万物の系譜

西暦1,201〜1,300年

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東大寺大仏殿の再建に尽力した重源と陳和卿一元化

年月日 出来事
1,201 2 2 源頼家が、政所に諸国の大田文の提出を命じ、大輔房源性に田数計算をさせ始める。源は、西暦1,182年以後の勲功として与えられた恩地に関し、約4,958,680㎡以上を有する場合は超過分を没収し、領地を与えられていない御家人に分配する様大江広元に命じた。しかし大江は反対した。
1,201 2 3 三善康信が源頼家に対し、前日に源が命じた御家人の所領の再分配を遠回しに諌めた。源は渋々決定を延期した。此の時三善は約6,079,341.68㎡の領地を有していた。
1,201 2 27 夜、城長茂率いる軍が、大番役として京都に滞在していた、平安京東洞院大路東(現在の京都府京都市南区東九条南山王町)に所在する小山朝政の宿所を包囲する。此の日小山は、土御門天皇が後鳥羽上皇の仙洞御所への行幸に供奉していた為、不在であった。宿所に残っていた兵が応戦した為、城は退却した。後鳥羽上皇と土御門天皇がいる仙洞御所の二条東洞院殿へ参上し、四方の門を閉ざして、後鳥羽上皇に対し、源頼家追討の宣旨を要求した。しかし後鳥羽上皇が此れを拒否した為、城長茂率いる軍は引き上げ、清水坂(現在の京都府京都市東山区)に潜伏した。城長茂の軍に参加していた藤原高衡は、軍から離脱し、藤原範季の屋敷に逃げ込んだ。其の後、小山率いる軍が清水坂へ向けて城を追撃するが、小山が清水坂に到着した時には既に城は居なかった。
1,201 3 城長茂に呼応して、以下2名が越後国蒲原の鳥坂城(現在の新潟県胎内市羽黒)にて反乱を起こす。
①城資盛
②資盛の叔母で弓の名手の板額御前
1,201 3 9 京都守護の要請により、後鳥羽上皇が城長茂追討の宣旨を下す。
1,201 3 28 城長茂が吉野山に潜伏している事を突き止めた鎌倉幕府軍が、城と郎党新津四郎を含む5名を、吉野の奥で殺害し、別の5名を捕虜とする。城は出家したばかりであった。
1,201 3 29 城長茂の反乱を収める為、朝廷が「建仁」への改元を行う。
1,201 3 31 3日前に吉野の奥にて、鎌倉幕府軍によって殺害された城長茂と郎党新津四郎を含む5名の首が、平安京を引き回される。更に、同じく3日前に捕虜となった5名も殺害された。
1,201 4 4 藤原高衡が鎌倉幕府軍によって殺害される。高衡は、城長茂の郎党に、信濃小路(現在の京都府京都市南区西九条針小路町)の藤原範季の屋敷から連れ戻されていた。
1,201 4 4 以下2名が鎌倉幕府軍によって殺害される。
①城長茂の甥城資家
②長茂の甥城資正
1,201 5 5 鳥坂城に篭城する城資盛を越後国・佐渡国の御家人が襲撃するも、城の陣の前に敗北した事が鎌倉幕府に報告される。
1,201 5 6 以下3名が協議し、上野国に居る佐々木盛綱に越後国の御家人を招集させ、城資盛を征伐する事を決定する。
①北条時政
②大江広元
③三善康信
同日、佐々木への御教書を和田義盛が受け取り、上野国へ飛脚が出された。
1,201 5 8 上野国磯部郷(現在の群馬県安中市磯部・上磯部・下磯部・東上磯部・西上磯部)の屋敷の門外に居た佐々木盛綱が、鎌倉幕府からの御教書を受け取る。佐々木は屋敷に戻らず、城資盛征伐の為、越後国へ直行した。佐々木の家族が追い付き「軽はずみな行動では?」と問うと佐々木は「其の昔、平将門が反乱を起こした際、追討使となった藤原忠文は、朱雀天皇から宣旨を受けた時は食事中であったが、箸を投げ捨て参内し、刀を拝領して、直様平征伐へ向かったと聞いている。此の様な行動こそが勇士の心掛ける事だ」と返した。
1,201 5 11 佐々木盛綱率いる軍が、鳥坂城周辺に到着する。佐々木は使者を遣わせ、3日前に鎌倉幕府から受け取った御教書の内容を城資盛に伝えた。城は「此方へ出向いて頂き、雌雄を決したい」と返答した。此れを受け、越後国・佐渡国・信濃国の御家人が郎党を集め、佐々木の下に参集した。佐々木は軍を再編成し、阿賀野川(現在の新潟県・福島県・群馬県)を渡った。佐々木は再度城へ使者を遣わすと、城は、鳥坂城の付近で戦闘を行うと返答した。城の軍勢は1,000名であり、多勢の鎌倉幕府軍に対し、最初から守勢で迎え撃った。
1,201 6 8 出家していた佐々木経高が、洛中での騒動に対する申し開きを記した書簡を、自身の長男佐々木高重に持参させ、鎌倉幕府に提出する。其の後、源頼家は経高を赦免したが、領地は返還されなかった。
1,201 6 10 佐々木盛綱の参男佐々木盛季が一番矢、海野幸氏が二番矢を放ち、城資盛の篭城する鳥坂城へ先制攻撃を仕掛ける。鳥坂城には、帯曲輪に木柵が巡らされ、空堀には逆茂木が立ち並び、城軍は矢石で迎撃し、鎌倉幕府軍は多数の死者を出した。又、盛季と海野は先駆けを争って負傷した。死傷者を出しながらも鎌倉幕府軍は帯曲輪に迫った。すると板額御前が、髪を結い上げ腹巻きを身に付け矢倉の上に立ち、次々と弓で鎌倉幕府兵を百発百中で仕留めていった。しかし、藤沢清親が板額御前の両腿に矢を命中させ、板額御前は倒れ、藤沢は板額御前を捕虜とした。此れを切っ掛けに城軍は崩れ始めた。結果、4時間の戦闘の末鳥坂城は落城した。
1,201 7 29 藤沢清親によって鎌倉に護送されていた板額御前が、源頼家によって大倉御所に招かれる。源と板額御前が面会する際、板額御前を見ようと、多数の御家人が参集した。板額御前は傷が完治しておらず、気遣いながらの参上であったが、侍所に控えていた以下の人間の座を通る時も、源を前にした際も、臆する事なく堂々としていた。
①畠山重忠
②小山朝政
③和田義盛
④比企能員
⑤三浦義村
1,201 7 30 浅利義遠が源頼家に対し、板額御前を妻として迎え入れたい旨を伝える。源は「何故謀反の徒を室に望むのか。其れを望むのは思惑が有るのではないか」と問うと、浅利は「全く特別な思惑はありません、只同心の契りを交わして武勇に秀でた男子を儲け、朝廷や武家に忠義を尽くさせる為です」と答えた。源は「此の者の顔立ちは良いが、心の猛々しさを思えば、誰が愛らしく思うだろうか。常人の望む様な事では無い」と笑いながら許可した。其の後浅利は、板額御前を伴って、本拠である甲斐国八代郡浅利郷(現在の山梨県中央市浅利)へ下向し、一男一女を儲けた。
1,201 8 10 豊島朝経が土佐国守護に任命される。
1,201 9 9 台風により鎌倉の家々が押し潰され、港では船が引っ繰り返され、鶴岡八幡宮寺の回廊や八足門を始めとする仏閣・塔廟が倒れる等の被害が発生する。下総国では高潮が発生し、葛西郡(現在の東京都葛飾区・江戸川区・墨田区・江東区)の海辺では、潮が押し寄せ農民・漁師等の家が巻き込まれ、1,000名が溺死した。此れ迄見証として源頼家の鞠会に加わっていた北条泰時は、北条家に詰める事が増えた為、鞠会に参加しなくなった。
1,201 9 13 台風の影響により、この日開催される予定であった鶴岡八幡宮寺の放生会が延期となる。
1,201 9 21 台風により鎌倉が被害を受ける。12日前にも台風を受けた鎌倉周辺は、2度の台風で五穀が全滅した。
1,201 10 5 蹴鞠の名手で北面武士の紀行景が鎌倉に到着する。蹴鞠に熱中していた源頼家が、後鳥羽上皇の許可を得て京都から招いていた。
1,201 10 7 紀行景が、大江広元に大倉御所へ招かれ、源頼家と対面して銀剣を賜る。
1,201 10 9 以下の人間等が蹴鞠を行う。
①紀行景
②源頼家
③北条時房
④冨部五郎
⑤比企時員
⑥肥田宗直
⑦大輔房源性
⑧加賀房義印
1,201 10 13 早朝、源頼家が蹴鞠に興じる。此の日は前月延期となった鶴岡八幡宮寺の放生会が催される予定であった。
1,201 10 16 源頼家が猟犬を飼い始める。比企時員は其の世話を命じられた。
1,201 10 18 源頼家が大倉御所で蹴鞠を催す。
1,201 10 20 源頼家が蹴鞠に興じる。此の日北条泰時は、中野能成を呼び「蹴鞠は、奥深い藝なので夢中になる事に文句は無いが、二度の台風で、寺社・民家が破壊され、五穀は不作となり、飢饉に陥っている時なので慎むべき」と源を批判した。此れに対し源は、泰時の父である義時や、泰時の祖父で源の祖父でもある時政を差し置いて忠告して来た事もあり立腹した。
1,201 10 30 夜、北条泰時の近習親清法眼が北条の屋敷にやって来て「中野能成に申された事が、詳しく将軍の耳に入りました。但し、嘘も混ざっているので、父や祖父を飛び越えて注意をするなんて生意気だと、ご機嫌を損ねていると有り有りとこの目で見ました。そこで、ご病気だと言われて、暫く国元へ帰っていては如何でしょうか。今までの将軍の様子を見ている限りでは、不機嫌はそうは十日もひと月も続きません。ほんの一時の事ですから」と勧めると、北条は「全然注意をした積もりでは有りません。愚かな私が思う所を、多少お側近く仕える者に相談しただけである。もし処罰されるならば、国元にいても同じである。こんな話が出る前に急な用事が出来たので、明日の夜明けに伊豆国へ下るつもりです。前もって門を出る儀式を終えています。今の忠告によって敢えて出発する訳では無い。貴方の配慮を恥ずかしく思います」と言って、蓑や笠等を引っ張り出して見せた。
1,201 10 31 北条泰時が伊豆国へ向けて出発する。
1,201 11 7 北条泰時が鎌倉に帰還する。伊豆国では飢饉で困っている人々を助ける為の徳政を行った。
1,201 11 24 快慶が、自身の制作した「木造僧形八幡神坐像」を開眼する。
1,201 12 10 佐々木経高が、源頼朝の月命日を営む。以下の謝礼を贈った。
①導師:絹の反物三疋
②お供の僧:白布一反
参列した御家人達は、佐々木の境遇を思って涙した。これをお忍びで参列していた北条政子が目撃していた。
1,201 12 29 京都から、源頼家から赦免された礼を述べる為に佐々木高重を伴って鎌倉に来ていた佐々木経高が、京都へ帰る為に源に挨拶をする。源は、取り上げた領地の一ヶ所を返還した。北条泰時は「北条義時が、許してやるなら全ての領地を返してやるべきだと言っている」と話した。其の後も会談が持たれ、経高は往時の忘れ難き話を述べ、和田義盛を始めとする古参の御家人は涙した。泰時は、帰宅後義時に「経高殿に落ち度が全く無かったとは言いません。しかし其の所領は全て武功によって得たものであり、赦免するのなら全て返還してあげなければ、痼りが残ってしまいます。経高殿は誰もが認める歴戦の勇士。其れがあの様な扱いを受けていては私達も良い気はしません。況して恨みを残しては、いざ有事に敵方へ寝返ってしまうかも知れません。源殿はもう少し慎み深くお考えあるべきではないでしょうか」という主旨の発言をした。
1,202 1 22 以下の人間を含む28名によって造られた東大寺八幡神像の開眼供養が執り行われる。
①快慶
②快尊
③慶聖
1,202 1 24 勝木則宗が釈放され、鎮西へと帰る。
1,202 2 4 源頼家が、狩衣を着用して鞠庭へやって来て、以下の人間と共に120回・310回の蹴鞠を行う。
①紀行景
②北条時房
③冨部五郎
④比企時員
⑤肥田宗直
⑥大輔房源性
⑦加賀房義印
1,202 2 6 前年三善康清が庭に植えた鞠の懸りが良い感じになっているという事で、以下の人間が500回の蹴鞠を行う。
①紀行景
②源頼家
③北条時房
④冨部五郎
⑤比企時員
⑥肥田宗直
⑦大輔房源性
⑧加賀房義印
1,202 2 8 源義重が死去する。源頼朝の命日の翌日であった。
1,202 2 17 源頼家が正三位に昇叙する。
1,202 2 22 6時、鎌倉で地震が発生する。
1,202 2 23 源頼家が、中原親能の屋敷で蹴鞠を行う予定であった為、外出しようとする。しかし、北条政子が遣わせた二階堂行光が「源義重は源氏の遺老であり、武家にとって無くてはならない人物でした。同月8日に義重が亡くなって、まだ20日も経っていないのに興遊されるのは、人の誹りを招くでしょう。宜しくありません」という主旨の北条の言葉を伝えた。源は「蹴鞠は人から非難されるものでは無い」と反論したが、最終的には蹴鞠を取り止めた。
1,202 2 25 源頼家が、京都からやって来た使者から正三位に昇叙した事を伝えられる。
1,202 3 15 源頼家が、相模国積良(現在の神奈川県鎌倉市津・腰越・手広・笛田、現在の神奈川県藤沢市川名)の周辺に、名木である古い柳が在ると聞き、大倉御所の鞠庭に移植する事を決定する。北条時房・紀行景を含む約60名で現地へ向かった。
1,202 3 16 源頼家一行が、積良から帰還し、持ち帰った柳を大倉御所の石御壷の中に植える。しかし、紀行景は余り良い木では無いと言った。
1,202 3 22 源頼家の命により、尊暁に紀行景等の鞠足を饗応させる。夕方、尊暁が蹴鞠を見たいと言ったので、懸りの木の下で300回蹴った後、各々帰宅した。
1,202 3 24 源頼家が、源義朝の居館であった沼浜城(現在の神奈川県逗子市沼間の法勝寺付近)を解体して、明菴栄西が住職を務める寿福寺に寄進する。頼家が「北条政子の夢に義朝が現れ、ずっと海辺に居ると、漁師の漁の業を見るのが辛いから、寺の中に移築して六楽を得たい」という主旨の発言をして、其の夢の内容を三善康信に記させ実現した。大江広元は「六楽と言うのは六根の楽の事ではないか」と言った。
1,202 4 2 源頼家が大倉御所で蹴鞠を行う。其の後比企能員の館へ向かった。源は、思う所が有って比企の館から足が遠のいていたが「庭木の花が見頃なので」と以前から誘われていた為断り切れなかった。何か有ると思っていた源であったが、やはり「微妙」という名の白拍子と引き合わされた。歌も舞も堪能であったが、何か訳が有りそうで、比企が「私に直接聞け」と言うので尋ねたが、中々答えてくれない。何度か聞いてやっと比企が身の上話を始めた。父為成が讒言の為右獄(現在の京都府京都市中京区西ノ京西円町)に投獄され、其の後右獄の囚人は、為成を含め源頼朝の雑用に追い立てられて奥州に追放された。其れから間も無く、母親は悲しみに耐えきれず病気になり死去し、一人で生きていく為に七歳から身に付けたのが芸であり、今父親の生死を知る為に奥州へ向かう途上であった。此の話を聞いていた周囲の人間は皆涙し、奥州には使者を遣わして父親の事を調べるように命じ、微妙は鎌倉に留まる事となった。微妙は比企の目に留まり、自分の饗応に召し出されたのだと源は考えた。其の後は夜もすがら酒を飲み、明朝、鶏の鳴く頃に源は帰宅した。
1,202 4 8 以下の人間が蹴鞠を360回・250回行う。
①紀行景
②源頼家
③北条時房
④冨部五郎
⑤比企時員
⑥肥田宗直
⑦大輔房源性
⑧加賀房義印
其の後源は、永福寺の多宝塔供養に参列し、乳母の冥福を祈った。明菴栄西が導師を務め、布施は北条政子が用意した。
1,202 4 9 源頼家が、123回・120回・120回・240回・250回の蹴鞠を行う。其の後北条政子がやって来て微妙の芸を鑑賞した。北条は微妙の父親を慕う心に感心し、直ぐに使者を奥州に遣わせ、使者が帰ってきた際は自身の屋敷に来させる様命じ、微妙は、使者が戻って来るまで北条の所で待つ事となり、連れて行かれた。
1,202 5 6 源頼家が、中原親能の亀ケ谷の屋敷の持仏堂の庭の木の下で蹴鞠を行う。此の日は南風が強く、回数は伸びなかった。
①紀行景
②源頼家
③北条時房
④冨部五郎
⑤比企時員
⑥肥田宗直
⑦大輔房源性
⑧加賀房義印
⑨藤原清基
1,202 5 20 源頼家が蹴鞠を行う。暗くなってからは火を灯し、小鞠を持って来させて120回行った。此れを見ていた紀行景は源に「天賦の才をお持ちです」と言った。源は弓を始めた時にも其の様な事を言われたのを思い出した。
1,202 5 27 鶴岡八幡宮寺の神事が執り行われる。源頼家は、奉幣の使者を北条時房に務めさせた。
1,202 6 1 源頼家が、三浦半島の海辺で笠懸の射手を10騎選定する。
1,202 6 11 以下の人間が大倉御所で蹴鞠を220回・520回行う。北条時房と藤原清基は脚気気味で今回は見証となった。
①紀行景
②源頼家
③冨部五郎
④比企時員
⑤肥田宗直
⑥大輔房源性
⑦加賀房義印
⑧六位進盛景(北条と藤原の代理)
⑨細野四郎(北条と藤原の代理)
⑩稲木五郎(北条と藤原の代理)
1,202 6 21 源頼家が、相模国足下郡早河庄(現在の神奈川県小田原市)を中分とする。土肥遠平の知行を停止して、140町6反の田を箱根神社に寄付した。
1,202 6 22 北条時政が夢のお告げで、北条宗時の菩提を弔う為に伊豆国へ向かう。墳墓堂は桑原郷(現在の静岡県田方郡函南町)に在った。
1,202 7 建仁寺(現在の京都府京都市東山区小松町)が、延暦寺の別院として、明菴栄西を開山として創建される。明菴栄西は、真言宗・天台宗・禅宗の兼学道場として建仁寺を発展させ、天台宗からの弾圧を逃れようとした。
1,202 7 16 源頼家が、夕立が来たが直ぐに晴れたので蹴鞠を始めようとする。しかし、水溜まりが出来ていた。平知康が此れを見て着用していた直垂や帷子を脱いで、其れで水を吸わせた。源は、此の日北条政子が蹴鞠を観覧する為、北条が紀行景の様な鞠足をまだ見た事が無い為、蹴鞠が只の遊びでは無いと分かって貰う好機と考えていた。16時に開始し交代しながら360回行った。夜、東北の御所で酒宴を行い、平は鼓を打った。平は酒が回ると、北条時房に酒を勧めて散々持ち上げておいて、源に時房の改名を命じろと言った。
1,202 7 17 北条政子が前日の平知康に関し、思い上がった怪しからん奴と言い放ち帰宅する。政子は、法住寺殿の合戦は平の所為で起きた、謀反人として倒された叔父や大叔父にも取り入られようとしていたのに、等と昔話をしていた。北条時房は改名する事となった。源頼家は、時房の元服の際、加冠役を誰が務めるのか分からない儘式を始め、其の場で源頼朝が、佐原義連に役を与えたと聞いていた。又佐原が昔、三浦の酒宴の席で宿老2名が乱闘寸前の喧嘩になったのを、叱りつけて黙らせた功に、其の時報いたのだという話も聞いていた。そういう話が、宿老たちは大好きだ。頼家は、頼朝が時房には佐原の様な家子になって欲しかったのだろうと考えた。
1,202 8 5 北条時政が伊豆から鎌倉に帰還する。
1,202 8 6 源頼家が北条時房を伴い、狩猟の為伊豆国へ出発する。鶴岡八幡宮寺に道中の無事を祈願する祈祷をして貰った。
1,202 8 11 源頼家が従二位に叙され、征夷大将軍を宣下される。
1,202 8 12 以下2名が鎌倉に帰還する。
①源頼家
②北条時房
源は此の日、第2代鎌倉幕府征夷大将軍に就任した。
1,202 8 18 源頼家が、120回・450回の蹴鞠を行う。
1,202 8 20 京都からの使者が鎌倉に到着し、源頼家が西暦1,202年8月11日に従二位に叙され、翌日の12日に征夷大将軍に就任した事を伝える。頼家は「源頼朝は征夷大将軍になる為に、朝敵を倒し奥州を領土とした。私は其の職を引き継いだだけで、歴戦の宿老から見れば、狩猟しか知らないのに征夷大将軍だ。もし此の世から朝敵が居なくなれば、我等のする事は都の警固と、領地争いの相論の是非を裁定する事ぐらいだろう。北条時房が改名したのも、丁度良い時期であったのかも知れない。後鳥羽上皇は武芸も堪能でいらっしゃるが、和歌や蹴鞠にも並々ならぬ力量をお持ちであるという。我等もいつか鞠庭に招いて頂ける時が来るかも知れないではないか」と考えた。
1,202 8 23 微妙の父親の事を調べる為に奥州へ向かった使者が鎌倉に帰還する。微妙の父親は既に死去していた事を報告した。それを聞いた微妙は、号泣しながら気を失い倒れ伏した。
1,202 9 2 源頼家が放生会の為、鶴岡八幡宮寺に参宮する。夜、微妙は父の後世を弔う為明菴栄西の禅房で出家した。北条政子は微妙を哀れみ、深沢(現在の神奈川県鎌倉市)の里に居所を与え、其処から持仏堂に参る様言い付けた。頼家は、北条が此れからは源頼朝を父と思いなさいとでも言いたいのだろう、微妙は大姫に似ていたのかも知れない、と考えた。微妙は古郡保忠と通じていたが、古郡は此の時甲斐国に下向していた。
1,202 9 3 源頼家が、鶴岡八幡宮寺の馬場の桟敷で流鏑馬を観覧する。しかし参宮はしなかった。
1,202 9 5 12時、鶴岡八幡宮寺若宮の西回廊に鳩が止まる。そこにずっと留まっているので、源頼家は、僧達がこの鳩のために問答講一座を修し、法楽を行うのを見物しに行った。以下2名も付いて来た。
①北条時政
②大江広元
他にも多数の見物人が集まって来たが、18時、鳩は西方に飛び去って行った。
1,202 9 8 以下の人間が蹴鞠を250回・130回行う。
①紀行景
②源頼家
③北条時房
④冨部五郎
⑤比企時員
⑥肥田宗直
⑦大輔房源性
⑧加賀房義印
⑨藤原清基
1,202 9 10 北条泰時が、三浦義村の娘矢部禅尼と結婚する。泰時は改名を望んだが、此れを源頼家は、北条時房が改名した事を気にしているのではないかと考えた。
1,202 9 11 夜、古郡保忠が甲斐国から鎌倉に帰還する。微妙が明菴栄西の弟子祖達房に頼んで出家した事を知った古郡は、問い質したい事が有るとして亀ケ谷に押し掛けた。祖達房は恐怖し、大倉御所の門前へ逃亡した。怒りの収まらない古郡は、従僧達を殴った。北条政子は結城朝光を遣わせ、古郡を宥めさせた。北条は、結城・和田義盛経由で源頼家に事を次第を伝えた。
1,202 9 14 古郡保忠が、源頼家から咎められる。
1,202 9 26 源頼家が鶴岡八幡宮寺の祭礼に参詣する。
1,202 9 27 源頼家が一日中蹴鞠を行い、回数は270回・160回・280回・230回・130回・390回・550回を数えた。此の日の三嶋大社の祭礼には、源に代わり北条義時が代理で参詣した。
1,202 9 28 荏柄天神社(現在の神奈川県鎌倉市二階堂)の祭礼が執り行われ、源頼家に代わり大江広元が代理で参詣する。
1,202 10 3 源頼家が蹴鞠を行う。230回・160回行った後、火を灯して、石御壷に紀行景を呼び勝負した。150回に達した所で平知康が、鞠を打ち落とした。後から紀は「平は、此の儘勝負が続くとどちらが落としても恥となるから、敢えて自分が鞠を打ち落とした、平の振る舞いは礼儀を欠いたものでは無い」という主旨の発言をし、北条政子にも伝えて貰う様弁明した。
1,202 10 8 源頼家が数百騎を率い、伊豆国・駿河国の狩倉へと向かう。源は、内に控える5名以外は外に控えさせ、勢子を定めた。弓矢は、射手の以下10名だけに持たせた。
①和田常盛
②榛谷重朝
③和田義盛の甥和田胤長
④海野幸氏
⑤望月重隆
⑥小坂弥三郎
⑦鎌田小次郎
⑧笠原親景
⑨仁田忠常
⑩工藤行光
1,202 10 16 源頼家一行が鎌倉に帰還する。此の日仁田忠常の館で小笠懸を行った。仁田が源に懸物を10種100品献上し、源はその内9種を射手達の命中した矢の数に応じて褒美として与えた。
1,202 10 25 源頼家が、時雨が降り続いているのを見ていたが、三善康清の庭の木が良い色に染まっているだろうと見たくなって馬を跳ばす。其の後晴れ、蹴鞠を行ったが、水溜まりが多く難儀した。
1,202 11 15 源頼家が、大倉御所の北の中庭に松の植え込みを作らせる。以下の人間に2本ずつ松を持ち込ませた。
①北条時房
②和田義盛
③三浦義村
④三浦義村の弟山口有綱
紀行景が松の良し悪しを見て、山口の松に難を付けると、山口は顔色を変え「私にだけそんな事を言うとは不審だ。京下りの方々には此の様な事がよく有りますが、不当、不当」と言った。紀は何も言わずにこの2本も並べて植えた。
1,202 11 17 源頼家が、由比浦(現在の神奈川県鎌倉市由比ガ浜)にて、射手10騎で笠懸の会を催す。
1,202 11 29 源頼家が、鎌倉の諸堂の僧侶を大倉御所に呼んで饗応する。
1,202 12 1 源頼家が、諸国の守護が、定められた諸事以外の雑務に介入しているとの訴えが多数発生している事を受け審議を行い、止める様通達させる。其れでも違反する者は罷免すると厳命した。奉行は大江広元であった。
1,202 12 24 鶴岡八幡宮寺で御神楽が執り行われる。三善宣衡が「庭火」の曲を歌ったが、源頼家は不参加であった。
1,202 12 26 源頼家の弐男公暁の初めての神拝の儀が鶴岡八幡宮寺で執り行われる。源は神馬2頭を奉納し、以下2名が此れを引いた。
①比企三郎
②仁田忠時
1,203 2 2 鎌倉で雪が約21.2121cm積もる。源頼家一行は、山内庄(現在の神奈川県鎌倉市山ノ内)へ鷹場を見に行った。夜、源一行が帰る途上、亀ケ谷付近で平知康が、乗っていた馬が急に騒いだ所為で古井戸に落ちた。源は平を大倉御所まで連れて行き、小袖20領を与えた。
1,203 2 7 6時、鎌倉で地震が発生する。雷鳴も3回起きた。
1,203 2 11 ギヤースッディーン・ムハンマドが譲位し、シハーブッディーン・ムハンマドが、第7代ゴール朝スルターンに即位する。シハーブッディーンはインドからゴール朝に帰還し、貴族達からの支持を得ていた。其の後ムハンマドは、以下を任命した。
①ナースィル・ウッディーン・カバチャ(ムルターン(現在のパキスタンのパンジャーブ州)のムスリム総督)
②ジャラールッディーン・アリー(ゴール(現在のアフガニスタン)及びガルチスターン(現在のアフガニスタンのヘラート州付近)の総督)
其の後アリーは、クヒスタン(現在のイランの南ホラーサーン州)にて、イスラム教シーア派の一分派であるイスマーイール派に対する遠征を指揮した。ムハンマドには実子が居なかったが、数千名のトルコ人奴隷を息子の様に扱い、兵士や行政官としての訓練を施した。そして勤勉で聡明な奴隷達は、ムハンマドの軍や政府内で重要な地位に昇進していった。或る廷臣が、ムハンマドに男子の後継者が居ない事を嘆いた際、ムハンマドは「他の君主には、1人や2人の息子が居るかも知れないが、私は数千名の息子を持っている。彼らは私のトルコ人奴隷であり、私の領土を受け継ぐ者達である。そして私の後も、彼らは此の地で私の名を金曜礼拝のクトバで讃える事になるだろう」という主旨の発言をした。
1,203 2 14 源頼家が鶴岡八幡宮寺を参詣する。此の日は晴れで風は静かであった。回廊から遥拝して帰った。
1,203 2 15 源頼家の長男一幡が鶴岡八幡宮寺に奉幣する。此の日は晴れであった。源は神馬2頭を奉納した。御神楽を行うと、巫女が以下の八幡神の御託宣を述べた。
①今年中に関東で事が起きるだろう
②若君は家督を継ぐべきでは無い
③岸の上の木は、其の根が既に枯れている。人は其れを知らずに、梢を頼りにしている
源は此れを聞いて「御託宣では無く比企家への警告ではないのか、私は随分前から比企能員の屋敷を避けているのに」と考えた。其の後御行始の為、三善康清の屋敷を訪れ蹴鞠を行った。源は此の日三善の屋敷に泊まった。
1,203 2 16 源頼家が三善康清の屋敷から大倉御所に帰宅し、的始を行う。
1,203 3 5 源頼家が、三善康清の屋敷で蹴鞠を250回・120回行う。
1,203 3 13 ギヤースッディーン・ムハンマドがヘラート(現在のアフガニスタン)にて崩御する。ギヤースッディーンは大モスクに葬られた。
1,203 3 18 北条義時の助けを得て、源実朝が鶴岡八幡宮寺に参詣する。源頼家は神馬2頭を奉納し、以下2名が此れを引いた。
①結城朝光
②伊賀朝光の長男伊賀光季
頼家は「実朝が次期征夷大将軍か。先日の八幡神の御託宣を良い事に義時のやり方が露骨になっている。唯北条時房は変わり無い。今思えば北条泰時が改名を申し出たのも、私との繋がりを断たせ様とする義時の計らいだったのかも知れない」と考えた。
1,203 3 25 源頼家が、西暦1,192年に炎上してから再建されなかった、鶴岡八幡宮寺の塔の地鎮祭が執り行う。以下2名が付き従った。
①北条時政
②大江広元
総奉行は三善康信が務めた。
1,203 3 30 以下の人間が蹴鞠を行う。
①紀行景
②源頼家
③北条時房
④冨部五郎
⑤比企時員
⑥肥田宗直
⑦大輔房源性
⑧加賀房義印
⑨藤原清基
1,203 4 16 鶴岡八幡宮寺で一切経会が執り行われる。
1,203 4 17 源頼家が三善康清の屋敷で蹴鞠を行う。
1,203 4 23 源頼家が急病の為寝付いていると、駿河国片上御厨を伊勢神宮領に寄進すると良いという夢のお告げがあった為、武田信光の所務を停止して寄進する。奉行は大江広元が務めた。
1,203 4 27 体調が回復した源頼家が沐浴を行う。源は、4日前の夢のお告げを実行した事が回復に繋がったと捉えた。
1,203 4 28 永福寺で一切経会が執り行われる。其の後の舞を源頼家が観覧した。源は、辺りの桜が綺麗だと感じ、帰りに二階堂に在る二階堂行政の山荘に立ち寄った。源は、晩鐘の鳴る頃に大倉御所に戻った。
1,203 5 9 三善康清の屋敷で以下の人間が蹴鞠を行う。藤原清基は見証として控えた。
①紀行景
②源頼家
③北条時房
④冨部五郎
⑤比企時員
⑥肥田宗直
⑦大輔房源性
⑧加賀房義印
1,203 5 15 鶴岡八幡宮寺にて祭礼が執り行われる。源頼家は北条義時を奉幣の使者として遣わせた。
1,203 6 2 以下の人間が蹴鞠を行う。
①紀行景
②源頼家
③北条時房
④冨部五郎
⑤比企時員
⑥肥田宗直
⑦大輔房源性
⑧加賀房義印
⑨藤原清基
1,203 6 15 源頼家が、鶴岡八幡宮寺の臨時祭に参詣する。
1,203 6 28 源頼家が以下2名と共に、尊暁の坊にて蹴鞠を行う。
①藤原清基
②大江広元の長男大江親広
1,203 6 29 0時、以下2名が結託して自身を追放しようとしているという情報を掴んでいた源頼家によって派遣された武田信光が、阿野を捕縛する。其の後大倉御所に幽閉され、塩谷朝業に預けられた。
①阿野全成
②北条時政
