以下の暦は全て西暦に変換しています。
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フランス革命暦
≈は「頃」を意味しています。
ノーベルより凄い発明家は他にも沢山居る。では何故ノーベル賞が世界的な権威を有する賞となったのか。それはノーベル家がロスチャイルド家と一緒に石油ビジネスをやっていたから。
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年月日 | 出来事 | |||
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1,501 | 3 | 1 | ヴァスコ・ダ・ガマが香辛料をポルトガルに持ち帰る。 | |
1,504 | 11 | 26 | イサベル1世(カスティーリャ女王)が崩御し、フェルナンド2世(アラゴン王)とイサベル1世(カスティーリャ女王)の娘フアナ(カスティーリャ女王)が即位する。フアナ(カスティーリャ女王)の夫であるフェリペ1世(カスティーリャ王)は共同王を主張し、カスティーリャに進出する。 | |
1,505 | アフリカ大陸からイスパニョーラ島への黒人奴隷の連行を開始する(黒人奴隷貿易)。 | |||
1,505 | 1 | 18 |
フェリペ1世(カスティーリャ王)がフランチェスコ・デ・タシス1世と、リール(現在のフランスのノール県)にあるブルゴーニュ会計検査院を通じ毎年12,000ルーブルの委託金を支払う郵便事業契約を結び、フランチェスコ・デ・タシス1世がカスティーリャ王国の郵便網建設と郵便事業を担う事となった。契約内容として、ブリュッセル(現在のベルギー)を起点とし、以下の3都市を結ぶ三叉路の郵便網を構築する事であった。また、フランチェスコ・デ・タシス1世は商用郵便と旅行業も認められており、この郵便網を用いて国費が投じられてはいたがタシス家の経営により商用利用されていた。 ①インスブルック(現在のオーストリアのチロル州) ②パリ ③トレド(スペイン宮廷) |
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1,506 | ボローニャでモンテ・ディ・ピエタが再開する。 | |||
1,509 | 5 | 14 | ヴェネツィア共和国とフランス王国の戦闘がアニャデッロ(現在のイタリアのロンバルディア州クレモナ県)で行われ、ヴェネツィア共和国が敗れ、本土側の領土を失う。 | |
1,510 | インド西岸の貿易港ゴアをアフォンソ・デ・アルブケルケが海軍を率いて占領する。 | |||
≈ | 1,510 | カイロで世界初のコーヒー店が誕生。 | ||
1,511 | ヴェネツィア共和国の本土領が回復する。 | |||
1,513 | ヴェネツィア共和国はユダヤ金融業者と新たな契約を結び、多額の契約料と引き換えにヴェネツィア市内で金融業や質店を営業する事を承認した。 | |||
1,515 | 第5ラテラン公会議(通算18回目の公会議)でモンテ・ディ・ピエタの利子が正当であると認められた。また、印刷を統制する為の指針が打ち出された。 | |||
1,515 | 第217代ローマ教皇レオ10世により、贖宥状(免罪符)が販売される。 | |||
1,515 | 9 | 14 | 第9代フランス王国ヴァロア朝王フランソワ1世とその主軍が、マリニャーノ(現在のイタリアのロンバルディア州ミラノ県)でスイス傭兵と激突した。序盤はスイス側が優勢だったものの、フランス騎兵隊・砲兵隊の活躍や傭兵隊長ダルヴィアーノ率いるヴェネツィアからの援軍もあり、フランス側の大勝に終わる。 | |
1,516 | 3 | 29 | ヴェネツィア共和国でユダヤ人をサン・ジローラモ小行政区の小島に移送する決定が元老院によって行われ、最初のゲットー(ユダヤ人隔離居住区)がカンナレージョ(現在のイタリアのベネト州)で作られる。四方が運河に囲まれており、高い塀がめぐらされ、外向きの窓はすべて煉瓦で塞がれていた。設立当初の人口は700名程であった。出入りする2つの門は早朝の鐘と共に開き、0時に閉じる事を決めた。 | |
1,517 | 10 | 31 | ドイツの神学者マルティン・ルターが「95箇条の論題」を発表して、贖宥状を販売したレオ10世を批判する。これに賛同する人たちがルター派(プロテスタント)を結成し、これまでどおりローマ教皇を奉じるカトリックに対し対決姿勢を強める。 | |
1,519 | 8 | 19 | 初代スペイン帝国ハプスブルク朝の王カルロス1世の命により、フェルディナンド・マゼランがスペイン帝国艦隊を率いて、セビリア(現在のスペインのアンダルシア州セビリア県)を出発する。 | |
1,522 | 第218代ローマ教皇ハドリアヌス6世がユダヤ人4名に対し、15年に渡って金融業を営む許可を与えた。 | |||
1,527 | フィレンツェでユダヤ人金融の営業が禁止され、アシュケナジム(ヨーロッパ中部、東部に定住したユダヤ人)に対する締め付けが厳しくなる。 | |||
