ヤルムークの戦い一元化
明け方の対峙から、総攻撃へ──
ヤルムークの戦いを一元化。
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本書について
西暦636年8月15日明け方、ヤルムーク川(現在のシリア、ヨルダン、イスラエル)にて、東ローマ帝国軍とムスリムが、1マイル未満の距離で対峙する。東ローマ帝国軍の右翼中央部の部隊の指揮官ジョージは、馬でムスリムの戦線まで駆け上がり、イスラム教に改宗した。ムスリムとして戦ったが、同日戦死した。ムスリムのムバリズンと東ローマ帝国軍の戦士との決闘で戦いは始まった。東ローマ帝国軍は、決闘により多くの戦士を失ったが、数で優っていた。ヴァハンは、歩兵部隊の1/3を使って攻撃した。ムスリムの戦線は弱かったが、東ローマ帝国軍は決意に欠けており、ムスリムの西暦624年3月17日のバドルの戦いに参加した、ズバイル・イブン・アウワームと、アブー・スフヤーンの2名を含む老兵100名に対して攻撃を加える事が出来なかった。ヴァハンは増援を送らず、2/3の兵は温存された。日没と共に両軍は其々の陣営に戻った。本書は、此のヤルムーク川での東ローマ帝国軍とムスリムの対峙から、ヴァハンによる夜明け直前の奇襲の決定、ハインド達が歌った即興歌、ダイルジャンの戦死、ハーリド・イブン・アル・ワリードの適時側面攻撃、イクリマ・イブン・アビー・ジャハルの死、ハーリド・イブン・アル・ワリードによるヴァハンの休戦の申し出の拒否、ハーリド・イブン・アル・ワリードが派遣した騎兵によるアイン・アル・ダカール橋の占領を経て、ハーリド・イブン・アル・ワリードの総攻撃による東ローマ帝国軍の敗走と、東ローマ帝国のシリア支配の終焉に至る迄を一元化した記録である。
西暦636年8月16日、ヴァハンが、軍議にて、夜明け直前に朝の祈りを行なっているムスリムを襲撃する事を決定する。ヴァハンは、中央の2つの部隊をムスリムの中央の部隊と交戦させ、主力をムスリムの両翼に差し向け、ムスリムを離散させるか、中央部に押し込む事を計画していた。戦場を観察する為に、ヴァハンは右翼の後ろに、アルメニアのボディーガード部隊と共にパビリオンを建設させ、奇襲の準備を命じた。一方、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、夜間に前線の戦力を増強させ、奇襲に備えた。戦闘が始まると、東ローマ帝国軍は、ムスリムの中央の部隊を釘付けにし、援軍の合流を阻止した。カナティールは、主にスラブ人で構成された東ローマ帝国軍の左翼を指揮し、大軍で攻撃した。結果、ムスリムの右翼は撤退を余儀無くされた。ムスリムの右翼の指揮官アムル・イブン・アル・アースは騎兵連隊に反撃を命じ、東ローマ帝国軍の侵攻を食い止めたが、多勢に無勢で、最終的に基地に後退した。又此の日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは両翼の状況を認識し、右翼の騎兵隊に、東ローマ帝国軍の左翼の北側面を攻撃する様命じ、一方自身は、機動警備隊と共に東ローマ帝国軍の左翼の南側面を攻撃し、ムスリムの右翼の歩兵は正面から攻撃した。此の3方面からの攻撃により、東ローマ帝国軍の左翼は、獲得したムスリムの陣地を放棄せざるを得なくなった。アムル・イブン・アル・アースは失地を奪回し、部隊の再編成を行なった。ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン率いる左翼の状況は深刻で、右翼の様に機動警備隊のサポートも無く、東ローマ帝国軍に数で圧倒されて陣地を蹂躙され、基地へ後退した。東ローマ帝国軍のグレゴリーの部隊は、テストゥドの陣形を採用したが、動きは遅かったものの、守備は堅固であった。スフィアンは騎兵連隊を使って反撃したが、返り討ちに遭った。ムスリムの中央の部隊は釘付けとなり、側面は押し戻された。士気が著しく低下したが、両側面は崩れなかった。撤退したムスリムを、ハインド率いる凶暴なアラブ人女性が基地で迎えた。ハインド達は、テントを解体し、テントポールで武装し、西暦625年3月23日のウフドの戦いでムスリムに向けられた即興歌「絶え間ない女から逃げる者よ/美と徳を兼ね備えた女から逃げ去る者よ/彼女を異教徒に委ね/憎むべき邪悪な異教徒に/辱めと破滅を与えよ」を歌った。此れにより、ムスリムは士気を高め戦場に戻った。又此の日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、右翼の陣地を安定させた後、機動警備隊に左翼を救援する様命じる。更に、ディラール・ビン・アル・アズワル指揮下の1個連隊を切り離し、陽動を作り出して中央左翼のダイルジャンの軍を攻撃する様命じた。ワリード自身は残りの騎兵予備隊と共に、グレゴリーの軍の側面を攻撃した。正面と側面からの同時攻撃を受けた東ローマ帝国軍は、陣形を維持しながらゆっくりと後退した。最終的にダイルジャンは戦死、ヴァハンは作戦に失敗し、ムスリムは士気を高め、日没と共に戦闘は中断された。
西暦636年8月17日、戦闘が再開され、東ローマ帝国軍がムスリムの右翼と中央右翼を攻撃する。ムスリムは東ローマ帝国軍の攻撃を食い止めた後に後退し、再度凶暴なアラブ人女性に迎えられ、虐待されて辱めを受けた。ムスリムは少し離れた所で軍隊を再編成し、反撃に備えた。東ローマ帝国軍がムスリムの右翼を集中的に狙っている事に気付いていたハーリド・イブン・アル・ワリードは、右翼騎兵と共に機動警備隊を率いて攻撃を開始した。ワリードは、東ローマ帝国軍の左翼中央部の右側を攻撃し、ムスリムの右翼中央部の騎兵予備隊は、東ローマ帝国軍の左翼中央部の左側を攻撃した。更にワリードは、ムスリムの右翼の騎兵隊に対し、東ローマ帝国軍の左翼の左側を攻撃する様命じた。戦闘は直ぐに血祭りに発展した。ワリードの適時側面攻撃によりムスリムは再び窮地を救われ、東ローマ帝国軍は戦闘開始時の陣地まで押し戻された。
