万物の系譜

西暦1,101〜1,200年

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源頼家一元化

年月日 出来事
1,112 バガン(現在のミャンマー)にてパーリ語、ピュー語、モン語、ビルマ語で碑文が作られる(ミャゼディ碑文)。
1,118 フランスのシャンパーニュ伯領出身の騎士ユーグ・ド・パイヤンがに至る巡礼路の警備に挺身する。
1,119 エルサレムにテンプル騎士団が設立される。
1,162 南宋で綿の栽培が始まる。
1,162 工藤祐経の父工藤祐継が死去する。その後は祐継の遺言により、叔父である伊東祐親が面倒を見た。
1,162 工藤祐経が元服し、大宮御所の平重盛に烏帽子親として仕える為上洛する。その間に伊東祐親は工藤家の本領伊東荘を占領した。伊東は、自身の祖父である工藤祐隆が、後妻である初代大見城(現在の静岡県伊豆市柳瀬)主大見家政の娘大見玉江の連れ子の娘の産ませた工藤祐継に本領である伊東荘・宇佐美荘を継がせ、嫡流である伊東には河津荘が与えられた事から、不満を持っていた。
1,168 工藤祐経が母から、伊東荘・宇佐美荘・河津荘の三つの荘園領地を、祐経の祖父工藤家継から工藤祐継に相続する譲り状や地検文書が同封された書簡を受け取る。これらの荘園領地を伊東祐親の物であると思っていた祐経は、代官を伊東に差し向け、返還を求めた。伊東は「恩知らずな奴」と怒り、伊東の娘で祐経の妻であった満功御前は土井荘(現在の神奈川県小田原市)を所領とする土肥遠平に嫁がされて排除された。その後祐経は、六波羅に「伊東家の領地の領有権問題」で訴訟を起こし、伊東も検非違使別当から呼び出され、裁判となった。平重盛に財宝・賄賂の寄進を行っていた伊東は、その管理を代行すると言う形で収入を得て、実質的な所有権を確保していた。結果、伊東荘は2分割される事となり、伊東に有利な判決が下った。
1,176 11 工藤祐経が、自身の家臣である弓の名手の以下2名に伊東祐親の暗殺を命じる。
①大見成家
②八幡行氏
大見と八幡は伊豆高原で待ち伏せした。先に伊東の長男河津祐泰が馬に乗って現れた。伊東の館で三日三晩の宴会を催した帰りであった。八幡が矢を放ち河津の腰を貫いた。河津は応戦しようとしたが、力尽きて落馬し死亡した。後からやって来た伊東に対し大見が矢を射たが、僅かに外れて伊東は無傷であった。河津の妻となっていた満功御前は、曾我祐成・曾我時致に父の仇を討つ様言った。祐成と時致は、曾我祐信の曽我氏館に預けられ、養育された。
1,176 11 河津祐泰が死亡した5日後、満功御前が男児を出産する。満功御前は、産まれた赤子を伊東祐清に預けた。
1,179 3 カトリック教会の公会議である第3ラテラン公会議(通算11回目の公会議)がローマのサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂に隣接していたラテラノ宮殿で行われ、キリスト教法として「表立って利子を取る者は、コミュニオンへの参加が認められないだけでなく、彼らが罪深いまま死んだ場合、キリスト教式の埋葬も認められない」と定められる。また、ユダヤ人がキリスト教徒と同居する事を禁じられる。
1,180 12 30 平清盛の五男平重衡が、清盛園城寺(現在の滋賀県大津市園城寺町)に攻め入り焼き払う。
1,181 1 15 平清盛の命を受けた平重衡率いる平氏が、以下の寺院等を焼き討ちにする。
①東大寺(現在の奈良県奈良市雑司町)
②興福寺(現在の奈良県奈良市登大路町)
興福寺は全焼し、東大寺も、二月堂・法華堂・転害門以外は大半が焼け落ちた。後白河上皇は直ちに、大仏殿や伽藍が焼かれた東大寺の復興の意思を示した。
1,181 5 23 重源が、藤原行隆の下を訪ね、東大寺の焼跡を見て回る。その惨状を見た重源は、悲嘆に暮れ涙した。そして、復興への勧進を決意した。
1,181 9 後白河上皇が、東大寺大勧進職に重源を任命する宣旨を下す。重源を中心に、南宋出身の工人の陳和卿等が、大仏の鋳造を始めとする復興に当たった。
1,181 11 14 重源が、後白河上皇の勅許を得て、東大寺再建の為、京都中を勧進して回り始める。先ず後白河上皇・皇嘉門院別当、その後は女院等から銅・銭・黄金等の奉加を受けた。
1,182 8 23 重源が陳和卿と共に、焼け落ちた東大寺大仏を前にして、再建計画を立てる。
1,182 9 11 北条政子が、源頼朝の参男源頼家を、比企能員の屋敷(現在の神奈川県鎌倉市大町の妙本寺)で出産する。
1,182 11 14 以下2名が、比企能員の屋敷から大倉御所に入る。
①北条政子
②源頼家
其の際、頼家の御輿を以下4名が担いだ。
①佐々木定綱
②佐々木経高
③佐々木盛綱
④佐々木高綱
弓矢は長沼宗政、刀は小山朝光が持った。乳母夫の比企能員は贈物をした。比企が乳母夫に選任されたのは、源頼朝が西暦1,160年に蛭ヶ小島(現在の静岡県伊豆の国市)に配流されてから、西暦1,180年に至るまで、頼朝に仕送りをしていた比企尼の恩に報いようとした際、甥の比企を猶子にして乳母夫に推挙した為である。
1,183 3 東大寺大仏の御首の土の原型が出来上がる。
1,183 3 6 陳和卿を含む以下21名が、東大寺大仏の右手の鋳造を完了させる。
①以下の人間を含む南宋人鋳物師7名
❶和卿
❷和卿の弟陳仏寿
②以下の人間を含む日本人鋳物師14名
❶草部是助
❷草部助延
1,183 5 12 陳和卿等が、東大寺大仏の仏頭の鋳造に着手する。
1,183 5 22 陳和卿等が、東大寺大仏の頭部の鋳造を完了させる。
1,183 6 10 陳和卿等が、東大寺大仏の目や鼻等の仏顔を完成させる。以降は表面の研磨と荘厳に作業は移った。用いられた木炭は10,823.4kg程度、熟銅は6,000kg程度であった。荘厳には鍍金と箔押しの2つの技法が併用された。第83世東大寺別当禎喜は、陳を労い、以下を贈った。
①騎馬1疋
②上絹10疋
またこの日九条兼実は、身骨舎利1粒を水晶小塔に納め、鋳造の終わった大仏頭部内に納入した。
1,183 6 19 陳和卿等が、東大寺大仏の御顔を完成させる。
1,184 2 18 陳和卿等が、東大寺大仏の左手の鋳造を完了させる。この日藤原行隆は九条兼実の下を訪れ、左手の鋳造が完了した旨と、当初は、日本人鋳物師を作業に加えた事に対し、南宋人鋳物師は不快感を示していたが、重源の取り成しにより落着した事について報告した。
1,184 3 31 以下2名が惣追捕使に任命される。
①梶原景時(播磨・美作)
②土肥実平(備前・備中・備後)
1,184 6 以下2名が、東大寺の大仏の鍍金料を献納する。
①源頼朝:1,000両
②藤原秀衡:5,000両
1,184 8 1 藤原行隆が九条兼実の下を訪れ、東大寺大仏の体部の鋳造が完了した事を報告する。更に、翌月中には仕上げと表面の荘厳、その後開眼となるだろうと、見通しを述べた。
1,184 8 宇佐神宮(現在の大分県宇佐市)から年貢米が納められていなかった事、また宇佐神宮大宮司家の宇佐公通が平家方に付いていた為、以下2名等が、宇佐神宮を焼き討ちする。
①臼杵惟隆
②臼杵惟隆の弟緒方惟栄
さらに以下を実行した。
①神殿の破壊
②宝物・古文書の奪取
③神官の殺害
これを受け朝廷は、神罰を恐れ、臼杵と緒方の流罪を決定した。
1,185 4 8 源頼朝が、重源に以下の品目を寄進する。
①米1,500,000kg
②砂金1,000両
③上絹1,000疋
寄進を約束してから8ヶ月程度経ってからの納入であった。
1,185 5 16 源頼朝が、自由任官の禁止令に違反し、内挙を得ずに朝廷の官職に就いた関東の武士に対し、朝廷での勤仕を罵り、墨俣川(現在の長良川(現在の岐阜県・愛知県・三重県)以東への東下を禁じる命令書を下す。これを破った者は本領を没収し斬罪に処する、とした。しかし、頼朝の異母弟である源義経も任官を受けたが、名指しでの批判は無かった。
1,185 5 22 源頼朝が、侍所所司梶原景時から「源義経はしきりに追討の功を自身一人の物としている」と義経を弾劾した書簡を受け取る。
1,185 5 27 後白河上皇が頭弁藤原光雅を九条兼実の元に派遣し、源頼朝を従二位に叙したいとの考えを伝えて意見を求める。後白河上皇は、従三位は摂津源氏である源頼政と同じとなってしまい、河内源氏の頼朝が大きな武功の無い頼政と同じに扱われて無念に思うかも知れない、正三位でも平清盛が平治の乱の戦功で得た位階で、平治の乱で親兄弟を殺されて自身も配流された頼朝が不快になるかも知れないと危惧していた。これに対し九条は「そのようなことは頼朝は気にはかけないでしょうが、後白河上皇が気にされるのであれば頼朝の勲功は過去に比類無きものである為問題無いでしょう」と答えた。しかし藤原が去った後九条は、従二位は過分であり、従三位とした上で官職を与えて不足を補うべきであると愚痴を述べた。
1,185 5 27 以下3名等の捕虜が、土肥実平・伊勢義盛の警護により京都に到着し、源義経邸に入る。
①平宗盛
②平清宗
③平時忠
浄衣を着た宗盛は、簾を上げた車に清宗と同車して、大路を渡った。
1,185 5 28 源頼朝が平家追討の功により従二位に叙される。
1,185 5 28 重源が九条兼実の下を訪れ、予め手配されていた舎利3粒を納めた五色の五輪塔を、敬白文と共に五色の錦袋に入れた物を受け取る。重源は、間近に迫った東大寺大仏の開眼準備の為、大仏の胎内に納める舎利を集めていた。
1,185 5 30 源頼朝が西海(現在の長崎県)にいた田代信綱に「源義経には、代官として御家人をつけて西国へ行かせたが、全て自分の手柄と思い込み、個人的な命令をする為、恨んでいる者が多い。従って今後は義経の命令に従う必要はない」という主旨の書簡を送る。
1,185 6 一条能保が鎌倉に到着し、源頼朝と共に勝長寿院の造営の進捗度合を監督する。
1,185 6 4 源頼朝が梶原景時に「源義経には、代官として御家人をつけて西国へ行かせたが、全て自分の手柄と思い込み、個人的な命令をする為、恨んでいる者が多い。従って今後は義経の命令に従う必要はない」という主旨の書簡を送る。
1,185 6 6 源義経が、壇ノ浦(現在の山口県下関市みもすそ川町)で捕縛した以下2名を護送して、鎌倉へ向かう為に京都を出発する。
①平宗盛
②平宗盛の長男平清宗
しかし源頼朝は義経の鎌倉入りを許さず、宗盛・清宗のみを鎌倉に入れた。義経は山内荘の満福寺(現在の神奈川県鎌倉市腰越)に留め置かれた。義経が頼朝の怒りを買った要因は以下である。
①内挙を得ずに朝廷の官職に就いた。
②平家追討に当たり頼朝に軍監として仕えていた梶原景時の意見を聞かず、独断専行で事を進めた。
③壇ノ浦での戦闘後に義経が源範頼の管轄である九州へ越権行為をして仕事を奪い、配下の東国武士達に対しても僅かな過ちでも見逃さずこれを咎め立てし、頼朝を通さず勝手に成敗し武士達の恨みを買うなど、専横的な振る舞いが目立った。西国武士を率いて平家を滅亡させた義経の多大な戦功は、恩賞を求めて頼朝に従っている東国武士達の戦功の機会を奪う結果になり、鎌倉政権の基盤となる東国御家人達の不満を噴出させた。
1,185 6 19 以下9名の流罪が決定される。
①平時忠(能登国)
②平時実(周防国)
③平信基(備後国)
④藤原尹明(出雲国)
⑤良弘(阿波国)
⑥全真(安芸国)
⑦忠快(伊豆国)
⑧能円(備中国)
⑨行命(常陸国)
1,185 6 23 源義経が満福寺にて、源頼朝に対し叛意が無い事を示す書簡を書き、頼朝の腹心である大江広元に託す。下書きは武蔵坊弁慶が書き、義経が筆入れを行った。
1,185 6 23 平頼盛が出家する。
1,185 7 3 朝廷での諸官職を任命する儀式である除目が行われる。源頼朝が推薦した者は以下で、源義経は外された。
①平頼盛(権大納言)
②平光盛(侍従)
③平保業(河内守)
④一条能保(讃岐守)
⑤源範頼(三河守)
⑥源広綱(駿河守)
⑦大内義信(武蔵守)
1,185 7 7 源頼朝が以下4名に対し帰洛を命じる。
①源義経
②平宗盛
③平清宗
④平重衡
宗盛・清宗は橘公長・宇佐美実政によって護送された。又、重衡は前年から狩野宗茂の屋敷に居たが、南都衆徒の要求により南都に引き渡される事となり、源頼兼が護送した。義経は鎌倉を発つに当たり「関東に於いて怨みを成す輩は、義経に属くべき」と発言した。
1,185 7 11 4日前の源義経の「関東に於いて怨みを成す輩は、義経に属くべき」という発言に激怒した源頼朝が、源義経に与えられていた平家没官領24ヶ所を没収し、関東の武士に与える。
1,185 7 18 平宗盛が、橘公長によって近江国篠原宿にて斬首される。
1,185 7 19 平清宗が、堀景光によって近江国野路口(現在の滋賀県草津市)にて斬首される。
1,185 7 20 南都の衆徒の要求により、平重衡の身柄が東大寺の使者に引き渡される。
1,185 7 21 以下2名の首が六条河原(現在の京都府京都市)に移される。その後検非違使平知康等が受け取り、獄門の前の木に梟首された。
①平宗盛
②平清宗
1,185 7 21 平重衡が、法然と面会し受戒する。その後、現在の京都府木津川市木津宮ノ裏付近にて、この世の名残として柿を食べた上で斬首される。その後般若寺(現在の奈良県奈良市般若寺町)にて梟首された。
1,185 7 28 この時点で後白河上皇が以下の国をを院分国として、平頼盛に知行権を与えていた。
①播磨国
②備前国
1,185 8 23 配流されていた忠快が伊豆国田方郡小河郷(現在の静岡県三島市壱町田〜現在の静岡県駿東郡清水町湯川)に到着する。その後狩野宗茂の監視下に置かれるが、平家の虜囚であったにも拘らず、源頼朝や御家人の帰依を受けた。
1,185 9 11 小除目が行われ、源頼朝の申し入れにより、以下6名が叙位任官を受ける。
①源義経(伊予守)
②山名義範(伊豆守)
③大内惟義(相模守)
④足利義兼(上総介)
⑤加賀美遠光(信濃守)
⑥安田義資(越後守)
1,185 9 18 重源が、後白河上皇が寄進した舎利を東大寺大仏腹部に納めるに際し、敬白文を発する。重源は、自身が始め醍醐寺、後に高野山に住み、各地の霊地名山を巡礼し、奥州及び九州にも布教した事、また南宋へ渡り、五台山(現在の中国山西省忻州市五台県)に参詣し、文殊の瑞光を拝した事、帰国後、夢想のお告げによって焼亡直前の東大寺大仏を参拝した事等と共に、この舎利を第22世醍醐寺座主勝賢が100ヶ日祈祷し、東大寺大仏の腹内に納める経緯を記した。
1,185 9 23 6時、嵐の中、陳和卿の尽力により再興された、東大寺大仏殿の開眼供養が執り行われる。後白河上皇以下公家100名と、以下の南都七大寺の僧が1,000名余り参加した。
①東大寺
②興福寺
③元興寺(現在の奈良県奈良市芝新屋町・中院町・西新屋町)
④大安寺(現在の奈良県奈良市大安寺)
⑤西大寺(現在の奈良県奈良市西大寺芝町)
⑥薬師寺(現在の奈良県奈良市西ノ京町)
⑦法隆寺(現在の奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内)
開眼師・呪願師・導師はそれぞれ以下が務めた。
①開眼師:定遍
②呪願師:藤原忠通の九男で慈円の異母弟の信円
③導師:覚憲
後白河上皇の近臣3名が大仏殿の麻柱を登り、続いて、後白河上皇も近臣3名の助けを借りて大仏殿の麻柱を登り、後白河上皇自ら、勅封蔵に保管されていた、菩提僊那も手にした65.2㎝の長さの筆を執って開眼した。この時点で大仏殿はまだ仮屋であり、足場を組んで、金の施された大仏の顔の前まで登れる様にした。此の時の大仏は、面部こそ金色であったが、体部はまだ荘厳が為されていない状態であった。近臣3名は開眼の後、仏面の前に貼ってあった板を剥がした。この後白河上皇の点晴は単なる儀式であり、隠していた覆いを取る事によって、完成された眼を見せるという演出であった。源雅頼は「大仏の面相が昔に比べて劣る」と感想を述べた。16時に供養は終了した。
