万物の系譜

西暦1,401〜1,500年

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コロンブスの先住民大量殺人一元化

年月日 出来事
1,401 1 武寧が中山王国に帰還する。
1,402 汪英紫が死去する。これにより、汪応祖が第3代南山王国国王に即位した。
1,402 11 14 後小松天皇が、落成した土御門東洞院殿の新しい内裏へ移徙する。足利義満は此れを祝い、日御座の御剣を新調して献上した。
1,402 12 察度の使者三五郎亹が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,403 承察度が死去する。
1,403 1 察度の使者王茂が、進貢の為、明へ向けて出港する。此の際汪応祖の使者宇座按司も同乗した。
1,403 1 攀安知の使者善佳古耶が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,403 3 15 三五郎亹が明に対し、中山王国として33度目の進貢を行う。
1,403 3 31 善佳古耶が明に対し、北山王国として12度目の進貢を行う。其の際、善佳古耶は冠服を請い、下賜された。
1,403 4 5 以下2名が明に進貢を行う。
①王茂(中山王国として34度目)
②使者・官生と呉宜堪弥結致(南山王国として14度目)
官生の貢物は、馬21頭と方物、呉宜堪弥結致の貢物は馬52頭・硫黄4,200kg・蘇木780kgであった。また、王は冠服を賜った。
1,403 6 武寧が李氏朝鮮へ向けて出港する。途上、武蔵国六浦(現在の神奈川県横浜市金沢区)に漂着した。
1,403 6 三五郎亹が中山王国に帰還する。
1,403 7 以下の人間が帰還する。
①王茂
②宇座按司
③使者・官生
④呉宜堪弥結致
1,403 7 善佳古耶が北山王国に帰還する。
1,404 1 武寧が中山王国に帰還する。
1,404 1 武寧の使者三五郎亹が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,404 2 攀安知の使者亜都結致が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,404 3 汪応祖の使者隗谷結致が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,404 3 武寧の使者が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,404 4 1 三五郎亹が明に対し、中山王国として35度目の進貢を行う。此の際三五郎亹は、海船を賜った。
1,404 4 25 亜都結致が明に対し、北山王国として13度目の進貢を行う。
1,404 5 21 隗谷結致が明に対し、南山王国として15度目の進貢を行う。此の際隗谷結致は、海船を賜った。
1,404 5 24 武寧の使者が明に対し、中山王国として36度目の進貢を行う。
1,404 6 三五郎亹が中山王国に帰還する。
1,404 7 亜都結致が北山王国に帰還する。
1,404 9 武寧の使者が中山王国に帰還する。
1,404 9 武寧の使者が、進貢の為、明へ向けて出港する。此の際汪応祖の使者も同乗した。
1,404 9 隗谷結致が南山王国に帰還する。
1,404 11 29 以下2名が明に進貢を行う。
①武寧の使者(中山王国として37度目)
②汪応祖の使者(南山王国として16度目)
1,405 明王朝が、琉球からの使節に対応する為、泉州に市舶提挙司付属の「来遠駅」を設立する。
1,405 2 以下2名が帰還する。
①武寧の使者
②汪応祖の使者
1,405 2 武寧の使者三五郎亹が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,405 3 武寧の使者養埠結致が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,405 3 攀安知の使者赤佳結致が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,405 3 汪応祖の使者タキが、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,405 4 8 三五郎亹が明に対し、中山王国として38度目の進貢を行う。
1,405 4 29 赤佳結致が明に対し、北山王国として14度目の進貢を行う。
1,405 5 10 養埠結致が明に対し、中山王国として39度目の進貢を行う。
1,405 5 16 タキが明に対し、南山王国として18度目の進貢を行う。又、李傑が国子監に留学した。
1,405 7 三五郎亹が中山王国に帰還する。
1,405 8 養埠結致が中山王国に帰還する。
1,405 8 赤佳結致が北山王国に帰還する。
1,405 8 タキが南山王国に帰還する。
1,405 8 養埠結致が南山王国に帰還する。
1,405 9 武寧の使者新川大親が暹羅へ向けて出港する。那覇にやって来た暹羅船に従って向かった。
1,405 11 武寧の使者新垣大親が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,405 11 攀安知の使者亜都結致が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,405 11 汪応祖の使者タキが、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,406 1 16 新垣大親が明に対し、中山王国として40度目の進貢を行う。
1,406 1 16 亜都結致が明に対し、北山王国として15度目の進貢を行う。
1,406 1 16 タキが明に対し、南山王国として19度目の進貢を行う。
1,406 2 武寧の使者三五郎亹が、進貢の為、明へ向けて出港する。此の際汪応祖の使者も同乗した。
1,406 3 21 以下2名が明に進貢を行う。
①三五郎亹(中山王国として41度目)
②汪応祖の使者(南山王国として20度目)
1,406 6 新垣大親が中山王国に帰還する。
1,406 6 亜都結致が北山王国に帰還する。
1,406 6 タキが南山王国に帰還する。
1,406 7 新川大親が中山王国に帰還する。
1,406 8 以下2名が帰還する。
①三五郎亹
②汪応祖の使者
1,407 2 武寧の使者タキが、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,407 2 尚思紹王の使者三五郎亹が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,407 4 8 タキが明に対し、南山王国として21度目の進貢を行う。
1,407 5 18 三五郎亹が、中山王国として42度目の進貢を行う。此の際三五郎亹は、武寧の訃報を伝え、尚思紹王を武寧の世子として、第3代明皇帝永楽帝に対し冊封を請うた。
1,407 7 タキが南山王国に帰還する。
1,407 8 三五郎亹が中山王国に帰還する。
1,408 2 尚思紹王の使者大グスク大親が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,408 2 汪応祖の使者曵達姑耶が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,408 4 22 大グスク大親が明に対し、中山王国として43度目の進貢を行う。
1,408 4 22 曵達姑耶が明に対し、南山王国として22度目の進貢を行う。其の後李傑が、帰国の為、南山王国行きの船に同乗した。
1,408 7 大グスク大親が中山王国に帰還する。
1,408 7 以下2名が南山王国に帰還する。
①曵達姑耶
②李傑
1,409 2 尚思紹王の使者三五郎亹が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,409 3 汪応祖の使者大グスク大親が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,409 5 25 三五郎亹が明に対し、中山王国として44度目の進貢を行う。此の際三五郎亹は永楽帝の居る北京まで行き、海船を賜った。
1,409 6 尚思紹王の使者新川大親が李氏朝鮮へ向けて出港する。武寧の側室であった朝鮮人を送還した。
1,409 7 11 大グスク大親が、永楽帝の居る北京へ出向き、明に対し、南山王国として23度目の進貢を行う。又、李傑が再度国子監に留学した。
1,409 8 三五郎亹が中山王国に帰還する。
1,409 10 大グスク大親が南山王国に帰還する。
1,410 1 新川大親が中山王国に帰還する。
1,410 2 尚思紹王の使者中グスク大親が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,410 4 尚思紹王の使者新川大親が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,410 4 9 中グスク大親が明に対し、中山王国として45度目の進貢を行う。
1,410 6 尚思紹王の使者本部大親が李氏朝鮮へ向けて出港する。
1,410 6 尚思紹王の使者慈空禅師が日本へ向けて出港する。
1,410 7 中グスク大親が中山王国に帰還する。
1,410 7 31 新川大親が明に対し、中山王国として46度目の進貢を行う。此の際新川大親は永楽帝の居る北京まで行った。
1,410 10 新川大親が中山王国に帰還する。
1,410 11 尚思紹王の使者三五郎亹が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,411 1 慈空禅師が中山王国に帰還する。
1,411 1 本部大親が中山王国に帰還する。
1,411 1 18 三五郎亹が明に対し、中山王国として47度目の進貢を行う。又、以下2名が国子監に留学した。
①ファイテ
②ジルーク
1,411 2 以下2名の尚思紹王の使者が、進貢の為、明へ向けて出港する。
①程復
②具志頭大親
1,411 4 三五郎亹が中山王国に帰還する。
1,411 4 尚思紹王の使者本部大親が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,411 4 25 以下2名が明に対し、中山王国として48度目の進貢を行う。
①程復
②具志頭大親
程は其の儘帰国した。又、王茂が中山王国の国相に就任した。
1,411 6 尚思紹王の使者慈空禅師が日本へ向けて出港する。
1,411 6 尚思紹王の使者新川大親が李氏朝鮮へ向けて出港する。勝連按司の船で向かった。
1,411 7 具志頭大親が中山王国に帰還する。
1,411 7 17 本部大親が明に対し、中山王国として49度目の進貢を行う。
1,411 10 本部大親が中山王国に帰還する。
1,411 10 尚思紹王の使者三五郎亹が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,411 12 尚思紹王の使者タブチが、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,412 1 汪応祖の使者大グスク大親が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,412 1 慈空禅師が中山王国に帰還する。
1,412 1 新川大親が中山王国に帰還する。
1,412 1 7 三五郎亹が明に対し、中山王国として50度目の進貢を行う。
1,412 1 30 タブチが明に対し、中山王国として51度目の進貢を行う。
1,412 2 三五郎亹が中山王国に帰還する。
1,412 3 尚思紹王の使者具志頭大親が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,412 4 タブチが中山王国に帰還する。
1,412 4 1 大グスク大親が明に対し、南山王国として24度目の進貢を行う。此の際大グスク大親は、海船を賜った。
1,412 5 26 具志頭大親が明に対し、中山王国として52度目の進貢を行う。
1,412 6 大グスク大親が南山王国に帰還する。
1,412 6 尚思紹王の使者慈空禅師が日本へ向けて出港する。
1,412 6 尚思紹王の使者本部大親が李氏朝鮮へ向けて出港する。勝連按司の船で向かった。
1,412 8 具志頭大親が中山王国に帰還する。
1,412 11 尚思紹王の使者島尻大親が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,412 12 尚思紹王の使者タブチが、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,413 1 慈空禅師が中山王国に帰還する。
1,413 1 本部大親が中山王国に帰還する。
1,413 2 汪応祖の使者呉是佳結制が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,413 2 16 島尻大親が明に対し、中山王国として53度目の進貢を行う。