1,529 | オスマン帝国がウィーンを包囲する。 | |||
1,531 | ベルギーで世界初の証券取引所であるアントワープ証券取引所が設立される。 | |||
1,533 | スペインの征服者フランシスコ・ピサロによってインカ帝国が滅ぼされる。 | |||
1,534 | ポルトガルでユダヤ人に対する異端審問制度が導入される。 | |||
1,534 | 第220代ローマ教皇パウルス3世がユダヤ人を含む全ての外国人商人に安全通行権を与える。 | |||
1,534 | 8 | 15 |
以下のパリ大学の学生7名が現在のフランスのセーヌ・サン・ドニ県にあるカトリックであるサン・ドニ大聖堂にて「ミサにあずかって生涯を神に捧げ、清貧・貞潔を貫き、エルサレムへの巡礼と同地での奉仕、それが不可能なら教皇の望む所へ何処でも行く」という「モンマルトルの誓い」を立て、イグナチオ・デ・ロヨラを初代総長とし「イエズス会」を設立する。 ①イグナチオ・デ・ロヨラ ②ピエール・ファーヴル ③フランシスコ・ザビエル ④シモン・ロドリゲス ⑤ディエゴ・ライネス ⑥アルフォンソ・サルメロン ⑦ニコラス・ポバディリャ |
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1,536 | ポルトガルでユダヤ人に対する異端審問が始まる。 | |||
1,537 | スレイマン1世が、エルサレムにダマスカス門を建設させる。 | |||
1,538 | 第10代オスマン帝国スルタンのスレイマン1世が、エルサレム市街地を壁で囲わせる。 | |||
1,538 | フェラーラ公エルコレ2世・デステが、キリスト教徒かユダヤ教徒かを問わず、イベリア半島出身の商人に領内での居住と商業活動を許可する。 | |||
1,540 | 9 | 27 | パウルス3世がイエズス会を認可する。 | |
1,541 | スレイマン1世が、エルサレムの黄金門を封鎖する。 | |||
1,541 | 7 | ヴェネツィア共和国が従来のゲットーと橋で結ばれていた区域にまでゲットーを拡大した。 | ||
1,543 | 9 | 23 | 第14代種子島氏島主の種子島時堯が、種子島(現在の鹿児島県)に漂着した中国船に乗っていたポルトガル人2名から、大金を支払い鉄砲2丁を購入する。 | |
1,548 | リヴォルノ(現在のイタリアのトスカーナ州)でユダヤ人含む全ての外国人商人に事実上の免税特権が与えられる。 | |||
1,549 | 8 | 15 | フランシスコ・ザビエルがマレーシアのマラッカで出会った鹿児島人ヤジローと共に鹿児島の祇園之洲に上陸。 | |
1,549 | 9 | 29 | フランシスコ・ザビエルが一宇治城で守護大名の島津貴久に謁見し、献上品として、数々の貴重な品を贈り、赤ワインを飲んでもらった。そしてキリスト教布教の許可を得る。 | |
1,551 | フィレンツェ公コジモ1世の特許状により、ユダヤ人を含む外国人商人に対してフィレンツェおよびトスカーナ領内での自由な居住と商業活動が許可され、セファルディム商人への特権的な待遇が認められた。 | |||
1,551 | 3 | フランシスコ・ザビエル一行が長崎の平戸へと引き返した。 | ||
1,551 | 11 | 20 | フランシスコ・ザビエルがインドへ向けて出航する。 | |
1,553 | ロンドンの毛織物商等によって設立されたイギリス初の合資会社であるロシア会社が世界初の株式を発行する。 | |||
1,554 | ボローニャでユダヤ人金融業者が利子の利子を徴収する事に対する告発に関する裁判が開かれる。 | |||
1,555 | フランス政府が近代国家初の長期国債を発行する。 | |||
1,555 | 5 | 23 | パウルス4世が第223代ローマ教皇に就任する。 | |
≈ | 1,555 | 7 | 14 | パウルス4世が、ユダヤ教にはキリスト教を脅かす影響力があると考え、勅書を発し、ヴェネツィアを真似てゲットーを作り、ローマのユダヤ人の隔離を命じた。ローマのユダヤ人は全員テヴェレ川の左岸に追いやられ、その区域は塀で囲まれた。 |
1,556 | アンコーナ(現在のイタリアのマルケ州)で隠れユダヤ教徒が摘発され、24名が火刑に処される。 | |||
≈ | 1,557 | ポルトガル人がマカオに貿易基地を設ける。 | ||
1,560 | 6 | 12 | 尾張国知多郡桶狭間(現在の愛知県名古屋市緑区、豊明市)で第11代今川氏当主の今川義元の軍(兵25,000名)が織田信長の軍(兵4,000名)に敗れる。雨が上がった所で信長が攻撃。撃破された今川前軍の混乱が後方の義元の本陣に波及、全軍総崩れになり、織田家家臣毛利良勝が義元の首を取った。 | |
≈ | 1,566 | ボローニャ(現在のイタリアのエミリア・ロマーニャ州)のゲットーが閉鎖される。 | ||
1,568 | スペイン領ネーデルラントのスペイン王フェリペ2世の新教徒弾圧、重税政策などに反抗して反乱を起こす。 | |||
