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クリストファー・コロンブスは偉人では無い。
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年月日 | 出来事 | |||
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≈ | 1,401 | 1 | 武寧が中山王国に帰還する。 | |
1,402 | 汪英紫が死去する。これにより、汪応祖が第3代南山王国国王に即位した。 | |||
1,402 | 11 | 14 | 後小松天皇が、土御門の新しい内裏へ移徙する。足利義満は、日御座の御剣を新調して献上した。 | |
≈ | 1,402 | 12 | 察度の使者三五郎亹が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
1,403 | 承察度が死去する。 | |||
≈ | 1,403 | 1 | 察度の使者王茂が、進貢の為、明へ向けて出港する。此の際汪応祖の使者宇座按司も同乗した。 | |
≈ | 1,403 | 1 | 攀安知の使者善佳古耶が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
1,403 | 3 | 15 | 三五郎亹が明に対し、中山王国として33度目の進貢を行う。 | |
1,403 | 3 | 31 | 善佳古耶が明に対し、北山王国として12度目の進貢を行う。其の際、善佳古耶は冠服を請い、下賜された。 | |
1,403 | 4 | 5 |
以下2名が明に進貢を行う。 ①王茂(中山王国として34度目) ②使者・官生と呉宜堪弥結致(南山王国として14度目) 官生の貢物は、馬21頭と方物、呉宜堪弥結致の貢物は馬52頭・硫黄4,200kg・蘇木780kgであった。また、王は冠服を賜った。 |
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≈ | 1,403 | 6 | 武寧が李氏朝鮮へ向けて出港する。途上、武蔵国六浦(現在の神奈川県横浜市金沢区)に漂着した。 | |
≈ | 1,403 | 6 | 三五郎亹が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,403 | 7 |
以下の人間が帰還する。 ①王茂 ②宇座按司 ③使者・官生 ④呉宜堪弥結致 |
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≈ | 1,403 | 7 | 善佳古耶が北山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,404 | 1 | 武寧が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,404 | 1 | 武寧の使者三五郎亹が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,404 | 2 | 攀安知の使者亜都結致が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,404 | 3 | 汪応祖の使者隗谷結致が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,404 | 3 | 武寧の使者が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
1,404 | 4 | 1 | 三五郎亹が明に対し、中山王国として35度目の進貢を行う。此の際三五郎亹は、海船を賜った。 | |
1,404 | 4 | 25 | 亜都結致が明に対し、北山王国として13度目の進貢を行う。 | |
1,404 | 5 | 21 | 隗谷結致が明に対し、南山王国として15度目の進貢を行う。此の際隗谷結致は、海船を賜った。 | |
1,404 | 5 | 24 | 武寧の使者が明に対し、中山王国として36度目の進貢を行う。 | |
≈ | 1,404 | 6 | 三五郎亹が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,404 | 7 | 亜都結致が北山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,404 | 9 | 武寧の使者が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,404 | 9 | 武寧の使者が、進貢の為、明へ向けて出港する。此の際汪応祖の使者も同乗した。 | |
≈ | 1,404 | 9 | 隗谷結致が南山王国に帰還する。 | |
1,404 | 11 | 29 |
以下2名が明に進貢を行う。 ①武寧の使者(中山王国として37度目) ②汪応祖の使者(南山王国として16度目) |
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1,405 | 明王朝が、琉球からの使節に対応する為、泉州に市舶提挙司付属の「来遠駅」を設立する。 | |||
≈ | 1,405 | 2 |
以下2名が帰還する。 ①武寧の使者 ②汪応祖の使者 |
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≈ | 1,405 | 2 | 武寧の使者三五郎亹が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,405 | 3 | 武寧の使者養埠結致が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,405 | 3 | 攀安知の使者赤佳結致が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,405 | 3 | 汪応祖の使者タキが、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
1,405 | 4 | 8 | 三五郎亹が明に対し、中山王国として38度目の進貢を行う。 | |
1,405 | 4 | 29 | 赤佳結致が明に対し、北山王国として14度目の進貢を行う。 | |
1,405 | 5 | 10 | 養埠結致が明に対し、中山王国として39度目の進貢を行う。 | |
1,405 | 5 | 16 | タキが明に対し、南山王国として18度目の進貢を行う。又、李傑が国子監に留学した。 | |
≈ | 1,405 | 7 | 三五郎亹が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,405 | 8 | 養埠結致が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,405 | 8 | 赤佳結致が北山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,405 | 8 | タキが南山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,405 | 9 | 武寧の使者新川大親が暹羅へ向けて出港する。那覇にやって来た暹羅船に従って向かった。 | |
≈ | 1,405 | 11 | 武寧の使者新垣大親が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,405 | 11 | 攀安知の使者亜都結致が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,405 | 11 | 汪応祖の使者タキが、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