1,413 3 尚思紹王の使者三五郎亹が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,413 3 4 タブチが明に対し、中山王国として54度目の進貢を行う。又、3名の官生が国子監に留学した。
1,413 5 汪応祖の使者李仲が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,413 5 島尻大親が中山王国に帰還する。
1,413 5 タブチが中山王国に帰還する。
1,413 5 20 呉是佳結制が、永楽帝の居る北京へ出向き、明に対し、南山王国として25度目の進貢を行う。此の際呉是佳結制は、永楽銭を賜った。
1,413 5 20 三五郎亹が、永楽帝の居る北京へ出向き、明に対し、中山王国として55度目の進貢を行う。此の際三五郎亹は、永楽銭を賜った。
1,413 6 尚思紹王の使者慈空禅師が日本へ向けて出港する。
1,413 6 尚思紹王の使者本部大親が李氏朝鮮へ向けて出港する。勝連按司の船で向かった。
1,413 8 呉是佳結制が南山王国に帰還する。
1,413 8 三五郎亹が中山王国に帰還する。
1,413 9 12 李仲が、永楽帝の居る北京へ出向き、明に対し、南山王国として26度目の進貢を行う。李仲は病を患い、李傑が福州まで送った。
1,413 10 尚思紹王の使者南風原大親が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,413 12 慈空禅師が中山王国に帰還する。
1,413 12 本部大親が中山王国に帰還する。
1,413 12 李仲が南山王国に帰還する。
1,414 1 20 南風原大親が、永楽帝の居る北京へ出向き、明に対し、中山王国として56度目の進貢を行う。
1,414 6 尚思紹王の使者慈空禅師が日本へ向けて出港する。
1,414 6 尚思紹王の使者本部大親が李氏朝鮮へ向けて出港する。勝連按司の船で向かった。
1,414 6 南風原大親が中山王国に帰還する。
1,414 7 尚思紹王の使者三五郎亹が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,414 10 18 三五郎亹が、永楽帝の居る北京へ出向き、明に対し、中山王国として57度目の進貢を行う。
1,415 1 他魯毎の使者郭是佳結制が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,415 1 三五郎亹が中山王国に帰還する。
1,415 1 6 第4代室町幕府征夷大将軍足利義持が、中山王国へ向けて書簡を記す。慈空禅師が此れを受け取った。
1,415 2 慈空禅師が中山王国に帰還する。
1,415 2 本部大親が中山王国に帰還する。
1,415 2 尚思紹王の使者南風原大親が、進貢の為、明へ向けて出港する。此の際攀安知の使者リュウインも同乗した。
1,415 4 28 郭是佳結制が、永楽帝の居る北京へ出向き、明に対し、南山王国として27度目の進貢を行う。此の際、汪応祖が崩御した事を報告し、冊封を請うた。
1,415 5 27 以下2名が、永楽帝の居る北京へ出向き、明に進貢を行う。
①南風原大親(中山王国として58度目)
②リュウイン(北山王国として16度目)
リュウインは海船を賜った。
1,415 6 尚思紹王の使者慈空禅師が日本へ向けて出港する。
1,415 6 尚思紹王の使者本部大親が李氏朝鮮へ向けて出港する。勝連按司の船で向かった。
1,415 6 尚巴志の使者末吉大親が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,415 7 郭是佳結制が南山王国に帰還する。
1,415 7 6 ヤン・フスが火刑に処せられる。
1,415 8 21 朝、ポルトガル王国アヴィス朝の王ジョアン1世が、マリーン朝のセウタ(現在のモロッコに隣接するスペインの自治都市)への奇襲襲撃の為、息子のエンリケ王子と200隻の船で運ばれた45,000名の部隊を率いて、サン・アマロ海岸に上陸した。セウタの守備隊を油断を突いて攻撃し、日暮れまでに町は占領された。
1,415 9 28 末吉大親が、永楽帝の居る北京へ出向き、明に対し、中山王国として59度目の進貢を行う。
1,415 10 以下2名が帰還する。
①南風原大親
②リュウイン
1,415 11 尚思紹王の使者三五郎亹が、進貢の為、明へ向けて出港する。其の際、冊封使の為の船を送って行った。
1,416 1 末吉大親が中山王国に帰還する。
1,416 2 慈空禅師が中山王国に帰還する。
1,416 2 本部大親が中山王国に帰還する。
1,416 2 他魯毎の使者郭義才が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,416 2 尚思紹王の使者韓完義が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,416 2 25 三五郎亹が、永楽帝の居る北京へ出向き、明に対し、中山王国として60度目の進貢を行う。此の際三五郎亹は、海船を賜った。
1,416 5 6 郭義才が、明に対し、南山王国として28度目の進貢を行う。此の際郭義才は、冊封に対し謝意を示した。
1,416 5 6 韓完義が、明に対し、中山王国として61度目の進貢を行う。
1,416 6 三五郎亹が中山王国に帰還する。
1,416 7 25 仙洞御所が炎上する。紫宸殿も危険な状態に陥った。第101代天皇称光天皇は、自ら日御座の御剣を帯び、紫宸殿の防火を指揮した。其れを見て感動した周囲の人々が、屋根に上り火の粉を防ぎ、紫宸殿は類焼を免れた。
1,416 10 郭義才が南山王国に帰還する。
1,416 10 韓完義が中山王国に帰還する。
1,431 大宮長興が左大史に任命される。しかし、官務の地位は壬生家が握り、大宮は任命されなかった。
1,435 壬生晨照が左大史に任命される。加えて、官務に任ぜられた。
1,443 ハングル文字が発明される。
1,443 10 16 後南朝に与する一党が、内裏を襲撃し、三種の神器の内以下を奪い、比叡山に逃れる。
①天叢雲剣
②八尺瓊勾玉
1,445 3 大宮長興が官務に任命される。室町幕府に訴えた結果であった。
1,445 12 壬生晨照が官務に任命される。大宮長興から官務の地位を奪い返した。大宮は、以下に家司として仕え、室町幕府との関係を維持する事で壬生家に対抗しようとした。
①近衛家
②一条家
1,449 11 大宮長興が官務に任命される。壬生晨照から官務の地位を奪還した。
1,450 1 13 大宮長興が、大宮家の文庫を造営する事を朝廷に申し入れ、朝廷から室町幕府に文庫造営を命じて貰う様訴える。
1,450 6 30 大宮長興が「私の文庫の修繕や宿所を整備する為の費用として、昨年公家が請け負っていた徴収金を武家から出す様にとの命令が有った。そして、其の管理を第17代管領畠山持国に委ねる旨の御教書が出された。播磨国と丹波国に就いては、守護職が請け負い執り仕切る様にとの指示が有り、播磨国の費用として本日100疋が届いた。此れを担当するのは飯尾之種と飯尾之清の両名である。今回は初回なので、先ず130貫文が私の所に直接送られる事となり、本日到着した。此れは喜ばしい事だ」という主旨の発言をする。
1,450 9 14 此の時点で、文庫の修理及び宿所の上層部の移住の為の費用として、諸国の段銭を目安に徴収する事が命じられる予定であった。大宮長興だけでなく壬生晨照からも官文庫修繕が出ており、足利義政自身が畠山持国に管理を委ねた。しかし、使者が尾張国へまだ下向していなかった。
1,450 11 25 官文庫の修繕費用として、段銭500貫文が尾張国から届けられる。
1,452 ボローニャでユダヤ人判別の印の着用義務が課せられる。
1,453 5 29 東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)が第7代オスマン帝国スルタンのメフメト2世によって陥落され、東ローマ帝国が滅亡する。
1,457 12 18 嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣が、再興を目指して後南朝から八尺瓊勾玉を奪い返す。後南朝に好意を持つと見せ掛け、巧みに接近し内情を探った後、夜襲を仕掛けて奪い取った。
1,460 7 10 ゲットー(ユダヤ人隔離居住区)をフランクフルト・アム・マイン(現在のドイツのヘッセン州)に建設される事が決定される。
1,461 フランシスコ会修道士のバルナバ・ダ・テルニがペルージャでモンテ・ディ・ピエタという公営の質屋を設立した。貧民に対する慈善事業として、比較的低い利子で貸出を行った。
1,465 壬生晨照が官務に就任し、大宮長興から官務の地位を奪い返す。
1,466 1 伊勢貞親が、斯波義廉の守護職を罷免させるべく策動していた。
1,466 3 21 三国湊(現在の福井県坂井市三国町山王付近)が内膳司領とされた事に関し、興福寺学侶・衆徒が訴える。
1,466 5 14 此の時点で、後土御門天皇即位の際に壬生晴富に下賜される予定であった1村が、まだ壬生に下賜されていなかった。壬生は、今回仰せつけられなければ、窮困してどうしようもないと嘆いた。
1,466 6 古市胤栄が、斯波義廉から所領を与えられる。
1,466 10 15 第8代室町幕府征夷大将軍足利義政の独裁を支えていた幕府政所執事伊勢貞親が、将軍職後継者に定められていた義政の弟足利義視を処刑すべきだと義政に進言する。此れは諸大名の猛反発を招き、伊勢は京を追われ、近江国、次いで伊勢国へ逃れた。
1,467 一条兼良の文庫である桃華坊文庫には、105kgもの文書が収められていた。
1,467 1 30 畠山義就が、自身の陣営に加わった山名宗全の支援の下、5,000名を率いて上洛する。其の後、大智院派の管領する千本地蔵院に滞在した。そして、相国寺(現在の京都府京都市上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町)に布陣した。畠山は、第8代室町幕府征夷大将軍足利義政に圧力を掛けた。
1,467 2 5 畠山政長が椀飯を務める。
1,467 2 6 足利義政が、春日万里小路(現在の京都府京都市中京区坂本町・舟屋町付近)に所在する畠山政長の屋敷への御成を取り止め、花の御所(現在の京都府京都市上京区築山南半町付近)に畠山義就を招く。義就が足利に圧力を掛けた結果であった。山名宗全の支持を失った政長は、畠山家の家督を事実上奪われた。
1,467 2 9 足利義政が、畠山政長の管領職を罷免し、春日万里小路の屋敷を畠山義就に明け渡す様命じる。政長は此れを拒否し、神保長誠等と共に自身の屋敷の防衛を強化した。同日足利は、山名宗全の屋敷の酒宴に出席し、義就が饗応した。足利は、義就・山名を支持する姿勢を示した。
1,467 2 12 斯波義廉が第20代管領に就任する。
1,467 2 12 室町幕府が、評定始を行う。
1,467 2 15 山名宗全が椀飯を務める。
1,467 2 19 以下2名が御所巻を画策する。
①細川勝元
②畠山政長
花の御所を包囲して威圧し、足利義政に畠山義就征伐の命令を出させる事を意図した。しかし、其の計画を細川の正室春林寺殿が山名宗全に漏らした為、以下が先に花の御所を制圧した。
①山名
②畠山義就
③斯波義廉
そして、内裏から以下2名を迎え入れ、花の御所に避難させる事に成功した。
①後花園上皇
②第103代天皇後土御門天皇
1,467 2 21 足利義政が、畠山家の争いは畠山家同士で決着する様、畠山政長方・畠山義就方の双方に命じる。加えて、細川勝元に政長の援助の中止を命じた。細川は、義就による山名宗全の援助の中止を条件に承諾した。其の後細川は、武士の風上にも置けないとして批判された。山名達は、足利に対し政長・細川の追放を訴え、畠山家の争いは畠山家同士で決着する様命じられているにも拘らず、義就に加勢した。
1,467 2 21 深夜、畠山政長が、春日万里小路の自身の屋敷を焼き払い、神保長誠の助言により、自身の一族や成身院光宣を含む2,000名の兵を率い、上御霊神社(現在の京都府京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町)に布陣する。
1,467 2 22 早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃する。以下3名も加勢した。
①朝倉孝景
②山名宗全
③山名政豊(宗全の命により加勢)
細川勝元は此の段階では動かず、静観した。政長は持ち堪えられず、丸一日の合戦の末、上御霊神社の拝殿に放火し、細川の屋敷に退却した。足利義教の拾男足利義視は義就を支援し、細川は面目を失った。
1,467 2 25 朝倉孝景が、在洛する以下2名を襲撃し、追放する。
①斯波持種
②持種の息子斯波義孝
1,467 3 2 政所内談始が行われる。
1,467 3 28 足利義政への伺事が行われる。
1,467 3 29 足利義視が、畠山政長・畠山義就両陣営に対し和睦を呼び掛ける。しかし失敗に終わった。
1,467 4 細川勝元が、土岐政康を第23代室町幕府伊勢国守護一色義直の統治する伊勢国へ派遣する。
