以下の暦は全て西暦に変換しています。
日本の旧暦
中国の旧暦
ユダヤ暦
ヒジュラ暦
ソビエト連邦暦
フランス革命暦
≈は「頃」を意味しています。
![]() |
ディープステートと初めて接触した日本人。
|
年月日 | 出来事 | |||
---|---|---|---|---|
1,801 | メイヤー・アムシェル・ロスチャイルドがヘッセン侯爵家の銀行事務弁理人に任命される。ヴィルヘルム9世の個人資金運用も委託され、投資事業も始めた。 | |||
1,801 | 7 | 4 | 第3代アメリカ大統領となっていたトーマス・ジェファーソンと第3代アメリカ副大統領アーロン・バーの熱烈な支持者で、共和党運動に精を出していた弁護士ジョージ・I・イーカーが、コロンビア大学の独立記念日に於けるスピーチで、アレクサンダー・ハミルトンの君主制構想を批判した。その後アレクサンダー・ハミルトンの長男フィリップ・ハミルトンは、新聞でスピーチを知り、イーカーへの復讐を決意した。 | |
1,801 | 11 | 20 | トーマス・ジェファーソンが、友人リチャード・プライスと共にパーク・シアター(アメリカのニューヨーク市マンハッタン区パーク・ロウ)に乗り込み、観劇していたジョージ・I・イーカーと対面する。見物人が凝視し始めると、イーカーは、ジェファーソンとプライスにロビーに来る様に言った。感情が昂っていた3名は、意見の相違を解決する為に酒場へ行ったが、物別れに終わった。夜、イーカーは、プライスから決闘を要求する書簡を受け取った。 | |
1,801 | 11 | 22 |
ウィーホーケン(アメリカのニュージャージー州)にて以下2名の決闘が行われる。 ①リチャード・プライス ②ジョージ・I・イーカー お互い2発ずつ銃弾を放ったが、両者は無傷で決着は付かなかった。また、水面下でアレクサンダー・ハミルトン側が、イーカーの部下との休戦交渉を行ったが、徒労に終わり、ハミルトンとイーカーの決闘がジャージー・シティ(アメリカのニュージャージー州)の砂州で行われる事が決まった。フィリップ・ハミルトンはアレクサンダーから、イーカーが先に発砲する迄待つか、最初の発砲を無駄撃ちするかどちらかした方が良いと助言した。決闘を短くし、イーカーが狙撃した場合、出血した事を示す為であった。 |
|
1,801 | 11 | 23 |
ウィーホーケン(アメリカのニュージャージー州)にて以下2名の決闘が行われる。 ①フィリップ・ハミルトン ②ジョージ・I・イーカー フィリップは、アレクサンダー・ハミルトンの助言通りに、向きを変え、銃を持ち上げなかった。イーカーも暫く銃を持ち上げなかった。1分が経過すると、イーカーが銃を持ち上げフィリップを発砲した、フィリップも銃を持ち上げたが、イーカーの放った弾丸が、右腰の上に命中し左腕に留まった。フィリップは発砲し、地面に倒れた。フィリップの放った弾丸は流れ弾となった。フィリップはマンハッタンの叔母の家に運ばれた。 |
|
1,801 | 11 | 24 | 早朝、ホサック博士の治療を受けていたフィリップ・ハミルトンが、出血が止まらず銃弾を受けてから14時間後に死去する。 | |
1,802 | イギリスのコーンウォールの鉱山で働く親方の息子である、リチャード・トレビシックが世界初の軌道上を走る蒸気機関車を発明する。 | |||
1,802 | 江戸幕府が蝦夷地奉行を設立し、本格的に蝦夷地や周辺の島々の調査を開始する。 | |||
1,802 | カール・ビュデルスが、陸軍給仕長に昇進する。 | |||
1,802 | ピエール・サミュエル・デュポンが、ナポレオン・ボナパルト政権下のフランスへ戻り、様々な役職に就く。 | |||
1,802 | 7 | 19 | 第3代アメリカ大統領であったトーマス・ジェファーソンの後ろ盾を得て、エルテール・イレネー・デュポンが、アメリカのデラウェア州ウィルミントンのブランディワイン川沿いに火薬製造工場を設立し「デュポン・ド・ヌムール父子商会」を創業する。ブランディワイン川沿いには、火薬の原料として最適な白樺が多く生息していた為、この地が選ばれた。エルテールは火薬製造工場を建設するに当たって、当時火薬の輸出国であったイギリスと敵対していた、ナポレオン・ボナパルトの支配下にあったフランス政府に、アメリカに火薬工場を建設するメリットを説き、ナポレオンの全面的支援を得ていた。 | |
1,803 | ロスチャイルド家がイギリス王室の宮中代理人となる。 | |||
1,803 | メイヤー・アムシェル・ロスチャイルドが、デンマーク政府に貸付を行う。 | |||
≈ | 1,803 | マリア・レイノルズが単身イギリスからフィラデルフィアに戻り、「マリア・クレメント」という名前で活動を始める。 | ||
1,803 | 5 | 15 | ヘッセン・カッセル方伯が選帝侯に昇格し、ヘッセン・カッセル方伯領が「ヘッセン選帝侯国」に改名する。これに伴い、ヴィルヘルム9世が初代ヘッセン選帝侯に就任した。 | |
1,804 | ドイツの薬剤師フリードリヒ・ゼルチュルナーが、アヘンからモルヒネの単離に成功する。 | |||
1,804 | ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドがロンドンへ移住し、「イギリス・ロスチャイルド商会」を創設する。この頃からロスチャイルドは、ヴィルヘルム9世から資産運用を任せられ、イギリス国債で運用しながら、それで得た地金を元手に、貴金属投機で利益率20%を叩き出した。この頃ロスチャイルドは、ドーバー(イギリスのケント州)とカレー(フランスのパ・ド・カレー県)にエージェントを配置し、彼らを使って船長に上乗せ料金を支払って至急便で手紙を運ばせる等して、情報網の構築と維持に努めた。 | |||
1,804 | 7 | 11 | アーロン・バーがアレクサンダー・ハミルトンに決闘を挑み、西暦1,801年11月23日にフィリップ・ハミルトンが決闘を行ったウィーホーケンの岩棚の上で夜明けに開始される。ハミルトンが先制したものの、バーがハミルトンの下胸部を撃ち、弾丸は背骨に留まった。 | |
1,804 | 7 | 12 | アレクサンダー・ハミルトンが死去。ロスチャイルド側から見れば用済み厄介者の始末が完了したと言える。 | |
1,805 | オスマン帝国の一地方政権として、エジプト総督となり、実質的な独立政権を樹立する。 | |||
1,805 | 6 | 20 | ミラノでグランドロッジ「イタリア大東社」が設立される。 | |
1,806 | ジョン・パーキンス・クッシングが、広東に「パーキンス商会」を設立する。 | |||
1,806 | 間宮林蔵が択捉島を測量。 | |||
1,806 | 3 | 15 | 江戸幕府が薪水給与令を発し、食料・薪水・燃料等が欠乏して帰国出来ない場合はそれらを給与する様定める。 | |
1,806 | 6 | ナポレオン・ボナパルト率いる軍のヘッセン侵攻に伴い、ヴィルヘルム9世がデンマークに逃亡する。其の際ヴィルヘルム9世は、メイヤー・アムシェル・ロスチャイルドに財産3,000,000ドルを安全に保管する様命じた。其処でメイヤーは此のヴィルヘルム9世の財産をロンドンにいるネイサン・メイヤー・ロスチャイルドに送り、財産管理を任せた。ネイサンはヨーロッパ中からヴィルヘルム9世の債権を回収し、得た資金をヴィルヘルム9世の許可を得て投資事業に転用し、莫大な利益を得る。又、秘密裏にボナパルトが成立させたライン同盟にも取り入り、敵味方双方から利益を得ていた。 | ||
1,806 | 7 | 12 |
ナポレオン・ボナパルトやカール・ビュデルス等が、神聖ローマ帝国内の以下の16のドイツ諸国を帝国から離脱させ、フランス帝国と同盟させて「ライン同盟」を成立させる。 ①バイエルン王国 ②ヴュルテンベルク ③レーゲンスブルク侯国 ④バーデン選帝侯領 首座大司教侯にはレーゲンスブルク侯国大司教カール・テオドール・フォン・ダールベルクが就いた。ダールベルクはネイサン・メイヤー・ロスチャイルドと親交が有った。 |
|
1,806 | 10 | 14 | ナポレオン・ボナパルト率いる軍とプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世率いるプロイセン王国軍が、現在のドイツのテューリンゲン州で交戦し、フランス帝国が勝利する。 | |
1,806 | 10 | 22 | ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドが、モーゼズ・モンテフィオーレの義妹且つロンドンの大富豪レヴィ・ベアレント・コーエンの娘で、カール・マルクスの祖母ナネッテ・コーエンと従姉妹関係にあるハナ・ベアレント・コーエンと結婚する。此れによってロスチャイルドは、イギリスの織物やインドの産物等をヨーロッパ大陸へ密輸するコーエン家の事業を引き継ぐ事となる。ハナは嫁入りの際、レヴィから与えられた3,248.14.06ポンドを生活扶助料受領権を得る目的で持参した。 | |
1,806 | 11 | 1 | ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍が、カッセルに侵攻する。その後ヴィルヘルム9世は、以下の順ホルシュタイン地方に逃亡し、イツェホーのプリンゼスホフ(現在のドイツのシュレースヴィヒ・ホルシュタイン州)に居住し、最終的にプラハに移った。カール・ビュデルスは、収用の責任者である将軍ラグランジュとの密約によってヴィルヘルム9世の金融資産47,000,000ギルダーの内27,000,000ギルダーを守り抜く事に成功した。これによりビュデルスは財政顧問となり、貴族の称号である「フォン・カールスハウゼン」を授与された。また、翌年以降ビュデルスとロスチャイルド家の関係もあり、ヴィルヘルム9世は、大規模な金融取引は全てロスチャイルド家を通して行った。 | |
1,806 | 11 | 21 |
ナポレオン・ボナパルトがベルリン(現在のドイツ)で、大陸諸国に対して、対英貿易の禁止、イギリス人の逮捕と財産没収、イギリス本国・植民地産商品の没収を命じる「大陸封鎖令」を発した。此れにより、以下の品目等の大陸諸国がイギリスやその植民地からの輸入に頼っている商品の価格が高騰した。 ①コーヒー ②砂糖 ③煙草 ④綿製品 一方イギリスでも其れ等の商品の価格が市場の喪失で暴落した。ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドは此れを利用し、イギリスで安く買って大陸へ密輸し、アムシェル・メイヤー・フォン・ロスチャイルドを始めとする父や兄弟達が大陸内で確立しているロスチャイルド家の通商ルートや情報網を使って各地で売り捌き、莫大な利益を得た。 |
|
≈ | 1,806 | 11 | 30 | ハナ・ベアレント・コーエンが、ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドの家に移住する為、マンチェスターへと向かう。ロスチャイルドは、商人・繊維製造業者・ロスチャイルド自身のスタッフで構成されるコミュニティで地位を確立していた。コーエンは、ロスチャイルド達の業務を手伝う様になり、通信・注文処理・小切手への署名等に従事した。コーエンはロスチャイルドに対し、戦略の提案や政治的・経済的発展に関する報告を書簡で行っていたが「ベッドから出る時はスリッパを履く様にお願いしなければなりません。季節は変わり易いので、風邪を引かない様気を付けて下さい」等とロスチャイルドを気遣う記載も行っていた。 |
1,807 | 江戸幕府が西蝦夷地を天領とする。 | |||
≈ | 1,807 | 1 | ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドが、ヴィルヘルム9世の在ロンドン特命全権公使ロレンツに資産運用を申し出たが拒絶される。 | |
1,807 | 3 | 25 | イギリス議会で奴隷貿易法が成立し、奴隷貿易が禁止される。イギリス船で奴隷が見つかった場合の科料は100ポンド/人とされた。これにより、イギリス経済は長期的な打撃を受けた。 | |
1,807 | 12 | 7 | ナポレオン・ボナパルトが没収したヘッセン選帝侯国領の領内にあるカッセルを首都としたヴェストファーレン王国が建国される。初代国王に、ナポレオンの弟であるジェローム・ボナパルトが就いた。 | |
1,808 | ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドが、ヴィルヘルム9世の代理で金利3%のコンソル公債を150,000ポンド分を額面の73.5%である110,250ポンドで購入する。カール・ビュデルスがヴィルヘルム9世に、資産運用をロスチャイルドに託す様働きかけていた。この年ロスチャイルドは、ヴィルヘルム9世の宮廷仲介人となった。それと同時にロンドンのグレート・セント・ヘレンズに「N・M・ロスチャイルド&ブラザーズ」という事務所を開設した。 | |||
1,808 | 10 | 4 | イギリス軍艦フェートン号がオランダ国旗を掲げ国籍を偽り長崎に入港する。 | |
1,809 | 江戸幕府が樺太の呼称を北蝦夷地と正式に定めた上で東北諸藩に警備を目的とした出兵を命じる。 | |||
1,809 | カール・ビュデルスが、ロスチャイルド家に20,000ギルダーを預金し、ロスチャイルド家の匿名のパートナーとなる。 | |||
1,809 | 5 | ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドが、セント・スウィシンズ・レーンのニュー・コートにオフィスを移転させる。 | ||
1,809 | 10 | 4 | スペンサー・パーシヴァルが、第21代イギリス首相に就任する。以降ジョージ4世は、パーシヴァルに補助金をせびる様になった。又、ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドは、ナポレオン戦争が行われている隙にアメリカが領土拡大を狙っているとして、アメリカへの派兵をパーシヴァルに迫った。しかしパーシヴァルは、アメリカに割ける兵は無いとして拒絶し、ロスチャイルドを失望させた。 | |
1,809 | 11 | 間宮林蔵が樺太北部の探索を終え、宗谷に戻る。 | ||
1,809 | 11 | ミドルタウン(アメリカのコネチカット州)の海運商人ルーシー・オールソップの見習い事務員として、トレーダーのスキルを学んでいたサミュエル・ラッセルが、見習い期間を終え、ニューヨークへ移る。 | ||
≈ | 1,809 | 12 | ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドが、ヴィルヘルム9世の代理でコンソル公債を150,000ポンド分を購入する。その後手数料25%引きでコンソル公債を150,000ポンド分を追加購入した。以降も西暦1,813年12月頃迄に6度コンソル公債を追加購入し、総額は664,850ポンドに上った。 | |
1,810 | 2 | 16 | フランクフルト大公国が建国される。カール・ビュデルスは、ハーナウの領地議会議員となり、西暦1,813年迄務めた。 | |
1,810 | 9 | 12 | ベアリングス銀行創設者でロンドン証券取引所支配人のフランシス・ベアリングが死去する。これに伴い、ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドがロンドン証券取引所の大株主となり、21,000,000ポンドを支配した。 | |
1,810 | 11 | 2 |
以下2名の6女アミーリアが丹毒の為死去する。 ①ジョージ3世 ②シャーロット・オブ・メクレンバーグ・ストレリッツ 其れから程無くして、ジョージ3世は精神疾患を再発させ、以下の身体的な症状も現出し、杖無しでは歩けない状態となった。 ①発熱 ②頻繁な嘔吐 ③脚の腫れ ④胃痛 ⑤頭痛 ⑥関節の痛み 其の少し前にジョージ3世は、白内障の進行により、右目、左目の順にほぼ視力が失われていた。更には、ポルフィリン症も再発した。 |
|
≈ | 1,811 | イギリス大蔵省ジョン・チャールズ・ヘリーズが、イベリア半島で戦っていたアーサー・ウェルズリーに、金貨・金塊を供給しようと各金融機関に打診したが、ピレネー山脈を越えて運ぶリスクに難色を示された。しかしネイサン・メイヤー・ロスチャイルドはこれを引き受ける。ネイサンはロンドンで金塊を購入してジェームス・ド・ロスチャイルドに密輸し、ジェームスが金塊をスペイン・ポルトガルの金融業者宛為替手形に変え、ピレネー山脈を経由してウェルズリーに届けるというスキームであった。 | ||
1,811 | 2 | 6 |
ジョージ4世が摂政となる。ジョージ4世は、父ジョージ3世に代わり事実上の君主となり、イギリスとグレートブリテンを統治した。此の年、第4代ポートランド公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ・スコット・ベンティンクの保有するメリルボーン・パーク(現在のイギリスのロンドンのシティ・オブ・ウェストミンスター、カムデンのリージェンツ・パーク)のリース契約が切れ、イギリス王室の所有となったが、摂政となっていたジョージ4世は、狩猟に最適なメリルボーン・パークの草原に宮殿を建てようと考えた。此の頃、ロンドン北部の再開発計画が持ち上がっており、メリルボーン・パークからカールトン・ハウス迄続くショッピング通りを作る都市開発計画が立案された。ジョージ4世は、ジョン・ナッシュを顧問として招き、以下の人間も加わり、ロンドン北部の再開発計画に着手した。 ①不動産開発業者ジェームズ・バートン ②ジェームズの五男デシマス・バートン |
|
1,811 | 6 | 25 | ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドが自身の会社である「ロスチャイルド・ブラザーズ」を解散し、メイヤー・アムシェル・ロスチャイルドと共に投資銀行の「N・M・ロスチャイルド&サンズ」をロンドンで設立する。この頃からネイサンは5兄弟の中で威張り散らす様になり、専制的になった。 | |
1,811 | 7 | 4 | ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドがマンチェスターでの業務を終了する。 | |
1,812 | ベンジャミン・ゴールドシュミットと弟エイブラハム・ゴールドシュミットから成るゴールドシュミット兄弟の共同経営者モーゼス・モカッタの甥モーゼス・モンテフィオーレが、レヴィ・ベアレント・コーエンの娘ジュディス・コーエンと結婚する。 | |||
1,812 | サミュエル・ラッセルが、ニューヨークを拠点とし、コネチカット州の家族関係を持つ投資家によって設立された商社である「ハル&グリズウォルド社」に入社する。ラッセルはスーパーカーゴとして会社の船を使って、手数料ベースでの取引を始めた。 | |||
1,812 | 5 | 11 | 17時頃、商人ジョン・ベリンガムがウェストミンスター宮殿内庶民院ロビーにて、至近距離からスペンサー・パーシヴァルを撃ち、暗殺する。 | |
1,812 | 6 | 8 | ロバート・ジェンキンソンが、第22代イギリス首相に就任する。西暦1,820年以降は、ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドと関係を持った。 | |
1,812 | 6 | 9 | ニコラス・ヴァンシッタートが、第106代イギリス財務大臣に就任する。前日に首相に就任したロバート・ジェンキンソンと同様、西暦1,820年以降は、ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドと関係を持った。 | |
1,812 | 6 | 18 | 米英戦争が勃発する。ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドの望み通りとなった。 | |
1,812 | 9 | 19 | メイヤー・アムシェル・ロスチャイルドが死去する。アムシェル・メイヤー・フォン・ロスチャイルドが家長の座とフランクフルト・アム・マインの銀行を継ぐ。メイヤーは臨終の間際に、西暦1,796年に通達した事業に参画する人間を家長と実の息子に限定する事を改めて強調し、参画しない者が帳簿や書類に触れる事を禁じ、5名の息子に対しては、互いに愛と友情を持って交わる事を命じた。 | |
1,813 | ジョージ3世の四男エドワード・オーガスタスが、フリーメイソンのイングランド・古代派グランドロッジのグランドマスターに就任する。 | |||
≈ | 1,813 | ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドが、ロシア帝国への送金に難儀していたホープ商会に手を差し伸べ、ロシア帝国側の窓口の外交官ジェルヴェに、1,333,333ポンドの送金の為に1%に相当する13333.33ポンドの賄賂を渡し、送金を完遂する。ロスチャイルドとその兄弟達は報酬としてイギリスから2%の手数料と2%の実質負担、ロシア帝国から4%の手数料を受け取った。 | ||
1,813 | 10 | 26 | ヴェストファーレン王国が消滅し、ヘッセン・カッセル方伯領が返還される。 | |
1,813 | 11 | 20 | チャールズ・ヴェーンが、第25軽竜騎兵連隊の司令官に昇進する。この頃からヴェーンは、ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドと親交を持ち始めた。 | |
1,813 | 11 | 21 | ヴィルヘルム9世が、ヘッセン・カッセル方伯領の自身の自宅に帰還する。この時迄カール・ビュデルスはヴィルヘルム9世に代わり、ヨーロッパ全土でロスチャイルド家とのサービスを利用し、金融取引を行なっていた。 | |
1,814 | M・M・ヴァールブルク&COが、N・M・ロスチャイルド&サンズの系列企業となる。 | |||
1,814 | マルムーク(奴隷身分出身の軍人)の統治者ダウド・パシャによるユダヤ人迫害が始まる。 | |||
1,814 | 勅許状期限の満了と共に、インドに対するイギリス東インド会社の独占権が廃止される。ロスチャイルド家が利権を引き継ぎ、植民地支配を続ける。 | |||
1,814 | ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドの専制的な行動に拍車が掛かり、他の兄弟達に対し「白痴」という表現を用いた書簡を送る様になる。ソロモン・メイヤー・フォン・ロスチャイルドは背中と脚に激しい痛みを覚える様になり、カール・メイヤー・フォン・ロスチャイルドも、床に伏せてしまった。これを見兼ねたハナ・ベアレント・コーエンの妹ジェシー・バレント・コーエンの夫メイヤー・デイビッドソンは「この様な屈辱的で、破壊的且つ嘆かわしい態度をとる事は、ロスチャイルド家の将来の団結を危険に晒す」と警告したが、ネイサンは「ならば事業を解体する」と聞く耳を持たなかった。 | |||
1,814 | キャロライン・オブ・ブランズウィックが、イギリスを離れて無期限のヨーロッパの旅に出る。此の際ブランズウィックは、召使としてバルトロメオ・ペルガミを雇った。程無くして秘書となり、ブランズウィックの家政を担った。公の場で2人で登場した事で、恋愛関係にあるのではないかと噂された。此れはイギリス王室にとって不名誉な事であった。軈てペルガミの母親・兄弟姉妹・娘がブランズウィックの家政に雇われ、全員がコモ湖(現在のイタリアのロンバルディア州)のブランズウィックの邸宅に住む様になった。 | |||
1,814 | 1 | ロスチャイルド家が、南フランスに侵攻したアーサー・ウェルズリーに600,000ポンド相当の金貨・銀貨を運ぶ事に成功する。これはロスチャイルドの兄弟達がドイツ・フランス・オランダで集めたもので、成功報酬は2%に当たる12,000ポンドであった。 | ||
1,814 | 4 | 2 | ナポレオン・ボナパルトが退位する。 | |
