以下の暦は全て西暦に変換しています。
日本の旧暦
中国の旧暦
ユダヤ暦
ヒジュラ暦
ソビエト連邦暦
フランス革命暦
≈は「頃」を意味しています。
クリストファー・コロンブスは偉人では無い。
|
年月日 | 出来事 | |||
---|---|---|---|---|
≈ | 1,401 | 1 | 武寧が中山王国に帰還する。 | |
1,402 | 汪英紫が死去する。これにより、汪応祖が第3代南山王国国王に即位した。 | |||
≈ | 1,402 | 12 | 察度の使者三五郎亹が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
1,403 | 承察度が死去する。 | |||
≈ | 1,403 | 1 | 察度の使者王茂が、進貢の為、明へ向けて出港する。此の際汪応祖の使者宇座按司も同乗した。 | |
≈ | 1,403 | 1 | 攀安知の使者善佳古耶が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
1,403 | 3 | 15 | 三五郎亹が明に対し、中山王国として33度目の進貢を行う。 | |
1,403 | 3 | 31 | 善佳古耶が明に対し、北山王国として12度目の進貢を行う。其の際、善佳古耶は冠服を請い、下賜された。 | |
1,403 | 4 | 5 |
以下2名が明に進貢を行う。 ①王茂(中山王国として34度目) ②使者・官生と呉宜堪弥結致(南山王国として14度目) 官生の貢物は、馬21頭と方物、呉宜堪弥結致の貢物は馬52頭・硫黄4,200kg・蘇木780kgであった。また、王は冠服を賜った。 |
|
≈ | 1,403 | 6 | 武寧が李氏朝鮮へ向けて出港する。途上、武蔵国六浦(現在の神奈川県横浜市金沢区)に漂着した。 | |
≈ | 1,403 | 6 | 三五郎亹が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,403 | 7 |
以下の人間が帰還する。 ①王茂 ②宇座按司 ③使者・官生 ④呉宜堪弥結致 |
|
≈ | 1,403 | 7 | 善佳古耶が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,404 | 1 | 武寧が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,404 | 1 | 武寧の使者三五郎亹が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,404 | 2 | 攀安知の使者亜都結致が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,404 | 3 | 汪応祖の使者隗谷結致が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
1,404 | 4 | 1 | 三五郎亹が明に対し、中山王国として35度目の進貢を行う。此の際三五郎亹は、海船を賜った。 | |
1,404 | 4 | 25 | 亜都結致が明に対し、北山王国として13度目の進貢を行う。 | |
1,404 | 5 | 21 | 隗谷結致が明に対し、南山王国として15度目の進貢を行う。此の際隗谷結致は、海船を賜った。 | |
1,404 | 5 | 24 | 武寧の使者が明に対し、中山王国として36度目の進貢を行う。 | |
≈ | 1,404 | 6 | 三五郎亹が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,404 | 7 | 亜都結致が北山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,404 | 9 | 武寧の使者が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,404 | 9 | 武寧の使者が、進貢の為、明へ向けて出港する。此の際汪応祖の使者も同乗した。 | |
≈ | 1,404 | 9 | 隗谷結致が南山王国に帰還する。 | |
1,404 | 11 | 29 |
以下2名が明に進貢を行う。 ①武寧の使者(中山王国として37度目) ②汪応祖の使者(南山王国として16度目) |
|
1,405 | 明王朝が、琉球からの使節に対応する為、泉州に市舶提挙司付属の「来遠駅」を設立する。 | |||
≈ | 1,405 | 2 |
以下2名が帰還する。 ①武寧の使者 ②汪応祖の使者 |
|
≈ | 1,405 | 2 | 武寧の使者三五郎亹が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,405 | 3 | 武寧の使者養埠結致が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,405 | 3 | 攀安知の使者赤佳結致が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,405 | 3 | 汪応祖の使者タキが、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
1,405 | 4 | 8 | 三五郎亹が明に対し、中山王国として38度目の進貢を行う。 | |
