万物の系譜

西暦1,301〜1,400年

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WHOとユニセフによる堕胎ワクチン攻撃一元化

年月日 出来事
1,301 大成の五男が勝連按司に封じられる。
1,309 1 19 大成が死去する。此れにより大成の弐男英慈が第3代英祖王統王に即位した。
1,311 ヴィエンヌ(現在のフランスのイゼール県)でキリスト教の公会議(通算15回目の公会議)が開かれ、キリスト教会は、高利貸しを正当化しようとする者は皆異端であると宣言する。
1,313 10 10 英慈が死去する。此れにより英慈の参男で玉城城主の玉城が第4代英祖王統王に即位した。玉城は自分の弟を玉城城主・玉城按司とし、拡張修築工事を行わせた。又、玉城は酒に溺れ、狩猟を好み、政務を疎かにして道楽三昧の生活を送っていた為、人心が離れていった。
1,322 第2代湧川按司の息子で羽地按司の怕尼芝が、叔父今帰仁仲宗根若按司を破り、今帰仁城を本拠として「北山王国」を建国し、初代北山王国国王に即位する。
1,323 11 北条貞時の十三回忌供養が寿福寺にて執り行われる。参加者は長老以下、一山の僧衆含め260名に上った。
1,324 一本松城(現在の島根県浜田市金城町波佐)が完成する。
1,324 10 夜、堀川三条(現在の京都府京都市中京区)の宿所の無礼講の酒の席で武将土岐頼員が倒幕計画を六波羅探題評定衆奉行斎藤利行の娘である妻に漏らしてしまう。妻は直様斎藤に事の次第を告げ、斎藤は六波羅探題に報告した。他に以下の者が参加していた。
①土岐頼兼
②多治見国長
③尹師賢
④四条隆資
⑤洞院実世
⑥平成輔
1,324 10 7 早朝、鎌倉幕府が小串範行・山本時綱に軍を率いさせ、以下3名の征伐を命じる。また、六波羅探題が多治見国長と土岐頼有に出頭命令を下した。六波羅探題の2,000騎の兵を率いた山本時綱が堀川三条の宿所を急襲、土岐頼兼と多治見は少数の手勢で奮戦したが、最終的には館の裏手を突破され、頼兼は寝所で自刃、多治見も自害した。
①土岐頼兼
②多治見国長
③第7代足助家惣領足助重範
斎藤利行の倒幕計画に関する報告により、以下4名が鎌倉幕府の討幕を計画したという嫌疑をかけられていた。また、西暦1,324年10月11日を挙兵の日と定めていた。午後、六波羅探題は関東申次西園寺実衡を通じ、日野資朝・日野俊基の勾留を朝廷に要請し、夜に両名は六波羅探題に出頭した。
①第96代天皇後醍醐天皇
②日野資朝
③日野俊基
④土岐頼兼
1,324 10 11 後醍醐天皇が鎌倉幕府に対する釈明の為、中納言万里小路宣房を鎌倉に向かわせる。
1,324 10 23 万里小路宣房が鎌倉に到着する。安達時顕と長崎円喜から取り調べを受けた。万里小路は「東夷」である鎌倉幕府に対し「聖主」である自分に謀反の疑いを掛けた事を叱責し、罠に嵌められたのは自分の側であるから、真の謀反人を捕らえよ、と幕府に命令する主旨の後醍醐天皇の綸旨を手渡す。
1,324 11 9 万里小路宣房が京都に戻り後醍醐天皇を無罪とする鎌倉幕府の裁定を報告する。
1,324 11 9 日野資朝・日野俊基が祐雅法師と共に取り調べの為鎌倉へ送られる事が決定する。
1,324 11 16 公卿高倉範春が多治見国長の縁者として、鎌倉で事情聴取を受ける事が決定される。
1,325 2 20 第95代天皇花園上皇が以下の鎌倉幕府の仮決定を知る。
①日野資朝・日野俊基の倒幕計画は冤罪
②日野資朝の佐渡島への流罪
③日野俊基は無罪
④祐雅法師の追放
資朝は有罪とは言えないが無罪とも言えないと言う理由により流罪となった。
1,325 3 23 鎌倉幕府が日野俊基を冤罪、日野資朝を佐渡島への流罪とする判決を下す。
1,325 6 21 鎌倉から上洛していた東使長崎泰光と南条宗直が、日野資朝・日野俊基を捕縛する。
1,325 7 8 日野資朝・日野俊基が鎌倉に拘禁される。後醍醐天皇の側近だったので、鎌倉幕府は世の誹りや後醍醐の怒りを憚り、拷問はせずに侍所へ軟禁した。
1,325 8 16 後醍醐天皇が鎌倉幕府に対し倒幕計画の真犯人を探し出す様命じる主旨の書簡を送る。
1,325 9 日野資朝が佐渡島へ流罪となる。
1,327 吉見頼直が、木曽野(現在の島根県鹿足郡津和野町中曽野)の居館を引き払い、一本松城に入城する。吉見は新たな居館を同城の大手に当たる喜時雨(現在の島根県鹿足郡津和野町田二穂)に設けられ、家臣達の居館は高田(現在の島根県鹿足郡津和野町高峯)に置いた。
1,331 現在の中国河北省で黒死病が流行する。
1,331 6 5 吉田定房が日野俊基の主導する倒幕計画の存在を鎌倉幕府の六波羅探題へ密告する。
1,331 8 六波羅探題の命を受けた六角時信が、後醍醐天皇の息のかかった延暦寺衆徒と唐崎(現在の滋賀県大津市)にて戦闘し破れる。
1,331 9 11 後醍醐天皇が元号を「元徳」から「元弘」へ改元する。また、鎌倉幕府にも詔書を下したが幕府・持明院統はこれを認めず元徳を使い続けた。
1,331 9 26 後醍醐天皇が自身の直系に皇位を継承させる為の倒幕計画が鎌倉幕府に漏れた為、女装し四条隆資等と共に京を脱出する。
1,331 9 26 後醍醐天皇が送り込んだ天皇に変装した花山院師賢が延暦寺にて「天皇ここにあり」と宣言する。延暦寺は以前後醍醐天皇第三皇子の護良親王を天台座主として迎え入れる等の根回しを受けていた為、僧兵は後醍醐天皇側に就いた。
1,331 9 29 後醍醐天皇一行が以下を経由して笠置山(京都府相楽郡笠置町)に入る。
①東大寺(現在の奈良県奈良市雑司町)
②金胎寺(現在の京都府相楽郡和束町原山)
1,331 10 3 後醍醐天皇が比叡山にいない事に気付いた鎌倉幕府が六波羅探題検断方の以下の2名に平等院(現在の京都府宇治市)に向かわせ、75,000名の兵を集める。
①糟屋宗秋
②隅田通治
1,331 10 3 高橋又四郎が抜け駆けし、300名を引き連れて笠置山に攻め入ったが、後醍醐天皇の軍に攻め入られ、木津川で溺死する者や馬・鎧も捨て、戦わずして敗走し白昼の京都へ戻る。
1,331 10 4 六波羅探題が糟谷宗秋・隅田通治を大将とし、7,500名で笠置山を包囲し攻撃を始める。仁王堂まで進軍した際、錦の御旗を掲げた足助重範が荒尾九郎と弟の荒尾弥五郎を弓で射て奮戦した。後醍醐天皇側の兵は3,000名余であったが、笠置山は天然の要塞であった為善戦する事となる。
1,331 10 13 鎌倉幕府軍が下赤坂城(現在の大阪府南河内郡千早赤阪村)を包囲し、攻撃を開始する。これに対し楠木正成が後醍醐天皇の倒幕計画に応じ、500名の軍勢で籠城し挙兵する。また、弟の楠木正季と橘正遠に300名を預けて近くの山に布陣させていた。
1,331 10 20 幕府の使者が関東申次西園寺公宗に光厳天皇の践祚を申し入れる。
1,331 10 22 慣例により後伏見上皇の詔によって、両統迭立から三種の神器の無いまま持明院統の光厳天皇を践祚させ、光厳天皇が初代北朝天皇に即位する。父である後伏見上皇は院政を開始した。また、後醍醐天皇一派の倒幕計画には大覚寺統全体が関与したわけではないとして、大覚寺統嫡流から皇太子を輩出し両統迭立を維持すべきとの理由により、持明院統の同意の下に木寺宮康仁親王が皇太子に選出された。
1,331 10 30 夜、風雨の中鎌倉幕府軍の陶山義高等が笠置山に放火した事によって後醍醐天皇側は総崩れとなり、笠置山が陥落する。しかし護良親王は落ち延び、下赤坂城に逃げ込んだ。
1,331 10 31 後醍醐天皇が鎌倉幕府軍に捕らえられる。
1,331 11 2 下赤坂城の兵糧が底を尽きる。
1,331 11 3 尊良親王が鎌倉幕府軍に捕らえられ佐々木道誉の預かりとなる。
1,331 11 6 後醍醐天皇が廃され、光厳天皇に三種の神器の内草薙剣と八尺瓊勾玉を渡される。慣例により以下の3名がこれらの検知を行い、神器の破損が判明したが「其の体相違無し」との回答を得る。