1,185 9 27 此の時点で源義経は平時忠の娘蕨姫を側室としていた。其の縁で平は京都に滞在し、源頼朝の怒りを買っていた。
1,185 9 27 以下2名等が上洛する。
①梶原景季
②小野成尋
目的は以下であった。
①勝長寿院での供養に用いる道具を入手する。
②平氏残党の配流を朝廷に促す。
③源義経が源行家を支援しているという情報の真偽の確認。
到着すると直様源義経の下を訪れるが、病気を理由に面会を断られた。
1,185 9 29 梶原景季等が再度源義経を訪れ、面会が実現する。義経は憔悴した姿で現れた。梶原が源に対し、源行家追討を要請したが、以下2点を理由に拒否した。
①病である。
②叔父に当たる行家は同じ源氏である。
1,185 10 18 平時忠の能登国への流罪が実行される。
1,185 10 30 梶原景季が京都から鎌倉へ帰参する。其の後源頼朝へ源義経と面会した旨を報告した。父の梶原景時は「面会を2日待たせたのは不審である。食を断って衰弱して見せたのに相違なく、義経と行家は既に同心している」と言上した。
1,185 11 緒方惟栄が、平家討伐の功によって赦免される。
1,185 11 一条能保が、源頼朝から勝長寿院の供養に関する相談を受ける。
1,185 11 2 源頼朝等が源義経征伐に関し評議を行い、土佐坊昌俊の京都派遣が決定される。土佐坊は周囲が辞退する中進んで引き受け、頼朝からお褒めの言葉を貰った。又、土佐坊は頼朝から9日で上洛する様指示を受けた。同日、以下の者を含む83騎が京都へ向けて鎌倉を発った。
①土佐坊の弟三上家季
②錦織三郎
③門真太郎
④藍澤二郎
1,185 11 6 源義経が後白河上皇に拝謁し、源頼朝征伐の院宣を求める。
1,185 11 10 夜、土佐坊昌俊が60数騎を率い、源義経の六条室町の屋敷を襲撃する。義経の侍達は西河辺(現在の京都府京都市南区東九条西河辺町)の遊郭に遊びに行っており、警固が手薄であった。しかし義経側は自ら門を開け、佐藤忠信等の残っていた少ない部下と共に応戦した。騒ぎを聞き付けた源行家も駆け付け、後ろから加勢し、土佐坊達を挟み撃ちにした。予想外の反撃に土佐坊達は退散した。義経は直ちに仙洞御所(二条河原(現在の京都府京都市中京区))に赴き、後白河上皇に拝謁し、土佐坊が自身の屋敷を襲撃した一部始終を報告した。土佐坊達はその後鞍馬山(現在の京都府京都市左京区)に逃げ込んだが、後に義経の郎党に捕えられた。
1,185 11 11 以下2名が後白河上皇から源頼朝征伐の院宣を受ける。
①源義経(九国地頭に補任)
②源行家(四国地頭に補任)
義経は挙兵するが、賛同する者は殆どいなかった。
1,185 11 15 源頼朝が以下2点の報告を受ける。
①土佐坊昌俊が源義経征伐に失敗した。
②以下2名が後白河上皇から源頼朝征伐の院宣を受けた。
❶源義経
❷源行家
1,185 11 17 源頼朝が源氏一門や御家人を集め、父源義朝の菩提寺である勝長寿院の開堂供養を行う。一条能保も正室坊門姫と共に参列した。夜、頼朝は、後白河上皇による頼朝征伐の院宣に対抗し、以下2名に「明日上洛する」と告げた。
①和田義盛
②梶原景時
出発出来る者の名簿を求めたが、その時鎌倉に集まっていた千葉常胤を始めとする2,098名の武士の内、以下2名を含む58名しか応じなかった。
①小山政光の長男小山朝政
②結城朝光
1,185 11 18 以下2名追討の為、先遣隊の御家人が京都へ向けて鎌倉を出発する。
①源義経
②源行家
1,185 11 19 土佐坊昌俊と家人が六条河原にて斬首・梟首される。
1,185 11 24 源頼朝一行が駿河国黄瀬川(現在の静岡県)に到着する。源の命により、京都の情報収集の為暫く黄瀬川に逗留する事となった。
1,185 11 26 早朝、源義経が甲冑を身に纏い、以下の人間と共に、200騎を率い鎮西へ向けて京都を脱出する。
①源行家
②緒方惟栄
③平時実
④一条能成
⑤源有綱
⑥堀景光
⑦佐藤忠信
⑧伊勢義盛
⑨片岡常春
⑩武蔵坊弁慶
1,185 11 27 多田行綱が摂津国河尻(神崎川河口(現在の兵庫県尼崎市))にて源義経一行を発見し、摂津国太田城(現在の大阪府茨木市)主太田頼基等と共に襲撃する。多田達が行手を阻み矢を射たが、源達は駆け破って撃退した。
1,185 11 28 夜、源義経の船団が摂津国大物浦(現在の兵庫県尼崎市)から出航する。しかし、暴風に遭遇し、大半の船が転覆した。源の船は住吉浜に打ち上げられるが、従者は逃げ去り、残った従者は以下4名となった。
①源有綱
②堀景光
③武蔵坊弁慶
④静御前
義経一行は此の日天王寺周辺に宿泊した。
1,185 11 29 源義経遭難の噂が京都に広まる。九条兼実は「可哀相だが、天下にとって大慶」という主旨の発言をした。
1,185 11 30 源義経が検非違使と伊予守の官職を罷免される。
1,185 12 源頼朝の弾劾により、一条能成が侍従を罷免される。
1,185 12 伊勢義盛が、鈴鹿山(現在の三重県亀山市・滋賀県甲賀市)にて伊勢国・伊賀国守護山内首藤経俊を襲撃するが敗れる。
1,185 12 1 源頼朝が、黄瀬川にて源義経が都落ちした旨の報告を受け、上洛を中止して以下2名を京都へ派遣する。源は鎌倉へ引き返した。
①藤原重弘
②昌寛
1,185 12 3 源頼朝が鎌倉に到着する。
1,185 12 4 後白河上皇が、西暦1,185年11月11日の源頼朝征伐の院宣を撤回し、以下2名征伐の院宣を下す。
①源義経
②源行家
1,185 12 5 大江広元の献策により、源頼朝が守護・地頭の設置を朝廷に奏請する事を決定する。
1,185 12 8 高階泰経の使者が鎌倉に到着し、一条能保経由で源頼朝に「源義経・源行家の謀反は天魔の為す事で、彼らは院宣を出さなければ宮中で自殺すると脅してきました。其の場凌ぎで院宣を出しただけで、実際に追討する意図はありませんでした」という主旨の書簡を渡す。頼朝はその書簡を投げ捨て、使者に対し「天魔は仏法を妨げ人に害を為すもので、義経・行家の件を天魔の仕業というのは根拠が無い事だ。数多くの朝敵を倒し世の政務を任された私の忠節を、どうして直ぐに反逆に変えてしまうのか。特別な院の意志でなく院宣を下されたのか?義経・行家を捕えずにいる間に、諸国は疲弊し、人民が死んでいく。よって日本第一の大天狗が他の者で無いなどという事があろうか」という主旨の発言をした。
1,185 12 10 源義経が大和国吉野山(現在の奈良県吉野郡吉野町)に潜伏しているとの噂を聞き付けた吉野山の執行僧兵が、源を捜索するが見つからなかった。22時、静御前が藤尾坂を下り、金峯山寺本堂(現在の奈良県吉野郡吉野町)に到着した。其の姿を不審に思った衆徒達は執行僧兵を連れてきて静御前に質問した。静御前は「私は源の妾です。大物浜より源は此の山に来ました。5日間逗留しましたが、衆徒蜂起の噂を聞いて、源は山伏の姿を借りて逐電してしまいました。其の時数多くの金銀類を私に与え、雑色男達を付けて京都に送ろうとされました。しかし彼らは財宝を奪い取り、深い峯雪の中に捨て置いて行ってしまったので、此の様に迷って来たのです」という主旨の回答をした。静御前は其の儘捕縛された。
1,185 12 11 静御前の証言に基づき、前日に続き吉野山にて源義経の捜索が行われるが、見つからなかった。吉野山の執行僧兵は静御前を十分に労ってから鎌倉に差し出す事にした。
1,185 12 13 平時実が、京都へ向かう途中、村上経業の弟禅師経伊に捕縛される。
1,185 12 15 源義経が多武峰(現在の奈良県桜井市にある談山神社)に到着する。
1,185 12 18 北条時政が、源義経に源頼朝追討の院宣を出す等の朝廷の行状に対して頼朝の不満を伝える為に上洛する。
1,185 12 19 後白河上皇が、高階泰経の伝奏によって、源頼朝が、源義経・源行家の謀反に泰経が関与した事を疑い、憤っている事を聞いた上で、以下2名を解官し、蟄居させる。
①泰経
②泰経の長男で右馬頭の高階経仲
1,185 12 21 北条時政が、初代関東申次吉田経房を通じて後白河上皇に守護・地頭の設置を奏請し、許可され、勅許が下される。これにより北条が初代京都守護に任命された。
1,185 12 22 多武峰の寺院の1つで、談山神社の真向かいに所在する南院藤室の僧十字坊の手配により、源義経が遠津河(現在の奈良県五條市)に逃れる。
1,185 12 29 源頼朝が後白河上皇に対し、朝廷改革として以下4名を含む12名の解官を要望する。
①平親宗
②高階泰経
③高階経仲
④平知康
さらに源は、以下の公卿10名を、重要政務の合議にに当たらせ、天皇に具申する事を職務とする「議奏」に任命する事を要請した。
①九条兼実
②徳大寺実定
③三条実房
④藤原宗家
⑤中山忠親
⑥藤原実家
⑦源通親
⑧吉田経房
⑨藤原雅長
⑩藤原兼光
また源は、九条に関して内覧宣下を願い出た。
1,185 12 31 吉野山の執行僧兵が、静御前を北条時政の居る京都の屋敷に送る。又、同日に源義経捜索の為の軍が吉野山に差し向けられた。
1,186 1 7 静御前が、北条時政が鎌倉へ向けて送った書簡の内容から、自身の証言を打ち明ける。
「源義経が都を出て西海(西海道、現在の日本の九州)へ赴いた明け方、一緒に連れ立って大物浜に到着しました。其れから船が難破し海を渡る事が出来ませんでした。其の夜は天王寺で宿泊し、源はそこから逃げて姿を隠しました。迎えを寄越すので一両日の間ここで待つように約束し、但し約束の日を過ぎたら直様立ち去る様に言われました。暫く待っていると、馬を送ってきたのでこれに乗り、何処へ行くか分からない儘3日目に吉野山に着きました。其処で5日間逗留し、其れを最後にお別れしました。其の後の行方は知りません。私は深山の雪を凌ぎ、やっとの事で金峯山寺本堂に着いた所、吉野山の執行僧兵に捕らえられました」
1,186 1 8 鎌倉から、京都にいる北条時政に対し返書が送られる。
1,186 1 21 西暦1,185年12月29日の源頼朝の要望が通り、以下10名が議奏に任命される。
①九条兼実
②徳大寺実定
③三条実房
④藤原宗家
⑤中山忠親
⑥藤原実家
⑦源通親
⑧吉田経房
⑨藤原雅長
⑩藤原兼光
1,186 1 22 源義経の探索と、鎮西における鎌倉勢力の確立を目的に創設された九州惣追捕使に、天野遠景が補任される。
1,186 1 27 平時実が、京都から鎌倉に到着する。平は一切弁解をしなかった。ただ、公家の罪を鎌倉で裁く事は出来ないという理由により、京都に返される事となった。
1,186 2 16 平時実が上総国に配流される。
1,186 2 20 源義経の行方が未だに掴めなかった為、北条時政が、鎌倉から静御前を差し出す様催促される。
1,186 3 以下2名が京都へ帰る。
①一条能保
②坊門姫
この時源頼朝は、坊門姫を後鳥羽天皇の乳母に推薦していた。
1,186 3 5 北条時政が静御前を鎌倉に送る旨を綴った返書が鎌倉に届く。
1,186 3 23 静御前が、母の磯禅師と共に鎌倉に到着し、拘留先である安達清経の屋敷に入る。
1,186 3 23 北条時政が、七ヶ国地頭を辞任して惣追捕使の地位のみを保持するつもりでいる事を後白河上皇に院奏する。
1,186 3 28 静御前が、問注所の役人に源義経の行方に関する取り調べを受ける。静御前は「吉野の山中ではなく、其の僧坊である。しかし山の大衆蜂起の事を聞いて、其処から源は山伏の姿になり、大峰山(現在の奈良県吉野郡天川村洞川)に入ると言って僧に送られて山に入りました。自分もまた跡を慕って一の鳥居の辺りまで行ったが、其の僧に女人は大峰山に入るべからずと叱られたので、止む無く都の方へ向かった。ところが同行していた雑色達が財宝を奪って逃げてしまい、金峯山寺本堂に迷い着きました」問注所の役人は静御前に僧の名を尋ねたが、静御前は「忘れた」と回答した。問注所の役人は、京都での申し立てと今回の内容に違いがあり、大峰山に入ったと言っているが、多武峰に向かった後隠れたとの噂があるので、虚偽があるだろうから重ねて取り調べる様命じられた。
1,186 4 3 九条兼実が、後白河上皇から摂政・氏長者を宣下される。
1,186 4 6 源義経が伊勢国伊勢神宮(現在の三重県伊勢市宇治館町)を参拝し、所願成就の為に戦で身に付けていた金製の剣を奉納する。
1,186 4 13 静御前が再び源義経の行方に関する取り調べを受けるが「知らない」と回答する。また、静御前が源の子を妊娠していた為、鎌倉側は出産の後、京都に帰す事にした。
1,186 4 14 周防国が東大寺造営料国となる。これにより、周防国は東大寺の管轄となり、重源に国務管理が一任される事となった。
1,186 4 20 北条時政が、北条時定を含む35名を洛中警衛に残して、京都から鎌倉へ向けて出発する。これにより一条能保が第2代京都守護に就任した。
1,186 4 28 以下2名が鶴岡八幡宮寺(現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下)を参拝する。
①源頼朝
②源頼朝の御台所北条政子
此の時静御前は舞を行う様命じられ、控えの間から回廊に召し出された。以前から静御前は舞を行う様命じられていたが、病気の為と称して断ったり、我が身の不遇はあれこれ言う事は出来ないと雖も、源義経の妾として晴れの場に出るのは頗る恥辱であると言って渋り続けていた。しかし北条が「天下の舞の名手がたまたまこの地に来て、近々帰るのに、その芸を見ないのは残念な事」と言いしきりに頼朝に勧め「八幡大菩薩に供えるのだから」と言って静御前を説得した。静御前は「義経と別離してからまだ日も浅く、気が塞いでいるので舞う気にならない」と言って固辞するも再三の命によって舞うことになった。静御前は白拍子の舞を命じられ、義経を慕う歌を唄い頼朝を激怒させるが、北条は「私が静御前の立場であってもあの様に歌うでしょう」と取り成して静御前を助命した。又、静御前が身籠っている事に関し、頼朝は「女子なら助けるが、男子なら殺す様に」と命じた。男子であれば将来に禍根を残す恐れがある為である。
1,186 4 30 重源が、以下の人間等を率い周防国へ下向する。
①陳和卿
②番匠物部為重
③番匠桜島国宗
源平合戦の直後であった為、周防国は疲弊していた。以降周防国は東大寺への材木の供給源となった。
1,186 5 和泉国日根郡近木郷(現在の大阪府貝塚市畠中)の日向権守の清実の屋敷に潜伏していた以下3名が、北条時定・常陸坊昌明等に捕縛される。源は地元民の密告により捜索されていた。
①源行家
②源行家の長男源光家
③源行家の弐男源行頼
1,186 5 8 以下4名等が、得地保(現在の山口県山口市徳地堀)の杣山に入る。
①重源
②陳和卿
③物部為重
④桜島国宗
材木の切り出しは、1本の柱につき牛120頭を要する程の作業であった。材木を引く人夫の確保を現地の地頭が妨害した為、重源は朝廷に訴え、さらに朝廷がこの旨を鎌倉幕府に伝え、妨害を停止させた。39.39mの棟木を始め、柱・梁・垂木等の木材を東大寺へ運搬する為、重源は、川に堰を造り、川の水を溜めた上に木材を浮かべ、一気に堰を切って次の堰まで木材を押し出す方法を採用した。瀬戸内海からは筏を組んで運搬した。これにより、3,000名必要とする人夫を70名で済ませる事に成功した。また、伐採や東大寺大仏殿の立柱の際は、滑車を使用した。
1,186 6 源義経が比叡山(現在の滋賀県大津市・京都府京都市左京区)に入る。
1,186 6 1 源行家が赤井河原(現在の京都府京都市伏見区羽束師古川町)で斬首・梟首される。
