ハーリド・イブン・
アル・ワリード一元化
カーズマから、フィラズへ──
ムスリム対ササン朝ペルシアを一元化。
728円(税込)
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本書について
西暦629年9月10日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、ハリス・ビン・アムル・アル・アズディ殺害の報復の為にザイド・イブン・ハリータを司令官とする軍勢3,000名をシリアへ派遣したが、東ローマ帝国軍がムシャリフ村で待ち伏せていた。東ローマ帝国軍がハリータ率いる軍に攻撃を仕掛け、ムウタで戦闘が始まる。副官はジャファル・イブン・アビ・ターリブと、アブドゥッラー・イブン・ラワハの2名が務めた。アブドゥッラーフは「ハリータが負傷または死亡した場合、ターリブが指揮を引き継ぐ。ターリブが死傷した場合は、ラワハがその代わりを務める。ラワハが殺された場合は、ムスリムが自ら指揮官を任命する様に」と指示を出していた。戦闘は2つの高台に挟まれた谷間で行われ、東ローマ帝国軍の数的優位は失われた。然しハリータ率いる軍は東ローマ帝国とガッサーン朝の前に劣勢となり、指揮官であるハリータは殺害された。ターリブは「私の息子達の様に戦える者はいない、何故なら彼らが戦場にいる時、最も獰猛だからだ。楽園が近づくにつれ、なんと素晴らしいことか。その飲み物は、なんと心地よく、涼しいことか。東ローマ帝国人への罰はそう遠くない」と言ったが、東ローマ帝国軍に背後から殴られ、両腕を切り落とされ殺害された。又、ラワハやワッハーブ・イブン・サードも戦死してしまう。タビット・イブン・アクラムは、此のムスリムの絶望的な状況を打開する為に旗を手にし、仲間を結集させ敗走した。其の後ハーリド・イブン・アル・ワリードに指揮を執る様求めた。そしてワリードは機転を働かせて潰走するムスリムを纏め上げ、無事に撤退させた。ムスリムは東ローマ帝国軍の規模を知るとマディーナからの援軍を待ち望んだ。然し、ラワハは殉教を思い出させ、援軍を待つという行為を否定し、進軍させた。アブドゥッラーフはターリブの死の知らせを聞くと「ターリブは勇敢で忠実な兵士であった。神は彼に永遠の命を与え、戦いで切り落とされた腕の代わりに、主は彼に一対の翼を与えた」と言い冥福を祈った。又、ターリブの妻であり未亡人となったアスマは「神の使徒が私のところに来て”ターリブの子供達はどこにいるのか”と尋ねました。私は彼らを連れて行くと、彼は彼らを抱きしめ匂いを嗅いだ後、目を潤ませ泣いた。神の使徒よ、と私は”ターリブについて何か聞いたか”と尋ねた。神の使徒は”はい、彼は今日、殉教したのです”と答えた。私は立ち上がって叫び、女性達が私のところに来た。アブドゥッラーフは”アスマよ、卑猥な言葉を口にしたり、胸を張ったりしてはならない”と言い始めたのです」という主旨の発言をした。更にアブドゥッラーフは「アスマよ、喜ばないのか?神はターリブに2つの翼を与え、ターリブは楽園へと飛び立っていった」と言った。其れからアブドゥッラーフは娘のファーティマに「ターリブの家族の為に食べ物を用意しなさい、今日は忙しそうだから」と言った。本書は、此のハーリド・イブン・アル・ワリードによるムウタでのムスリムの撤退から、ハーリド・イブン・アル・ワリードのブザカでの勝利とムサイリマ征伐への出陣、ホルムズドのカーズマでの戦死、ササン朝ペルシア軍のアル・マダールとワラジャでの敗北、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍のアル・ヒラ占領、ムスリムのフィラズ占領、ハーリド・イブン・アル・ワリードのメッカ巡礼とダマスカス包囲の命令、ハーリド・イブン・アル・ワリードによるトーマスとテオドールの殺害、東ローマ帝国軍のワディ・ウル・ラッカドへの敗走、ウマル・イブン・ハッターブによるハーリド・イブン・アル・ワリードの最高司令官からの罷免、ウマル・イブン・ハッターブの署名によるエルサレムの協定の締結を経て、ウマル・イブン・ハッターブによるハーリド・イブン・アル・ワリードの解任と、ハーリド・イブン・アル・ワリードのエメサでの死去に至る迄を一元化した記録である。
西暦632年9月1日、ハーリド・イブン・アル・ワリードが6,000名の兵を率い、ブザカ(現在のサウジアラビアのハーイル州)でアディ・イブン・ハティム・トゥライハ率いる背教軍35,000名を破り勝利する。其の後ガムラ(現在のサウジアラビアのマディーナ州)にて、ワリードの軍がブザカから逃亡した残存兵を撃退する。10月1日、ハーリド・イブン・アル・ワリードの軍とアラブ部族であるスライム族との戦闘がナクラ(現在のサウジアラビアのリヤード州)で行われ、ワリードの軍が同部族の大半を殺戮し勝利する。10月21日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードの軍がウンム・ズンマル率いるサルマ族背教軍とザファール(現在のサウジアラビアのマッカ州)で交戦する。ワリードは背教軍の強さをズンマルのリーダーシップにあると考え、母の遺したラクダに跨り背教軍を指揮していたズンマルを狙い撃ちにする様射手に指示した。結果、ズンマルを乗せた駕籠が落下し直ちにムスリムによって殺害され、ワリードの軍が戦闘を優位に進め勝利する。
西暦632年10月31日頃、アブー・バクルが、戦闘を行わずに自らを預言者と名乗るムサイリマと接触し拘束する事を意図し、イクリマ・イブン・アビー・ジャハルをアル・ヤママ(現在のサウジアラビアのリヤード州)に差し向ける。ジャハルは十分な兵力を持っていなかった為、ハーリド・イブン・アル・ワリードの軍の背教軍征伐の谷間期間に兵を借りた。又、ジャハルは次の指示が出るまで待機する様命じられていたが、前月1日にワリードがアディ・イブン・ハティム・トゥライハ率いる背教軍を破り勝利した事と、ジャハルと同様に次の指示が出るまで待機する様命じられていたイスラム教改宗者でサハーバのシュラビル・イブン・ハサナが、ジャハルと合流する為に進軍しており数日で到着する見込みであった事と、ワリードがサルマを征圧した事の報告を受け兵を動かし、ムサイリマに敗北する。バクルに書簡を送り行動の全容を報告した。報告を受けたバクルはジャハルの軽率な行動に怒りを覚えた。バクルはアルファジャの援護の為にマフラ(現在のイエメン)に向かい、ジャハルに対してもムハージルーンを助ける為にイエメンに向かう様指示した。ハサナはアル・ヤママに留まった。バクルはハサナがジャハルと同じ過ちを犯さない様書簡にてアル・ヤママに留まって次の指示を待つ様念を押し、ワリードに対しムサイリマ征伐の指示を出した。更にハサナに対して後日到着するワリードの軍の指揮下に入る様書簡にて指示を出した。11月頃、シュラビル・イブン・ハサナが、前月のイクリマ・イブン・アビー・ジャハルと同様に待ちきれずに兵を動かしムサイリマに敗北する。其の数日後ハーリド・イブン・アル・ワリードが到着し、アル・ヤママのアクラバ平原にムサイリマが40,000名の兵と共に野営しているとの情報を入手した。