1,405 | 4 | 29 | 赤佳結致が明に対し、北山王国として14度目の進貢を行う。 | |
1,405 | 5 | 10 | 養埠結致が明に対し、南山王国として17度目の進貢を行う。 | |
1,405 | 5 | 16 | タキが明に対し、南山王国として18度目の進貢を行う。又、李傑が国子監に留学した。 | |
≈ | 1,405 | 7 | 三五郎亹が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,405 | 8 | 養埠結致が南山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,405 | 8 | 赤佳結致が北山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,405 | 8 | タキが南山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,405 | 9 | 武寧の使者新川大親がシャムへ向けて出港する。那覇にやって来たシャム船に従って向かった。 | |
≈ | 1,405 | 11 | 武寧の使者新垣大親が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,405 | 11 | 攀安知の使者亜都結致が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,405 | 11 | 汪応祖の使者タキが、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
1,406 | 1 | 16 | 新垣大親が明に対し、中山王国として39度目の進貢を行う。 | |
1,406 | 1 | 16 | 亜都結致が明に対し、北山王国として15度目の進貢を行う。 | |
1,406 | 1 | 16 | タキが明に対し、南山王国として19度目の進貢を行う。 | |
≈ | 1,406 | 2 | 武寧の使者三五郎亹が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,406 | 3 | 21 |
以下2名が明に進貢を行う。 ①三五郎亹(中山王国として40度目) ②汪応祖の使者(南山王国として20度目) |
≈ | 1,406 | 6 | 新垣大親が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,406 | 6 | 亜都結致が北山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,406 | 6 | タキが南山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,406 | 7 | 新川大親が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,406 | 8 |
以下2名が帰還する。 ①三五郎亹 ②汪応祖の使者 |
|
≈ | 1,407 | 2 | 武寧の使者タキが、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,407 | 2 | 思紹の使者三五郎亹が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
1,407 | 4 | 8 | タキが明に対し、南山王国として21度目の進貢を行う。 | |
1,407 | 5 | 18 | 三五郎亹が、中山王国として41度目の進貢を行う。此の際三五郎亹は、武寧の訃報を伝え、思紹を武寧の世子として、第3代明皇帝永楽帝に対し冊封を請うた。 | |
≈ | 1,407 | 7 | タキが南山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,407 | 8 | 三五郎亹が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,408 | 2 | 思紹の使者大グスク大親が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,408 | 2 | 汪応祖の使者曵達姑耶が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
1,408 | 4 | 22 | 大グスク大親が明に対し、中山王国として42度目の進貢を行う。 | |
1,408 | 4 | 22 | 曵達姑耶が明に対し、南山王国として22度目の進貢を行う。其の後李傑が、帰国の為、南山王国行きの船に同乗した。 | |
≈ | 1,408 | 7 | 大グスク大親が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,408 | 7 |
以下2名が南山王国に帰還する。 ①曵達姑耶 ②李傑 |
|
≈ | 1,409 | 2 | 思紹の使者三五郎亹が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,409 | 3 | 汪応祖の使者大グスク大親が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
