展者はオーストリア歩兵の標準サイズの弾丸に適合させる為の武器の修正を求めた。数百発撃った後、マキシム機関銃は完全に停止する前に不安定になった。マキシムが何が起こったのかを確認する為に1挺を分解した所、破壊されているのに気付いた。しかし、気付くのが遅かった為、修復する時間は無かった。
③3回目のデモは前回と同様にウィーンで行われた。今回はマキシム機関銃は完璧に動作した。しかし、ザハロフの関係者がやって来て「此の様な素晴らしい武器を製造するのに必要な職人技は、一度に1つずつ手作業でのみ達成可能であり、大量生産の手段が無ければ、現代の軍隊のニーズを満たすのに十分な量のマキシム機関銃は決して製造出来ない」と説得した。
ノルデンフェルトとザハロフの目論見通り、マキシム機関銃は思う様に売れなかった。
1,886 1 1 ビルマ(現在のミャンマー)が、イギリス領インド帝国に併合され植民地となる。以降ビルマ・タイ・ラオスがメコン川(現在の中国・ミャンマー・ラオス・タイ・カンボジア・ベトナム)で接する高地にてケシ栽培が行われる様になり、麻薬の密造地帯として「黄金の三角地帯」と呼ばれる様になった。
1,886 5 1 合衆国カナダ職能労働組合連盟がシカゴ(アメリカのイリノイ州クック郡)を中心に8時間労働制要求の統一ストライキを行う。
1,886 5 8 コカ・コーラ社がアメリカのジョージア州アトランタで設立される。当時はコカインを含むコカの葉が使用されていた。
1,887 ドイツ帝国でエフェドリンからアンフェタミンが合成される。
1,887 アルバート・サスーンの長男エドワード・サスーンと、ジェームス・ド・ロスチャイルドの弐男ギュスターヴ・ド・ロスチャイルドの娘アリーヌ・キャロライン・ド・ロスチャイルドが結婚する。
1,887 カスピ海・黒海石油産業貿易会社が、自社の石油製品の輸出と共に、ロシア帝国の石油会社約50社の灯油の委託販売を開始する。更に、同社は此の年、トランスコーカサス鉄道に300両の自社製タンク貨車を納入した。元々同社はトランスコーカサス鉄道に600両の自社製タンク貨車を納入する許可を得ていたが、需要を満たせないと見積もり、追加で1,500両を納入する為に、中小企業の小規模製油業者各社に、5年以内に年利6%の返済を条件に2,000,000ルーブルを貸し付けた。
1,887 N・M・ロスチャイルド&サンズが、以下2名に対し、翌年の新会社設立の為の資金提供を行う。
①セシル・ローズ
②チャールズ・ダネル・ラッド
1,887 アルフレッド・ダンヒルが、父の営む馬具専門製造卸売業で働き始める。
1,887 豊田佐吉が、大工の仕事の合間を縫って、織機の研究を始める。農家に出向いて、織機の操作をさせて貰った。遠江国敷知郡山口村(現在の静岡県湖西市山口)内では「娘っ子の真似をする変な奴」と陰口を叩かれ、変人扱いであった。そんな様子を見た父豊田伊吉は、大工の仕事に専念させる為に何度も佐吉を叱責した。しかし佐吉は聞く耳を持たなかった。
1,887 アルフレッド・ノーベルが、窒素量約12%のニトロセルロースとニトログリセリンを混ぜて練って成形した、無煙でゆっくり燃える火薬「バリスタイト」を発明する。軍事用途で使われた。
1,887 1 以下2名が、南アフリカ最大且つ最古の採掘企業である「ゴールド・フィールズ・オブ・サウス・アフリカ・リミテッド社」を設立する。
①セシル・ローズ
②チャールズ・ダネル・ラッド
会長には、チャールズの弟トーマス・ラッドが就いた。同社は以下の鉱山の権益を保有した。
①金を採掘するドリエフォンティン鉱山(現在の南アフリカのハウテン州、露天掘・坑内堀)
②金を採掘するクルーフ鉱山(現在の南アフリカのハウテン州、坑内堀)
③銅を採掘するオーキープ鉱山(現在の南アフリカ北ケープ州)
④銅・鉛・亜鉛・銀を採掘するブラック・マウンテン鉱山(現在の南アフリカ北ケープ州、坑内堀)
前年にウィットウォーターズランドで金が発見された事で、チャールズの興味は金に移っていた。
1,887 12 豊田伊吉が、自身の仲間の豊橋中八丁(現在の愛知県豊橋市八町通)の岡田波平の下へ、豊田佐吉を大工の修行に出させる。しかし其処でも、佐吉は織機の研究に没頭した。
1,888 清のインド産アヘンの年間輸入量が5,320tであった。対西暦1,880年比0.82倍に減少する。国内生産量が増加した事が背景としてある。
1,888 ギフォード卿と自身の経営する「ベチュアナランド探検会社」が、キンバリーにあるケープ政府鉄道の終点からベチュアナランド(現在のボツワナ)に至る私鉄を建設する権利を勝ち取る。セシル・ローズは、ギフォード卿が商敵であった為、建設に反対していた。
1,888 バジル・ザハロフが、自身をハイラム・マキシムに巨額のコミッションで首席セールスマンとして雇用させる。また、以下の2社が圧力を掛け、存続会社をマキシム社としてトールステン・ノルデンフェルト社を合併し「マキシム・ノルデンフェルト銃器弾薬会社」が設立された。オフィスはロンドンのヴィクトリア通りに構えた。
①N・M・ロスチャイルド&サンズ
②トールステン・ノルデンフェルト社
