万物の系譜

西暦1,601〜1,700年

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鹿児島藩の琉球王国侵攻一元化

年月日 出来事
1,601 1 2 島津義弘一行が薩摩へ向けて平等寺を出発する。その際住職から帰りの舟を買う為の銀一貫目を借りた。借用書には判人として以下の重臣が名を連ねた。
①長谷場織部祐
②川上久右衛門
③町田源六
④伊集院弥兵左衛門
⑤本田主水祐
⑥三原七右衛門
⑦白浜三四郎
⑧川上助七
⑨川上四郎兵衛
⑩喜入忠続
⑪旅庵
⑫新納新八郎
1,602 伊達政宗の領内に琉球船が漂着する。
1,602 3 20 オランダがアジア貿易拡大の為、パタニ王国(現在のタイのパッターニー県、ナラーティワート県、ヤラー県)に拠点を置きオランダ東インド会社を設立する。
1,603 徳川家康の命で島津家が、前年仙台藩に漂着した琉球船が琉球王国に送還される。以降琉球王国に対し、徳川へのお礼の使者を要求される様になるが、謝名利山等の反対により使者を送らなかった。
1,603 3 24 後陽成天皇の勅使が伏見城に派遣され、徳川家康に対し征夷大将軍の宣旨を読み上げる。
1,603 5 1 徳川家康が二条城に入る。
1,603 5 6 徳川家康が内裏に参上し、「将軍拝賀の礼」を行う。
1,603 5 8 徳川家康が二条城に勅使を迎え、「将軍宣下の賀儀」を行う。
1,604 徳川家康が松前慶広に対し黒印状を渡し、蝦夷地の領地権、徴役権、交易の独占権を認め、松前藩が成立する。
1,604 ヴェネツィア共和国のゲットーに住むセファルディム商人が、ゲットーの再拡大を政府に要請した。
1,604 江戸幕府が朱印船貿易を開始する。
1,604 5 31 江戸幕府が糸割符制度をポルトガル船に対し導入する。堺、京都、長崎の幕府指定の商人のみが白糸を輸入出来る様にした。年1回、糸年寄と外国商人との折衝で決められた固定価格で、糸割符仲間が白糸を一括購入し、これを仲間内や幕府指定の特許商人に分売した。
1,605 鹿児島藩が徳川家康に以下を理由に琉球侵攻を願い出る。
①関ヶ原の戦いで豊臣方の西軍に加担した背景から、徳川幕府の信頼を得て自藩の立場を有利にする。
②豊臣秀吉との戦いや朝鮮出兵など度重なる戦乱で行き詰まった財政を琉球貿易によって立て直し、南西諸島を自分の領土にする。
③琉球を通じて明と貿易を行う。
④自藩の領地を拡張する為。
⑤分散していた島津氏の権力を藩主である島津忠恒の下に纏める。
⑥因幡の亀井茲矩が豊臣秀吉の許可を得て西暦1,590年に3,500名の兵で琉球征伐を企てたが、これを島津が中止させたことへの恩を忘れている。
⑦豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に薩摩が肩代わりした負担金を返済しなかった。
⑧薩摩が琉球に対し、創立当初の徳川幕府に贈り物を献上するように勧めたが、それに応じなかった。
⑨西暦1,602年の伊達政宗の領内に琉球船が漂着した件に関し、乗員を保護し薩摩を通じて帰国させたが礼を欠いた、等の非礼に対する報復。
1,605 野國總管(現在の沖縄県中頭郡嘉手納町野国の進貢船乗組員の一役職名)が甘藷を明から琉球王国に持ち帰って、野国村を始め、周辺の村々に植えた。
1,605 謝名利山が、親鹿児島藩であった初代丑日番の法司城間盛久を讒言し百姓の身分に貶め、翌年から第2代丑日番の法司に就く。