1,814 | 4 | 6 | イギリスに亡命し、ジョージ4世に保護されていたルイ18世が、第7代ブルボン朝フランス国王に即位する。此の際ロスチャイルド家が200,000ポンドの資金提供を行なった。 | |
1,814 | 4 | 16 | ナポレオン・ボナパルトがエルバ島(現在のイタリアのトスカーナ州リヴォルノ県)に追放される。ピエール・サミュエル・デュポンは、同年に加わった臨時政府のメンバーとして追放に携わった。 | |
1,814 | 8 | ソロモン・メイヤー・フォン・ロスチャイルドが「ロンドンに居る弟ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドは最高司令官であり、私はネイサンの部下の元帥である」という主旨の発言を行う。 | ||
1,814 | 8 | 7 | 第251代ローマ教皇ピウス7世が勅書を発し、イエズス会再興を宣言する。 | |
1,814 | 11 | 22 |
ナイメーヘン(現在のオランダのヘルダーラント州)のシナゴーグにて以下2名が結婚する。 ①ハインリヒ・マルクス ②ヘンリエット・プレスバーグ プレスバーグは20,000ギルダーの持参金を受け取った。其の後はトリーア(現在のドイツのラインラント・プファルツ州)に移り、マルクスは弁護士として成功を収めた。 |
|
1,815 | 2 | 26 | ナポレオン・ボナパルトが流刑地のイタリアのエルバ島を脱出する。これを知ったネイサン・メイヤー・ロスチャイルドは、ナポレオン戦争が長期化すると考え、イギリスから大陸への資金送金ニーズを見越し、アーサー・ウェルズリーに送る為の金塊を大量に購入し、ジョン・チャールズ・ヘリーズに売却した。この時のヘリーズの勘定残高は9,789,778ポンドであった。ロスチャイルドは、ウェルズリーに金塊を送る際の手数料で390,000ポンドを稼ぐ皮算用をしていた。 | |
1,815 | 3 | 1 | ナポレオン・ボナパルトがフランスのカンヌ近郊に上陸する。ピエール・サミュエル・デュポンはこれを機に、再度アメリカに亡命した。 | |
1,815 | 4 | 10 | インドネシアのタンボラ山が噴火する。 | |
1,815 | 6 | 9 | ウィーン議定書が締結され、スイスが永世中立国として承認される。スイスに銀行を持つ事で戦争に際し、両陣営に資金を貸し付けたり、戦争で攻め込まれる事が無い為安全に資産を保管出来る事から、国際金融資本が推し進めた。 | |
1,815 | 6 | 18 | 夕方、ワーテルロー(現在のベルギーのブラバン・ワロン州)にてナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍が、イギリス貴族院議員アーサー・ウェルズリー率いるイギリス・オランダ・プロイセン連合軍に敗れる事が決定的となった事を目の当たりにしたネイサン・メイヤー・ロスチャイルドの急使ロスワースが、ブリュッセル(現在のベルギー)を経由してオーステンデ(現在のベルギーのウェスト・フランデレン州)へ馬を走らせる。この日フランス軍は、8時間に及ぶ激戦の末、1/3の兵士を失いイギリス・オランダ・プロイセン連合軍に敗れた。これにより金価格が暴落し、ロスチャイルドが、ジョン・チャールズ・ヘリーズに売却した金塊の資産が大きく目減りした。また、カール・メイヤー・フォン・ロスチャイルドはこのワーテルローの戦いに先立った資金調達で、アムステルダムにて国債を売り捌いていた。 | |
1,815 | 6 | 19 | 未明、ロスワースが、アーサー・ウェルズリーが勝利した事を伝える為、特別航行証のある快速艇「ロスチャイルド号」に乗船し、船員に2,000フランを渡し、オーステンデからフォークストン(現在のイギリスのケント州シェプウェー)に向けて出港する。 | |
1,815 | 6 | 20 | 未明、ロスワースがフォークストンに到着し、ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドにワーテルローの戦況の書かれた報告書を渡す。ロスチャイルドは報告書に目を通し、ロンドン証券取引所へ向けて馬を走らせた。その後ロスチャイルドは、アーサー・ウェルズリー敗戦と見せかけ金利が約8%のコンソル公債を売却し、西暦1,815年6月16日のカトル・ブラの戦いでアーサー・ウェルズリーが敗れたという情報によって下落していたコンソル公債価格を額面の5%まで暴落させた所で密かに買い集め、オムニアム債450,000ポンド、年利3%のコンソル公債650,000ポンドを購入する等して、全体の6割近くを買い占めた。これにより資産が3,000,000ドルから7,400,000,000ドルとなる。またロスチャイルドは、イギリス政府最大の債権者となった事で、コンソル公債の価格や通貨供給量の操作が可能になった。さらに西暦1,807年の奴隷貿易法をきっかけとした、イギリス国内の恐慌も相まって、機に乗じてイングランド銀行を実質的支配下に置き、イングランド銀行の通貨発行権と管理権を手中に収めた。ロスチャイルドはこの購入した債券を西暦1,817年にかけて売却し、金価格の暴落により目減りしたジョン・チャールズ・ヘリーズに売却した金塊の損失を補填した。 | |
1,815 | 6 | 21 | 23時、アーサー・ウェルズリーの使者ヘンリー・パーシーがロンドンに到着し、フランス軍の敗北を知らせる。 | |
1,815 | 11 | 20 |
連合国とフランスの間で以下のパリ条約が締結される。 ①フランス領土を西暦1,790年1月1日当時の領土へ縮小する。 ②フランスに700,000,000フランの賠償金を課す。 ③最長5年間の、連合国軍のフランス駐留経費の負担。 |
|
1,816 | カール・ビュデルスが、この年から翌年にかけてドイツ連邦議会の特使としてヴィルヘルム9世に仕えた。 | |||
1,816 | 5 | 2 |
以下2名が、カールトン・ハウスにて結婚する。 ①ロスチャイルド家と関係の深いザクセン・コーブルク・ゴータ家のレオポルド1世 ②シャーロット・オーガスタ・オブ・ウェールズ |
|
1,816 | 7 |
西暦1,793年のジョージ・マカートニーに続き、対清全権使節ウィリアム・アマースト(初代アマースト伯爵)が貿易収支の改善を意図し、以下の2隻の船で第7代清皇帝嘉慶帝に謁見しようとするが、マカートニー同様に三跪九叩頭の礼を拒否した。結果、清側から即日退京させられ、謁見が叶わなかった。清側は前回のマカートニーに対する応対を反省し、三跪九叩頭の礼の厳守を謁見の条件とした。 ①アルセスト号(艦長:マクスウェル) ②ライラ号(艦長:ホール) |
||
1,817 | メイヤー・アムシェル・ロスチャイルドの五男のジェームス・ド・ロスチャイルドがパリへ移住し、フランス・ロスチャイルド商会を創設する。 | |||
1,817 | ベンジャミン・ディズレーリがネイサン・メイヤー・ロスチャイルドの命令で洗礼を受け、キリスト教徒となる。当時ユダヤ教徒は公職に就く事が禁じられていた為であった。 | |||
≈ | 1,817 | ハインリヒ・マルクスがルーテル教会で洗礼を受ける。 | ||
1,817 | 6 | 12 | ドイツのカール・フォン・ドライス男爵が、自身の発明した自転車(人力二輪車)の原型となったドライジーネを一般公開する。 | |
1,817 | 11 | 6 | シャーロット・オーガスタ・オブ・ウェールズが、男児を死産し、間も無く死去する。王位継承者と目されていたシャーロットの死去により、イギリス王室は、王位継承者の選定を緊急で行う事となった。イギリス王室は、まだ結婚していなかったエドワード・オーガスタスに資金提供をちらつかせて、王位継承者を作ろうとした。 | |
1,818 |
メイヤー・アムシェル・ロスチャイルドの以下5名の息子の資本金配分は以下であった。 ①アムシェル・メイヤー・フォン・ロスチャイルド:7,776,000フラン ②ソロモン・メイヤー・フォン・ロスチャイルド:7,776,000フラン ③ネイサン・メイヤー・ロスチャイルド:12,000,000フラン ④カール・メイヤー・フォン・ロスチャイルド:7,488,000フラン ⑤ジェームス・ド・ロスチャイルド:7,488,000フラン |
|||
1,818 | ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドが、プロイセン王国国債を5,000,000ポンド起債し、外国国債発行市場に本格参入する。これを皮切りに、この年から西暦1,832年迄にロンドンで26本の外国国債(総額37,600,000ポンド)が調印されるが、内7本はロスチャイルドが起債したものだった。イギリス・ロスチャイルド商会は西暦1,859年迄に50本の外国国債(総額250,000,000ポンド)を起債するが、ライバルのベアリング・ブラザーズは14本(総額66,000,000ポンド)と、他を圧倒した。 | |||
1,818 |
以下の5名がパートナーシップ協定を結ぶ。パートナーシップの形態としては、5名の共同責任に基づく、フランクフルト・ロンドン・パリの共同商事会社で、それを1つの包括的な合同会社を形成するとした。 ①アムシェル・メイヤー・フォン・ロスチャイルド ②ソロモン・メイヤー・フォン・ロスチャイルド ③ネイサン・メイヤー・ロスチャイルド ④カール・メイヤー・フォン・ロスチャイルド ⑤ジェームス・ド・ロスチャイルド |
|||
1,818 | ロンドン北部の再開発計画が実行に移される。当初ジョージ4世が構想していた宮殿建設は取り止めとなり、建築する邸宅の数も減らされた。ジョージ4世が狩りを終えて一本道でカールトン・ハウスに帰れる様設計された大通りに面した建物に、生活感の有る住居を置く事を許さず、高級なショッピングストリート作りを目指した。しかし、ショッピングストリート建設に関し、イギリス王室は一切資金提供をせず、民間に投資させた。にも拘らずメリルボーン・パークは「リージェンツ・パーク」に改名され、此の大通りも「リージェント・ストリート」と呼ばれる様になった。又、リージェント・ストリートの西側は貴族や上流階級が住むメイフェア、東側は労働者階級が暮らすソーホー(現在のイギリスのロンドンのシティ・オブ・ウェストミンスター)に棲み分けが為された。リージェンツ・パークは西暦1,845年に完成し、当初は週に2日間だけ一般に公開されていた。 | |||
1,818 | 5 | 29 |
以下2名が、アモールバッハ(ドイツのバイエルン州ミルテンベルク郡)にて結婚する。 ①エドワード・オーガスタス ②ヴィクトリア・オブ・サクス・コバーグ・ザールフィールド 此の結婚に於いてオーガスタスは、ロスチャイルド家から資金提供を受けていた。 |
|
1,819 |
清は高い収益が見込めると考えたサミュエル・ラッセルが、広州に到着する。以下2名の提携によって設立された「エドワード・キャリントン・アンド・カンパニー」に代わり、アヘン等の様々な物品の貿易に従事した。非合法であったが故、高い利益を得た。 ①プロビデンス(アメリカのロードアイランド州)のエドワード・キャリントン ②ミドルタウンのサミュエル・ウェットモア |
|||
1,819 | ハインリヒ・マルクスの長男モーリッツ・マルクスが死去する。9人兄弟の3番目で弐男であったカール・マルクスは男兄弟の中で年長となった。 | |||
≈ | 1,819 | 10 | カール・マルクスの三従兄弟ハインリヒ・ハイネが、ボン(現在のドイツのノルトライン・ヴェストファーレン州)に所在するライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボンに進学する。伯父サロモン・ハイネが、ハインリヒに貿易の才能が無いと判断し、法律を学ばせた。しかし、ハインリヒは法律よりも歴史と文学に興味を持っていた。当時のドイツの政治は、保守派とリベラル派に分かれており、保守派は世の中をフランス革命前の状態に戻したかった。保守派は、ドイツ統一が革命思想の犠牲になるかも知れないと感じた為、ドイツ統一に反対した。ドイツの殆どの国家は、絶対主義君主制であり、報道機関は検閲されていた。対するリベラル派は、絶対主義を代表制・立憲政治・法の下の平等、報道の自由に置き換えることを望んでいた。ハイネは、急進的なリベラル派で、入学後即、クレメンス・フォン・メッテルニヒが西暦1,819年9月20日に導入した、カールスバッド法令に違反するパレードに参加した。 | |
1,820 | ソロモン・メイヤー・フォン・ロスチャイルドがオーストリアのウィーンへ移住し、オーストリア・ロスチャイルド商会を創設する。 | |||
1,820 | 1 | 29 | ジョージ3世が崩御する。此れにより、ジョージ4世が第4代ハノーヴァー朝国王に即位した。即位の最初の宣言は、カールトン・ハウスの階段で行われた。浪費家であったジョージ4世は、巨額の負債を抱え、後にネイサン・メイヤー・ロスチャイルドの融資を受けた。此れを切っ掛けにロスチャイルドは、イギリス王室との関係を構築した。 | |
1,820 | 7 | 5 | ジョージ4世が、教会裁判所を介さずに婚姻関係を解消する事を意図し「苦痛と罰則の法案」を提出する。 | |
1,820 | 8 | 17 | 苦痛と罰則の法案を受けた裁判が開始される。検察側は、キャロライン・オブ・ブランズウィックとバルトロメオ・ペルガミが一緒に入浴・接吻・手を繋ぐ等非常に親密な関係にあったと述べ、弁護側は、ブランズウィックに不利な証言をする様賄賂を提供された証人を示した。 | |
1,820 | 11 | 6 | 苦痛と罰則の法案が、第二読会を119対94で通過する。しかし其の後行われた第三読会では、賛成が僅か9票となり、庶民院で否決される可能性が略確実となると、第22代イギリス首相ロバート・ジェンキンソンは、此の措置に対する国民の感情を無視出来ないとして、苦痛と罰則の法案は今後追及しない事となった。 | |
1,821 | 3 | 24 |
マリー・アントワネットの姉であるマリア・カロリーナを妻に持つ、ナポリ革命が鎮圧された初代両シチリア王国国王フェルディナンド1世の要請により、フェルディナンド1世が、オーストリア帝国軍の護衛の下ナポリに入城して以下を行う。 ①議会の停止 ②暫定憲法の廃止 これを切っ掛けにアムシェル・メイヤー・フォン・ロスチャイルドがメイヤー・アムシェル・ロスチャイルドの四男のカール・メイヤー・フォン・ロスチャイルドをナポリへ移住させ、「イタリア・ロスチャイルド商会」を創設する。カールは、イタリア財務大臣ルイージ・デ・メディチに接近し、イタリア・ロスチャイルド商会をナポリに於ける主要銀行とする事に成功した。またカールは、両シチリア王国への融資を行った。 |
|
1,821 | 5 | 5 | ナポレオン・ボナパルトが砒素中毒により暗殺される。 | |
1,821 | 7 | 19 | ジョージ4世の戴冠式が、ウェストミンスター寺院(現在のイギリスのロンドンのシティ・オブ・ウェストミンスター)にて執り行われる。12,000個のダイヤモンドが付いた王冠が使用され、2,000名以上が晩餐会に出席した。しかしジョージ4世は、キャロライン・オブ・ブランズウィックの出席を拒否し、警察を使ってブランズウィックを会場から追い払った。民衆からは「王妃は何処に行ったんですか」と言われる始末であった。此のジョージ4世の行為はイギリス国民の反感を買った。此の日からブランズウィックは体調を崩し始めた。ブランズウィックは病床で「毒を盛られた」と訴え続けた。 | |
1,821 | 8 | 7 | キャロライン・オブ・ブランズウィックが、ハマースミス(現在のイギリスのロンドンのハマースミス・アンド・フラム)にて、腸閉塞で死去する。遺言で、シャーロット・オーガスタ・オブ・ウェールズの側に葬って欲しいと言い遺していたが聞き入れられず、故郷のブラウンシュヴァイク(現在のドイツのニーダーザクセン州)に葬られた。又、遺言書には「イギリス王妃キャロライン、ブランズウィック公の記憶に」と墓碑銘を記す様指示していたが、此れも聞き入れられなかった。 | |
1,821 | 12 | 30 | 江戸幕府が蝦夷地の大半を松前藩に返却する。 | |
1,822 | ジョージ4世が、アスコット競馬場(現在のイギリスのバークシャー州)にロイヤル・エンクロージャーを設置させる。此の区画には、イギリス王室の招待状を持つゲストのみが入場を許された。ロシア皇帝やザクセン王国国王が招かれ、招待される事がステータスとなった。 | |||
1,822 | 9 | 23 | 初代オーストリア帝国国家宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒが長年の政治生活で金欠となっているとの情報を得たネイサン・メイヤー・ロスチャイルドとその兄弟達が、メッテルニヒに対し900,000ギルダーの融資を行う。メッテルニヒはこの頃、公的な通信手段よりも早く伝達出来るロスチャイルドの通信ネットワークを利用し、他国の政府に自身の見解を伝えた。 | |
1,822 | 9 | 29 | クレメンス・フォン・メッテルニヒの働き掛けにより、初代オーストリア皇帝フランツ2世がロスチャイルド家に対し、男爵位と5兄弟の団結を象徴する5本の矢を握るデザインの紋章を与える。 | |
1,823 | イギリス東インド会社の軍人、ブルース兄弟の兄少佐ロバート・ブルースにより茶を食し煮出して飲んでいる現地先住民シンプー族についての情報を得て、アッサムの奥地ラングプル(現在のインドのアッサム州シヴァサーガル県シブサガル)に遠征し、物品の交易を経てそのシンプー族首長ビザガウムとの面会に成功する。茶に酷似する植物を自らの目で確認した。これがアッサム種である。 | |||
1,823 | イギリスが通貨法を制定し、イングランド銀行の銀行券発行量が「金・銀の地金を通貨換算した値に14,000,000ポンドを上乗せした分」と定められる。 | |||
1,823 | 3 | ジェームス・ド・ロスチャイルドが、シンジケード団を組織しフランス政府の低利借り換えを意図して発行した120,000,000フランの公債を引き受ける。西暦1,789年以降に発効されたアッシニア紙幣の担保として教会領を没取された聖職者の反対があったが、押し切った形となった。しかし利率が低かった為シンジケート団から撤退する企業が相次いだ。しかしロスチャイルドは残った為、力を顕示する事となった。ロスチャイルドは、この公債を売却し、得た資金を投資家の貸付に流用して年間で50%の利息を稼いだ。 | ||
1,823 | 8 | 清がケシ栽培とアヘン製造を禁止する。 | ||
1,823 | 8 | 11 | フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが長崎に到着する。 | |
1,823 | 10 | 1 | ジョージ4世がウィンザー城(現在のイギリスのバークシャー州)に居を構える。しかし此の城は寒く、住むには不適格である事が判明し、イギリス議会は、改修の為の資金を承認した。ジョージ4世とイギリス財務省の要請により介入した趣味委員会には建築家ジェフリー・ワイアットビルに増改築を依頼した。イギリス財務省は、西暦1,783年のカールトン・ハウスの改修費用が膨らんだ反省から、趣味委員会に、歯止めとしての役割を期待した。ワイアットビルは、自身の設計した図面にジョージ4世と趣味委員会の署名を求め、此れが認められ、更に署名の無い図面も1部作成し、計2部が作成された。此の様に慎重を期したにも拘らず、費用は増大し、工期は遅延し、度重なる追加資金の要請が発生した。此の改修は西暦1,840年以降も続けられ、長きに渡った。 | |
≈ | 1,824 | 4 | 30 |
以下2名がニューヨーク・イブニング・ポスト紙にて「ラッセル商会」の設立を発表する。 ①サミュエル・ラッセル ②フィリップ・アミドン ラッセル商会は主に以下の品目を取り扱い成長し、西暦1,842年迄に清最大のアメリカ商社となった。 ①絹 ②茶 ③アヘン |
1,824 | 5 | ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドが、イングランド銀行から地金1,000,000ポンド分の保証を受ける。 | ||
1,824 | 8 |
ハインリヒ・マルクスとヘンリエット・プレスバーグの間の以下7名の子供が、ルーテル教会にて洗礼を受ける。 ①カール・マルクス ②ゾフィー・マルクス ③ヘルマン・マルクス ④ヘンリエット・マルクス ⑤ルイーズ・マルクス ⑥エミリー・マルクス ⑦カロリーヌ・マルクス |
||
1,824 | 12 | 1 | ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドが、イギリス政府の整理公債を預託する事を担保に、本年5月にイングランド銀行から保証を受けた地金1,000,000ポンド分の内500,000ポンドを持ち出し、フランス銀行に預ける。前年3月にジェームス・ド・ロスチャイルドがフランス政府から引き受けた公債の価格を維持する事を意図していた。 | |
1,825 |
メイヤー・アムシェル・ロスチャイルドの以下5名の息子の資本金配分は以下であった。 ①アムシェル・メイヤー・フォン・ロスチャイルド:18,943,750フラン ②ソロモン・メイヤー・フォン・ロスチャイルド:18,943,750フラン ③ネイサン・メイヤー・ロスチャイルド:26,875,000フラン ④カール・メイヤー・フォン・ロスチャイルド:18,643,750フラン ⑤ジェームス・ド・ロスチャイルド:18,643,750フラン |
|||
1,825 | イギリスで、南アメリカへの投機が破綻した事に端を発した恐慌が発生する。株式市場は暴落し、770の銀行の内73行が破産した。ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドは、300,000ポンド相当のソブリン金貨をイングランド銀行に提供し、不足分をジェームス・ド・ロスチャイルドがパリから供給し、総額は10,000,000ポンドに達した。 | |||
1,825 | 4 | 6 | 江戸幕府が清船・オランダ船を除く外国船を発見次第砲撃し追い返す事を命じる「異国船打払令」を発する。また上陸した場合逮捕若しくは射殺を命じた。 | |
1,825 | 11 | ヘンリエット・プレスバーグが洗礼を受ける。此の改宗により、トリーアのラビであったハインリヒ・マルクスの父親と決別した。 | ||
1,826 | デイヴィッド・サスーンがユダヤの族長であるシャイフに就任する。サスーン家は代々主席財務官とシャイフの地位を継承してきた。 | |||
1,826 |
カールトン・ハウスが取り壊される。ジョージ4世は、以下の何れも自分のニーズには合わないと考えていた。 ①カールトン・ハウス ②セント・ジェームズ宮殿 ③バッキンガム・ハウス カールトン・ハウスの建材や膨大な数の絵画や装飾品は、ウィンザー城やバッキンガム・ハウスに移された。カールトン・ハウスの賃貸収益は、バッキンガム宮殿の建設費用に充てられた。カールトン・ハウスの正面の柱廊を形成していたコリント式柱の一部は、ナショナル・ギャラリー(イギリスのロンドンのシティ・オブ・ウェストミンスターのトラファルガー広場内)のポルチコや、バッキンガム宮殿の礼拝堂に再利用された。跡地は当初、セント・ジェームズ・パーク(現在のイギリスのロンドンのシティ・オブ・ウェストミンスター)の再開発の一部に組み入れられていた。ジョン・ナッシュは、セント・ジェームズ・パークの北側に3つのテラスハウスを、バードケージ・ウォーク沿いの南側にも3つのテラスハウスを建設する案を出した。バードケージ・ウォーク沿いの南側のテラスハウス建設は実現せず、セント・ジェームズ・パークの北側も「カールトン・ハウス・テラス」という高価な白い漆喰の建物が2棟建設されたものの、1棟は実現しなかった。 |
|||
1,826 | ジョン・ナッシュの提言により、バッキンガム・ハウスが宮殿へと大規模改造される事となる。完成したのは西暦1,837年であった。 | |||
