電子書籍「ハーリド・イブン・アル・ワリード一元化」の表紙

ハーリド・イブン・アル・ワリード一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦629年9月10日〜642年
※ヒジュラ暦は全て西暦に変換しています
ページ数
27ページ
最新更新日
西暦2,026年8月13日

敗走する軍を纏めた男が、二つの帝国を相手取った──
ハーリド・イブン・アル・ワリードの十三年を年月日単位で一元化。

JPY 200(税込)

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皇室献上品 高級トイレットペーパー
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本書について

西暦629年9月10日、ムウタ。ハリス・ビン・アムル・アル・アズディ殺害の報復として送られた3,000名のムスリムは、待ち伏せていた東ローマ帝国軍とガッサーン朝の前に崩れた。司令官ザイド・イブン・ハリータが殺害され、副官ジャファル・イブン・アビ・ターリブは両腕を切り落とされて殺害され、アブドゥッラー・イブン・ラワハもワッハーブ・イブン・サードも戦死する。絶望的な状況で旗を手にしたタビット・イブン・アクラムが仲間を結集させ、指揮を執る様に求めた相手が、ハーリド・イブン・アル・ワリードであった。ワリードは機転を働かせて潰走するムスリムを纏め上げ、無事に撤退させる。本書は、此の撤退から、西暦642年にエメサで死去する迄の十三年——背教軍とササン朝ペルシアと東ローマ帝国を相手に戦い続けた一人の司令官の全戦歴を、年月日単位で一元化した記録である。

西暦632年9月1日、ワリードは6,000名を率い、ブザカ(現在のサウジアラビアのハーイル州)でアディ・イブン・ハティム・トゥライハ率いる背教軍35,000名を破った。逃亡した残存兵はガムラで撃退される。10月1日にはナクラ(現在のサウジアラビアのリヤード州)でスライム族と戦い、其の大半を殺戮して勝利した。10月21日頃のザファール(現在のサウジアラビアのマッカ州)では、ウンム・ズンマル率いるサルマ族の背教軍と交戦する。ワリードは背教軍の強さがズンマルのリーダーシップにあると考え、母の遺したラクダに跨って指揮していたズンマルを狙い撃ちにする様、射手に指示した。駕籠が落下したズンマルは直ちに殺害され、戦闘は優位に進んだ。

10月31日頃、アブー・バクルは、自らを預言者と名乗るムサイリマとの接触の為にイクリマ・イブン・アビー・ジャハルをアル・ヤママ(現在のサウジアラビアのリヤード州)へ差し向けた。兵の足りないジャハルは、ワリードの軍の背教軍征伐の谷間期間に兵を借りたが、待機命令に反して動きムサイリマに敗れる。11月頃にはシュラビル・イブン・ハサナも同じく待ちきれずに兵を動かして敗北した。数日後に到着したワリードは、アクラバ平原にムサイリマが40,000名と共に野営しているとの情報を入手する。12月、ワリードはムサイリマ征伐に出陣した。最も激しい戦闘はワディに流れ落ちる渓谷で行われ、戦闘可能な兵が7,000名——四分の一程度——となった段階で、ムサイリマの軍は城壁のある庭園へ避難する。アンサールでサハーバのアルバラ・イブン・マリクが仲間に頼んで壁を登り、衛兵を殺して門を開いた。ウフドの戦いでムハンマドの叔父ハムザ・イブン・アブド・アル・ムッタリブを殺害し、後にイスラム教へ改宗したワフシー・イブン・ハルブが、其の時と同じ様に槍を投げる。槍はムサイリマの腹に的中し、アブー・ドゥジャーナが之を斬首した。

西暦633年頃、アル・ヒラの部族長アル・マタナ・イブン・ハリタの戦い振りからメソポタミア地方の征服を決意したバクルは、アル・ヤママに居たワリードに、志願兵のみの軍を構成してアル・ヒラへ向かう様に指示した。ワリードはササン朝ペルシア総督ホルムズドへ、ジズヤの支払いに応じれば助けるという降伏勧告の書簡を送り、応じられなかったが、其の書簡には、カーズマ(現在のクウェートのジャハラー県)を経由してアル・ウブッラ(現在のイラクのバスラ県)へ向かうと思わせる仕掛けが施されていた。3月14日頃、ワリードは10,000名でアル・ヤママを発ち、他の部族も加わって18,000名でササン朝ペルシアへ入る。第38代シャーのヤズデギルド3世はアラブ人キリスト教徒から成る部隊を編成し、将軍最高位のカリンにアル・ウブッラの守備を指示した。