1,605 11 5 イングランド王国ステュアート朝の王ジェームズ1世が旧教徒(カトリック)、清教徒(イギリス国教会に反抗する一派)双方を弾圧した為、旧教徒による火薬陰謀事件が発生する。貴族ロバート・ケーツビーを首謀者とする一団は、イギリスにおけるカトリック支配を取り戻そうと企て、国会議事堂の地下に火薬を運び込んだ。しかし陰謀は密告によって発覚し、陰謀者の一人兵士のガイ・フォークスが捕えられ、後に一団は処刑された。
1,606 江戸幕府から鹿児島藩に琉球王国侵攻の朱印状を下す。徳川家康が、豊臣秀吉の朝鮮出兵により悪化した対明関係を修復する為に、琉球王国にパイプ役を担わせる目的で島津家を通じて従属を促したが、琉球王国が頑なに拒否した事が背景としてあった。
1,606 第14代明皇帝万暦帝の派遣した冊封正使の夏子陽が琉球王国に到着。
1,606 ヴェネツィア共和国のゲットーに住むセファルディム商人が、2年前と同じくゲットーの再拡大を政府に要請した。
1,606 バージニア会社が、イングランド王国ステュアート朝の王ジェームズ1世より勅許される。ロンドン会社とプリマス会社の2社が存在した。
1,607 3 17 出雲阿国が、江戸城本丸で歌舞伎十八番の勧進帳を演じる。
1,607 5 14 バージニア会社のプリマス会社がジェームズ川(現在のアメリカバージニア州)に沿った約40マイル内陸にジェームズタウンを建設する。ジェームズ川及びジェームズタウンはジェームズ1世の名から名付けられ、バージニア州の名は先代のエリザベス1世から名付けられた。
1,607 6 29 第14代李氏朝鮮国王宣祖が国交回復の1回目の回答兼刷還使(後の朝鮮通信使)を派遣し、第2代江戸幕府征夷大将軍徳川秀忠に謁見する。
1,608 徳川家康がシャム(現在のタイ)に国書を送る。
1,608 2 第3代徳之島島主東之主が急死する。以降沖永良部島島主思鎌戸が第4代徳之島島主に就き、2つの島を兼任する事となった。
1,608 9 島津忠恒が、徳川家康と徳川秀忠が舟師を起こそうとしていると聞き、大慈寺(現在の鹿児島県志布志市志布志町志布志)の僧龍雲を遣わせ、以下4名に対し必ず朝聘するよう求める。
①尚寧王
②謝名利山
③初代巳日番の法司浦添朝師
④第4代酉日番の法司名護良豊
しかし謝名は聴従せず、龍雲を罵り辱めた。
1,608 11 30 初代島原藩主有馬晴信が占城(現在のベトナム中部)に派遣した朱印船が、マカオでの越冬寄港中に日本人船員が取引を巡って騒擾事件を起こし、それをマカオのカピタン・モール(総司令官)であったアンドレ・ペソアが鎮圧し、日本人側に多数の死者が出た。
1,609 3 7 オランダ東インド会社の船が、平戸に到着し、オランダ総督マウリッツからの徳川家康への親書と献上品を齎した。家康は使節を駿府に迎え、書状と通航許可の朱印状を託した。
1,609 3 11 琉球征伐の為、以下を中心とする鹿児島藩士3,000名、藩船100隻が山川港(現在の鹿児島県指宿市山川金生町)に集結する。
①樺山久高(総大将)
②平田増宗(副大将)
待機している間に樺山は島津忠恒から以下の内容の書簡を受け取った。
①琉球王国より和睦申し立てがあれば異議無く談合に応じる事。
②西暦1,609年7・8月中には片を付け、帰還する事。
③琉球王国歴々の人質、その他島々の頭々まで人質に取る。以後の琉球王国の措置は鹿児島藩が定める。
④尚寧王が首里城に長く籠城する様子が見えたら焼き払い、辺りの島々の者を含むなるべく多くの人質を取って帰陣する事。