1,203 6 30 源頼家が、阿波局を大倉御所へ連れて来て尋問する為、北条政子の下へ比企能員を差し向ける。しかし北条は、阿波局が前日の阿野全成の件に就いて知っている事は無いとし、阿波局の差し出しを拒否した。
1,203 7 5 阿野全成の常陸国への流罪が執行される。
1,203 7 6 源頼家が、狩猟の為伊豆国へと向かう。
1,203 7 8 源頼家が安全祈願をさせている鶴岡八幡宮寺の僧が、政所から布施を行う。
1,203 7 9 三善康清が以下の人間等を誘い、自身の屋敷で蹴鞠を行う。
①紀行景
②冨部五郎
③大輔房源性
④加賀房義印
1,203 7 10 源頼家一行が、伊豆奥(現在の静岡県下田市)の狩倉に到着する。10時、源は、和田胤長に伊東崎山中の大洞を検分させた。18時、30kmの行程を巡り和田が戻って来ると「中に居た大蛇に飲み込まれそうになり、其れを斬り殺してきた」と報告した。此れを聞いた源は「其れなら鱗の一つも持って来い」と言った。
1,203 7 12 源頼家一行が、駿河国富士の狩倉に到着する。源は、人穴(現在の静岡県富士宮市)に仁田忠常を始めとする6名に入らせた。2日前と同様に大蛇が居た時の為に重宝の刀を持たせたが、其の日は戻らなかった。
1,203 7 13 10時、仁田忠常を含む2名が源頼家の下に帰還する。人穴は、蝙蝠が飛び交い蛇が足元を這うという状況であった。千人の鬨の声のような大声がしたかと思うと、時折人の泣く声が聞こえ、其の声に従って刀を川に投げ入れた。其の奥に大きな川が在って渡る事が出来ず、川の向こうに光が見えると、中に不思議な姿の人が現れた。残り4名は、其の霊気により死亡した。源頼家は、面白がって仁田達を人穴に行かせるのではなかったと後悔した。地元の古老曰く、浅間大菩薩の御在所で、今迄中に入って其の地を見た者はいないとの事であった。
1,203 7 19 源頼家一行が鎌倉に帰還する。
1,203 8 1 源頼家の命を受けた八田知家が、下野国にて阿野全成を殺害する。其の後八田は、源から恩賞として筑後守を与えられた。源は、阿波局を捕縛しようとしたが、阿波局の姉である北条政子が引き渡しを拒否した。
1,203 8 2 源頼家が、京都に居る阿野全成の参男阿野頼全の殺害を以下2名に命じる為、大江能範を上洛させる。
①源仲章
②佐々木定綱
1,203 8 3 源隆保が左馬頭に復帰する。
1,203 8 8 8時、鶴岡八幡宮寺若宮に宝殿の棟の上に唐鳩が留まっていたが、急に地に落ちて死亡する。
1,203 8 12 鶴岡八幡宮寺の経所と下回廊の繋ぎ目の上から、鳩が3羽、噛み付き合って地に落ち、1羽が死亡する。
1,203 8 17 鶴岡八幡宮寺の閼伽棚の下で、頭の切られた鳩が発見される。源頼家は、此の鳩を殺した者は自分を殺したいのだろう、と考えた。
1,203 8 24 阿野頼全が、延年寺(現在の京都府京都市東山区五条坂東とりべ山)にて在京御家人により殺害される。
1,203 8 26 以下の人間等が蹴鞠を行う。
①紀行景
②源頼家
③北条時房
④冨部五郎
⑤比企時員
⑥肥田宗直
⑦大輔房源性
⑧加賀房義印
1,203 8 28 源頼家が急病となり、大江広元の屋敷で倒れる。
1,203 8 28 源頼家の病気治癒を願う祈祷が行われる。卜筮によると、霊神の祟りであるとされた。
1,203 9 1 以下20名が、東大寺南大門の仁王像の造像に着手する。
①大仏師
❶運慶(阿形像を担当)
❷快慶(阿形像を担当)
❸定覚(吽形像を担当)
❹湛慶(吽形像を担当)
②小仏師16名
1,203 9 26 重源が製作した、賢明寺(現在の三重県津市久居元町)の板五輪塔が完成する。57.3cmの五輪型板の表面に1,036体の千躰仏を浮き彫りにし、裏面には上方に「宝篋印陀羅尼」、下方に銘文が陰刻された。
1,203 10 3 源頼家の体調に回復の兆しが見られない事から、北条時政が、頼家の息子達への以下の相続を取り決める。
①一幡に関東28ヶ国の地頭職と総守護職を譲る
②源頼朝の弐男源実朝に関西38ヶ国の地頭職を譲る
此の決定に一幡の外祖父であった比企能員は、全て一幡に与えられるべきものを、実朝にも譲渡するのはおかしいとして憤慨し、実朝と北条氏の殺害を決意した。
1,203 10 8 比企能員が、自身の娘若狭局を介して源頼家に北条時政征伐を訴える。此れを聞いた頼家は能員を病床に呼び寄せ、時政征伐を許可した。其の話を障子の陰から立ち聞きしていた北条政子は、時政に此れを伝えた。時政は以下2名に対し「能員が謀反を企てているので、攻めてしまおうと思う」と伝えた。
①天野遠景
②仁田忠常
天野・仁田は「御前に呼び寄せ始末しましょう」と提案した。時政は大江広元に相談した。大江は「源頼朝公以来、政務を補佐する事は有ったが、兵法については返答する事は出来ない。良く考えるべきではないか」と明言を避けたが、能員征伐には反対しなかった。時政は、能員の下へ使者を遣わせ「薬師如来の開眼供養を致しますので、時政の名越殿(現在の神奈川県鎌倉市大町)へお越し下さい。其の序でに政治向きの話も致しましょう」と誘った。使者が帰った後、能員は親類に引き止められた。しかし能員は「仏事と政治向きの話の為に私を呼んだのであろう」と言って、武装しては却って疑いを招くとして、昼に平服で以下の人間のみを連れて時政邸へと向かった。
①郎党2名
②雑色5名
時政邸へと入った能員は、待ち構えていた天野・仁田によって左右の手を掴まれ、竹藪に引き倒され殺害された。能員の屋敷に逃げ帰った雑色が、比企一族に事の次第を伝えると、能員の館の最奥部に在る小御所の一幡の屋敷に立て籠もった。
1,203 10 8 北条時政の名越殿にて、薬師如来の開眼供養が執り行われる。導師は明菴栄西が務めた。
1,203 10 8 15時、北条政子は、比企一族の一幡の屋敷への立て籠もりを謀反と見做し、比企一族征伐の命を下し、以下の人間等が出陣した。
①北条義時(総大将)
②北条泰時
③平賀朝雅
④畠山重忠
⑤小山朝政
⑥長沼宗政
⑦結城朝光
⑧榛谷重朝
⑨三浦義村
⑩和田義盛
⑪和田常盛
⑫和田景長
⑬土肥維平
⑭後藤信康
⑮伊賀朝光
⑯尾藤知景
⑰工藤行光
⑱金窪行親
⑲加藤景廉
⑳加藤景廉の長男遠山景朝
㉑仁田忠常
対する比企一族側は以下の人間等が迎え撃った。
①比企余一兵衛尉
②比企三郎
③比企五郎
④比企時員
⑤中野能成
⑥笠原親景
⑦中山為重
⑧糟屋有季
⑨小笠原長経
⑩細野四郎
⑪渋河兼忠
⑫児玉党
⑬河原田次郎
比企一族側の抵抗は激しく、義時側は、加藤・尾藤・景長や郎党等が負傷し、代わって畠山が笠原の軍勢を破ると、笠原は能員の館に駆け込んで火を放った。糟屋は、義時側が惜しんで逃がそうとするが一幡の屋敷から出て来ず、8名を討ち取った後他の郎従と共に殺害された。笠原も一幡の屋敷に籠り、義時側と交戦した末に殺害された。児玉党も討たれた。戦場から引き上げてきた河原田・中山は一幡の前で自刃した。三郎・五郎・時員・笠原は戦死した。余一兵衛尉は女装して脱出を試みるが、加藤に討たれ梟首された。若狭局は一幡を抱いて、一幡の屋敷の小門から脱出した。戦闘は16時に終結したが、夜、渋河が殺害され、比企一族側は敗北した。生き残った能員の末子比企能本は、義盛に預けられ、後に安房国へ配流された。
1,203 10 10 以下3名が捕縛される。
①中野能成
②小笠原長経
③細野四郎
1,203 10 10 比企能員の縁者であった島津忠久が、薩摩国・大隅国・日向国の守護職を罷免される。
1,203 10 11 源頼家が体調を回復し、3日前の一連の事件に就いて知り激怒する。源は堀親家を使者として、以下2名に対し北条時政を討つ様命じる書簡を送った。
①和田義盛
②仁田忠常
和田は其の書簡を受け取り、堀を捕縛させ、北条時政の名越殿へ入った。堀は工藤行光によって殺害された。
1,203 10 12 仁田忠常が、比企一族征伐の恩賞を受ける為、北条時政の名越殿に入る。しかし夜になっても忠常が帰宅しなかった為、忠常の弟の以下2名等が、忠常が討たれたと考え、北条義時の居た北条政子の屋敷を襲撃した。
①仁田忠正
②仁田忠時
忠正は波多野忠綱によって殺害され、忠時は自害した。其の頃帰宅途中であった忠常は一連の騒動に就いて知ると、決死の覚悟で大倉御所へと向かったが、加藤景廉によって殺害された。
1,203 10 13 源実朝が、征夷大将軍に任ぜられる。同日、土御門天皇が、源実朝の征夷大将軍就任を宣下した。
1,203 10 13 源頼家が、北条政子により出家させられる。鎌倉を追放され、修禅寺(現在の静岡県伊豆市修善寺)に軟禁される事となった。
1,203 10 13 朝、鎌倉幕府からの使者が京都に到着し、朝廷に「西暦1,203年10月7日に源頼家が亡くなった為、源実朝が跡を継いだ。実朝を征夷大将軍に任命して欲しい」という主旨の北条時政からの書簡が届けられる。
1,203 10 16 島津忠久が、薩摩国守護職に復職する。しかし、大隅国・日向国の守護職には復帰出来ず、北条氏のものとなった。
1,203 10 16 源実朝が北条時政の名越殿に入る。北条は御家人の所領を安堵する御触れを出した。
1,203 10 21 源実朝が第3代鎌倉殿に就任する。又此の日、源実朝を第3代征夷大将軍とする宣旨が鎌倉に到着した。
1,203 11 4 源頼家が、以下を伴い修禅寺へ向けて出発する。神輿は三艘であった。
①先陣随兵:100騎
②女騎:15騎
③小舎人童:1名
④後陣随兵:約200騎
1,203 11 8 鎌倉幕府が、謀反を防ぐ事を意図し、平賀朝雅を京都守護に就任させる為に京都に派遣する。平賀は第118代武蔵守を罷免され、西国に領地を持つ武蔵国の御家人を率いて上洛し、其の後第9代京都守護に就任した。
1,203 11 8 完成した東大寺南大門の仁王像の開眼供養が執り行われる。
1,203 11 13 源実朝の元服の儀式が執り行われる。以下の人間が参列した。
①大江広元
②小山朝政
③和田義盛
④中条家長
⑤安達景盛
1,203 11 14 北条時政が第2代政所別当に就任する。ただ、大江広元も引き続き在職した為、政所別当が2名存在する事となった。また、この頃北条は初代執権に就任した。
1,203 11 29 源実朝が、右兵衛佐に任ぜられる。
1,203 12 7 一幡が、北条義時の差し向けた藤馬によって刺殺され、埋められる。
1,203 12 10 源頼家が北条政子・源実朝に対し、以下2点を訴える書簡を送る。
①修禅寺の寂しさは耐え難いので、中野能成を寄越して欲しい
②安達景盛の身柄を引き渡し処罰させて欲しい
②は、西暦1,199年8月13日に源頼家が中野能成に命じ、安達景盛の側室を小笠原長経の屋敷に置き自身の側室とした事に関する一連の騒動の逆恨みであった。結局源の要望は聞き入れられず、頼家は、以後書簡を送る事を禁じられた。
1,203 12 19 鎌倉幕府が以下の寺社奉行を定める。
①鶴岡八幡宮寺
❶北条義時
❷和田義盛
❸清原清定
②勝長寿院
❶大江広元
❷小山朝政
❸宗孝尚
③永福寺
❶畠山重忠
❷三浦義村
❸三善康清
④阿弥陀堂(永福寺南堂)
❶北条時房
❷山田重弘
❸足立遠元
⑤薬師堂
❶大江親広
❷千葉常秀
❸二階堂行政
⑥法華堂
❶安達景盛
❷結城朝光
❸中条家長
1,203 12 27 源実朝が、大倉御所の馬場で小笠懸を行う。以下2名が指導・手助けを担当した。
①小山朝政
②和田義盛
北条時政は、小山・和田に対し褒美としてそれぞれに馬を与えた。
1,204 チンギス・カンがモンゴル高原西部の遊牧部族連合ナイマン王国のカンのタヤン・カンを討ち、モンゴル高原を統一する。
1,204 1 以下の人間等が、伊勢国守護山内首藤経俊の屋敷を夜襲する。
①若菜盛高
②平雅楽助
③三浦盛時
④平基度
その後、鈴鹿関(現在の三重県亀山市関町新所)を塞ぎ、以下の場所に城を構えた。
①日永(現在の三重県四日市市)
②若松(現在の三重県鈴鹿市)
③南村
④高角(現在の三重県四日市市)
⑤関(現在の三重県亀山市)
⑥小野(現在の三重県亀山市)
1,204 1 3 重源が、後鳥羽上皇が行幸を仰ぎ東大寺総供養を営む。
1,204 1 28 和田義盛が、山内首藤経俊の屋敷を夜襲したのは伊勢国員弁郡司進士行綱であると鎌倉幕府に報告する。
1,204 2 9 源実朝が、従五位上に昇叙する。
1,204 2 12 強い寒風が12時になると止み、御弓始めを催す。射手は以下の6名であった。
①和田胤長・榛谷重朝
②金刺盛澄・海野幸氏
③望月重隆・吾妻助光
各々2射ずつ、5回射終わると、西の廊下で源実朝から以下の褒賞を与えられた。
①行騰
②騎馬用の沓
③征矢
1,204 2 20 京都にて「北条時政が、畠山重忠と戦い敗北し山中に隠れた。大江広元は既に殺害されている」という誤報が流れる。
1,204 3 1 藤原定家の下に「畠山重忠が挙兵し、大倉御所を攻めた。北条時政と大江広元が狙われた」という風聞が入る。これを受けて藤原は、西園寺公経の屋敷を訪れ、この風聞の真偽について確認した。西園寺は「鎌倉からまだ情報は届いていないが、平賀朝雅が言うには、関東に於ける騒乱の情報は入っていないとの事だ」という主旨の返答をした。藤原は「陰陽師等の占いでも同様の結果が出ており、これは天狗の仕業である」とした。
1,204 3 13 西暦1,204年1月28日の和田義盛の報告により、進士行綱が捕らえられ、囚人となる。
1,204 4 7 源実朝が、右近衛少将に任ぜられる。
1,204 4 10 平賀朝雅の使者が鎌倉に到着し、伊賀国で平維基の子孫等が、伊勢国で平度光の子息等が反乱を起こした事を報告する。これを受けて、山内首藤経俊が事情を尋ねる為に現地に入ったが、問答無用で戦いを仕掛けられ、多勢に無勢で、兵を集める為に逃亡した。
1,204 4 11 鎌倉幕府が平賀朝雅に対し、伊賀国・伊勢国で反乱を起こした者の征伐を命じる。
1,204 4 23 イメレティ(現在のジョージア)から進軍した以下2名が、父方の伯母であるグルジア王国国王タマルの援助を受けてトラブゾン(現在のトルコ)を占領する。
①アレクシオス1世
②アレクシオス1世の弟ダヴィド・メガス・コムネノス
トレビゾンド帝国が建国され、アレクシオス1世が初代トレビゾンド帝国皇帝に即位した。その後、アレクシオス1世とコムネノスは二手に分かれて西進した。アレクシオス1世は以下の都市を占領した。
①リムニア
②サムスン(現在のトルコ)
③スィノプ(現在のトルコ)
サムスンはルーム・セルジューク朝にとって黒海への玄関口であったが、アレクシオス1世の占領により、貿易や勢力拡大の機会を封じられた。コムネノスは艦隊を率いて以下の都市を占領した。
①ケラソス(現在のトルコのギレスン県)
②ジデ(現在のトルコのカスタモヌ県)
③アマスラ(現在のトルコのバルトゥン県)
④ヘラクレア・ポンティカ(現在のトルコのゾングルダク県カラデニズ・エレーリ)
コムネノスが、パフラゴニアに滞在している間、アレクシオス1世は、ルーム・セルジューク朝から領土の東部を守備する為、トラブゾン近郊に留まった。
1,204 4 24 平賀朝雅が、200騎を率いて伊賀国・伊勢国で反乱を起こした者の征伐の為出陣する。
1,204 4 28 平賀朝雅率いる軍が伊勢国に入る。鈴鹿関が反乱軍によって塞がれていた為、美濃国を経由した。
1,204 5 11 平賀朝雅率いる軍が、伊勢国朝明郡富田庄に所在する富田家資の参男平基度の居館である富田館(現在の三重県四日市市東富田町)を襲撃する。数時間の交戦の結果、平賀達は以下の人間等を殺害した。
①平
②松本盛光の父の参男松本盛光(自身が築城させた松本城(現在の三重県四日市市松本)で応戦)
③松本盛光の父の四男
④松本盛光の父の九男
1,204 5 11 平賀朝雅率いる軍が、安濃郡(現在の三重県津市)の岡貞重とその子息・親族等を殺害する。
1,204 5 12 平賀朝雅率いる軍が伊勢国多気郡(現在の三重県多気郡多気町・明和町・大台町)に進軍し、以下2名を討つ。
①庄田佐房
②庄田師房
更に、河田刑部大夫を捕縛し、伊賀国名張郡六箇山(現在の三重県名張市上比奈知・下比奈知・滝之原・長瀬・布生・奈垣・神屋)に砦を築き抵抗していた平盛時とその一族を討った。
1,204 5 13 平賀朝雅率いる軍が、小野城(現在の三重県亀山市)に籠城していた若菜盛高を殺害する。
1,204 5 30 平賀朝雅率いる軍が、伊賀国の残党を追討する。
1,204 6 7 若菜盛高の従者が、山内首藤経俊の屋敷を夜襲したのは若菜であると白状する。これにより、進士行綱は無罪となり、本領を安堵された。
1,204 6 9 鎌倉幕府が論功行賞を行い、山内首藤経俊の伊賀国・伊勢国の守護職を罷免する。後任として平賀朝雅を就け、京都守護と兼務させた。また平賀は、伊勢平氏の私領の水田を賜った。
1,204 7 6 西暦1,204年6月9日の論功行賞から漏れていた加藤光員が、西面武士として検非違使に任ぜられる。
1,204 8 14 源頼家が、入浴中に北条氏の刺客に首に縄を掛けられ、睾丸を切断された上で刺殺される。
1,204 8 15 源頼家死去を伝える為に伊豆国からやって来た飛脚が鎌倉に到着する。
1,204 8 20 源頼家の家人等13名が謀反を企てたが発覚する。これを受けて、北条義時が派遣した金窪行親等が征伐した。
1,204 8 30 鎌倉幕府が、源実朝の正室を後鳥羽上皇の外叔坊門信清の娘西八条禅尼とし、京都から迎える事を決定する。当初は足利義兼の娘が候補に挙がっていたが、源は拒否し、朝廷に打診し、藤原兼子が西八条禅尼を推薦していた。藤原は、鎌倉幕府内に、朝廷の息の掛かった西八条禅尼を送り込む事で、自身の発言権を強めるという狙いが有った。
1,204 11 7 以下の人間が、西八条禅尼を迎える為に、京都へ向けて鎌倉を出発する。
①北条時政
②北条時政の四男北条政範
③結城朝光の長男結城朝広
④千葉常秀
⑤畠山重忠の六男畠山重保
⑥八田知家の六男八田知尚
⑦和田常盛の長男和田朝盛
⑧土肥惟光
⑨葛西清重の拾男葛西清宣
⑩佐原義連の長男佐原景連
⑪多々良明宗
⑫長江義景
⑬宇佐美祐能
⑭佐々木盛綱の参男佐々木盛季
⑮南條平次
⑯安西四郎
道中政範は病を患い、介護は重保が担った。
1,204 11 25 北条時政一行が上洛する。
1,204 11 26 平賀朝雅の六角洞院亭にて、前日に上洛した北条時政一行を歓迎する酒宴が開かれる。その席で平賀と畠山重保が口論となったが、周囲の人間が取り成した。
1,204 11 27 北条政範が病により死去する。
1,204 11 28 北条政範が東山辺(現在の大阪府豊能郡能勢町山辺)に葬られる。
1,204 12 5 北条政範死去の報告が鎌倉幕府に齎される。以下2名は悲嘆に暮れた。
①北条時政
②北条時政の継室牧の方
1,205 本年から翌年にかけて、第9代ルーム・セルジューク朝スルタンのカイホスロー1世が、トラブゾンを包囲させる。しかし、占領は失敗に終わり、アレクシオス1世が、ルーム・セルジューク朝の包囲からトラブゾンを守り抜いた。アレクシオス1世は港を封鎖して対抗したが、これによりクリミア半島とトレビゾンド帝国を行き来していた商人は身動きが出来なくなった。また、この包囲により中東各地からトレビゾンド帝国にやって来た商人は重傷を負い、スィヴァス(現在のトルコ)で開催された博覧会で、カイホスロー1世は大声で非難された。
1,205 ナースィル・ウッディーン・カバチャが、クトゥブッディーン・アイバクの妹と結婚する。
1,205 1 1 西八条禅尼が鎌倉に到着する。
1,205 1 9 明菴栄西が、北条政子が南都で描かせた「七観音図」の供養の導師を務める。
1,205 1 26 源実朝が、正五位下に昇叙する。
1,205 2 3 北条時政から以下2名に言い渡されていた勘当が解除される。
①畠山重忠
②畠山重保
1,205 2 19 源実朝が、右近衛中将に任ぜられる。
1,205 4 北条時政が、牧の方と共に稲毛重成を自身の屋敷に呼び出し歓待する。牧の方は稲毛に対し「畠山次郎重忠・重保父子が謀反の意志を秘めている」と讒言し、様子を探らせる相談をした。牧の方は、前年に北条政範が上洛の途上で病死した件について、介護した畠山重保の態度に疑惑を抱き、政範を碌な医者にも診せず見殺しにしたとして、逆恨みしていた。
1,205 5 1 北条時政が、稲毛重成を鎌倉に呼び寄せる。
1,205 5 2 源実朝が、以下の和歌を含む12首を詠む。源が和歌を詠んだのは、此の時が初めてであった。
箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ
(険しい箱根の道を超えてくると、伊豆の海が開けている。沖の小島に白波が寄せているのが見えるよ)
1,205 6 14 五字文殊菩薩の供養が大倉御所にて執り行われる。明菴栄西が導師を務めた。
1,205 7 7 稲毛重成から鎌倉で騒ぎが有ると聞いた畠山重忠が、以下の人間を含む134騎を率い、菅谷館(現在の埼玉県比企郡嵐山町)から鎌倉へ向けて出発する。
①重忠の弐男畠山重秀
②本田近常
③重忠と乳兄弟である榛澤成清
1,205 7 8 稲毛重成に呼び寄せられた畠山重保が鎌倉に到着する。
1,205 7 9 平賀朝雅が牧の方に「畠山重保から悪口を言われた」と讒言する。牧の方は、これは畠山重忠・重保の謀反の表れであると北条時政に訴えた。時政は以下2名に重忠征伐を告げた。
①北条義時
②北条時房
義時・時房は「重忠は西暦1,180年の源頼朝の挙兵以来忠義を尽くしています。頼朝もその志を鑑みて息子達を守護する様丁寧に頼んでいます。源頼家の味方だったにも拘らず、比企能員征伐にて我々に味方してくれたのは、重忠の正室が我々の兄弟であるという義理を重んじたからです。それなのに何を理由に謀反を企てるのでしょうか。もし重忠の度々の勲功を無視して征伐すれば、後悔する事になります。事の真偽を確認してからでも遅くはありません」という主旨の発言をした。しかし、牧の方の意向により、牧の方の兄大岡時親が義時の屋敷を訪れ、大岡は「私が継母であるが故に反対しているのではないか。重忠の謀反は既に発覚している事で、重忠の功績は功績であるが、陰謀は陰謀である。将軍の為、世の為に時政が伝えたにも拘らず、貴殿は重忠に代わって悪だくみを誤魔化そうとしている」と言う主旨の牧の方の意見を伝えた。最終的に義時・時房は時政に従わざるを得ず、重忠征伐に同意した。さらに時政は、稲毛重成にも重忠征伐について話し、源実朝にも同様に訴え、源は同意した。
1,205 7 10 早朝、北条時政の指示が以下2名に下され、由比ヶ浜に謀反人を討つという名目で兵が集結する。
①三浦義村
②佐久間家村
4時、快晴であったこの時、畠山重保も、謀反人を討つという名目で稲毛重成に招かれ、郎従3名と共に由比ヶ浜に到着した。重保は、何の警戒心も持たず、三浦に近付いた。そこに佐久間達が重保の馬を包囲し、重保は奮戦したものの、郎従諸共殺害された。朝、畠山重忠は、布陣していた鶴ヶ峰(現在の神奈川県横浜市旭区)の麓で畠山重保が殺害された事、そして大軍が進軍して来ている事を知った。以下2名は重忠に、菅谷館に立て籠って討手を待った方が良いと進言した。
①本田近常
②榛澤成清
しかし重忠は「鎌倉の一大事に駆け付けるのが武士というものだ、私自身を討つ為であっても、後へは引けない」とし、迎え撃つ事となった。12時、北条義時率いる軍が二俣川(現在の神奈川県横浜市旭区)に到着した。その後、小休止していた重忠の軍を包囲し、矢の雨を浴びせた。16時、4時間程交戦した頃、愛甲季隆の射た矢が重忠に命中した。重忠は「我が心正かれば、この矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と、2本の矢を地面に突き刺し死亡した。また、榛澤も討たれた。重忠の死を知った畠山重秀・本田等が自害し、戦闘は終了した。また、菅谷館に居た重忠の妻は家臣達を含む24名で加賀国額田庄(現在の石川県小松市額見町付近)司の下に落ち延びた。その後重忠の妻一行は、重忠の遺命により、稲毛の長男で小沢城(現在の神奈川県川崎市多摩区菅仙谷)主の小沢重政の姉や、綾小路局の養子小沢重量を頼り小沢城へと移り、重忠の妻は小沢城にて篠塚重興を出産した。さらに畠山重忠の四男畠山重慶は上古寺(現在の埼玉県比企郡小川町)の祖父畠山重弘の弟畠山重遠を頼り、そこに遺髪を埋葬し、五輪塔を建てて弔った。その後重慶は慈光寺(現在の埼玉県比企郡ときがわ町西平)に登り剃髪して、第27世慈光寺別当に就任した。
1,205 7 11 北条義時が鎌倉に帰還する。北条時政が義時に戦いの様子を尋ねると、義時は「重忠の弟や親類は他所へ赴いていました。従っていたのは僅かに百騎程。重忠が謀反を企てたというのは虚言である。讒言によって征伐されたのでは不便極まりない。首実検で重忠を見た時、涙を止める事が出来ませんでした」という主旨の発言をした。時政は何も言えなかった。
1,205 7 11 夕方、三浦義村等が、経師ヶ谷(長勝寺(現在の神奈川県鎌倉市材木座)付近)にて以下3名を殺害する。
①榛谷重朝
②榛谷重朝の長男榛谷重季
③榛谷重朝の弐男榛谷秀重
またこの日、稲毛重成は大河戸行元に、稲毛の長男小沢重政は宇佐美祐村にそれぞれ殺害された。
1,205 9 4 以下2名が、北条時政が、源実朝を暗殺し平賀朝雅を征夷大将軍に据える計画を立てている事に気付く。
①北条政子
②北条義時
政子は、以下の御家人等を遣わせて、名越殿に居た源を義時の屋敷に移動させて保護した。
①長沼宗政
②結城朝光
③三浦義村
④三浦義澄の九男三浦胤義
⑤天野遠景の長男天野政景
時政は兵を招集するが、部下達は源の警護に当たった為孤立無援となった。時政と牧の方は此の日の内に出家した。
1,205 9 5 北条義時が、以下2名を鎌倉から伊豆国北条郷(現在の静岡県伊豆の国市韮山)へ追放する。
①北条時政
②牧の方
また此の頃、義時は第2代執権及び第3代政所別当に就任した。
1,205 9 5 以下の人間等が北条義時の屋敷に集まり、平賀朝雅征伐の相談を行う。
①三善康信
②安達景盛
1,205 9 10 平賀朝雅を征伐する事を伝える使者が鎌倉から京都に到着する。
1,205 9 11 仙洞御所で囲碁を打っていた平賀朝雅が、召し使いの少年から、自身を殺害する為に鎌倉から討手が差し向けられた事を伝えられる。平賀はこの事を後鳥羽上皇に伝え、退出の許可を得た。平賀は東洞院通・六角通(現在の京都府京都市中京区東洞院通六角下る御射山町、六角通東洞院東入三文字町付近)の屋敷に戻ったが、以下の人間から襲撃された。
①五条有範
②後藤基清
③安達親長
④佐々木定綱の長男佐々木広綱
⑤佐々木高重
⑥金持広親
⑦佐々木盛綱
平賀は防戦したが、防ぎきれずに逃亡し、金持・盛綱等が追撃した。平賀は松坂(現在の京都府京都市山科区厨子奥花鳥町・日ノ岡夷谷町付近)に到着するが、山内首藤経俊の六男中山通基に射止められ死亡した。
1,205 9 16 平賀朝雅暗殺の報告が鎌倉に届く。
1,205 9 19 大岡時親が出家する。
1,205 9 21 鎌倉幕府が、宇都宮頼綱が謀反を起こし、一族郎党を率いて鎌倉に向かっているという情報を入手する。これを受け、以下3名等が、小山朝政を北条政子の屋敷に呼び出した。
①北条義時
②大江広元
③安達景盛
大江は頼綱の非道と将軍家に対する不忠について指摘し、小山に宇都宮征伐を命じたが、小山は「宇都宮とは義理の兄弟です。他の者に命じて下さい。私は謀反には同意しておりません。もし宇都宮が本当に攻めてくるのならば、防戦には尽力致します」という主旨の発言をし、辞退した。北条からも小山に対し圧力が掛けられたが、小山は此れを撥ね除け、宇都宮を庇い通した。
1,205 9 25 宇都宮頼綱が、鎌倉幕府に対し、謀反の意が無い事を記した書簡を小山朝政経由で送付する。小山も書簡を送り、宇都宮を庇った。
1,205 9 30 宇都宮頼綱が、家臣60名と共に出家する。
1,205 10 1 宇都宮頼綱が、鎌倉へ向けて、宇都宮を出発する。
1,205 10 3 宇都宮頼綱が鎌倉に到着する。北条泰時の屋敷に参上し、面会を求めるが、北条に拒否される。又宇都宮は結城朝光に、剃髪して落とした髻を提出し、結城は其れを北条経由で源実朝に届けた。源は髻を結城に返却した。最終的に宇都宮は処罰を免れた。
1,205 10 15 京都からやって来た藤原定家の弟子内藤朝親が、新古今和歌集の写本を持参し、鎌倉に到着する。
1,205 10 18 内藤朝親が源実朝に、新古今和歌集の写本を献上する。源は熱心に読み耽り、本歌取りを行なって、自らの和歌創作に繋げていった。
1,205 11 20 山内首藤経俊が、款状を鎌倉幕府に提出し、伊賀国・伊勢国の守護職復帰を願い出る。逃亡した事に関し、その時に応じて行動するのは兵の故実であると釈明し、西暦1,205年9月11日に中山通基が平賀朝雅を仕留めた事に関する勲功を強調したが、鎌倉幕府は復帰を認めず、大内惟義の長男大内惟信を伊賀国・伊勢国の守護職に任命した。
1,206 鶴岡八幡宮寺の良信が江島神社(現在の神奈川県藤沢市江の島)に辺津宮を建立する。鶴岡八幡宮の供僧の慈悲上人良真が源実朝に願い出て実現した。
1,206 2 22 クトゥブッディーン・アイバクが、シハーブッディーン・ムハンマドから、ペシャーワル(現在のパキスタンのカイバル・パクトゥンクワ州)の門からインドの最も奥地(現在のインドのメーガーラヤ州・現在のバングラデシュのマイメンシン管区付近)までの総督に任命される。
1,206 3 クトゥブッディーン・アイバクの部下ムハンマド・バフティヤール・ハルジーが、チベット征服を意図し、10,000名の兵を率いデヴィコット(現在のインド西ベンガル州南ディナージプル県)を出発する。チベットは軍馬が豊富であり、チベットとの貿易ルートを確保する事が意図として有った。この際、東方の国境を守る為、自身の部下アリー・マルダン・ハルジーをゴーラーガット(現在のバングラデシュのロンプール管区ディナジプール県)に残して行った。