N・M・ロスチャイルド&サンズは、合併資金として1,900,000ポンドの株式を発行した。又、ナサニエル・ロスチャイルドはマキシム・ノルデンフェルト銃器弾薬会社の株式を大量に保有し、経営に直接関与した。
1,888 3 13 以下2名が、デビアス鉱山会社をバーニー・バルナート率いる「キンバリー・セントラル鉱山会社」と合併させ「デビアス社」を資本金200,000ポンドで設立する。
①セシル・ローズ
②チャールズ・ダネル・ラッド
ナサニエル・ロスチャイルドが1,000,000ポンドを融資し、アルフレッド・ベイトも融資を行った。
1,888 6 豊田佐吉が、岡田波平から追い出されて山口村に戻る。佐吉は、母豊田ゑいに泣き付き、若干の金を得ると、再度織機の研究に没頭した。そして、山口村内の納屋に絵図面と材料を持ち込んで研究室とし、其処に閉じ籠る様になった。村民からは嘲笑された。佐吉は資金が続かず、友人知人から資金を借りる様になった。
1,888 10 セシル・ローズが、イギリス東インド会社をモデルとしたケープ植民地の貿易会社「イギリス南アフリカ会社」を法人化する。
1,888 10 イギリス陸軍最高司令官ガーネット・ワースリーが、ライフルと同じ口径のマキシム機関銃120挺の発注を命じる。実包には.577/450マルティニ・ヘンリー弾が用いられた。
1,888 10 30 チャールズ・ダネル・ラッドが、マタベレランド(現在のジンバブエ)の第2代ンデベレ王ロベングラ・クマロとの、マショナランド(現在のジンバブエ)・マタベレランドの採掘権の協定を取り付ける。以前から、セシル・ローズとラッドは採掘権を得ようとクマロと交渉していたが、失敗していた。
ラッドは、以下2名と共に、マタベレランドで採掘する白人は10名以下である事を保証した。
①フランシス・トンプソン
②セシル・ローズの友人ジェームズ・ロッチフォート・マグワイア
しかし、クマロが署名した協定の文書には、その様な記載は無かった。クマロは文盲であり、本当の契約条件が分かっていなかった。クマロは、契約条件の確認をする為に、友好的なイギリス人宣教師を訪ねた後、2名の使者をヴィクトリアの下に遣わせたが徒労に終わった。
1,888 12 灯油を積載した3,932台のトランスコーカサス鉄道の貨車の内、1,800台をフランス・ロスチャイルド商会がバトゥミで受け取る。又、同月末時点で同年の灯油輸出量は262,080tであった。
1,889 アメリカで電動のエレベーターが誕生する。
1,889 パリ万国博覧会開催中のエッフェル塔最上階のプライベートアパートで以下の者により秘密結社「プルス・ウルトラ」が設立される。
①エッフェル塔設計者ギュスターヴ・エッフェル
②発明家トーマス・エジソン
③SFの先駆者ジュール・ヴェルヌ
④電気技師ニコラ・テスラ
そして後から以下の2名が参加した。
⑤理論物理学者アルベルト・アインシュタイン
⑥映画監督ウォルト・ディズニー
1,889 フランス・ロスチャイルド商会が此の年、バクーから491,400tの石油製品を輸出する。西暦1,884年比12.5倍となった。
1,889 ジャンヌ・ランバンが、パリで帽子店を開業する。
1,889 1 21 西暦1,880年から前年迄ミネソタ州ミネアポリスにあるプロテスタントの最大宗派バプテストのセントラル・バプテスト教会の牧師であった、ビル・ゲイツの曾祖父に当たるフレデリック・テイラー・ゲイツが、バプテストのジョン・ロックフェラーと初めて顔を合わせる。バプテスト教育を行うシカゴ大学創設の為の資金計画等の会談を持った。結果、後にゲイツの提案により、ロックフェラーがシカゴ大学に600,000ドルの資金提供を行なった。その後ゲイツはスタンダード・オイル本社内に新設されたオフィスに勤務し、スタンダード・オイル・トラストを除くロックフェラーの企業への一連の投資を監督した。
1,889 3 セシル・ローズがロンドンに到着し、イギリス王室と、イギリス南アフリカ会社の憲章認可の為の条件に関する議論を開始する。
1,889 12 20 イギリス南アフリカ会社のイギリス王室憲章が発効される。同社は以下2名によって株式資本1,000,000ポンドで経営を開始した。
①ギフォード卿
②ジョージ・カウストン
また、同社は以下の4つの勢力によって支援された。
①ナサニエル・ロスチャイルド
②セシル・ローズ
③デビアス社
④ゴールド・フィールズ・オブ・サウス・アフリカ・リミテッド社
これによりローズは、反対していたベチュアナランドへの鉄道建設の義務を負う事になり、500,000ポンドを支出すると約束した。ギフォード卿は、ローズが非常に大きな権力を有し、自身を疎外しているとして嫌っていた。
1,890 ジャン・バティスト・アウグスト・ケスラーが、オランダ王室からの特許状を得て、オランダ領東インド石油開発会社を設立する。
1,890 キーストン・ウォッチ・カンパニーが倒産する。
1,890 バクー油田に存在する約144の製油工場で扱われていた軽質原油の総量835,380tの内、3/4を13工場だけで生産し、その内
①ノーベル兄弟産油会社:293,202t
②フランス・ロスチャイルド商会:76,986t
が占め、ノーベル家とロスチャイルド家は協力して石油を売り捌いて行った。