1,406 | 1 | 16 | 新垣大親が明に対し、中山王国として40度目の進貢を行う。 | |
1,406 | 1 | 16 | 亜都結致が明に対し、北山王国として15度目の進貢を行う。 | |
1,406 | 1 | 16 | タキが明に対し、南山王国として19度目の進貢を行う。 | |
≈ | 1,406 | 2 | 武寧の使者三五郎亹が、進貢の為、明へ向けて出港する。此の際汪応祖の使者も同乗した。 | |
≈ | 1,406 | 3 | 21 |
以下2名が明に進貢を行う。 ①三五郎亹(中山王国として41度目) ②汪応祖の使者(南山王国として20度目) |
≈ | 1,406 | 6 | 新垣大親が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,406 | 6 | 亜都結致が北山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,406 | 6 | タキが南山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,406 | 7 | 新川大親が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,406 | 8 |
以下2名が帰還する。 ①三五郎亹 ②汪応祖の使者 |
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≈ | 1,407 | 2 | 武寧の使者タキが、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,407 | 2 | 思紹の使者三五郎亹が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
1,407 | 4 | 8 | タキが明に対し、南山王国として21度目の進貢を行う。 | |
1,407 | 5 | 18 | 三五郎亹が、中山王国として42度目の進貢を行う。此の際三五郎亹は、武寧の訃報を伝え、思紹を武寧の世子として、第3代明皇帝永楽帝に対し冊封を請うた。 | |
≈ | 1,407 | 7 | タキが南山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,407 | 8 | 三五郎亹が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,408 | 2 | 思紹の使者大グスク大親が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,408 | 2 | 汪応祖の使者曵達姑耶が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
1,408 | 4 | 22 | 大グスク大親が明に対し、中山王国として43度目の進貢を行う。 | |
1,408 | 4 | 22 | 曵達姑耶が明に対し、南山王国として22度目の進貢を行う。其の後李傑が、帰国の為、南山王国行きの船に同乗した。 | |
≈ | 1,408 | 7 | 大グスク大親が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,408 | 7 |
以下2名が南山王国に帰還する。 ①曵達姑耶 ②李傑 |
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≈ | 1,409 | 2 | 思紹の使者三五郎亹が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,409 | 3 | 汪応祖の使者大グスク大親が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
1,409 | 5 | 25 | 三五郎亹が明に対し、中山王国として44度目の進貢を行う。此の際三五郎亹は永楽帝の居る北京まで行き、海船を賜った。 | |
≈ | 1,409 | 6 | 思紹の使者新川大親が李氏朝鮮へ向けて出港する。武寧の側室であった朝鮮人を送還した。 | |
1,409 | 7 | 11 | 大グスク大親が、永楽帝の居る北京へ出向き、明に対し、南山王国として23度目の進貢を行う。又、李傑が再度国子監に留学した。 | |
≈ | 1,409 | 8 | 三五郎亹が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,409 | 10 | 大グスク大親が南山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,410 | 1 | 新川大親が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,410 | 2 | 思紹の使者中グスク大親が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,410 | 4 | 思紹の使者新川大親が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
1,410 | 4 | 9 | 中グスク大親が明に対し、中山王国として45度目の進貢を行う。 | |
≈ | 1,410 | 6 | 思紹の使者慈空禅師が日本へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,410 | 6 | 思紹の使者本部大親が李氏朝鮮へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,410 | 7 | 中グスク大親が中山王国に帰還する。 | |
1,410 | 7 | 31 | 新川大親が明に対し、中山王国として46度目の進貢を行う。此の際新川大親は永楽帝の居る北京まで行った。 | |
≈ | 1,410 | 10 | 新川大親が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,410 | 11 | 思紹の使者三五郎亹が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,411 | 1 | 慈空禅師が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,411 | 1 | 本部大親が中山王国に帰還する。 | |
1,411 | 1 | 18 |
三五郎亹が明に対し、中山王国として47度目の進貢を行う。又、以下2名が国子監に留学した。 ①ファイテ ②ジルーク |
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≈ | 1,411 | 2 |
以下2名の思紹の使者が、進貢の為、明へ向けて出港する。 ①程復 ②具志頭大親 |
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≈ | 1,411 | 4 | 三五郎亹が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,411 | 4 | 思紹の使者本部大親が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
1,411 | 4 | 25 |
以下2名が明に対し、中山王国として48度目の進貢を行う。 ①程復 ②具志頭大親 程は其の儘帰国した。又、王茂が中山王国の国相に就任した。 |
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≈ | 1,411 | 6 | 思紹の使者慈空禅師が日本へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,411 | 6 | 思紹の使者新川大親が李氏朝鮮へ向けて出港する。勝連按司の船で向かった。 | |