1,827 | 7 | 26 |
オランダ船が長崎に来航する。オランダ船長が語った内容を第159代オランダ商館長ヘルマン・フェリックス・メイランが聞き、通詞目付・大通詞・小通詞によって風説書として、以下の主旨の内容が和訳され、老中宛に発送された。 ①当年来日のオランダ船2隻、西暦1,827年7月1日バタヴィア(現在のインドネシアのジャカルタ)を同時に出港し、海上異常無く、本日1隻長崎に到着した。後船は当初8日程一緒で、其の後見失ったが、間も無く到着する事と思われる。此の2隻以外に仲間船は無い。昨年長崎から出港した船2隻は海上異常無く、西暦1,827年1月21日にバタヴィアに到着した。 ②東インド付近は静かであるがヨーロッパ諸国のフランス王国・イギリス・スペインの間で戦争が起こるという情報も有るが、今の所明確で無い。 ③第3代チャクリー王朝暹羅(現在のタイ)国王ラーマ3世が、交易の為バタヴィアに使いを寄越す。 ④ガージャール朝がロシア帝国に攻め込んだが、ロシア帝国が大勝利を収め、ガージャール朝は敗走した。 ⑤オスマン帝国の都府コンスタンティノープルで軍隊内で一揆が有ったが、速やかに第30代オスマン帝国皇帝マフムト2世が鎮定した。 ⑥今回航海中の清船は見掛けなかった。其の他変わった情報は無い。 |
|
1,828 |
メイヤー・アムシェル・ロスチャイルドの以下5名の息子の資本金配分は以下であった。 ①アムシェル・メイヤー・フォン・ロスチャイルド:19,693,750フラン ②ソロモン・メイヤー・フォン・ロスチャイルド:19,693,750フラン ③ネイサン・メイヤー・ロスチャイルド:28,200,000フラン ④カール・メイヤー・フォン・ロスチャイルド:19,393,750フラン ⑤ジェームス・ド・ロスチャイルド:19,393,750フラン |
|||
≈ | 1,828 |
フランクフルトで叔父と祖母と共に暮らしていたオーガスト・ベルモントが、父であるサイモン・ベルモントが学費を払えなくなった為、メイヤー・アムシェル・ロスチャイルドがユダヤ教徒とキリスト教徒のコミュニティを統合する事を目的として設立した学校である「フィランスロピン」を退学する。そして、祖母が親戚であったドイツ・ロスチャイルド家に頼み込み、オーガストはビジネスの訓練を受ける事となった。オーガストは、見習いとして訓練や使い走りを行う傍ら、以下を教わった。 ①フランス語 ②英語 ③作文 ④算術 |
||
1,829 | イギリスのベンガル総督のウィリアム・キャヴェンディッシュ・ベンティンクによって、インドの慣行である、亡夫の火葬の最中に寡婦が殉死するサティーが禁止される。 | |||
1,829 | 水戸藩で天狗党が発生する。 | |||
1,829 | フェルディナント・アドルフ・ランゲが現在のドイツのザクゼン州にあるドレスデン工科大学に入学し、現在のドレスデン・ゼンパー歌劇場(現在のドイツのザクゼン州)の5分時計の製作者のヨハン・フリードリヒ・グートケスに弟子入りし、グートケスと共に週6日、3日は理論、3日は手作業にて修行する。 | |||
1,829 |
第9代マルムーク朝統治者ダウド・パシャによる前年から本年にかけてのユダヤ人迫害の為、デイヴィッド・サスーンが以下を経由してボンベイ(現在のインドのマハーラーシュトラ州ムンバイ市街県)へと向かった。 ①バスラ(現在のイラク) ②ブーシェフル(現在のイラン) |
|||
1,829 | カール・メイヤー・フォン・ロスチャイルドが在フランクフルト・シチリア総領事に任命される。 | |||
1,829 | 10 | 22 | 江戸幕府が、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトに日本国外への退去と再入国禁止の処分を下す。 | |
1,829 | 10 | 31 | 第8代水戸藩主徳川斉脩が死去。程なくして斉脩の遺書が見つかり、江戸幕府の許可を得て徳川斉昭が第9代水戸藩主となる。 | |
1,830 | 第30代オスマン帝国スルタンのマフムト2世がダウド・パシャの解任を命じる。 | |||
≈ | 1,830 | カール・マルクスが、ヨーロッパの中等教育機関であるギムナジウムに通い始める。マルクスの通ったギムナジウムはカトリック系で、校長がフリーメイソン会員であった。 | ||
1,830 | 6 | 14 | 第8代ブルボン朝フランス国王シャルル10世がジェームス・ド・ロスチャイルドから80,000,000フランの資金提供を受け、侵略の為にアルジェリアに上陸する。 | |
1,830 | 6 | 26 | 早朝、ジョージ4世が崩御する。其の後葬儀が営まれたが、葬儀屋達は泥酔していた。タイムズ紙は「此れ程周囲から死を惜しまれなかった王は居ない。どの瞳が涙を零したか。どの心が悲しみに震えたか」と報じた。ジョージ4世は晩年、初代カニンガム侯爵ヘンリー・カニンガムの妻と共に過ごしていた。 | |
1,831 | ハインリヒ・ハイネが、拠点をドイツからパリに移す。其の後は、ヨハン・フリードリヒ・コッタの新聞社の1つである「フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング」のフランス特派員として勤務すると同時に、ジェームス・ド・ロスチャイルドの下で働き始めた。 | |||
1,832 | デイヴィッド・サスーンがボンベイに到着し「サスーン商会」を設立する。イギリス東インド会社からインド産アヘンの専売権を取得し、インド産アヘンを清に密売して、銀を清から持ち出し莫大な利益を得る。またサスーンは紅茶の総元締めでもあり、茶葉の貿易にも関わっていた。 | |||
1,832 |
アメリカのイェール大学(アメリカのコネチカット州ニューヘイブン)の同期の以下2名が在学中に秘密結社「スカル&ボーンズ」を設立する。アダム・ヴァイスハウプトが設立許可を出していた。 ①アルフォンソ・タフト ②サミュエル・ラッセルの従兄弟ウィリアム・ラッセル ウィリアムは、ロスチャイルド家とベアリング家が支配するアヘン貿易の利権を分けて貰った麻薬貿易会社ラッセル社の一族であった。また、サミュエルとウィリアムの先祖に当たる牧師ノアディア・ラッセルは西暦1,701年のイェール大学創設に関わった10名の創設者の内の一人であり、同年から西暦1,713年迄同大学の理事を務めた。さらにノアディアは、西暦1,708年に採択された植民地会衆派の新憲法である「セイブルック綱領」の立案者の一人でもあった。 |
|||
1,832 | オーギュスト・アガシが時計販売会社に入社し、サン・ティミエ(現在のスイスのベルン州)に時計の各パーツや半完成品のエボーシュムーブメントを、各人の作業が終わると次の工程を請け負う作業者に回すエタブリサージュの時計工房を設立する。 | |||
1,832 | ピエール・ジャン・ロビケがアヘンからコデインの単離に成功する。 | |||
1,832 | イギリスが国会にて、イギリス東インド会社に与えられている対清貿易の独占権の西暦1,834年の免許状延長を行わない事を決定する。この頃のイギリスの対清貿易は1,200〜1,300tの商船で広州にて1航海当たり30,000〜40,000ドルの利益を上げていた。しかしアメリカは、自国の農産物をヨーロッパに運んでスペイン銀貨に換え、インドへ向かいインド産アヘンをマカオに運び、広州で茶葉や絹を仕入れ、350tの小型商船で1航海当たり40,000〜60,000ドルの利益を得ていた。 | |||
1,832 | オーガスト・ベルモントが、ドイツ・ロスチャイルド商会から機密事務員に任命される。 | |||
1,832 | 1 | カール・メイヤー・フォン・ロスチャイルドが、第254代ローマ教皇グレゴリウス16世を元を訪ねて騎士団勲章を受ける。ジェームス・ド・ロスチャイルドが400,000ポンドのローマ教皇庁への融資を手配した事が背景としてあった。改宗をしていないユダヤ人がローマ教皇に謁見するというは異例の事であった。元来ローマ教皇をイエス・キリストの代理者であるとするカトリックは、ローマ教皇に会う際に足にキスをする習慣があったが、ロスチャイルドはグレゴリウス16世の手にある指輪にキスをした。これはカトリックの怒りを買った。 | ||
≈ | 1,832 | 2 | 林則徐が江蘇巡撫に任命される。 | |
1,832 | 2 | 26 |
イギリス東インド会社の「ロード・アマースト号」がマカオを出港する。主に以下2名が乗船していた。 ①リンゼイ(代表) ②ドイツ人宣教師カール・ギュツラフ |
|
1,832 | 6 | ロード・アマースト号が清に来航し通商を要求する。 | ||
≈ | 1,832 | 7 | 林則徐が江蘇巡撫として蘇州(現在の中国江蘇省)に着任する。 | |
1,832 | 7 | 1 |
以下2名がロスチャイルド家の提供した資金で「ジャーディン・マセソン商会」をマカオで設立する。 ①元東インド会社の船医でマニアック商会の共同出資者であるウィリアム・ジャーディンと②コルカタで貿易商として独立し、マニアック商会の共同出資者であるジェームズ・マセソン 同商会はサミュエル・ラッセルと手を結び、ウィリアム・ラッセルの母校であるイェール大学にも清とのアヘン密貿易で得た利益が環流されていた。 |
|
1,832 | 10 | 22 |
1,500石の廻米や陶磁器等を江戸に運ぶ為に小野浦(現在の愛知県知多郡美浜町)を出港していた尾張藩の樋口重右衛門の所有する「宝順丸」が、時化の為鳥羽浦(現在の三重県鳥羽市)に入港する。乗組員は以下の14名であった。 船頭 ①樋口重右衛門 水夫 ②仁右衛門 ③利七 ④三四郎 ⑤常治郎 ⑥六右衛門 ⑦吉治郎 ⑧山本音吉 ⑨久吉 ⑩政吉 ⑪岩吉 ⑫仙之助 ⑬勝五郎 ⑭辰蔵 |
|
1,832 | 11 | 3 | 天候の回復を待っていた宝順丸が鳥羽浦を出港する。しかし間も無く暴風雨に遭い帆柱や舵を失い漂流が始まった。 | |
1,833 | イギリス政府が制定した「東インド会社特許法」により、イギリス東インド会社は領土をイギリス国王に委譲し、商業活動全般を停止する。同時にベンガル総督をインド総督に改称した。 | |||
1,833 | アントワーヌ・ルクルトが、時計製造に於いて鋼鉄から歯車と一体の小さな歯車であるカナを切り出す機械を発明し、ル・サンティエ(現在のスイスのヴォー州)にて家族で使用していた小さな小屋を時計工房へと作り変え「ジャガー・ルクルト」を設立する。 | |||
1,833 | イギリスが銀行条例により、額面5ポンド以上のイングランド銀行券を法定通貨として認める。 | |||
≈ | 1,833 | ウォーレン・デラノ・ジュニアがラッセル商会に入社する。直様広東十三行怡和行の主で清最大の行商人であったハウクアと知己を得て、協働で水上倉庫を建設する。密輸したアヘンを荷下ろし・格納し、合法的な積荷と入れ替え、珠江デルタを遡上し、広東に輸送する事を意図していた。ウォーレン・デラノ・ジュニアはラッセル商会の幹部社員として広東にアヘンを密輸し、巨万の富を築いた。 | ||
1,833 | 4 | 21 | 徳川斉昭一行が水戸へ向けて江戸を出発する。松戸で昼食を摂り、小金に宿泊した。 | |
1,833 | 4 | 22 | 徳川斉昭一行が取手で昼食を摂り、牛久に宿泊した。 | |
1,833 | 4 | 23 | 徳川斉昭一行が中村(現在の茨城県土浦市)で昼食を摂り、府中(現在の茨城県石岡市)に宿泊した。 | |
1,833 | 4 | 24 | 徳川斉昭一行が長岡(現在の茨城県東茨城郡茨城町)で昼食を摂り、水戸に到着する。斉昭にとって初めての就藩(水戸藩主が水戸城に戻る事)となる。 | |
1,833 | 7 | 27 |
オランダ船が長崎に来航する。オランダ船長が語った内容を第160代オランダ商館長ヤン・ヴィレム・フレデリック・ファン・シッタースが聞き、大通詞・小通詞によって風説書として、以下の主旨の内容が和訳され、老中宛に発送された。 ①当年来日のオランダ船1隻西暦1,833年6月23日バタヴィアを出港、海上異常無く本日長崎に到着した。此の一隻以外の仲間船は無い。昨年当地より出港した2隻のオランダ船は西暦1,832年12月7日にバタヴィアに到着した。 ②エジプト・トルコ戦争が勃発し、オスマン帝国が敗れた。 ③昨年も報告したが、フランス王国内のブラバント(現在のベルギーのフラームス・ブラバント州、ブラバン・ワロン州、ブリュッセル)はオランダ王国の支配下にあったが、条約に背いた為断絶した。フランス王国・イギリスは承認したが、初代オランダ王国国王ウィレム1世は同意しない。其れ以降、フランス王国・イギリスの軍艦が出動し、バタヴィアとオランダ本国を往復する商船を拿捕し、オランダが承認する迄船を質に取るとの方針を受け、本年3月頃から、バタヴィアからオランダ本国への航海を停止している。 ④ポルトガルでは、初代ブラジル帝国皇帝ペドロ1世が、第9代ブラガンサ王朝ポルトガル国王に即位した事に端を発した内戦が発生した。 ⑤オランダ領東インド周辺では、特に変わった事は無い。 ⑥台湾辺りで清へ向かう船を1隻見掛けたが、日本への交易船には見えなかった。 |
|
1,833 | 8 | 23 |
ウィリアム・ウィルバーフォース等の奴隷廃止運動により「奴隷制度廃止法」が成立し、イギリスの植民地に於ける奴隷制度が違法となった。此の際46,000名のイギリス人奴隷主に総額20,000,000ポンドの賠償金が支払われた。其の財源はイギリス政府による以下からの借金(利子付き)により賄われ、イギリス国民が税金として負担した。完済したのは西暦2,015年の事であった。 ①イングランド銀行:5,000,000ポンド ②ネイサン・メイヤー・ロスチャイルド:15,000,000ポンド ③モーゼス・モンテフィオーレ:15,000,000ポンド |
|
1,833 | 9 | ウィリアム・ラッセルが、教師となり、プリンストン(アメリカのニュージャージー州)で教鞭を執り始める。 | ||
1,834 |
オーガスト・ベルモントが、ドイツ・ロスチャイルド商会のパートナーの1人の秘書兼旅行随行員となる。此れが切っ掛けでベルモントはドイツ国外へ初めて出る事となり、以下を旅した。 ①パリ ②ナポリ ③バチカン |
|||
1,834 | 1 |
宝順丸が14ヶ月の漂流の末、アメリカのワシントン州ケープ・アラバ付近に漂着する。生存者は以下の3名であった。他の乗組員は壊血病により死亡した。3名はインディアンのマカ族に捕らえられ、奴隷同然に使役された。 ①山本音吉 ②久吉 ③岩吉 |
||
1,834 | 5 | 31 | 徳川斉昭一行が江戸へ向けて水戸を出発する。長岡で昼食を摂り、府中に宿泊した。 | |
1,834 | 6 | 1 | 徳川斉昭一行が中村で昼食を摂り、牛久に宿泊した。 | |
1,834 | 6 | 2 | 徳川斉昭一行が取手で昼食を摂り、小金に宿泊した。 | |
1,834 | 6 | 3 | 徳川斉昭一行が千住で昼食を摂り、江戸の水戸藩邸に到着した。 | |
1,834 | 7 | 24 | 夜、ウィリアム・ジョン・ネイピア卿が、西暦1,816年のウィリアム・アマーストに続き3人目の対清全権使節として、軍艦を率い、貿易収支の改善を意図し広州に上陸し、商館を設置して直接交渉英国旗を掲げる。第19代イギリス外相ヘンリー・ジョン・テンプル(第3代パーマストン子爵)、ジャーディン・マセソン商会の強い要求が背景にあった。ネイピア卿は第38代両広総督盧坤との直接交渉を申し込んだが、盧坤は、広東十三公行を通してでなければ貿易を受け付けないとし、退去を命じた。ネイピア卿はこれに応じなかった為、盧坤は商館を武力で閉鎖し、食糧の供給を絶った。ネイピアは報復として虎門寨の砲台を砲撃させた。しかし、ネイピア卿がマラリアにかかった為、これ以上は交戦せず、退却した。 | |
≈ | 1,834 | 8 |
年に1、2度獣皮類の取引の為にインディアンを訪れるハドソン湾会社の商船「ラーマ号」の船長ウイリアム・マックネルによってアメリカのワシントン州で以下の3名が発見される。マックネルは3名を買い取り救出、コロンビア川を遡行しハドソン湾会社の毛皮工場へと向かった。 ①山本音吉 ②久吉 ③岩吉 |
|
1,834 | 8 | 1 | 宣教師ロバート・モリソンが死去する。モリソン号の由来となる。日本へのプロテスタント伝道を目指していた。この志はカール・ギュツラフへと引き継がれた。 | |
1,834 | 8 | 4 |
オランダ船が長崎に来航する。オランダ船長が語った内容を、ヤン・ヴィレム・フレデリック・ファン・シッタースと、次期オランダ商館長ヨハネス・エルデウィン・ニーマンが聞き、長崎奉行所によって風説書として、以下の主旨の内容が和訳され、老中宛に発送された。 ①当年渡来のオランダ船1隻は、西暦1,834年7月1日バタヴィアを出港したが、台湾付近より風向きが悪く、既に7〜8日前より日本の陸地を見て居たが、海上を漂い、事故無く本日到着した。此の1隻以外仲間船は無し。昨年当地より出港した船は海上事故なく西暦1,834年1月2日にバタヴィアに到着した。 ②昨年、フランス王国内のブラバントをオランダの支配下に置いたが、国法に背いた為に断絶した事は申し上げた。初代ベルギー国王レオポルド1世が、此の独立したブラバントの王となるので、条約を作成した。レオポルド1世は、ブラバントの王に即位し、初代オルレアン朝フランス国王ルイ・フィリップ1世の長女ルイーズ・マリー・ドルレアンと再婚した。 ③初代ボルボン朝(第1次復古)国王フェルナンド7世崩御後、フェルナンド7世の遺言により、イサベル2世を第2代ボルボン朝(第1次復古)国王とし、フェルナンド7世の王妃マリア・クリスティーナ・デ・ボルボンをイサベル2世の後見とした。しかし、フェルナンド7世の弟カルロス・マリア・イシドロ・デ・ボルボーンが王位を継ぐべきという勢力が有り、争いが起こり、国中が混乱している。 ④ペドロ1世が、自身の娘マリア2世にブラガンサ王朝ポルトガル国王の座を譲位し、マリア2世は、ペドロ1世の後見を請うて、リスボンにて第10代ブラガンサ王朝ポルトガル国王に即位した。しかし、ペドロ1世の弟ミゲル1世が、ブラガンサ王朝ポルトガル国王の座を主張し、ポルトガル国内が混乱している。 ⑤イギリスでは、ブリストル(イギリスのサウス・ウェスト・イングランド)を始め、所々で騒動が起こっており、此れは制度を改革しようと、支配者に逆らっているので、今専ら対策を評議中である。 ⑥第11代ロマノフ朝ロシアツァーリのニコライ1世が、ポーランドを併合するが、ポーランドの有力者達が反旗を翻したので、軍を出動させ、ロシア帝国の支配下に置く。多くのポーランド人がシベリアに流刑となった。 ⑦初代ムハンマド・アリー朝ワーリーのムハンマド・アリーが、マフムト2世との和睦の交渉に際して、無理押しをしたがオスマン帝国はアリーをエジプトの支配者として据え置いた。 ⑧ジャワ近辺のインド諸国で昨年激しい地震が有り、津波も発生し、多くの人命が失われた。 ⑨昨年報告したバタヴィアよりオランダ本国への往来の航海中止は解除となり、元通りとなった。 ⑩此度台湾付近で清船を見掛けた。 ⑪昨年バタヴィアに帰還したヨハネス・エルデウィン・ニーマンが、此度新オランダ商館長に就任する。 |
|
1,834 | 10 | イギリス政府が、イギリス東インド会社による清との貿易独占権が廃止される。 | ||
1,834 | 11 |
フォート・バンクーバー(現在のアメリカのワシントン州)にいるハドソン湾会社の太平洋岸総責任者のジョン・マクローリンのもとを訪れていた以下の宝順丸の漂流民3名が、ダービー船長率いるブリッグ型帆船「イーグル号」にてロンドンへ向けて出港する。 ①山本音吉 ②久吉 ③岩吉 |
||
1,834 | 12 | イーグル号がオアフ島(現在のハワイ州ホノルル郡)に寄港する。 | ||
≈ | 1,835 | 初代インド総督ウィリアム・キャヴェンディッシュ・ベンティンクが茶業委員会を設立し、発見者のブルース兄弟の弟チャールズ・アレクサンダー・ブルースを茶生産の責任者に任命する。これにより、アッサムでの紅茶産地開拓が始まる。 | ||
1,835 | フェルディナント・アドルフ・ランゲがドレスデン工科大学を優秀な成績で卒業しヨハン・フリードリヒ・グートケスの下でアシスタントとして働く事となる。 | |||
1,835 | 清のアヘン密輸入量は60kg/箱で30,000箱以上となり、対1,799年比約30倍となった。 | |||
1,835 | 1 | 30 | 第7代アメリカ大統領アンドリュー・ジャクソンの暗殺未遂事件が発生する。 | |
1,835 | 3 | 2 | フェルディナント1世(オーストリア皇帝)が第2代オーストリア皇帝に即位する。その後ソロモン・メイヤー・フォン・ロスチャイルドは鉄道建設を請願し、鉄道免許を取り付ける。 | |
1,835 | 5 | ウィリアム・ラッセルが、プリンストンでの教師の職を終える。その後イェール大学でチューターの職に就いた。 | ||
1,835 | 5 | 13 |
以下の漂流民3名を乗せたイーグル号がロンドンに到着する。 ①山本音吉 ②久吉 ③岩吉 |
|
1,835 | 5 | 28 |
以下の漂流民3名を乗せたイーグル号がロンドンを出発する。 ①山本音吉 ②久吉 ③岩吉 |
|
1,835 | 10 | カール・マルクスが、哲学と文学を学ぶ為に、ライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボンに留学する。しかし、ハインリヒ・マルクスはより実践的な学問として法律を主張した。カールは在学中、警察がマークしていた政治過激派から成る団体「詩人クラブ」に加入していた。更に「トリーア・タバーン・クラブ飲酒協会」にも参加し、其処で多くのアイデアが議論され、一時はクラブの共同会長を務めた。 | ||
1,835 | 10 | 22 | シャルル・ルイ・アヴァスが、「アヴァス通信社」を設立する。 | |
1,835 | 12 |
航海の途中でハドソン湾会社本社によって船長ダウンズによって「ジェネラル・パーマー号」に乗り換えた以下の漂流民3名が内伶停島(現在の中国深圳市南山区)に到着する。ダウンズは3名を駐清イギリス商務庁長官ジョージ・ベスト・ロビンソンに引き渡し、日本に送還する様求めた。その後ロビンソンは3名をマカオに送り、白鴿巢公園近くの商務庁の中国語通訳官であったカール・ギュツラフの自宅に預けた。マカオにて次官キャプテン・エリオットが取り調べを行い、アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルンの書いた日本地図を見せると名古屋と江戸の沿岸を辿って見せたので日本人であると確信した。 ①山本音吉 ②久吉 ③岩吉 |
||
1,835 | 12 | 20 |
天草を出港し長崎へ向かう途中であった以下の乗組員の船が悪天候に遭い漂流を始める。 船頭 ①原田庄蔵 水夫 ②寿三郎 ③熊太郎 ④力松 |
|
1,835 | 12 | 25 |
キャプテン・エリオットがジョージ・ベスト・ロビンソンに対し「以下の漂流民3名は帰国を熱望しているが、外国船での送還は危険であり、慎重且つ友好的に行うべきである。イギリス船を使うのが良く、来年4月下旬に軍艦1隻をマカオに送って欲しい」という主旨の書簡を送り、臨時インド総督サー・チャールズ・メトカーフにも送る様要請した。 ①山本音吉 ②久吉 ③岩吉 |
|
1,836 | 清のアヘンの国内年間生産量が300tであった。以降四川省等を中心にケシ栽培が拡がり、生産量が急増する事となる。 | |||
1,836 | アッサムで生産されたアッサム茶の最初の試供品がロンドンに送られる。 | |||
1,836 | サミュエル・ラッセルがラッセル商会から手を引く。 | |||
≈ | 1,836 | 結核の症状を示していたカール・マルクスが兵役を免除される。 | ||
1,836 | 1 | 10 |
天草を出港し長崎へ向かう途中であった以下の乗組員の船が米・水を切らす。神・仏に祈り、苦しい日々を過ごした。 船頭 ①原田庄蔵 水夫 ②寿三郎 ③熊太郎 ④力松 |
|
1,836 | 1 | 14 |