西暦636年8月18日、ヴァハンはムスリムの右翼に損害を与える事に成功した為、前日の戦闘を推し進める事を決定する。カナティールは、ジャバラ・イブン・アル・アイハム率いるアルメニア人とキリスト教アラブ人の支援を受け、ムスリムの右翼と右翼中央部に対抗する為の2部隊を率いた。結果、ムスリムの右翼と右翼中央部は再び後退した。ハーリド・イブン・アル・ワリードは、機動警備隊を率い再度戦場へ赴き、アブー・ウバイダと左翼の左側に、東ローマ帝国軍の前線を攻撃する様命じた。更にワリードは、機動警備隊を2個師団に分け、東ローマ帝国軍の左翼中央部を攻撃し、更にムスリムの右翼の歩兵を正面から突撃させた。3方面からの攻撃を受け、東ローマ帝国軍の左翼中央部は後退した。又、南側面が手薄となっていた東ローマ帝国軍の左翼も後退した。其の頃、東ローマ帝国軍の弓騎兵がウバイダと、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアンの2名の部隊に矢の雨を降らせた。スフィアンを含む多くのムスリム兵が目に矢を受け、甚大な被害を被った。ムスリムは、ウバイダの左側にいた、ワリードの幼馴染であるイクリマ・イブン・アビー・ジャハル率いる1個連隊を除き、退却した。ジャハルは騎兵400名を率いてムスリムの退却を援護したが、全員が重傷を負い、死亡者も発生した。夕方、ジャハルは致命傷を負い死亡した。退却したムスリムは反撃して失われた陣地を取り戻す為、部隊の再編成を行なった。
西暦636年8月19日早朝、ヴァハンが、新たな交渉が行える様、今後数日間の休戦を求めてムスリムに特使を派遣する。ヴァハンは、前日迄の4日間で突破口を開く事が出来ず、特にムスリムの機動警備隊の側面を攻撃した際に多数の死傷者を出していた。然し、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、勝利が手の届く所にあると判断し、其の申し出を断った。此れ迄ムスリムは、防御を中心とした戦術を使っていたが、東ローマ帝国軍が戦意を失っている事を知り、攻撃に転じる為に部隊を再編成した。全ての騎兵連隊は、機動警備隊を中核とする8,000名の騎馬部隊に纏められた。ワリードは、東ローマ帝国軍を罠に嵌め、逃げ道を遮断する作戦を採った。周囲には東のワディ・アル・アッラーと、西のワディ・ウル・ラッカドと、南のワディ・アル・ヤルムークの3つの渓谷が有り、障壁となっていた。北に障壁が無かった為、騎兵隊が封鎖する事となった。夜、ワリードは、ワディ・ウル・ラッカドを横切るアイン・アル・ダカール橋が戦略的に重要であると位置付け、500名の騎兵を派遣した。派遣された騎兵は、東ローマ帝国軍を北側から回り込んで、アイン・アル・ダカール橋を占領した。
西暦636年8月20日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、騎兵部隊を率いて東ローマ帝国軍を戦場から追い出し、増援を受け取れない様分断して、側面や後方を攻撃してワディ・ウル・ラッカドへ追い込む作戦を計画する。ワリードは総攻撃を指示し、騎兵隊を東ローマ帝国軍の左翼へ差し向け、交戦させた。残りの兵は東ローマ帝国軍の左翼の後部を攻撃した。更にムスリムの右翼が正面から圧力を掛け、2方向からの攻撃を受けた東ローマ帝国軍左翼は後退して北に敗走した。次にムスリムの右翼歩兵は東ローマ帝国軍の左翼中央部の左側面を攻撃し、ムスリムの右翼中央部は正面から突撃した。ヴァハンはムスリムの騎兵隊の機動力に気付き、騎兵隊に集団を作る様命じたが、重騎兵中隊を編成している最中にワリードは正面と側面から攻撃させ、東ローマ帝国軍は混乱し、散り散りになり北へ向かって敗走した。更にワリードは、東ローマ帝国軍の左翼中央部を再度攻撃し、壊滅させた。敗北が決定的となった東ローマ帝国軍の撤退が始まり、ワリードは北への逃走を防ぐ為に騎兵を差し向けた。東ローマ帝国軍はワディ・ウル・ラッカドへ向かったが、前日にアイン・アル・ダカール橋を占領した騎兵が待ち受けていた。四面楚歌となった東ローマ帝国兵は、逃走を図ったが、急な斜面から深い渓谷に落ちた者も居れば、水中に逃げようとしたが下の岩に打ちつけられ命を落とした者も居た。然し其れでも多くの兵が逃れる事に成功したが、セオドア・トリテュリウスは戦死した。ヘラクレイオスの従兄弟ニケタスは、エメサへの脱出に成功した。ジャバラ・イブン・アル・アイハムも逃亡に成功し、其の後イスラム教に改宗した。ムスリム側もヨナが戦死し、犠牲を払った。ワリードは、逃走する東ローマ帝国兵を追跡しダマスカス付近で攻撃を仕掛けた。其の後ワリードはダマスカスの奪還に成功し、地元住民に歓迎された。ヘラクレイオスは、東ローマ帝国軍の敗北を知り激怒した。然し、ヘラクレイオスは敗因として姪のマルティナとの結婚を挙げ、アンティオキアの大聖堂に退却し、会議を招集した。夜、ヘラクレイオスは、真の十字架の聖遺物を携え、エルサレム総主教ソフロニウスによって秘密裏に船に乗せられ、コンスタンティノープルへと向かった。此の戦闘により、東ローマ帝国のシリア支配が終焉し、キリスト教の影響の強かったレバント地方は以後イスラム化が進んでいく事となる。ヤルムーク川での東ローマ帝国軍とムスリムの対峙から、ヴァハンによる夜明け直前の奇襲の決定、ハインド達が歌った即興歌、ダイルジャンの戦死、ハーリド・イブン・アル・ワリードの適時側面攻撃、イクリマ・イブン・アビー・ジャハルの死、ハーリド・イブン・アル・ワリードによるヴァハンの休戦の申し出の拒否、ハーリド・イブン・アル・ワリードが派遣した騎兵によるアイン・アル・ダカール橋の占領を経て、ハーリド・イブン・アル・ワリードの総攻撃による東ローマ帝国軍の敗走と、東ローマ帝国のシリア支配の終焉に至る迄——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。