1,890 セシル・ローズが、第6代ケープ植民地首相に就任する。
1,890 セシル・ローズが、ウェッセルトン鉱山(現在の南アフリカ)の支配権を獲得する。
1,890 ベチュアナランドへの鉄道建設に関し、フライバーグ(現在の南アフリカ北西州)までの敷設が完了する。しかし、以下2点の理由により、以降の敷設が進まず、西暦1,893年迄フライバーグを終点として運用された。
①イギリス南アフリカ会社
②マショナランド(現在のジンバブエ)・マタベレランドの金に関する報告
1,890 トランスヴァール共和国で320kmに及ぶ金の富鉱体が発見される。
1,890 ブルックリン財団が生物学研究所を設立する。所長には、ハーバード大学で生物学を専攻していたチャールズ・ダベンポートが就いた。
1,890 トールステン・ノルデンフェルト社が自己破産し、マキシム・ノルデンフェルト銃器弾薬会社を追放される。ノルデンフェルトはイギリスを離れ、フランスへ渡った。此れにより、マキシム・ノルデンフェルト協会が解散となった。バジル・ザハロフは自身のコミッションを利用して、マキシム・ノルデンフェルト銃器弾薬会社の株式を購入し、軈てハイラム・マキシムに「貴方は最早従業員では無く、同等の株主だ」と言われるに至った。
1,890 アルフレッド・ダンヒルが、割引自動車販売会社を設立する。
1,890 4 1 此の日から本年7月31日迄、上野公園にて「第3回内国勧業博覧会」が開催される。豊田佐吉は、1ヶ月間会場に通い詰め、最新機械の前に座り込んでスケッチし、機構の理解に努めた。
1,890 11 11 豊田佐吉が、自身の発明した木製人力織機の特許出願を行う。
1,891 サミュエル商会が、フランス・ロスチャイルド商会系石油販売会社のブニトと西暦1,900年迄のロシア灯油の独占販売契約を締結する。
1,891 オランダで、後の第一君が代丸となる669tの船である「スワールデクールン」が建造される。
1,891 オリバー・ハザード・ペリ-・ベルモントが発注した、アメリカのロードアイランド州ニューポート郡の、年間6〜8週間の夏の期間限定の邸宅「ベルコート」の工事が着工される。設計は建築家リチャード・モリス・ハントが行った。
1,891 アルフレッド・ノーベルが、パリからサンレーモ(イタリアのリグーリア州インペリア県)に引っ越す。イタリア軍がバリスタイトを使用した事により、ノーベルは大逆罪で告発され、パリに住み辛くなった事が理由として有った。
1,891 2 以下の人間等によって秘密結社「円卓会議」がロンドンにて設立される。これによりケープ植民地での利権を固めていった。
①セシル・ローズ
②アルフレッド・ミルナー
③第5代ローズベリー伯爵アーチボルド・プリムローズ
④ナサニエル・ロスチャイルド
⑤ジョン・ジェイコブ・アスター4世
⑥アーサー・バルフォア
⑦第3代グレイ伯爵ヘンリー・グレイ
1,891 5 14 豊田佐吉が、前年に自身が出願した木製人力織機に基づく特許(第1195号)を取得する。
1,891 8 2 ジャン・エグラーが死去する。時計工房の後継ぎは以下の者が行った。
①アンナ・マリア・ラムザー
②息子オットー・エグラー(補佐)
③息子ヘルマン・エグラー(補佐)
1,891 11 10 ドイツ系アメリカ人の発明家ルイス・ガスマンが、以下の概要の人口降雨の特許を取得する(US462795A)。
「私の方法は、大気の上層部での様々な高圧縮ガスの蒸発により大気を冷却し雲を生成、そこから雨が降る程の量の凝縮を生成するというものだ。様々な気流を動かす為に、冷却と同時に激しい衝撃を与える事も望ましい。中でも液化炭酸ガスの放出による蒸発が最も効率的である。液化炭酸ガスは大気の上層部で放出され、瞬時に蒸発して極低温の蒸気のシートとなって広がり、雲を生成する。 周囲の大気が冷たい蒸気に近づくと冷却され、それによって大気中の水分が凝縮する。凝結は大量かつ急速に起こり、雲が形成され、地上に雨が降り注ぐ。液化炭酸ガスは、適切なシェルまたはケーシング内に閉じ込める事が出来、このケーシングには火薬・ダイナマイト等の爆発物も含まれており、これらは大気圏の上層部に投げ込まれるか発射され、タイムヒューズで爆発する。 さらに、気球を使用して、液化炭酸ガスが入っているシェル又はケーシングを上昇させる事が出来、ガスを解放する為の爆発は、地上の人間が制御する電流によって行う事が出来る」
1,892 オランダ領東インド石油開発会社が、スマトラ東海岸で生産される原油を精製する為、スマトラ島(インドネシア)のパンカラン・ブランダン製油所の操業を開始し、シンガポールやマレー半島向けの灯油の輸出が始まる。
1,892 ジョン・ロックフェラーが、拡大し続ける投資と不動産保有に関し、専門家の助言の必要性を感じ「資産管理委員会」を以下の4名で設立する。ゲイツはジョン・ロックフェラーの資金を主にクーン・ローブ商会やJ.P.モルガン商会の投資会社が組成したシンジケートに誘導した。
①ジョン・ロックフェラー
②ジョン・ロックフェラーの長男ジョン・ロックフェラー・ジュニア(後に参加)
③フレデリック・テイラー・ゲイツ(ジョン・ロックフェラーによりシニアビジネスアドバイザーに指名)