1,409 | 5 | 25 | 三五郎亹が明に対し、中山王国として43度目の進貢を行う。此の際三五郎亹は永楽帝の居る北京まで行き、海船を賜った。 | |
≈ | 1,409 | 6 | 思紹の使者新川大親が李氏朝鮮へ向けて出港する。武寧の側室であった朝鮮人を送還した。 | |
1,409 | 7 | 11 | 大グスク大親が、永楽帝の居る北京へ出向き、明に対し、南山王国として23度目の進貢を行う。又、李傑が再度国子監に留学した。 | |
≈ | 1,409 | 8 | 三五郎亹が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,409 | 10 | 大グスク大親が南山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,410 | 1 | 新川大親が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,410 | 2 | 思紹の使者中グスク大親が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,410 | 4 | 思紹の使者新川大親が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
1,410 | 4 | 9 | 中グスク大親が明に対し、中山王国として44度目の進貢を行う。 | |
≈ | 1,410 | 6 | 思紹の使者慈空禅師が日本へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,410 | 7 | 中グスク大親が中山王国に帰還する。 | |
1,410 | 7 | 31 | 新川大親が明に対し、中山王国として45度目の進貢を行う。此の際新川大親は永楽帝の居る北京まで行った。 | |
≈ | 1,410 | 10 | 新川大親が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,410 | 11 | 思紹の使者三五郎亹が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,411 | 1 | 慈空禅師が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,411 | 1 | 本部大親が中山王国に帰還する。 | |
1,411 | 1 | 18 |
三五郎亹が明に対し、中山王国として46度目の進貢を行う。又、以下2名が国子監に留学した。 ①ファイテ ②ジルーク |
|
≈ | 1,411 | 2 |
以下2名の思紹の使者が、進貢の為、明へ向けて出港する。 ①程復 ②具志頭大親 |
|
≈ | 1,411 | 4 | 三五郎亹が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,411 | 4 | 思紹の使者本部大親が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
1,411 | 4 | 25 |
以下2名が明に対し、中山王国として47度目の進貢を行う。 ①程復 ②具志頭大親 程は其の儘帰国した。又、王茂が中山王国の国相に就任した。 |
|
≈ | 1,411 | 6 | 思紹の使者慈空禅師が日本へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,411 | 6 | 思紹の使者新川大親が李氏朝鮮へ向けて出港する。勝連按司の船で向かった。 | |
≈ | 1,411 | 7 | 具志頭大親が中山王国に帰還する。 | |
1,411 | 7 | 17 | 本部大親が明に対し、中山王国として47度目の進貢を行う。 | |
≈ | 1,411 | 10 | 本部大親が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,411 | 10 | 思紹の使者三五郎亹が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,411 | 12 | 思紹の使者タブチが、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,412 | 1 | 汪応祖の使者大グスク大親が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,412 | 1 | 慈空禅師が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,412 | 1 | 新川大親が中山王国に帰還する。 | |
1,412 | 1 | 7 | 三五郎亹が明に対し、中山王国として48度目の進貢を行う。 | |
≈ | 1,412 | 2 | 三五郎亹が中山王国に帰還する。 | |
1,412 | 2 | 9 | タブチが明に対し、中山王国として49度目の進貢を行う。 | |
≈ | 1,412 | 3 | 思紹の使者具志頭大親が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,412 | 4 | タブチが中山王国に帰還する。 | |
1,412 | 5 | 26 | 具志頭大親が明に対し、中山王国として50度目の進貢を行う。 | |