登場人物
- ハーリド・イブン・アル・ワリード 西暦636年8月16日、ヴァハンが、軍議にて、夜明け直前に朝の祈りを行なっているムスリムを襲撃する事を決定する。一方、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、夜間に前線の戦力を増強させ、奇襲に備えた。カナティールは、主にスラブ人で構成された東ローマ帝国軍の左翼を指揮し、大軍で攻撃した。結果、ムスリムの右翼は撤退を余儀無くされた。又此の日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは両翼の状況を認識し、右翼の騎兵隊に、東ローマ帝国軍の左翼の北側面を攻撃する様命じ、一方自身は、機動警備隊と共に東ローマ帝国軍の左翼の南側面を攻撃し、ムスリムの右翼の歩兵は正面から攻撃した。此の3方面からの攻撃により、東ローマ帝国軍の左翼は、獲得したムスリムの陣地を放棄せざるを得なくなった。又此の日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、右翼の陣地を安定させた後、機動警備隊に左翼を救援する様命じる。更に、ディラール・ビン・アル・アズワル指揮下の1個連隊を切り離し、陽動を作り出して中央左翼のダイルジャンの軍を攻撃する様命じた。ワリード自身は残りの騎兵予備隊と共に、グレゴリーの軍の側面を攻撃した。正面と側面からの同時攻撃を受けた東ローマ帝国軍は、陣形を維持しながらゆっくりと後退した。最終的にダイルジャンは戦死、ヴァハンは作戦に失敗し、ムスリムは士気を高め、日没と共に戦闘は中断された。8月17日、戦闘が再開され、東ローマ帝国軍がムスリムの右翼と中央右翼を攻撃する。東ローマ帝国軍がムスリムの右翼を集中的に狙っている事に気付いていたハーリド・イブン・アル・ワリードは、右翼騎兵と共に機動警備隊を率いて攻撃を開始した。ワリードは、東ローマ帝国軍の左翼中央部の右側を攻撃し、ムスリムの右翼中央部の騎兵予備隊は、東ローマ帝国軍の左翼中央部の左側を攻撃した。更にワリードは、ムスリムの右翼の騎兵隊に対し、東ローマ帝国軍の左翼の左側を攻撃する様命じた。戦闘は直ぐに血祭りに発展した。ワリードの適時側面攻撃によりムスリムは再び窮地を救われ、東ローマ帝国軍は戦闘開始時の陣地まで押し戻された。8月18日、ヴァハンはムスリムの右翼に損害を与える事に成功した為、前日の戦闘を推し進める事を決定する。カナティールは、ジャバラ・イブン・アル・アイハム率いるアルメニア人とキリスト教アラブ人の支援を受け、ムスリムの右翼と右翼中央部に対抗する為の2部隊を率いた。結果、ムスリムの右翼と右翼中央部は再び後退した。ハーリド・イブン・アル・ワリードは、機動警備隊を率い再度戦場へ赴き、アブー・ウバイダと左翼の左側に、東ローマ帝国軍の前線を攻撃する様命じた。更にワリードは、機動警備隊を2個師団に分け、東ローマ帝国軍の左翼中央部を攻撃し、更にムスリムの右翼の歩兵を正面から突撃させた。3方面からの攻撃を受け、東ローマ帝国軍の左翼中央部は後退した。又、南側面が手薄となっていた東ローマ帝国軍の左翼も後退した。8月19日早朝、ヴァハンが、新たな交渉が行える様、今後数日間の休戦を求めてムスリムに特使を派遣する。ヴァハンは、前日迄の4日間で突破口を開く事が出来ず、特にムスリムの機動警備隊の側面を攻撃した際に多数の死傷者を出していた。然し、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、勝利が手の届く所にあると判断し、其の申し出を断った。此れ迄ムスリムは、防御を中心とした戦術を使っていたが、東ローマ帝国軍が戦意を失っている事を知り、攻撃に転じる為に部隊を再編成した。全ての騎兵連隊は、機動警備隊を中核とする8,000名の騎馬部隊に纏められた。ワリードは、東ローマ帝国軍を罠に嵌め、逃げ道を遮断する作戦を採った。周囲には東のワディ・アル・アッラーと、西のワディ・ウル・ラッカドと、南のワディ・アル・ヤルムークの3つの渓谷が有り、障壁となっていた。北に障壁が無かった為、騎兵隊が封鎖する事となった。夜、ワリードは、ワディ・ウル・ラッカドを横切るアイン・アル・ダカール橋が戦略的に重要であると位置付け、500名の騎兵を派遣した。派遣された騎兵は、東ローマ帝国軍を北側から回り込んで、アイン・アル・ダカール橋を占領した。8月20日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、騎兵部隊を率いて東ローマ帝国軍を戦場から追い出し、増援を受け取れない様分断して、側面や後方を攻撃してワディ・ウル・ラッカドへ追い込む作戦を計画する。ワリードは総攻撃を指示し、騎兵隊を東ローマ帝国軍の左翼へ差し向け、交戦させた。残りの兵は東ローマ帝国軍の左翼の後部を攻撃した。更にムスリムの右翼が正面から圧力を掛け、2方向からの攻撃を受けた東ローマ帝国軍左翼は後退して北に敗走した。次にムスリムの右翼歩兵は東ローマ帝国軍の左翼中央部の左側面を攻撃し、ムスリムの右翼中央部は正面から突撃した。ヴァハンはムスリムの騎兵隊の機動力に気付き、騎兵隊に集団を作る様命じたが、重騎兵中隊を編成している最中にワリードは正面と側面から攻撃させ、東ローマ帝国軍は混乱し、散り散りになり北へ向かって敗走した。更にワリードは、東ローマ帝国軍の左翼中央部を再度攻撃し、壊滅させた。敗北が決定的となった東ローマ帝国軍の撤退が始まり、ワリードは北への逃走を防ぐ為に騎兵を差し向けた。東ローマ帝国軍はワディ・ウル・ラッカドへ向かったが、前日にアイン・アル・ダカール橋を占領した騎兵が待ち受けていた。四面楚歌となった東ローマ帝国兵は、逃走を図ったが、急な斜面から深い渓谷に落ちた者も居れば、水中に逃げようとしたが下の岩に打ちつけられ命を落とした者も居た。ワリードは、逃走する東ローマ帝国兵を追跡しダマスカス付近で攻撃を仕掛けた。其の後ワリードはダマスカスの奪還に成功し、地元住民に歓迎された。