⑤奄美諸島への兵糧米の徴発は、琉球王国より軽くする事。
1,609 4 8 島津忠恒一行が、島津の閲兵を受け順風を待った上でこの日鹿児島藩士3,000名、藩船75隻が琉球へ向けて山川港を出港する。
1,609 4 9 島津忠恒一行が口永良部島(現在の鹿児島県熊毛郡屋久島町)に到着する。
1,609 4 10 島津忠恒一行が口永良部島を出発する。
1,609 4 11 島津忠恒一行がで奄美大島の笠利湾(現在の鹿児島県奄美市)に到着。奄美大島の首脳が鹿児島藩に全面協力する意向を示した為、戦闘は起きなかった。
1,609 4 12 笠利に奄美大島の島民が集結していると聞き付けた鹿児島藩は巡察を行う。しかし集団を見つける事が出来なかった。島民は山林に逃げ隠れしていた。そこで鹿児島藩は「山林から島民を呼び集め、抵抗なくば安堵して良い」と伝え、戦いは無く治まった。
1,609 4 14 琉球王国が鹿児島藩の軍が奄美大島に到着した事を聞きつける。そこで降伏する為に天龍寺の僧以文を遣わせたが、以文は鹿児島藩との接触を避け、途中で行方を眩ました。これにより後日尚寧王の怒りを買う事となった。
1,609 4 16 島津忠恒一行が大和浜(現在の鹿児島県大島郡大和村)に到着する。
1,609 4 20 鹿児島藩の軍船の内13隻が徳之島にやって来て、その内8隻が湾屋(現在の鹿児島県大島郡天城町)に入港する。島民1,000名がこれを取り囲み棍棒や竹槍等で鹿児島藩に戦闘を挑んだ。鹿児島藩は鉄砲を用い島民50名を殺害したが、無傷では済まなかった。
1,609 4 20 島津忠恒一行が西古見(現在の鹿児島県大島郡瀬戸内町)に到着する。
1,609 4 24 朝、鹿児島藩の軍船3隻が加計呂麻島の秋徳(現在の鹿児島県大島郡瀬戸内町)に上陸する。これに対し以下2名が棍棒を持ち、竹槍や煮えたぎった粥で戦う島民達を率いた。
①東之主の息子で掟役の佐武良兼
②佐武良兼の弟思呉良兼
しかし佐武良兼が射殺され、加計呂麻島側は6名の死者を出し、制圧された。鹿児島藩も死者数名を出し、遅れて島津忠恒一行も秋徳に到着した。
1,609 4 25 島津忠恒一行が亀津(現在の鹿児島県大島郡徳之島町)に到着する。
1,609 4 25 樺山久高を含む10隻の鹿児島藩の軍船が沖永良部島へ向けて加計呂麻島を出港する。残った鹿児島藩兵は徳之島へ向かった。
1,609 4 26 鹿児島藩兵が徳之島へ上陸する。琉球王国の在徳之島平等所にいた琉球守備隊が鹿児島藩兵を砲撃した。しかし、鹿児島藩は応戦し進軍してきた為、山中に逃げ込んだ。鹿児島藩は山狩りを行い、名護良豊の甥で守備隊のトップの番衆主取与那原朝智を捕らえた。
1,609 4 28 午前中、徳之島にいた鹿児島藩兵が沖永良部島へ向けて出発し、夕方に到着する。そこで樺山久高と合流し、夜に沖縄本島へ向けて出発した。
1,609 4 29 夕方、島津忠恒一行が運天港(現在の沖縄県国頭郡今帰仁村)に到着する。
1,609 4 30 尚寧王が鹿児島藩との和睦の使者に隠居していた第18代円覚寺(現在の沖縄県那覇市首里当蔵町)住職菊隠宗意を指名する。菊隠は一度は高齢を理由に断るが、尚寧王の重ねての要請により以下の人間と共に船上で講和交渉に当たった。しかし鹿児島藩はそのまま那覇へ進軍した。
①名護良豊
②喜安
菊隠は円覚寺で得度し、後に日本に渡り京都南禅寺等で修業し、琉球に帰国後島津氏との外交に携わり、以下の人間と親交があった。
①島津義久
②島津義弘
③島津忠恒
