万物の系譜

西暦1〜1,100年

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イスラム教の預言者ムハンマド一元化

年月日 出来事
30 4 7 イエス・キリストがエルサレムで、エルサレム神殿を頂点とするユダヤ教体制を批判した為処刑される。
33 ユダヤ教の中から、原始キリスト教が最初の教会をエルサレムに置き、成立する。
57 奴国の国王が後漢に使いを送り、初代後漢皇帝光武帝より漢委奴国王の金印を受け取る。
57 インドから後漢へ綿布が伝わる。
64 7 18 夜、ローマのキルクス(戦車競技場)周辺の商店通りから火災が発生する。放火犯の噂を立てられた第5代ローマ帝国皇帝ネロは、キリスト教徒に放火犯の罪を着せて処罰した。火災は6日後に鎮火された。
66 ユダヤ人の反乱軍がエルサレムに立て籠る。
70 4 14 ローマ帝国のエルサレム攻略の司令官であるティトゥスが、第5軍団マケドニカ、第12軍団フルミナタ、第15軍団アポリナリスの3つの軍団を市の西面に、第10軍団フレテンシスを市の東のオリーブ山に配置し、エルサレムを包囲し水と食糧の供給を絶つ兵糧攻めを行った。
70 8 ローマ帝国によってエルサレム神殿(第二神殿)が破壊される。
70 9 7 ローマ帝国がエルサレムを完全征圧する。
100 新約聖書が完成する。
105 宦官の蔡倫が樹皮、麻繊維、魚網を用いて紙を作り、第4代後漢皇帝和帝に献上。
107 倭国の王帥升が後漢に使いを送り、生口(捕虜)160名を献上する。
130 第14代ローマ帝国皇帝ハドリアヌスが、エルサレムをローマ風の都市に建設する。
132 ハドリアヌスが割礼を禁止する。これによりユダヤ人による反乱が始まる。
135 ローマ帝国がユダヤ人による反乱を鎮圧し、ユダヤ人をエルサレムから追放する。
138 第15代ローマ皇帝アントニヌス・ピウスが割礼を許可する。
150 天文学者クラウディオス・プトレマイオスが円周率に関し以下の式から3桁の精度を得る。
π= 377 120
=3.14166666667
180 倭国が乱れた為、卑弥呼を女王に据える。
181 4 2 第12代後漢皇帝霊帝の側室王栄により献帝が産まれる。これに嫉妬した何皇后は王に刺客を送り毒酒で王を毒殺した。これを知った霊帝は何皇后を退位させようとしたが、宦官達が執り成して阻止した。その後霊帝は若くして母を亡くした献帝を不憫に思い韻文「追徳賦」「令儀頌」を詠んだ。以後献帝は嗇夫の朱直によって、宮中の女性が病気や罪を犯した際に監禁される部屋である「暴室」で養育された。
181 7 何皇后の父何真に対し、車騎将軍と舞陽(現在の河南省)侯が追贈される。
182 4 霊帝の母の董太后が朱直から献帝を引き取り、養育を始める。
183 何皇后の母舞陽君に称号が贈られる。
184 2 29 道教の一派である太平道の指導者張角やその周囲の酋長・従者が後漢政府打倒の為の挙兵準備を開始する。また、張は腹心の馬元義を洛陽(現在の中国河南省)に送り込んだ。馬は荊州・揚州(現在の中国江蘇省)に対し挙兵準備を通達し、鄴(現在の中国河北省邯鄲市臨漳県・現在の中国河南省安陽市安陽県)に兵を集めた。
184 3 14 張角の弟子である唐周が、後漢政府の徐庶等に張角の西暦184年4月3日に蜂起する計画を密告する内容の書簡を送る。これを受け霊帝が以下の指示を出した。
①馬元義を捕らえ洛陽にて処刑。
②1,000名の馬の従者を殺害。
③冀州が張とその家族を捕らえる。
184 3 15 張角が、蜂起計画が漏れた為予定よりも早く挙兵する。また、自らを天公将軍と称し以下の2名の弟にも将軍の名を与えた。
①地公将軍張宝
②人公将軍張梁(張宝の弟)
184 3 15 馬元義が1,000名の従者と共に後漢政府側に河内県山陽郡(現在の中国河南省山陽市)にて捕らえられる。これを受け直様張曼成が南陽(現在の中国河南省)にて挙兵した。
184 3 15 馬元義が1,000名の従者と共に後漢政府側に河内県山陽郡(現在の中国河南省山陽市)にて捕らえられる。これを受け直様張曼成が南陽(現在の中国河南省)にて挙兵した。
184 3 張曼成が南陽太守褚貢を殺害し、宛城を居城とし自らを「神上使」と名乗る。
184 3 霊帝が何進を大将軍に任命し、兵を都亭に駐屯させ、八つの関に都尉を置き洛陽の守備を行わせる。
184 4 後漢政府が以下3名を任命し軍を派遣する。
①北中郎将盧植(冀州(現在の中国河北省衡水市)に派遣)
②左中郎将皇甫嵩(颍川(現在の中国河南省禹州市)に派遣)
③右中郎将朱儁(颍川に派遣)
184 4 朱儁が波才率いる黄巾軍と颍川で交戦し敗れ、長社(現在の中国河南省許昌市)に逃れる。
184 4 広陽(現在の中国北京市の宣武門〜和平門)の黄巾軍が幽州刺史郭勲・広陽太守劉衛を殺害する。
184 4 汝南太守趙謙が邵陵(現在の中国湖南省邵陽市)にて黄巾軍に敗れる。
184 5 波才は追って大軍を率いて、籠城している朱儁の逃亡先の長社の城を包囲した。その夜、強風を利用して皇甫嵩は兵に城壁に登って火を放つ事を指示し、黄巾軍を奇襲した。 そこに曹操が皇甫・朱に加わり、黄巾軍を破る。波は汝南(現在の中国河南省駐馬店市)に逃れた。その後皇甫・朱が汝南、陳(現在の中国河南省周口市淮陽区)の黄巾軍を抑えた。また、朱の配下の孫堅が皇甫・朱に加わり、波は阳翟(現在の中国河南省禹州市)にて再度敗れた。
184 5 豫州刺史王允が侍中荀爽・文人で孔子の20代の孫である孔融等を迎え、黄巾軍を撃破する。
184 6 西華(現在の中国河南省周口市)の黄巾軍司令官彭脱率いる軍が、皇甫嵩・朱儁の後漢政府軍に敗れる。
184 6 新たに南陽太守に就任した秦頡が南陽にて張曼成を斬殺する。これを受け張の後継者の趙弘が指揮官となり宛城に籠城した。また後漢政府側は朱儁が、徐璆・秦頡と合流し宛城を包囲した。
184 6 7 洛陽に移送されていた馬元義が車裂きにて処刑される。
184 7 四府からの推挙を受け、霊帝から北中郎将に任命された盧植は北軍中候の将軍として、同じく霊帝から護烏桓中郎将に任命された宗員と共に張角征伐へ向かう。盧は連勝を重ね、張率いる冀州の黄巾軍を10,000名以上殺害し、張は広宗(現在の中国河北省邢台市)に退却した。盧は張を追い広宗を包囲、塹壕を掘って攻城に備えた。その後盧は雲梯を使って攻め立てた。そこに霊帝が軍の監察の使者である左豊を送り込んだ。左は盧に賄賂を要求した。しかし盧が拒否した為、左は霊帝に「盧は戦おうとしない」と讒言する。盧が洛陽に帰ると霊帝は盧に対し「広宗の城は崩しやすいと見ているが、盧は兵を控えている、神が張を殺すのを待っているのか?」と激怒し盧が就いていた尚書を罷免とする勅令を出し、後任に東中郎将として董卓を据え、盧に死刑判決が下った。しかしその後無期懲役に減刑された。董は広宗攻めを止め、北上し張宝のいる下曲陽県(現在の中国河北省石家庄市晋州市鼓城村)の攻撃を開始した。
184 8 後漢政府にて2ヶ月経っても宛城を落とせない朱儁を洛陽に呼び戻すべきであるとの意見が出始めた。それに対し大司農張温が「秦の白起や燕の楽毅は敵に打ち勝つまで何年もかかった」と答え、霊帝も同調した。この出来事がきっかけで何者かが朱の更迭を進言しているとの噂が朱の耳に入る。これにより朱は攻勢を強め趙弘の殺害に成功する。これを受け黄巾軍は韓忠を指揮官に据え籠城を続けた。しかし、朱に就いていた孫堅自ら先頭に立って城壁を登り指揮を執る等して勝利を収めた。韓は朱に降伏を願い出たが、朱はこれを拒否した。包囲を緩めた隙に韓は逃亡し数十km北上したが、10,000名の黄巾軍の兵が殺害され、韓も秦頡によって斬首された。これを受け黄巾軍は孫夏を指揮官に据えた。
184 9 皇甫嵩の軍が兖州(現在の中国山東省・河南省)にて黄巾軍を平定する。これを受け後漢政府は皇甫に冀州の黄巾軍を攻める様指示する。皇甫はこの期待に応え、卜巳率いる軍を破り7,000名を殺害、卜を捕らえ斬首した。その後洛陽に凱旋し、霊帝宛に書簡を送り、盧植が冀州の黄巾軍を平定した事を報告した。これにより盧は尚書に復職を果たした。
184 9 24 後漢政府が、董卓が2ヶ月以上経過しても張宝のいる下曲陽県を落とせなかった為、皇甫嵩の冀州派遣を決定する。また、董に対し「死刑を一度だけ免除する」裁定が下り、東中郎将も罷免された。
184 10 孫夏が朱儁率いる軍に敗れ戦死し、南陽の黄巾軍が消滅する。
184 11 張梁率いる黄巾軍が広宗にて皇甫嵩の軍と交戦し、30,000名の死者、50,000名の川への投身者を出し、梁も皇甫により斬殺された。また、既に病死していた張角の遺体を引き摺り出し晒した。
184 11 涼州(現在の中国甘粛省・寧夏回族自治区)で羌族・枹罕及び隴西郡(現在の中国甘粛省)河関の盗賊・宋建・王国等が反乱を起こし、北宮伯玉・李文侯を将軍として擁立した。彼らは阿陽県(現在の中国山西省晋城市陽城県)まで来たが、正面から戦っても勝ち目は無いと考え、金城郡(現在の中国甘粛省蘭州市・青海省西寧市・青海省海東市)にて、降参した振りをして、涼州総督辺章・韓遂等数十名を人質に取り、護羌校尉伶徴・金城太守陳懿を殺害した。しかし彼らは辺・韓を釈放し、両名を擁立した上で軍政を委ねた。この為隴西郡では辺・韓が賊徒になったという噂が飛び交い、涼州が両名に対して懸賞首をかける事態となった。また、この反乱を鎮める事が出来なかったとして、以下3名が涼州刺史を罷免される。
①左昌
②宋梟
③楊雍
184 12 皇甫嵩の軍が、鉅鹿太守郭典と共に曲陽(現在の中国河北省保定市)にて張宝率いる黄巾軍を破る。張を殺害し、100,000名以上を殺害し死体を積み上げ京観を築き、黄巾軍は指導者を失う事となった。この武功により皇甫は左車騎将軍に任命され、槐里(現在の中国陝西省咸陽市)に移封する。また、8,000戸の食邑を与えられ冀州牧となった。
184 12 皇甫嵩が十常侍趙忠の屋敷の豪華さが規定に反する事を知っていた為、後漢政府に上奏し、没収された。その際張譲から賄賂を要求されていたが皇甫は拒否した為、趙と張が霊帝に讒言した。結果、皇甫は左車騎将軍を罷免され都郷侯に位を戻され、食邑6,000戸を没収された。
185 張温が車騎将軍と假节に任命される。執金吾袁滂を副将とし、袁・盪寇将軍周慎・北宮伯玉が張温の指揮下に入った。これを受け、以下の人間が張温への従軍を志願した。
①張純
②孫堅
③陶謙
しかし孫・陶は受け入れられたが、烏桓族を率いたがっていた張純は張温によって退けられた。さらに公孫瓚を招き入れた。この時董卓は破虜将軍の地位にあり、張温の指揮下にあった。
185 洛陽の宮殿が火災に遭う。これを受け、修繕の為各地に対し税の追徴を行うが、張譲等がこれを着服した為、翌年になっても修繕は完了せず、負担に苦しむ地方の太守や民達の恨みを買った。
185 2 16 董卓が後漢政府から恩赦を受ける。
185 4 李文侯・韓遂・辺章が数万名の兵を率い宦官殺しを旗印に三輔(長安(現在の中国陝西省西安市)周辺)を攻め、皇帝や王妃の墓である園陵へ侵攻した。霊帝は皇甫嵩と董卓を派遣して征服しようとしたが果たせず、反乱軍が100,000名へと勢力を拡大する。
185 8 後漢政府が張温を美陽(現在の中国陝西省宝鶏市扶風県)に送り込み、歩兵・騎兵総勢100,000名を率いさせた。韓遂・辺章の軍も間も無く美陽に着陣し、戦闘が行われ反乱軍が勝利した。
185 11 4 司空に再任されたばかりの楊賜が死去する。楊は陳寔よりも先に出世してしまった事を嘆いていた。
185 12 7 夜、≈紀元前8,905年12月7日に発生したSN 185(距離9,100光年)の超新星爆発による光が地球に到達し、韓遂・辺章率いる反乱軍の陣地を照らし、ロバや馬が嘶く。これを不吉な予兆と受け止め、反乱軍は撤退準備を始める。董卓はその状況を知って喜んだ。
185 12 7 東漢の天文学者が超新星爆発のプロセスを観察して客星として記録に残した。後の後漢書には、「十月癸亥、一つの客星が南門に出現、笠のように大きく色鮮やかで、その後徐々に衰え、翌年六月には無くなった」 という記載がある。
185 12 8 董卓が右扶風鮑鴻と共に韓遂・辺章率いる反乱軍を襲撃し、数千の首を刎ねた。韓遂・辺章含む残党は楡中(現在の中国甘粛省蘭州市)に敗走した。張温は周慎に30,000名の兵を率いさせ韓・辺を追撃させた。張温の部下で軍参謀の孫堅は「楡中は食糧が不足しているので、私が10,000名の兵を率い反乱軍の穀物輸送ルートを断ち、兵糧攻めを行い羌の後背地に退却する様誘導し、その後包囲して梁州を平定する」という主旨の進言を行ったが、周は聞き入れず楡中城を包囲した。しかし韓・辺が兵を分けて渓谷を守り、逆に穀物輸送ルートを断ち切られた。慌てた周は食糧を捨て敗走した。董は川に堰を作り、魚や海老を捕るふりをして密かに兵を率いて川を渡り逃走した。反乱軍が追撃しようとしたところ、堤防に阻まれた川の水深が大きく、川を渡ることができなかった。結果、後漢政府軍の将軍の内、董だけが全軍を引き連れて帰還した。
186 張温が洛陽にて太尉に任命される。この張以降太尉は在外太尉として洛陽の外にて政務を執り行う様になった。また、今回の張の太尉就任は賄賂によって得られたものではないかと噂された。年内に張は洛陽に呼び戻された。
186 公孫瓚が後漢政府から張温の援軍として出撃を命じられる。この時公孫は関や津を通過する際の身分証明である都督行事の割符を与えられ、幽州の烏桓族3,000名の突騎の指揮を任された。しかし薊県(現在の中国北京市大興区)にて烏桓族に食糧を持ち逃げされた。
186 12 辺章が病死する。
187 張純が、2年前に張温に従軍を断られた恨みから、自らを「弥天安定王」と名乗り、以下の人間と共に反乱を起こし、右北平郡(現在の中国河北省唐山市豊潤区)と遼西郡(現在の中国河北省・遼寧省)を攻略する。
①泰山太守張挙
②烏桓族の大人丘力居
また、張挙は自らを天子とし「張挙が、漢に代わった。天子を位から降ろせ。公卿は張挙を迎えよ」という主旨の書簡を各郡に送付した。
187 3 滎陽(現在の中国河南省鄭州市)の農民軍が中矣令を殺害する。
187 4 何苗が滎陽の農民軍を破り車騎将軍に任じられ、済陽(現在の中国河南省)侯となった。
187 4 韓遂が涼州にて反乱を起こす。後漢政府が涼州刺史に耿鄙を任命する。耿は佞吏を信用した為、氐族・羌族が反乱を起こし、治中程球を先鋒として涼州6郡を包囲し、兵と馬の徴発を開始して韓率いる反乱軍と対峙した。耿は程を気に入っていたが、程は裏切り者で強欲であった為、涼州の民から嫌われていた。反乱軍は北宫伯玉・李文侯と北宫伯玉の従者数百名を殺害し、100,000名の兵を奪い、隴西郡を包囲した。隴西太守李相如が韓と連なり、反乱軍に寝返った。また、漢陽太守盖勳は優れた実績を持っていたが、耿から軽蔑されていた為、故郷に帰った。後任として傅燮が漢陽太守に就任した。傅は耿に対し「訓練を受けていない者を戦場に連れて行くのは、人命を無駄にする事だ」と孔子の言葉を引き合いに出し、さらに「貴方はまだ涼州に来て間もない。今、貴方が訓練を受けていない人達を率いて、大長征という危険な障害を乗り越えようとしているのは、100%危険な事で、政府軍が来ると聞けば、反乱軍は団結する事だろう。 休戦を宣言して、報酬と罰を明確にした軍事的規律を定めたらどうだろう。私達が抵抗しないのを見ると、反政府勢力は私達を臆病者だと思い、多くの反政府勢力のリーダーが権力と利益を求めて再び内部抗争を起こすだろう。 貴方は危険で誤った決断をしたと思っている。また、程がいては官軍の心が1つに纏まらない」と続けた。しかし耿は応じなかった。
187 5 耿鄙が兵を率い狄道(現在の中国甘粛省定西市臨洮県)に向かったが、別駕によって先ず程球が、次に耿が殺害され、軍が散り散りになった。城中の兵は少なく、食糧も尽きたが傅燮は城を守った。扶風(現在の中国陝西省宝鶏市)の司馬馬騰と漢陽人王国が韓遂率いる反乱軍に寝返った。王は自らを「連民将軍」と名乗り、韓と馬は反乱軍の指導者として王を支持し、王と共に三輔に侵攻した。王は傅燮に対し酒泉太守の黃衍を遣わせ「天は既に後漢に無い。我が軍を率いて貰えないか」と後漢政府軍から傅燮を引き抜こうとするが、傅燮は剣を掴み「私に賊になれと言うのか」と黃を叱った。さらに、司徒の崔烈が傅燮に涼州を放棄する事を提案するが、傅燮に激しく批判された。一方、胡騎数千名が韓遂に従った。胡騎は城外で「傅燮を故郷の霊州(現在の中国寧夏回族自治区銀川市)に送りたい」と叩頭した。傅燮の息子傅幹は傅燮に対し「後漢はもう駄目です。この漢陽は守れません。氐族・羌族に甘えて故郷に帰りましょう」と進言するが、言い終える前に「伯夷はどれだけ殷が駄目でも周に仕えなかった。私も後漢に殉ずる。俸禄を賜った以上は逃げるわけにはいかない。お前には才智がある。努力せよ。主簿の楊會は、私にとっての程嬰だ。傅幹は、楊を頼れ」と返すと傅幹は喉を詰まらせて言葉にならず、周囲の者達も皆泣き崩れた。そして傅燮は両翼の軍勢を率いて進撃し戦死した。反乱軍は漢陽軍を包囲し、漢陽太守の傅燮が戦死した事で後漢政府は涼州の支配権を失った。
187 5 張温が、反乱を鎮められなかったとして太尉を罷免され、後任に崔烈が就いた。張はその後衛尉に転任した。
187 6 前月に太尉に就任した崔烈の後任として許相が司徒に就く。さらに光禄勲であった沛国(現在の中国安徽省・河南省・江蘇省・山東省)の丁宮が司空に任命された。
187 7 以下の人間が張純率いる軍に殺害される。
①護烏桓校尉公綦稠
②右北平太守劉政
③遼東太守陽終
その後公孫瓚が3,000名の兵を率い張を追撃して撃破し、烏桓族を率いていた貪至王が公孫に降伏した。戦功として公孫は騎都尉に昇進した。
187 10 11 太丘県(現在の中国河南省商丘市永城市)の長の陳寔が死去し、淇陽城(現在の中国河南省安陽市林州市)に葬られた。葬儀には30,000名が参列し、中郎将蔡邕が碑文を刻み、大将軍何進が使者を遣わせ弔辞を読ませた。また、司空荀爽や太僕韓融等多数の人々が喪に服した。
187 11 長沙郡(現在の中国湖南省)の反乱軍の指導者であった区星が、住民を10,000名余り集め、長沙城を攻撃する。しかし議郎であった孫堅が長沙太守に就任し、一ヶ月でこれを鎮圧した。さらに、区に呼応した以下2名等も孫によって鎮圧された。その際宜春(現在の中国広西省)長であった廬江(現在の中国安徽省合肥市)太守陸康の従子は、反乱軍に攻め入られた為、使いを送り孫に助けを求めた。孫が出撃準備に取り掛かると、主簿は止めようとした。しかし孫は「太守には文徳が無く、征伐を功としてきた。郡界を越えて攻討し、異国を全うするのだ。これによって罪を獲たとて、どうして海内に媿じようか?」と言って静止を振り切り出撃した。反乱軍は孫がやって来る事を知って逃走した。その後霊帝は孫の功績を讃え、烏程(現在の中国浙江省湖州市)侯に封じた。
①零陵郡(現在の中国湖南省・広西チワン族自治区)の周朝
②桂陽郡(現在の中国湖南省・広東省・広西チワン族自治区)の郭石
187 12 崔烈が太尉を解任され、後任に大司農の曹嵩が就いた。
188 公孫瓚が張純を追撃し、南匈奴右賢王於夫羅を指揮官として、石門(現在の中国遼寧省丹東市東港市前陽鎮)にて張・丘力居や鮮卑族と戦闘となる。結果、公孫が再度張を撃破し、張は妻を残し鮮卑族の領地内へ敗走した。公孫はさらに追撃したが遼西郡の管子城にて丘に200日以上包囲された。やがて公孫側は食糧が尽き多数の兵を失った。また、丘側も疲弊し柳城(現在の中国遼寧省朝陽市)に兵を引いた。その後公孫の勇敢さを恐れた烏桓族は再び公孫を攻める事は無かった。この戦功により公孫は中郎将・都亭侯となった。公孫は屡々白馬に跨り、乗馬や射撃に長けた数十名の部下に脇を固めさせ「白馬義従」と名乗った。
188 3 郭大が白波谷(現在の中国山西省臨汾市襄汾県永固郷)にて挙兵する。南匈奴於夫羅と手を組み100,000名の兵を集め「白波黄巾」と呼ばれた。また、以下に進軍して突破した。
①太原(現在の中国山西省)
②河内(現在の中国山西省)
そこからさらに南下して河東郡(現在の中国山西省)を攻撃した。
188 劉焉・侍中董扶が荊州(現在の中国湖北省)の東の州境で道が塞がり立ち往生した為、荊州の国境付近に駐屯する。その頃、以下2名等が綿竹県で「黄巾党」を名乗り挙兵した。
①馬相
②趙祗
金品で益州(現在の中国四川省)刺史のポストを買った郤倹による重税に苦しんでいた民衆に加勢を促し、数千名の同意を得た。その後綿竹令李昇を殺害した。そしてさらに多くの吏民が加勢し、馬は自らを天子と称し、10,000名余の兵を率い、趙祗と共に郤の殺害と雒城(現在の中国四川省広漢市)の落城に成功した。また、巴郡(現在の中国重慶市・四川省)を征圧し、巴郡太守趙部を殺害した。さらに以下の占領にも成功したが、賈龍に殺害された。
①益州
②犍為(現在の中国四川省楽山市)
その後賈は劉を迎え入れ、綿竹県に駐屯した。劉は賈を校尉に任命した。
188 1 胡族である南匈奴の休屠各が5,000,000銭で関内侯を売り、反乱を起こす。
188 4 休屠各が并州刺史張懿を殺害する。また、その頃董扶が密かに、交趾(現在のベトナム東北部・紅河デルタ・西北部・北中部)行きを希望していた劉焉に対し「益州には天子の気がある」と進言した。これを聞いた劉は「四方を敵に包囲され、刺史の威厳が損なわれこの様な反乱が起きている。牧伯の首を挿げ替え、明晰な人物を就任させるべきである」と後漢政府に説き、益州牧への就任を願い出て承諾された。また、董も蜀郡(現在の中国四川省成都市)都尉に任命され、劉に同行する事が決定した。益州広漢郡綿竹県(現在の中国四川省)出身であった董は故郷へ帰還する事となった。さらに後漢政府は以下2名を取り立てた。
①太僕黄琬→豫州牧
②東海郡の宗正劉虞→幽州牧
後漢政府は劉に対し、以下2名の征伐を命じた。また霊帝の詔により、於夫羅の父で第18代南匈奴単于羌渠は劉に従い、援軍を差し向けた。
①張純
②丘力居
劉は幽州に到着すると、使者を送り遊牧民に危機を伝え、張の首を取る様命じた。劉の到着を聞いた丘は、使者を遣わせ降伏を伝えようとしたが、劉が手柄を立てることを恐れた公孫瓚の送り込んだ刺客により、道中殺害された。これを知った遊牧民は、迂回して劉に丘の降伏を伝えた。劉は後漢政府に丘の降伏を報告し、兵を引いた。結果、右北平郡に駐留する公孫率いる10,000名以上の兵だけが残った。
188 4 羌渠による援兵派遣が止まらないと読んだ南匈奴の醢落や休屠各の白馬銅等100,000名が、羌に対し謀反を起こし、羌を殺害する。これにより於夫羅が第19代南匈奴単于に就任した。しかし南匈奴人は須卜骨都侯を単于とした。
188 9 董重が驃騎将軍に任命される。
189 須卜骨都侯が殺害される。これを受け後漢政府は南匈奴単于を空位とし、南匈奴の老王に政権運営を行わせた。
189 劉虞が張純等を対象に懸賞金を掛ける。
189 反董卓の軍に加勢しようとしていた荊州刺史王叡が、不仲であった武陵太守曹寅を殺害すると喧伝していた。これを知った曹は、王叡の罪状を列挙して光禄大夫温毅の檄文と偽り、孫堅に送付し、孫に王叡の逮捕を促した。王から侮辱的な扱いを受けていた孫は、喜んで兵を率いて江陵(現在の中国湖北省荊州市)へ向かった。前軍が王の居る城の城下に到着し、その報告を受けた王は城楼から理由を尋ねた。兵達は「兄弟達は長年戦争をしていたが、与えられた賜物は服も足りなかった。援助して欲しい」と言った。王は「私は刺史にどうして吝嗇なのか」と言い、倉庫を開け、自分で選ばせる事にした。軍が接近すると、王はその中に孫の姿を見つけ、孫に「どうしてここにいるのか」と尋ねた。孫は「檄文により貴方を誅殺する様命じられた」と答えた。王は「私はどの様な罪を犯したのか」と尋ねると孫は「無知の罪だ」と答えた。王は追い詰められ、金を飲み自害した。王の後任として劉表が荊州刺史に就き、反董卓の軍に加勢した。
189 4 公孫瓚の食客の王政が張純を殺害する。張の首級は劉虞に差し出された。
189 5 劉虞が遊牧民を平定した功績により、太尉に昇進し、襄賁(現在の中国山東省臨沂市蘭陵県)侯に封じられた。その後劉は大司馬に就任し、公孫瓚は奮武将軍となり薊侯に封じられた。
189 5 13 霊帝が後継者を定めないまま崩御する。霊帝は、少帝弁が暗愚であった為、皇太子に据えていなかった。以前から霊帝の周囲には、献帝を皇太子に推す声があった。しかし霊帝は、何皇后を寵愛し、また外戚である何進にも遠慮していた為、献帝を皇太子に据える事が出来なかった。やがて、内廷の宦官と朝廷の重臣達が権力と利益を巡り争う事となった。また、以下2名の間で皇位継承争いが起こった。
①霊帝の長男少帝弁
②霊帝の弐男献帝
霊帝の実母の董太后と親しかった蹇碩は、献帝を皇帝に立てる為に何の殺害を図った。しかし何が外朝から後宮に入る際に、蹇の司馬であった潘隐が何に目で仄めかし、警戒した何は引き下がり、脇道の軍営に戻った。何は仮病で宮殿に入らず、蹇の作戦は失敗した。
189 5 15 少帝弁が第13代後漢皇帝に即位し、元号が「光熹」に改元される。また、母の何皇后が摂政皇太后に就任した。何皇后と母方の伯父に当たる何進によって少帝弁は擁立された。その後何進は宦官を敵視していた事から、張譲と対立した。また、何進の軍勢は董重の屋敷を包囲し、董を驃騎将軍から罷免させ、自決に追い込んだ。また、何進は蹇碩に殺されかけた事から十常侍の排除に乗り出し、袁紹等の幕僚を集めて積極的に諮ったが、張は何皇后や何苗に何度も賄賂を渡し味方に付けて宦官を擁護させた為、何氏同士で対立が生じる構図になった。これは外戚である何氏との連携によって事態を乗り越えようと図っていた宦官にとっても想定外の事態であり、張が何進の説得を試みた。何進が争いに及び腰になると、袁は地方の諸将を洛陽に呼び寄せ、何皇后等に圧力をかける事を何進に提案した。しかし、これに以下3名等が反対した。
①盧植
②陳琳
③曹操
再三の袁による催促の結果、何進はこれを受け入れ、以下の人間に兵士や兵糧を集めさせると共に、丁原や董卓といった地方の将軍を呼び寄せた。また袁は、大将軍の命であると偽って、各地に指令を出したりした。
①王匡
②橋瑁