1,467 4 7 節句であった此の日、山名宗全を始めとする諸大名が花の御所に参賀する。しかし、細川勝元は欠席した。諸大名は、細川が戦をする積もりなのだと悟った。
1,467 5 細川勝元方の兵が、山名宗全方の年貢米を略奪する事件を相次いで起こす。更に細川方の兵は、宇治川や淀川等の各地の橋を焼き、四門を固めた。
1,467 5 山名方の分国から京進される年貢を、細川方が以下の国で没収する。
①丹波国
②丹後国
1,467 6 細川勝元が、斯波義敏を第17代室町幕府越前国守護斯波義廉が統治する越前国へ派遣する。義敏は、義廉方を圧迫した。
1,467 6 細川勝元が、赤松政則の家臣宇野政秀を播磨国へ派遣する。赤松は、赤松家の旧領であった播磨国・備前国・美作国に侵攻させた。旧領だった事もあり、旧臣・牢人・寺社・百姓・土民が協力し、数日で旧領を奪回した。
1,467 6 細川勝元が、諸大名に上洛を要請する。畠山政長等が参集した。斯うして、細川の屋敷と花の御所を中心とした京都北部から東に布陣した細川方と、堀川西岸に建てられた山名宗全の屋敷と京都中央に位置する斯波義廉の屋敷を拠点とする山名方の構図がはっきりし、前者が東軍、後者が西軍と呼称された。其々以下の陣容であった。
①東軍
❶細川
❷足利義視
❸政長
❹斯波義敏
❺武田信繁の弐男武田信賢
❻成身院光宣
❼細川勝久
❽京極持清
❾赤松政則
②西軍
❶山名宗全
❷足利義尚
❸畠山義就
❹斯波義廉
❺一色義直
❻朝倉孝景
❼甲斐敏光
❽六角高頼
❾土岐成頼
1,467 6 一色義直が、武田信賢との確執及び若狭国・三河国を復旧する目的から西軍に与した為、丹後国守護職・伊勢国守護職を罷免される。
1,467 6 山名宗全が、大内政弘に出陣を要請する。
1,467 6 4 領地を巡って相論を起こしていた以下2名が、担当奉行を通じて足利義政に証文等を提出する。
①訴人:壬生晨照(担当奉行:諏訪忠郷)
②論人:大宮長興(担当奉行:飯尾貞有)
1,467 6 5 前日の諏訪忠郷の提出した証文に理が有ると考えた飯尾貞有が、余酔と称し、花の御所での証文提出を欠席する。
1,467 6 8 飯尾貞有が、足利義政に大宮長興の証文を提出する。しかし足利は、飯尾の対応を不快とし、壬生晨照の支証に分が有るとして、壬生方の勝訴の裁許を下した。
1,467 6 10 2日前の裁許により、足利義政による御判御教書の発給が決定される。此の当時、斯波義廉が西軍に属していた為、御判御教書の発給に難渋し、前年から発給されていなかった。管領を介さず、御判奉行伊勢貞藤に直接下される事となった。
1,467 6 11 大内政弘が、周防国・長門国を始めとする8ヶ国の数万の兵を率い、山口を出発する。河野通春も此の中に居た。大内の本隊は海路で、以下を経由して瀬戸内海を東上した。
①野上(現在の山口県周南市)
②柳井(現在の山口県)
③屋代島(現在の山口県大島郡周防大島町)
④室津(現在の兵庫県たつの市)
1,467 6 14 足利義政による御判御教書が発給される。広慶院が日野富子に口添えを依頼し、日野が諏方忠郷に言い付け、発給に至った。
1,467 6 21 山名宗全が評定を開き、五辻通大宮東(現在の京都府京都市上京区観世町)に本陣を置く。そして軍勢を招集した。
1,467 6 22 若狭国小浜の一色義直の勢力を駆逐していた武田信賢が上洛する。
1,467 6 22 越前国の斯波義敏が攻め入ったとの報告を受け、斯波義廉が困惑する。
1,467 6 27 夜明け前、花の御所の隣の一色義直の屋敷を襲撃する事を意図し、武田信賢が花の御所と山名宗全の屋敷の中間に位置する実相院(現在の京都府京都市上京区実相院町)を、成身院光宣が実相院に近接し一色の屋敷に隣接する土倉正実坊を其々占拠する。そして夜明け頃、武田・成身院等が、足利義政を味方に付ける事を意図し、一色の屋敷を襲撃し占拠した。一色は直前に脱出したものの屋敷は焼き払われた。此れが成功し、細川勝元は、戦火から保護するという名目で花の御所を占拠して足利義政を保護し、自身の屋敷に本陣を置いた。斯うして東軍は、西軍征伐の大義名分を得た。西軍は、実相院・正実坊の奪還を試みたが、東軍の反撃により失敗し、山名の屋敷付近まで退却した。
1,467 6 27 東軍と西軍が、一条大宮(現在の京都府京都市上京区下石橋南半町)にて市街戦を繰り広げる。そんな中、西軍は山名宗全の屋敷近くの細川勝久の屋敷に目を付け、斯波義廉が、朝倉孝景・甲斐敏光を引き連れて細川の屋敷へ向かった。此れに対し東軍は、京極持清が細川の救援に向かい、一条通を西進して斯波率いる軍を襲撃した。しかし、朝倉の反撃に遭って敗走した。其の後赤松政則が、一条通を南下し、正親町通(現在の京都府京都市上京区の中立売通)を進んで迂回して斯波率いる軍を襲撃した。疲弊していた斯波達は退却した。自邸で抵抗していた細川は、此れを焼き払って退却し、第8代室町幕府阿波国守護細川成之の屋敷に逃げ込んだ。戦闘は翌日の18時迄続いた。最終的に以下や民家等が焼失した。
①行願寺(現在の京都府京都市中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町)
②知恩寺(現在の京都府京都市左京区田中門前町)
1,467 6 27 山名宗全が、分国の兵を招集し、以下が呼応する。
①垣屋氏
②田結庄氏
③八木氏
1,467 6 28 此の日から翌日に掛けて、以下の人間等の屋敷が炎上する。
①細川勝久(屋敷は現在の京都府京都市下京区富小路通四条下る徳正寺町の徳正寺に所在)
②細川教春
③第8代室町幕府淡路国守護細川成春
1,467 6 29 足利義政が両軍に対し、停戦して和睦する様命じる。此れにより両者痛み分けとなったものの、足利と花の御所を押さえた東軍が優位となった状態で停戦となった。
1,467 7 伊勢貞親が、足利義政に呼び戻され、伊勢国から上洛する。此れにより足利義視は孤立した。
1,467 7 足利義視が、牙旗を下され東軍の主将となる。足利は、東軍から山名家の縁者を追放し、東軍と通じた奉行衆を殺害した。
1,467 7 古市胤栄が上洛する。西軍に属した。
1,467 7 4 足利義政が、細川勝元に足利将軍旗を与える。
1,467 7 8 祇園会が中止となる。
1,467 7 12 飯尾為数が、西軍に通じたとして、足利義視に暗殺される。又同日、両軍の間で戦闘が発生し、上京の多くが焼失した。
1,467 7 14 武田氏被官白井備中守が討死する。
1,467 7 14 斯波義廉が、東軍への降参条件として、朝倉孝景の首級を要求する。
1,467 7 15 武田信賢率いる軍が、二条通(現在の京都府京都市中京区)に下る途上、朝倉孝景勢の待ち伏せに遭い、約80名が討ち取られる。
1,467 7 15 後花園上皇が、以下の内容の書簡を伏見宮貞常親王に送り、出家の意思を伝える。
此度の戦は、時の流れとはいえ、只々驚いています。出家は私の本望ではありましたが、在位中は其れを忍んでいました。後土御門天皇の御代の始めの儀式を執り行う事が出来ました。今となると、俗世への執心等無い所に、此の様な大乱が起こり、いよいよ世俗との関わりを断とうと思いまして、出家の本意を遂げようという心境です。後土御門天皇の始めに此の様な事が起こってしまい、只々恥入っております。出家の意思が万が一漏れた場合、武家が止めるでしょう。そうなっては口惜しい事です。無上菩提の妨げにならない様、呉々も内密に進めて下さい。
1,467 7 23 西軍が金閣寺に布陣する。
1,467 8 2 武田信賢率いる軍が、斯波義廉の屋敷を襲撃する。しかし退却した。
1,467 8 5 後花園上皇が、以下2名を室町幕府に遣わせ、停戦を要請する。
①伏見宮貞常親王
②第85代関白一条兼良
しかし、細川勝元は無視した。
1,467 8 8 後花園上皇が、以下2名を室町幕府に遣わせ、再度停戦を要請する。
①足利満詮の息子義賢
②正親町三条実雅
1,467 8 10 武田信賢率いる軍が、斯波義廉の屋敷を襲撃する。しかし数名が朝倉孝景勢に討たれた。
1,467 8 19 大内政弘率いる軍が、20,000〜30,000名の軍勢で播磨国兵庫津(現在の兵庫県神戸市兵庫区)に入る。此の内2,000〜3,000名は河野通春が率いていた。細川勝元は、以下2名に花の御所への動座を求めた。
①後花園上皇
②後土御門天皇
1,467 9 細川勝元等が、伊勢貞藤が西軍に与したとして室町幕府から追放する。
1,467 9 5 大内政弘が、尼崎にて、若衆が敵対した為、焼き討ちにして現地住民を殺害する。
1,467 9 8 大内政弘が、河野水軍・村上水軍・三島水軍等の瀬戸内水軍を率い、大物浦の以下の場所にて、上陸を阻止しようとする細川勝元・赤松政則の軍と交戦し、撃破する。
①難波(現在の兵庫県尼崎市西本町付近)
②水堂(現在の兵庫県尼崎市立花町付近)
此の戦闘により、河野通春等は戦功を挙げた。其の後大内率いる軍は、尼崎を焼き払い、10,000名の兵と2,000隻の船団と共に上洛し、東寺に布陣した。そして後に焼失した梶井門跡(現在の京都府京都市北区紫野下築山町付近)に移り本陣とした。其の後大内達は、兵站基地や大輪田泊(現在の兵庫県神戸市兵庫区)で激しい攻防を展開し、軈て戦線は、摂津国・丹波国・近江国の周辺諸国へと移っていった。通春と河野教通の兄河野通生は、摂津国へ向かった。
1,467 9 8 夜、足利義視が出発する。足利義政が伊勢貞親を呼び戻した事が切っ掛けであった。此の行動に失望した義政は、後継者を足利義尚とする事を検討し始めた。
1,467 9 20 西軍が下京に火を放つ。
1,467 9 20 大内政弘率いる軍が、東寺に布陣する。
1,467 9 21 足利義視が、伊勢国国司木造教親の陣所の中山殿に入る。木造は足利に「北畠教具を頼りなさい」と助言した。足利は、軍事力・経済力を保持していながら、幕政には不干渉で中立の立場を取り、和歌等の貴族的文化を持っていた北畠に惹かれ、伊勢国への逃亡を決意した。其の後足利は、木造に警護され、武者小路通(現在の京都府京都市上京区)を東へ向かい、蛸薬師通(現在の京都府京都市中京区)を経由して一条通(現在の京都府京都市右京区)へ向かった。釘貫門は、東軍の富樫政親の兵が守っていたが、木造は「三条公敦殿は病気で東山に居り、足利殿が見舞いに参るのである。開門せよ」という主旨の発言をした。しかし富樫は不審がって開けず「鍵が無い」と答えた為、木造は、予てから準備していた合鍵で開門した。そして足利は、近江国坂本に入り、石川次郎の館にて、お忍びで来ていた日野富子と暇乞いをし、北条早雲を伴って伊賀国を経由し、伊勢国に入った。
1,467 9 21 大内政弘が上洛する。此れにより、畠山義就を始めとする西軍は勢い付いた。
1,467 9 29 武田信賢率いる軍が、等持院(現在の京都府京都市北区等持院北町)に布陣する畠山義就勢に矢を射掛ける。しかし反撃に遭い、退却するも途中で討たれ、三宝院(現在の京都府京都市伏見区醍醐東大路町)に駆け込んだ。畠山は追撃し、三宝院を攻めた。武田信繁の四男武田元綱が奮戦したものの、東軍は敗れ、畠山によって三宝院に火を放たれ、落とされた。斯うして東軍は、京都の東北部の隅に封じ込められた形となり、追い込まれた。
1,467 10 4 北畠教具が、足利義視を保護する為に長谷寺(現在の奈良県桜井市初瀬)を出発する。そして以下2名を迎え、伊勢国丹生(現在の三重県多気郡多気町)に屋敷を造り、逗留させた。
①足利
②北条早雲
1,467 10 4 足利義政が、畠山義就に停戦勧告を行う。しかし畠山は耳を貸さなかった。
1,467 10 11 畠山義就率いる軍が、土御門内裏(現在の京都府京都市上京区元浄花院町付近)を占拠する。西暦1,467年9月29日から同日迄の戦いで、以下を含む公家の屋敷37戸、
①近衛殿
②鷹司殿
③日野殿
④花山院殿
⑤広橋殿
⑥西園寺殿
及び、以下を含む大名の屋敷や奉行衆の宿所80戸が焼失した。
①吉良氏
②大館氏
③細川教春
④飯尾之種
此れにより、下京の大半は西軍が制圧した形となった。
1,467 10 11 山名宗全率いる軍が、細川勝元の屋敷を襲撃する。
1,467 10 12 以下2名が上洛する。
①細川勝元の家臣秋庭元明
②赤松政則の家臣浦上則宗
秋庭・浦上は、細川の命により大内政弘率いる軍と摂津国で交戦したものの撤退し、大内の後を追っての上洛であった。しかし、此の時点で下京の大半が西軍に占拠されていた為、東寺を経由して東に迂回した。
1,467 10 14 武田信賢率いる軍が、畠山義就勢と交戦する。武田側は24名の首が取られた。
1,467 10 14 以下2名が南禅寺(現在の京都府京都市左京区南禅寺福地町)に布陣する。しかし此れが西軍に察知された。
①秋庭元明
②浦上則宗
1,467 10 16 早朝、東軍本体と連絡が取れずに孤立していた以下2名の布陣していた南禅寺山(現在の京都府京都市左京区南禅寺南禅寺山町付近)に、大内政弘率いる軍が攻撃を開始する。
①秋庭元明
②浦上則宗
此の戦いにより、以下が灰燼に帰した。
①南禅寺
②青蓮院(現在の京都府京都市東山区粟田口三条坊町)
秋庭・浦上の陣は、俄仕立てで防御も不十分であったが、摂津国での雪辱に燃え、大石等を投げ落として防戦し、大内率いる軍を退けた。次に、山名宗全率いる軍が日ノ岡(現在の京都府京都市山科区)から攻め上ったが、大石等を投げ落とされ、退けられた。三番手として、遊佐氏・誉田氏が山科から攻め上った。しかし東軍が木々の間や岩陰から矢の雨を浴びせ、此れを退けた。次に、四番手として甲斐氏・朝倉孝景が如意ヶ嶽から下って攻め込んだが、谷が深く充分な戦闘が行えない中、石礫を浴びて退却した。