西暦632年12月、ハーリド・イブン・アル・ワリードがムサイリマ征伐の為出陣する。最も激しい戦闘が行われたのはワディ(現在のサウジアラビアのリヤード州)に流れ落ちる渓谷であった。ムサイリマの軍が戦闘可能な状態にある兵が7,000名、1/4程度となった段階で城壁のある庭園へ避難し、少数の護衛が援護した。アンサールでサハーバのアルバラ・イブン・マリクが仲間に頼んで壁を登らせ、其処にいる衛兵を殺して門を開け庭園に侵入した。ムサイリマは、西暦625年3月23日のウフドの戦いでムハンマド・イブン・アブドゥッラーフの叔父ハムザ・イブン・アブド・アル・ムッタリブを殺害し、其の後イスラム教に改宗したワフシー・イブン・ハルブの標的となり、ハルブはムッタリブを殺害した時と同様に槍を投げた。槍はムサイリマの腹に的中しアブー・ドゥジャーナがムサイリマを斬首、7,000名の兵が虐殺された。
西暦633年頃、ムスリムでササン朝ペルシアとの国境付近のアル・ヒラ(現在のクーファ(イラクのナジャフ県)付近)の部族長アル・マタナ・イブン・ハリタがメソポタミア地方のササン朝ペルシアの町を襲撃する。然しササン朝ペルシアの反撃を受けた為アブー・バクルに援軍を要請し、結果勝利して相当量の戦利品を得た。其の後ハリタはマディーナへ赴きバクルに戦勝報告を行い、バクルから司令官に任命され、メソポタミア地方の襲撃に邁進する事となった。軽騎兵の機動力を活かし、砂漠近くの町を襲撃し、砂漠に身を隠す戦法を採った。バクルは此の戦い振りからメソポタミア地方の征服を決意し、アル・ヤママにいたハーリド・イブン・アル・ワリードに、指揮官として志願兵のみの軍を構成しアル・ヒラへ向かいササン朝ペルシアと戦う様指示した。ワリードはササン朝ペルシア総督ホルムズドに対して「イスラムに於ける人頭税であるジズヤの支払いに応じれば助ける」という主旨の降伏勧告の書簡を送る。然しホルムズドが此れに応じなかった。又、ワリードは書簡の中でカーズマ(現在のクウェートのジャハラー県)を経由してアル・ウブッラ(現在のイラクのバスラ県)へと向かうルートで進軍するとホルムズドに思わせる様仕向けた。西暦633年3月14日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードが10,000名の軍勢を率いアル・ヒラへ向けてアル・ヤママを出発する。其の後他の部族も加わり、ワリードは18,000名の兵を率いササン朝ペルシアに入った。第38代ササン朝ペルシアのシャーのヤズデギルド3世が、司令官の報告から其の事を知り、アラブ人キリスト教徒から成る部隊を編成した。又、万が一ワリードが勝利した場合に備え、将軍最高位のカリンにササン朝ペルシアの重要な港であるアル・ウブッラの守備を指示した。
西暦633年4月、ハーリド・イブン・アル・ワリードは兵をラクダに跨らせ、機動力で重装備のササン朝ペルシア軍を疲弊させた上で攻撃を仕掛ける戦略を練っていた。ホルムズドがワリードの術中に嵌り、以前ワリードから受け取った書簡からワリードがカーズマを経由して来る事を予測し、アル・ウブッラからカーズマへと進軍する。然しカーズマにはムスリムの気配は無かった。やがてホルムズドは斥候からワリードがフフェアに向かっているとの報告を受けた。フフェアはアル・ウブッラから21マイルしか離れていない為、ホルムズドの拠点のアル・ウブッラが危険に晒される事となった。直ちにホルムズドは50マイル離れたフフェアに兵を差し向けた。既にフフェアに到着していたワリードは、ホルムズドの軍がフフェアに向かっているとの報告を斥候から受けるとカーズマへ移動した。其の後フフェアに到着したホルムズドの軍はワリードの軍がカーズマへ向かっている事を知ると、再びカーズマへの進軍を指示した。こうしてワリードのササン朝ペルシア軍を疲弊させる作戦が成功し、ワリードの軍とホルムズドの軍がカーズマで対峙する事になった。ホルムズドは将軍のクバズとアノシャガンに指示し、兵達を鎖で繋ぎ敵が数人を倒して突破する可能性を軽減する作戦を採った。ただ此の作戦には容易に兵を撤退させる事が出来ないという欠点があった。ホルムズドはカーズマの西の端の前方に軍を展開し、都市を覆うような配置をとり、ハリードは砂漠を背にして軍を展開し、敗北した場合には其処に退却出来る様にした。戦闘が始まったものの、ホルムズドは戦いの序盤で殺害され、疲弊したササン朝ペルシア軍は攻撃に耐える事が出来ず、将軍のクバズとアノシャガンは敗北を察知し、撤退命令を出した。然し、鎖で繋がれていない兵は退却出来たものの、繋がれていた兵は速く動く事が出来ず、数千名が殺害された。
西暦633年4月21日頃、カーズマの戦いで敗れたササン朝ペルシアのクバズとアノシャガンの部隊がカリンとアル・ウブッラで合流する。クバズとアノシャガンは生存者の中にササン朝ペルシアを裏切りムスリムに与した兵がいた事を伝えると、アル・ウブッラから去る者が現れた。此れに慌てたカリンは、ムスリムに寝返った兵はアル・マダールを知らないであろうと考えた事と、ユーフラテス川に近く、ササン朝ペルシアの正規軍が到着し易いであろうと考えた事の2点の理由からアル・マダール(現在のイラクのワーシト県)で戦う事にした。ハーリド・イブン・アル・ワリードはササン朝ペルシア軍がアル・マダールにいる事を把握し、アル・ムサンナ・イブン・ハリサ率いる分遣隊を送りこみ、自身もアル・マダールへ向かった。ワリードが到着した時、ササン朝ペルシアの船が川の端に到着しているのを見て、まだ戦闘準備が整っていない事を理解した。ワリードの狙いは経験豊富なベテラン兵が到着する前に先制する事であった。ワリードは17,000名の兵を率い、アシム・イブン・アムル・アル・タミミとアディ・イブン・ハティムに両翼を任せ、ササン朝ペルシア軍と対峙した。対するカリンはクバズとアノシャガンに両翼を任せ、川を背にして展開し、川岸には撤退を容易にする為の船団が準備されていた。戦いは、マカル・ビン・アル・アシ(ムスリム)対カリン(ササン朝ペルシア)、アシーム(ムスリム)対アノシャガン(ササン朝ペルシア)、アディ(ムスリム)対クバズ(ササン朝ペルシア)の3つの決闘で始まった。最初に挑戦状を叩きつけたのはカリンであった。其れに対しマカル・ビン・アル・アシがムスリムの前列に乗り出して来た。アシは熟練した剣士であったのでワリードは呼び戻す事はしなかった。カリンが敗れ、殺されると、クバズとアノシャガンが名乗りを上げ、アシームとアディが其れに応じた。何れもムスリムが勝利し、本格的な戦闘が始まった。ササン朝ペルシア軍は暫くは持ち堪えたが、上位の将軍を失った事で混乱し、纏まりを失った。最終的には川岸へ向きを変えた。此の戦いでササン朝ペルシアは30,000名が殺害された。