1,206 3 ムハンマド・バフティヤール・ハルジー率いる軍が、チベットへ向かう途上、カムラップ(現在のインドのアッサム州)のライに、自身に加勢する様促す。しかし、ライは拒否した。
1,206 3 ムハンマド・バフティヤール・ハルジー率いる軍が、現在のインドのシッキム州を経由してティースタ川を渡り、出発から16日目にチベットのチュンビ渓谷(現在の中国チベット自治区)に到着する。ハルジー達は、現地の村々から略奪を開始した。しかし、ベンガル地方の蒸し暑く湿気の多い平原に慣れていたハルジー達にとって、険しいヒマラヤ山脈の峠は不慣れな地形であった。チベット人は、ハルジー軍を罠に嵌めて多大な損害を与えた。ハルジーは撤退を決意し、ベンガル地方へ向けて敗走するが、チベット人は追撃しゲリラ戦を仕掛けた。ハルジー軍は大敗し、飢えた兵士は、生き残る為に自分たちの馬を食べる事を余儀なくされた。カムラップの平原を通過し、ティースタ川近くの丘陵地帯にある古い石橋を渡ろうとしたが、アーチが破壊され、対岸に渡るのが困難である事に気付いた。対岸に渡る際に多数の兵と馬を失い、渡る事の出来た兵はカムラップ山麓の部族長アリ・メックによって、カラトヤ川右岸に沿って北に向かって10日間、コチ族・メク族・タル族の土地を経由してデヴィコットにエスコートした。デヴィコットに帰還した兵はハルジー含め僅か100名程度であった。
1,206 3 ムハンマド・バフティヤール・ハルジーが、アリー・マルダン・ハルジーに暗殺される。
1,206 3 10 東大寺二月堂の供養式が執り行われる。
1,206 3 14 大雪の中、名越の北条義時の山荘にて和歌会が開かれる。以下の人間が参加した。
①源実朝
②東重胤
③内藤朝親
1,206 3 15 シハーブッディーン・ムハンマドが、インド遠征の途上、ガズニーにて、ゴール朝に敵対するホラーサーンのシーア派の一派であるイスマーイール派の放った刺客により暗殺される。其の後ゴール朝は、以下の人間による後継者争いにより解体へと向かっていった。
①シハーブッディーン・ムハンマドの甥ギヤースッディーン・マフムード(トルコ系グラームが支持)
②第3代ゴール朝領バーミヤーン支配者バハー・ウッディーン・サーム2世(イランの現地兵士達が支持)
③フィルズクー(現在のイランのテヘラン州)を支配していたディヤー・アルディーン・ムハンマド
クトゥブッディーン・アイバクは、ゴール朝の現在のインドのラージャスターン州周辺の領土を巡り、自身の義父でトルコ系グラームのタージ・アルディン・ユルディズと争った。
1,206 3 21 バハー・ウッディーン・サーム2世が病死する。此れにより、サーム2世の息子ジャラール・アルディーン・アリが新たな次期ゴール朝スルターン候補となった。サーム2世と同じく、サーム2世の息子のアラ・アルディーン・ムハンマドやイランの現地兵士達がアリを支援した。最終的に、ギヤースッディーン・マフムードがゴール朝の後継者争いを制し、第8代ゴール朝スルターンに即位した。ジャラールッディーン・アリーは、ガルチスターンの総督を罷免され、現地の要塞に投獄された。
1,206 4 ジャラール・アルディーン・アリが、アラ・アルディーン・ムハンマドをガズニーの支配者として戴冠させる。自身はバーミヤーンに帰還した。しかし直ぐに、アリとムハンマドはバーミヤーンにて対立し、その間にガズニーをタージ・アルディン・ユルディズが占領した。ギヤースッディーン・マフムードは、ユルディズによるガズニーの統治を認めた。ユルディズは更にパンジャーブ(現在のインド・パキスタン)に進軍した。クトゥブッディーン・アイバクは此れに応戦する為に進軍し、ユルディズをコヒスタン(現在のパキスタンのカイバル・パクトゥンクワ州)に撤退させ、ガズニーを掌握し、宗主権を認めさせた。マフムードが国内の支配を固めると、アイバク達が、マフムードの居るフィルズクーの宮廷にニザームッディーン・ムハンマドを差し向け、ゴール朝の統治に関する、解放証書と叙任証書を求めた。
1,206 4 アリー・マルダン・ハルジーと共にムハンマド・バフティヤール・ハルジーの部下であったムハンマド・シーラン・ハルジーがアリーを拘束する。その後アリーはデリーに逃亡し、クトゥブッディーン・アイバクに対し、ハルジー家の問題に介入する様説得した。ハルジー家は、シハーブッディーン・ムハンマドの支配下に無かった為、アイバクがこの問題を裁く権限は無かったが、自身の部下のアワド(現在のインドのウッタル・プラデーシュ州)総督カイマズ・ルミに対し、ラクナウティ(現在のインド西ベンガル州マールダー県ガウル)に進軍し、ハルジー家の長達に適切な、軍人に対して与えられた徴税権およびその権利が設定された土地であるイクターを割り当てる様指示した。デブコット(現在のインドのチャッティースガル州)のイクターをムハンマド・バフティヤール・ハルジーの部下であったフサムディン・イワズ・ハルジーに割り当てた。シーランとハルジー家の長達はこれを不服とし、デブコットに進軍した。
1,206 4 1 源実朝が、従四位下に昇叙する。
1,206 6 25 クトゥブッディーン・アイバクが、デリーにて独立し「奴隷王朝」を開き、初代奴隷王朝スルターンに即位する。しかし、アイバクが正式に統治者として認められたのは西暦1,208〜1,209年にかけての事であった。
1,206 7 12 重源が入滅する。
1,206 7 23 公暁が、北条政子の屋敷にて着袴の儀式を行う。
1,206 10 21 明菴栄西が、重源の後任として第2代東大寺大勧進職に就任する。其の後備前国は東大寺造営料国から外され、東大寺向けの瓦は伊良子(現在の愛知県田原市伊良湖町)の瓦窯で生産された。丸瓦への名入れは万富から引き続き行われた。
1,206 11 21 公暁が、乳母夫である三浦義村に付き添われ、北条政子の計らいにより、源実朝の猶子となり、初めて大倉御所に入る。三浦は贈り物を献上した。
1,206 12 9 北条時政が、伊豆国願成就院(現在の静岡県伊豆の国市寺家)の南傍等に塔婆を建て、供養を行う。
1,206 12 19 東重胤が数ヶ月ぶりに鎌倉に帰還する。源実朝が和歌を送って鎌倉に戻って来る様催促しても、なかなか戻って来なかった為、源は東を蟄居とした。
1,206 12 19 北条義時の別荘で、以下の人間等が和歌会を開催する。
①源実朝
②北条泰時
③東重胤
④内藤朝親
1,207 以下2名の法要が小沢城にて執り行われる。
①畠山重忠
②畠山重秀
参列した重忠の妻は、同じく参列した上野国篠塚(現在の群馬県邑楽郡邑楽町)の小沢玄蕃に勧められ、小沢の屋敷へと移り住んだ。その頃新田荘岩松郷(現在の群馬県太田市)には足利義兼の長男足利義純が居住していた。義純は、母の身分が低かった為、所領を与えられず、源義重が、自身の所領の岩松郷を義純に与えていた。
1,207 1 22 東重胤が、北条義時の屋敷を訪れ、西暦1,206年12月19日に鎌倉に帰還した後、源実朝から蟄居を命じられた件について相談する。北条は「和歌を詠んで献上しなさい。そうすれば直ぐにご機嫌が良くなるでしょう」と助言し、東を伴って源の屋敷を訪ね、東の和歌を詠んで東を庇った。源はその歌を3回吟じ、門外で待つ東を呼び、歌の事を訪ね、東を赦免した。
1,207 2 3 源実朝が、従四位上に昇叙する。
1,207 3 女房の一部が出家した事や、男性を自分の不在中に仙洞御所内に泊めた事を知った後鳥羽上皇が激怒し、専修念仏の停止を決定する。加えて、尊長の裁断により、以下の法然の弟子4名が死罪となった。
①西意善綽房
②性願房
③住蓮房(近江国馬淵(現在の滋賀県近江八幡市)にて処刑)
④安楽房(六条河原にて処刑)
1,207 3 28 後鳥羽上皇が、以下の人間を流罪に処する。
①法然(土佐国幡多(現在の高知県)へ配流、罪人としての名は藤井元彦男)
②法然の弟子7名
❶親鸞(越後国国府(現在の新潟県上越市)へ配流、罪人としての名は藤井善信)
❷浄聞房(備後国へ配流)
❸澄西禅光房(伯耆国へ配流)
❹好覚房(伊豆国へ配流)
❺行空法本房(佐渡国へ配流)
❻幸西成覚房(遠流の予定であったが、無動寺(現在の滋賀県大津市坂本本町)の慈円が身柄を預かった為免れた)
❼善恵房(遠流の予定であったが、無動寺の慈円が身柄を預かった為免れた)
親鸞は、此の様な罰を受け、もう僧でも俗人でも無い立場となった事から、自ら「禿」の字を姓として用い、朝廷に奏上した。配流後は、署名の際「愚禿親鸞」と書く様になった。
1,207 9 8 小雨の中、鶴岡八幡宮寺の放生会にて、警護を命じられていた吾妻助光等数名が任務を怠る。急遽代わりの者が手配されたが、源実朝の出発が16時になってしまい、舞楽の奉納が夜にずれ込んだ。源は二階堂行光を呼び、今後此の様な失態を犯す事の無い様咎めた。源は舞楽を最後迄観覧する事無く、途中で帰宅した。
1,207 9 10 以下の人間が参集し、2日前に源実朝の警護を怠った者を詰問する。
①北条義時
②北条時房
③大江広元
④三善康信
⑤二階堂行光
詰問された者達は「身内の不幸により服喪していた」、「病気で体調を崩していた」等と理由述べた。そんな中吾妻助光は「武勇を買われて採用されたにも拘らず、其の任務を怠るとは何事か」と二階堂に問い詰められた。吾妻は「晴れの舞台の為に用意した鎧を鼠に齧られてしまい、傷物の鎧で列に加わっては却って源殿の恥になると考えて自重しました」という主旨の弁明をした。二階堂は「鎧を新調したのか?列に加わるのはあくまで警護が目的であり、新調の鎧で着飾るのでは無く、先祖代々使い古された傷んだ鎧を着てこそ武士の誉れである」と叱り付けた。斯うして吾妻は出仕を止められた。
1,207 12 23 曇り空で時々雪が降る中、大倉御所で酒宴が行われる。以下の人間が参加した。
①源実朝
②北条義時
③大江広元
そんな中、青鷺が1羽、進物の並べてある部屋に入って来て、寝殿の上に留まった。源は、不愉快なので誰か射落とす様命じるが、其の時大倉御所内には腕の立つ者が居なかった。其処で北条が「吾妻助光が、源殿のお怒りを嘆き訴えたいからと、今大倉御所の近所に居ります。吾妻を呼びましょうか?」という主旨の進言をした。源は承諾し、使いを遣わせると吾妻は慌ててやって来た。吾妻は慌てた為か、衣服を逆さに着ていた。鏃を外した引目の矢を指に挟み、濡れ縁の橋の階段の陰から様子を見ながら、鷹の羽を使った矢を射た。すると、左の眼から出血した青鷺が庭先に落下した。吾妻は矢羽根を青鷺の眼に掠らせて生け捕りにしてみせた。此の妙技に感心した源は、吾妻の出仕を再開させ、更には剣を与えた。
1,207 12 29 源実朝が、正四位下に昇叙する。
1,208 カイマズ・ルミ率いる軍が、イワズ・ハルジーに与えられたカンゴリ(現在のインドのカルナータカ州)のジャーギールを通過し、ムハンマド・シーラン・ハルジーの軍と交戦する。シーランはディナジプール(現在のバングラデシュのロンプール管区)に逃亡したが、直後に死亡した。ルミはイワズを次代ベンガル総督に任命し、アワドに帰還した。
1,208 この年から翌年にかけて、ギヤースッディーン・マフムードがクトゥブッディーン・アイバクに対し、儀式用の傘であるチャトルを授け、ヒンドゥスターンの統治者として認める叙任証書を発行する。
1,208 クトゥブッディーン・アイバクが、ガズニーに侵攻し、占領する。ギヤースッディーン・マフムードが、タージ・アルディン・ユルディズがガズニーを統治している事を快く思っていなかった事が背景としてあった。しかし40日後、アイバクはユルディズのガズニー奪還を許し、撤退した。その後アイバクはラホール(現在のパキスタンのパンジャーブ州)を拠点とし、マフムードの宗主権を認めた。
1,208 2 20 源実朝が天然痘を発病する。此の日鶴岡八幡宮寺への出御は無かった。
1,208 3 11 後鳥羽上皇が、水無瀬離宮(現在の大阪府三島郡島本町東大寺)にて行われた鞠会で、2,000回余りという記録を作る。その後飛鳥井雅経は、後鳥羽上皇に「鞠道の長者」の称号を贈った。
1,208 3 17 源実朝が天然痘から治癒し、沐浴を行う。
1,208 7 13 西八条禅尼に仕える藤原清綱が、先祖の藤原基俊が書写した「古今和歌集」の一部を源実朝に献上する。此の時藤原は、後鳥羽上皇が新日吉神宮(現在の京都府京都市東山区妙法院前側町)で催した流鏑馬について語った。
1,208 12 17 宇都宮頼綱が、摂津国勝尾寺(現在の大阪府箕面市粟生間谷)の草庵で念仏の教えを説いていた法然を訪ね、以降法然の弟子証空に師事し、熱心な浄土教の弟子となった。
1,209 1 24 晴れの中、鶴岡八幡宮寺内の神宮寺の本尊薬師如来像の開眼供養が執り行われる。
①北条義時
②大江広元
導師は、鶴岡八幡宮の供僧で日光山別当の真智房法橋隆宣が務めた。お供した僧は25名であった。開眼供養終了後以下の2名が布施を渡した。
①美作朝親
②橘以広
法橋に対しては、
①被り物3セット
②色染の皮10枚
③上等の絹10匹
④白い布10反
⑤紺の布10反
⑥藍摺り染め10反
⑦奥州産の絹15反
⑧鞍付きの馬1頭
⑨鞍無しの馬2頭
⑩米約12石
又、僧の衣装と数珠も渡した。更に、お供した僧にも1人ずつ、
①奥州産の絹10反 ②貨幣代わりの布10反 ③馬1頭 ④米約2石
を渡した。夜、摩尼房印尊が導師となり、開眼供養の終了を仏様に報告した。印尊に対しても以下のお布施が渡された。
①被り物1セット
②風呂敷包み1つ
③上等の絹1匹
④米約2石
1,209 2 11 晴れの中、大倉御所で此の年初めての般若心経を唱える会が催される。指導僧は法橋隆宣であった。其の後、源実朝の面前で、以下の射手による的始めが、和田義盛の指揮の下執り行われた。
①和田胤長
②望月重隆
③手島太郎
④八田知尚
⑤吾妻助光
1,209 4 19 源実朝が北条時房に対し、武蔵国の田文作成を命じる。
1,209 5 15 源実朝が、従三位に昇叙する。
1,209 6 15 和田義盛が、源実朝に対し上総介への挙任を依頼する。本来国司は諸大夫が就く役職であり、侍の身分であった和田は国司任官の資格が無かった。そこで源は、北条政子に相談した。北条は「源頼朝が征夷大将軍であった時代から侍を国司に推薦出来ない事は決まっているので、其れを変更するのなら、女の私が口出しする事ではありません」と返答した。
1,209 6 23 法華堂にて、梶原景時と其の郎党の菩提を弔う為の法事が執り行われる。導師は法橋隆宣が務め、北条義時が参列した。大倉御所内で怪奇な現象が起きたり、源実朝に夢のお告げが有った為、急遽法要を行なって、怨霊を鎮めようとした事が背景として有った。
1,209 6 26 和田義盛が、西暦1,180年以降の手柄を列挙し「生涯唯一の心残りが国司任官である」と、上総介への任官を訴える嘆願書を大江広元に提出する。
1,209 6 29 源実朝が右近衛中将に任ぜられる。此れを切っ掛けに、源は政所を設置し、政治に関与し始めた。
1,209 7 1 土肥実平の弟土屋宗遠が、小坪から帰る途中の梶原景茂の息子梶原家茂を和賀江(現在の神奈川県鎌倉市材木座)付近で殺害する。土屋は直様大倉御所に出頭し、太刀を和田常盛に召し上げられ、身柄は和田義盛の預かりとなった。
1,209 7 16 土屋宗遠が「源頼朝殿の時代から忠義を尽くした者で、梶原家茂は謀反人梶原景時の孫です。奉公を続けた者と不忠を働いた者を比べるのは不合理で、既に太刀を提出した者を拘束とは面目を見捨てる処遇であります」という主旨の嘆願書を鎌倉幕府に提出する。和田義盛が此れを源実朝に提出した。実朝は直ちに此れを読んで「嘆願書の内容は理屈が通っておらず、直ちに処分を下すべきではあるが、本日は源頼朝殿の月違い命日である。故に頼朝殿が御照覧されていると判断し、特別に赦免する」と発した。
1,209 8 6 源実朝が、夢のお告げにより、和歌20首を住吉大社に奉納する。更に源は、内藤朝親に自身の和歌30首を送り、藤原定家に評を請い、紀貫之が古今集仮名序に記した和歌の六種の風体「六義」について問うた。
1,209 8 9 源実朝が、神社・寺の再建を思い立ち、予想もしていない領地の喪失が無いか調べて書き出す様、命令書を諸国の守護に発する。
1,209 9 明菴栄西が、法勝寺の八角九重塔再建の大勧進職に任じられる。
1,209 9 13 藤原定家が、西暦1,209年8月6日に源実朝が送った和歌30首の評と、和歌の指南書「近代秀歌」を源に献上し、源の問うた六義について回答する。
1,209 9 29 藤原定家が、西暦1,209年8月6日に源実朝が送った和歌30首の評と、和歌の指南書「近代秀歌」を源に献上し、源の問うた六義について回答する。
1,209 10 29 三井寺(現在の滋賀県大津市園城寺町)の僧公胤が鎌倉に到着する。源実朝が招待していた。滞在中の宿所は二階堂行光の屋敷で、宿直は佐々木広綱が担当した。
1,209 11 8 二階堂行光が永福寺近くに建立した伽藍の落慶供養が執り行われる。導師は公胤が務め、北条政子が参列した。又、以下の人間が聴聞に訪れた。
①北条義時
②北条時房
③大江広元
④大江親広
⑤三善康信
永福寺の中も外も大変賑わい、公胤のお布施も会場の飾り付けも大変華美が尽くされたものであった。
1,209 11 11 源頼朝の月命日の為、法華堂で法要が執り行われる。公胤は導師として説法を行なった。施主は北条政子が務め、以下2名も参列した。
①北条義時
②北条時房
1,209 11 13 以下2名が大倉御所にて面会する。
①源実朝
②公胤
公胤は、三井寺の興隆は、源頼義の代からの源家との深い縁が支えているとし、源は、大江広元に命じ、三井寺の徳を語る公胤の言葉を書き留めさせた。
1,209 11 15 公胤が、京都へ向けて鎌倉を出発する。源実朝は、寒さが厳しい此の季節の長旅は差し障りが有るとして延期を勧めたが、長講堂供養の導師を務める事となっていた為、此の日の出発となった。北条義時・大江広元を始めとする御家人等の餞別の品々は数百種に及んだ。源は、宿駅や荷物を送り届ける為の兵の手配を相模国より西の守護に命じた。
1,209 12 2 以下2名が、切的を射る勝負の負方が主催した酒宴にて、源実朝に対し「武芸に嗜み、朝廷を警護する事が鎌倉幕府の安泰である」と、和歌に傾倒していた源に諷言する。
①北条義時
②大江広元
1,209 12 12 北条義時が、自らの郎従の内、功労の有る者を侍に準ずる扱いとして欲しい旨を源実朝に伝える。源は「其の様な征夷大将軍直参で無い者を、侍と同等に扱う特例を認めると、子孫達が本来の由緒を忘れ、鎌倉幕府の身分秩序を乱す原因となるので認められない」という主旨の返答をし、北条の要望を拒否した。
1,209 12 25 源実朝が和田義盛に対し、上総国司任官に就いては検討するので暫く待つ様伝える。和田は源の返答を聞いて喜んだ。
1,210 以下2名が、未亡人となっていた畠山重忠の妻を、足利義純と再婚させる。
①北条政子
②北条義時
足利は畠山氏の名跡を継いだ。
1,210 クトゥブッディーン・アイバクに同行してガズニーに赴いていたアリー・マルダン・ハルジーが、タージ・アルディン・ユルディズに捕縛され、投獄される。其の後ハルジーは釈放され、インドに戻った。アイバクはハルジーをラクナウティ(現在のインドの西ベンガル州マールダー県ガウル)に派遣した。
1,210 フサムディン・イワズ・ハルジーが、アリー・マルダン・ハルジーの部下になる事に同意し、ベンガル総督の職をアリーに譲る。
1,210 ナースィル・ウッディーン・カバチャが独立を宣言し、ムルターンのムスリム総督となる。
1,210 1 27 北条義時が、源実朝の代参で鶴岡八幡宮寺へ幣を奉納し、源頼朝が定めた元旦初詣を復活させる。頼朝は其の日の吉凶には拘らなかった。
1,210 4 9 源実朝が、武蔵国の田文を整備し、国衙の業務として細かく定める。西暦1,196年に鎌倉幕府の手によって国検が行われていたが、目録の作成には至っていなかった。
1,210 5 30 大江広元の屋敷で、以下の人間等が和歌会を開催する。
①源実朝
②北条義時
③北条時房
大江は源に以下を贈った。
①古今和歌集
②後選和歌集
③拾遺和歌集
1,210 7 9 藤原秀康が上総介に任命される。
1,210 7 30 源頼家の正室辻殿が、壽福寺の退耕行勇を戒師として出家する。
1,210 8 29 源実朝が、社寺の所領確認と再興を思い立ち、領地の遺失の有無を調べて書き出す様、命令書を各国の守護に発する。
1,210 10 2 鎌倉幕府が和歌会を開催する。以下の人間が参加した。
①源実朝
②大江親広
③源光行
④内藤朝親
1,210 10 26 足利義純が死去する。
1,210 11 1 源実朝が、諸国の御牧興行を守護・地頭に命じる。
1,210 11 14 クトゥブッディーン・アイバクが、ラホールにて、ポロの起源であるチョウガンのプレー中に落馬し、鞍の角が肋骨に突き刺さって即死する。アイバクは後継者を指名していなかった。ラホールのマリクやアミール等のトルコ系貴族達は、アーラーム・シャーを後継者として指名した。しかし、ハルジー家やデリースルタン国の各地のトルコ系貴族はシャーの即位に反対した。
1,210 12 アーラーム・シャーが、第2代奴隷王朝スルターンに即位する。しかし其の後、様々な地方総督が独立を主張し始めた。軍法長官のアリー・イー・イスマイル率いる貴族の一団は、シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュに、奴隷王朝スルターンに即位する様促した。イルトゥトゥミシュは、嘗てクトゥブッディーン・アイバクの奴隷で、ブダウン(現在のインドのウッタル・プラデーシュ州)の総督を務め、アイバクから息子と呼ばれていた為、次期奴隷王朝スルターンの有力候補と見做した。
1,210 12 8 6時、子供の口を借りて西暦1,213年に戦が起きるとのお告げが有ったと、建穂神社(現在の静岡県静岡市葵区建穂)の筆頭の神主が書き出す。
1,210 12 8 雪の降る中、大倉御所南面にて和歌会が開催される。以下の人間が参加した。
①源実朝
②東重胤
③和田朝盛
1,210 12 11 3日前に建穂神社の筆頭の神主が書き出したお告げが、北条義時経由で源実朝の耳に入る。大江広元が「本当かどうか占いで確かめてみましょうか」と源に提案した。源は「3日前の明け方に私も合戦の夢を見た。建穂神社のお告げと符合するので、私の夢は神仏のお告げであり、偽りの夢では無いだろう。西暦1,213年に合戦が起きるのは明らかなので、占いを行う必要は無い」という主旨の発言をした。源は建穂神社に刀を奉納した。
1,210 12 12 後鳥羽上皇の強い意向により、順徳天皇が践祚する。西暦1,183年7月頃に第44代伊勢神宮祭主大中臣親俊が後白河上皇に贈った神宮御剣が採用され、神宮御剣が先、八尺瓊勾玉が後となり、従来の形に戻った。
1,211 泉親衡が、源頼家の参男栄実を征夷大将軍に擁立し、北条義時を討つ計画を立てる。以降水面下で各地の武士に協力を呼び掛けて行った。
1,211 明菴栄西が著作「喫茶養生記」を発表する。其の後、鎌倉に下向した際に源実朝に献上した。以下に就いて記し、日本に茶を広めた。
①茶の栽培
②喫茶の方法
③喫茶による養生
1,211 1 21 源実朝が、正三位に昇叙する。
1,211 2 23 北野天満宮(現在の京都府京都市上京区)の庭の梅の種から育てた、香が素晴らしく、鶯の巣を有する永福寺の梅の木を大倉御所の北面に移植する。
1,211 4 7 源実朝が、天然痘発症以来止めていた、鶴岡八幡宮寺の参拝を行う。
1,211 6 シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュ率いる軍が、アーラーム・シャー率いる奴隷王朝軍をデリー郊外で破り、シャーや、イルトゥトゥミシュの権力掌握に抵抗する貴族を殺害する。イルトゥトゥミシュは、首都をラホールからデリーに遷都させ、第3代奴隷王朝スルターンに即位した。又、此の機に乗じて、ナースィル・ウッディーン・カバチャがラホールを占領した。此の頃、奴隷王朝の、デリーのヒンドゥー教の首長に対する支配は弱まっており、ランザンボア(現在のインドのラージャスターン州)や、ジャロル(現在のインドのラージャスターン州)等の首長の一部は独立を宣言していた。デリーの属国を管理していたムスリムの役人数名はイルトゥトゥミシュの権威を認めなかったが、此の一連の遠征でイルトゥトゥミシュは、以下の都市の支配を再確立した。
①ブダウン
②アワド(現在のインドのウッタル・プラデーシュ州)
③バラナシ(現在のインドのウッタル・プラデーシュ州)
④シワリク(現在のインドのウッタル・プラデーシュ州・現在のネパールのチャッティースガル州)
イルトゥトゥミシュが対立者達を平定すると、タージ・アルディン・ユルディズは、チャトルと、権威の象徴である杖のダルバシュを贈った。これは、イルトゥトゥミシュが、ユルディズの従属的な支配者である事を意味していた。しかしイルトゥトゥミシュは、直ちにユルディズと対立する事を望まず、此れを受け取った。其の後間も無くユルディズは、ホラズム人の侵攻を受け、ガズニーを去り、東方へ向かった。
1,211 6 11 源実朝が、前日に郭公の初音を聞いたという話を聞いて、郭公の声を聞く為に、以下の人間を伴い永福寺を参詣する。
①内藤朝親
②二階堂行村
③東重胤
④三善康信の長男三善康俊
1,211 8 源実朝が、洪水が激しく、農民が嘆くだろうと考え、大山阿夫利神社(現在の神奈川県伊勢原市大山)にて、洪水が鎮まる事を祈念し以下の歌を詠む。
時により過ぐれば民の嘆きなり八大龍王雨止め給へ
(恵の雨も、時によっては降り過ぎると民の嘆きを引き起こします。八大竜王よ、雨を止めて下さい)
1,211 8 6 源実朝が、東海道に新しい宿場を造る事に関し、何度も決済されているのに、未だに実行されていない事を聞き、東海道の守護・地頭に実行する様命じる。
1,211 8 13 源実朝が、唐の歴史家呉兢が編纂した第2代唐皇帝太宗の言行録である「貞観政要」の精読を始める。
1,211 8 17 以下2名が、日向薬師を参詣する。
①北条政子
②西八条禅尼
1,211 10 23 公暁が定暁の下で出家する。
1,211 10 24 定暁が公暁を伴い、受戒の為京都へ向けて出発する。其の後公暁は、修行の為三井寺に入り、公胤の弟子となった。
1,211 11 源実朝が鴨長明と面会する。鴨は、飛鳥井雅経の推挙を受けて、鎌倉に下向していた。
1,211 11 19 鴨長明が、飛鳥井雅経の推挙により、源実朝に謁見する。
1,211 11 25 「宋本一切経五千余巻」の供養が永福寺にて執り行われる。明菴栄西が導師を務めた。
1,211 11 28 明菴栄西が、伊賀朝光が永福寺の傍らに建てた一宇の供養の導師を務める。
1,211 12 22 北条政子が、金銅の薬師三尊像の開眼供養を行い、鶴岡八幡宮寺の境内の神宮寺に安置する。
1,211 12 27 源実朝が以下2名に対し、駿河国・武蔵国・越後国の大田文を作成する様命じる。
①二階堂行光
②清原清定
1,212 残酷且つ残忍な性格で、人気を集めていた貴族達をベンガルから追放する等して、廷臣達の反感を買っていたアリー・マルダン・ハルジーが暗殺される。此れにより、イワズ・ハルジーがベンガル総督に復帰した。
1,212 1 25 和田義盛が、自身の四男和田義直に、上総介任官の嘆願書の取り下げを大江広元に伝えさせる。朝廷と交渉を続け、義盛に暫く待つ様伝えていた源実朝は、不快感を隠さなかった。
1,212 1 30 明菴栄西が、源実朝の持仏堂での文殊供養の導師を務める。
1,212 2 29 法然が入滅する。
1,212 3 5 源実朝が和田朝盛に、風邪で奉仕を休んでいる塩谷朝業に対し、梅の枝と以下の和歌を贈る。和歌は読み人知らずで贈られた。
君ならで誰にか見せむ我が宿の軒端ににほふ梅の初花
(貴方以外の誰に見せようか。私の家の軒端で匂っている、今年最初の梅の花を)
塩谷は作者は源であると悟り、以下の返歌を贈った。
嬉しさも匂いも袖に余りける我が為折れる梅の初花
(私の為に梅の初花の枝を折ってお届け頂き、我が家は梅の香りが漂い、私の心は嬉しさで一杯に為りました)
1,212 3 23 源実朝が、京都大番役を怠けている国に就いて、政務担当御家人を呼んで尋ねる。源は裁決を行い、今後理由も無く1ヶ月出て来なかった者は、3ヶ月勤務期間を延長する様、諸国の守護達に命じた。以下の人間が指揮を担当する事となった。
①和田義盛
②三浦義村
③平盛時
1,212 4 1 源実朝が、相模川に架かる橋の修理を命じる。此の橋は、稲毛重成が自身の亡き妻の為に架けたものであり、源頼朝が此の橋の供養の帰路、死去する原因となった落馬をした橋でもあった。其の為、以下3名は討議し、此の橋の修理に否定的であったが、実朝は「頼朝殿は天下を平定して20年政治を行い、官位を極めて亡くなっているし、稲毛は自業自得の天罰である。不吉な橋というものでは無い。橋の修理によって民衆の往来が便利になり、我々が二所詣に行く道も確保できるのだから、壊れて倒れてしまう前に早く修理せよ」という主旨の発言をした。
①北条義時
②大江広元
③三善康信
1,212 4 12 源実朝が、三崎(現在の神奈川県三浦市)の三御所へ、以下の人間を連れて出掛ける。
①北条政子
②西八条禅尼
③北条義時
④北条時房
⑤大江親広
船中、第3代鶴岡八幡宮寺別当定暁が連れて来た稚児達の舞楽の舞を催した。
1,212 5 20 源実朝が後鳥羽上皇への恩と源頼朝の徳を讃える為に建設させた寺院である「大慈寺(現在の神奈川県鎌倉市十二所)」の建設が開始される。
1,212 6 後鳥羽上皇が、藤原秀能を壇ノ浦に遣わせ、天叢雲剣の捜索を行わせる。