1,467 10 18 後花園上皇が、花の御所にて出家する。其の後室町幕府は、後花園上皇に対し、西軍征伐の綸旨の発給を求めるも、後花園上皇は断固として拒否した。
1,467 10 29 武田信賢が、勝定院(現在の京都府京都市下京区七条御所ノ内本町)の陣所を畠山義就率いる軍に攻められ、退却する。
1,467 10 29 南禅寺山を攻めていた西軍が、攻撃を止めて洛中に戻る。以下2名は其の隙に北へ迂回して、吉田山(現在の京都府京都市左京区吉田神楽岡町)・上御霊神社を経由して東軍本陣と合流した。
①秋庭元明
②浦上則宗
以下2名は、其々の家臣と再会出来た事を喜んだものの、東軍の戦況は厳しく、花の御所や其れに隣接する相国寺・細川勝元の屋敷等の上京の拠点に押し込められた。
①細川勝元
②赤松政則
1,467 10 30 以下の人間が率いる西軍30,000名程度の軍勢が、朝倉孝景等と合流し、烏丸小路(現在の京都府京都市の烏丸通)・東洞院通・高倉通を経由して、相国寺及び其の周辺を襲撃する。
①畠山義就
②畠山義統
③大内政弘
④一色義直
⑤土岐成頼
⑥六角高頼
対する東軍は、相国寺にて立て籠もって、以下の人間が率いる3,000騎が迎え撃った。
①細川勝元の猶子細川勝之
②細川勝元の重臣安富元綱
③武田信繁の参男武田国信
三条坊門殿は、以下2名が500騎余で守備していた。
①伊勢国の住人関民部少輔
②備前国の住人松田次郎左衛門尉
しかし、西軍の猛攻の前に直ぐに敗れ、松田は討たれ、関は相国寺に退却した。軈て、西軍に内通した相国寺の僧が、相国寺に火を放つと、高倉殿を守備していた武田信賢と、足利義政邸である烏丸殿を守備していた京極持清は、西軍が相国寺を攻め落としたと思い込み、出雲路(現在の京都府京都市北区出雲路立テ本町)に退却した。火の手を見た西軍は、一斉に相国寺に突入した。相国寺を破られたら隣は花の御所という後が無い東軍は、総力を挙げて白兵戦を展開した。以下3名は、配下500名と馬廻だけで総門を固め、石橋から攻め入る大軍を迎え撃って7度退けたが、東門から西軍が再度攻め込んだ為、東門へ向かい、其処で配下の兵と共に戦死した。
①勝之
②元綱
③元綱の弟安富盛継
次に、大内・土岐が総門を攻め立てた。しかし、浦上則宗等の奮戦により、大内の花の御所侵入は阻止された。其処で、大内率いる軍は、相国寺仏殿の焼け跡から攻め込んだが、以下2名等が防戦し、西軍の侵入を阻止した。
①国信
②赤松政則
しかし東軍は、相国寺を放棄せざるを得なくなった。其の後、時雨が降り、火や煙が少し収まった頃、朝倉・大内が相国寺に陣取り、攻め口が無く戦闘に参加出来なかった一色・六角も此れに続き、相国寺一帯は30,000名の西軍の軍勢に押さえられた。西軍は、討ち取った首級を8輌もの車に載せ、意気揚々と自陣に帰還した。一方足利義政は、日野富子に避難を勧められるも聞かず、いつも通り酒宴に興じていた。
1,467 10 30 後花園上皇が、両軍和睦の為、天下静謐の祈りを神仏に捧げよという主旨の院宣を寺社に発給する。更に後花園上皇は、両軍に勅使を派遣し、和平せよと命じた。しかし細川勝元は、天下静謐とは山名宗全を討つ事であるとし、自軍を鼓舞した。
1,467 10 31 畠山政長が、東軍の危機的状況を打開すべく、4,000名の兵を率い、花の御所の四足門から出撃する。四足門に面した室町通を上り、東へ向かい、相国寺の塔頭の1つである普廣院の焼け跡から西軍に突撃した。細川勝元からの援軍を東からの横槍として投入し、西軍は混乱状態に陥り、6,000名が討たれ、撤退した。特に、一色義直の兵が、相国寺内の蓮池の側で多数の戦死者を出した。西軍は、此れ以上攻めるとなると、花の御所が戦場となる事から、諸将が躊躇い、戦意が低かった事が敗因であった。斯うして畠山は相国寺を掌握したが、其の後朝倉孝景率いる軍が相国寺を奪還した。西軍は相国寺を占拠したものの東軍を攻め切れず、決着の付かない儘戦闘は終了した。前日と併せて、相国寺での戦いは双方に甚大な被害を齎した。
1,467 12 31 朝廷が、西軍に与した以下の公家等の官爵剥奪を決定する。
①正親町三条公治
②葉室教忠
③教忠の息子葉室光忠
④阿野季遠
⑤清水谷実久
此の公家達は、日野家と対立していた三条家の一族や縁者が多く含まれていた。
1,468 野田泰忠が、京都から出て行く西軍を攻撃する為、上植野城(現在の京都府向日市上植野町北小路)に布陣する。
1,468 小早川弘景が沼田荘高山城(現在の広島県三原市高坂町)を攻撃する。
1,468 1 播磨国を統治していた宇野政秀が、諸役免除等の文書を発給する。
1,468 1 24 以下が放火により焼失する。
①建仁寺塔頭
②八坂神社の多宝塔・大門
1,468 2 大内政弘が、分国からの援軍を得て摂津国一帯を荒らし、西軍摂津国守護として、摂津国欠郡(住吉郡(現在の大阪府大阪市)・東生郡(現在の大阪府大阪市))を拠点として、軍事的占領を行う。
1,468 4 初代古河公方足利成氏と西軍諸将の間で攻守同盟が締結される。足利義視が此れを承認した。
1,468 4 細川勝元に金品によって勧誘され、東軍に属していた、侍所所司代多賀高忠配下の目付の骨皮道賢が、300名余の足軽を率い、下京の焼き討ち作戦の為出陣する。稲荷山(現在の京都府京都市伏見区稲荷山官有地)の伏見稲荷大社(現在の京都府京都市伏見区深草藪之内町)に布陣した。稲荷山の在る京都南部は貧困街であった。
1,468 4 9 烏丸通・北大路通(現在の京都府京都市北区小山上総町付近)にて、大内政弘と、東軍の以下2名が交戦する。
①毛利豊元
②小早川煕平
1,468 4 10 骨皮道賢率いる軍が、七条を放火する。
1,468 4 13 朝倉孝景率いる軍が、以下2名が布陣する醍醐(現在の京都府京都市伏見区醍醐東大路町付近)・山科を襲撃する。
①赤松政則
②武田信賢
赤松・武田は退却した。
1,468 4 13 以下の人間が率いる30,000名の軍が、骨皮道賢の布陣していた稲荷山を包囲し、襲撃する。
①山名宗全
②斯波義廉
③朝倉孝景
④畠山義就
⑤大内政弘
多勢に無勢で、敗北を悟った骨皮は、女装して板輿に乗り、逃走を図った。しかし見破られ、朝倉が骨皮を斬首し、稲荷山に火を放った。骨皮の首級は三条河原(現在の京都府京都市中京区大橋町)に梟首され、以下の落首が張り出された。
昨日まで稲荷廻し道賢を今日骨皮と成すぞかはゆき
(昨日まで稲荷山で威張り散らして暴れ廻っていた道賢が、今日は骨と皮になって殺されてしまった。折角女装までして可愛かったのに、お気の毒様)
かはゆきは「哀れ」「可愛い」の2つの意味が掛かっている。
1,468 4 17 京極持清の長男京極勝秀が、六角高頼の居城である観音寺城(現在の滋賀県近江八幡市安土町石寺)を襲撃する。此の時六角は京都に居り、代わりに留守居役の家老伊庭行隆が迎撃した。
1,468 4 23 伊庭行隆が、観音寺城を開城する。
1,468 5 2 丹波国宮田荘(現在の兵庫県丹波篠山市)に就いて、此れ迄通り知行を認めるとの足利義政の御内書が下される。此れは、依頼を受けた女中で摂津満親の娘の春日局による訴訟が以前から行われていた為である。
1,468 6 3 松田貞頼を始めとする15名が、布施貞基に対し、以下の内容の意見状が御前沙汰にて発給される。
近年、御判神領に就いて、本来の領主が訴訟を起こし、返還されるべきかどうかが争われています。訴状を精査したところ、道理に基づいて判断するならば、仮令神領であっても、元々一般の者に返還された前例が有るのかどうかが問題となります。もし其の様な前例が有るのであれば、証文の内容に従い、正しく裁定すべきです。
1,468 6 12 斯波義敏の軍勢が、朝倉孝景勢を越前国から追い出す。
1,468 6 24 大沢重胤が以下の主旨の内容を記す。
私は公用で京都に居り、各地に散在する田地に就いて、義賢を通じて公方に申し上げるべき事である。此れを心得ておく様にとの旨を、新兵衛督局に対し、山科言国の書簡によって申し伝えた。近頃は大小の案件を問わず特に問題は無いが、もし何か申し上げるべき事が有れば、速やかに言上する様にとの事である。広橋綱光・飯尾之種・飯尾為信が申し上げた。
1,468 7 6 京極勝秀が病死する。
1,468 7 23 武田信賢勢が、吉田神社(現在の京都府京都市左京区吉田神楽岡町)に兵を展開する。
1,468 7 23 西軍が以下等に火を放つ。
①吉田神社
②浄蓮華院(現在の京都府京都市伏見区深草鞍ケ谷)
③吉田村(現在の京都府京都市左京区)
1,468 8 21 西軍が、青蓮院・民家を焼失させる。
1,468 8 22 西軍が以下を焼失させる。
①聖護院(現在の京都府京都市左京区聖護院中町)
②法勝寺(現在の京都府京都市左京区岡崎法勝寺町)
1,468 8 23 若狭武田氏被官逸見繁経率いる軍が、東山に出陣する。
1,468 8 24 西軍が清閑寺(現在の京都府京都市東山区清閑寺歌ノ中山町)を破壊する。
1,468 8 30 光明峯寺(現在の京都府京都市東山区今熊野南谷町)が焼失する。
1,468 8 31 逸見繁経率いる軍が、山科郷・勧修寺(現在の京都府京都市山科区勧修寺仁王堂町)から深草(現在の京都府京都市伏見区)に掛けてを襲撃する。
1,468 9 丹後国の西軍が嵯峨に布陣する。
1,468 9 10 西軍が上御霊神社を焼失させる。
1,468 9 12 東軍が以下を焼失させる。
①泉涌寺(現在の京都府京都市東山区泉涌寺山内町)
②妙法院(現在の京都府京都市東山区妙法院前側町)
1,468 9 19 伊勢貞親が朝倉孝景に対し、東軍に勧誘する書簡を送る。此の書簡を読んだ朝倉は、目を疑った。以降足利義政は、細川勝元と共に、西軍勢力の切り崩し工作を行なった。
1,468 9 20 東軍が仁和寺を焼失させる。
1,468 9 23 西軍が大覚寺(現在の京都府京都市右京区嵯峨大沢町)と民家を焼失させる。又同日、以下の寺も焼失した。
①天龍寺(現在の京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町)
②臨川寺(現在の京都府京都市右京区嵯峨天龍寺造路町)
③宝幢寺(現在の京都府京都市左京区上高野釜土町)
1,468 10 丹波国の東軍が、丹後国に侵入し、西軍を破る。
1,468 10 8 足利義視が、足利義政の説得により帰洛する。しかし北条早雲は其の儘伊勢国に留まり、其の後、招聘を受けていた自身の妹北川殿の夫である今川義忠の下へ行った。其の後義視は、義政に対し、西軍との講和を望んでいた日野富子の兄日野勝光の排斥を訴えた。しかし義政は聞き入れず、細川勝元も、義視の訴えに懸念を示した。
1,468 10 18 六角高頼の重臣で陣代の山内政綱が、弓削(現在の滋賀県蒲生郡竜王町)にて、細川勝元方の三井信高を討ち取る。
1,468 11 足利義政が、伊勢貞親を幕政に復帰させる。此れにより、義政と足利義視は対立した。
1,468 11 6 野田泰忠率いる山城国西岡(現在の京都府乙訓郡大山崎町)の被官衆が、寺戸城(現在の京都府向日市寺戸町古城)に布陣し、鶏冠井城(現在の京都府向日市鶏冠井町御屋敷)を攻撃する。
1,468 11 28 斯波義敏が越前国を略掌握し、斯波義廉が苦境に立たされる中、東軍の働き掛けにより、朝倉孝景が、自身の長男朝倉氏景と配下の兵を京都に残し、以下の自身の弟3名と共に、越前国へ下向する。
①朝倉経景
②朝倉景冬
③朝倉光玖
此れは義敏に反撃する為と周囲は理解していた。
1,468 12 河野通春が、河野教通に以下の主旨の書簡を送る。
応仁の乱は延々と続くと思いますが、西軍へご同心頂けるのでしょうか。先年大内方からも依頼が有った筈ですが、其の後お返事を頂いておりません。足利義政殿・足利義視殿の双方が将軍となられた今、其の命令には変わりはありません。此度の摂津国の合戦により、私は守護に補任されましたが、家名を上げる上では、私と教通殿の何方がなっても同じだと思います。
1,468 12 13 弓削にて、信濃守が討死し、三沢彦四郎に太刀一振が与えられる。此の戦いに敗れた以下2名は、軍備を整えた。
①京極持清
②第19代室町幕府近江国守護六角政堯
1,468 12 14 山内政綱が近江国に帰国する。そして、観音寺城の防備を固めた。
1,468 12 21 以下2名率いる軍が観音寺城へ侵攻する。
①京極持清
②第19代室町幕府近江国守護六角政堯
山内政綱は持ち堪える事が出来ず、火を放って敗走した。
1,468 12 23 足利義視に仕えていた有馬元家が、足利義政の命を受けた赤松政則によって殺害される。
1,468 12 26 有馬元家が殺害された事で身の危険を感じた足利義視が、延暦寺へ向けて逃走する。
1,469 越前国守護代甲斐政盛が、李氏朝鮮に使者を派遣する。
1,469 1 後花園上皇が、足利義視征伐の為、東軍に治罰の院宣を発給する。此れを受けて足利義政は、自軍に足利義視征伐を命じた。
1,469 1 足利義政が、御料所である丹後国与謝郡(現在の京都府与謝郡伊根町・与謝野町、現在の京都府宮津市・京丹後市・福知山市)の分郡守護に摂津之親を任じる。此れにより摂津は、第19代室町幕府丹後国守護に就任した。又、間人(現在の京都府京丹後市丹後町)の門四郎家国が、李氏朝鮮に派遣された。
1,469 1 5 西軍が、比叡山に使いを出して足利義視を迎え入れる。
1,469 1 7 延暦寺に立ち寄っていた足利義視が、山名宗全の屋敷に入る。此れにより足利は、西軍に寝返った。勢い付いた西軍は、足利を将軍とする「西幕府」を形成した。