1,609 5 1 島津忠恒一行が、第一目標であった今帰仁城(現在の沖縄県国頭郡今帰仁村)を落城させる。今帰仁城は鹿児島藩兵が到着する前に放棄され誰もいなかった。鹿児島藩は所々を放火した。
1,609 5 3 島津忠恒一行が読谷(現在の沖縄県中頭郡)を攻略する。その後陸路と海路に分かれ那覇を目指し出発する。
1,609 5 4 島津忠恒一行が首里城(現在の沖縄県那覇市)を占拠する。
1,609 5 8 尚寧王が鹿児島藩に対し和睦を申し入れ首里城が開城、鹿児島藩によって接収される。尚寧王の弟で第二尚氏王統摂政の具志頭朝盛と補佐役の菊隠宗意も講和交渉に当たった。
1,609 5 19 尚寧王が、歴代の国王を祀った廟である崇元寺(現在の沖縄県那覇市泊)で鹿児島藩の以下2名と面会し、尚寧王自ら薩摩に来る様求められる。
①樺山久高
②平田増宗
1,609 6 16 尚寧王が、以下の人間を含む総勢100名余りの使節団を連れて、薩摩に向けて那覇港を発つ。
①具志頭朝盛
②菊隠宗意
③第22代円覚寺住職恩叔宗沢
④喜安
1,609 6 23 尚寧王一行が薩摩に到着する。島津忠恒を始め、薩摩側の要人と次々に面会した。その間具志頭朝盛が、琉球王国を経由して明へ渡り、琉球が薩摩に攻め入られたが大丈夫であるという報告し、再度薩摩へ戻り尚寧王と合流する。
1,609 6 29 アンドレ・ペソアが長崎に到着。
1,609 8 6 徳川家康が琉球征服の軍功として琉球王国を島津忠恒に与え、仕置を命じる。その後鹿児島藩による琉球王国の領地に対する検地が始まる。
1,609 8 24 徳川家康が、日本船のマカオ寄港を禁じる朱印状を下付する。
1,609 9 20 江戸幕府から貿易を許可されたオランダ東インド会社が、第3代平戸藩主松浦隆信の導きによって平戸オランダ商館を設立する。
1,610 徳川家康がシャムに国書を送る。
1,610 第22代アユタヤ王朝の王サンペット3世が徳川家康の国書に対する返書を送る。
1,610 「円について」の著者ルドルフ・ファン・コーレンが、円周率に関し、正4,611,686,018,427,390,000形を用い35桁の精度を得る。 π=3.14159265358979323846264338327950288
1,610 1 6 有馬晴信が長崎奉行長谷川藤広の支援を得て、兵船30隻と1,200名の兵を動員し、ポルトガル船ダ・グラサ号を攻撃する。
1,610 1 9 ダ・グラサ号が炎上する。アンドレ・ペソアが火薬庫に火を放つ様命じ、ダ・グラサ号を爆破させ自沈した。
1,610 4 11 尚寧王一行が島津忠恒に伴われ、江戸へ向けて出発する。薩摩から大坂までは海路、大坂から京へは川を上り、東海道を陸路で進んだ。
1,610 8 16 尚寧王が島津忠恒の案内で駿府城(現在の静岡県静岡市葵区)に登り、徳川家康と対面する。家康は公家の平服である直衣を着用して、大広間の上座で尚寧王を迎えた。尚寧王からの御進物は以下であった。
①食籠5個
②芭蕉布50反
③唐盤20枚
④石硯屏1個
⑤焼酎3壺
1,610 8 20 徳川家康が尚寧王を駿府城へ招き、能や舞を披露し、尚寧王を持て成す。その後、尚寧王一行は、病床にあった具志頭朝盛を残し、江戸へと出発した。
1,610 8 21 具志頭朝盛が死去する。徳川家康は具志頭の死を哀れみ、自身の馴染みの寺である清見寺(現在の静岡県静岡市清水区興津)に具志頭を葬る事にした。
1,610 8 24 清見寺(現在の静岡県静岡市清水区興津)にて具志頭朝盛の葬儀が行われる。