西暦633年4月頃、ヤズデギルド3世がクテシフォン(現在のイラクのバービル県)にてアル・マダールで自軍の敗北報告を受け、追加で2つの軍を招集して軍を再編成する。数日後には第一陣の出撃準備が整った。ヤズデギルド3世は、ムスリムが撤退する場合に備え砂漠を背に戦うと読み、ワラジャ(ユーフラテス川の現在のムサンナー県とカーディーシーヤ県の県境付近)を戦闘場所に選んだ。ホラーサーン統治者アンダルザガールが、ワラジャに出撃する様命じられ、間も無く別の軍と合流し、イラン人とキリスト教アラブ人から成る軍を率いてクテシフォンを出発した。其の後カシュカルでティグリス川を渡り、南西に移動してユーフラテス川を渡り、ワラジャに布陣した。其の道中何千名ものアラブ人が合流し、カーズマとアル・マダールでの戦の残党も加わった。アンダルザガールは数日後にワラジャに到着する予定のササン朝ペルシア軍最高幹部の一人の司令官バフマン・ジャドゥヤの軍を待つ事にした。アンダルザガールよりも数日遅くクテシフォンを出発した為遅れる事になった。ジャドゥヤもヤズデギルド3世からワラジャへ挙兵する事を命じられ、計画では総司令官として軍を指揮する予定であった。同じ頃ハーリド・イブン・アル・ワリードが、送り込んだスパイから、ササン朝ペルシア軍がワラジャに布陣している事と、兵の数がかなり多い事と、別の軍と合流する為にワラジャに留まっている事の報告を受けた。ワリードは元々アル・ヒラに向かう予定であり、ワラジャは丁度其のルートの中に入っていた。ワリードはアル・ヒラの方角へ向かって、5,000名の騎兵と10,000名の歩兵を率い出撃した。ワリードはジャドゥヤのワラジャ到着予定日の数日前にワラジャの近くに宿営した。5月、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、バフマン・ジャドゥヤの軍がワラジャに到着する前にアンダルザガールの軍を殲滅する作戦を取った。ハリードはスウェイド・ビン・ムカーリンに、征服した地区の管理を役人と行うよう指示し、北と東からの敵が来る可能性がある為ティグリス川下流を守る事を意図し分遣隊を配置した。又、ワリードは兵の数がササン朝ペルシア軍を上回っていた事を知っていた為、戦の前夜に騎兵を二手に分けササン朝ペルシア軍を包囲した。更にアル・マダールでの戦闘と同じくアシム・イブン・アムル・アル・タミミとアディ・イブン・ハティムに両翼を任せた。アンダルザガールは先にムスリムに攻撃させて、疲弊した所を反撃する作戦を取った。当初はアンダルザガールの作戦通りに事が運んだものの、最終的には数の力で圧倒され、ササン朝ペルシア軍は敗北した。然し数千名の兵はムスリムの包囲網から脱出する事が出来た。アンダルザガールも脱出に成功したが、砂漠で遭難し脱水症状で死亡した。
西暦633年5月15日頃、ワラジャでの戦闘で敗れたササン朝ペルシア軍の残党が、ユーフラテス川の支流ハシーフ川を渡り、ユーフラテス川の間を移動しながらウライ(現在のイラクのアルカディシーヤ県)に落ち延びた。ムスリムはウライにササン朝ペルシア軍の残党がいる事を認識していたが、数が少なく問題視していなかった。然し、アル・ヒラとウライの間にいた、ワラジャの戦いで2名の息子を殺害されたアブドゥル・アスワド率いるキリスト教系アラブ部族であるバニ・バクル族が大軍で合流した事で、ハーリド・イブン・アル・ワリードはハシーフ川を渡り、ウライに正面から接近した。アスワドはムスリムへの復讐を考えていた。ヤズデギルド3世はバフマン・ジャドゥヤにアラブの部隊を指揮しウライでムスリムの侵攻を止める様指示した。ジャドゥヤは、上級将軍ジャバンにササン朝ペルシア軍を率いさせてウライに向けて先行させ、自身が到着する迄戦闘を避ける様指示した。ジャバンは出陣したものの、ヤズデギルド3世と、ある問題について話し合う為にクテシフォンに戻った。然しヤズデギルド3世が重病である事を知り、看病を行う事になった。ササン朝ペルシア軍はムスリムの目的はアル・ヒラを占領する事であると読んでいた。ムスリムの司令官の一人アル・ムタンナ・イブン・ハリサが軽騎兵の斥候と共にウライへ進軍し、ワリードにササン朝ペルシア軍の居場所を知らせた。ワリードは自軍を大きく上回る軍勢との戦闘を避ける為に援軍が到着する前に、ウライに到着しようとしたが失敗した。ワリードはササン朝ペルシア軍が作戦を練る前に戦闘を開始する事を計画し、当日中に襲撃した。ワリードは2名に両翼を任せ、軍陣を整列させた。左翼がウマル・イブン・ハッターブの息子アシム・イブン・ウマル、右翼がムハンマド・イブン・アブドゥッラーフの仲間であったアラブ人キリスト教指導者ハティム・アット・タイの息子で元キリシタンのアディ・イブン・ハティムであった。昼前、ジャバンがムスリム侵攻の報告を受けた。ササン朝ペルシア軍は其れを受け、食事の時間であったがムスリムに対し強靱さを示す為に、食事を摂らずに軍の編成を行った。中央にササン朝ペルシア軍、両翼を2名のアラブ人キリスト教徒に任せた。左翼が部族長アブジャル、右翼が部族長アブドゥル・アスワドであった。然しアスワドは決闘でワリードに敗れ殺害された。5月17日頃、ムスリムとササン朝ペルシア軍の戦闘が最も激しかったのはカセーエフ川であった。ハーリド・イブン・アル・ワリードはササン朝ペルシア軍の防衛線を突破出来ずに苦戦している最中、アッラーに祈り、戦いに勝てば敵兵の血を川に流すと約束した。ムスリムは砂漠の戦闘の経験値が豊富であった為、兵力ではササン朝ペルシア軍に劣っていたが、劣勢になると砂漠に身を隠す等して、地の利を活かした。又、アラブのラクダは、ペルシャの馬に比べて水を飲む回数が少なかった。ワリードは砂漠をラクダの補充に利用した。ワリードは賄賂により他の部族もササン朝ペルシア軍に与して補給路を断たれる事を危惧していた。午後の早い時間にササン朝ペルシア軍はムスリムの攻撃に耐えきれず、アル・ヒラの方角へ退却し、川岸に追い詰められた。ワリードはササン朝ペルシア軍の捕縛した兵を全員斬首させ、何千名もの死者の血により、カセーエフ川の岸辺は死者の多さで真っ赤に染まり、アッラーとの約束を守った。又、ジャバンは逃走した。ワリードは、戦闘の最中ムスリム指揮官の一人であるカーカ・イブン・アムルの助言により、川のダムを開くよう命じ、水を流し込んで粉砕機を動かし、其れでパンを作り、3日間18,000名の兵士を養った。ワリードはウライの住民にジズヤとイランへのスパイとして活動する事を課した。