1,569 | 2 | 26 | 第225代ローマ教皇ピウス5世が勅書を発し、3ヶ月以内にローマ(現在のイタリアのラツィオ州)、アンコーナを除く教皇領からユダヤ人を追放する事を決定する。 | |
1,570 | フィレンツェ(現在のイタリアのトスカーナ州)にゲットーが設置される。 | |||
1,571 | シエーナ(現在のイタリアのトスカーナ州)にゲットーが設置される。 | |||
1,572 | サヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルトがニース(現在のフランスのアルプ・マリティーム県)の自由港化を狙って特許状を発布し、ユダヤ商人の誘致を図ったが、教皇やスペインの圧力により失敗に終わった。 | |||
1,572 | 10 | 3 | 第19代武田家当主武田信玄が上洛を目指し甲府を出発。 | |
1,573 | オスマン帝国のムスリム商人が、ユダヤ商人と同様に独自の居留地を求める請願を行った。 | |||
1,573 | 1 | 25 | 武田信玄率いる30,000名の兵が第9代安祥松平家当主徳川家康の居る浜松城に迫るが攻撃せず、西へ向きを変え家康を城外の三方ヶ原台地に誘った。これは時間のかかる城攻めを不利とする信玄の作戦であったが、家康は同日夕刻、織田信長からの3,000名の援軍と自軍8,000名の兵と共に城を出て三方ヶ原に布陣する武田軍に挑んだ。しかし兵力、作戦ともに勝る武田軍は徳川軍を圧倒、家康は浜松城に逃げ戻った。家康の家臣の鳥居忠広、成瀬正義、本多忠真、田中義綱等が戦死し、織田信長の家臣平手汎秀も戦死した。 | |
1,573 | 5 | 8 | 第106代天皇正親町天皇から第15代室町幕府征夷大将軍足利義昭と織田信長の和睦の勅命が出される。 | |
1,573 | 5 | 13 | 武田信玄が甲府に戻る途中信州駒場(現在の長野県下伊那郡阿智村大字駒場)で死去する。 | |
1,573 | 7 | 31 | 足利義昭が勅命を破り、織田信長に対し挙兵するが、義昭が敗れて京都から追放される。これにより室町幕府が実質的に滅亡した。 | |
1,575 | 6 | 29 | 三河国長篠城(現在の愛知県新城市長篠)3万8千人の織田信長・徳川家康連合軍と、15,000名の武田勝頼の軍勢が戦い連合軍が勝利する。 | |
1,578 | 8 | 4 | アルカセル・キビール(現在のモロッコ)にてポルトガル王国アヴィス朝の王セバスティアン1世が戦死する。 | |
1,579 | 1 | 23 | ネーデルラント17州のうち北部7州が、ユトレヒト(現在のオランダ)にて、対スペインの軍事同盟を結ぶ協定に調印する。また、各州に自治権がある事に合意し、また信仰の自由を原則とした。 | |
1,580 | 1 | 31 | ポルトガル王国アヴィス朝の王エンリケ1世が後継者を定める前に死去。 | |
1,580 | 4 | スペインのフェリペ2世が軍隊を派遣、威圧しポルトガル王位を継承し、同君連合となり、事実上の併合となった。 | ||
1,580 | 7 | 24 | アントニオ・デ・ポルトゥガルがエンリケ1世の後継者として即位を宣言する。セバスティアン1世が戦死した際も宣言していた。 | |
1,582 | 6 | 21 | 本能寺(現在の京都府京都市中京区下本能寺前町)に滞在中の織田信長を家臣の明智光秀が襲撃し、信長が寺に火を放ち自害する。 | |
1,585 | 1 | 第227代ローマ教皇グレゴリウス13世が「日本の布教はイエズス会に限る」という主旨の勅書を発する。 | ||
1,585 | 8 | 6 | 豊臣秀吉が第17代近衛家当主近衛前久の猶子として関白宣下を受け、第89代関白に就任する。関白職を巡って争っていた二条昭実・近衛信輔、及び菊亭晴季に従一位が授けられ、近衛家が1000石、他の摂家が500石加増される。 | |
1,586 | 10 | 22 | 第227代ローマ教皇シクストゥス5世が、勅書を発し、ローマ、アンコーナを除く教皇領にユダヤ人が再び入る事を許される。 | |
1,587 | 2 | 8 | スコットランド王メアリー1世がフォザリンゲイ城のグレートホールで処刑される。 | |
1,587 | 7 | 24 | 箱崎において豊臣秀吉が、バテレン追放令を発令し、キリスト教宣教と南蛮貿易を禁止した。 | |
1,589 | 12 | 17 | 豊臣秀吉が北条氏政の上洛が無い場合、北条氏征伐の為に関東に出馬する事を佐野房綱に伝える。 | |
1,590 | 5 | 6 | 小田原城が包囲される。 | |
1,590 | 7 | 25 | 豊臣秀吉が和議の策を進める。一方、韮山城代の北条氏規も北条氏政等に和議を勧めた。 | |
1,590 | 8 | 3 | 北条氏直が降伏する。 | |
1,590 | 8 | 10 | 北条氏政、北条氏照が自害する。 | |
1,590 | 8 | 30 | 徳川家康が江戸に入府する。 | |
1,590 | 9 | 19 | 島津義久が第7代琉球王国第二尚氏王統尚寧王に対して、上洛し、豊臣秀吉の関東平定を祝する言葉と、公式儀礼船である綾舟と管弦楽団を贈る様促す主旨の書簡を送る。しかし琉球使節派遣は遅延し、後の西暦1,609年に島津家の琉球侵攻を正当化する要因となった。 | |