④専門家
1,892 10 キーストン・ウォッチ・カンパニーの資産を元に、苦境に喘いでいたイリノイ州オーロラのオーロラ・ウォッチ・カンパニーを買収し、「ハミルトン・ウォッチ・カンパニー」が設立される。ランカスターの土地の所有者で第24代ペンシルベニア植民地総督を務めたジェームズ・ハミルトンに因んでいる。
1,892 10 豊田佐吉が、東京市外千束村(現在の東京都台東区千束)に木製人力織機数台の織布工場を設立する。布を織って問屋に卸しながら、動力織機の発明を目指した。
1,893 長井長義と三浦謹之助が、エフェドリンからメタンフェタミンの単離に成功する。
1,893 バクー油田の製油所が69基であった。
1,893 アルフレッド・ダンヒルが、父の家業の経営を引き継ぎ、社名を「ダンヒル」に変更する。そして事業を拡大し、衣類や小物の製造を始めた。
1,893 ボヘミアンクラブが、モンテリオ(アメリカのカリフォルニア州ソノマ郡)近くのセコイアが生えている10,927,000㎡のエリアを借りる。「ボヘミアングローブ」と名付けられ、以降毎年7月に2週間、社交パーティーと称した密会が、ヘリコプターや警備員の厳重な管理の下で非公開で行われ、政治・国際・環境の諸問題に関する議論が交わされる事となった。他にも以下が行われた。
①舞台公演
②儀式
③多量の飲酒
④屋外での放尿
メンバーはゲストを連れてくる事が認められているが、メディアや部外者の立ち入りは禁止であった。後に、91.7448mのセコイアの木の下には「私はこの木をグローブで最も健全で、直立し、堂々としたセコイアとして愛しています。私が居なくなった時に友人達がこれで私を思い出してくれます様に」と、陰茎を意識した文が刻まれた銘板が設置された。
1,893 アルフレッド・ノーベルが、ウプサラ大学(スウェーデン)から名誉博士号を授与される。
1,893 3 豊田佐吉が、豊田伊吉の勧めで、佐原五郎作の妹佐原たみと結婚する。しかし、織布業の経営と発明は困難を極め、たみの着物を質に入れ生活費を捻出する等していた。
1,894 オリバー・ハザード・ペリ-・ベルモントが発注したベルコートが完成する。建設費は3,200,000ドルで、ヴェルサイユ宮殿のルイ13世の狩猟小屋を基に造られた。ベルモントは、100ドル/週を使って30名の召し使いを雇った。面積は4,600㎡で、60部屋を有し、壮麗な内部ホール・サロン・舞踏室、更には馬が好きなベルモントの為に、馬屋と中庭も完備されたが、寝室は1部屋だけであった。
1,894 アルフレッド・ノーベルが、ロスチャイルド家から、ノーベル兄弟産油会社経由で資金提供を受け、武器製造業に進出する。以降ノーベル家とロスチャイルド家は協力し合って、武器を売り捌いて行った。当時ロスチャイルド家は、ヨーロッパの銃器製造の大手だった以下2社も手中に収めていた。
①アームストロング社
②シュネーデル社
1,894 6 11 豊田佐吉と佐原たみの間に、長男豊田喜一郎が産まれる。しかし其の後たみは、豊田の実家で舅夫妻の下で1人取り残される生活に耐えきれず、佐吉と喜一郎を残して実家に帰った。
1,894 6 27 豊田佐吉が、自身の発明した糸繰返機の特許出願を行う。
1,894 11 駐日アメリカ大使エドウィン・ダンと駐清アメリカ大使チャールズ・デンビー・ジュニアが仲介し、翌年の1月に広島で講和交渉を行う事で合意する。
1,894 11 6 金州(現在の中国遼寧省大連市)が陥落する。
1,894 11 21 旅順(現在の中国遼寧省大連市)が陥落する。清北洋艦隊の母港の1つが消滅する事となる。
1,894 11 26 清の天津にある海関の税務司デトリングが、北洋通商大臣兼直隷総督李鴻章の使者として神戸港を訪れた。デトリングは、李が伊藤博文に宛てた講和を申し入れる書簡を携えていたが、清政府による全権委任状等が無かった為、日本政府は正当な使節と認めず帰国させる事となった。
1,895 アメリカの発明家のチャールズ・シーバーガーが階段状の昇降装置に対し、ラテン語のScala(階段)と英語のElevator(エレベーター)を組み合わせてEscalator(エスカレーター)と名付ける。
1,895 後藤新平が児玉源太郎に乞われ台湾総督府衛生顧問となる。以降台湾アヘンに直接関わる事になった。
1,895 ドイツの優生学者アルフレート・プレッツが「人種衛生学の基本指針」を出版し、人種に基づく優生学理論を提唱する。
1,895 アレッサンドロ・ベルルッティが、オーダーメイドの紳士靴店「ベルルッティ」をパリで創業する。
1,895 1 20 旅順を占領していた日本陸軍の第2軍の一部の部隊が、日本海軍連合艦隊との共同作戦により、海路を使って山東半島栄城湾への上陸を開始する。
1,895 1 30 清国軍が威海衛(現在の中国山東省)の砲台や威海衛港内の艦船から日本軍に対する砲撃を行う。やがて日本軍も占領した砲台から清国側の砲台や艦船に対する砲撃を始め、双方の間で激しい砲撃戦となる。この日の内に、日本軍は威海衛南岸の全ての砲台を占領し、続いて北岸の砲台への攻撃を開始する。