- ヴァハン 西暦636年8月15日明け方、ヤルムーク川にて、東ローマ帝国軍とムスリムが、1マイル未満の距離で対峙する。ムスリムのムバリズンと東ローマ帝国軍の戦士との決闘で戦いは始まった。東ローマ帝国軍は、決闘により多くの戦士を失ったが、数で優っていた。ヴァハンは、歩兵部隊の1/3を使って攻撃した。ムスリムの戦線は弱かったが、東ローマ帝国軍は決意に欠けており、ムスリムの西暦624年3月17日のバドルの戦いに参加した、ズバイル・イブン・アウワームと、アブー・スフヤーンの2名を含む老兵100名に対して攻撃を加える事が出来なかった。ヴァハンは増援を送らず、2/3の兵は温存された。日没と共に両軍は其々の陣営に戻った。8月16日、ヴァハンが、軍議にて、夜明け直前に朝の祈りを行なっているムスリムを襲撃する事を決定する。ヴァハンは、中央の2つの部隊をムスリムの中央の部隊と交戦させ、主力をムスリムの両翼に差し向け、ムスリムを離散させるか、中央部に押し込む事を計画していた。戦場を観察する為に、ヴァハンは右翼の後ろに、アルメニアのボディーガード部隊と共にパビリオンを建設させ、奇襲の準備を命じた。戦闘が始まると、東ローマ帝国軍は、ムスリムの中央の部隊を釘付けにし、援軍の合流を阻止した。カナティールは、主にスラブ人で構成された東ローマ帝国軍の左翼を指揮し、大軍で攻撃した。結果、ムスリムの右翼は撤退を余儀無くされた。又此の日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、右翼の陣地を安定させた後、機動警備隊に左翼を救援する様命じる。更にワリードは、ディラール・ビン・アル・アズワル指揮下の1個連隊を切り離し、陽動を作り出して中央左翼のダイルジャンの軍を攻撃する様命じた。ワリード自身は残りの騎兵予備隊と共に、グレゴリーの軍の側面を攻撃した。正面と側面からの同時攻撃を受けた東ローマ帝国軍は、陣形を維持しながらゆっくりと後退した。最終的にダイルジャンは戦死、ヴァハンは作戦に失敗し、ムスリムは士気を高め、日没と共に戦闘は中断された。8月17日、戦闘が再開され、東ローマ帝国軍がムスリムの右翼と中央右翼を攻撃する。8月18日、ヴァハンはムスリムの右翼に損害を与える事に成功した為、前日の戦闘を推し進める事を決定する。カナティールは、ジャバラ・イブン・アル・アイハム率いるアルメニア人とキリスト教アラブ人の支援を受け、ムスリムの右翼と右翼中央部に対抗する為の2部隊を率いた。結果、ムスリムの右翼と右翼中央部は再び後退した。8月19日早朝、ヴァハンが、新たな交渉が行える様、今後数日間の休戦を求めてムスリムに特使を派遣する。ヴァハンは、前日迄の4日間で突破口を開く事が出来ず、特にムスリムの機動警備隊の側面を攻撃した際に多数の死傷者を出していた。然し、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、勝利が手の届く所にあると判断し、其の申し出を断った。8月20日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、騎兵部隊を率いて東ローマ帝国軍を戦場から追い出し、増援を受け取れない様分断して、側面や後方を攻撃してワディ・ウル・ラッカドへ追い込む作戦を計画する。ワリードは総攻撃を指示し、騎兵隊を東ローマ帝国軍の左翼へ差し向け、交戦させた。ヴァハンはムスリムの騎兵隊の機動力に気付き、騎兵隊に集団を作る様命じたが、重騎兵中隊を編成している最中にワリードは正面と側面から攻撃させ、東ローマ帝国軍は混乱し、散り散りになり北へ向かって敗走した。
- アブー・ウバイダ 西暦636年8月18日、ヴァハンはムスリムの右翼に損害を与える事に成功した為、前日の戦闘を推し進める事を決定する。ハーリド・イブン・アル・ワリードは、機動警備隊を率い再度戦場へ赴き、アブー・ウバイダと左翼の左側に、東ローマ帝国軍の前線を攻撃する様命じた。其の頃、東ローマ帝国軍の弓騎兵がウバイダと、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアンの2名の部隊に矢の雨を降らせた。スフィアンを含む多くのムスリム兵が目に矢を受け、甚大な被害を被った。ムスリムは、ウバイダの左側にいた、ワリードの幼馴染であるイクリマ・イブン・アビー・ジャハル率いる1個連隊を除き、退却した。
- アムル・イブン・アル・アース 西暦636年8月16日、ヴァハンが、軍議にて、夜明け直前に朝の祈りを行なっているムスリムを襲撃する事を決定する。カナティールは、主にスラブ人で構成された東ローマ帝国軍の左翼を指揮し、大軍で攻撃した。結果、ムスリムの右翼は撤退を余儀無くされた。ムスリムの右翼の指揮官アムル・イブン・アル・アースは騎兵連隊に反撃を命じ、東ローマ帝国軍の侵攻を食い止めたが、多勢に無勢で、最終的に基地に後退した。又此の日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは両翼の状況を認識し、右翼の騎兵隊に、東ローマ帝国軍の左翼の北側面を攻撃する様命じ、一方自身は、機動警備隊と共に東ローマ帝国軍の左翼の南側面を攻撃し、ムスリムの右翼の歩兵は正面から攻撃した。此の3方面からの攻撃により、東ローマ帝国軍の左翼は、獲得したムスリムの陣地を放棄せざるを得なくなった。アムル・イブン・アル・アースは失地を奪回し、部隊の再編成を行なった。
- ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン 西暦636年8月16日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは両翼の状況を認識し、右翼の騎兵隊に、東ローマ帝国軍の左翼の北側面を攻撃する様命じ、一方自身は、機動警備隊と共に東ローマ帝国軍の左翼の南側面を攻撃し、ムスリムの右翼の歩兵は正面から攻撃した。ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン率いる左翼の状況は深刻で、右翼の様に機動警備隊のサポートも無く、東ローマ帝国軍に数で圧倒されて陣地を蹂躙され、基地へ後退した。東ローマ帝国軍のグレゴリーの部隊は、テストゥドの陣形を採用したが、動きは遅かったものの、守備は堅固であった。スフィアンは騎兵連隊を使って反撃したが、返り討ちに遭った。8月17日、戦闘が再開され、東ローマ帝国軍がムスリムの右翼と中央右翼を攻撃する。8月18日、ヴァハンはムスリムの右翼に損害を与える事に成功した為、前日の戦闘を推し進める事を決定する。ハーリド・イブン・アル・ワリードは、機動警備隊を率い再度戦場へ赴き、アブー・ウバイダと左翼の左側に、東ローマ帝国軍の前線を攻撃する様命じた。其の頃、東ローマ帝国軍の弓騎兵がウバイダと、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアンの2名の部隊に矢の雨を降らせた。スフィアンを含む多くのムスリム兵が目に矢を受け、甚大な被害を被った。
- ディラール・ビン・アル・アズワル 西暦636年8月16日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、右翼の陣地を安定させた後、機動警備隊に左翼を救援する様命じる。更にワリードは、ディラール・ビン・アル・アズワル指揮下の1個連隊を切り離し、陽動を作り出して中央左翼のダイルジャンの軍を攻撃する様命じた。最終的にダイルジャンは戦死、ヴァハンは作戦に失敗し、ムスリムは士気を高め、日没と共に戦闘は中断された。
- イクリマ・イブン・アビー・ジャハル 西暦636年8月18日、ヴァハンはムスリムの右翼に損害を与える事に成功した為、前日の戦闘を推し進める事を決定する。ハーリド・イブン・アル・ワリードは、機動警備隊を率い再度戦場へ赴き、アブー・ウバイダと左翼の左側に、東ローマ帝国軍の前線を攻撃する様命じた。其の頃、東ローマ帝国軍の弓騎兵がウバイダと、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアンの2名の部隊に矢の雨を降らせた。スフィアンを含む多くのムスリム兵が目に矢を受け、甚大な被害を被った。ムスリムは、ウバイダの左側にいた、ワリードの幼馴染であるイクリマ・イブン・アビー・ジャハル率いる1個連隊を除き、退却した。ジャハルは騎兵400名を率いてムスリムの退却を援護したが、全員が重傷を負い、死亡者も発生した。夕方、ジャハルは致命傷を負い死亡した。
- ズバイル・イブン・アウワーム 西暦636年8月15日明け方、ヤルムーク川にて、東ローマ帝国軍とムスリムが、1マイル未満の距離で対峙する。ヴァハンは、歩兵部隊の1/3を使って攻撃した。ムスリムの戦線は弱かったが、東ローマ帝国軍は決意に欠けており、ムスリムの西暦624年3月17日のバドルの戦いに参加した、ズバイル・イブン・アウワームと、アブー・スフヤーンの2名を含む老兵100名に対して攻撃を加える事が出来なかった。
- アブー・スフヤーン 西暦636年8月15日明け方、ヤルムーク川にて、東ローマ帝国軍とムスリムが、1マイル未満の距離で対峙する。ヴァハンは、歩兵部隊の1/3を使って攻撃した。ムスリムの戦線は弱かったが、東ローマ帝国軍は決意に欠けており、ムスリムの西暦624年3月17日のバドルの戦いに参加した、ズバイル・イブン・アウワームと、アブー・スフヤーンの2名を含む老兵100名に対して攻撃を加える事が出来なかった。
- ハインド 西暦636年8月16日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは両翼の状況を認識し、右翼の騎兵隊に、東ローマ帝国軍の左翼の北側面を攻撃する様命じ、一方自身は、機動警備隊と共に東ローマ帝国軍の左翼の南側面を攻撃し、ムスリムの右翼の歩兵は正面から攻撃した。ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン率いる左翼の状況は深刻で、右翼の様に機動警備隊のサポートも無く、東ローマ帝国軍に数で圧倒されて陣地を蹂躙され、基地へ後退した。撤退したムスリムを、ハインド率いる凶暴なアラブ人女性が基地で迎えた。ハインド達は、テントを解体し、テントポールで武装し、西暦625年3月23日のウフドの戦いでムスリムに向けられた即興歌「絶え間ない女から逃げる者よ/美と徳を兼ね備えた女から逃げ去る者よ/彼女を異教徒に委ね/憎むべき邪悪な異教徒に/辱めと破滅を与えよ」を歌った。此れにより、ムスリムは士気を高め戦場に戻った。8月17日、戦闘が再開され、東ローマ帝国軍がムスリムの右翼と中央右翼を攻撃する。ムスリムは東ローマ帝国軍の攻撃を食い止めた後に後退し、再度凶暴なアラブ人女性に迎えられ、虐待されて辱めを受けた。