①蔵人頭四条隆蔭
②右近衛府三条実継
③冷泉定親
1,331 11 8 西園寺公宗が拘禁中の後醍醐天皇の本人確認を行う。その際後醍醐天皇は西園寺公宗に一連の倒幕計画の件は「天魔の所為」であるから寛大な措置で許してくれる様鎌倉幕府への取り次ぎを訴えた。この事について花園上皇は「歎息すべき事なり」と所感を記した。
1,331 11 10 尊良親王が鎌倉幕府から検知を受ける。
1,331 11 13 光厳天皇が二条富小路内裏(現在の京都府京都市中京区桝屋町)に遷幸する。
1,331 11 21 夜、楠木正成が大穴に下赤坂城の戦で戦死した焼死体を20〜30体入れて、下赤坂城を放棄し鎌倉幕府軍に奪わせた。鎌倉幕府軍は大穴の焼死体を楠木正成一族と思い込み、翌月関東に引き揚げた。しかし実際には楠木は落ち延びていた。幕府は下赤坂城を攻略した戦功により、湯浅宗藤に地頭職を与え、赤坂城の守備を命じた。
1,332 1 25 鎌倉幕府が尊良親王を土佐への流罪とする判決を下す。
1,332 4 2 以下2名が隠岐島へ流される。佐々木貞清が用意した「黒木御所」に幽閉された。
①後醍醐天皇
②公卿千種忠顕
1,332 4 3 尊良親王の京都から土佐への流罪が執行される。
1,332 4 28 下赤坂城に兵糧が少なく、湯浅宗藤が領地の阿弖河荘(現在の和歌山県有田郡有田川町)から人夫500名に兵糧を夜に持ち込ませる事を聞きつけた楠木正成が、その道中を強襲して兵糧を奪い、空になった俵に武器を入れ自軍の兵に警護に成り済まさせ、城内に入る。為す術無く湯浅は、湯浅氏宗家を中心とする紀伊国の武士団である湯浅党と共に降伏し下赤坂城が開城、楠木が下赤坂城を奪い返した。以降湯浅は楠木に従軍する事となった。
1,332 5 楠木正成が和泉(現在の大阪府)・河内(現在の大阪府東大阪市)を制圧する。これを受け和泉・河内から急使が京都に送られ、今にも楠木が京都へ攻め上がる状態であると報告され洛中が大騒ぎとなった。
1,332 5 5 鎌倉幕府が倒幕計画の関係者の処分を終え、事態の収束を宣言する。
1,332 5 23 光厳天皇が「正慶」に代始改元する。
1,332 6 10 楠木正成が住吉(現在の大阪府大阪市)・天王寺(現在の大阪府大阪市)に侵攻し、渡辺橋(大阪府大阪市北区堂島)の南側に布陣する。
1,332 6 13 六波羅探題が以下2名を軍奉行とし、5,000名を率いさせ天王寺へ向かわせた。
①高橋又四郎
②隅田通治
1,332 6 13 楠木正成が2,000名の軍勢を以下の三手に分ける。
①渡辺橋(300名)
②住吉
③天王寺
1,332 6 14 六波羅探題が渡辺橋に進軍する。楠木正成の軍300名しかそこにはいなかった為、容易に撃破出来ると考え、六波羅探題は橋を渡り始めた。これは楠木の作戦で、自身は囮として六波羅探題を引き付け、前日に住吉・天王寺に展開した兵と共に六波羅探題を包囲する作戦であった。これが成功し、六波羅探題は大勢が討たれ、残りは京都へ敗走した。
1,332 6 25 日野資朝が佐渡にて処刑される。
1,332 6 26 日野俊基が葛原ヶ岡(現在の源氏山公園・神奈川県鎌倉市扇ガ谷)で斬首される。
1,332 7 11 夜、北畠具行と佐々木道誉が談笑する。
1,332 7 12 佐々木道誉が北畠具行を鎌倉へ護送する道中、幕命により柏原(現在の滋賀県米原市)にて北畠を処刑する。剃髪後の斬首であった。
1,332 8 11 六波羅探題に楠木正成征伐を命じられた宇都宮公綱が、700名の兵を率い京都を出発する。
1,332 8 19 夜、宇都宮公綱が京都へ兵を引く。
1,332 8 20 朝、楠木正成が天王寺に入る。
1,332 8 24 楠木正成が住吉大社に馬3頭を献上する。
1,332 8 25 楠木正成が天王寺(現在の四天王寺)を参拝し、宿老の僧に聖徳太子著「未来記」を見せて欲しいと頼み、老僧は「本来は容易くお見せできませんが、特別にご覧に入れましょう」と金軸の書一巻を楠木に見せた。楠木は「後醍醐天皇が再び帝位に着く日もそう遠くない」と解釈した。そして楠木は老僧に以下を献上した。
①黄金の太刀
②鎧一領
③馬
1,332 10 10 北条高時が、倒幕勢力が畿内で拡大している事を受け300,000名から成る追討軍を鎌倉から派遣する。
1,332 12 肥前国彼杵郡江串村の豪族江串入道が土佐から逃亡した尊良親王を迎え入れる。千綿(現在の長崎県東彼杵郡東彼杵町)を経由して木庭(現在の佐賀県鹿島市山浦)に匿った。
1,333 1 31 六波羅探題の主力の竹井氏・有賀氏が城郭を構え陣を敷く。
1,333 2 4 10時、楠木正成が天王寺にて六波羅探題と戦闘を開始し、14時間後に勝利を収める。
1,333 2 6 第4代赤松氏当主赤松則村が護良親王の令旨を受け、以下の息子と共に倒幕の為に苔縄城(現在の兵庫県赤穂郡上郡町)にて挙兵する。
①長男赤松範資
②弐男赤松貞範
③参男赤松則祐
1,333 2 6 楠木正成が天王寺から赤坂城へ向けて出発する。
1,333 2 7 午前、宇都宮公綱が天王寺へ向けて京都を出発する。後に入れ替わりで楠木正成が天王寺から撤収したとの情報が京都に入る。
1,333 2 8 宇都宮公綱が500騎を従え天王寺に入り征圧する。また、宇都宮が赤坂城へ差し向けていた斥候12名が楠木正成に捕縛される。
1,333 2 9 二階堂貞藤が鎌倉幕府から政所執事に補任される。
1,333 2 13 北条治時が楠木正成の本拠である赤坂へ80,000騎を率い出陣する。さらに鎌倉幕府軍は吉野・金剛山へも進軍した。
1,333 2 14 二階堂貞藤が上洛する。
1,333 2 21 金剛山に滞在していた護良親王が、以下2名の討伐を命じる令旨を第12代菊池氏当主菊池武時や原田氏等を始めとする九州の有力豪族や御家人に幅広く発する。
①第7代鎮西探題北条英時
②大隅守護北条師頼
1,333 3 赤松則村が、幕府に内通しようとした高田城(現在の兵庫県赤穂郡上郡町奧甲)主高田頼重と交戦し、高田家の菩提寺了宅庵にて自害に追い込む。
1,333 3 赤松則村が、六波羅探題の命を受けた備前国守護加地氏と交戦し、先発隊である伊東氏と三石城(現在の岡山県備前市)で戦い、盟主である伊東惟群を服従させ、伊東を西国から鎌倉幕府軍が攻めて来た際の押さえとして三石城に残し東上を開始する。
1,333 3 赤松則村が室山(現在の兵庫県たつの市御津町室津)に着陣し兵を募り、その後赤松範資が築いた摩耶山城(現在の兵庫県神戸市灘区)に入る。
1,333 3 10 赤松則村が酒部(現在の兵庫県尼崎市上坂部、現在の兵庫県尼崎市下坂部)に入る。
1,333 3 27 摩耶山城にいた赤松則村が六波羅探題20,000名をゲリラ戦で迎え撃ち、打ち払う。
1,333 4 土佐を脱出していた尊良親王が肥前国彼杵郡に姿を現す。
1,333 4 8 赤松則村が尼崎にて六波羅探題の軍勢を破る。久々知(現在の兵庫県尼崎市)に陣取り、後に瀬川(現在の大阪府箕面市)を根拠とする六波羅探題と対峙する事となった。
1,333 4 9 夜、後醍醐天皇・千種忠顕が急いで海岸へと出て、予め用意していた小舟で隠岐島を脱出し、出雲へ向けて出発する。しかし、風で東に流され伯耆国の御来屋(現在の鳥取県西伯郡大山町)に漂着する。名和長年が、親族会議を開いた上で後醍醐天皇と共にし、船上山(現在の鳥取県東伯郡琴浦町)に立て籠る事を決定する。長年の甥の名和長重が後醍醐天皇を迎えに行ったが、急な事で御輿を用意していなかった為、鎧の上に荒薦を巻いて後醍醐天皇を背負い船上山を登った。長年は近隣の農家に「倉にある米を一荷持って船上山に運んだ者には500文を与える」と触れ回り6,000名に5,000石の兵糧を運ばせた。また、自身の館(現在の鳥取県西伯郡大山町)に火を付けて船上山へ向かった。