1,212 6 7 北条義時の弐男北条朝時が、西八条禅尼に仕えていた官女の佐渡守藤原親康の娘に艶文を送るも一向に靡かなかった為、深夜に居室に忍び込み、連れ出す。此れが源実朝の怒りを買い、義時から義絶され、駿河国富士郡(現在の静岡県富士市・富士宮市)に蟄居となった。
1,212 7 7 2時、大倉御所の侍所で、宿直をしていた以下2名が、枕相論を理由に乱闘騒ぎを起こす。
①伊達四郎
②萩生右馬允
止めに入ったそれぞれの郎従2名が死亡した。騒ぎを聞き付けた御家人達が集まり、佐々木義清が、伊達・萩生を捕縛し、和田義盛に引き渡した。源実朝は、直様伊達・萩生を遠流に処し、血に染まり、諸所に刀傷が付いた侍所を、千葉成胤主導で再建させる事にした。以下2名は反対したが、源は押し切った。
①北条義時
②大江広元
1,212 7 19 明菴栄西が、寿福寺を訪れた源実朝に仏舎利3粒を譲る。
1,212 7 26 大倉御所にて和歌会が開かれる。北条義時も参加した。
1,212 9 15 源実朝が、諸国の守護・地頭に対し「鷹狩禁断令」を発する。
1,212 9 28 源実朝の行列に供奉する為京都を出発していた村上頼時が鎌倉に到着する。村上は此の日大倉御所を訪ね、事前に藤原定家の下を訪れて仕入れていた、藤原の消息や藤原の作った和歌を献上し、更には京都の情報も伝えた。
1,212 11 5 源実朝が、大慈寺の建設状況を見る為に大倉郷へと向かう。其の際お供していた三善康信が「西暦1,199年1月頃に夢を見ました。源頼朝殿のお供をして大倉山辺りに行きました。其処に1人の老人が居りました。其の老人は『此の地は清和天皇の時代に相摸丞となった文屋康秀が住んでいた場所である。此処に寺を建てなさい。私が鎮守となりましょう』と言いました。夢から醒めた後、直ぐに頼朝殿に報告しました。其の時頼朝殿は病気療養中でしたが「治ったら寺を建てる」と仰られました。しかし程無くして亡くなられ、叶う事はありませんでした。残念に思っておりましたが、実朝殿が自ら願われて建立されます事は、やはり霊感なのでしょうか」という主旨の発言をした。
1,213 検非違使の長官が藤原定家の屋敷に来て、庭の梅木2本を引き抜いて高陽院に移植する。藤原は憤慨した。
1,213 1 4 源実朝が、従二位に昇叙する。
1,213 1 24 大江広元が椀飯を務める。
1,213 1 25 北条義時が椀飯を務める。
1,213 1 26 北条時房が椀飯を務める。
1,213 1 27 和田義盛が椀飯を務める。
1,213 2 22 鎌倉幕府が「梅花万春を契る」というお題で和歌会を開催する。以下の人間が参加した。
①源実朝
②北条時房
③北条泰時
④伊賀朝光の弐男伊賀光宗
⑤和田朝盛
1,213 3 8 泉親衡の郎党青栗七郎の弟阿静坊安念が、千葉成胤を訪ね、栄実を擁して挙兵するという内容の謀反を持ち掛ける。千葉はその場で安念を捕縛し、北条義時の下に連行した。北条は源実朝に報告し、大江広元等と評議し、以下2名等に安念を尋問させた。
①二階堂行村
②金窪行親
1,213 3 9 阿静坊安念が自白し、泉親衡の北条義時打倒計画に与した武士が130名余、その仲間が200名に上る事が明らかとなる。中でも、比企能員の勢力が及んでいた信濃国の武士が多く加担していた。此れを受けて鎌倉幕府は、以下の人間等を捕縛した。この時和田義盛は上総国伊隅荘(現在の千葉県夷隅郡)に行っていた為、捕縛を免れた。
①一村近村(信濃国匠作の預かり)
②籠山次郎(高山重親の預かり)
③上田原平三父子3名(豊田幹重の預かり)
④薗田成朝(宇都宮時綱の預かり)
⑤狩野小太郎(結城朝光の預かり)
⑥和田義直(伊東祐長の預かり)
⑦和田義盛の五男和田義重(伊東祐廣の預かり)
⑧渋河兼守(安達景盛の預かり)
⑨和田胤長(金窪行親・安東忠家の預かり)
⑩磯野小三郎(小山朝政の預かり)
1,213 3 11 薗田成朝が、宇都宮時綱の下から逃亡し、祈祷師僧敬音の屋敷へ入る。薗田は、敬音から出家を勧められるが、国司に着任するという願望が叶えられるまでは出家しないと語り、敬音の下から離れて行方知れずとなった。
1,213 3 13 薗田成朝の逃亡が明るみに出る。薗田に受領の願望が有った事を聞いた源実朝は「早く此れを尋ね出し、恩赦有るべき」と発言した。
1,213 3 18 渋河兼守が、翌日の明け方の処刑を言い渡される。渋河は、思いの丈を10首の和歌に込め、其れを荏柄天神社に奉納した。
1,213 3 19 前夜から荏柄天神社に籠っていた工藤祐隆が、前日に渋河兼守が荏柄天神社に奉納した10首を大倉御所に居た源実朝に持参する。源はこの和歌に感じて、渋川を赦免した。
1,213 3 20 源実朝が、正二位に昇叙する。
1,213 3 25 泉親衡が筋替橋付近に潜伏しているとの噂を聞き付けた鎌倉幕府が、工藤十郎を現地に派遣する。しかし、工藤は泉によって殺害され、泉は行方を晦ませた。
1,213 3 31 和田義盛が鎌倉に帰還し、源実朝と面会する。義盛の嘆願により、以下2名が赦免された。
①和田義直
②和田義重
しかし、謀反に積極的に加担したと判断された和田胤長は赦免されなかった。
1,213 4 1 和田義盛が、一族98名を引き連れ、大倉御所を訪問して和田胤長の赦免を訴える。大江広元が取り次いだが、源実朝との面会は叶わず、胤長は謀反の首謀者であるとして、赦免は認められなかった。後ろ手に縛り上げられた胤長は、一族の前に引き立てられ、二階堂行村に引き渡された。その際北条義時は「尚も厳しく取り調べる様に」と態々言った。
1,213 4 9 和田胤長が陸奥国岩瀬郡鏡沼(現在の福島県岩瀬郡鏡石町)に配流される。
1,213 4 11 大倉御所にて和歌会が催される。
1,213 4 11 横山時兼が、和田義盛の屋敷を訪れる。その際、甲冑を身に纏った兵五十数名が周囲を徘徊した為、源実朝は、伊賀朝光に止めさせた。和田の側室は横山の叔母であり、横山の妹は和田常盛の妻であった為、和田家と横山家は密接な親族関係にあった。
1,213 4 13 和田胤長の娘荒鵑が、胤長と会えなくなった悲しみから病を患い、危篤となる。胤長と顔が似ていた和田朝盛が、胤長の代わりに父と偽って帰って来た事を伝えると、荒鵑は少し目を開けてその姿を微かに見て、目を閉じて死去した。其の夜、荒鵑は火葬され、胤長の妻は同日中に出家した。
1,213 4 17 荏柄天神社の前の和田胤長の屋敷が一族に引き渡される。和田義盛は久野谷弥次郎を其の屋敷に住まわせた。
1,213 4 24 北条義時が、屋敷は一族に給付されるという慣習を破り、久野谷弥次郎を和田胤長の屋敷から追い出し、以下2名に与える。
①金窪行親
②安東忠家
1,213 4 29 酒宴を行っていた源実朝が、通り掛かった以下2名に対し酒を振る舞う。
①山内政宣
②宍戸家政
源は山内・宍戸に対し「2人とも近いうちに命を失う事になろう。1人は私の敵として、もう1人は私の味方として」と予言した。
1,213 5 7 源実朝が、大倉御所南面にて、朗月に向かって和歌会を催す。此の日和田家は大倉御所に出仕しなかった。和田朝盛も朝夕の奉仕を止め、屋敷に居た。そこで浄遍僧都と面会し、出難生死の道を学んで、読経と念仏を行った。和田は出家を遂げる為に大倉御所に参上し、源と面会した。和田は源に和歌を献上し、源は其の和歌に感心した。和田は、此の所祇候していなかった事情を伝え、蟠りを解いた。源は、和田のこれまでの忠勲に報いる為、数ヶ所の地頭職を与える下文を授けた。しかし、月が中天に及んだ頃、和田は退出して源延の草庵を訪れ、剃髪して出家し、自身の屋敷に戻る事無く京都へと向かった為、下文にて与えられた地頭職に就く事は無かった。
1,213 5 8 和田朝盛が出家し、京都へ向けて出発した事に怒った和田義盛が、和田義直に朝盛を連れ戻す様命じる。
1,213 5 10 和田義直が、駿河国手越にて和田朝盛を鎌倉に連れ戻す。朝盛は黒衣の儘和田義盛と対面し、朝盛は、義盛の旗下として先陣に立つ事となった。
1,213 5 16 和田義盛が、年来の帰依僧である伊勢国の尊道房を追放する。しかし、伊勢神宮に戦勝祈願させたとの噂が飛び交い、人々は戦乱を予感し、騒然とした。
1,213 5 19 源実朝が、和田義盛が挙兵するとの噂を受けて、側近の宮内公氏を和田の屋敷に差し向ける。宮内に会う為に寝殿から出て来た和田は、烏帽子を落とした。それを見た宮内は、首が落ちた様だ、と感じ、挙兵しても打たれてしまうに違いない、と思った。此の時、以下2名等が武器を揃えていた為、夜、源は刑部丞宮内忠季を差し向けた。
①古郡保忠
②和田義盛の参男朝比奈義秀
和田は「将軍家に対する反逆の気持ちは無い。唯、北条義時の所為は我慢ならず、其れは一族若輩等も同じであり、其れを問い糺す為に出向こうとしている。私は何度も諫めたが憤りは抑えきれず、決起は止むを得ない」と回答した。
1,213 5 20 夜、雨の中、北条義時が、寺社への読経と祈願の依頼の名目で大江広元を招く。北条から大江に伝達する為に遣わされた者の中に、宮内公氏が含まれていた。
1,213 5 21 北条義時から呼び戻されていた北条朝時が義時の下に到着する。
1,213 5 23 小田知重が、近所である和田義盛の屋敷に軍勢が集結している事を大江広元に報告する。大江は来客中で宴を催している最中であったが、小田からの報告を受けると、1人其の場から抜け、大倉御所へ走って行った。三浦義村は、自身の弟の三浦胤義と相談し、「先祖の三浦為継は、源義家に従い、奥州で清原武衡・清原家衡を征伐して以降、源氏から恩禄を賜ってきた。義盛に味方して、先祖代々の主君に矢を射れば天罰を免れる事は出来ない」という理由で、義盛を裏切って北条義時の屋敷へ向かい、義時に義盛の挙兵を告げた。義村と胤義は、義盛に味方するという内容の起請文を書いており、大倉御所北門を固める役割を与えられていた。義時は囲碁の最中であったが、義村の報告に驚く事は無く、冷静な儘大倉御所へと向かった。大江と義時の報告を受けて、以下3名は大倉御所北門を出て、御谷(現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下)に避難した。
①源実朝
②北条政子
③西八条禅尼
此れを受けて、16時、義盛が、予定を1日繰り上げて、横山党の到着を待たずに挙兵し、150騎を三手に分けて以下の3ヶ所を襲撃した。
①大倉御所南門
②義時の屋敷
③大倉御所南門の向かいの大江広元の屋敷
義村は北条朝時・波多野忠綱等と共に政所付近で応戦したが、18時に大倉御所への侵入を許した。手薄だった北条の屋敷と大江の屋敷は、直ぐに陥落した。北条泰時・朝時・足利義氏等の防戦も及ばず、朝比奈義秀は大倉御所南門を打ち破り、南庭に侵入し、以下の人間を殺害し、火を放った。
①和田義盛の弟和田義茂の参男高井重茂
②五十嵐小豊治
③葛貫盛重
④新野景直
⑤礼羽蓮乗
南側から大倉御所が燃えていくのを見た実朝は、義時・大江等に付き添われて、義村の守備する北門から大倉御所を脱出し、大倉御所の北側の丘の上に在る法華堂に逃げ込んだ。又朝比奈は、朝時を斬り、負傷した朝時は撤退した。更に朝比奈は、政所前の橋で足利義氏と遭遇し、朝比奈が足利の鎧の袖を掴んだ。其処に野田朝季が割って入った。朝比奈は野田を殺害するも、足利は鎧の袖を引きちぎりながら逃亡した。日が暮れると、義盛は由比ヶ浜に兵を引いた。
1,213 5 24 4時、横山時兼が自身の娘婿の波多野盛通・自身の甥の横山五郎等の数十名の親族や横山党を率い、腰越浦(現在の神奈川県鎌倉市)に到着し、和田義盛の軍に加勢する。横山は、此の日に戦いを仕掛けると、義盛と示し合わせていた為、既に合戦が始まっている事に驚いた。義盛は、3,000騎を率いて若宮大路を北上し、大倉御所へ進軍した。先陣の朝比奈義秀は、以下2名等を率い、進軍していた所、鎮西の小物資政等の鎌倉幕府方を破り、大倉御所を目指した。
①土屋義清
②古郡保忠
8時、相模国・伊豆国の以下の御家人等が軍勢を率い、武蔵大路から稲村ヶ崎に到着した。
①曾我氏
②中村氏
③二宮氏
④河村氏
しかし、何方に加勢すれば良いか分からなかった為、源実朝の御教書を求めた。此れを受けて大江広元が、源名義の花押の有る御教書を作成して、使者を稲村ヶ崎に遣わせ、軍勢に示して見せた。相模国・伊豆国の御家人達は、北条義時が源を保護している事を知り、鎌倉幕府軍に付いた。又、千葉成胤も、一族を引き連れて北条に味方した。10時、義盛の軍勢が鎌倉に入り、前日と同じく朝比奈が奮戦した。朝比奈は、土屋・保忠と共に3騎轡を並べて敵陣に突入し、鎌倉幕府軍を攻め立て、追い散らした。鎌倉幕府軍は以下の布陣を敷いていたが、幾度となく後退した。
①若宮大路
❶北条泰時
❷北条時房
②大町大路
❶足利義氏
③名越
❶源頼茂
④大倉郷
❶佐々木義清
❷結城朝光
武田信光は、若宮大路の米町口(現在の神奈川県鎌倉市由比ガ浜)で朝比奈と遭遇した。両者は睨み合って戦おうとするが、信光の息子武田信忠が割って入った事で、交戦する事無く、朝比奈は走り去った。又朝比奈は、琵琶橋(現在の神奈川県鎌倉市由比ガ浜)にて宍戸家政を討った。そんな中、北条経由で源の下に、鎌倉幕府軍が苦戦を強いられているとの報告が届いた。驚いた源は、政所へ向かった大江を呼び寄せ、願書を書かせ其れに自筆で和歌を2首添えて、戦勝祈願として鶴岡八幡宮寺に奉じた。義盛率いる軍は、次々に新手を繰り出す鎌倉幕府軍に次第に押されていった。そんな中、甘縄から寿福寺(現在の神奈川県鎌倉市扇ガ谷)・岩窟不動尊(現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下)を経由して大倉御所へ向かっていた土屋義清が、鶴岡八幡宮寺の赤橋の周辺で、北から矢を受けて死亡した。大町大路では、第24世輪王寺(現在の栃木県日光市山内)別当弁覚が、中山行重を退けた。18時、和田義直が伊具盛重に討ち取られた。此れにより、義直が所持していた、名刀石動丸が行方不明となった。愛息を失った義盛は悲嘆に暮れ「今は戦う甲斐も無し」と号泣した。戦意を失った義盛は、江戸能範の郎党に襲撃され、討ち取られた。此れを受けて、以下3名は自刃した。
①和田義重
②義盛の六男和田義信
③義盛の七男和田秀盛
朝比奈は、和田朝盛の長男佐久間家盛と共に、船6隻に500騎を乗せて、海路で所領の安房国へ逃れた。以下4名は波加利荘(現在の山梨県北都留郡・大月市・上野原市・都留市・富士吉田市・南都留郡富士河口湖町)へ敗走した。
①古郡保忠の兄古郡経忠
②古郡保忠
③和田常盛
④横山時兼
岡崎実忠も戦場から離脱したが、其の後殺害された。土屋は寿福寺に葬られた。土屋は寿福寺の本願主であった。又、義盛に味方した愛甲季隆は、兄の愛甲義久一族と共に討たれ、同じく義盛に味方した大庭景兼も討たれ、大庭氏一族は没落した。
1,213 5 25 以下の兄弟が、所領の甲斐国板東山波加利之東競石郷二木(現在の山梨県大月市初狩町中初狩・下初狩付近)で自害する。
①古郡経忠
②古郡保忠
1,213 5 25 以下2名が、甲斐国板東山償原別所(笹子峠(現在の山梨県大月市・甲州市)付近)で自害する。
①和田常盛
②横山時兼
其の後、横山を始めとする234名の首級は、固瀬川(現在の境川(城山湖(現在の神奈川県相模原市緑区川尻)〜江ノ島(現在の神奈川県藤沢市)))の川辺に梟首された。
1,213 5 25 8時、源実朝が、避難していた法華堂から、北条政子の居所である東の御所に移る。其の後源は、二階堂行村を奉行として、西御門にて負傷した約188名の検分を行なった。其の中の1人である、2日前に朝比奈義秀と戦って負傷した相模次郎は、北条義時に支えられて東の御所に入った。金窪行親・安東忠家も同席した。続いて源は、合戦に加わった者の勲功に就いて尋ねた。波多野忠綱は、米町(現在の神奈川県鎌倉市大町)と政所前で、何度も先陣で戦った事を報告した。しかし三浦義村は、米町に就いては波多野の主張を認めたものの、政所前は自分が先陣で戦ったと主張し、言い争いとなった。南庭では、各人が自分の功績を主張した。北条義時は、静かな場所に忠綱を呼んで「此度の合戦の勝利は、三浦が和田義盛を裏切った事が大きい。米町で忠綱が先陣であったのは間違い無いから、政所の件に就いては三浦に譲って穏便に済ませてくれないか。そうすれば破格の褒賞は間違い無い」と、忠綱に譲歩を勧めた。すると忠綱は「武士が戦場に向かう際、先陣を目指すのが本意である。弓馬に携わる者として、一時の褒賞に心を奪われ、先々の名誉を汚す事は出来ない」と、反論した。其処で、以下4名の立ち会いの下、真実を明らかにする事となった。
①源
②北条義時
③大江広元
④二階堂行光
先ず三浦が「和田義盛が襲来した際、私は政所前に駆け付け矢を放ち、敵を寄せ付けませんでした」と主張した。対する忠綱は「私1人が先陣を切りました。三浦は、我が長男の波多野経朝、我が甥波多野義定の弐男波多野朝定の後陣でした。にも拘らず私が見えていなかったという事は、盲目なのではないか」という主旨の返答をした。其処で、共に戦った以下3名に話を聞くことになった。
①波多野盛景
②二階堂基行
③金子太郎
3名は、先陣を切ったのは、赤皮威の鎧を着用し、葦毛馬に乗馬した者であったと回答した。此れは忠綱の事であった。葦毛馬は義時から拝領したもので、「片淵」と呼ばれていた。三浦は、従兄弟であった和田を裏切った事により、後に大倉御所にて千葉胤綱に自身の上座に座られた際「下総の犬めは寝場所を知らぬな」と言ったが、千葉に「三浦の犬は友をも食らう」と返された。
1,213 5 26 鎌倉幕府が、以下2名を始めとする謀反人の所領・所職を没収する。
①和田義盛
②横山時兼
更に、北条義時が、和田に代わり侍所別当に就任した。此れにより北条は、政所別当と侍所別当の兼任となった。
1,213 5 28 鎌倉幕府が、勲功として、以下の領土配分を決定する。
①甲斐国波加利本荘(現在の山梨県大月市初狩町・笹子町付近):武田信光
②甲斐国波加利新荘(現在の山梨県大月市初狩町・笹子町付近):島津忠久
③甲斐国古郡(現在の山梨県上野原市):加藤景廉の息子加藤景長
④甲斐国岩間(現在の山梨県西八代郡市川三郷町):伊賀光宗
⑤甲斐国福地(現在の山梨県大月市富浜町):鎌田為成
⑥甲斐国井上(現在の山梨県笛吹市石和町一帯):大須賀胤信
⑦相模国山内庄(現在の神奈川県鎌倉市山ノ内):北条義時
⑧相模国菖蒲(現在の神奈川県秦野市):北条義時
⑨相模国大井庄(現在の神奈川県足柄上郡大井町):二階堂行村
⑩相模国懐島(現在の神奈川県茅ヶ崎市):二階堂基行
⑪相模国岡崎(現在の神奈川県中郡):近藤左衛門尉
⑫相模国渋谷庄(現在の神奈川県大和市):因幡局
⑬坂東田原(現在の山梨県都留市):志村次郎
⑭武蔵国長井庄(現在の埼玉県熊谷市妻沼):安達時長
⑮武蔵国横山庄(現在の東京都八王子市):大江広元
⑯上総国飯富庄(現在の千葉県袖ケ浦市):北条時房
⑰上総国伊北郡(現在の千葉県夷隅郡大多喜町・千葉県勝浦市):三浦胤義
⑱上総国幾与宇(現在の千葉県旭市幾世):藤内兵衛尉
⑲常陸国佐都(現在の茨城県常陸太田市):伊賀朝光
⑳上野国桃井(現在の群馬県北群馬郡榛東村):藤原季康
㉑陸奥国遠田郡(現在の宮城県):北条泰時
㉒陸奥国三迫(現在の宮城県栗原市栗駒・金成):二階堂行光
㉓陸奥国名取郡(現在の宮城県):三浦義村
㉔出羽国由利郡(現在の秋田県):大弐局
㉕陸奥国金窪(現在の埼玉県児玉郡上里町金久保):金窪行親
波多野忠綱に関しては、3日前に義村を盲目扱いした事を理由に褒賞は無しとなった。波多野経朝の勲功は其の儘認められた。其の後、義時が大倉御所から若宮大路の屋敷へ入り、家臣に勲功を与えた。
1,213 5 29 既に出家していた山内政宣が、山内首藤経俊の屋敷に出頭する。
1,213 5 29 大江親広が鎌倉に到着する。6日前に和田義盛の襲撃の話を聞いて馳せ参じた。
1,213 5 29 夜、北条泰時が大倉御所に入る。其処で源実朝と面会し、勲功を辞退する旨を伝えた。源は、再三に渡り固辞する泰時に理由を尋ねた。泰時は「和田義盛は、源殿に逆心を持たず、北条義時と敵対しました。私は父の敵と戦ったまで。ただ、和田の攻撃を防ぐ為に多くの御家人が戦いました。褒賞は、其れ等の者に与えるべきであって、私が受けるのは筋が通りません」という主旨の回答をした。周囲の者は此れに感嘆した。しかし源は、重ねて勲功を受け取る様指示した。
1,213 5 30 和田胤長が陸奥国にて処刑される。
1,213 5 31 弁覚が北条義時と面会し、弟子達を率いて大町大路で中山行重を退けた事による褒賞として、北条から「僧徒の身でありながら戦場へ赴いたことは、忠節の表れだ」という源実朝の感謝の言葉を伝えられ、豊前国黒土庄(現在の福岡県豊前市久路土)を与えられる。弁覚は「源殿の長寿の為の祈祷をしておりますので、呪いや祟り等も其の力で防いでおります。姿形の在る敵等には罰を与えるのみ」と答えた。
1,213 6 11 鎌倉で地震が発生する。家屋が倒壊し、山崩れや地割れが発生した。陰陽師は、25日以内に兵乱が起きるだろうと上申した。
1,213 6 源実朝が、後鳥羽上皇から御宸翰を戴き、又鎌倉で西暦1,213年6月11日に地震が起きた事を受けて、以下の歌を詠む。
山は裂け海は褪せなむ世なりとも君にふた心我があらめやも
(山が裂け、海が褪せ干上がってしまうような天変地異でどんな世の中になってしまったとしても、私の忠誠心は二心無く只一筋に後鳥羽上皇に捧げて変わる事はありません)
1,213 6 明菴栄西が、法勝寺の八角九重塔の再建を果たした功績により、権僧正の位を与えられ、紫衣を授けられる。明菴栄西は、此の位を与えられる為に朝廷に多額の賄賂を渡した。此の明菴栄西の行動は、慈円や藤原定家から非難された。
1,213 6 22 鎌倉幕府が、地震を防ぐ為の祈祷を行わせる。
1,213 7 1 御家人達が、武装して大倉御所に馳せ参じる。
1,213 7 14 広沢実高が、所領の備後国三谿郡(現在の広島県三次市の一部)から鎌倉に帰還する。此の頃、広沢が和田義盛の一党であったと讒言する者が居り、疑いを晴らすべく鎌倉幕府に申し立て、認められた。
1,213 7 26 0時、地震が発生したが、晴れの中、大倉御所にて和歌会が開かれる。以下の人間が参加した。
①源実朝
②北条義時
③北条泰時
④東重胤
1,213 10 4 弁覚の使者が鎌倉に到着する。畠山重慶が、日光山の麓に籠居し、牢人を集め祈祷を行い、謀反を企てている旨を鎌倉幕府に伝えた。源実朝は、長沼宗政に重慶を捕縛する様命じた。長沼は、大倉御所から出ると、自身の屋敷に戻る事無く9名の郎党を引き連れ、下野国へと出発した。
1,213 10 7 以下の人間が氷取沢(現在の神奈川県横浜市磯子区)を散策し、和歌に興じる。
①源実朝
②北条時房
③北条泰時
④藤原長定
⑤三浦義村
⑥結城朝光
⑦内藤朝親
1,213 10 11 長沼宗政が、畠山重慶の首級を持参し下野国から鎌倉に帰還する。源実朝は「生け捕って来いと言ったにも拘らず何故殺したのか。畠山重忠は罪も無いのに殺害されており、その末子が隠謀を企てて何の不思議が有ろうか。命じた通りに先ず重慶を生け捕り参れば、ここで沙汰を定めるのに、命を奪ってしまった」と激怒し、長沼の出仕を停止した。しかし長沼は「重慶の謀反は疑い無い。生け捕ってくると、北条政子や女官の願いで許されてしまうだろう。なので殺害した。貴殿は我々の奉公を軽くお考えではないのか」という主旨の反論をした。さらに長沼は源に対し「貴殿は和歌・蹴鞠を業として武芸は廃れた様なもの。女官を部下とし、勇士は無いのと同じである」と吐き捨て大倉御所を去った。以降長沼は謹慎生活に入った。
1,213 10 31 長沼宗政が、小山朝政の取り成しによって源実朝から赦免され、謹慎が解除される。
1,213 12 20 飛鳥井雅経が、藤原定家から、源実朝に献上する万葉集の一部を受け取り、鎌倉に送付する。
1,213 12 23 晴れであった。夜、栄実が出家し、明菴栄西の弟子となった。此れは北条政子の指示であった。
1,214 アレクシオス1世が、スィノプ(現在のトルコ)を防衛している最中にルーム・セルジューク朝軍に捕縛される。
1,214 タージ・アルディン・ユルディズが、第11代ゴール朝スルターンのアラー・ウッディーン・アトシーズを殺害する。ユルディズは、アトシーズの従兄弟のジャラールッディーン・アリーを救出し、傀儡として第4代ゴール朝領バーミヤーン支配者に据えた。
1,214 第7代ホラズム・シャー朝スルターンのアラーウッディーン・ムハンマドが、ガズニーからタージ・アルディン・ユルディズを追放し、ラホールに連行する。ムハンマドは、ラホールの支配権をナースィル・ウッディーン・カバチャに与えた。
1,214 1 5 大江広元が、藤原定家から源実朝に献上する万葉集の一部が届けられる。早速大江は大倉御所へ出向き、万葉集の一部を源に渡した。源は「此れは何よりも勝る宝である」と喜んだ。また、長年藤原の領地である伊勢国小阿射賀御厨(現在の三重県松阪市小阿坂町)が地頭渋谷左衛門尉に横取りされていたが、藤原は争う事はしなかった。しかし、大江から「何か嘆きはありませんか」と書簡で尋ねられた為、農民の負担を軽くする為に渋谷による小阿射賀御厨横取りの件を話し、渋谷の地頭職罷免に至った。
1,214 1 5 源実朝が、藤原定家の許可を得て編纂していた「金槐和歌集」の作業が完了する。藤原から源に届けられた663首が収録された。
1,214 1 15 西暦1,213年5月23日から翌24日にかけて発生した合戦の戦没者供養の仏事が寿福寺にて執り行われる。導師は明菴栄西が務めた。
1,214 3 11 源実朝が二所詣の為出発する。
1,214 3 12 源実朝が以下の2社を参詣する。
①箱根神社(現在の神奈川県足柄下郡箱根町元箱根)
②三嶋大社(現在の静岡県三島市大宮町)
1,214 3 13 源実朝が、伊豆山神社(現在の静岡県熱海市伊豆山)を参詣する。
1,214 3 16 明菴栄西が、二日酔いの源実朝に「喫茶養生記」を献上する。
1,214 4 20 源実朝が、永福寺で桜の花見をする。
1,214 5 24 日吉大社(現在の滋賀県大津市坂本)の祭にて、大津の下人達が、日吉大社の摂社である唐崎神社(現在の滋賀県大津市唐崎)にお供えをする。しかし、延暦寺・日吉大社が、先例通りの量が無いとして下人達を責めた。此れを受けて、小浜の相撲清四郎が一族を引き連れ、左方の船に乗って収税係の役人に対して矢を射た。収税係は負傷し、引き上げた。
1,214 5 25 朝、三井寺の武者僧達が、相撲清四郎を捕える為に、役僧以下、収税係の役人を大津の港へ向かわせる。軈て喧嘩が始まり、役僧達が逃げ帰る所に、三井寺の武者僧達が追いかけて来て戦闘となった。此れを聞いた延暦寺の衆徒が駆け付け、以下を放火した。
①錦織(現在の滋賀県大津市)の里
②西浦(現在の滋賀県大津市大萱)の屋敷
③三井寺の北院の坊主の宿舎
更に14時にはお堂や塔に火を付けた。三井寺は金堂・上下仏閣・僧の居所等が燃やされ全焼し、灰燼と化した。又、東浦(現在の滋賀県大津市春日町)等も被害を受け、最終的に、計129戸が焼失した。
1,214 5 28 大慈寺が完成する。建立の供養に就いて大倉御所に以下の人間等が参集し評議が行われた。
①源実朝
②北条義時
③大江広元
④三善康信
⑤二階堂行光
⑥二階堂行村
実朝は「供養の導師には京都から高僧を招きたい」と発言した。此れに対し北条・大江は「源頼朝殿が勝長寿院を開いた時、京都から高僧が招かれました。其の時、往復の雑事が多くの庶民の煩いとなりました。此れは決して仏の意に適った事ではございません。今回は関東に住む僧を用いられるのが徳政となりましょう」と進言した。
1,214 6 4 公胤が、三井寺の焼失を鎌倉幕府に報告する。
1,214 6 16 源実朝が、三井寺の再建を決定し、宇都宮頼綱が、三井寺の復興事業の一環で、日吉大社(現在の滋賀県大津市坂本)の本殿・拝殿の再建を命じられる。他にも以下2名等が、三井寺の再建を命じられた。
①大内惟義
②佐々木広綱
1,214 7 11 明菴栄西が、祈雨の為法華経を転読する。
1,214 8 8 明菴栄西が、大慈寺の供養の導師に任命される。
1,214 9 3 大慈寺の落慶法要が執り行われる。10時、北条政子が大慈寺へ向かった。12時、源実朝が大慈寺へと向かった。行列は以下の通り。
①前駈
❶橘惟広
❷田村仲能
❸三条親実
❹蔵人大夫国忠
❺源朝親
❻相模権守経定
❼藤原範宗
❽村上頼時
②殿上人
❶源頼茂
③御車(車付2名・牛飼い童2名・雑用者18名)
❶実朝
④御劔役
❶小野寺秀通
⑤調度懸
❶加藤景長
⑥後騎
❶北条義時
❷北条時房
❸北条泰時
❹大江広元
❺大内惟義
❻大江親広
❼伊賀朝光
❽五条有範
❾三浦胤義
➓中条家長
⓫葛西清重
⓬島津忠久
⓭佐貫広綱
⓮春日部実平
⓯宇佐美祐政
⓰大江範親
⓱加藤景長
⓲大江能範
⑦随兵
❶北条朝時
❷武田信光
❸結城朝光
❹佐々木定綱の四男佐々木信綱
❺森頼定
❻津々見忠季
❼下河辺行時
❽塩谷朝業
❾大須賀通信
➓東重胤
⓫三浦義村
⓬小田知重
⑧検非違使
❶二階堂行村
大慈寺の門に来ると、実朝の牛車から牛を離した。源頼兼が前に出て沓を差し出した。実朝が御堂に上がると、導師を務める明菴栄西が、お供の僧20名を引き連れ入って来た。落慶法要終了後、夜、以下のお布施が与えられた。
①被り物30枚
②馬20頭
1,214 11 18 明菴栄西が、大慈寺にて仏舎利を供養する為の法会を執り行う。
1,214 12 15 大江広元の在京の家人が、和田義盛・土屋義清の残党が京都で謀反を企み、六波羅を襲撃し、栄実を擁立した事が判明した為、栄実の居る一条北辺りの旅亭を襲撃する。栄実は自刃した。
1,215 第4ラテラン公会議(通算12回目の公会議)で、利子が非難されたが、ユダヤ教徒には認められた。また、ユダヤ人に対する差別法が作られ、ユダヤ人は黄色のバッジをつける事を要求される。