1,591 |
初代鹿児島藩主島津忠恒が、豊臣秀吉の命令と称し琉球王国に以下の負担金を要求する。しかし、琉球王国は要求の半分だけを調達して送り、残りの半分は島津家より借りて納め、その返済はしなかった。 ①朝鮮侵略の軍役 ②兵糧米 ③名護屋城建築 |
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1,591 | 伊勢与一が銭瓶橋(現在の東京都千代田区大手町)に江戸で最初の湯屋を開く。湯船は無く、蒸気浴であった。 | |||
1,591 | 2 | 13 |
豊臣秀吉が、明への遠征の為、常陸以西・四国・九州・日本海の海沿いの諸国大名に以下の号令を発する。 ①10万石に付き大船2艘を準備するように命じ、港町は家100軒につき10名の水主を出す。 ②天領(筑前・摂津・河内・和泉)は10万石に付き大船3隻、中船5隻を造る。建設費は半額を奉行より支出し、残額は竣工の上で交付する。 ③水主は2名扶持とし、残される妻子にも給金を与え、船頭には給米を与える。 ④船等は摂津・播磨・和泉に翌年までに集合する。 |
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1,591 | 10 | 8 |
豊臣秀吉が身分統制令を発し、以下の3ヶ条を定めた。違反者は成敗される。 ①侍・中間・小者等の武家奉公人が百姓・町人になる事を禁ずる。 ②百姓が耕地を放棄して商いや日雇いに従事する事を禁ずる。 ③逃亡した奉公人を他の武家が召抱える事等を禁ずる。 |
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1,592 | 尚寧王が天龍寺(現在の沖縄県浦添市)の僧を遣わせ、日本に白金200両・蕉布等を送った。豊臣秀吉は琉球王国の北山を攻撃して兵を駐屯させようとしたが、この僧は秀吉の命令をあえて断らず、重さ4両3銭/塊の銀を400塊も報奨として与えられた。日本の使節とともに天龍寺の僧は琉球に戻ったが、尚寧王に面会しようとしたが許されず、しかも銀を失ってしまっていた為、自決した。日本の使節は戻って豊臣に報告したが、豊臣は「北山を与えることを承諾しないなら、どうして銀を受けとったのか。毎年利を加えて銀4000両を算出せよ」と言った為、尚寧王はやむを得ず賠償に応じた。 | |||
1,592 | 2 | 10 | 第236代内大臣豊臣秀次が豊臣秀吉から関白職を譲られ、第90代関白に就任する。 | |
1,592 | 5 | 23 | 小西幸長と宗義智が率いる第1陣約18,000名が対馬の大浦港を出て夕方に釜山に上陸し釜山城を包囲、通行許可を要求したが、釜山鎮水軍僉使鄭撥はこれを無視した。 | |
1,592 | 5 | 24 | 6時に宗義智が釜山城攻撃を行い陥落させ、釜山を占領する。 | |
1,592 | 5 | 24 | 小西幸長の軍が多大鎮(現在の韓国釜山広域市沙下区)を火縄銃と堀の水を排水する戦術で占領する。 | |
1,592 | 5 | 25 | 橋頭堡を確保する為、釜山の北方数kmの東莱城という城塞があった。これは山の地形を利用した山城で、北の漢城(現在の韓国ソウル)へ通じる主要道を押さえる位置にあった。 | |
1,592 | 6 | 12 | 漢城が占領される。 | |
1,592 | 6 | 27 |
豊臣秀吉が第90代関白豊臣秀次に対し、以下の計画を明らかにする。 ①第107代天皇後陽成天皇を北京に移し天皇の御料所とし、都廻りの10ヶ国を献上する。その後良仁親王若しくは智仁親王を日本の天皇に即位させる。 ②日本の関白に豊臣秀保若しくは宇喜多秀家を立てる。 ③李氏朝鮮は羽柴秀勝若しくは宇喜多秀家に支配させる。 ④九州に小早川秀秋を置く。 ⑤自身は寧波を拠点とし、天竺(インド)までを支配する。 |
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1,592 | 7 | 23 | 小西幸長と黒田長政が平壌を攻撃し占領する。 | |
1,593 |
アドリアン・ロマヌスが円周率に関し15桁の精度を得る。 |
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1,593 | 2 | 25 | 第231代ローマ教皇クレメンス8世が、勅書を発し、ローマ、アンコーナ、アヴィニョン(現在のフランスのヴォクリューズ県)を除く教皇領からユダヤ人を追放する事を決定する。 | |
1,597 | 首里平良-浦添城間の道が整備される。 | |||
1,598 | 6 | リーフデ号含む5隻の船がオランダのロッテルダムを出発。南米の南を通過して太平洋に渡るルートであったが、嵐やスペイン、ポルトガルの船の襲撃でリーフデ号以外は離散した。 | ||
≈ | 1,598 | 8 |