1,469 1 24 数日前に朝倉孝景が斯波義敏に降参したとの報が京都に齎される。
1,469 1 27 足利成氏が、足利義政の代官長尾景人の守備する下野国足利荘(現在の栃木県足利市)への攻撃を開始する。成氏は、足利義視が西軍に参加するのを待ち、攻撃の機会を窺っていた。
1,469 1 31 西軍が山科を襲撃する。武田信賢は、山科郷民と協力して此れを退けた。
1,469 3 12 足利義政が、越前国人深町久清に対し、朝倉孝景に従い斯波義廉を討つ様命じる。足利は深町の知行の安堵を約束した。
1,469 5 大内政弘の要請により、足利義視の内書が鎮西・四国の諸大名に多数送付される。
1,469 5 武田信賢が、足利義政から丹後国を与えられ、第20代室町幕府丹後国守護に就任する。同時に、摂津之親の後任として、細川政国が、丹後国与謝郡の分郡守護に任じられた。
1,469 5 4 山名是豊の息子の山名頼忠が、九日城(現在の兵庫県豊岡市九日市上町)を攻める。
1,469 5 12 逸見真正が、以下の人間を丹後国に討ち入らせる。
①粟屋賢家
②温品氏
③青江氏
此れを受けて細川政国も、天竺賢実率いる軍を丹後国へ差し向けた。細川勢は優位に戦いを進め、一色氏の勢力を宮津湾や府中(現在の京都府宮津市)に追い込むが、丹後国守護代延永直信率いる軍が、必死の防戦に努めた。
1,469 5 30 谷ヶ堂(現在の京都府京都市西京区松室地家山)を本拠とする、野田泰忠率いる西岡被官衆が、西軍の鶏冠井政益率いる軍が籠城していた鶏冠井城を襲撃する。
1,469 6 六角高頼が、観音寺城奪還の為出陣する。此れを受けて室町幕府は、六角政堯の近江国守護職を罷免し、京極持清を第20代室町幕府近江国守護に据えた。其の後高頼は、観音寺城を奪還し、修復して籠城した。京極持清は、以下2名を観音寺城に派遣した。
①多賀高忠
②政堯
対する高頼は、以下3名を観音寺城と其の支城及び砦に配置し、東軍を撃退した。
①山内政綱
②伊庭貞隆
③伊庭行隆
1,469 6 観音寺城に派遣された多賀高忠に代わり、武田信賢に京都の東口の確保が命じられる。武田は、瓜生山(現在の京都府京都市左京区一乗寺松原町)に北白川城を築かせた。
1,469 6 2 西軍が、松尾(現在の京都府京都市西京区松尾谷松尾山町付近)の谷の城を落とす。又同日、以下と民家が焼失した。
①西芳寺(現在の京都府京都市西京区松尾神ケ谷町)
②峰ヶ堂(現在の京都府京都市西京区御陵峰ケ堂)
1,469 6 2 畠山義就率いる軍が、谷ヶ堂を攻め落とす。西岡被官衆は丹波国へ逃亡した。
1,469 6 13 西幕府が御教書を発する。其処には河野通春の名前が有った。
1,469 6 30 朝倉孝景が、深町久清に加勢を依頼する。朝倉は深町に、知行の安堵を約束した。
1,469 7 24 西軍が以下に攻め込む。
①摂津国
②丹波国
1,469 7 28 以下2名が、丸岡城(現在の京都府亀岡市余部町古城)の防備に当たる。
①野田泰忠
②細川勝元方の安富又次郎
1,469 8 9 伊勢貞親が朝倉孝景に対し「『貴方の側に参じて忠誠を尽くすべき』とのご意向を述べられ、実に立派な事でございます。では、御内書を書いて下さい」という主旨の書簡を送る。
1,469 8 17 東軍が以下の寺を焼失させる。
①清水寺
②六道珍皇寺(現在の京都府京都市東山区小松町)
③建仁寺(現在の京都府京都市東山区大和大路通四条下る小松町)
1,469 8 18 東軍が籠城していた安照寺城(現在の大阪府高槻市真上町)が西軍に落とされる。此れにより、野田泰忠の下に、以下2名の抱えている忍頂寺城(現在の大阪府茨木市)が苦戦しているとの報告が入った。
①薬師寺長忠
②四宮長能
1,469 9 多賀高忠率いる軍が、観音寺城を落城させる。其の後東軍は、六角高頼を追撃した。多賀は足利義政から感状を受け取った。
1,469 9 延永直信率いる軍が、山名宗全の命で但馬国から駆け付けた以下2名率いる援軍と共に、普甲寺(現在の京都府宮津市小田)に布陣する。
①垣屋宗忠の息子垣屋平右衛門尉
②垣屋出雲守
そして、細川勝元方の天竺賢実等と交戦し、天竺を討った。
1,469 9 2 大内政弘率いる軍が、東軍に帰順した池田氏の居城である池田城(現在の大阪府池田市城山町)を落城させる。
1,469 9 8 武田信賢勢の以下2名が、丹後国へ攻め入る。
①逸見繁経
②粟屋元隆
しかし、一色氏被官で丹後国守護代の延永直信が此れを退けた。
1,469 11 18 興福寺の新供衆が、三国湊の件に関し、朝倉孝景に書簡を送る。
1,469 11 19 池田城に居た大内政弘率いる軍が、以下2名の率いる大軍を前に、兵庫の確保に失敗する。
①山名是豊
②宇野政秀
1,469 11 25 大内政弘率いる軍が池田城を出発する。此の頃野田泰忠は丹波国に居た。
1,469 12 24 南朝皇胤の末裔を称する兄弟が、以下2ヶ所で蜂起する。
①吉野(西陣南帝(兄)が蜂起)
②熊野(西陣南帝の弟が蜂起)
1,470 河野教通が、第9代李氏朝鮮国王成宗に使者を遣わせ、土貢を献上する。
1,470 1 10 伊勢貞親が朝倉孝景に対し「朝倉殿の注進の旨を足利義政殿に披露した所、京都での情報と大きく違っている。先ずは戦功を以って態度を示して下さい」という主旨の書簡を送る。足利は、御内書や国拝領御判を受け取っておきながら合戦を行わない朝倉を信用していなかった。此の時越前国の内外は、西軍が大勢を占めていた。朝倉は、合戦を仕掛けて敗北すれば、東軍の情勢が悪化する為、表向きは西軍に従いながらも、越前国坂北郡(現在の福井県あわら市・坂井市三国町・丸岡町地区)の深町氏等の有力国人や大寺社を味方に勧誘する等して、合戦の準備を進めた。
1,470 1 14 野田泰忠率いる軍が、山名是豊に合流する。其の後は、以下等を転戦した。
①神呪寺(現在の兵庫県西宮市甲山町)
②山田荘(現在の大阪府吹田市)
③三宅館(現在の大阪府吹田市)
1,470 2 1 野田泰忠が、西軍が山崎(現在の京都府乙訓郡大山崎町字大山崎)に出陣するとの報告を受け、山名是豊率いる軍と共に三宅氏の陣営を出発し、山崎へ向かう。其の後は山崎城(現在の京都府乙訓郡大山崎町字大山崎)に砦を構えた。
1,470 2 15 山崎城にて合戦が行われる。
1,470 3 畠山義就が勝龍寺(現在の京都府長岡京市勝竜寺)に入り、陣城とする。
1,470 3 7 以下に出陣していた西軍が、山崎にて東軍と交戦する。
①勝龍寺(現在の京都府長岡京市勝竜寺)
②植野(現在の京都府乙訓郡大山崎町下植野付近)
1,470 4 1 小倉宮の血を引く西陣南帝が、紀伊国有田郡(現在の和歌山県)にて挙兵する。
1,470 4 9 西陣南帝が紀伊国海草郡藤白(現在の和歌山県海南市)に入る。郡の者の大半が西陣南帝に味方した。
1,470 4 30 西陣南帝が大和国に入る。
1,470 5 後花園上皇の、後南朝の残党征伐の治罰の綸旨が発せられる。
1,470 5 14 勝龍寺城の搦手北の門で東軍と西軍が交戦する。安富又次郎が、お供を連れて以下2ヶ所を焼き払った。
①馬場(現在の京都府長岡京市)
②古市(現在の京都府長岡京市神足麦生付近)
1,470 5 16 山名是豊率いる軍が勝龍寺城に出陣する。其の後、野田泰忠率いる西岡被官衆は、東軍の布陣する以下3ヶ所に火を放った。
①上里館(現在の京都府京都市西京区の上里地区)
②石見城(現在の京都府京都市西京区大原野石見町)
③井内館(現在の京都府京都府長岡京市井ノ内地区)
そして、向日河原(小畑川の河原)で合戦が行われた。
1,470 6 3 山城国淀(現在の京都府京都市伏見区淀本町)にて東軍と西軍が交戦する。
1,470 6 10 山名宗全を始めとする西軍諸将が西陣南帝を天皇に擁立し、京都御所に迎え入れようとしているとの風聞が立ち始める。山名は、以下3名を味方に付けている東軍の権威に対抗する為に、西陣南帝の天皇擁立を画策していた。
①後土御門天皇
②後花園上皇
③足利義政
しかし、後南朝と所領が重なっていた畠山義就は、西陣南帝の天皇擁立に反対した。
1,470 6 19 摂津国茨木にて東軍と西軍が交戦する。
1,470 7 此の頃から2ヶ月程、多賀高忠が築城させた如意ヶ嶽城(現在の京都府京都市左京区鹿ケ谷菖蒲谷町)を拠点に、以下2名や被官が山科や勧修寺へ出陣し、西軍と戦う。
①武田国信
②多賀高忠
1,470 7 12 西軍が賀茂御祖神社(現在の京都府京都市左京区下鴨泉川町)を焼失させる。又同日、東軍は八坂神社を焼失させた。
1,470 7 23 畠山義就が、足利義視を始めとする西軍諸将の説得により、西陣南帝の天皇擁立を了承する。
1,470 8 15 勧修寺に立て籠もり防衛線を敷いていた逸見繁経率いる軍が、西軍の襲撃を受ける。結果、逸見を始めとする200名が討たれ、勧修寺は燃やされた。
1,470 8 16 西軍が、醍醐寺(現在の京都府京都市伏見区醍醐東大路町)の東軍を破り、醍醐寺・民家を焼失させる。
1,470 9 14 山科家が、広橋綱光を通じて丹波国宮田荘の当知行安堵を室町幕府に申請する。
1,470 9 15 朝倉孝景が、坂井郡河口荘本庄郷(現在の福井県あわら市)・大口郷(現在の福井県あわら市)の済物を押領する。
1,470 10 武田信賢率いる軍が、如意ヶ嶽城に集結する。体制の立て直しを行った。しかし此の頃から両軍で、寝返りが横行し始めた。
1,470 11 8 少将殿御局が、長坂口(現在の京都府京都市北区鷹峯千束町・鷹峯一ノ坂・鷹峯長坂・鷹峯堂ノ庭町)の関所の件に於ける山科家からの依頼状を紛失した為、第17代室町幕府武家伝奏広橋綱光に女房奉書を再提出する。
1,470 11 22 山科言国が申し上げた長坂口の関所の件に就いて、女中を通じて少将殿御局に取り次ぎ、足利義政に伺いを立てた所、足利から、奉行に命じて奉書をを作成させる様にとの沙汰が有った。此れにより、山科家に当知行安堵の奉行人奉書が発給される事となったが、同日、広橋綱光が、飯尾為信に対し以下の主旨の書簡を送る。
①広橋頼光殿が此の様な書簡を下され、大沢重胤が持参して奉書を整えました。
②山科言国が申し上げた長坂口の関所の管理に就いて、従来の知行に従い、奉書を作成する様に殿御沙汰が有りました。
此の件に就いては、少将殿御局を通じて申し上げた所、御渡しされたので、ご承知おき下さい。
1,471 1 14 山名是豊が、備後国へ帰国する為の条件として、山崎城の守衛を命じられる。
1,471 2 武田元綱が、毛利豊元の誘いに乗り、大内政弘に与し、西軍に寝返る。此の頃若狭武田氏が分郡守護を努める安芸国は、大内を始めとする西軍に押されていた。
1,471 3 粟生(現在の京都府長岡京市)にて東軍と西軍が交戦する。山名是豊も東軍として参戦した。
1,471 3 20 細川勝元方から、朝倉孝景が斯波義廉の命に背いて東軍に参仕し、朝倉氏景も、越前国へ下向し、斯波義敏の被官となった旨が第21世興福寺大乗院(現在の奈良県奈良市高畑町)門主政覚に伝えられる。
1,471 4 13 山名頼忠が、円山川東岸に布陣し、奈佐太郎の支援を受けて、九日城に居た西軍の垣屋宗忠を攻撃する。垣屋は、山名宗全の孫亀石丸を養育しつつ、居留守役として在城していた。垣屋平右衛門尉が宵田城(現在の兵庫県豊岡市日高町久斗)から駆け付け、奈佐等を富辺羅山(現在の兵庫県豊岡市戸牧)に追い崩した。其の敗報を聞いた山名は敗走した。最終的に奈佐氏は滅びた。
1,471 4 21 垣屋宗忠が、普甲寺にて以下と交戦する。
①武田氏
②天竺氏
1,471 4 23 九日城の河向かいに布陣していた山名頼忠が、九日城を攻める。山名に味方した奈佐太郎は、富辺羅山に布陣し、一色信長を支援した以下2名を挟み撃ちにした。
①垣屋平右衛門尉
②垣屋出雲守
垣屋氏は、富辺羅山を集中的に攻め、此れを破った為、山名は退却した。平右衛門尉と出雲守は反撃に転じ、山名を普甲寺に押し返し、以下を破った。
①武田信賢
②天竺賢実
此の普甲寺の戦は乱戦となり、出雲守は、戦線が勝っていたにも拘らず、負けたと思い戦線を離脱して九日城に退却し、物笑いとなった。九日城には、山名宗全が、家臣であった宗忠と共に、孫の亀王丸を養育しながら住んだ。
1,471 6 9 以下の書簡が朝倉孝景宛に送付される。
①足利義政が此度の条々は全て承知し、朝倉氏景の東軍帰属も明白となった為、重ねての御内書が発給された旨を伝える細川勝元の書簡
②足利義政による、朝倉を第18代室町幕府越前国守護に補任する旨の書かれた御内書・管領副状
1,471 6 20 武田信賢が病死する。
1,471 6 26 夜、朝倉氏景が、細川成之の屋敷に馳せ参じる。
1,471 6 27 朝倉氏景が、征夷大将軍直臣の待遇で足利義政に謁見する。朝倉は、御剣を拝領した。
1,471 7 粟生にて東軍と西軍が交戦する。山名是豊も東軍として参戦した。
1,471 7 11 朝倉氏景が越前国に入る。若狭国を経由したが、越前国下向の手配は全て赤松氏被官中村三郎が行った。
1,471 8 京都で天然痘が流行する。此れにより両軍の士気は大きく下がった。
1,471 8 9 勝龍寺城にて東軍と西軍が交戦する。山名是豊も東軍として参戦した。
1,471 9 10 西軍諸将の要請を受けた西陣南帝が、北野天満宮松梅院に入る。そして、西陣南帝は天皇として擁立された。山名宗全は、自身の妹の居る西陣(現在の京都府京都市上京区薬師町付近)近くに所在する比丘尼寺の安山院を行在所とし、西陣南帝を迎えた。四条氏が、西陣南帝に奉仕した。