③鮑信
④張楊
⑤張遼
⑥曹操
189 5 於夫羅が、洛陽の宮闕へ出向き、南匈奴人が須卜骨都侯を単于とした事を後漢政府に訴える。しかし霊帝崩御の混乱時期であった為、聞き入れられなかった。そこで於は白波黄巾と共に、以下に侵攻したが、現地の自警団に阻まれた。また、故郷の南匈奴に帰ろうとしたが、後漢政府の許可が下りず、河東郡に留まった。
①太原
②河内県諸郡
189 7 7 董太后が何進によって河間(現在の中国河北省滄州市)にて暗殺される。
189 9 蹇碩と通じていた趙忠を始めとする十常侍が何進に寝返り、何に蹇を殺害させる。
189 9 22 予てから袁紹は何進に対して宮中に軽々しく入るべきではないと忠告していたが、この日何進は何皇后の居住する長楽宮に、宦官を皆殺しにする事の許可を取りに行った。これが初めてではなく、以前にも董卓を呼び寄せ、兵を入れて宦官を皆殺しにする事に関し、何皇后の同意を得ようとしたが、何皇后は認めなかった。何進が長楽宮にいるという情報を掴んだ十常侍の段珪・畢嵐は何進を包囲し、先制攻撃を仕掛けた。また、張譲が嘉徳殿の前で何進を罵倒し、段が何進を殺害した。段・畢等は偽勅を作成し事態の収拾を図り、張は宦官達の親族であった少府の許相と太尉の樊陵を利用し、洛陽の兵を握ろうとした。この時命令を疑った尚書に対し、何進の首を見せて示した。 そして何進が普段から親しく接していた部下の以下4名等が蜂起し、宮中に乱入して何皇后を捕縛、董卓が舞陽君を殺害し、袁紹も叔父の袁隗や盧植と共に、許相等を誘き出して斬り、何苗と協力して趙忠を捕らえ斬る等、多くの宦官を殺害した。
①袁術
②董卓
③盧植
④呉匡
189 9 23 早朝、宦官の残党が長楽宮に入り、何皇后に前日の戦闘の報告を行った。宦官は大将軍の部下が反乱を企てたと偽り、以下の身柄を求めた。そして宮中から役人を誘拐し、天橋から北宮の德陽殿へ逃亡した。何皇后は盧植によって救出された。
①何皇后
②少帝弁
③献帝
④地方官
189 9 24 張譲・段珪等は追手に北宮に閉じ込められ、止む無く少帝弁・献帝等数十名を擁して谷門を潜り城外に脱出し、夜に小平津(現在の中国河南省洛陽市孟津区)に到着した。皇帝が使用する6つの玉玺を所持せず、公卿も付いて来なかったが、尚書である盧植と掾の閔貢が黄河のほとりで張・段一行を迎えた。閔は、空腹で喉が渇いていた少帝弁の為に、羊を殺して与えた。閔は無秩序な行政を行った張を激しく叱責し、結果張は入水自殺した。閔は、少帝弁・献帝が宮殿に戻る為に蛍の光のゆらぎを追い数km歩くと、市民から荷車を渡され、3名はその荷車で洛舍まで行き、そこで休息した。
189 9 25 何進から少帝弁救出を命じられていた董卓が显陽苑に到着すると、遠くに見える宮殿が燃えている事に気付き急行した。少帝弁が北宮に帰還しようとしている事を知ると、董は北芒阪(現在の中国河南省洛陽市の北邙山)で少帝弁を迎えた。董は少帝弁に質問したが支離滅裂な返答であったので、献帝が代わりに回答した。少帝弁よりも献帝の方が聡明であると感じた董は、献帝を皇帝に据える事を思い付いた。その後董と共に少帝弁・献帝は洛陽の皇宮に帰還し、元号が「昭寧」に改元される。董は自ら司空となり、大きな権限を得たが、周囲が納得していない事を悟り、献帝擁立へ向けて動き出す事となる。一方、盧植・呉匡の追撃を受け、身体窮まった段珪が入水自殺した。さらに何苗が呉と董卓の弟の董旻に殺害され、何氏は大きく勢力を弱めることになった。
189 9 27 董卓が宮中会議で、第8代前漢皇帝昭帝・第10代前漢皇帝宣帝を補佐し政治を取り仕切った霍光を引き合いに出し、自らを霍に仕えた田延年に準え、廃立を提案し、盧植・袁紹以外が賛成し、献帝の即位が決定される。董は反対する者を処刑するつもりであった為、董は盧を殺害しようとするが、蔡邕の制止によって思い止まった。盧は持ち場を放棄して逃亡した。
189 9 28 尚書丁宮が崇徳殿の前殿で廃立の儀式を行い、太傅袁隗が皇帝の印である玉玺と、絹製の組み紐である印綬を外し、献帝に渡す。これにより献帝が第14代後漢皇帝に即位した。これを見ていた何皇后は涙を堪え、群臣も悲嘆に暮れたが、敢えて怒りの声は上げなかった。その直後、董卓は丁に「嘗ての何皇后の董太后に対する振る舞いは、孝の道に叛くものだ」という主旨の策文を読み上げさせ、何皇后を洛陽にある永安宮に幽閉した。
189 9 30 永安宮に幽閉されていた何皇后が董卓の命令を受けた李儒によって毒殺される。董は宮廷での何皇后の葬儀を許可せず、献帝を洛陽城へ弔問に遣わせ、公卿は3日間白装束で公務を執り行った。何皇后が霊帝の陵に合葬されると、董は霊帝の陵の副葬品を奪取した。
189 10 楊彪が、太中大夫の官位を得て、董卓の後任として司空に就任する。
189 11 郭大が於夫羅と共に再度河東郡を攻撃する。これに慌てた董卓は娘婿で中郎将の牛輔に鎮圧に当たらせたが失敗し、牛は敗走した。その後白波黄巾は上党(現在の中国山西省長治市)を経由して渡河し、河南尹(現在の中国河南省)の大半を占領し、清豊(現在の中国河南省濮陽市)を拠点とした。
190 1 楊彪が、黄琬の後任として司徒に就任する。黄は太尉に転任となった。
190 2 献帝の即位後に丞相、後に太師に就任し、後漢政府の全権を掌握していた董卓の専横に反発した兗州刺史で東郡太守であった橋瑁が、太師・太傅・太保の三公回付の公文書を偽造し、打倒董卓の挙兵を呼び掛ける檄文を偽造する。また、臧洪が主君の広陵太守張超に「明府は先祖代々国恩を受けており、貴方達兄弟はいずれも一方の大郡を掌握している。現在、王室はこの災難を経て乱臣賊子は処罰されていない。これはまさに天下義烈の士が報恩に尽くす時である。現在広陵郡は比較的安定しており、郡内は非常に裕福である。動員すれば少なくとも20,000名を集める事が出来、これによって国賊を殺し、天下人に手本を示すことができ、それは最大の節義である」と進言した事で、張超は臧と共に陳留太守張邈に会いに行き、出兵について相談した。張邈は同意し、同盟を結んだ。これに呼応し、以下の州郡牧守も蜂起する。
①渤海太守袁紹(盟主)
②後将軍袁術
③冀州牧韓馥
④豫州刺史孔伷
⑤兗州刺史劉岱
⑥河内太守王匡
⑦東郡太守橋瑁
⑧山陽太守袁遺
⑨済北国相鮑信
⑩陳国相許瑒
⑪潁川太守李旻
⑫西河太守崔鈞
董の軍隊は洛陽の富を略奪し、女性を強姦する等凡ゆる犯罪を犯し、その後洛陽を焼き尽くしていた。牧守の領土は北東と南東に多かった為「関東連軍」と呼ばれた。同軍は、北・東・西の三方面から洛陽を包囲した。
190 3 6 関東連軍が少帝弁を擁立する事を恐れた董卓が、少帝弁を自らの館に入れ、郎中令であった李儒を遣わせ「この薬を飲んで厄除けをして下さい」という主旨の発言をし、毒酒を少帝弁に献上する。少帝弁は「私は病気ではない。これは私を殺そうとするものだ」と言い飲むのを拒んだが、李は無理矢理飲ませた。その後少帝弁は正室唐姫・側室・従者達と宴会を行なった。その席で少帝弁は唐姫に対し「天道に従う事は簡単であるというが私にはどうしてこんなに艱しいのであろう。万乗を棄てて藩王の身分に退いた。それなのに逆臣に迫られて命を永らえる事はできぬ。ここに汝から去って幽冥の世界に逝こう」という主旨の発言を行い、唐姫は袖を上げて踊り、そして「天は崩れ、地は滅びました。私は皇帝の妻として私が貴方に従わなければ悲しむでしょう。でも私達に別れが来ました。生者と死者が一緒に歩むことはできません。嗚呼、悲しいです。私は心に悲しみを抱えています」と歌った。その様子を見ていた周囲の人々は啜り泣いた。そして少帝弁は「君は皇妃である。吏民と再婚してはならぬ。自愛せよ。これにてさらばだ」と言い残し死去した。
190 3 献帝が少帝弁を趙忠の墓に葬る。
190 3 10 董卓が献帝を連れて遷都の為、洛陽から長安へ向けて出発する。董は宮殿に火を放ち、人民を略奪し、洛陽の周囲200里を荒廃させていた。その後王允が司徒に任命された。王は表向きは董に付いていたが、裏では献帝を中心に据える事を考え、宮廷の役人を味方に付けていた。関東連軍は董率いる梁州の精鋭部隊の戦力を恐れ、洛陽の西に進む事が出来ず、全軍を酸棗(現在の中国河南省新郷市)に駐留させた。
190 4 董卓征伐に消極的で酒宴ばかりしていた関東連軍に業を煮やし、以下6名が成皋県(現在の中国河南省鄭州市滎陽市)攻略を意図し、酸棗から出陣する。
①曹操
②曹操の従弟曹洪
③鮑信
④鮑信の弟鮑韜
⑤張邈
⑥張の部下衛茲
汴水(現在の中国河南省鄭州市滎陽市)にて、董の命で豫州に出撃していた徐栄と遭遇し戦闘となったが、徐の軍に圧倒され、衛・鮑韜が戦死し、曹操も流れ矢に当たり負傷し、鮑信も負傷、大敗した。曹操は曹洪に救助され、酸棗に引き返した。曹操が酸棗は攻略されにくいと考えた為である。
190 4 26 献帝を連れていた董卓が長安に到着し、遷都が完了する。
190 8 孫堅が、南陽太守張咨に食糧を供給する様求める書簡を送った上で、牛や酒を携え張の下を訪れる。この時既に袁術が孫の代理中郎将就任を奏請していた。張は部下に孫をどの様に扱うべきか尋ねた所「孫は隣の郡の太守にすぎず、私達の食糧供給を受ける権利は無い」と言った。
190 8 孫堅は張咨を訪ねた翌日、宴会を開き張を招く。すっかり酔っ払った頃、孫の主簿が入ってきて「以前張に書簡を送ったが、道路の整備が終わっておらず、軍の金銭・食糧も足りていないので、張を捕らえて主簿に引き渡して尋問して下さい」という主旨の発言を行う。張は劣勢であると見てその場を立ち去ろうとしたが、兵に包囲されており逃げ場が無かった。暫くすると再度主簿が入って来て「張は義兵を止めたので、賊を討ち、軍法に従って処罰して下さい」と言うと、孫は部下に張を軍門に押し出して斬首させた。南陽軍の役人は大きな衝撃を受け、以降孫の軍は欲しい物は何でも与えられる様になった。その後孫は、魯陽(現在の中国河南省平頂山市魯山県)へ行き袁術と面会した。袁と孫は手を組む事となり、袁は孫に破虜将軍代行と豫州刺史を兼任させる事にした。孫は魯陽に留まり、兵を休養させ、董卓征伐の為の進軍準備を行なった。
191 1 孫堅が董卓征伐の為、進軍しようとする。そこで部下で長史の公仇称を派遣し兵糧を催促すると言い、魯陽城の東門の外に属官を集め、天幕を張り酒を飲んで公を見送った。董は孫堅が挙兵した事を聞き付け、東郡太守胡軫を魯陽に派遣した。胡の先遣騎兵は酒宴の最中であった孫を襲撃した。孫は部隊に陣容整備を命じ、兵に陣地を守り動かないように命じつつ、酒を飲み談笑していた。胡の騎馬隊が数を増すと、孫はゆっくりと席を立ち城内に兵を誘導した。そして兵達に「私が直ぐに立ち上がらなかったのは、恐れているという話を諸君の耳に入れない為だ」と言った。胡は孫の部隊の整然さ・規律・闘争心を見て戦意を失い、敗走した。孫は戦わずして勝利した。
191 1 王匡は、韓浩に兵を率いさせ、孟津(河内郡河陽県、現在の中国河南省孟県)に駐屯させていた。また、泰山(現在の中国山東省泰安市)の兵を河陽津に派遣していた。董卓の陽動作戦により、王の軍は平陰県(現在の中国山東省済南市)から川を渡ってくるものと思い込み、川岸を守備していたが、小平津(現在の中国河南省洛陽市孟津区)経由で川を渡り、後方から襲撃し、王の軍はほぼ壊滅した。王は自軍がほぼ全滅した事を知ると、故郷の泰山へ帰り、兵を募った。また、陳留郡(現在の中国河南省開封市)の張邈と接触し、盟約を結ぶ事を検討した。
191 2 孫堅が董卓征伐の為、進軍しようとする。そこで部下で長史の公仇称を派遣し兵糧を催促すると言い、魯陽城の東門の外に属官を集め、天幕を張り酒を飲んで公を見送った。董卓は孫堅が挙兵した事を聞き付け、東郡太守胡軫を魯陽に派遣した。胡の先遣騎兵は酒宴の最中であった孫を襲撃した。孫は部隊に陣容整備を命じ、兵に陣地を守り動かないように命じつつ、酒を飲み談笑していた。胡の騎馬隊が数を増すと、孫はゆっくりと席を立ち城内に兵を誘導した。そして兵達に「私が直ぐに立ち上がらなかったのは、恐れているという話を諸君の耳に入れない為だ」と言った。胡は孫の部隊の整然さ・規律・闘争心を見て戦意を失い、敗走した。孫は戦わずして勝利した。
191 3 徐栄が梁県(現在の中国河南省汝州市)にて孫堅の軍を撃破する。結果、李旻と張安が捕縛され、洛陽の畢圭苑に連行された。その後董卓によって李と張は煮殺された。孫は十数名の騎兵と共に脱出し、敗走した。孫は、情勢が緊迫してきたので、普段から着用していた赤頭巾を脱ぎ、部下の祖茂に被せ、追兵を引く様指示した。追兵は祖を孫と勘違いし、続々と追い掛けて来た。結果、指示通りに追兵を引き離す事に成功し、孫を小道から脱出させた。しかし、その後に祖は包囲されたが、一計を案じ、墓の前の焼柱に赤頭巾を被せ、自らは叢の中に伏して動かなかった。徐の軍は遠くから赤頭巾を見つけ、孫がいると考え、幾重にも包囲し、接近するも焼柱である事に気付くと撤退した。
191 3 孫堅が落伍者を集め、太谷陽人(現在の中国山西省呂梁市臨県)を占領し、軍の立て直しを行う。孫が太谷陽人に入った事を聞いた董卓は、以下2名を任命し、5,000名の歩騎で孫の軍を攻撃させた。
①胡軫(大督護)
②呂布(騎督)
しかし、胡は傲慢且つ短気で、部下の信頼も薄く、呂との折り合いも悪かった。胡は「今こうして軍を進めているが、とどの詰まり、青綬を帯びる太守を一人斬れば静かになるのだ」と言い、呂以下の諸将は不快に感じた。胡率いる軍が陽人城から数十里離れた広城に到着した。夜の遅い時間であり、疲労が溜まっていた為、休息を取る必要があったが、呂以下の諸将は胡を嫌っており、作戦を成功させたくなかった。そこで呂達は「陽人城中の敵兵は逃げてしまった。早く追撃しないとチャンスが無い」と言って胡に出撃させる様誘導した。胡が軍を率いて陽人城に到着したが、守りが堅く、奇襲が成功する見込みは無かった。また、兵達は飢えと喉の渇きにより士気が低下しており、武装を解いて休んでいた。そこで呂は軍の中に「孫が将兵を率いて夜襲を仕掛けてくる」とデマを流し、内部は戦わずして混乱し、兵達は鎧・馬・鞍を捨てて逃げ出した。孫はこれに乗じて胡の軍を撃破し、董の帳下の都督であった華雄を斬首した。孫はこの戦により名声を上げた。袁術は、この孫の勝利を聞いた人間から「孫が洛陽を占領し、勢力を伸ばせば、抑える事は難しくなる」と進言を受け、孫の勢力が大きくなり過ぎる事を恐れ、食糧を送らなかった。孫は100里余り離れた魯陽に一夜で駆け戻り「私が我が身を投げ出すのは、上は国家の為に、下は袁の家門の仇を報じる為です。それなのに貴方は陰口を信じて、私を疑うのですか?」と、袁を激しく責めた。袁は恥入り、直ぐに孫に食糧を手配し、孫は前線に戻った。
191 孫堅率いる軍が洛陽に攻め入り、函谷関(現在の中国河南省三門峡市霊宝市)にて兵力を分け、守備に当たらせる。
191 3 24 董卓が、自らが朝廷に命じ光禄勲とした宣璠に持節させ、自らを太師として拝させる。各劉姓諸侯王よりも高い地位であるとした。
191 董卓が李傕を、孫堅に対して講和を求める為の使者に任命し派遣するが、孫はこれを拒否する。
191 4 董卓が関中(現在の中国陕西省渭水)に入る。董は朱儁を洛陽に残し、守備に当たらせた。
191 5 董卓が長安に入る。長安城に入城する際、董は故意に御史中丞であった皇甫嵩を跪いて迎え、恥辱の目的を達成する様命じる。
191 5 朱儁が、山東の諸将と共謀し、内応しようとする。朱は董卓に襲撃される事を恐れ、官職を捨て、荊州に逃亡した。これを受け、董は弘農(現在の中国河南省)の楊懿を河南尹に任命し、洛陽を守備させた。これを聞いた朱は洛陽に進軍し、楊は逃亡した。朱は一帯が破壊され、守備が出来ないと判断し、中牟(現在の中国河南省鄭州市)に駐屯した。その後朱は、義兵を組織し、董征伐の旗を掲げた。
191 5 董卓が、朱儁の挙兵を受け、牛輔に鎮圧に当たらせる。牛は以下の人間と共に陝県を南下し、中牟にて朱を破った。
①李傕
②郭汜
③張済
191 劉焉が張魯を司馬に任命する。
191 劉焉が張魯と張修を遣わせ、張修が漢中太守蘇固を殺害する。しかし趙嵩と陳調が敵を打った。
191 11 5 以前から張温は衛尉の身でありながら、董卓とは距離を置いており、董は張を恨んでいた。董は、張が袁術と共に姦通したと讒言し、この日長安にて鞭で打ち殺させた。董は死んだ張の首を刎ね、酒宴でその首級を披露した。
192 孫堅が死去し、以下4名が呉景に身を寄せる。
①呉の甥
②孫堅の長男孫策
③呂範
④孫河
192 10 李傕が李儒を侍中に推挙する。しかし献帝は拒否した。
224 パルティアの首都クテシフォン(現在のイラク)がササン朝ペルシアの侵攻により滅亡する。
226 パルティアが滅亡する。初代ササン朝ペルシアのシャー(王)に即位する。ゾロアスター教を国教とした。
238 卑弥呼が魏に使いを送り、第2代魏皇帝明皇帝から親魏倭王の金印が与えられる。
247 卑弥呼死去。
250 呉の天文学者・数学者の王蕃が円周率に関し以下の式を用い1桁の精度を得る。
π= 142 45
=3.15555555556
263 魏の数学者劉徽が円周率に関し、正192角形を用いて、以下の式から2桁の精度を得る。
π= 157 50
=3.14
277 2 26 マニ教の開祖のマニが獄死する。
301 アルメニア王国でキリスト教が国教化される。
303 2 24 ローマ帝国副帝ガレリウスの布告により、キリスト教徒の迫害が始まる。
305 キリスト教に迫害を加えたローマ帝国皇帝ディオクレティアヌスが退位する。
311 ローマ帝国東方正帝となったガレリウスは、キリスト教徒に対する弾圧を止め、寛容令を発した。
313 ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス1世が、キリスト教を含む全ての宗教を容認する。後にキリスト教以外を禁止した。
324 コンスタンティヌス1世が自らをキリスト教徒であると宣言。
324 コンスタンティヌス1世が、エルサレムに壁を建設し、聖体安置所を教会に委任し、キリスト教徒の巡礼の為にエルサレムを開放した。
325 5 20 コンスタンティヌス1世が、第1ニカイア公会議(通算1回目の公会議)を主催し、約300名の司教を集め、自ら黄金の椅子に座り議長を務めた。当時キリスト教内部に起こったアリウス派の考えを認めるかどうかがテーマであった。教義は一本化する為に、司教間の対立を皇帝としてアリウス派と、それに反対するアタナシウス派の仲裁をしなければならなかった。
325 6 19 第1ニカイア公会議が終了する。結果、中間派も含めてアタナシウス派が大勢を占め(反対の司教は5名)、イエスの神性を認めるアタナシウス派が正統、アリウス派は異端とされ、アリウス派のローマ領からの追放が決定された。また、聖職者が高利貸しに関与する事が禁じられた。
330 5 11 コンスタンティノープル(現在のトルコのイスタンブール)が東ローマ帝国の首都として宣言される。
333 アクスム王国がキリスト教を公認する。
350 アクスム王国でキリスト教が国教化される。
352 西暦135年の戦闘の埋葬者の巨大墓地のベート・シェアリムが、ガリラヤ地方(現在のガリラヤ湖を含む、イスラエル北部とヨルダンの一部)のローマに対する反乱の際破壊される。
380 ローマ帝国の東方正帝テオドシウス1世と西方正帝グラティアヌスが、キリスト教を国教とし、義務付けた。
392 ローマ帝国皇帝テオドシウス1世がキリスト教を国教と定め、異教の祭礼と供犠を法的に禁止する。
395 ローマ帝国が東西に分裂する。
402 第2代後秦皇帝姚興の命により、西域龟兹国(現在の中国新疆ウイグル自治区庫車市)出身の高僧鳩摩羅什が「阿弥陀経」を漢訳する。全文と訳は以下の通り。
①如是我聞。一時仏。在舍衞国。祇樹給孤獨園。与大比丘衆。千二百五十人倶。
❶此の様にお釈迦様の弟子阿難はお聞きしました。お釈迦様は、舎衛国(コーサラ国(サヘート・マヘート(現在のインドのウッタル・プラデーシュ州シュラーヴァスティー県)))の祇園精舎にて、出家した高弟1,250名と共に居られました。 ②皆是大阿羅漢。衆所知識。長老舍利弗。摩訶目犍連。摩訶迦葉。摩訶迦旃延。摩訶倶絺羅。離婆多。周利槃陀伽。難陀。阿難陀。羅睺羅。憍梵波提。賓頭盧頗羅墮。迦留陀夷。摩訶劫賓那。薄拘羅。阿㝹樓駄。如是等。諸大弟子。
❷此れ等は皆、世に知られた徳の高い阿羅漢であった。主な阿羅漢は以下の通り。
Ⅰ舍利弗(長老)
Ⅱ目連
Ⅲ大迦葉
Ⅳ迦旃延
Ⅴ倶絺羅
Ⅵ離婆多
Ⅶ周利槃特
Ⅷ難陀
Ⅸ釈迦の息子羅睺羅
Ⅹ憍梵波提
Ⅺ賓頭盧
Ⅻ迦留陀夷
⒔劫賓那
⒕薄拘羅
15.阿那律
③并諸菩薩。摩訶薩。文殊師利法王子。阿逸多菩薩。乾陀訶提菩薩。常精進菩薩。与如是等。諸大菩薩。及釋提桓因等。無量諸天。大衆倶。
❸又、以下の優れた菩薩達・神々もご一緒であった。
Ⅰ文殊菩薩
Ⅱ弥勒菩薩
Ⅲ乾陀訶提菩薩
Ⅳ常精進菩薩
Ⅴ帝釈天
④爾時仏告。長老舍利弗。従是西方。過十万億仏土。有世界。名曰極楽。其土有仏。号阿弥陀。今現在説法。
❹其の時釈迦は舍利弗に仰せになった。「此処から十万億土過ぎた所に「極楽」と名付けられた世界が有る。其処には阿弥陀仏と呼ばれる仏が居られて、今現に教えを説いて居られる。
⑤舍利弗。彼土何故。名為極楽。其国衆生。無有衆苦。但受諸楽。故名極楽。
❺舍利弗よ。何故其処を極楽と名付けたかというと、其処の人々は、何の苦しみも無く、只色々な楽しみだけを受けているから極楽と呼ぶのである。
⑥又舍利弗。極楽国土。七重欄楯。七重羅網。七重行樹。皆是四宝。周帀囲繞。是故彼国。名曰極楽。
❻又舍利弗よ。其の極楽世界には、7重に囲む玉垣・7重に覆う宝の網飾り・7重に連なる並木が有る。そして其れ等は皆、以下の「4つの宝」で出来ていて、極楽世界の至る所に巡っている。故に極楽と呼ばれるのである。
Ⅰ金
Ⅱ銀
Ⅲ瑠璃
Ⅳ水晶
⑦又舍利弗。極楽国土。有七宝池。八功徳水。充満其中。池底純以。金沙布地。四辺階道。金銀瑠璃。玻瓈合成。上有樓閣。亦以金銀瑠璃。玻瓈硨磲。赤珠碼碯。而厳飾之。 ❼又舍利弗よ。極楽世界には、以下の「7つの宝」で出来た池が有る。
Ⅰ金
Ⅱ銀
Ⅲ瑠璃
Ⅳ水晶
Ⅴ硨磲
Ⅵ赤真珠
Ⅶ碼碯
そして以下の8つの功徳を有した水が、なみなみと蓄えられている。
Ⅰ澄浄
Ⅱ清冷
Ⅲ甘美
Ⅳ軽軟
Ⅴ潤沢
Ⅵ安和
Ⅶ除飢渇
Ⅷ長養諸根(根は眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根の六根を指す)
池の底には一面に金の砂が敷き詰められ、又四方には、4つの宝で出来た階段が有る。岸の上には楼閣が在って、其れも又、7つの宝で美しく飾られている。
⑧池中蓮華。大如車輪。青色青光。黄色黄光。赤色赤光。白色白光。微妙香潔。舍利弗。極楽国土。成就如是。功徳荘厳。
❽池の中には車輪の様な大きな蓮の花が在り、青い花は青い光を、 黄色い花は黄色い光を、 赤い花は赤い光を、 白い花は白い光を放ち、何れも美しく、其の香りは気高く清らかである。舍利弗よ。極楽世界は此の様な麗しい姿を備えているのである。
⑨又舍利弗。彼仏国土。常作天楽。黄金為地。昼夜六時。而雨曼陀羅華。其国衆生。常以清旦。各以衣裓。盛衆妙華。供養他方。十万億仏。
❾又舍利弗よ。其の極楽世界には絶えず優れた音楽が奏でられている。そして大地は黄金で出来ていて、昼夜6時に其々に綺麗な曼荼羅の花が降り注ぐ。極楽世界の人々は、いつもの清々しい朝を迎えると、其々の器に美しい花々を盛り、他の極楽世界の数限り無い仏方を供養する。
⑩即以食時。還到本国。飯食経行。舍利弗。極楽国土。成就如是。功徳荘厳。 ❿そして食事の時迄には帰って来て、食事を摂ってから暫くの間は其の辺りを歩き、心身を整える。舍利弗よ。極楽世界は此の様な麗しい姿を備えているのである。
⑪復次舍利弗。彼国常有。種種奇妙。雑色之鳥。白鵠孔雀。鸚鵡舍利。迦陵頻伽。共命之鳥。 次に舍利弗よ。極楽世界にはいつも以下等の色取り取りの美しい鳥が居る。
Ⅰ白鵠
Ⅱ孔雀
Ⅲ鸚鵡
Ⅳ舎利
Ⅴ迦陵頻伽
Ⅵ共命鳥
⑫是諸衆鳥。昼夜六時。出和雅音。其音演暢。五根五力。七菩提分。八聖道分。如是等法。
⓬此の鳥達は、昼夜6時の其々に優雅な声で鳴き、五根(信根・勤根・念根・定根・慧根)、五力(信力・勤力・念力・定力・慧力)、七覚支(念覚支・択法覚支・精進覚支・喜覚支・軽安覚支・定覚支・捨覚支)、八正道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)等の尊い教えを説いている。
⑬其土衆生。聞是音已。皆悉念仏。念法念僧。
⓭極楽世界の人々は皆、此の鳴き声を聞いて仏を念じ、法を念じ、僧を念じるのである。
⑭舍利弗。汝勿謂此鳥。実是罪報所生。所以者何。彼仏国土。無三悪趣。
⓮舍利弗よ。其方は此れ等の鳥が罪の報いとして鳥に生まれたのだと思ってはならない。何故なら極楽世界には、三悪道(地獄道・餓鬼道・畜生道)のものが居ないからである。
⑮舍利弗。其仏国土。尚無三悪道之名。何況有実。是諸衆鳥。皆是阿弥陀仏。欲令法音宣流。変化所作。
⓯舍利弗よ。其の国には三悪道の名さえも無いのだから、まして其の様なものが居る筈が無い。此の様々な鳥は皆、阿弥陀仏が法を説き広める為に色々と形を変えて表されたものに他ならないのである。
⑯舍利弗。彼仏国土。微風吹動。諸宝行樹。及宝羅網。出微妙音。譬如百千種楽。同時倶作。聞是音者。皆自然生。念仏念法。念僧之心。
⓰舍利弗よ。又其の極楽世界では、宝の並木や宝の網飾りが微風に揺れ、美しい音楽を奏でている。其れは数千もの楽器が同時に奏でられている様であり、其の音色を聞く者は、誰でも自ずから仏を信じ、法を念じ、僧を念じる心を起こすのである。
⑰舍利弗。其仏国土。成就如是。功徳荘厳。
⓱舍利弗よ。極楽世界は此の様な麗しい姿を備えているのである。
⑱舍利弗。於汝意云何。彼仏何故。号阿弥陀。
⓲舍利弗よ。其方はどう思うか。何故其の仏を阿弥陀と申し上げるのだろうか。
⑲舍利弗。彼仏光明無量。照十方国。無所障碍。是故号為阿弥陀。
⓳舍利弗よ。其の仏の光明には限りが無く、全ての国を照らし、何者にも妨げられる事が無い。故に阿弥陀と申し上げるのである。
⑳又舍利弗。彼仏寿命。及其人民。無量無辺。阿僧祇劫。故名阿弥陀。