1,215 アラーウッディーン・ムハンマドが、フィールズクーフ(現在のイランのテヘラン州)を征服し、ジャラールッディーン・アリーを捕縛する。アリーは直ぐにガズニーに進軍し、タージ・アルディン・ユルディズを破った。ユルディズはフィールズクーフを手放し、パンジャーブに敗走した。其の後ユルディズは、ナースィル・ウッディーン・カバチャからラホールを奪取し、パンジャーブ地方の一部を手中に収めた。シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュは此の侵略に抗議したが、聞き入れられなかった為、ユルディズ征伐の為、ラホールに進軍した。イルトゥトゥミシュは、ユルディズが最終的にデリーに進軍するのではないかと懸念していた。ユルディズはイルトゥトゥミシュに、自分こそがシハーブッディーン・ムハンマドの後継者であり、旧ゴール朝領土に対する権限を有するという主旨の書簡を送った。アリーはホラズム・シャー朝に連行され、名誉な亡命生活を送った。
1,215 2 6 8時、北条時政が腫物により、伊豆国北条郡(現在の静岡県伊豆の国市韮山地区)にて死去する。
1,215 8 1 明菴栄西が建仁寺にて入滅する。
1,215 8 2 後鳥羽上皇の指示により、坊門信清が源実朝に、西暦1,215年6月30日に仙洞御所にて行われた和歌会の参加者の花押付の纏め1巻を送る。
1,215 10 8 伊賀朝光が死去する。
1,215 10 9 伊賀朝光が、二階堂行政の屋敷の後山に埋葬される。北条義時も参列した。
1,216 1 25 タージ・アルディン・ユルディズ率いる軍と、シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュ率いる奴隷王朝軍が、タラオリ(現在のインドのハリヤーナー州カルナル)にて激突する。イルトゥトゥミシュはユルディズに対し、双方兵を伴わずに交渉するのであれば応じると申し出ていたが、ユルディズは拒否していた。結果、奴隷王朝軍が勝利し、矢を受けて負傷したユルディズは捕えられ、デリーを引き回された後、ブダウンに送られ、同年中に処刑された。
1,216 2 4 江ノ島が陸続きとなり、徒歩で本州から渡れる様になる。相模国の人々が集まった。源実朝等は、神の御蔭ではないかと驚いた。
1,216 2 23 東寺(現在の京都府京都市南区九条町)に盗賊が侵入し、仏舎利や仏教道具が盗まれる。
1,216 2 27 朝廷が、西暦1,216年2月23日に東寺が盗難に遭った件に関し、五畿七道に、盗人を探し出す様宣旨を下す。宣旨には「舎利は釈尊の身の一部、仏具はインドから中国、そして日本へと伝えられた三国伝来の霊宝。此れ等が盗まれた事で、仏法が衰退して、国家を守る力が失われる」と書かれていた。
1,216 3 8 朝廷が、西暦1,216年2月23日に東寺が盗難に遭った件に関し、盗人を探し出す様下した宣旨が、鎌倉幕府に届く。源実朝は、三善康信に宣旨を御家人に伝える様命じた。
1,216 3 18 以下2名が、新日吉社(現在の京都府京都市東山区妙法院前側町)付近で、西暦1,216年2月23日に東寺から仏舎利や仏教道具を盗んだ者を捕縛する。
①藤原秀康
②藤原秀能
1,216 3 28 東寺に、盗まれていた仏舎利と仏教道具が返還される。
1,216 6 24 陳和卿が鎌倉に到着する。陳は「源実朝殿は権化の再誕であり、恩顔を拝みたい」と源への謁見を望んだ。
1,216 7 1 陳和卿が源実朝に謁見する。陳は「おお、我が師よ」と、源を3度拝み、泣き出した。源殿は前世に於ける私の師匠、医王山(現在の中国浙江省寧波市鄞州区五郷镇宝幢太白山の麓の阿育王寺)の長老だったのです。私は源殿の弟子としてお仕えしておりました。今日この日の再会を、喜ばずにはいられないのです」という主旨の発言をした。すると源は「実は私も6年前其の様な夢を見た。今まで誰にも話した事が無いので、示し合わせたとも思えない。やはり我々は、前世からの因縁によって引き合わされたのかも知れない」と意気投合した。
1,216 7 6 源実朝が、権中納言に任ぜられる。
1,216 8 5 公胤が入滅する。
1,216 9 5 源実朝が、左近衛中将に任ぜられる。
1,216 10 30 北条義時が大江広元を呼び、源実朝の昇進に就いて密談する。
1,216 11 1 北条義時に遣わされた大江広元が、近衛大将昇進を所望している源実朝を「源殿はまだ若く、大きな実績や京都での政治経験が無い事から、征夷大将軍としての務めを果たし、年齢を重ねてから兼任すべきである」という主旨の発言をして諌める。源は「諫言には感心するが、源氏の正統は自分の代で途絶え、子孫が継ぐ事は無いだろう。だからせめて官職を帯び、家名を上げたいと思う」と回答した。大江は黙って退くしかなかった。
1,217 シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュ率いる奴隷王朝軍が、ナースィル・ウッディーン・カバチャ征伐の為出陣する。イルトゥトゥミシュはパンジャーブ地方のより広範な部分を征服しようとしていた。カバチャはラホールからムルターンに撤退しようとしたが追撃され、マンスーラ(現在のパキスタンのシンド州サングハール)で敗北した。イルトゥトゥミシュは、北西国境にモンゴル帝国軍が駐留していた為、シンドへの攻撃を控えた。以降イルトゥトゥミシュは、モンゴル帝国軍の脅威に晒される事となった為、西暦1,227年迄カバチャを脅かす事は無かった。イルトゥトゥミシュは、本年の冬に掛けてラホールを占領し、自身の長男ナスィールッディーン・マフムードを統治者として任命した。
1,217 1 3 北条義時への抵抗として渡宋を思い立った源実朝に大船の建造を命じられた陳和卿が、作業を開始する。北条や大江広元は大船の建造に反対したが、源が押し切った形となった。
1,217 4 17 夕方、以下2名が、同じ牛車に乗って永福寺の桜の花見に出掛ける。
①源実朝
②西八条禅尼
其の後は二階堂行村の屋敷で和歌会を行い、22時に月が出たので帰宅した。
1,217 5 23 陳和卿が本年1月3日から着手した大船の建造が完了する。北条義時の指揮の下、其の船を由比ヶ浜から浸水させようとするが浮かばず、失敗した。
1,217 6 16 定暁が入滅する。
1,217 6 17 寿福寺の筆頭住職退耕行勇が大倉御所を訪ねる。相続争いの一方に加担している為である。何度も同じ内容で大倉御所に来るので、源実朝は機嫌を損ねた。源は、大江広元経由で「仏法僧の三宝を信じて縋る事は尊い事ではあるが、政治に盛んに口を出される。此れは僧としての礼儀に欠けるのではないか。そんな事は止めて、僧としての修行に注力する様に」と退耕行勇に伝えた。此れを聞いた退耕行勇は、がっかりしながらも恨みを抱きながら寿福寺へ戻り、門を閉じた。
1,217 6 20 源実朝が、以下人間等を連れて、退耕行勇を慰める為に寿福寺を訪れる。
①北条泰時
②北条時房
退耕行勇は恐縮し、暫く禅室で仏法の話をした。
1,217 7 25 鎌倉に帰還する様北条政子の命を受け修行先の三井寺を出発していた公暁が鎌倉に到着する。
1,217 11 公暁が、第4代鶴岡八幡宮寺別当に就任する。
1,217 11 11 公暁が、鶴岡八幡宮寺を神拝する。夜、公暁は、宿願により鶴岡八幡宮寺の裏山で1,000日間の参籠を開始した。
1,218 1 30 後藤基清が、白河(現在の京都府京都市左京区)の辺りに謀反人が居ると聞き、家来と共に向かったが、捕えようとした所、家来が大勢怪我をした。其れでも頭目の伊勢平氏の分家の掃部権助平正重の首を取った。
1,218 2 8 晴れの中、後藤基清の伝令が京都から鎌倉に到着し、平正重の武装蜂起に就いて報告する。
1,218 2 9 源実朝が、権大納言に任ぜられる。
1,218 3 2 快晴の中、北条政子が、以下の人間を連れて、熊野参詣の為鎌倉を出発する。唯、熊野参詣というのは表向きで、真の目的は上洛にあった。政子の上洛を決めたのは政所であった。
①北条時房
②源師季の娘
源師季の娘は土御門通行に嫁ぐ為に同行した。
1,218 3 8 晴れの中、大江広元が、源実朝の命令により、源の近衛大将任官の要望を伝える使者を京都へ遣わせる。
1,218 3 10 晴れの中、波多野朝定が、源実朝の必ず左近衛大将に任じて欲しい、という要望を上申する為、京都へ向けて出発する。
1,218 3 16 源仲章が、鎌倉幕府の推薦により、従四位下・文章博士と、第84代天皇順徳天皇の侍読を兼務して昇殿を許可される。
1,218 3 19 北条政子一行が上洛する。
1,218 4 2 源実朝が、左近衛大将兼左馬寮御監に任ぜられる。最初朝廷は、源頼朝の例に倣い、実朝を右近衛大将に任命しようとした為、西暦1,218年3月8日に大江広元に遣わされた使者は、実朝殿は右近衛大将なら辞退するだろう、と述べた為、波多野朝定が到着する前に任命を変更する為、朝議が行われた。使者は、第25代関白近衛家実の屋敷を何度も往復した。
1,218 4 12 晴れの中、波多野朝定が、西暦1,218年4月2日の辞令を持参し京都から帰還する。辞令の内容は以下の通り。
①侍従藤原範有
②兵庫権大輔藤原頼隆
③勘解由次官平範輔
④出羽守安達景盛
⑤伊予守一条実雅
⑥左近衛大将兼左馬寮御監源実朝
⑦左少将藤原盛兼
⑧右近衛少将一条能継
⑨右衛門権佐藤原経兼
其の辞令を、安芸守藤原範高が源実朝の前に置いた。源は、安達景盛を面前に呼び出し、範高が其の場で書写した辞令を与えた。安達は喜びと感謝を表現した。又波多野は、源に御簾の下に呼ばれ、刀を与えられた。波多野は京都に居る間、近衛家実に源の左近衛大将就任を働き掛けており、其れが報われた形となった。
1,218 5 北条政子が、後鳥羽上皇の乳母であった藤原兼子と面会する。北条は、源実朝に跡取りとなる男子が居ない為、皇族から次期征夷大将軍を斡旋する事は可能かどうか藤原に相談した。当時藤原は、西八条禅尼の甥で後鳥羽上皇の皇子の頼仁親王の養育を任されており、絶大な権力を持っていた。何度かの面会の末、藤原は、頼仁親王を推薦し、北条は同意した。
1,218 5 10 北条政子が、藤原兼子の推挙と滋野井実宣の指示により、従三位に叙せられる。此の決定に当たり、議事では揉めた。出家した者に官位を与えたのは過去に道鏡のみであったからである。唯、女性が官位を授かった例として、皇后に準じた人物である平時子という前例が有り、藤原全子も出家後皇后に準じて官位を授かった。此れ等の例に倣い、今回の決定が下された。滋野井は、藤原清範に従三位昇叙の書面を北条の宿所に届けさせた。
1,218 5 11 北条政子が、後鳥羽上皇との面会を許可される。しかし北条は「田舎育ちの老尼を上皇様の御目に掛けても仕方ありませんので」と辞退した。北条は諸寺巡拝を諦め、直様鎌倉へ向けて出発した。
1,218 5 25 北条政子一行が鎌倉に帰還する。
1,218 7 21 鶴岡八幡宮寺にて、源実朝の左近衛大将任官の拝賀が執り行われる。拝賀であるので、本来任命者である順徳天皇と後鳥羽上皇に対し感謝し、拝礼すべきであったが、実朝が鎌倉に居る為、鶴岡八幡宮寺に神拝する事で代替した。此の日の天気は晴れたり曇ったりであった。早朝、二階堂行村が、鶴岡八幡宮寺での拝賀に就いて、京都から来ている大江広元の弐男長井時広等の殿上人に言って回った。17時、儀式が開始された。先ず源が、大倉御所の南面公邸から出て来て、衣冠束帯の装いの源仲章が御簾を上げた。そして、束帯を装った陰陽少允安陪親職が、車寄せの部屋で踊り歩くお祓いの反閇をした。同じく束帯を装った陰陽権助安陪忠尚が、廊下の端の妻戸でお祓いをした。一条実雅が牛車をくっ付け、其の牛車は南門を出て西へ向かった。行列は以下であった。
①牛の居飼4名
②厩舎人4名
③朝廷の役人
❶府生狛盛光
❷将曹菅野景盛
❸将監中原成能
④殿上人
❶長井
❷一条高能の長男一条能氏
❸一条高能の参男一条頼氏
❹一条高能の息子一条能継
❺実雅
❻村上源氏源兼忠の息子源師憲
❼源頼兼の長男源頼茂
❽平頼盛の弐男平為盛
❾仲章
❿一条能保の弐男一条信能
⑤前駆
❶田村仲能
❷左近蔵人親実
❸源朝親
❹大江広元の四男毛利季光
❺中原親能の息子中原季時
❻相模権守経定
❼蔵人大夫国忠
❽足利義氏
❾藤原範俊
❿北条時房
⓫蔵人大夫有俊
⓬右馬助宗保
⓭村上頼時
⓮大江親広
⓯北条義時
⓰大内惟義
⑥番長
❶下毛野敦秀
⑦御車
❶実朝
⑧下臈随臣
❶秦頼澄
❷秦清種
❸下毛野敦家
❹播磨貞直
❺下毛野敦継
⑨雑色20名
⑩随兵
❶大須賀通信
❷長江義景の息子長江明義
❸森頼定
❹三浦義村
❺北条泰時
❻小田知重
❼安達景盛
❽土岐光行
⑪検非違使
❶大江能範
⑫調度懸
❶佐々木高重
⑬衛府
❶大泉氏平
❷関政綱
❸小野寺秀通
❹島津忠久
❺三浦胤義
❻足立元春
❼天野政景
❽伊賀光季
❾後藤基清の長男後藤基綱
➓加藤景廉の息子加藤景長
⓫伊東祐時
⓬武藤頼茂
⓭中条家長
⓮佐貫広綱
⓯大江範親
⓰春日部実平
⓱塩谷朝業
⓲津々見忠季
⓳東重胤
次に、鶴岡八幡宮寺の橋の前で牛車から牛を解放した。仲章が牛車の御簾を上げに出て、源頼茂が踏み台を差し出した。能継が沓を差し出し、実雅が束帯の裾を持った。束帯の装いの二階堂行村と狩衣に冠の装いの佐々木広綱が、楼門の東西に、向かい合って床几に腰掛けて控えていた。又、二階堂と広綱に其々従っている護衛兵が10名ずつ居た。北条政子と西八条禅尼は、牛車を赤橋の西に駐車して見物していた。二階堂行光・加藤光員・藤原範高と、朝廷から来た狩衣に下括りの装いの警備兵が牛車の長柄の左右に居た。他の御家人達は鶴岡八幡宮寺の中や路地を警備した。北条義時の妻を始めとする女官達は仮設見物席の桟敷を流鏑馬馬場の辺りに設置した。其処に見物の者が集まった。本宮と若宮に幣を納め、日暮れ時に儀式は終了した。
1,218 7 31 源実朝が、左近衛大将としての直衣始を行う為、鶴岡八幡宮寺へと向かう。しかし、行列は西暦1,218年7月21日の源の左近衛大将任官の拝賀の時と基本的には同じであったが、大須賀通信が病気を理由に辞退した為、随兵の位置が前回と異なり、左右の位置が前回は、
①左
❶大須賀
❷森頼定
②右
❶長江明義
❷三浦義村
であったのに対し、今回は、
①左
❶三浦
❷森
②右
❶長江
❷佐貫広綱
となった。此れを受けて、上席である①❶を三浦と長江が互いに譲り合い、トラブルとなった。源は間に入り、年長の長江を①❶、②❶を三浦として、事を収めた。結果、行列の出発の時間が遅れてしまった。
1,218 8 14 侍所所司として、以下の5名が選任される。
①北条泰時
②二階堂行村
③三浦義村
④大江能範
⑤伊賀光宗
北条は第5代侍所別当に就任し、二階堂・三浦を部下として御家人を扱う事となった。大江は、源実朝の外出等の大倉御所での雑事、伊賀は御家人がお供をする役等を伝え集める役割を任された。北条時房が上申して許可され、5名に伝えて回った。
1,218 9 11 長井時広が、二階堂行村経由で源実朝に京都への帰還を願い出る。源は二階堂に「蔵人となって鎌倉に下向したのだから、決して京都に帰りたいと考えるべきではない。鎌倉幕府を見下しているのか。其の考え方は筋が通らない」と激怒した。長井は、二階堂から源の言葉を聞き「決して鎌倉幕府を軽んじている訳では無い。検非違使任官を所望しているが、まだ奉公が足りず、今回は一時的に下向して来た。お許しを頂いて京都で検非違使に任じられたら鎌倉に戻って奉公する」と語り、再度二階堂に取り次ぎを依頼したが、源の怒りを間近で見ていた二階堂は拒否した。其の後長井は、涙を流しながら北条義時に取り次ぎを依頼した。
1,218 9 12 北条義時が、長井時広の帰京に関して源実朝に相談し、源が許可する。
1,218 10 29 源実朝が、第58代内大臣に就任する。
1,218 11 2 北条政子が、藤原兼子の推挙により、従二位に昇叙する。
1,218 11 30 第51代左大臣九条良輔が、天然痘により急死する。
1,218 12 21 第90代右大臣九条道家が退任し、源実朝が第91代右大臣に任ぜられる。又九条は此の日第52代左大臣に就任した。
1,218 12 24 晴れの中、公暁が、参籠した儘、幾つもの祈請を行っていた。一向に髪を剃らなかったので、周囲の者は怪しんだ。又公暁は、白河義典を、奉幣の為伊勢神宮へ派遣した。他にも幾つかの神社へ代参させていると、大倉御所で発表された。
1,219 1 8 源実朝が右大臣に就任してから初めての政所が開かれる。以下の人間が狩衣を着て参加した。
①北条義時
②初代政所執事二階堂行光
③源仲章
④源頼茂
⑤北条時房
⑥森頼定
⑦清原清定
清原が縁起の良い文章を書いたので、義時は、二階堂に其の文書を持たせて大倉御所に持って行った。源は、南の間から一段低い部屋に出て来て其の文書を見た。義時は政所へ戻り、宴会を催した。二階堂は義時に馬と刀を贈った。
1,219 1 24 大倉御所近くの大江広元の屋敷の周囲40軒が火災に遭う。
1,219 2 1 2時、相模国鎌倉大倉郷(現在の神奈川県鎌倉市二階堂・西御門・雪ノ下)付近で火事が有り、北条時房の正室の屋敷の周囲の10軒が火災に遭う。
1,219 2 9 右大臣拝賀の為京都を出発していた、坊門信清の長男で西八条禅尼の兄の坊門忠信が鎌倉に到着する。右大臣拝賀に参列する公卿の中で坊門が一番乗りであった。坊門の宿所は北条義時の屋敷に決定された。此の日は夕方から雪が降り始め、夜になると30.303cm積もった。
1,219 2 10 夜、源頼茂が拝殿でお経を読んでいる際、一瞬眠ってしまう。其の時源は夢を見た。夢の中で鳩が1羽目の前に居た。そして其の脇には子供が1人居た。少し経って子供は杖を取り出し、鳩を叩き殺し、源の狩衣の袖を打った。
1,219 2 11 朝、鶴岡八幡宮寺の庭で、鳩が死んでいるのが見つかる。源頼茂は前日の夢を含めて、源実朝近侍の陰陽師である以下2名に事の顛末を知らせ、占って貰った。
①安陪泰貞
②安陪宣賢
泰貞・宣賢は不快であるとした。頼茂は此の日、鶴岡八幡宮寺に参籠した。
1,219 2 13 右大臣拝賀が予定されていた此の日、大江広元が源実朝に対し「私は成人してより数十年、凡そ泣いた事がございません。しかし今、実朝殿のお側に近づくと、涙が止まりません。此れは只事ではございませんので、何か起きるかも知れません。西暦1,195年4月23日の源頼朝殿の東大寺大仏殿の落慶供養の時に倣い、束帯の下に腹巻を付けて行かれると良いでしょう」という主旨の進言をした。しかし源仲章が「此れ迄大臣・大将にまで昇った方で其の様にされた前例が無い」反論し、腹巻は付けない事となった。実朝は、自身の髪を梳かしていた宮内公氏に、髪を1本抜いて「形見にせよ」と渡した。実朝は、庭先に咲く梅の花を見て、以下の和歌を詠んだ。
出ていなは主なき宿と成ぬとも軒端の梅よ春を忘るな
(私が出て行ってしまえば、此の家の主は居なくなる。其れでも軒端の梅よ、春を忘れず又咲いておくれ)
18時、雪が60cm程度積もった中、実朝が右大臣拝賀の為、鶴岡八幡宮寺参詣の為、大倉御所を出発する。此の日の為に朝廷は、牛車や装束を鎌倉幕府に運び込んだ。行列は以下の通り。
①居飼4名
②舎人4名
③一員(束帯を身に纏った)
❶菅野景盛
❷狛盛光
❸中原成能
④殿上人
❶一条能氏
❷藤原頼経
❸一条実雅
❹源頼茂
❺一条信能
❻一条頼氏
❼一条能房
❽源師憲
❾伊賀隆経
➓仲章
⑤前駆笠持
⑥前駆
❶藤頼隆
❷平時盛
❸中原季時
❹源朝親
❺相模権守経定
❻橘以邦
❼藤原行光
❽蔵人大夫邦忠
❾長井時広
➓足利義氏
⓫北条時房
⓬佐々木重綱
⓭藤原範宗
⓮右馬権助宗保
⓯蔵人大夫有俊
⓰村上頼時
⓱大江親広
⓲大内惟義
⓳北条義時
⑦官人
❶秦兼峯
⑧番長
❶下毛野敦秀
⑨御車
❶実朝
⑩車副4名
⑪随兵
❶小笠原長清
❷武田信光
❸森頼定
❹二階堂基行
❺大須賀通信
❻北条泰時
❼安達景盛
❽三浦義村の長男三浦朝村
❾河越重時
➓荻野景員
⑫雑色20名
⑬検非違使
❶加藤景廉
⑭調度懸
❶佐々木義清
⑮下﨟の随身
❶秦公氏
❷秦兼村
❸播磨貞文
❹中臣近任
❺下毛野敦光
❻下毛野敦氏
⑯公卿
❶坊門忠信
❷西園寺公経の長男西園寺実氏
❸藤原国通
❹平光盛
❺難波宗長
⑰次
❶加藤光員
❷二階堂行村
❸阿曽沼広綱
❹葛西清重
❺関政綱
❻布施康定
❼小野寺秀通
❽伊賀光季
❾天野政景
➓武藤頼茂
⓫伊東祐時
⓬足立元春
⓭市河祐光
⓮宇佐美祐政
⓯後藤基綱
⓰宗孝親
⓱中条家長
⓲佐貫広綱
⓳伊達為家
⓴大江範親
Ⅰ春日部実平
Ⅱ源季氏
Ⅲ塩谷朝業
Ⅳ宮内
Ⅴ津々見忠季
Ⅵ綱嶋俊久
Ⅶ東重胤
Ⅷ土屋宗長
Ⅸ千葉常秀
Ⅹ狩野光広
境内に入ると実朝は、前駆に「中門に留まれ」と指示し、殿上人と公卿のみを引き連れ進んだ。石段から先は実朝1人で進み、神前に右大臣就任を報告し、奉幣した。此の頃にはすっかり辺りは暗くなっていた。参詣を終え、石段を降り、公卿達の前を会釈して通り過ぎようとした時、法師の装いをして隠れていた公暁が「親の敵はかく討つぞ」と叫び、実朝を斬り付け、首を落とした。公暁は、実朝の首級を持って、雪ノ下北谷の禅師備中阿闍梨の屋敷に戻った。そして同じく法師の格好をした公暁の仲間数名が、殿上人の最後尾右で松明を持っていた仲章を、義時と間違えて斬殺した。義時は実朝の指示通りに中門に留まった為、命拾いした。義時が此の時持参していた刀剣は儀仗用であり、実戦用の物は持っていなかった。殿上人・公卿は逃亡した。騒ぎを聞き付けた武田信光を始めとする御家人が中門を越えて騎馬で駆け付けた時には既に、公暁の仲間は退散した後であった。御家人達は直様雪ノ下の公暁の本坊を襲撃し、立て籠った僧達と戦闘となり此れを破った。しかし公暁を見つける事は出来なかった。公暁は、備中阿闍梨の屋敷で実朝の首級を持ちながら食事を摂り「今こそ我は東国の大将軍である。其の準備をせよ」と、自身の乳兄弟源太兵衛尉に言付をして、乳母夫であった義村の屋敷に遣わせた。義村は此の日の拝賀には参加せず、屋敷に居た。言付を聞いた義村は、源頼朝・源頼家・実朝の三代の恩義を思い返し涙した。暫くして義村は源太兵衛尉に「迎えの兵を送るので、私の屋敷に来て下さい」と回答した。其の一方義時に此の事を報告する使者を出した。義時は「公暁を誅殺せよ」と即答した。義村は三浦家一族を招集し「公暁は武勇に長けており、並大抵の者では太刀打ち出来ない」として、長尾定景を討手に指名した。長尾は固辞したが、度重なる要請により受諾した。長尾は、黒革縅の鎧を身に纏い、雑賀次郎を始めとする5名を引き連れ出陣した。一方公暁は、迎えが遅い為待ち切れず、義村の屋敷へ向けて出発した。そして両者は道中遭遇し、戦闘となった。公暁は雑賀に取り押さえられ、動きを封じられた所で、長尾に斬首された。長尾から公暁の首級を受け取った義村は、直ちに義時に献上した。安東忠家が指燭を取り、首実検が行われたが、泰時は「公暁をちゃんと見た事が無いので、本物かどうか分からない」と語った。又、実朝の首級は、義村の家臣武常晴が拾い上げ、波多野(現在の神奈川県秦野市)に持ち込まれ、葬られた。三井寺で受戒した公暁が実朝を暗殺した事で、北条氏と三井寺系には距離感が生じた。
1,219 2 14 源実朝暗殺を伝える使者が、京都へ向けて鎌倉を出発する。
1,219 2 14 朝、西八条禅尼が、寿福寺にて出家する。戒師は退耕行勇が務めた。其の後以下を始めとする100名余の御家人も続いて出家した。
①大江親広
②長井時広
③安達景盛
④二階堂行村
⑤加藤景廉
1,219 2 14 源実朝が勝長寿院に葬られる。唯、公暁が源の首を持ち去った為、宮内公氏が源から形見として受け取った髪の毛で代用した。
1,219 2 15 公暁の協力者の捜査が開始される。
1,219 2 17 以下の平家一門出身の鶴岡八幡宮寺の供僧が、公暁に協力したとして解任される。
①静慮坊良祐
②平教盛の孫円乗坊顕信
③乗蓮坊良弁
1,219 2 18 源実朝暗殺を伝える使者が京都に到着する。其の後、水無瀬殿(現在の大阪府三島郡島本町)に滞在していた後鳥羽上皇にも源実朝暗殺の件が伝えられた。
1,219 2 21 以下5名が京都に帰還する。
①坊門忠信
②西園寺実氏
③藤原国通
④平光盛
⑤難波宗長
1,219 2 22 後鳥羽上皇が、源実朝の為に祈祷を行なっていた陰陽師を全員解任する。
1,219 2 27 14時、北条政子の帳台にカラスが入って来る。16時、駿河国の伝令が鎌倉幕府に、阿野全成の四男で源頼朝の甥の阿野時元が、西暦1,219年2月17日に駿河国の深山に城郭を構え、又東国管領から宣旨を賜ったと主張している事を伝えた。時元は血統としては征夷大将軍として申し分無く、関東を支配する計画を立てていた。
1,219 3 1 二階堂行光が、宿老達が連署した書簡を携え上洛する。
1,219 3 2 伊賀光季が上洛する。其の後、第11代京都守護に就任した。
1,219 3 7 北条政子の命により、北条義時が、金窪行親を始めとする御家人を、阿野時元征伐の為派遣する。
1,219 3 10 阿野時元征伐の為派遣された金窪行親を始めとする御家人達が、駿河国阿野庄(現在の静岡県沼津市東原・今沢付近、現在の静岡県富士市吉原付近)到着し、阿野達を攻め、阿野は自害する。
1,219 3 17 大江親広が上洛する。其の後、第12代京都守護に就任し、先に京都守護となった伊賀光季と共に任務に当たった。
1,219 3 18 二階堂行光が行った「後鳥羽上皇の皇子雅成親王か、頼仁親王の何れかを鎌倉幕府に迎えたい」という主旨の奏上が、後鳥羽上皇に伝えられる。其の後朝議に入った。
1,219 3 21 後鳥羽上皇が、二階堂行光の奏上に対する回答として「雅成親王か、頼仁親王の何方かを近い将来下向させるが、其れは今直ぐにという話では無い」と回答する。
1,219 3 29 後鳥羽上皇が、直ぐに親王を下向させる意思が無い事が鎌倉幕府に伝えられる。
1,219 3 31 鎌倉幕府が、機会を見計らい再度後鳥羽上皇に親王下向を奏上する様二階堂行光に指示する為の使者を京都に遣わす。
1,219 4 北条義時が、信濃守護であった自分に無断で西面武士として後鳥羽上皇に仕えたとして、仁科盛遠の所領2ヶ所、500町余りを没収する。此の決定を仁科は後鳥羽上皇に報告した。後鳥羽上皇は、所領を仁科に返還する様院宣を下した。北条は、請文に返還すると書いておきながら、直ぐに没収した土地に地頭を置いた。後鳥羽上皇は、怪しからぬ事として立腹した。盛遠が西面武士になった切っ掛けは、盛遠が自身の息子の以下2名と共に熊野参詣をした際、後鳥羽上皇の知遇を得た事であった。
①仁科盛遠の長男仁科盛勝
②仁科盛遠の参男仁科盛義
1,219 4 16 永福寺別当であった三井寺系の慶幸が、第5世鶴岡八幡宮寺別当に補任される。
1,219 4 23 後鳥羽上皇の使者として、弔問を名目に京都を出発していた藤原忠綱が鎌倉に到着する。
1,219 4 24 藤原忠綱が北条政子の屋敷を訪れ、源実朝の死を後鳥羽上皇は嘆き悲しんでいると伝える。次に藤原は、北条義時に会い、後鳥羽上皇の妾で白拍子の亀菊の所領である以下2ヶ所の地頭職の改補と、仁科盛遠への処分の撤回を後鳥羽上皇が要求していると伝達した。
①摂津国長江荘
②摂津国倉橋荘(現在の大阪府豊中市庄本町付近)
此の2ヶ所の地頭は北条で、元々は後鳥羽上皇領であったが、亀菊に下賜されていた。
1,219 4 26 鎌倉幕府が藤原忠綱に対し、亀菊の地頭職の改補と仁科盛遠への処分の撤回の要求に関しては、追って連絡すると回答する。其の後藤原は京都へ向けて出発した。
1,219 4 27 以下の人間が北条政子の屋敷に参集し、3日前に藤原忠綱が伝えた、後鳥羽上皇の、亀菊の地頭職の改補と仁科盛遠への処分の撤回の要求に関し、御家人の所領安堵で成り立つ鎌倉幕府に於いて、此の様な要求は受け入れられないとして、拒絶する事を決定する。
①北条義時
②北条時房
③北条泰時
④大江広元
義時は「地頭職というのは、大昔には無かったもの。平家を追討した源頼朝殿が総追捕使に任命され、全国に守護・地頭を置くことが許されたのである。平家征伐の間、御家人達は、親を討たれ、或いは子を討たれ、家臣が討たれた。そういった忠義の臣下の功労に報いる為に源殿は土地を分け与えた。其の土地を過失も無いのに取り上げる訳にはいかない」とした。
1,219 4 30 北条時房が、1,000騎を引き連れ上洛する。北条は朝廷に対し、亀菊の領地の地頭職廃止の拒絶と、雅成親王か頼仁親王の何れかを征夷大将軍として迎えたい旨を改めて伝えた。後鳥羽上皇は従来の態度を変えず、亀菊の地頭職の改補を要求し、親王の鎌倉東下を拒否した。最終的に後鳥羽上皇が、「天皇と征夷大将軍が兄弟となったら国家の統一が出来なくなる。将来の日本国を二つに分裂する原因を作る事は出来ない。自身の皇子でさえなければ摂関家の子弟であろうと鎌倉殿として迎えて貰って構わない」という主旨の妥協案を出し、鎌倉幕府側は其れを受け入れ、三浦義村の提案により、九条道家の参男藤原頼経を鎌倉殿として迎える事になった。唯、鎌倉幕府側は最後迄、亀菊の地頭職廃止の拒絶の姿勢を貫き通した。
1,219 5 12 阿野時元の弟で実相寺(現在の静岡県富士市岩本)の僧の道暁が、鎌倉幕府の手により殺害される。
1,219 5 17 京都で火災が発生し、法成寺(現在の京都府京都市上京区荒神町)堂宇や公卿屋敷等が焼失する。
1,219 7 15 後鳥羽上皇が、藤原頼経を次期征夷大将軍とする事を決定する。
1,219 8 6 以下の一行が鎌倉へ向けて京都を出発する。
①北条時房
②北条泰時
③三浦義村
④藤原頼経
⑤供奉する貴族
藤原は、後鳥羽上皇から刀剣と馬を下賜された。