1,895 1 31 清から戸部左侍郎張蔭桓と湖南巡撫邵友濂が講和の為に広島に到着。しかし、日本政府から全権委任状の不備が指摘された事で交渉は早期に打ち切られ、2名の使節は帰国する。
1,895 2 2 威海衛軍港陸岸が日本軍の占領下となる。
1,895 2 12 清北洋艦隊提督丁汝昌が自決する。その後清の1隻の砲艦が白旗を掲げ、日本軍に降伏文書を届ける。内容は清の艦船や砲台、兵器の全てを日本軍に明け渡す事を申し出る一方、清国軍に同行している外国人(軍事顧問等)の生命の安全を保障する事を請うもので、丁汝昌から連合艦隊司令長官伊東祐亨に宛てたものであった。
1,895 2 14 豊田佐吉が、前年に自身が出願した糸繰返機に基づく特許(第2472号)を取得する。特許明細書に記載された住所は「名古屋市朝日町12番戸」寄留であった。
1,895 豊田佐吉が、糸繰返機を販売する為に「豊田商店」を、愛知県名古屋市朝日町(現在の愛知県名古屋市中区錦付近)に設立する。
1,895 3 19 清の欽差頭等全権大臣李鴻章と欽差全権大臣李経方が山口県赤間関市(現在の下関市)に到着する。
1,895 3 20 日本と清の全権委員による講和会議が春帆楼という割烹旅館で開始される。清側が、両国間での戦闘を早急に停止すべく休戦条約の締結を求めた。
1,895 3 21 第2回講和会議で日本側が、休戦の条件として以下を提示したが、清側はこれを拒絶する。また日本側も譲歩しなかった。
①太沽、天津、山海関等の日本軍の占領及びこれらの地にいる清国軍の全装備の日本軍への引き渡し
②天津―山海関間鉄道の日本軍による管理
③休戦期間中の日本軍の軍費の清国軍による負担
1,895 3 23 日本軍が澎湖諸島(現在の台湾)に上陸を開始する。
1,895 3 24 第3回講和会議が開かれたが、休戦条約の内容は纏まらず、法的には交戦状態のまま講和交渉に移行する事となった。会議終了後、李鴻章は春帆楼から宿泊先の引接寺に帰る途上で、小山豊太郎に銃撃され、顔面を負傷する。
1,895 4 1 第4回講和会議では、李鴻章は病床から李経方に指示を出していた。
1,895 4 10 第5回講和会議で李鴻章が復帰する。日本側は既に占領した遼東半島に加え、台湾と澎湖島の割譲を盛り込んだ講和条約案を提示したが、清国側は台湾の割譲に反発した。これに対し日本側全権委員伊藤博文は譲歩しなかった。
1,895 4 17 伊藤博文、外相陸奥宗光と李鴻章、李経方の間で日清講和条約が締結される。主な内容は以下の通り。
①清が朝鮮を完全無欠なる独立自主の国であると認める
②清が日本に遼東半島、台湾、澎湖諸島を割譲する
③清が日本に200,000,000テールの賠償金を支払う
④清が新たに沙市・重慶・蘇州・杭州の4港を開港する
⑤日本と清が通商航海条約を締結する
1,895 4 23 フランス第三共和政、ドイツ帝国、ロシア帝国の駐日公使が東京の外務省を訪れ、日本に対し、清への遼東半島の返還を求める。
1,895 4 24 遼東半島の返還に応じなかった場合、返還を求める三国からの軍事的干渉を受ける可能性が高いと判断し、御前会議を開き協議する。
1,895 5 外務省の林董が特命全権公使となり、清へ赴任する。
1,895 5 8 芝罘(現在の中国山東省煙台市)で日清講和条約の批准書交換が、清側の延期要請を拒否し行われる。
1,895 10 1 銀行家ポール・ウォーバーグがソロモン・ローブの娘ニーナ・ローブと結婚する。
1,895 11 8 遼東還付条約が林董と李鴻章の間で締結される。内容は以下の通り。
①日本から清への遼東半島の返還
②清は西暦1,895年11月16日に、返還の代償金として日本側に銀三千万両を支払う
③代償金の受け渡しの日から3ヶ月以内に、日本軍が遼東半島から撤退する
1,895 11 27 アルフレッド・ノーベルが、3番目にして最後の遺言で、以下の分野に於ける賞に自分の財産を充てる事を宣言する。
①物理学
②化学
③生理学・医学
④文学
⑤平和
そして、家族に内緒で財産の大半を信託に預けた。ノーベルは此の時には既に狭心症を発症しており、愛人ヘスには、絶え間ない体の痛み・重度の偏頭痛・麻痺する程の疲労を訴える書簡を送っており、鬱病も抱える等、健康状態に問題が有った。
1,895 12 ロシア政府により、露清銀行の銀行定款が承認される。
1,896 ヘルマン・エグラーがアンクル脱進機を採用した小型エボーシュムーブメントを作成する。
1,896 テオドール・ヘルツルが「ユダヤ人国家」を出版し、シオニズム(ユダヤ人の民族国家をパレスチナに再建する運動)が始まる。
1,896 明治政府が綿花輸入税、綿糸輸出税を撤廃する。綿花栽培農家に致命的なダメージを与えた。
1,896 清のアヘンの国内年間生産量が12,000tであった。対西暦1,880年比1.85倍に増加する。
1,896 豊田佐吉が、機械を構成するフレームが木製で、動力を伝達する歯車やシャフト類が鉄製の「木鉄混製動力織機」を発明する。此れにより、杼入れ・筬打ちを人力から動力に替え、横糸が切れたら杼が止まり自動で停止する装置や、布の巻き取り装置等を備え、1人で4台の織機が動かせる様に成り、安価且つ生産性や品質の大幅な向上を実現した。