ジョージ・ベスト・ロビンソンがカール・ギュツラフに対し「以下の漂流民に対し、帰国に際しての危険性を疑っているか、また、イギリス船での送還を望むのであれば本年4月迄待てるかどうかを聞き出し、自身の意見も添えて返信して欲しい」という主旨の書簡を送る。 ①山本音吉 ②久吉 ③岩吉 |
|
1,836 | 1 | 15 | カール・ギュツラフがジョージ・ベスト・ロビンソンに対し前日の書簡に対する返信を行う。「漂流民はすぐにでも帰国したいという願望があり、中国船よりもイギリス船で帰国したいと考えている。我々の意見としては、送還に際し、イギリス船を用いるのがベストな選択であり、艦長はインド総督若しくはその他政府高官の書簡を携帯すべきである」という主旨であった。 | |
1,836 | 1 | 24 |
天草を出港し長崎へ向かう途中であった以下の乗組員の船がルソン島(現在のフィリピン)の北岸に漂着する。 船頭 ①原田庄蔵 水夫 ②寿三郎 ③熊太郎 ④力松 |
|
1,836 | 2 | 22 |
ルソン島の以下の漂流民4名がマニラへ向けて移動を開始する。 船頭 ①原田庄蔵 水夫 ②寿三郎 ③熊太郎 ④力松 |
|
1,836 | 6 | 10 |
清のアヘンの輸入量が増加し、銀の大量流出から国民の手にする銅貨での銀レートが上昇し、アヘン代金によって国民の生活が苦しくなっている事を背景とした第8代清皇帝道光帝のアヘン貿易に関する諮問に対し、太常寺小卿許乃済が以下の「アヘン弛禁論」の建議書を道光帝に上奏する。 ①アヘン貿易の物々交換による合法化 ②民間人によるアヘン吸引の合法化 ③清国内に於けるケシ栽培・アヘン製造の合法化 |
|
1,836 | 6 | 20 | 宣教師サミュエル・ウィリアムズが久吉と英語で交わした会話の内容等を記す。 | |
1,836 | 7 | 28 | ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドが死去し、長男のライオネル・ド・ロスチャイルドが第2代イギリス・ロスチャイルド家当主となる。 | |
1,836 | 8 | カール・マルクスが、ライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボンのボルシア軍団のメンバーとの決闘に参加する。マルクスは、第1学期の成績は良かったが、直ぐに悪化し、ハインリヒ・マルクスによって、より厳粛で学術的なベルリン大学へ転校させられた。 | ||
1,836 | 9 | ウィリアム・ラッセルが、ニューヘブン(アメリカのコネチカット州)の小さな住宅に男性向けの私立予備学校を開設する。この学校は後に「ニューヘブン大学商業研究所」として知られる様になった。当初は少数の生徒しかいなかったが、後に有名になり、4,000名程度の卒業生を輩出した。 | ||
≈ | 1,836 | 11 | 清の江南省(現在の中国江蘇省・安徽省・上海市)の役人である袁玉麟が「アヘン弛禁論は国民に害を齎す。官吏・学者・軍人のアヘン使用は禁止し、一般人のアヘン使用は禁止しないという政策は不可能であるばかりでなく、政府による統制を損なうので好ましくない。アヘンの関税収入は、100,000〜200,000テール/年の銀貨に過ぎず、国の為になるどころか、僅かな利益のために大義を害し、その損失以上に不利益を被ることになった。 解禁になれば、ますます使用者・アヘンの輸入・銀の流出が増えるだろう。本土でのケシ栽培を認めると、無知な人々が利益の為に農業を放棄し、肥沃な地域をアヘン畑にする事に繋がる」という主旨の請願書を道光帝に上奏する。 | |
1,836 | 11 |
カール・ギュツラフが前年12月から以下の漂流民に協力して貰い翻訳していた新約聖書の一部である「約翰福音之伝」及び「約翰上中下書」を完成させる。 ①山本音吉 ②久吉 ③岩吉 |
||
1,837 | ブルース兄弟による最初のアッサム茶生産品46箱がコルカタ(現在のインドの西ベンガル州)のティーコミッティーに出荷される。 | |||
1,837 | ジョージ・ピーボディが、アメリカの投資銀行兼商社のブラウン・ブラザーズを通じてロンドンのビジネスに参入し、ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドの代理人となる。 | |||
1,837 |
以下が、第一次カルリスタ戦争で不安定化したスペイン帝国の資産に懸念を抱く様になり、オーガスト・ベルモントをニューヨーク経由でキューバに派遣する。 ①イギリス・ロスチャイルド商会 ②フランス・ロスチャイルド商会 ベルモントは、7,000,000ドルの負債を抱えて倒産したロスチャイルド家のアメリカ代理店「J.L.&S.I.ジョセフ商会」を含む、何百ものアメリカ企業が倒産に直面した恐慌を目の当たりにした。そこで、キューバ行きを独自の判断で延期し、倒産したJ.L.&S.I.ジョセフ商会に取って代わってロスチャイルド家の権益を監督する事を意図し、ウォール街78番地に「オーガスト・ベルモント&カンパニー」を設立した。ロスチャイルド家はベルモントの行動を追認し、ベルモントをアメリカに於ける代理人とした。 |
|||
1,837 | フェルディナント・アドルフ・ランゲがパリ・スイス・イギリスへ時計職人修行の旅に出る。ランゲは此れ迄時計修行と並行してフランス語を学んでおり堪能であった。パリでは、ブレゲの弟子である時計師ヴィネルの下で4年間を過ごし、職長となった。ヴィネルは「もっと長く滞在して一緒に仕事をしないか」と持ち掛けたが、ランゲには別の人生プランが有った為断った。 | |||
1,837 | ティエリー・エルメスが、パリのバス・デュ・ルンパール通りに馬具工房を開業する。 | |||
1,837 | ジャマイカ議会議員ジョージ・ウィリアム・ハミルトンが、西暦1,833年8月23日にイギリス議会で成立した奴隷制廃止法による「奴隷補償法」により、奴隷商人として、7つの異なる補償請求の合計で、ジャマイカで所有していた671名の奴隷に対し、11,704ポンドの補償金を受け取る。 | |||
≈ | 1,837 | 2 | 林則徐が湖広総督に昇進する。 | |
1,837 | 3 |
以下の漂流民がルソン島からマカオに到着する。 ①原田庄蔵 ②寿三郎 ③熊太郎 ④力松 |
||
1,837 | 5 | カール・ギュツラフが前年完成させた約翰福音之伝・約翰上中下書をシンガポールのアメリカ外国伝道協会の印刷所である「堅夏書院」から木板刷りで出版される。しかし誤りが多く、尾張の方言が混じっていた。 | ||
1,837 | 7 | 3 |
以下の乗組員等38名がアメリカの商社オリファント商会の商船「モリソン号」に乗船する。元々カール・ギュツラフはモリソン号の姉妹船「ヒマレー号」で漂流民を送還する事をイギリス商務庁に訴えたが、外国船で日本に送還するのは危険であるので一旦琉球へ送った方が良いという理由から却下され、代わりにイギリス商務庁長官チャールズ・ポーレット・トムソンはイギリス軍艦「ローレィ号」でギュツラフと漂流民7名が琉球に行き、那覇でオリファント商会広東支配人チャールズ・キングの日本行きの船に乗り換える案を提案した。しかしキングは日本人がイギリス軍艦に乗ってきた事実を知られると疑惑を抱かれるという理由からこの案に反対し、ギュツラフだけがローレィ号、漂流民7名はモリソン号に乗るという代替案を出し、採用された。 ①船長インガソル ②キング夫妻 ③医療宣教師ピーター・パーカー ④サミュエル・ウィリアムズ ⑤山本音吉 ⑥久吉 ⑦岩吉 ⑧原田庄蔵 ⑨寿三郎 ⑩熊太郎 ⑪力松 |
|
1,837 | 7 | 4 | 前日にモリソン号に乗船した乗組員38名がマカオを出港する。この日はアメリカの独立記念日だったが、大砲を外した為祝砲は打たず、静かに神に感謝の祈りを奉げた。 | |
1,837 | 7 | 12 | 11時にモリソン号が琉球王国の那覇に到着する。 | |
1,837 | 7 | 13 |
モリソン号の乗組員が以下の支給を受ける。 ①飲み水 ②塩 ③卵 ④瓜 |
|
1,837 | 7 | 14 |
モリソン号の乗組員が以下の支給を受ける。 ①飲み水 ②山羊 ③豚 ④サツマイモ チャールズ・キングは金貨で決済しようとしたが、琉球では流通していない為断られ、代わりにポケット字典とハンカチをプレゼントした。 |
|
1,837 | 7 | 15 | カール・ギュツラフがローレィ号からモリソン号に乗り換え、江戸へ向けて出発する。 | |
1,837 | 7 | 28 | モリソン号が伊豆大島(現在の東京都大島町)を通過する。また、6時に三崎詰支配組与力香山助七郎が、城ヶ島遠見番所の同心から異国船を1隻発見したとの報告を受け、浦賀奉行所に注進し、浦賀奉行太田運八郎は直ちに江戸に報告する。 | |
1,837 | 7 | 30 |
太田運八郎が与力中嶋清司等を異国船見届けの為に出港させ、観音崎御備場には平井藤右衛門に出陣させる。自身は平根山御備場へ向かった。西暦1,825年4月6日に江戸幕府が発した「異国船打払令」に則り砲撃を行う為である。11時に観音崎及び平根山から洲崎砲台(現在の千葉県館山市洲崎)に向けて合砲を打ち、洲崎砲台がそれに応えた為準備が整う。モリソン号は先ず平根山砲台からの砲撃を受け、さらに追って観音崎砲台からも砲撃を受けた為、14時に三浦郡野比村(現在の神奈川県横須賀市野比)に停泊した。キング夫妻が現地の漁師等200名を後甲板後方に招きワイン・ビスケット・パンを振る舞った。さらに、さらし木綿やアメリカの貨幣を与えた。キング達は役人を待ったが来なかった。また、太田は以下の老中4名に対し、打払の実行を報告する。打払を行なった後船は野比村に停泊、浦賀奉行組を偵察に送った所、西暦1,822年に来航した船に似ており、イギリス船と予測、乗組人数は不明とした。 ①松平乗寛 ②水野忠邦 ③太田資始 ④松平信順 |
|
1,837 | 7 | 31 |
6時にモリソン号が夜中に海岸に移動した4門の大砲から砲撃を受ける。白旗を揚げたが砲撃は止む事無く続いた。インガソルはこれ以上江戸湾の奥を進むのは危険であり、日本側との交渉の余地も無いと判断し、退却した。退却する際に現地の日本人に自分達の国籍や来航目的を役人に伝えて欲しいと伝えたが、うまくいかなかった。夕方に石廊畸を通過し、吉田(現在の愛知県豊橋市)沖に差し掛かった頃会議を開き、交渉の可能性のある薩摩へ進路を変更した。また、太田運八郎が以下の老中4名に「夜は風雨が強かった為、野比村に停泊していたモリソン号を番船に監視させ、明るくなった所を砲撃、伊豆大島沖へ走り去った。監視船を出す様を指示を出した」と打払の実行を報告する。 ①松平乗寛 ②水野忠邦 ③太田資始 ④松平信順 |
|
1,837 | 8 | 10 | モリソン号が山川港に入港する。チャールズ・キングは来航の目的を話し、漂流民7名の送還と通商を求める書簡を役人に手渡し、役人は直様これを第10代鹿児島藩主島津斉興に取り次ぐと約束し、斉興に提出した。また、鹿児島藩家老島津久風が山川に派遣され、モリソン号との交渉に当たった。鹿児島藩側は幕府からの異国船打払令を伝え、漂流民はオランダを介して送還するように言って、薪水と食糧を与えて船に帰した。 | |
1,837 | 8 | 12 | 島津久風の指示で鹿児島藩がモリソン号を砲撃する。しかし全て空砲であった。 | |
1,837 | 8 | 13 |
以下の漂流民3名が丸坊主にし、祖国を捨てる覚悟を示す。チャールズ・キングは針路をマカオに向けさせた。 ①山本音吉 ②久吉 ③岩吉 |
|
1,837 | 8 | 18 | この日から5日間モリソン号が台湾海峡を進行している際、清の漁船と遭遇する。カール・ギュツラフはこの漁師に中国語訳の聖書を上げ喜ばせた。 | |
1,837 | 8 | 29 | 夕方にモリソン号がマカオに帰着する。 | |
1,838 | パリにロスチャイルド&カンパニーが設立される。 | |||
1,838 | ジョージ・ピーボディが銀行会社「ピーボディ,リグス&カンパニー」を設立する。 | |||
1,838 |
清のアヘン密輸入量は60kg/箱で40,000箱以上となり、対西暦1,835年比約1.33倍となった。以下の通り大幅なスペイン銀貨の国外流出が常態化していた。 ①歳入 茶葉の輸出:20,000,000スペインドル ②歳出 アヘンの密輸入:20,000,000スペインドル 綿花の輸入:10,000,000スペインドル |
|||
1,838 | ウィリアム・ラッセルが、ニューヘブン大学商業研究所を経営する傍ら、エール大学医学部を卒業し、医学博士号を取得する。 | |||
1,838 | イマヌエル・ノーベルが、家族をストックホルムに残し、単身サンクトペテルブルクに移る。建築資材を積んだ艀船の損失による様々な事業の失敗の結果、ノーベルは破産していた。サンクトペテルブルクでは、工作機械と爆薬の製造会社を設立し事業に成功した。ノーベル家は貧しかったが、此の成功により裕福になった。ノーベルは、現代の合板の製造を可能にするベニヤ旋盤を発明し、海軍の地雷の開発に取り組んだ。 | |||
1,838 | 5 | 8 | ブルース兄弟による最初のアッサム茶の選別品がロンドンに向けて出港する。 | |
1,838 | 6 | 2 | 鴻臚寺卿黄爵滋がアヘン吸煙者の死刑を道光帝に上奏する。 | |
1,838 | 6 | 28 | 林則徐が黄爵滋のアヘン吸煙者の死刑に対する賛成上奏を行う。 | |
1,838 | 7 | 水野忠邦がオランダ商館長によって齎されたオランダ風説書を第95代長崎奉行久世広正経由で受け取り、モリソン号が日本人漂流民を送り届けに来た事、通商を求めて来た事を知った。水野は昌平坂学問所大学頭林述斎等の幕閣に意見を求め、評議を行った。また、異国船に日本人漂流民がいた場合の対策について、評定所に答申を出すように命じた。評定所は「漂流民受け取りの必要無し。モリソン号再来の場合は再び打ち払うべし」と答申した。しかし水野は強硬策には危惧の念を抱き、評定所に対しては再度の上書を促し、勘定奉行所等の諸機関へも独自の上書を提出するように命じた。結果、水野は穏健策を採用し、漂流民を引き取る政策を実行した。 | ||
≈ | 1,838 | 10 | 道光帝がアヘン禁止令の強化を意図し、穆彰阿郭佳にアヘン禁止令の綱領を纏める様命じる。 | |
1,838 | 11 | 21 |
辰ノ口評定所(現在の東京都千代田区丸の内)記録方芳賀市三郎が「尚歯会」の集まりの席上で、モリソン号の来航についての評議書の写しを以下の南蛮学同好会の「蛮社」の人々に見せる。 ①渡辺崋山 ②高野長英 ③小関三英 ④鈴木春山 |
|
1,838 | 12 | 7 | 高野長英が著書「戊戌夢物語」を公表する。具体的なデータでイギリスの国力を示し、清に於けるイギリスの立場、イギリスの勢力が日本近海の島々に及んでいる事を明らかにした。また、例えどの様な口実であっても漂流民を送り届けるという人道的な意図を明らかにしている以上、打ち払いを行えば日本は不仁の国と見なされる。妄りに打ち払いなどすべきではないとし、異国船打払令を否定、幕政批判を行った。 | |
1,839 | 黄爵滋が、アヘンの中国流入とその吸飲に対する厳禁策を上奏し、アヘン禁止政策を決定させる。 | |||
1,839 | 清の湖広総督林則徐が、アヘン厳禁策を道光帝に進言して認められ,欽差大臣として広州へ赴任する。 | |||
1,839 | ウィリアム・ホイットフィールドが、ブリッジウォーター(アメリカのマサチューセッツ州)のアルベルティーナ・キースと婚約する。 | |||
1,839 | 1 | 10 | ブルース兄弟による最初のアッサム茶の選別品がロンドンオークションで熱狂的歓迎に包まれ、全て高値で競り落とされる。 | |
1,839 | 3 | 18 | 林則徐が外国人商人所有のアヘン引き渡しを要求する。 | |
1,839 | 5 | 1 | チェコ人時計職人フランティシェック・チャペックとポーランド人実業家アントニ・パテックが共同で事業を開始する事で同意し、ジュネーヴに「パテック, チャペック社」を設立する。 | |
1,839 | 6 | 6 | ウィーン-ブジェツラフ間を結ぶ「フェルディナンド皇帝北部鉄道」が開通する。 | |
1,839 | 6 | 23 | 林則徐が没収したアヘンの焼却を開始する。 | |
1,839 | 6 | 24 | 渡辺崋山が、北町奉行所からの差紙により出頭し、伝馬町牢屋敷の揚屋に投獄される。 | |
1,839 | 6 | 28 | 夜、渡辺崋山が投獄された事を知った高野長英が北町奉行所に自首する。高野は詰め小屋に入れられ、一夜を明かした。 | |
1,839 | 6 | 29 | 高野長英が伝馬町牢屋敷に投獄される。高野は武士や公認の医者では無かった為、百姓牢に入れられた。 | |
1,839 | 8 | 3 |
オランダ船が長崎に来航する。オランダ船長が語った内容を第162代オランダ商館長エドゥアルド・グランディソンが聞き、岩瀬弥十郎・楢林栄三郎・岩瀬弥七郎によって風説書として、以下の主旨の内容が和訳され、老中宛に発送された。 ①当年来日のオランダ船1隻、西暦1,839年6月30日バタヴィアを出港し、海上別条無く、本日長崎に到着した。此の1隻以外連れ船は無い。昨年長崎から出港した船は、西暦1,838年12月8日に、海上での遅滞無くバタヴィアに到着した。 ②ドイツ連邦の一員であるオーストリア帝国は、ロンバルディア(現在のイタリア)とヴェネツィア(現在のイタリアのヴェネト州)を領有した。 ③ドイツ連邦の中に在るイギリス領ハンブルクは、第5代ハノーヴァー朝イギリス国王ウィリアム4世崩御後、ウィリアム4世の参男フレデリック・フィッツクラレンスの支配下にある。 ④昨年報告したスペインの内戦は未だに終了していないが、其れ以外のヨーロッパ各国は平和である。 ⑤メキシコ人等がフランス王国の国旗を奪い取った事で、夫を取り返そうと戦争となった。フランス王国軍は、メキシコの港口を多くの軍艦で取り囲み、ベラクルス(メキシコ)という城を大砲で攻撃し、終いに奪取した。 ⑥昨年報告のアメリカ州内のイギリス支配下にあるカナダで一揆が起き、未だに沈静化していない。 ⑦広東では、イギリス人が行うアヘン密売を禁止する為に、朝廷より林則徐を派遣して、隠匿するアヘンを全て提出する様厳命があった。此れにより、アヘンを貯蔵する者は非常に苦境に追い込まれた。更に順天府でも、アヘンを使う者が居ると聞けば、何れも刑に処する旨の命令があった。其の中で此の命令に反した者は厳罰に処せられる事になる。 ⑧昨年報告したが、ウィレム1世の孫が軍艦でバタヴィアに到着した。其の後各地を回り、昨年の暮れにオランダ本国に帰還した。 ⑨ルイ・フィリップ1世の妃マリー・アメリー・ド・ブルボンが男子を出産し、其の子がフランス王国の跡取りとなる。 ⑩今回台湾付近で清船を2隻見掛けたが、日本との通商船とは思われない。 |
|
1,839 | 8 | 19 | フランスのルイ・ジャック・マンデ・ダゲールにより、銀板写真法が発表される。これは、銀メッキを施した金属板などを感光材料として使う世界初の実用的写真技法である。 | |
1,840 | イギリスで法律を学んでいたアームストロングが、機械に興味を持ち、水力発電機を発明する。 | |||
≈ | 1,840 |
エイブラハム・クーンが以下2名の兄と共に、生まれ故郷のヘッセン大公国のハルックスハイム(現在のドイツのラインラント・プファルツ州)からニューヨークへ移住する。 ①ソロモン ②マックス |
||
≈ | 1,840 | ウィリアム・ラッセルが来るべき南北戦争に備え、アメリカ軍として従軍させる為に、ニューヘブン大学商業研究所に厳格な軍事訓練・規律を導入する。結果、南北戦争の勃発時には訓練教官として入隊した者も現れた。 | ||
1,840 | 1 | 22 | 第29代南町奉行筒井政憲が、渡辺崋山を田原藩への蟄居とする判決を下す。また同日、高野長英は永牢の判決を下された。 | |
1,840 | 2 | 24 | 徳川斉昭一行が水戸へ向かう為、利根川を渡り取手に宿泊する。 | |
1,840 | 7 | 29 |
オランダ船が長崎に来航する。オランダ船長及び事務長が語った内容をエドゥアルド・グランディソンが聞き、長崎奉行所によって風説書として、以下の主旨の内容が和訳され、老中宛に発送された。 ①当年来日のオランダ船1隻、西暦1,840年7月7日にバタヴィアを出港し、海上事故無く本日到着致した。此の1隻以外の仲間船は無い。昨年長崎を発った船は西暦1,839年12月15日、海上事故無くバタヴィアに到着した。 ②ロシア帝国皇太子アレクサンドル2世がオランダを通過する際、ウィレム1世と面会した。 ③ヴィクトリアが第6代イギリス・ハノーヴァー朝国王に推戴された。 ④オランダ皇太子ウィレム2世は、ウィンデンブルグ国の女王ソフィアと婚約した。 ⑤マフムト2世が崩御。マフムト2世の息子アブデュルメジト1世が第31代オスマン帝国皇帝に即位した。 ⑥第14代オルデンブルク朝デンマーク国王フレデリク6世が崩御。第12代オルデンブルク朝デンマーク国王フレデリク5世の孫クリスチャン8世が、第15代オルデンブルク朝デンマーク国王に即位した。 ⑦ヴィクトリアが、ザクセン・コーブルク・ゴータ公国の王子アルバートを婿に取る。 ⑧第13代オランダ領東インド総督ドミニク・ジャック・デ・エーレンスが病死したので、カレル・シラルドゥス ウィレム・ファン・ホーゲンドルプがオランダ領東インド総督代理に就任した。 ⑨清では、イギリス人に対し無理非道有りとの事で、イギリスは軍を清に派遣し、イギリスは勿論、ケープタウン(現在の南アフリカの西ケープ州)及びイギリス領インドで兵を整え、清への報復を準備している。 ⑩上記以外インド付近で変わった事は無い。 ⑪台湾付近で清船を7隻見掛けたが、通商の船では無いと思われる。又、ヨーロッパの船2隻を見掛けたが、イギリスの船ではないかと思われる。 |
|
1,840 | 10 | 3 | 林則徐が欽差大臣を罷免され、琦善が後任となる。 | |
1,841 |
マカオにいた原田庄蔵と寿三郎が九州の家族へ向けた書簡をオランダ人に託して送って貰う。主に以下の内容であった。 ①西暦1,835年12月20日に天草から長崎へ船で向かっている途中で悪天候で漂流開始。 ②西暦1,836年1月10日に米・水を切らし苦しい日々を過ごす。 ③西暦1,836年1月24日にルソン島に漂着。 ④マカオに送られ、尾張の漂流民3名と出会い、帰国の為日本に向けて出航したが、江戸・薩摩で砲撃を受け、岩吉が危うく命を落とす所であった。 ⑤現在はマカオに住んでいる。 |
|||
1,841 | フェルディナント・アドルフ・ランゲが時計職人修行の旅を終え、ドレスデン(現在のドイツのザクゼン州)に戻る。 | |||
1,841 | イマヌエル・ノーベルの参男アルフレッド・ノーベルが、本年から翌年にかけて18ヶ月間、ストックホルムの聖ヤコブ学校に通う。ノーベルが学校教育を受けたのは、此の時が唯一であった。 | |||
1,841 | 1 | 27 |
早朝、以下5名が足摺岬(現在の高知県土佐清水市)での鯵・鯖を対象とした漁の為、宇佐浦(現在の高知県土佐市宇佐町宇佐)を出港する。 ①筆之丞(船頭) ②筆之丞の弟重助(漁撈係) ③五右衛門(櫓係) ④寅右衛門(櫓係) ⑤ジョン万次郎(炊係) |
|
≈ | 1,841 | 1 | 30 |
以下5名の乗った漁船が、強風により難破する。 ①筆之丞 ②重助 ③五右衛門 ④寅右衛門 ⑤ジョン万次郎 |
1,841 | 2 | 4 |
以下5名の乗った漁船が鳥島(現在の東京都伊豆諸島)に漂着する。 ①筆之丞 ②重助 ③五右衛門 ④寅右衛門 ⑤ジョン万次郎 その日の内に洞窟を発見し、寒さを凌ぎ、以降その洞窟を住居とした。鳥島は火山島の為、岩から水が染み出してくる場所があり、そこで水分を摂り、海藻を食べた。また、鳥島はアホウドリの繁殖地あり、アホウドリを捕まえて天日干しで食したりもした。 |
|
1,841 | 6 | 27 |