4月、ワリードは兵をラクダに跨らせ、機動力で重装備の敵を疲弊させた上で攻撃する戦略を練っていた。書簡を真に受けたホルムズドはアル・ウブッラからカーズマへ進軍するが、其処にムスリムの気配は無い。斥候の報告でフフェアへ兵を差し向ければ、既に到着していたワリードは報告を受けてカーズマへ移り、追ったホルムズドは再びカーズマへ向かう事になる。疲弊させる作戦は成功した。ホルムズドは将軍クバズとアノシャガンに命じて兵達を鎖で繋ぎ、数人を倒して突破される事を防ごうとしたが、之には容易に撤退出来ないという欠点があった。ワリードは砂漠を背にして展開し、敗北した場合の退路を確保する。戦闘の序盤でホルムズドが殺害され、疲弊したササン朝ペルシア軍は耐えられず、撤退命令が出た。然し鎖で繋がれた兵は速く動けず、数千名が殺害された。

4月21日頃、カリンはアル・マダール(現在のイラクのワーシト県)で戦う事を選ぶ。ムスリムに寝返った兵が此の地を知らないであろうと考え、ユーフラテス川に近く正規軍が到着し易いと踏んだ為である。ワリードは17,000名を率い、アシム・イブン・アムル・アル・タミミとアディ・イブン・ハティムに両翼を任せて対峙した。戦いは三つの決闘から始まる。挑戦状を叩きつけたカリンにマカル・ビン・アル・アシが応じ、次いでクバズとアノシャガンにアシームとアディが応じた。何れもムスリムが勝ち、上位の将軍を失ったササン朝ペルシア軍は混乱して纏まりを失い、30,000名が殺害された。敗報を受けたヤズデギルド3世はクテシフォンで軍を再編成し、ワラジャを戦闘場所に選ぶ。ホラーサーン統治者アンダルザガールが布陣し、司令官バフマン・ジャドゥヤの到着を待った。5月、ワリードは其の合流前に殲滅する作戦を採り、前夜に騎兵を二手に分けて包囲する。数の力で圧倒されたササン朝ペルシア軍は敗れ、脱出に成功したアンダルザガールも、砂漠で遭難して脱水症状で死亡した。

5月15日頃、ワラジャの残党はハシーフ川を渡ってウライ(現在のイラクのアルカディシーヤ県)へ落ち延びる。ワラジャで二人の息子を殺害されたアブドゥル・アスワド率いるバニ・バクル族が大軍で合流した事から、ワリードはハシーフ川を渡り正面から接近した。左翼にウマル・イブン・ハッターブの息子アシム・イブン・ウマル、右翼に元キリシタンのアディ・イブン・ハティムを配し、敵が作戦を練る前に当日中に襲撃する。アスワドは決闘でワリードに敗れ殺害された。17日頃、最も激しい戦闘が行われたのはカセーエフ川である。防衛線を突破出来ずに苦戦したワリードは、勝てば敵兵の血を川に流すとアッラーに誓った。砂漠の戦闘経験と、ペルシャの馬より水を飲む回数の少ないラクダが地の利を与える。午後の早い時間に敵は川岸へ追い詰められ、ワリードは捕縛した兵を全員斬首させて、岸辺を死者の血で真っ赤に染め、誓いを守った。カーカ・イブン・アムルの助言で川のダムを開いて粉砕機を動かし、其れで作ったパンが三日間18,000名の兵を養っている。30日頃にはアル・ヒラを占領し、ムスリムは一ヶ月の休息に入った。

7月、ワリードはアンバール(現在のイラク)を包囲し、多数の弓兵に敵兵の目を狙わせて、総督シルザードを降伏させた。28日頃のアイン・アル・タムル(現在のイラクのカルバラー県)では、両翼に敵の両翼を包囲させ、本隊は後方で待機する。動かないワリードに驚いた補助部隊の司令官アッカ・イブン・カイズ・イブン・バシールが両翼との戦いに専念した所へ、護衛の少数部隊が不意を突き、ワリードは自らの両手でバシールを抱えて捕縛した。司令官が生きて捕らえられた補助部隊は戦意を失って全面降伏する。8月、ドゥマット・アル・ジャンダルで膠着していたイヤド・イブン・ガンムから、知恵は大軍よりも優れているという進言を容れた救援要請の書簡が届き、ワリードは6,000名でアイン・アル・タムルを発った。25日頃に合流したワリードは、砦の周囲を押さえてアラビア・イラク・ヨルダンへ繋がるルートを遮断し、先制すれば多大な犠牲を払うと考えて敵の攻撃を待つ。痺れを切らして二手に分かれ先制したアラブ反乱軍は圧倒され、指揮官ジュディは仲間数百名と共に捕らえられ、砦の近くで首を刎ねられた。9月1日頃、ワリードはガンムを副将軍に任命してアル・ヒラへ向かう。