⓴又舍利弗よ。阿弥陀仏と極楽世界の人々は寿命も共に限りが無く、計り知れない程長い。故に阿弥陀と申し上げるのである。
㉑舍利弗。阿弥陀仏。成仏已来。於今十劫。
XXI.舍利弗よ。此の阿弥陀仏が仏になられてから今日迄、十劫という長い時を経たのである。
㉒又舍利弗。彼仏有無量無辺。声聞弟子。皆阿羅漢。非是算数。之所能知。諸菩薩衆。亦復如是。
XXII.又舍利弗よ。其の仏の下には数限り無い声聞の弟子達が居て、皆阿羅漢の悟りを得ている。其の数はとても数え尽くす事が出来ない。又菩薩達の数も数え尽くす事が出来ない。
㉓舍利弗。彼仏国土。成就如是。功徳荘厳。
XXIII.舍利弗よ。極楽世界は此の様な麗しい姿を備えているのである。
㉔又舍利弗。極楽国土。衆生生者。皆是阿鞞跋致。其中多有。一生補処。其数甚多。非是算数。所能知之。但可以無量無辺。阿僧祇劫説。
XXIV.又舍利弗よ。極楽世界に生まれる人々は皆、不退転の位に至る。其の中には、一生補処という最上の位の菩薩達も沢山居る。其の数は実に多く、とても数え尽くす事が出来ない。其れを説くには、限り無い時間を掛けなければならない。
㉕舍利弗。衆生聞者。応当発願。願生彼国。所以者何。得与如是。諸上善人。倶会一処。
XXV.舍利弗よ。此の様な有様を聞いたなら、是非とも極楽世界に生まれたいと願うが良い。其の訳は、此れ等の優れた聖者達と、一堂に会する事が出来るからである。
㉖舍利弗。不可以少善根。福徳因縁。得生彼国。
XXVI.しかしながら舍利弗よ。僅かな功徳を積むだけでは、とても極楽世界に生まれる事は出来ない。
㉗舍利弗。若有善男子。善女人。聞説阿弥陀仏。執持名号。若一日。若二日。若三日。若四日。若五日。若六日。若七日。一心不乱。其人臨命終時。阿弥陀仏。与諸聖衆。現在其前。是人終時。心不顛倒。即得往生。阿弥陀仏。極楽国土。
XXVII.舍利弗よ。もし善良な者が阿弥陀仏の名号を聞き、其の名号を心に留め、若しくは1日、若しくは2日、若しくは3日、若しくは4日、若しくは5日、若しくは6日、若しくは7日間一心不乱であるなら、其の者が命を終えようとする時、阿弥陀仏が多くの聖者達と共に其の前に現れて下さるのである。其処で其の者が愈々命を終える時、心が乱れ惑う事無く、直ちに阿弥陀仏の極楽世界に生まれる事が出来る。
㉘舍利弗。我見是利。故説此言。若有衆生。聞是説者。応当発願。生彼国土。
XXVIII.舍利弗よ。私は此の様な利益が有る事を良く知っているから、此の事を説くのである。もし人々が此の教えを聞いたなら、是非とも極楽世界に生まれたいと願うが良い。
㉙舍利弗。如我今者。讃歎阿弥陀仏。不可思議功徳。東方亦有。阿閦鞞仏。須弥相仏。大須弥仏。須弥光仏。妙音仏。如是等。恒河沙数諸仏。各於其国。出広長舌相。徧覆三千大千世界。説誠実言。汝等衆生。当信是称讃。不可思議功徳。一切諸仏。所護念経。
XXIX.舍利弗よ。私が今阿弥陀仏の不可思議な功徳を褒め称えている様に、東方の世界には、阿閦鞞仏・須弥相仏・大須弥仏・須弥光仏・妙音仏等、ガンジス川の砂の数程の様々な仏方が居られ、其々の国で広く舌相を示して、三千大千世界にまで、阿弥陀仏の優れた徳が真実である事を表し、真心を込めて『其方達世の人々よ、此の阿弥陀仏の不可思議な功徳を褒め称えて、全ての仏方がお守り下さる経を信じるが良い』と仰せになっている。
㉚舍利弗。南方世界。有日月燈仏。名聞光仏。大焰肩仏。須弥燈仏。無量精進仏。如是等。恒河沙数諸仏。各於其国。出広長舌相。徧覆三千大千世界。説誠実言。汝等衆生。当信是称讃。不可思議功徳。一切諸仏。所護念経。
XXX.舍利弗よ。南方の世界にも、日月灯仏・名聞光仏・大焔肩仏・須弥灯仏・無量精進仏等、ガンジス川の砂の数程の様々な仏方が居られ、其々の国で広く舌相を示して、三千大千世界にまで、阿弥陀仏の優れた徳が真実である事を表し、真心を込めて『其方達世の人々よ、此の阿弥陀仏の不可思議な功徳を褒め称えて、全ての仏方がお守り下さる経を信じるが良い』と仰せになっている。
㉛舍利弗。西方世界。有無量寿仏。無量相仏。無量幢仏。大光仏。大明仏。宝相仏。浄光仏。如是等。恒河沙数諸仏。各於其国。出広長舌相。徧覆三千大千世界。説誠実言。汝等衆生。当信是称讃。不可思議功徳。一切諸仏。所護念経。
XXXI.舍利弗よ。西方の世界にも、無量寿仏・無量相仏・無量幢仏・大光仏・大明仏・宝相仏・浄光仏等、ガンジス川の砂の数程の様々な仏方が居られ、其々の国で広く舌相を示して、三千大千世界にまで、阿弥陀仏の優れた徳が真実である事を表し、真心を込めて『其方達世の人々よ、此の阿弥陀仏の不可思議な功徳を褒め称えて、全ての仏方がお守り下さる経を信じるが良い』と仰せになっている。
㉜舍利弗。北方世界。有焰肩仏。最勝音仏。難沮仏。日生仏。網明仏。如是等。恒河沙数諸仏。各於其国。出広長舌相。徧覆三千大千世界。説誠実言。汝等衆生。当信是称讃。不可思議功徳。一切諸仏。所護念経。
XXXII.舍利弗よ。北方の世界にも、焔肩仏・最勝音仏・難沮仏・日生仏・網明仏等、ガンジス川の砂の数程の様々な仏方が居られ、其々の国で広く舌相を示して、三千大千世界にまで、阿弥陀仏の優れた徳が真実である事を表し、真心を込めて『其方達世の人々よ、此の阿弥陀仏の不可思議な功徳を褒め称えて、全ての仏方がお守り下さる経を信じるが良い』と仰せになっている。
㉝舍利弗。下方世界。有師子仏。名聞仏。名光仏。達摩仏。法幡仏。持法仏。如是等。恒河沙数諸仏。各於其国。出広長舌相。徧覆三千大千世界。説誠実言。汝等衆生。当信是称讃。不可思議功徳。一切諸仏。所護念経。
XXXIII.舍利弗よ。下方の世界にも、師子仏・名聞仏・名光仏・達摩仏・法幢仏・持法仏等、ガンジス川の砂の数程の様々な仏方が居られ、其々の国で広く舌相を示して、三千大千世界にまで、阿弥陀仏の優れた徳が真実である事を表し、真心を込めて『其方達世の人々よ、此の阿弥陀仏の不可思議な功徳を褒め称えて、全ての仏方がお守り下さる経を信じるが良い』と仰せになっている。
㉞舍利弗。上方世界。有梵音仏。宿王仏。香上仏。香光仏。大焰肩仏。雑色宝華厳身仏。娑羅樹王仏。宝華徳仏。見一切義仏。如須弥山仏。如是等。恒河沙数諸仏。各於其国。出広長舌相。徧覆三千大千世界。説誠実言。汝等衆生。当信是称讃。不可思議功徳。一切諸仏。所護念経。
XXXIV.舍利弗よ。上方の世界にも、梵音仏・宿王仏・香上仏・香光仏・大焔肩仏・雑色宝華厳身仏・娑羅樹王仏・宝華徳仏・見一切義仏・如須弥山仏等、ガンジス川の砂の数程の様々な仏方が居られ、其々の国で広く舌相を示して、三千大千世界にまで、阿弥陀仏の優れた徳が真実である事を表し、真心を込めて『其方達世の人々よ、此の阿弥陀仏の不可思議な功徳を褒め称えて、全ての仏方がお守り下さる経を信じるが良い』と仰せになっている。
㉟舍利弗。於汝意云何。何故名為。一切諸仏。所護念経。
XXXV.舍利弗よ。其方はどう思うか。何故此れを「一切諸仏に護念される経」と名付けるのだろうか。
㊱舍利弗。若有善男子。善女人。聞是諸仏所説名。及経名者。是諸善男子。善女人。皆為一切諸仏。共所護念。皆得不退転。於阿耨多羅。三藐三菩提。是故舍利弗。汝等皆当。信受我語。及諸仏所説。
XXXVI.舍利弗よ。もし善良な者達が、此の様に仏方がお説きになる阿弥陀仏の名と此の経を聞くなら、此れ等の者は一切諸仏に護念され、無上の悟りに向かって退く事の無い位に至る事が出来る。だから舍利弗よ、其方達は皆、私の説く教えと仏方のお説きになる事を深く信じて心に留めるが良い。
㊲舍利弗。若有人。已発願。今発願。当発願。欲生阿弥陀仏国者。是諸人等。皆得不退転。於阿耨多羅。三藐三菩提。於彼国土。若已生。若今生。若当生。
XXXVII.舍利弗よ。もし人々が極楽世界に生まれたい既に願い、又は今願い、或いは此れから願うなら、皆無上の悟りに向かって退く事の無い位に至り、極楽世界に生まれているか、又は今生まれるか、或いは此れから生まれるのである。
㊳是故舍利弗。諸善男子。善女人。若有信者。応当発願。生彼国土。
XXXVIII.其れ故舍利弗よ。仏の教えを信じる善良なる者達は、是非とも極楽世界に生まれたいと願うべきである。
㊴舍利弗。如我今者。称讃諸仏。不可思議功徳。彼諸仏等。亦称説我。不可思議功徳。而作是言。 XXXIX.舍利弗よ。私が今仏方の不可思議な功徳を褒め称えている様に、其の仏方も又、私の不可思議な功徳を褒め称えて此の様に仰せになっている。
㊵釋迦牟尼仏。能為甚難。希有之事。能於娑婆国土。五濁悪世。劫濁。見濁。煩惱濁。衆生濁。命濁中。得阿耨多羅。三藐三菩提。為諸衆生。説是一切世間。難信之法。
XL.『釋迦牟尼仏は、世にも稀な難しく尊い行を成し遂げられた。娑婆の世界は五濁(劫濁・見濁・命濁・煩悩濁・衆生濁)悪世と呼ばれ、其の様な中に在りながら、阿耨多羅三藐三菩提を開き、人々の為に全ての世に、優れた信じ難い程の尊い教えをお説きになった事である』と。
㊶舍利弗。当知我於。五濁悪世。行此難事。得阿耨多羅。三藐三菩提。為一切世間。説此難信之法。是為甚難。仏説此経已。
XLI.舍利弗よ。良く知るが良い。私は五濁に満ちた世界で阿耨多羅三藐三菩提を開いて仏となり、全ての世界の者の為に此の信じ難い程の教えを説いたのである。此の事こそ、誠に難しい事なのである」
㊷仏説此経已。舍利弗。及諸比丘。一切世間。天人阿修羅等。聞仏所説。歓喜信受。作礼而去。
XLII.斯うして釈迦が教えを説き終えると、舍利弗を始め、多くの修行僧達・全ての世界の天人や人々・阿修羅等も皆、此の尊い教えを承って喜びに満ち溢れ、深く信じて心に留め、恭しく礼拝して立ち去った。
409 初代西ローマ帝国皇帝ホノリウスが、カレドニア及びブリタンニアの征服を断念する。現在のデンマーク、ドイツ北部周辺にいたゲルマン人が、グレートブリテン島に渡る。
426 ギリシャのアテネのアクロポリス東側にあるゼウス神殿が、第3代東ローマ帝国テオドシウス朝皇帝テオドシウス2世によって、キリスト教以外のローマ神やギリシア神を祀る事を否定され、焼き払われた。
438 テオドシウス2世がテオドシウス法典を公布し、以下を定めた。
①ユダヤ人の政治・軍事の役職からの排除。
②ユダヤ人がキリスト教徒の奴隷を持つ事の禁止。
③キリスト教徒がユダヤ教に改宗すると、遺言状を作成する権利及び財産を失う。
④キリスト教徒がユダヤ人と結婚する事は、姦通と同罪とする。
450 中国南朝の天文学者・数学者祖沖之が円周率に関し以下の式から6桁の精度を得る。
π= 355 113
=3.14159292035
530 パータリプトラ(現在のインドのビハール州)の天文学者・数学者アーリヤバタが円周率に関し以下の式から3桁の精度を得る。
π= 62832 20000
=3.1416
538 仏教が日本に伝来。
541 エジプトにあるローマ帝国のペルシウムで腺ペストが流行。
602 11 27 第5代東ローマ帝国ユスティニアヌス王朝マウリキウスがスラヴ人やアヴァール人を征伐する為にドナウ川北岸での越冬作戦を命じた際、ケントゥリオであるフォカスを担ぎ上げ兵が反乱を起こす。これによりマウリキウスは自ら退位したが、目の前で息子達を殺害され、その後自身も処刑された。
610 8 19 ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがメッカ(現在のサウジアラビアのマッカ州)にあるヒラー山の洞窟で、天使ジブリールより唯一神アッラーの啓示を受け、最初の妻であるハディージャ・ビント・フワイリドにその出来事を話す。その後フワイリドの従兄弟でキリスト教ネストリウス派修道僧ワラカ・イブン・ナウファルに相談した所、以下の預言者も同様の経験をしたが、敵対されなかった者はいない事を話す。
①アブラハム
②ノア
③モーセ
④イエス・キリスト
その後も神の啓示がアブドゥッラーフに次々に下された。そしてアブドゥッラーフは、従兄弟のアリー・イブン・アビー・ターリブや友人のアブー・バクルに啓示の教えを説き、イスラム教を始めた。
614 ササン朝ペルシアがエルサレムを占領し、聖十字架を戦利品として持ち帰る。
614 ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがメッカでイスラム教の宣教を始める。当初はクライシュ族(メッカ周辺のアラブ部族)はアブドゥッラーフを嘲笑していたが、信者が増えるにつれ、アブドゥッラーフやムスリムに対して迫害を行い、棄教を迫るようになった。
615 ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフの勧めで、100名以上のムスリムが、アクスム王国(現在のエリトリア)へ保護を求めて亡命し、アクスム王国はそれを受け入れた。
619 11 22 ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフのハディージャ・ビント・フワイリドが死去する。同時期にムハンマドの叔父で育ての親であるアブー・ターリブが死去し、2人の死に伴い、クライシュ族の迫害が激しくなる。
620 ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、ターイフ(現在のサウジアラビアのマッカ州)にて、現地のタキフ族にイスラム教を布教しようとするが、拒否される。
620 ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフはカアバ(現在のサウジアラビアのマッカ州)を訪れた各部族の巡礼団に対し、宣教を行っていた。このときムハンマドの教えを聞いてイスラム教に改宗した者の中にヤスリブ(後のマディーナ、現在のサウジアラビアのマディーナ州)から来たアウス族とハズラジュ族の巡礼団6名がいた。ヤスリブに帰った彼らはイスラム教を布教した。当時のヤスリブは住民の約1/3がクライザ族やナディール族、カイヌカー族等のユダヤ教徒で、2/3が多神教徒のアラブ人であった。当時のヤスリブではアラブ人の有力部族であるアウス族とハズラジュ族がユダヤ教徒を巻き込んで何十年にもわたる抗争を繰り広げていた。国家が存在していなかった当時のアラビアでは、部族の一員が殺害された際には敵対部族を殺害する事によって勢力均衡を図る「血の復讐」と呼ばれる制度が形成されており、両部族は復讐の悪循環に陥っていた。そこでヤスリブは平和の回復の為強力な権威を持つ調停者、指導者を必要としていた。
621 7 前年カアバでイスラム教に改宗した6名の内5名を含む12名の部族代表者が、ヤスリブからムハンマド・イブン・アブドゥッラーフの元を訪れる。彼らはアカバ(現在のヨルダン)で会見を開き、多神教の崇拝、盗み、姦通、女児殺し、隣人への中傷等を止める事を誓った。その後、ムハンマドは信頼のおける弟子であるムスアブ・イブン・ウマイルをヤスリブへ送り、新たな信徒の獲得に努めた。これにより、ヤスリブではどの家庭においても家族の誰かはムスリムであるという状態になった。
622 初代ヘラクレイオス朝東ローマ帝国皇帝ヘラクレイオスがササン朝ペルシアへ遠征する。
622 5 ムスアブ・イブン・ウマイルがヤスリブからメッカに戻り、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフにヤスリブでの布教の成功を報告する。
622 6 男性73名、女性2名から成る75名のヤスリブの使節団がムハンマド・イブン・アブドゥッラーフの元を訪れる。アカバで会見を開き、彼らはアブドゥッラーフを神の使徒として認め、武力でムハンマドとイスラム教を守る事を誓った。
622 7 16 クライシュ族からの迫害を受け、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフとアブー・バクルがヤスリブへ向けてメッカを出発する。
622 9 24 クライシュ族からの迫害を受け、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフとアブー・バクルがヤスリブに到着する。直ちにユダヤ教の制度を取り入れ、礼拝の方向をエルサレム神殿に定めた。
623 ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、アブー・バクルの娘アーイシャ・ビント・アブー・バクルと再婚する。
624 2 ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがイスラム教の礼拝の方向をエルサレム神殿からメッカのカアバ神殿に変更する。
624 3 17 ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、シリアからクライシュ族率いるメッカ軍が帰って来る事を聞き、300名を率い、バドル(現在のサウジアラビアのマディーナ州)に出撃した。これを受けメッカ軍保護の為、残るクライシュ族の600名の重装兵を含む1,000名がバドルに出撃し、両軍が激突する。ハバブ・イブン・ムンドヒールはアブドゥッラーフに1つの井戸を除く全ての井戸を埋める事を助言した。最終的にアブドゥッラーフ率いる軍が素早く要衝を押さえ勝利する。
624 11 ザイド・イブン・ハリータがアル・カラダへ軍事遠征を行う。キャラバンを捕らえるが、メッカの商人の殆どを逃してしまった。
625 イスラム教徒に対し、巡礼が義務化される。
625 3 23 メッカ軍の指導者アブー・スフヤーンが3,000名の兵を率いマディーナに進軍し、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがウフド(現在のサウジアラビアのマディーナ州)でこれを迎え撃った。最初はムハンマド側が有利であったが、メッカ軍の騎馬隊の奇襲に遭い、ムハンマド軍は混乱し、ムハンマドも負傷した。メッカ軍は報復に満足して引揚げた。ムハンマドはかなりの犠牲を払ったが、マディーナを守りきった。
627 3 2年前の敗戦を教訓にムハンマド・イブン・アブドゥッラーフは、教友であり、土木技術者のサルマーン・アル・ファーリスィーに塹壕を掘らせていた。アブー・スフヤーン率いるメッカ軍はアラビア北西部の遊牧民から勇猛な騎兵を集め、更にムハンマドによって追放されたユダヤ教徒を加えた10,000名の軍勢でマディーナに向かって進撃する。しかし、初めて見る塹壕に苦戦し、マディーナ内にいるユダヤ教徒と連携を試み、協定を結ぶが、ユダヤ教徒がメッカ側に人質を要求した事から話が拗れ、ユダヤ教徒が参戦する事は無かった。結果、ムハンマド軍が勝利する。クライシュ族の権威は低下し、遊牧民や小オアシスの住民の中には同盟相手をクライシュ族からムハンマドに変える勢力が多く現れた。また、スフヤーンは指揮権を他のクライシュ族に譲る事となった。
627 9 ザイド・イブン・ハリータがアル・ジュムム(現在のサウジアラビアのマッカ州)へ軍事遠征を行う。
627 10 ザイド・イブン・ハリータがアル・イスへ軍事遠征を行う。また、アット・タラフ(現在のサウジアラビアの東部州)やナクル(現在のオマーンの南バーティナ行政区)にも出向き、ナクルでは襲撃を行った。
627 11 ザイド・イブン・ハリータ率いる軍が、ワーディー・アル・クラー(現在のサウジアラビアのマッカ州)を襲撃するが、ファザラ族によりムスリムの一部が殺害され、ハリータも負傷し戦線離脱した。ハリータは復讐を誓い、もう一度ファザラ族を急襲するまでは頭を洗わないと決めた。
628 ヘラクレイオスがササン朝ペルシアの首都クテシフォンを占領し、降伏させる。
628 イラン西部で黒死病が流行する。
628 1 10 ザイド・イブン・ハリータが前年11月のワーディー・アル・クラーでの負傷の怪我が癒えた為、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフの指示で、大軍を率い、朝の祈りを終えた後、再度ワーディー・アル・クラーへ攻め込み、ファザラ族を撃破した。また、以下2名を捕虜にした。
①ウンム・キルファ
②アブダラ・ビン・マスアダ
ハリータの指示によりキルファは両足をロープで縛られ、そのロープを2頭の駱駝に結び付け、2つに切断された。その後キルファは斬首され、首級はアブドゥッラーフに贈られた。
628 2 ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、暗殺されたアブ・ラフィーの後任としてカイバルのユダヤ人の長に就き、ラフィーと同じくガタファン族と良好な関係を維持していたアル・ユサイル・イブン・リザムが自身の襲撃を計画している事を聞き付ける。そこでカズラジ族の指導者アブドゥッラー・イブン・ラワハに3名の従者と共にカイバル(現在のサウジアラビアのマディーナ州)にてリザムに気付かれぬ様情報収集する事を指示した。ラワハ達は、リザムが暗殺を酷く警戒している事を知り、マディーナに帰還し、アブドゥッラーフに報告した。アブドゥッラーフは戦略を練り直し、30名の部下に、駱駝に跨りリザムにマディーナを訪れる様説得する事を指示した。リザムはアブドゥッラー・イブン・ウナイスの馬に乗せられ、ウナイスがその後ろに乗った。他の馬もユダヤ人が前、ムスリムが後ろに乗る形となった。カイバルから6マイル離れたアル・カルカラートに到着した時、リザムは不審に思いアブドゥッラーフに会いに行く事を思い直し、馬から降り、剣を抜いた。ウナイスはリザムが剣を抜いた事を察知し、突進してリザムの股関節に致命的な一撃を与えた。リザムは床に倒れたがウナイスを殴った。ウナイスは、駱駝の杖を使ってリザムを攻撃した。これはムスリムの一斉攻撃を行う合図であり、ムスリムは前に乗っていたユダヤ人を殺害していった。結果、逃走に成功した1名を除くリザムとリザムの従者計29名のユダヤ人が殺害された。
628 3 ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、信徒を連れ小巡礼の為メッカのカアバ神殿へ向かった。現地で武装したクライシュ族が待ち伏せしているという報告を受けたアブドゥッラーフは、フダイビーヤ(現在のサウジアラビアのマッカ州)に留まり交渉に備えた。まず、クライシュ族からムハンマドにマディーナへの撤退を求める使者が送られ、メッカに帰還した使者はムハンマドの信徒の忠誠心の高さを報告した。次にアブドゥッラーフはヒラーシュ・イブン・ウマイヤ・アルフザーイーを派遣したが、アルフザーイーがアブドゥッラーフの伝言を伝えると、クライシュ族は激怒し、アルフザーイーの乗っていた駱駝を斬殺、アルフザーイーはそのままフダイビーヤへ戻った。次にアブドゥッラーフはウマル・イブン・ハッターブを使者に選んだが、自身がクライシュ族と敵対している事を理由に辞退、結果ウスマーン・イブン・アッファーンが使者として派遣された。伝言を聞いたクライシュ族はカアバ神殿の周囲を回る儀礼である「タワーフ」を認めたが、アッファーンは妥協しなかった為監禁され、アブドゥッラーフにアッファーン殺害の知らせを届け、ムスリム達は激怒した。ムハンマドは彼らにいかなる事態が起きても自分の命令に従う様、バイア(忠誠の誓い)を行わせた。解放されたアッファーンが帰還した後、クライシュ族からスハイル・イブン・アムルが使者としてフダイビーヤに派遣され、協議を経て以下の和約が成立した。
①10年間の休戦。
②巡礼団は一旦マディーナに帰還し、翌年にムスリムの巡礼の為に3日間マッカを開放する。
③保護者の同意なくマディーナに移住したマッカの住民を無条件でマッカに送還する。
④ムハンマドの元からマッカのクライシュ族の元に移った人間はそのままマッカに留め置かれる。
⑤マッカ周辺の部族、個人は自由にムハンマドと同盟を締結出来る。
マッカ側はムハンマドが「アッラーの使徒」として和議を結ぶ事を認めず、「アブドゥッラーの息子ムハンマド」として署名を行わせた。クライシュ族側に有利な内容であった為ハッターブは不満を示した。一方でアブー・バクルはアブドゥッラーフの決定に従った。結局この年はアブドゥッラーフが目的としていた小巡礼を行う事が出来ず、マディーナに帰還するが、これに関し多くのムスリムが困惑した。
628 5 ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、先年マディーナから追放したユダヤ教徒系のナディール族の移住先カイバー(現在のサウジアラビアのマディーナ州)の二つの城塞に征伐の為遠征を行う。
628 6 ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、2度の遠征によりカイバーのナディール族を降伏させる。アブドゥッラーフはカイバーのナツメヤシなどの耕地に対し、収穫量の半分を税として課す事を条件に、ナディール族がカイバーに住み続ける事を許可した。また、以下のユダヤ教徒系の諸部族が相次いでアブドゥッラーフに服従する事となった。
①ワーディー・アル・クラー(現在のサウジアラビアのマディーナ州)
②タイマー(現在のサウジアラビアのタブーク州)
③ハナック(現在のサウジアラビアのタブーク州)
628 10 ザイド・イブン・ハリータがクシャイン(現在のイエメンのハドラマウト県)やヒスマへ軍事遠征を行い、ユダヤ人と戦う。
629 ヘラクレイオスがコンスタンティノープルへ帰還する。
629 7 ヘラクレイオスとササン朝ペルシアの将軍シャフルバラーズの間で和平協定が結ばれる。これを受け東ローマ帝国は領土の再占領を行い、サケラリオスであるテオドールを指揮官に据え、バルカ(現在のヨルダン)ではアラブ部族も起用した。一方、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフは、ボスラ(現在のシリアのダルアー県)のガッサーン朝総督ハリス・ビン・アビ・シムル・アル・ガッサニー宛の書簡をハリス・ビン・アムル・アル・アズディに持たせ、ボスラに差し向けていたが、ガッサーン朝連合総督シュラービル・イブン・アムルに捕縛され、ムウタ(現在のヨルダンのカラク県)で殺害された。
629 9 10 ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、ハリス・ビン・アムル・アル・アズディ殺害の報復の為にザイド・イブン・ハリータを司令官とする軍勢3,000名をシリアへ派遣したが、東ローマ帝国軍がムシャリフ村で待ち伏せていた。東ローマ帝国軍がハリータ率いる軍に攻撃を仕掛け、ムウタで戦闘が始まる。副官は以下2名が務めた。