鳥島に居た以下5名が、海亀を食糧として捕獲する為に鳥島に立ち寄った、船長ウィリアム・ホイットフィールド率いるアメリカの捕鯨船「ジョン・ハウランド号」の乗組員に発見され、鳥島から救助される。海亀のスープがアメリカ人にとって珍味であった。 ①筆之丞 ②重助 ③五右衛門 ④寅右衛門 ⑤ジョン万次郎 ジョン・ハウランド号は、ホイットフィールドと親友ウォーレン・デラノ・ジュニアが共同で船主を務め、西暦1,620年11月21日にプリマス(現在のイギリスのデヴォン州)からプロビンスタウン(アメリカのマサチューセッツ州)に上陸したメイフラワー号の乗組員の一人であったジョン・ハウランドの子孫に当たるハウランド家がオーナーを務めた船であった。飢えていた5名は以下の食糧を与えられた。 ①麦の粉と油 ②塩を入れて蒸した餅 |
|
≈ | 1,841 | 7 | 3 |
鳥島にて救助された以下5名の体力が回復してくる。それにつれて、ウィリアム・ホイットフィールドを始めとする船員達の働きぶりを目の当たりにした。 ①筆之丞 ②重助 ③五右衛門 ④寅右衛門 ⑤ジョン万次郎 また5名はこの頃から、以下の食糧を与えられる様になった。 ①白飯 ②野菜の煮付け ③肉 5名の中で唯一万次郎だけが、貪欲に英語を覚えようとした。これを見たポールという船員が、万次郎に英語を教え始めた。ポールは船内を案内して器具等の名前を教えて、万次郎は貰ったノートに名前を記していった。 |
1,841 | 10 | ジョン・ハウランド号が、鯨漁の季節が終わった為、ホノルルへと向かう。 | ||
1,841 | 11 | 20 |
ジョン・ハウランド号がハワイ王国のホノルル(現在のアメリカのハワイ州)の港に寄港する。この航海で15頭の鯨を捕獲した。ウィリアム・ホイットフィールドは役所へ行き、以下5名を連れて事情を説明した。 ①筆之丞 ②重助 ③五右衛門 ④寅右衛門 ⑤ジョン万次郎 ホイットフィールドは、当面の生活が出来る様、各々に対し以下を与えた。 ①洋服1着 ②50セント銀貨 また、他の船員達もお金を出し合い、外套を与えた。ホイットフィールドは、万次郎の聡明さを見抜き、筆之丞に対し、万次郎を北米大陸に連れて行き、教育を受けさせたい旨を伝えた。筆之丞は、万次郎に判断を委ねさせた。ホイットフィールドは、自身の故郷であるフェアヘイヴン(アメリカのマサチューセッツ州)へと誘った。万次郎は、ホイットフィールドから世界地図を見せられ、日本が如何に小さいかを自覚し、好奇心から同行させて欲しいと願い出た。 |
|
1,841 | 11 | 23 |
田原藩の池ノ原屋敷で蟄居中の渡辺崋山の一家の貧窮ぶりを憂慮した渡辺崋山の高弟福田半香等の計らいで渡辺の絵を売る義会を始めていた。以下の作品等を描くが「罪人身を慎まず」と悪評が起こり、これを田原藩は問題視した。渡辺は第11代田原藩主三宅康直に罪が降りかかるのを恐れ「餓死るとも二君に仕ふべからず」という遺書を残し切腹する。 ①于公高門図 ②千山万水図 ③月下鳴機図 ④虫魚帖 ⑤黄粱一炊図 |
|
1,842 | フェルディナント・アドルフ・ランゲがヨハン・フリードリヒ・グートケスの時計事業を引き継ぐ。ランゲは嘗て銀採掘で栄えたが衰退してしまったグラスヒュッテ(現在のドイツのザクゼン州)に繁栄を齎したいと考え、ザクセン州の高等法院に、時計製造業を中心とした町の活性化を訴え、事業計画を提出する主旨の書簡を送り採用された。其の書簡にてランゲは「高等法院が10〜15名の若者による福祉と施設の設立の為の資金提供が為され、其の指導を私に任せてくれるなら、近い将来、此の不幸な人々の間に生活と繁栄が広まると確信している」と主張した。 | |||
1,842 |
以下の家族が、イマヌエル・ノーベルの居るサンクトペテルブルクに引っ越す。 ①イマヌエルの妻アンドリエッテ・ノーベル ②イマヌエル・ノーベルの長男ロバート・ノーベル ③イマヌエル・ノーベルの弐男ルートヴィヒ・ノーベル ④アルフレッド・ノーベル |
|||
1,842 | カール・マルクスが、ケルン(現在のドイツのノルトライン・ヴェストファーレン州)へ移住する。其処で急進的な新聞「ラインラント・ニュース」に、社会主義に対する初期の見解と、経済学への関心の高まりを寄稿した。又、ヨーロッパの右翼政府・自由主義運動・社会主義運動のに携わる人間達を無能と批判した。ラインラント・ニュースはプロイセン王国政府にマークされ、毎号印刷前に扇動的な内容が無いかチェックした。マルクスは「我々の新聞は警察に記事を提出しなければならず、非キリスト教的若しくは非国民的な記事は掲載を許可されません」と嘆いた。ロシア帝国の君主制を批判する記事を掲載した際は、第11代ロシア帝国ロマノフ朝皇帝ニコライ1世が記事の差し止めを要請し、プロイセン王国政府が翌年応じた。 | |||
1,842 | 7 | 26 |
オランダ船が2隻長崎に来航する。オランダ船長が語った内容を、エドゥアルド・グランディソンと、次期オランダ商館長ピーター・アルバート・ビックが聞き、長崎奉行所によって風説書として、以下の主旨の内容が和訳され、老中宛に発送された。 ①当年来日のオランダ船2隻、西暦1,842年6月26日にバタヴィアを一緒に出港し、海上事故無く本日長崎到着した。此の2隻以外の仲間船は無い。一昨年長崎を発った船は西暦1,840年12月4日、事故無くバタヴィアに到着した。 ②昨年日本に向け、西暦1,841年7月8日バタヴィアを出港したが、台湾で台風に遭い、帆や艀2隻が吹き飛ばされ、船具も全て失い、船も動揺して浸水も151.515cmに及び、12tの砂糖が水浸しとなり、更に舵の方からも、90.909cm程度浸水し、状況は悪くなった。転覆を恐れて澳門に乗り入れ、荷物を取り去り、舵の修理を決めた。従って、修理代を支払う為に荷物の大半を売り払った。此れにより、日本へは既に時期遅れで航海出来ず、西暦1,841年11月7日に澳門からバタヴィアに向けて出港した。ところが又台風に遭い、帆柱も折れ難渋したが、西暦1,841年12月18日に何とかバタヴィアに帰港した。 ③ウィレム1世は国王の位を、自身の長男ウィレム2世に譲った。 ④第5代プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が崩御。フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の長男フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が第6代プロイセン国王に即位する。 ⑤ヴィクトリアが乗る馬車が2発銃撃され、危ない所だった。 ⑥ヴィクトリアがエドワード7世を出産した。 ⑦初代ボルボン朝(第1次復古)国王フェルナンド7世が、国政を自身の弐女イサベル2世に譲った。スペインは未だに混乱が続いている。 ⑧フランス王国の所々で暴動が有ったが、直ぐに鎮まった。 ⑨清とイギリスの戦争は今も穏やかにならない。一昨年以来の事は追って別段に報告する。 ⑩アフガニスタン首長国では、国民がイギリスの支配に対し一揆を起こし、イギリス人を多数殺害した。其の為戦争が起こり、今の所収まっていない。 ⑪東インドのオランダ領は何れも静謐である。 ⑫台湾辺りで清に向かう船3隻、ヨーロッパ船2隻見掛ける。イギリス船と思われる。 ⑬二番船で、ビックが第163代オランダ商館長として赴任した。 |
|
1,842 | 8 | 28 | 江戸幕府が異国船打払令を撤廃し、西暦1,806年に続き再度「薪水給与令」を発する。遭難した外国船に限り、食料・薪水・燃料等が欠乏して帰国出来ない場合はそれらを給与する様定めた。 | |
1,842 | 8 | 29 |
イギリスと清の間で南京条約が結ばれ、アヘン戦争が終結する。条約の主な内容は以下であった。 ①香港の割譲 ②広州・厦門・福州・寧波・上海の五港を開港し、各地に領事を置く ③戦費賠償金12,000,000ドル、没収アヘンの賠償6,000,000ドル等計21,000,000ドルの支払い ④公行制度の廃止 ⑤相互の合意による関税率の協定 |
|
1,842 | 12 | 7 | 広州の民衆による英国商館焼き打ち事件が起こる。 | |
1,843 |
以下3名の兄弟が、家庭教師の指導を受け始める。西暦1,850年迄続いた。 ①ロバート・ノーベル ②ルートヴィヒ・ノーベル ③アルフレッド・ノーベル アルフレッドに関しては、特に化学と語学に於いて優秀な成績を収め、以下の言語を流暢に話せる様になった。 ①英語 ②フランス語 ③ドイツ語 ④ロシア語 ⑤イタリア語 |
|||
1,843 | 5 | 7 |
ジョン・ハウランド号が、以下を経由して、ニューベッドフォード(アメリカのマサチューセッツ州ブリストル郡)に帰港する。 ①タヒチ ②フィジー ③グアム この日、ジョン万次郎は、フェアヘイブンのチェリーストリートのウィリアム・ホイットフィールドの自宅で一晩を過ごした。 |
|
1,843 | 5 | 8 |
ウィリアム・ホイットフィールドが、結婚の為、シピオ(アメリカのニューヨーク州カユガ郡)に居る叔父ジョージの下へ向かう。ホイットフィールドは、その間ジョン万次郎を、フェアヘイブンのオックスフォードストリートにある、ホイットフィールドの友人エベン・アキンの自宅に下宿出来る様手配した。また、アキンの提案により、万次郎は、隣にある「オールド・ストーン・スクール」の教師を務めていた、以下の姉妹の家に通い、英語の読み書きを教わった。 ①ジェーン・アレン ②チャリィティー・アレン ジェーンは、本年の秋から、正式な学校教師になる予定であり、その準備として万次郎を指導した。また万次郎は、アレン家の半地下室兼台所で、姉妹手作りのお菓子をご馳走になったりしていた。 |
|
1,843 | 5 | 31 |
以下2名が結婚する。 ①ウィリアム・ホイットフィールド ②アルベルティーナ・キース 以降ジョン万次郎は、ホイットフィールドの自宅や、スコンティカット・ネック(アメリカのマサチューセッツ州フェアヘイブン)にあるホイットフィールドの所有する農場で生活した。その後万次郎は、初級学校のオールド・ストーン・スクールに入学した。万次郎以外は全員ネイティブで、英語の読み書きに苦労したが、優秀な成績で卒業した。さらに、高等学院である「バーレット・アカデミー」に入学し、以下を学んだ。 ①航海術 ②測量 ③造船学 |
|
1,843 | 8 | 4 |
オランダ船が1隻長崎に来航する。オランダ船長が語った内容を、ピーター・アルバート・ビックが聞き、通詞によって風説書として、以下の主旨の内容が和訳され、老中宛に発送された。 ①当年来日のオランダ船1隻、西暦1,843年7月2日バタヴィアを出港し、海上事故無く西暦1,843年8月4日到着した。此の1隻以外の仲間船は無い。 ②昨年長崎を発った船は西暦1,842年12月13日、海上事故無くバタヴィアに到着した。 ③初代フランス王国オルレアン朝国王で王太子フェルディナン・フィリップは、馬車から落ち、其れが元で死去した。 ④西暦1,842年9月1日、清とイギリスの和睦が整った。 ⑤ウィレム2世の長女ソフィー・ファン・オラニエ・ナッサウは、第5代ザクセン・ヴァイマル・アイゼナハ大公国大公カール・フリードリヒ弐男で公太子のカール・アレクサンダーとの婚姻が成立した。 ⑥台湾辺りに漂着したイギリス船2隻を清国民が破壊し乗組員を殺害した件で、イギリスは軍艦を派遣して調査し、清政府の報告をした。道光帝より厳命が有り、台湾の清総督を逮捕し、取調べの上処罰した。 ⑦今回途中で清船は見掛けなかった。他に変わった情報は無い。 |
|
1,843 | 8 | 30 | 江戸幕府が、海外で救助された日本人漂流者は清船・オランダ船以外は受け取ってはならないと定め、オランダ商館のカピタンにも通達し、外国にも伝えさせた。 | |
1,843 | 10 |
以下2名がパリのヴァノー通りに移住する。 ①カール・マルクス ②カール・マルクスの妻イェニー・フォン・ヴェストファーレン 移住の切っ掛けとして、カールが寄稿していたラインラント・ニュースのプロイセン王国政府による弾圧があった。 |
||
1,843 | 12 |
ハインリヒ・ハイネと以下2名が知己を得る。 ①カール・マルクス ②イェニー・フォン・ヴェストファーレン マルクスはハイネを崇拝していた。ハイネは、マルクスにプロレタリア革命思想を植え付けた。 |
||
1,844 | チャールズ・ホイートストンが、イギリスのスウォンジー湾に絶縁電線を沈め、ボートからマンブルズ灯台に信号を送る。 | |||
1,844 | ウィリアム・ホイットフィールドが「ウィリアム・アンド・エリザ号」の船長として、ニューベッドフォードから出航する。 | |||
1,844 |
以下2名の間に娘ジェニーが生誕する。此れを切っ掛けに生活環境が悪かった家から、同じヴァノー通りの別の家に引っ越した。 ①カール・マルクス ②イェニー・フォン・ヴェストファーレン |
|||
1,844 | 6 | 3 | 徳川斉昭に江戸幕府から江戸召還の命がもたらされる。 | |
1,844 | 6 | 21 |
徳川斉昭が隠居謹慎処分、藤田東湖が罷免処分となる。 理由として、 ①神道中心の宗教改革を採用して寺院を整理した ②寺請制度に代わって氏子改めを行った ③寺の鐘を潰して大砲を鋳造した ④度々蝦夷地開拓を出願した ⑤藩校弘道館を設置し神儒一致思想を鼓吹した ⑥江戸定府である水戸藩主が長期間水戸に滞在した 具体的には、200寺以上を整理し、大砲を作る為に約600個もの梵鐘を鋳潰した。神仏混淆であった水戸東照宮(主祭神は徳川家康)も神道一方にしようとした。これにより徳川慶篤が家督を相続し、第10代水戸藩主となる。分家の三連枝(第10代高松藩主松平頼胤、第5代守山藩主松平頼誠、第9代府中藩主松平頼縄)による後見が命じられた。 |
|
1,844 | 7 | 3 | マカオ郊外の望厦村(現在の中国広東省中山市)で、清とアメリカの間で、イギリスに南京条約で認めた内容とほぼ同様の事を定めた修好通商条約が結ばれた。 | |
≈ | 1,844 | 7 | ピーター・アルバート・ビックが、以下の主旨の報告を江戸幕府に行う。 西暦1,844年8月1日から同年8月15日にウィレム2世のフリゲート艦パレンバン号・コルベット艦ボレアス号・其の他ウィレム2世所有の船により、此度ウィレム2世から徳川家慶殿に差し上げる書簡を送る。此の書簡は貴国の政治に役立つ事を申し上げるものである。尚此の書簡は、オランダの交易に関わるものでは無いと存じる。 | |
1,844 | 7 | 29 |
オランダ船が1隻長崎に来航する。オランダ船長・事務長が語った内容を、ピーター・アルバート・ビックが聞き、通詞によって風説書として、以下の主旨の内容が和訳され、老中宛に発送された。 ①昨年長崎より出港した船は、日本の陸地近辺で大嵐に遭い、本船は大揺れで浸水が酷く、香港に立ち寄り修理を行った。其の様な訳で漸く西暦1,844年2月9日バタヴィアに到着した。 ②当年来日のオランダ船1隻は西暦1,844年6月30日にバタヴィアを出港し、海上異常無く西暦1,844年7月29日に長崎に到着した。途中外国船や清船は見掛けなかった。 ③ヴィクトリアが表敬で、ルイ・フィリップ1世並びにレオポルド1世を訪問した。 ④ウィレム1世は西暦1,843年12月12日に崩御した。 ⑤ニコライ1世が、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世を表敬訪問した。 ⑥スペインの内乱は収束して、イサベル2世が第2代ボルボン朝(第1次復古)国王に即位した。 ⑦フランス王国の使節が清へ、軍艦を率いて渡来した。 ⑧清とイギリスのアヘン戦争後の状況は、詳細を別段で提出する。 |
|
1,844 | 8 | 13 | 高野長英が伝馬町牢屋敷で働いていた非人・栄蔵に放火させる。これにより高野は、焼死を防ぐため牢の扉を開放する「切り放ち」で外へ出た。3日後の西暦1,844年8月16日迄に出頭しなければならなかったが、その儘逃亡した。 | |
1,844 | 8 | 28 | カール・マルクスが、カフェ・ド・ラ・レジャンス(現在のフランスのパリ1区サン・トノレ通り)にてドイツの社会主義者フリードリヒ・エンゲルスと出会う。エンゲルスは本年出版されたばかりの「イギリスに於ける労働者階級の状況」をマルクスに見せ、労働者階級が歴史における最後の革命の主体であり道具となる事をマルクスに説いた。 | |
1,844 | 8 | 31 |
「ピール銀行条例」が発効される。第31代イギリス首相ロバート・ピールに対し庶民院議員ベンジャミン・ディズレーリが働きかけた事で実現した。内容は以下の通り。 ①西暦1,844年8月31日以降、イングランド銀行を一般銀行業務を行う「銀行部」と、銀行券の発行を行う「発行部」に分け、両部署を独立させる。 ②銀行部はイギリス政府の債権を含む14,000,000ポンドの有価証券を発行部に交付し、発行部はそれを兌換準備として同額の銀行券を発行し銀行部に交付する。それ以上の銀行券を発行する場合は同額の金準備を行う。本位貨幣の準備中、銀の保有量は金の保有量の1/4を超えてはならない。 ③西暦1,844年5月6日時点で銀行券を発行する各銀行は、同年4月27日以前の12週間の平均発行額を限度とし、銀行券の発行を継続出来、その兌換準備の内容は各銀行の自由とするが、何らかの理由により銀行券の発行を停止する際は、以降の銀行券の発行は認められない。 ④③によって銀行券の発行を停止した銀行の発行額の1/3を限度としてイングランド銀行がこれを継承し、その額だけ②で規定するイングランド銀行の保証準備発行額を増加させる事が出来る。これによって生じた利益はイギリス政府のものとする。 ⑤金標準3.179ポンド/オンスで金と引き換えに銀行券を交付する。 ⑥ロンドンから半径65マイル以内で6名以上の組合員で営業する銀行に於いて、持参人要求払の為替手形の振り出し・引き受け・裏書を禁止する。各銀行は代わりにイングランド銀行券の発行・流通をサポートする。 兌換銀行券をイングランド銀行に独占的に発行させ、それ以外の株式銀行72行・個人銀行207行の新規銀行券の発行を禁じ、銀の流通を制限した。これによりイングランド銀行は、民間銀行からイギリスの中央銀行となった。 |
|
≈ | 1,844 | 9 | 13 | 高野長英が、大間木(現在の埼玉県さいたま市緑区)に在る、自身の門人で蘭方医の高野隆仙の離座敷に匿われる。隆仙の弟で板橋(現在の東京都)で医者を営む水村玄銅が長英を導いた。水村は長英の脱獄前に、長英の釈放運動をしていた。 |
≈ | 1,844 | 9 | 20 | 高野長英が、高野隆仙の離座敷を出発する。 |
≈ | 1,844 | 9 | 21 | 夜、高野隆仙の下に迎え駕籠がやって来る。「これに乗って患者を診て欲しい」と言われ応じるが、連れて行かれたのは鴻巣(現在の埼玉県)の同心詰所であった。ここで高野は石抱による拷問を受けた。 |
1,844 | 10 | 24 | 黄埔近くに停泊するフランス軍艦アルシメード号の艦上で修好通商条約が締結される。ほぼ望厦条約に倣っている(黄埔条約)。 | |
≈ | 1,844 | 12 | 徳川斉昭の隠居謹慎処分が解除される。 | |
≈ | 1,844 | 12 | 30 | 高野隆仙が同心詰所から釈放される。隆仙は高野長英の行き先に関し、一切口を割らなかった。 |
1,845 | チャールズ・ホイートストンが、イギリス海峡の海底ケーブルの絶縁コーティングにガッタパーチャの使用を提案する。 | |||
1,845 | イギリスが上海の黄浦江西岸を永久租借し、領事館を設置する。 | |||
≈ | 1,845 | 高野隆仙が、拷問で受けた傷を再発させる。 | ||
1,845 | 2 |
プロイセン王国の要請を受けたフランス政府によって追放されたカール・マルクスが、ブリュッセルへの移住を決意する。しかし、実現する為には現代政治をテーマにした物は一切出版しないと誓約しなければならなかった。マルクスはブリュッセルに移った後、以下のヨーロッパ各地から亡命した社会主義者達と交流し、共産主義を目指す革命組織活動を始めた。 ①モーゼス・ヘス ②カール・ハインツェン ③ヨーゼフ・ヴァイデマイヤー |
||
1,845 | 3 | イギリスの土木技師フランシス・ウィショーの芸術協会にて、マイケル・ファラデーの提案で、ヴェルナー・フォン・ジーメンスが、絶縁コーティングにガッタパーチャを用いたケーブルのデモを行う。 | ||
1,845 | 3 | フリードリヒ・エンゲルスが、バルメン(現在のドイツのノルトライン・ヴェストファーレン州ヴッパータール)からブリュッセルに移住する。その後カール・マルクスと、ブリュッセルを拠点にしようとしていた共産主義秘密結社「正義者同盟」と合流した。そしてエンゲルスの長年の仲間であったメアリー・バーンズもマンチェスターからやって来てエンゲルスに合流した。 | ||
1,845 | 4 | フリードリヒ・エンゲルスが、バルメン(現在のドイツのノルトライン・ヴェストファーレン州ヴッパータール)からブリュッセルに移住する。その後カール・マルクスと、ブリュッセルを拠点にしようとしていた共産主義秘密結社「正義者同盟」と合流した。 | ||
1,845 | 7 | 24 |
オランダ船が1隻長崎に来航する。オランダ船長が語った内容を、ピーター・アルバート・ビックが聞き、通詞によって風説書として、以下の主旨の内容が和訳され、老中宛に発送された。 ①当年来日のオランダ船1隻、西暦1,845年6月30日バタヴィアを出港し、海上別条無く、西暦1,845年7月24日到着致した。途中海上で外国船や清船は見掛けなかった。西暦1,844年11月9日に長崎を発った交易船は、西暦1,844年12月6日に海上遅れ無くバタヴィアに到着した。西暦1,844年11月27日に長崎より帰還したオランダ船パレンバン号は、西暦1,844年12月27日に滞り無くバタヴィアに到着し、西暦1,845年3月8日にオランダ本国へ向けて出港した。 ②第14代オランダ領東インド総督ピーター・メルクスは、西暦1,844年8月2日に死去した。ウィレム2世は後任として、オランダ財務大臣を務めたヤン・ヤコブ・ロシュッセンを第15代オランダ領東インド総督に据えた。 ③ニコライ1世の参女アレクサンドラ・ニコラエヴナは、第3代ヘッセン・カッセル方伯家家長フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ヘッセン・カッセルの内室だが、西暦1,844年8月10日死去した。 ④ルイ・フィリップ1世は、ヴィクトリアを訪問した。 ⑤ニコライ1世は、ヴィクトリアとウィレム2世を訪問した。 |
|
1,845 | 9 | 20 | イギリス、ベルギー、オランダ、ドイツ、北欧を結ぶ事を意図した「北部鉄道」が、ジェームス・ド・ロスチャイルド、ジャン・アンリ・オタンゲル、エドワード・ブラント等により設立される。 | |
1,845 | 11 | 29 | 上海政府とイギリス領事が「上海土地規程」を締結し治外法権を持つ外国人居住地域「上海イギリス租界」が設立される。 | |
≈ | 1,845 | 12 | デイヴィッド・サスーンが弐男イライアス・サスーンを上海に派遣し、江西路と九江路の交差した所(現在の中国上海市黄浦区)にサスーン商会上海支店を設立する。 | |
1,845 | 12 | 7 |
フェルディナント・アドルフ・ランゲがザクセン州の高等法院から資金提供を受け、以下の人間を中心とした15名の見習い工と共にドレスデンからグラスヒュッテへ移住し「A.ランゲ&カンパニー」を設立する。 ①ユリウス・アスマン ②アドルフ・シュナイダー ③モーリッツ・グロスマン |
|
1,846 | ウィリアム・ラッセルが、本年から翌年にかけて、コネチカット州議会にてニューヘイブンの代表として、ホイッグ党の議員を務める。 | |||
1,846 | ウォーレン・デラノ・ジュニアがアメリカに帰国する。その後家族を作り、株式投資により安泰な生活を送った。度々、フェアヘイブンで暮らしていたジョン万次郎を訪れていた。 | |||
1,846 | ジョン万次郎が、バーレット・アカデミーを優秀な成績で卒業する。 | |||
1,846 | 重助が病死する。オアフ島のカネオヘ(現在のアメリカのハワイ州)に埋葬された。 | |||
1,846 | 3 | 15 | 予てから徳川斉昭が、オランダから届いた国書とそれに対する幕府の返書を内緒で見せて欲しいと老中首座阿部正弘に申し入れていたが、この日それが実現し、阿部は徳川から意見を受ける。 | |