1,471 11 16 山科言国が申し上げた諸々の件に就いて、女中を通じて少将殿御局に取り次ぎ、更に飯尾為信経由で伺いを立てた所、足利義政から、奉書を作成する様にとの沙汰が発せられる。
1,472 西陣南帝の天皇擁立に賛成していた足利義視が、反対に回る。足利は、朝倉孝景の寝返りによって東軍が勢いを取り戻しつつあった事から、態度を変えた。
1,472 2 23 以下2名による和睦交渉が開始される。
①細川勝元
②山名宗全
此の時点で東軍は、大義名分や戦況に於いて優位に立っていた。西軍の降伏で話が進んでいたが、以下3名が反対し、不調に終わった。
①東軍
❶赤松政則
②西軍
❶畠山義就
❷大内政弘
1,472 6 細川勝元が、細川勝之や家臣と共に髷を落とし、隠居の姿勢を見せ、自身の長男である細川政元に家督を継がせる意向を示す。政元の母は山名宗全の養女で山名熙貴の娘の春林寺殿であり、山名家の血を引く政元に家督を継がせる事で、和睦を進める狙いが有った。
1,472 6 山名宗全が切腹を試みるが、未遂に終わる。
1,472 6 16 関目彦右衛門尉宛の室町幕府奉行人連署奉書に、以下の主旨の内容が記される。
津田隆光が、借りた物に就いて室町幕府に提訴した。以前、論人である関目は、支状を提出した儘在国しているという。余りにも勝手な振る舞いであり、言語道断である。不日政所に参る様に。
1,472 9 山名宗全が、家督を山名政豊に譲り、隠居する。
1,472 12 24 津田隆光宛の室町幕府奉行人連署奉書に、以下の主旨の内容が記される。
関目彦右衛門尉は、西暦1,466年の徳政令を破棄する奉書を得ていたが、借状には此の旨が掲載されていなかった為に、関目の主張を退ける。津田は質券の地である近江国富田荘(現在の滋賀県長浜市)の内の知行分を以って本利一倍分を勘定する様に。
1,473 ボローニャでモンテ・ディ・ピエタが設立される。
1,473 ボローニャでモンテ・ディ・ピエタが廃業する。
1,473 1 1 小早川煕平が死去する。此れを受けて足利義視は、煕平の所領を小早川弘景に与える御内書を発した。
1,473 4 15 山名宗全が病死する。其の後西陣南帝は、西軍諸将によって追放された。和睦交渉は、山名政豊が引き継いだ。
1,473 5 9 以下2名が和睦交渉を行う。
①細川勝元
②山名政豊
しかし、畠山義就が承知せず不調に終わった。
1,473 5 19 足利義視が、一条兼良に進退を相談する書簡を送る。
1,473 6 6 細川勝元が死去する。和睦交渉は細川政元が引き継いだ。
1,473 6 8 足利義政が、細川勝元の死去を受けて、吉川元経等に忠節を求める。
1,473 10 21 小早川弘景が、高山城へ向けて出発する。
1,473 11 22 東軍の沼田小早川方の浦平五が、高山城にて討死する。
1,473 11 26 小早川元平が、室町幕府の命により、西軍に与する者を成敗し、領内に陣取る近国の兵を退散させる。
1,473 12 11 河野教通が、東幕府からの伊予国守護職の補任状を受け取る。此れにより河野は、第17代室町幕府伊予国守護に就任した。
1,474 ボローニャで奢侈条例の一部として、ユダヤ人の衣装に関する規制が設けられる。
1,474 1 7 足利義政が征夷大将軍職を足利義尚に譲り、義尚が第9代室町幕府征夷大将軍に補任される。
1,474 2 以下2名が和睦交渉を行う。
①細川政元
②山名政豊
しかし、此処でも以下3名は反対し、不調に終わった。
①東軍
❶赤松政則
②西軍
❶畠山義就
❷大内政弘
1,474 2 朝倉孝景が、日野川(現在の福井県)の合戦で、斯波義廉の家臣である増沢祐徳を破る。更に、杣山城(現在の福井県南条郡南越前町社谷)に籠城していた越前国守護代甲斐敏光も撃破した。其の後杣山城は、河合宗清の居城となり、朝倉の支配下となった。
1,474 2 12 政所内評定始が再開される。
1,474 2 12 足利義視が、小早川弘景に小早川煕平の遺産を委ねる。
1,474 3 4 一休宗純が、後土御門天皇の勅命により住持となる。
1,474 3 20 足利義政が、花の御所を足利義尚に譲り、小川殿(現在の京都府京都市上京区寺之内通堀川東入ル百々町)に移る。以下2名は花の御所に残った。
①日野富子
②足利義尚
第180世興福寺別当尋尊は「政務は日野殿が取り仕切り、足利殿は酒に溺れ、諸大名は犬笠懸に興じ、まるで天下泰平の世の様だ」と評した。
1,474 3 28 足利義尚が内裏に参内する。
1,474 3 29 足利義尚が内裏に参内する。
1,474 3 29 畠山義就が、東寺の僧坊に風呂銭を課す。
1,474 4 野田泰忠が、軍忠を注進し、細川政国の確認を得る。
1,474 4 18 足利義視が、以下の国の国人に対し、高山城攻めの合力を命じる。
①備後国
②安芸国
1,474 4 19 以下2名が単独で和睦する。
①細川政元
②山名政豊
仲介を務めたのは武田国信であった。武田に突き付けられた和睦の条件の1つとして、一色義直と戦って奪った丹後国の所領を返還し、丹後国守護職を一色義春へ返付する、というものが有った。又同日、細川家と山名家を隔てる空堀には橋が架けられ、東陣(現在の京都府京都市上京区上小川町付近)から山名の陣を通って北野天満宮に参詣する者や、西軍の勢力下であった下京から東陣へ物を売る商人等が往来を始めた。
1,474 5 1 一色義直が、船岡山(現在の京都府京都市北区紫野北舟岡町)の陣営を撤収させる。
1,474 5 1 山名政豊が、自身の長男の山名常豊を連れて、足利義尚に謁見する。政豊の東幕府への帰参が認められた。
1,474 5 9 山名政豊勢と畠山義就勢の足軽同士が交戦する。御構外の山名占拠の堀川以西が東軍支配下となり、人・物の往来が緩和された。
1,474 5 16 和泉国上半国守護家の細川政有が、足利義政から偏諱を受ける。
1,474 5 31 甲斐敏光率いる軍が、坂井郡や甲斐国に逃れた牢人と合流し、九頭竜川(現在の福井県)を超えて、岡保(現在の福井県福井市河水町)に進軍し、朝倉孝景率いる軍を攻撃、戦闘が開始される。以下で激戦が繰り広げられた。
①殿下(現在の福井県福井市)
②桶田(現在の福井県福井市河増町)
朝倉氏景が敵を多数討ち取った。
1,474 6 15 足利義政が、一色義春を引見する。
1,474 6 15 此の頃、甲斐敏光勢と朝倉孝景勢の戦闘が、波着寺(現在の福井県福井市成願寺町)周辺に移る。
1,474 6 21 足利義視が、一色氏の知行していた領国を其々の忠誠に応じて以下の通り分配する決定を下す。
①三河国:讃州細川家
②伊勢国・丹後国:一色義春
③若狭国:武田国信
此れにより、一色は第22代室町幕府丹後国守護に就任した。又、同年足利義政は、第26代室町幕府伊勢国守護北畠政郷に、伊勢国半国を一色に返付する様命じたが、北畠は此れを拒否した。
1,474 6 29 一色義春に丹後国守護職が返付された事に抵抗する以下2名の家臣が、一色勢と丹後国で交戦する。
①武田国信
②細川政国
此の時点で、武田・細川は丹後国を掌握していた。
1,474 6 29 朝倉孝景が、西軍方の富樫成春の弐男富樫幸千代と連携し、波着寺周辺にて甲斐敏光率いる軍と激戦を繰り広げる。波着寺周辺には、半助谷と呼ばれる場所が在り、其処には甲斐と親しい武将の館が在った。此処で敗れれば本拠地に攻め込まれかねない状況であった朝倉は、必死の防戦で、甲斐氏・千福中書増沢・甲斐法花院舎弟を悉く討ち、勝利した。平泉寺(現在の福井県勝山市平泉寺町平泉寺)の衆も多くが損害を受けた。
1,474 6 29 甲斐敏光方が多く討たれた事を知った真盛が、卒塔婆を大畔縄手(現在の福井県福井市岡西谷町付近)に建設する。岡ノ西光寺(現在の福井県福井市次郎丸町)にて百万遍の回向を行なった。
1,474 7 斎藤妙椿が、数千騎を率いて越前国に入り、以下の間を調定の末和解させる。
①朝倉孝景
②甲斐敏光
此の頃、西軍諸将が和睦しようとしたが、斎藤の反対により実現しなかった。
1,474 8 5 上京中御門方の西軍の足軽が、同じ西軍の大内政弘勢と交戦する。
1,474 8 8 山名政豊を始めとする西軍諸将が、足利義尚に出仕し謁見する。西軍は、足利義視の征夷大将軍擁立の姿勢を一変させ、其の方針転換を名実共に対外的に示した。此の姿勢に以下の人間が反発した。
①畠山義就
②土岐成頼
③大内政弘
1,474 8 13 山名政豊勢が、猪熊通・堀川通の在家3〜4町分と以下を放火する。
①二条大宮
②岩神神社(現在の京都府京都市右京区京北熊田町雨ヶ岳)
1,474 8 14 畠山政長勢が以下を放火する。
①三条坊門小路
②猪熊通
③堀川通
④油小路通
1,474 8 19 大内政弘が、本能寺(現在の京都府京都市中京区下本能寺前町)から猪熊通・堀川通・油小路通周辺に布陣する。又、畠山義就は、二条大宮から三条大宮(現在の京都府京都市中京区)に掛けて布陣した。
1,474 8 24 西軍の足軽が以下を放火する。
①三条坊門小路
②油小路通西面
一方東軍は、河野教通と通じた中川家を始めとする勢力が、土岐成頼の屋敷を攻め落とし、周囲も含めて放火した。
1,474 8 25 東軍が以下を放火する。
①下京土岐第
②妙行寺
③法華寺(現在の京都府京都市下京区西新屋敷中之町)
1,474 8 30 以下等が、大内政弘に呼応して京都に入る。
①大和国添上郡古市(現在の奈良県奈良市古市町)を拠点とする古市氏
②大和国高市郡越智荘(現在の奈良県高市郡高取町付近)を拠点とする越智氏
1,474 9 7 西軍が北野千本に放火する。
1,474 9 7 花の御所から、以下2名に五劔が下される。
①山名政豊
②細川政元
1,474 10 丹後国の一色義春勢が以下2名の家臣を破り、旧領回復に成功する。
①武田国信
②細川政国
武田は援軍を丹後国に送る事が出来ず、主将の逸見真正は自害した。此の敗北を受けて武田は出家した。
1,475 此の年、京都で洪水・暴風雨等の自然災害が頻発する。
1,475 1 25 高山城が、小早川弘景率いる西軍の攻撃により、落城寸前となる。此れを受けて足利義政は、領主の小早川元平を急ぎ帰国させた。又足利は、再度毛利豊元を呼び寄せた。小早川敬平も京都から戻って来た。足利は御教書を発し、近隣の豪族に敬平を助ける様命じた。此れによって東軍は盛り返した。
1,475 2 18 室町幕府が、再度毛利豊元を招く。
1,475 4 7 両軍が備後国で交戦する。毛利豊元は、自身の家臣である国司有純を遣わせ、情勢を報告させた。
1,475 4 10 両軍が以下にて交戦する。
①沼田荘真良(現在の広島県三原市高坂町)
②沼田荘本郷(現在の広島県三原市)
1,475 4 26 此の時点で西軍は、高山城の包囲を続けていた。
1,475 5 3 室町幕府が、重ねて山名是豊に小早川元平への合力を命じる。
1,475 5 6 細川政国が、室町幕府の命により、以下の国の被官等に、小早川元平への合力を命じる。
①備前国
②備中国
1,475 5 9 両軍が、高山城の麓で交戦する。
1,475 5 15 小早川元平が、西軍が提示した高山城の包囲を解く条件である、以下の割譲案を呑む。
①沼田荘熊井田本郷(現在の広島県三原市沼田西町松江)
②沼田荘安直本郷(現在の広島県三原市沼田西町納所・小原・松江・惣定一帯)
③沼田荘梨子羽郷(現在の広島県三原市本郷地区)
1,475 5 23 西軍が、以下の調停により、高山城の包囲を解き始める。
①宮元信
②宮盛忠
又、庄元資以下の東軍も撤退した。
1,475 5 26 西軍が高山城から撤退する。
1,476 足利義政が、一色氏の三河国の旧領を改めて一色義春に与える。しかし、第11代室町幕府三河国守護細川成之は、此れを拒み、国領を渡さなかった。
1,476 5 畠山政長が、河内国を確保する事を意図し、遊佐長直を派遣する。
1,476 9 以下2名が、三河国に出陣し、三河国守護代東条国氏を自害に追い込む。
①一色義直
②一色義春
1,476 10 1 足利義政が、大内政弘に和睦を求める書簡を送る。其の後大内は、足利義視と共に東軍との和睦交渉に当たった。
1,476 11 29 花の御所が炎上する。
1,477 1 5 足利義視が足利義政に対し、他意の無い事を伝える書簡を送る。
1,477 5 31 河野通春が、東軍に内通していた大内政弘の仲介によって東軍に下り、足利義尚の安堵を取り付ける。
1,477 6 室町幕府が、伊勢国北半国守護職を一色義春に与える。同職は北畠政郷が補任されていたが、罷免しない儘一色に与えられた為、現地の代官同士が揉め、一色は奪還を意図し現地入りし、合戦に発展した。結果、北畠が勝利した。周囲は、北畠が畠山義就に味方するのではないかと警戒したが、杞憂に終わり、北畠は、伊勢国北半国守護職に再任された。
1,477 6 13 足利義視が、大内政弘経由で日野富子へ和睦の仲介料を支払う。
1,477 8 足利義視が、自身の娘を日野富子の下に送り、猶子にして貰う。
1,477 10 東条国氏の後継者の東条修理亮が、自身の京都の屋敷を一色義直に攻められ、一族郎党300名と共に、大和国へ逃亡する。
1,477 10 27 畠山義就が、河内国へ向けて京都を出発する。1ヶ月前くらいから畠山が京都を離れる噂は立っており、畠山は、以下の大和国人等と打ち合わせを行なっていた。
①越智氏
②古市氏
1,477 10 29 畠山義就が、以下を含む250騎・具足を装着した2,000名余を率い山城国から河内国牧(現在の大阪府枚方市牧野地区)に入る。