1,186 6 2 以下2名が赤井河原で斬首される。
①源光家
②源行頼
1,186 6 3 以下の御家人達が静御前の宿所にやって来て宴会を催す。
①工藤祐経
②梶原景茂
③千葉成胤の弟千葉常秀
④八田朝重
⑤藤原邦通
磯禅師が舞を披露した。酔った梶原は静御前に艶言を投げ掛け、静御前は「源義経は源頼朝の御兄弟、私は其の妾です。御家人の身分でどうして普通の男女の事の様に思われるのか。義経が落ちぶれなければ、貴方ごときに対面する事さえ出来ない筈なのに。況してや其の様な艶言など以ての外です」と言って大泣きした。
1,186 6 14 常陸坊昌明等の飛脚が源行家の首級を持参し、鎌倉に入る。その後常陸坊は以下の主旨の報告を行った。
「行家が和泉・河内の両国に潜伏しているとの情報を得て捜索していた所、和泉国の在庁官人である日向権守の清実の元に匿われていた。密告によって日根郡近木郷の現場へ急行、直ちに包囲したものの、行家は裏山へ逃げ込んで民家の二階に隠れたとの事。北条時定が背後から、常陸坊が正面から突入。行家の郎党が必死に防戦するも常陸坊はこれらを制して行家を捕らえ、北条時定が梟首とした。また行家の子である光家も討ち取った」
1,186 6 16 夜、源頼朝の長女大姫の依頼により、静御前が勝長寿院にて舞を行う。静御前は禄を賜った。
1,186 6 24 源義経の母常盤御前が、義経の異父妹と共に、感応寺(現在の京都府京都市上京区梶井町)にて、源頼朝の配下に捕縛される。常盤御前は、義経は岩倉(現在の京都府京都市左京区)にいると証言した。その後岩倉や仁和寺(現在の京都府京都市右京区御室大内)を以下2名等が捜索するが、義経を見つける事は出来ず、現在は比叡山にいるという情報を聞き付ける。
①梶原朝景
②後藤基清
1,186 7 4 源有綱が、郎党と共に潜伏していた大和国宇陀郡にて北条時定の手勢に発見され、抵抗の末に山深くに入って自害する。
1,186 7 10 源義経が比叡山を出発する。
1,186 8 11 伊勢義盛が、鈴鹿山にて鎌倉方に発見され、斬首・梟首される。
1,186 8 26 一条能保が鎌倉に到着する。一条は、源義経の雑用を務めていた五郎丸が捕縛され、源が、比叡山の僧兵俊章・承意・仲教等の庇護を受け、比叡山に西暦1,186年7月10日頃迄潜伏していた事を白状した事を、以下2名に対し報告した事を明かした。
①藤原実明の息子で第59代天台座主の全玄
②九条兼実の同母弟で天台宗の僧慈円
1,186 8 27 一条能保が、前日に以下2名に報告した件を後白河上皇に奏上する。
①全玄
②慈円
1,186 9 1 後白河上皇が、九条兼実等の公卿に対し、源義経の捕縛について協議させ、比叡山の以下の末寺や荘園に対し、源を直ちに捕縛する様命じる。
①延暦寺(現在の滋賀県大津市坂本本町)東塔
②延暦寺西塔
③延暦寺横川
結果、3名の僧兵が差し出されたが、源の行方は掴めなかった。
1,186 9 11 一条能保が鎌倉に到着する。俊章・承意・仲教等の比叡山の僧兵を引き渡す様、全玄に申し入れたが「既に逃げてしまった」という返事であった事を報告した。
1,186 9 11 比叡山の全玄以下の門徒や僧綱達が協議し、源義経捜索の為の祈祷を鎌倉方に申し出る。
1,186 9 13 源頼朝が、伊勢大神宮の内宮である皇大神宮の禰宜を鎌倉に呼び出し、駿河国の上御厩を寄進する。
1,186 9 14 静御前が、源義経の男子を出産する。西暦1,186年4月28日の源頼朝の命に従い、安達清経は静御前に対し由比ヶ浜(現在の神奈川県鎌倉市)に男子を遺棄する様命じた。これに先立ち安達は男子を受け取ろうとするが、静御前は此れを拒み叫喚した。安達は激しく催促すると、磯禅師が恐縮し、男子を取り上げて安達に渡した。北条政子も頼朝に助命を嘆願したが叶わなかった。
1,186 10 29 静御前が京都へ向けて鎌倉を出発する。この際哀れんだ以下2名は、多くの重宝を静御前に持たせた。
①北条政子
②大姫
1,186 11 2 堀景光が、京都にて以下2名により捕縛される。
①糟屋有季
②比企朝宗
堀は以下2点を白状した。
①源義経が興福寺に聖弘によって匿われている。
②自身が使者として度々藤原範季と連絡を取っていた。
1,186 11 3 比企朝宗が、興福寺にある聖弘の屋敷を訪れたが、源義経を見つけ出す事が出来ず、京都に帰還する。聖弘は捕縛され、結城朝光の下に預けられた。
1,186 11 4 佐藤忠信が、人妻であるかつての恋人に手紙を送り、その夫が糟屋有季に密告した事から、佐藤が左京二条四坊一町にある中御門東洞院(現在の京都府京都市上京区京都御苑)に潜伏している事が発覚し、糟屋は多数の兵で襲撃する。佐藤は精兵で応戦するも多勢に無勢で、郎党2名と共に自害した。
1,186 12 緒方惟栄が、上野国沼田(現在の群馬県)に配流される。
1,186 12 藤原範季が、源義経を匿ったという理由により、源頼朝の要請により解官される。
1,186 12 6 源頼朝が、自身が安達盛長に命じた、甘縄神明神社(現在の神奈川県鎌倉市長谷)の社殿の修復と、四面の荒垣や鳥居の建設が完了した為、以下の人間を伴い甘縄神明神社を参詣する。
①長沼宗政
②結城朝光
③千葉胤正
④佐々木盛綱
⑤梶原朝景
⑥梶原朝景の弐男梶原景貞
1,186 12 11 九条兼実の長男九条良通が、第43代内大臣に就任する。
1,187 2 5 興福寺の僧信円が、興福寺が武力介入による自治権の侵害を受けた事を朝廷に訴える。これに対し一条能保が陳謝した。興福寺は多くの僧兵を抱え、大和国を事実上支配していた為、守護が置かれず、武家不介入の治外法権を維持していた。
1,187 3 1 源頼朝が、伊勢神宮に対し、祈祷の礼として以下を奉納する。
①神馬8頭
②砂金20両
③剣2腰
1,187 3 21 源義経が、正室の郷御前や娘と共に、第3代奥州藤原氏当主藤原秀衡を頼り、奥州へ向けて出発する。義経一行は、山伏や稚児に変装していた。
1,187 4 14 源頼朝が、東大寺再建の為の材木の切り出しの命令に従わずに怠けている周防国の地頭等に、精勤するよう命ずる書簡を発する。周防国守護佐々木高綱も材木の切り出しに協力し、源は佐々木を称賛した。
1,187 4 18 聖弘が鎌倉に召し出され、源義経を匿った事に関し、源頼朝から尋問を受ける。頼朝は「義経は天下を乱す凶臣で、其の行方を眩まし、朝廷からは処刑する様求められている。其の為、天下の人々が皆義経に従わないでいるのに、貴方だけが義経の為に祈祷を行っている。しかも、義経に同意して何か企んでいるという噂も耳にするが、其れはどうしたことか」と問うと、聖弘は「師弟の誼みで頼ってきたので迎え入れたものであり、祈祷は義経を諫めて逆心を宥めるもので、何ら罪になるものでは無い。抑今の関東の安全は義経の武功によるものであり、讒言により其の奉公を忘れ、恩賞の地を取り上げれば逆心を抱くのは当然であり、義経を召し返して水魚之交をする事が、国を治める方法というものである。此れは義経を弁護するものではなく、天下静謐を求めての事である」と答えた。此の聖弘の態度に感心した頼朝は、勝長寿院の供僧職を与え、関東繁栄の祈祷を行う様命じた。
1,187 8 15 藤原忠衡が、鹽竈神社(現在の宮城県塩竈市)に燈籠を寄進する。
1,187 10 源義経一行が、田川館(現在の山形県鶴岡市田川)を経由して平泉に到着し、以降藤原秀衡によって匿われた。
1,187 10 30 天叢雲剣の捜索を源頼朝から命じられ、壇ノ浦を捜索していた厳島神社(現在の広島県廿日市市宮島町)神主佐伯景弘が、天叢雲剣を見つける事が出来なかったという報告を行う。
1,187 11 30 藤原秀衡が、以下3名に起請文を書かせ、源義経を主君として給仕し、三人一味の結束を以て源頼朝の攻撃に備える様遺言を残し、病没する。
①義経
②秀衡の長男藤原国衡(母は側室)
③秀衡の弐男藤原泰衡(母は正室藤原基成の娘)
此れにより義経は庇護者を失った。又、泰衡が第4代奥州藤原氏当主に就任し、義経を「大将軍」とし、事実上の後継者に据えた。
1,187 12 12 佐々木経高が、朝廷に馬を貢ぐ際の使者を務める。
1,188 平重衡等による西暦1,181年1月15日の南都焼き討ちで焼失した手向山八幡宮の仮殿が、重源主導で建設される。
1,188 2 4 九条良経が正二位に昇叙する。
1,188 2 5 権中納言源通親が、若輩の九条良経が正二位に昇叙したとして朝廷に抗議し、自らの所職を辞して自らも正二位に叙すことを求める。しかし、九条兼実は「前年に従二位に叙した恩を知らないのは禽獣に異ならない」と罵倒し、両者に亀裂が入った。
1,188 3 7 源義経が平泉(現在の岩手県西磐井郡)に潜伏している事が、源頼朝を始めとする鎌倉方に知られる。
1,188 3 19 未明、九条良通が急死する。良通と前夜に雑談をしていた父の九条兼実は打ちのめされ、出家も考えたが、思い留まった。
1,188 3 20 後白河上皇が、源頼朝の要請を受け、以下2名に対し、源義経征伐の宣旨を下す。
①藤原基成
②藤原泰衡
1,188 10 6 熊野の僧定任が大倉御所に招かれる。定任は源頼朝の帰依を受けており、城長茂とも信仰によって結ばれていた。御簾に招かれた定任は、平氏側であった城の赦免と、城を御家人に加えて貰いたい旨を源に訴えた。其処で源は、城を大倉御所へ連れて来る事を許可した。城が白の水干に立烏帽子を着用してやって来て、北側に梶原景時、南側に畠山重忠が列席する中を進み、御簾に背を向けて、横敷の座に着席した。梶原が「其処は源殿の座る所である」という主旨の注意をすると、城は「知らなかった」と言って立ち上がり、其の儘退出した。源は何も言わなかったが、定任は、城を御家人に推挙する事を取り止めた。
1,188 11 15 後白河上皇が、源頼朝の要請を受け、以下2名に対し、源義経征伐の宣旨を下す。
①藤原基成
②藤原泰衡
1,189 1 23 平親宗が、正三位に叙せられる。
1,189 2 源義経が京都に戻る意志を書いた書簡を持った比叡山の僧手光七郎が捕縛される。
1,189 2 25 以下2名が送った「源義経の所在が判明したら、急ぎ召し勧めよう」という主旨の書簡が源頼朝の下に届く。
①藤原基成
②藤原泰衡
1,189 3 3 藤原泰衡が、源義経を支持していた藤原秀衡の六男藤原頼衡を殺害する。
1,189 3 10 鎌倉方が、藤原泰衡が源義経の叛逆に同心しているのは疑い無いとして、藤原泰衡征伐の宣旨を要請する。
1,189 3 12 平時忠が配所の能登国で死去する。
1,189 4 鎌倉方が、藤原泰衡征伐の宣旨を要請する。
1,189 5 鎌倉方が、藤原泰衡征伐の宣旨を要請する。
1,189 5 31 宮内大輔日野資実が以下の人間等を集めて会議を開く。
①源通親
②左大弁平親宗
その結果、以下の人間の赦免が決定される。
①平時実
②平信基
③藤原尹明
④全真
⑤忠快
⑥能円
⑦行命
1,189 6 後白河上皇が、藤原泰衡征伐の宣旨の検討を行う。
1,189 6 15 藤原泰衡が、藤原秀衡の遺言を破り、藤原基成の居館衣川館を襲撃する。以下4名を含む十数騎が応戦した。
①武蔵坊弁慶
②第11代藤白鈴木氏当主鈴木重家
③源頼朝の乳母の息子で鈴木の弟の亀井重清
④備前房成
武蔵坊は、源義経の居る持仏堂の入口の前で薙刀を振るって孤軍奮闘するが、矢の雨を受け、立った儘絶命した。鈴木は照井高治に「お主は誰か」と尋ねると、照井は「身内の侍の照井高治だ」と答えた。鈴木は「お主の主人である藤原秀衡の祖父藤原清衡は後三年の役のあった西暦1,083年に源氏の郎党となったと聞くが、清衡・藤原基衡・秀衡・泰衡、ならば義経は、5代の相伝であり、お主はその郎党ではないか。私も重代の郎党であるぞ。ならば私が相手する敵ではない。とは言えども、弓矢取る武士の身であれば遭ったが敵、おかしなものよ、泰衡の味方をする者は恥ずかしい事ぞ。況してや敵に背を見せて逃げるとはなんという事か。卑怯者め、止まらぬか」という主旨の発言をした為、照井は戻って来て鈴木と組み、鈴木は照井の右肩を斬り付け、鈴木は其の後、左手に2騎、右手に3騎を斬り倒し、数名に手傷を負わせた所で自分も深傷を受け「重清よ、犬死にするな。私は此れ迄だ」と言い腹を掻き切って自害した。亀井も「紀伊国鈴木(現在の和歌山県新宮市)を鈴木重家と共に出た日から、命を義経に預けたのだ。今思いもしなかった事だが重家と一所で死ぬことを嬉しく思う。死出の山で待っていてくれ」と言って、鎧の草摺をかなぐり捨てて「音にも聞け、目にも見よ。鈴木重家の弟に亀井重清、生年23、弓矢の手並は有名であるが、東国の奴らは知らないだろう。初めて見物させてやるぞ」と言い終わらない内に、大勢の敵の中に割って入り、弓手(左手)に回ると、馬手(右手)に矢を放ち、斬りかけたので、重清の正面に向かう者はいなかった。重清は敵3騎を討ち取り、6騎に手傷を負わせて、重清自身も大きな傷を数多く負ったので、鎧の上帯を解いて、腹を掻き切って、重家の倒れた所に頭を同じくして倒れた。備前も討たれて死亡した。義経は、一切戦わずに持仏堂に篭り、郷御前と娘を殺害し、自身も自害した。
1,189 熊野(現在の和歌山県・三重県)から平泉へと向かっていた鈴木重家の妻小森御前が、志津川(現在の宮城県本吉郡南三陸町)にて鈴木が戦死した事を聞かされ、其の儘乳母と共に志津川に身を投げ自害する。小森御前は孕っていた。
1,189 7 2 第82代天皇後鳥羽天皇より忠快を釈放し、京都に帰還させる主旨の宣旨が下される。
1,189 7 7 奥州から、源義経が殺害された旨を伝える飛脚が鎌倉に到着する。
1,189 7 20 北条時政主導で、奥州藤原氏征伐の達成を祈願する事を意図し、願成就院(現在の静岡県伊豆の国市寺家)の建設に着工する。
1,189 7 22 吉田経房から送付された、後白河上皇が、源義経が死去した為戦闘を停止する様命じる旨が記載された院宣が鎌倉に届く。
1,189 7 27 藤原秀衡の四男藤原高衡が、藤原泰衡が酒に浸していた源義経の首を鎌倉に持ち込む。その後以下2名が首実検を行った。
①和田義盛
②梶原景時
1,189 8 8 源頼朝が、藤原泰衡征伐の宣旨を朝廷に要請する。
1,189 8 9 藤原泰衡が、源義経の扱いを巡って対立していた以下2名を殺害する。
①藤原秀衡の参男藤原忠衡
②藤原秀衡の五男藤原通衡
1,189 8 13 源頼朝が、奥州藤原氏征伐に関し大庭景義に諮問する。大庭は以下2点を主張し、源はこれを採用した。
①奥州藤原氏は源氏の家人であるので誅罰に勅許は不要である
②戦陣では現地の将軍の命令が朝廷の意向より優先される
1,189 8 29 藤原泰衡征伐に関し、後白河上皇から、源義経は既に誅せられており、又以下2点に差し障りがある為、せめて本年は猶予せよとの宣旨が鎌倉に届く。
①造大神宮の上棟
②大仏寺の造営
しかし、本月13日の大庭景義の進言を優先し、宣旨無しでの出兵を決定する。
1,189 8 30 終日、源頼朝が大倉御所(現在の神奈川県鎌倉市二階堂・西御門・雪ノ下3丁目)にて、奥州藤原氏征伐計画を練り、軍勢を以下の三手に分ける。
①大手軍(源頼朝(大将軍)・畠山重忠)
鎌倉街道中路→下野国→奥州
②東海道軍(千葉常胤(大将軍)・八田知家)
陸奥国岩城郡→奥州
③北陸道軍(比企能員(大将軍)・宇佐美実政)
越後国→出羽国→奥州
1,189 8 31 比企能員・宇佐美実政率いる北陸道軍が、鎌倉を出発する。
1,189 9 ロンドンのユダヤ街で略奪が発生する。以降イギリス全土で反ユダヤ人暴動が起きた。
1,189 9 1 源頼朝・畠山重忠率いる大手軍が鎌倉を出発する。此の際、梶原景時の仲介によって、城長茂も従軍を許され、以下の3兄弟や、吉見頼綱も出陣した。
①小山朝政
②小山政光の弐男長沼宗政