1,333 4 13 後醍醐天皇と名和長年が、船上山にて200名の兵を率い挙兵する。木を切り倒して垣根を作り、長く白い布に様々な近国の家紋を描いた幟を数千本立て、狼煙を上げ大軍が立て籠っているかの様に見せかけた。
1,333 4 14 鎌倉幕府軍は隠岐守護佐々木清高が2,000名の兵を率い船上山を包囲したが大軍であると考え攻撃を躊躇していた。後醍醐天皇の軍に名和長年の弟で大山寺(現在の鳥取県西伯郡大山町)の僧兵であった信濃坊源盛も若い僧兵達を引き連れ加わり、後醍醐天皇の軍は小勢と見破られない様に時折矢を放っていた。やがて鎌倉幕府軍は攻撃を開始したが、麓で指揮を執っていた佐々木昌綱が流れ矢を眼に受けて戦死し、昌綱が率いていた500名の兵は怖気付き戦意を失った。また、搦手で800名の兵を率いていた佐々木定宗が降伏した。この状況を知らない清高は味方が船上山に近づいていると誤認した儘進軍するが、日暮れに激しい暴風雨に遭い木陰に避難した。この機を逃さず名和は射手を率いて攻撃に転じた。鎌倉幕府軍が慌てた所を斬り付け、行き場を失った1,000名の幕府側の兵が谷底に落ち多数の死傷者を出した。清高は700名の兵を率い小波城(現在の鳥取県米子市淀江町)へ敗走した。その後後醍醐天皇は山頂に行宮を建て、倒幕勢力を結集させる為に菊池武時等に綸旨を送ったり、倒幕計画を練りながら滞在した。
1,333 4 15 鎌倉幕府の千早城攻めの命を受け義兄弟の以下2名が瀬戸内海を経由して備後国鞆津へ到着したが、護良親王の令旨を受け取り、近畿・中国地方の情勢を知って引き返した。
①阿蘇惟澄
②阿蘇惟直
その後以下2名を説得し、鎮西探題館(現在の福岡県福岡市西区姪浜)襲撃の約束を取り付けた。
②第5代少弐氏当主少弐貞経
③第6代大友氏当主大友貞宗
しかし少弐・大友は裏切り、鎮西探題館襲撃の情報を漏らした。
1,333 4 17 名和長年が、船上山で挙げた戦功を踏まえ、宴席の場で後醍醐天皇から伯耆守に任命される。
1,333 4 17 佐々木清高が、伯耆国地頭大石橋五郎左衛門が立て籠る小波城を襲撃し、陣城として接収する。昼、名和長年の軍の追撃を打ち払い、夜に焼き討ちに遭い小波城を放棄して隠岐に逃亡した。
1,333 4 20 北条英時が、以下3名が鎮西探題を襲撃する計画がある事を察知し、九州の御家人を一人ずつ博多に召集する事を決定する。
①菊池武時
②少弐貞経
③大友貞宗
最初のターゲットは菊池であった。北条は長岡六郎を菊池のいる隈府(現在の熊本県菊池市)に派遣した。
1,333 4 24 六波羅探題10,000名が瀬川に布陣する。夜、阿波守護小笠原氏の率いる六波羅探題の援軍が、尼崎に上陸して以下の場所に布陣している赤松則村勢の背後を急襲する。赤松は53騎で迎え撃ったが47騎が討たれ、則村及び赤松則祐含む6騎は小笠原軍に紛れ虎口を逃れた。
①久々知
②酒部(現在の兵庫県尼崎市上坂部、現在の兵庫県尼崎市下坂部)
③小屋野(現在の兵庫県伊丹市昆陽)
1,333 4 25 赤松則村が瀬川の六波羅探題勢に先制攻撃を仕掛け打ち破る。夜、則村が赤松則祐の六波羅探題追撃の進言を聞き入れ、山陽道を攻め上り京都に入った。
1,333 4 25 菊池武時が博多に到着する。
1,333 4 26 菊池武時が鎮西探題府侍所へ出向いたが、遅参と見なされ、侍所の下広田久義から着到簿への記名を拒否される。日頃から疑いの目を向けられていた菊池は、下広田から遅参を詰られ、口論となった。夜、菊池は以下の2名に使者を送り、後醍醐天皇から倒幕の綸旨を受けているので同調し、鎮西探題館襲撃を1日早め、協力する様促した。
①少弐貞経
②大友貞宗
しかし両者の反応は冷たく、少弐は堅粕(現在の福岡県福岡市博多区)で院宣を持参した八幡宗安を含む使者2名を斬った。大友も「使者を斬れ」と言った為、使者は逃走した。
1,333 4 26 赤松則村が山崎(現在の京都府乙訓郡大山崎町)に侵攻し、淀・赤井・西岡付近を放火する。
1,333 4 27 6時、菊池武時が後醍醐天皇から譲り受けた錦の御旗を掲げ挙兵し、松原口辻堂(現在の福岡県福岡市博多区博多駅前)から鎮西探題館にかけて阿蘇惟直と共に放火を行った。鎮西探題の使いが早良小路を下り「着到を受け付ける」と大声で叫びながら櫛田浜口にて武時と対陣する。そこに少弐の家来で兵庫の允の饗場が事の詳細を尋問しようと陣の前に出て来た所、若党一人と共に討たれた。また、北条一族の武蔵四郎・武田八郎等が息浜(現在の福岡県福岡市西区)の武時の宿所に押し掛けたが不在であったので、洲崎(現在の福岡県福岡市博多区)から回って櫛田浜口で武時と交戦した。鎮西探題側は武田が負傷し、以下の人間が死亡した。武時は最終的に敗れ、息子の菊池頼隆を始めとする菊池氏一族と共に犬射馬場で戦死した。武時のもう一人の息子の菊池武重は阿蘇と共に肥後国へ落ち延びた。武時の弟菊池覚勝は若党を率い御壺まで攻め込むが全員が打ち取られた。9時に戦闘は終了し武時側は70名余りの死者を出した。その後も少弐・大友の部下が残党を各地で仕留め、200名余りの首が鎮西探題館に届けられ、武時を始めとする270名余りの首を犬射馬場に掛けた。夕方、少弐は堅粕で斬首した八幡宗安含む使者2名の首を北条英時に差し出した。やがて北条貞義が到着し、 北条師頼も博多に向かう途上、武時の孫と若党を横隈(現在の福岡県小郡市)で討ち、首を博多に持参した。鎮西探題は菊池氏の本拠菊池城(現在の熊本県菊池市隈府)攻撃を決定し、英時は部下を菊池城に出陣させた。夜、犬射馬場に掛けられた首は鎮西探題館の中に入れられた。
①竹井孫七
②竹井孫八
③安富貞泰
1,333 4 28 江串入道が大村湾一帯の武士に呼びかけて着到を付け、尊良親王と共に挙兵したが、間も無く鎮圧される。
1,333 4 29 名和長年が、船上山で挙げた戦功を踏まえ、後醍醐天皇から帆掛け船の家紋を賜る。
1,333 4 29 肥後守護北条高政が鎮西探題館へ駆け付ける。
1,333 4 30 北条高政が、捕虜への尋問の結果、阿蘇氏が鎮西探題襲撃に関わった事が判明した為、肥後国の地頭・御家人等を率いて菊池氏・阿蘇氏征伐の為出陣する。以下2名に鎮西探題館の警備を命じた。
①少弐貞経
②大友貞宗
1,333 4 30 長門探題守護北条時直が1,500騎を率い伊予国の河野一族土居通益討伐の為渡海するが、上陸するや厚東氏が裏切り、背後から矢を射た為兵糧・馬を捨てて引き上げた。しかしその場に留まった防長の御家人100騎が討たれた。
1,333 5 六波羅探題が検断方の以下2名に20,000名の兵を預けて赤松則村征伐の為出陣させる。これを受け赤松は軍を二手に分け、一方を久我畷(鳥羽離宮(現在の京都府京都市南区上鳥羽及び京都府京都市伏見区下鳥羽・竹田・中島)〜山崎街道)、一方は赤松が率い桂(現在の京都府京都市)へ進軍し、桂川を挟んで六波羅探題と対峙した。
①高橋又四郎
②隅田通治
桂川は増水して渡れそうになかったが、赤松則祐が先陣を切って渡り、敵を蹴散らした。そのまま以下の場所を放火しつつ六波羅を目指し東山(現在の京都府京都市)へ攻め込んだ。
①大宮(現在の京都府京都市中京区四条通)
②猪熊通(現在の京都府京都市)
③堀川通(現在の京都府京都市)
④油小路(現在の京都府京都市下京区)
1,333 5 六波羅探題が光厳天皇を、六波羅探題北方の征夷大将軍滞在用の檜皮屋に設置した仮御所に迎えた。さらに、以下2名を始めとする大量の兵を東山に送り込み、赤松則村は総崩れとなった。則村と赤松則祐は男山(現在の京都府八幡市)に逃走し、則村は自刃すると従者に告げた。しかし思い直した則村は自分の旗印である左三つ巴の旗の上に大龍を描き、八幡菩薩のお告げとして再度京都へ攻め込むと告げた。
①陶山義高
②河野通盛
1,333 5 1 北条英時の命により、以下の人間が江串入道・尊良親王討伐の為出陣する。
①佐志源二郎
②値賀二郎
③波多源太巧
④多久種宗
⑤高木伯耆太郎