- ヨナ 西暦636年8月20日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、騎兵部隊を率いて東ローマ帝国軍を戦場から追い出し、増援を受け取れない様分断して、側面や後方を攻撃してワディ・ウル・ラッカドへ追い込む作戦を計画する。敗北が決定的となった東ローマ帝国軍の撤退が始まり、ワリードは北への逃走を防ぐ為に騎兵を差し向けた。東ローマ帝国軍はワディ・ウル・ラッカドへ向かったが、前日にアイン・アル・ダカール橋を占領した騎兵が待ち受けていた。四面楚歌となった東ローマ帝国兵は、逃走を図ったが、急な斜面から深い渓谷に落ちた者も居れば、水中に逃げようとしたが下の岩に打ちつけられ命を落とした者も居た。然し其れでも多くの兵が逃れる事に成功したが、セオドア・トリテュリウスは戦死した。ムスリム側もヨナが戦死し、犠牲を払った。
- ジョージ 西暦636年8月15日明け方、ヤルムーク川にて、東ローマ帝国軍とムスリムが、1マイル未満の距離で対峙する。東ローマ帝国軍の右翼中央部の部隊の指揮官ジョージは、馬でムスリムの戦線まで駆け上がり、イスラム教に改宗した。ムスリムとして戦ったが、同日戦死した。
- カナティール 西暦636年8月16日、ヴァハンが、軍議にて、夜明け直前に朝の祈りを行なっているムスリムを襲撃する事を決定する。戦闘が始まると、東ローマ帝国軍は、ムスリムの中央の部隊を釘付けにし、援軍の合流を阻止した。カナティールは、主にスラブ人で構成された東ローマ帝国軍の左翼を指揮し、大軍で攻撃した。結果、ムスリムの右翼は撤退を余儀無くされた。8月17日、戦闘が再開され、東ローマ帝国軍がムスリムの右翼と中央右翼を攻撃する。8月18日、ヴァハンはムスリムの右翼に損害を与える事に成功した為、前日の戦闘を推し進める事を決定する。カナティールは、ジャバラ・イブン・アル・アイハム率いるアルメニア人とキリスト教アラブ人の支援を受け、ムスリムの右翼と右翼中央部に対抗する為の2部隊を率いた。結果、ムスリムの右翼と右翼中央部は再び後退した。
- グレゴリー 西暦636年8月16日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは両翼の状況を認識し、右翼の騎兵隊に、東ローマ帝国軍の左翼の北側面を攻撃する様命じ、一方自身は、機動警備隊と共に東ローマ帝国軍の左翼の南側面を攻撃し、ムスリムの右翼の歩兵は正面から攻撃した。ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン率いる左翼の状況は深刻で、右翼の様に機動警備隊のサポートも無く、東ローマ帝国軍に数で圧倒されて陣地を蹂躙され、基地へ後退した。東ローマ帝国軍のグレゴリーの部隊は、テストゥドの陣形を採用したが、動きは遅かったものの、守備は堅固であった。スフィアンは騎兵連隊を使って反撃したが、返り討ちに遭った。又此の日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、右翼の陣地を安定させた後、機動警備隊に左翼を救援する様命じる。ワリード自身は残りの騎兵予備隊と共に、グレゴリーの軍の側面を攻撃した。正面と側面からの同時攻撃を受けた東ローマ帝国軍は、陣形を維持しながらゆっくりと後退した。
- ダイルジャン 西暦636年8月16日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、右翼の陣地を安定させた後、機動警備隊に左翼を救援する様命じる。更にワリードは、ディラール・ビン・アル・アズワル指揮下の1個連隊を切り離し、陽動を作り出して中央左翼のダイルジャンの軍を攻撃する様命じた。最終的にダイルジャンは戦死、ヴァハンは作戦に失敗し、ムスリムは士気を高め、日没と共に戦闘は中断された。
- ジャバラ・イブン・アル・アイハム 西暦636年8月18日、ヴァハンはムスリムの右翼に損害を与える事に成功した為、前日の戦闘を推し進める事を決定する。カナティールは、ジャバラ・イブン・アル・アイハム率いるアルメニア人とキリスト教アラブ人の支援を受け、ムスリムの右翼と右翼中央部に対抗する為の2部隊を率いた。8月20日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、騎兵部隊を率いて東ローマ帝国軍を戦場から追い出し、増援を受け取れない様分断して、側面や後方を攻撃してワディ・ウル・ラッカドへ追い込む作戦を計画する。敗北が決定的となった東ローマ帝国軍の撤退が始まり、ワリードは北への逃走を防ぐ為に騎兵を差し向けた。東ローマ帝国軍はワディ・ウル・ラッカドへ向かったが、前日にアイン・アル・ダカール橋を占領した騎兵が待ち受けていた。四面楚歌となった東ローマ帝国兵は、逃走を図ったが、急な斜面から深い渓谷に落ちた者も居れば、水中に逃げようとしたが下の岩に打ちつけられ命を落とした者も居た。然し其れでも多くの兵が逃れる事に成功したが、セオドア・トリテュリウスは戦死した。ヘラクレイオスの従兄弟ニケタスは、エメサへの脱出に成功した。ジャバラ・イブン・アル・アイハムも逃亡に成功し、其の後イスラム教に改宗した。
- セオドア・トリテュリウス 西暦636年8月20日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、騎兵部隊を率いて東ローマ帝国軍を戦場から追い出し、増援を受け取れない様分断して、側面や後方を攻撃してワディ・ウル・ラッカドへ追い込む作戦を計画する。敗北が決定的となった東ローマ帝国軍の撤退が始まり、ワリードは北への逃走を防ぐ為に騎兵を差し向けた。東ローマ帝国軍はワディ・ウル・ラッカドへ向かったが、前日にアイン・アル・ダカール橋を占領した騎兵が待ち受けていた。四面楚歌となった東ローマ帝国兵は、逃走を図ったが、急な斜面から深い渓谷に落ちた者も居れば、水中に逃げようとしたが下の岩に打ちつけられ命を落とした者も居た。然し其れでも多くの兵が逃れる事に成功したが、セオドア・トリテュリウスは戦死した。