1,610 8 28 島津忠恒と尚寧王が江戸城に登城し、徳川秀忠に謁見する。徳川は、琉球は代々中山王の国であるから他姓の人を立て国王としてはいけないとし、改易を禁じて琉球国家の存続を命じた。また、島津家には琉球の貢納物を受け取る事を認めた。これ以降琉球王国は、征夷大将軍が代替わりする度に慶賀使を、琉球国王の代替わりの際には謝恩使を江戸に派遣するのが習わしとなった。
1,610 9 12 尚寧王一行が江戸城に登城し、再度徳川秀忠に謁見する。
1,610 9 13 尚寧王一行が具志頭朝盛の訃報を聞く。最大の理解者であった弟の死に尚寧王の嘆きは大きく、供の者も皆、涙を流して悲嘆に暮れた。往路は東海道経由で江戸へ向かったが、帰路は中山道だった為、尚寧王は弟の墓に手を合わせる事が叶わなかった。
1,610 12 24 尚寧王一行が薩摩に戻る。
1,611 4 鹿児島藩による琉球王国の領地に対する検地が終了する。
1,611 10 24 鹿児島藩が琉球王国に対し、以下の仕置を行う。
①琉球王国の領地113,041石の内、琉球王国の国王に以下の島89,086石を宛てがい、内50,000石を蔵入地、残りを家臣団の知行地とする。
❶沖縄本島
❷慶良間諸島
❸伊平屋島
❹伊是名島
❺伊江島
❻渡名喜島
❼粟国島
❽久米島
❾八重山諸島
❿宮古島
残り23,955石の道之島(奄美群島)を鹿児島藩の領地とする。
②毎年琉球王国から鹿児島藩に対し以下を貢納する。
❶芭蕉布3,000反
❷上布6,000反
❸下布10,000反
❹唐苧2,100斤
❺綿3貫目
❻棕櫚綱100房
❼黒綱100房
❽莚3,800枚
❾牛皮200枚
③琉球王国に対し、鹿児島藩が以下の「掟十五条」を発令する。
❶鹿児島藩の命令無しに唐への誂物の禁止。
❷現在官職に就いていない者への知行の禁止。
❸女への知行の禁止。
❹個人で人を奴僕とする事の禁止。
❺諸寺社を多く建立する事の禁止。
❻鹿児島藩の許可の無い商人の禁止。
❼琉球人を買取り日本へ渡る事の禁止。
❽年貢・その他公物は鹿児島藩の定めた通りに取納する。
❾三司官を差し置いて他の者に従く事の禁止。
❿押し売り・押し買いの禁止。
⓫喧嘩・口論の禁止。
⓬町人・百姓等に定め置かれた諸役の他、無理非道を押し付ける者がいたら鹿児島藩に訴える。
⓭琉球から他領へ貿易船を出す事の禁止。
⓮日本の桝以外を用いる事の禁止。
⓯博打や人道に外れた事の禁止。
1,611 10 24 鹿児島藩から以下の人間に対し、史実と異なる「琉球は古来島津氏の附庸国であり、島津の殿様が交代する際にはお祝いに駆けつけ、贈り物を届けていました。ところが豊臣秀吉が定めた鹿児島藩への朝鮮侵略の負担金を送らず、そのため琉球王国は滅ぼされてしまいました。そして、私は捕虜となりましたが、島津忠恒公は哀れに思い、島々を与え帰島を許されました。この恩に感謝し、子孫までこの誓いを伝えて参ります。なお、鹿児島藩が定めた規則は必ず守ります。もし、この誓いに嘘を述べたならば、神々から地獄の責苦の神罰を受けても構いません」という主旨の忠恒宛の起請文を書かせる。
①尚寧王
②第7代琉球王国摂政菊隠宗意
③謝名利山
④第2代巳日番の法司池城安頼
⑤名護良豊
⑥勝連良継
しかし謝名は拠点の久米村(現在の沖縄県那覇市)で署名を拒んだ。これを受け忠恒は所司を遣わせたが抵抗した為、島津義弘の命により川上泰助が謝名の首を打った。これにより読谷山盛韶が第3代丑日番の法司となる。この日は最終的に尚寧王のみが署名した。