1,412 | 4 | 1 | 大グスク大親が明に対し、南山王国として24度目の進貢を行う。此の際大グスク大親は、海船を賜った。 | |
≈ | 1,412 | 6 | 大グスク大親が南山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,412 | 6 | 思紹の使者慈空禅師が日本へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,412 | 6 | 思紹の使者本部大親が李氏朝鮮へ向けて出港する。勝連按司の船で向かった。 | |
≈ | 1,412 | 8 | 具志頭大親が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,412 | 11 | 思紹の使者島尻大親が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,412 | 12 | 思紹の使者タブチが、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,413 | 1 | 慈空禅師が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,413 | 1 | 本部大親が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,413 | 2 | 汪応祖の使者呉是佳結制が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
1,413 | 2 | 16 | 島尻大親が明に対し、中山王国として51度目の進貢を行う。 | |
≈ | 1,413 | 3 | 思紹の使者三五郎亹が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
1,413 | 3 | 4 | タブチが明に対し、中山王国として52度目の進貢を行う。又、3名の官生が国子監に留学した。 | |
≈ | 1,413 | 5 | 汪応祖の使者李仲が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,413 | 5 | 島尻大親が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,413 | 5 | タブチが中山王国に帰還する。 | |
1,413 | 5 | 20 | 呉是佳結制が、永楽帝の居る北京へ出向き、明に対し、南山王国として25度目の進貢を行う。此の際呉是佳結制は、永楽銭を賜った。 | |
1,413 | 5 | 20 | 三五郎亹が、永楽帝の居る北京へ出向き、明に対し、中山王国として53度目の進貢を行う。此の際三五郎亹は、永楽銭を賜った。 | |
≈ | 1,413 | 6 | 思紹の使者慈空禅師が日本へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,413 | 6 | 思紹の使者本部大親が李氏朝鮮へ向けて出港する。勝連按司の船で向かった。 | |
≈ | 1,413 | 8 | 呉是佳結制が南山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,413 | 8 | 三五郎亹が中山王国に帰還する。 | |
1,413 | 9 | 12 | 李仲が、永楽帝の居る北京へ出向き、明に対し、南山王国として26度目の進貢を行う。李仲は病を患い、李傑が福州まで送った。 | |
≈ | 1,413 | 10 | 思紹の使者南風原大親が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,413 | 12 | 慈空禅師が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,413 | 12 | 本部大親が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,413 | 12 | 李仲が南山王国に帰還する。 | |
1,414 | 1 | 20 | 南風原大親が、永楽帝の居る北京へ出向き、明に対し、中山王国として54度目の進貢を行う。 | |
≈ | 1,414 | 6 | 思紹の使者慈空禅師が日本へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,414 | 6 | 思紹の使者本部大親が李氏朝鮮へ向けて出港する。勝連按司の船で向かった。 | |
≈ | 1,414 | 6 | 南風原大親が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,414 | 7 | 思紹の使者三五郎亹が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
1,414 | 10 | 18 | 三五郎亹が、永楽帝の居る北京へ出向き、明に対し、中山王国として55度目の進貢を行う。 | |
≈ | 1,415 | 1 | 他魯毎の使者郭是佳結制が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,415 | 1 | 三五郎亹が中山王国に帰還する。 | |