1,846 | 3 | 26 | 再度徳川斉昭が、オランダから届いた国書と、それに対する幕府の返書を阿部正弘から見せてもらい、阿部は徳川から意見を受ける。 | |
1,846 | 5 | 3年前にジョン・ハウランド号にジョン万次郎と共に乗船していたアイラ・デービスが、万次郎の下を訪ね、万次郎に捕鯨船フランクリン号の乗組員に誘う。万次郎は、日本近海に向かう事を知り、母に会う為に帰国を決意した。 | ||
1,846 | 5 | 16 | フランクリン号が、アイラ・デービスを船長として、ニューベッドフォードを出港する。ジョン万次郎は、荷物の中に遭難以来、大切に持ち続けていた母の作った一枚の着物を詰め込み、給仕係として乗船した。 | |
≈ | 1,846 | 7 |
第164代オランダ商館長ヨセフ・ヘンリー・レフィスゾーンが聞き、通詞目付・大通詞・小通詞によって別段風説書として、以下の主旨の内容が和訳され、老中宛に発送される。 ①ウィレム2世は、偉大且つ武勇に優れ、大変しっかりした性格であり、当然ながらオランダは安定しており、益々繁栄している。 ②ウィレム2世は、国務大臣に東インド領の総督を命じ、政治を任せている。 ③バリ島の国王が東インド総督府に対して反抗的で、争乱の兆しが有るので、オランダ軍の軍艦数隻を征伐の為派遣した。ロンボク島(現在のインドネシア西ヌサ・トゥンガラ州)の国王等は、此れに理解を示し、協力を申し出たが、オランダ軍だけで十分であり、礼を尽くして断った。 ④アルジェリアでは、アブド・アルカーディルの軍勢が20,000名増加している。フランスとイギリスは協力してメリナ王国(現在のマダガスカル)のタマターフェに軍を派遣した。此れは、タマターフェの女王が、現地のフランスとイギリスの商人を理由無く追放した事に拠る。タマターフェの女王に対する交渉は、近くのイギリス領マンテイラエス島・ボウルホン島より行った。 ⑤フランスの公使ラケンネと清が黄埔条約を結び、外国向けに開港した5港をフランスも使用する事となった。又非常時には、其れ以外の港に入っても良い事になった。 ⑥フランスはタヒチ及びエイモーの島に自国の旗を立てて、領有を目論み、現地の島民と戦争を始めた。従って、マルキーズ諸島に居住するのは不安定である。 ⑦アヘン戦争による清の5港開港条約前後のイギリスの交易銀高は以下の通り。但し、売上高には、アヘンが含まれておらず、此れを加えると倍の売上高になる。 ❶西暦1,831年以前:売上高9,236,223ドル、買入高13,176,537ドル ❷西暦1,844年開港以降:売上高20,356,580ドル、買入高20,765,514ドル ⑧広東では数度混乱が起きている。原因は、イギリス人が市中を徘徊する事を清国民が嫌い、もしイギリス人が市中を徘徊するなら、イギリス商館を焼き払う姿勢を見せている。此れを受けて清の役所は、西暦1,846年3月9日に御触書を出して鎮めた。又イギリスが、アヘン戦争の賠償金を清が支払う迄という名目で舟山(現在の中国浙江省)を占拠しており、イギリス軍の舟山からの撤退時期も絡み、不満が高まっている。 ⑨西暦1,845年10月頃、イギリスの蒸気船プシゲトン号の艦長ロスは、第12代イギリス領インド総督ヘンリー・ハーディングの使いとして、第3代阮朝皇帝紹治帝への書簡と贈り物を運んだ。此れは過去にイギリス船2隻が阮朝海岸で難破した際、人道的取扱を受けた事に対するお礼であった。ロスは、阮朝で厚遇を受け、紹治帝からヴィクトリアへ宛てた書簡を受け取って帰った。 ⑩イギリスと東インド・清との定期航路便として、蒸気船2隻が投入された。1隻はイギリスからアレクサンドリア(現在のエジプト)に2回/月通い、もう1隻は、エジプトとの航路を通う。同様の方法で、香港→マニラ→バタヴィアの便は、オランダ蒸気船で航路を確保する。又、ジャワ島とオランダ領東インド所属の島々との定期便航路が有る。イギリス当局は、インドと清への蒸気船航路をニューリードアフレスへ延長したい考えである。 ⑪イギリス領東インド総督府より、配下数百名を、ボルネオ島(現在のインドネシア・マレーシア・ブルネイ)の北岸に派遣した。ブルネイよりラブアン島(現在のマレーシア)を引き渡す取り決めが有った。但し此の北岸は、元々オランダ領では無かった。イギリスは序に、北岸の海賊を攻め、海賊は度々敗北した。第24代ブルネイ国王オマル・アリ・サイフディン2世は、イギリスにラブアン島を引き渡す取り決めに関わり、利を得た大臣達を皆殺しにした。 ⑫フランス使節ラケンネと・フランス提督セシルが、バシラン島(現在のフィリピンのバシラン州)を譲る件で、ルイ・フィリップ1世は乗り気では無い。 ⑬ニュージーランドでは、現地民とイギリス人との争いが絶えない。 ⑭イギリスがハワイ島を領有する事にヴィクトリアは反対している。 ⑮西暦1,845年12月13日、ヘンリー・ハーディングが、ラホールの役所の兵が理由無くイギリスの領地を占領した為、高札を立て、ラホールの役所へ軍を派遣する事を通告した。其の後、西暦1,845年12月18日・21日・22日に、イギリス兵とラホール兵が戦ったが、双方共予想以上に苦戦した。だが軈てイギリス軍が優位になり、大砲79門を奪取した。其の後西暦1,846年1月29日に再戦し、イギリス軍が大砲67門を奪取した。西暦1,846年3月12日には、最後の決戦が有り、10,000名のイギリス兵がラホールを包囲し、ラホール軍の大将は自領に退却した。 ⑯フランス王国の新聞によれば、ステイルレソイドセーとインド洋を通行するのに、パナマを越境する蒸気車と鉄道の技術、或いは運河を掘削するかによって便利にする方法が有ると述べている。此の為の費用は10,000,000フランであるとの事である。 ⑰アメリカと清の条約概略は末尾に示す。 ⑱メキシコの属国であったテキサスがアメリカに編入した。カリフォルニアは此の通りにならなかった。しかしアメリカは、カリフォルニアを領有する意思が有る。 ⑲コロンビア川の北方に当たるオレゴンは、イギリスとアメリカの争点であり、此れは将来争乱の火種になると人々は考えている。 ⑳ロシア当局は、カスピ海の航海の為、蒸気船3隻を建造した。此れはコーカサス・ペルシャ・ミロデラーシーへの通行の利便性を向上させる為である。 ㉑第3代ガージャール朝シャーのモハンマド・シャーが老衰を理由に、嗣子後見を依頼する為、カスピ海に所在する属国の1つをロシア帝国に譲った。其処は、石炭が大量に産出される場所であった。 ㉒コーカサス地方の山岳民族は、ロシア帝国に服従する事を嫌っている。先般ロシア帝国が山林を焼き払った。 ㉓北米へ移住するドイツ人は、年々500名ずつ増加し、特にテキサスへの移住者が多い。 ㉔オーストリアでは、紅海と地中海の通行に運河を通す事をエジプトの支配者と打合せ、同意を得ている。 ㉕琉球王国にフランスの者が居住し、キリスト教を広めようとしている件に就いては、フランス政府からの指示である、という事は明らかにしていない。 ㉖提督ジェームズ・ビドルの指揮するアメリカのフリゲート艦コロンバス号が日本へ向かった事が広東の新聞に出ている。アメリカ国民の取り扱いに就いて改善を要望する為と云う。 ㉗フランス王国の提督セシールが、フリゲート艦サピーネ号で日本へ向かうとの事である。此れは日本の海岸でフランス王国の鯨漁船が難破したとの噂が有り、其の乗組員を捜索する為である。 清・イギリス・フランス王国・アメリカと締結した条約文を此処に添付する。先ずは西暦1,844年10月24日に締結された黄埔条約である。 ①両国の人民は代々平和を守り、親密たる事。 ②フランス人及び其の家族は、広東・厦門・舟山・寧波・上海に居住する事が出来る。 ③②で挙げた5港に於いて、フランス人の所有物を盗んではならない。 ④②の5港にフランス軍艦を停泊させる事が出来る。 ⑤輸出入の全ての荷物は、関税表に照らし、此の関税率に従い運上銀を定める。此の件に関し、税関の役人に贈り物等をしてはならない。又此の運上銀は、他国の納める金額よりも増額してはならない。現地の業者と同様に扱う事。 ⑥輸入品は、運上銀を支払い次第フランス王国内に取り入れる。もし他所に送る際は別途運上銀を支払う必要が有る。其の際、清の税関の役人に贈り物をしてはならない。 ⑦密輸入貨物は税関の役人が取り上げる事。 ⑧全ての荷物は勝手に清と売買してはならない。 ⑨売買荷物の償銀に関し、双方の奉行所は保障しない。担当役人の監督の下、お互い約束違反無く支払う事。 ⑩港内の水先案内人に就いては取り決めて置く事。 ⑪清の役人の指揮でフランス船が港に停泊している間は、護衛する事。護衛の者は、フランス船への乗船や小船での護衛を行って構わない。但し護衛費用は、船主が支払うのでは無く、其の港の運上所が負担する事。 ⑫フランス船は入港後2日以内に船名・船の大きさ・積荷書を差し出す事。もし遅延した場合は罪となる。 ⑬入港したフランス船が、荷上げ前2日以内に港から出航する場合は、使用料としての運上銀を支払う必要は無い。商売をした港で支払う事。 ⑭港の使用料は、150t以上の船の場合、銀18.75g/t、其れ以下の場合、3.75g/tと定める。停泊日数に関わらず一度支払えば良い。又、乗組員や、郵便・食糧を運搬する船は支払う必要は無い。 ⑮清の税関の役人は荷物検査と関税徴収を行う事。 ⑯関税は荷上げの際に支払う事。支払い済みとなれば、荷物を再度積み入れて持ち帰る際は再度の支払いは不要である。 ⑰買入荷物の関税は、荷積みの際に支払う事。此れは清の貨幣でも、他国の銀でも良い。 ⑱②の5港の運上所に於いて、広東で定めた度量衡を適用する事。 ⑲積荷を別の船に移す際の規則を作る事。 ⑳フランス船主及び商人は、荷物の上げ下ろしの為に、清の小船や労働者を自由に雇い入れて良い。 ㉑フランス人が②の5港に於いて、住居や土地を借りて、造作を行い、且つ寺院・病院・墓所等を建てた際、もし清人が乱妨狼藉を働いた場合、厳しく罰する事。 ㉒②の5港に滞在するフランス人は、両国の役人の取り決めた場所以外に妄りに徘徊してはならない。 ㉓フランス人は②の5港に於いて、通訳・手芸職人・水夫・清の諸地方の方言に熟達した者を雇ったり、フランスの書物の販売・清の書物の購入は自由である。 ㉔フランス人と清人の間で争いが起きた際、フランスの役人が解決する事。但し、止むを得ない場合は、清の役人も解決に当たる事。 ㉕清は、フランス人に対し妨害を行わぬ様、関係当局は注意を払う事。もし盗賊・フランス商館・病人養生所・居宅等に暴行や放火を行った場合、其の罪に応じて厳刑に処する事。 ㉖㉕に於いて、罪を働いた清の者は、清の奉行所に捕らえられ、其の罪は赦されてはならない。 ㉗フランス人同士の争いを含む、外国人同士の争いを、清の役人に処理させてはならない。 ㉘清の奉行所より、フランス船に対する海賊行為が為されぬ様対策を行う事。もし発生した場合は、海賊を捕らえ、荷物は関係者に返還する事。 ㉙フランス軍艦の乗組員は、②の5港の何れでも客分として扱われる事。商船に問題が有れば丁重に扱い、破損が有れば、修理を補助する事。 ㉚フランス人で逃げた者が居たら、逮捕してフランスの役人に引き渡す事。又清の罪人がフランス人の居宅や船中に隠れていた場合は、清の役人の要求で引き渡す事。 ㉛清と、フランス以外の外国との間で争乱が発生した場合、フランスは何方にも加担せず、中立を守る。 ㉜清・フランス両国の取り交わしの文体を定め、文通を含めて、両国が平等な立場で接する事。 ㉝フランス政府から北京政府へ文通する際、フランス領事より、広東の欽差大臣又は両広総督の役所へ提出する事。返書も然りである。 ㉞上記取り決めは12年間変更してはならない。但し、他国がより良い条件で清と条約を締結した場合、フランスにも適用される事。 次に、西暦1,844年7月3日に望厦村(現在の中国マカオ花地瑪堂区)にて、特命全権公使ケイレブ・クッシングと、第43代両広総督と通商事務を兼任していた耆英によって締結された望厦条約に就いて記す。 ①アメリカと清の両国の人民は、代々に渡り平和である事。 ②売買する商品の関税に当たる運上銀は、取り決めた箇条書に定めた価格に沿って決める事。運上銀に関しては、どの国も定めた金額よりも増加してはならず、且つ進物の代金は除外する事。尚、清からアメリカを除く他国に便宜を図った場合、アメリカにも同様の対応を行う事。 ③アメリカ人及び其の家族は、広東・厦門・舟山・寧波・上海の5港への入港・居住を自由に行う事が出来る。 ④③の5港に於いて、領事と関係役人は、相互に公用・私用の文通を対等に行い、不都合有れば都度改める事。 ⑤アメリカ人が自国或いは他国の商品を売り込み、且つ買い入れた商品を自国或いは他国へ持ち出す際、取り決めから漏れていない商品に関しては、運上銀を支払い次第、自由に取引を行って良い。 ⑥港の使用料は、1,500t以上の船の場合、銀18.75g/t、其れ以下の場合、3.75g/tと定める。使用料は、一度支払えば、仮令別の港に入港して取引を行っても使用料を払う必要は無い。 ⑦乗組員の移動・郵便・食糧運送に用いる船は、港の使用料を支払う必要は無い。 ⑧荷物を運送する船の借り入れ・港の水先案内人の補助・商品を売り込む際の通訳・各職種の職人を雇うのは自由である。 ⑨清は税関に役人を配備し、港に停泊している船に注意を払う事。其の際役人は、船中に居ても小船に居ても良い。但し乗組員から贈り物や食糧を受け取ってはならない。 ⑩入港する船は、2日以内船名等を届け出なければならない。怠った場合は罪となる。定例の手続きが済んだら荷上げは自由に行って良い。もし荷上げ前2日以内に出港する場合は運上銀の支払いは不要であるが、其れを過ぎた場合は所定の運上銀を支払う事。 ⑪荷物の荷上げや船への積み込みに関し、揉め事が起きた際は詮議する事。 ⑫③の5港に於いて、清と自由に取引しても良いが、買い占めて売り捌くのは禁止とする。 ⑬両国の商人が借金で揉めても、奉行所は補填しない。当事者同士で債務が履行される様計らう事。又、一度取り決めしたのであるから、違背の無い様気を付ける事。 ⑭アメリカ人の居住・生活の為に、住居・寺院・病院・墓所や土地を貸す事。又、アメリカ人は③の5港及び近隣の往来は自由とする。但し、地方の村へ行く事は禁止とする。 ⑮アメリカ人は、清の各地の学者を招いて其の地方の方言を学習したり、清の書籍を購入しても良い。 ⑯清の奉行所は、現地民がアメリカ人に対し不埒な事をせぬ様、護衛の役人を手配する事。 ⑰荷物を他の港へ移動させる際は、関税に当たる運上銀を支払う必要は無い。 ⑱両国の奉行所は、罪人が在れば逮捕し、刑を執行する事。 ⑲清とアメリカ以外の外国との間に戦争が発生した場合、アメリカは何れにも加担しない。 ⑳③の5港に駐在する領事は、毎年貿易高を北京の役館に報告する事。 ㉑アメリカとアメリカ以外の外国人の間で発生した揉め事には清は干渉しない。 ㉒アメリカ人が清の役人へ文通する場合は、事前に領事に報告して指示を受ける事。又、清の役人からの書簡も同様に、清の外国掛の指示によって提出される。 ㉓商船の乗組員はアメリカの役人の管轄であり、清の奉行所では、アメリカ人とアメリカ以外の外国人との争いの裁定には関与しない。但し、清に関係する海賊等は防御の事。もし海賊行為が有れば、犯人を逮捕し、盗難品を取り上げて持主に返還する様にする事。 ㉔難破船に関し、乗組員や荷物に不都合が無い様に警固し、船の修理にも協力し、荷物の紛失が有れば変換する事。 ㉕居住者や船中に於いて、どの様な問題が起きても、清側から包囲をしない事。 ㉖アメリカ船乗組員が逃げ出した場合は逮捕し、領事又は他の役人に引き渡す事。清の罪人がアメリカ船若しくは居宅に隠れた場合、清の役人の要請によって引き渡す事。 ㉗往復の文書の形式を定め、全て平等と心得、両国の奉行所は互いに贈り物をしない事。 ㉘アメリカ政府から清政府への書簡は、清の外交を司る欽差大臣或いは両江総督・両広総督の指示により差し出す事。 ㉙軍艦は、清の何れの港でも客分の扱いとし、食糧調達に気を配り、不自由の無い様にする事。 ㉚通商が認められていない港で、停止された品物を売り払ったり、アヘン等の禁止された品物を持ち込んだ場合、清の奉行所では取り扱わない事。 ㉛上記の取り決めた条文は12年間変えず、アメリカ人が清に来た時は、総督が取り仕切る事。 |
|
1,846 | 7 | 19 | アメリカ海軍士官ジェームズ・ビドルが戦列艦「コロンバス」および戦闘スループ「ビンセンス」を率いて、マカオから浦賀に入港した。事前にオランダ風説書で予告されていた。 | |
1,846 | 8 | 12 |
オランダ船が1隻長崎に来航する。オランダ船長・事務長が語った内容を、ヨセフ・ヘンリー・レフィスゾーンが聞き、以下の通詞目付によって風説書として和訳された。 ①本木昌左衛門 ②西与一郎 ③楢林鉄之助 ④森山源左衛門 ⑤植村作七郎 ⑥中川索左衛門 ⑦西記志十 ⑧志筑龍吉 ⑨岩瀬弥七郎 ⑩名村貞五郎 ⑪横山源吾 ⑫楢林寛一郎 以下の主旨の内容が老中宛に発送された。 ①当年来日のオランダ船1隻、西暦1,846年7月14日バタヴィアを出港し、海上異常無く、西暦1,846年8月12日に長崎に到着した。此の1隻のみで仲間船は無い。 ②西暦1,845年11月2日に長崎を出港したデンユルスホウト号は、海上事故無く、西暦1,845年11月29日にバタヴィアに到着した。清へ向かうヨーロッパ商船を数隻見掛けた。 ③昨年帰国したオランダ船が預かった江戸幕府からウィレム2世に宛てた返書は、ブリックのスワーリユ号で西暦1,845年12月2日にオランダ本国へ送った。此の船の艦長はヘットホーフト中佐。又返書と一緒に頂いた贈り物は西暦1,846年1月10日にフリゲートのヤーソン号で送った。 ④ピーター・メルクスの後任として、ウィレム2世の命で、ヤン・ヤコブ・ロシュッセンがオランダ領東インド総督として、西暦1,845年9月28日にバタヴィアに赴任した。即日、オランダ領東インド総督代理ジョアン・コーネリス・ラインストから引継ぎを行った。 ⑤2年前、ジャワ島への船は1,706隻入港した。此の内1,375隻はオランダ船で、331隻は外国船である。同年ジャワ島から1,658隻が入港し、内1,238隻がオランダ船、320隻が外国船であった。 ⑥西暦1,845年7月3日、オスマン帝国の港で大火が有り、17時間で5,000軒の家が焼失し、24,000,000ギュルデンの損害が出た。 ⑦西暦1,845年7月頃に、ウィレム2世がイギリスを表敬訪問した所、ヴィクトリアの大変丁寧な饗応が有り、元帥として扱われた。 ⑧西暦1,845年8月頃、ヴィクトリアがプロイセン王国を表敬訪問した。其の道中、ライン川付近で第4代プロイセン王国国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が待ち受けて面会した。帰路、ヴィクトリアは、ルイ・フィリップ1世を短時間表敬訪問した。 ⑨北米のケベック(現在のカナダ)で出火し、2,000戸が焼失し、9,000,000ギュランの損失が出た。又、ニューヨークでも100戸の家が焼失した。 ⑩西暦1,846年1月頃、ニコライ1世がイタリアを訪問した。 ⑪西暦1,845年7月1日から西暦1,846年2月下旬にかけて、81隻の船で清からヨーロッパに以下の茶を運んだ。 ➊黒茶:33,656,317ポンド ❷青茶:5,807,524ポンド ⑫西暦1,846年2月16日夕暮れ、イギリス領セントヘレナ島で地震が有った。最初は其れ程激しく無かったものの、夜になり次第に激しくなり、翌日になって13隻の船が破損し、陸地でも被害は少なく無かった。 ⑬バリ島の近海で、オランダ領ヒリリング(現在のインドネシア)の船とオランダの船が出会った時、旗を揚げなかった事で問題が起こった。ヒリリングの酋長とはオランダ領東インド政庁との決め事も有ったのにも拘わらず此れに背いた。此れを受けて、此れ迄の約束を実行させる為、陸海軍の一隊をバリ島へ派遣した。西暦1,846年6月28日、ハレイン村の東方に陣を構え、海軍の援兵で大砲60挺を備えた。結果、ハレイン村を占拠した。翌日、軍勢はシンガレデイヤに赴き、ヒリリングの王の城を取り囲んで焼き払った。恐らくヒリリング王は僅かの近習と共に山中に逃れたものと思われる。ジャワ島全体は静謐である。 ⑭此度バタヴィアから長崎への航海中、清船は見掛けなかった。 |
|
1,846 | 9 |
ウィリアム・ホイットフィールドが、ホノルルに上陸する。その後以下2名を日本に帰国させるべく船を手配した。 ①筆之丞 ②五右衛門 帰国の件は当初は寅右衛門には知らされなかったが、筆之丞によって伝えられた。 |
||
≈ | 1,846 | 12 |
以下2名を乗せた船が、日本へ向けてホノルルを出港する。 ①筆之丞 ②五右衛門 寅右衛門は当初は帰国に傾いていたが、出港直前に翻意した。 |
|
1,847 | 洪秀全が拝上帝会を創設。 | |||
1,847 | ヴェルナー・フォン・ジーメンスが、モールス符号を使わずに針で文字盤の文字を指す事で電文を伝える電磁式指針電信機と、地下ケーブルを発明する。 | |||
1,847 | 寅右衛門が、オアフ島の現地の女性と結婚する。寅右衛門は大工に就いていた。 | |||
1,847 |