1,333 5 8 長門国の以下の諸氏に、石見国(現在の島根県)の豪族高津長幸が長門国に向かっているという情報が齎される。
①厚東氏
②大峰庄(現在の山口県美祢市大嶺町)地頭由利氏
③伊佐(現在の山口県美祢市)伊佐氏
1,333 5 9 阿蘇惟直が鎌倉幕府側が阿蘇大宮司館に押し寄せた為、領内の住家を焼き払い、鞍岡(現在の宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町)に行方を眩ませた。これを受け北条英時は、鞍岡が難所の為、攻略を意図し日向国の以下の諸氏に案内人を出させた。
①柴原氏
②桑内氏
1,333 5 11 以下2名が北条高時から倒幕勢力鎮圧の命を受け京都へ向け鎌倉を出発する。
①足利尊氏
②北条高家
1,333 5 12 赤松則村が山崎と八幡に陣取り淀川と西国街道を押さえ、兵糧攻めに切り替えて六波羅を攻撃するが落とせなかった。
1,333 5 13 以下2名が北条高時との戦いに敗れ、鞍岡から逃走する。
①阿蘇惟直
②菊池武重
1,333 5 13 吉見氏が石見国から長門探題の援軍として3,000騎を率いて長門探題館へ向かっている最中、北条時直が大峰庄に差し向けた以下の諸氏が謀反を起こし、吉見氏に付く。
①厚東氏
②豊田氏
厚東武実は予てから長門探題を快く思っていなかった為、高津長幸の勧めに応じ、吉見氏側に寝返った。
1,333 5 13 北条師頼が門司関へ向けて箱崎(現在の福岡県福岡市東区)を出発する。
1,333 5 14 北条高政率いる軍が菊池氏・阿蘇氏の立て籠る揚城(現在の宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町鞍岡)を落城させる。
1,333 5 15 以下の諸氏が高津長幸に呼応し長門探題を襲撃する。
①厚東氏
②由利氏
③伊佐氏
しかし堀切・掻楯を用いた堅固な守備の前に返り討ちに遭い、以下の2名が重傷を負い、退却した。
①高津長幸の長男高津次郎三郎
②厚東武実の息子厚東武村
1,333 5 16 北条師頼が、鎮西探題からの援軍として以下の人間を率い長門探題館へ入る。
①日田入道
②第53代宗像大宮司宗像氏名
③大隅国御家人
①宇佐郡
②下毛郡
③上毛郡
④築城郡
1,333 5 17 赤松則村が六波羅を攻撃するが落とせず八幡で待機する。
1,333 5 17 長門探題が股肱の臣としていた以下2名が謀反を起こし、高津長幸等と共に長門探題を襲撃する。結果、長門探題北条時直が出奔して東上を開始し、長門国の多くの武士が倒幕側に付いた。
①豊田種長
②豊田種藤
1,333 5 18 北条高政が、捕縛した2名と32の首を携え博多に帰還する。
1,333 5 20 北条英時が豊前国の以下4郡の武士を長門国へ差し向ける。結果、高津長幸側は100名余りの死者を出し退却した。
①宇佐郡
②下毛郡
③上毛郡
④築城郡
1,333 5 28 足利尊氏が三河国八橋(現在の愛知県知立市)にて、鎌倉幕府に謀反を起こす事を吉良貞義等の腹心に打ち明け、同意を得る。足利は源氏出身であり鎌倉幕府が平家の流れを汲む北条氏によって牛耳られている事が不服であった。
1,333 5 30 以下2名が上洛する。足利軍は丹波口、北条軍は鳥羽口に一旦布陣し、後醍醐天皇のいる船上山へ進軍する事となった。しかし山崎の赤松則村が何度も京都を攻撃していた為、まずは赤松を征伐する為出陣する事となった。
①足利尊氏
②北条高家
1,333 5 31 足利尊氏が船上山にいる後醍醐天皇に海老名季行を送る。また、以下の3名が軍議を重ねた。その後海老名は倒幕の勅命を受けた。
①第13代六波羅探題南方北条時益
②第16代六波羅探題北方北条仲時
③北条高家
1,333 6 10 以下の3名が軍議の結果、赤松則村が布陣する八幡を北条高家が7,600騎を率い正面から、足利尊氏が5,000騎を率いて背後から攻撃するという結論を出す。だが足利は未明に出陣しており、それを知った高家は追って出陣した。
①北条時益
②北条仲時
③北条高家
高家が7,000名の兵を率い山崎に進軍している道中、久我畷で赤松則村の軍から矢を射られ、攻撃を受ける。付近が田んぼであったので、高家の軍の騎馬は足を取られ思う様に動けなかった。そんな中佐用範家が高家を弓で討ち取った。
1,333 6 12 千種忠顕の軍が展開していた篠村八幡宮(現在の京都府亀岡市篠町篠八幡裏)にて、足利尊氏が願文を掲げ倒幕の兵を挙げる。足利は以下の諸氏等に多数の軍勢催促状を送った。
①大友貞宗
②阿蘇惟時
③島津貞久
④少弐氏
⑤宇都宮氏
主に以下2名が呼応した。
①赤松則村
②佐々木道誉
1,333 6 14 夜、以下2名が家臣に連れ出され鎌倉を脱出する。
①足利尊氏の正室赤橋登子
②赤橋の参男足利義詮
この赤橋の逃亡と足利尊氏が西暦1,333年6月19日に六波羅探題を陥落させた事が相まって、赤橋の兄で第16代執権の北条守時の鎌倉幕府内での立場が悪化し、北条高時から謹慎を命じられる。
1,333 6 19 未明、足利尊氏が25,000名の兵を率い、六波羅探題へ向けて篠村(現在の京都府亀岡市)を出発する。道中敵兵が旗を巻き兜を脱いで降参する事で上洛する頃には兵力が50,000名程度となった。
1,333 6 19 足利尊氏率いる軍が以下2名と示し合わせて六波羅を攻略し、六波羅探題が滅亡する。
①赤松則村
②千種忠顕
これを受けて糟屋宗秋が以下の人間を伴い鎌倉へ落ち延びる事を北条仲時と北条時益に具申し了承される。仲時一行は僅かな軍勢を引き連れ東国へ下った。
①光厳天皇
②後伏見上皇
③花園上皇
1,333 6 20 新田義貞が後醍醐天皇から鎌倉幕府倒幕の綸旨を受け、生品神社(現在の群馬県太田市新田市野井町)にて以下の人間と共に150騎で挙兵する。
①大舘宗氏
②堀口貞満
③岩松経家
④里見義胤
⑤新田義貞の弟脇屋義助
⑥江田行義
⑦桃井尚義
利根川に到着する頃には主に以下の軍勢が合流し、7,000騎にまで膨れ上がった。
①里見氏
②鳥山氏
③田中氏
④大井田氏
⑤羽川氏
⑥甲斐国・信濃国の源氏の一族
1,333 6 20 北条時益が、鎌倉へ降る道中に四宮河原(現在の京都府京都市山科区)にて佐々木道誉が差し向けた野伏に襲われ、流れ矢に当たり死去する。
1,333 6 21 西暦1,333年4月14日に小波城を捨て、隠岐→出雲国→若狭国→越前国へと落ち延びていた以下の人間を始めとする432名が、鎌倉へ降る道中に3,000名の野伏を率いていた佐々木道誉に阻まれ、佐々木の所領であった蓮華寺(現在の滋賀県米原市番場)の本堂前にて自刃する。
①佐々木清高
②佐々木清高の息子佐々木泰高
③北条仲時
④竹井盛充
⑤竹井貞昭
⑥河越貞重
また、以下3名は佐々木に捕らえられ、京都に戻された。
①光厳天皇
②後伏見上皇
③花園上皇
1,333 6 21 足利義詮が300名の兵と共に新田義貞の軍に合流する。これにより以下の軍勢も新田軍に合流し、200,700騎となった。
①河越貞重の息子河越高重
②横山党(拠点は現在の東京都八王子市)
③猪俣党(拠点は現在の埼玉県児玉郡美里町)
④児玉党(拠点は現在の埼玉県本庄市)
⑤村山党(拠点は現在の埼玉県狭山市・東京都東村山市)
⑥野与党(拠点は現在の埼玉県加須市)
⑦丹党(拠点は現在の埼玉県入間郡・秩父郡・児玉郡)
⑧西党(拠点は現在の東京都日野市)
⑨綴党(拠点は現在の神奈川県横浜市都筑区)
⑩私市党(拠点は現在の埼玉県加須市騎西)
1,333 6 22 上総国・下総国の軍勢を味方につける為に下総国の下河辺荘(現在の埼玉県八潮市・三郷市・越谷市・春日部市・さいたま市岩槻区、千葉県野田市、茨城県古河市・五霞町)へ向けて鎌倉を出発していた北条貞将が、本拠地の六浦(現在の神奈川県横浜市金沢区)で軍勢を整えた後、鶴見川(現在の神奈川県横浜市鶴見区)にて、鎌倉幕府から寝返り新田義貞に与した以下2名率いる軍と戦闘となり、敗れた北条は六浦経由で鎌倉へ敗走した。その後北条は朝比奈坂の守備を担当した。