幼少である豊臣秀頼が成人になるまでの政治運営を五大老と石田三成等の豊臣家吏僚による合議制をとる事を遺命し、 五大老 ①徳川家康 ②毛利輝元 ③上杉景勝 ④前田利家 ⑤宇喜多秀家 五奉行 ①浅野長政(司法) ②前田玄以(宗教) ③石田三成(行政) ④増田長盛(土木) ⑤長束正家(財政) が制度化される。 |
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1,598 | 9 | 18 | 豊臣秀吉が死去。 | |
1,598 | 10 | 20 | 蔚山城が明・李氏朝鮮連合軍から攻撃を受け始める。 | |
1,598 | 10 | 30 | 豊臣秀吉の死去を伝える為に朝鮮へ渡った徳永寿昌と宮城豊盛が釜山浦に到着する。 | |
1,598 | 11 | 17 | 徳川家康が加藤清正に対し「黒田長政と相談の上、釜山浦経由で日本に帰国せよ」という旨の書簡を送る。 | |
1,598 | 12 | 14 | 加藤清正が泗川にいる島津義弘等に対し「撤退命令が出ているので明日西暦1,598年12月15日に蔚山を脱出するつもりである。また、泗川の島津軍や順天で苦戦している小西行長軍の救援に向かう用意がある」という主旨の書簡を送る。 | |
1,598 | 12 | 21 | 加藤清正が釜山浦から壱岐へ向けて出発する。 | |
1,598 | 12 | 23 |
以下の6名が日本へ向けて釜山を出港する。 ①島津義弘 ②小西行長 ③松浦鎮信 ④有馬晴信 ⑤五島純玄 ⑥大村喜前 |
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1,598 | 12 | 25 | 加藤清正が壱岐に寄港する。 | |
1,598 | 12 | 29 | 加藤清正が博多に到着する。 | |
1,599 | 4 | 27 | 前田利家が大坂の自宅で死去。五大老の地位は長男の前田利長が引き継いだ。 | |
1,599 | 4 | 28 |
大坂の自宅にいた加藤清正に以下の6名が加わり、石田三成襲撃を計画する。 ①福島正則 ②黒田長政 ③浅野幸長 ④細川忠興 ⑤蜂須賀家政 ⑥藤堂高虎 |
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1,599 | 5 | 4 | 石田三成が隠居の為、佐和山城(現在の滋賀県彦根市古沢町)に入る。結城秀康が護衛を担当した。 | |
1,599 | 5 | 13 |
以下の五大老連名で前年の蔚山籠城に於ける黒田長政・蜂須賀家政の処分撤回と名誉回復を意図した書状が両氏に送られる。 ①徳川家康 ②毛利輝元 ③上杉景勝 ④前田利長 ⑤宇喜多秀家 |
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1,599 | 10 | 25 | 徳川家康が豊臣秀頼に重陽の節句の挨拶をする為、伏見城から大坂に入り、空いていた石田三成の屋敷に宿泊する。その際増田長盛から、浅野長政、豊臣秀頼・淀殿側近大野治長、土方雄久が大坂城入城中の家康を襲撃し暗殺する計画がある事を告げる。 | |
≈ | 1,600 | 2 | 15 | 藤田信吉が徳川家康に信念の祝詞を申し上げるべく、上杉家を代表して上杉景勝の代理で上洛する。その際、徳川家への奉公を誓った藤田に対して、徳川は銀子や青江直次の刀等を与えた。 |
1,600 | 4 | 19 | オランダ船リーフデ号が豊後国臼杵(現在の大分県)に漂着。出港時は110名程度いたが、到着時の生存者は24名だった。生存者の中でも立つ事が出来たのは6名だけで、重傷者が多かった。 | |
1,600 | 4 | 20 | リーフデ号の乗組員がさらに3名死亡する。翌年中までにさらに7名死亡し、最終的な生存者は14名となる。 | |
1,600 | 4 | 28 | 藤田信吉と栗田国時が上杉家中を辞し、江戸へ向けて出発する。 | |
1,600 | 5 | 6 | 藤田信吉が徳川秀忠と面会し上杉景勝に謀反の意がある事を報告する。 | |
1,600 | 7 | 18 | 後陽成天皇から徳川家康に晒布100反が下賜される。 | |
1,600 | 7 | 25 | 徳川家康が天野康景と佐野綱正を上杉征伐中の大坂城西の丸留守居に任命する。 | |
1,600 | 7 | 25 | 豊臣秀頼が徳川家康に金2万両と米2万石を下賜する。 | |
1,600 | 7 | 26 | 徳川家康直属の家臣3,000名、福島正則・池田輝政・山内一豊の軍勢55,000名が上杉征伐の為大阪城を出発し、伏見城に宿泊する。夜、徳川は鳥居元忠と酒を酌み交わし、徳川が「わしは手勢不足の為、伏見に残す人数は3000ばかり。そなたには苦労をかける」と述べると鳥居は「そうは思いませぬ。天下の無事の為ならば自分と松平近正両人で事足ります。将来殿が天下を取るには一人でも多くの家臣が必要でございます。もし変事があって大坂方の軍が包囲した時は城に火をかけ討死するほかないから、人数を多くこの城に残す事は無駄である為、一人でも多くの家臣を城からお連れ下さい」と答えた。家康はその言葉に喜び、深夜まで酒を酌んで別れた。 | |
1,600 | 7 | 28 | 徳川家康率いる軍勢が伏見城を出発する。 | |