1,896 1 9 露清銀行がサンクトペテルブルク(現在のロシアのレニングラード州)に設立される。資本金は6,000,000ルーブル、額面125ルーブルの株式が48,000株発行された。その内、28,000株はパリで一般公募されずに、一括して対清の借款契約に参加したパリバ、クレディ・リヨネ、パリ国民割引銀行、オッタンゲル商会によって引き受けられ、各々の取引銀行や顧客に売却された。残りの20,000株は対清の借款契約に参加したロシアの4銀行によって引き受けられた。設立目的は以下であった。
①ロシアと清の大規模な商取引
②極東ロシア領での商工業の活性化
③シベリア鉄道建設の完成
1,896 1 11 以下2名が結婚する。
①オリバー・ハザード・ペリ-・ベルモント
②ベルモントの親友ウィリアム・K・ヴァンダービルトの元妻アルバ・ヴァンダービルト
ベルモントは、ヴァンダービルト夫妻と10年程度の付き合いが有った。又、ベルモントは、ヴァンダービルト夫妻の所有するヨット「アルバ」に乗って少なくとも2度の航海に同行していた。西暦1,889年に或る航海から戻って来た時、既にベルモントとアルバは惹かれ合っていた。此の結婚には様々な意見が飛び交った。ベルモント家の殆どは結婚式を欠席した。ベルモントは、結婚の印として、アルバにベルコートの権利証書を送った。アルバは直ぐに、リチャード・モリス・ハントの息子リチャード・ハウランド・ハントに依頼して、ベルコートの改装を始めた。馬屋を宴会場に変え、自身の寝室と風呂を作った。後に、弐男ハロルド・バンダービルトには一続きの部屋を、ハロルドの家庭教師には、桟敷の上に部屋を作って与えた。
1,896 8 27 カトリック教会の修道会「フランシスコ会」の会員ジュゼッペ・トヴィーニが、バチカンの支援によりミラノに「アンブロシアーノ銀行」を設立する。
1,896 12 10 アルフレッド・ノーベルが、脳卒中・脳内出血により半身不随となり、サンレーモにて死去する。其の後、ノーラ墓地(スウェーデンのストックホルム県ソルナ)に埋葬された。
1,897 フランス海軍バヤール級装甲艦バヤールが、清の広東省雷州半島東側付け根にある湾に入ったところ、非常な深水良港である事を見つける。
1,897 AMAがイリノイ州で法人化される。
1,897 バクー・バトゥミ間の石油パイプライン建設が開始される。
1,897 ベチュアナランドへの鉄道建設に関し、ブラワヨ(現在のジンバブエ)までの敷設が完了する。
1,897 大株主がN・M・ロスチャイルド&サンズで軍用機器や造船の製造を行う「ヴィッカース社」が、バロー・イン・ファーネス(イギリスのカンブリア州)の造船会社である「バロー造船会社」を買収し、同時に、バロー造船会社の子会社となっていたマキシム・ノルデンフェルト銃器弾薬会社を買収して「ヴィッカース・サンズ・アンド・マキシム社」が設立される。設立の際の新株発行はN・M・ロスチャイルド&サンズが担った。バジル・ザハロフは、以下の国等に軍需品を販売していった。
①イギリス
②ドイツ
③ロシア帝国
④オスマン帝国
⑤ギリシャ
⑥スペイン
⑦日本
⑧アメリカ
1,897 1 21 台湾阿片令が公布され、台湾総督府の許可無しに売買、授受、所有が出来なくなる。また、アヘン中毒者と認定された者だけがアヘン吸引を許可された。しかし、実際には中毒者でなくても20歳以上であればアヘン吸引の許可が与えられた。
1,897 2 25 豊田佐吉が、自身の発明した織機の特許出願を行う。
1,897 7 9 遠江国敷知郡山口村の林政吉の長女林浅子と再婚した豊田佐吉が、浅子と挙式する。浅子は事務処理に長け、内助の功を発揮し、豊田商店を支えた。
1,897 7 20 イタリアの発明家グリエルモ・マルコーニが「マルコーニ無線電信会社」を設立する。ロスチャイルド家の通信支配が始まる。
1,897 8 10 ドイツの製薬会社であるバイエル社のフェリックス・ホフマンが、以下の作用を持つアスピリンの有効成分であるアセチルサリチル酸の合成に成功する。
①消炎
②解熱
③鎮痛
④抗血小板
1,897 8 25 豊田佐吉が、自身の発明した管捲機の特許出願を行う。
1,897 8 30 テオドール・ヘルツルがスイスのバーゼルにて第1回シオニスト会議を開催する。以下のバーゼル綱領が採択される。
①ユダヤ人農業・工業労働者のパレスチナ植民を適切な方針に従って促進する
②各国の法律に準拠して目的に適った諸機関を国別に、また国際的に設立する事により、ユダヤ人総体として組織し、結集する
③ユダヤ人の民族感情、民族意識を強化、育成する
④シオニズムの目的実現に対する政府の承認を必要に応じ取り付けていく為の準備的諸措置
1,897 10 マーカス・サミュエルがイギリスにシェル運輸貿易会社を設立する。
1,897 10 7 ロシア帝国内のユダヤ人社会民主主義組織である「ブンド」がビルニュス(現在のリトアニア)にて設立される。
1,897 11 1 山東省曹州府巨野県張家荘のカトリック教会が清の民間の自衛組織である大刀会数名の略奪に遭い、教会内にいたフランツィスクス・ニースとリヒャルト・ヘンレの2人のドイツ人神父が殺害される。