③小山政光の参男結城朝光
1,189 9 7 源頼朝・畠山重忠率いる大手軍が、下野国古多橋駅(現在の栃木県宇都宮市下河原町付近)に到着する。その後宇都宮二荒山神社(現在の栃木県宇都宮市馬場通り)にて戦勝祈願を行い、宿所に入った源に、小山政光が弁当を献上した。源の前に紺の直垂の上下を着た者がいたので、政光は何者か尋ねると、源は「本朝無双の勇士熊谷直家だ」と答えた。結城朝光が「どの様な手柄で勇士の号を与えたのか」と問うと、源は「西暦1,184年3月20日の一ノ谷の戦いで父熊谷直実と共に命を顧みず戦ったからだ」という主旨の発言をした。すると政光は「直家の様な郎党を従えていない者は自身で勲功を挙げなければなりませんが、私の様な大名は郎党を派遣して忠義を尽くすだけです。皆の者、今度の戦では先頭に進んで自分自身で手柄を立てて、本朝無双の勇士と褒めて頂こうではないか」と以下の人間に命じた。
①小山朝政
②長沼宗政
③結城
④政光の養子宇都宮頼綱
1,189 9 8 源頼朝・畠山重忠率いる大手軍が宇都宮を出発する。その後常陸国に入り、佐竹秀義を軍勢に加えた。佐竹は源氏の無地の白旗を持参したが、源の旗と区別が付く様に扇を旗の上に付けるよう命じられた。この出来事が佐竹氏の家紋「五本骨扇に月丸」の由来となった。
1,189 9 10 源頼朝・畠山重忠率いる大手軍が、新渡戸駅(杉渡土(現在の栃木県那須塩原市越堀)・寒井(現在の栃木県大田原市)付近)に到着する。城長茂の郎従200名が加勢した。
1,189 9 11 源頼朝・畠山重忠率いる大手軍が、白河関(現在の福島県白河市旗宿)を通過する。
1,189 9 17 常陸入道念西が、石那坂(現在の福島県福島市平石)にて、奥州藤原氏の家臣佐藤基治を破る。
①常陸入道念西の長男伊佐為宗
②常陸入道念西の弐男伊達宗村
③常陸入道念西の参男中村資綱
④常陸入道念西の四男伊達為家
1,189 9 18 源頼朝・畠山重忠率いる大手軍が、国見駅(現在の福島県伊達郡)に到着する。夜、源は明朝の攻撃を命じた。畠山は率いてきた人夫80名に用意していた鋤と鍬で土砂を運ばせて堀を埋めた。
1,189 9 19 6時、以下5名等が先陣を切って進軍し、金剛別当秀綱が数千騎を率い、息子の下須房秀方と共に阿津賀志山(現在の福島県伊達郡国見町大木戸の厚樫山)で迎え撃つ。
①畠山重忠
②結城朝光
③加藤景廉
④工藤行光
⑤工藤祐光
10時、金剛別当は、衆寡敵せず大木戸に退却し、藤原国衡に復命した。
1,189 9 20 夜、源頼朝が、明朝に阿津賀志山を越えて合戦する様命じる。これを受け、以下の7名は畠山重忠を追い越して山を越え、戦端を開こうとした。
①工藤行光
②工藤祐光
③三浦義村
④葛西清重
⑤狩野親光
⑥藤沢清近
⑦河村秀清
畠山の郎党が7名の前を塞ぐ様進言すると、畠山は「その必要はない。例え、連中の武力で敵が退散したとしても、先陣は私が賜っているのだから、戦功は全て私のものになるだろう。また、一番乗りを競い戦おうとしている連中の邪魔をするのは、武士の精神に反する」という主旨の回答をした。
1,189 9 21 5時、本軍の以下の人間等が大木戸を襲撃する。
①工藤行光
②畠山重忠
③小山朝政
④結城朝光
⑤加藤景廉
⑥下河辺行平
⑦三浦義澄
⑧三浦義澄の弐男三浦義村
⑨佐原義連
⑩葛西清重
⑪和田義盛
奥州藤原氏は激しく抵抗するが、結城が以下2名を含む宇都宮朝綱の郎従7名を率い、安籐次を山の案内者として、鎧を匹馬に負わせ、藤田宿(現在の福島県伊達郡国見町)から会津の方角へ向かい、土湯の嵩(現在の福島県福島市土湯温泉町)、鳥取越(現在の福島県福島市土湯温泉町・福島県耶麻郡猪苗代町若宮)を越え、藤原国衡の軍の後陣の居る山に登った。
①第8代芳賀氏当主芳賀高親
②第3代益子氏当主益子正重
そして一斉に閧の声を発し、矢を放つと、国衡の軍は混乱し、多くの郎従が逃亡した。晴天ではあったが、深い霧で周囲は薄暗く、朝露で滑り易くなっており、敵味方の区別も出来ない状況であった。しかし、下須房秀方は留まり、防戦した。そこへ工藤行光の郎従籐五男がやって来て、下須房と対峙した。籐五男は名前を問うが、下須房は答えなかった。籐五男は、下須房と組み合い、幼いながらも強力であった為苦戦しながらも、下須房を殺害した。金剛別当秀綱は、結城によって殺害された。金剛別当の軍は大将が討ち取られた為、平泉の藤原泰衡の陣へ逃げ帰った。泰衡は周章狼狽し、平泉から逃亡した。また、国衡も逃亡した。源頼朝は追撃を命じ、和田が国衡を追った。
1,189 9 21 夕方、大高山神社(現在の宮城県柴田郡大河原町金ケ瀬台部)付近で、藤原国衡は出羽街道を経て、大関山(現在の宮城県柴田郡川崎町・山形県山形市)を越えようと考え、大高山神社の水田を右に向かった所、和田義盛と遭遇する。和田が「戻って戦え」と言うと、藤原は名乗りながら馬を返した。互いに敵を左手に見て、藤原が14束の矢を番えている間に、和田が13束の矢を放った。和田の矢は藤原の鎧の袖を射抜いて腕に命中した。藤原は痛みの為、構えを解き、逃げようとした。和田が二の矢を構えた所に畠山重忠の軍勢が到着した。畠山の郎従大串重親が藤原と向かいあった。藤原は狼狽えて深田に入り、馬の足を捕らわれ、もたついている所を大串が襲撃し、藤原の首を取った。大串は藤原の首級を畠山に渡した。また、大将軍の金十郎も戦死し、以下2名を含む30名が捕縛された。
①勾当八
②赤田次郎
1,189 9 22 源頼朝一行が船迫宿(現在の宮城県柴田郡柴田町本船迫下町)に到着する。畠山重忠は、藤原国衡の首級を源に献上し、お褒めの言葉を賜った。源は藤原の首級を首実検した。そこに和田義盛が御前へ進み出て「藤原は私の矢を受けて落命する事になった、畠山の手柄では無い」と言った。畠山は笑って「和田の発言は絵空事だ。殺したと言う根拠は何か。私が藤原の首を持ち込んだのは事実なのに」と言う主旨の発言をした。和田は「首についてはその通りだが、剥ぎ取った藤原の鎧を確認して欲しい。大高山神社の前で私と藤原は弓手に向き合い、私の矢が藤原に当った。鎧の左袖の上から二、三枚目の小札に矢が刺さった穴がある筈だ。鎧は赤糸縅、黒馬である」と返した。源が藤原の鎧を持ち込ませて調べると、左袖の小札の三枚目やや後ろ側に鏨を通したような跡があった。頼朝は、藤原に矢を射たかと畠山に問い、畠山は「否」と答えた。源は「和田の発言は全てが一致するのでその通りだろう。但し畠山も本当の事を言っている。畠山は清廉な人柄で詐称する様な性格では無いから、今回の件は偽装ではない。畠山は郎従よりも後に到着したので、和田の矢を藤原が受けた事は知らなかった。大串重親が首を持ち込んで重忠が受け取り討ち取ったと知った。問題にするような事では無い」と結論付けた。
1,189 9 23 源頼朝一行が多賀城国府に到着する。以下3名を含む東海道軍が、大手軍に合流した。
①千葉常胤
②八田知家
③八田知家の長男小田知重
1,189 9 24 比企能員・宇佐美実政率いる北陸道軍が田川館を襲撃し、以下2名が討ち取られ、斬首・梟首される。
①田川行文
②秋田致文
さらに、由利維平が宇佐美に捕縛された。
1,189 9 25 鎌倉幕府軍と奥州藤原氏の合戦が、物見岡(大亀山(現在の宮城県富谷市大亀和合田)-亀山(現在の宮城県宮城郡利府町)間付近)で発生する。その後、源頼朝一行が、現在の宮城県大崎市付近へ向けて出発した。
1,189 10 1 源頼朝一行が多加波々城を包囲する。しかし、藤原泰衡を始めとする奥州藤原氏は撤退していた。
1,189 10 2 源頼朝が20,000名の兵を従え、津久毛橋城(現在の宮城県栗原市金成)に到着する。その後源の軍は、奥州藤原氏を破り、平泉へ向けて進軍した。その際梶原景高は、
陸奥の 勢は御方に 津久毛橋 渡して懸けん 泰衡が頸
と詠み、源の歓心を買った。
1,189 10 2 藤原泰衡が、平泉館(現在の岩手県西磐井郡平泉町平泉柳御所)に火を放つ。また、高屋や宝蔵も放火し、逃走した。
1,189 10 3 16時、雨の降る中、源頼朝一行が平泉に到着する。平泉館は既に焼け落ちており、人影も無かった。源は、藤原泰衡捜索を命じた。また、焼け残った宝物庫から以下の品物が見つかった。
①金造りの鶴
②象牙の笛
③瑠璃の灯篭
④金の沓
⑤錦の直垂
⑥銀造りの猫
源は、後にこれらを戦功を挙げた武士に与えた。
1,189 10 6 藤原基成が衣川館に於いて、3名の息子と共に降伏し、東胤頼によって捕縛される。
1,189 10 7 源頼朝の宿所に、以下の主旨の藤原泰衡からとされる書簡が届く。
「源義経の件につきましては、藤原秀衝が援助した事であり、私は其の経緯を存じておりません。父の死去後には頼朝のご命令通り、義経を誅した筈です。此の事は勲功に当たる行為の筈ですが、其れにも関わらず罪無くして征伐を受けるのは如何なる所存でありましょうか。其の為、私は先祖の在所を離れ、山林を住居とする始末で不便の極みでございます。奥羽両国が既に頼朝の支配にある以上、此の泰衡には罪を許して頂き、御家人に列せられたいと存じます。此れが許されないのなら、死を免ぜられ遠流にも処して頂きたい。ご返事を頂けるならば、比内郡辺りに返書をご放置頂きたい」
1,189 10 13 源頼朝一行が、平泉から厨川柵(現在の岩手県盛岡市)へ向けて出発する。
1,189 10 14 未明、藤原泰衡が、蝦夷(現在の北海道・樺太)へ向かう途上、比内郡贄柵(現在の秋田県大館市二井田贄ノ里)に立ち寄った際、領主の河田次郎の裏切りにより殺害される。
1,189 10 15 源頼朝一行が、陣ヶ岡(現在の岩手県紫波郡紫波町宮手)にて北陸道軍と合流する。
1,189 10 17 河田次郎が陣ヶ岡に到着し、鎌倉幕府軍に藤原泰衡の首級を差し出す。以下2名は、囚われていた赤田次郎に首級を見せて、藤原に相違無い事を確認した。
①和田義盛
②畠山重忠
源頼朝は「泰衡は既にわが掌中に収まっている。何ぞ汝ごときの手を借りようや。汝は旧恩に背き、反逆を敢てするとは許し難い」と八虐の罪に値するとして、河田は斬罪に処された。また、西暦1,062年10月22日に源頼義が安倍貞任を梟首とした事に倣い、泰衡の首級は眉間に八寸の鉄釘を打ち付けられて柱に懸けられ梟首された。その後泰衡の首級は平泉に戻され、近親者の手により黒漆塗りの首桶に入れられて、以下の歴代の奥州藤原氏の当主と共に中尊寺金色堂(現在の岩手県西磐井郡平泉町)に納められた。
①藤原清衡
②藤原基衡
③藤原秀衡
1,189 10 18 宇佐美実政が、由利維平を引き連れ陣ヶ岡に到着する。しかし、天野則景が「私が由利を生け捕りにした」と主張し争論となった。源頼朝は、実否を本人に尋ねる様梶原景時に指示した。梶原は「お前は泰衡の郎従の中でも名が知れ渡った者だ。まさか真偽を偽り飾る事など無かろう。事実の儘に言上せよ。お前を生け捕ったのは何色の甲冑を着ていた者ぞ」と言うと、由利が「お前は源頼朝の家人か。今の物言い、身分を弁えないにも程がある。亡き御館藤原泰衡は藤原秀郷将軍嫡流の正統として、父祖三代に渡って鎮守府将軍の名を汲む者ぞ。お前の主人ですら斯様な物言いは出来ぬ。それにお前と私は対等であってそれ以上でもそれ以下でもない。運尽きて囚人となるは勇士の常ぞ。鎌倉殿の家人ごときに奇怪な態度を取られる謂れなど甚だ有り得ぬ事。故に質問になど、殊更返答するに能わず」と激怒した。源は無礼を認め、代わりに畠山重忠に尋問させ、由利は「宇佐美実政」と答えた。最終的に源は由利を赦免した。
1,189 10 19 源頼朝が、奥州平定の飛脚を京都に送る。
1,189 10 20 一条能保の使者が陣ヶ岡に到着し、後白河上皇が源頼朝が行った奥州藤原氏征伐の為の出兵を追認した、西暦1,189年9月1日付の宣旨を源頼朝の陣営に届ける。
1,189 10 22 源頼朝一行が陣ヶ岡を出発し、以下を経由して厨川柵に入る。
①高水寺城(現在の岩手県紫波郡紫波町)
②走湯神社(現在の岩手県紫波郡紫波町二日町向山)
1,189 10 23 工藤行光が、岩手郡の領地を与えられ地頭に任ぜられる。
1,189 10 25 源頼朝が、奥羽両国の省帳・田文等の公文書の捜索を命じる。しかし、同月2日の藤原泰衡による放火により、全て燃えてしまい、残存していなかった。そこで以下の兄弟を召し出し、新たに絵図を描かせて田文を作成し直した。
①清原実俊
②清原実昌
1,189 10 30 源頼朝一行が、平泉へ向けて厨川柵を出発する。藤原秀衡が建立させた無量光院(現在の岩手県西磐井郡平泉町平泉花立)を巡礼した。
1,189 10 31 源頼朝が、胆沢郡鎮守府に鎮座する鎮守府八幡宮(現在の岩手県奥州市水沢佐倉河宮ノ内)を参詣し、吉書始の儀式が執り行われる。戦功のあった以下2名を始めとする御家人に所領が充てがわれた。
①千葉常胤(陸奥国の以下の郡の地頭職に任ぜられる)
❶行方郡
❷宇多郡
❸亘理郡
❹伊具郡
❺岩城郡(後の磐城郡)
❻宮城郡
❼黒川郡
②畠山重忠(陸奥国地頭職に任ぜられる)
1,189 11 2 源頼朝が、奥羽統治の為に葛西清重に対し陸奥国の奉行を命じる。陸奥国の御家人の源への言い分は全て葛西を通す事も併せて通達された。葛西は「今度の勲功、殊に抜群」との理由で、以下の5郡2保の所領を拝領した。
①胆沢郡
②磐井郡
③牡鹿郡
④江刺郡
⑤気仙郡
⑥興田(現在の岩手県一関市大東町)
⑦黄海(現在の岩手県一関市藤沢町)
1,189 11 4 源頼朝が、平泉周辺の郡の検非違使所を管領して濫行を止め、罪科を糾弾する事を命じる。
1,189 11 6 捕縛されていた藤原基成と3名の息子が鎌倉に召される。
1,189 11 7 源頼朝が、西暦1,062年10月11日の衣川の戦いの旧跡を訪れる。
1,189 11 8 源頼朝一行が、捕虜を30名余りを残して放免し、平泉から鎌倉へ向けて出発する。
1,189 11 10 源頼朝が、多賀国府(現在の宮城県仙台市宮城野区・太白区付近)にて地頭等に、郡・郷・庄園の所務に於いて、国郡を費やし土民を煩わせず、庄号の威勢を以て、不肖の道理を押し付けず、以下2名の先例に合わせて運営するように、という主旨の一紙の張文を府廰に置く。
①藤原秀衡
②藤原泰衡
1,189 11 11 源頼朝が、囚人である以下3名等を赦免する。
①佐藤庄司
②名取郡司
③第21世熊野別当湛増
1,189 11 25 源通親が、後白河上皇を自邸に招き、種々の進物を献上する。
1,189 11 28 源頼朝が、下野国宇都宮の社壇に奉幣する。
1,189 12 3 16時、源頼朝一行が鎌倉に帰着する。
1,189 12 12 源頼朝の下に朝廷からの書簡が届けられる。奥州藤原氏征伐の功績から、按察使への任官を打診する内容であったが、源は辞退した。
1,189 12 24 九条兼実の長女九条任子が、従三位に叙せられる。
1,190 1 大河兼任が、源義高と称して以下2名の息子と共に出羽国山北郡(現在の秋田県仙北郡)にて7,000騎で挙兵する。
①大河の長男鶴太郎
②大河の弐男於幾内次郎
そして、源義経と称して出羽国田川郡海辺荘(現在の山形県東田川郡庄内町余目沢田)に現れた後、以下を経由するルートで多賀城国府(現在の宮城県多賀城市市川)へと向かった。
①河北
②秋田城(現在の秋田県秋田市寺内大畑)
③笹谷峠(現在の宮城県柴田郡川崎町今宿仙人沢)
しかし、八郎潟(現在の秋田県男鹿市・潟上市・南秋田郡井川町・五城目町・大潟村)を渡っている最中に氷が割れ、5,000名余りの激死者を出した。大河は進路を変え、小鹿島(現在の秋田県男鹿市)・秋田・津軽方面へと向かい、敵を破って10,000騎まで兵力を拡大した。
1,190 1 10 九条兼実が源頼朝に対し、大内裏の修復した功績を讃える。