西暦633年5月30日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍がアル・ヒラにてササン朝ペルシアと戦闘を行いアル・ヒラを占領、地元住民はムスリムに多額の貢物を払い、ウライの住民と同様にジズヤとスパイとしての活動を課せられた。其の後ムスリムは1ヶ月の休息に入った。7月、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍がアンバール(現在のイラク)を包囲する。ワリードは多数の弓兵に敵兵の目を狙う様指示した。ササン朝ペルシアは激しく抵抗したものの最終的に総督シルザードが降伏し、アンバールは陥落した。
西暦633年7月28日頃、アイン・アル・タムル(現在のイラクのカルバラー県)にて、ササン朝ペルシアを支援するアラブ人キリスト教徒による補助部隊がハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍と交戦する。ワリードは、両翼に補助部隊の両翼を包囲させ、自身の率いる本隊は後方で待機した。以前ムスリムとの契約を破った非ムスリムでアラブ人キリスト教徒で補助部隊の司令官のアッカ・イブン・カイズ・イブン・バシールは、ワリードが兵を動かさない事に驚き、自軍を包囲したムスリムの両翼の部隊との戦いに専念する事にした。イランのミハラン家貴族ミハラン・バフラム・イ・チュビン等のササン朝ペルシア兵はアイン・アル・タムル城内で待機していた。そんな中ワリードを護衛していた少数の部隊が不意を突いて、バシールに戦いを挑んだ。最終的にワリードはバシールを自らの両手で抱えて捕縛した。補助部隊はバシールが生きて捕らえられた事で戦意を失い、直ちにムスリムに対し全面降伏した。其の後ムスリムはバシールを晒してアイン・アル・タムルを行進し、アラブ人キリスト教徒が待機していたアイン・アル・タムル城を包囲して、アラブ人を大量に含むササン朝ペルシアの補助部隊を降伏させる。更に守備隊の防衛者の前に並び「降伏して門を開けないなら処刑する」と脅した。守備隊が拒否した為、壁の後ろで戦い、ワリードは直ちにバシールを含むすべての捕虜を処刑するよう命じた。又、ムスリムはアイン・アル・タムルを征圧の際、修道院の中で40名のアラブ人キリスト教徒の聖歌隊を発見し、其の40名の子供達をマディーナへ連行し、改宗させた。此の聖歌隊の殆どが後のイスラムの重要人物の祖先である。其の重要人物は、ウマイヤ朝総督ムーサ・ビン・ヌサイル(副官であったタリク・ビン・ジヤドの下で父も従軍し、スペインを征服した軍隊の最高司令官であった)と、イスラム神学者イブン・シリンと、アッバース朝の歴史家フナイン・イブン・イスハークと、詩人アブダッラー・イブン・アムラーである。
西暦633年8月、アブー・バクルからドゥマット・アル・ジャンダルにてアラブ反乱軍を鎮圧する様命を受けたイヤド・イブン・ガンムが、マリッドと呼ばれる砦の南面に軍を展開し、弓矢にてドゥマット・アル・ジャンダルを守備していたカルブ族を攻撃し、数週間戦闘を行ったが膠着状態となり任務に失敗、ガンムはある将校の「状況によっては、知恵は大軍よりも優れている」という進言により、ハーリド・イブン・アル・ワリードに助けを求める主旨の書簡を送る。ワリードはアイン・アル・タムルからアル・ヒラに向かおうとしている際に其の書簡を受け取った。又8月、ハーリド・イブン・アル・ワリードが前日のイヤド・イブン・ガンムの書簡を受けて、6,000名の兵を率い援軍としてアイン・アル・タムルを出発しドゥマット・アル・ジャンダルへと向かう。8月25日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードがドゥマット・アル・ジャンダルに到着し、イヤド・イブン・ガンムと合流する。然しワリードの軍の行動はドゥマット・アル・ジャンダルを守備していたアラブ反乱軍に何日も前から把握されていた。ササン朝ペルシアはワリードが軍の大部分を連れてアラビアに戻ったと考え、ムスリムを砂漠へ追いやり、失った自国の領土と威信を取り戻そうと考えた。ガンムの軍だけなら打ち払う事が出来るがワリードの軍が加われば持ち堪えられないと考え、近隣の部族に急使を送り援軍を要請した。結果、ガッサーン族・カルブ族等の幾つかの部族が駆け付け、砦の守備に就いた。ワリードはガンムを指揮下に置き、砦の周囲を押さえアラビア・イラク・ヨルダンへと繋がるルートを遮断してアラブ反乱軍を包囲し、敵が攻撃を仕掛けて来るのを待った。先制すれば多大な犠牲を払うと考えた為である。アラブ反乱軍の指揮官ジュディはムスリムが攻撃して来るのを待っていたが、動いて来なかった為、ワリードとガンムの陣を攻撃する為二手に分かれ、先制攻撃を仕掛けた。然しワリードとガンムの軍に其々圧倒され、ジュディは仲間数百名と共に捕らえられ、ワリードがムスリム達に見える様砦の近くまで連行し、部下にジュディと其の仲間の首を刎ねさせた。結果、アラブ反乱軍の大半が殺害され、多くの若者・女性・子供が捕虜となった。9月1日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードがイヤド・イブン・ガンムを副将軍に任命し、アル・ヒラへと向かう。