ヨセフ・ヘンリー・レフィスゾーンが聞き、本木昌左衛門・西与一郎によって別段風説書として、以下の主旨の内容が和訳され、老中宛に発送される。 ①ウィレム2世は益々尊敬され、親族に至る迄恙無く暮らしている。 ②オランダ領インドの船が難破した時、酋長ボーダーが、乗組員を拘束し、積荷を奪取する事件が有った。元々ボーダーは、東インドの奉行所の支配下であるビーマー王に仕えていた。 ③ヤン・ヤコブ・ロシュッセンが、ビーマーに軍艦を派遣し、ビーマー王・ボーダーを襲撃した。ビーマー王・ボーダーは、奪った荷物を返し、犯した罪を反省し、赦免を請うた。荷物が返された後、ロシュッセンは集会を開き、ビーマー王・酋長達も列席した。其の中でボーダーは赦免を公に願い出て、奉行所は赦免を認めた。 ④マカッサル(現在のインドネシア南スラウェシ州)に、外国船の通商の為の港が設置され、荷物の積卸が自由になり、陸海共に運上する必要が無くなった。 ⑤一昨年にインドからオランダ本国に160隻で以下の荷物が送られ、奉行所が勘定に当たった。 ❶コーヒー豆:932,667樽 ❷砂糖:223,860俵 ❸青黛:12,623箱 ❹ジャワ産茶8,419箱 他にも多数の荷物が有った。 ⑥清とイギリスの間で、アヘン戦争の和睦が整った際、舟山を戦費賠償の質としてイギリスに渡した。其の後賠償が支払われたので、西暦1,846年4月4日、舟山返還条約が締結され、イギリスは舟山を返還した。 ⑦イギリスは、清が約定を守るものと考えていた。しかし広東では、下輩の者が、外国人が勝手に入る事に反発し、混乱が絶えない。此の混乱を鎮める為、第2代香港総督ジョン・デイビスが、西暦1,847年4月2日、蒸気船3隻・其の他軍艦を含む海軍一隊を率いての川に赴いた。ホッカーテイクルヌの砦をいとも簡単に奪取し、其の夜、イギリス船はワンポーに停泊した。翌朝、蒸気船2隻で広東に赴き、砦を占領した。西暦1,847年4月6日、耆英がジョン・デイビスの下を訪れ、以下が取り決められた。 ❶今後2年間、イギリス人の広東への出入りは自由である。 ❷イギリス人が広東近隣の地に、職業又は発散の為、上海同様に居住する事を許可する事。もし居住を妨げる者が居れば厳罰を科す事。 ❸西暦1,846年11月29日に船員に乱暴した者、西暦1,846年4月7日に福州で大佐セスネイ等に乱暴した者に就いては、見せしめの罪に処す事。但し、セスネイに乱暴した者に就いては、広東に引き連れ、ヴィクトリアの執政から其の為に派遣された者の立ち合いの下、刑を執行する事。 ❹川より江南側に在る広地は、イギリス商人達に家屋倉庫建設の為に貸し渡す。但し、場所に関しては、執政が広東を去る前に決定する事。 ❺外国商館が有する土地の近隣は、寺院の為貸し渡し、黄埔の中で相応しい土地を墓地として定める事。 ❻両花地間に、橋等の構造物を造るのは構わない。但し、海辺に店を造ってはならない。 ❼混雑を避ける為、川の入口に停泊する船は商館より離す事。 ⑧イギリス人達は、奪取した砦の大砲800挺の火門に釘を打ち込み使用不能にした。 ⑨西暦1,846年12月6日、香港からイギリスへ向けて、清船1隻が出港した。「ケイング号」と称し、船長はイギリス人のケルレッテだが、乗組員は主に清人であり、此の様な遠海危難の波涛を清船が航海する事は此れ迄無かった。 ⑩新任の駐清アメリカ公使エヴェレットが、清との取り決めの為マカオに赴き、広東総督ケイイングと会談を行った。 ⑪フォルトローネンが、駐清フランス公使に任ぜられた。 ⑫東インドに駐留するイギリス海軍の多数が、2~3度フーロービナングに集結した。軍艦フェルーンに乗り込み、ボメオとトロクの間に赴いている。 ⑬阮朝のファウロンネの港内で、フランス王国軍艦4隻と阮朝軍艦5隻の戦闘が有った。フランスの執政を陸に呼び寄せ、其の隙にフランス王国軍艦を奪おうと、順化(現在のベトナムのトゥアティエン・フエ省フエ市)から派遣された者が襲ったと見られる。僅かな時間で阮朝軍艦3隻が飛散し、残り2隻はフランス王国軍が奪って焼き捨てた。フランス王国側は死者1名・負傷者1名を出し、阮朝側は1,000名程度が討死した。 ⑭ラーマ3世は、外国との商売を重要と考えている様である。ラーマ3世の命で、美しいフリゲート艦を建造し、暹羅からイギリスへの砂糖の輸送に使用している。他にも現在4隻を、雑用の為建造中である。 ⑮オーストラリア国内のイギリスの領有する土地が次第に拡がっている。其の為、アデレート(現在のオーストラリアの南オーストラリア州)の港は取引で入港する隻数の割には狭いという説が有る。 ⑯スタヲールフォレスの北方に在るニューカッスル(現在のオーストラリアのニューサウスウェールズ州)の港に保税倉庫を設置する事となった。 ⑰西暦1,846年7月頃、イギリスが多数の艦船で、オマル・アリ・サイフディン2世がブルネイ近海で悪事を働く海賊に加担したという理由によりブルネイを攻撃した。 ⑱イギリスが、清やシンガポールを往復する蒸気船の為の石炭を採取する石炭山を開拓する事を意図し、ラブアン島(現在のマレーシアのサバ州)を領有した。 ⑲フランスはタヒチ島を取り鎮めようとしているに違い無く、援軍を求めている。 ⑳イギリス人とニュージーランド国民との確執は収まらず、加勢する者が在り、勢力が増している。又、退役した兵に土地を渡し、家族を呼び寄せ居住させる計画が有るとの噂を聞く。 ㉑ロンドンから東インドへ航海する際、シンガポール・ヤーフハ・ティモール・ホルトエス・セングトン・トレス海峡・ネウストレ・シティレイを経由する事が有る。又、セイロン(現在のスリランカ)・スワン川(現在のオーストラリアの西オーストラリア州)・アデレートを経由して速やかにオーストラリアに到着出来るとは最早言えない。ところが、掘切りを大船の水路とすれば非常に便利になる。此の事業は現在イギリス・フランス・オーストリアによって進められている。 ㉒ムハンマド・アリー朝では、原野に水を注ぐ為に、ナイル川に堰を造る事に精を出している。 ㉓シベリア、特にウラル川(現在のロシア・カザフスタン)流域では、現在大量の金を掘り出している。其の量は昨年12,893.363kgに及んだ。 ㉔コロンビア川(現在のカナダのブリティッシュコロンビア州~現在のアメリカのオレゴン州)にて、イギリスとアメリカの間で、国境に関する両国の確執が有ったが、西暦1,846年6月15日のオレゴン条約により、オレゴンはアメリカに属する事となった。 ㉕テキサスをアメリカに併合しようとした際、アメリカとメキシコの間で戦闘となった。当初はアメリカが優勢であったが、メキシコの防御も予想以上に堅固であった。モンテレイ(現在のメキシコのヌエボ・レオン州)を4日で陥落させた。西暦1,847年2月22日、メキシコ軍最高指揮官アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ率いる軍と、メキシコ北部軍最高司令官ペドロ・デ・アンプディア率いる軍が戦闘となった。アメリカ軍の1組の軍勢と共にサルティーヨ(現在のメキシコのコアウイラ州)まで進軍し、戦いは2日に渡って続いた。ベラクルス(現在のメキシコ)とサンタ・クルス・ウアトゥルコ(現在のメキシコのオアハカ州)は、アメリカ軍指揮官の将軍スコットに奪取されたとの噂が有る。 ㉖カリフォルニアには昨年、アメリカ軍が駐留していた。 ㉗スペインでは、イサベル2世とカルロス4世の弐男カルロス・マリア・イシドロ・デ・ボルボンの王位継承争いが起きたが、漸く穏やかになった。イサベル2世は、カディス公フランシスコ・デ・アシース・デ・ボルボンと結婚した。フランシスコは、イサベル2世の叔父でカルロスの弟のフランシスコ・デ・パウラ・デ・ボルボンの弐男である。カルロスは本来自分が王位を継ぐべきと考えていたが、カルロスの兄のフェルナンド7世は、女王を禁じた法律を変えてカルロスを追放し、自身の娘であるイサベル2世に王位を継がせた。 ㉘ブラガンサ王朝では、最近暴動が起こった。様々な対策が講じられているが、今の所鎮まっていない。 ㉙ヨーロッパ諸国ではじゃが芋が不作で、ドイツ・フランス、取り分けスコットランド・アイルランドでは食糧が乏しくなった。此れを受けて、北米から玉蜀黍と麦粉が送られた。 ㉚ロシア帝国とコーカサスの山に住む人々の争乱は未だ鎮まっていない。ロシア人にとってコーカサスは住みにくい場所の様である。 ㉛フランス人とアブド・アルカーディルとの争乱はまだ鎮まっていない。唯、アルカーディルの勢力はかなり衰えてきた。アルカーディルは僅かに残った部下と共に荒野へと去っていった。 ㉜イブラーヒーム・パシャが、パリとロンドンを表敬訪問し、其々歓迎された。フェーニスの国主もフランスを表敬訪問したが、此方も歓迎された。 ㉝フランスの天文学者ユルバン・ルヴェリエが、新しい惑星を発見し「ネプチューン」と名付けた。 ㉞ドイツの医学者ボッツセルは、綿に硫黄酸を染み込ませ、爆発する力を蓄える発明をした。此の綿を少量小銃に込めて発射すれば、塩硝を込めて発射した時と同程度の威力が有る。 ㉟アメリカで、人体を萎えさせる「麻酔」が発明された。此れを使えばどんなに厳しい治療を受けても痛みを感じない。此の方法はヨーロッパにも伝わった。 ㊱ヨーロッパからバタヴィアに紙製の人形が送られて来た。人体の各器官を細かく模型にして作ってある。此れは人体の内部を理解する為のものである。 ㊲ヨーロッパ及び北米では、次第に鉄道が敷設され始めた。此の計画はアメリカ東部各地から西側各地へ、又、ニューヨークからコロンビア川まで往来する為である。鉄道を使えば、重い荷物を一度に6~12時間で運送する事が可能である。 |
|||
1,847 | 3 |
ジョン万次郎が、以下を経由して琉球王国に上陸する。 ①ボストン ②ファイアル島 ③カーボベルデ群島 ④ニューアムステルダム島(現在のフランスのアムステルダム島) ⑤クパン(現在のインドネシアの東ヌサ・トゥンガラ州) ⑥セラム島(現在のインドネシア) ⑦ニューアイルランド島 ⑧グアム ⑨父島 しかし、鹿児島藩の役人に、外国船から降りて来た人間を上陸させられないと言われ断られる。これまでの事情を説明しようとするも、片言の日本語しか話せなくなっていた。 |
||
≈ | 1,847 | 3 | 31 |
以下2名が八丈島への上陸を試みるが、波風が強く失敗する。 ①筆之丞 ②五右衛門 |
1,847 | 4 |
以下2名が蝦夷の東海岸に上陸したが、全く人がおらず、船長の指示で引き上げた。 ①筆之丞 ②五右衛門 |
||
1,847 | 4 | 14 | 西暦1,843年8月30日に江戸幕府が通達した「海外で救助された日本人漂流者は清船・オランダ船以外は受け取ってはならない」という内容がオランダ政府から第17代アメリカ国務長官ジェームズ・ブキャナンに口上書にて伝えられる。 | |
1,847 | 5 | 7 | 世界三大医学雑誌であるJAMAの発行元であるAMA(アメリカ医師会)がニューヨーク・メディカル・ソサイアティによって、アメリカ各州の医師会の連合体としてイリノイ州シカゴにて設立される。AMAは自然医学に反対の立場をとっており、西洋医学を推し進めた。 | |
1,847 | 8 | 6 |
オランダ船が1隻長崎に来航する。オランダ船長が語った内容を、ヨセフ・ヘンリー・レフィスゾーンが聞き、通詞目付・大通詞・小通詞によって風説書として、以下の主旨の内容が和訳され、老中宛に発送された。 ①当年来日のオランダ船1隻、西暦1,847年7月7日にバタヴィアを出港し、海上異常無く、西暦1,847年8月6日に長崎に到着した。此の1隻以外に仲間船は無い。 ②台湾で清船約12隻、日本の陸地近くで4隻見掛けた。 ③西暦1,846年11月24日に長崎を出港したファンネイ号は、西暦1,846年12月14日にバタヴィアに到着した。バンカ島(現在のインドネシアのバンカ・ブリトゥン州)付近で清船1隻を見掛けたが、此の船は西暦1,846年12月20日にバタヴィアに到着した。 ④昨年報告した様に、ヒリリング王とカランガスム(現在のインドネシアのバリ州)を支配しているヒリリング王の兄弟は、山中に隠れて其処から出られず、ヤン・ヤコブ・ロシュッセンの赦免を得る為に使者を送って来た。ヒリリング王が改めて奉行所の指示に従う様取り決め赦免した。ゼリング中に砦を築き、オランダ兵を一部残し、残りの兵と軍艦はジャワ島に引き揚げた。 ⑤ウィレム2世は、④の内容の報告を受け、特別軍功の有った兵への表彰を行う。 ⑥西暦1,846年7月頃~1,847年1月頃迄の間、清はイギリスに、茶を29,618,285ポンド輸出した。 ⑦ジャワ島は静謐である。其の他変わった事は無い。 |
|
1,847 | 10 |
以下2名がホノルルへ帰港する。 ①筆之丞 ②五右衛門 |
||
1,847 | 10 |
フランクリン号が、マニラを経由してホノルルに寄港する。ジョン万次郎は、別れた漂流民に会う為に役所に行き、日本人1名が住んでいるという場所を教えて貰い、そこへ向かい、寅右衛門と再会した。さらに以下2名とも会い、本年3月に八丈島への上陸に失敗した旨を聞いた。 ①筆之丞 ②五右衛門 万次郎は「また機会がある、3人で日本に帰ろう」と言って励ました。 |
||
1,847 | 10 | 12 | ヴェルナー・フォン・ジーメンスとJ・G・ハルスケが、ドイツのベルリンに「ジーメンス・ウント・ハルスケ電信製造所」を設立する。 | |
1,847 | 11 | フランクリン号が、ホノルルを出港する。この頃からアイラ・デービスが精神病になり、刀や鉄砲を振り回す様になった。デービスは乗組員によって監禁された。そこで、新しい船長を選ぶ為に投票を行い、一等航海士アイザック・エーキンとジョン万次郎が同票でトップとなった。結果、年長のエーキンが船長となった。 | ||
1,848 | 200家族(株主総会への出席を許可されている出資額上位200名)によってフランス銀行が独占支配される。 | |||
1,848 | ルイ・ブランがラ・ショー・ド・フォン(現在のスイスのヌーシャテル州)に懐中時計組立の時計工房を開く。 | |||
1,848 | ロスチャイルド家のフランクフルト本部で書記官をしていたラファエル・エルランガーが銀行会社「エルランガー&ゾーネ」を設立する。 | |||
1,848 | 前年迄カザン大学(現在のロシアの地方政府タタールスタン共和国)工業化学教授であったニコライ・ジーニンが、サンクトペテルブルク医科外科アカデミーの化学教授に就任する。そして、アルフレッド・ノーベルの指導を行った。 | |||
1,848 | 2 | カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが「共産党宣言」を発表する。これまでのすべての社会の歴史は階級闘争の歴史であり、資本主義社会は自らが産み出した労働者階級プロレタリアートにより打倒されるとし、労働者の国際的団結を呼びかけた。 | ||
1,848 | 7 | 29 |
オランダ船が1隻長崎に来航する。オランダ船長が語った内容を、ヨセフ・ヘンリー・レフィスゾーンが聞き、大通詞・小通詞によって風説書として、以下の主旨の内容が和訳され、老中宛に発送された。 ①当年来日のオランダ船は、西暦1,848年6月25日にバタヴィアを出港し、海上異常無く本日長崎に到着した。此の1隻以外に仲間船は無い。 ②台湾や日本近海で清船は見掛けなかった。 ③西暦1,847年11月22日に長崎を出港したスヘルトーヘンボス号は、西暦1,847年12月6日にバタヴィアに到着した。 ④西暦1,847年4月15日に長崎からアメリカへ向けて、アメリカ人を送還した。 ⑤ジャワ島は静謐である。其の他特段の情報は無い。 又同日、以下の別段風説書も送られて来た。 ①ウィレム2世の弐男アレクサンダー・ファン・オラニエ・ナッサウは、胸を患っていたが、西暦1,847年11月に、マデイラ島(現在のポルトガル領マデイラ諸島)の気候が寒さを凌ぐのに良いという事で療養したが、西暦1,848年2月20日に死去した。此れを受けて国中が忠勤を尽くした。当年は、フランスの2月革命やドイツの3月革命により、ヨーロッパ諸国の大半が動乱に見舞われたが、オランダに関しては安定していた。 ②西暦1,848年4月1日、オランダ領東インドに於いて、法令を改定し、全ての事象を掟書に則って取り扱う事となった。 ③駐広東オランダ総督センファパセルは職を辞し、ヘエルブロウンに譲った。 ④昨年のオランダのヨーロッパ諸国・アメリカへの茶の輸出は55,790,135ポンドであった。 ⑤清とイギリスの関係は未だ穏やかにならず、広東の者は外国人を憎んでいる。 ⑥西暦1,847年12月5日、イギリスの若者6名が、広東近隣の川で遊ぶ為に上陸した所、暴徒が多数押し寄せて彼等を殺害した。ケイイングは、此の暴徒達を処罰したが、イギリス人は、其の罰が軽いという事で怒りが収まらず、自分達の身の安全や財産保全に不安を覚え、非常に用心している。 ⑦ケイイングは命を受け、西暦1,847年2月25日に広東から北京へ向かった。道光帝は、ケイイングの息子キングシーに命じ、ケイイングとキングシーは面会した。 ⑧次期両広総督への交代は、次席のセンフタイネンが司る事となった。 ⑨清が不法な行為をしているという事を、イギリスの僧侶が気付き、其れ以来上海のイギリス総督は、同所を取り締まる為に、イギリス軍艦で舟山港を封鎖し、不法を働く者を戒め、北京へ送る穀物を差し止めた。 ⑩香港のイギリス新聞に拠ると、琉球に駐留する外国人が殺害されたとの事である。 ⑪ジョン・デイビスが香港総督を辞し、サミュエル・ボナムに譲った。此れにより、ボナムは第3代香港総督となった。ボナムは過去に以下の総督を歴任していた。 ❶ペナン島(現在のマレーシア) ❷マラッカ(現在のマレーシア) ❸シンガポール ⑫清の海域に防衛の為展開中の海軍の戦力は以下の通り。 ❶病院船:アリゲーター ❷ブリッグ船:アルバトロス(大砲16門を搭載) ❸ブリッグ船:コロンバイン(大砲16門を搭載) ❹ブリッグ船:サーペント(大砲12門を搭載) ❺蒸気船:メディア(大砲4門を搭載) ❻フリゲート艦:メアンダー(大砲42門を搭載) ❼兵糧船:ミンデン ❽蒸気船:フューリー(大砲4門を搭載) ❾スループ船:スカウト(大砲16門を搭載) ⑬西暦1,846年10月18日、清船ケイイング号が香港島からイギリスへ向けて出港したが、逆風の為着船出来なかった。止むを得ず北米へと向かい、西暦1,847年7月7日にニューヨークに到着した。そして西暦1,848年3月頃に再度イギリスへ向けて出港し、漸くロンドンに到着した。 ⑭紹治帝が西暦1,847年11月4日に崩御し、紹治帝の弐男嗣徳帝が第4代阮朝皇帝に即位し、家督を相続した。嗣徳帝は北京へ使者を遣わせ、清政府の許可を請うた。結果、阮朝の家督は規定通りに承認された。 ⑮西暦1,848年5月頃、マニラに在勤していたスペインの奉行が、スールー諸島(現在のフィリピン)内のホロ島(現在のフィリピンのスールー州)の住民を征伐する為に軍を派遣した。ホロ島の住民は海賊を生業としており、他の島の住民を略奪し、奴隷として売っていた。此のスペイン軍の戦力は以下の通り。 ❶蒸気船3隻 ❷スクーナー艦3隻 ❸砲艦8隻 ❹兵卒600名 ❺砲兵50名 ❻野戦砲2門 ホロ島の海賊は激しく抵抗したものの、砦を占拠された。又、150隻余の船を破壊され、大砲124門が奪われた。そして、スペイン軍の手により奴隷200名が解放された。海賊達は、誰一人逃亡する事が出来なかった。 ⑯⑮の報告を受ける前に、オランダ領東インド政庁からも、ホロ島の海賊征伐の為に海軍を派遣したが、まだ帰国出来ていない。 ⑰第4代タヒチ王国国王ポマレ4世及び其の部下が、フランスを欺き援助を受けていた事を理由に、フランス人はタヒチ王国を占領する事を決定した。 ⑱ハワイ諸島の内、ホノルル市街は家屋が立ち並び、美麗となった。しかし、コロフォルニーが近隣に在る為、交易は進まず、繁盛しないと思われる。 ⑲ヘンリー・ハーディングに代わり、初代ダルハウジー侯爵ジェイムズ・ラムゼイが、第13代イギリス領インド総督に就任した。ラムゼイは以前高官を務めた事が有るとの事である。ラムゼイは西暦1,848年1月頃、業務の引継ぎの為マダガスカルに到着し、其の後カルカッタに到着した。そして、イギリス以外の国々との関係を調整し、関税を平等にした。又、東インド内のイギリス領諸港との往復に関し、貨物の関税を廃止した。 ⑳喜望峰内のイギリス領に向ってカッフル人が蜂起したが、第52代ケープ植民地総督ハリー・スミスが智略を以って鎮圧した。 ㉑第24代アラウィー朝スルターンのアブドゥルラフマーンは、アルジェリアに於いて、数年来フランス王国に抵抗していたが、西暦1,848年1月21日、ルイ・フィリップ1世の五男アンリ・ドルレアンに降伏した。ドルレアンはオマール公爵で、第6代フランス領アルジェリア総督も兼務している。アブドゥルラフマーンはフランスに送られ、丁重に扱われたが、再度抵抗する可能性が有る為幽閉された。 ㉒米墨戦争が勃発した。アメリカ軍の将軍ウィンフィールド・スコットは、西暦1,847年9月15日にメキシコに進撃し、市街を占領した。最終的に此の戦争の和議は、メキシコがカリフォルニアを渡す事により成立した。此れによりアメリカの領土は、北はオレゴン川、南は北緯32度に至る太平洋に接した範囲となった。 ㉓アメリカの人口は西暦1,780年は僅か2,000,000人であったが、最近の調査では28,700,000人となった。此れにより商業が発達し、アメリカ国民は年々荒野を開拓して田地としている。 ㉔昨年、ヨーロッパ諸国は凶作で、食糧の価格が高騰して苦労したが、今年は幸い難を逃れた。 ㉕ポルトガル国内の一揆は、イギリス・フランス・スペインが協力して鎮圧した。西暦1,847年4月28日に第10代ブラガンサ朝国王マリア2世の命により、一揆を起こした者達を赦免した。 ㉖スイスにて一揆が起こり、西暦1,848年1月頃に戦争に発展するかに思えたが、事無く治まった。 ㉗ヨーロッパ諸国の大半が穏やかで無く、現地住民による一揆が各地で発生している。西暦1,848年2月22日にパリで激しい騒動が起こった。3日間に渡り一揆軍とフランス王国軍が睨み合い、一揆軍が国政を支配する様になり、ルイ・フィリップ1世は、一族を引き連れてイギリスへ亡命した。一揆軍は新たな国王は立てず、フランス王国民の中から優れた指導者を選び、統治する事を望んでいる様に見える。しかし此れはとても長続きする様には思えない。 ㉘オーストリア・プロイセン王国・其の他ドイツ諸国でも同時に騒動が起こっているが、詳細は分からない。唯はっきりしているのは、国民が国政に関与し、困窮する者達を救う事を動機としている点である。 ㉙第2代バイエルン王国国王ルートヴィヒ1世が退位し、ルートヴィヒ1世の長男マクシミリアン2世が第3代バイエルン王国国王に即位した。 ㉚シレジア地方(現在のポーランドのドルヌィ・シロンスク県、オポーレ県、シロンスク県付近)、ホルシュタイン地方(現在のドイツのシュレースヴィヒ・ホルシュタイン州)の大部分が元来ドイツ人であるので、デンマークの支配から逃れるべく運動していた。此の動きを、デンマークは軍を使って抑えていたが、ドイツ諸国の一部は、此の支配を止めさせるべく、評議の上、武力行使する事にした。 ㉛イタリア、特に両シチリア王国では、数年来騒動が起きていたが、西暦1,848年1月12日、パレルモ(現在のイタリアのシチリア州)で一揆が起き、国中が騒乱となった。一揆軍は、旧シチリア王国と旧ナポリ王国の政治を区別する事を要求した。しかし結局、此れ迄通り、フェルディナンド1世が両シチリア王国国王として統治する事となった。 ㉜第255代ローマ教皇ピウス9世は、異国の民衆を支配する事に関与しており、現地住民の代表達と一堂に会し、話し合った。 ㉝ロンバルディア地方及びヴェネツィア地方の住民は、数年来オーストリア帝国の支配下に在るが、此度支配者に対し一揆を起こした。第7代サルデーニャ王国国王カルロ・アルベルトは、自らの兵で此の一気に加勢した。最終的に、オーストリア帝国軍は、イタリアの各地から追い払われた。 |
|
1,849 | 行商人として生計を立てていたエイブラハム・クーンが、ソロモン・ローブの妹レジーナ・ローブと結婚する。 | |||
≈ | 1,849 | オーガスト・ベルモントが、マシュー・ペリーの娘キャロライン・スライデル・ペリーの叔父で、ルイジアナ州民主党の主要メンバーであるジョン・スライデルと出会う。スライデルは翌年迄に、ベルモントに政界入りを勧め、ベルモントは政界入りを果たした。しかし、ベルモントのビジネス上の知り合いの殆どはホイッグ党員であった。 | ||
1,849 | 4 | 徳川斉昭の藩政復帰が認められる。 | ||
1,849 | 5 | 29 | 朝、イギリス東インド会社艦隊の帆船「マリナー号」が相模湾に到着する。山本音吉も通訳として乗船していたが「林阿多」と名乗り、清人に扮した。日本船と遭遇し、役人を名乗る二人を艦上に迎え、役人はその場にあった物を書き留め、これ以上湾内に進まない様警告するも、マリナー号は役人を艦上に乗せたまま浦賀水道にへ入り、浦賀近くで停泊した。武装した日本の船舶が警戒でやってきた為、マリナー号も武装準備を整え警戒態勢を取った。 | |
1,849 | 5 | 30 | 6時、日本が用意した薪水を積載した50隻のボートがマリナー号の周りに寄せられている事をイギリス海軍中佐アルフレッド・ローレンス・ハローランが発見する。マリナー号の艦長が日本語で書かれた名刺を幕府高官に届けるよう役人に差し出すが、役人からは補給物資の支援が目的であり、外国人との交渉は法に背く行為である為出来ないと拒絶される。役人同行の下、苦情と警告を受けながらも、日没まで測量を行うマリナー号に戻ってから役人は、自分が切腹あるいは打首になるのは間違いないと悲嘆に暮れるが、ブランデーを飲んでいい気分になったと言う。 | |
1,849 | 5 | 31 | 6時、役人数名がマリナー号を訪れ直ちに立ち去るように強く求めるも、風向きが思わしくなかった為昼前まで停泊する。11:30に出航するも、前日に測量できなかった江戸湾周辺の測量を行った為再び役人が懸念を伝える。 | |
1,849 | 6 | 1 | マリナー号が剱崎(現在の神奈川県三浦市南下浦町)と須崎(現在の静岡県下田市)を測量する。経度測定の為伊豆大島に上陸するも、測定出来なかった。島民と遭遇し紫陽花を発見する。その後伊豆大島を離れ音吉の指示に沿って、下田湾に上陸するも直ちに役人がやってきて、戻るよう強く求められるが、魚を撮る為に網を投げていると、役人がそれに関心を持って楽しんだ。 | |
1,849 | 6 | 2 | マリナー号が測量を行う。 | |
1,849 | 6 | 3 | 測量作業に必要な約40地点に上陸しながら作業を進める。役人は最初は警戒していたが、民家に近づく気配がない事を悟ると黙認する様になった。 | |
1,849 | 6 | 4 | マリナー号が測量を行う。 | |
1,849 | 6 | 5 | マリナー号が測量を行う。 | |
1,849 | 6 | 7 | マリナー号が日本が用意した56隻のボートに曳航されて下田湾を出港する。 | |
1,849 | 6 | 23 | マリナー号が種子島に到着する。黒潮に逆流した為16日間の航海となった。 | |
1,849 | 6 | 30 | マリナー号が上海に帰還する。 | |
1,849 | 8 |
フランクリン号が、以下を経由して、数千樽の鯨油を船倉一杯に積んで、ニューベッドフォードに帰港する。 ①ギルバート諸島 ②グアム ③セラム島(ジョン万次郎は、ここでウィリアム・ホイットフィールド一家へのお土産を買った) ④クパン ⑤セントヘレナ 万次郎は350ドルの配当金を受け取った。 |