1,190 1 12 後白河上皇の第6皇女覲子内親王が、内親王宣下を受ける。この際源通親は、勅別当として覲子内親王の後見人となった。これを切っ掛けに源通親は、覲子内親王の母高階栄子との結び付きを強めていく事となる。
1,190 1 21 九条兼実が第31代太政大臣に就任する。これを祝う大饗にて、以下2名が自席が無い事を理由に退出した。
①源通親
②吉田経房
1,190 1 31 大河兼任征伐の為、以下3名が先発隊として陸奥国へ出陣する。
①由利維平
②工藤行光
③宮道国平
1,190 2 宇佐美実政が討ち取られる。
1,190 2 1 源頼朝が、後白河上皇の上洛の求めに応じる。
1,190 2 9 後鳥羽天皇の元服の儀が執り行われる。この際九条兼実が加冠役を務めた。しかし、紛失していた天叢雲剣が見つからず、三種の神器が揃わない儘での挙行となった。
1,190 2 12 大河兼任率いる軍が、大社山毛々左田付近(現在の秋田県秋田市浜田潟端・新屋町付近)にて由利維平を討ち取る。
1,190 2 13 源頼朝が、以下2名から大河兼任征伐の戦況報告を聞き、軍勢の派遣を決定する。源は、相模国以西の御家人に出陣の命を下した。
①大河兼任の弟で御家人となっていた二藤次忠季
②新田入道
1,190 2 14 以下2名が、大河兼任征伐の為軍を率い奥州へ向けて出発する。
①千葉常胤(東海道軍)
②比企能員(東山道軍)
1,190 2 17 九条任子が入内する。
1,190 2 19 以下2名が、大河兼任征伐の為軍を率い奥州へ向けて出発する。
①足利義兼(追討使)
②千葉胤正(大将軍)
千葉は、葛西清重と共に奥州で合戦をしたいと願い出ていた。
1,190 2 22 九条任子が女御宣下される。
1,190 2 24 二所詣の為伊豆山に居た源頼朝が、葛西清重が遣わせた2名の使者の内1名から以下4点の報告を受ける。もう1名は病気の為到着が遅れていた。
①宇佐美実政の戦死
②大見家秀の戦死
③橘公業の戦死
④由利維平は大河兼任の攻撃を受け、城を放棄して逃亡
これを聞いた源は、由利は逃げる様な性格では無く、橘と由利が逆ではないかと推察した。
1,190 2 25 源頼朝が、葛西清重が遣わせた2名の使者の内、到着が遅れていた人間から以下2点の報告を受ける。
①由利維平の戦死
②橘公業は大河兼任の攻撃を受け、城を放棄して逃亡
源の前日の推察が正しかった事から、周囲の人間は感嘆した。
1,190 3 19 大河兼任率いる軍が、足利義兼軍と一迫(現在の宮城県栗原市)にて交戦する。大河の軍は大敗を喫し、敗走した。その後も大河は残った手勢500騎で衣川にて反撃するが及ばず、北上川を越え、有多宇末井の梯(現在の青森県青森市浅虫)周辺の山中に立て籠った。しかし、足利の急襲に遭い逃亡し、花山(現在の宮城県栗原市)等を転々とする事となった。
1,190 4 16 大河兼任が、自身の信奉する源義経縁の栗原寺(現在の宮城県栗原市栗駒栗原西沢)にて、錦の脛巾を着て金作りの太刀を帯びた姿を地元の樵に怪しまれ、数十人に囲まれ斧で斬殺される。首実検は千葉胤正が実施した。
1,190 4 21 源頼朝が、大河兼任に加担した多賀城国府の留守所を廃止し、伊沢家景を陸奥国留守職に任ずる。
1,190 5 18 坊門姫が難産の為死去する。
1,190 5 19 坊門姫が仁和寺付近に葬られる。
1,190 5 25 佐々木定綱の伝令が鎌倉に到着し、坊門姫の死去を伝える。
1,190 5 27 源頼朝が坊門姫の死去を受け、京都へお悔やみの使者を派遣する。
1,190 5 31 九条任子が中宮に冊立し、第82代皇后となる。
1,190 6 7 源頼朝が、勝長寿院にて坊門姫の追善供養を行う。
1,190 6 9 坊門姫の死去を受け、端午の節句では菖蒲は飾られなかった。
1,190 6 14 源頼朝が佐々木定綱に、坊門姫の四十九日法要を執り行う様命じる。
1,190 6 23 葵祭であったこの日、山田重忠が、坊門姫は存命を願い出家までしたが亡くなってしまい、西暦1,190年5月19日に仁和寺付近に葬られた事を鎌倉に報告する。
1,190 8 17 東大寺大仏殿の母屋柱2本の建設が開始される。
1,190 11 2 源頼朝一行が、京都へ向けて鎌倉を出発する。
1,190 11 18 東大寺大仏殿の上棟式が執り行われる。この際後白河上皇が御幸した。
1,190 11 26 源頼朝一行が、熱田神宮(現在の愛知県名古屋市熱田区神宮)を参詣する。
1,190 12 5 源頼朝一行が1,000騎を率いて上洛する。この日一行は平家一門の邸宅があった六波羅に入った。
1,190 12 6 以下2名が翌日の参内について、段取りの打ち合わせを行う。
①源頼朝
②一条能保
1,190 12 7 16時、源頼朝が以下の行列で仙洞御所に入る。
①先頭
❶三浦義澄
❷小山朝政
❸小山田重義
②神輿
❶長沼宗政
❷佐々木盛綱
❸加藤景廉
③調度懸
④布衣侍
⑤随兵
❶千葉常胤の長男千葉胤正
❷梶原景季
❸下河辺行平
❹佐々木定綱
❺和田義盛
❻葛西清重
❼初代武田氏当主武田信義
源は後白河上皇に謁見し、1対1で長時間話し合う。源は征夷大将軍への就任を望んだが叶えられず、権大納言を任じられた。さらに、次代右近衛大将への就任も決定された。源は院から仰せ事が有るから待つ様言われるが、次の予定が有るので後日来る事を告げ、退出した。その後源は後鳥羽天皇と接触し、夜、九条兼実と閑院内裏の鬼間で初めて対面した。源は「今は後白河上皇が政務を担い、後鳥羽天皇は皇太子と大差無い状態です。後白河上皇崩御後は後鳥羽天皇が政務を執るべきです。勿論現在も後鳥羽天皇を軽んじるつもりはございません。九条殿に対して、一見疎遠な様に見えても、内実はそうではありません。深謀遠慮し、院中の風評を恐れ、敢えて疎遠な様に見せています。天下は何れ立て直す事が出来るでしょう。後鳥羽天皇も九条殿もまだお若い。私に運があれば、政治は真っ当なものになるでしょう。今は後白河上皇にお任せするしかありませんので、万事は思う様には行きません」という主旨の発言を行った。23時、源は六波羅に戻った。
1,190 12 9 源頼朝が、以下の陣容で若宮八幡宮社(現在の京都府京都市東山区五条橋東)と石清水八幡宮(現在の京都府八幡市八幡高坊)に参詣する。
①先陣随兵
❶小山朝政
❷稲毛重成
❸安田義資
❹小笠原長清
❺土肥実平
❻梶原景季
❼村上頼時
❽武田有義
❾千葉胤正
❿葛西清重
②歩行
❶仁田忠常
❷糟屋有季
❸佐々木経高
❹佐々木盛綱
❺大井実春
❻小諸光兼
❼金子家忠
❽河匂政頼
❾本間義忠
❿猪俣範綱
③調度懸
❶武藤資頼
④後騎(浄衣)
❶源範頼
❷源広綱
❸大内惟義
❹山名義範
❺村上経業
❻北条義時
❼三浦義澄
❽宇都宮朝綱
❾八田知家
❿足立遠元
⓫比企能員
⓬千葉常胤
⑤後陣随兵
❶畠山重忠
❷小田知重
❸源頼隆
❹村山義直
❺結城朝光
❻相馬師常
❼佐々木定綱
❽加藤景廉
❾南部光行
❿佐原義連
⓫和田義盛
⓬梶原景時
1,190 12 11 源頼朝が後白河上皇に以下を献上する。
①砂金800両
②鷲羽2櫃
③御馬100疋
1,190 12 17 後白河上皇と源頼朝が会談を行う。
1,190 12 21 後白河上皇と源頼朝が会談を行う。
1,190 12 21 源頼朝の下に、右近衛大将叙任の院宣が届く。
1,190 12 22 後白河上皇が、藤原兼雅の右近衛大将職を罷免する。夜、藤原経房は、後白河上皇から奉じられた院宣を下し、源頼朝を第62代右近衛大将に任じ、除目が執り行われた。
1,190 12 29 源頼朝の右近衛大将拝賀の儀式が、後白河上皇が車と装束を調達し、前駆10名の内8名が北面武士から遣わされて執り行われる。
1,191 1 1 源頼朝が以下の官職を辞任する。
①権大納言
②右近衛大将
1,191 1 8 御家人10名が以下の官職に任じられる。
①兵衛府
②衛門府
源頼朝は、後白河上皇から20名を推薦する様言われていたが辞退していた。しかし、何度も勅命が発せられた為、止むを得ず10名を推挙した。
1,191 1 9 鎌倉幕府が、伊賀国の以下の荘園の杣山での東大寺大仏殿向けの材木の切り出しに際し、現地の地頭を罷免し、陳和卿の所領とする。
①山田有丸庄(現在の三重県伊賀市)
②広瀬庄(現在の三重県伊賀市)
③阿波庄(現在の三重県伊賀市)
1,191 1 11 源頼朝一行が、鎌倉へ向けて京都を出発する。この京都滞在期間中、後白河上皇との会談は8回を数えた。
1,191 1 26 源頼朝一行が鎌倉に帰着する。
1,191 3 18 後白河上皇が女御の平滋子と共に過ごした法住寺殿(現在の京都府京都市東山区三十三間堂廻り町)の再建工事が着工される。
1,191 4 17 後白河上皇が、全17条から成る公家新制を宣下する。主に以下の内容で、統治権に纏わる内容が中心であった。
①新立荘園の停止
②神人僧侶の濫行停止
③寺社領の注進
④国司吏務の励行
1,191 4 23 後白河上皇が、全36条から成る公家新制を宣下する。主に以下の内容で、廷臣に纏わる内容が中心であった。
①仏神事の興行
②過差の停止
③朝廷公事の精勤
④京都の治安警衛
1,191 4 25 大江広元が検非違使に補任され、以下の官職に任じられる。
①明法博士
②左衛門大尉
1,191 4 29 九条兼実が、大姫が本年11月に入内するのではないかという噂を耳にする。
1,191 7 19 後白河上皇が覲子内親王に院号宣下を行い、院領の長講堂(現在の京都府京都市下京区富小路通五条下る本塩竈町)領を覲子内親王に譲る。源通親は女院庁別当となり、覲子内親王の後見人となった。通親は院司に以下2名を登用した。
①通親の長男源通宗
②通親の弐男堀川通具
1,192 1 2 後白河上皇が、再建が完了した法住寺殿に移り住む。
1,192 1 3 九条兼実が関白宣下され、第22代関白に就任する。
1,192 1 10 後白河上皇が、法住寺殿の再建を担った以下2名に剣を下賜する。
①中原親能
②大江広元
1,192 1 11 後白河上皇が体調を崩す。
1,192 1 14 後白河上皇が、自身が建立させた持仏堂である長講堂の供養の為、六条殿(現在の京都府京都市下京区天使突抜)に御幸する。
1,192 1 15 以下2名が源頼朝に対し、法住寺殿の再建に対する感謝を綴った書簡を送る。
①高階栄子
②吉田経房
1,192 1 25 鎌倉幕府が、西海道の地頭に対し東大寺大仏殿用材の運搬に協力する事を命じる下文を発する。結果、1年以内に柱118本が東大寺に納入された。
1,192 2 1 後白河上皇が体調を崩し床に伏す。
1,192 2 14 後白河上皇の体調の回復を祈り、以下2箇所への奉幣と、安徳天皇の御堂の建立が行われる。
①崇徳天皇御廟(現在の京都府京都市東山区祇園町南側)
②藤原頼長の墓(現在の奈良県奈良市般若寺町)
1,192 4 18 雨の中、後鳥羽天皇が後白河上皇のお見舞いの為、六条殿に行幸する。この時後白河上皇の容態はかなり悪かったが、後鳥羽天皇の笛に合わせて今様を歌った。後鳥羽天皇が内裏に還御すると、後白河上皇は高階栄子を使者として以下の遺領処分の内容を認めた遺詔を後鳥羽天皇に伝達させた。
①後鳥羽天皇
❶法住寺殿
❷蓮華王院(現在の京都府京都市東山区三十三間堂廻り)
❸六勝寺(現在の京都府京都市左京区の岡崎通周辺)
❹鳥羽殿(現在の京都府京都市伏見区中島前山町)
②後白河上皇の第1皇女亮子内親王
❶押小路御所
③後白河上皇の第2皇女好子内親王
❶仁和寺花園御所(現在の京都府京都市右京区御室大内)
④後白河上皇の第3皇女式子内親王
❶大炊殿(現在の京都府京都市左京区下鴨泉川町)
❷白河常光院(現在の京都府京都市左京区岡崎法勝寺町)
❸其の他3ヶ所の荘園
⑤覲子内親王
❶六条殿
❷長講堂とその所領
後白河上皇に批判的であった九条兼実も「誠に穏当な処分である」と評価した。
1,192 4 26 16時、後白河上皇が六条殿にて崩御する。重源は「私は、後白河上皇に代わって東大寺復興をやっていたに過ぎない。上皇様亡き今、私は何をすれば良いのだ」と天を仰いで嘆いた。以降の東大寺の再建支援は源頼朝が担った。
1,192 8 21 源頼朝が、後鳥羽天皇から初代鎌倉幕府征夷大将軍を宣下される。頼朝が望んだのは「大将軍」であった。これを受け、朝廷にて以下の4つの候補が挙がった。
①惣官
②征東大将軍
③征夷大将軍
④上将軍
惣官は平宗盛、征東大将軍は源義仲が各々任官したが、何も頼朝征伐の為に任命されたものであった為、不吉であるとされ却下された。上将軍も春秋時代以前から存在した中国の官職である為除外された。結果、坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍が選定された。
1,192 10 3 朝廷が、大部庄(現在の兵庫県小野市)の荘園の境界を確定する宣旨を発布する。重源が、東大寺の荘園の中で最も米の生産量の多かった大部庄の支配権を確立する為に、朝廷に訴えていた。大部庄は西暦1,190年から本格的な経営が始まっており、重源は、自身の甥で弟子の観阿と、更には如阿を大部庄の預所に任命し、下向させた。観阿・如阿は、この年に重源主導で建立した浄土寺(現在の兵庫県小野市浄谷町)に在る段丘に溜池を築き、段丘面に水田を開発していった。また、荒廃していた堂舎の復興、仏像の修復にも当たった。浄土寺は、大部庄や伊賀国の以下の荘園を管理する役割を担った。 山田有丸庄(現在の三重県伊賀市)
②広瀬庄(現在の三重県伊賀市)
③阿波庄(現在の三重県伊賀市)
1,192 10 浄土寺の大仏が完成する。重源は、東大寺大仏殿の工事に万全を期す為、大仏殿より規模の小さい大仏を新工法で試作した。
1,193 1 4 慈円が第62代天台座主に就任する。
1,193 1 24 源頼家が天然痘を発病する。
1,193 2 17 文覚が、備前国を東大寺造営に給する事を鎌倉幕府に求める。重源は文覚に対し、東大寺大仏殿の屋根瓦の調達に難儀していた為、備前国を東大寺造営料国として賜りたい旨を訴えていた。重源は、周防国に出向いた際に必ず、瓦に適した土を有した備前国を何ヶ所か視察していた。以下の国は瓦の産地であったが、全て興福寺に押さえられていた。
①大和国
②山城国
③河内国
1,193 4 源頼朝が、本月から2ヶ月程度の期間、以下2箇所で大規模な巻狩を実施する。
①入間野(現在の埼玉県入間市・狭山市・川越市付近)
②那須野(現在の栃木県那須塩原市)
参加した主な御家人は以下の通り。
①北条時政の弐男北条義時
②足利義兼
③山名義範
④小山朝政
⑤長沼宗政
⑥結城朝光
⑦里見義俊の息子里見義成
⑧佐貫広綱
⑨畠山重忠
⑩三浦義澄
⑪三浦義村
⑫千葉胤正
⑬佐原義連
⑭下河辺行平
⑮畠山重忠の従兄弟稲毛重成
⑯和田義盛
⑰稲毛の弟榛谷重朝
⑱戸矢子有綱の四男阿曽沼広綱
⑲工藤祐経
⑳土屋義清
㉑梶原景時
㉒梶原景季
㉓梶原景高
㉔梶原景茂
㉕梶原朝景
㉖梶原朝景の息子梶原景定
㉗糟屋有季
㉘岡部三郎
㉙源光長の参男土岐光衡
㉚八田知家の四男宍戸家政
㉛第7代相模波多野氏当主波多野義景
㉜河村義秀
㉝加藤景員の長男加藤光員
㉞加藤景廉
㉟愛甲季隆
㊱海野幸氏
㊲藤沢清親
㊳望月重隆
㊴小野寺道綱
㊵市河行房
㊶沼田太郎
㊷工藤行光の父工藤景光
㊸行光
㊹根津宗直
㊺中野助光
㊼佐々木秀義の参男佐々木盛綱
㊽佐々木秀義の五男佐々木義清
㊾渋谷重国
㊿加賀美遠光の弐男小笠原長清
❶第2代武田氏当主武田信光
1,193 5 11 文覚の下に、備前国を、西暦1,193年5月12日付で東大寺造営に寄進する旨の書かれた書簡が到着する。重源が鎌倉幕府に対し働き掛けていた。東大寺大仏殿造営期間に限り、重源が備前国司となった。瓦窯は万富(現在の岡山県岡山市東区瀬戸町)に築かれ、東大寺大仏殿等に使われる瓦を180,000枚焼いた。東大寺向けの瓦は、用水路・吉井川・瀬戸内海を経由して運ばれた。また、手向山八幡宮の前面にも、東・南・西に10基ずつの計30基の窯を築いた。東大寺大仏殿に使われる丸瓦には「東大寺大仏殿」と名が刻まれた。