①ジャファル・イブン・アビ・ターリブ
②アブドゥッラー・イブン・ラワハ
銭湯は2つの高台に挟まれた谷間で行われ、東ローマ帝国軍の数的優位は失われた。ハリータ率いる軍は東ローマ帝国とガッサーン朝の前に敗北し、指揮官であるハリータ・ターリブ・ラワハやワッハーブ・イブン・サードが戦死してしまう。タビット・イブン・アクラムは、このムスリムの絶望的な状況を打開する為に旗を手にし、仲間を結集させ敗走した。その後ハーリド・イブン・アル・ワリードに指揮を執る様求めた。そしてワリードは機転を働かせて潰走するムスリムを纏め上げ、無事に撤退させた。ムスリムは東ローマ帝国軍の規模を知るとマディーナからの援軍を待ち望んだ。しかし、ラワハは殉教を思い出させ、援軍を待つという行為を否定し、進軍させた。
629 12 ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが10,000名の軍勢でマディーナからメッカへ向けて出撃する。この時ハワジン族と、ターイフを拠点とするタキフ族が、送り込んでいたスパイによってこの事実を知り、メッカを包囲している間にアブドゥッラーフの軍を攻撃する為兵の動員を始める。しかしアブドゥッラーフもハワジン族の野営地に送り込んでいたスパイにより兵の動員の情報を掴んだ。
630 1 ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、アブー・スフヤーンと折衝しメッカを無血征服する。また、カアバ神殿にあった360体の偶像を破壊する。アブー・スフヤーンがイスラム教に改宗する。また、クライシュ族との和解に出費が必要となった為、租税制度である「ザカート」の徴収を始める。
630 1 31 メッカへ出撃したムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ率いる10,000名の軍勢と、アブー・スフヤーン率いるクライシュ族2,000名の軍勢がフナイン(現在のサウジアラビアのマッカ州)に到着する。先行してフナインに入っていたマリク・ビン・アウフは4,000名の部下に対しハワジン族・タキフ族・ベドウィン族・サキーフ族を見つけた際は石を投げつけてから単体で攻撃する事を命じた。ムスリムが野営を始めるとハワジン族・タキフ族・ベドウィン族・サキーフ族が矢を放ち先制攻撃を行った。ムスリムは混乱し撤退したが、アリー・イブン・アビー・ターリブ、ウサマ・イブン・ザイド、ファドル・イブン・アッバス等数名が後方で戦った。また、アブドゥッラーフと共にマディーナに移住したムハージルーンである以下の者がアブドゥッラーフを擁護した。
①アブー・バクル
②ウマル・イブン・ハッターブ
③ターリブ(アブドゥッラーフの従兄弟)
④アブドゥッラー・イブン・マスード
⑤アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブ(アブドゥッラーフの叔父)
⑥アブ・スフヤーン・イブン・アル・ハリス(アブドゥッラーフの従兄弟)
⑦アッバス(アブドゥッラーフの従兄弟)
⑧ザイド(アブドゥッラーフの養子)
⑨アイマン・イブン・ウベイド(ザイドの異母兄弟)
そしてウベイドが戦死し、アブドゥッラーフは「さあ、人々よ。私はアッラーの使徒です。私はアブドゥッラーフの子ムハンマドです」「嗚呼、アッラー、あなたの助けを送ってください」と言った。ムスリムが戦場に戻りアブドゥッラーフは「貴方の顔が恥ずべき事でありますように」と言いながら砂を敵に投げつけ混乱させた。サキーフ族だけで約70名が殺害され、ムスリムは乗馬用の駱駝・武器・牛を奪い戦いに勝利した。
630 3 ヘラクレイオスが取り返した聖十字架をエルサレムへ返す為、コンスタンティノープルを出発する。
630 3 23 ヘラクレイオスがエルサレムにて聖十字架と聖遺物を元の位置に戻す。
630 4 7 エルサレムにて聖十字架の返還を記念した祝祷が聖ラザルス教会で催される。
632 2 22 ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、メッカの迫害からヤスリブに逃れ、ムハンマドと行動を共にした人であるアンサールのアブー・ドゥジャーナを呼んで、自分が留守の間、マディーナを守るように言いつけ、マディーナや近隣の村々やムハンマドの妻を含む10,000名がメッカのハッジ(大巡礼)の為出発した。夕方にマディーナ内のモスクのズルフライハで野営した。
632 2 23 朝、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフはイフラームと呼ばれるハッジ用の縫目のない二切れの白布を纏い、ハッジ団の男性もそれに倣う。アブドゥッラーフは愛用の雌駱駝「カスワ」に跨り「あなたの前にいます、アッラーよ」と唱え、ハッジ団が復唱した。
632 3 3 ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ率いるハッジ団がメッカに到着する。アブドゥッラーフはカアバ神殿の前で「アッラーよ、この家に祝福と栄光を与えて下さい」と祈った。モスクで礼拝を行った後、丘へ登り「アッラーの他に神はなく、彼に仲間もなく、主権と栄光はアッラーだけのもの。彼は生を与え、また死を与える。彼は全能で、総てを超えて至上の存在である」と唱えた。
632 3 6 ハッジ団がミナの谷へ下り一夜を明かした。
632 3 7 ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがアラファト山を登り、「アラファトはハッジの不可欠の部分であり、ハッジはアブラハムからの崇高な遺産である」と説いた。
632 5 闘病中のムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、西暦629年9月10日のムウタでの戦闘で、アブドゥッラーフの養子でありウサーマ・ビン・ザイドの父ザイド・イブン・ハリタが殺害された件の復讐の為、司令官にザイドを任命し、東ローマ帝国のバルカ(現在のヨルダン)攻撃の遠征を命じる。ザイドは1,000名の騎兵を含む3,000名を招集し、スパイを送り込み、まだ敵兵がザイドの軍に気付いていない事を把握した。
632 6 8 ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが以下の遺言を残し死去する。
①アラビア半島から異教徒を追放する。
②自分の死後もクルアーンに従う。
ウサーマ・ビン・ザイドのバルカ遠征は延期となった。ウマル・イブン・ハッターブは「アブドゥッラーフは神に相談しに行き、直ぐに戻ってくる」という主旨の発言を行い「アブドゥッラーフは死んだ」と口にする者を脅した。マディーナに帰還したアブー・バクルはハッターブにアブドゥッラーフの遺体を見せて納得させ、落ち着かせた。その後サキファ(現在のサウジアラビアのマディーナ州)でアンサールの集会が開かれた。集会が行われる事を知ったバクルとハッターブは現場に急行した。バクルは、クライシュ族以外の者を指導者に据えると不和になる可能性が高い、と警告を発すると同時に、ウマル・ブン・アル・ハッターブとアブー・ウバイダが、バクルをアブドゥッラーフの後継者としてとして推して、人々に支持を求めて働きかけた。ハバブ・イブン・ムンドヒールはクライシュ族とアンサール族がそれぞれリーダーを選び、共同で統治することを提案した。ハッターブはバクルを推薦し、周囲の者もそれに倣った。マディーナを拠点とするアラブのハズラジ族のサイダ一族の長サード・イブン・ウバダはこれに反発し、集会は解散となった。最終的にアブー・バクルが初代正統カリフに選出される。バクルは直様ウサーマ・ビン・ザイドに出撃命令を出した。
632 6 26 ウサーマ・ビン・ザイド率いる軍勢がマディーナを出発しタブーク(現在のサウジアラビア)へと向かう。主に以下の者を従えた。
①ウマル・イブン・ハッターブ
②サアド・イブン・アビー・ワッカース
③アブー・ウバイダ
632 7 アブー・バクルは、アサド族のトゥライハ・イブン・クウェイリードがマディーナへの攻撃準備を進めている事を知り、ムハージリーンとアンサールの中から主に以下の者を呼び寄せ司令官とし、戦闘部隊を構成した。バクルはこの部隊を使って、やって来た背教軍に前哨部隊を何もさせない内にドゥ・フッサへ追い返した。
①アリー・イブン・アビー・ターリブ
②タルハ・イブン・ウバイドゥラ
③ズバイル・イブン・アウワーム
632 7 15 背教軍がマディーナへの攻撃準備の為ドゥ・キッサからドゥ・フッサへ移動する。また、背教軍の拠点であるアブラクとドゥ・キッサにいる以下の民族に対し使者を送り、イスラム教に忠実である事、ザカートを払い続ける事を呼びかけた。
①ガタファーン族
②ハワジン族
③テイー族
632 7 16 アブー・バクルが本隊と共にマディーナを出発し、ドゥ・フッサへ向かった。乗用駱駝はすべてウサーマ・ビン・ザイドの軍に属していた為、劣悪な荷物駱駝を馬として調達せざるを得なかった。これらの駱駝は戦闘訓練を受けていなかったので、ドゥ・フッサの背教軍から奇襲を受けた際に逃げ出した。その結果、ムスリムはマディーナに退却し、背教軍は数日前に失った前哨部隊を奪還した。これを受けアブー・バクルはマディーナで軍を再編成し、夜間に背教軍に奇襲をかけた。結果、背教軍はドゥ・フッサからドゥ・キッサに退却した。
632 8 1 アブー・バクルの軍が、背教していた以下の反乱部族を破りドゥ・キッサを占領する。
①ガタファン族
②ハワジン族
③タイイ族
632 8 4 ウサーマ・ビン・ザイドの軍勢がマディーナに帰還する。アブー・バクルはザイドに休息と、部下への補給を指示した。
632 9 1 ハーリド・イブン・アル・ワリードが6,000名の兵を率い、ブザカ(現在のサウジアラビアのハーイル州)でアディ・イブン・ハティム・トゥライハ率いる背教軍35,000名を破り勝利する。その後ガムラ(現在のサウジアラビアのマディーナ州)にて、ワリードの軍がブザカから逃亡した残存兵を撃退する。
632 10 1 ハーリド・イブン・アル・ワリードの軍とアラブ部族であるスライム族との戦闘がナクラ(現在のサウジアラビアのリヤード州)で行われ、ワリードの軍が同部族の大半を殺戮し勝利する。
632 10 21 ハーリド・イブン・アル・ワリードの軍がウンム・ズンマル率いるサルマ族背教軍とザファール(現在のサウジアラビアのマッカ州)で交戦する。ワリードは背教軍の強さをズンマルのリーダーシップにあると考え、母の遺した駱駝に跨り背教軍を指揮していたズンマルを狙い撃ちにする様射手に指示した。結果、ズンマルを乗せた駕籠が落下し直ちにムスリムによって殺害され、ワリードの軍が戦闘を優位に進め勝利する。
632 10 31 アブー・バクルが、戦闘を行わずに自らを預言者と名乗るムサイリマと接触し拘束する事を意図し、イクリマ・イブン・アビー・ジャハルをアル・ヤママ(現在のサウジアラビアのリヤード州)に差し向ける。ジャハルは十分な兵力を持っていなかった為、ハーリド・イブン・アル・ワリードの軍の背教軍征伐の谷間期間に兵を借りた。また、ジャハルは次の指示が出るまで待機する様命じられていたが、以下の報告を受け兵を動かし、ムサイリマに敗北する。バクルに書簡を送り行動の全容を報告した。報告を受けたバクルはジャハルの軽率な行動に怒りを覚えた。
①前月1日にワリードがアディ・イブン・ハティム・トゥライハ率いる背教軍を破り勝利した。
②ジャハルと同様にジャハルは次の指示が出るまで待機する様命じられていたイスラム教改宗者でサハーバのシュラビル・イブン・ハサナが、ジャハルと合流する為に進軍しており数日で到着する事が見込みであった。
③ワリードがサルマを征圧した。
バクルはアルファジャの援護の為にマフラ(現在のイエメン)に向かい、ジャハルに対してもムハージルーンを助ける為にイエメンに向かう様指示した。ハサナはアル・ヤママに留まった。バクルはハサナがジャハルと同じ過ちを犯さない様書簡にてアル・ヤママに留まって次の指示を待つ様念を押し、ワリードに対しムサイリマ征伐の指示を出した。さらにハサナに対して後日到着するワリードの軍の指揮下に入る様書簡にて指示を出した。
632 11 シュラビル・イブン・ハサナが、前月のイクリマ・イブン・アビー・ジャハルと同様に待ちきれずに兵を動かしムサイリマに敗北する。その数日後ハーリド・イブン・アル・ワリードが到着し、アル・ヤママのアクラバ平原にムサイリマが40,000名の兵と共に野営しているとの情報を入手した。
632 12 ハーリド・イブン・アル・ワリードがムサイリマ征伐の為出陣する。最も激しい戦闘が行われたのはワディ(現在のサウジアラビアのリヤード州)に流れ落ちる渓谷であった。ムサイリマの軍が戦闘可能な状態にある兵が7,000名、1/4程度となった段階で城壁のある庭園へ避難し、少数の護衛が援護した。アンサールでサハーバのアルバラ・イブン・マリクが仲間に頼んで壁を登らせ、そこにいる衛兵を殺して門を開け庭園を侵入した。ムサイリマは、西暦625年3月23日のウフドの戦いでムハンマド・イブン・アブドゥッラーフの叔父ハムザ・イブン・アブド・アル・ムッタリブを殺害し、その後イスラム教に改宗したワフシー・イブン・ハルブの標的となり、ハルブはムッタリブを殺害した時と同様に槍を投げた。槍はムサイリマの腹に的中しアブー・ドゥジャーナがムサイリマを斬首、7,000名の兵が虐殺された。
633 ムスリムでササン朝ペルシアとの国境付近のアル・ヒラ(現在のクーファ(イラクのナジャフ県)付近)の部族長アル・マタナ・イブン・ハリタがメソポタミア地方のササン朝ペルシアの町を襲撃する。しかしササン朝ペルシアの反撃を受けた為アブー・バクルに援軍を要請し、結果勝利して相当量の戦利品を得た。その後ハリタはマディーナへ赴きバクルに戦勝報告を行い、バクルから司令官に任命され、メソポタミア地方の襲撃に邁進する事となった。軽騎兵の機動力を生かし、砂漠近くの町を襲撃し、砂漠に身を隠す戦法を採った。バクルはこの戦い振りからメソポタミア地方の征服を決意し、アル・ヤママにいたハーリド・イブン・アル・ワリードに、指揮官として志願兵のみの軍を構成しアル・ヒラへ向かいササン朝ペルシアと戦う様指示した。ワリードはササン朝ペルシア総督ホルムズドに対して「イスラムに於ける人頭税であるジズヤの支払いに応じれば助ける」という主旨の降伏勧告の書簡を送る。しかしホルムズドがこれに応じなかった。また、ワリードは書簡の中でカーズマ(現在のクウェートのジャハラー県)を経由してアル・ウブッラ(現在のイラクのバスラ県)へと向かうルートで進軍するとホルムズドに思わせる様仕向けた。
633 3 14 ハーリド・イブン・アル・ワリードが10,000名の軍勢を率いアル・ヒラへ向けてアル・ヤママを出発する。その後他の部族も加わり、ワリードは18,000名の兵を率いササン朝ペルシアに入った。第38代ササン朝ペルシアのシャーのヤズデギルド3世が、司令官の報告からその事を知り、アラブ人キリスト教徒から成る部隊を編成した。また、万が一ワリードが勝利した場合に備え、将軍最高位のカリンにササン朝ペルシアの重要な港であるアル・ウブッラの守備を指示した。
633 3 14 アブー・バクルが、イヤド・イブン・ガンムを中央アラビア・イラク・シリアからの経路が集合するアラビアの大規模商業都市であるドゥマット・アル・ジャンダル(現在のサウジアラビアのジャウフ州)へ派遣する。ガンムはドゥマット・アル・ジャンダルに到着し、ドゥマット・アル・ジャンダルとシリア東部の周縁が、アラブ人キリスト教徒のカルブ族に押さえられている事を知った。
633 4 ハーリド・イブン・アル・ワリードは兵を駱駝に跨らせ、機動力で重装備のササン朝ペルシア軍を疲弊させた上で攻撃を仕掛ける戦略を練っていた。ホルムズドがワリードの術中に嵌り、以前ワリードから受け取った書簡からワリードがカーズマを経由して来る事を予測し、アル・ウブッラからカーズマへと進軍する。しかしカーズマにはムスリムの気配は無かった。やがてホルムズドは斥候からワリードがフフェアに向かっているとの報告を受けた。フフェアはアル・ウブッラから21マイルしか離れていない為、ホルムズドの拠点のアル・ウブッラが危険に晒される事となった。直ちにホルムズドは50マイル離れたフフェアに兵を差し向けた。既にフフェアに到着していたワリードは、ホルムズドの軍がフフェアに向かっているとの報告を斥候から受けるとカーズマへ移動した。その後フフェアに到着したホルムズドの軍はワリードの軍がカーズマへ向かっている事を知ると、再びカーズマへの進軍を指示した。こうしてワリードのササン朝ペルシア軍を疲弊させる作戦が成功し、ワリードの軍とホルムズドの軍がカーズマで対峙する事になった。ホルムズドは将軍のクバズとアノシャガンに指示し、兵達を鎖で繋ぎ敵が数人を倒して突破する可能性を軽減する作戦を採った。ただこの作戦には容易に兵を撤退させる事が出来ないという欠点があった。ホルムズドはカーズマの西の端の前方に軍を展開し、都市を覆うような配置をとり、ハリードは砂漠を背にして軍を展開し、敗北した場合にはそこに退却出来る様にした。戦闘が始まったものの、ホルムズドは戦いの序盤で殺害され、疲弊したササン朝ペルシア軍は攻撃に耐える事が出来ず、将軍のクバズとアノシャガンは敗北を察知し、撤退命令を出した。しかし、鎖で繋がれていない兵は退却出来たものの、繋がれていた兵は速く動く事が出来ず、数千名が殺害された。
633 4 21 カーズマの戦いで敗れたササン朝ペルシアのクバズとアノシャガンの部隊がカリンとアル・ウブッラで合流する。クバズとアノシャガンは生存者の中にササン朝ペルシアを裏切りムスリムに与した兵がいた事を伝えると、アル・ウブッラから去る者が現れた。これに慌てたカリンは以下2点の理由からアル・マダール(現在のイラクのワーシト県)で戦う事にした。
①ムスリムに寝返った兵はアル・マダールを知らないであろうと考えた。
②ユーフラテス川に近く、ササン朝ペルシアの正規軍が到着し易いであろうと考えた。
ハーリド・イブン・アル・ワリードはササン朝ペルシア軍がアル・マダールにいる事を把握し、アル・ムサンナ・イブン・ハリサ率いる分遣隊を送りこみ、自身もアル・マダールへ向かった。ワリードが到着した時、ササン朝ペルシアの船が川の端に到着しているのを見て、まだ戦闘準備が整っていない事を理解した。ワリードの狙いは経験豊富なベテラン兵が到着する前に先制する事であった。ワリードは17,000名の兵を率い、アシム・イブン・アムル・アル・タミミとアディ・イブン・ハティムに両翼を任せ、ササン朝ペルシア軍と対峙した。対するカリンはクバズとアノシャガンに両翼を任せ、川を背にして展開し、川岸には撤退を容易にする為の船団が準備されていた。戦いは以下の3つの決闘で始まった。最初に挑戦状を叩きつけたのはカリンであった。それに対しマカル・ビン・アル・アシがムスリムの前列に乗り出して来た。アシは熟練した剣士であったのでワリードは呼び戻す事はしなかった。カリンが敗れ、殺されると、クバズとアノシャガンが名乗りを上げ、アシームとアディがそれに応じた。何れもムスリムが勝利し、本格的な戦闘が始まった。ササン朝ペルシア軍は暫くは持ち堪えたが、上位の将軍を失った事で混乱し、纏まりを失った。最終的には川岸へ向きを変えた。この戦いでササン朝ペルシアは30,000名が殺害された。
①◯マカル・ビン・アル・アシ(ムスリム)vsカリン(ササン朝ペルシア)●
②◯アシーム(ムスリム)vsアノシャガン(ササン朝ペルシア)●
③◯アディ(ムスリム)vsクバズ(ササン朝ペルシア)●
633 4 ヤズデギルド3世がクテシフォン(現在のイラクのバービル県)にてアル・マダールで自軍の敗北報告を受け、追加で2つの軍を招集して軍を再編成する。数日後には第一陣の出撃準備が整った。ヤズデギルド3世は、ムスリムが撤退する場合に備え砂漠を背に戦うと読み、ワラジャ(ユーフラテス川の現在のムサンナー県とカーディーシーヤ県の県境付近)を戦闘場所に選んだ。ホラーサーン統治者アンダルザガールが、ワラジャに出撃する様命じられ、間も無く別の軍と合流し、イラン人とキリスト教アラブ人から成る軍を率いてクテシフォンを出発した。その後カシュカルでティグリス川を渡り、南西に移動してユーフラテス川を渡り、ワラジャに布陣した。その道中何千名ものアラブ人が合流し、カーズマとアル・マダールでの戦の残党も加わった。アンダルザガールは数日後にワラジャに到着する予定のササン朝ペルシア軍最高幹部の一人の司令官バフマン・ジャドゥヤの軍を待つ事にした。アンダルザガールよりも数日遅くクテシフォンを出発した為遅れる事になった。ジャドゥヤもヤズデギルド3世からワラジャへ挙兵する事を命じられ、計画では総司令官として軍を指揮する予定であった。同じ頃ハーリド・イブン・アル・ワリードが、送り込んだスパイから以下の報告を受けた。
①ササン朝ペルシア軍がワラジャに布陣している。
②兵の数がかなり多い。
③別の軍と合流する為にワラジャに留まっている。
ワリードは元々アル・ヒラに向かう予定であり、ワラジャは丁度そのルートの中に入っていた。ワリードはアル・ヒラの方角へ向かって、5,000名の騎兵と10,000名の歩兵を率い出撃した。ワリードはジャドゥヤのワラジャ到着予定日の数日前にワラジャの近くに宿営した。
633 5 ハーリド・イブン・アル・ワリードは、バフマン・ジャドゥヤの軍がワラジャに到着する前にアンダルザガールの軍を殲滅する作戦を取った。ハリードはスウェイド・ビン・ムカーリンに、征服した地区の管理を役人と行うよう指示し、北と東からの敵が来る可能性がある為ティグリス川下流を守る事を意図し分遣隊を配置した。また、ワリードは兵の数がササン朝ペルシア軍を上回っていた事を知っていた為、戦の前夜に騎兵を二手に分けササン朝ペルシア軍を包囲した。さらにアル・マダールでの戦闘と同じくアシム・イブン・アムル・アル・タミミとアディ・イブン・ハティムに両翼を任せた。アンダルザガールは先にムスリムに攻撃させて、疲弊した所を反撃する作戦を取った。当初はアンダルザガールの作戦通りに事が運んだものの、最終的には数の力で圧倒され、ササン朝ペルシア軍は敗北した。しかし数千名の兵はムスリムの包囲網から脱出する事が出来た。アンダルザガールも脱出に成功したが、砂漠で遭難し脱水症状で死亡した。
633 5 15 ワラジャでの戦闘で敗れたササン朝ペルシア軍の残党が、ユーフラテス川の支流ハシーフ川を渡り、ユーフラテス川の間を移動しながらウライ(現在のイラクのアルカディシーヤ県)に落ち延びた。ムスリムはウライにササン朝ペルシア軍の残党がいる事を認識していたが、数が少なく問題視していなかった。しかし、アル・ヒラとウライの間にいた、ワラジャの戦いで2名の息子を殺害されたアブドゥル・アスワド率いるキリスト教系アラブ部族であるバニ・バクル族が大軍で合流した事で、ハーリド・イブン・アル・ワリードはハシーフ川を渡り、ウライに正面から接近した。アスワドはムスリムへの復讐を考えていた。ヤズデギルド3世はバフマン・ジャドゥヤにアラブの部隊を指揮しウライでムスリムの侵攻を止める様指示した。ジャドゥヤは、上級将軍ジャバンにササン朝ペルシア軍を率いさせてウライに向けて先行させ、自身が到着する迄戦闘を避ける様指示した。ジャバンは出陣したものの、ヤズデギルド3世と、ある問題について話し合う為にクテシフォンに戻った。しかしヤズデギルド3世が重病である事を知り、看病を行う事になった。ササン朝ペルシア軍はムスリムの目的はアル・ヒラを占領する事であると読んでいた。ムスリムの司令官の一人アル・ムタンナ・イブン・ハリサが軽騎兵の斥候と共にウライへ進軍し、ワリードにササン朝ペルシア軍の居場所を知らせた。ワリードは自軍を大きく上回る軍勢との戦闘を避ける為に援軍が到着する前に、ウライに到着しようとしたが失敗した。ワリードはササン朝ペルシア軍が作戦を練る前に戦闘を開始する事を計画し、当日中に襲撃した。ワリードは以下2名に両翼を任せ、軍陣を整列させた。
①左翼:ウマル・イブン・ハッターブの息子アシム・イブン・ウマル
②右翼:ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフの仲間であったアラブ人キリスト教指導者ハティム・アット・タイの息子で元キリシタンのアディ・イブン・ハティム
昼前、ジャバンがムスリム侵攻の報告を受けた。ササン朝ペルシア軍はそれを受け、食事の時間であったがムスリムに対し強靱さを示す為に、食事を摂らずに軍の編成を行った。中央にササン朝ペルシア軍、両翼を以下2名のアラブ人キリスト教徒に任せた。
①左翼:部族長アブジャル
②右翼:部族長アブドゥル・アスワド
しかしアスワドは決闘でワリードに敗れ殺害された。
633 5 17 ムスリムとササン朝ペルシア軍の戦闘が最も激しかったのはカセーエフ川であった。ハーリド・イブン・アル・ワリードはササン朝ペルシア軍の防衛線を突破出来ずに苦戦している最中、アッラーに祈り、戦いに勝てば敵兵の血を川に流すと約束した。ムスリムは砂漠の戦闘の経験値が豊富であった為、兵力ではササン朝ペルシア軍に劣っていたが、劣勢になると砂漠に身を隠す等して、地の利を活かした。また、アラブの駱駝は、ペルシャの馬に比べて水を飲む回数が少なかった。ワリードは砂漠を駱駝の補充に利用した。ワリードは賄賂により他の部族もササン朝ペルシア軍に与して補給路を断たれる事を危惧していた。午後の早い時間にササン朝ペルシア軍はムスリムの攻撃に耐えきれず、アル・ヒラの方角へ退却し、川岸に追い詰められた。ワリードはササン朝ペルシア軍の捕縛した兵を全員斬首させ、何千名もの死者の血により、カセーエフ川の岸辺は死者の多さで真っ赤に染まり、アッラーとの約束を守った。また、ジャバンは逃走した。ワリードは、戦闘の最中ムスリム指揮官の一人であるカーカ・イブン・アムル・アル・タミミの助言により、川のダムを開くよう命じ、水を流し込んで粉砕機を動かし、それでパンを作り、3日間18,000名の兵士を養った。ワリードはウライの住民にジズヤとイランへのスパイとして活動する事を課した。