①第11代千葉氏当主千葉貞胤
②第8代小山氏当主小山秀朝
1,333 6 23 朝、新田義貞軍が入間川を渡り、小手指原(現在の埼玉県所沢市北野)にて以下4名が率いる鎌倉幕府軍と交戦する。鎌倉幕府軍は新田が入間川を渡り切る前に迎撃する予定であったが失敗した。日没までに新田軍は300名、鎌倉幕府軍は500名の戦死者を出すが、両軍共に疲弊し、新田軍は入間川、鎌倉幕府軍は久米川(現在の柳瀬川)まで兵を引き軍勢を立て直した。その後新田軍は八国山に布陣した。
①北条貞国(総大将)
②長崎高重(副将)
③長崎泰光(副将)
④加治家貞(副将)
1,333 6 24 朝、新田義貞軍が、八国山(現在の東京都東村山市多摩湖町)に陣を張り、久米川の南岸(現在の東京都東村山市諏訪町)に布陣する北条貞国率いる鎌倉幕府軍を奇襲する。北条は奇襲に対する備えを講じており、奇襲は失敗した。鎌倉幕府軍は鶴翼の陣を敷き新田を挟み込む策に出たが、新田はこれを看破して戦法に嵌ったかの様に見せかけ、鶴翼の陣により手薄になった本隊を襲撃した。結果、鎌倉幕府軍は退けられ、北条は分倍河原(現在の東京都府中市)に敗走した。
1,333 6 27 新田義貞が10,000名の兵を率い、分倍河原に布陣する、北条貞国率いる3日前の敗戦後に合流した北条泰家の援軍含む150,000名の鎌倉幕府軍を襲撃する。鎌倉幕府は小手指原・久米川での敗戦の報告を受け、北条泰家に100,000名を率いさせて分倍河原に派遣していた。援軍により士気が高まっていた鎌倉幕府軍は新田軍を退け、新田は自ら手勢600騎を率い鎌倉幕府軍の横腹を突いて血路を開き辛うじて脱出し、堀金(現在の埼玉県狭山市堀兼)周辺にまで敗走した。その際武蔵国分寺(現在の東京都国分寺市西元町)が焼失した。夜、大多和義勝が以下の相模国の氏族を率い、軍勢8,000騎で新田に加勢し、北条氏から寝返った。また、新田は鎌倉幕府を油断させる為に忍びを使って大多和が鎌倉幕府軍に加勢に来るというデマを流した。
①河村氏
②土肥氏
③渋谷氏
④本間氏
1,333 6 28 大多和義勝の献策により、大多和を先鋒として20,000名の兵力で分倍河原にて鎌倉幕府軍を急襲する。前日のデマを信じた鎌倉幕府軍は油断して敗北した。北条泰家は、家臣横溝八郎の奮戦によって一命をとり止め、鎌倉幕府軍は霞ノ関(現在の東京都多摩市関戸)へ敗走した。
1,333 6 28 新田義貞が多摩川を越えて、70,000名の兵を率い霞ノ関(現在の東京都多摩市関戸)にて、50,000名の兵を率いる北条泰家の軍と交戦する。鎌倉幕府は新田の鎌倉侵攻を阻止する為に分倍河原にも兵を配備した。新田軍が勝利するが、以下2名の奮戦により北条は鎌倉へ敗走した。守勢に転じた鎌倉幕府は鎌倉七口を封鎖した。
①横溝八郎
②安保道潭
横溝・安保は討死し、新田はそのまま本陣を霞ノ関に置いた。
1,333 6 29 新田義貞が軍を以下の三手に分け、鎌倉攻めの準備を行う。
①仮粧坂(本隊、現在の神奈川県鎌倉市扇ガ谷)
❶新田
❷脇屋義助
❸里見義胤
❹鳥山氏
❺大井田氏
②洲崎(現在の神奈川県鎌倉市寺分・梶原・山崎)
❶堀口貞満
❷大島守之
③極楽寺坂切通(現在の神奈川県鎌倉市極楽寺〜由比ヶ浜)
❶大舘宗氏
❷江田行義
1,333 6 30 北条守時が、悪化した鎌倉幕府内での自身の立場を回復する為、先鋒隊として巨福呂坂(現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下・山ノ内)から洲崎へ向かい、以下2名を迎え撃つ。洲崎に到着した時点で北条は戦闘により大部分の兵を失っていた。洲崎ではこの日だけで65回の戦闘が発生した。
①堀口貞満
②大島守之
兵力の差から敗色濃厚となった北条は、洲崎にて南条高直を呼び寄せ「妹が足利尊氏の妻であるから私以下北条家一族は私を疑っている。これは一家の恥であるから自害する」と言い自刃した。これを見届けた南条は「巨福呂坂に戻り援軍を頼むべきである」という主旨の進言を退け、家臣に「大将が既にご自害された上は、士卒は誰の為に命を惜しもうか。ではお供仕ろう」と言って千代塚にて直ちに切腹し、その後90名余りが続いた。
1,333 7 1 極楽寺切通から以下2名率いる軍が鎌倉へ進軍し、鎌倉幕府軍を突破する。
①大舘宗氏
②江田行義
北条貞直の勘気を被って蟄居していた部下の本間山城左衛門はこの時、出撃命令は出ていなかったが、鎌倉幕府軍が突破されたとの知らせを聞きつけ、中間100名を率い極楽寺坂へ出陣した。大舘率いる30,000名の軍勢に進撃し、腰越(現在の神奈川県鎌倉市)まで後退させた。北条貞直率いる部隊は態勢を立て直し、本間は大舘の首を討ち取った。本間は大舘を首を持って北条の陣に馳せ参じ「これで多年の御恩に報いる事が出来ました」と言い北条の前で自害した。北条は涙を流し自らの不明を詫びた。最後に残った大舘の部下10名は十一人塚(現在の神奈川県鎌倉市稲村ガ崎)で自刃した。後に十一面観音の像が建立され、大舘と共に弔われた。生き残った大舘に与した兵は仏法寺(現在の神奈川県鎌倉市坂ノ下)に陣を張った。
1,333 7 2 新田義貞率いる軍が聖福寺(現在の神奈川県鎌倉市稲村ガ崎)に布陣する。
1,333 7 2 北条貞将の強固な守備に苦戦していた新田義貞が、大舘宗氏が戦死したとの報告を受け、脇屋義助に化粧坂の戦を任せ、大舘が戦死した極楽寺坂へ向かう。
1,333 7 3 未明、稲村ヶ崎が干潮となる。新田義貞は100,000名の兵を率い極楽寺坂へ入った。夜、新田は稲村ヶ崎を突破して稲瀬川(現在の神奈川県鎌倉市長谷)や由比ヶ浜の民家に火を放った。火の手が北条執権邸(現在の宝戒寺(現在の神奈川県鎌倉市小町))に迫ると、北条高時を始めとする北条一門は東勝寺(現在の神奈川県鎌倉市葛西ケ谷)に集合した。一方新田軍は由比ヶ浜を経由して鎌倉幕府軍の背後へ回り進軍した。
1,333 7 3 鎌倉に侵攻した新田義貞軍に応戦していた長崎高資の嫡男の長崎高重が、東勝寺に避難していた北条高時に拝謁する。長崎は、切腹の覚悟を伝え「これから最後の戦いに挑みます。新田の本陣に奇襲を仕掛け、新田の首を取って帰って参ります。勝っても負けても必ず帰って参ります。どうか私が帰参するまでは自害など為さらない様、お願い致します」と言い、崇寿寺(現在の神奈川県鎌倉市材木座)へ向かった。崇寿寺の長老南山和尚に「武士とは何か。死に臨んでどうあるべきか」と問うと、南山和尚は「剣を振るって前進あるのみ」と答えた。その後150騎を率いて、300騎の新田本陣に進撃し、新田の首を狙うが、仕留める事が出来ず東勝寺に退却する。
1,333 7 4 以下3名が極楽寺坂にて脇屋義助に敗れ戦死する。
①北条貞直
②北条貞直の弟北条宣政
③北条貞直の息子北条顕秀
手勢が少なくなり劣勢となっていた鎌倉幕府側には切腹する者が出始めていた。しかし貞直は「千騎が一騎になるまで戦うのが武士の本分」として、切腹した者を罵っていた。
1,333 7 4 極楽寺坂・巨福呂坂を突破した新田義貞軍が鎌倉に侵攻した事を受け、以下の人間と共に仮粧坂を守備していた北条基時が、残り少なくなった家臣と共に自害する。
①北条貞顕
②安房国の御家人
③上野国の御家人
④下野国の御家人
1,333 7 4 巨福呂坂を突破された北条貞将が、東勝寺にて北条高時に拝謁し、御教書を授かり鎧に入れて戦場へ赴き、新田義貞軍に敗れる。そして長男の北条忠時と共に自害した。
1,333 7 4 東勝寺にて以下6名等家臣等870名(北条家一族283名含む)が自害する。
①長崎円喜
②円喜の嫡男長崎高資
③長崎高重
④長崎思元
⑤摂津親鑑
⑥諏訪直性
それを見届けた上で以下2名が自害し鎌倉幕府が滅亡する。
①北条高時
②北条の舅安達時顕
1,333 7 5 後醍醐天皇が京都へ向けて船上山を出発する。