1,415 | 1 | 6 | 第4代室町幕府征夷大将軍足利義持が、中山王国へ向けて書簡を記す。慈空禅師がこれを受け取った。 | |
≈ | 1,415 | 2 | 慈空禅師が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,415 | 2 | 本部大親が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,415 | 2 | 思紹の使者南風原大親が、進貢の為、明へ向けて出港する。此の際攀安知の使者リュウインも同乗した。 | |
1,415 | 4 | 28 | 郭是佳結制が、永楽帝の居る北京へ出向き、明に対し、南山王国として27度目の進貢を行う。此の際、汪応祖が死去した事を報告し、冊封を請うた。 | |
1,415 | 5 | 27 |
以下2名が、永楽帝の居る北京へ出向き、明に進貢を行う。 ①南風原大親(中山王国として56度目) ②リュウイン(北山王国として16度目) リュウインは海船を賜った。 |
|
≈ | 1,415 | 6 | 思紹の使者慈空禅師が日本へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,415 | 6 | 思紹の使者本部大親が李氏朝鮮へ向けて出港する。勝連按司の船で向かった。 | |
≈ | 1,415 | 6 | 尚巴志の使者末吉大親が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,415 | 7 | 郭是佳結制が南山王国に帰還する。 | |
1,415 | 7 | 6 | ヤン・フスが火刑に処せられる。 | |
1,415 | 8 | 21 | 朝、ポルトガル王国アヴィス朝の王ジョアン1世が、マリーン朝のセウタ(現在のモロッコに隣接するスペインの自治都市)への奇襲襲撃の為、息子のエンリケ王子と200隻の船で運ばれた45,000名の部隊を率いて、サン・アマロ海岸に上陸した。セウタの守備隊を油断を突いて攻撃し、日暮れまでに町は占領された。 | |
1,415 | 9 | 28 | 末吉大親が、永楽帝の居る北京へ出向き、明に対し、中山王国として57度目の進貢を行う。 | |
≈ | 1,415 | 10 |
以下2名が帰還する。 ①南風原大親 ②リュウイン |
|
≈ | 1,415 | 11 | 思紹の使者三五郎亹が、進貢の為、明へ向けて出港する。其の際、冊封使の為の船を送って行った。 | |
≈ | 1,416 | 1 | 末吉大親が南山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,416 | 2 | 慈空禅師が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,416 | 2 | 本部大親が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,416 | 2 | 他魯毎の使者郭義才が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,416 | 2 | 思紹の使者韓完義が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
1,416 | 2 | 25 | 三五郎亹が、永楽帝の居る北京へ出向き、明に対し、中山王国として58度目の進貢を行う。此の際三五郎亹は、海船を賜った。 | |
1,416 | 5 | 6 | 郭是佳結制が、明に対し、南山王国として28度目の進貢を行う。此の際郭義才は、冊封に対し謝意を示した。 | |
1,416 | 5 | 6 | 韓完義が、明に対し、中山王国として59度目の進貢を行う。 | |
≈ | 1,416 | 6 | 三五郎亹が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,416 | 10 | 郭義才が南山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,416 | 10 | 韓完義が中山王国に帰還する。 | |
1,443 | ハングル文字が発明される。 | |||
1,452 | ボローニャでユダヤ人判別の印の着用義務が課せられる。 | |||
1,453 | 5 | 29 | 東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)が第7代オスマン帝国スルタンのメフメト2世によって陥落され、東ローマ帝国が滅亡する。 | |
1,460 | 7 | 10 | ゲットー(ユダヤ人隔離居住区)をフランクフルト・アム・マイン(現在のドイツのヘッセン州)に建設される事が決定される。 | |
1,461 | フランシスコ会修道士のバルナバ・ダ・テルニがペルージャでモンテ・ディ・ピエタという公営の質屋を設立した。貧民に対する慈善事業として、比較的低い利子で貸出を行った。 | |||
1,466 | 10 | 15 | 第8代室町幕府征夷大将軍足利義政の独裁を支えていた幕府政所執事伊勢貞親が、将軍職後継者に定められていた義政の弟足利義視を処刑すべきだと義政に進言し、諸大名の猛反発を招いて、京を追われ、近江、次いで伊勢へ逃れた。 | |
1,473 | ボローニャでモンテ・ディ・ピエタが設立される。 | |||