≈ | 1,411 | 7 | 具志頭大親が中山王国に帰還する。 | |
1,411 | 7 | 17 | 本部大親が明に対し、中山王国として49度目の進貢を行う。 | |
≈ | 1,411 | 10 | 本部大親が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,411 | 10 | 思紹の使者三五郎亹が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,411 | 12 | 思紹の使者タブチが、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,412 | 1 | 汪応祖の使者大グスク大親が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,412 | 1 | 慈空禅師が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,412 | 1 | 新川大親が中山王国に帰還する。 | |
1,412 | 1 | 7 | 三五郎亹が明に対し、中山王国として50度目の進貢を行う。 | |
1,412 | 1 | 30 | タブチが明に対し、中山王国として51度目の進貢を行う。 | |
≈ | 1,412 | 2 | 三五郎亹が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,412 | 3 | 思紹の使者具志頭大親が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,412 | 4 | タブチが中山王国に帰還する。 | |
1,412 | 5 | 26 | 具志頭大親が明に対し、中山王国として52度目の進貢を行う。 | |
1,412 | 4 | 1 | 大グスク大親が明に対し、南山王国として24度目の進貢を行う。此の際大グスク大親は、海船を賜った。 | |
≈ | 1,412 | 6 | 大グスク大親が南山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,412 | 6 | 思紹の使者慈空禅師が日本へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,412 | 6 | 思紹の使者本部大親が李氏朝鮮へ向けて出港する。勝連按司の船で向かった。 | |
≈ | 1,412 | 8 | 具志頭大親が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,412 | 11 | 思紹の使者島尻大親が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,412 | 12 | 思紹の使者タブチが、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,413 | 1 | 慈空禅師が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,413 | 1 | 本部大親が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,413 | 2 | 汪応祖の使者呉是佳結制が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
1,413 | 2 | 16 | 島尻大親が明に対し、中山王国として53度目の進貢を行う。 | |
≈ | 1,413 | 3 | 思紹の使者三五郎亹が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
1,413 | 3 | 4 | タブチが明に対し、中山王国として54度目の進貢を行う。又、3名の官生が国子監に留学した。 | |
≈ | 1,413 | 5 | 汪応祖の使者李仲が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,413 | 5 | 島尻大親が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,413 | 5 | タブチが中山王国に帰還する。 | |
1,413 | 5 | 20 | 呉是佳結制が、永楽帝の居る北京へ出向き、明に対し、南山王国として25度目の進貢を行う。此の際呉是佳結制は、永楽銭を賜った。 | |
1,413 | 5 | 20 | 三五郎亹が、永楽帝の居る北京へ出向き、明に対し、中山王国として55度目の進貢を行う。此の際三五郎亹は、永楽銭を賜った。 | |
≈ | 1,413 | 6 | 思紹の使者慈空禅師が日本へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,413 | 6 | 思紹の使者本部大親が李氏朝鮮へ向けて出港する。勝連按司の船で向かった。 | |
≈ | 1,413 | 8 | 呉是佳結制が南山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,413 | 8 | 三五郎亹が中山王国に帰還する。 | |
1,413 | 9 | 12 | 李仲が、永楽帝の居る北京へ出向き、明に対し、南山王国として26度目の進貢を行う。李仲は病を患い、李傑が福州まで送った。 | |
≈ | 1,413 | 10 | 思紹の使者南風原大親が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,413 | 12 | 慈空禅師が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,413 | 12 | 本部大親が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,413 | 12 | 李仲が南山王国に帰還する。 | |
1,414 | 1 | 20 | 南風原大親が、永楽帝の居る北京へ出向き、明に対し、中山王国として56度目の進貢を行う。 | |
≈ | 1,414 | 6 | 思紹の使者慈空禅師が日本へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,414 | 6 | 思紹の使者本部大親が李氏朝鮮へ向けて出港する。勝連按司の船で向かった。 | |
≈ | 1,414 | 6 | 南風原大親が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,414 | 7 | 思紹の使者三五郎亹が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
1,414 | 10 | 18 | 三五郎亹が、永楽帝の居る北京へ出向き、明に対し、中山王国として57度目の進貢を行う。 | |
≈ | 1,415 | 1 | 他魯毎の使者郭是佳結制が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,415 | 1 | 三五郎亹が中山王国に帰還する。 | |
1,415 | 1 | 6 | 第4代室町幕府征夷大将軍足利義持が、中山王国へ向けて書簡を記す。慈空禅師が此れを受け取った。 | |
≈ | 1,415 | 2 | 慈空禅師が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,415 | 2 | 本部大親が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,415 | 2 | 思紹の使者南風原大親が、進貢の為、明へ向けて出港する。此の際攀安知の使者リュウインも同乗した。 | |