633 5 30 ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍がアル・ヒラにてササン朝ペルシアと戦闘を行いアル・ヒラを占領、地元住民はムスリムに多額の貢物を払い、ウライの住民と同様にジズヤとスパイとしての活動を課せられた。その後ムスリムは1ヶ月の休息に入った。
633 7 ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍がアンバール(現在のイラク)を包囲する。ワリードは多数の弓兵に敵兵の目を狙う様指示した。ササン朝ペルシアは激しく抵抗したものの最終的に総督シルザードが降伏し、アンバールは陥落した。
633 7 28 アイン・アル・タムル(現在のイラクのカルバラー県)にて、ササン朝ペルシアを支援するアラブ人キリスト教徒による補助部隊がハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍と交戦する。ワリードは、両翼に補助部隊の両翼を包囲させ、自身の率いる本隊は後方で待機した。以前ムスリムとの契約を破った非ムスリムでアラブ人キリスト教徒で補助部隊の司令官のアッカ・イブン・カイズ・イブン・バシールは、ワリードが兵を動かさない事に驚き、自軍を包囲したムスリムの両翼の部隊との戦いに専念する事にした。イランのミハラン家貴族ミハラン・バフラム・イ・チュビン等のササン朝ペルシア兵はアイン・アル・タムル城内で待機していた。そんな中ワリードを護衛していた少数の部隊が不意を突いて、バシールに戦いを挑んだ。最終的にワリードはバシールを自らの両手で抱えて捕縛した。補助部隊はバシールが生きて捕らえられた事で戦意を失い、直ちにムスリムに対し全面降伏した。その後ムスリムバシールを晒してアイン・アル・タムルを行進し、アラブ人キリスト教徒が待機していたアイン・アル・タムル城を包囲して、アラブ人を大量に含むササン朝ペルシアの補助部隊を降伏させる。さらに守備隊の防衛者の前に並び「降伏して門を開けないなら処刑する」と脅した。守備隊が拒否した為、壁の後ろで戦い、ワリードは直ちにバシールを含むすべての捕虜を直ちに処刑するよう命じた。また、ムスリムはアイン・アル・タムルを征圧の際、修道院の中で40名のアラブ人キリスト教徒の聖歌隊を発見し、その40名の子供達をマディーナへ連行し、改宗させた。この聖歌隊の殆どが後のイスラムの重要人物の祖先である。その重要人物は以下である。
①ウマイヤ朝総督ムーサ・ビン・ヌサイル(副官であったタリク・ビン・ジヤドの下で父も従軍し、スペインを征服した軍隊の最高司令官であった)
②イスラム神学者イブン・シリン
③アッバース朝の歴史家フナイン・イブン・イスハーク
④詩人アブダッラー・イブン・アムラー
633 8 アブー・バクルからドゥマット・アル・ジャンダルにてアラブ反乱軍を鎮圧する様命を受けたイヤド・イブン・ガンムが、マリッドと呼ばれる砦の南面に軍を展開し、弓矢にてドゥマット・アル・ジャンダルを守備していたカルブ族を攻撃し、数週間戦闘を行ったが膠着状態となり任務に失敗、ガンムはある将校の「状況によっては、知恵は大軍よりも優れている」という進言により、ハーリド・イブン・アル・ワリードに助けを求める主旨の書簡を送る。ワリードはアイン・アル・タムルからアル・ヒラに向かおうとしている際にその書簡を受け取った。
633 8 ハーリド・イブン・アル・ワリードが前日のイヤド・イブン・ガンムの書簡を受けて、6,000名の兵を率い援軍としてアイン・アル・タムルを出発しドゥマット・アル・ジャンダルへと向かう。
633 8 25 ハーリド・イブン・アル・ワリードがドゥマット・アル・ジャンダルに到着し、イヤド・イブン・ガンムと合流する。しかしワリードの軍の行動はドゥマット・アル・ジャンダルを守備していたアラブ反乱軍に何日も前から把握されていた。ササン朝ペルシアはワリードが軍の大部分を連れてアラビアに戻ったと考え、ムスリムを砂漠へ追いやり、失った自国の領土と威信を取り戻そうと考えた。ガンムの軍だけなら打ち払う事が出来るがワリードの軍が加われば持ち堪えられないと考え、近隣の部族に急使を送り援軍を要請した。結果、ガッサーン族・カルブ族等の幾つかの部族が駆け付け、砦の守備に付いた。ワリードはガンムを指揮下に置き、砦の周囲を押さえアラビア・イラク・ヨルダンへと繋がるルートを遮断してアラブ反乱軍を包囲し、敵が攻撃を仕掛けて来るのを待った。先制すれば多大な犠牲を払うと考えた為である。アラブ反乱軍の指揮官ジュディはムスリムが攻撃して来るのを待っていたが、動いて来なかった為、ワリードとガンムの陣を攻撃する為二手に分かれ、先制攻撃を仕掛けた。しかしワリードとガンムの軍にそれぞれ圧倒され、ジュディは仲間数百名と共に捕らえられ、ワリードがムスリム達に見える様砦の近くまで連行し、部下にジュディとその仲間の首を刎ねさせた。結果、アラブ反乱軍の大半が殺害され、多くの若者・女性・子供が捕虜となった。
633 9 1 ハーリド・イブン・アル・ワリードがイヤド・イブン・ガンムを副将軍に任命し、アル・ヒラへと向かう。
633 9 バフマン・ジャドゥヤが以下の人間で新しい軍隊を組織する。
①ウライの戦いの残党
②ササン朝ペルシア領内の駐屯地から引き抜いたベテラン兵
③新兵
多くの新兵がいた為、戦力は以前と比べると劣っていた。そこでキリスト教アラブ人に従軍を依頼した。キリスト教アラブ人は前月に戦死した、自分達の指導者であったアッカ・イブン・カイズ・イブン・バシールの敵を打つ事を計画し、ムスリムに奪われた土地を取り戻し、捕縛された仲間の解放を切望していた為、快く引き受けた。戦力の増強の目処が立ったジャドゥヤは、以下2名を指揮官に指名しクテシフォンから出撃させた。
①ルズビー(フサイドに配置)
②ザルマー(カナフィス(現在のシリアのホムス県)に配置)
この時点ではキリスト教アラブ人が戦闘の準備が整っていなかったので、これらの場所から動く事は無かった。ジャドゥヤは作戦を以下の2択で考えていた。
①ササン朝ペルシア軍を一ヶ所に集中させムスリムの攻撃を待つ。
②南下してアル・ヒラでムスリムと戦う。
この作戦はハーリド・イブン・アル・ワリードがアル・ヒラに到着する前に予期していたものであった。
この時点ではキリスト教アラブ人は以下の三手に戦力を分散させていた。
①ムザイヤ(現在のイラクのアンバール県)、隊長はフザイル・ビン・イムラン
②サニー(現在のイラクのアンバール県)、隊長はラビア・ビン・ブジャイル
③ズマイル(現在のイラクのアンバール県)、隊長はブジャイル(サニーと兼任)
633 9 22 ハーリド・イブン・アル・ワリードがアル・ヒラに到着する。分散したササン朝ペルシア軍が団結して攻勢をかけてきた場合、状況が不利になると読んだワリードは、個別に戦う事を意図し、ムスリムを二手に分け以下の2名の指揮下に置いた。
①カーカ・イブン・アムル・アル・タミミ
アル・バララとアル・キヤラ(指揮官はイスマ・イブン・アブダラ)の2師団から成る。
②アブ・ライラ
ワリードは、アル・ヒラの守備の為にイヤド・イブン・ガンムを残し、これらの部隊と共にアイン・アル・タムルへ向かった。その後前月のドゥマット・アル・ジャンダルの戦いに参戦した兵を休息させ、その兵を率い自身も合流した。
633 9 28 ハーリド・イブン・アル・ワリードが、全軍をアイン・アル・タムルに集結させる。その後カーカ・イブン・アムル・アル・タミミの部隊をフサイドへ、アブ・ライラの部隊をカナフィスへ派遣した。また、予備軍をアイン・アル・タムルに残し、サニーとズマイルに布陣しているササン朝ペルシア軍がアル・ヒラを攻撃しないか警戒していた。やがてタミミとルズビー、アブ・ライラとザルマーの戦闘が開始された。タミミは直様ハーリド・イブン・アル・ワリードが以前敵軍に遭遇する度に指示した様に疾走する様命じた。これに対しザルマーは、アブ・ライラと交戦しているルズビーに対し、アブ・ライラと交わるのを止め、自軍を助ける様求めた。しかしザルマーはタミミ自身の手で殺害され、ルズビーもイスマ・イブン・アブダラによって殺害された。フサイドのササン朝ペルシア軍は、劣勢であると悟りカナフィスに逃げ込んだ。さらにザルマーの死を知ると、カナフィスを放棄して防御が強固であるムザイヤに退却し、キリスト教アラブ人と合流した。その後アブ・ライラはカナフィスに入ったが、ササン朝ペルシア軍が退却した後であった。ワリードは目標を以下の3箇所に定めた。
①ムザイヤ
②サニー
③ズマイル
ワリードは、サニーとズマイルは後からでも対処出来ると考え、次の目的地をムザイヤに決定し、アイン・アル・タムルで馬から駱駝に乗り換え、タミミ、アブ・ライラと合流しムザイヤへ追撃した。
633 11 ムザイヤに宿営しているササン朝ペルシア軍の正確な位置を把握していたハーリド・イブン・アル・ワリードが、過去に殆ど例の無い、難易度の高い3方向からの同時夜襲を計画する。ムザイヤに宿営しているササン朝ペルシア軍の正確な位置を把握していたハーリド・イブン・アル・ワリードが、過去に殆ど例の無い、難易度の高い3方向からの同時夜襲を計画する。ワリードは、以下の3箇所に布陣していた軍をムザイヤから数km離れた場所に集合させ、襲撃時刻を伝え、三手に兵を分散させた。
①フサイド
②カナフィス
③アイン・アル・タムル
夜襲が開始されると、ササン朝ペルシア軍は足取りを掴む事が出来ず数千人が虐殺された。ムスリムは殲滅しようとしたが、暗闇に紛れた敵兵を取り逃した。生き残ったキリスト教アラブ人とササン朝ペルシア兵はサニーへ逃走し、アラブ反乱軍と合流した。"夜襲が開始されると、ササン朝ペルシア軍は足取りを掴む事が出来ず数千人が虐殺された。ムスリムは殲滅しようとしたが、暗闇紛れた敵兵を取り逃した。生き残ったキリスト教アラブ人とササン朝ペルシア兵はサニーへ逃走し、アラブ反乱軍と合流した。
633 11 10 ハーリド・イブン・アル・ワリードはムザイヤと同じく3方向からの同時夜襲を計画し、夜に三手に分かれていた軍を集結させる。ワリードは直進ルートで、他の二手はワリードを挟むルートで集合した。ムザイヤの戦いと同じく夜襲時刻を伝え、三手に分かれてサニーのキリスト教アラブ軍を襲撃した。虐殺を免れた兵は少なく、サニーとズマイルの隊長を兼任していたラビア・ビン・ブジャイルも殺害された。女性や多数の若者は捕虜となった。
633 11 13 夜、ハーリド・イブン・アル・ワリードがズマイルに到着し、ムザイヤ・サニーと同じく3方向からの同時夜襲を行う。キリスト教アラブ軍はムスリムの奇襲に耐えられず、直ぐに分散したが、戦場から脱出できず、ほぼ全軍が虐殺された。
633 12 1 ハーリド・イブン・アル・ワリードがフィラズ(現在のイラクのアンバール県)に到着する。この時点でムスリムはユーフラテスの谷を征圧していたが、ササン朝ペルシアとビュザンティオンの境界にあるフィラズにはまだササン朝ペルシア軍の前哨基地が存在していた。ワリードはこの前哨基地を襲撃する為にフィラズに来ていた。ビュザンティオンはササン朝ペルシアを援護する事を決定した。ホルモズド・ジャドウィーフも鶏と豚の飼育員を率いてササン朝ペルシア軍に属していた。ワリードはササン朝ペルシア・ビュザンティオン連合軍がユーフラテス川を渡るまで待機し、渡り切ると直ぐにムスリムに出撃を命じた。ワリードは同年4月21日頃のアル・マダールでの戦闘と同じく両翼から挟み撃ちにする戦法を採用した。また、ムスリムが不利な形勢になると思われた時、ワリードはこの戦いに勝利したらメッカに巡礼すると誓いを立てた。前線が戦闘を開始した後、後方が透かさず橋を占拠し退路を塞ぎ、両翼に分かれ連合軍を包囲した。結果、ムスリムは連合軍を100,000名殺害し、フィラズを占領した。
633 12 アブー・バクルが、シリア征服の為に以下の4名を司令官に任命し、現地に派遣する。
①アムル・イブン・アル・アース
②アブー・ウバイダ
③シュラビル・イブン・ハサナ
④ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン
634 1 ハーリド・イブン・アル・ワリードがフィラズに守備隊を置き、本隊に対しアル・ヒラへの帰還命令を下す。ワリードは、軍がアル・ヒラへ進行を始める迄後方で待機し、その後少数の護衛を従えてメッカへ向けて、未開拓の道を進み始めた。メッカに到着すると、巡礼を行い誓いを果たした。ワリード一行はアル・ヒラへ向けて出発し、本隊の最後の一団よりも早くアル・ヒラに到着した。
634 1 アブー・バクルが東ローマ帝国へ宣戦布告する。
634 1 ハーリド・イブン・サイード・イブン・アルアーシュが、アブー・バクルにシリア進出の許可を求める。バクルは、東ローマ帝国に対する敵対行動を執ってはならないとして、偵察のみに限定して、アルアーシュにシリア進出を許可した。
634 2 4 アムル・イブン・アル・アース率いる軍が、東ローマ帝国のパラエスティナ・プリマ州ガザ(現在のパレスチナ国ガザ地区)近くのダティン村にて、セルギウス率いる東ローマ帝国軍を破る。アースはダティン村・バダン村付近で東ローマ帝国と交渉し、決裂していた。この戦いで東ローマ帝国はセルギウスを含む300名の戦死者を出し、4,000名の民衆も殺害された。
634 4 24 ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる騎兵隊が東ローマ帝国と同盟を結んでいたガッサーン朝とマルジュ・ラーヒト(現在のシリアのダマスカス県)で交戦する。ガッサーン朝はワリードのシリア進出を危険視し、タドモル(現在のシリアのホムス県)から峠を下るルート上に強力な戦士を配置していたが、ワリードの騎兵隊の迅速な突撃により、忽ち散り散りになった。ワリードは多くの戦利品及び捕虜を獲得した後、町を離れ野営地に戻った。
634 4 25 朝、ハーリド・イブン・アル・ワリードがグータ(現在のシリアのダマスカス県)を急襲する任務を帯びてダマスカスに騎馬隊を派遣する。また、アブー・ウバイダを使者として送り、ボスラで報告する様指示を出した。ワリードは兵を率い、ダマスカスを迂回してボスラ征服へと向かった。途中、ダマスカスで戦利品や捕虜を補充した騎馬隊が、ワリードと合流した。
634 5 13 アル・ムサンナ・イブン・ハリサ率いるムスリム軍がアル・ヒラからバビロン近くのササン朝ペルシア軍に接近する。ササン朝ペルシアを率いていたホルモズド・ジャドウィーフは、東ローマ帝国征伐の為にハーリド・イブン・アル・ワリードが抜けたムスリムの戦力を試したいと考えていた。また、ササン朝ペルシアとムスリムが双方お互いを脅迫する書簡を交わしていた。ササン朝ペルシア軍はムスリムを怖がらせる為に戦象を投入した。しかしムスリムによって戦象は殺され、ササン朝ペルシア軍はクテシフォンに敗走した。
634 アル・ヒラ奪回を意図し、ササン朝ペルシアの将軍ロスタム・ファルロフザードが、将軍数名とイスパフブダン家の親戚の一部をナマラク(現在のクーファ(イラクのナジャフ県)付近)に派遣する。アル・ムサンナ・イブン・ハリサは、バビロンの戦いと同様にハーリド・イブン・アル・ワリード不在の為、孤軍奮闘した。ウマル・イブン・ハッターブがアブー・ウバイダに援軍を送り、最終的にササン朝ペルシア軍は敗北した。これを受け、カシュカール(現在のイラクのワーシト県カスカール)総督ナルシは領地に逃げ帰った。
634 ムスリムがカシュカールに進軍する。ナルシは領地を守る為に迎え撃った。また、以下の3名のナルシの息子を指揮官として、側面を固めた。
①ヴィスタム
②ヴィンドゥイ
③ティルイ
ササン朝ペルシア軍は敗北したが、ナルシと息子達は戦場から脱出する事に成功した。ロスタム・ファルロフザードが、司令官ジャリヌスを派遣していたものの、到着した時には既にナルシ達は逃亡しており、間に合わなかった。
634 6 ハーリド・イブン・アル・ワリードが、アル・カルヤタイン(現在のシリアのホムス県)に進軍しガッサーン朝を破る。住民達はムスリムに抵抗したが、敗北し略奪された。
634 6 ハーリド・イブン・アル・ワリードが、ガッサーン朝の首都であるボスラに到着する。ボスラにはローマ将校が指揮する東ローマ帝国人とキリスト教アラブ人の軍隊が駐留していた。既にハウラン(現在のシリアのダルアー県・スワイダー県、現在のヨルダンのマフラク県)を占領していたアブー・ウバイダは、ワリードが到着する迄、ボスラに留まる様指示を受けていた。ウバイダはムスリムから成る以下の3つの部隊を指揮下に置いていたが、戦闘はせず、町を征服した事も無かった。
①ウバイダの部隊
②ヤズィード・イブン・アビ・スフィアンの部隊
③シュラビル・イブン・ハサナの部隊
ウバイダは、ワリード到着後はワリードの指揮下に入る事を聞いた。それを受け、ボスラ占領を意図し、ハサナの部隊4,000名を差し向けた。ボスラの守備隊は、ハサナの部隊が見えると、要塞のある町へ逃げ込んだ。ハサナの部隊は先遣隊に過ぎず、さらに多くのムスリムが攻めて来る事を予測していた為である。ハサナはボスラの西側に着陣し、部下の部隊を砦の周囲に配置した。
634 6 アブー・ウバイダがシュラビル・イブン・ハサナの部隊をボスラに差し向けた2日後、ハーリド・イブン・アル・ワリードが、ボスラへの行軍の最終日に出撃する。それを受けボスラの守備隊が、ボスラの外にいるムスリムに向かって出撃した。ハサナと東ローマ帝国軍司令官が、戦闘状態に入った軍を前にして会談を行い、ハサナは以下の3つの選択肢を提示した。
①イスラム教への改宗
②貢物を捧げる
③戦闘
午前中に東ローマ帝国軍が戦闘を選択し、戦いが始まった。最初の数時間は一進一退の状況が続いた。しかし正午過ぎに東ローマ帝国軍が優勢となり、ハサナの軍を両側面から挟み撃ちにした。そんな中、ボスラから1マイル離れた所にいたワリードが、風に乗って聞こえてくる戦闘の音を聞き、駆けつけた。東ローマ帝国軍は、ワリードに気付くと直ぐに撤退した。
634 6 ハーリド・イブン・アル・ワリードがシュラビル・イブン・ハサナの部隊を援護した翌日、東ローマ帝国軍は、ムスリムの戦力は自軍と同程度であると把握し、長旅の疲れが癒える前に打ち負かすべく再攻撃を決意した。両軍はボスラ郊外の平原で戦闘準備を行なった。ワリードは、中央に自身の直轄部隊を置き、両翼の司令官に以下2名を任命した。
①ラファイ・ビン・ウマイル(左翼)
②ディラール・ビン・アル・アズワル(右翼)
ワリードは、直轄部隊の正面、アブー・バクルの息子アブド・アル・ラーハマーン・イブン・アブー・バクルの下に薄いスクリーンを置いた。戦闘が開始されると直ぐにラーハマーンは東ローマ帝国軍を撃破した。東ローマ帝国の将軍達は安全な遊軍部隊の下へ逃走する中、ワリードは前線全体に沿って攻撃を開始した。東ローマ帝国軍はムスリムの攻撃に忽ち混乱した。この日は暑かった為、アズワルは鎖帷子を脱ぎ、続いてシャツを脱いだ。この半裸の状態で攻撃を開始し、一騎討ちで立ち向かって来る東ローマ帝国兵を全て破った。東ローマ帝国軍は砦に撤退した。この時ワリードは、何にも跨らず自身だけで戦っていた。ワリードは東ローマ帝国軍を包囲する命令を下そうと振り返った時、アブー・ウバイダが、ムスリムの隊列から抜けて近付いて来るのが見えた。ウバイダは、西暦628年2月のカイバルの戦いでムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが使用していた黄色の旗を携えていた。ウバイダはその旗をワリードに渡した。アズワルの活躍は一週間以内にシリア中に知れ渡った。
634 7 東ローマ帝国軍がムスリムに降伏する。予備兵員がアジュナダイン(東ローマ帝国のパラエスティナ・プリマ州)にいるか、若しくは移動中であったので、援軍が望めなかった為である。ハーリド・イブン・アル・ワリードは貢物の献上を求めた。
634 7 ムスリムの指揮官ディラール・イブン・アル・アズワールが、アジュナダイン(現在のイスラエルのベイト・グブリン付近)にて東ローマ帝国軍を破り、2名の州知事を含む、多くの東ローマ帝国兵を殺害した。ヘラクレイオスが、弟のテオドロスを派遣したにも拘らず、この様な結果になってしまった事に関し、退却中に指揮官のテオドロスは、ヘラクレイオスに対し、敗因はヘラクレイオスと姪のマルティナの近親婚にあると非難した。ヘラクレイオスはテオドロスの指揮権を剥奪し、コンスタンティノープルに左遷した。ヘラクレイオスは、後任の指揮官としてセオドア・トリテュリウスを据え、自身はエメサ(現在のシリアのホムス県)から、より安全なアンティオキアへ撤退した。また、生き残った東ローマ帝国兵も城壁に囲まれた安全な町へ逃げた為、田舎が無防備な状態となった。パラエスティナ・プリマ州全域、特に海岸から離れた内陸部がムスリムの襲撃に遭った。そして多くの農村住民も町の城壁の内側に安全を求めた。ムスリムは幾つかの襲撃部隊に分かれ、東ローマ帝国軍の逃走・降伏により、以下の町を占領した。
内陸部
①ナーブルス(現在のパレスチナ国ヨルダン川西岸地区)
②サバスティーヤ(現在のパレスチナ国ヨルダン川西岸地区)
③ロード(現在のイスラエル)
④イブナ(現在のイスラエル中央地区ヤブネ市)
⑤イムワス(現在のパレスチナ国ヨルダン川西岸地区)
⑥ベイト・ジブリン(現在のパレスチナ国ヨルダン川西岸地区)
海岸部
①ヤッファ(現在のイスラエルのテルアビブ市)
634 7 30 ダマスカスに進軍していたハーリド・イブン・アル・ワリードが、ヤルムーク川北岸のティベリアス湖付近のヤクサ(現在のイスラエル)にて、ヘラクレイオスの義理の息子トーマスが、ワリードのダマスカス進軍を遅らせる為に差し向けた東ローマ帝国軍と遭遇する。東ローマ帝国軍は戦える状態ではなかったが、ダマスカスの要塞が強化されるまでワリードの軍を足止めさせる為に戦闘を行い、短時間で敗北した。
634 8 19 ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍が、マルジュ・アル・サファール(現在のシリア)にて、トーマス率いる東ローマ帝国軍を破る。トーマスはワリードのダマスカス進軍の情報を掴み、エメサにいたヘラクレイオスに援軍を求める書簡を書いていた。また、この戦いで、ウム・ハキーム・ビント・アル・ハターリス・イブン・ヒシャームは、後に「ウム・ハキーム橋」と名付けられる橋の近くでテントポールを使って、単独で7名の東ローマ帝国兵を殺害した。
634 8 20 ヘラクレイオスが、包囲された東ローマ帝国軍の守備隊を救援する為に、ダマスカスへ兵を差し向ける。ハーリド・イブン・アル・ワリードは、ダマスカスを他の地域から孤立させる戦略を練り、パレスチナへ至る道の南と、ダマスカス-エメサ間のルートの北に分遣隊を配置した。さらに、ダマスカスへ向かうルートに、他の幾つかの小規模な分遣隊を配置した。これらの分遣隊は以下2点の任務を帯びていた。
①偵察
②東ローマ帝国軍への増援を遅延させる
ムスリムはヘラクレイオスの軍に対し、当初は優勢であったものの、ワリードが援軍を率いウカブ(鷲)峠に到着した際、敗北した。
634 8 21 ダマスカスを孤立させたハーリド・イブン・アル・ワリードが、ムスリムに対しダマスカスを包囲する様命じる。また、以下の6つの門に指揮官を配置し4,000〜5,000名を率いさせ、東ローマ帝国軍の攻撃を撃退し、激しい攻撃があった場合は支援を求める様指示した。
①トーマスの門:シュラビル・イブン・ハサナ
②ジャビヤ門:アブー・ウバイダ(副司令官)
③ファラディの門:アムル・イブン・アル・アース
④ケイサン門:ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン
⑤小さな門:ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン
⑥東門:ラファイ・ビン・ウマイル(主要部隊)
ディラール・ビン・アル・アズワルは、機動警備隊の騎兵2,000名に、夜間に門の間の空き地を巡回し、東ローマ帝国軍に攻撃された軍団を援軍するよう命じた。また、ワリードは、東門近くの修道院に本部を置いた。ワリード率いる軍はダマスカスへの物資の流れを止めたが、グータだけはワリード達や騎馬に必要な物資の供給地点として機能した。
634 8 23 アブー・バクルが病の為死去し、生前に指名したウマル・イブン・ハッターブが第2代正統カリフに即位する。
634 9 9 ヘラクレイオスが、ダマスカスが包囲された事を受け、12,000名の救援軍を派遣する。ダマスカス-エメサ間のルートにいたムスリムの偵察兵から、この東ローマ帝国軍の状況を聞いたハーリド・イブン・アル・ワリードは、ラファイ・ビン・ウマイルに5,000名の兵を率いさせ、ウカブ峠で偵察兵と合流した。しかし兵力が不十分であった為、東ローマ帝国軍に包囲された。しかし、東ローマ帝国軍がムスリムの分遣隊を破る前に、ワリードは4,000名の縦隊と共に分遣隊に合流し、東ローマ帝国軍を退けた。この戦いでムスリムは疲弊した為、ワリードは急いでダマスカスへ帰還した。
634 9 14 シュラビル・イブン・ハサナ率いる軍に包囲されていたトーマスが、凡ゆる所から兵を召集し、5,000名の兵を率い、ムスリムに矢の雨を降らせ、先制攻撃を仕掛ける。東ローマ帝国軍は、城壁の射手の援護を受けて門を突破し、扇形の陣形を敷いた。しかし、襲撃を主導していたトーマスが、右目に矢を受けた。東ローマ帝国軍は、ムスリムの戦線を突破する事が出来ず、後退した。負傷したトーマスは、代わりに千の目を奪うと誓った。夜、トーマスは再度出撃命令を下した。トーマスは以下の4つの門から同時出撃し、駐留している疲労の溜まったムスリムを叩く作戦を立てた。
①トーマスの門(主導)
②ジャビヤ門
③小さな門
④東門