1,611 10 25 鹿児島藩から以下の人間に対し、史実と異なる「琉球は古来島津氏の附庸国であり、島津の殿様が交代する際にはお祝いに駆けつけ、贈り物を届けていました。ところが豊臣秀吉が定めた鹿児島藩への朝鮮侵略の負担金を送らず、そのため琉球王国は滅ぼされてしまいました。そして、我々は捕虜となりましたが、島津忠恒公は哀れに思い、過分の知行を与えて下さり大変喜ばしく思います。この恩に感謝し、子々孫々この起請文を写し、鹿児島藩への忠誠を伝えて参ります。もし今後、琉球王国のある輩が鹿児島藩への恩を忘れ、悪逆を企て、国王がその計画に同心しても、この起請文に署名した者は、鹿児島藩の陣営に属し、決して反逆に与しません。なお、鹿児島藩が定めた規則は必ず守ります。もし、この誓いに嘘を述べたならば、神々から地獄の責苦の神罰を受けても構いません」という主旨の島津宛の起請文を書かせる。
①勝連良継
②恵祖重政
③読谷山盛韶
④豊見城盛続
⑤池城安頼
⑥菊隠宗意
1,611 11 23 尚寧王一行が琉球王国に帰国する。その後駿府と江戸に使いを送り、在府中の厚遇に謝意を表した。
1,612 3 30 有馬晴信が佐賀藩藩祖の鍋島直茂の所領となっている旧領3郡を徳川家康に願い出て回復しようしている事を知った老中本田正純の重臣岡本大八が、有馬に接近する。後に有馬は6,000両を大八に渡すが、その後江戸幕府から旧領回復の沙汰がなかった為不審に感じた有馬が本田に詰問した為、幕府は有馬と岡本を対決させる事とした。有馬は数通の証文を提出し、これに対して岡本は全く弁明ができず、朱印状の偽造も認めた為、岡本は下獄される。後に岡本は、獄中から、有馬が長谷川藤広を殺害しようとする計画を有していると訴える。
1,612 4 18 老中大久保長安邸で有馬晴信と岡本大八が尋問され、晴信が害意を認める。
1,612 4 21 江戸幕府は、天領に対し、キリスト教の禁教令を布告し、教会の破壊と布教の禁止を命じた。
1,612 4 21 岡本大八が、朱印状偽造の罪で駿府市中を引き回しの上、安倍川の河原で火あぶりの刑に処される。
1,612 4 22 有馬晴信が甲斐国へ流罪となり、所領4万石も改易の上没収となる。
1,612 6 5 有馬晴信が自害させられる。
1,614 1 28 江戸幕府がキリスト教の禁教令を全国に広げた。
1,616 江戸幕府が明船以外の入港を平戸と長崎に限定する。
1,617 江戸幕府が日本橋葺屋町(現在の東京都中央区日本橋人形町)に遊廓を許可する。
1,619 第4代オランダ東インド会社総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンが、バンテン王国からこの地を租借し、要塞バタヴィア城を築いてオランダ東インド会社のアジアにおける本拠地とする。
1,622 3 22 バージニア植民地ジェームズタウン及びその周辺でインディアンと白人入植者の間で紛争が起こる。
1,624 江戸幕府がスペイン船の来航を禁止する。
1,624 オランダ東インド会社が台湾を占領し、ゼーランディア城を建て、外国船に対し、10%の関税をかけ始める。中国商人はこれを受け入れたが、日本は反発する。
1,625 貿易の為に日本に渡来するポルトガル人に対する取締りが始まる。
1,627 長崎代官末次平蔵の朱印船船長の浜田弥兵衛が、幕府の後援を受け、オランダ総督ピーテル・ノイツを人質にし、オランダに関税撤回を要求する。オランダはこれを飲み、台湾は自由貿易地となった。
1,628 江戸幕府が農民の衣服の素材を布(麻等の織物)、木綿、下級武士を紬、絹に制限する。