1,333 7 7 後醍醐天皇の詔によって、光厳天皇が退位し、元号正慶が廃止となる。後醍醐天皇は光厳天皇の即位と元号正慶の無効を宣言した。
1,333 7 7 六波羅探題滅亡の知らせを聞いた少弐貞経が大友貞宗を誘い、第5代島津氏当主島津貞久も加わって、以下の諸氏と共に5,000名の軍勢で鎮西探題館を襲撃し、北条英時・英時の兄北条種時を始めとする340名を自害に追い込む。英時は貞経の動きを把握しており、太宰府の少弐館に長岡六郎を派遣し探りを入れていた。しかし長岡は貞経の息子少弐頼尚によって殺害された。
①紀井氏
②伊東氏
③高木氏
④龍造寺氏
⑤大村氏
以下の諸氏は鎮西探題に与した。
①松浦氏
②草野氏
③山鹿氏
④宗像氏
1,333 7 8 原山(現在の福岡県太宰府市三条)に進軍していた尊良親王が着到を受け付け、九州の統治に当たる。
1,333 7 8 北条時直が少弐貞経に降伏する。西暦1,333年5月17日に長門探題を出奔して、東上していたが、道中六波羅探題の滅亡を知り、鎮西探題を頼ろうとしたが前日に北条英時が自刃し滅亡した為孤立無援となっていた。北条は罪を許され、本領を安堵された。しかし程なくして病没した。
1,333 7 9 後醍醐天皇が圓教寺(現在の兵庫県姫路市書写)に行幸し、一泊する。圓教寺への参拝は後醍醐天皇の宿願であった。
1,333 7 10 後醍醐天皇が一乗寺(現在の兵庫県加西市坂本町)に参拝する。
1,333 7 12 後醍醐天皇が福厳寺(現在の兵庫県神戸市兵庫区門口町)に参拝する。その際以下2名が出迎えた。
①楠木正成
②赤松則村
1,333 7 14 後醍醐天皇が京都へ向けて出発する。
1,333 7 17 後醍醐天皇が東寺(現在の京都府京都市南区九条町)に入る。
1,333 7 17 足利尊氏が鎮守府将軍に任ぜられ、内昇殿を許される。
1,333 7 18 後醍醐天皇が二条富小路内裏に入る。
1,333 7 25 信貴山(現在の奈良県生駒郡平群町・大阪府八尾市)に立て籠っていた護良親王が京都に帰還する。
1,333 7 27 足利尊氏が左兵衛督に昇叙する。
1,333 9 尊良親王が京都に戻る。
1,333 9 14 尊良親王が京都に戻る。
1,336 足利尊氏が入京すると、後醍醐天皇は延暦寺に逃走し、立て籠る。
1,336 4 22 玉城が死去する。
1,336 7 4 九州から東上した足利尊氏・足利直義を新田義貞・楠木正成の軍が摂津国湊川(現在の兵庫県神戸市中央区、兵庫区)で迎撃する。敗れた正成、部下の橘正遠、正成の弟楠木正季等が自害する。
1,336 9 20 足利尊氏から治天の君に推戴された光厳上皇の院宣により、第2代北朝天皇に光明天皇が即位し、二人の天皇が並び立つ形となる。
1,337 玉城の長男西威が第5代英祖王統王に即位する。しかし、西威は幼かった為、母が実権を握ったが、失った国威を回復する事が出来なかった。
1,337 大里按司承察度が、周囲の按司を纏め「南山王国」を建国し、初代南山王国国王に即位する。
1,346 黒海沿岸で黒死病が流行する。
1,347 現在のイタリア、フランス南部で黒死病が流行する。ユダヤ教徒の犠牲者が少なかった為、ユダヤ教徒が井戸に毒を投げ込んだ等のデマが広がる。
1,348 ポルトガルで黒死病が流行する。
1,349 4 30 西威が病死する。一部に5歳の西威の子供を後継に擁立する動きがあったが実現しなかった。
1,350 勝連按司の娘婿察度が、群臣から推され、「中山王国」を建国し、初代中山王国国王に即位する。此れにより英祖王統は滅亡した。
1,351 ラーマーティボーディー1世によりアユタヤ王朝が創立される。
1,366 ヴェネツィア共和国では、これまでキリスト教徒であれユダヤ教徒であれ、いかなる質屋も商売をする事が出来なかったが、質屋の独占権が与えられた。これはヴェネツィアの有名な公営質屋「貧民銀行」の起源となったものであるが、金貸しのユダヤ人は5年間しかヴェネツィアに滞在する事は許されなかった。
1,371 初代明皇帝朱元璋が「海禁令」を発する。
1,372 朱元璋が楊載を中山王国に派遣し、初代中山王国(現在の沖縄県那覇市・浦添市・中頭郡)国王察度に平定を伝え、朝貢を促す。唯朱の目的は朝貢だけで無く、北元を平定する為に琉球馬を調達するという狙いも有った。当時軍馬の調達ルートの多くはモンゴル人に押さえられていた。又、朱は諸外国にも服属を促していた。
1,372 11 察度の使者の泰期が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,373 1 23 泰期が明に対し、中山王国として最初の進貢を行う。中山王の称号と暦や船を貰い、冊封を受けた。
1,373 6 泰期が中山王国に帰還する。
1,374 9 察度の使者の泰期が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,374 11 30 泰期が明に対し、中山王国として2度目の進貢を行う。
1,375 6 泰期が中山王国に帰還する。明から李浩が同行した。
1,376 3 察度の使者の泰期が、進貢の為、明へ向けて出港する。李浩も明に帰国する為同乗した。
1,376 4 20 泰期が明に対し、中山王国として3度目の進貢を行う。李浩は帰国を果たした。
1,376 8 泰期が中山王国に帰還する。
1,376 11 察度の使者の泰期が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,377 2 9 泰期が明に対し、中山王国として4度目の進貢を行う。
1,377 6 泰期が中山王国に帰還する。
1,378 4 察度の使者の泰期が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,378 5 31 泰期が明に対し、中山王国として5度目の進貢を行う。
1,378 9 泰期が中山王国に帰還する。
1,380 2 察度の使者の泰期が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,380 4 24 泰期が明に対し、中山王国として6度目の進貢を行う。
1,380 7 泰期が中山王国に帰還する。
1,380 8 承察度の使者の師惹が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,380 11 17 師惹が明に対し、南山王国として初めての進貢を行う。
1,381 6 師惹が南山王国に帰還する。
1,381 12 察度の使者の以下2名が、進貢の為、明へ向けて出港する。
①泰期
②亜蘭砲
1,382 3 30 以下2名が明に対し、中山王国として7度目の進貢を行う。
①泰期
②亜蘭砲
1,382 6 以下2名が中山王国に帰還する。
①泰期
②亜蘭砲
1,382 11 以下3名が、進貢の為、明へ向けて出港する。
①亜蘭砲(察度の使者)
②師惹(承察度の使者)
③模結習(怕尼芝の使者)
だが、亜蘭砲の乗った船は一度宮古島に漂着した。
1,383 2 3 以下3名が明に対し進貢を行う。
①亜蘭砲(中山王国として8度目)
②師惹(南山王国として2度目)
③模結習(北山王国として初)
この際師惹は文綺紗羅を賜った。
1,383 6 以下3名が帰還する。
①亜蘭砲
②師惹
③模結習
1,383 11 以下3名が、進貢の為、明へ向けて出港する。
①亜蘭砲(察度の使者)
②師惹(承察度の使者)
③模結習(怕尼芝の使者)
1,384 1 23 以下3名が明に対し進貢を行う。
①亜蘭砲(中山王国として9度目)
②師惹(南山王国として3度目)
③模結習(北山王国として2度目)
1,384 5 察度の使者の阿不耶が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,384 6 以下3名が帰還する。