ジャビヤ門・小さな門・東門は、ムスリムを拘束して、トーマスの門にいるハサナを支援出来ない様にする役割を担った。東ローマ帝国軍が、東門に多くの兵を集めた為、ハーリド・イブン・アル・ワリードはハサナを支援する事が出来なかった。トーマスは、突破した門に兵を集める戦術を採った。トーマスはワリードを生け捕りにする様命じた。ジャビヤ門では、アブー・ウバイダ率いる軍が、東ローマ帝国軍を撃退した。小さな門では、先頭が激化した。ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン率いる軍の兵力は小さかったが、ディラール・ビン・アル・アズワル率いる機動警備隊の騎兵2,000名が援護し、東ローマ帝国軍を退けた。東門では、東ローマ帝国軍が大きな戦力を割いていた。ラファイ・ビン・ウマイル率いる軍は東ローマ帝国軍の攻勢に耐える事が出来なかった。その頃、ワリードは予備の古参騎兵400名を率いてウマイルに加勢し、東ローマ帝国軍を側面から攻撃した。トーマスの門では、トーマスが自ら指揮し、激しい戦闘を行ったが、ムスリムの前線に弱体化が見られない為、これ以上攻撃を続けても自軍の死傷者を増やすだけであると考え、撤退命令を下した。東ローマ帝国軍は一定のペースで後退したが、その間にムスリムの集中的な矢の雨を浴びたが、逃走に成功した。
634 9 18 シリアの単性論者の司祭ヨナが、夜にダマスカスに祭りが行われる事をハーリド・イブン・アル・ワリードに知らせる。この機にワリードは、ヨナから教えられた、夜間に比較的防御が薄くなる城壁への奇襲攻撃を計画した。その城壁の情報はヨナによって齎された。全軍の連携した攻撃計画を立てる時間が無かった為、ワリードは自ら東門を襲撃する事を計画した。ワリードと以下2名は門の横から手を繋いで壁を登った。
①カーカ・イブン・アムル・アル・タミミ
②マズル・イブン・アディ
登った先には、東ローマ帝国軍の警備兵は配置されていなかった。上部に到着後、ロープを壁に固定し、基地で待機している選任された100名の兵に対しロープを下ろした。ワリードは、ロープを使って城壁を登る事を支援する人間数名を残して城壁を下り、東門の内側で警備兵を殺害した。ワリードとアムルが勢い良く門を開け、ワリードの残りの部隊がダマスカスに入り、激しい戦闘を続けた。残りの軍勢が他の門から動かないのを見たトーマスは、ワリードの軍勢だけがダマスカスに入ったと予測し、他の指揮官は防御の突破に気づいていないと考えた。 トーマスはジャビヤ門に使者を送り、アブー・ウバイダに対し、砦の明け渡しとジズヤの支払いを申し出た。平和的な考えで知られていたウバイダは、ワリードもこの条件を受け入れるだろうと考え、申し出を受け入れた。このトーマスの申し出は全ての指揮官に共有された。
634 9 19 アブー・ウバイダが、ジャビヤ門からダマスカスに入る。他の指揮官もこれに続き、それぞれの門からダマスカスに入った。ウバイダは以下の人間を伴ってダマスカス中心部へと向かい、その後マリアミテ大聖堂に入った。
①トーマス
②高官数名
③ダマスカスの司教
ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍は、東門からダマスカスの中心部へ向かって戦い、抵抗する者を全員殺害した。その後ワリード達はマリアミテ大聖堂に入った。和平交渉では、ワリードは武力でダマスカスを征服したと主張し、ウバイダはトーマスとの和平合意でダマスカスは降伏したと主張した。他の指揮官も状況について話し合い、ワリードに、和平合意は尊重されるべきだと伝え、ワリードは渋々これに同意した。和平協定の条件として以下が起草され、ワリードがこれに署名した。
①誰も奴隷にしない
②寺院に危害を加えない
③戦利品として何も奪わない
④トーマスを含む、ムスリムの支配下で生きる事を望まないダマスカス市民全員に安全な通行を与える
⑤和平は3日後に終了し、ムスリムはこの3日後に協定に違反する事無く攻撃する事が出来る
634 9 22 ヨナからアンティオキアへの近道を教えて貰っていたハーリド・イブン・アル・ワリードが、アラブ人の服装を身に纏った騎兵連隊を率い、ジャバル・アンサリヤ山脈(現在のシリアのラタキア県)を超えて、アンティオキア近郊の海上で東ローマ帝国の難民の船団に追い付く。アラブ人の服装は、ムスリムと悟られない様にする為で、ヨナの提案であった。この日は激しい豪雨であった。また、ヨナは3日間の停戦期間が過ぎたら東ローマ帝国軍を追撃する様ワリードに提案していた。東ローマ帝国軍は雨を避けて、台地に散り散りになり、錦の束が地面に散らばった。ヨナを含む偵察隊は、東ローマ帝国軍に知られる事無く、軍勢の位置を特定し、ワリードの軍が攻撃するのに十分な情報を取得した。ワリードは、以下の東西南北の4方面からの攻撃を計画した。
①東:ラーフェ・ビン・ウメール率いる1,000名の騎兵連隊
②西:ワリード率いる1,000名の騎兵連隊
③南:ディラール・ビン・アル・アズワル率いる1,000名の騎兵連隊
④北:アブー・バクルの息子アブドゥルラフマン・イブン・アブー・バクル率いる1,000名の騎兵連隊
まず、アズワルの軍が後方から東ローマ帝国軍を急襲した。それまで、東ローマ帝国軍はムスリムの存在に気が付いていなかった。30分後、ウメールの部隊が東から現れ、東ローマ帝国軍の右翼を攻撃した。さらに30分以内にバクルの部隊も西から左翼を攻撃し、最後にワリードの軍が東ローマ帝国軍を包囲した。また、ワリードは決闘によりトーマスを殺害した。東ローマ帝国軍は劣勢となったが、数の上ではムスリムに勝っていた為、数千名の東ローマ帝国兵が、安全な場所へ避難する事が出来た。ムスリムは戦利品として、サテン地に浮き模様を織り出した織物であるブロケードを奪い、多数の捕虜も得た。トーマスの妻且つヘラクレイオスの娘である女性を捕縛した。ヨナは後に婚約者を得ていたが、ダマスカス包囲が始まった為、結婚は延期となっていた。ヨナがイスラム教に改宗した事を知るとその女性は婚約を破棄し、東ローマ帝国人と共にアンティオキアに移住する事にしたが、ヨナの目の前で、ドレスのひだから短剣を抜き、自殺した。ヨナは瀕死の状態となった婚約者の隣に座り、他の女性には目を向けないと誓った。代わりにワリードが、捕縛したヘラクレイオスの娘を差し出したが、ヨナは辞退した。
634 10 ウマル・イブン・ハッターブが、指揮官をアル・ムサンナ・イブン・ハリサからアブ・ウバイド・アル・サカフィーに変更する為、サカフィーをメソポタミアに派遣する。
634 10 アブ・ウバイド・アル・サカフィーが、メソポタミアへ向かう道中クーファ付近でバフマン・ジャドゥヤ率いるササン朝ペルシア軍と遭遇し、ユーフラテス川を挟んで対峙する。ジャドゥヤは、誰が橋を渡って来るか決める様ムスリムに言い、サカフィーを含むムスリムが橋を渡りササン朝ペルシア軍と交戦した。しかし、堅固な戦線を形成していたササン朝ペルシア軍の白象にムスリムの馬が恐れを抱き、サカフィー自身も、白象に馬から引き剥がされ、踏み付けられて殺害された。ムスリムは歯が立たず、パニックに陥り敗走した。その後も残ったムスリムは以下2名を指揮官として戦闘を継続した。
①サカフィーの弟アル・ハカム
②ジャブル
しかし、ハカムとジャブルも殺害され、最終的にはアル・ムサンナ・イブン・ハリサが指揮官となったが、3,000名のムスリムが川に流される等して、敗北を喫した。
634 11 9 前月にムスリムに勝利したササン朝ペルシア軍が、ムスリムの残党を追ってクーファ付近に進軍する。ウマル・イブン・ハッターブは援軍を送った。アル・ムサンナ・イブン・ハリサは、敵を包囲する事を意図し、数で圧倒出来る場所まで敵を引き付ける作戦を採った。キリスト教アラブ人の援助も有り、ハリサの作戦は成功した。ササン朝ペルシア軍指揮官ミフラン・ビン・バダンは、以下3名により殺害された。
①ジャービル・イブン・アブド・アッラー
②ジャリール
③イブン・ホーバー
635 キリスト教ネストリウス派司教の阿羅本が、アッシリア東方教会の使いとして宣教団を率い、東ローマ帝国のシリアから唐の長安に到着する。第2代唐皇帝太宗は、尚書左僕射の房玄齢に長安郊外まで出迎えさせた。そして、宮中にて経典を翻訳させた。
635 ヘラクレイオスが、ササン朝ペルシアとの同盟を強固にする為、娘マニャンをヤズデギルド3世と結婚させる。
635 1 前年7月のアジュナダインの戦いで敗れた東ローマ帝国軍の残兵は、以下の2ヶ所に集結していたが、ムスリムの追撃に遭う。
①ペラ(現在のヨルダンのイルビド県タバカット・ファハル)
②スキトポリス(現在のイスラエル北部地区ベト・シェアン)
ペラでは、東ローマ帝国軍が灌漑用水路を切り開いて洪水を起こし、ムスリムの進軍を食い止めようとした。しかしムスリムは、泥だらけの土地を横断し、最終的に東ローマ帝国軍を破った。さらに、スキトポリスとティベリア(現在のイスラエル北部地区)も、ムスリムの分遣隊による包囲の後に降伏した。
635 3 ダマスカスを守備する部隊が、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン率いる軍のみとなり、ヘラクレイオスが好機と捉え、テオドールの指揮下に兵を送る。テオドールは騎兵隊を中心とした軍を指揮し、ダマスカスを奪回した。その後、ムスリムの下にもテオドールの動きが耳に入り、以下2名がテオドール征伐へと向かった。
①アブー・ウバイダ
②ハーリド・イブン・アル・ワリード
テオドールはさらに、シャナシュ・アル・ローマ率いる騎兵隊を含む援軍を受けた。最終的に両軍はマルジュ・アル・ラムにて対峙した。戦いはローマとウバイダによる決闘で幕を開けた。決闘はウバイダが勝利し、その後は均衡した戦いとなった。しかし、以下2名を含む東ローマ帝国軍の一部が撤退し、ダマスカスが東ローマ帝国軍の攻撃を受けている事がムスリムに知れた。
①テオドール
②シェオドール
ワリード達は戦闘を止め、ダマスカスに急行した。テオドールとシェオドールの指揮下の東ローマ帝国軍がダマスカスに到着すると、スフィアンが迎え撃った。スフィアンの軍は数で劣勢であったが、健闘した。やがてワリードと騎兵隊が到着し、東ローマ帝国軍を背後から攻撃し、挟み撃ちとなった。その後、ワリードは一騎打ちでテオドールを殺害した。また、シェオドールも殺され、東ローマ帝国軍の前線が混乱し、戦場から逃走した。ムスリムは直ちに、東ローマ帝国軍の以下の物を押収し、スフィアンは、ワリードや兵にそれらを分け与えた。
①武器
②衣服
③騎馬
635 3 ハーリド・イブン・アル・ワリードが一騎打ちでテオドールを殺害した一週間後、アブー・ウバイダ率いる軍が、木星の神殿の建っていたバールベック(現在のヨルダンのバールベック・ヘルメル県)を占領する。その後ウバイダは、ワリードをエメサ襲撃の為に派遣した。
635 5 ヘラクレイオスが、ムスリムの侵攻を止め、失われた領土を取り戻す事を意図し、レバント地方(現在のシリア・レバノン・ヨルダン・イスラエル・パレスチナ自治区)に遠征軍を派遣する。
635 12 アブー・ウバイダが、エメサ占領を意図し、後方の東ローマ帝国軍を排除する。その後、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる機動警備隊を先頭に、エメサへと進軍した。機動警備隊は、東ローマ帝国軍のエメサの守備隊を退け、東ローマ帝国軍は砦内に退避し、門を閉めざるを得なくなった。ウバイダが遅れてエメサに到着し、以下の4つの門の向かいに部隊を配置した。
①マスドゥド門(南西)
②タドムル門(北東)
③ドゥライブ門(東)
④ハド門(西)
エメサは直径1マイル未満の円形の要塞都市で、堀で囲まれていた。砦内の丘の上には城塞もありました。外側には肥沃な平野が広がっており、オロンテス川(現在のレバノン・シリア・トルコ)によって西側のみが分断されていた。ウバイダは、ワリードに司令官としての役割を与え、自身はラスタン門から少し離れた北側に布陣した。東ローマ帝国軍は、ムスリムはエメサの冬の寒さに耐えられず撤退するだろうと考えていたが、ムスリムが寒さによって受けた影響は軽微であった。
636 3 15 東ローマ帝国軍のエメサの軍事総督ハービーズが、ムスリムに奇襲を仕掛け、砦の外で打ち破る計画を企図する。この頃、ムスリムは援軍を迎え、戦力を増強していた。
636 3 16 朝、ハービーズ率いる軍が、ラスタン門から奇襲攻撃を行う。攻撃を受けた部隊は、ムスリムの幾つかに分散した戦力の中でも最大であった。にも拘らず、東ローマ帝国軍の素早い攻撃に翻弄され、劣勢となった。アブー・ウバイダは局面打開の為、ハーリド・イブン・アル・ワリードを派遣した。ワリード率いる機動警備隊は、現場を指揮し、兵の再配置を行なって防御策を講じた後に攻撃に転じた。日没近くに東ローマ帝国軍は砦に追い込まれ、奇襲は失敗に終わった。
636 3 17 朝、アブー・ウバイダが軍議を開き、前日の戦闘に関し不満を述べる。ハーリド・イブン・アル・ワリードは「この東ローマ帝国人は、私がこれまで会った中で最も勇敢であった」と述べた。ウバイダは、ワリードに助言を求めた。ワリードは「翌朝、エメサから軍を引き上げ、包囲を強化する為に南下していると見せ掛ける。東ローマ帝国軍は追って後衛を攻撃するだろう。そこを転じて、東ローマ帝国軍を包囲して殲滅すれば良い」という主旨の返答をした。
636 3 18 ムスリムは、前日のハーリド・イブン・アル・ワリードの助言通りに軍を引き上げる振りをする。ハービーズは絶好の機会と捉え、5,000名の兵を招集し、砦の外へ出て、ムスリムの騎馬部隊を猛追した。軈てエメサから数マイルの所でムスリムに追い付き、打ち倒した。しかし、東ローマ帝国軍の主要部隊がムスリムに襲い掛かろうとした瞬間、突然向きを変え、猛烈な勢いで東ローマ帝国軍を攻撃した。ワリードが号令を掛けると、2つの騎馬部隊が東ローマ帝国軍の側面を駆け回り、後方から突撃した。ムスリムは着実に東ローマ帝国軍を追い詰め、四面楚歌の状態に追い込んだ。ワリードは、機動警備隊の精鋭戦士と共に東ローマ帝国軍の中央に到達し、戦闘中のハービーズを発見した。ワリードはハービーズの下へ向かったが、巨漢の将軍に阻まれた。しかし、ワリードは決闘の末これを破った。ハービーズは最終的に戦死した。ムスリムが、包囲している東ローマ帝国軍への攻撃を開始した時、マアズ・イブン・ジャバルは500騎を率い、逃走する東ローマ帝国軍が砦に入らない様にする為にエメサに駆け戻っていた。ジャバルの軍がエメサに近づくと、恐怖を感じた住民と追撃に参加しなかった東ローマ帝国軍の守備隊の残党は急いで砦に撤退し、門を閉めた。ジャバルは、東ローマ帝国兵が門から出てきたり、エメサの外の東ローマ帝国兵が侵入してくるのを防ぐ為に、門の前に兵を配置した。最終的に100名の東ローマ帝国兵が逃走した。ムスリムはエメサでの一連の軍事行動により235名の死者を出した。アブー・ウバイダは、地元住民の条件付きの降伏を受け入れ、1人当たり1ディナールのレートでジズヤを徴収した。
636 5 ヘラクレイオスが、アンティオキア(現在のトルコのハタイ県アンタキヤ)に、以下の民族から構成された、セオドア・トリテュリウスを総司令官とした大軍を結成する。
①スラヴ人
②フランク人
③グルジア人
④キリスト教徒のアラブ人
⑤ロンバルド人
⑥アヴァール人
⑦ハザール人
⑧バルカン人
⑨ギョクテュルク人
以下の五手に分かれた。
①本隊(総司令官:トリテュリウス)
②アルメニア軍(野戦司令官:元エメサ守備隊司令官ヴァハン)
③スラブ人(司令官:スラブ王子ブッチネッター)
④キリスト教アラブ人(司令官:ガッサーン朝アラブ王ジャバラ・イブン・アル・アイハム)
⑤ヨーロッパ人(司令官:グレゴリーとダイルジャン)
636 5 ムスリムが以下の四手に分かれる。
①ハーリド・イブン・アル・ワリードとアブー・ウバイダ(エメサ)
②カーカ・イブン・アムル・アル・タミミ(パレスチナ)
③シュラビル・イブン・ハサナ(ヨルダン)
④ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン(カエサレア・ピリピ(現在のシリアのダマスカス))
636 5 ムスリムが、北シリア全体の占領を意図し、ハマー(現在のシリア)を経由して、シャイザール(現在のシリアのハマー県)に到着する。ムスリムはここで、少数の兵士に護衛され、食糧をキンナスリーン(現在のシリアのアレッポ県)に運ぶ東ローマ帝国の船団を見つけ、ハーリド・イブン・アル・ワリードがこれを妨害し、捕縛した。尋問により、ヘラクレイオスの計画と、東ローマ帝国の大軍が陣を張っている場所を聞き出した。ワリードは軍議を開き、アブー・ウバイダに対し、パレスチナとシリア北中部から撤退し、ガッサーン朝の首都ジャビヤ(現在のシリアのダマスカス県)に兵力を集中させる事を指示した。ウバイダはガッサーン朝の襲撃を退け、ジャビヤを征圧した。これにより、ウマル・イブン・ハッターブからの援軍が合流し易くなり、ジャビヤ近郊の広大な平原に戦力を集中させる事が可能となった。また、撤退が必要となった際に、ナジュド(現在のサウジアラビア)の要塞に逃げ込み易いという利点があった。また、ジズヤを支払った人々へ返還を行う様、指示が下された。
636 5 ヘラクレイオスが、カエサレア・ピリピを包囲していたヤズィード・イブン・アビ・スフィアンを討つ事を意図し、自身の長男コンスタンティノス3世を現地に派遣する。ヘラクレイオスは、ムスリムの戦力が分散している内に各部隊に対し、大規模な兵力を投入する作戦を立てていた。
636 5 ムスリムが、カイザリア(現在のイスラエルのハイファ地区)に強力な東ローマ帝国軍が駐屯しており、後方から襲撃される恐れがあった為、ワリードの助言により、以下の2箇所に後退した。
①ダルアー(現在のシリア)
②デイル・アイユーブ(現在のパレスチナ国ヨルダン川西岸地区ラマッラー・アル・ビーレ県)
そして、ヤルムーク渓谷とハラ溶岩平原をカバーし、陣を敷いた。
636 6 15 東ローマ帝国軍が、アンティオキアを含む北シリアから撤退する。
636 7 以下の3つのカテゴリーに分類された60,000名のササン朝ペルシア軍が、カーディシーヤ(現在のイラクのナジャフ県)に到着する。
①歩兵
②重騎兵
③象軍団
その後、アティーク川東岸に堅固な野営地を築いた。
636 7 ムスリムの主力部隊が、シャラフからカーディシーヤに入り陣を張る。防御を強固にし、川源を確保した。サディ・ブン・アビ・ワッカスは、スワド襲撃の為に部隊を差し向け、ウマル・イブン・ハッターブと継続的に連絡を取り、ムスリムの野営地・カーディシーヤ・マディーナ・ササン朝ペルシア軍が参集している場所の地域間の地理的特徴に関する報告書をハッターブに送付した。
636 7 ムスリムの主力部隊が、シャラフからカーディシーヤに入り陣を張る。防御を強固にし、川源を確保した。サディ・ブン・アビ・ワッカスは、スワド襲撃の為に部隊を差し向け、ウマル・イブン・ハッターブと継続的に連絡を取り、ムスリムの野営地・カーディシーヤ・マディーナ・ササン朝ペルシア軍が参集している場所の地域間の地理的特徴に関する報告書をハッターブに送付した。この時点でムスリムは騎兵7,000名を含む30,000名を擁していたが、シリアからの派遣部隊と周囲のアラブ同盟国からの援軍により36,000名まで規模を拡大させた。ワッカスは坐骨神経痛を発症し、全身におできが発生していたが、カーディシーヤの旧王宮から戦場を眺め、作戦を指揮した。ワッカスは、ハーリド・イブン・ウルフタを副官に任命し、ウルフタは、ワッカスの伝令に基づいて戦闘を行った。ムスリムは、150m間隔で4個師団に分かれ、後方に独自の騎兵連隊を配置した。ムスリムは、ササン朝ペルシア軍の銀色のヘルメットに似た、金色のヘルメットを被っていた。鎖帷子はヘルメットからの当て物として、また、メイルコイフとして顔・首・頬を保護する為に用いられた。重厚なレザーサンダルを履き、硬い革の鱗や層状の鎧、鎖帷子を身に纏った。歩兵は騎兵よりも重装甲で、柄の長い槍だけで無く、大型木製や枝編み細工の盾も使用された。歩兵の槍の長さは2.5m、騎兵の槍は最大5.5mであった。弓の長さは支柱を外した状態で2m、最大射程は150mであった。ササン朝ペルシア戦線に投入されたムスリムの装備は、東ローマ帝国に配備された部隊と比較して軽装甲であった。
636 7 ウマル・イブン・ハッターブが、以下2名にイスラム教への改宗を勧める為に使者を派遣する様、サディ・ブン・アビ・ワッカスに指示を出す。
①ヤズデギルド3世
②ロスタム・ファルロフザード
アン・ヌマーン・イブン・ムカリンが、クテシフォンへの使者の派遣を手配する等し、イスラム教へ改宗するか、ジズヤの支払いに応じるかの選択を迫った。
636 7 ヤズデギルド3世が、ムスリムを辱める為、交渉に於いてアシム・イブン・アムル・アル・タミミの頭に土を一杯に入れた籠を置く様家臣に命じる。家臣が指示通りに実行すると、ムスリムはササン朝ペルシアが自発的に領土を明け渡したものと解釈した。ロスタム・ファルロフザードも同じ見解であった。ムスリムは籠を持ち去り、ファルロフザードは、ササン朝ペルシアが自発的に領土を明け渡した事を意味するとして、ヤズデギルド3世を非難した。ヤズデギルド3世は、ムスリムを追跡し、籠を取り返す様兵士達に命じた。しかしムスリムは既に本拠地に帰還していた。ササン朝ペルシアとムスリムの交渉はその後も続けられた。
636 7 東ローマ帝国軍が以下の計画を立てる。
①ジャバラ・イブン・アル・アイハムの軍が、軽武装したキリスト教アラブ人を率い、ハマーを経由してエメサに進軍し、ムスリムの主力部隊を迎え撃つ。
②ダイルジャンの軍は、アレッポ(現在のシリア)より西の地中海沿岸を進み、アイハムがムスリムを押さえ付けている間に、ムスリムの左翼を攻撃する。
③グレゴリーの軍は、メソポタミアを経由してムスリムの右翼を攻撃する。
④ブッチネッターの軍は、地中海沿岸を進軍し、ベイルート(現在のレバノン)を占領して、そこから防御の弱いダマスカスを西から攻撃してエメサでムスリムの主力部隊をを遮断する。
⑤ヴァハンの軍は予備軍として、ハマーを経由してエメサに接近する。
636 7 15 ヴァハンが、ハーリド・イブン・アル・ワリードを招き、和平交渉を行い、1ヶ月の休戦が実現する。
636 7 25 ヴァハンが、軽装甲のキリスト教アラブ人と共にジャバラ・イブン・アル・アイハムを派遣したが、ムスリムの機動警備隊により撃退される。
636 8 15 明け方、ヤルムーク川(現在のシリア、ヨルダン、イスラエル)にて、東ローマ帝国軍とムスリムが、1マイル未満の距離で対峙する。東ローマ帝国軍の右翼中央部の部隊の指揮官ジョージは、馬でムスリムの戦線まで駆け上がり、イスラム教に改宗した。ムスリムとして戦ったが、同日戦死した。ムスリムのムバリズンと東ローマ帝国軍の戦士との決闘で戦いは始まった。東ローマ帝国軍は、決闘により多くの戦士を失ったが、数で優っていた。ヴァハンは、歩兵部隊の1/3を使って攻撃した。ムスリムの戦線は弱かったが、東ローマ帝国軍は決意に欠けており、ムスリムの西暦624年3月17日のバドルの戦いに参加した、以下2名を含む老兵100名に対して攻撃を加える事が出来なかった。
①ズバイル・イブン・アウワーム
②アブー・スフヤーン
ヴァハンは増援を送らず、2/3の兵は温存された。日没と共に両軍はそれぞれの陣営に戻った。
636 8 16 ヴァハンが、軍議にて、夜明け直前に朝の祈りを行なっているムスリムを襲撃する事を決定する。ヴァハンは、中央の2つの部隊をムスリムの中央の部隊と交戦させ、主力をムスリムの両翼に差し向け、ムスリムを離散させるか、中央部に押し込む事を計画していた。戦場を観察する為に、ヴァハンは右翼の後ろに、アルメニアのボディーガード部隊と共にパビリオンを建設させ、奇襲の準備を命じた。一方、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、夜間に前線の戦力を増強させ、奇襲に備えた。戦闘が始まると、東ローマ帝国軍は、ムスリムの中央の部隊を釘付けにし、援軍の合流を阻止した。カナティールは、主にスラブ人で構成された東ローマ帝国軍の左翼を指揮し、大軍で攻撃した。結果、ムスリムの右翼は撤退を余儀なくされた。ムスリムの右翼の指揮官アムル・イブン・アル・アースは騎兵連隊に反撃を命じ、東ローマ帝国軍の侵攻を食い止めたが、多勢に無勢で、最終的に基地に後退した。
636 8 16 ハーリド・イブン・アル・ワリードは両翼の状況を認識し、右翼の騎兵隊に、東ローマ帝国軍の左翼の北側面を攻撃する様命じ、一方自身は、機動警備隊と共に東ローマ帝国軍の左翼の南側面を攻撃し、ムスリムの右翼の歩兵は正面から攻撃した。この3方面からの攻撃により、東ローマ帝国軍の左翼は、獲得したムスリムの陣地を放棄せざるを得なくなった。アムル・イブン・アル・アースは失地を奪回し、部隊の再編成を行なった。ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン率いる左翼の状況は深刻で、右翼の様に機動警備隊のサポートも無く、東ローマ帝国軍に数で圧倒されて陣地を蹂躙され、基地へ後退した。東ローマ帝国軍のグレゴリーの部隊は、テストゥドの陣形を採用したが、動きは遅かったものの、守備は堅固であった。スフィアンは騎兵連隊を使って反撃したが、返り討ちに遭った。ムスリムの中央の部隊は釘付けとなり、側面は押し戻された。士気が著しく低下したが、両側面は崩れなかった。撤退したムスリムを、ハインド率いる凶暴なアラブ人女性が基地で迎えた。ハインド達は、テントを解体し、テントポールで武装し、西暦625年3月23日のウフドの戦いでムスリムに向けられた以下の即興歌を歌った。
絶え間ない女から逃げる者よ
美と徳を兼ね備えた女から逃げ去る者よ
彼女を異教徒に委ね
憎むべき邪悪な異教徒に
辱めと破滅を与えよ
これにより、ムスリムは士気を高め戦場に戻った。