1,219 8 24 源頼茂が昭陽舎(現在の京都府京都市上京区浄福寺通出水下る田村備前町付近)にて、頼茂が征夷大将軍になろうとした事を名目に、西面武士に襲撃される。後鳥羽上皇は、自身が最勝四天院(現在の京都府京都市東山区大井手町付近)にて鎌倉幕府調伏の加持祈祷を行った事が頼茂に知られた為、口封じの為殺害を命じたというのが真相であった。頼茂は応戦したものの、仁寿殿(現在の京都府京都市上京区浄福寺通出水下る田村備前町付近)に籠り、火を放って自害した。頼茂の息子源頼氏は捕縛された。大内裏(現在の京都府京都市上京区西院町)・仁寿殿の観音像・応神天皇の御輿・御装束・霊物等が灰燼に帰した。
1,219 8 30 北条時房一行が鎌倉に到着する。其の後藤原頼経は、北条義時の大倉亭に入った。北条政子は、藤原が幼少である事を理由に「理非を簾中で聴断すべし」とした。
1,219 9 後鳥羽上皇が、源頼茂と通じていたとされる藤原忠綱を解官し、所領を没収する。
1,219 9 5 18時、京都を出発していた伊賀光季の使者が鎌倉に到着する。源頼茂自害の件が鎌倉幕府に伝えられた。
1,219 9 14 後鳥羽上皇が、藤原秀康に、北陸道・山陽道・諸国の国務を担当させ、大内裏の再建に当たらせる。
1,219 9 25 此の頃後鳥羽上皇が体調を崩す。1ヶ月以上病床に伏した。
1,219 10 31 鎌倉で火災が発生する。
1,219 11 後鳥羽上皇が大内裏再建の院宣を下す。其の後西暦1,220年1月頃迄、陰陽寮に吉凶を占わせた。しかし、国司・領家・地頭の造内裏役の拒否が相次いだ。
1,219 12 29 曇りであった此の日、4時に台風が発生する。10時迄吹き荒れた。此の台風により、北条時房の新築の屋敷が倒壊した。
1,220 イタリアの数学者レオナルド・フィボナッチが円周率に関し以下の式から3桁の精度を得る。
π= 864 275
=3.14181818182
1,220 バーライチ(現在のインドのウッタルプラデーシュ州)総督アフマド・ジャマジが、シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュ側からナースィル・ウッディーン・カバチャ側に寝返る。
1,220 此の頃、以下の3勢力が、インダス川流域の領有権を争っていた。
①モンゴル帝国
②第8代ホラズム・シャー朝スルターンのジャラールッディーン・メングベルディー
③ナースィル・ウッディーン・カバチャ
1,220 第34代アッバース朝カリフのナースィルが、大使ラディ・アルディン・アブー・ファディル・アル・ハサン・ビン・ムハンマド・アル・サガニーをデリーに派遣する。
1,220 1 4 京都で火災が発生し、以下の寺の堂宇等が焼失する。
①延勝寺(現在の京都府京都市左京区岡崎成勝寺町)
②成勝寺(現在の京都府京都市左京区岡崎成勝寺町)
③最勝寺(現在の京都府京都市左京区岡崎最勝寺町)
1,220 1 12 北条政子が病床に伏す。
1,220 1 19 北条政子の屋敷が焼失する。
1,220 2 21 慶幸が入滅する。
1,220 2 26 定豪が、第6世鶴岡八幡宮寺別当に補任される。東寺系が鶴岡八幡宮寺別当となるのは初であった。
1,220 2 28 藤原公頼を行事参議として「造内裏行事所」が設置される。
1,220 3 19 藤原定家が内裏歌会に提出した以下の官途に対する不満の歌が、後鳥羽上皇の逆鱗に触れ、勅勘を受け、藤原は宮中への出仕と公の詠出を禁止される。
道のべの野原の柳したもえぬ あはれ歎の煙くらべに
(野原の柳が春となり下萌えしたが、私の暗くくすぶる嘆きの煙と競い合うようである)
1,220 3 22 鎌倉で火災が発生する。
1,220 4 14 淡路守藤原親俊が神祇伯業資王に「内裏の造営に関する命令を再度受け、昨年の損失に就いては淡路国全体に共通する問題ですが、上棟の工期が限られており、庄や公役では間に合わない状況が報告されています。今月の進捗が遅れている為、西暦1,220年5月3日迄に国司配符額の半分の所済が無ければ、官使を派遣して資材を整えるべきとの命令が有り、其れ以上の私的な意見は無いと述べています。田に関する問題に就いても、造内裏用途賦課田数は、造伊勢神宮役夫工米で解決するべきという院宣が出され、証文の提出に就いても問い合わせていますが、まだ不明な点が多い為、状況を改めて報告します」という主旨の書簡を送る。
1,220 4 26 後鳥羽上皇が、大内裏造営の木作始を行う。後鳥羽上皇は、大内裏の焼失は、鎌倉幕府の内紛が原因であり、鎌倉幕府が地頭を指揮して積極的に大内裏再建に協力すべきであると考えていたが、地頭の抵抗を鎌倉幕府に訴えても、無視されていた。
1,220 4 30 清水寺(現在の京都府京都市東山区清水)の本堂・釈迦堂が焼失する。
1,220 5 16 八坂神社(現在の京都府京都市東山区祇園町北側)が焼失する。
1,220 5 17 源頼家の四男禅暁が、京都の東山で殺害される。
1,220 5 24 典薬寮摂津国地黄御薗供御人等が、内裏用途米・人夫等の造内裏課役の免除を鎌倉幕府に申請する。結果、以下4ヶ所の神領及び代々御起請地が院宣により基本免除地とされた。
①伊勢神宮
②石清水八幡宮
③高鴨神社(現在の奈良県御所市鴨神)
④熊野本宮大社(現在の和歌山県田辺市本宮町本宮)
1,220 5 30 大内裏の陽明門が焼失する。
1,220 6 宮内大輔が「内裏を造営する為の用途として、田尻庄(現在の大阪府能勢町)の土地に関する証文1枚を謹んで受け取りました。速やかに其の旨を下知して下さい。しかし、此の土地は痩せた田が多い為、実際に利用出来る土地が減っており、上手く事が進まないかも知れません」という書簡を書く。
1,220 6 6 神祇権大副中臣兼衡が「内裏の大造営に関する課役に就いて、西暦1,221年10月頃に処理を行うべきとの命令を承りました。其の間、昨日信濃国から使者が来て、今直ぐにでも役務を遂行すべきであり、又官使を迎え入れるべきとの指示が有りました。しかし、信濃国の浅間神社に関する知行の件に就いて不審な点が有ります」という主旨の書簡を記載する。
1,220 6 23 後鳥羽上皇の第参皇女礼子内親王が出家する。
1,220 8 後鳥羽上皇が、此の頃から北条義時征伐に傾き始める。
1,220 8 7 右京亮が、造内裏行事所の藤原頼資に「鮎原(現在の兵庫県洲本市五色町)の西暦1,157年の免除証文では免除が受けられない事を理解しました」という主旨の書簡を送る。
1,220 8 29 鎌倉に暴風雨が直撃し、甚大な被害が出る。
1,220 11 後鳥羽上皇が、城南寺(現在の京都府京都市伏見区中島鳥羽離宮町)に滞在する。
1,220 11 5 兼時が「下総国三崎庄(現在の千葉県銚子市船木町・小船木町・三崎町・本城町、千葉県匝瑳市高・蕪里・高野・上谷中・時曽根付近)に於ける内裏造営の用途に就いて、地頭として請け負っている所、証文が到来し、其の内容が通達されました。しかし、其の後何の音沙汰も無く、西暦1,219年8月頃に関東から命令が出されましたが、其の内容がきちんと伝わっていない状況です。現在の進捗が遅れており、不便な状況が続いている為、庁から御下文が出され、国司が直ちに地頭に処置を行う様指示され、其の旨を賜りました」という主旨の書簡を記載する。
1,220 11 6 伊勢国守が「御領地の中で150tの米の使用が目的とされているが、今日迄其れをきちんと果たす事が出来ていない為、役人達はどの様に対処すべきか困っている」として、藤原頼資に伊勢国の造内裏用途調達の窮状を訴える。そして、造内裏用途の免除対象地として以下が挙げられた。
①白河上皇・鳥羽上皇・後白河上皇が承認した荘園の三代御起請の地
②伊勢神宮
③石清水八幡宮
④高鴨神社
⑤熊野本宮大社
⑥安楽寺天満宮(現在の京都府京都市上京区北町)
⑦法成寺
⑧東北院(現在の京都府京都市左京区浄土寺真如町)
⑨円勝寺(現在の京都府京都市左京区岡崎成勝寺町)
1,220 11 11 摂津国生島庄(現在の兵庫県尼崎市上ノ島町・栗山町・大西町・三反田町)の大内裏役の勤仕を約束した仲雅が「生島庄で行われている内裏の建設工事に関する命令を受け取りましたが、其の役割を担うべき地域では争いが有り、まだ弁済がされていないのではないでしょうか。但し、西暦1,207〜1,211年の期間に於いては、役夫や労働者の為に米が53町分の田から割り当てられています。此の件に就いては国司に粗方報告しました。薬務を果たす者の怠慢が無い様に然るべきご指示を頂けます様お願い申し上げます」という主旨の請文を記載する。
1,220 11 14 大内裏の殿舎・門・廊等の立柱・上棟の儀式が執り行われる。
1,220 12 27 藤原頼経の着袴の儀が、二階堂大路仮御所にて執り行われる。以下の人間等が参列した。
①北条泰時
②足利義氏
③三浦義村
④小山朝政
1,220 12 28 鎌倉で地震が発生し、永福寺の僧房が焼失する。
1,221 ジャラールッディーン・アリーが死去する。
1,221 1 造内裏行事所が解散する。
1,221 1 3 大内裏の檜皮葺始が執り行われる。
1,221 1 6 後鳥羽上皇の側近で第7代法勝寺執行尊長が、出羽国羽黒山(現在の山形県鶴岡市羽黒町手向羽黒山)総長吏に任命される。
1,221 2 20 後鳥羽上皇が、城南寺で笠懸を行わせる。
1,221 2 27 後鳥羽上皇が29回目の熊野参詣を行う。
1,221 5 13 後鳥羽上皇が、順徳天皇を彗星の出現を理由に譲位させ、順徳天皇の第参皇子の仲恭天皇が、第85代天皇に践祚する。
1,221 5 14 後鳥羽上皇が、城南宮(現在の京都府京都市伏見区中島鳥羽離宮町)の仏事守護を口実に、諸国の兵を招集する。
1,221 5 21 後鳥羽上皇が、藤原秀康を通じて、流鏑馬揃えの名目で、以下の人間を含む北面武士・西面武士・近国の武士・大番役の京都の武士1,700騎を高陽院(現在の京都府京都市中京区小川通丸太町)に招集する。
①小野盛綱
②佐々木広綱
③三浦胤義
1,221 6 5 後鳥羽上皇が、鎌倉幕府と親しくしていた以下2名を幽閉する。
①西園寺公経
②西園寺実氏
しかし、公経は幽閉される直前に、伊賀光季に後鳥羽上皇の討幕計画を伝え、更に三善長衡が其れを伝え聞いた。光季と大江親広も、藤原秀康を通じて招聘されたが、光季は応じなかった。夕方、後鳥羽上皇は、以下の人間等に光季征伐を命じた。
①藤原
②佐々木広綱
③三浦胤義
④大江
⑤佐々木高重
光季は、後鳥羽上皇の命を受けた者が攻めて来るとの情報を得た。光季は、家臣から京都を脱出する様進言されたが、此れを拒み、自身の長男伊賀光綱を呼び、夜の内に逃げる様申し付けた。しかし光綱は「弓矢取る身である武士が、親が討たれようとしているのに逃げたとあれば、幾ら幼いからと言っても誰も許してはくれないでしょう。親を見殺しにした臆病者と指を差されるのは恥ずべき事なので、是非お供したいと思います。鎌倉を発つ時、母上は『今度はいつお帰りですか』と尋ねられました。私は『父上のお供をして直ぐに帰って来ます』と答えました。此れが最後のお別れの言葉となりました」と言って涙した。光季は、光綱の覚悟を聞いて、共に討死する事を決め、家臣の治部次郎に命じ、光綱に武具を着けさせた。
1,221 6 6 明け方、伊賀光季の京極高辻(現在の京都府京都市下京区茶磨屋町付近)の宿所を、以下の人間等が率いる800騎余が取り囲む。
①藤原秀康
②三浦胤義
③大江親広
④佐々木広綱
⑤佐々木高重
⑥五条有範
⑦肥後前司有俊
⑧糟屋有季の参男糟屋有長
⑨間野時連
此れを見た郎党贄田三郎が、光季に「此処は全ての門を開いて、敵を有りっ丈入れた中へ殴り込み、思い切り暴れ回って最期を飾りましょう」と進言した。此れに対して三郎の弟贄田四郎は「小門のみ開ければ、其処から敵は入って来ます。雑魚は弓で狙い撃ちするとして、名の有る者だけを入れて、一騎討ちで雌雄を決するべきではないでしょうか」と反論した。光季は四郎の案を採用し、小門を開けた。先ず、黒革縅の鎧を纏い葦毛の馬に乗った、三浦胤義の家人志賀五郎が入って来た。三郎が此れを射た所、矢は馬腹に当たって馬が暴れ出し、志賀は逃げ出した。次に入って来たのは岩崎右馬允で、此れは贄田右近の矢が馬の股に命中した為退却した。3番手は岩崎弥太郎であったが、籠手を射られた為退却した。4番手は高井時義で、館の奥深くまで進入する事に成功したが、左股と右籠手を射られて退却した。光季は敵方の「正門を突破して雪崩れ込め」という言葉を聞き、力押しに破られるくらいなら、いっそ此方から開けてやれ、と治部次郎に命じた。正門を開くと、敵方が一斉に雪崩れ込んで来た。間野は光季に勝負を挑むが、館の奥から出て来た光季が矢を射掛けると、恐れをなして、馬首を返し退却した。次に三浦が進み出て「やっと穴から出て来たな、臆病者め。其方の悪運も此処迄ぞ。観念せえ」という主旨の発言をした。此れに対し光季は「何を抜かすか此の戯け。後鳥羽上皇陛下を唆して天下を奪わんとする其の野心はお見通しじゃ。者共、此の三浦さえ討てば後は雑魚ばかり。一斉に射止めよ」と発し、郎党達は三浦を目掛けて矢を射掛け、三浦の側に居た兵が次々と斃されていった。一方伊賀光綱は、元服の際、自身に烏帽子を被せてくれた高重の姿を見つけた。光綱は「高重殿なら相手に不足はありません。兼ねて烏帽子親子の契りを交わし、貴方から頂戴した矢を此の通り大切に持っております。しかし此度は、父上の最後にお供致します故、此の矢はお返しせねばなりませぬ」と、重籐弓に矢を番え、矢を射掛けた。其の矢は高重の鎧の弦走に突き刺さった。高重は「光綱よ。誠に立派になったな。行く行くは其方を婿としたかったが、今となっては其れも叶わぬ。嗚呼、此の止まらぬ涙は喜びか、悲しみか」と感激し、もう戦いにならないと引き上げて行った。周囲の者は貰い泣きした。伊賀側は奮戦するも、館は火を掛けられ、生き残った郎党は三郎と四郎だけになった。三郎は「最早此れ迄。最後のご奉公として死出の旅路を先導仕る」と、血で錆びた太刀の切先を口に含んで鍔際まで一気に押し込み自害した。昼過ぎ、四郎は「後は矢の続く限り某がお守り申す。早うご最期を」と、矢を放って防戦した。光季は、鎌倉に使者を送る手配をした上で、光綱を呼び「四郎が時間稼ぎしてくれている間に自刃致そう」と言った。光綱は「自刃とはどの様に致すものでしょうか」と尋ねた。光季は「難しい事では無い。腹を切れば良いのだ」と答えた。光綱は、腹巻の紐を切って脱ぎ置き、直垂を緩め、赤木柄の脇差を握ったが、中々覚悟が出来なかった。光季は「無理も無い。では火の中へ飛び込むと良い。腹を切るよりは怖く無かろう」と言った。光綱は「はい」と答えたものの、飛び込む事は出来なかった。光季は「よし、分かった。光綱よ、此方へ戻っておいで」と、光綱を側に座らせた。光季は「親子は前世で契り合った縁と言うが、其方程絆の深い子は又と居るまい。出来る事なら生き延びて幸せになって欲しいと願う所だが、父の供をしたいという思いを尊重したい。此れは生きてするどんな親孝行にも勝るもの。親子一緒に死出の旅路を行けるなら、此れ以上の喜びは無い」と言って、光綱と抱擁をした上で、斬首した。そして光綱の遺体を火中に投げ入れた。光季は東を向いて「南無帰命頂礼鎌倉八幡大菩薩若宮三所。此の身を擲って北条義時殿が武運長久を祈願し奉る」と、3度拝礼した。続いて西を向いて「南無西方極楽教主阿弥陀如来。生きとし生ける全ての魂を救われる貴方の願いが確かであるなら、どうか我らを迎え給え」と、3度拝礼した。其の後念仏を30回繰り返し「死出の旅路の殿は某こそが仕る。今は此れ迄」と割腹して光綱の遺体に覆い被さった。
1,221 6 6 後鳥羽上皇が、藤原秀康を呼び、以下の人間等に味方に付く様説得する院宣を送る様命じる。
①武田信光
②小笠原長清
③小山朝政
④宇都宮頼綱
⑤長沼宗政
⑥足利義氏
⑦北条時房
⑧三浦義村
院宣の執筆は葉室光親が行った。葉室は以下の主旨の内容を執筆した。
「源実朝亡き後、家人達は只後鳥羽上皇の判断を仰ごうと申していた。北条義時は、征夷大将軍に誰が相応しいか考えた。そして、鎌倉には後任に相応しい者は居ないと言って、藤原頼経を次代征夷大将軍として鎌倉に送らせた。しかし藤原がまだ幼く、何も分からないのを良い事に、北条は野心を持ち、権威を持とうとした。此れを如何して許せようか。よって今後は北条の執権職を停止し、後鳥羽上皇の沙汰を待つべし。もし此の決定を受け入れず、尚反逆を企てるならば、早く其の命を落とすが良い。此の命に従うのならば、褒美を取らそう。此の命を知らしめよ」
後鳥羽上皇は、北条氏と三浦氏の実権争いを予てから把握しており、三浦胤義から「後鳥羽上皇が北条義時に変わって義村殿に関東を治めろと言えば、北条氏を倒してくれるでしょう」という主旨の発言を聞いて、自らが院宣を下せば、御家人達を味方に付ける事が出来ると考えていた。
1,221 6 6 20時、伊賀光季の使者が鎌倉へ向けて京都を出発する。
1,221 6 6 20時、三浦胤義の使者が、胤義が三浦義村に向けて書いた決起を促す主旨の書簡を携え、鎌倉へ向けて京都を出発する。
1,221 6 7 4時、藤原秀康の従者押松丸が、後鳥羽上皇の以下7名に宛てた院宣7通と伊賀光季の死を伝える密書を携え、鎌倉へ向けて京都を出発する。
①足利義氏
②武田信光
③小笠原長清
④三浦義村
⑤横田頼業
⑥八田知尚
⑦笠井氏
1,221 6 7 4時、西園寺公経の家司三善長衡の使者が、鎌倉へ向けて京都を出発する。
1,221 6 7 一条頼氏が京都を出発する。
1,221 6 10 14時、三善長衡の使者が鎌倉に到着する。
1,221 6 10 17時、押松丸が鎌倉に到着する。しかし其の後、三浦義村によって探し出されて、葛西谷(現在の神奈川県鎌倉市小町)で捕えられ、院宣や上申文書を取り上げられた。
1,221 6 10 日没頃、三浦胤義の使者が鎌倉に到着する。其の後三浦義村に胤義からの書簡を手渡したが、義村は其の書簡に返事をせず、北条義時に其の書簡を見せ、通報した。
1,221 6 10 安達景盛が、二階堂大路仮御所の庭中に集まった御家人達に、北条政子の以下の言葉を代読する。
「皆心を1つにして聞きなさい。此れは私の最期の言葉です。源頼朝殿が朝敵を滅ぼし、関東に武士の政権を創って以降、貴方方の地位は上がり、土地も随分増えました。平家に仕えていた時には裸足で京都まで行っていた貴方方も、京都へ行って無理に働かされる事も無くなり、幸福な生活を送れる様になりました。其れも此れも全ては源殿のお陰です。其の恩は山よりも高く、海よりも深い。其の恩に報いる志が浅くありませんか。其処に今、不忠の悪臣等の讒言により、道義に反した綸旨が出されました。名を惜しむ者は、藤原秀康・三浦胤義等を討ち取り、3代に渡る将軍の遺跡を守るべきです。もし此の中に朝廷側に付こうという者が居るなら、先ず私を殺し、鎌倉中を焼き尽くしてから京都へ行きなさい」
此れを聞いた御家人達は咽び泣いた。そして一枚岩となり、朝廷と対峙する事となった。
1,221 6 10 以下の人間等が軍議を行う。
①北条義時
②北条泰時
③北条時房
④大江広元
⑤三浦義村
⑥安達景盛
当初は箱根山・足柄峠に関を築いての迎撃が有力であったが、大江は、関を築いて守備するには時間を要し、逡巡して鎌倉幕府軍の団結が崩れる恐れが有るとの理由から、即時出撃を推した。義時から問われた北条政子は大江の案に賛成し「上洛しなければ朝廷軍を破る事は出来ない。安保実光を始めとする武蔵国の軍勢を待って速やかに上洛せよ」と命じた。最終的に義時は、武蔵国の軍勢が到着次第出撃する様命じた。
1,221 6 11 0時、伊賀光季の使者が鎌倉に到着する。
1,221 6 11 鎌倉幕府が定豪に対し、世上無為の祈祷を始める様依頼する。
1,221 6 12 一条頼氏が鎌倉に到着する。そして真っ先に北条政子の屋敷へ向かい、政子に「一条信能等、一族の多くが後鳥羽上皇に付きました。しかし私は、旧好を忘れず、1人斯うして馳せ参じたのです」と言った。政子は此の発言に感激した。更に一条は、政子に以下を報告した。
①西暦1,221年5月31日以前から京都では不穏な空気が流れ、人々は其れに恐れ慄いていた。
②西暦1,221年6月5日、後鳥羽上皇が、鎌倉幕府と親しくしていた西園寺公経・西園寺実氏を幽閉した。
③西暦1,221年6月6日、後鳥羽上皇が1,700騎を招集し、高陽院の門を警備させた。
④西暦1,221年6月6日、伊賀光季の屋敷が後鳥羽上皇軍により襲撃され、伊賀は自害し、屋敷には火が放たれ、南風が激しく吹いて、火が燃え広がった。
此れにより、鎌倉幕府は即時出撃に対する慎重論が盛り返した。しかし大江広元は「武蔵国の軍勢を待つのは上策では無い。北条泰時が1人でも出発すれば、他の者が付いて来るでしょう」と述べた。政子は、病床に伏していた三善康信に意見を求めたが、三善も大江と同意見であった。此れにより、泰時が先陣を切る事が決定された。
1,221 6 12 北条泰時が、先発隊として以下の18騎で京都へ向けて鎌倉を出発する。
①泰時
②北条泰時の長男北条時氏
③北条義時の四男で母が側室の伊佐朝政の娘である北条有時
④北条義時の六男北条実泰
⑤尾藤景綱
⑥関実忠
⑦関の弟平盛綱
⑧南条時員
⑨安東光成
⑩伊具盛重
⑪武村次郎
⑫佐久間家盛
⑬葛山広重
⑭勅使河原則直
⑮横溝資重
⑯安藤左近将監
⑰塩河中務丞
⑱内島忠俊
しかし、仲恭天皇が自ら出陣して来た時は如何すれば良いか北条義時に尋ねる為引き返した。義時は「善くぞ尋ねた。其の時は弓を折って降参しろ。そうで無ければ1,000人が1人になっても戦え」と答えた。
1,221 6 16 以下の三手に分かれた鎌倉幕府軍が、其々京都へ向けて鎌倉を出発する。大将軍は以下の人間であった。
①東海道軍
❶北条泰時(総大将)
❷北条時房
❸北条時氏
❹足利義氏
❺三浦義村
❻千葉胤綱
②東山道軍
❶武田信光
❷小笠原長清
❸小山朝政の長男小山朝長
❹結城朝光
③北陸道軍
❶北条朝時
❷結城朝広
❸加地信実
1,221 6 17 関東で初めて、百座の仁王講が執り行われる。導師は重慶、読師は隆修が務めた。又、以下の寺院等の僧100名が参列した。
①鶴岡八幡宮寺
②勝長寿院
③永福寺
④大慈寺
1,221 6 20 加地信実率いる北陸道軍が、菅谷寺(現在の新潟県新発田市)を拠点に挙兵し、越後国加地荘願文山城(現在の新潟県新発田市金山)に60名余で籠城していた藤原信成の家人酒匂家賢率いる朝廷軍を破る。
1,221 6 21 明け方、親不知(現在の新潟県糸魚川市)から越後国蒲原(現在の新潟県新潟市の大部分、三条市・新発田市・加茂市・五泉市・阿賀野市・胎内市・北蒲原郡聖籠町・西蒲原郡弥彦村・南蒲原郡田上町・東蒲原郡阿賀町の全域、燕市の大部分、長岡市・見附市の一部)へと進軍していた西面武士宮崎定範と、信濃国市河刑部が交戦する。午後に宮崎達は、宮崎城(現在の富山県下新川郡朝日町)から撤退するが、仁科盛遠率いる300名の軍勢は抵抗した。
1,221 6 23 鎌倉幕府軍が遠江国府(現在の静岡県磐田市見付付近)に到着したという知らせが京都に届く。
1,221 6 24 朝、朝廷が公卿僉議を開き、以下の場所に12,000騎の派遣を決定する。直様出発した。大将軍は以下の通り。
①大井戸渡(現在の岐阜県可児市土田):大内惟信(2,000騎)
②鵜沼渡(現在の岐阜県各務原市鵜沼南町):斎藤親頼・神土蔵人(1,000騎)
③板橋(現在の岐阜県各務原市鵜沼朝日町付近):朝日頼清(1,000騎)
④池瀬渡(現在の岐阜県各務原市前渡東町付近):土岐光行・土岐光行の息子土岐国衡(1,000騎)
⑤摩免戸(現在の岐阜県各務原市前渡西町):藤原秀康・三浦胤義・佐々木広綱・佐々木髙重・小野盛綱・惟宗孝親(10,000騎)
⑥稗島(現在の岐阜県各務原市下中屋町付近):小野成時・矢野治郎右衛門(500騎)
⑦印食渡(現在の岐阜県羽島郡岐南町下印食):山田左衛門尉(500騎)
⑧墨俣(現在の岐阜県大垣市):藤原秀澄・山田重忠(1,000騎)
⑨市脇(現在の岐阜県羽島市下中町市之枝):加藤光定(500騎)
更に北陸道へも7,000騎を差し向けた。重忠は、少ない兵力を分散させるのは愚策であるとして、兵を1つに纏め、此方から木曽川を渡って尾張国へ攻め込み、遠江国で北条時房・北条泰時を討ち取って、鎌倉に進軍し北条義時を討って、更に北上して北条朝時を討つ、という作戦を進言した。しかし秀澄は、東山道軍・北陸道軍に挟み撃ちにされる恐れがあると反対し、却下した。
1,221 6 26 8時、東海道軍が100,000騎余で尾張国に入る。そして、真清田神社(現在の愛知県一宮市)で軍議を行なった。結果、以下の五手に分かれて進軍する事が決定された。
①鵜沼渡:毛利季光
②板橋(現在の岐阜県各務原市):狩野宗茂
③気瀬(現在の岐阜県各務原市):足利義氏
④摩免戸:北条泰時・三浦義村
⑤墨俣:北条時房・安達景盛
1,221 6 26 夜、以下3名率いる東山道軍50,000騎が大井戸渡から木曽川を渡る。
①小笠原長清
②武田信光
③小山朝長
東山道軍が大井戸渡に布陣した時、武田は小笠原に「鎌倉幕府軍が勝てば鎌倉幕府に付き、朝廷軍が勝てば朝廷に付こう、此れは武士の習いだ」と話していた。対する朝廷軍は、以下4名等が迎撃した。
①大内惟信
②大内惟信の息子大内惟忠
③高桑大将軍
④高桑大将軍の弐男高桑次郎
しかし多勢に無勢で、惟忠が討たれると惟信は逃亡し、五条有永・糟屋久季は負傷した。阿井渡(現在の岐阜県美濃加茂市川合町)を守備していた蜂屋入道は負傷して自害、入道の息子鉢屋三郎も討たれた。藤原秀康・三浦胤義・佐々木広綱を始めとする朝廷軍は、防戦するも次第に後退し京都に逃走した。武田は、後を追う様に矛先を木曽川の下流へと向け、東山道軍は鵜沼渡へと進軍した。鵜沼渡を守備していた神地頼経は投降した。神地は家来から投降を進言されていた。朝廷軍が次々と退却する中、渡辺党の渡辺翔は「我は翔」と叫びながら、鎌倉幕府軍の兵を次々と討ち取った。しかし、最終的には撤退を余儀無くされた。
1,221 6 27 明け方、以下2名率いる軍が、木曽川の摩免戸を渡る。
①北条有時
②北条泰時の長男北条時氏
主に以下の人間が従軍していた。
①大江親広の長男大江佐房
②阿曽沼親綱
③橘公業
④波多野経朝
⑤三善康知
⑥安保実光
しかし、藤原秀康を大将軍とする朝廷軍は応戦せず、次々に退却した。しかし以下2名は残り、鎌倉幕府軍を足止めする為に応戦した。
①山田重忠
②鏡久綱
鏡は自身の名を書いた旗を立てて戦い善戦したものの、敗北を悟ると「臆病者の藤原に付き従った為、思う様に戦えなかった。後悔している」と言い捨て、佐房の軍勢に敗れた後に自刃した。佐房は旗を見て悲涙を拭った。山田は、300名の兵を率いて株河(現在の岐阜県養老郡養老町大野付近)に布陣し、児玉党3,000騎を迎撃し、瞬く間に100騎を討ち取った。しかし兵力差は大きく、最終的に山田も退却した。時氏が席田(現在の岐阜県本巣市上保・郡府・北野・春近・石原・三橋・仏生寺付近)に到着すると、盾を背にした朝廷軍が数回矢を射た。時氏は三善・中山重継等に命じて矢を射返させた。鎌倉幕府軍に従軍し、先陣を進んでいた波多野忠綱の息子波多野義重は、矢が右目に当たり、意識が朦朧としたものの、矢を射返した。朝廷軍は逃亡し、以下の要害は鎌倉幕府軍の手に落ちた。
①株河(現在の岐阜県養老郡養老町大野付近)
②墨俣
③市脇
そして、北条泰時・三浦義村率いる軍が摩免戸に到着したが、朝廷軍は応戦せず、三浦胤義は陣を放棄して京都へ逃走し、義村と胤義の兄弟対決は実現しなかった。
1,221 6 28 東海道軍が以下2ヶ所に布陣し軍議を行う。
①野上宿(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)
②垂井宿(現在の岐阜県不破郡)
三浦義村は「勝ちに乗じ、北陸道軍が上洛する前に、我が軍を京都の東へ進軍させるのは如何でしょう」という主旨の発言をし、以下の大将軍の分担を提案した。
①勢多(現在の滋賀県大津市瀬田):北条時房
②手上(現在の滋賀県大津市黒津付近):安達景盛・武田信光
③宇治川:北条泰時
④芋洗(現在の京都府久世郡久御山町東一口付近):毛利季光
⑤淀の渡し(現在の京都府京都市伏見区納所町):結城朝光・義村
泰時は了承し、他の者も異存は出なかった。義村の弐男三浦泰村は本来は義村に付くべきであるが、元服する際の烏帽子親で、且つ泰時から一字取って自身の名が命名された事から、泰時に付く事を所望し、泰時の軍に加わった。
1,221 6 29 4時、負傷した以下2名が後鳥羽上皇に、2日前に摩免戸にて朝廷軍が敗北した事を報告する。
①藤原秀康
②五条有長
仙洞御所は騒動となり、以下の人間が東西に走り乱れた。
①女房
②上下の北面武士
③医師
④陰陽師
坊門忠信・源定道・源有雅・藤原範茂等の公卿達は、以下の防護へ向かった。
①勢多
②宇治川
③田原(現在の京都府綴喜郡宇治田原町)
1,221 6 29 北陸道軍が越後国の以下3名等を率いて進軍していた所、越中国般若野庄(現在の富山県砺波市)にて宣旨を受け取る。
①小国頼綱
②金津資義
③小野時信
加地信実の弐男加地実秀が立った儘「北条義時を誅殺せよ」と読み上げた。北陸道軍の中には信実も居た。
1,221 6 29 後鳥羽上皇が以下の人間と共に比叡山に御幸する。
①土御門上皇
②順徳上皇
③雅成親王
④頼仁親王
⑤女院
⑥女房
女院・女房は牛車に乗り、他の者は騎馬であった。後鳥羽上皇は直衣・腹巻・日照り笠、土御門上皇・順徳上皇は布衣、雅成親王・頼仁親王は直垂を其々着用した。道中、尊長の押小路河原(現在の京都府京都市中京区の鴨川沿い)の屋敷にて防戦策を評議した。夕方、以下の人間が加わり、一行は比叡山へ向かった。
①仲恭天皇
②尊長
③久我通光
④二条定輔
⑤藤原親兼
⑥藤原信成
仲恭天皇は女房輿で向かい、尊長・久我・二条・親兼・信成は甲冑を身に纏った。そして、後鳥羽上皇は延暦寺の僧兵に援軍を要請した。其の後以下2名は梶井御所(現在の京都府京都市左京区の一乗寺・修学院地域)に宿泊した。
①後鳥羽上皇
②仲恭天皇