1,897 11 7 上海にいたドイツ東洋艦隊司令官オットー・フォン・ディーデリヒスが膠州湾占領作戦開始の命令を受ける。ドイツ人神父殺害の件を口実としている。
1,897 11 14 ドイツ海兵隊が長期航海途中の上陸と陸上訓練とを口実に膠州湾に上陸、戦闘無しで膠澳の総兵衙門にいた清の兵1,000名以上に退去を命じ、湾岸全域を占領した。
1,897 11 20 ドイツ人神父殺害の件に関し、ドイツ帝国と清の間で交渉が始まる。
1,898 ドイツのバイエル社により、ヘロインが発売される。
1,898 清のインド産アヘンの年間輸入量が3,280tであった。対西暦1,888年比0.62倍に減少する。
1,898 アルフォンス・ド・ロスチャイルドが「マズット貿易・輸送会社」を設立し、以下のカスピ海・黒海石油産業貿易会社の支店に石油製品の納入を開始する。其の後カスピ海だけで13隻のタンカーを保有する最大の石油輸出組合へと成長した。
①ニジニ・ノヴゴロド(現在のロシア)
②サマーラ(現在のロシア)
③ツァリーツィン(現在のロシアのヴォルゴグラード州)
④アストラハン(現在のロシア)
⑤リガ(現在のラトビア)
⑥ヴィーツェプスク(現在のベラルーシ)
⑦ワルシャワ
1,898 1 15 ドイツ人神父殺害の件に関し、ドイツ帝国と清が和解する。
1,898 3 6 ドイツ帝国が清から以下の権利を獲得する。
①清国から膠州湾の99年間の租借権
②湾の拠点である青島と済南とを結ぶ膠済鉄道を敷設する権利
1,898 3 13 この日から3日間、ブンドの協力によりミンスク(現在のベラルーシ)にある鉄道職員ピョートル・ルミャンツェフが間借りしていた一軒家に、ピョートル・ストルーヴェを始めとする9名が集合し「ロシア社会民主労働党」の結党大会が開かれる。しかし、ゲオルギー・プレハーノフやウラジーミル・レーニンが亡命中であった為、結党を宣言しただけであった。
1,898 3 27 ロシア帝国が清に対し、戦争で発生した対日賠償金の援助に対する担保、清国内で起こる排外主義運動に対する責任を理由に、北京にて主に以下の内容の条約を結ばせた。調印したのは、清国側が李鴻章と張蔭桓、ロシア側が アレクサンドル・パヴロフであった。
①旅順、大連の25年間の租借権
②東清鉄道と大連とを結ぶ南満洲鉄道の敷設権
1,898 4 22 前年見つけた清の広東省雷州半島東側付け根にある湾をフランス第三共和政が占領し、フランス領インドシナの管理下に置く。
1,898 5 24 イギリスが、威海衛は旅順のロシア艦隊を監視しやすく、ロシアを抑止する負担が抑えられると日本へ説得する事で、日本の威海衛占領軍と入れ替わる形で威海衛を占領する。
1,898 7 1 威海衛租借協定がイギリスと清の間で結ばれる。
1,898 8 1 豊田佐吉が、前年に自身が出願した織機に基づく特許(第3173号)を取得する。
1,898 9 26 日本海軍がヴィッカース社に戦艦「三笠」を発注する。ヴィッカース社に戦艦を発注するのはこれで6隻目であった。
1,898 10 22 徳川慶喜と徳川昭武が、稲村(現在の茨城県取手市)で狩猟をし、昭武の別邸である戸定邸で宿泊する。
1,898 11 7 豊田佐吉が、前年に自身の出願した管捲機の特許(第3250号)を取得する。
1,899 アンドリュー・カーネギーがカーネギー製鉄所を設立する。
1,899 3 義和団が現在の中国山東省で蜂起。
1,899 3 5 徳川慶喜と徳川昭武が、布施村(現在の千葉県柏市)で狩猟をする。
1,899 3 6 徳川慶喜と徳川昭武が、取手付近で狩猟をし、東京に帰る。
1,899 3 6 バイエル社がアスピリンを商標登録する。
1,899 3 16 徳川慶喜と徳川昭武が、布施村で狩猟をする。
1,899 4 此の月迄にニジニ・ノヴゴロドの石油貯蔵倉庫に145,782tの石油が保管されていた。主な保管者は以下の通り。
①ノーベル兄弟産油会社:48,484.8t
②マズット貿易・輸送会社:47,502t
1,899 4 8 徳川慶喜と徳川昭武が、取手付近で狩猟をし、東京に帰る。
1,899 5 8 豊田佐吉が、自身の発明した杼の特許出願を行う。
1,899 6 30 豊田佐吉が、同年に自身の出願した杼の特許(第3605号)を取得する。
1,899 10 11 第2次ボーア戦争が勃発する。セシル・ローズの支援を受けたアルフレッド・ミルナー等によって引き起こされた。狙いはトランスヴァール共和国の金であった。
1,899 10 14 徳川慶喜と徳川昭武が、藤代付近で狩猟をする。
1,899 10 17 徳川慶喜と徳川昭武が、藤代付近で狩猟をする。
1,899 11 三井物産が、木鋳混製動力織機の量産支援を豊田佐吉に打診し、豊田が此れを受け入れ、木鋳混製動力織機の10年間の一手販売契約を結び、三井物産の全額支援により、資本金30,000円で「井桁商会」を設立する。社名は三井本家の家紋に由来した。豊田は技師長として迎えられた。
1,899 11 6 徳川慶喜と徳川昭武が、牛久付近で狩猟をする。
1,899 11 19 フランス第三共和政が清と以下の内容の条約を結ぶ。
①広州湾の99年間の租借権