9月頃、バフマン・ジャドゥヤはウライの残党とベテラン兵と新兵で新しい軍を組織し、指導者バシールの敵を討たんとするキリスト教アラブ人の従軍を得て、ルズビーをフサイドに、ザルマーをカナフィスに配した。分散した敵が団結する前に個別に戦う事を意図したワリードは、22日頃にアル・ヒラへ到着すると軍を二手に分け、ガンムを守備に残してアイン・アル・タムルへ向かう。28日頃、カーカの部隊をフサイドへ、アブ・ライラの部隊をカナフィスへ派遣した。ザルマーはカーカ自身の手で、ルズビーはイスマ・イブン・アブダラによって殺害され、敵は防御の固いムザイヤへ退却する。11月頃、ワリードは過去に殆ど例の無い、三方向からの同時夜襲を計画した。フサイド・カナフィス・アイン・アル・タムルの三箇所の軍をムザイヤから数km離れた場所に集合させ、襲撃時刻を伝えて三手に分ける。足取りを掴めなかったササン朝ペルシア軍は数千人が虐殺された。同じ夜襲は10日頃にサニーで、13日頃にズマイルで繰り返され、サニーとズマイルの隊長を兼任していたラビア・ビン・ブジャイルも殺害される。そして12月1日頃、ワリードはフィラズ(現在のイラクのアンバール県)に到着した。ササン朝ペルシアとビュザンティオンの連合軍がユーフラテス川を渡り切るのを待って出撃を命じ、前線が戦端を開いた後、後方が透かさず橋を占拠して退路を塞ぎ、両翼で包囲する。此の戦いに勝利したらメッカに巡礼すると誓ったワリードは、連合軍を破ってフィラズを占領した。

西暦634年1月、ワリードはフィラズに守備隊を置いて本隊にアル・ヒラへの帰還を命じ、少数の護衛を従えて未開拓の道をメッカへ進み、巡礼を行って誓いを果たした後、本隊の最後の一団よりも早くアル・ヒラへ戻っている。4月24日、マルジュ・ラーヒト(現在のシリアのダマスカス県)でガッサーン朝を破り、翌25日にはグータへ急襲の騎馬隊を送ってボスラ征服へ向かった。6月、アル・カルヤタイン(現在のシリアのホムス県)でガッサーン朝を破り、ボスラに到着する。先んじて差し向けられていたシュラビル・イブン・ハサナの4,000名が東ローマ帝国軍と戦い苦戦する所へ、一マイル離れた地点で風に乗る戦闘の音を聞いたワリードが駆けつけた。翌日のボスラ郊外の平原では、中央に直轄部隊、左翼にラファイ・ビン・ウマイル、右翼にディラール・ビン・アル・アズワルを置き、直轄部隊の正面に薄いスクリーンとアブー・バクルの息子アブド・アル・ラーハマーンを配する。暑さに鎖帷子とシャツを脱いだアズワルが半裸で一騎討ちを全て制し、其の名は一週間以内にシリア中に知れ渡った。此の日、隊列から抜けて来たアブー・ウバイダが、カイバルの戦いでムハンマドが使用していた黄色の旗をワリードに渡している。

7月30日のヤクサ、8月19日のマルジュ・アル・サファールでトーマスの軍を破ったワリードは、20日頃からダマスカスを他の地域から孤立させ、21日に包囲を命じた。六つの門に指揮官を置き、ディラール・ビン・アル・アズワルの機動警備隊2,000名が夜間に門の間を巡回する。9月9日にはヘラクレイオスの救援軍12,000名を、ラファイ・ビン・ウマイルの5,000名と自らの4,000名の縦隊で退けた。14日頃、包囲されていたトーマスが5,000名で先制攻撃を仕掛け、右目に矢を受けながら千の目を奪うと誓い、夜には四つの門から同時に出撃する。東門が手薄になった所へワリードは予備の古参騎兵400名を率いて加勢し、攻勢を凌ぎ切った。18日、司祭ヨナが齎した祭りと城壁の情報を得たワリードは、カーカ・イブン・アムル、マズル・イブン・アディと手を繋いで壁を登り、ロープで100名を引き上げ、東門を内側から開く。19日、和平合意を主張するウバイダと武力征服を主張するワリードの議論の末、ワリードは渋々合意を尊重し協定に署名した。そして22日、三日間の停戦が明けると、ヨナに教えられた近道を通り、アラブ人の服装でジャバル・アンサリヤ山脈を越えて難民の船団に追い付き、四方面からの攻撃で包囲して、決闘によりトーマスを殺害した。