1,473 | ボローニャでモンテ・ディ・ピエタが廃業する。 | |||
1,474 | ボローニャで奢侈条例の一部として、ユダヤ人の衣装に関する規制が設けられる。 | |||
1,478 | 第212代ローマ教皇シクストゥス4世の許可により、カスティーリャ地方(現在のスペイン中心部)以外で、スペインに於いて異端審問所が設置される。 | |||
1,481 | スペインのユダヤ人街が、カテドラル(大聖堂)からサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂(現在のスペインのガリシア州ア・コルーニャ県)の門に移設される。 | |||
≈ | 1,483 | クリストファー・コロンブスが第4代アヴィス王朝の王ジョアン2世に、大西洋を西回りしてアジアへと到達する航海計画を願い出るが、審議した数学者委員会がこれを拒否する。 | ||
1,485 |
クリストファー・コロンブスが長男ディエゴ・コロンを連れて、トラスタマラ朝カスティーリャ女王イサベル1世(カスティーリャ女王)に航海計画の承認を得る為、パロス・デ・ラ・フロンテーラ(現在のスペインのアンダルシア州ウエルバ県)へ到着する。サンタ・マリア・デ・ラ・ラビーダ修道院長の神父フアン・ペレス・デ・マルチェーネと会った。マルチェーネはコロンブスの航海計画に感銘を受けて、セビリア(現在のスペインのアンダルシア州)の神父アントニオ・マルチェーナを紹介した。マルチェーナに会う為にコロンブスはコロンを預けた。さらに以下の人間に会う機会を得、コロンブスの航海計画に興味を持った第5代メディナセリ公爵ルイス・デ・ラ・セルダからコロンブスが求めた数隻の船や食料など3,000〜4,000ドゥカート相当の物資を準備する事に合意した。 ①スペイン貴族のメディナ・シドニア家エンリケ・デ・グスマン ②セルダ |
|||
1,486 | 1 | クリストファー・コロンブスが、フアン・ペレス・デ・マルチェーネの計らいで、イサベル1世(カスティーリャ女王)に初めて謁見を許され、大西洋を西回りしてアジアへと到達する航海計画を伝え、3隻の船を与えて欲しいと請願した。計画は特別審査委員会に諮られたが、容易に結論は出なかった。 | ||
1,486 | 4 | 28 | クリストファー・コロンブスが、ルイス・デ・ラ・セルダの紹介でフェルナンド2世(アラゴン王)及びイサベル1世(カスティーリャ女王)に謁見し、航海計画を話す。イサベル1世(カスティーリャ女王)は興味を示したが、フェルナンド2世(アラゴン王)は全く関心が無かった。懺悔聴聞師で神父のエルナンド・デ・タラベラを中心とする、地理や財政の専門家から成る諮問委員会で審議される事となった。 | |
≈ | 1,486 | 10 | クリストファー・コロンブスの航海計画がエルナンド・デ・タラベラを中心とする諮問委員会で審議される。 | |
1,486 | 10 | 10 | ジョアン2世がアジアに至る交易路確立の為のアフリカ周回航海の遠征隊長に、バルトロメウ・ディアスを任命する。 | |
≈ | 1,487 | 4 | クリストファー・コロンブスの航海計画がエルナンド・デ・タラベラを中心とする諮問委員会で審議される。否定的な意見が多数を占めたが、航海を実現させたかったタラベラやカトリック修道会であるドミニコ会ディエゴ・デ・デサは結論を引き延ばしていた。 | |
1,488 | ポルトガル人のコヴィリャンがインドのカノナール港に到着する。 | |||
1,488 |
クリストファー・コロンブスの弟バルトロメ・デ・ラス・カサスがカスティーリャ王国の援助を受ける事が難しいと考え、以下の2名にコロンブスの航海の援助を依頼する為にフランスへと出発する。 ①初代テューダー朝の王ヘンリー7世 ②第7代ヴァロワ朝の王シャルル8世 結果、何れも援助の取り付けには至らなかったもののシャルル8世の姉アンヌ・ド・ボージューの歓待を得て、バルトロメはフォンテーヌブロー(現在のフランスのセーヌ・エ・マルヌ県)の宮殿に数年間滞在した。 |
|||
1,488 | 5 | ポルトガルのバルトロメウ・ディアスが喜望峰(南アフリカ西ケープ州ケープタウン)に到達する。 | ||
1,489 | フランチェスコ・デ・タシス1世がマクシミリアン1世(神聖ローマ皇帝)の郵便物の無料配達を請け負う。 | |||
1,489 | 5 | 12 | カスティーリャ王国が、クリストファー・コロンブスが王室に謁見する際、宿泊費を王国側で負担する通達を出す。 | |
1,490 | クリストファー・コロンブスの航海計画がエルナンド・デ・タラベラを中心とする諮問委員会で否決される。その後さらにコロンブスは審議を願い出たが、1ヶ月も経たぬ内に否決される。 | |||
1,490 | ヴェネツィアで飛脚問屋を営んでいたフランチェスコ・デ・タシス1世がマクシミリアン1世(神聖ローマ皇帝)から命じられ郵便契約を結び、郵便制度を設立し郵便馬車を走らせる。 | |||
1,490 | フランチェスコ・デ・タシス1世とフランチェスコの兄ヤネット・デ・タシス、フランチェスコの甥ジョヴァンニ・バッティスタがマクシミリアン1世(神聖ローマ皇帝)から郵便主任を命じられる。さらにマクシミリアン1世(神聖ローマ皇帝)の長男であるフェリペ1世(カスティーリャ王)が、フランチェスコに対しブルゴーニュ(現在のフランスのマルヌ県)とネーデルラント(現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルク)物資輸送の機構改革を命じた。 | |||