②広州湾に入る清の船に対する課税
③赤坎から安铺への鉄道建設
1,899 11 23 イギリスの海運会社であるホワイト・スター・ライン社の社長トーマス・ヘンリー・イズメイが死去し、ジョセフ・ブルース・イズメイが後を継ぐ。
1,900 此の年迄にアストラハン(現在のロシア)の船舶修理会社が約30社存在した。主な会社の従業員数は以下の通りである。
①コーカサスとマーキュリー:237名
②マズット貿易・輸送会社:195名
③東方教会:176名
④ノーベル兄弟産油会社:170名
1,900 井桁商会の受注が、景気悪化により減少し始める。豊田佐吉は、十分な開発資金を得られなくなっていった。
1,900 ロシア帝国内の全石油工場の約10%に当たる以下の7系列が、灯油の累積総生産量である368,550,000tの約68%を占める。
①ノーベル兄弟産油会社:175,266,000t
②カスピ海協会:57,330t
③資産家ハジ・ゼイナラブディン・タギエフ:39,312t
④バクー石油会社:27,846t
⑤アルフォンス・ド・ロスチャイルド:24,570t
⑥ムサ・ナギエフ:24,570t
⑦シャムシ・アサドゥラエフ:19,656t
1,900 1 15 ニコラ・テスラが、コロラドスプリングス(アメリカのコロラド州エルパソ郡)での9ヶ月程度の研究を終え、ニューヨークに戻る。テスラは、コロラドスプリングスに建設した研究所で、高周波振動の電気的共鳴を利用して、巨大な電圧を発生させる「拡大送信機」を用い、地球が電気を帯びている帯電体である事を証明した。此の結果を受けてテスラは、地球を媒介とする送電システムの構築が可能であると確信した。更に、コロラドスプリングスの研究所の周囲で頻発する雷放電を観測して、周波数の等しい波が干渉し合い波動が全く動いていない様に見える「地球定常波」を発見した。此の地球定常波を利用すれば、エネルギーを減衰させる事無く地球全体に送電出来るのではないかとテスラは考えた。テスラは、自身の所属会社である「ウェスチングハウス・エレクトリック&マニュファクチャリング・カンパニー」に「数ヶ月間のコロラドスプリングスでの研究から戻って来た所です。予想以上の成功を収め、私が完成させた機械を用いて、地球上の何処でも電信通信を確立出来る事を実証しました」と報告した。又テスラは、ハウストン・ストリート(アメリカのニューヨーク州ロウアー・マンハッタン地区、マンハッタン地区)に広範な電気実験室を所有していた。
1,900 3 イギリス政府が、ボーア戦争に於ける戦時国債30,000,000ポンドを発行する。この際J.P.モルガン商会が、イングランド銀行のアメリカ独占代理店に任命された。
1,900 5 16 ニコラ・テスラが、コロラドスプリングスで完成させた、無線電信システムに関する特許「自然媒質を通じて電気エネルギーを送信する技術」を申請する(US787412A号)。
1,900 6 ニコラ・テスラが「人類エネルギー増大の問題、特に太陽エネルギーの利用に就いて」という論文を発表する。テスラは此の論文にて、アンテナを使用して太陽エネルギーを利用する方法に就いて説明し、電気エネルギーで天候を制御する事が可能であると提案した。此のシステムの最大の目的は、機械を無線制御する事により、戦争を不可能にする事であった。
1,900 6 21 義和団が、ドイツ公使を殺害し、西太后(第9代清皇帝咸豊帝の側室)が義和団の反乱を支持する。そして、日本、ロシア、イギリス、フランス、アメリカ、ドイツ、オーストリア・ハンガリーに宣戦布告する。
1,900 7 朝鮮半島最初の鉄道である京仁鉄道が、京城(現在の韓国ソウル)-仁川間を開通させる。
1,900 8 北京が8ヶ国連合国軍に占領される。
1,900 8 J.P.モルガン商会が、ボーア戦争に於けるイギリス大蔵省証券(3年満期、利率3%)発行の主幹事となる。J.S.モルガン商会も副幹事として参加した。J.S.モルガン商会がこの証券をロンドン証券市場で販売するには、J.P.モルガン商会を通さなければならなかった。
1,900 9 清が義和団の鎮圧を命じる。
1,900 10 19 徳川慶喜と徳川昭武が、利根川で釣りをする。
1,900 11 ニコラ・テスラが本年6月に発表した論文が、ジョン・モルガンの目に留まる。以降ジョン・モルガンは、テスラを自身の自宅に頻繁に招く様になった。テスラは、無線による情報の伝達システムを構築する事で、電話メッセージを瞬時に海を超えて中継し、音楽・ニュース・株式市場の報告・プライベートメッセージ・安全な軍事通信・画像を世界中に送信する事の出来る「世界無線システム」の計画をモルガンに提案した。モルガンは、前年にロングアイランド沖で行われた国際ヨットレースであるアメリカスカップのレポートをニューヨーク市に無線で伝えるデモを行ったグリエルモ・マルコーニに感銘を受けており、テスラのプロジェクトの実現可能性と、特許の優先権に関し疑問を抱いていた。
1,900 12 15 徳川慶喜と徳川昭武が、取手で狩猟をする。



モリソン号事件一元化




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