西暦635年3月、ダマスカスの守備がヤズィード・イブン・アビ・スフィアンの軍のみとなった隙にテオドールが之を奪回すると、ウバイダとワリードが征伐に向かう。マルジュ・アル・ラムでの決闘をウバイダが制した後、ダマスカスが攻撃を受けていると知った一行は戦闘を止めて急行し、スフィアンと挟み撃ちにして、ワリードが一騎打ちでテオドールを殺害した。一週間後にはバールベックが占領され、ワリードはエメサ襲撃へ派遣される。12月、機動警備隊を先頭にエメサへ進軍し、堀に囲まれた円形の要塞都市の四つの門の向かいに部隊が配された。西暦636年3月16日頃、ハービーズがラスタン門から奇襲を掛け最大の部隊を翻弄したが、派遣されたワリードの機動警備隊が兵を再配置して攻勢に転じ、奇襲は失敗に終わる。翌日の軍議でワリードは、此の東ローマ帝国人はこれ迄会った中で最も勇敢であったと述べた上で、翌朝に包囲を強化する為南下すると見せ掛け、追って来た所を包囲して殲滅する策を献じた。18日頃、其の通りに撤退を装うと、ハービーズは5,000名で猛追し、追い付いた瞬間にムスリムは向きを変えて猛烈に攻撃する。ワリードは巨漢の将軍を決闘で破ってハービーズに迫り、ハービーズは戦死した。マアズ・イブン・ジャバルが500騎で門を塞ぎ、逃走を許したのは100名であった。

5月頃、シャイザールでキンナスリーンへ食糧を運ぶ東ローマ帝国の船団を捕縛したワリードは、尋問からヘラクレイオスの計画と大軍の位置を聞き出し、軍議でウバイダに、パレスチナとシリア北中部から撤退してジャビヤに兵力を集中させる事を指示した。更にカイサリアの東ローマ帝国軍を警戒してダルアーとデイル・アイユーブへ後退し、ヤルムーク渓谷とハラ溶岩平原をカバーする陣を敷く。戦力が分散している内に各個撃破するというヘラクレイオスの目論見は外れた。7月15日頃、ヴァハンとの和平交渉で一ヶ月の休戦が成立する。そして8月16日、夜明け前の奇襲から六日間の戦いが始まった。ワリードは夜間に前線を増強して備え、右翼が撤退を余儀なくされると、右翼騎兵と機動警備隊と歩兵の三方面からの攻撃で敵左翼に陣地を放棄させる。左翼が蹂躙され士気が落ちた時、基地で撤退兵を迎えたハインドらアラブ人女性が、テントを解体してテントポールで武装し、ウフドの戦いで歌われた即興歌を歌って、ムスリムを戦場へ押し戻した。四日目にはワリードの幼馴染イクリマ・イブン・アビー・ジャハルが騎兵400名で退却を援護して致命傷を負い、夕方に死亡する。五日目、ヴァハンが休戦を求めたが、ワリードは勝利が手の届く所にあると判断して断り、全ての騎兵連隊を機動警備隊を中核とする8,000名の騎馬部隊に纏め、夜の内に500名の騎兵でアイン・アル・ダカール橋を占領した。六日目の総攻撃で東ローマ帝国軍は北へ敗走し、ワディ・ウル・ラッカドで待ち受ける騎兵に四面楚歌となる。セオドア・トリテュリウスは戦死し、ワリードはダマスカスの奪還に成功した。ヘラクレイオスは真の十字架の聖遺物を携えてコンスタンティノープルへ去り、東ローマ帝国のシリア支配は終焉する。

同じ8月頃、ウマル・イブン・ハッターブはワリードを最高司令官から罷免し、アブー・ウバイダを据えた。ワリードはウバイダの副官の一人として従属する事となる。10月1日頃の軍議でカイサリアとエルサレムのどちらを占領するか結論が出ず、ハッターブの返答に従ってエルサレムへ向かう際も、先頭はワリードの機動警備隊であった。西暦637年2月頃、ソフロニウスがハッターブ本人の署名を条件に降伏を申し出ると、外見の似たワリードを送る案が採られたが、キリスト教アラブ人に見破られて交渉は拒まれる。4月1日、パレスチナに到着したハッターブの署名により協定が締結され、ワリードは四名の証人の一人となった。10日頃、ウバイダとワリードは17,000名でシリア北部へ向かう。6月頃のハジルでは、先制を狙ったメナス率いる7,000名の守備隊を、ワリードの騎兵連隊が後方から包囲して大敗させた。キンナスリーンに入ったワリードは、雲の中に居るならアッラーが引き上げるか降ろすであろうと通告し、守備隊を降伏させる。報告を受けたハッターブは、ワリードは真の司令官であると叫んで称賛し、司令官から解任した事は自らの判断ミスであったと初めて認めた。8月頃にはアレッポでヨアヒムの砦を包囲し、10月頃にはオロンテス川に架かる鉄橋付近の戦闘で大きな役割を果たして、30日にアンティオキアを降伏させている。