1,415 | 4 | 28 | 郭是佳結制が、永楽帝の居る北京へ出向き、明に対し、南山王国として27度目の進貢を行う。此の際、汪応祖が崩御した事を報告し、冊封を請うた。 | |
1,415 | 5 | 27 |
以下2名が、永楽帝の居る北京へ出向き、明に進貢を行う。 ①南風原大親(中山王国として58度目) ②リュウイン(北山王国として16度目) リュウインは海船を賜った。 |
|
≈ | 1,415 | 6 | 思紹の使者慈空禅師が日本へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,415 | 6 | 思紹の使者本部大親が李氏朝鮮へ向けて出港する。勝連按司の船で向かった。 | |
≈ | 1,415 | 6 | 尚巴志の使者末吉大親が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,415 | 7 | 郭是佳結制が南山王国に帰還する。 | |
1,415 | 7 | 6 | ヤン・フスが火刑に処せられる。 | |
1,415 | 8 | 21 | 朝、ポルトガル王国アヴィス朝の王ジョアン1世が、マリーン朝のセウタ(現在のモロッコに隣接するスペインの自治都市)への奇襲襲撃の為、息子のエンリケ王子と200隻の船で運ばれた45,000名の部隊を率いて、サン・アマロ海岸に上陸した。セウタの守備隊を油断を突いて攻撃し、日暮れまでに町は占領された。 | |
1,415 | 9 | 28 | 末吉大親が、永楽帝の居る北京へ出向き、明に対し、中山王国として59度目の進貢を行う。 | |
≈ | 1,415 | 10 |
以下2名が帰還する。 ①南風原大親 ②リュウイン |
|
≈ | 1,415 | 11 | 思紹の使者三五郎亹が、進貢の為、明へ向けて出港する。其の際、冊封使の為の船を送って行った。 | |
≈ | 1,416 | 1 | 末吉大親が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,416 | 2 | 慈空禅師が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,416 | 2 | 本部大親が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,416 | 2 | 他魯毎の使者郭義才が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
≈ | 1,416 | 2 | 思紹の使者韓完義が、進貢の為、明へ向けて出港する。 | |
1,416 | 2 | 25 | 三五郎亹が、永楽帝の居る北京へ出向き、明に対し、中山王国として60度目の進貢を行う。此の際三五郎亹は、海船を賜った。 | |
1,416 | 5 | 6 | 郭義才が、明に対し、南山王国として28度目の進貢を行う。此の際郭義才は、冊封に対し謝意を示した。 | |
1,416 | 5 | 6 | 韓完義が、明に対し、中山王国として61度目の進貢を行う。 | |
≈ | 1,416 | 6 | 三五郎亹が中山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,416 | 10 | 郭義才が南山王国に帰還する。 | |
≈ | 1,416 | 10 | 韓完義が中山王国に帰還する。 | |
1,443 | ハングル文字が発明される。 | |||
1,452 | ボローニャでユダヤ人判別の印の着用義務が課せられる。 | |||
1,453 | 5 | 29 | 東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)が第7代オスマン帝国スルタンのメフメト2世によって陥落され、東ローマ帝国が滅亡する。 | |
1,460 | 7 | 10 | ゲットー(ユダヤ人隔離居住区)をフランクフルト・アム・マイン(現在のドイツのヘッセン州)に建設される事が決定される。 | |
1,461 | フランシスコ会修道士のバルナバ・ダ・テルニがペルージャでモンテ・ディ・ピエタという公営の質屋を設立した。貧民に対する慈善事業として、比較的低い利子で貸出を行った。 | |||
1,466 | 10 | 15 | 第8代室町幕府征夷大将軍足利義政の独裁を支えていた幕府政所執事伊勢貞親が、将軍職後継者に定められていた義政の弟足利義視を処刑すべきだと義政に進言し、諸大名の猛反発を招いて、京を追われ、近江、次いで伊勢へ逃れた。 | |
1,467 | 1 | 30 | 畠山義就が、自身の陣営に加わった山名宗全の支援の下、5,000名を率いて上洛する。其の後、大智院派の管領する千本地蔵院に滞在した。そして、相国寺(現在の京都府京都市上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町)に布陣した。畠山は、第8代室町幕府征夷大将軍足利義政に圧力を掛けた。 | |
1,467 | 2 | 5 | 畠山政長が椀飯を務める。 | |
1,467 | 2 | 6 | 足利義政が、春日万里小路(現在の京都府京都市中京区坂本町・舟屋町付近)に所在する畠山政長の屋敷への御成を取り止め、花の御所(現在の京都府京都市上京区築山南半町付近)に畠山義就を招く。義就が足利に圧力を掛けた結果であった。山名宗全の支持を失った政長は、畠山家の家督を事実上奪われた。 | |
1,467 | 2 | 9 | 足利義政が、畠山政長の管領職を罷免し、春日万里小路の屋敷を畠山義就に明け渡す様命じる。政長は此れを拒否し、神保長誠等と共に自身の屋敷の防衛を強化した。同日足利は、山名宗全の屋敷の酒宴に出席し、義就が饗応した。足利は、義就・山名を支持する姿勢を示した。 | |
1,467 | 2 | 12 | 斯波義廉が第20代管領に就任する。 | |
1,467 | 2 | 12 | 室町幕府が、評定始を行う。 | |
1,467 | 2 | 15 | 山名宗全が椀飯を務める。 | |
1,467 | 2 | 19 |
以下2名が御所巻を画策する。 ①細川勝元 ②畠山政長 花の御所を包囲して威圧し、足利義政に畠山義就征伐の命令を出させる事を意図した。しかし、其の計画を細川の正室春林寺殿が山名宗全に漏らした為、以下が先に花の御所を制圧した。 ①山名 ②畠山義就 ③斯波義廉 そして、内裏から以下2名を迎え入れ、花の御所に避難させる事に成功した。 ①後花園上皇 ②第103代天皇後土御門天皇 |
|
1,467 | 2 | 21 | 足利義政が、畠山家の争いは畠山家同士で決着する様、畠山政長方・畠山義就方の双方に命じる。加えて、細川勝元に政長の援助の中止を命じた。細川は、義就による山名宗全の援助の中止を条件に承諾した。其の後細川は、武士の風上にも置けないとして批判された。山名達は、足利に対し政長・細川の追放を訴え、畠山家の争いは畠山家同士で決着する様命じられているにも拘らず、義就に加勢した。 | |
1,467 | 2 | 21 | 深夜、畠山政長が、春日万里小路の自身の屋敷を焼き払い、神保長誠の助言により、自身の一族や成身院光宣を含む2,000名の兵を率い、上御霊神社(現在の京都府京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町)に布陣する。 | |
1,467 | 2 | 22 |
早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃する。以下3名も加勢した。 ①朝倉孝景 ②山名宗全 ③山名政豊(宗全の命により加勢) 細川勝元は此の段階では動かず、静観した。政長は持ち堪えられず、丸一日の合戦の末、上御霊神社の拝殿に放火し、細川の屋敷に退却した。足利義教の拾男足利義視は義就を支援し、細川は面目を失った。 |
|
1,467 | 3 | 28 | 足利義政への伺事が行われる。 | |