||
1,849 | 8 | 11 |
オランダ船が1隻長崎に来航する。オランダ船長が語った内容を、ヨセフ・ヘンリー・レフィスゾーンが聞き、通詞によって風説書として、以下の主旨の内容が和訳され、老中宛に発送された。 ①当年来日のオランダ船は、西暦1,849年7月8日にバタヴィアを出港し、海上異常無く本日長崎に到着した。此の1隻以外に仲間船は無い。 ②台湾付近では清船は見掛けなかったが、日本近海で1隻見掛けた。 ③西暦1,848年11月25日に長崎から出港したヨウセフイネ・カタリーナ号は、順調に航海し、西暦1,848年12月3日にバタヴィアに到着した。 ④ジャワ島全域静謐である。其の他特に情報は無い。 |
|
≈ | 1,849 | 8 |
オランダ船が長崎に到着する。以下の主旨の内容が齎され、ヨセフ・ヘンリー・レフィスゾーンが聞き、大通詞・小通詞によって別段風説書として和訳されて老中宛に発送された。 ①本年オランダは予想外に困難だった。先年油絵で描かれた絵像が仕立てられたウィレム2世が、急な病で西暦1,849年3月17日に崩御した。ウィレム2世は若い頃から英才で武勇に優れ、軍事の際は、オランダ軍の大将軍として敵に挑んできた。西暦1,840年にウィレム1世の跡を継いで、仁愛を以って臣下を育て、臣下も又、ウィレム2世に忠誠を尽くしてきた。西暦1,848年11月頃にオランダ各地からの訴状を捌き、又此れ迄の制度を改め、オランダ国民は一層心服していた。西暦1,849年4月4日に、国王の礼に従い、手厚く葬儀を行い、デルフト(現在のオランダの南ホラント州)の国王一族の墓に葬られた。 ②西暦1,817年2月17日生まれのウィレム2世の長男で王太子のウィレム3世が、第3代オランダ王国国王に即位した。 ③西暦1,848年4月10日に、オランダ領東インド都督を務めた、摂政官ヘアヘハローフアンカベルレンが死去した。 ④今年はヨーロッパ諸国で騒動が有り、オランダも又例外では無く、静謐とは言えない。 ⑤オランダ領東インドから最近になって軍勢をバリ島へ派遣し、其処の酋長が規定に違反した事を正したが、当地の海浜に住む者達が、難破船から財貨を奪った。貿易の支障となるので此れを征伐した。昨年国王ヘリリングの要害を攻撃し、バリ島側に死亡者が多数発生したが、勝利には至らなかった。オランダ本国から、勝利に持ち込める程の軍勢を派遣するは困難との連絡が有った為、全軍ジャワ島に撤退した。 ⑥今年派遣した将官アフユミシイールス率いる軍勢は、以下の戦力を保有していた。 ❶海軍フリゲート艦3隻 ❷コルベット艦2隻 ❸スクーナーブリッグ船5隻 ❹スクーナー船2隻 ❺蒸気船7隻 ❻武器運搬船2~3隻 又外商船数隻を、軍勢の輸送の為借り入れた。此の軍勢は、以下2ヶ所の酋長達を穏やかに帰服させる為に、説得を行った。 ❶ヘリリング ❷カランガスム(現在のインドネシアのバリ州) しかし此れは徒労に終わり、西暦1,848年5月17日・18日にヘリリングの酋長デイヤガラガと激戦となり、最終的に、ヘリリングの要害を占領した。酋長達は山中に逃走したが、程無くして軍将クーチーテイランチーキと共に、配下の者に殺害された。 ⑦西暦1,848年5月中旬頃、オランダの大将コロンコンクは、酋長達を従わせようと、再度乗船した。スーンギラーウスやカスーンでも酋長達が謀反を企てているので、西暦1,848年5月頃に此れ等の場所に進軍した所、不意にオランダ軍の陣地に厳しい攻撃が有った。酋長側は戦死者1,000名・負傷者800名を出し、逃走した。オフシ―ルであるハシシール・オントルオフシール4名を含む戦死者を出した。ハシシールは非常に勇敢な者であったが、此の様な結果となり気の毒である。酋長達はオランダ軍の戦力を恐れ、一旦は服従したものの、オランダ軍将の死や兵達の間での病気流行に乗じて再度反抗し、コロンコングやキャンアルで開催された酋長達の集会にも出席しなかった。其処で、中佐ランスーイーテンを司令として酋長側を攻め、スワンキーワスやトユーハに布陣していた軍勢を破った。酋長達はバタヴィアに使節を送り、和睦を請うたので、バリ島に派遣されていた軍は撤退し、ジャワ島へ向かった。 ⑧オランダ領東インドに於けるオランダ軍の総司令は、ウィレム2世からサーキンウェイマルエイセナク島の総督に命ぜられており、30年余軍籍に有り、毎度名誉を得ている。 ⑨西暦1,848年4月頃、オランダ軍艦2隻をソーロー島に派遣した。此れは、ソーロー島の島主の部下が海賊行為を行ったので、問い質し、捕らえられたオランダ領東インド奉行所の役人を取り返す為である。ソーロー島の島主が拒否の返答をした為、期限を区切り、軍艦2隻で都市を焼き討ちにした。此の2隻がソーロー島に停泊すると、数千の島民が逃げ去った。其の時に停泊している2隻に向かって泳いで来た者達が居た。其の中に捕らえられていたオランダ領東インド奉行所の役人も含まれていた。彼等は自由の身となり、故郷へ帰った。 ⑩清では、現地人とイギリス人との確執が続いている。イギリス人は、西暦1,842年8月29日に締結された南京条約に基づき、西暦1,847年4月6日から外国人が広東を徘徊出来る様にする事を所望している。しかし、ジョン・デイビスが2年間猶予を与えた。広東の住民は此の猶予した条件すら拒否し、清政府も、国民の意思に逆らって処理を進める事も出来ずにいる様である。此の一件から、再び戦争が起きるのではないかと見ている。しかし清に派遣したイギリス海軍も現在減少しているので、直ぐには争乱には発展しないと見られている。 ⑪西暦1,849年4月25日付の新聞によれば、清に派遣した各国海軍は以下の通りである。 ❶イギリス Ⅰ.病院船アリゲーター(艦長ハンギール) Ⅱ.ブリッグ船アラブ(艦長ウィリアム・モリス、大砲12門を搭載) Ⅲ.ブリッグ船コロンバイン(艦長ジョン・ヘイ、大砲16門を搭載) Ⅳ.外輪式蒸気船フューリー(艦長ジェームズ・ウィルコックス、大砲6門を搭載) Ⅴ.外輪式蒸気船インフレキシブル(艦長ジョン・ホセアソン、大砲6門を搭載) Ⅵ.フリゲート艦メアンダー(艦長ヘンリー・ケッペル、大砲44門を搭載) Ⅶ.ブリッグ船マリナー(艦長チャールズ・ミッチェル、大砲16門を搭載) Ⅷ.兵糧船ミンデン(艦長マイケル・クイン) Ⅷ.蒸気船フィリケトル(艦長ニフレット、大砲4門を搭載) Ⅷ.ブリッグ船パイロット(艦長ジョン・インス、大砲16門を搭載) ❷アメリカ Ⅰ.ブリッグ船ドルフィン(艦長オクステン、大砲10門を搭載) Ⅱ.フリゲート艦バーモント(艦長キーモンス・ケトネイ、大砲22門を搭載) Ⅲ.フリゲート艦プレブル(艦長キリン、大砲16門を搭載) ❸フランス Ⅰ.コルベット艦テハヨンナイセ号(艦長ラカフィーネ、大砲36門を搭載) ⑫耆英が退任し、後任として、徐広縉が第44代両広総督と通商事務の任に就いた。 ⑬死去した駐清公使アレキサンダー・ヒル・エヴェレットに代わり、ジョン・デイビス(上記とは同姓同名の別人)が後任として駐清公使の任に就いた。 ⑭上述のキリン率いるプレブル号が、長崎から漂流民を伴い香港へ戻った。 ⑮西暦1,849年3月20日、暹羅在住の清人が一揆を起こしたが、鎮圧された。 ⑯イギリス領インドでは、シク王国が一揆を起こした。シク王国は、イギリス領インドの奉行所との間で条約を結んでいたが、此の条約に背いた。最終的にシク王国は降伏し、イギリス領インドに併合された。 ⑰セイロン島(現在のスリランカ)で一揆が起こったが、直ぐに鎮圧された。 ⑱イギリス人は現在、ボルネオ島付近のラブアン島(現在のマレーシアの連邦直轄領)への移住を計画している。イギリス人は此の地に石炭山を開発する意向である。しかし此の地は、外国から移住するには、気候が不適当である。 ⑲近頃、カリフォルニアの深さが僅かの所で大量の金が産出された。此の金山を最初に発見した者達は大金持ちとなり、現在では各地から人々が食糧を運び、金と交換する。此れに伴い、住民が急速に増加し、交易も繁盛して、太平洋の船の往来も盛んになるものと思われる。 ⑳パナマ地峡の通路が、開通に向けて整備が進められており、水路・鉄道の敷設工事に着手している。 ㉑オーストラリアで、カリフォルニア以上の金が採掘されたとの情報が有る。 ㉒ザカリー・テイラーが第12代アメリカ大統領に就任し、前任のジェームズ・ポークと交代した。 ㉓西暦1,848年4月頃から、ヨーロッパ各国の情勢は不穏となり、大乱の兆しが有る。 ㉔フランス王国では、西暦1,848年2月に一揆が起こり、全てのフランス王国民は、自己の財産を否定し、全て平等に分配する事を企図した。同年6月にはパリで騒動となり、数千名が死傷した。一揆を鎮圧したカラアイナクが数ヶ月間政務を担った。 ㉕フランスは、国政を改める為国民評議し、大統領を選び、1期4年限りで交代する様定めた。 ㉖ナポレオン・ボナパルトの甥のナポレオン3世が大統領選挙で当選し、フランス第二共和政大統領に就任した。ボナパルトは数ヶ国を掌握したが、西暦1,821年5月5日にセントヘレナ島にて死去した。 ㉗ナポレオン3世は、ナポレオン・ボナパルトの様に諸国を掌握する気は無い様だが、国政を一手に掌握する気は有る様に見える。 ㉘フランス国民の大半は、西暦1,848年2月の乱にて王位を追われたルイ・フィリップ1世を嘆き、王族やブルボン家の人々は、ルイ・フィリップ1世を再度王位に就けたいと思っている。 ㉙ドイツは以前から諸国に分立していたが、一国一政の王を立てたいと多くの人間が考えていた。しかし各国の首長の意向が異なり、政権を1人に委ねる事を嫌い、容易には実現出来ない。 ㉚最初は、オーストリア帝国の貴族の1人をドイツの首長にしてはどうかと評議が行われたが、ドイツ各国の人々がフランクフルトに集い、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世をドイツ皇帝に立てる事にした。しかし、ヴィルヘルム4世は此れを拒否し、二度と選ばぬ様にと釘を刺した。 ㉛第2代オーストリア帝国皇帝フェルディナント1世は、西暦1,848年12月2日に退位し、甥のフランツ・ヨーゼフ1世が、第3代オーストリア帝国皇帝に即位した。フェルディナント1世は、オーストリアで一揆が起こった事に因り、西暦1,848年5月20日にウィーンを退去していた。 ㉜西暦1,848年10月30日に、クロアチア軍とオーストリア官軍の連合軍がウィーンを奪回する。フェルディナント1世に対し一揆を起こした者達が、ウィーンの一揆に加勢し進軍したが、オーストリア官軍の主将ウィンテェル・ラデッキが一揆軍を破った。オーストリア官軍はハンガリーに帰還したが、未だに戦争は続いている。 ㉝ニコライ1世は、モルダヴィア地方(現在のルーマニア・モルドバ・ウクライナ)とワラキア地方(現在のルーマニア南部)に於いて、武備を整え、兵を派遣している。此れにより、ロシア帝国とオスマン帝国との和睦が破れ、争乱になるのでは無いかとの懸念が人々の間で広がっている。 ㉞ニコライ1世は、民衆の蜂起で苦しむオーストリア帝国への援軍をゼーフェンベルゲン(現在のオランダの北ブラバント州)に集結させている。 ㉟オーストリアは、政治改革を行い、フランツ・ヨーゼフ1世の即位により騒動が収まった。 ㊱ロンバルド・ヴェネト王国のロンバルディア及びヴェネツィアにて一揆が発生したが、オーストリア帝国は抑えている。第7代サルデーニャ王国国王カルロ・アルベルトは、此のロンバルディアとヴェネツィアを奪取して支配下にしようとし、2度出撃したが、ヨーゼフ・ラデツキー率いるオーストリア帝国軍に敗れた。アルベルトは退位し、自身の長男ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に譲位した。 ㊲ピウス9世はオーストリア帝国を支持しており、独立を求めるローマの人々と対立した。暴動を恐れたピウス9世は、両シチリア王国のガエータ(現在のイタリアのラツィオ州ラティーナ県)に逃亡した。ピウス9世は速やかに帰還する様求められ、そうしなければ、ローマ教皇領の内政が乱れ、強盗が蔓延ると云われた。最終的には、第3代両シチリア王国国王フェルディナンド2世が一揆を鎮めた。しかし、シチリア島(現在のイタリア)までは占領出来ず、特にメッシーナやシラクサでは一揆軍が占領しており、今も戦争が絶えない。 ㊳シュレースヴィヒ公国及びホルシュタイン公国の帰属を巡り、デンマークとドイツの間で戦争が起きた。結果、デンマークは敗北し、戦列艦1隻が焼き討ちに遭い、別の1隻はドイツ側に奪われた。 ㊴ヨーロッパでは、西暦1,845年の馬鈴薯、西暦1,846年の小麦と2年凶作が続き、食糧が払底したが、昨年から豊作となった。 ㊵昨年は、ヨーロッパとエジプトでコレラが流行したが、前回程の被害は出なかった。 ㊶ムハンマド・アリーは老衰の為、自身の養子イブラーヒーム・パシャを、第2代ムハンマド・アリー朝ワーリーに即位させ、国政を引き継いだ。しかし、パシャも間も無く崩御し、アリーの孫アッバース・パシャが第3代ムハンマド・アリー朝ワーリーに即位した。アッバースは、宗主国であるオスマン帝国のコンスタンティノープルへ挨拶へ行き、第35代オスマン帝国皇帝メフメト5世からムハンマド・アリー朝ワーリーとして認められた。帰国後アッバースは閣僚や外国人専門家を罷免した。 |
|
1,849 | 10 | 日本への帰国を目指していたジョン万次郎が、日本近海を通る捕鯨船が見つからず、水夫として船に乗り込み、帰国費用を稼ぐ為に、海路でカリフォルニアの金鉱へ向かう。 | ||
1,849 | 11 | 7 | オーガスト・ベルモントが、キャロライン・スライデル・ペリーと結婚する。その後、ニューヨーク5番街18番通りに豪邸を建設し、客人を持て成した。此の豪邸は西暦1,893年に売却される迄ベルモント家が使用した。 | |
1,850 | エイブラハム・クーンが、義兄であるソロモン・ローブとラファイエット(アメリカのインディアナ州)にて商品販売会社のゼネラル・パートナーシップを締結する。 | |||
≈ | 1,850 |
以下3名が土地会社を率い、数千エーカーの土地を購入し、アメリカのペンシルベニア州にウォーレン・デラノ・ジュニアの名を冠した町(現在のアメリカのペンシルベニア州スクーカル郡デラノ)を設立する。 ①ウォーレン・デラノ・ジュニア ②ウォーレン・デラノ・ジュニアの弟フランクリン・デラノ ③ペンシルベニア州下院議員を務めたエイサ・パッカー |
||
1,850 | アルフレッド・ノーベルがパリへ渡る。其処で、フランス貨幣委員会会長で、西暦1,846年に実験的な学校兼研究所を設立したテオフィル・ジュール・ペルーズの助手を務めていたアスカニオ・ソブレロと出会う。ソブレロは、西暦1,840年代に爆発性油と呼ばれる物質が入った試験管の爆発により、顔が傷だらけであった。ソブレロはノーベルに、従来の火薬よりも遥かに強力なニトログリセリンは、熱や圧力の変化で予測不可能に爆発する為、其の使用に強く反対した。しかしノーベルは、ニトログリセリンを商業的に使用可能な爆薬として制御し活用する方法に興味を持った。 | |||
≈ | 1,850 | 1 | 第254代ローマ教皇ピウス9世がジェームス・ド・ロスチャイルドから資金提供を受ける。 | |
≈ | 1,850 | 4 | 高野長英が、青山百人町(現在の東京都港区南青山)の借家に移り住む。沢三伯と名乗り、町医者を営んだ。顔が見破られない様、硝酸で顔を焼き、人相を変えていた。 | |
1,850 | 5 | ジョン万次郎がカリフォルニアの金鉱に入る。ゴールドラッシュを利用して70日余りで600ドルを稼いだ。その後、ホノルルへ向けて出発した。ウィリアム・ホイットフィールドに挨拶しなければという思いもあったが、会うのに半年程度掛かり、帰国への早る思いを抑える事が出来なかった。 | ||
≈ | 1,850 | 7 |
オランダ船が長崎に到着する。以下の主旨の内容が齎され、ヨセフ・ヘンリー・レフィスゾーンが聞き、レフィスゾーンと次期オランダ商館長のフレデリック・コルネリス・ローズの連名の別段風説書として和訳されて老中宛に発送された。又此の別段風説書は、西暦1,851年1月頃に藤原重遠によって写本された。 ①ウィレム3世の即位の大礼が、西暦1,849年5月12日にアムステルダムで執り行われた。 ②ウィレム2世を偲び、オランダ国民はウィレム2世の像を2体作り、アムステルダムとデン・ハーグに其々安置する考えである。 ③ウィレム3世と同じくルクセンブルク大公を兼務するが、西暦1,850年2月5日に自身の弟でウィレム2世の参男のヘンドリックをオランダ総督に任命し、実務を任せた。ヘンドリックは、幼少の頃からウィレム1世の軍艦で各地を訪問し、近年は、オランダ領東インドも訪れていた。 ④第2代ベルナドッテ王朝国王オスカル1世の長男カール15世は、西暦1,850年6月19日にウィレム1世の弐男フレデリックの長女ルイーゼと結婚した。ヨーロッパ全体が不穏であるが、オランダは此の様に安定している。 ⑤ヤン・ヤコブ・ロシュッセンは、西暦1,849年9月頃、マカッサル(現在のインドネシアの南スラウェシ州)・スラウェシ島及び其の付属地のハンセルマーシン・ボルネオ島を視察し、其れから再度ハンセルマーシン・マカッサル・スラバヤ(現在のインドネシアの東ジャワ州)を訪れた。ロシュッセンの旅行中は、オランダ領東インド副総督インストが、実務を担った。 ⑥ロシュッセンは、西暦1,849年にバリ島の酋長の暴挙を制する為に軍を派遣した所、西暦1,849年5月3日~6月29日にバリ島の酋長達がオランダ側の下に参集し、今後オランダの支配下に入り、漂着する異国船を襲う事をせず、奴隷の制度を止める事誓約する協定を行った。バリ島の酋長コロンコングは、西暦1,850年に死去した。 ⑦ジャワ島近辺は凶作で、食糧が払底し、民衆は苦境に陥っている。此れを受けて官府では、規定を設け、民衆が餓死しない様手配した。 ⑧オランダ領東インド海軍副提督マシトルセンが死去した。後継として、ウィレム3世の命により、ロシュッセンがファンデンポスを任命した。ファンデンポスは、オランダ領東インド海軍を過去に指揮した事が有り、最近は国務参事の任に就いていた。 ⑨西暦1,849年にパレンバン(現在のインドネシアの南スマトラ州)にて争乱が発生した。軍が出動し、程無くして収まった。 ⑩バンテン王国でも争乱が発生したが、大事には至らなかった。 ⑪清は、広東に外国人を居住させる事に腐心しており、徐広縉は、清国民との調整を図っている。 ⑫徐は、清政府の意向に従って取り計らっている。此れに対し道光帝は、徐に孔雀羽と玉の指輪を贈った。 ⑬イギリスの総督は、清政府に混乱する内容の意向を持ち掛けている。 ⑭西暦1,850年5月28日迄に、第3代イギリス香港総督ジョージ・ボナムが、スクリュー式の蒸気船「レイナルド号」をヒシリー港に停泊させて、多数の兵を伴い上海を訪問したとの情報が入った。レイナルド号は兵を乗せる為に準備したとの事である。此度のボナムの上海訪問は、其の儘北京へ赴き交渉する為と思われる。 ⑮⑭のボナムの上海訪問の情報には、東インドと清の近海に以下のイギリス・アメリカ・オランダの海軍の艦船が控えているとの内容も含まれていた。 ❶イギリス海軍 Ⅰ.ブリッグ船:アルバトロス(大砲16門を搭載、艦長はアーサー・ファークハー) Ⅱ.病院船:アリゲーター(大砲28門を搭載) Ⅲ.戦列艦:アマゾン(大砲26門を搭載、艦長はエドワード・トゥルーブリッジ) Ⅳ.ブリッグ船:アラブ(大砲12門を搭載、艦長はウィリアム・モリス) Ⅴ.フリゲート艦:カンブリアン(大砲36門を搭載、艦長はハンウェイ・プラムリッジ) Ⅵ.ブリッグ船:クレオパトラ(大砲12門を搭載、艦長はトーマス・マッシー) Ⅶ.蒸気外輪船:フューリー(大砲6門を搭載、艦長はジェームズ・ウィルコックス) Ⅷ.戦列艦:ヘイスティングス(大砲74門を搭載、艦長はJ. オースティン) Ⅸ.ブリッグ船:マリナー(大砲16門を搭載、艦長はミッチェル・マティソン) Ⅹ.蒸気外輪船:メデア(大砲4門を搭載、艦長はヘンリー・メイソン) Ⅺ.兵糧船:ミンデン(艦長はミッチェル) Ⅻ.ブリッグ船:パイロット(大砲16門を搭載、艦長はジョン・インス) XIII.蒸気スクリュー船:レイナード(大砲8門を搭載、艦長はピーター・クレイクロフト) XIV.ブリッグ船:ロイヤリスト(大砲6門を搭載、艦長はウィリアム・ベイト) XV.ブリッグ船:サーペント(大砲16門を搭載、艦長はチャールズ・バーカー) ❷アメリカ海軍 Ⅰ.フリゲート艦:プリマス(大砲22門を搭載、艦長はJ・ケリー) Ⅱ.ブリッグ船:ドルフィン(大砲12門を搭載、艦長はハーデ) ❸オランダ海軍 Ⅰ.フリゲート艦:レイン(大砲54門を搭載) ⑯道光帝が西暦1,850年2月25日に崩御し、道光帝の四男咸豊帝が、第9代清皇帝に即位した。 ⑰第75代ポルトガル領マカオ総督ジョアン・マリア・フェレイラ・ド・アマラルは、西暦1,849年7月頃、運上役所を接収し、ポルトガル領とした。此れによって交易が阻害され、清の商人達はマカオを去った。 ⑱アマラルは、清の商人がマカオから去る事を防ぐ為に、マカオに土地を所有する者が許可無くマカオを去った場合、土地・財産を没収する事にした。しかし其れでも、清の商人の流出を防ぐ事は出来なかった。清の商人にとって認められなかったのは以下2点であった。 ❶清人の墓地を取り払い、マカオの新道を作る ❷清の運上役所に掲げる清国旗竿を破却した ⑲清の商人達は、徐に対し、アマラルに反抗する旨の書かれた書簡を提出した。 ⑳西暦1,849年8月22日、マカオ付近で、清人がアマラルを殺害し、首と手を切断して持ち去った。マカオの奉行所に疑わしい3名が逮捕された。清とポルトガルの双方の交渉の末、ポルトガルは3名の捕虜を清に引き渡し、一方アマラルの首と手は、ポルトガルに引き渡された。 ㉑ポルトガル・ブラジル・ゴア(現在のインド)から、陸海両軍をマカオに送り込む。 ㉒アマラルの後任として、ペドロ・アレクサンドリーノが第76代ポルトガル領マカオ総督に就任した。アレクサンドリーノは、マカオに向かっている最中である。 ㉓清では絶えず海賊の被害が有るので、取り締まりの為、イギリス主導で諸国の海軍が出動した。 ㉔西暦1,849年9月頃、海賊「サップンクチュイ」及び賊船40隻をコルキス(現在のジョージア西部)の近海で発見したので、蒸気船「プレゲトン号」・「フュレイ号」及びブリッグ船「コロンビネ号」で対応した。程無くしてサップンクチュイは清政府に降伏したので、憐憫に思い赦免した。 ㉕西暦1,849年2月頃、暹羅の使節が、イギリス領マルナインの首長スパルクスを訪問した。此の使節と暹羅国民がマルナインへの移住を所望しているとの噂が有る。彼等が暹羅を去る理由として、ラーマ3世の理不尽な為政が有ったのではないかと考えている。 |
|
≈ | 1,850 | 8 | 31 |
ジョン万次郎が、ホノルルに到着し、以下3名と再会する。 ①筆之丞 ②五右衛門 ③寅右衛門 万次郎は、日本への帰国計画を話し、筆之丞と五右衛門は即座に賛成した。しかし、寅右衛門は、妻子や大工の仕事がある為、現地に留まる事となった。また、現地でお世話になっていたデーモン牧師から、上海行きの商船「サラ・ボイド号」の船長ホイットモアを紹介して貰った。交渉の結果、日本近海まで乗船させて貰える事になった。さらに、上陸用の小舟をイギリス人から購入し「アドベンチャー号」と命名した。デーモン牧師は、アメリカ領事に働きかけ、万次郎達が遭難してから今日に至るまでの経緯等を述べた上で、3人の身分証明書を書いて貰った。万次郎は、ハワイを出発する前に、ウィリアム・ホイットフィールドに、 今まで育ててくれ、アメリカの高等教育まで受けさせてくれた事への恩と、感謝の気持ちを綴った書簡を作成した。 |
1,850 | 12 | 3 | 夕方、高野長英が、出先から潜伏先の青山百人町に戻る際、小路にて、何者かの密告により町奉行に踏み込まれ捕縛される。何人もの捕方に十手で殴打され、縄を掛けられた時には既に半死半生だった為、止むを得ず駕籠で南町奉行所へ護送している最中に高野は自身の喉を突いて自刃した。 | |
1,850 | 12 | 17 |
以下3名が、デーモン牧師に礼を述べ、サラ・ボイド号に乗船し、琉球王国へ向けてホノルルを出港する。 ①筆之丞 ②五右衛門 ③ジョン万次郎 |
![]() |
異国船打払令の弊害。
|