①亜蘭砲
②師惹
③模結習
1,384 6 20 阿不耶が明に対し、中山王国として10度目の進貢を行う。
1,384 10 阿不耶が中山王国に帰還する。
1,384 11 以下3名が、進貢の為、明へ向けて出港する。
①亜蘭砲(察度の使者)
②師惹(承察度の使者)
③模結習(怕尼芝の使者)
1,385 2 10 以下3名が明に対し進貢を行う。
①亜蘭砲(中山王国として11度目)
②師惹(南山王国として4度目)
③模結習(北山王国として3度目)
この際3名は、初代明皇帝朱元璋から以下を賜った。
①亜蘭砲(海船1隻)
②師惹(駝紐鍍金銀印、海船1隻)
③模結習(駝紐鍍金銀印)
1,385 4 6 コルテス(身分制議会)がコインブラ(現在のポルトガル)で召集され、ブルゴーヌ朝の王ペドロ1世の庶子且つアヴィス騎士団総長のジョアン1世に王位が授けられる。カスティーリャ王国トラスタマラ朝の王フアン1世は、妻の王位を主張し、フランスの騎兵隊や彼に従うポルトガル貴族の軍と共にポルトガルへと侵攻した。
1,385 6 以下3名が帰還する。
①亜蘭砲
②師惹
③模結習
1,385 8 14 ジョアン1世とフアン1世の間で、アルジュバロータ(現在のポルトガルのアルコバサ)にてポルトガル王位を巡る戦闘が行われる。結果、フアン1世の軍が敗北し、ジョアン1世のポルトガル王位が確立された。
1,385 11 察度の使者の亜蘭砲が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,386 2 3 亜蘭砲が明に対し、中山王国として12度目の進貢を行う。
1,386 6 亜蘭砲が中山王国に帰還する。
1,386 10 承察度の使者耶師姑が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,386 12 察度の使者の亜蘭砲が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,386 12 22 耶師姑が明に対し、南山王国として5度目の進貢を行う。貢物は馬30頭であった。
1,387 ボローニャ(現在のイタリアのエミリア・ロマーニャ州)に約35世帯(200名)のユダヤ人が存在していた。当時のボローニャは人口が30,000〜35,000名であった。
1,387 2 28 亜蘭砲が明に対し、中山王国として13度目の進貢を行う。
1,387 6 耶師姑が南山王国に帰還する。
1,387 6 亜蘭砲が中山王国に帰還する。
1,387 11 承察度の使者の以下2名が、進貢の為、明へ向けて出港する。
①汪英紫
②函寧寿
1,387 11 承察度の使者亜蘭砲が進貢の為、明へ向けて出港する。此の際帕尼芝も同乗した。
1,388 2 9 以下2名が明に対し、南山王国として6度目の進貢を行う。
①汪英紫
②函寧寿
1,388 2 21 以下2名が進貢を行う。
①亜蘭砲(中山王国として14度目)
②帕尼芝(北山王国として4度目)
1,388 6 以下2名が南山王国に帰還する。
①汪英紫
②函寧寿
1,388 6 以下2名が帰還する。
①亜蘭砲
②帕尼芝
1,388 8 承察度の使者亜蘭砲が進貢の為、明へ向けて出港する。此の際帕尼芝も同乗した。
1,388 10 16 以下2名が進貢を行う。
①亜蘭砲(中山王国として15度目)
②帕尼芝(北山王国として5度目)
1,389 5 以下2名が帰還する。
①亜蘭砲
②帕尼芝
1,389 6 察度が高麗へ向けて出港する。倭寇に捕らわれた高麗人を送り返し、朝鮮の使者を連れて帰った。
1,389 11 察度の使者亜蘭砲が、進貢の為、明へ向けて出港する。此の際帕尼芝の使者李仲も同乗した。
1,390 1 察度が中山王国に帰還する。
1,390 2 11 以下2名が進貢を行う。
①亜蘭砲(中山王国として16度目)
②李仲(北山王国として6度目)
1,390 6 以下2名が帰還する。
①亜蘭砲
②李仲
1,390 6 察度が高麗へ向けて出港する。朝鮮の使者を送り返した。
1,390 11 察度の使者の以下2名が、進貢の為、明へ向けて出港する。
①亜蘭砲
②越来按司
1,391 1 察度が中山王国に帰還する。
1,391 3 28 以下2名が明に対し、中山王国として17度目の進貢を行う。この際中山王国は、2隻目の海船を賜った。
①亜蘭砲
②越来按司
1,391 6 以下2名が中山王国に帰還する。
①亜蘭砲
②越来按司
1,391 6 4 セビリア(現在のスペインのアンダルシア州)でポグロム(ユダヤ人虐殺)が始まる。後にコルドバ(現在のスペインのアンダルシア州)、トレド(現在のスペインのカスティーリャ・ラ・マンチャ州)、バレンシア(現在のスペインのバレンシア州)、バルセロナ(現在のスペインのカタルーニャ州)、ブルゴス(現在のカスティーリャ・イ・レオン州)等にも波及していった。
1,391 8 島添大里(現在の沖縄県南城市大里字大里)按司汪英紫の使者耶師姑が、汪が承察度から借りた船に乗り、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,391 9 29 耶師姑が明に対し、南山王国として7度目の進貢を行う。
1,392 4 察度の使者宇座按司が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,392 5 25 宇座按司が明に対し、中山王国として17度目の進貢を行う。国子監に3名の官生を送った。
1,392 6 耶師姑が南山王国に帰還する。
1,392 6 察度が高麗へ向けて出港する。倭寇に捕らわれた被慮人8名を送還した。
1,392 10 察度の使者が進貢の為、明へ向けて出港する。
1,392 11 承察度の使者南都妹が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,392 11 察度の使者麻州が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,392 11 12 第99代天皇(南朝)後亀山天皇と第3代室町幕府征夷大将軍足利義満との間で、和議と皇位継承について約定が締結される。以下の内容を義満が提案した。
①後亀山天皇から後小松天皇(北朝第6代天皇)へ、譲国の儀に於ける三種の神器の引き渡しの実施
②後小松天皇の次の天皇は、後亀山天皇の皇子である小倉宮恒敦皇子が皇位を継ぎ、以降旧北朝と旧南朝の両統迭立とする
③国衙領を大覚寺統(南朝)の領地とする
④長講堂領を持明院統(北朝)の領地とする
1,392 11 16 後亀山天皇が嵯峨大覚寺に到着する。途中飛鳥で橘寺に、奈良で興福寺に宿泊していた。供奉の人々は皆鎧直垂を纏い、関白は直衣姿であった。厳かな儀式が執り行われた。
1,392 11 19 嵯峨大覚寺から土御門東洞院の皇居まで莚道が敷かれ、三種の神器が厳かに警護されながら後亀山天皇により遷された。これにより後小松天皇が第100代天皇となる。足利義満が提案した譲国の儀は執り行われず、西暦1,185年に平家一門によって奪われた三種の神器のうち海に沈んだ宝剣をのぞく二つが西国から戻り、後鳥羽天皇の下に戻された時の形式で儀式を執り行った。譲国の儀が執り行われなかった事は、南朝が正統と認められていないのと同義である為、南朝の不満が高まる。
1,392 12 30 察度の使者が明に対し、中山王国として19度目の進貢を行う。
1,393 1 察度が中山王国に帰還する。
1,393 1 26 南都妹が明に対し、南山王国として8度目の進貢を行う。貢物は方物であった。又、以下2名が、明の最高学府である国子監に留学した。
①四太郎
②承察度・察度の姪三五郎亹
1,393 3 察度の使者が中山王国に帰還する。