西暦638年1月1日頃、殆ど抵抗の無い儘マンビジュ遠征が終了する。3月、アル・ジャジーラ地方のキリスト教徒アラブ人がホムスを包囲すると、帰還したばかりのワリードは出撃を先導させて欲しいと訴えたが、ウバイダは増援を待つべきと判断して留めた。カーカ・イブン・アムルの4,000名が到着し、砦から出る許可を得たワリードの軍は、撤退する敵の帰還を妨害して多大な損害を与える。ワリードとイヤド・イブン・ガンムの縦隊はアル・ジャジーラ地方を征圧し、アララト平原まで北進して、更にトロス山脈まで西進した。10月頃にはアナトリア半島の東ローマ帝国軍を襲撃する縦隊の一つを率い、12月頃、ゲルマニアの守備隊を包囲してジズヤの条件で降伏させる。滅多に見られなかった戦利品を積んでキンナスリーンへ帰還したワリードは、之を贅沢に分配した。分配された者にはハドラマウトのキンダ族の族長アル・アシャス・イブン・カイスも含まれていた。之を受けてハッターブはウバイダに公開尋問と解任を命じ、尋問はホムスで実施される。マディーナへの呼び出しを受けたワリードは、出発前にキンナスリーンで別れの演説を行った。ジャビヤの評議会では、貧しいムスリムの為に資金を残さず、戦果を挙げた者・部族の貴族・詩人に戦利品を供与した事を理由に解任が告げられ、ムハンマドの与えた軍事任務に違反したとハッターブを非難したマフズミ派を除き、反対は表明されなかった。多くの仲間から報復を強く促され、クーデターを起こしてムスリムの権力を掌握するだけの戦力も保持していたが、ワリードは実行しなかった。そして西暦642年、ハーリド・イブン・アル・ワリードはエメサで死去する。