1,600 | 7 | 30 | 石田三成が上杉景勝の重臣直江兼続に書簡にて、徳川家康誅伐の為に挙兵する意思を伝え、戦略について問い合わせる。 | |
1,600 | 8 | 2 | 徳川家康率いる軍勢が浜松に宿営する。 | |
1,600 | 8 | 3 | 徳川家康率いる軍勢が島田に宿営する。 | |
1,600 | 8 | 4 | 徳川家康率いる軍勢が駿府に宿営する。 | |
1,600 | 8 | 5 | 徳川家康率いる軍勢が三島に宿営する。 | |
1,600 | 8 | 6 | 徳川家康率いる軍勢が小田原に宿営する。 | |
1,600 | 8 | 7 | 徳川家康率いる軍勢が藤沢に宿営する。 | |
1,600 | 8 | 8 | 徳川家康率いる軍勢が鶴岡八幡宮に参拝し戦勝を祈願する。 | |
1,600 | 8 | 9 | 宇喜多秀家が豊国神社(現在の京都府京都市東山区茶屋町)にて出陣式を行う。 | |
1,600 | 8 | 10 |
徳川家康が江戸城に入り、諸将に参陣を要請し、後に以下の武将が徳川に続き江戸に入った。 ①福島正則 ②黒田長政 ③細川忠興 ④堀尾忠氏 ⑤浅野幸長 ⑥池田輝政 ⑦中村一忠 |
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1,600 | 8 | 10 | 大谷吉継が徳川家康の上杉征伐軍に加わる為に3,000名の兵を率い敦賀から南下してきた所を、石田三成が垂井(現在の岐阜県不破郡)にて出迎え、その後佐和山城に誘う。大谷は三成と徳川家康を仲直りさせる為に三成の嫡男石田重家を自らの軍に従軍させようとするが、そこで三成は徳川誅伐の意思を伝える。大谷は3度に渡り「無謀であり、三成に勝機無し」と反対するが、最終的には息子の大谷吉治・木下頼継と共に西軍に与する。 | |
1,600 | 8 | 15 | 徳川家康が江戸城に諸将を集め持て成す。また、上杉征伐の軍令を発した。 | |
1,600 | 8 | 20 | 大谷吉継・増田長盛・安国寺恵瓊等が佐和山城にて会談し、毛利輝元を西軍の総大将に迎える事を決定する。 | |
1,600 | 8 | 21 | 榊原康政率いる先鋒隊が江戸から会津へ向けて出陣する。 | |
1,600 | 8 | 23 | 鳥居元忠等が伏見城での籠城を開始する。 | |
1,600 | 8 | 23 | 毛利輝元が大谷吉継・増田長盛・安国寺恵瓊等の求めに応じ、西軍の総大将となり、海路で大坂へと向かう。 | |
1,600 | 8 | 24 | 細川忠興が徳川家康に従い、上杉征伐に出陣する為大阪玉造の屋敷を出発する。忠興は屋敷を離れる際は「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、我が妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣たちに命じるのが常で、この時も同じように命じた。その後忠興の正室細川ガラシャを人質にとる為に石田三成の使者が来たが拒絶した。家老小笠原秀清は再度要求のあった場合は自害すると決定した。 | |
1,600 | 8 | 25 | 前田玄以・増田長盛・長束正家の上坂要請を受けた毛利輝元が大坂城に入る。輝元の養子毛利秀元も大坂城西之丸に入る。 | |
1,600 | 8 | 25 |
前田玄以・増田長盛・長束正家が、大坂城西の丸にいた天野康景と佐野綱正を追放し、前田・増田・長束の連署から成る以下の「徳川家康の罪状13か条」を書き連ねた弾劾状を諸大名に送付し、徳川が豊臣秀吉の遺訓に背いて豊臣秀頼を蔑ろにして挙兵したとし、秀吉の恩を忘れていなければ、秀頼への忠節を尽くす為、味方する様訴えた。佐野は与力・同心を率い伏見城に入る。さらに佐野は大坂城西の丸の明け渡しの条件として徳川側室の雲光院・英勝院・養珠院を逃がし、八幡の知人に預けた。 ①五大老・五奉行と誓紙を取り交わして幾らも経たないのに五奉行の内、石田三成と浅野長政を追い込めた。 ②五大老の前田利家に関し、誓紙を差し出し違背の無い事を誓ったにも拘らず、先ず上杉景勝を討つと言って、利家から人質を取り追い込めた。 ③上杉景勝には何の咎もないのに、誓紙の内容に背いた上に、秀吉の遺命に背き、此の度上杉征伐を企てたのは嘆かわしく、様々に思い止まる様申し述べたのに、許可なく出兵に踏み切った。 ④知行の事は、自分が受ける事は勿論、取次ぎもしてはならないという決まりがあるのに、その誓紙に背き、無い者に対して、知行を与えた。 ⑤秀吉が伏見城の留守居役として置いた者を追い出し、勝手に家康の家臣を入れた。 ⑥五大老・五奉行以外の者との誓紙のやり取りは、誓紙にもある通り禁じられているのに、数多く取り交わしている。 ⑦北政所の御座所である大坂城西の丸に入った。 ⑧大坂城西の丸に御本丸のような天守を築いた。 ⑨国元へ贔屓にしている諸将の妻子を返した。 ⑩縁組みの件に関し、遺命に背いている事を、何度も指摘し、了承した筈なのに、重ねて数多くの縁組みを行っている。 ⑪若い者を扇動し徒党を立てさせた。 ⑫五大老が連署すべき書類に一人で署名している。 ⑬内縁者に有利なように、八幡の検地を免除した。 この様に誓紙の内容に全く従おうとせず、豊臣秀吉の遺命に背いては、何を以て政を行うべきか。この上は一人残らず、決意の上秀頼様一人を主に戴く事、誠に当然の事であろう。 |