1,467 | 3 | 29 | 足利義視が、畠山政長・畠山義就両陣営に対し和睦を呼び掛ける。しかし失敗に終わった。 | |
≈ | 1,467 | 4 | 細川勝元が、土岐政康を第23代室町幕府伊勢国守護一色義直の統治する伊勢国へ派遣する。 | |
1,467 | 4 | 7 | 節句であった此の日、山名宗全を始めとする諸大名が花の御所に参賀する。しかし、細川勝元は欠席した。諸大名は、細川が戦をする積もりなのだと悟った。 | |
≈ | 1,467 | 5 | 細川勝元方の兵が、山名宗全方の年貢米を略奪する事件を相次いで起こす。更に細川方の兵は、宇治川や淀川等の各地の橋を焼き、四門を固めた。 | |
≈ | 1,467 | 6 | 細川勝元が、斯波義敏を第17代室町幕府越前国守護斯波義廉が統治する越前国へ派遣する。義敏は、義廉方を圧迫した。 | |
≈ | 1,467 | 6 | 細川勝元が、赤松政則の家臣宇野政秀を播磨国へ派遣する。赤松は、赤松家の旧領であった播磨国・備前国・美作国に侵攻させた。旧領だった事もあり、旧臣・牢人・寺社・百姓・土民が協力し、数日で旧領を奪回した。 | |
1,467 | 6 | 21 | 山名宗全が評定を開き、五辻通大宮東(現在の京都府京都市上京区観世町)に本陣を置く。そして軍勢を招集した。 | |
≈ | 1,467 | 6 |
細川勝元が、諸大名に上洛を要請する。畠山政長等が参集した。斯うして、細川の屋敷と花の御所を中心とした京都北部から東に布陣した細川方と、堀川西岸に建てられた山名宗全の屋敷と京都中央に位置する斯波義廉の屋敷を拠点とする山名方の構図がはっきりし、前者が東軍、後者が西軍と呼称された。其々以下の陣容であった。 ①東軍 ❶細川 ❷足利義視 ❸政長 ❹斯波義敏 ❺武田信賢 ❻成身院光宣 ❼細川勝久 ❽京極持清 ❾赤松政則 ②西軍 ❶山名宗全 ❷足利義尚 ❸畠山義就 ❹斯波義廉 ❺一色義直 ❻斯波義廉 ❼朝倉孝景 ❽甲斐敏光 ❾六角高頼 ➓土岐成頼 |
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≈ | 1,467 | 6 | 一色義直が、武田信賢との確執及び若狭国・三河国を復旧する目的から西軍に与した為、丹後国守護職・伊勢国守護職を罷免される。 | |
≈ | 1,467 | 6 | 山名宗全が、大内政弘に出陣を要請する。 | |
1,467 | 6 | 4 |
領地を巡って相論を起こしていた以下2名が、担当奉行を通じて足利義政に証文等を提出する。 ①訴人:壬生晨照(担当奉行:諏訪忠郷) ②論人:大宮長興(担当奉行:飯尾貞有) |
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1,467 | 6 | 5 | 前日の諏訪忠郷の提出した証文に理が有ると考えた飯尾貞有が、余酔と称し、花の御所での証文提出を欠席する。 | |
1,467 | 6 | 8 | 飯尾貞有が、足利義政に大宮長興の証文を提出する。しかし足利は、飯尾の対応を不快とし、壬生晨照の支証に分が有るとして、壬生方の勝訴の裁許を下した。 | |
1,467 | 6 | 10 | 2日前の裁許により、足利義政による御判御教書の発給が決定される。此の当時、斯波義廉が西軍に属していた為、御判御教書の発給に難渋し、前年から発給されていなかった。管領を介さず、御判奉行伊勢貞藤に直接下される事となった。 | |
1,467 | 6 | 11 |
大内政弘が、周防国・長門国を始めとする8ヶ国の数万の兵を率い、山口を出発する。河野通春も此の中に居た。大内の本隊は海路で、以下を経由して瀬戸内海を東上した。 ①野上(現在の山口県周南市) ②柳井(現在の山口県) ③屋代島(現在の山口県大島郡周防大島町) ④室津(現在の兵庫県たつの市) |
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1,467 | 6 | 14 | 足利義政による御判御教書が発給される。広慶院が日野富子に口添えを依頼し、日野が諏方忠郷に言い付け、発給に至った。 | |
1,467 | 6 | 27 | 夜明け前、花の御所の隣の一色義直の屋敷を襲撃する事を意図し、武田信賢が花の御所と山名宗全の屋敷の中間に位置する実相院(現在の京都府京都市上京区実相院町)を、成身院光宣が実相院に近接し一色の屋敷に隣接する土倉正実坊を其々占拠する。そして夜明け頃、武田・成身院等が、足利義政を味方に付ける事を意図し、一色の屋敷を襲撃し占拠した。一色は直前に脱出したものの屋敷は焼き払われた。此れが成功し、細川勝元は、戦火から保護するという名目で花の御所を占拠して足利義政を保護し、自身の屋敷に本陣を置いた。斯うして東軍は、西軍征伐の大義名分を得た。西軍は、実相院・正実坊の奪還を試みたが、東軍の反撃により失敗し、山名の屋敷付近まで退却した。 | |
1,467 | 6 | 27 | 東軍と西軍が、一条大宮(現在の京都府京都市上京区下石橋南半町)にて市街戦を繰り広げる。そんな中、西軍は山名宗全の屋敷近くの細川勝久の屋敷に目を付け、斯波義廉が、朝倉孝景・甲斐敏光を引き連れて細川の屋敷へ向かった。此れに対し東軍は、京極持清が細川の救援に向かい、一条通を西進して斯波率いる軍を襲撃した。しかし、朝倉の反撃に遭って敗走した。其の後赤松政則が、一条通を南下し、正親町通(現在の京都府京都市上京区の中立売通)を進んで迂回して斯波率いる軍を襲撃した。疲弊していた斯波達は退却した。自邸で抵抗していた細川は、此れを焼き払って退却し、第8代室町幕府阿波国守護細川成之の屋敷に逃げ込んだ。戦闘は翌日の18時迄続いた。 | |
1,467 | 6 | 28 |
此の日から翌日に掛けて、以下の人間等の屋敷が炎上する。 ①細川勝久(屋敷は現在の京都府京都市下京区富小路通四条下る徳正寺町の徳正寺に所在) ②細川教春 ③第8代室町幕府淡路国守護細川成春 |
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1,467 | 6 | 29 | 足利義政が両軍に対し、停戦して和睦する様命じる。此れにより両者痛み分けとなったものの、足利と花の御所を押さえた東軍が優位となった状態で停戦となった。 | |
≈ | 1,467 | 7 | 伊勢貞親が、足利義政に呼び戻され、伊勢国から上洛する。此れにより足利義視は孤立した。 | |
≈ | 1,467 | 7 | 足利義視が、牙旗を下され東軍の主将となる。足利は、東軍から山名家の縁者を追放し、東軍と通じた奉行衆を殺害した。 | |
1,467 | 7 | 4 | 足利義政が、細川勝元に足利将軍旗を与える。 | |
1,467 | 7 | 12 | 飯尾為数が、西軍に通じたとして、足利義視に暗殺される。 | |
1,467 | 8 | 19 | 大内政弘率いる軍が、20,000〜30,000名の軍勢で播磨国兵庫津(現在の兵庫県神戸市兵庫区)に入る。此の内2,000〜3,000名は河野通春が率いていた。 | |
1,467 | 9 | 5 | 大内政弘が、尼崎にて、若衆が敵対した為、焼き討ちにして現地住民を殺害する。 | |
1,467 | 9 | 8 |
大内政弘が、河野水軍・村上水軍・三島水軍等の瀬戸内水軍を率い、大物浦の以下の場所にて、上陸を阻止しようとする細川勝元・赤松政則の軍と交戦し、撃破する。 ①難波(現在の兵庫県尼崎市西本町付近) ②水堂(現在の兵庫県尼崎市立花町付近) 此の戦闘により、河野通春等は戦功を挙げた。其の後大内率いる軍は、尼崎を焼き払い、10,000名の兵と2,000隻の船団と共に上洛し、東寺に布陣した。そして後に焼失した梶井門跡(現在の京都府京都市北区紫野下築山町付近)に移り本陣とした。其の後大内達は、兵站基地や大輪田泊(現在の兵庫県神戸市兵庫区)で激しい攻防を展開し、軈て戦線は、摂津国・丹波国・近江国の周辺諸国へと移っていった。通春と河野教通の兄河野通生は、摂津国へ向かった。 |
|
1,467 | 9 | 8 | 夜、足利義視が京都を出発する。 | |