1,193 6 朝廷が源頼朝に対し、東大寺造営の勧進を行う様宣旨を下す。
1,193 6 2 北条時政が源頼朝の命により、巻狩の準備の為、駿河国藍沢(現在の静岡県御殿場市・裾野市)へ向けて出発する。北条は、駿河国の御家人を指揮し、狩野宗茂と共に屋形の設営等を行った。
1,193 6 8 源頼朝一行が巻狩の為、駿河国藍沢へ向けて出発する。此の巻狩の参加者は以下の通り。
①頼朝
②源頼家
③北条時政
④北条義時
⑤足利義兼
⑥山名義範
⑦小山朝政
⑧長沼宗政
⑨里見義成
⑩佐貫広綱
⑪畠山重忠
⑫三浦義澄
⑬三浦義村
⑭佐原義連
⑮千葉胤正の長男千葉成胤
⑯稲毛重成
⑰和田義盛
⑱工藤祐経
⑲工藤景光
⑳工藤行光
㉑土屋義清
㉒梶原景時
㉓梶原景季
㉔梶原景高
㉕梶原景茂
㉖梶原朝景
㉗梶原朝景の息子梶原景定
㉘糟屋有季
㉙土岐光衡
㉚宍戸家政
㉛波多野義景
㉜愛甲季隆
㉝海野幸氏
㉞藤沢清親
㉟望月重隆
㊱小野寺道綱
㊲市河行房
㊳根津宗直
㊴佐々木盛綱
㊵佐々木義清
㊶渋谷重国
㊷小笠原長清
㊸武田信光
㊹狩野宗茂
㊺大友能直
㊻御所五郎丸
㊼曾我祐成・祐成の弟曾我時致の養父曾我祐信
㊽祐成
㊾時致
㊿平子有長
❶第2代吉川氏当主吉川友兼
❷仁田忠常
❸毛呂季光
❹加藤光員
❺宇都宮頼綱
❻結城朝光
❼大森隆盛
❽下河辺行平
❾榛谷重朝
❿土屋義清
⓫岡部忠澄の孫岡部好澄
⓬河村義秀
⓭沼田高信
⓮中野助光
⓯岡部忠光
⓰岡部清益
⓱堀成景
⓲臼杵維信
⓳宇田國宗
⓴大見小平次
Ⅰ土肥実平の弐男新開実重
Ⅱ工藤祐経の息子伊東祐時
1,193 6 10 東大寺に30本余りの大柱が到着する。その後重源は、上人に東大寺大仏後方の約18.18mの築山を除去させた。
1,193 6 15 源頼朝が富士野の旅館に入る。
1,193 6 16 源頼朝が富士野で巻狩を挙行する。此の日源頼家が初めて鹿を射止めた。此れを受け頼朝は、頼家の世話をしていた愛甲季隆を誉めた。
1,193 6 16 夜、矢開きが行われる。北条義時が赤・黒・白の三色の餅を献上した。又、狩野宗茂は勢子餅を寄進し、海野幸氏が勢子餅の陪膳を担当した。武運を祈り、山神・矢口神に手向け、其の三色の餅を以下3名が食した。
①一の口:工藤景光
②二の口:愛甲季隆
③三の口:曾我祐成・曾我時致の養父曾我祐成
更に、其の餅を他の郎党に分け与える矢口餅の陪膳は以下3名が担当した。
①梶原景季
②工藤祐経
③海野
矢口餅を山神に供える儀式を終えた梶原・工藤・海野は、馬・直垂等を賜った。其の後、其の返礼品を源頼家に献上した。源頼朝は、頼家が初めて鹿を射止めた事を北条政子に知らせる為に梶原景高を派遣した。
1,193 6 22 北条政子が、梶原景高から源頼家が初めて鹿を射止めたという報告を受ける。
1,193 6 28 夜、西暦1,176年11月頃に父河津祐泰を殺害した工藤祐経に仇討ちを行う為、以下2名が工藤の滞在する神野(現在の静岡県富士宮市上井出付近)の旅館に押し掛ける。2名は箱根権現で祈願してから襲撃に臨んだ。この日は富士野の巻狩の最終日であった。
①曾我祐成
②祐成の弟曾我時致
宴席を催していたが、工藤は酔って手越宿(現在の静岡県静岡市駿河区)と黄瀬川宿(現在の静岡県沼津市大岡)の遊女と寝所で寝ていたが、祐成が工藤の肩を刺し「これ程の大事の敵を持ちながら、汚くも寝入るものかな。起きよ」と工藤を起こした上で殺害した。続いて時致も工藤を斬った。宴席に同座し、工藤の近くで寝ていた大森隆盛も太刀の音を聞いて起き上がり、祐成・時致を諭すも、祐成は「沙汰に及ばず」と大森を殺害した。祐成と時致は、騒ぎを聞き駆け付けた以下10名と斬り合いとなった。
①愛甲季隆
②海野幸氏
③平子有長
④吉川友兼
⑤加藤光員
⑥岡部忠光
⑦岡部清益
⑧堀成景
⑨臼杵維信
⑩宇田國宗
この10名は返り討ちに遭い負傷した。最終的に祐成は、現在の神奈川県小田原市曽我谷津付近で仁田忠常に討ち取られた。時致は頼朝も暗殺しようと宿所に入ったが、女装していた御所五郎丸に捕縛された。
1,193 6 29 曾我時致が、源頼朝の面前で工藤祐経殺害に至った経緯について述べる。源は曾我を助命しようとしたが、伊東祐時が泣いて訴えた為、曾我の身柄は工藤家に引き渡され、その後曾我は斬首・梟首された。
1,193 6 29 源頼朝が、諸国の守護に対し東大寺供養料を勧進する様命じる。
1,193 6 29 北条政子の下に、源頼朝が討たれたという誤報が入る。北条はこれを真実と思い込み、狼狽し嘆いた。これを受けて源範頼は「兄の後には私が控えているので、心配御無用です」という主旨の発言を行った。後にこれを聞いた源頼朝は、範頼が謀反を企てているのではないかと疑った。
1,193 6 30 北条政子の下に飛脚が到着し、工藤祐経が仇討ちされた件について報告される。
1,193 6 30 源頼朝が、以下2名が母に宛てた書簡を受け取る。これを読んだ源は感涙し、書簡の保存を命じた。
①曾我祐成
②曾我時致
1,193 7 1 曾我祐成の妾虎御前を始めとする多くの人間に対して、工藤祐経の仇討ちに対する聴取が行われる。虎御前は放免となった。
1,193 7 7 源頼朝一行が、駿河国から鎌倉へ向けて出発する。源は曽我荘(現在の神奈川県小田原市)の年貢を免除する事を決定し、曾我祐成・曾我時致の菩提を弔う様命じた。
1,193 7 31 河津祐泰が死亡した5日後に満功御前が産んだ男児で、曾我祐成・曾我時致の異母弟が甘縄(現在の神奈川県鎌倉市長谷)で自害する。
1,193 8 30 源範頼が源頼朝への忠誠を誓う起請文を頼朝に送る。しかし、受け取った頼朝は、範頼が源姓を名乗ったことを過分として責め「源家の一族と思っているのだろうが、すこぶる思い上がりである」と怒った。範頼は狼狽した。
1,193 9 7 源範頼の家人当麻太郎が、源頼朝の本心を確かめるべく、頼朝の寝室の床下に忍び込む。気配を感じた頼朝は、結城朝光等に当麻を捕らえさせた。
1,193 9 8 朝、当麻太郎に対する尋問が行われる。当麻は「源範頼が起請文を提出した後、音沙汰が無かった為、源頼朝の本心を確かめようとし忍び込んだ。陰謀では無い」という主旨の弁明をした。当麻は陳謝したが、最終的に範頼は伊豆国へ、当麻は、大姫が病気であった為に処刑を免れ、薩摩国へ配流された。
1,193 9 14 源範頼が、以下2名等に預けられ、信功院(現在の静岡県伊豆市修善寺)に幽閉される。
①狩野宗茂
②宇佐美祐茂
その日の内に源は、梶原景時の不意打ちに遭い、防戦の末自刃した。
1,193 9 15 源範頼の家人等が武器を手入れして浜の宿館に立て籠ったとして、以下3名等が征伐する。
①結城朝光
②梶原景時
③仁田忠常
1,193 9 17 曾我祐成・曾我時致の異母兄弟で母が満功御前の京小次郎が、源範頼の連座として処刑される。
1,193 10 3 佐々木経高が、京都御所の宿直を命じられる。
1,194 源頼朝が、三浦義明の菩提を弔う為に能蔵寺を建立する。
1,194 1 3 除目にて以下2名が参議を辞職する。九条兼実が辞任に追い込んだ。
①藤原家成の六男藤原実教
②藤原成親の長男藤原成経
1,194 2 平業房の弐男山科教成が左少将を辞職する。九条兼実が辞任に追い込んだ。山科の母である高階栄子は九条に憤慨した。
1,194 3 7 東大寺の造仏長官であった藤原行長が、東大寺大仏殿の落慶供養の日時の相談の為、九条兼実の屋敷を訪れる。結果、西暦1,195年2月と決まったが、鎌倉幕府の判断で西暦1,195年4月23日と決まった。
1,194 4 4 東大寺の大仏の光背が造られ始める。後山を撤去した事で可能となった。
1,194 4 14 源頼朝が、東大寺の大仏の光背料として砂金200両を寄進する。
1,194 5 31 源頼朝が、東大寺の大仏の光背料として砂金130両を寄進する。
1,194 7 17 源頼朝が、東大寺大仏殿の二菩薩と四天王の造像を、以下の御家人の負担とさせる。
①観音菩薩:宇都宮朝綱
②虚空蔵菩薩:中原親能
③増長天:畠山重忠
④持国天:武田信光
⑤毘沙門天:小笠原長清
⑥広目天:梶原景時
更にこの日源は、戒壇院の造営に関し、以下2名等の負担とした。
①小山朝政
②千葉常胤
1,194 8 17 夜、大姫が危篤状態となる。
1,194 8 25 大姫の体調が手を尽くしても快方に向かわない為、源頼朝が日向薬師(現在の神奈川県伊勢原市日向)を参詣する。佐々木経高も随行した。
1,194 9 16 源頼朝が一条高能を伴い、山荘を建てる為、三崎の津へ出掛ける。
1,195 2 7 永福寺(現在の神奈川県鎌倉市二階堂)北堂の薬師堂が完成し、落慶供養が執り行われる。供養の導師は、第87世東大寺(現在の奈良県奈良市雑司町)座主勝賢が務めた。源頼朝等が参列し、佐々木経高も随行した。
1,195 2 7 東大寺中門の二天の造像が開始される。大仏師には以下2名が任じられ、小仏師27名と共に造像に当たった。
①快慶
②定覚
1,195 3 7 源頼朝が、東大寺大仏殿の落慶供養参列と大姫を後鳥羽天皇の皇后として入内させる工作を行う為、以下の人間等を伴い京都へ向けて出発する。
①北条政子
②源頼家
③大姫
④畠山重忠(行列の先頭)
⑤稲毛重成
⑥小山朝政
⑦和田義盛
⑧三浦義澄
⑨梶原景時
⑩佐々木定綱
⑪北条義時
⑫下河辺行平
⑬武田信光
⑭比企能員
⑮大江広元
1,195 4 15 源頼朝一行が、瀬田の唐橋(現在の滋賀県大津市唐橋町-瀬田間)を渡り、六波羅の屋敷に入る。
1,195 4 20 源頼朝一行が石清水八幡宮を参拝する。
1,195 4 21 源頼朝一行が東大寺東南院に入る。
1,195 4 22 源頼朝が、東大寺に以下を献上する。
①馬1,000疋
②米約1,500,000kg
③黄金1,000両
④上絹1,000疋
1,195 4 23 東大寺大仏殿の落慶供養が盛大に執り行われ、以下の人間等が参列する。
①後鳥羽天皇
②九条兼実
③源頼朝(大檀越)
④北条政子
⑤佐々木経高
8時、後鳥羽天皇の行幸により、乱声と笛が響き渡った。後鳥羽天皇を乗せた神輿は西の回廊から壇上に登った。後鳥羽天皇は下御し、大床子に着座した。続いて公卿と文武百官が着座した。東南院の寝殿に居た源も駆け付けた。乱声と振鉾の後、供養が開始された。殿上人が名香を大仏の前に立て、大仏殿上には彩幡・華曼を掛け、上下二層の四隅には宝幢を吊るし、南の庇の西3ヶ所の中央柱の南に天井を付けた仮屋を設けて、天皇の御座所と大宋の屏風を張り巡らし、蔵人達の休憩所も合わせて設置された。大仏殿の内では仏前に香華を供え、7つの大花瓶に造花を刺し、中央柱の北に八脚の供花机を設けて證誠の座を設けた。仏前中央には長床を置いて唄師の座と定め、南東西第3間より西に広筵を敷いて公卿の座を設けた。正面の左右には2脚の礼盤と高座を置いて、講読師の華厳経講讃の座とした。大仏殿前の庭上には、天平落慶の如く舞楽台を大燈篭の南に組み上げた。その様な状況下で、和舞と東舞が舞われた。その後、以下等の京都・南都の供養僧1,324名(内東大寺の僧457名)が入場した。重源は此の中には加わらなかった。重源はこの日の供養に向けて、僧侶達への布施等の経費の準備を行なっていた。
①導師
②呪願師
③引導
④散華
奈良時代の東大寺大仏開眼会に於ける華厳経講説に倣い、僧達は「金字華厳経」の題名を称揚した。導師と呪願師が舞台の礼盤に着座し、礼仏した。九条以下官人が起座する中、願文・呪願文を奉った。続いて金鼓が有り、背に鳥の羽を付けた4名の童が舞った。再度金鼓が有り、唄が歌われた。12時過ぎから大雨となり、春雷も発生した。14時には地震も発生した。南大門脇の隅の座敷で式を見守っていた重源は「大雨の法会も悪くはない。式が引き締まる」とした。また、この日の未明から以下2名を始めとする源の配下の御家人が平家残党の襲撃を警戒して、数万の兵を率いて警備に当たる姿に貴族達は圧倒された。
①和田義盛
②梶原景時
重源は「公家や寺家の時代は終わり、これからは武家の時代になるのかのう」と独り言を言った。また、門内に入ろうとした見物の僧兵達が御家人と乱闘を起こした。梶原景時がそれを鎮めようとするが、その態度が傲慢無礼だとして一触即発の事態となった。源は結城朝光を呼んで事態を収拾する様命じた。結城は僧兵達の前で跪き「前右大将家の使者である」と言った。続けて「この東大寺は平清盛の為に炎上し、礎石ばかりを残して灰塵と化してしまいました。それには僧兵達が最も悲嘆した事でしょう。源氏はたまたま後援者となり、再建の始めから供養の今日に至るまで援助してきました。そればかりか、仏道の修行を妨げる悪魔の障害を排除し、落慶法要の為に数百里の道のり越えて、この大伽藍に詣でました。僧兵達は、此の事を何故喜ばないのでしょう。武士であっても、仏道への帰依を思い、大きな事業に携われた事に喜びを感じました。知恵の有る僧侶が何故秩序を乱し、自分達の寺の再興を妨げようとするのでしょう。それはとても不適当な考えですので、その理由を承りましょう」という主旨の発言をすると、僧兵達は直ぐに自らの行為を恥じ、後悔し、数千の僧兵が一斉に静かになった。この日無数の民衆が大仏殿に集まったが、前回の西暦752年5月26日の開眼供養で起きた混乱の反省から、九条は回廊の中には民衆を入れなかった。宵が迫る頃、四面の回廊に灯が灯され大仏を照らし、万灯会が催された。重源は合掌し「苦しかった勧進の日々、周防国の杣山での苦難を思い返し「大仏殿内に据えるはずの脇侍二菩薩と四天王像は、間に合わなかった。回廊は仮設である。南大門・八幡宮社殿・七重塔・僧房は、まだ着工にも至っていない。多くの仏像も造らねばならない。まだまだこれからだ。儂は生きるぞ」と気を引き締めた。
1,195 4 24 源頼朝が、再建された東大寺大仏を初めて参拝する。その後重源が、源の居る東南院の御所を訪ねると、源は「見事な大仏、そして稀有壮大な東大寺大仏殿。重源殿、良くぞやってくれた」と重源の手を両手で握った。重源は「いえ、これも偏に源殿のお力添えの賜物、感謝致します」と返した。源は「これだけのものを造った陳和卿なる者にも是非に会いたい」と、陳に面会を申し入れた。しかし陳は「平氏や源義経等多くの人々を殺した罪業の深い人間であるので会いたくない」とし、面会を断った。重源が源にそれを伝えると、源は怒る事無く、逆に以下の褒美を与えた。
①奥州藤原氏征伐で着用した甲冑
②鞍付きの馬3頭
③金銀
しかし陳は「兜は鋳直して釘に使ってください。鞍は何かの役に立つでしょう」という主旨の発言をし、甲冑を造営の釘に加工し、鞍は東大寺の転害門で行われる祭典である「手掻会」の為に東大寺に納め、それ以外の物は源に返した。貢物としてでは無く、大仏殿造営に対する礼として送られるのは南宋人としての誇りを傷付ける為である。南宋に渡った事の有る重源は、陳の考えを理解していた。その後重源は「大和尚位」の称号の宣旨を受けた。
1,195 4 27 東大寺中門の二天が完成する。
1,195 5 10 源頼朝が高階栄子を六波羅に招き、以下2名と引き合わせる。
①北条政子
②大姫
砂金300両を始めとする大量の金品を贈り、莫大な荘園の安堵を行った。
1,195 5 11 以下2名が会談する。
①九条兼実
②源頼朝
源は馬2頭を九条に贈った。
1,195 5 21 以下2名が会談する。会談は長時間に及び深夜に終了した。
①九条兼実
②源頼朝
1,195 5 26 源頼朝一行が石清水八幡宮を参詣する。源頼家も牛車に同乗した。此の日は晴れたが、16時から雨となった。
①先払い
❶田村仲教