1,491 | 8 | クリストファー・コロンブスがサンタ・マリア・デ・ラ・ラビーダ修道院を訪れ、フアン・ペレス・デ・マルチェーネから、預けていたディエゴ・コロンを引き取り「シャルル8世の援助を取り付けに行く」とマルチェーネに告げる。マルチェーネは考え直す様説得し、イサベル1世(カスティーリャ女王)に再度請願する様勧めた。又マルチェーネはイサベル1世(カスティーリャ女王)の側近セバスチャン・ロドリゲス経由で、王室に再検討を促した。イサベル1世(カスティーリャ女王)はマルチェーネに対し、コロンブスを慰留する事を求めた。更に2週間後、コロンブスの元に王室から「旅金を添えて出頭する様勧告する」主旨の書簡が届いた。航海計画の検討はカスティーリャ枢機院に移管された。 | ||
1,492 | 1 | 2 | イベリア半島最後のムスリムの拠点グラナダが、フェルナンド2世(アラゴン王)とイサベル1世(カスティーリャ女王)により陥落される。 | |
≈ | 1,492 | 2 | クリストファー・コロンブスがエルナンド・デ・タラベラを中心とする諮問委員会に対し航海計画の再審議を願い出る。しかし1ヶ月も経たぬ内に否決され、その事実をフェルナンド2世(アラゴン王)とイサベル1世(カスティーリャ女王)により知らされ、アラゴン王国へ向けてグラナダを出発した。 | |
≈ | 1,492 | 2 | アラゴン王国の財務大臣ルイス・ド・サンタンヘルがイサベル1世(カスティーリャ女王)と面会し、サンタンヘルは「この航海計画の援助費用は、この航海で得られるであろうものに比べると少なく、費用は自分が都合する」と言った。その後イサベル1世(カスティーリャ女王)は考えを変え、フェルナンド2世(アラゴン王)の同意を得て、コロンブスの提案を実施する事を決定した。イサベル1世(カスティーリャ女王)は急使を送り、1,000,000マラベティを援助するので、コロンブスを呼び戻す様命じた。 | |
1,492 | 3 | フェルナンド2世(アラゴン王)とイサベル1世(カスティーリャ女王)がユダヤ人追放令を出す。少なくとも100,000名のユダヤ人がポルトガルに逃れた。しかし、ポルトガル王ジョアン2世は、僅かな例外を除き、8ヶ月の滞在しか許さず、それを超えて滞在する者は奴隷の身分に落とした。また、フランドル(旧フランドル伯領を中心とする、オランダ南部、ベルギー西部、フランス北部)や地中海沿岸にも散っていった。オスマン帝国はセファルディム(スペイン、ポルトガルに定住していた離散したユダヤ人)の商人たちを歓迎し、積極的に受容した結果、首都イスタンブルやガリラヤ湖畔のサフェドなどにセファルディムの大規模な共同体が形成され、在地のユダヤ人集団を凌駕するようになる。しかも、こうした商人たちは「スルタンの臣民」としてイタリア諸都市にも到来し、地中海商業に大きな役割を果たすようになった。 | ||
1,492 | 4 | 17 |
クリストファー・コロンブスが、フェルナンド2世(アラゴン王)及びイサベル1世(カスティーリャ女王)とサンタ・フェ(現在のスペインのアンダルシア州グラナダ県)にて以下の協約を結び、コロンブスの航海計画が承認され、イサベル1世(カスティーリャ女王)がバックアップする事となった。 ①コロンブスは発見された土地の終身提督となり、この地位は相続される。 ②コロンブスは発見された土地の副王及び総督の任に就く。 ③各地の統治者は3名の候補をコロンブスが推挙し、この中から選ばれる。 ④提督領から得られた全ての純利益のうち10%はコロンブスの取り分とする。 ⑤提督領から得られた物品の交易において生じた紛争は、コロンブスが裁判権を持つ。 ⑥コロンブスが今後行う航海に於いて費用の1/8をコロンブスが負担する場合、利益の1/8をコロンブスの取り分とする。 そしてルイス・デ・サンタンヘルが中心となってイサベル1世(カスティーリャ女王)が戴冠用宝玉を担保に供出することを防ぎつつ資金調達された結果、以下の内訳で航海の為の資金が集まった。 ①サンタンヘル:1,140,000マラベディ ②警察組織サンタ・エルマンダーの経理担当:フランチェスコ・ピネリ:260,000マラベディ ③アラゴン王国:350,000マラベディ ④コロンブス:250,000マラベディ(ルイス・デ・ラ・セルダやセビリアの銀行家ベラルディ等から借金) |
|
1,492 | 8 | 3 |
クリストファー・コロンブス一行87名が、イサベル1世(カスティーリャ女王)の資金提供を受け、以下の3隻の船でパロス・デ・ラ・フロンテーラを出港する。 ①サンタ・マリア号 ②ニーニャ号 ③ピンタ号 |
|
1,492 | 10 | 12 | 未明、クリストファー・コロンブス一行がヨーロッパから大西洋を横断し、サン・サルバドル島(現在のバハマ)に到達する。 | |
1,492 | 10 | 26 | クリストファー・コロンブス一行がキューバに上陸する。 | |
1,492 | 12 | 6 | クリストファー・コロンブス一行が、モール・サン・ニコラ(現在のハイチの北西県)に上陸する。コロンブスは、この島を「スペインのように美しい」という理由で「イスパニョーラ島」と名付ける。一行は停泊する所々で、先住民タイノ族から歓迎を受けた。 | |
1,492 | 12 | 25 | サンタ・マリア号がカパイシャン(現在のハイチの北県)で座礁する。先住民であるマリアン王国のガカナガリック酋長の助けを借りて、サンタ・マリア号を解体し、使える木材と載せていた大砲を使って小さな砦を築き、クリスマスの日にちなんでナヴィダード(誕生)と名付けた。 | |