西暦633年9月頃、バフマン・ジャドゥヤが、ウライの戦いの残党と、ササン朝ペルシア領内の駐屯地から引き抜いたベテラン兵と、新兵で新しい軍隊を組織する。多くの新兵がいた為、戦力は以前と比べると劣っていた。其処でキリスト教アラブ人に従軍を依頼した。キリスト教アラブ人は前月に戦死した、自分達の指導者であったアッカ・イブン・カイズ・イブン・バシールの敵を討つ事を計画し、ムスリムに奪われた土地を取り戻し、捕縛された仲間の解放を切望していた為、快く引き受けた。戦力の増強の目処が立ったジャドゥヤは、ルズビー(フサイドに配置)と、ザルマー(カナフィス(現在のシリアのホムス県)に配置)の2名を指揮官に指名しクテシフォンから出撃させた。此の時点ではキリスト教アラブ人が戦闘の準備が整っていなかったので、此れ等の場所から動く事は無かった。ジャドゥヤは作戦を、ササン朝ペルシア軍を一ヶ所に集中させムスリムの攻撃を待つか、南下してアル・ヒラでムスリムと戦うかの2択で考えていた。此の作戦はハーリド・イブン・アル・ワリードがアル・ヒラに到着する前に予期していたものであった。此の時点ではキリスト教アラブ人は、ムザイヤ(現在のイラクのアンバール県)と、サニー(現在のイラクのアンバール県)と、ズマイル(現在のイラクのアンバール県)の三手に戦力を分散させていた。隊長は、ムザイヤがフザイル・ビン・イムラン、サニーがラビア・ビン・ブジャイル、ズマイルがブジャイル(サニーと兼任)であった。9月22日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードがアル・ヒラに到着する。分散したササン朝ペルシア軍が団結して攻勢をかけてきた場合、状況が不利になると読んだワリードは、個別に戦う事を意図し、ムスリムを二手に分け、カーカと、アブ・ライラの2名の指揮下に置いた。カーカの部隊は、アル・バララとアル・キヤラ(指揮官はイスマ・イブン・アブダラ)の2師団から成る。ワリードは、アル・ヒラの守備の為にイヤド・イブン・ガンムを残し、此れ等の部隊と共にアイン・アル・タムルへ向かった。其の後前月のドゥマット・アル・ジャンダルの戦いに参戦した兵を休息させ、其の兵を率い自身も合流した。9月28日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードが、全軍をアイン・アル・タムルに集結させる。其の後カーカの部隊をフサイドへ、アブ・ライラの部隊をカナフィスへ派遣した。又、予備軍をアイン・アル・タムルに残し、サニーとズマイルに布陣しているササン朝ペルシア軍がアル・ヒラを攻撃しないか警戒していた。やがてカーカとルズビー、アブ・ライラとザルマーの戦闘が開始された。カーカは直様ハーリド・イブン・アル・ワリードが以前敵軍に遭遇する度に指示した様に疾走する様命じた。此れに対しザルマーは、アブ・ライラと交戦しているルズビーに対し、アブ・ライラと交わるのを止め、自軍を助ける様求めた。然しザルマーはカーカ自身の手で殺害され、ルズビーもイスマ・イブン・アブダラによって殺害された。フサイドのササン朝ペルシア軍は、劣勢であると悟りカナフィスに逃げ込んだ。更にザルマーの死を知ると、カナフィスを放棄して防御が強固であるムザイヤに退却し、キリスト教アラブ人と合流した。其の後アブ・ライラはカナフィスに入ったが、ササン朝ペルシア軍が退却した後であった。ワリードは目標をムザイヤ・サニー・ズマイルの3箇所に定めた。ワリードは、サニーとズマイルは後からでも対処出来ると考え、次の目的地をムザイヤに決定し、アイン・アル・タムルで馬からラクダに乗り換え、カーカ、アブ・ライラと合流しムザイヤへ追撃した。
西暦633年11月頃、ムザイヤに宿営しているササン朝ペルシア軍の正確な位置を把握していたハーリド・イブン・アル・ワリードが、過去に殆ど例の無い、難易度の高い3方向からの同時夜襲を計画する。ワリードは、フサイドと、カナフィスと、アイン・アル・タムルの3箇所に布陣していた軍をムザイヤから数km離れた場所に集合させ、襲撃時刻を伝え、三手に兵を分散させた。夜襲が開始されると、ササン朝ペルシア軍は足取りを掴む事が出来ず数千人が虐殺された。ムスリムは殲滅しようとしたが、暗闇に紛れた敵兵を取り逃した。生き残ったキリスト教アラブ人とササン朝ペルシア兵はサニーへ逃走し、アラブ反乱軍と合流した。11月10日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードはムザイヤと同じく3方向からの同時夜襲を計画し、夜に三手に分かれていた軍を集結させる。ワリードは直進ルートで、他の二手はワリードを挟むルートで集合した。ムザイヤの戦いと同じく夜襲時刻を伝え、三手に分かれてサニーのキリスト教アラブ軍を襲撃した。虐殺を免れた兵は少なく、サニーとズマイルの隊長を兼任していたラビア・ビン・ブジャイルも殺害された。女性や多数の若者は捕虜となった。11月13日頃の夜、ハーリド・イブン・アル・ワリードがズマイルに到着し、ムザイヤ・サニーと同じく3方向からの同時夜襲を行う。キリスト教アラブ軍はムスリムの奇襲に耐えられず、直ぐに分散したが、戦場から脱出できず、ほぼ全軍が虐殺された。
西暦633年12月1日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードがフィラズ(現在のイラクのアンバール県)に到着する。此の時点でムスリムはユーフラテスの谷を征圧していたが、ササン朝ペルシアとビュザンティオンの境界にあるフィラズにはまだササン朝ペルシア軍の前哨基地が存在していた。ワリードは此の前哨基地を襲撃する為にフィラズに来ていた。ビュザンティオンはササン朝ペルシアを援護する事を決定した。ホルモズド・ジャドウィーフも鶏と豚の飼育員を率いてササン朝ペルシア軍に属していた。ワリードはササン朝ペルシア・ビュザンティオン連合軍がユーフラテス川を渡るまで待機し、渡り切ると直ぐにムスリムに出撃を命じた。ワリードは同年4月21日頃のアル・マダールでの戦闘と同じく両翼から挟み撃ちにする戦法を採用した。又、ムスリムが不利な形勢になると思われた時、ワリードは此の戦いに勝利したらメッカに巡礼すると誓いを立てた。前線が戦闘を開始した後、後方が透かさず橋を占拠し退路を塞ぎ、両翼に分かれ連合軍を包囲した。結果、ムスリムは連合軍を100,000名殺害し、フィラズを占領した。西暦634年1月、ハーリド・イブン・アル・ワリードがフィラズに守備隊を置き、本隊に対しアル・ヒラへの帰還命令を下す。ワリードは、軍がアル・ヒラへ進行を始める迄後方で待機し、其の後少数の護衛を従えてメッカへ向けて、未開拓の道を進み始めた。メッカに到着すると、巡礼を行い誓いを果たした。ワリード一行はアル・ヒラへ向けて出発し、本隊の最後の一団よりも早くアル・ヒラに到着した。