❷大内惟義
❸毛呂季光
②前衛
❶北条義時
❷小山朝政
❸三浦義村
❹葛西清重
❺大友能直
❻仁田忠常
❼後藤基清
❽小田知重
❾里見義成
➓武田信光
後衛
❶千葉胤正
❷土屋義清
❸稲毛重成
❹梶原景季
❺佐々木定綱
❻土肥実平の息子土肥惟光
❼足立遠元
❽比企能員
❾小山朝光
➓南部光行
1,195 5 28 源頼朝が、高階栄子を六波羅に招き、大姫を後鳥羽天皇の中宮としたい旨を伝える。
1,195 6 4 源頼朝の申し入れにより、九条兼実が以下の一派の力を削ぐ為に停廃していた覲子内親王の所領である長講堂領7箇所の再興が決定される。
①高階栄子
②覲子内親王
③源通親
源は、大姫を入内させる為にこの一派に恩を売った。
1,195 6 29 6時、源頼朝が、以下の人間を伴いに京都を出発する。 ①先陣隋兵
❶畠山重忠
❷相馬師常
❸源為国の息子村上基国
❹新田義兼
❺能勢高行の息子能勢高重
❻平繁賢の息子平基繁
❼武藤頼平
❽小野成綱
❾加藤景廉
❿土肥惟平
⓫武石胤盛の息子武石胤重
⓬小野寺道綱
⓭梶原朝景
⓮糟屋有季
⓯宇佐美祐茂
⓰和田義盛の弟和田義長
⓱狩野宗茂
⓲佐々木経高
⓳千葉常秀
⓴土屋義清
Ⅰ後藤基清
Ⅱ葛西清重
Ⅲ佐原義連
Ⅳ比企能員
Ⅴ下河辺行平
Ⅵ榛谷重朝
②御後(水干)
❶源頼兼
❷藤原頼房
❸大内惟義
❹足利義兼
❺山名義範
❻中原親能
❼小山朝政
❽八田知家
❾毛呂季光
❿大江広元
⓫大友能直
⓬中原季時
⓭三浦義澄
⓮梶原景時
③後陣隋兵
❶北条義時
❷結城朝光
❸開瀬義盛
❹奈胡義行
❺里見義成
❻浅利義遠
❼武田有義
❽南部光行
❾武田信光
❿村山義直
⓫北条時房
⓬小笠原長清
⓭八田知重
⓮梶原景季
⓯阿曽沼親綱
⓰和田宗実
⓱佐々木盛綱
⓲大井実春
⓳長沼宗政
⓴伊賀朝光
Ⅰ氏家公頼
Ⅱ伊東成親
Ⅲ稲毛重成
Ⅳ宇都宮信房
Ⅴ千葉胤正
Ⅵ足立遠元
④最末
❶和田義盛
洛中は牛車で、鳥羽(現在の京都府京都市伏見区)からは高階栄子から借りた船で進んだ。渡辺津(現在の大阪府大阪市北区天満、現在の大阪府大阪市中央区天満橋京町・北浜東)に到着した後は再び牛車に乗り、四天王寺へ向かった。北条政子の牛車が並び、女官の牛車が続いた。12時、四天王寺に到着した源は、寺門の外の念仏所に入り、本尊を参拝した。そして、灌頂堂で待っていた、後白河上皇の第五皇子で第50世四天王寺別当の定恵法親王に挨拶をした。その後源は、重宝を拝見して、宿所に入った。その後、銀製で蒔絵が施された御剣を聖霊院に奉納し、定恵法親王にも、銀製の鞍を置いて組み緒を掛けた、灰色に少し白い毛が混じった馬1頭を贈った。
1,195 7 11 以下2名が参内し、後鳥羽天皇に謁見する。
①源頼朝
②源頼家
頼朝の後継者である頼家を貴族にお披露目した。
1,195 8 1 源頼家が参内する。
1,195 8 2 源頼朝一行が京都を出発する。
1,195 8 7 源頼朝一行が熱田神宮を参詣する。馬や剣を奉納した。熱田神宮大宮司は藤原範経であった。またこの日稲毛重成が武蔵国へ駆け付けた。
1,195 8 14 源頼朝一行が鎌倉に帰着する。源は、直様善光寺(現在の長野県長野市長野元善町)への参詣を計画したが、翌春に延期された。
1,195 9 7 源頼朝が、善光寺(現在の長野県長野市長野元善町)への参詣を計画する。しかし翌春に延期された。
1,195 9 18 九条任子が、後鳥羽天皇の第1皇女昇子内親王を出産する。九条兼実は男児が産まれる様祈祷を繰り返し実施していたが、実らなかった。
1,195 9 24 源頼朝の歯痛が再発する。
1,195 10 1 源頼朝の歯痛が快方に向かった為、舟を出して三崎(現在の神奈川県三浦市)まで遊覧する。佐々木経高も随行した。
1,196 1 3 源在子が、後鳥羽天皇の第壱皇子土御門天皇を出産する。在子の養父であった源通親は、将来土御門天皇の外祖父として権勢を振るう事が確定した。
1,196 5 22 九条兼実に距離が近かった第45代左大臣三条実房が、病の為左大臣を辞任する。九条は後任を定めず、空位となった。
1,196 12 15 九条任子が内裏から退出させられる。
1,196 12 16 九条兼実が、上表の形式も無く関白を罷免される。源通親の擁立により、近衛基通が第23代関白に就任した。
1,196 12 16 慈円が天台座主を罷免される。
1,196 12 19 九条兼実の同母弟藤原兼房が太政大臣を罷免される。
1,196 12 21 後白河上皇の第拾皇子承仁法親王が、第63代天台座主に就任する。
1,197 以下2名が、源頼朝の下を訪れ、源から善光寺への参詣の先駆けを命じられる。
①石川広季
②矢吹光誠
1,197 クトゥブッディーン・アイバクが、グジャラート(現在のインド)を奇襲し、シローヒー(現在のインドのラージャスターン州)にて、グジャラートの王ビーマ2世率いる軍を破る。其の後首都のアンヒルワラ(現在のインドのグジャラート州パータン県パータン)を略奪した。
1,197 シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュの主人ジャマールッディーン・ムハンマド・チュスト・カバがガズニー(現在のアフガニスタン)に帰還する。其処で、グジャラートの遠征から帰還したばかりのクトゥブッディーン・アイバクが、イルトゥトゥミシュに目を留めた。クトゥブッディーンはゴール地方(現在のアフガニスタンのゴール州)の統治者ムイッズッディーン・ムハンマド・イブン・サームに許可を得て、以下2名を購入しようとした。
①イルトゥトゥミシュ
②タムガージ・アイバク
しかし、ガズニーでは人身売買が禁止されていた為、サームは、イルトゥトゥミシュとタムガージをデリーに連れて行く様指示した。カバは、クトゥブッディーンにイルトゥトゥミシュとタムガージを100,000ジタルで売った。イルトゥトゥミシュは王室護衛隊長、タムガージはタバルヒンダ(現在のインドのパンジャーブ州バティンダ)の知事となった。
1,197 3 手向山八幡宮の社殿が再建される。
1,197 4 12 源頼朝が、山井宗頼を伴い善光寺へ参詣する。
1,197 8 28 大姫が病の為死去する。これを受け源頼朝は、自身の弐女三幡を後鳥羽天皇の皇后として入内させる工作を行う為、朝廷の政治についての意見を具申する名目で上洛する計画を立てた。
1,198 2 18 後鳥羽天皇が譲位する。これにより土御門天皇が第83代天皇に即位した。土御門天皇が幼齢である事から、以下2名が後継天皇として挙がっており、鎌倉幕府も土御門天皇即位に難色を示していたが、押し切った形となった。
①守貞親王
②惟明親王
また文覚も、守貞親王擁立する為源頼朝に働き掛けていた。
1,198 11 23 一条能保が死去する。
1,198 10 19 一条高能が病死する。
1,199 1 25 源頼朝が、稲毛重成が自身の亡き妻の為に架けた相模川の橋供養に出席する。源は、その帰路に於いて落馬した。
1,199 2 7 源頼朝が重病であるとの情報が伝わる。又同日源は出家した。
1,199 2 9 源頼朝が、前月の落馬が原因で死去する。此の時点で三幡は女御の宣旨を与えられていた。既に皇后であった九条任子は中宮、同じく皇后の源在子は後宮に居た為、女御の三幡が入内すれば、皇后の中で事実上の最高位となる。一条家は、源が死去した事で後ろ楯を失った。頼朝の死去を受け、安達盛長は出家した。
1,199 2 14 源頼朝が重病であるとの情報が京都に伝わる。
1,199 2 16 源頼朝が重病であるとの情報を受け、源通親が急遽臨時除目を開き、自身の右近衛大将就任と源頼家の左中将昇進の手続きを取る。
1,199 2 18 京都が緊迫した情勢となり、源通親が院御所に立て籠もる。
1,199 2 22 朝廷が、源頼家を家督相続させ第2代鎌倉殿とし、源が御家人を以て諸国を守護する事を命じる宣旨を下す。
1,199 2 23 藤原定家が、中原親能が上洛して成敗を行うという情報を得る。
1,199 3 4 源頼家の鎌倉家継承を公認する宣旨を伝える使者が京都から鎌倉に到着する。同日鎌倉幕府は吉書始を執り行い、以下が政所に参列した。
①北条時政
②大江広元
③三浦義澄
④源光行
⑤三善康信
⑥八田知家
⑦和田義盛
⑧比企能員
⑨梶原景時
⑩工藤行光
⑪平盛時
⑫中原仲業
⑬三善宣衡
中原が清書した吉書を、大江が寝殿に居る源へ持参した。
1,199 3 9 左馬頭源隆保が、自邸に武士を集め、源通親襲撃を謀議していた事が発覚する。
1,199 3 10 源通親の下に飛脚が到着し、鎌倉幕府が源を支持する方針が伝えられる。
1,199 3 12 左衛門尉の以下3名が源頼家の雑色に捕縛され、大内惟義経由で院御所に連行される。
①後藤基清
②中原政経
③小野義成
又、此の時文覚も捕らえられた。
1,199 3 14 中原親能が予定より遅れて上洛する。その後中原は源通親襲撃未遂の処理に当たった。
1,199 3 15 以下3名が出仕を止められる。
①西園寺公経
②持明院保家
③源隆保
1,199 4 1 以下3名が各々武士の預かりとなり、鎌倉に護送される。しかし、鎌倉幕府は3名を受け取らず、戻された。
①後藤基清
②中原政経
③小野義成
1,199 4 2 三幡が高熱を出し発病する。北条政子は諸社に祈願し、諸寺に読経させた。その後京都御所では、一字金輪法が修され、源頼朝の異母弟阿野全成は三幡に奉仕した。しかし甲斐無く、三幡は日毎に窶れていった。京都の名医の針博士丹波時長は何度も三幡の治療に当たる様求められるが固辞した。
1,199 4 2 後藤基清が、源通親襲撃計画に関与したとして、讃岐国守護を罷免される。後任として、近藤国平が讃岐国守護に任ぜられた。
1,199 4 2 後藤基清が、源通親襲撃計画に関与したとして、讃岐国守護を罷免される。
1,199 4 9 丹波時長に往診を求める使者が、鎌倉から京都に派遣される。丹波が固辞する様なら後鳥羽上皇の耳に入れる様言われていた。
1,199 4 16 文覚が佐渡国に配流される。
1,199 4 20 源頼家が伊勢神宮領である以下6ヶ所の地頭職を停止する。此の措置は源頼朝の遺志であった。警察権までが伊勢神宮側に与えられた。
①伊良胡御厨(現在の愛知県田原市伊良湖町)
②本神戸(現在の愛知県田原市)
③新神戸(現在の愛知県豊橋市飽海町)
④新加神戸(現在の愛知県豊橋市老津町)
⑤蒲御厨(現在の静岡県浜松市)
⑥尾張国御厨
1,199 4 22 源隆保が左馬頭を罷免される。
1,199 4 27 問注所が鎌倉幕府の外に移転し、初代問注所執事三善康信が引き続き責任を負った。
1,199 5 後鳥羽上皇が、丹波時長に三幡の往診に当たる様院宣を下す。
1,199 5 8 源頼家が自ら直に訴訟を裁く事が停止される。又、以下の人間以外の者が源に訴訟を持ち込む事が不可となった。
①北条時政
②北条義時
③大江広元
④三善康信
⑤中原親能
⑥三浦義澄
⑦八田知家
⑧和田義盛
⑨比企能員
⑩安達盛長
⑪足立遠元
⑫梶原景時
⑬二階堂行政
1,199 5 16 以下2名が政所に張り紙をする。
①梶原景時
②中原親能の家臣中原仲業
張り紙には「以下5名が鎌倉で狼藉を働いたとしても民衆は刃向かってはいけない。此れに違反した者は罪人として名を調べて書き出す様に村や里に命令を下す事。又、此の5名以外の者は特別な仰せが無ければ源頼家と対面させない」という主旨の内容が記載された。
①小笠原長経
②比企能員の参男比企宗員
③比企能員の四男比企時員
④中野能成
⑤北条時房
1,199 5 23 源頼家が東国の地頭達に、水の便の有る荒野を新しく開拓する様命じる。
1,199 6 1 丹波時長が鎌倉に到着する。この日は三幡の乳母の夫中原親能の亀ケ谷(現在の神奈川県鎌倉市扇ガ谷・山ノ内)の屋敷に入った。丹波の宿泊の手配は以下2名が担当となっていた。
①大江広元
②八田知家
1,199 6 2 丹波時長が、南御門(現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下)の畠山重忠の屋敷に移る。
1,199 6 3 丹波時長が、診察料金として砂金20両を受け取り、三幡に朱砂丸を処方する。
1,199 6 8 北条時政が丹波時長を接待する。以降は以下の御家人等が日毎に交代で丹波を接待する事となった。
①三浦義澄
②佐原義連
③八田知家
④梶原景時
1,199 6 10 源頼家が、以下2ヶ所の地頭職を停止する。
①薑御厨(現在の愛知県豊橋市御園町の東田神明宮付近)
②橋良御厨(現在の愛知県豊橋市橋良町・柱一番町・柱二番町・柱三番町・柱四番町・柱五番町・柱六番町・柱七番町・柱八番町・柱九番町付近)
1,199 6 16 源隆保が土佐国に配流される。
1,199 6 22 夕方、三幡が食事をし、回復の兆しを見せる。周囲は喜んだ。
1,199 7 東大寺の南大門が上棟される。
1,199 7 6 三幡の目の上が腫れ始める。
1,199 7 8 三幡が衰弱し始める。丹波時長は驚き「今に於いては望みが無く、人力の及ぶ所では無い」と言った。
1,199 7 19 三幡の病状を聞いて京都から駆け付けた中原親能が鎌倉に到着する。
1,199 7 20 丹波時長が、京都へ向けて鎌倉を出発する。丹波には以下が与えられた。
①旅の食糧などを運ぶ人夫20名
②役人2名
③護衛の兵
④馬5頭
さらに大江広元も馬を贈った。丹波はもっと早くに出発したかったが、中原親能の到着を待っていた為この日の出発となった。
1,199 7 24 12時、三幡が死去する。北条政子等多くの人間が悲嘆に暮れた。中原親能は直様亀ケ谷の屋敷の持仏堂で出家し「寂忍」の法名を名乗った。20時、中原の屋敷の亀谷堂(現在の神奈川県鎌倉市扇ガ谷の岩船地蔵堂)に葬られた。以下の御家人達が供した。
①北条義時
②大江広元
③小山朝政
④三浦義澄
⑤結城朝光
⑥八田知家
⑦畠山重忠
⑧足立遠元
⑨梶原景時
⑩宇都宮頼綱
⑪佐々木盛季
⑫二階堂行光
1,199 7 30 亀谷堂にて三幡の仏事が執り行われる。北条政子が参列した。導師は、第2世鶴岡八幡宮寺別当尊暁が務めた。
1,199 8 9 安達景盛が、源頼家の命により、沢山の盗人を連れて、三河国の宿駅で暴力を振るっていた室平重広征伐の為、鎌倉を出発する。
1,199 8 13 源頼家が中野能成に命じ、安達景盛の側室を小笠原長経の屋敷に置き自身の側室とする。源は何度も艶文を送っていたが、返事が無かった為強引に連れ出した。
1,199 8 19 夜、源頼家が鎌倉幕府の北向御所に安達景盛の側室を住まわせる。更に源は、以下の5名以外は北向御所に来てはならないとの命令を下した。
①小笠原長経
②比企宗員
③和田朝盛
④中野能成
⑤細野四郎
同年5月16日の5名から以下2名が外れた。
①比企時員
②北条時房
1,199 9 10 安達景盛が、室平重広を捕らえる事が出来ない儘、三河国から鎌倉に帰還する。安達は此処で側室を源頼家に奪われた事を知った。
1,199 9 11 安達景盛が源頼家に恨みを持っているという噂が流れる。又、頼家に讒言する者が居た。頼家は以下5名に対し、景盛征伐を命じた。
①小笠原長経
②和田朝盛
③比企三郎
④中野能成
⑤細野四郎
夜、小笠原率いる軍が、甘縄に在る安達盛長の屋敷に押し寄せた。其れを知った北条政子は盛長の屋敷に入り、二階堂行光を遣わせ、源に以下の主旨の内容を伝えさせた。
「源頼朝が亡くなってから月日も経っていません。三幡も亡くなり、悲嘆は1つに留まらないのに、今戦闘を好まれる様子が見えるのは、正に乱世の元です。中でも、景盛は頼朝を信頼していたので、頼朝も景盛を気に入っておられた。景盛に罪科が有ると思われるなら、私が直ぐに尋問し、成敗も致しましょう。事実も確かめもせず、誅戮を加えられたならば、きっと後悔される事になるでしょう。其れでも尚景盛を追罰しようと思われるならば、私が先ず其の矢に当たりましょう」