1,393 3 察度の使者寿礼給智が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,393 3 1 麻州が明に対し、中山王国として20度目の進貢を行う。
1,393 4 南都妹が南山王国に帰還する。
1,393 4 汪英紫の使者不里結致が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,393 5 28 寿礼給智が明に対し、中山王国として21度目の進貢を行う。
1,393 6 麻州が中山王国に帰還する。
1,393 9 寿礼給智が中山王国に帰還する。
1,393 7 5 不里結致が明に対し、南山王国として9度目の進貢を行う。
1,393 9 寿礼給智が中山王国に帰還する。
1,393 10 不里結致が南山王国に帰還する。
1,393 11 察度の使者亜蘭砲が、進貢の為、明へ向けて出港する。この際承察度の使者甚模結致も同乗した。亜蘭砲は国相となった。
1,394 金融業の特許状の更新が否決され、ユダヤ人はヴェネツィアから再び追放される。そして、ユダヤ人のヴェネツィア滞在に日数制限が設けられるとともに、黄色の身分標識の着用やユダヤ人によるシナゴーグ建設や礼拝の禁止、ユダヤ人とキリスト教徒との婚姻の禁止など数々の制限が設けられた。
1,394 2 25 以下2名が進貢を行う。
①亜蘭砲(中山王国として22度目)
②甚模結致(南山王国として10度目)
1,394 3 8 天龍寺(現在の京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町)にて、後亀山天皇と足利義満が初めて面会する。
1,394 3 25 後亀山天皇に上皇の尊号が贈られる。
1,394 6 以下2名が帰還する。
①亜蘭砲
②甚模結致
1,394 6 察度が李氏朝鮮へ向けて出港する。
1,394 10 4 察度が、李氏朝鮮にて以下3点を実行する。
①礼物を捧げる
②捕虜男女12名を送還する
③亡命している承察度の引き渡しを要求する
1,394 11 汪英紫の使者耶師姑が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,394 11 察度の使者亜蘭砲が、進貢の為、明へ向けて出港する。この際珉の使者善佳古耶も同乗した。
1,395 1 察度が中山王国に帰還する。
1,395 1 22 耶師姑が明に対し、南山王国として11度目の進貢を行う。
1,395 1 22 以下2名が進貢を行う。
①亜蘭砲(中山王国として23度目)
②善佳古耶(北山王国として7度目)
1,395 3 察度の使者亜撤都が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,395 4 26 亜撤都が明に対し、中山王国として24度目の進貢を行う。
1,395 6 耶師姑が南山王国に帰還する。国子監に留学していた以下2名も同時に帰還した。
①四太郎
②三五郎亹
1,395 6 以下2名が帰還する。
①亜蘭砲
②善佳古耶
1,395 9 亜撤都が中山王国に帰還する。
1,395 11 察度の使者程復が、進貢の為、明へ向けて出港する。この際攀安知の使者善佳古耶も同乗した。
1,396 2 19 以下2名が進貢を行う。
①程復(中山王国として25度目)
②善佳古耶(北山王国として8度目)
1,396 3 察度の使者越来按司が、進貢の為、明へ向けて出港する。この際承察度の使者・官生と、汪英紫の使者呉宜堪弥結致も同乗した。しかし、察度は前年に死去しており、承察度は亡命し、李氏朝鮮に居た。
1,396 5 27 以下2名が明に進貢を行う。
①越来按司(中山王国として26度目)
②使者・官生と呉宜堪弥結致(南山王国として12度目)
使者・官生の貢物は以下であった。
①馬21頭
②方物
また、呉宜堪弥結致の貢物は以下であった。
①馬52頭
②硫黄4,200kg
③蘇木780kg
1,396 6 以下2名が帰還する。
①程復
②善佳古耶
1,396 9 以下の人間が帰還する。
①越来按司
②使者・官生と呉宜堪弥結致
1,396 10 武寧の使者蔡奇阿勃耶が、進貢の為、明へ向けて出港する。この際、三五郎亹と攀安知の使者善佳古耶も同乗した。
1,396 12 以下2名の汪英紫の使者が、進貢の為、明へ向けて出港する。
①宇座按司
②渥周結致
1,396 12 察度の使者友賛結致が、進貢の為、明へ向けて出港する。この際、攀安知の使者恰宣斯耶も同乗した。
1,397 1 14 以下2名が明に対し進貢を行う。また、三五郎亹が国子監に復監した。
①蔡奇阿勃耶(中山王国として27度目)
②善佳古耶(北山王国として9度目)
1,397 3 2 以下2名が明に対し、南山王国として13度目の進貢を行う。貢物は馬と硫黄であった。
①宇座按司
②渥周結致
1,397 3 2 以下2名が進貢を行う。
①友賛結致(中山王国として28度目)
②恰宣斯耶(北山王国として10度目)
1,397 4 以下2名が帰還する。
①蔡奇阿勃耶
②善佳古耶
1,397 6 以下2名が帰還する。
①宇座按司
②渥周結致
1,397 6 以下2名が帰還する。
①友賛結致
②恰宣斯耶
1,397 6 武寧が李氏朝鮮へ向けて出港する。倭寇の捕虜9名を送還した。
1,397 10 察度の使者友賛結致が、進貢の為、明へ向けて出港する。この際、攀安知の使者恰宣斯耶も同乗した。
1,397 12 16 後亀山天皇が上皇の尊号及び兵仗を辞退し、足利義満もこれを了承する。その後出家して法皇となった。
1,398 汪英紫が第2代南山王国国王に即位する。
1,398 1 武寧が帰還する。
1,398 1 3 以下2名が進貢を行う。
①友賛結致(中山王国として29度目)
②恰宣斯耶(北山王国として11度目)
その際、友賛結致と恰宣斯耶は各々海船1隻を賜った。
1,398 2 察度の使者亜蘭砲が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,398 3 以下2名の察度の使者が、進貢の為、明へ向けて出港する。
①程復
②新垣大親
1,398 3 19 亜蘭砲が明に対し、中山王国として30度目の進貢を行う。
1,398 4 以下2名が帰還する。
①友賛結致
②恰宣斯耶
1,398 4 察度の使者阿不耶が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,398 4 17 以下2名が明に対し、中山王国として31度目の進貢を行う。
①程復
②新垣大親
1,398 4 29 阿不耶が明に対し、中山王国として32度目の進貢を行う。
1,398 7 亜蘭砲が中山王国に帰還する。
1,398 8 以下2名が帰還する。
①程復
②新垣大親
1,398 9 阿不耶が中山王国に帰還する。
1,398 11 察度の使者が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,398 11 汪英紫の使者が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,398 11 攀安知の使者が、進貢の為、明へ向けて出港する。
1,399 4 察度の使者が、戦乱の為応天府(現在の中国江蘇省南京市)に行く事が出来ず帰還する。
1,399 4 汪英紫の使者が、戦乱の為応天府に行く事が出来ず帰還する。
1,399 4 攀安知の使者が、戦乱の為応天府に行く事が出来ず帰還する。
1,399 6 武寧が李氏朝鮮へ向けて出港する。
1,400 1 武寧が中山王国に帰還する。
1,400 6 武寧が李氏朝鮮へ向けて出港する。



アメリカ独立戦争の黒幕ハイム・サロモン一元化




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