西暦634年4月24日、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる騎兵隊が東ローマ帝国と同盟を結んでいたガッサーン朝とマルジュ・ラーヒト(現在のシリアのダマスカス県)で交戦する。ガッサーン朝はワリードのシリア進出を危険視し、タドモル(現在のシリアのホムス県)から峠を下るルート上に強力な戦士を配置していたが、ワリードの騎兵隊の迅速な突撃により、忽ち散り散りになった。ワリードは多くの戦利品及び捕虜を獲得した後、町を離れ野営地に戻った。4月25日朝、ハーリド・イブン・アル・ワリードがグータ(現在のシリアのダマスカス県)を急襲する任務を帯びてダマスカス(現在のシリア)に騎馬隊を派遣する。又、アブー・ウバイダを使者として送り、ボスラで報告する様指示を出した。ワリードは兵を率い、ダマスカスを迂回してボスラ征服へと向かった。途中、ダマスカスで戦利品や捕虜を補充した騎馬隊が、ワリードと合流した。
西暦634年5月13日、アル・ムサンナ・イブン・ハリサ率いるムスリム軍がアル・ヒラからバビロン近くのササン朝ペルシア軍に接近する。ササン朝ペルシアを率いていたホルモズド・ジャドウィーフは、東ローマ帝国征伐の為にハーリド・イブン・アル・ワリードが抜けたムスリムの戦力を試したいと考えていた。又、ササン朝ペルシアとムスリムが双方お互いを脅迫する書簡を交わしていた。ササン朝ペルシア軍はムスリムを怖がらせる為に戦象を投入した。然しムスリムによって戦象は殺され、ササン朝ペルシア軍はクテシフォンに敗走した。西暦634年、アル・ヒラ奪回を意図し、ササン朝ペルシアの将軍ロスタム・ファルロフザードが、将軍数名とイスパフブダン家の親戚の一部をナマラク(現在のクーファ(イラクのナジャフ県)付近)に派遣する。アル・ムサンナ・イブン・ハリサは、バビロンの戦いと同様にハーリド・イブン・アル・ワリード不在の為、孤軍奮闘した。ウマル・イブン・ハッターブがアブー・ウバイダに援軍を送り、最終的にササン朝ペルシア軍は敗北した。此れを受け、カシュカール(現在のイラクのワーシト県カスカール)総督ナルシは領地に逃げ帰った。
西暦634年6月、ハーリド・イブン・アル・ワリードが、アル・カルヤタイン(現在のシリアのホムス県)に進軍しガッサーン朝を破る。住民達はムスリムに抵抗したが、敗北し略奪された。又6月、ハーリド・イブン・アル・ワリードが、ガッサーン朝の首都であるボスラに到着する。ボスラにはローマ将校が指揮する東ローマ帝国人とキリスト教アラブ人の軍隊が駐留していた。既にハウラン(現在のシリアのダルアー県・スワイダー県、現在のヨルダンのマフラク県)を占領していたアブー・ウバイダは、ワリードが到着する迄、ボスラに留まる様指示を受けていた。ウバイダはムスリムから成る、ウバイダの部隊と、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアンの部隊と、シュラビル・イブン・ハサナの部隊の3つの部隊を指揮下に置いていたが、戦闘はせず、町を征服した事も無かった。ウバイダは、ワリード到着後はワリードの指揮下に入る事を聞いた。其れを受け、ボスラ占領を意図し、ハサナの部隊4,000名を差し向けた。ボスラの守備隊は、ハサナの部隊が見えると、要塞のある町へ逃げ込んだ。ハサナの部隊は先遣隊に過ぎず、更に多くのムスリムが攻めて来る事を予測していた為である。ハサナはボスラの西側に着陣し、部下の部隊を砦の周囲に配置した。又6月、アブー・ウバイダがシュラビル・イブン・ハサナの部隊をボスラに差し向けた2日後、ハーリド・イブン・アル・ワリードが、ボスラへの行軍の最終日に出撃する。其れを受けボスラの守備隊が、ボスラの外にいるムスリムに向かって出撃した。ハサナと東ローマ帝国軍司令官が、戦闘状態に入った軍を前にして会談を行い、ハサナは、イスラム教への改宗と、貢物を捧げる事と、戦闘の3つの選択肢を提示した。午前中に東ローマ帝国軍が戦闘を選択し、戦いが始まった。最初の数時間は一進一退の状況が続いた。然し正午過ぎに東ローマ帝国軍が優勢となり、ハサナの軍を両側面から挟み撃ちにした。そんな中、ボスラから1マイル離れた所にいたワリードが、風に乗って聞こえてくる戦闘の音を聞き、駆けつけた。
西暦634年6月、ハーリド・イブン・アル・ワリードがシュラビル・イブン・ハサナの部隊を援護した翌日、東ローマ帝国軍は、ムスリムの戦力は自軍と同程度であると把握し、長旅の疲れが癒える前に打ち負かすべく再攻撃を決意した。両軍はボスラ郊外の平原で戦闘準備を行なった。ワリードは、中央に自身の直轄部隊を置き、両翼の司令官にラファイ・ビン・ウマイル(左翼)と、ディラール・ビン・アル・アズワル(右翼)の2名を任命した。ワリードは、直轄部隊の正面、アブー・バクルの息子アブド・アル・ラーハマーン・イブン・アブー・バクルの下に薄いスクリーンを置いた。戦闘が開始されると直ぐにラーハマーンは東ローマ帝国軍を撃破した。東ローマ帝国の将軍達は安全な遊軍部隊の下へ逃走する中、ワリードは前線全体に沿って攻撃を開始した。東ローマ帝国軍はムスリムの攻撃に忽ち混乱した。此の日は暑かった為、アズワルは鎖帷子を脱ぎ、続いてシャツを脱いだ。此の半裸の状態で攻撃を開始し、一騎討ちで立ち向かって来る東ローマ帝国兵を全て破った。東ローマ帝国軍は砦に撤退した。此の時ワリードは、何にも跨らず自身だけで戦っていた。ワリードは東ローマ帝国軍を包囲する命令を下そうと振り返った時、アブー・ウバイダが、ムスリムの隊列から抜けて近付いて来るのが見えた。ウバイダは、西暦628年2月のカイバルの戦いでムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが使用していた黄色の旗を携えていた。ウバイダは其の旗をワリードに渡した。アズワルの活躍は一週間以内にシリア中に知れ渡った。7月、東ローマ帝国軍がムスリムに降伏する。予備兵員がアジュナダイン(東ローマ帝国のパラエスティナ・プリマ州)にいるか、若しくは移動中であったので、援軍が望めなかった為である。ハーリド・イブン・アル・ワリードは貢物の献上を求めた。