①甲斐庄氏19騎
②誉田氏42騎
其の後畠山は、河内国守護所で、河内国守護代遊佐長直の籠城する若江城(現在の大阪府東大阪市若江北町)を攻撃した。以下も河内国に入り、畠山に加勢した。
①越智氏
②古市氏
畠山率いる軍は、天王寺に移り、堺の占領を目指したが、和田助直によって阻まれ、河内国に引き返した。
1,477 11 高田為長が河内国・大和国の畠山政長方と共に、妻の実家である飯高城を攻撃する。境界争いが発端であった。古市氏の後詰めが遅く、飯高城主毛利吉信は自害し、高田は勝利した。
1,477 11 2 畠山義就率いる軍が、東軍の守備していた客坊城(現在の大阪府東大阪市客坊町の市杵嶋姫神社)を襲撃する。結果、畠山勢が客坊城を落城させた。
1,477 11 2 室町幕府が、畠山義就追討の綸旨を奏請する。結果、後土御門天皇から畠山政長や以下に対し、綸旨が発せられた。
①興福寺
②多武峰(現在の奈良県桜井市)
③高野山
④粉河寺(現在の和歌山県紀の川市粉河)
⑤根来寺(現在の和歌山県岩出市根来)
1,477 11 6 畠山義就率いる軍が八尾城(現在の大阪府八尾市本町)に入城する。
1,477 11 12 畠山義就率いる軍が、畠山政長方の以下の人間が守備する誉田城(現在の大阪府羽曳野市誉田)を攻撃する。
①誉田城主和田美作守
②恩智氏
③丹下氏
④越智氏
⑤古市氏
筒井順尊・箸尾為国や大和国箸尾(現在の奈良県北葛城郡広陵町)・宇智(現在の奈良県五條市)の国人である以下の人間は、政長方に付き、西軍と戦った。
①杉野氏
②宇野氏
③坂部氏
④野原氏
そして、越智氏・古市氏が、筒井・箸尾を破り、南都を占拠した。筒井・箸尾・箸尾の大和国人は追撃を躱し、福住(現在の奈良県天理市)に逃亡した。西軍は、以下を含む30名余を自害に追い込み、200名余を没落させて、誉田城を落城させた。
①和田
②杉野氏
③宇野氏
④坂部氏
⑤野原氏
和田を始めとする37名の首級は、京都に居る政長の下に送られた。筒井順尊は教興寺(現在の大阪府八尾市教興寺)から大和国へ追い返された。又、以下の人間が越智氏に付いた。
①十市氏
②龍田氏
③片岡氏
1,477 11 13 嶽山城(現在の大阪府富田林市龍泉)が、畠山義就方の大和国の吐田氏によって陥落する。又、往生院城(現在の大阪府東大阪市六万寺町)も落城し、焼失した。西軍の勢力拡大により、以下の人間と土地等が没落した。
①宝来祐尊
②筒井順尊(自焼没落)
③筒井の後継人成身院順宣(自焼没落)
④安楽坊順憲
⑤萩別所氏
⑥小林
⑦辻子
⑧木津
⑨金剛寺(現在の大阪府河内長野市天野町)
⑩曽部
⑪北院
⑫小南(現在の奈良県大和郡山市)
⑬今市新
⑭六条
⑮堀
嶽山城は、西暦1,471年に畠山政長方に占領されていたが、義就が奪回した形となった。
1,477 11 14 畠山義就率いる軍が、若江城を落城させる。遊佐長直は、天王寺から船を出し、大和川を渡って撤退した。島氏も、平群谷(現在の奈良県生駒郡平群町)の居館に自ら火を放ち、逃亡した。此れにより畠山は以下を略手中に収めた。
①河内国
②大和国
1,477 11 18 大内政弘が、畠山義就に呼応し、木津城(現在の京都府木津川市城山台)を攻撃する。東軍は敗れ、木津氏は自ら木津城に火を放った。
1,477 12 以下2名が、陣所を引き払って伊予国へ帰国する。
①河野通春
②大内政弘
1,477 12 壬生晴富が以下の主旨の内容を記す。
西暦1,471年12月頃、足利義政殿に命じられて文庫の屋根を葺き替えたが、既に数年が経ち、大きく損傷し、度重なる雨により壁が雪崩て、其の状態は言葉にならない程酷いものである。戦乱後も平穏無事であったが、今後は湿損するであろう。
1,477 12 16 西軍の諸将が一斉に下国する。足利義視も、自身の嫡男の足利義稙を伴い、美濃国の土岐成頼の下に亡命し、承隆寺(現在の岐阜県岐阜市茜部寺屋敷)に滞在した。
1,477 12 25 室町幕府が、天下静謐の祝宴を開催する。足利義政は、京都の東軍諸将と共に、応仁の乱の終結を祝った。しかし、河内国・大和国の大半は畠山義就が押さえており、火種が燻っていた。
1,478 第212代ローマ教皇シクストゥス4世の許可により、カスティーリャ地方(現在のスペイン中心部)以外で、スペインに於いて異端審問所が設置される。
1,478 3 一色義遠が、文書で三河国を放棄する。又、尾張国知多郡も東軍に没収された為、義遠は、一色政具等と共に槇島城(現在の京都府宇治市槇島町薗場付近)に入った。
1,478 8 8 足利義政が、足利義視を赦免する。しかし義視は、美濃国に留まり続けた。
1,478 12 8 西陣南帝が、京都から東海を経由して、甲斐国の小石沢(現在の山梨県笛吹市石和町小石和)の観音寺に入る。
1,479 3 6 花の御所の再建が開始される。
1,479 5 17 土御門内裏の修繕が開始される。
1,479 8 6 西陣南帝が、国人等に送られて、越後国から越中国を経由して越前国北ノ庄(現在の福井県福井市)に入る。其の後西陣南帝は、奥州へ下向し自身を「熊沢現覚坊」と称し、身分を秘匿した。
1,479 9 北畠政郷が、上意を違えたという理由により、伊勢国守護職を罷免される。此れにより、伊勢国が一色義春の手に戻った。
1,481 スペインのユダヤ人街が、カテドラル(大聖堂)からサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂(現在のスペインのガリシア州ア・コルーニャ県)の門に移設される。
1,483 クリストファー・コロンブスが第4代アヴィス王朝の王ジョアン2世に、大西洋を西回りしてアジアへと到達する航海計画を願い出るが、審議した数学者委員会がこれを拒否する。
1,484 9 23 一色義春が病死する。
1,485 クリストファー・コロンブスが長男ディエゴ・コロンを連れて、トラスタマラ朝カスティーリャ女王イサベル1世(カスティーリャ女王)に航海計画の承認を得る為、パロス・デ・ラ・フロンテーラ(現在のスペインのアンダルシア州ウエルバ県)へ到着する。サンタ・マリア・デ・ラ・ラビーダ修道院長の神父フアン・ペレス・デ・マルチェーネと会った。マルチェーネはコロンブスの航海計画に感銘を受けて、セビリア(現在のスペインのアンダルシア州)の神父アントニオ・マルチェーナを紹介した。マルチェーナに会う為にコロンブスはコロンを預けた。さらに以下の人間に会う機会を得、コロンブスの航海計画に興味を持った第5代メディナセリ公爵ルイス・デ・ラ・セルダからコロンブスが求めた数隻の船や食料など3,000〜4,000ドゥカート相当の物資を準備する事に合意した。
①スペイン貴族のメディナ・シドニア家エンリケ・デ・グスマン
②セルダ
1,486 1 クリストファー・コロンブスが、フアン・ペレス・デ・マルチェーネの計らいで、イサベル1世(カスティーリャ女王)に初めて謁見を許され、大西洋を西回りしてアジアへと到達する航海計画を伝え、3隻の船を与えて欲しいと請願した。計画は特別審査委員会に諮られたが、容易に結論は出なかった。
1,486 4 28 クリストファー・コロンブスが、ルイス・デ・ラ・セルダの紹介でフェルナンド2世(アラゴン王)及びイサベル1世(カスティーリャ女王)に謁見し、航海計画を話す。イサベル1世(カスティーリャ女王)は興味を示したが、フェルナンド2世(アラゴン王)は全く関心が無かった。懺悔聴聞師で神父のエルナンド・デ・タラベラを中心とする、地理や財政の専門家から成る諮問委員会で審議される事となった。
1,486 10 クリストファー・コロンブスの航海計画がエルナンド・デ・タラベラを中心とする諮問委員会で審議される。
1,486 10 10 ジョアン2世がアジアに至る交易路確立の為のアフリカ周回航海の遠征隊長に、バルトロメウ・ディアスを任命する。
1,487 4 クリストファー・コロンブスの航海計画がエルナンド・デ・タラベラを中心とする諮問委員会で審議される。否定的な意見が多数を占めたが、航海を実現させたかったタラベラやカトリック修道会であるドミニコ会ディエゴ・デ・デサは結論を引き延ばしていた。
1,488 ポルトガル人のコヴィリャンがインドのカノナール港に到着する。
1,488 クリストファー・コロンブスの弟バルトロメ・デ・ラス・カサスがカスティーリャ王国の援助を受ける事が難しいと考え、以下の2名にコロンブスの航海の援助を依頼する為にフランスへと出発する。
①初代テューダー朝の王ヘンリー7世
②第7代ヴァロワ朝の王シャルル8世
結果、何れも援助の取り付けには至らなかったもののシャルル8世の姉アンヌ・ド・ボージューの歓待を得て、バルトロメはフォンテーヌブロー(現在のフランスのセーヌ・エ・マルヌ県)の宮殿に数年間滞在した。
1,488 5 ポルトガルのバルトロメウ・ディアスが喜望峰(南アフリカ西ケープ州ケープタウン)に到達する。
1,489 フランチェスコ・デ・タシス1世がマクシミリアン1世(神聖ローマ皇帝)の郵便物の無料配達を請け負う。
1,489 1 7 第28代北野天満宮松梅院院主禅予が、以下の主旨の内容を記し、飯尾為規・清元定の捺印が為される。
壬生家の掘削の件に関し、西京の散所は掘削すべきであるとの御奉書が出された。其処で現地に百姓が派遣されたが難渋した。其の為、年貢の浪費や煩いにはならないと説得し、早く掘削する様下知の仰せが出されたので、此の通り伝達する。
1,489 5 12 カスティーリャ王国が、クリストファー・コロンブスが王室に謁見する際、宿泊費を王国側で負担する通達を出す。
1,490 クリストファー・コロンブスの航海計画がエルナンド・デ・タラベラを中心とする諮問委員会で否決される。その後さらにコロンブスは審議を願い出たが、1ヶ月も経たぬ内に否決される。
1,490 ヴェネツィアで飛脚問屋を営んでいたフランチェスコ・デ・タシス1世がマクシミリアン1世(神聖ローマ皇帝)から命じられ郵便契約を結び、郵便制度を設立し郵便馬車を走らせる。
1,490 フランチェスコ・デ・タシス1世とフランチェスコの兄ヤネット・デ・タシス、フランチェスコの甥ジョヴァンニ・バッティスタがマクシミリアン1世(神聖ローマ皇帝)から郵便主任を命じられる。さらにマクシミリアン1世(神聖ローマ皇帝)の長男であるフェリペ1世(カスティーリャ王)が、フランチェスコに対しブルゴーニュ(現在のフランスのマルヌ県)とネーデルラント(現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルク)物資輸送の機構改革を命じた。
1,490 12 18 以下の人間が文庫の屋根の南側を葺く。
①静円房
②三郎五郎
③七郎三郎
翌日は北側を葺く予定であるとした。
1,490 12 19 文庫の屋根が葺かれる。
1,490 12 21 文庫の屋根に、前日に明静房が受け取りに行って持って来た粟田口(現在の京都府京都市東山区・左京区)から買い入れた瓦が載せられる。又、文庫内の棚等を修繕し、番匠が作業に来て、河原者は壁土を塗った。更に、南側の廂等の外側に在った竹垣等が破損していた為、此の日から茂加利を結び始めた。東側は元々茂加利であったが、結び直した。北側の棚も、柱や壁に垂木を入れて補強する為、棚を破却した。櫃も同様に破損していた為、此の日修理が為された。其の後、土が崩れ落ちていたので、土を補充した。文庫の南東や南廂の竹垣が朽ちて壊れ、櫃を十数個取り出した所、文書は湿って損傷していた。又同年、以下2名等の尽力により、葺と板戸の修繕が行われた。
①宗祇
②細川政元
1,491 8 クリストファー・コロンブスがサンタ・マリア・デ・ラ・ラビーダ修道院を訪れ、フアン・ペレス・デ・マルチェーネから、預けていたディエゴ・コロンを引き取り「シャルル8世の援助を取り付けに行く」とマルチェーネに告げる。マルチェーネは考え直す様説得し、イサベル1世(カスティーリャ女王)に再度請願する様勧めた。又マルチェーネはイサベル1世(カスティーリャ女王)の側近セバスチャン・ロドリゲス経由で、王室に再検討を促した。イサベル1世(カスティーリャ女王)はマルチェーネに対し、コロンブスを慰留する事を求めた。更に2週間後、コロンブスの元に王室から「旅金を添えて出頭する様勧告する」主旨の書簡が届いた。航海計画の検討はカスティーリャ枢機院に移管された。
1,492 1 2 イベリア半島最後のムスリムの拠点グラナダが、フェルナンド2世(アラゴン王)とイサベル1世(カスティーリャ女王)により陥落される。
1,492 2 クリストファー・コロンブスがエルナンド・デ・タラベラを中心とする諮問委員会に対し航海計画の再審議を願い出る。しかし1ヶ月も経たぬ内に否決され、その事実をフェルナンド2世(アラゴン王)とイサベル1世(カスティーリャ女王)により知らされ、アラゴン王国へ向けてグラナダを出発した。
1,492 2 アラゴン王国の財務大臣ルイス・ド・サンタンヘルがイサベル1世(カスティーリャ女王)と面会し、サンタンヘルは「この航海計画の援助費用は、この航海で得られるであろうものに比べると少なく、費用は自分が都合する」と言った。その後イサベル1世(カスティーリャ女王)は考えを変え、フェルナンド2世(アラゴン王)の同意を得て、コロンブスの提案を実施する事を決定した。イサベル1世(カスティーリャ女王)は急使を送り、1,000,000マラベティを援助するので、コロンブスを呼び戻す様命じた。