≈ | 1,468 | 1 | 播磨国を統治していた宇野政秀が、諸役免除等の文書を発給する。 | |
≈ | 1,468 | 2 | 大内政弘が、分国からの援軍を得て摂津国一帯を荒らし、西軍摂津国守護として、摂津国欠郡(住吉郡(現在の大阪府大阪市)・東生郡(現在の大阪府大阪市))を拠点として、軍事的占領を行う。 | |
1,468 | 5 | 2 | 丹波国宮田荘(現在の兵庫県丹波篠山市)に就いて、此れ迄通り知行を認めるとの足利義政の御内書が下される。此れは、依頼を受けた女中で摂津満親の娘の春日局による訴訟が以前から行われていた為である。 | |
1,468 | 6 | 3 |
松田貞頼を始めとする15名が、布施貞基に対し、以下の内容の意見状が御前沙汰にて発給される。 近年、御判神領に就いて、本来の領主が訴訟を起こし、返還されるべきかどうかが争われています。訴状を精査したところ、道理に基づいて判断するならば、仮令神領であっても、元々一般の者に返還された前例が有るのかどうかが問題となります。もし其の様な前例が有るのであれば、証文の内容に従い、正しく裁定すべきです。 |
|
1,468 | 6 | 24 |
大沢重胤が以下の内容を記す。 私は公用で京都に居り、各地に散在する田地に就いて、足利満詮の息子の義賢を通じて公方に申し上げるべき事である。此れを心得ておく様にとの旨を、新兵衛督局に対し、山科言国の書簡によって申し伝えた。近頃は大小の案件を問わず特に問題は無いが、もし何か申し上げるべき事が有れば、速やかに言上する様にとの事である。広橋綱光・飯尾之種・飯尾為信が申し上げた。 |
|
≈ | 1,468 | 12 | 足利義視が、東軍が脱出し、西軍に身を投じる。 | |
≈ | 1,468 | 12 |
河野通春が、河野教通に以下の主旨の書簡を送る。 応仁の乱は延々と続くと思いますが、西軍へご同心頂けるのでしょうか。先年大内方からも依頼が有った筈ですが、其の後お返事を頂いておりません。足利義政殿・足利義視殿の双方が将軍となられた今、其の命令には変わりはありません。此度の摂津国の合戦により、私は守護に補任されましたが、家名を上げる上では、私と教通殿の何方がなっても同じだと思います。 |
|
≈ | 1,469 | 5 | 大内政弘の要請により、足利義視の内書が鎮西・四国の諸大名に多数送付される。 | |
1,469 | 6 | 13 | 西幕府が御教書を発する。其処には河野通春の名前が有った。 | |
1,470 | 河野教通が、第9代李氏朝鮮国王成宗に使者を遣わせ、土貢を献上する。 | |||
1,470 | 9 | 14 | 山科家が、広橋綱光を通じて丹波国宮田荘の当知行安堵を室町幕府に申請する。 | |
1,470 | 11 | 8 | 少将殿御局が、長坂口(現在の京都府京都市北区鷹峯千束町・鷹峯一ノ坂・鷹峯長坂・鷹峯堂ノ庭町)の関所の件に於ける山科家からの依頼状を紛失した為、第17代室町幕府武家伝奏広橋綱光に女房奉書を再提出する。 | |
1,470 | 11 | 22 |
山科言国が申し上げた長坂口の関所の件に就いて、女中を通じて少将殿御局に取り次ぎ、足利義政に伺いを立てた所、足利から、奉行に命じて奉書をを作成させる様にとの沙汰が有った。此れにより、山科家に当知行安堵の奉行人奉書が発給される事となったが、同日、広橋綱光が、飯尾為信に対し以下の主旨の書簡を送る。 ①広橋頼光殿が此の様な書簡を下され、大沢重胤が持参して奉書を整えました。 ②山科言国が申し上げた長坂口の関所の管理に就いて、従来の知行に従い、奉書を作成する様に殿御沙汰が有りました。 此の件に就いては、少将殿御局を通じて申し上げた所、御渡しされたので、ご承知おき下さい。 |
|
1,471 | 11 | 16 | 山科言国が申し上げた諸々の件に就いて、女中を通じて少将殿御局に取り次ぎ、更に飯尾為信経由で伺いを立てた所、足利義政から、奉書を作成する様にとの沙汰が発せられる。 | |
1,473 | ボローニャでモンテ・ディ・ピエタが設立される。 | |||
1,473 | ボローニャでモンテ・ディ・ピエタが廃業する。 | |||
≈ | 1,473 | 12 | 河野教通が、東幕府から第17代室町幕府伊予国守護に任じられる。 | |
1,474 | ボローニャで奢侈条例の一部として、ユダヤ人の衣装に関する規制が設けられる。 | |||
1,474 | 河野教通と通じた中川家を始めとする勢力が、土岐成頼の屋敷を攻め落とす。 | |||
1,477 | 5 | 31 | 河野通春が、東軍に内通していた大内政弘の仲介によって東軍に下り、足利義尚の安堵を取り付ける。 | |
≈ | 1,477 | 12 |
以下2名が、陣所を引き払って伊予国へ帰国する。 ①河野通春 ②大内政弘 |
|
1,478 | 第212代ローマ教皇シクストゥス4世の許可により、カスティーリャ地方(現在のスペイン中心部)以外で、スペインに於いて異端審問所が設置される。 | |||
1,481 | スペインのユダヤ人街が、カテドラル(大聖堂)からサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂(現在のスペインのガリシア州ア・コルーニャ県)の門に移設される。 | |||
≈ | 1,483 | クリストファー・コロンブスが第4代アヴィス王朝の王ジョアン2世に、大西洋を西回りしてアジアへと到達する航海計画を願い出るが、審議した数学者委員会がこれを拒否する。 | ||
1,485 |
クリストファー・コロンブスが長男ディエゴ・コロンを連れて、トラスタマラ朝カスティーリャ女王イサベル1世(カスティーリャ女王)に航海計画の承認を得る為、パロス・デ・ラ・フロンテーラ(現在のスペインのアンダルシア州ウエルバ県)へ到着する。サンタ・マリア・デ・ラ・ラビーダ修道院長の神父フアン・ペレス・デ・マルチェーネと会った。マルチェーネはコロンブスの航海計画に感銘を受けて、セビリア(現在のスペインのアンダルシア州)の神父アントニオ・マルチェーナを紹介した。マルチェーナに会う為にコロンブスはコロンを預けた。さらに以下の人間に会う機会を得、コロンブスの航海計画に興味を持った第5代メディナセリ公爵ルイス・デ・ラ・セルダからコロンブスが求めた数隻の船や食料など3,000〜4,000ドゥカート相当の物資を準備する事に合意した。 ①スペイン貴族のメディナ・シドニア家エンリケ・デ・グスマン ②セルダ |
|||
1,486 | 1 | クリストファー・コロンブスが、フアン・ペレス・デ・マルチェーネの計らいで、イサベル1世(カスティーリャ女王)に初めて謁見を許され、大西洋を西回りしてアジアへと到達する航海計画を伝え、3隻の船を与えて欲しいと請願した。計画は特別審査委員会に諮られたが、容易に結論は出なかった。 | ||
1,486 | 4 | 28 | クリストファー・コロンブスが、ルイス・デ・ラ・セルダの紹介でフェルナンド2世(アラゴン王)及びイサベル1世(カスティーリャ女王)に謁見し、航海計画を話す。イサベル1世(カスティーリャ女王)は興味を示したが、フェルナンド2世(アラゴン王)は全く関心が無かった。懺悔聴聞師で神父のエルナンド・デ・タラベラを中心とする、地理や財政の専門家から成る諮問委員会で審議される事となった。 | |
≈ | 1,486 | 10 | クリストファー・コロンブスの航海計画がエルナンド・デ・タラベラを中心とする諮問委員会で審議される。 | |
1,486 | 10 | 10 | ジョアン2世がアジアに至る交易路確立の為のアフリカ周回航海の遠征隊長に、バルトロメウ・ディアスを任命する。 | |
≈ | 1,487 | 4 | クリストファー・コロンブスの航海計画がエルナンド・デ・タラベラを中心とする諮問委員会で審議される。否定的な意見が多数を占めたが、航海を実現させたかったタラベラやカトリック修道会であるドミニコ会ディエゴ・デ・デサは結論を引き延ばしていた。 | |
1,488 | ポルトガル人のコヴィリャンがインドのカノナール港に到着する。 | |||
1,488 |