1,629 山田長政がアユタヤ王朝配下のリゴール王国国王に就任する。
1,629 12 7 江戸幕府が女歌舞伎、女舞、女浄瑠璃を禁止する。
1,630 ヴェネツィア共和国で黒死病が流行する。
1,630 オランダ東インド会社の商船が、日本・清からお茶を買い付けて周辺諸国に販売し始める。
1,630 7 ヴェネツィア共和国のゲットーに住むセファルディム商人が、3度目のゲットーの再拡大の政府への要請を行った。
1,631 明船に対し糸割符制度の適用が開始される。
1,631 江戸幕府が糸割符制度の対象商人に江戸、大坂を加える。
1,633 3 3 ヴェネツィア共和国がユダヤ商人の拡大を狙い、ゲットーの区域を、運河を隔てた隣接地域にまで拡大する法案が元老院で可決され、成立した。
1,634 江戸幕府が日本人の海外渡航と帰国を禁止する。
1,635 江戸幕府が朱印船貿易を終了し、奉書船が廃絶される。
1,635 オランダ船に対し糸割符制度の適用が開始される。
1,637 12 11 島原の領民が代官の林兵左衛門を殺害する。
1,638 4 12 島原の乱が終結する。
1,639 江戸幕府がポルトガル船の来航を禁止する。
1,640 マカオから通商再開依頼の為ポルトガル船が長崎に来航する。使者全61名が処刑された。
1,641 江戸幕府が平戸オランダ商館の取り壊しを命じ、出島に移転する。
1,641 江戸幕府が糸割符制度の対象商人に平戸を加える。
1,641 オランダ風説書が開始される。
1,641 オランダ船に対し糸割符制度が導入される。
1,642 オランダ東インド会社のヤン・ファン・リーベックが商業リサーチの為、出島に赴任する。
1,643 江戸幕府が農民、庄屋の紫、紅梅色の衣服着用を禁止する。
1,644 唐船風説書が開始される。
1,644 4 25 第17代明皇帝崇禎帝が自害し、明が滅亡する。
1,652 4 6 ヤン・ファン・リーベックが、現在のケープタウンに3隻の船で上陸。バタビア(現在のインドネシアのジャカルタ)への中継基地として、テーブル湾岸に植民地の建設を開始した。
1,652 7 25 江戸幕府が前髷禁止令を発する。
1,652 8 1 江戸幕府が若衆歌舞伎を禁止する。
1,654 新キリスト教徒がポルトガルの植民地のブラジルからニーウアムステルダム(現在のアメリカのニューヨーク州)に到着。
1,655 江戸幕府が糸割符制度を廃止し、相対売買へと移行した。背景として、鄭成功主導で、価格決定が為される春に白糸の流通量を少なくし、価格を釣り上げた事がある。糸割符仲間が購入出来なかった白糸131,600斤を幕府が銀5,500貫目で買い上げた。相対売買となる事で貿易に参加する商人が増え、競争が激しくなり日本の金銀が大量に流出する事となる。
1,662 イギリスに紅茶が齎される。ジョアン4世の弐女キャサリン・オブ・ブラガンザがこれを愛飲し始め、徐々に庶民にも広まっていった。
1,663 武家諸法度が改正され、天下殉死御禁断の旨により、殉死が禁止される。江戸城大広間で大学頭(後の昌平坂学問所長官)の林鵞峰が武家諸法度を読み上げた後、老中酒井忠清によって宣言された。
1,663 江戸幕府が女中衣類直段之定を発し、呉服商に対し衣服への値段制限を以下の通り設けた。
①女院御所、姫君方は小袖白銀500目迄
②御台様は小袖白銀400目迄
③御本丸女中は、小袖白銀300目迄