登場人物

  • ハーリド・イブン・アル・ワリード 本書の中心人物。ムウタで潰走する軍を纏め上げて撤退させた事から本書は始まる。背教軍を破り、ムサイリマを征伐し、カーズマ・アル・マダール・ワラジャ・ウライ・フィラズでササン朝ペルシアを破り、ダマスカスを陥落させ、ヤルムークの六日間を勝ち抜いた。ウマル・イブン・ハッターブに二度解任されたが報復はせず、西暦642年にエメサで死去した。
  • アブー・バクル 初代正統カリフ。ワリードにムサイリマ征伐を指示し、アル・マタナ・イブン・ハリタの戦い振りからメソポタミア征服を決意して、志願兵のみの軍でアル・ヒラへ向かう様に命じた。後にウマルが、彼は自分よりも優れた判断力を持っていたと認める事になる。
  • ウマル・イブン・ハッターブ 第2代正統カリフ。西暦636年8月頃、ヤルムークの勝利の直後にワリードを最高司令官から罷免してアブー・ウバイダを据えた。キンナスリーン降伏の報を受けた際には、ワリードは真の司令官であると称賛し、解任は自らの判断ミスであったと初めて認めたが、西暦638年12月頃、戦利品の分配を理由に再び解任した。
  • アブー・ウバイダ ボスラ郊外の戦いで、カイバルの戦いでムハンマドが使用していた黄色の旗をワリードに渡した。ダマスカス包囲ではジャビヤ門を担当し、トーマスの降伏申し出を受け入れた。西暦636年8月以降はワリードに代わる最高司令官となり、エメサ・ジャビヤ・エルサレム・シリア北部の作戦を共に進めたが、ホムスでのワリードの公開尋問も実施した。
  • ムサイリマ 自らを預言者と名乗り、アクラバ平原に40,000名と共に野営していた人物。イクリマ・イブン・アビー・ジャハルとシュラビル・イブン・ハサナを退けたが、ワリードの征伐により兵は四分の一に減り、庭園へ避難した所でワフシー・イブン・ハルブの槍を受け、アブー・ドゥジャーナに斬首された。
  • ウンム・ズンマル サルマ族の背教軍を率いた人物。母の遺したラクダに跨って指揮していたが、背教軍の強さは其のリーダーシップにあると見たワリードが射手に狙い撃ちを指示し、駕籠が落下した所を殺害された。
  • イクリマ・イブン・アビー・ジャハル ワリードの幼馴染。アル・ヤママでは待機命令に反して動きムサイリマに敗れたが、ヤルムークの四日目には、ウバイダの左側で唯一退却しなかった連隊を率い、騎兵400名でムスリムの退却を援護した。全員が重傷を負い、其の日の夕方に致命傷で死亡した。
  • シュラビル・イブン・ハサナ アル・ヤママではジャハル同様に待ちきれず敗北した。ボスラでは4,000名を率いて東ローマ帝国軍に三つの選択肢を提示し、ワリードの救援を受けた。ダマスカス包囲ではトーマスの門を担当し、エルサレム交渉ではウマルに外見の似たワリードを送る案を出した。
  • アル・ムサンナ・イブン・ハリサ アル・ヒラの部族長。メソポタミアの町を襲撃してバクルに援軍を求め、司令官に任命された。アル・マダールでは分遣隊を率い、ワリードがシリアへ抜けた後のバビロン・ナマラクでは孤軍奮闘した。
  • アシム・イブン・アムル・アル・タミミ アル・マダールとワラジャでワリードから両翼の一方を任された指揮官。アル・マダールでは決闘でアノシャガンを破った。
  • アディ・イブン・ハティム ムハンマドの仲間であったアラブ人キリスト教指導者ハティム・アット・タイの息子で、元キリシタン。アル・マダール・ワラジャ・ウライで両翼の一方を率い、アル・マダールでは決闘でクバズを破った。
  • カーカ・イブン・アムル ウライの戦いでは、川のダムを開いて粉砕機を動かす助言を行い、其れで作ったパンが三日間18,000名を養った。フサイドではザルマーを自らの手で殺害し、ダマスカスの東門奇襲ではワリードと手を繋いで城壁を登った。西暦638年にはホムスへ4,000名の増援を率いた。
  • イヤド・イブン・ガンム ドゥマット・アル・ジャンダルで膠着し、知恵は大軍よりも優れているという進言を容れてワリードへ救援を求めた。合流後はワリードの指揮下に入り、副将軍に任命されてアル・ヒラの守備を任され、後にアル・ジャジーラ地方の征圧を共にした。
  • ディラール・ビン・アル・アズワル ボスラ郊外の戦いで右翼を指揮し、暑さの為に鎖帷子とシャツを脱いで半裸で一騎討ちを全て制し、其の名は一週間以内にシリア中に知れ渡った。ダマスカス包囲では機動警備隊の騎兵2,000名で夜間巡回を担い、トーマス追撃戦では南方面を率いた。
  • ラファイ・ビン・ウマイル ボスラ郊外の戦いで左翼を指揮した。ダマスカス包囲では東門の主要部隊を率い、ヘラクレイオスの救援軍に対して5,000名でウカブ峠へ向かい、トーマスの夜間出撃では東門で攻勢を受けた。
  • ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン ダマスカス包囲ではケイサン門と小さな門を担当した。西暦635年3月、守備が自軍のみとなった隙を突かれてテオドールにダマスカスを奪回されたが、駆け戻ったワリードと挟み撃ちにして奪い返した。ヤルムークでは左翼を率い、目に矢を受けて甚大な被害を被った。