又以下2名は、日吉大社(現在の滋賀県大津市坂本)の東本宮境内(十禅師)に宿泊した。
①雅成親王
②頼仁親王
1,221 6 29 第22代上賀茂神社神主賀茂能久が、院宣と称し、社司・氏人に対して「朝廷軍に与しない者は、社司は解官、氏人に処す」と恫喝する。賀茂の旗には「賀茂太明神・片岡・貴布祢」と書かれていた。又下社では、祢宜祐綱が鎧に身に纏い、以下の3社を巡回し、軍旗を整えて出陣した。
①賀茂御祖神社(現在の京都府京都市左京区下鴨泉川町)
②賀茂御祖神社の摂社河合神社(現在の京都府京都市左京区下鴨泉川町)
③出雲井於神社(現在の京都府京都市左京区下鴨泉川町)
1,221 6 29 20時、北条義時の屋敷の釜殿に雷が落ち、人夫1名が死亡する。北条は、此れは自分に対する天罰ではないかと恐れ慄いた。しかし大江広元は、西暦1,189年の源頼朝による奥州征伐の際、陣中に雷が落ちたという先例を挙げ、北条を励ました。又、以下の陰陽師達に占わせたが、最吉であるとの結果が出て安堵した。
①安倍親職
②安倍泰貞
③安倍宣賢
1,221 6 30 延暦寺の僧兵が、東国の武士には太刀打ち出来ないとして、後鳥羽上皇の要請を拒否する。
1,221 6 30 以下の人間等が、加賀国の林次郎・石黒英光等を率いて、志雄山(現在の石川県羽咋郡宝達志水町・かほく市・河北郡津幡町、富山県氷見市・高岡市の宝達山)にて、北陸道軍と戦闘となる。
①宮崎定範
②糟屋有長
③糟屋有久
④仁科盛朝
⑤仁科盛遠
⑥友野遠久
結果、宮崎・有長・有久は討ち取られ、朝廷軍は壊滅し、林・石黒は降伏した。盛遠は落ち延びるも、勢多にて死去した。結城朝広は此の戦闘で武功を挙げた。
1,221 7 3 東海道軍が酒宴を行なっている最中、幸島行時が、北条泰時の為なら死をも厭わないとし、東海道軍に加わる。北条は幸島を上座に招いて盃を与えた。周囲の者は此れに感銘を受け、勇気を奮い起こした。
1,221 7 3 東海道軍が野路宿(現在の滋賀県草津市)に入る。
1,221 7 4 土砂降りの雨の中、北条時房率いる軍が瀬多に進軍する。既に、瀬多川に架かっていた大橋の中央付近の3.6m程度が引き剥がされ、其処に盾が並べられ、鏃を構え、弓を引ける体制を整えた、以下2名や山僧で構成された3,000騎余の朝廷軍が待ち構えていた。
①山田重忠
②亀屋盛成
しかし雨により、瀬多川は濁流と化しており、橋を渡る他無かった。朝廷軍の矢により、多くの鎌倉幕府兵が仕留められた。橋桁を登ろうとする者も居たが、橋桁の上にも大太刀・薙刀を持った山僧達が待ち構えており、直ぐに斬り伏せられていった。其れでも何とか熊谷直国が橋を渡ったが、山田の郎党荒左近に討ち取られた。一方以下2名は瀬多川に飛び込んで渡河を試みたが、鎧を脱ぎ捨てて逃げざるを得ない程の激流であった。
①吉見頼綱
②頼綱の息子吉見為頼
此の様子を見ていた横田頼業は、橋から約110m川上に布陣し、遠矢を射掛けた。驚いた山田は退却した。更に三保ヶ崎(現在の滋賀県大津市浜大津)から船で駆け付けた美濃堅者観厳にも矢を射掛け、法師2名を仕留め、驚いた観厳は退却した。
1,221 7 4 土砂降りの雨の中、北条泰時率いる軍が、宇治川に進軍する。朝廷軍は矢の雨を降らせ、迎撃した。北条は一旦兵を引き、18時、栗隈(現在の京都府城陽市周辺)に布陣した。北条は翌日出撃するつもりであった。しかし北条は、以下3名等が、北条の許可無く宇治橋(現在の京都府宇治市宇治)周辺で20,000名余の朝廷軍を襲撃し、矢で反撃され、多くの負傷者を出し退却して平等院(現在の京都府宇治市宇治蓮華)に立て籠っているという報告を受けた。
①足利義氏
②三浦義村
③三浦泰村
北条は直様宇治橋に駆け付けた。宇治橋は、奈良法師土護覚心・円音が、橋桁の上で大薙刀を振るい、鎌倉幕府軍を塞いでいる所であった。北条は即座に戦闘を止め平等院に退却する様命じた。
1,221 7 5 前日の戦闘で宇治橋での戦いは不利と考えた北条泰時が、水練を得意とした芝田兼義に宇治川の渡河を命じる。雨は止み、晴れ間が広がっていた。しかし、前日からの雨で増水し、川の流れは一段と速くなっていた。芝田は、現地の翁に浅瀬の場所を聞き出し、口封じの為其の翁を殺害した。芝田は、裸になって刀を咥えて、宇治川の中洲の真木島(現在の京都府宇治市槇島町)まで泳ぎ、朝廷軍が居る事を確認して、浅瀬の場所を北条に知らせた。周囲の以下の諸将達は、芝田に浅瀬の場所を尋ねるが、芝田は答えなかった。
①佐々木信綱
②水練を得意とした春日貞幸
③中山重継
④安東忠家
芝田は先陣を切って、宇治川を渡り始めた。佐々木・春日・中山・安東等も負けじと追随した。急流の宇治川を渡るのは難儀であった。そんな中、芝田と春日の馬に朝廷軍の矢が命中し、馬が水中を漂い、春日は溺れた。春日は、建御名方神に祈念し、沈むのを防ぐ為に、腰刀で甲冑の上帯・小具足を切り、何とか浅瀬に浮かび上がった。北条も馬で宇治川を渡ろうとした。しかし、北条の身を案じた春日が「甲冑を付けている者が溺れている様ですよ」と言い、其の隙に北条の馬を隠した。其の後北条は、民家を壊して作られた筏に乗って宇治川の渡河に成功した。此れ以降鎌倉幕府軍の猛攻が始まり、朝廷軍は255名の死者を出し敗走した。しかし、激流に飲まれ溺死した者や渡河を試みている最中に朝廷軍の弓矢で討たれた者が発生し、鎌倉幕府軍は96名の死者を出し、144名が負傷した。
1,221 7 5 北条時房率いる軍が瀬多川を攻略する。以下の人間等は敗走した。
①大江親広
②藤原秀康
③佐々木盛綱
④三浦胤義
1,221 7 6 4時、宇治川・勢多で敗れた以下3名等が仙洞御所を訪れ、後鳥羽上皇へ「戦いは敗北に終わりました。開門して下さい。此処で敵を迎え撃ち、力の限り戦う様をお見せして討死したいと思います」という主旨の報告を行う。
①三浦胤義
②山田重忠
③渡辺翔
此れに対し後鳥羽上皇は「お前達が此処に立て籠ったら私が攻撃されるではないか。早々に立ち去れ」と返答し、開門しなかった。三浦は「本来は此処で自害すべき所だが、兄上の三浦義村殿が淀に陣を張っている。戦って誰かに討ち取られるのなら、兄上の手に掛かって、最後に一言言ってやる」と言い、三浦・山田・渡辺達は東寺に籠り、鎌倉幕府軍を待った。
1,221 7 6 三浦義村率いる軍が東寺に入り、以下3名率いる30騎が迎え撃つ。
①三浦胤義
②山田重忠
③渡辺翔
最初に名乗りを上げたのは渡辺であった。奮戦したものの10騎余りを討ち取られ、他の者も逃亡した為、渡辺も退却し、大江山(現在の京都府与謝郡与謝野町・福知山市・宮津市)へと向かった。山田重忠は15騎を討ち取り戦果を挙げたが、味方に多数の負傷者が出た事から般若寺(現在の京都府京都市右京区嵯峨樒原高見町)へ落ち延び、其処で自害した。胤義は、義村を見つけると、襲い掛かった。そして義村に対し「本来なら、鎌倉幕府に仕えて世渡りする筈だったが、兄上を恨み、悔しさの余り京都へ上り、後鳥羽上皇に仕えて謀反を起こした。味方になってくれると思い書簡を差し上げたのに、叔父である和田義盛殿を裏切った兄上を頼りにしたのは間違いであった」と言い捨てた。義村は「愚か者の相手をするのは無意味だ」と相手にせず退いた。最終的に胤義は何人か敵を討ち取ったが、最早此れ迄と、幼子に一目会おうと太秦へ向かうが、鎌倉幕府軍に包囲され、8時、以下2名の息子と共に木嶋(現在の京都府京都市右京区太秦森ケ東町の木嶋坐天照御魂神社)にて自害した。
①胤義の長男三浦胤連
②胤義の弐男三浦兼義
胤義の郎従は、胤義の首級を太秦の屋敷に持ち帰ろうとしたが、義村が其の首級を奪い泰時の下へ持参した。同じく8時、後鳥羽上皇の勅使が泰時・義村の下へやって来て、以下を伝えた。
①今回の合戦は後鳥羽上皇の意思では無く、謀臣が行ったものである
②北条泰時追討の宣旨の撤回
③京都での略奪禁止
④全て鎌倉幕府の申請通りに聖断を下す
後鳥羽上皇は、①を主張する事で、皇室の存続を図ろうとした。10時、北条泰時・北条時房率いる軍が其々六波羅に入る。以下3名は逃亡した。
①藤原秀康
②小野盛綱
③尊長
夕方、朝廷軍の宿舎に火が放たれた。京都の民衆は其れを不安そうに見つめ、又胤義の死を惜しんだ。鎌倉幕府軍は、残存兵を探し出し、首を刎ね、馬も殺害した。そして歩くのが困難になる程、死体が市中に散乱した。
1,221 7 7 以下2名が、朝廷監視・京都守護の為六波羅の屋敷に入る。
①北条泰時
②北条時房
泰時は、鎌倉幕府への戦勝報告の飛脚を鎌倉に遣わせた。其の際、以下4点の問い合わせを言付けた。
①後鳥羽上皇・仲恭天皇には誰を仕えさせるか
②後鳥羽上皇をどの様にお迎えするか
③御所をどの様な場所に移転すべきか
④公卿・殿上人をどの様に取り計らうべきか
1,221 7 7 鷲尾(現在の京都府京都市東山区)に佐々木経高が居る事を聞き付けた北条泰時が、佐々木の下に使者を遣わせ「決して命を捨ててはならぬ。鎌倉幕府に申して宥免される様手配しよう」と、降伏を勧める。佐々木は合戦中、仙洞御所にて合戦の策を巡らせていた。佐々木は北条から自害を勧められたものと解釈し、刀を取り、自らの肉や手足を切り裂いた。佐々木は絶命の前に輿で六波羅へ向かい、北条と対面した。北条は、無惨な佐々木の姿を見て「何故言う事を聞かず自害したのか」と悲しみの言葉を漏らし、佐々木の自害が本意では無い事を述べた。此れを聞いた佐々木は両目を見開き、声にならぬ叫びを発して絶命した。
1,221 7 8 北陸道軍が京都に入る。
1,221 7 9 此の日迄に鎌倉幕府軍は、戦功の有った者や死傷者を文書として纏める。調査は以下の人間が担った。
①後藤基綱
②関実忠
③金持兵衛尉
以下が名簿として記された。
①戦功の有った者255名
特に討ち取った首級の数が際立っていたのは以下であった。
❶山城左衛門尉16名
❷第2代島津氏当主島津忠時7名
②負傷者132名
③溺死者96名
其の後、中太弥三郎が其の文書を鎌倉に届けた。
1,221 7 10 朝廷が鎌倉幕府軍に対し、藤原秀康等の追討を命じる宣旨を畿内諸国に下す。
1,221 7 10 後鳥羽上皇が、高陽院から四辻殿に移送される。
1,221 7 10 錦織義継が六波羅に現れ、北条泰時の居所に討ち入る。以下3名等が取り押さえようとしたが、錦織は屈服しなかった。
①戸矢子有綱の長男佐野基綱
②戸矢子の弐男園部行綱
③戸矢子の参男佐野高綱
其処に此の3名の郎従が加わり、錦織は捕縛され、基綱等によって手足を斬られ殺害された。
1,221 7 11 貴船(現在の京都府京都市左京区)付近で以下の人間等10名余が捕縛され、斬首・梟首される。
①神地蔵人
②頼経入道
又同日、多田基綱も斬首・梟首された。
1,221 7 14 2時、鎌倉に戦勝報告が届けられる。北条義時は、平定に至る迄の戦闘の経緯の書かれた書簡を読み「思う事は何も無い。私の果報は王の果報に勝っていたのだ。前世での善行が1つ足りなかった為に武士という低い身分に生まれたに過ぎなかったのだ」と語った。そして北条と大江広元は、西暦1,185年の処置を勘案して、後鳥羽上皇の隠岐国への配流を含む朝廷への処罰を決定した。但し、大江親広は、広元の嘆願により赦免された。広元は、後鳥羽上皇を始めとする、処罰を纏めた書簡を作成した。北条は、後鳥羽上皇の配流先を慎重に検討し、出雲国・隠岐国守護佐々木義清が、隠岐国の有力豪族の村上氏に任せてはどうかと進言した事もあり、隠岐国に決定した。村上氏は、海上貿易を通じて蓄財していた実力者であった。
1,221 7 15 乱を起こした張本の以下4名の身柄が六波羅に引き渡される。
①葉室光親(武田信光の預かり)
②葉室宗行(小山朝長の預かり)
③源有雅(小笠原長清の預かり)
④藤原範茂(北条朝時の預かり)
1,221 7 15 安東光成が、前日に大江広元が作成した書簡を携え、京都へ向けて出発する。
1,221 7 16 乱を起こした張本の以下4名の身柄が六波羅に引き渡される。
①坊門忠信(千葉胤綱の預かり)
②一条信能(遠山景朝の預かり)
③長賢(結城朝光の預かり)
④観厳(結城朝光の預かり)
又同日、以下2名等が斬首・梟首された。
①第21代熊野別当湛増の孫田辺法師快実
②天野四郎左衛門尉
1,221 7 19 北条泰時が、伊予国の河野通信を、東国の武士を引き連れ合戦を行った為、乱を起こした張本であるとし、河野に与しなかった伊予国の武士に河野征伐を命じる。
1,221 7 20 安東光成が鎌倉から京都に到着し、西暦1,221年7月7日に北条泰時が手配した4点の問い合わせに対する鎌倉幕府からの返答を六波羅に居た北条泰時等に届ける。以下の主旨の内容であった。
①後鳥羽上皇を隠岐国への流罪とする。
②仲恭天皇を廃位とし、後堀河天皇を践祚させる。
③雅成親王・頼仁親王を流罪とするが、配流先は北条に任せる。
④公卿・殿上人は坂東(関八州(相模国・武蔵国・安房国・上総国・下総国・常陸国・上野国・下野国))に下し、其れ以下の者は斬首とする。
其の後、以下の人間等が評議を行った。
①北条時房
②泰時
③三浦義村
④毛利季光
結果、鎌倉幕府軍は此れ等を速やかに執行した。
1,221 7 21 仲恭天皇が、捕縛した公卿達に対する断罪を宣下する。
1,221 7 21 北条泰時が、速やかに公卿達を関東に連行する様、預かり人に命じる。
1,221 7 平清盛の屋敷を拠点とし、六波羅探題(京都府京都市東山区門脇町周辺)が設置される。以下が就任した。
①北条泰時(初代六波羅探題北方)
②北条時房(初代六波羅探題南方)
1,221 7 22 後藤基綱によって以下4名が斬首・梟首される。
①後藤基清
②五条有範
③佐々木広綱
④大江能範
1,221 7 25 小雨の降る中、一条信能を鎌倉へ護送していた岩村城主遠山景朝が、道中美濃国遠山荘岩村(現在の岐阜県恵那市岩村町)の相原にて一条を斬首する。村人は此れを哀れみ、処刑地に小祠を建てて弔い「若宮社(現在の厳邨神社)」と称して其の後も供養を続けた。
1,221 7 26 後鳥羽上皇が、四辻殿から鳥羽殿に移送される。其の際以下の人間等が牛車の後ろから騎馬で付き従った。
①西園寺実氏
②藤原信成
③藤原能茂
1,221 7 28 鎌倉幕府が、高倉天皇の第弐皇子守貞親王に政務を担わせる。そして、後鳥羽上皇の所有する荘園を守貞親王に献上した。更に、守貞親王の、出家をしていない第参皇子後堀河天皇を次期天皇として立て、近衛家実が、摂政の詔を受けた。
1,221 7 28 後鳥羽上皇が出家する。戒師は後鳥羽上皇の第参皇子道助入道親王が務め、似絵の名手藤原信実が御影を描いた。警護の武士を説得して御幸した後鳥羽上皇の母藤原殖子は後鳥羽上皇に会い、悲涙を堪えて帰った。髻は藤原の下に送られた。此れを見た藤原は、声を惜しまず涙した。
1,221 7 29 鎌倉幕府が、仲恭天皇を廃位とし、後鳥羽上皇の系統では無い後堀河天皇を、高陽院にて第86代天皇として践祚させる。此の日仲恭上皇は、九条院に行幸した。
1,221 7 30 北条時氏が鳥羽殿に参上する。時氏は武装した儘正殿に上がり、弓の上の部分で御簾を上げて後鳥羽上皇に対し「上皇様は流罪となりましたよ。さあさあ出て来て下さいませ」と言って覗き込んだ。後鳥羽上皇は無視した。時氏は「どうしたんですか?まさか謀反の輩を匿っているのですか?さあさあ出て来て下さいませ」と続けた。後鳥羽上皇は、此の時の時氏の声が地獄の使者の様な、責める様な声色だと感じた。後鳥羽上皇は「何故私が謀反の輩を匿うのか。そんな事をする筈が無いだろう。唯京都から出たら子供達と離れ離れになってしまうのが悲しいのだ。特に藤原能茂は幼い頃から目を掛けていた子だ。もう一度会わせてくれ」という主旨の発言をした。此れを受けて時氏は、泣きながら「後鳥羽上皇と藤原能茂は、前世から約束し合った仲です。後鳥羽上皇は今迄色々な命令を下してきましたが、今は『能茂と会わせてくれ』としか命じません。どうか会わせてやって下さい」という主旨の書簡を作成し、北条泰時に訴えた。泰時は、藤原を出家させた上で、後鳥羽上皇と会わせた。
1,221 7 31 後鳥羽上皇に付いた者達の所領が、北条時房以下の鎌倉幕府軍の恩賞として宛てがわれる。
1,221 7 31 出家して仁和寺に住み、後鳥羽上皇の第弐皇子で第8世仁和寺門跡の道助入道親王に育てられていた佐々木広綱の四男勢多伽丸が、佐々木の謀反の連座として捕らえられ、仁和寺から六波羅に召し出される。勢多伽丸の母や道助入道親王は「佐々木広綱の重罪に就いては何も言う事は出来ないが、勢多伽丸は門弟として久しく親しんでいたので特に哀れである。10歳余の孤児で頼りも無いので、どの様な悪行が出来ようか。身柄を預け置かれたい」と、必死に助命嘆願を繰り返した。北条泰時は、道助入道親王の付き添いの芝築地上座真昭と会い「厳命を重んじて、暫く猶予する、容貌の華麗な様子は、母の憂いと共に憐れみに堪えない」と言い、勢多伽丸を連れて仁和寺に帰る事を許可した。しかし其処に、宇治川で戦功を挙げた佐々木信綱が、自らの武功を取り消してでも勢多伽丸を処刑して欲しい、勢多伽丸を助命するなら自ら自害する、と強く主張した。信綱は北条義時の娘婿であり、鎌倉幕府にとって枢要な人間であった事から、断腸の思いで勢多伽丸を呼び出し、身柄を信綱に与えた。勢多伽丸は斬首・梟首された。
1,221 8 1 葉室光親が、武田信光によって護送されている途上、駿河国車返(現在の静岡県沼津市三芳町の蓮光寺付近)の辺りで受けた幕命により、駿河国加古坂(現在の山梨県南都留郡山中湖村の籠坂峠)にて斬首される。
1,221 8 2 以下を含む7名が京都を出発する。
①後鳥羽上皇
②佐々木義清
③藤原秀能
1,221 8 2 小山朝長に護送されていた葉室宗行が、駿河国浮島原(現在の静岡県沼津市原)を過ぎた所で、葉室光親の遺骨を持った従者と出会い、光親の斬首を知る。助命されるかも知れないと一縷の望みを抱いていた宗行は死を覚悟し、以下の歌を詠んだ。
今日過ぐる 身を浮島の 原にても つひの道をば 聞こさだめつる
(浮島の原で死の淵から浮かび上がれるかも知れないと期待していたが、終わりを迎える事が分かり覚悟を決めた)
1,221 8 3 小山朝長が、鎌倉幕府の命により、葉室宗行を駿河国藍沢原(現在の静岡県御殿場市・駿東郡小山町)にて斬首する。辞世の詩は以下であった。
昔南陽県菊水 汲下流而延齢 今東海道菊河 宿西岸而失命
(昔は南陽県(現在の中国河南省)の菊水 下流を汲んで齢を延ぶ 今は東海道菊河(現在の静岡県島田市)の 西岸に宿して命を失う)
其の後、葉室を祀る為に藍澤五卿神社(現在の静岡県御殿場市新橋)が建設され、以下4名も合祀された。
①葉室光親
②源有雅
③藤原範茂
④一条信能
1,221 8 7 乱の首謀者として斬首が確定した藤原範茂が、北条朝時によって鎌倉へ護送されている道中、足柄山(現在の神奈川県南足柄市・足柄下郡箱根町、静岡県駿東郡小山町に跨る金時山)にて、清川(現在の神奈川県南足柄市の貝沢川)での入水自殺を所望する。理由として、首と胴が離れて五体満足で無くなっては、極楽往生出来ないという点を挙げた。北条は此れを認め、藤原の着物の袂や懐に石を詰め込んだ。そして藤原は、以下の辞世の句を詠み、入水自殺した。
思いきや苔の下水堰き止めて月ならむ身の宿るべきとは
(思いもしなかった事だが、苔の下を流れる川水を堰き止めて、月でも無い我が身を宿す事になろうとは)
1,221 8 9 順徳上皇が、佐渡国への配流を通告される。そして夜中に順徳上皇は、順徳上皇の母藤原重子の岡崎殿に入った。
1,221 8 10 順徳上皇が、数名の近臣を従え、佐渡国へ向けて出発する。
1,221 8 13 雅成親王が、但馬国高屋(現在の兵庫県豊岡市)に配流される。同時に、太田昌明が但馬国守護に任じられた。
1,221 8 14 頼仁親王が、備前国児島(現在の岡山県倉敷市)に配流される。其の後、備前国守護の加地信実の預かりとなった。
1,221 8 16 後鳥羽上皇一行が、出雲国大浜湊(現在の島根県松江市美保関町)に到着する。
1,221 8 18 源有雅が、小笠原長清に護送されている道中、甲斐国稲積庄小瀬(現在の山梨県甲府市)にて斬首される。源は、北条政子に助命を懇願するので、暫く死刑執行を待って欲しいと小笠原に願い出るが聞き入れられず、執行に至った。
1,221 8 19 坊門忠信が遠江国舞坂(現在の静岡県浜松市西区舞阪町舞阪)から京都に帰還する。坊門の妹の西八条禅尼の嘆願により、北条政子が申し出て助命されていた。坊門は程無くして出家し、越後国へ配流された。
1,221 8 23 後鳥羽上皇一行が、船で大浜湊から隠岐国へ向けて出発する。同日、隠岐諸島中ノ島(現在の島根県隠岐郡海士町)に到着した。此の時、後鳥羽上皇は以下の和歌を詠んだ。
我こそは新島守よ沖の海の荒き浪風心して吹け
(我こそは新たなる、島守であるぞ、荒き波風よ、我が意に逆らう事無く心して吹けよ)
其の後、後鳥羽上皇の付き人が宿泊先を求めて村人の戸を叩いたが、皆固辞し、後鳥羽上皇一行は三穂神社(現在の島根県隠岐郡海士町崎)の参篭舎で一夜を明かした。
1,221 8 24 村上氏が、後鳥羽上皇を迎え入れる。其の後、村上家近くの源福寺(現在の島根県隠岐郡隠岐の島町池田風呂前)に行在所が設置された。後鳥羽上皇は、規則正しい生活を送り、読書・写経・神事・将棋に勤しみ、毎日行在所から村上家まで通い詰め、お茶を楽しんだ。牛突きで持て成されたりもした。食事は朝夕の1日2食で、夕食はご馳走であった。村上家は度々上洛したが、其の際後鳥羽上皇は、帰京したい旨の書簡を朝廷経由で鎌倉幕府に届けたりもしたが、断られた。
1,221 9 16 定豪が、鶴岡八幡宮寺別当を自身の弟子である定雅に譲り、定雅は第7世鶴岡八幡宮寺別当に就任する。其の後定豪は、同年、祈祷の褒賞として、鎌倉幕府の推挙により、第8代熊野三山検校に就任した。又、第7代新熊野検校及び第13世大伝法院座主も兼務する事となった。だが、定豪は鎌倉を離れなかった。
1,221 10 以下2名が南都に潜伏しているとの情報が六波羅に入る。
①藤原秀康
②藤原秀澄
北条時房は、秀康・秀澄征伐の為、家人を差し向けた。
1,221 10 22 以下2名が河内国で捕縛される。
①藤原秀康
②藤原秀澄
1,221 10 30 以下2名が六波羅にて処刑される。
①藤原秀康
②藤原秀澄
1,221 11 25 土御門上皇が、土佐国幡多へ向けて京都を出発する。1人京都に留まるのを良しとせず、自ら鎌倉幕府に申し出ての配流であった。
1,222 朝廷軍の敗北後に高縄山城(現在の愛媛県松山市立岩米之野)に籠城し、鎌倉幕府軍に抵抗していた以下4名等が、鎌倉幕府軍に攻め込まれ、降伏して高縄山城を開城する。
①河野通信
②通信の長男得能通俊
③通信の弐男河野通政
④通信の四男河野通末
其の後、通信は捕虜となり、陸奥国江刺の極楽寺(現在の岩手県北上市稲瀬町内門岡)へ配流された。河野氏は、以下を鎌倉幕府に没収された。
①所領53ヶ所
②公田60余町
③河野氏一族149名
又得能は、伊予国得能(現在の愛媛県西条市丹原町徳能)の僅かな土地を領する事を認められ、通政は、信濃国葉広(現在の長野県伊那市西箕輪羽広)で処刑、通末は信濃国伴野荘(現在の長野県佐久市伴野)へ配流された。
1,222 10 4 北条時房の長男北条時盛が掃部権助に任じられる。
1,223 9 16 小雨の中、南新御堂の供養が執り行われる。以下2名が指揮した。
①二階堂行盛
②進士隆邦
導師は定豪が務めた。お布施は30種類を1袋に入れたのが100個であった。以下の人間等が参列した。
①北条義時
②北条朝時
③北条義時の参男北条重時
1,224 熊野・洛中・鎮西を転々としていた尊長が、京都に潜伏し始める。以下2名と知己を得た。
①和田朝盛
②和田の従兄弟で山僧の伯耆房
1,224 4 13 伊賀朝光の参男伊賀光資が、脚気の為死去する。
1,224 6 30 8時、脚気を患い不調が続いていた北条義時が重病となる。其の後陰陽師が占った。結果、大事には至らず、20時には快方に向かうとされたが、念の為祈祷が行われた。死期を悟った北条は、此の日の朝から念仏を唱え続けた。
1,224 7 1 4時、北条義時が出家する。
1,224 7 1 10時、北条義時が死去する。鶴岡八幡宮の供僧で心経会の導師である頼暁を師として、外縛印を結び、念仏を数十回唱えた中での死であった。
1,224 7 4 北条義時の訃報が北条泰時に伝えられる。
1,224 7 5 2時、北条泰時が、鎌倉へ向けて京都を出発する。
1,224 7 6 北条義時の葬儀が執り行われる。法華堂の東の山上が墳墓とされた。兄弟の序列は以下であった。
①北条朝時
②北条重時
③北条義時の五男北条政村
④義時の六男北条実泰
⑤北条有時
1,224 7 7 北条義時の初七日法要が執り行われる。導師は頼暁が務めた。
1,224 7 7 北条時房が、鎌倉へ向けて京都を出発する。
1,224 7 8 北条泰時が伊豆国に入り、当地にて逗留を開始する。
1,224 7 10 北条義時の臨時の法要が三浦義村の主催で執り行われる。導師は源延が務めた。
1,224 7 10 北条時房が鎌倉へ入る。其の後安全を確認した。此れを受けて北条泰時は、鎌倉へ向けて出発した。
1,224 7 14 北条義時の二十七日法要が執り行われる。導師は観基が務めた。
1,224 7 14 以下3名が鎌倉に入る。
①北条泰時
②北条時房
③足利義氏
此の日泰時は由比ヶ浜に宿泊した。
1,224 7 15 北条泰時が自身の屋敷に戻る。
1,224 7 16 北条時房が初代連署に就任する。
1,224 7 16 北条泰時が、北条政子の屋敷に招かれる。政子は泰時を第3代執権に任命する事に決め、大江広元も賛同した。北条時房が後見とされた。だが、此の時点で泰時が北条政村を討つとの噂が鎌倉で流れ、政村の周囲は騒然となっていた。又伊賀の方が、泰時の家督継承に反対し、政村を執権に据え、自身の兄伊賀光宗に後見をさせ、自身の娘婿の一条実雅を征夷大将軍に就かせようと画策しているとの噂も流れていた。
1,224 7 17 以下2名が上洛する。
①北条時盛
②北条時氏
時盛・時氏は、謀反の噂を聞き、鎌倉に居るべきではないかと主張したが、北条泰時・北条時房が促して上洛させた。
1,224 7 18 此の頃から、以下3名が、北条政村の烏帽子親である三浦義村の屋敷に出入りし始める。
①伊賀光宗
②伊賀朝光の四男伊賀朝行
③朝光の五男伊賀光重
1,224 7 21 北条義時の三十七日法要が執り行われる。導師は道禅が務めた。
1,224 7 22 此の日、以下3名が頻繁に三浦義村の屋敷に出入りするので、人々が怪しむ。
①伊賀光宗
②伊賀朝行
③伊賀光重
夜、北条義時の屋敷に光宗・朝行・光重が参集し「此の事を変えてはならない」と誓い合った。其れを聞いていた女中は何の事か分からなかったが、其の様子を北条泰時に伝えた。泰時は、動揺する事も無く「伊賀兄弟が正しい道を誓い合っている事は神妙である」と語った。
1,224 7 28 北条義時の四十七日法要が執り行われる。導師は退耕行勇が務めた。
1,224 8 2 北条義時の五十七日法要が執り行われる。導師は左大臣律師が務めた。
1,224 8 3 鎌倉の周囲の国々の人間が鎌倉に参集する。深夜、北条政子は、三浦義村の屋敷へ赴き「北条政村・伊賀光宗等が此の屋敷に出入りして、何か密談をしているとの噂が有ります。此れはどういう事でしょう。目的が分かりません。もしや北条泰時を陥れるつもりでしょうか。3年前の朝廷との戦での勝利は、天運も有りましたが半分以上は泰時の功績です。北条義時の跡を継ぐのは泰時です。泰時が居なくなれば、人々は長く争う事になるでしょう。貴方は政村の烏帽子親です。共謀を疑わない訳にはいきません。両人共何もせぬ様に」という主旨の発言をした。義村は「存じ上げません」と答えた。政子は「政村に助力して世を乱そうとするのか、平和の為に尽くすのか、早く決断しなさい」と迫った。義村は「政村に逆心はありませんが、光宗は反逆の考えを持っていますので、止めさせましょう」と誓い、政子を帰した。
1,224 8 4 三浦義村が、北条泰時の屋敷を訪れて釈明する。
1,224 8 9 北条義時の六十七日法要が執り行われる。導師は退耕行勇が務めた。
1,224 8 14 三浦義村が北条泰時に会い「北条義時殿の時には、忠義の私に対し、親切にも北条政村殿の元服の烏帽子親にして貰いました。そして三浦泰村は猶子にして頂きました。其の恩を思うと、泰時殿と政村殿の何方に付くか迷っておりました。唯、心から願うは平和な世。伊賀光宗には謀反の企てが有りましたが、私が諌めたので、敵対する事を止めました」と報告する。泰時は動じず「私は政村に危害を加えようとは思っていません。何を以って敵対していると思うのでしょうか」と返した。
1,224 8 16 北条義時の七十七日法要が執り行われる。導師は定豪が務めた。
1,224 8 16 未明、鎌倉にて、御家人達が旗を立てて鎧兜を身に纏って競う様に走り回るという騒動が発生する。しかし明け方には収まった。
1,224 8 17 北条政子が、藤原頼経を連れて北条泰時の屋敷に入る。政子は「私は藤原を抱いて此処に居ます。三浦義村も此処に居る様に」と、北条泰時の屋敷に義村を呼び出す。政子は三浦義村に度々使いを遣わせ、謀反を鎮める様伝えてきたにも拘らず、前日の騒動が発生した為である。義村の他にも以下の人間等が呼び出され、北条時房が言い聞かせた。
①葛西清重
②中条家長
③小山朝政
④結城朝光
其の際政子は「藤原が幼い間は、下々の反逆を抑える事は難しい。但私は長生きしている。根拠は無いが、皆が生存し参集する事は源頼朝殿の願う所である。其の命に従い心と行動を1つにしていれば、誰が蜂起しようが何とも無い」と語った。参集した御家人達は、謀反を防ぐ為に政子に協力する事に賛同した。
1,224 8 18 北条朝時が、自身の主催で、独自に北条義時の四十九日法要を執り行う。