西暦634年7月30日、ダマスカスに進軍していたハーリド・イブン・アル・ワリードが、ヤルムーク川北岸のティベリアス湖付近のヤクサ(現在のイスラエル)にて、ヘラクレイオスの義理の息子トーマスが、ワリードのダマスカス進軍を遅らせる為に差し向けた東ローマ帝国軍と遭遇する。東ローマ帝国軍は戦える状態ではなかったが、ダマスカスの要塞が強化されるまでワリードの軍を足止めさせる為に戦闘を行い、短時間で敗北した。8月19日、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍が、マルジュ・アル・サファール(現在のシリア)にて、トーマス率いる東ローマ帝国軍を破る。トーマスはワリードのダマスカス進軍の情報を掴み、エメサにいたヘラクレイオスに援軍を求める書簡を書いていた。又、此の戦いで、ウム・ハキーム・ビント・アル・ハターリス・イブン・ヒシャームは、後に「ウム・ハキーム橋」と名付けられる橋の近くでテントポールを使って、単独で7名の東ローマ帝国兵を殺害した。
西暦634年8月20日頃、ヘラクレイオスが、包囲された東ローマ帝国軍の守備隊を救援する為に、ダマスカスへ兵を差し向ける。ハーリド・イブン・アル・ワリードは、ダマスカスを他の地域から孤立させる戦略を練り、パレスチナへ至る道の南と、ダマスカス-エメサ間のルートの北に分遣隊を配置した。更に、ダマスカスへ向かうルートに、他の幾つかの小規模な分遣隊を配置した。此れ等の分遣隊は、偵察と、東ローマ帝国軍への増援を遅延させる事の2点の任務を帯びていた。ムスリムはヘラクレイオスの軍に対し、当初は優勢であったものの、ワリードが援軍を率いウカブ(鷲)峠に到着した際、敗北した。8月21日、ダマスカスを孤立させたハーリド・イブン・アル・ワリードが、ムスリムに対しダマスカスを包囲する様命じる。又、6つの門に指揮官を配置し4,000〜5,000名を率いさせ、東ローマ帝国軍の攻撃を撃退し、激しい攻撃があった場合は支援を求める様指示した。指揮官は、トーマスの門がシュラビル・イブン・ハサナ、ジャビヤ門がアブー・ウバイダ(副司令官)、ファラディの門がアムル・イブン・アル・アース、ケイサン門と小さな門がヤズィード・イブン・アビ・スフィアン、東門がラファイ・ビン・ウマイル(主要部隊)であった。ディラール・ビン・アル・アズワルは、機動警備隊の騎兵2,000名に、夜間に門の間の空き地を巡回し、東ローマ帝国軍に攻撃された軍団を援軍するよう命じた。又、ワリードは、東門近くの修道院に本部を置いた。ワリード率いる軍はダマスカスへの物資の流れを止めたが、グータだけはワリード達や騎馬に必要な物資の供給地点として機能した。
西暦634年9月9日、ヘラクレイオスが、ダマスカスが包囲された事を受け、12,000名の救援軍を派遣する。ダマスカス-エメサ間のルートにいたムスリムの偵察兵から、此の東ローマ帝国軍の状況を聞いたハーリド・イブン・アル・ワリードは、ラファイ・ビン・ウマイルに5,000名の兵を率いさせ、ウカブ峠で偵察兵と合流した。然し兵力が不十分であった為、東ローマ帝国軍に包囲された。然し、東ローマ帝国軍がムスリムの分遣隊を破る前に、ワリードは4,000名の縦隊と共に分遣隊に合流し、東ローマ帝国軍を退けた。此の戦いでムスリムは疲弊した為、ワリードは急いでダマスカスへ帰還した。9月14日頃、シュラビル・イブン・ハサナ率いる軍に包囲されていたトーマスが、凡ゆる所から兵を召集し、5,000名の兵を率い、ムスリムに矢の雨を降らせ、先制攻撃を仕掛ける。東ローマ帝国軍は、城壁の射手の援護を受けて門を突破し、扇形の陣形を敷いた。然し、襲撃を主導していたトーマスが、右目に矢を受けた。東ローマ帝国軍は、ムスリムの戦線を突破する事が出来ず、後退した。負傷したトーマスは、代わりに千の目を奪うと誓った。夜、トーマスは再度出撃命令を下した。トーマスは、トーマスの門(主導)・ジャビヤ門・小さな門・東門の4つの門から同時出撃し、駐留している疲労の溜まったムスリムを叩く作戦を立てた。ジャビヤ門・小さな門・東門は、ムスリムを拘束して、トーマスの門にいるハサナを支援出来ない様にする役割を担った。東ローマ帝国軍が、東門に多くの兵を集めた為、ハーリド・イブン・アル・ワリードはハサナを支援する事が出来なかった。トーマスは、突破した門に兵を集める戦術を採った。トーマスはワリードを生け捕りにする様命じた。ジャビヤ門では、アブー・ウバイダ率いる軍が、東ローマ帝国軍を撃退した。小さな門では、戦闘が激化した。ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン率いる軍の兵力は小さかったが、ディラール・ビン・アル・アズワル率いる機動警備隊の騎兵2,000名が援護し、東ローマ帝国軍を退けた。東門では、東ローマ帝国軍が大きな戦力を割いていた。ラファイ・ビン・ウマイル率いる軍は東ローマ帝国軍の攻勢に耐える事が出来なかった。其の頃、ワリードは予備の古参騎兵400名を率いてウマイルに加勢し、東ローマ帝国軍を側面から攻撃した。トーマスの門では、トーマスが自ら指揮し、激しい戦闘を行ったが、ムスリムの前線に弱体化が見られない為、此れ以上攻撃を続けても自軍の死傷者を増やすだけであると考え、撤退命令を下した。東ローマ帝国軍は一定のペースで後退したが、其の間にムスリムの集中的な矢の雨を浴びたが、逃走に成功した。
西暦634年9月18日、シリアの単性論者の司祭ヨナが、夜にダマスカスに祭りが行われる事をハーリド・イブン・アル・ワリードに知らせる。此の機にワリードは、ヨナから教えられた、夜間に比較的防御が薄くなる城壁への奇襲攻撃を計画した。其の城壁の情報はヨナによって齎された。全軍の連携した攻撃計画を立てる時間が無かった為、ワリードは自ら東門を襲撃する事を計画した。ワリードは、カーカ・イブン・アムルと、マズル・イブン・アディの2名と共に、門の横から手を繋いで壁を登った。登った先には、東ローマ帝国軍の警備兵は配置されていなかった。上部に到着後、ロープを壁に固定し、基地で待機している選任された100名の兵に対しロープを下ろした。ワリードは、ロープを使って城壁を登る事を支援する人間数名を残して城壁を下り、東門の内側で警備兵を殺害した。ワリードとカーカ・イブン・アムルが勢い良く門を開け、ワリードの残りの部隊がダマスカスに入り、激しい戦闘を続けた。残りの軍勢が他の門から動かないのを見たトーマスは、ワリードの軍勢だけがダマスカスに入ったと予測し、他の指揮官は防御の突破に気づいていないと考えた。トーマスはジャビヤ門に使者を送り、アブー・ウバイダに対し、砦の明け渡しとジズヤの支払いを申し出た。