- ニケタス 西暦636年8月20日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、騎兵部隊を率いて東ローマ帝国軍を戦場から追い出し、増援を受け取れない様分断して、側面や後方を攻撃してワディ・ウル・ラッカドへ追い込む作戦を計画する。敗北が決定的となった東ローマ帝国軍の撤退が始まり、ワリードは北への逃走を防ぐ為に騎兵を差し向けた。東ローマ帝国軍はワディ・ウル・ラッカドへ向かったが、前日にアイン・アル・ダカール橋を占領した騎兵が待ち受けていた。四面楚歌となった東ローマ帝国兵は、逃走を図ったが、急な斜面から深い渓谷に落ちた者も居れば、水中に逃げようとしたが下の岩に打ちつけられ命を落とした者も居た。然し其れでも多くの兵が逃れる事に成功したが、セオドア・トリテュリウスは戦死した。ヘラクレイオスの従兄弟ニケタスは、エメサへの脱出に成功した。
- ヘラクレイオス 西暦636年8月20日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、騎兵部隊を率いて東ローマ帝国軍を戦場から追い出し、増援を受け取れない様分断して、側面や後方を攻撃してワディ・ウル・ラッカドへ追い込む作戦を計画する。ヴァハンはムスリムの騎兵隊の機動力に気付き、騎兵隊に集団を作る様命じたが、重騎兵中隊を編成している最中にワリードは正面と側面から攻撃させ、東ローマ帝国軍は混乱し、散り散りになり北へ向かって敗走した。ヘラクレイオスの従兄弟ニケタスは、エメサへの脱出に成功した。ヘラクレイオスは、東ローマ帝国軍の敗北を知り激怒した。然し、ヘラクレイオスは敗因として姪のマルティナとの結婚を挙げ、アンティオキアの大聖堂に退却し、会議を招集した。夜、ヘラクレイオスは、真の十字架の聖遺物を携え、エルサレム総主教ソフロニウスによって秘密裏に船に乗せられ、コンスタンティノープルへと向かった。此の戦闘により、東ローマ帝国のシリア支配が終焉し、キリスト教の影響の強かったレバント地方は以後イスラム化が進んでいく事となる。
- ソフロニウス 西暦636年8月20日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、騎兵部隊を率いて東ローマ帝国軍を戦場から追い出し、増援を受け取れない様分断して、側面や後方を攻撃してワディ・ウル・ラッカドへ追い込む作戦を計画する。ヘラクレイオスは、東ローマ帝国軍の敗北を知り激怒した。然し、ヘラクレイオスは敗因として姪のマルティナとの結婚を挙げ、アンティオキアの大聖堂に退却し、会議を招集した。夜、ヘラクレイオスは、真の十字架の聖遺物を携え、エルサレム総主教ソフロニウスによって秘密裏に船に乗せられ、コンスタンティノープルへと向かった。
主要な地名・拠点
- ヤルムーク川 西暦636年8月15日明け方、ヤルムーク川(現在のシリア、ヨルダン、イスラエル)にて、東ローマ帝国軍とムスリムが、1マイル未満の距離で対峙する。ムスリムのムバリズンと東ローマ帝国軍の戦士との決闘で戦いは始まった。
- ワディ・アル・アッラー 西暦636年8月19日早朝、ヴァハンが、新たな交渉が行える様、今後数日間の休戦を求めてムスリムに特使を派遣する。然し、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、勝利が手の届く所にあると判断し、其の申し出を断った。ワリードは、東ローマ帝国軍を罠に嵌め、逃げ道を遮断する作戦を採った。周囲には東のワディ・アル・アッラーと、西のワディ・ウル・ラッカドと、南のワディ・アル・ヤルムークの3つの渓谷が有り、障壁となっていた。北に障壁が無かった為、騎兵隊が封鎖する事となった。
- ワディ・ウル・ラッカド 西暦636年8月19日早朝、ヴァハンが、新たな交渉が行える様、今後数日間の休戦を求めてムスリムに特使を派遣する。然し、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、勝利が手の届く所にあると判断し、其の申し出を断った。ワリードは、東ローマ帝国軍を罠に嵌め、逃げ道を遮断する作戦を採った。周囲には東のワディ・アル・アッラーと、西のワディ・ウル・ラッカドと、南のワディ・アル・ヤルムークの3つの渓谷が有り、障壁となっていた。北に障壁が無かった為、騎兵隊が封鎖する事となった。夜、ワリードは、ワディ・ウル・ラッカドを横切るアイン・アル・ダカール橋が戦略的に重要であると位置付け、500名の騎兵を派遣した。派遣された騎兵は、東ローマ帝国軍を北側から回り込んで、アイン・アル・ダカール橋を占領した。8月20日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、騎兵部隊を率いて東ローマ帝国軍を戦場から追い出し、増援を受け取れない様分断して、側面や後方を攻撃してワディ・ウル・ラッカドへ追い込む作戦を計画する。東ローマ帝国軍はワディ・ウル・ラッカドへ向かったが、前日にアイン・アル・ダカール橋を占領した騎兵が待ち受けていた。四面楚歌となった東ローマ帝国兵は、逃走を図ったが、急な斜面から深い渓谷に落ちた者も居れば、水中に逃げようとしたが下の岩に打ちつけられ命を落とした者も居た。
- ワディ・アル・ヤルムーク 西暦636年8月19日早朝、ヴァハンが、新たな交渉が行える様、今後数日間の休戦を求めてムスリムに特使を派遣する。然し、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、勝利が手の届く所にあると判断し、其の申し出を断った。ワリードは、東ローマ帝国軍を罠に嵌め、逃げ道を遮断する作戦を採った。周囲には東のワディ・アル・アッラーと、西のワディ・ウル・ラッカドと、南のワディ・アル・ヤルムークの3つの渓谷が有り、障壁となっていた。北に障壁が無かった為、騎兵隊が封鎖する事となった。