1,663 水戸藩の数学者村松茂清が著書「算爼」を記し、円周率に関し以下の漸化式から6桁の精度を得る。
π=3.1415926
1,666 菱川師宣が雛形本である「新撰御ひいなかた」を刊行する。
1,666 絵筆屋勘右衛門が、染色技術書である「紺屋茶染口伝書」を刊行する。
1,669 イギリス東インド会社が初めて中国茶を輸入する。厦門から222ポンドであった。
1,671 モーゼス・モカッタがロンドンにて「モカッタ&ゴールドシュミッド社」を設立する。
1,672 江戸幕府が金銀の国外流出を抑える為、長崎の相対売買を廃止し、長崎奉行牛込重忝により貨物市法が制定される。これにより長崎が人口50,000人を超え、繁栄した。しかし風俗の華美や市法商法に関与する新旧商人の内部対立を招き、また金・銀・銅の流出防止も思うほどの成果が上がらなかった。以下が定められた。
①輸入品購入価格の決定権を日本側で一方的に掌握し、これに基づく輸入価格を相手側に示し、先方が不満の場合は持ち帰らせる
②惣割符制を採用し、従来は生糸中心であったものを全ての輸入品に適用する
③貿易商人を藩毎に京都、堺、大坂、江戸、長崎の5か所の裁判の下に置き、それぞれの商人の取引額と過去の実績を勘案して枠付けとして株を設定し、その数を6,600~6,700名に限定する
1,683 江戸幕府が奢侈禁止令を発し、惣鹿の子(鹿の子絞り)、縫箔(刺繍)、金紗(金糸)の3つの着物の染織技法を禁じる。また、小袖の値段を金4両(銀200匁)迄とした。
1,685 江戸幕府が貨物市法の廃止と糸割符制度の再興を発令した。また、定高貿易法を制定し、白糸の貿易量を清船銀高6,000貫目、オランダ商館金高50,000両(小判1両=銀60目替えで銀高3,000貫目)に制限した。背景として、貨物市法では金銀の流出が防げず、間銀が汚職の元となった事が挙げられる。
1,688 江戸幕府が清船の来航を年間70隻に制限する。
1,688 江戸幕府が十善寺郷(現在の長崎県長崎市館内町)に唐人屋敷の建設を開始する。30,000㎡の屋敷に清国人の居住を限定し、密貿易の監視を行なった。
1,689 唐人屋敷が完成する。
1,694 7 27 イギリスの中央銀行のイングランド銀行が、ウィリアム・パターソンの建議により設立される。
1,697 イギリス東インド会社が、厦門に2隻の商船を派遣して中国茶の輸入を開始した。
1,699 イギリスの天文学者・数学者エイブラハム・シャープが円周率に関し、グレゴリー級数にxを代入し、71桁の精度を得る。
x= 1 3
π=3.14159265358979323846264338327950288419716939937510582
097494459230781640
1,700 2 5 イギリス東インド会社によってキャラコ(インド産の平織りの綿布)の輸入が激増した為、伝統的な基幹産業である毛織物工業に打撃を与えた事を背景に、イギリス庶民院で「キャラコ輸入禁止法」が通過する。以下の内容であった。
①インド産、ペルシャ産、清産の絹織物、ベンガル産の縞柄絹織物、インド産等の植物繊維(特に綿花を混入したヘルバ織、染色・捺染キャラコをイングランド、ウェルズ(現在のイギリスのサマセット州)、ツイード川河口へ輸入・販売・使用する事を禁ずる。
②上記の商品を輸入した場合直ちに税関倉庫に搬入し、再輸出する事(国内搬出の禁止)。



第二次上田合戦と徳川秀忠の遅参一元化




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