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1,600 | 8 | 25 | 前日に続き大阪玉造の細川忠興の屋敷に再度石田三成の使者500名が来る。この日は屋敷を取り囲み実力行使に出た。しかし小笠原秀清が人質要求を拒否し、家臣達が状況を細川ガラシャに伝えた。小笠原、河北一成、ガラシャが敵が力ずくで奪おうとするならば奥方を刺して自害する事で合意した。ガラシャは少し祈った後、屋敷内の侍女・婦人を全員集め「夫が命じている通り自分だけが死にたい」と言い、彼女たちを外へ出した。その後、自殺はキリスト教で禁じられている為、小笠原が奥方と同室するのは失礼であるとして、次室からガラシャを薙刀で介錯し、ガラシャの遺体が残らぬように河北が屋敷に爆薬を仕掛け火を放ち、共に自刃した。また、介錯した田辺六左衛門も火に飛び込んで殉死した。しかし護衛の稲富祐直は包囲部隊に弟子が多数居た為逃げるように懇願され、ガラシャを置き去りにして逃亡した。 | |
1,600 | 8 | 27 |
徳川秀忠率いる前軍である徳川本隊が江戸から会津へ向けて出陣する。この本隊には以下の人間も参加していた。 ①本多忠勝 ②石川康長 ③真田昌幸 ④徳川の兄結城秀康 ⑤結城の弟松平忠吉 |
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1,600 | 8 | 27 | 鳥居元忠が籠城している伏見城が攻囲される。 | |
1,600 | 8 | 29 | 徳川家康が江戸から会津へ向けて出陣する。その後に福島正則が6,000名の兵を率い従軍し、他の諸将も続いた。 | |
1,600 | 8 | 29 |
"徳川家康に就いて上杉征伐の為会津に向かっていた以下の3名が犬伏(現在の栃木県佐野市)に到着する。そこに石田三成からの豊臣方に味方する様促す主旨の密書が届く。直様新町薬師堂にて以下の3名で会談が持たれ、昌幸が石田三成に就く事を告げると、石田方の大谷吉継の娘である竹林院を正室に迎えていた信繁が同意し、徳川方の本多忠勝の娘である小松姫を正室に迎えていた信之が徳川方に就く事となった。 ①真田昌幸 ②昌幸の長男真田信之 ③昌幸の弐男真田信繁 |
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1,600 | 9 | 1 | 鳥居元忠の急使により、徳川家康がこの日到着した小山(現在の栃木県)にて、石田三成等が徳川打倒の兵を挙げた事を知る。 | |
1,600 | 9 | 1 | 真田昌幸・真田信繁が引き返した事を徳川方が知る。 | |
1,600 | 9 | 1 | 第17代伊達氏当主伊達政宗が、上杉景勝が支配下に置く白石城(現在の宮城県白石市益岡町)の攻撃を開始する。伊達家家臣片倉景綱は七ヶ宿・越河・米沢・福島-白石間の道を塞ぎ上杉軍を孤立させる作戦を取った。また、白石城代は甘粕景継であったが、上杉景勝の指示で若松城に詰めていた為、甥の登坂勝乃が代理として守備していた。登坂は降伏しようとしたが西暦1,585年11月29日に主君である二本松義継を伊達政宗に殺害され、さらに父も殺された鹿子田右衛門は降伏に反対した。しかし登坂は鹿子を殺害した。また、景綱の長男片倉重長は亘理城を守備する予定であったが、密かに攻撃に参加していた。 | |
1,600 | 9 | 2 | 徳川家康が小山に諸将を招集し、大坂の状況を説明した上で去就を問う。福島正則が、大坂に残してきた妻子を犠牲にしても、家康に従い石田三成を討つ事を誓うと、黒田長政もそれに続いた。また、山内一豊が居城の掛川城を家康に開放すると進言した。結論として石田征伐の為に西上する事となった。 | |
1,600 | 9 | 3 | 細川幽斎が籠城を指揮している田辺城が、小野木重勝・前田茂勝等が率いる15,000名の軍に攻囲される。 | |
1,600 | 9 | 3 | 前日の小山評定に参加した諸将が徳川家康とその家臣の元を離れ西上を始める。 | |
1,600 | 9 | 7 | 石田三成が真田昌幸に対し、自らの使者を真田が警護を付けて沼田(現在の群馬県)を経由して会津へ送って欲しい旨を伝える書簡を送る。 | |
1,600 | 9 | 11 | 徳川家康が江戸へ向けて小山を出発する。 | |
1,600 | 9 | 12 | 石田三成が真田家に対し「我らに味方すれば、信濃国一国(小諸・深志・川中島・諏方)を与える」という主旨の書簡を送る。 | |
1,600 | 9 | 13 | 石田三成が前日の書簡に加え「甲斐国も与える」という主旨の書簡を真田家に送る。 | |
1,600 | 9 | 30 | 徳川秀忠が徳川家康に向けて、「上田城の真田征伐の為、明日出発する」旨を伝える書簡を送る。 | |