- アイン・アル・ダカール橋 西暦636年8月19日早朝、ヴァハンが、新たな交渉が行える様、今後数日間の休戦を求めてムスリムに特使を派遣する。然し、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、勝利が手の届く所にあると判断し、其の申し出を断った。ワリードは、東ローマ帝国軍を罠に嵌め、逃げ道を遮断する作戦を採った。周囲には東のワディ・アル・アッラーと、西のワディ・ウル・ラッカドと、南のワディ・アル・ヤルムークの3つの渓谷が有り、障壁となっていた。北に障壁が無かった為、騎兵隊が封鎖する事となった。夜、ワリードは、ワディ・ウル・ラッカドを横切るアイン・アル・ダカール橋が戦略的に重要であると位置付け、500名の騎兵を派遣した。派遣された騎兵は、東ローマ帝国軍を北側から回り込んで、アイン・アル・ダカール橋を占領した。8月20日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、騎兵部隊を率いて東ローマ帝国軍を戦場から追い出し、増援を受け取れない様分断して、側面や後方を攻撃してワディ・ウル・ラッカドへ追い込む作戦を計画する。東ローマ帝国軍はワディ・ウル・ラッカドへ向かったが、前日にアイン・アル・ダカール橋を占領した騎兵が待ち受けていた。
- ヴァハンのパビリオン 西暦636年8月16日、ヴァハンが、軍議にて、夜明け直前に朝の祈りを行なっているムスリムを襲撃する事を決定する。戦場を観察する為に、ヴァハンは右翼の後ろに、アルメニアのボディーガード部隊と共にパビリオンを建設させ、奇襲の準備を命じた。
- ダマスカス 西暦636年8月20日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、騎兵部隊を率いて東ローマ帝国軍を戦場から追い出し、増援を受け取れない様分断して、側面や後方を攻撃してワディ・ウル・ラッカドへ追い込む作戦を計画する。敗北が決定的となった東ローマ帝国軍の撤退が始まり、ワリードは北への逃走を防ぐ為に騎兵を差し向けた。ワリードは、逃走する東ローマ帝国兵を追跡しダマスカス付近で攻撃を仕掛けた。其の後ワリードはダマスカスの奪還に成功し、地元住民に歓迎された。
- エメサ 西暦636年8月20日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、騎兵部隊を率いて東ローマ帝国軍を戦場から追い出し、増援を受け取れない様分断して、側面や後方を攻撃してワディ・ウル・ラッカドへ追い込む作戦を計画する。敗北が決定的となった東ローマ帝国軍の撤退が始まり、ワリードは北への逃走を防ぐ為に騎兵を差し向けた。東ローマ帝国軍はワディ・ウル・ラッカドへ向かったが、前日にアイン・アル・ダカール橋を占領した騎兵が待ち受けていた。四面楚歌となった東ローマ帝国兵は、逃走を図ったが、急な斜面から深い渓谷に落ちた者も居れば、水中に逃げようとしたが下の岩に打ちつけられ命を落とした者も居た。然し其れでも多くの兵が逃れる事に成功したが、セオドア・トリテュリウスは戦死した。ヘラクレイオスの従兄弟ニケタスは、エメサへの脱出に成功した。
- アンティオキア 西暦636年8月20日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、騎兵部隊を率いて東ローマ帝国軍を戦場から追い出し、増援を受け取れない様分断して、側面や後方を攻撃してワディ・ウル・ラッカドへ追い込む作戦を計画する。ヘラクレイオスは、東ローマ帝国軍の敗北を知り激怒した。然し、ヘラクレイオスは敗因として姪のマルティナとの結婚を挙げ、アンティオキアの大聖堂に退却し、会議を招集した。夜、ヘラクレイオスは、真の十字架の聖遺物を携え、エルサレム総主教ソフロニウスによって秘密裏に船に乗せられ、コンスタンティノープルへと向かった。
- コンスタンティノープル 西暦636年8月20日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、騎兵部隊を率いて東ローマ帝国軍を戦場から追い出し、増援を受け取れない様分断して、側面や後方を攻撃してワディ・ウル・ラッカドへ追い込む作戦を計画する。ヘラクレイオスは、東ローマ帝国軍の敗北を知り激怒した。然し、ヘラクレイオスは敗因として姪のマルティナとの結婚を挙げ、アンティオキアの大聖堂に退却し、会議を招集した。夜、ヘラクレイオスは、真の十字架の聖遺物を携え、エルサレム総主教ソフロニウスによって秘密裏に船に乗せられ、コンスタンティノープルへと向かった。
- レバント地方 西暦636年8月20日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、騎兵部隊を率いて東ローマ帝国軍を戦場から追い出し、増援を受け取れない様分断して、側面や後方を攻撃してワディ・ウル・ラッカドへ追い込む作戦を計画する。ヴァハンはムスリムの騎兵隊の機動力に気付き、騎兵隊に集団を作る様命じたが、重騎兵中隊を編成している最中にワリードは正面と側面から攻撃させ、東ローマ帝国軍は混乱し、散り散りになり北へ向かって敗走した。此の戦闘により、東ローマ帝国のシリア支配が終焉し、キリスト教の影響の強かったレバント地方は以後イスラム化が進んでいく事となる。
ヴァハンの奇襲から、敗走へ──
ムスリム対東ローマ帝国を一元化。
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