1,224 8 19 伊賀光宗と伊賀の方の謀反が鎌倉幕府に知られる。北条政子は御前で、伊賀光宗と伊賀の方を流罪とする処分を下した。以下2名も同席した。
①北条時房
②大江広元
同時に、一条実雅の身柄を朝廷に引き渡し、裁定を委ねる事とした。其の他の加担した者の罪は不問に付した。
1,224 9 8 一条実雅が京都へ向けて鎌倉を出発する。以下の人間も同行を許可された。
①伊賀朝行
②伊賀光重
③伊賀光宗の長男伊賀宗義
④伊賀光盛
しかし、以下2名も許可無く扈従した為、後に出仕を止められ、所領を没収された。
①源親行
②伊具盛重
1,224 9 14 伊賀光宗が政所執事を罷免され、所領52ヶ所を没収される。伊賀は、二階堂行村の預かりとなった。
1,224 9 22 北条義時の墳墓堂の供養が執り行われる。導師は源延が務めた。墳墓堂は「新法華堂」と称される事となった。
1,224 9 30 一条実雅が京都に到着する。
1,224 10 6 一条実雅が京都に到着したとの情報が、鎌倉幕府に齎される。
1,224 10 11 伊賀光宗が処刑されるとの噂が鎌倉に流れるが、事実では無かった為、間も無く静まる。
1,224 10 12 京都で騒動が有り、以下2名が監禁される。
①伊賀朝行
②伊賀光重
1,224 10 13 伊賀の方が伊豆国北条郡に配流される。伊賀の方は当地にて幽閉された。
1,224 10 13 伊賀光宗が信濃国へ配流される。
1,224 10 13 以下2名が北条時氏の預かりとなり、鎮西への配流が決定される。
①伊賀朝行
②伊賀光重
1,224 11 22 鎌倉幕府の奏請を受けて朝議が開かれ、一条実雅の越前国への流罪が決定される。
1,224 12 11 一条実雅が解官され、越前国へ配流される。
1,224 12 20 京都に留め置かれていた以下2名が鎮西へ配流される。
①伊賀朝行
②伊賀光重
1,225 2 3 伊賀の方が危篤となったとの情報が鎌倉に入る。
1,225 4 北条政子が、源頼朝の菩提を弔う為、長楽寺(現在の神奈川県鎌倉市長谷)を建立する。
1,225 6 8 鎌倉幕府が、鎌倉にて疫病が発生し、死者が数千名を超える事態となった事を受け、災いを払う事を意図し祈祷を行う事を決定した為、以下の人間が評議を行う。
①定豪
②良信
③三浦義村
④二階堂行村
⑤国道
北条政子は、二階堂が「般若心経」と「仏頂尊勝陀羅尼」を其々万巻書写供養する事に就いて意見を求めた。此れに対し定豪は、1,000名の僧を集めて仁王経を読誦する事を提案した。又、定豪と良信は「嵯峨天皇の時代に疫病が発生し、五畿七道に多くの人々が亡くなりました。其の際、嵯峨天皇は自ら般若心経を書写し、空海を通じて供養を行いました」と先例を挙げて般若心経書写の功徳を説き、書写供養を行う事となった。
1,225 6 29 鶴岡八幡宮寺にて、鎌倉の疫病や炎暑が続く等の災厄を鎮める為の供養が1,200名の僧により執り行われる。4時に集合し、其々左右の廻廊や仮屋に着席した。先ず仁王経一巻を読み、般若心経と尊勝陀羅尼を其々10回唱えた。其れから般若心経と尊勝陀羅尼を1,000巻ずつ摺り、100巻ずつ金泥で経巻として書写した。此の経巻は、諸国の一宮毎に1巻を奉納するというものであった。其の後、供養の儀式が執り行われた。導師は定豪であった。供物として、以下を含む15種の品が用意された。
①衣類
②砂金
③布
④染物
⑤帷糸
⑥白布
⑦藍染め
⑧綿
⑨色革
⑩銭貨
更に、特別な布施として、紫の宿衣が1領加えられた。1,000名の僧には、其々以下が配られた。
①裹物1つ
②帖絹1疋
③米約54L
200名の僧には、以下が同じ様に配られた。
①衣類1重
②絹布1疋
③米約54L
此の他にも、多くの人々から以下等が奉納された。
①橘広仲
②大江佐房
1,225 7 6 北条政子が病を患う。
1,225 7 9 北条政子の病状が快方に向かう。
1,225 7 13 北条政子の病状が再び悪化する。
1,225 7 14 北条政子が逆修を始める。
1,225 7 21 北条時房が、六波羅探題南方を退任する。
1,225 7 22 朝、北条政子が一時意識不明となる。其の後間も無く息を吹き返した。
1,225 8 4 六波羅探題南方に就任する事となった北条時盛が、京都へ向けて鎌倉を出発する。
1,225 8 13 北条政子が危篤状態となり、東の御所に移される。
1,225 8 16 2時、北条政子が死去する。
1,225 8 17 4時、北条政子の死去が発表される。二階堂行盛が出家し、其の後も多くの人間が後に続いた。
1,225 8 17 20時、北条政子が勝長寿院にて火葬される。勝長寿院内に墓所が築かれたが、後に寿福寺と高野山にも分骨された。
1,225 9 18 北条政子の死去を受けて、鶴岡八幡宮寺の放生会が延期される。
1,225 9 30 北条政子の四十九日法要が執り行われる。施主は源頼家の娘竹御所、導師は定豪であった。
1,226 1 定豪が東寺三長者に補任される。
1,226 1 22 伊賀光宗が赦免される。所領も回復された。
1,226 12 牧の方が、藤原国通の正室で平賀朝雅の正室であった自身の娘を頼り上洛する。贅沢な暮らしを送った。
1,227 インダス川流域に於いて、モンゴル帝国とホラズム・シャー朝の勢力が衰え、ナースィル・ウッディーン・カバチャが支配する。
1,227 ラディ・アルディン・アブー・ファディル・アル・ハサン・ビン・ムハンマド・アル・サガニーが、アッバース朝の首都バグダード(現在のイラク)に帰還する。
1,227 2 10 牧の方が、藤原国通の有栖川邸にて北条時政の十三回忌法要を執り行う。以下が参列した。
①牧の方の娘で宇都宮頼綱の正室
②宇都宮頼綱の娘で藤原為家の正室
③以下の人間を含む公卿6名
❶藤原国通
❷為家
④殿上人10名
⑤諸大夫約20名
1,227 2 尊長が黒太郎と共に、十津川(現在の奈良県吉野郡)8郷の内、5郷を味方に引き入れ、熊野で武具を奪って、阿波国へ渡ろうとする。
1,227 2 14 牧の方が、宇都宮頼綱の正室と妊娠7ヶ月前後の藤原為家の正室と共に以下を参詣する為に出発する。
①四天王寺
②南都七大寺
❶東大寺
❷興福寺
❸元興寺
❹大安寺
❺西大寺
❻薬師寺
❼法隆寺
③長谷寺(現在の奈良県桜井市初瀬)
藤原定家は「身重の女性を連れて行くとは如何なものか」と不満を記した。
1,227 2 15 黒太郎の弟が、熊野の神威を恐れ、尊長が黒太郎が武具を奪おうとしている事を熊野に密告する。此れにより、以下の熊野三山は警備を固めた。
①熊野本宮大社(現在の和歌山県田辺市本宮町本宮)
②熊野速玉大社(現在の和歌山県新宮市新宮)
③熊野那智大社(現在の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山)
1,227 4 5 藤原定家が、尊長が還俗し、烏帽子を被って髷を結い、十津川の人間の婿となり暮らしている事を耳にする。此の頃、尊長が、第14代石山寺座主長厳や其の弟子の協力を得て、熊野を掌握し、阿波国へ渡ろうとしているとの噂が流れていた。
1,227 5 2 「逆徒が30隻を率いて阿波国へ押し寄せ、守護代と合戦となった。土御門上皇の行宮(現在の徳島県阿波市土成町吉田御所屋敷)の前まで攻め込んだが、守護代を負傷させて撃退した為、阿波国守護となっていた小笠原長経が下向した」との噂が流れる。其の後、此の噂は、海人が夜釣りのために漁火を焚いていたものを敵の襲撃と誤認したものである事が判明した。
1,227 5 14 阿波国の熊野太郎が、尊長一味から「我らに付くか、守護方に付くか」という主旨の書簡が届く。熊野は恐れをなして守護所に伝え、国中が大騒ぎとなった。
1,227 7 尊長が、第2代大友氏当主大友親秀が後見の肥後房の屋敷に匿われている事が判明する。
1,227 7 19 北条泰時の尊長捕縛を指示する書簡が六波羅探題に届く。和田朝盛が、鎌倉幕府から赦免を得る為に、尊長を裏切って北条泰時に通報していた。
1,227 7 20 肥後房の屋敷にて、和田朝盛が尊長の捕縛を試みる。しかし失敗した。
1,227 7 21 早朝、伯耆房が肥後房の屋敷に赴き、尊長との酒宴を張る。伯耆房は、門を出る時に乱入する様、以下等と取り決めをしていた。
①六波羅探題被官
②北条時氏の近習
③菅周則
④小笠原長経
六波羅探題被官・北条の近習・菅・小笠原達は、避暑の名目で、甲冑を持って馬車4輌で神泉苑(現在の京都府京都市中京区門前町)へ向かった。伯耆房は「六波羅の武士が大勢集まっている様です。様子を見て帰って来ましょう」と言って、門を出て神泉苑の軍勢へ向かって合図を送って逃げ去ると、六波羅探題被官・北条の近習・菅・小笠原達は、肥後房の屋敷を襲撃した。尊長は剣で応戦し、勇士2名を負傷させた上で、尊長は、六波羅で見掛けた人物が居る事に気付き、誰か尋ねた。六波羅探題被官・北条の近習・菅・小笠原達は、北条時氏・北条時盛であると回答した。尊長は自殺を図った。しかし即死せず、尊長は「早く首を取れ。然もなくば、伊賀の方が北条義時に与えた薬を飲ませて早く殺せ」という主旨の発言をし、周囲の者は驚いた。尊長は、馬車で鴨川の西の菅の屋敷に送られた。菅と小笠原は、其々自分の手下の者が先に入ったと主張し、手柄を争っていた。其処で六波羅探題の使者が、尊長に尋問した。尊長は「只今死のうとしているのに、どうして人の味方をして虚言を言おうか。奇妙な事だ」と答えた。続けて六波羅探題の使者は「年来京都に親しくしている者が居ると和田朝盛が言っていたが、本当か」と尋ねた。尊長は「京都に其の様な者が居ても無益だ。そんな奴は居ない」と回答した。尊長は氷を所望した。無いと断られると、尊長は「六波羅探題の者がどうして氷を手に入れられないのか。不甲斐無い奴等め」と辱めた為、六波羅探題の使者達は氷を求め得て与えた。尊長は氷を食べた。尊長は菅に「私の体は必ず円明寺(現在の京都府乙訓郡大山崎町)に埋めてくれ。河原に晒すな」と遺言を残した。
1,227 7 22 8時、尊長が、帷子を改めて手を洗い、阿弥陀如来の図像を西向きに掛けさせ、高声に念仏を唱え、座した儘死去する。立ち会った者達は極楽往生を口々に讃えた。死臭はしなかった。菅周則は、土用に土を掘り返して葬送すべきでは無いという慣例を破り、尊長の遺言通り円明寺に葬られた。周囲の者は首を取るか相談していたものの、菅は取らなかった。
1,227 7 22 医僧心寂房が、菅周則の下を訪れ、尊長の捕縛に就いて話を聞く。
1,227 7 25 藤原定家が、自身の掛かり付け医の心寂房から、尊長の捕縛に就いて話を聞く。藤原は尊長の捕縛に関し、当日の西暦1,227年7月21日の時点で下人から聞いていたが、心寂房からより詳細な話を聞く事となった。
1,227 7 28 六波羅探題の伝令が鎌倉に到着し、西暦1,227年7月21日に肥後房の屋敷にて尊長が自殺を図った件に就いて報告する。
1,227 7 28 和田朝盛が捕縛される。
1,228 第36代アッバース朝カリフのムスタンスィルが、再び大使をデリーに派遣する。ムスタンスィルは、シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュのインドに於ける権威を認め、以下の称号を与えた。
①ヤミン・ハリーファト・アッラー(神の代理人の右腕)
②ナシル・アミール・アル・ムーミン(忠実なる司令官の補佐)
1,228 尊長による謀反計画への関与が疑われた後白河天皇の第11皇子真禎が、摂津国へ配流される。
1,228 1 シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュ率いる軍が、以下のナースィル・ウッディーン・カバチャの以下の領土を奪取する。
①タバルヒンダ(現在のインドのパンジャーブ州バティンダー県)
②クフラム(現在のインドのパンジャーブ州パティヤーラー県)
③サルスティ(現在のインドのハリヤーナー州)
④ラホール
イルトゥトゥミシュは、ナシルッディーン・アイティムル・アル・バハーイーをムクタに任命した上で、ムルターン奪取を指示し、自身はウチュ(現在のパキスタンのパンジャーブ州バハーワルプル県)に進軍した。
1,228 1 21 曇りの中、以下3名により、藤原頼経の護持僧と、陰陽師の順番が決定される。
①二階堂行村
②中原親実
③後藤基綱
護持僧は以下の通り。
①上旬
❶定豪
❷頼暁
❸円親
②中旬
❶良信
❷観基
❸常陸律師
③下旬
❶道禅
❷定清
❸蓮月房律師
陰陽師は以下の通り。
①安陪泰貞
②安陪晴賢
③安陪重宗
④安陪親職
⑤安陪文元
⑥安陪晴茂
1,228 2 シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュ率いる軍が、ウチュに近付いて来た時、ナースィル・ウッディーン・カバチャの副官ナシルッディーン・アイティムが、ラホールから進軍し、ムルターンを包囲した。そんな中カバチャは、バッカル(現在のパキスタンのパンジャーブ州)の島の要塞に、ウチュ(現在のパキスタンのパンジャーブ州バハーワルプル県)に保管されていた財宝を運ぶ様ワズィールに命じ、自身は先に船に乗りバッカルの島に逃亡した。
1,228 2 9 シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュ率いる軍が、ウチュに到着する。そしてイルトゥトゥミシュは、ウチュの包囲を開始した。同時にイルトゥトゥミシュは、ワズィールであるカマールッディーン・ムハンマド・ジュナイディにナースィル・ウッディーン・カバチャを追撃させた。勝ち目の無い状況に陥ったカバチャは、自身の息子で、イルトゥトゥミシュの妃でクトゥブッディーン・アイバクの娘である母を持つアラーウッディーン・バフラーム・シャーを遣わせ、和平交渉をさせた。イルトゥトゥミシュは、カバチャの無条件降伏を条件に和平を提案した。
1,228 5 4 アラーウッディーン・バフラーム・シャーの目論見通りの条件で条約が締結され、ナースィル・ウッディーン・カバチャが降伏する。此れにより、シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュ率いる軍が、ウチュを占領した。ジュナイディは、カバチャが降伏したにも拘らず、バッカルの包囲を続けた。
1,228 5 26 夜、ナースィル・ウッディーン・カバチャが、インダス川にて入水自殺する。此れにより、カバチャの部隊は、シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュの配下に置かれた。其の後イルトゥトゥミシュは、ムルターンとウチュを総督に任せて、複数の部隊を使って、西のマクラーン(現在のパキスタンのバローチスターン州、現在のイランのスィースターン・バルーチェスターン州)にまで勢力を拡大した。
1,228 8 シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュがデリーに到着する。カマールッディーン・ムハンマド・ジュナイディは、イルトゥトゥミシュにシンド(現在のパキスタン)南部の征服を命じられた為、イルトゥトゥミシュに同行しなかった。そして、シンドのワーリーのマリク・シナヌディンもイルトゥトゥミシュの権威を認め、イルトゥトゥミシュは勢力をアラビア海にまで拡大させた。ナースィル・ウッディーン・カバチャの息子や生き残った追随者達も、イルトゥトゥミシュの宗主権を受け入れた。
1,228 9 6 定豪が、第106世東大寺別当に就任する。
1,229 2 18 ムスタンスィルが派遣した大使を含む使節団がデリーに到着する。そして、シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュに正式な叙任状を授与した。此れは、イルトゥトゥミシュがゴール朝の属国では無く、独立した支配者としての宗教的及び政治的正当性を認められた事を意味した。インドの統治者がカリフの承認を受けたのは此れが初めてであった。ムスタンスィルのイルトゥトゥミシュの権威の承認は飽く迄形式的なものであったが、イルトゥトゥミシュは此れを盛大に祝い、デリーの街を飾り、自身の貴族・官僚・奴隷を称賛した。其の後イルトゥトミシュは新たに導入した銀貨「タンカ」にカリフの名を刻む様になった。
1,229 4 ナスィールッディーン・マフムードが死去する。
1,229 5 16 牧の方が死去する。
1,229 7 3 藤原為家の正室で宇都宮頼綱の娘が、牧の方の四十九日法要を行う。
1,230 前年のナスィールッディーン・マフムードの死去に乗じ、アリー・シェール・ハルジーの息子マリク・バルカ・ハルジーが、自身のベンガル総督就任と、ベンガルの独立を宣言する。
1,230 グワーリヤル(現在のインドのマディヤ・プラデーシュ州)のプラティハール族の首長であるマンガル・デヴァが、独立を宣言する。
1,230 3 21 鶴岡八幡宮寺の定親が、宇津宮辻子御所に出向いて酒を献上する。定親が連れてきた稚児の中に勝木則宗の子がおり、藤原頼経の前で踊り、以下の人間を喜ばせた。
①北条時房
②北条泰時
③三浦義村
1,230 3 23 北条泰時によって、勝木則宗の筑前国勝木荘(現在の福岡県遠賀郡)の領地が返還される。
1,231 シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュがベンガルに侵攻する。マリク・バルカ・ハルジーは捕えられ、殺害された。イルトゥトゥミシュは、アラウッディーン・ジャニをベンガル総督に据えた。
1,231 シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュが、グワーリヤルを包囲する。
1,231 11 1 晴れの中、藤原頼経の御願寺を、永福寺又は大慈寺の敷地内に建立する事が決定される。又、永福寺の境内に、竹御所の御願寺を建立する事が決まった。そして、以下の人間等が、安陪泰貞・安陪晴賢・安陪重宗を連れて見学に行った。
①北条時房
②北条泰時
③三浦義村
④二階堂行村
⑤二階堂行盛
又、金蔵坊に命じて地相を見させた。更に、宅磨為行に絵を描かせ、以下2名が使者として藤原に伝えた。
①中原師員
②三浦光村
1,231 11 11 晴れの中、永福寺本堂の池の北方に、五大明王を祀る御堂を建立する事が決定される。方角を調べる事になり、以下3名等が、安陪晴賢以下の陰陽師を引き連れ、本堂の裏山へ登り、方角を測量した。
①藤原親実
②伊賀光宗(御堂奉行)
③藤原定員
宇都宮辻子御所の位置と照らし合わせた所、東北東と西南西の間であれば問題無いとの事で意見が一致した。しかし此れは、翌年に厄の方角に当たる為、北条政子が方角変えの本所として使った庵が1軒在り、其処を本所とすれば良い、という話になった。しかし安陪が、其の庵は北西では無く、西北西であると答えた。此の一連の出来事は鎌倉幕府に報告された。20時、北条泰時の屋敷で、尾藤景綱が奉行となり、御堂を建立する日時を決めた。其の後ご馳走が出て、親実・伊賀も同席した。
1,231 11 14 雨の中、五大明王を祀る御堂の建設地が甘縄の、安達義景の屋敷の南で、千葉時胤の屋敷の北の西山の周辺に変更される。以下2名が現地を視察した。
①北条時房
②北条泰時
此の日は橘寺の開眼供養の日に当たる為、縁起が良く無いという事で、以下の陰陽師が占った。
①安倍泰貞
②安倍晴茂
③安倍長重
④安倍文元
彼らは、橘寺の開眼供養は西暦1,091年で、開眼供養と造作始めは全く別の事であり、忌むべき事では無いと答えた。しかし藤原長定は「辛未の日は縁起が悪いという話も有ります」と言った。此れに対し法橋円全は、以下の辛未の日に吉事が行われた例を挙げた。
①後一条天皇の西暦1,020年2月15日、興福寺阿弥陀堂の御塔を建てた。
②堀河天皇の西暦1,100年8月13日、春日大社で一切経を奉納する法要が有り、同日、日吉神社では大般若経の奉納が行われた。
③鳥羽天皇の西暦1,118年11月7日、熊野山の一切経の奉納が行われ、鳥羽天皇が御幸した。
④崇徳天皇の西暦1,136年4月6日、熊野山本宮の五重塔の開眼供養が行われた。
⑤後鳥羽天皇の西暦1,184年11月14日、後白河上皇の願として、蓮華王院三十三間堂で万部の経典四巻を読むお経の法要が行われた。
1,231 11 20 此の日は晴れであった。20時、北条時房の公文所が焼亡した。南風が激しく吹き、東は勝長寿院橋辺りまで火が回り、西は永福寺の惣門の内門にまで及んだ。源頼朝・北条義時の法華堂と其の御本尊も灰燼に帰した。人間や家畜の死んだ数は数え切れず、此れは泥棒の放火と云われた。
1,231 11 22 晴れの中、以下2名が評定所にやって来る。
①中原師員
②三浦義村
以下の人間も出仕した。
①二階堂行村
②中条家長
③二階堂行盛
④三善康俊
⑤三善康連
又、以下2名が、源頼朝・北条義時の法華堂と其の御本尊が焼亡した事を報告した。
①伊賀光宗
②佐藤業時
そして「仮令止むを得ない火災であったとしても、源頼朝殿・北条義時殿の法華堂が燃えた事は、鎌倉幕府としては、前途を悲観し、恐るべき出来事である」とした意見書を各々提出した。又、法華堂の再建が検討されたが、以下3名等が「墳墓堂が燃えた際に再建した例は無い」と発言した為、助成金を出して、寺家に言い付ける様決定が為された。
①中原
②伊賀
③康連
更に、藤原頼経と竹御所の御願寺建設の延期も決定され、此れを民衆は徳政であるとして評価した。
1,231 12 13 以下3名の指揮により、五大明王像の建設が開始される。
①中原師員
②伊賀光宗
③三善康連
又同日、焼亡した源頼朝の法華堂の上棟式が、寺家を中心として執り行われた。
1,232 北条時盛が丹波国守護に就任する。
1,232 1 シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュ率いる軍と、マンガル・デヴァ率いるプラティハール族の軍が、グワーリヤルにて戦闘を開始する。
1,232 1 19 晴れの中、五大明王像の御衣木加持が執り行われる。導師は道禅であった。又、藤原頼経が、翌年数え年で15の厄年である事から、お祓いの祈祷も行われた。其の上御本尊の以下が造られ、同じく道禅が開眼供養を執り行った。
①薬師如来
②観音菩薩
③不動明王
1,232 6 18 鳥の不審な行為により、祈祷として、宇津宮辻子御所(現在の神奈川県鎌倉市小町)にて1,000回のお祓いを行った。又、北条泰時は、北条時氏の三回忌に当たり、墳墓堂に阿弥陀三尊像を新造させ、開眼供養を執り行った。導師は定豪が務めた。
1,232 12 12 シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュ率いる軍が、マンガル・デヴァ率いるプラティハール族の軍を破る。デヴァは逃亡した。イルトゥトゥミシュは、自身の部下のマジュドゥル・ムルク・ジヤウディンに、グワーリヤルの要塞の統治を任せた。
1,233 シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュが、本年から翌年に掛けて、グワーリヤルをマリク・ヌスラトゥディン・タイシの支配下に置く。又タイシは、イクターである以下2ヶ所を与えられた。
①スルタン・コット(現在のパキスタンのシンド州シカルプール)
②バヤナ(現在のインドのラージャスターン州)
1,234 シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュが、本年から翌年に掛けて、パラマーラ朝が支配する以下2ヶ所を襲撃する。
①ビルサ(現在のインドのマディヤ・プラデーシュ州ヴィディシャー県)
②ウッジャイン(現在のインドのマディヤ・プラデーシュ州)
イルトゥトゥミシュは、ビルサの占領に成功し、当地の建設に300年を要した寺院を破壊した。又ウッジャインでは、マハーカレーシュワル寺院に損害を与え、大量の戦利品を得たが、パラマーラ朝を併合しようとはしなかった。此の寺院のジョーティルリンガは解体され、寺院に隣接する池であるコティ​​ティールト・クンダに、侵攻の際に奪われたリンガムを支える構造物であるジャラダリと共に投げ込まれた。
1,235 マリク・ヌスラトゥディン・タイシが、以下3ヶ所の部隊を指揮し、カリンジャル(現在のインドのウッタル・プラデーシュ州)のチャンデル砦を攻め、約50日間に渡り略奪を行った。
①カナウジ(現在のインドのウッタル・プラデーシュ州)
②メヘル
③マハバン(現在のインドのウッタル・プラデーシュ州)
其の戦利品の内、1/5がイルトゥトゥミシュの取り分となったが、其れは2,500,000ジタルに上った。タイシが引き上げ、グワーリヤルに帰還する途上、待ち伏せしていたヤジュヴァパーラ王朝王チャハダ・デヴァの襲撃を受けたが、タイシは軍を三手に分け、苦戦しつつも、何とか此れを退けた。
1,235 3 8 定豪が、西暦1,235年2月28日の明王院上棟を受けて、一切経の供養を主催する。指導僧は興福寺の東南院の公宴で、願文は良信が読んだ。以下も出席した。
①藤原頼経
②北条時房
③北条泰時
④武藤左近将監(藤原の刀持ち)
1,235 7 15 明王院(現在の神奈川県鎌倉市十二所)の開眼供養が執り行われる。8時、鋳直した洪鐘が吊るされ、堂に以下の五大明王像が安置された。
①不動明王
②降三世明王
③軍茶利明王
④大威徳明王
⑤金剛夜叉明王
9:30頃から開眼供養が始まり、初世明王院別当に就任した定豪が、明王院平穏の祈祷を行った。
1,235 12 29 藤原頼経が天然痘を発病する。以降様々な祈祷が連日行われた。
1,236 8 23 北条時盛が越後守に就任する。
1,237 1 5 定豪が上洛する。
1,237 1 22 定豪が、第53世東寺長者に就任する。
1,238 クメール王朝王ジャヤーヴァルマン7世に服属していたタイ人土侯が現在のタイのスコータイ県を攻略し独立し、スコータイ王朝が、同県ムアンスコータイ郡に首都を置き建国される。
1,238 11 2 定豪が入滅する。
1,239 第21代パラマーラ朝王デヴァパラ等が奴隷王朝の総督を殺害し、ビルサを奪還する。しかし程無くしてデヴァパラは、ランザンボア(現在のインドのラージャスターン州)のヴァガバタによって暗殺された。ヴァガバタは、デヴァパラと奴隷王朝が手を組んで、自身を殺害しようとしているのではないかと疑っていた。
1,239 3 28 後鳥羽上皇が崩御する。
1,239 3 31 後鳥羽上皇が、源福寺の裏山にて火葬される。其の後、遺灰を埋納して火葬塚が営まれた。
1,240 2 18 北条時房が死去する。
1,240 2 23 北条時盛が鎌倉に入る。北条時房の死去を受けての下向であった。其の後時盛は、鎌倉幕府に、執権に伺候する事を上申したが却下された。背景として、時盛と時盛の弟北条朝直との間の時房流北条氏の惣領権を巡る対立が有った。
1,241 弁覚が、源実朝の菩提の為、四本龍寺(栃木県日光市山内)に三重塔を建立させる。
1,242 6 11 北条時盛が六波羅探題南方を解任される。
1,242 6 11 北条泰時が危篤であるとの情報が六波羅探題に齎される。
1,242 7 北条時盛が出家する。
1,243 ハザール王国が滅亡する。
1,247 12 5 2時、寿福寺境内の失火により、仏殿以下、惣門に至るまで悉く焼亡する。
1,257 3 2 京都の涅槃会にて、宇都宮頼綱の八十賀が執り行われる。藤原為家は、六曲屏風左右一対の十二面に各所絵を描かせ、屏風歌である各月の歌十二首と共に宇都宮に贈った。
1,258 1 17 2時、安達泰盛の甘縄亭から失火する。北風に煽られ、鎌倉市中を超えて寿福寺境内を飲み込み、惣門・仏殿・庫裡・方丈以下、境内一宇も残さず灰燼と化した。
1,260 伊祖城主で伊祖按司の恵祖の息子英祖が、初代英祖王統王に即位する。其の後浦添城(現在の沖縄県浦添市仲間)を築城した。
1,261 英祖が、巡行と諸法の改定を行う。
1,264 英祖が、西北諸島から朝貢を受ける。
1,265 禅鑑が、現在の沖縄に漂着する。其の後仏教を広め、英祖の帰依を受け、浦添城の西に極楽寺(現在の沖縄県浦添市仲間)を開山した。
1,272 3 17 後嵯峨天皇が崩御する。以降以下2名による後継者争いが起きた。
①後深草天皇(持明院統)
②亀山天皇(大覚寺統)
自体を重く見た鎌倉幕府は北条時宗が調停に乗り出した。調停案としては、大覚寺統の後宇多天皇が践祚する際、次期天皇に持明院統の伏見天皇を定めるというものであった。
1,275 ヴェネツィア共和国の商人マルコ・ポーロが大都(現在の中国北京)に到着。
1,275 12 30 以下2名が上洛する。
①北条時盛
②北条時国
時国が六波羅探題南方に就任するに当たっての上洛であった。
1,276 ヴロツワフ(現在のポーランドのドルヌィ・シロンスク県)の管区教会会議にて、壁又は堀によるキリスト教徒の居住地域から隔離されたユダヤ人の為の区画に言及される。
1,277 6 4 北条時盛が死去する。
1,279 3 19 第5代モンゴル帝国皇帝フビライ・ハンが南宋を滅ぼし、モンゴル帝国に併合する。
1,283 第3代スコータイ王朝王ラームカムヘーンが、クメール文字を参考に、タイ文字の基となる文字を作る。
1,285 第23代クメール王朝君主ジャヤーヴァルマン8世が元に朝貢する。
1,291 元が現在の沖縄に攻め込むが、英祖王統軍が撃退する。
1,292 マンラーイがラーンナー王朝を建て、チエンマイを首都とし、初代王となる。
1,292 ジャヤーヴァルマン8世が元に朝貢する。
1,299 オスマン帝国が建国される。
1,299 8 31 英祖が死去する。此れにより長男大成が第2代英祖王統王に即位した。



源実朝一元化




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