636 8 16 ハーリド・イブン・アル・ワリードは、右翼の陣地を安定させた後、機動警備隊に左翼を救援する様命じる。さらに、ディラール・ビン・アル・アズワル指揮下の1個連隊を切り離し、陽動を作り出して中央左翼のダイルジャンの軍を攻撃する様命じた。ワリード自身は残りの騎兵予備隊と共に、グレゴリーの軍の側面を攻撃した。正面と側面からの同時攻撃を受けた東ローマ帝国軍は、陣形を維持しながらゆっくりと後退した。最終的にダイルジャンは戦死、ヴァハンは作戦に失敗し、ムスリムは士気を高め、日没と共に戦闘は中断された。
636 8 17 戦闘が再開され、東ローマ帝国軍がムスリムの右翼と中央右翼を攻撃する。ムスリムは東ローマ帝国軍の攻撃を食い止めた後に後退し、再度凶暴なアラブ人女性に迎えられ、虐待されて辱めを受けた。ムスリムは少し離れた所で軍隊を再編成し、反撃に備えた。東ローマ帝国軍がムスリムの右翼を集中的に狙っている事に気付いていたハーリド・イブン・アル・ワリードは、右翼騎兵と共に機動警備隊を率いて攻撃を開始した。ワリードは、東ローマ帝国軍の左翼中央部の右側を攻撃し、ムスリムの右翼中央部の騎兵予備隊は、東ローマ帝国軍の左翼中央部の左側を攻撃した。さらにワリードは、ムスリムの右翼の騎兵隊に対し、東ローマ帝国軍の左翼の左側を攻撃する様命じた。戦闘は直ぐに血祭りに発展した。ワリードの適時側面攻撃によりムスリムは再び窮地を救われ、東ローマ帝国軍は戦闘開始時の陣地まで押し戻された。
636 8 18 ヴァハンはムスリムの右翼に損害を与える事に成功した為、前日の戦闘を推し進める事を決定する。カナティールは、ジャバラ・イブン・アル・アイハム率いるアルメニア人とキリスト教アラブ人の支援を受け、ムスリムの右翼と右翼中央部に対抗する為の2部隊を率いた。結果、ムスリムの右翼と右翼中央部は再び後退した。ハーリド・イブン・アル・ワリードは、機動警備隊を率い再度戦場へ赴き、アブー・ウバイダと左翼の左側に、東ローマ帝国軍の前線を攻撃する様命じた。さらにワリードは、機動警備隊を2個師団に分け、東ローマ帝国軍の左翼中央部を攻撃し、さらにムスリムの右翼の歩兵を正面から突撃させた。3方面からの攻撃を受け、東ローマ帝国軍の左翼中央部は後退した。また、南側面が手薄となっていた東ローマ帝国軍の左翼も後退した。その頃、東ローマ帝国軍の弓騎兵が以下2名の部隊に矢の雨を降らせた。
①ウバイダ
②ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン
スフィアンを含む多くのムスリム兵が目に矢を受け、甚大な被害を被った。ムスリムは、ウバイダの左側にいた、ワリードの幼馴染であるイクリマ・イブン・アビー・ジャハル率いる1個連隊を除き、退却した。ジャハルは騎兵400名を率いてムスリムの退却を援護したが、全員が重傷を負い、死亡者も発生した。夕方、ジャハルは致命傷を負い死亡した。退却したムスリムは反撃して失われた陣地を取り戻す為、部隊の再編成を行なった。
636 8 19 早朝、ヴァハンが、新たな交渉が行える様、今後数日間の休戦を求めてムスリムに特使を派遣する。ヴァハンは、前日迄の4日間で突破口を開く事が出来ず、特にムスリムの機動警備隊の側面を攻撃した際に多数の死傷者を出していた。しかし、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、勝利が手の届く所にあると判断し、その申し出を断った。これまでムスリムは、防御を中心とした戦術を使っていたが、東ローマ帝国軍が戦意を失っている事を知り、攻撃に転じる為に部隊を再編成した。全ての騎兵連隊は、機動警備隊を中核とする8,000名の騎馬部隊に纏められた。ワリードは、東ローマ帝国軍を罠に嵌め、逃げ道を遮断する作戦を採った。周囲には以下の3つの渓谷が有り、障壁となっていた。
①東のワディ・アル・アッラー
②西のワディ・ウル・ラッカド
③南のワディ・アル・ヤルムーク
北に障壁が無かった為、騎兵隊が封鎖する事となった。夜、ワリードは、ワディ・ウル・ラッカドを横切るアイン・アル・ダカール橋が戦略的に重要であると位置付け、500名の騎兵を派遣した。派遣された騎兵は、東ローマ帝国軍を北側から回り込んで、アイン・アル・ダカール橋を占領した。
636 8 20 ハーリド・イブン・アル・ワリードは、騎兵部隊を率いて東ローマ帝国軍を戦場から追い出し、増援を受け取れない様分断して、側面や後方を攻撃してワディ・ウル・ラッカドへ追い込む作戦を計画する。ワリードは総攻撃を指示し、騎兵隊を東ローマ帝国軍の左翼へ差し向け、交戦させた。残りの兵は東ローマ帝国軍の左翼の後部を攻撃した。さらにムスリムの右翼が正面から圧力を掛け、2方向からの攻撃を受けた東ローマ帝国軍左翼は後退して北に敗走した。次にムスリムの右翼歩兵は東ローマ帝国軍の左翼中央部の左側面を攻撃し、ムスリムの右翼中央部は正面から突撃した。ヴァハンはムスリムの騎兵隊の機動力に気付き、騎兵隊に集団を作る様命じたが、重騎兵中隊を編成している最中にワリードは正面と側面から攻撃させ、東ローマ帝国軍は混乱し、散り散りになり北へ向かって敗走した。さらにワリードは、東ローマ帝国軍の左翼中央部を再度攻撃し、壊滅させた。敗北が決定的となった東ローマ帝国軍の撤退が始まり、ワリードは北への逃走を防ぐ為に騎兵を差し向けた。東ローマ帝国軍はワディ・ウル・ラッカドへ向かったが、前日にアイン・アル・ダカール橋を占領した騎兵が待ち受けていた。四面楚歌となった東ローマ帝国兵は、逃走を図ったが、急な斜面から深い渓谷に落ちた者もいれば、水中に逃げようとしたが下の岩に打ちつけられ命を落とした者もいた。しかしそれでも多くの兵が逃れる事に成功したが、セオドア・トリテュリウスは戦死した。ヘラクレイオスの従兄弟ニケタスは、エメサへの脱出に成功した。ジャバラ・イブン・アル・アイハムも逃亡に成功し、その後イスラム教に改宗した。ムスリム側もヨナが戦死し、犠牲を払った。ワリードは、逃走する東ローマ帝国兵を追跡しダマスカス付近で攻撃を仕掛けた。その後ワリードはダマスカスの奪還に成功し、地元住民に歓迎された。ヘラクレイオスは、東ローマ帝国軍の敗北を知り激怒した。しかし、ヘラクレイオスは敗因として姪のマルティナとの結婚を挙げ、アンティオキアの大聖堂に退却し、会議を招集した。夜、ヘラクレイオスは、真の十字架の聖遺物を携え、エルサレム総主教ソフロニウスによって秘密裏に船に乗せられ、コンスタンティノープルへと向かった。この戦闘により、東ローマ帝国のシリア支配が終焉し、キリスト教の影響の強かったレバント地方は以後イスラム化が進んでいく事となる。
636 8 ウマル・イブン・ハッターブが、ハーリド・イブン・アル・ワリードを最高司令官から罷免させ、アブー・ウバイダを据える。軍が再編成され、ワリードはウバイダの副官の1人として従属する事となった。
636 8 ウマル・イブン・ハッターブが、シリア戦線の緊張が緩和された事を理由に、ササン朝ペルシアとムスリムの交渉を打ち切る。
636 9 ムスリムがタルトゥース(現在のシリア)を征圧する。アブー・ウバイダは、部下のウバダ・イブン・アル・サミットに対し、ラオディキア(現在のトルコのデニズリ県エスキヒサール)に進軍する様指示を出した。
636 9 東ローマ帝国軍支配下のラオディキアが、以下2名の指揮するムスリムによって包囲される。
①アブー・ウバイダ
②ウバダ・イブン・アル・サミット
包囲中、サミットは地元の守備隊からの激しい抵抗に遭った。サミットは大勢の人でないと開ける事の出来ない巨大な門がある事に気付いた。サミットは、ラオディキアから離れた場所に野営する事を命じ、ムスリムは騎兵隊が身を隠すのに十分な深さの塹壕を掘り、日中の内にホムスに戻る振りをした。夜、ムスリムは敵に気付かれない様塹壕に戻り、待機した。ラオディキアの住民は、ムスリムが去ったと思い込み、門を開けて牛を放した。すると、サミットは直ちに全軍に攻撃を命じた。不意を突かれた東ローマ帝国軍は門を閉じる事が出来ず、サミットは「アッラーフ・アクバル」の雄叫びを上げ城壁を登り、ムスリム達によってラオディキアは占領された。東ローマ帝国軍と地元住民はサミットに降伏した。サミットは、ハラージを支払う事を条件に、住民の帰還を許可した。サミットは、ラオディキアに留まりモスク「ジャミ・アル・バザール」の建設を監督し、地元住民にムスリムの法律を課す一方、街に攻撃等は加えなかった。
636 9 ヴァラシャバード(現在のイラクのバービル県)に居たロスタム・ファルロフザードは、カーディシーヤのムスリムの野営地を破り、和平交渉を再開する。ファルロフザードはムスリムに書簡を送った。ムスリム側は、サディ・ブン・アビ・ワッカスが最初にラビ・ビン・アミール、後にムギラ・ビン・ズララを派遣し交渉に応じた。ファルロフザードはズララに対し「我々はこの地に確固たる地位を築いており、敵に勝利し、諸国民の間で高貴である。どの王も我々の権力・名誉・支配権を持っていない」と言ったが、ズララはファルロフザードを遮り「もし我々の保護が必要なら、我々の保護を受けて、謙虚にジズヤを支払え。さもなければ剣だ」と言うと、ファルロフザードは酷く侮辱され怒りを感じ「私が貴方達全員を殺すまで、明日の夜明けは無いだろう」とズララを脅した。
636 10 ロスタム・ファルロフザードが、ムスリムとの戦闘に備えつつ、自身の兄ファッルフザードに書簡を送り、兵を集めてアゼルバイジャンに行って祈る様伝える。また、ファルロフザードは、ヤズデギルド3世こそが、ササン朝ペルシアから残された唯一の遺産である事をファッルフザードに思い出させた。その後ファルロフザードはクテシフォンから出陣し、カーディシーヤでムスリムと対峙した。
636 10 1 アブー・ウバイダが軍議を開く。以下の2箇所のどちらを占領するか議論が為されたが、結論は出なかった。
①カイサリア
②エルサレム
ウバイダは、ウマル・イブン・ハッターブに書簡を送り指示を仰いだ。ハッターブはエルサレムを占領する様返答した。ウバイダ達は、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる機動警備隊を先頭にジャビヤからエルサレムへ向けて進軍した。
636 11 1 ムスリムがエルサレムに到着する。その後包囲を開始した。
636 11 16 未明、ササン朝ペルシア軍が、ロスタム・ファルロフザードの命により、間にある運河を塞いで道路にしていた所を通過しアティーク川西岸を越える。ファルロフザードは45,000名の歩兵を4個師団に分け、150m置きに、南西を向いて川を背にして配置した。さらに、15,000騎の騎兵も4個師団に分けられ、予備として待機した。4個師団にはそれぞれ8頭ずつ計33頭の象が居た。戦線は4kmに及んだ。指揮官は以下の通り。
①右翼:ホルムザン
②右中央:ジャリヌス
③後衛:ピルツ・ホスロー
④左翼:ミフラン・ラジ
ファルロフザードは、右中央後方の天蓋で日陰になった所に陣取り、戦場を俯瞰で眺めた。対するムスリムは、ササン朝ペルシア軍と500m離れた所で北東を向いて対峙した。戦闘直前にサディ・ブン・アビ・ワッカスは「これは貴方方の神が貴方方に約束した遺産だ。神は3年前に貴方方にそれを利用出来る様にされたが、貴方方は今日迄その恩恵を受け、人々を捕らえ、身代金を要求し、殺してきた」と兵達を激励した。また、カーカ・イブン・アムル・アル・タミミの弟アシム・イブン・アムル・アル・タミミも騎手達に「貴方方は彼らよりも優れており、神は貴方方と共におられます。もし貴方方が粘り強く正しい方法で攻撃すれば、彼らの富・女性・子供達は貴方方のものになるでしょう」と励ました。戦いは決闘から始まった。なるべく多くの指揮官を殺害して敵軍の士気を下げる狙いがあった。先ず、ムスリムの決闘者ムバリズンが進み出た。双方で多くの死者が発生した。決闘で数名の指揮官を失ったファルロフザードは、左翼に対し、ムスリムの右翼を攻撃する様指示した。ササン朝ペルシア軍は、大量の矢の雨を降らせ、戦象を突撃させて、ムスリムの右翼に甚大な被害を与えた。ムスリムの右翼総司令官アブドゥッラー・イブン・アルムタムは、右翼騎兵司令官ジャービル・イブン・アブド・アッラーに対し、ササン朝ペルシア軍の戦象に対処する様命じた。しかし、アブド・アッラーの騎兵隊は、ササン朝ペルシア軍の重騎兵隊に行手を阻まれ、戦象の前進によってムスリムの歩兵は後退し始めた。ワッカスは、右中央の騎兵隊司令官アル・アシャス・イブン・カイスに、前進するササン朝ペルシア軍を食い止める様指示した。カイスは、騎兵連隊を率いて右翼騎兵の増援として戦闘に加わり、ササン朝ペルシア軍左翼の側面に対し、反撃を開始した。一方ワッカスは、右中央の総司令官ズフラ・イブン・アルハウィヤに、歩兵連隊の右翼への派遣を命じた。これを受けてアルハウィヤは、ハンマル・イブン・マリク指揮下の歩兵連隊を派遣し、右翼の増援としてササン朝ペルシア軍への反撃を支援した。ササン朝ペルシア軍左翼は、カイスとマリクの増援を受けたムスリムの右翼歩兵による正面攻撃と、右中央からの騎兵連隊の支援を受けたムスリム騎兵による側面攻撃を受けて後退した。ファルロフザードは、右中央と右翼にムスリムの騎兵隊に向かって前進する様命じた。先ず、ムスリムの左翼と左中央に激しい矢を雨を浴びせ、続いてササン朝ペルシア軍の右翼と右中央の戦象が突撃した。これにより、ムスリムの左翼と左中央はパニックに陥った。ワッカスはタミミに戦象の征伐を指示する伝言を送った。アシムは、戦象に乗った射手を打ち破り、鞍の胴回りを切る作戦を採った。この作戦が功を奏し、ササン朝ペルシア軍が戦象を退却させると、ムスリムは反撃に転じた。ササン朝ペルシア軍の右中央が撤退し、続いて右翼全体が撤退した。午後迄に、ムスリムの左翼と左中央に対して行われていたササン朝ペルシア軍による攻撃も阻止された。機に乗じてワッカスは更なる反撃を命じ、ムスリムの騎兵隊が側面から全力で突撃した。最終的にファルロフザードはムスリムの攻撃を退ける事に成功したが、数ヶ所負傷した。夕方、双方多大な損害を受け、決着の着かない儘この日の戦闘は終了した。
636 11 17 サディ・ブン・アビ・ワッカスは、前日と同様にムバリズンによる決闘から戦闘を始める事を決定する。正午、まだ決闘が続いている最中に、カーカ・イブン・アムル・アル・タミミ率いる前衛部隊がムスリムの増援として加わり、続いてワッカスの父方の甥ハシム・イブン・ウトバ率いる本軍が到着した。タミミは、前衛部隊を幾つかに分けて、順番に戦場に到着する様指示した。大規模な増援部隊が加わったとササン朝ペルシア軍に印象付ける狙いがあった。この戦略が嵌まり、ササン朝ペルシア軍の士気は著しく低下した。タミミは、バフマン・ジャドゥヤの殺害に成功した。ワッカスは、この日のササン朝ペルシア軍に戦象が居なかった為、総攻撃を命じ、突破口を見つけようとした。ムスリムの4個師団は前進したが、ササン朝ペルシア軍は粘り強く攻撃を撃退していった。この最中、タミミは駱駝を奇妙な怪物の様に偽装する独創的な装置を使って、ササン朝ペルシア軍の前線に投入した。これを見たササン朝ペルシア軍の馬達は向きを変えて飛び出した。これにより左中央が脆弱になった。ワッカスは攻撃をさらに強めた。タミミは、ロスタム・ファルロフザードの首を狙い、ムバリズンの一団を率いて、ササン朝ペルシア軍の右中央を通過し、ファルロフザードの居る本軍へ向けて進軍した。ファルロフザードは応戦したが、突破口は開けなかった。夕方、両軍は野営地に帰還した。
636 11 18 ムスリムの援軍が到着する前に決着を付けようとしていたロスタム・ファルロフザードが、戦象を前線に出して戦闘を優位に進める。更にファルロフザードは、4個師団を全て前進させ、総攻撃を命じた。ササン朝ペルシア軍は、正面から矢を浴びせて、ムスリムの射手の反撃を封じた。多大な損害を被ったムスリムに、ササン朝ペルシア軍の歩兵と騎兵の支援を受けた戦象が突撃を仕掛け、追い打ちを掛けた。戦象が近づいて来ると、ムスリムの騎兵達は動揺し、後退した。ファルロフザードはその隙に、サディ・ブン・アビ・ワッカスが駐屯していた旧宮殿を占領した。ファルロフザードは、ワッカスを殺害、若しくは捕虜にしてムスリムの士気を下げようとした。しかし、強力なムスリムの騎兵隊が現場に急行し、これを阻んだ。ワッカスは、戦いに勝つには戦象を殲滅するしか無いと考え、戦象の目を盲目にし、鼻を切断する様指示を出した。そしてムスリムは、戦象を戦場から追い払うのに十分な鼻の切断に成功した。怯えた戦象達は、ササン朝ペルシア軍の隊列を駆け抜けて、川へと向かった。正午迄には、戦象は戦場から居なくなった。ササン朝ペルシア軍は混乱した。ワッカスは機に乗じて総攻撃を命じた。前日に続き駱駝を奇妙な怪物に偽装する作戦を採ったが、今回は馬が踏ん張った。この日は夜通し激しい戦いが繰り広げられ、双方に多くの死傷者が出て、戦場には戦士の死体が散乱した。戦いは夜明けに終了した。
636 11 19 サディ・ブン・アビ・ワッカスの同意を得て野戦指揮官に就いていたカーカ・イブン・アムル・アル・タミミが「あと1時間程戦えば、敵は敗北するだろう。バヌ・タミム族の戦士がもう一度挑戦すれば、勝利は貴方達のものになるだろう」と部下に話した。タミミは左中央を指揮し、ササン朝ペルシア軍の右中央を攻撃した。続いてムスリムは総攻撃を仕掛けた。ササン朝ペルシア軍は、戦いの再開に驚き、左翼と左中央が押し戻された。タミミは、ムバリズンの集団を率いて、ササン朝ペルシア軍の左中央を攻撃し、正午迄に中央部を突破した。更にロスタム・ファルロフザードが討ち取られ、ササン朝ペルシア軍の戦線は崩壊した。ササン朝ペルシア軍は、一部は部隊を維持した儘撤退したが、残りはパニックを起こして川へ向かった。ジャリヌスは、残存部隊の指揮を執り、橋頭堡を征圧して軍の大部分を橋を安全に渡らせる事に成功した。ワッカスは、逃走するササン朝ペルシア兵を追跡する為、騎兵連隊を様々な方角へ向けて派遣した。この追跡によりササン朝ペルシア兵は多数の死傷者を出し、捕虜も発生した。ムスリムは、宝石が散りばめられた王旗を含む多数の戦利品を獲得した。その王旗に含まれていた宝石は、王旗と切り離され、マディーナで売られた。ワッカスは、ウマル・イブン・ハッターブに部下を差し向け、戦勝報告を行った。ハッターブはワッカスに、クテシフォンの占領を行う様指示した。このムスリムのカーディシーヤでの勝利は、ササン朝ペルシアのイラク支配を根底から揺るがした。しかし、クテシフォンが残っている限り、ササン朝ペルシアが反撃する可能性が常に存在した。その後ワッカスはアル・ヒラに入り、アラブ人入植者を入れて町「クーファ」を建設した。
636 12 1 サディ・ブン・アビ・ワッカスが、15,000名の兵を率いクテシフォンに進軍する。ヤズデギルド3世は、諜報機関からムスリム進軍の報告を受けると、必要な防御を行う為に、クテシフォンと、クテシフォンに通じる道路に、時間稼ぎの為の分遣隊を派遣した。クテシフォンの幹線道路に分遣隊が居る事を知ったワッカスは、機動性を高める為、以下の五手に軍を分けた。
①アブド・アッラー・ビン・ムイム
②シュラービール・ビン・アル・シムト(ワッカス含む)
③ハシム・イブン・ウトバ
④ハーリド・ビン・ウルファタ
⑤ズフラ・イブン・アル・ハウィヤ・アル・タミミ
タミミは、騎兵のみで構成された前衛部隊の指揮を引き継ぎ、クテシフォンへの道沿いに在る、敵の主な防御陣地に向かって迅速に移動する様命令を受けた。タミミはナジャフを占領し、援軍を待った。その後ユーフラテス川を渡り、クテシフォンへ向けて兵を進めた。
636 12 1 ズフラ・イブン・アル・ハウィヤ・アル・タミミが、ブルスとビルス・ニムルド(現在のイラクのバービル県ボルシッパ)付近で、ササン朝ペルシア軍の司令官ブスブーラを一騎討ちで破る。タミミの部隊は現地のササン朝ペルシアの抵抗に遭っていたが、ブスブーラを討った事で収まった。タミミは、ブルスでムスリムが合流して来るのを待った。タミミの次の狙いはバビロンであった。何故なら、ティグリス川とユーフラテス川に挟まれたサディ・ブン・アビ・ワッカスの領地にアクセスする為には、バビロンを落とさなければならなかったからである。
636 12 15 この頃迄にムスリムは、ユーフラテス川を掌握し、バビロン郊外に布陣した。バビロンのササン朝ペルシア軍は、以下の人間が指揮していた。
①ピルツ・ホスロー
②ホルムザン
③ミフラン・ラジ
④ナキラガン
しかし、ホルムザンが、属州のアフヴァーズ(現在のイランのフーゼスターン州)に撤退し、ホスロー・ラジ・ナキラガンも、部隊を帰還させて北へ退却した。その後、バビロンのササン朝ペルシア国民はムスリムに降伏し、ジズヤの支払いという異例の条件で保護された。ササン朝ペルシア国民の中には、ササン朝ペルシア軍の配置に関する情報をムスリムに提供する者や、道路や橋の建設に雇用された技術者も居た。こうしてムスリムがバビロンに駐留している間に、サディ・ブン・アビ・ワッカスは、ズフラ・イブン・アル・ハウィヤ・アル・タミミに対し、撤退したササン朝ペルシア軍が何処かで集合して対抗して来る前に追撃する様指示を出した。タミミは、ムスリム前衛軍を指揮し、スーラー(現在のイラクのナジャフ県)で背後からササン朝ペルシア軍を襲撃し、デリ・カブへ撤退させた。タミミは更にデリ・カブへと追撃し、ササン朝ペルシア軍の分遣隊を破り、バビロンのササン朝ペルシア国民と同じ条件で現地の人間を保護した。
637 1 1 ズフラ・イブン・アル・ハウィヤ・アル・タミミ率いるムスリムの前衛軍が、クテシフォンから17km離れたクータ(現在のイラクのバービル県テル・イブラヒム)に到着する。ササン朝ペルシア軍の分遣隊は抵抗した。
637 1 8 ズフラ・イブン・アル・ハウィヤ・アル・タミミ率いるムスリムの前衛軍が、ヴァラシャバード(現在のイラクのバービル県・ディヤーラー県・ワーシト県付近)に到着する。通常はササン朝ペルシア軍の守備隊が居るが、この時は居なかった。前月のバビロン等と同様に、ジズヤを支払う事でササン朝ペルシアの住民は保護された。その後ムスリムは、クテシフォンの入口までの全域を占領した。しかし、クテシフォンに進軍する途上、ササン朝ペルシア軍の分遣隊に阻まれ、計画は延期された。クテシフォンのササン朝ペルシア軍は、ムスリムがクテシフォンへ進軍する道を読み、ティグリス川の対岸に在るバフラシール(現在のイラクのバービル県ヴェー・アルダシル)側に現れると予測し、クテシフォンの周囲に深い塹壕を掘った。ムスリムの前衛軍がバフラシールに接近すると、ササン朝ペルシア軍守備隊が投石器で大きな石や岩を発射した。ムスリムは射程外に撤退し、寝返ったササン朝ペルシア工兵から装備の提供を受け、クテシフォンを包囲した。バフラシールは、周囲に物資を輸出していたが、同時にクテシフォンからも物資の供給を受けていた。
637 2 ソフロニウスが、ウマル・イブン・ハッターブがエルサレムに来て協定に署名し、降伏を受け入れる事を条件に、エルサレムを降伏させジズヤを支払う事を申し出る。シュラビル・イブン・ハサナは、ハッターブがマディーナから来るのを待つのではなく、外見がハッターブに似ていたハーリド・イブン・アル・ワリードを送り出す事を提案した。ハサナの案が採用されたが、ワリードはキリスト教アラブ人に見破られ、ソフロニウスによって交渉を拒否された。ワリードの任務失敗の報告を受けたアブー・ウバイダは、ハッターブに書簡を送り、エルサレムに来る様願い出た。
637 3 ササン朝ペルシア軍が、ムスリムの包囲網を突破する事を意図し、クテシフォンを離れる。ササン朝ペルシア軍は、ムスリムの前線まで進軍し、ライオンを突撃させた。ムスリムの馬は恐怖して逃げ出した。ハシム・イブン・ウトバは、ライオンに向かって走り、殴った。これが上手く当たり、ライオンは死亡した。サディ・ブン・アビ・ワッカスは、前例の無いウトバの英雄的行為を賞賛し、ウトバの額に接吻をした。その夜、ウトバは矢を受け深手を負い、その儘死亡した。この戦闘でムスリムは、ササン朝ペルシア軍の指揮官を殺害した。戦闘が中断した後、ササン朝ペルシア軍の使者が、ヤズデギルド3世の伝言を携えムスリムの野営地へ赴いた。使者は「私達の皇帝は、ティグリス川が貴方達と私達の間の境界線として機能し、その東に広がる部分は引き続き私達のものであり、西のものは貴方方のものであるという事実に基づいた平和に賛成するかどうか尋ねています。 これで貴方の国の飢えが満たされなければ、何をしても貴方方を満足させる事は出来ません」と伝えると、ムスリムはジズヤの支払いに応じるか、戦闘を継続するかの2択を迫った。ササン朝ペルシア軍は戦闘継続を選択した。
637 3 ササン朝ペルシア軍が戦闘継続を選択した翌日、自衛の為にクテシフォンを封鎖したササン朝ペルシア軍とバフラシールの住民が、クテシフォンの大部分の封鎖を解き、ティグリス川に架かる橋を全て破壊する。更に、川の西岸から全てのボートを撤去し、東岸に停泊させた。ササン朝ペルシア軍は、クテシフォンの南端からティグリス川までを監視下に置き、残りの郊外には塹壕を掘った。ヤズデギルド3世は、これにより国内の他の地方からの援軍を受け入れ、ムスリムに対抗出来ると主張した。やがてムスリムはバフラシールを占領したが、既に人影は無かった。ティグリス川は川幅が750mあったが、ムスリムはバフラシールを占領した時には満水で、且つ渡れる船も無かった。クテシフォンのササン朝ペルシア軍は、以下2名が指揮していた。
①ミフラン・ラジ
②ロスタム・ファルロフザードの兄ファッルフザード
ムスリムを受け入れたササン朝ペルシア軍から寝返った義勇兵は、サディ・ブン・アビ・ワッカスに、ティグリス川を渡る事の出来る下流の地点を示した。しかし水位が高かった為、渡れるかどうか確信が持てなかった。