  • アムル・イブン・アル・アース ダマスカス包囲ではファラディの門を担当した。ヤルムークでは右翼を指揮し、騎兵連隊の反撃で東ローマ帝国軍の侵攻を食い止め、失地を奪回した。エルサレム協定では証人の一人となり、包囲の指揮官も務めた。
  • アルバラ・イブン・マリク アンサールでサハーバ。ムサイリマ征伐で、仲間に頼んで庭園の壁を登らせ、衛兵を殺して門を開き、内部への侵入路を作った。
  • マアズ・イブン・ジャバル エメサの戦いで500騎を率い、逃走する東ローマ帝国軍が砦へ入れない様に駆け戻って門の前に兵を配置した。
  • ヤズデギルド3世 第38代ササン朝ペルシアのシャー。ワリードの侵入を知るとアラブ人キリスト教徒の部隊を編成し、カリンにアル・ウブッラの守備を指示した。アル・マダールの敗報を受けてクテシフォンで軍を再編成し、ワラジャを戦闘場所に選んだ。
  • ホルムズド ササン朝ペルシアの総督。ジズヤの勧告に応じず、ワリードの書簡の仕掛けに嵌ってアル・ウブッラとフフェアとカーズマの間を往復させられ、疲弊した儘カーズマで対峙した。兵を鎖で繋ぐ作戦を採ったが、戦闘の序盤で殺害された。
  • カリン ササン朝ペルシアの将軍最高位。アル・ウブッラの守備を任され、カーズマの敗残兵と合流した後、ムスリムに寝返った兵が知らぬ土地であり正規軍も到着し易いと考えてアル・マダールで戦う事を選んだ。自ら挑戦状を叩きつけた決闘でマカル・ビン・アル・アシに敗れ、殺された。
  • アンダルザガール ホラーサーンの統治者。イラン人とキリスト教アラブ人から成る軍を率いてワラジャに布陣し、バフマン・ジャドゥヤの到着を待った。先にムスリムに攻撃させて疲弊した所を叩く作戦は当初奏功したが数で圧倒され、脱出には成功したものの砂漠で遭難し、脱水症状で死亡した。
  • バフマン・ジャドゥヤ ササン朝ペルシア軍最高幹部の一人。ワラジャでは総司令官として指揮する予定であったが到着が遅れ、ウライではジャバンを先行させた。後にウライの残党とベテラン兵と新兵で新たな軍を組織し、ルズビーをフサイドに、ザルマーをカナフィスに配した。
  • アブドゥル・アスワド キリスト教系アラブ部族バニ・バクル族の長。ワラジャの戦いで二人の息子を殺害され、復讐を期してウライの残党に大軍で合流し右翼を率いたが、決闘でワリードに敗れ殺害された。
  • アッカ・イブン・カイズ・イブン・バシール アイン・アル・タムルでササン朝ペルシアを支援したアラブ人キリスト教徒の補助部隊の司令官。動かないワリードに驚いて両翼との戦いに専念した所を不意打ちされ、ワリードに自らの両手で抱えられて捕縛された。其の死は、後にキリスト教アラブ人がササン朝ペルシア側で従軍する動機となった。
  • ジュディ ドゥマット・アル・ジャンダルのアラブ反乱軍の指揮官。動かないムスリムに痺れを切らして二手に分かれ先制攻撃を仕掛けたが圧倒され、仲間数百名と共に捕らえられて、砦の近くで首を刎ねられた。
  • ヘラクレイオス 東ローマ帝国皇帝。ダマスカスへ救援軍を送り、テオドールに奪回を命じ、ヤルムークではムスリムの分散を突く作戦を立てたが、何れもワリードに阻まれた。敗北を知って激怒した後、真の十字架の聖遺物を携えて秘密裏に船でコンスタンティノープルへ向かった。
  • トーマス ヘラクレイオスの義理の息子。ヤクサとマルジュ・アル・サファールで敗れた後、ダマスカスの籠城戦を指揮した。右目に矢を受けて千の目を奪うと誓い、四つの門から同時出撃したが凌がれ、ジャビヤ門で降伏を申し出た。停戦明けの追撃戦で、ワリードとの決闘により殺害された。
  • テオドール ダマスカスの守備が手薄になった隙を突いて之を奪回した東ローマ帝国の指揮官。マルジュ・アル・ラムからダマスカスへ転戦したが、駆けつけたワリードとスフィアンに挟み撃ちにされ、ワリードとの一騎打ちで殺害された。
  • ハービーズ エメサの東ローマ帝国軍の指揮官。ラスタン門からの奇襲でムスリム最大の部隊を翻弄したが、ワリードの機動警備隊に押し返された。撤退を装うワリードの策に乗って5,000名で追撃し、反転攻勢の中で戦死した。ワリードは彼を、これ迄会った中で最も勇敢な東ローマ帝国人と評した。
  • ヴァハン ヤルムークの戦いの東ローマ帝国軍総司令官。ワリードを招いて一ヶ月の休戦を実現させた後、夜明け直前の奇襲で戦端を開いた。四日間で突破口を開けず、五日目に休戦を求めたがワリードに断られ、六日目の総攻撃で軍は壊滅した。
  • メナス キンナスリーンの東ローマ帝国軍守備隊7,000名を率いた司令官。包囲される前に先制する作戦を採ってハジルで戦ったが、序盤で殺害された。其の死を知った兵は敵討ちの為に激しく攻めたが、ワリードの騎兵連隊に後方から包囲され、嘗て無い大敗を喫した。