1,492 3 フェルナンド2世(アラゴン王)とイサベル1世(カスティーリャ女王)がユダヤ人追放令を出す。少なくとも100,000名のユダヤ人がポルトガルに逃れた。しかし、ポルトガル王ジョアン2世は、僅かな例外を除き、8ヶ月の滞在しか許さず、それを超えて滞在する者は奴隷の身分に落とした。また、フランドル(旧フランドル伯領を中心とする、オランダ南部、ベルギー西部、フランス北部)や地中海沿岸にも散っていった。オスマン帝国はセファルディム(スペイン、ポルトガルに定住していた離散したユダヤ人)の商人たちを歓迎し、積極的に受容した結果、首都イスタンブルやガリラヤ湖畔のサフェドなどにセファルディムの大規模な共同体が形成され、在地のユダヤ人集団を凌駕するようになる。しかも、こうした商人たちは「スルタンの臣民」としてイタリア諸都市にも到来し、地中海商業に大きな役割を果たすようになった。
1,492 4 17 クリストファー・コロンブスが、フェルナンド2世(アラゴン王)及びイサベル1世(カスティーリャ女王)とサンタ・フェ(現在のスペインのアンダルシア州グラナダ県)にて以下の協約を結び、コロンブスの航海計画が承認され、イサベル1世(カスティーリャ女王)がバックアップする事となった。
①コロンブスは発見された土地の終身提督となり、この地位は相続される。
②コロンブスは発見された土地の副王及び総督の任に就く。
③各地の統治者は3名の候補をコロンブスが推挙し、この中から選ばれる。
④提督領から得られた全ての純利益のうち10%はコロンブスの取り分とする。
⑤提督領から得られた物品の交易において生じた紛争は、コロンブスが裁判権を持つ。
⑥コロンブスが今後行う航海に於いて費用の1/8をコロンブスが負担する場合、利益の1/8をコロンブスの取り分とする。
そしてルイス・デ・サンタンヘルが中心となってイサベル1世(カスティーリャ女王)が戴冠用宝玉を担保に供出することを防ぎつつ資金調達された結果、以下の内訳で航海の為の資金が集まった。
①サンタンヘル:1,140,000マラベディ
②警察組織サンタ・エルマンダーの経理担当:フランチェスコ・ピネリ:260,000マラベディ
③アラゴン王国:350,000マラベディ
④コロンブス:250,000マラベディ(ルイス・デ・ラ・セルダやセビリアの銀行家ベラルディ等から借金)
1,492 8 3 クリストファー・コロンブス一行87名が、イサベル1世(カスティーリャ女王)の資金提供を受け、以下の3隻の船でパロス・デ・ラ・フロンテーラを出港する。
①サンタ・マリア号
②ニーニャ号
③ピンタ号
1,492 10 12 未明、クリストファー・コロンブス一行がヨーロッパから大西洋を横断し、サン・サルバドル島(現在のバハマ)に到達する。
1,492 10 26 クリストファー・コロンブス一行がキューバに上陸する。
1,492 12 6 クリストファー・コロンブス一行が、モール・サン・ニコラ(現在のハイチの北西県)に上陸する。コロンブスは、この島を「スペインのように美しい」という理由で「イスパニョーラ島」と名付ける。一行は停泊する所々で、先住民タイノ族から歓迎を受けた。
1,492 12 25 サンタ・マリア号がカパイシャン(現在のハイチの北県)で座礁する。先住民であるマリアン王国のガカナガリック酋長の助けを借りて、サンタ・マリア号を解体し、使える木材と載せていた大砲を使って小さな砦を築き、クリスマスの日にちなんでナヴィダード(誕生)と名付けた。
1,493 使者が周防国の大内館に派遣される。使者は、文庫等が破損した件に就いて、大内義興に修繕費用の援助を依頼した。
1,493 1 クリストファー・コロンブスが、スペイン王室に航海の報告をする為に、39名のスペイン人を植民としてその砦に残し、インディオを6名連れて、酋長ガカナガリックから受け取った金銭とその他お土産を持って、ニーニャ号に乗船してスペインへ向けて出発する。
1,493 3 13 クリストファー・コロンブス一行がリスボン(ポルトガル)に到着する。
1,493 3 15 クリストファー・コロンブス一行がパロス・デ・ラ・フロンテーラに到着する。フェルナンド2世(アラゴン王)とイサベル1世(カスティーリャ女王)に航海の報告を行い、両王は直ちに2度目の航海を促した。
1,493 9 25 クリストファー・コロンブスが17隻1,500名でイスパニョーラ島を植民地にする為に、カディス(現在のスペインのアンダルシア州)を出港する。今回はコロンブスの父ペドロ・デ・ラス・カサス、バルトロメ・デ・ラス・カサスも同行した。
1,493 10 クリストファー・コロンブス一行が小アンティル諸島中の一島に上陸し「ドミニカ島」と命名する。
1,493 11 クリストファー・コロンブス一行がイスパニョーラ島に上陸する。その後、金の採掘の為にタイノ族を酷使し、抵抗する者を虐殺した。数十万から百万名程いた同島のタイノ族は50年後には数百名に減少し、後に絶滅する。
1,493 11 クリストファー・コロンブス一行が前回の航海での植民39名が全滅していた為、モンテ・クリスティ(現在のドミニカ)の近くに植民地を再建し「イサベラ」と名付ける。その後金鉱とアジアへの経路の探索を開始した。
1,494 3 5 官務壬生晴富が以下の主旨の内容を記す。
文庫の修繕を行うに当たり、従来は諸国からの段銭・棟別銭或いは御倉からの納銭・御物の寄付等によって、毎回厳重な対応が為されて来ました。しかし近年、其の様な措置が十分に行われず、土壁が崩れ落ち、庫内の柱が腐って朽ち、外からも内からも透けて見える状態となり、文書は日を追う毎に朽ちて損傷していました。西暦1,494年2月20日に強風が吹き、仮屋が倒れてしまった為、風雨により益々漏湿が酷くなり、言葉に尽くせない程の惨状です。諸家の文籍は全て紛失し、文庫に残された物は天下の明鏡として備えておくべき物であったにも拘らず、此の様な事態に至って滅失してしまうのは、誠に嘆かわしい限りです。
1,494 6 金鉱とアジアへの経路を探索していたクリストファー・コロンブス一行が成果を上げる事が出来ず引き返す。
1,494 9 30 クリストファー・コロンブス一行がイサベラに上陸する。しかし植民同士が仲違いしていた。
1,495 1 23 大内氏から3,000疋が、相国寺大智院競秀軒に届けられる。
1,495 2 10 台風により、文庫の仮屋が破損する。其の為、文書を雨や露から守る為の修繕が行われた。
1,495 8 8 相国寺大智院競秀軒の人間が、細川政元の命により、近日中に周防国へ向かう事となる。此の機会に競秀軒の書簡が文主座に送る事となった。大内在京雑掌が関与していた。
1,495 10 25 マヌエル1世がポルトガル王に即位する。すぐにユダヤ人を奴隷身分から解放した。
1,496 マヌエル1世が、イサベル1世(カスティーリャ女王)の娘のイザベル・デ・アラゴン・イ・カスティーリャを妃に迎えるに当たり、スペイン側はポルトガル領内でのユダヤ教徒追放を求め、マヌエル1世がこれに応じる。結果、ポルトガルでキリスト教以外の宗教儀式は違法となり、ユダヤ人に対しては追放令が出される。
1,496 3 クリストファー・コロンブスがバルトロメ・デ・ラス・カサスを副総督としてイスパニョーラ島に残し、コロンブス一行225名がインディオ30名を連れて、帰国の為出港する。
1,496 5 壬生晴富が以下の内容を記す。
文庫の破損と修理の件に就いて、近年資金不足の為、修繕を行う事が出来ず、日を追う毎に朽ちて損傷が進んでいます。此の為、後土御門天皇が足利義澄殿に勅命を出し、足利殿も費用の徴収を命じましたが、捻出する事は出来ませんでした。又、文庫の仮屋は先日の大風雨で破損した後、まだ修繕されていない為、漏湿が酷く、言葉に尽くせない程の惨状です。
1,496 5 壬生晴富が、文庫の破損と修理の件に就いて記した翌日、文庫の屋根の葺き替えに就いて申し付ける。
①清元定
②波々伯部氏
1,496 6 此の時点でまだ文庫の修繕が為されておらず、風雨による漏湿が酷い状態であった。
1,496 9 18 文庫の仮屋の葺き替えを行い、適切に取り計らう様指示が出る。
1,496 9 20 文庫の仮屋の葺き替えに関し、上葺が完了する。雨の中でも作業を行い、3日間で完了した。
1,496 10 6 壬生晴富が町広光に対し、文庫の漏湿に関し報告する。
1,497 ヴェネツィア共和国が、元老院令により、マラーノ(イベリア半島で止む無くキリスト教に改宗したユダヤ人の蔑称)に対し2ヶ月以内の退去とその間の商業取引の禁止を規定し、マラーノと取引したヴェネツィア商人に対し、罰則規定を設ける。
1,497 初代テューダー朝王ヘンリー7世公認の下、ジョン・カボット、セバスチャン・カボット親子が、ブリストル港の商人の資金によってアジアへの航路探検に出発する。
1,497 3 19 マヌエル1世が、ポルトガル国内に在住する全ユダヤ教徒に対し、形式的なキリスト教への強制改宗を行い、内心での信仰の調査は20年間猶予する事となった(後に延長され、マヌエル1世の治世下では調査は行われていない)。商業、金融業で主要な役割を果たし、また医師などの知的専門職や職人となっている者も多いユダヤ人を追放する事は、ポルトガルの経済的損失である為彼らを国内に引き留める為に行った。しかし、マラーノと呼ばれ差別を受ける事となり、14歳未満の子は親許から引き離され、キリスト教徒の家庭に里子に出す事が義務付けられた。
1,497 4 三条西実隆が、文庫の破損に就いて後土御門天皇に奏聞する。後土御門天皇は、修繕の詳細や方法に就いて尋ねる様指示した。三条西は、内々に押小路師富経由で申し付けた。
1,497 5 30 フェルナンド2世(アラゴン王)がルイス・デ・サンタンヘルを保護する。サンタンヘルがキリスト教に改宗したユダヤ人の孫であった為、スペイン異端審問によりサンタンヘルを排斥する動きがあった。
1,497 7 8 マヌエル1世の命により、ヴァスコ・ダ・ガマが、大勢の観衆が見守る中、聖母修道院の修道士が執り行うミサの後、サン・ガブリエル号という船で、リスボンを出港する。
1,497 11 ヴァスコ・ダ・ガマがアフリカ大陸南端の喜望峰を超える。
1,498 5 20 ヴァスコ・ダ・ガマがポルトガルの援助を受けて、インドのコーリコードに到着。
1,498 5 30 クリストファー・コロンブス一行がサンルーカル・デ・バラメーダ(現在のスペインのアンダルシア州カディス県)を出港する。
1,498 7 クリストファー・コロンブス一行が現在のベネズエラのデルタアマクロ州のオリノコ川の河口に上陸する。
1,498 7 30 クリストファー・コロンブス一行が小アンティル諸島最南端の島を発見し「トリニダ」と名付ける。
1,499 ヴァスコ・ダ・ガマが香辛料をポルトガルに持ち帰る。
1,499 12 西陣南帝が、伊豆国三島に流れ着く。北条早雲は、西陣南帝を諌めて相模国に向かわせた。
1,500 ジョアン2世が、以下3名の成功を受けて、ペドロ・アルヴァレス・カブラルをインド航海の遠征隊隊長に任命する。
①クリストファー・コロンブス
②ヴァスコ・ダ・ガマ
③バルトロメウ・ディアス
1,500 3 9 ペドロ・アルヴァレス・カブラルが、13隻の船と1,500名の隊員と共に、タホ川下流のリスボンから出発する。南米を目指して西へ向かい、喜望峰を回ってインドへ向かうルートを採った。以下2名も乗船した。
①ヴァスコ・ダ・ガマ
②バルトロメウ・ディアス
ガマは航海のコースに必要な指示を与えた。
1,500 4 22 ペドロ・アルヴァレス・カブラル一行が山を発見する。「モンテ・パスコアル(現在のブラジルのバイーア州)」と名付けた。
1,500 4 23 ペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルの海岸に上陸する。
1,500 4 25 ペドロ・アルヴァレス・カブラルの全艦隊がポルト・セグーロ(現在のブラジルのバイーア州)に入る。カブラル達は、上陸した土地は島であると考え「真の十字架の島(ベラクルス島)」と名付けた。此の土地には赤色染料の原料となるパウ・ブラジルが豊富に存在していた為、ポルトガルの商人達は「テッラ・ド・ブラジル(ブラジルの地)」と呼んだ。此れは後の国名「ブラジル」の由来となった。
1,500 5 3 ペドロ・アルヴァレス・カブラルが、当初の目的である喜望峰経由でのインドへの航海を再開する。
1,500 5 24 ペドロ・アルヴァレス・カブラル一行が、喜望峰付近で激しい嵐に遭い、バルトロメウ・ディアスの船を含む4隻が失われる。
1,500 7 16 ペドロ・アルヴァレス・カブラル一行がソファラ(現在のモザンビーク)に到着する。
1,500 7 20 ペドロ・アルヴァレス・カブラル一行がモザンビーク島(現在のモザンビークのナンプーラ州)に到着する。
1,500 8 2 ペドロ・アルヴァレス・カブラル一行がメリンデ(現在のケニアのキリフィ県)に到着する。インドへ向かう為の水先案内人を雇った。
1,500 8 10 ディオゴ・ディアスが指揮する船の内1隻が、悪天候により集団から離れる。そして、後に「マダガスカル」と呼ばれる島を発見した。
1,500 9 13 ペドロ・アルヴァレス・カブラルが、カリカット(現在のインドのケララ州コーリコード)に到着する。カブラルは、香辛料の交易を行なった。



デビアス社創業者セシル・ローズの鉱物支配一元化




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