637 3 ササン朝ペルシア軍から寝返った義勇兵がサディ・ブン・アビ・ワッカスにティグリス川を渡る事の出来る下流の地点を示した翌朝、ワッカスは義勇兵に、馬に乗ってティグリス川を渡る様頼んだ。先ず、アシム・イブン・アムル・アル・タミミの命により、6名の志願した義勇兵が馬に乗ってティグリス川を横断した。ササン朝ペルシア軍はこれを受け、ティグリス川の水域に入り応戦した。ムスリム側はこの戦闘を優位に進め、東岸に到達した。その後も縦隊が続々と上陸し、ボートを東岸に着けた。その後もササン朝ペルシア軍の劣勢は続き、クテシフォンは陥落し、アシム・イブン・アムル・アル・タミミもクテシフォンに入った。そして、ササン朝ペルシア政府の本拠地である白宮殿は無血開城するに至った。ヤズデギルド3世は、持ち運びが可能な宝物や貴重品を全て持参しハルワン(現在のイラクのディヤーラー県)に逃亡した。ワッカスは、残ったササン朝ペルシア国民に恩赦を与えると宣言した。ササン朝ペルシア側は降伏条件を予め理解しており、ジズヤの支払いに応じ、和平協定が締結された。ムスリムは、ササン朝ペルシア国民に通常の職業に戻る様促し、東ローマ帝国の国境にある要塞カルキーシアとヒートを占領する為に分遣隊を派遣した。ワッカスは、白宮殿を本拠地とし、大中庭にモスクを建設した。ササン朝ペルシア軍は、クテシフォンこそ奪われたものの、依然以下の都市では活動していた。
①ティクリート(現在のイラクのサラーフッディーン県)
②モースル(現在のイラクのニーナワー県)
637 4 1 ウマル・イブン・ハッターブがパレスチナに到着する。その後ジャビヤへ向かい、以下3名等が出迎え、ハッターブに合流した。この時アムル・イブン・アル・アースは、エルサレム包囲の指揮官として従事していた。
①アブー・ウバイダ
②ハーリド・イブン・アル・ワリード
③ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン
その後一行はエルサレムに向かい、ハッターブの署名により協定が締結された。証人は以下の4名であった。
①ワリード
②アース
③アブド・アルラフマン・イブン・アウフ
④ムアーウィヤ1世
これにより東ローマ帝国は、エルサレムをムスリムに明け渡し、ジズヤと引き換えにキリスト教徒に市民的及び宗教的自由の保証を与えられた。その後ソフロニウスは、ズフルの礼拝の際、ハッターブを再建された聖墳墓教会(現在のパレスチナ国ヨルダン川西岸地区エルサレム県)に招待した。しかしハッターブは、キリスト教の礼拝の場としての教会の立場が危険に晒され、ムスリムが協定を破り教会をモスクに変える事を危惧し、辞退した。ソフロニウスはハッターブを、神殿の丘(現在のパレスチナ国ヨルダン川西岸地区エルサレム県)にも案内しており、その際ハッターブは、かつて寺院のあった場所の劣悪な状態を見て、その場所に木造のモスクを建てる前に、塵や瓦礫を取り除くよう命じた。
637 4 10 ウマル・イブン・ハッターブがマディーナへ向けて出発する。またハッターブは、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアンに指示を出し、カイサリアを包囲させた。以下2名はパレスチナ占領を完遂させる為に留まった。
①アムル・イブン・アル・アース
②シュラビル・イブン・ハサナ
さらに、以下2名はシリア北部の征服する為に、17,000名を率いエルサレムを出発した。
①アブー・ウバイダ
②ハーリド・イブン・アル・ワリード
637 4 ハシム・イブン・ウトバが、ウマル・イブン・ハッターブの命により、12,000名の兵を率いジャラワ(現在のイラクのディヤーラー県)へ向けて進軍する。サディ・ブン・アビ・ワッカスがハッターブに対し、ジャラワにクテシフォンから敗走したササン朝ペルシア軍残党等が集結している事を報告した上で、ハッターブが出した結論であった。ジャラワは以下の地域に通じるルートが在り、戦略上重要な場所であった。
①現在のイラク北部
②ホラーサーン(現在のイラン・アフガニスタン・トルクメニスタン)
③現在のアゼルバイジャン
ハッターブは、ティクリートとモースルを攻める前に後方の敵を掃討しようとしていた。また、ジャラワへのササン朝ペルシア軍の戦力の集中は、ムスリムがイラク北部へ侵攻する上でのボトルネックとなっていた。ジャラワのササン朝ペルシア軍は、以下の2名が指揮していた。
①ミフラン・ラジ(指揮官)
②ファッルフザード(副官)
そしてムスリムは、ジャラワの要塞の外でササン朝ペルシア軍と遭遇した。そこはディヤーラー川と崩れた地面に囲まれていた。崩れた地面は騎兵・歩兵の移動には不向きであった。ラジは、ムスリムとの戦闘経験の有るベテラン将軍であり、ムスリムの戦い方を熟知していた。ラジは、ムスリムの進軍を遅らせる為に、塹壕を掘り、その前にカルトロップを置いた。ラジの戦略は、ムスリムに正面攻撃を仕掛け、射手や攻城兵器の大砲によってムスリムを疲弊させるというものであった。ムスリムは、ラジの仕掛けたカルトロップによって、進軍を妨げられた。ラジは、ムスリムの中核が疲弊したタイミングで攻撃する事を意図し、古典的な陣形で布陣した。ハシムも戦場に駆け付けるが、現場のディヤーラー川に囲まれた地形と崩れた地面を見て、側面からの攻撃は困難で、正面からの攻撃は多大な犠牲を払うと判断した。ハシムは、塹壕とカルトロップに守られたササン朝ペルシア軍を誘き出す為に、敢えて正面から攻撃し、退却する振りをして、ササン朝ペルシア軍が塹壕から離れたら、騎兵隊が塹壕の上の橋を占領して逃げ道を塞ぐ作戦を立てた。ムスリムの陣容は以下の通り。
①ハシム(総司令官)
②カーカ・イブン・アムル・アル・タミミ(前衛)
③シル・ビン・マリク(右翼)
④アムル・ビン・マリク・ビン・ウトバ(左翼)
⑤アムル・ビン・ムラ・アル・ジュハーニ(後衛)
後から増援として以下の人間がやって来た。
①タルハ・イブン・クワイリッド・イブン・ナウファル・アル・アサディ
②アムル・ビン・マアディ・ヤクリブ
③カイス・ブン・マクシュフ
④フジュル・ビン・アディ
ムスリムは正面攻撃を開始した。暫く交戦した後、予定通り退却する振りをして全体を後退させた。ラジは、攻撃を開始する時が近づいている事を察知し、塹壕を埋めさせた上で総攻撃を命じた。ここまでは両陣営は思惑通りに戦闘を進めた。ラジが野原でムスリムと交戦すると、ハシムはタミミ率いる騎兵連隊に、警備が手薄になっていた塹壕に架かる橋を占領させた。タミミは、ササン朝ペルシア軍の右翼を迂回して橋を占領した為、ササン朝ペルシア軍の後方に位置する事となった。これにより、ササン朝ペルシア軍はディヤーラー川とムスリムに挟まれた形となり、士気が著しく低下した。ハシムは歩兵を使って正面攻撃を開始した。タミミは戦況を見ているだけであった。ササン朝ペルシア軍は、多数の死傷者を出し大敗した。それでも数千名の兵が、このムスリム包囲網を何とか抜け出し、ジャラワの要塞に辿り着いた。ハシムは戦闘後にジャラワを包囲した。現地のササン朝ペルシアの女性・子供は戦利品として奴隷となった。ハッターブは「これから生まれてくる奴隷の女たちの子供達を恐れ、私はアッラーに帰依します」と言った。
637 6 以下2名率いる軍が、ダマスカスを経由してエメサに到着、その数日後にハジル(現在のシリアのアレッポ県マウントシメオン地区)に入る。
①アブー・ウバイダ
②ハーリド・イブン・アル・ワリード
ワリードと機動警備隊を先頭としていた。そこで司令官メナス率いる7,000名の東ローマ帝国軍守備隊の攻撃を受けた。メナスは、もしキンナスリーンに留まれば、ムスリムに包囲され、ヘラクレイオスからの助けは期待出来ない為、最終的に降伏する事になるだろうと考え、本隊が合流する前に先制する作戦を採った。戦闘はアル・ハヘル(現在のシリアのアレッポ県マウントシメオン地区)の農村で始まった。メナスはワリードと同様に前線で軍を率い、中央部隊と両翼に兵を配置した。メナスは戦いの序盤で殺害された。メナスの戦死の情報が東ローマ帝国軍に広まると、兵達は怒り、敵討ちの為激しい攻撃を行った。しかし東ローマ帝国軍は、ワリード率いる騎兵連隊に後方から攻撃を受けて包囲され、メナス率いる守備隊にとって嘗て無い大敗を喫した。戦闘が終了すると、直ぐにハジルのアラブ人は、ワリードを出迎え、敵対するつもりは無い事を主張した。ワリードは降伏を受け入れ、キンナスリーンへと向かった。
637 6 ハーリド・イブン・アル・ワリードはキンナスリーンに入り、東ローマ帝国軍の駐屯地に向けて「もし貴方方が雲の中に居るなら、アッラーは私達を貴方方の所に引き上げるか、戦いの為に貴方方を私達の所に降ろすでしょう」と通告する。程無くして砦に立て籠ったメナスに同行せずハジルに出陣しなかった東ローマ帝国軍守備隊は降伏した。ウマル・イブン・ハッターブは、ハジルの戦いの報告を受け「ワリードは真の司令官です。アブー・バクルにアッラーのご慈悲が有ります様に。彼は私よりも優れた判断力を持っていました」と叫び、ワリードを称賛すると同時に、ワリードを司令官から解任した事は自らの判断ミスであると初めて認めた。
637 8 以下2名がキンナスリーンで合流し、アレッポ(現在のシリア)に進軍する。
①アブー・ウバイダ
②ハーリド・イブン・アル・ワリード
アレッポは、城壁に囲まれた大きな都市と、都市郊外の丘の上に在る、幅が400m強の、幅の広い堀に囲まれた小さいながらも難攻不落とされる砦で構成されていた。その砦をヨアヒム率いる東ローマ帝国軍守備隊が守っていた。ヨアヒムは、砦の外でウバイダとワリードの率いるムスリムに遭遇し、交戦した。敗れたヨアヒムは直様砦に撤退した。その後ヨアヒムは、ムスリムの包囲網を破る為に何度も攻撃を仕掛けるが、全て失敗した。ヨアヒムは、ヘラクレイオスから何の支援も受けていなかった。
637 10 ヨアヒムが、駐留している東ローマ帝国軍守備隊が安全に立ち去る事が出来るという条件で降伏する。ヨアヒムはイスラム教に改宗した。その後アブー・ウバイダは、マリク・イブン・アシュタル率いる縦隊を差し向け、アアザーズ(現在のシリアのアレッポ県)を占領させた。これはアレッポ以北に東ローマ帝国軍の大軍を残さない様にする為に採った作戦で、これにより、東ローマ帝国軍の側面と後方を攻撃出来る様になった。ウバイダは、アシュタルが軍に合流すると直ぐにアンティオキア占領の為、西に進軍した。
637 10 ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる機動警備隊が前衛となり、アブー・ウバイダ一行はハリム(現在のシリアのイドリブ県)を経由してアンティオキアへと向かう。マフルバの近くのオロンテス川に架かる鉄橋付近でアンティオキアを守備する東ローマ帝国軍とムスリムが交戦する。この戦闘でワリードは大きな役割を果たし、東ローマ帝国軍は多数の死傷者を出して大敗し、残存兵はアンティオキアへ逃亡した。その後ムスリムはアンティオキアを包囲した。
637 10 30 アンティオキアに駐留する東ローマ帝国軍が降伏する。その後ムスリムは、地中海沿岸に沿って南下し、以下を占領した。
①ラタキア(現在のシリア)
②ジャブラ(現在のシリアのラタキア県)
③タルトゥース(現在のシリア)
また他にもムスリムは、シリア北部に残存する抵抗勢力の鎮圧を行った。ハーリド・イブン・アル・ワリードは、マンビジュ(現在のシリアのアレッポ県)付近へ派遣され、騎兵隊を率い進軍した。
637 11 ジャラワの要塞のササン朝ペルシア軍が、ジズヤの年次支払いを条件にムスリムに降伏する。ヤズデギルド3世は、ジャラワに救援を送る事が出来なかった。
638 ネストリウス派キリスト教は唐に認められ、唐は資金を援助して、長安の義寧坊に大秦寺という教会を建てさせた。
638 1 1 ハーリド・イブン・アル・ワリードのマンビジュ遠征が終了する。殆ど抵抗も無く征圧を完了した。
638 3 ヘラクレイオスが以下2箇所から召集したアル・ジャジーラ地方(現在のシリアのハサカ県付近)の東ローマ帝国と親しいキリスト教徒アラブ人が、アブー・ウバイダが軍事本部としていたエメサを包囲する。
①シルセシウム(現在のシリアのデリゾール県バセイラ)
②ヒット(現在のシリアのスワイダー県)
ウバイダは全軍をエメサに集結させた。一方ウマル・イブン・ハッターブはウバイダに対し、東ローマ帝国軍がエメサに戦力を集中させるのを防ぎ、敵軍の拠点であるアル・ジャジーラ地方を逆包囲する為野戦指揮官を派遣する様指示を出した。そこでイヤド・イブン・ガンム率いる軍が、ヒットを攻撃したが、ヒットは要塞化されていた。そこでガンムは、ハビブ・イブン・マスラマ・アル・フィフリに、好戦的で有名な「アムル軍団」として知られるバヌ・キラブの特定師団を率いさせ、シルセシウムに差し向けた。
この特定師団は、以下3名の指導下にあった。
①アル・ハリス・イブン・ヤズィード
②ヤズィードの息子ズファル・イブン・アル・ハリス
③アスラーム・イブン・ズーラ・アル・キラビ
さらにハッターブは、3つの異なるルートからアル・ジャジーラ地方に侵攻する計画を立て、自身も1,000名の兵を率いマディーナから出撃した。また、ハッターブの指示により、サディ・ブン・アビ・ワッカスは、カーカ・イブン・アムル・アル・タミミ率いるエメサを支援する為の分遣隊を派遣した。
638 3 アル・ジャジーラ地方の東ローマ帝国と親しいキリスト教徒アラブ人が、ホムス(現在のシリア)を包囲する。ハーリド・イブン・アル・ワリードは帰還したばかりであったが、アブー・ウバイダに対して、出撃を先導する為外に出して欲しいと訴えたが、ウバイダは増援が来るまで待機すべきと判断し、その場に留めた。その頃ムスリムは、以下2箇所を逆包囲した。
①シルセシウム
②ヒット
ヒットは、東ローマ帝国軍守備隊が周囲に堀を築いていた為、苦戦したものの包囲に成功し、その後占領した。シルセシウムは、ハビブ・イブン・マスラマ・アル・フィフリ率いる軍が包囲したが、東ローマ帝国軍は無抵抗で明け渡した。イヤド・イブン・ガンムは、さらにワリド・イブン・ウクバを以下2部族の要塞征圧の為に派遣し、畳み掛けた。
①ラビーア族
②タヌーク族
キリスト教徒アラブ人は、以下2点の情報を掴むと、エメサの包囲を止め、撤退した。
①ウマル・イブン・ハッターブ率いる援軍の到着
②ガンムのアル・ジャジーラ地方侵攻
しかし、カーカ・イブン・アムル・アル・タミミ指揮下の4,000名の増援を受け、ウバイダから敵を追撃する為に砦から出る許可を与えられていたワリードの軍により、キリスト教徒アラブ人はアル・ジャジーラ地方への帰還を妨害され、多大な損害を被った。その後、以下2名率いる縦隊によってアル・ジャジーラ地方は征圧された。
①ワリード
②ガンム
この縦隊はアララト平原(現在のトルコのウードゥル県・現在のアルメニアのアララト地方)まで北進し、さらにトロス山脈(現在のトルコのカラマン県)まで西進した。
638 10 アブー・ウバイダが、以下2名が各々指揮する2隊を含む数個縦隊を出撃させ、西はタルスス(現在のトルコのメルスィン県)に至るまで、アナトリア半島の東ローマ帝国軍を襲撃させる。
①ハーリド・イブン・アル・ワリード
②アヤド
ワリードの目標はゲルマニア(現在のドイツ・オランダ・ポーランド・チェコ・スロバキア・デンマーク)であった。
638 12 ムスリムが、ゲルマニアの東ローマ帝国軍守備隊の居る都市を包囲する。ヘラクレイオスからの支援が望めなかった東ローマ帝国軍守備隊は、ムスリムが提示したジズヤの条件を飲み、降伏した。ムスリムは、物質的な富に関しては望むだけ手に入れる事が出来た。ハーリド・イブン・アル・ワリードは、これまで滅多に見られなかった戦利品を積んでキンナスリーンに帰還した。ワリードはその戦利品を贅沢に分配した。分配された者の中にはハドラマウト(現在のイエメン)のキンダ族の族長アル・アシャス・イブン・カイスも含まれていた。これを受けて、ウマル・イブン・ハッターブはウバイダに対し、公開尋問と、その結果に関わらずワリードを解任し、キンナスリーンをウバイダの支配下に置く事を命じた。ウバイダはホムスで公開尋問を実施した。ワリードは、ハッターブからマディーナへ来る様呼び出しを受けたが、出発前にキンナスリーンで別れの演説を行った。
638 12 ジャビヤで開催されたムスリムの評議会にて、ウマル・イブン・ハッターブが、貧しいムスリムの為に資金を残さず、戦果を挙げた者・部族の貴族・詩人に戦利品を供与した事を理由に、ハーリド・イブン・アル・ワリードを解任する。出席した指揮官は、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、ワリードに与えた軍事任務に違反したとしてハッターブを非難したマフズミ派を除き、反対を表明しなかった。ワリードは、多くの仲間からハッターブに報復する様強く促された。ワリードは、ハッターブにクーデターを起こし、ムスリムの権力を掌握するだけの十分な戦力を保持していた。しかし、ワリードは実行しなかった。
639 メソポタミア北部を征圧していたイヤド・イブン・ガンムが、ビトリス(現在のトルコ)に侵攻する。
642 ハーリド・イブン・アル・ワリードがエメサで死去する。
642 ムスリムが四手に分かれ、アナトリア半島北部まで進軍するが、敗北し追い出される。
645 7 17 日本で最初の元号である「大化」が定められる。
649 7 8 法師玄奘三蔵が、終南山翠微宮(現在の中国西安市長安区)にて、自身が天竺(現在のインド)から持ち帰ったサンスクリット語で書かれた経典から神髄を纏めて「般若心経」として漢訳する。全文と訳は以下の通り。
①仏説摩訶般若波羅蜜多心経
❶偉大なる智慧の完成に就いての心髄の経
②観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空
❷観自在菩薩が深遠なる智慧の完成を実践していた時、人間の存在を構成する要素である五蘊(色(物体)・受(感受)・想(表象)・行(意志)・識(認識))は全て、自分という実体を持たない「空」であると見極めた。
③度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空
❸だからこそ、凡ゆる苦悩や災いを克服した。釈迦の弟子舎利弗よ。色は「空」であり、
④空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相
❹「空」は物体と異ならないのである。受・想・行・識も同じく「空」である。舎利弗よ。凡ゆる存在は「空」を特質としているから、
⑤不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中
❺生じる事も滅する事も無く、汚れる事も清まる事も無く、増える事も減る事も無い。「空」であるが故、
⑥無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
❻固定的な実体は存在せず、受・想・行・識も存在しない。眼・耳・鼻・舌・身体・心も存在しない。此れ等の感覚器官の対象である視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・心も存在しない。
⑦無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽
❼眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識を加えた十八界も存在しない。智慧が無い状態も無ければ、智慧が無い状態が尽きる事も無い。
⑧乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得
❽又、老いて死ぬ事も無ければ、老いて死ぬ事が尽きる事も無い。苦諦(一切が苦であるという真理)・集諦(苦には原因が有るという真理)・滅諦(苦を滅すると涅槃が得られるという真理)・道諦(苦を滅する為の方法の真理)を説いた釈迦の四諦も存在しない。知る事も無ければ得る事も無い。
⑨以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
❾得るものが何も無いからこそ、菩薩は智慧の完成に依るのであり、
⑩心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想
➓心に妨げるものも存在しない。心に妨げるものが無いからこそ、恐怖も無い。だからこそ、誤った考えや夢想から離れ、
⑪究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故
⓫究極の涅槃に至るのだ。過去・現在・未来の諸仏も、智慧の完成に依って、
⑫得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多
⓬無上なる完全な悟りを得るのである。だからこそ知るべきである。「般若波羅蜜多」という智慧は、
⑬是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
⓭偉大なる真言であり、光明なる真言であり、此の上無い真言であり、比べるものが無い程素晴らしい真言なのである。
⑭能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪
⓮一切の苦悩を除き、其れは実在であり、虚ろなものでは無いのである。だからこそ、般若波羅蜜多を讃える真言を、
⑮即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦
⓯此処で説こう。往ける者よ、往ける者よ、彼岸へ往け、完全なる彼岸へ往け、
⑯菩提薩婆訶 般若心経
⓰仏の悟りは成就する。般若心経。
650 インドの天文学者・数学者ブラフマグプタが円周率に関し以下の式から1桁の精度を得る。
π= 10
=3.16227766017
656 6 17 第3代正統カリフのウスマーン・イブン・アッファーンが暗殺される。暗殺者達はムハンマド・イブン・アブドゥッラーフの娘婿で人望の厚いアリー・イブン・アビー・ターリブを次代正統カリフに擁立する。しかし、アブー・スフヤーンの息子で、ウスマーンの従兄弟のシリア総督ムアーウィヤ1世は異を唱え、殺害者達の糾明と処刑を求めた。アリーはウスマーン殺害に関与したわけではないとされるが、ウスマーン殺害者を処罰する為の力を持たず、彼らと妥協せざるを得なかった。その為ムアーウィヤ1世は、アリー自身がウスマーン殺害に直接関わったものと判断し、ウスマーンの復讐とアリーの打倒を主張した。
656 9 ムアーウィヤ1世がアリー・イブン・アビー・ターリブに使者を送り、事実上の宣戦布告を行う。
657 5 アリー・イブン・アビー・ターリブが、イラクとヒジャーズ地方(サウジアラビア西部、紅海沿岸)から招集した90,000名の兵を率い、クーファを出発する。
657 6 26 ムアーウィヤ1世とアリー・イブン・アビー・ターリブの交戦がスィッフィーン(現在のシリア)で始まる。
657 7 30 ムアーウィヤ1世がイスラム教の聖典「クルアーン」に裁定を委ねる事を提案し、アリー・イブン・アビー・ターリブがこれを呑み、戦闘が中止される。
661 ムアーウィヤ1世が、ハワーリジュ派の襲撃を撃退し、本拠地シリアのダマスカスを首都に定め、ウマイヤ朝を開く。
661 1 26 第4代正統カリフのアリー・イブン・アビー・ターリブが、クーファの大モスクにて、祈祷中に、イスラム教ハワーリジュ派のアブド・アルラフマーン・イブン・ムルジャムに毒を塗った刃で襲われる。
661 1 28 アリー・イブン・アビー・ターリブが死去。これがイスラム教が、アリーとその子孫をムハンマドの正統な後継者とみなすシーア派と、歴代カリフも認めムハンマドの言行を重視したスンナ派に分裂する切っ掛けとなる。
670 ケルアン(現在のチュニジア)の建設が始まる。
675 第40代天皇天武天皇が、仏教の不殺生戒の教えに基づき、牛・馬・犬・猿・鶏の獣肉を食べる事を禁じる「肉食禁止令」を発する。
688 第5代ウマイヤ朝カリフのアブド・アルマリクの命により、エルサレムにて、イスラム教第3の聖地となる岩のドームの建設が始まる。
690 1 23 第41代天皇持統天皇が双六禁止令を発する。
692 岩のドームが完成する。
699 8 19 大和朝廷と徳之島(現在の鹿児島県大島郡)が通じる。
740 初代ハザール王国国王ブラン王の指示で、ハザール人がユダヤ教に集団改宗する。
747 6 15 アブー・ムスリムが指揮する軍隊が、メルヴ(現在のトルクメニスタン)近郊でアッバース家の象徴である黒旗を掲げて蜂起する。
762 第2代アッバース朝カリフのマンスールがバグダードを首都とする。
799 三河国に漂着したインド人が綿の種子をもたらす。しかしこの種子は1年で途絶え、その後も何度か種子が渡来したが定着しなかった。
820 3 19 第52代天皇嵯峨天皇が、天皇の御袍に使われる黄櫨色を帝の他は誰も使用する事の出来ない絶対禁色とする。
840 ウイグルがキルギスによって滅ぼされる。
909 1 5 イスラム教イスマーイール派のウバイドゥッラーが、現地のベルベル人(北アフリカ)を軍事化し、イフリーキヤ(北アフリカ中西部)を中心にアフリカ中部を支配するイスラム教スンナ派のアグラブ朝を滅ぼし、イスラム教シーア派のファーティマ朝を建国する。
993 太陽嵐が発生する。
1,000 ヨーロッパ中に水車が広がる。
1,021 バイキングがランス・オ・メドー国定史跡(カナダのニューファンドランド・ラブラドール州ニューファンドランド島)に定住を始める。
1,054 キリスト教がローマを中心とするカトリック教会と、コンスタンティノープルを中心に信仰された東方正教会とに分裂した。
1,055 セルジューク朝がバグダードを陥落させる。
1,071 セルジューク朝がエルサレムを占領する。
1,071 8 26 マラズギルト(現在のトルコのムシュ州)でセルジューク朝と東ローマ帝国の間で戦闘が発生する。セルジューク朝が勝利を収め、第3代東ローマ帝国ドゥーカス王朝皇帝ロマノス4世ディオゲネスが捕虜となり、奴隷の印の耳輪を付けられてスルタン(王)の前に連れて行かれた。
1,095 11 27 第159代ローマ教皇ウルバヌス2世が召集したクレルモン(現在のフランスのピュイ・ド・ドーム県クレルモン・フェラン郡)で開かれた教会会議で、エルサレムがイスラム教徒のセルジューク朝に支配された事に対する聖地回復の目的で十字軍の派遣を提唱する。
1,098 7 イスラム教シーア派のファーティマ朝がエルサレムを占領する。
1,098 7 15 十字軍がエルサレムを占領する。



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