主要な地名・拠点

  • ムウタ 西暦629年9月10日、東ローマ帝国軍とガッサーン朝の前にムスリムが崩れた戦場。指揮官が相次いで倒れる中、タビット・イブン・アクラムに求められたワリードが指揮を引き継ぎ、潰走する軍を纏めて撤退させた。本書の起点。
  • ブザカ 現在のサウジアラビアのハーイル州。西暦632年9月1日、6,000名のワリードが35,000名の背教軍を破った戦場。逃亡した残存兵はガムラで撃退された。
  • アル・ヤママ 現在のサウジアラビアのリヤード州。自らを預言者と名乗るムサイリマの拠点で、アクラバ平原に40,000名が野営していた。ジャハルとハサナが相次いで敗れた後、ワリードが征伐に出陣し、庭園に追い詰めてムサイリマを討った。
  • カーズマ 現在のクウェートのジャハラー県。ワリードが書簡でホルムズドに進軍路と思わせた地であり、フフェアとの間を往復させて疲弊させた末に対峙した戦場。鎖で繋がれたササン朝ペルシア兵は退却出来ず、数千名が殺害された。
  • アル・マダール 現在のイラクのワーシト県。カリンがユーフラテス川の近さを頼んで戦う事を選んだ地。三つの決闘を全てムスリムが制し、上位の将軍を失ったササン朝ペルシア軍は30,000名を失った。
  • ワラジャ ユーフラテス川の現在のムサンナー県とカーディーシーヤ県の県境付近。ヤズデギルド3世が、ムスリムは砂漠を背に戦うと読んで選んだ戦場。ワリードは前夜に騎兵を二手に分けて包囲し、ジャドゥヤの到着前にアンダルザガールの軍を破った。
  • ウライとカセーエフ川 現在のイラクのアルカディシーヤ県。ワラジャの残党とバニ・バクル族が合流した地。最も激しい戦闘が行われたカセーエフ川で、ワリードは勝てば敵兵の血を川に流すと誓い、捕虜を全員斬首して岸辺を赤く染めた。
  • アル・ヒラ 現在のクーファ(イラクのナジャフ県)付近。バクルがワリードに向かう様命じた目的地であり、西暦633年5月30日頃に占領された。住民はジズヤとイランへのスパイ活動を課され、ムスリムは一ヶ月の休息に入った。
  • アイン・アル・タムル 現在のイラクのカルバラー県。ワリードが本隊を後方に置いたまま両翼で包囲し、自らの両手でバシールを捕縛した戦場。後に全軍の集結地となり、フサイド・カナフィスへの派遣拠点となった。
  • ドゥマット・アル・ジャンダル 現在のサウジアラビアのジャウフ州。中央アラビア・イラク・シリアからの経路が集合する大規模商業都市。膠着したガンムの求めに応じたワリードが、砦の周囲のルートを遮断して敵の先制を待ち、指揮官ジュディを捕らえて斬首した。
  • ムザイヤ・サニー・ズマイル 何れも現在のイラクのアンバール県。キリスト教アラブ人が三手に分かれて布陣していた地で、ワリードは過去に殆ど例の無い三方向からの同時夜襲を、西暦633年11月に三度繰り返して各個に撃破した。
  • フィラズ 現在のイラクのアンバール県。ササン朝ペルシアとビュザンティオンの境界に在り、前哨基地が残っていた。ワリードは連合軍が川を渡り切るのを待って出撃し、後方に橋を占拠させて退路を塞ぎ、包囲して占領した。勝利を条件にメッカ巡礼を誓った戦いでもある。
  • ボスラ 現在のシリアのダルアー県に在るガッサーン朝の首都。ハサナの部隊が苦戦する所へ、風に乗る戦闘の音を聞いたワリードが駆けつけた。翌日の郊外の平原での戦いでは、アズワルの一騎討ちとウバイダの黄色い旗が語り草となった。
  • ダマスカス 六つの門を持つ城壁都市。ワリードは分遣隊で孤立させた上で包囲し、司祭ヨナの情報を得て東門の城壁を登り、内側から門を開いて陥落させた。後にテオドールに奪回されたが、ヤルムークの勝利の直後にワリードが奪還した。
  • エメサ 堀に囲まれた直径1マイル未満の円形の要塞都市。ムスリムは冬の寒さに耐えられず撤退すると見られていたが影響は軽微で、ワリードの撤退を装う策によりハービーズを誘い出し、包囲を成功させた。ワリードが死去した地でもある。
  • ヤルムーク ダルアーとデイル・アイユーブへ後退したムスリムが、渓谷とハラ溶岩平原をカバーして陣を敷いた地。西暦636年8月16日から六日間の戦いの末、東ローマ帝国軍はワディ・ウル・ラッカドへ追い込まれ、シリア支配が終焉した。
  • エルサレム ソフロニウスがウマル本人の署名を条件に降伏を申し出た都市。外見の似たワリードを送る案は見破られて失敗し、ウマルの到着によって協定が締結された。ワリードは四名の証人の一人となった。
  • キンナスリーン 現在のシリアのアレッポ県。ハジルでメナスの守備隊を破ったワリードが入城し、雲の中に居るならアッラーが引き上げるか降ろすであろうと通告して守備隊を降伏させた。ゲルマニアの戦利品を持ち帰り、別れの演説を行った地でもある。
  • アンティオキア オロンテス川に架かる鉄橋付近の戦闘でワリードが大きな役割を果たし、西暦637年10月30日に守備隊が降伏した。ムスリムは其の後、地中海沿岸を南下してラタキア・ジャブラ・タルトゥースを占領した。
  • アル・ジャジーラ地方 東ローマ帝国と親しいキリスト教徒アラブ人の本拠地。ホムスを包囲した彼らは援軍の到着とガンムの侵攻を知って撤退したが、砦を出たワリードの軍に帰還を妨害された。ワリードとガンムの縦隊は此処を征圧し、アララト平原まで北進、トロス山脈まで西進した。

背教軍・ササン朝ペルシア・ダマスカス・ヤルムーク──
解任と死に至る迄の全戦歴を一元化。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
YouTubeニコニコでも情報を発信中。