1,600 | 10 | 1 | 宇都宮にいた徳川秀忠の軍が、上田城の真田征伐の為西上を開始する。 | |
1,600 | 10 | 6 | 徳川家康が江戸から徳川秀忠に向けて「こちらは西暦1,600年10月7日に江戸を発ち東海道を進むので、秀忠も上田城攻めは行わず中山道を西へ進み西暦1,600年10月15日美濃赤坂に参れ」という主旨の書簡を送る。 | |
1,600 | 10 | 7 | 徳川秀忠の軍が中山道の碓氷峠を通過し軽井沢に到着する。 | |
1,600 | 10 | 8 | 徳川秀忠が、30,000名以上の兵を率い中山道から分岐する北国街道から小諸城に入る。真田昌幸の兵は3,000名程度であった為、まともに抵抗しないと考え、降伏勧告の使いを送り、真田が応じた。 | |
1,600 | 10 | 9 | 徳川秀忠が真田信之を上田に使いとして送り、父の真田昌幸と上田城明け渡しの交渉を行わせる。昌幸は「清掃の為明日迄待って欲しい」と信之に伝えた。それを聞いた徳川は「さもあらん」と喜んだ。 | |
1,600 | 10 | 10 | 真田昌幸が「ようやく戦いの支度も万端整った故、存分に攻めて来られよ」と徳川秀忠の軍を挑発する。 | |
1,600 | 10 | 11 | 真田信繁が入っていた戸石城を真田信之の軍がほぼ無傷で確保する。信繁は信之が攻めて来た事を知ると城を放棄した。 | |
1,600 | 10 | 12 | 徳川秀忠の軍が上田城を一望出来る染屋城に本陣を置き、上田城攻めを開始する。先ず牧野康成・康成の長男牧野忠成が刈田を行い、真田勢を挑発した。対する真田昌幸は鉄砲隊を出撃させるが、徳川勢の反撃によって一旦退却した。しかし徳川軍が城際まで迫ったタイミングで、城から弓等で反撃を行ない撃退した。その後昌幸と真田信繁が徳川軍の目前に偵察に現れて挑発し、それに乗った徳川勢は昌幸を討とうと先陣が神川を渡り、真田勢と激突した。大久保忠隣・酒井家次・本多正信等の軍が援軍に出たが、昌幸は上流で塞き止めていた神川の水を開放し、城に配置していた兵も動かして反撃に出た為徳川勢は混乱した。しかも戸石城近くの虚空蔵山に配置していた兵に徳川の本陣を急襲させた為、徳川勢は混乱の中で小諸城まで撤退を余儀なくされ、多くが増水した神川で溺死した。 | |
1,600 | 10 | 15 | 徳川秀忠が小諸城にて本多正信から「上田城を攻め始めて4日が経過している。簡単には落ちないかも知れない。信濃の諸将を城の押さえとして残し、我々は先を急ぐべきである」という主旨の進言を行う。そこに徳川家康の使いがやって来て西暦1,600年10月6日に徳川家康が送った書簡を手渡した。大雨の影響で10日程度遅れての到着であった。秀忠はそれを読み、仙石秀久は自身を残して家康の元へ向かう様勧めた。直様森忠政・仙石に真田に対する押さえを指示し、軍を率い美濃赤坂へ向けて出発した。 | |
1,600 | 10 | 19 | 徳川秀忠の軍が真田勢の追撃を警戒し、本道から外れた古道を使い下諏訪宿に到着する。 | |
1,600 | 10 | 19 | 徳川家康の軍が岐阜城に着陣する。 | |
1,600 | 10 | 21 | 美濃国不破郡関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)で野戦が発生する。 | |
1,600 | 10 | 23 | 徳川秀忠が妻籠宿にて「西暦1,600年10月21日に決戦が行われ東軍が勝利した」という主旨の書簡を受け取る。 | |
1,600 | 10 | 24 | 島津氏第17代当主島津義弘、その第一家老川上四郎兵衛等13名が平等寺(現在の奈良県桜井市三輪)に落ち延びる。 | |
1,600 | 10 | 24 | 真田信繁が、徳川秀忠から上田城監視を命じられていた井戸宇右衛門が城代を務める葛尾城を夜襲する。 | |
1,600 | 10 | 26 | 徳川家康と徳川秀忠が大津城にて合流する。しかし家康は「気分が優れない」として面会しなかった。その後仙石秀久が取り成した。 | |
1,600 | 10 | 27 | 徳川家康と徳川秀忠が面会する。秀忠が遅参について謝ると、家康は「参陣の期限を伝えた使いの者が言い間違いをしたのではないか。お前が心配する必要はない。大きな戦いは囲碁と同じ様なものであり、関ヶ原で勝てば真田の様な小者が幾ら城を固めても結局は明け渡し降参する他ない。この様な意見を言った者はいないか?」と問い、秀忠が「戸田一西がそう言いました」と答えると、家康は戸田を御前に呼んで褒めた。 | |
1,600 | 10 | 29 | 真田信繁が、徳川秀忠から上田城監視を命じられていた井戸宇右衛門が城代を務める葛尾城を朝駆けする。森忠政と不仲であった井戸は、門を開いて真田軍を城内に入れ、二の丸まで迫られた。 | |
1,600 | 12 | 31 | イングランド王国テューダー朝第5代王エリザベス1世の特許状を受け、イギリス東インド会社が設立される。 |
スターリンはバクー油田労働者を扇動し、ストライキを起こした。
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