此れを受け頼家は、景盛征伐を撤回した。此の日北条は、其の儘盛長の屋敷に宿泊した。此の一連の出来事を受けて大江広元は「こういった例が無い訳では無い。白河上皇は、源仲宗の妻祇園女御を御所に連れ出して寵愛し、仲宗を隠岐国へ流しました」という主旨の発言をした。
1,199 9 12 北条政子が、安達盛長の屋敷に安達景盛を呼ぶ。北条は「昨日は謀を巡らせ、一旦は源頼家の無謀な行いを止めさせる事が出来ましたが、私は既に老婆です。後々此の事を源が恨む事が有っても、此れを抑える事は出来ないかも知れません。だから、景盛の方から源を恨む事は無いという起請文を源に献上しなさい」という主旨の発言をした。景盛は応じ、起請文を作成した。佐々木盛綱は、此の起請文を源に提出すると共に、以下の北条の咎めを伝達した。
昨日、景盛を誅殺されようとしましたが、粗忽の至りであり、此の様な不義は見た事が有りません。凡そ今の情勢を考えると、国内の守備はなっていない。政治に倦んで民の憂いを考えていない。他人の妾を我が物にし、人の誹りを省みていない。又、召し使っている者も賢人哲人に程遠く、主君に邪佞に属する者達です。言うまでも無く、源氏は幕府を作り上げた功績のある一族で、北条は私達の親戚です。源頼朝は北条氏を大切にされ、常に座右にお招きになっていました。其れなのに今は北条氏に対してお褒めの言葉が無いばかりか、皆を蔑んで実名で呼ばれるので、各々は恨みを残すという噂が有ります。其れでも、事態に対して冷静な対処を為されたならば、今は末法思想でいう末代であっても、合戦が起こる事は無いでしょう。
1,199 10 17 鎌倉幕府が不動明王像の供養を行う。導師は明菴栄西が務めた。
1,199 11 伊勢神宮が、安達盛長の派遣した守護代官善耀によって押妨されているとの訴えを起こす。安達は、西暦1,199年4月20日の源頼家の地頭職停止の命令を無視し、従来通り善耀に伊勢神宮領を支配させていた。最終的には奉行の裁定により事件は収束した。
1,199 11 15 大倉御所の侍所にて、結城朝光が、夢のお告げを受けたとして、死去した源頼朝の為に一万遍の念仏を唱える事を周囲に勧め、皆で南無阿弥陀仏を唱和する。結城が「忠臣は二君に仕えずと申すが、源頼朝殿が亡くなられた時に出家を留まった事を大変後悔している」という主旨の発言をすると、源に仕えていた周囲の者達は涙した。
1,199 11 17 阿野全成の妻阿波局が、結城朝光に対し「一昨日の貴方の発言が謀反心の有る証拠であると梶原景時が源頼家に讒言した事により、貴方は殺されてしまうかも知れません」と告げる。此れを受けて結城は、三浦義村に相談した。結城は「源頼朝公より受けた御恩を思うと須弥山の頂より高いもので、昔を慕う余りに忠臣は二君に仕えずと言った」と釈明した。三浦は以下2名と話し合いを持った。
①和田義盛
②安達盛長
結論として、梶原を鎌倉から排除する事が決定された。
1,199 11 18 以下の人間を含む66名が鶴岡八幡宮寺の回廊に集結する。
①千葉常胤
②千葉胤正
③三浦義澄
④三浦義村
⑤畠山重忠
⑥小山朝政
⑦結城朝光
⑧足立遠元
⑨和田義盛
⑩和田義盛の長男和田常盛
⑪比企能員
⑫伊賀朝光
⑬二階堂行光
⑭葛西清重
⑮八田知家の長男八田知重
⑯波多野忠綱
⑰大井実久
⑱津々見忠季
⑲渋谷重国の弐男渋谷高重
⑳山内首藤経俊
㉑宇都宮頼綱
㉒榛谷重朝
㉓安達盛長
㉔佐々木盛綱
㉕稲毛重成
㉖安達景盛
㉗岡崎義実
㉘土屋義清
㉙東重胤
㉚土肥遠平の長男土肥維平
㉛河野通信
㉜曽我祐信の長男曽我祐綱
㉝土肥実平の弟二宮友平
㉞長江義景の息子長江明義
㉟毛呂季光の息子毛呂季綱
㊱天野遠景
㊲工藤行光
㊳中原仲業
㊴長沼宗政(署名のみ)
文章が上手と評判で、梶原景時と遺恨の有った中原は、梶原景時糾弾の連判状の文章を作成して読み上げ、66名は其の連判状に署名・血判をした。連判状には「鶏を養う者は狸を飼わず、獣を飼う者は山犬を育てない」との一文が有ったが、義村は其れに感心した。其の後義盛と義村が大江広元に提出した。しかし大江は、源頼家に連判状を提出しなかった。
1,199 11 29 和田義盛が大江広元に、連判状を源頼家に提出したかどうか尋ねる。大江がまだ提出していない旨を伝えると、和田は「貴殿は、関東の爪牙耳目として長年働いてきた。梶原景時の権威を恐れて諸将の鬱憤を隠し立てするのは、法に違えるのではないか」と大江を激しく詰問した。
1,199 12 1 大江広元が、源頼家に連判状を提出する。源は、連判状を梶原景時に渡して弁解する様求めた。
1,199 12 2 梶原景時が、弁解をしない儘、以下2名を始めとする子息・親類を率いて、所領である相模国一之宮(現在の神奈川県高座郡寒川町)の館へと下る。
①梶原景季
②梶原景高
しかし、梶原景茂は鎌倉に残った。
1,199 12 7 以下の人間等が、比企能員の屋敷にて蹴鞠を行う。
①源頼家
②北条時房
③比企時員
④冨部五郎
⑤細野四郎
⑥大輔房源性
其の後酒宴が開かれ、源と梶原景茂が対面する。其の場には中原仲業もいた。源は「梶原景時が権威を振るって傍若無人だった為、連判状が出された」と景茂に説明した。此れに対し景茂は「景時殿は頼朝殿の寵愛を受けていたから他の者より抜きん出ていただけで、頼朝が亡くなってからどうして非議を行えるだろうか、景時は連判状を見て、他者から攻められるのを恐れている」という主旨の返答をした。周囲の者達は、景茂の返事の趣きが殊勝だと、密かに話し合った。
1,199 12 8 源頼家が、比企能員の屋敷にて蹴鞠を催す。
1,199 12 28 梶原景時が、一宮の所領から鎌倉に帰還する。
1,200 第6代ゴール朝スルターンのギヤースッディーン・ムハンマドが、自身の従兄弟のジャラールッディーン・アリーをホラーサーン(現在のイランの北ホラーサーン州、南ホラーサーン州、ラザヴィー・ホラーサーン州)の総督に任命する。
1,200 1 6 以下2名の奉行により、梶原景時を鎌倉から追放するという評定が下る。連日の評議の末の結論であった。
①和田義盛
②三浦義村
梶原は再度一之宮へ下った。その後梶原の屋敷は解体され、永福寺の僧侶の住居として寄附された。
1,200 1 17 小山朝政が、梶原景時に代わり播磨国守護職に就任する。
1,200 1 30 明菴栄西が、法華堂(現在の神奈川県鎌倉市西御門)にて源頼朝の一周忌の導師を務める。
1,200 2 6 2時、梶原景時が以下の息子等を伴い、京都へ向けて一之宮を出発する。
①梶原景季
②梶原景高
③梶原景茂
1,200 2 6 一之宮に城郭を構え、防戦の備えをしていた梶原景時が、息子達を伴い京都へ向けて一之宮を出発したとの情報が鎌倉幕府の耳に入る。此れを受けて、以下の人間等が大倉御所に集まり審議した。
①北条時政
②大江広元
③三善康信
結果、梶原征伐の為、以下の人間を差し向けた。
①三浦義村
②比企余一兵衛尉
③糟屋有季
④工藤行光
1,200 2 6 22時、梶原景時一行が、駿河国清見関(現在の静岡県静岡市清水区興津)に到着する。其処で現地の以下の武士の襲撃を受けた。
①廬原小次郎
②工藤八郎
③工藤六郎
④三沢小次郎
⑤渋谷重国の五男飯田家義
⑥吉川友兼
⑦渋川次郎
⑧矢部平次
⑨船越三郎
⑩大内小次郎
先ず、廬原が追い込み、以下2名が討ち取られた。
①梶原景時の六男梶原景国
②梶原景時の八男梶原景則
そして、飯田の手先2名が梶原景茂の郎党2名を討ち取った。吉川も景茂を討ち取るが、深手を負っていた吉川は、その儘死亡した。更には、渋川の郎党が景時の一族4名を討ち取り、矢部の郎党も狩野藤乙兵衛尉を討ち取った。三沢は、景時の郎党を討ち取った。船越は梶原景時の一族1名を討ち取った。大内は、景時の郎党1名を討ち取った。更に、八郎の郎党と六郎が、梶原景時の七男梶原景連を討ち取った。そして、以下2名が後方の山で自害した。
①梶原景季
②梶原景高
景時は、西奈(現在の静岡県静岡市葵区)の山中で自害した。
1,200 2 7 以下2名の首が探し出され、梶原氏一族33名の首が路頭に梟首される。
①梶原景季
②梶原景高
1,200 2 9 以下4名が、駿河国の人間を伴い鎌倉に帰着し、合戦の記録を提出する。
①三浦義村
②比企余一兵衛尉
③糟屋有季
④工藤行光
1,200 2 10 安達親長が、梶原景時一族が滅んだ事を六波羅に伝える為に上洛する。持参した源頼家の御教書には、京都にいる仲間を探し出して捕える様書かれていた。
1,200 2 10 梶原景時と親交の深かった加藤景廉が領地の一部を没収される。
1,200 2 11 梶原景時の美作国守護職を罷免し、梶原氏の所領を没収する。又、以下の人間に恩賞が与えられた。
①比企余一兵衛尉
②糟屋有季
③西暦1,200年2月6日に梶原景時一行を襲撃した現地の武士
1,200 2 11 吉川友兼の息子吉川朝経が、梶原氏の所領であった播磨国福井荘(現在の兵庫県姫路市勝原区・網干区)の地頭に任ぜられる。
1,200 2 11 小山朝政が、播磨国5ヶ庄の地頭に補任される。
1,200 2 11 夜、梶原朝景が北条時政の屋敷に出頭し、工藤行光経由で武器を差し出す。
1,200 2 12 糟屋有季が、梶原景時と親交の深かった安房判官代佐々木高重を捕らえる。
1,200 2 14 武田信光が、甲斐国から鎌倉に到着する。信光は鎌倉幕府に対し「兄の武田有義が、梶原景時との約束を受けて密かに上洛しようとしていると聞いたので、詳細を尋ねる為屋敷に向かいましたが、既に逃げ去った後であり、行方が分かりません。唯、鎌倉幕府に対する反逆を企て、土御門天皇に許可を得る為、又、九州の武士を糾合する為に上洛し、有義を征夷大将軍に擁立するという主旨の梶原からの一通の書簡が有り、梶原と同心したのは明らかです」と報告した。
1,200 2 17 源頼家が、大倉御所の侍所にて波多野盛通に梶原景時と通じていた勝木則宗を捕縛する様命じる。波多野は、侍所に居た勝木を後ろから抱えて捕えようとした。しかし、相撲が達者で大力の持ち主であった勝木は、右手を振り抜き、腰刀を抜いて波多野を刺そうとした。其処に、横に居た畠山重忠が、座った儘左手を伸ばし、腰刀を持っていた勝木の右手を掴んで腕をへし折った。痛みで気を失った勝木は其の儘捕らえられた。其の後、勝木は和田義盛からの取り調べを受け「梶原景時は、九州の一族に向けて、九州を支配する為の宣旨を要求したから、急いで京都に来る様促す主旨の書簡を送っていた」と自白した。
1,200 2 20 和田義盛が、第3代鎌倉幕府侍所別当として還補される。
1,200 2 21 以下4名が、勝木則宗を捕縛した波多野盛通への恩賞と、勝木への刑を決定する。
①大江広元
②三善康信
③三善宣衡
④二階堂行光
其処に、予てから波多野を恨んでいた真壁紀内が「勝木を生け捕ったのは、波多野ではなく畠山重忠です」という主旨の発言をした。召された畠山は「そんな話は知りません。波多野一人の手柄と伺っています」と否定した。其の後畠山は、侍所にて真壁に対し「此の様な讒言は最も無益な事。弓矢に携わる武士ならば、私事を忘れるのが本来。貴殿は波多野を恨んでいるのかも知れないが、此処は波多野が一人で勝木を生け捕ったといってやるのが武士なのではないのだろうか。波多野は、先祖代々の勇士。其の名を汚す事は、道理に外れた事である」と説いた。真壁は赤面して言葉も出ず、周囲の者は畠山に感心した。
1,200 3 28 北条政子が、源頼朝の菩提を弔う意味を込め、源義朝から伝わる亀ケ谷の地を明菴栄西に寄進し、寿福寺建立計画を掲げる。
1,200 3 29 12時、北条政子を施主として、寿福寺造営の事始が執り行われる。以下2名が奉行を務めた。
①三善康信
②二階堂行光
また同日、明菴栄西が、北条が前日に建立計画を掲げた寿福寺の開山に迎えられた。
1,200 6 9 安達盛長が死去する。
1,200 6 24 源頼家が、僧侶が斬る袈裟を問題視し、念仏禁止令を発する。比企時員は源に命じられ、念仏僧14名を捕らえ、袈裟を剥ぎ取り、筋替橋(現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下)の近くで焼却した。筋替橋には大勢の見物人が集まり、源の施政を批判した。しかし、伊勢称念の袈裟だけは「俗人の束帯と僧侶の袈裟とは同じ黒を用いる事になっている。どうして黒衣の着用を禁止されるのか。総じて、今の世の政治の有様は、仏の道にも、世の中の道理の何れにも外れたもの。これは滅亡の元凶でしょう。しかし、私の袈裟は、正しい道を表した袈裟であるので、焼く事は出来ないでしょう」と主張した事で焼かれなかった。伊勢称念は、再び袈裟を身に纏い其の場を去った。此の念仏禁止令は直ぐに廃止となり、世間の笑い種となった。
1,200 7 10 陸奥国葛岡(現在の宮城県大崎市岩出山)の新熊野神社の僧が、坊領の境相論に於いて、双方の文書を持参し、一帯の地頭である畠山重忠に結審を望む。畠山は、藤原秀衡の代では朝廷の安泰を祈祷していた神社であったが、今は鎌倉幕府の繁栄を祈祷している神社であるので、三善康信経由で、源頼家の裁定を仰いだ。源は、絵図の中央に一本の線を引き「土地が広いか狭いかは運次第だ。態々使いを出して現地を調査するのは面倒である。以後の境界争いは全てこの様に結審する。不服が有るならば訴訟など起こさぬ様に」という主旨の発言をした。
1,200 8 17 北条政子が佐々木定綱に託して京都で書かせた「十六羅漢図」が完成する。佐々木は十六羅漢図を鎌倉に届ける為、京都を出発した。
1,200 8 20 淡路国・阿波国・土佐国の守護佐々木経高が、これらの国から兵を京都に招集する。洛中は騒動となり、後鳥羽上皇は怒った。
1,200 8 26 十六羅漢図の開眼供養が寿福寺にて執り行われる。導師は明菴栄西が務め、北条政子も参列した。
1,200 9 7 鎌倉幕府が六波羅から「佐々木経高が朝廷の権威を軽んじ、洛中で強盗を捕らえると称しては人々の家を略奪しているという。国元の淡路国では朝廷に納める分の年貢を奪い取り、西暦1,200年8月20日には守護を務める三ヶ国から軍勢を集めて武装させ、朝廷を驚かせた。 何故その様な暴挙に及んだのか問い質した所「敵の襲来に備える為」と答弁したが、その様な事実はなく非常識も甚だしい。よって後鳥羽上皇の逆鱗に触れた」という主旨の書簡を受け取る。
1,200 9 11 佐々木経高が淡路国・阿波国・土佐国の守護職を罷免される。
1,200 10 11 源頼家が、小壺(現在の神奈川県逗子市小坪)にて笠懸を行う。射手には以下の人間が選ばれ、武芸を披露した。
①結城朝光
②海野幸氏
③小笠原長経
④和田義盛の弟和田義胤
⑤和田常盛
其の後、船を出して遊覧し、酒宴を行った。最中源は、泳ぎの名人との評判が高かった朝比奈義秀に、其の技を披露する様命じた。朝比奈は直様海に飛び込み、10往復した後、潜水して生きた鮫を3匹抱き抱えて戻って来た。周囲の者は皆喝采で迎え、驚嘆した源は、その日乗って来た、大江広元が献上した奥州産の名馬を与えようとした。しかし、予てから其の馬を欲しいと思っていた常盛が所望した為、源は、朝比奈と常盛で相撲を取らせ、勝者に其の馬を与える事にした。直様船を浜に寄せ、小坂光頼の屋敷の庭を借りて、相撲が行われた。しかし実力伯仲で中々勝負が決まらず、北条義時が割って入って引き分けにしようとした所、其の隙に常盛は衣を着替える間も無く馬に飛び乗って去って行った。朝比奈は大いに悔しがり、其の場に居た者は大笑いした。



和田合戦一元化




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