クリストファー・コロンブスの弟バルトロメ・デ・ラス・カサスがカスティーリャ王国の援助を受ける事が難しいと考え、以下の2名にコロンブスの航海の援助を依頼する為にフランスへと出発する。 ①初代テューダー朝の王ヘンリー7世 ②第7代ヴァロワ朝の王シャルル8世 結果、何れも援助の取り付けには至らなかったもののシャルル8世の姉アンヌ・ド・ボージューの歓待を得て、バルトロメはフォンテーヌブロー(現在のフランスのセーヌ・エ・マルヌ県)の宮殿に数年間滞在した。 |
|||
1,488 | 5 | ポルトガルのバルトロメウ・ディアスが喜望峰(南アフリカ西ケープ州ケープタウン)に到達する。 | ||
1,489 | フランチェスコ・デ・タシス1世がマクシミリアン1世(神聖ローマ皇帝)の郵便物の無料配達を請け負う。 | |||
1,489 | 5 | 12 | カスティーリャ王国が、クリストファー・コロンブスが王室に謁見する際、宿泊費を王国側で負担する通達を出す。 | |
1,490 | クリストファー・コロンブスの航海計画がエルナンド・デ・タラベラを中心とする諮問委員会で否決される。その後さらにコロンブスは審議を願い出たが、1ヶ月も経たぬ内に否決される。 | |||
1,490 | ヴェネツィアで飛脚問屋を営んでいたフランチェスコ・デ・タシス1世がマクシミリアン1世(神聖ローマ皇帝)から命じられ郵便契約を結び、郵便制度を設立し郵便馬車を走らせる。 | |||
1,490 | フランチェスコ・デ・タシス1世とフランチェスコの兄ヤネット・デ・タシス、フランチェスコの甥ジョヴァンニ・バッティスタがマクシミリアン1世(神聖ローマ皇帝)から郵便主任を命じられる。さらにマクシミリアン1世(神聖ローマ皇帝)の長男であるフェリペ1世(カスティーリャ王)が、フランチェスコに対しブルゴーニュ(現在のフランスのマルヌ県)とネーデルラント(現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルク)物資輸送の機構改革を命じた。 | |||
1,491 | 8 | クリストファー・コロンブスがサンタ・マリア・デ・ラ・ラビーダ修道院を訪れ、フアン・ペレス・デ・マルチェーネから、預けていたディエゴ・コロンを引き取り「シャルル8世の援助を取り付けに行く」とマルチェーネに告げる。マルチェーネは考え直す様説得し、イサベル1世(カスティーリャ女王)に再度請願する様勧めた。又マルチェーネはイサベル1世(カスティーリャ女王)の側近セバスチャン・ロドリゲス経由で、王室に再検討を促した。イサベル1世(カスティーリャ女王)はマルチェーネに対し、コロンブスを慰留する事を求めた。更に2週間後、コロンブスの元に王室から「旅金を添えて出頭する様勧告する」主旨の書簡が届いた。航海計画の検討はカスティーリャ枢機院に移管された。 | ||
1,492 | 1 | 2 | イベリア半島最後のムスリムの拠点グラナダが、フェルナンド2世(アラゴン王)とイサベル1世(カスティーリャ女王)により陥落される。 | |
≈ | 1,492 | 2 | クリストファー・コロンブスがエルナンド・デ・タラベラを中心とする諮問委員会に対し航海計画の再審議を願い出る。しかし1ヶ月も経たぬ内に否決され、その事実をフェルナンド2世(アラゴン王)とイサベル1世(カスティーリャ女王)により知らされ、アラゴン王国へ向けてグラナダを出発した。 | |
≈ | 1,492 | 2 | アラゴン王国の財務大臣ルイス・ド・サンタンヘルがイサベル1世(カスティーリャ女王)と面会し、サンタンヘルは「この航海計画の援助費用は、この航海で得られるであろうものに比べると少なく、費用は自分が都合する」と言った。その後イサベル1世(カスティーリャ女王)は考えを変え、フェルナンド2世(アラゴン王)の同意を得て、コロンブスの提案を実施する事を決定した。イサベル1世(カスティーリャ女王)は急使を送り、1,000,000マラベティを援助するので、コロンブスを呼び戻す様命じた。 | |
1,492 | 3 | フェルナンド2世(アラゴン王)とイサベル1世(カスティーリャ女王)がユダヤ人追放令を出す。少なくとも100,000名のユダヤ人がポルトガルに逃れた。しかし、ポルトガル王ジョアン2世は、僅かな例外を除き、8ヶ月の滞在しか許さず、それを超えて滞在する者は奴隷の身分に落とした。また、フランドル(旧フランドル伯領を中心とする、オランダ南部、ベルギー西部、フランス北部)や地中海沿岸にも散っていった。オスマン帝国はセファルディム(スペイン、ポルトガルに定住していた離散したユダヤ人)の商人たちを歓迎し、積極的に受容した結果、首都イスタンブルやガリラヤ湖畔のサフェドなどにセファルディムの大規模な共同体が形成され、在地のユダヤ人集団を凌駕するようになる。しかも、こうした商人たちは「スルタンの臣民」としてイタリア諸都市にも到来し、地中海商業に大きな役割を果たすようになった。 | ||
1,492 | 4 | 17 |
クリストファー・コロンブスが、フェルナンド2世(アラゴン王)及びイサベル1世(カスティーリャ女王)とサンタ・フェ(現在のスペインのアンダルシア州グラナダ県)にて以下の協約を結び、コロンブスの航海計画が承認され、イサベル1世(カスティーリャ女王)がバックアップする事となった。 ①コロンブスは発見された土地の終身提督となり、この地位は相続される。 ②コロンブスは発見された土地の副王及び総督の任に就く。 ③各地の統治者は3名の候補をコロンブスが推挙し、この中から選ばれる。 ④提督領から得られた全ての純利益のうち10%はコロンブスの取り分とする。 ⑤提督領から得られた物品の交易において生じた紛争は、コロンブスが裁判権を持つ。 ⑥コロンブスが今後行う航海に於いて費用の1/8をコロンブスが負担する場合、利益の1/8をコロンブスの取り分とする。 そしてルイス・デ・サンタンヘルが中心となってイサベル1世(カスティーリャ女王)が戴冠用宝玉を担保に供出することを防ぎつつ資金調達された結果、以下の内訳で航海の為の資金が集まった。 ①サンタンヘル:1,140,000マラベディ ②警察組織サンタ・エルマンダーの経理担当:フランチェスコ・ピネリ:260,000マラベディ ③アラゴン王国:350,000マラベディ ④コロンブス:250,000マラベディ(ルイス・デ・ラ・セルダやセビリアの銀行家ベラルディ等から借金) |
|
1,492 | 8 | 3 |
クリストファー・コロンブス一行87名が、イサベル1世(カスティーリャ女王)の資金提供を受け、以下の3隻の船でパロス・デ・ラ・フロンテーラを出港する。 ①サンタ・マリア号 ②ニーニャ号 ③ピンタ号 |
|
1,492 | 10 | 12 | 未明、クリストファー・コロンブス一行がヨーロッパから大西洋を横断し、サン・サルバドル島(現在のバハマ)に到達する。 | |
1,492 | 10 | 26 | クリストファー・コロンブス一行がキューバに上陸する。 | |
1,492 | 12 | 6 | クリストファー・コロンブス一行が、モール・サン・ニコラ(現在のハイチの北西県)に上陸する。コロンブスは、この島を「スペインのように美しい」という理由で「イスパニョーラ島」と名付ける。一行は停泊する所々で、先住民タイノ族から歓迎を受けた。 | |
1,492 | 12 | 25 | サンタ・マリア号がカパイシャン(現在のハイチの北県)で座礁する。先住民であるマリアン王国のガカナガリック酋長の助けを借りて、サンタ・マリア号を解体し、使える木材と載せていた大砲を使って小さな砦を築き、クリスマスの日にちなんでナヴィダード(誕生)と名付けた。 | |
1,493 | 1 | クリストファー・コロンブスが、スペイン王室に航海の報告をする為に、39名のスペイン人を植民としてその砦に残し、インディオを6名連れて、酋長ガカナガリックから受け取った金銭とその他お土産を持って、ニーニャ号に乗船してスペインへ向けて出発する。 | ||
1,493 | 3 | 13 | クリストファー・コロンブス一行がリスボン(ポルトガル)に到着する。 | |