1,493 | 1 | クリストファー・コロンブスが、スペイン王室に航海の報告をする為に、39名のスペイン人を植民としてその砦に残し、インディオを6名連れて、酋長ガカナガリックから受け取った金銭とその他お土産を持って、ニーニャ号に乗船してスペインへ向けて出発する。 | ||
1,493 | 3 | 13 | クリストファー・コロンブス一行がリスボン(ポルトガル)に到着する。 | |
1,493 | 3 | 15 | クリストファー・コロンブス一行がパロス・デ・ラ・フロンテーラに到着する。フェルナンド2世(アラゴン王)とイサベル1世(カスティーリャ女王)に航海の報告を行い、両王は直ちに2度目の航海を促した。 | |
1,493 | 9 | 25 | クリストファー・コロンブスが17隻1,500名でイスパニョーラ島を植民地にする為に、カディス(現在のスペインのアンダルシア州)を出港する。今回はコロンブスの父ペドロ・デ・ラス・カサス、バルトロメ・デ・ラス・カサスも同行した。 | |
≈ | 1,493 | 10 | クリストファー・コロンブス一行が小アンティル諸島中の一島に上陸し「ドミニカ島」と命名する。 | |
1,493 | 11 | クリストファー・コロンブス一行がイスパニョーラ島に上陸する。その後、金の採掘の為にタイノ族を酷使し、抵抗する者を虐殺した。数十万から百万名程いた同島のタイノ族は50年後には数百名に減少し、後に絶滅する。 | ||
1,493 | 11 | クリストファー・コロンブス一行が前回の航海での植民39名が全滅していた為、モンテ・クリスティ(現在のドミニカ)の近くに植民地を再建し「イサベラ」と名付ける。その後金鉱とアジアへの経路の探索を開始した。 | ||
1,494 | 6 | 金鉱とアジアへの経路を探索していたクリストファー・コロンブス一行が成果を上げる事が出来ず引き返す。 | ||
≈ | 1,494 | 9 | 30 | クリストファー・コロンブス一行がイサベラに上陸する。しかし植民同士が仲違いしていた。 |
1,495 | 10 | 25 | マヌエル1世がポルトガル王に即位する。すぐにユダヤ人を奴隷身分から解放した。 | |
1,496 | マヌエル1世が、イサベル1世(カスティーリャ女王)の娘のイザベル・デ・アラゴン・イ・カスティーリャを妃に迎えるに当たり、スペイン側はポルトガル領内でのユダヤ教徒追放を求め、マヌエル1世がこれに応じる。結果、ポルトガルでキリスト教以外の宗教儀式は違法となり、ユダヤ人に対しては追放令が出される。 | |||
1,496 | 3 | クリストファー・コロンブスがバルトロメ・デ・ラス・カサスを副総督としてイスパニョーラ島に残し、コロンブス一行225名がインディオ30名を連れて、帰国の為出港する。 | ||
1,497 | ヴェネツィア共和国が、元老院令により、マラーノ(イベリア半島で止む無くキリスト教に改宗したユダヤ人の蔑称)に対し2ヶ月以内の退去とその間の商業取引の禁止を規定し、マラーノと取引したヴェネツィア商人に対し、罰則規定を設ける。 | |||
1,497 | 初代テューダー朝王ヘンリー7世公認の下、ジョン・カボット、セバスチャン・カボット親子が、ブリストル港の商人の資金によってアジアへの航路探検に出発する。 | |||
1,497 | 3 | 19 | マヌエル1世が、ポルトガル国内に在住する全ユダヤ教徒に対し、形式的なキリスト教への強制改宗を行い、内心での信仰の調査は20年間猶予する事となった(後に延長され、マヌエル1世の治世下では調査は行われていない)。商業、金融業で主要な役割を果たし、また医師などの知的専門職や職人となっている者も多いユダヤ人を追放する事は、ポルトガルの経済的損失である為彼らを国内に引き留める為に行った。しかし、マラーノと呼ばれ差別を受ける事となり、14歳未満の子は親許から引き離され、キリスト教徒の家庭に里子に出す事が義務付けられた。 | |
1,497 | 5 | 30 | フェルナンド2世(アラゴン王)がルイス・デ・サンタンヘルを保護する。サンタンヘルがキリスト教に改宗したユダヤ人の孫であった為、スペイン異端審問によりサンタンヘルを排斥する動きがあった。 | |
1,497 | 7 | 8 | マヌエル1世の命により、ヴァスコ・ダ・ガマが、大勢の観衆が見守る中、聖母修道院の修道士が執り行うミサの後、サン・ガブリエル号という船で、リスボンを出港する。 | |
1,497 | 11 | ヴァスコ・ダ・ガマがアフリカ大陸南端の喜望峰を超える。 | ||
1,498 | 5 | 20 | ヴァスコ・ダ・ガマがポルトガルの援助を受けて、インドのコーリコードに到着。 | |
1,498 | 5 | 30 | クリストファー・コロンブス一行がサンルーカル・デ・バラメーダ(現在のスペインのアンダルシア州カディス県)を出港する。 | |
≈ | 1,498 | 7 | クリストファー・コロンブス一行が現在のベネズエラのデルタアマクロ州のオリノコ川の河口に上陸する。 | |
1,498 | 7 | 30 | クリストファー・コロンブス一行が小アンティル諸島最南端の島を発見し「トリニダ」と名付ける。 | |
1,499 | ヴァスコ・ダ・ガマが香辛料をポルトガルに持ち帰る。 |
ンデベレ王を騙し鉱物を奪取。
|