1,493 | 3 | 15 | クリストファー・コロンブス一行がパロス・デ・ラ・フロンテーラに到着する。フェルナンド2世(アラゴン王)とイサベル1世(カスティーリャ女王)に航海の報告を行い、両王は直ちに2度目の航海を促した。 | |
1,493 | 9 | 25 | クリストファー・コロンブスが17隻1,500名でイスパニョーラ島を植民地にする為に、カディス(現在のスペインのアンダルシア州)を出港する。今回はコロンブスの父ペドロ・デ・ラス・カサス、バルトロメ・デ・ラス・カサスも同行した。 | |
≈ | 1,493 | 10 | クリストファー・コロンブス一行が小アンティル諸島中の一島に上陸し「ドミニカ島」と命名する。 | |
1,493 | 11 | クリストファー・コロンブス一行がイスパニョーラ島に上陸する。その後、金の採掘の為にタイノ族を酷使し、抵抗する者を虐殺した。数十万から百万名程いた同島のタイノ族は50年後には数百名に減少し、後に絶滅する。 | ||
1,493 | 11 | クリストファー・コロンブス一行が前回の航海での植民39名が全滅していた為、モンテ・クリスティ(現在のドミニカ)の近くに植民地を再建し「イサベラ」と名付ける。その後金鉱とアジアへの経路の探索を開始した。 | ||
1,494 | 6 | 金鉱とアジアへの経路を探索していたクリストファー・コロンブス一行が成果を上げる事が出来ず引き返す。 | ||
≈ | 1,494 | 9 | 30 | クリストファー・コロンブス一行がイサベラに上陸する。しかし植民同士が仲違いしていた。 |
1,495 | 10 | 25 | マヌエル1世がポルトガル王に即位する。すぐにユダヤ人を奴隷身分から解放した。 | |
1,496 | マヌエル1世が、イサベル1世(カスティーリャ女王)の娘のイザベル・デ・アラゴン・イ・カスティーリャを妃に迎えるに当たり、スペイン側はポルトガル領内でのユダヤ教徒追放を求め、マヌエル1世がこれに応じる。結果、ポルトガルでキリスト教以外の宗教儀式は違法となり、ユダヤ人に対しては追放令が出される。 | |||
1,496 | 3 | クリストファー・コロンブスがバルトロメ・デ・ラス・カサスを副総督としてイスパニョーラ島に残し、コロンブス一行225名がインディオ30名を連れて、帰国の為出港する。 | ||
1,497 | ヴェネツィア共和国が、元老院令により、マラーノ(イベリア半島で止む無くキリスト教に改宗したユダヤ人の蔑称)に対し2ヶ月以内の退去とその間の商業取引の禁止を規定し、マラーノと取引したヴェネツィア商人に対し、罰則規定を設ける。 | |||
1,497 | 初代テューダー朝王ヘンリー7世公認の下、ジョン・カボット、セバスチャン・カボット親子が、ブリストル港の商人の資金によってアジアへの航路探検に出発する。 | |||
1,497 | 3 | 19 | マヌエル1世が、ポルトガル国内に在住する全ユダヤ教徒に対し、形式的なキリスト教への強制改宗を行い、内心での信仰の調査は20年間猶予する事となった(後に延長され、マヌエル1世の治世下では調査は行われていない)。商業、金融業で主要な役割を果たし、また医師などの知的専門職や職人となっている者も多いユダヤ人を追放する事は、ポルトガルの経済的損失である為彼らを国内に引き留める為に行った。しかし、マラーノと呼ばれ差別を受ける事となり、14歳未満の子は親許から引き離され、キリスト教徒の家庭に里子に出す事が義務付けられた。 | |
1,497 | 5 | 30 | フェルナンド2世(アラゴン王)がルイス・デ・サンタンヘルを保護する。サンタンヘルがキリスト教に改宗したユダヤ人の孫であった為、スペイン異端審問によりサンタンヘルを排斥する動きがあった。 | |
1,497 | 7 | 8 | マヌエル1世の命により、ヴァスコ・ダ・ガマが、大勢の観衆が見守る中、聖母修道院の修道士が執り行うミサの後、サン・ガブリエル号という船で、リスボンを出港する。 | |
1,497 | 11 | ヴァスコ・ダ・ガマがアフリカ大陸南端の喜望峰を超える。 | ||
1,498 | 5 | 20 | ヴァスコ・ダ・ガマがポルトガルの援助を受けて、インドのコーリコードに到着。 | |
1,498 | 5 | 30 | クリストファー・コロンブス一行がサンルーカル・デ・バラメーダ(現在のスペインのアンダルシア州カディス県)を出港する。 | |
≈ | 1,498 | 7 | クリストファー・コロンブス一行が現在のベネズエラのデルタアマクロ州のオリノコ川の河口に上陸する。 | |
1,498 | 7 | 30 | クリストファー・コロンブス一行が小アンティル諸島最南端の島を発見し「トリニダ」と名付ける。 | |
1,499 | ヴァスコ・ダ・ガマが香辛料をポルトガルに持ち帰る。 | |||
1,500 |
ジョアン2世が、以下3名の成功を受けて、ペドロ・アルヴァレス・カブラルをインド航海の遠征隊隊長に任命する。 ①クリストファー・コロンブス ②ヴァスコ・ダ・ガマ ③バルトロメウ・ディアス |
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1,500 | 3 | 9 |
ペドロ・アルヴァレス・カブラルが、13隻の船と1,500名の隊員と共に、タホ川下流のリスボンから出発する。南米を目指して西へ向かい、喜望峰を回ってインドへ向かうルートを採った。以下2名も乗船した。 ①ヴァスコ・ダ・ガマ ②バルトロメウ・ディアス ガマは航海のコースに必要な指示を与えた。 |
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1,500 | 4 | 22 | ペドロ・アルヴァレス・カブラル一行が山を発見する。「モンテ・パスコアル(現在のブラジルのバイーア州)」と名付けた。 | |
1,500 | 4 | 23 | ペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルの海岸に上陸する。 | |
1,500 | 4 | 25 | ペドロ・アルヴァレス・カブラルの全艦隊がポルト・セグーロ(現在のブラジルのバイーア州)に入る。カブラル達は、上陸した土地は島であると考え「真の十字架の島(ベラクルス島)」と名付けた。此の土地には赤色染料の原料となるパウ・ブラジルが豊富に存在していた為、ポルトガルの商人達は「テッラ・ド・ブラジル(ブラジルの地)」と呼んだ。此れは後の国名「ブラジル」の由来となった。 | |
1,500 | 5 | 3 | ペドロ・アルヴァレス・カブラルが、当初の目的である喜望峰経由でのインドへの航海を再開する。 | |
1,500 | 5 | 24 | ペドロ・アルヴァレス・カブラル一行が、喜望峰付近で激しい嵐に遭い、バルトロメウ・ディアスの船を含む4隻が失われる。 | |
1,500 | 7 | 16 | ペドロ・アルヴァレス・カブラル一行がソファラ(現在のモザンビーク)に到着する。 | |
1,500 | 7 | 20 | ペドロ・アルヴァレス・カブラル一行がモザンビーク島(現在のモザンビークのナンプーラ州)に到着する。 | |
1,500 | 8 | 2 | ペドロ・アルヴァレス・カブラル一行がメリンデ(現在のケニアのキリフィ県)に到着する。インドへ向かう為の水先案内人を雇った。 | |
1,500 | 8 | 10 | ディオゴ・ディアスが指揮する船の内1隻が、悪天候により集団から離れる。そして、後に「マダガスカル」と呼ばれる島を発見した。 | |
1,500 | 9 | 13 | ペドロ・アルヴァレス・カブラルが、カリカット(現在のインドのケララ州コーリコード)に到着する。カブラルは、香辛料の交易を行なった。 |
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ンデベレ王を騙し鉱物を奪取。
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