平和的な考えで知られていたウバイダは、ワリードも此の条件を受け入れるだろうと考え、申し出を受け入れた。此のトーマスの申し出は全ての指揮官に共有された。9月19日、アブー・ウバイダが、ジャビヤ門からダマスカスに入る。他の指揮官も此れに続き、其々の門からダマスカスに入った。ウバイダは、トーマスと、高官数名と、ダマスカスの司教を伴ってダマスカス中心部へと向かい、其の後マリアミテ大聖堂に入った。ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍は、東門からダマスカスの中心部へ向かって戦い、抵抗する者を全員殺害した。其の後ワリード達はマリアミテ大聖堂に入った。和平交渉では、ワリードは武力でダマスカスを征服したと主張し、ウバイダはトーマスとの和平合意でダマスカスは降伏したと主張した。他の指揮官も状況について話し合い、ワリードに、和平合意は尊重されるべきだと伝え、ワリードは渋々此れに同意した。和平協定の条件として、誰も奴隷にしない事と、寺院に危害を加えない事と、戦利品として何も奪わない事と、トーマスを含む、ムスリムの支配下で生きる事を望まないダマスカス市民全員に安全な通行を与える事と、和平は3日後に終了し、ムスリムは此の3日後に協定に違反する事無く攻撃する事が出来る事が起草され、ワリードが此れに署名した。
西暦634年9月22日、ヨナからアンティオキアへの近道を教えて貰っていたハーリド・イブン・アル・ワリードが、アラブ人の服装を身に纏った騎兵連隊を率い、ジャバル・アンサリヤ山脈(現在のシリアのラタキア県)を越えて、アンティオキア近郊の海上で東ローマ帝国の難民の船団に追い付く。アラブ人の服装は、ムスリムと悟られない様にする為で、ヨナの提案であった。此の日は激しい豪雨であった。又、ヨナは3日間の停戦期間が過ぎたら東ローマ帝国軍を追撃する様ワリードに提案していた。東ローマ帝国軍は雨を避けて、台地に散り散りになり、錦の束が地面に散らばった。ヨナを含む偵察隊は、東ローマ帝国軍に知られる事無く、軍勢の位置を特定し、ワリードの軍が攻撃するのに十分な情報を取得した。ワリードは、東西南北の4方面からの攻撃を計画した。東がラーフェ・ビン・ウメール率いる1,000名の騎兵連隊、西がワリード率いる1,000名の騎兵連隊、南がディラール・ビン・アル・アズワル率いる1,000名の騎兵連隊、北がアブー・バクルの息子アブドゥルラフマン・イブン・アブー・バクル率いる1,000名の騎兵連隊であった。先ず、アズワルの軍が後方から東ローマ帝国軍を急襲した。其れまで、東ローマ帝国軍はムスリムの存在に気が付いていなかった。30分後、ウメールの部隊が東から現れ、東ローマ帝国軍の右翼を攻撃した。更に30分以内にアブドゥルラフマン・イブン・アブー・バクルの部隊も西から左翼を攻撃し、最後にワリードの軍が東ローマ帝国軍を包囲した。又、ワリードは決闘によりトーマスを殺害した。東ローマ帝国軍は劣勢となったが、数の上ではムスリムに勝っていた為、数千名の東ローマ帝国兵が、安全な場所へ避難する事が出来た。ムスリムは戦利品として、サテン地に浮き模様を織り出した織物であるブロケードを奪い、多数の捕虜も得た。トーマスの妻且つヘラクレイオスの娘である女性を捕縛した。ヨナは後に婚約者を得ていたが、ダマスカス包囲が始まった為、結婚は延期となっていた。ヨナがイスラム教に改宗した事を知ると其の女性は婚約を破棄し、東ローマ帝国人と共にアンティオキアに移住する事にしたが、ヨナの目の前で、ドレスのひだから短剣を抜き、自殺した。ヨナは瀕死の状態となった婚約者の隣に座り、他の女性には目を向けないと誓った。代わりにワリードが、捕縛したヘラクレイオスの娘を差し出したが、ヨナは辞退した。
西暦635年3月、ダマスカスを守備する部隊が、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン率いる軍のみとなり、ヘラクレイオスが好機と捉え、テオドールの指揮下に兵を送る。テオドールは騎兵隊を中心とした軍を指揮し、ダマスカスを奪回した。其の後、ムスリムの下にもテオドールの動きが耳に入り、アブー・ウバイダと、ハーリド・イブン・アル・ワリードの2名がテオドール征伐へと向かった。テオドールは更に、シャナシュ・アル・ローマ率いる騎兵隊を含む援軍を受けた。最終的に両軍はマルジュ・アル・ラムにて対峙した。戦いはシャナシュ・アル・ローマとウバイダによる決闘で幕を開けた。決闘はウバイダが勝利し、其の後は均衡した戦いとなった。然し、テオドール・シェオドールの2名を含む東ローマ帝国軍の一部が撤退し、ダマスカスが東ローマ帝国軍の攻撃を受けている事がムスリムに知れた。ワリード達は戦闘を止め、ダマスカスに急行した。テオドールとシェオドールの指揮下の東ローマ帝国軍がダマスカスに到着すると、スフィアンが迎え撃った。スフィアンの軍は数で劣勢であったが、健闘した。やがてワリードと騎兵隊が到着し、東ローマ帝国軍を背後から攻撃し、挟み撃ちとなった。其の後、ワリードは一騎打ちでテオドールを殺害した。又、シェオドールも殺され、東ローマ帝国軍の前線が混乱し、戦場から逃走した。ムスリムは直ちに、東ローマ帝国軍の武器・衣服・騎馬を押収し、スフィアンは、ワリードや兵に其れ等を分け与えた。3月頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードが一騎打ちでテオドールを殺害した一週間後、アブー・ウバイダ率いる軍が、木星の神殿の建っていたバールベック(現在のヨルダンのバールベック・ヘルメル県)を占領する。其の後ウバイダは、ワリードをエメサ襲撃の為に派遣した。
西暦635年12月、アブー・ウバイダが、エメサ占領を意図し、後方の東ローマ帝国軍を排除する。其の後、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる機動警備隊を先頭に、エメサへと進軍した。機動警備隊は、東ローマ帝国軍のエメサの守備隊を退け、東ローマ帝国軍は砦内に退避し、門を閉めざるを得なくなった。ウバイダが遅れてエメサに到着し、マスドゥド門(南西)・タドムル門(北東)・ドゥライブ門(東)・ハド門(西)の4つの門の向かいに部隊を配置した。エメサは直径1マイル未満の円形の要塞都市で、堀で囲まれていた。砦内の丘の上には城塞もあった。外側には肥沃な平野が広がっており、オロンテス川(現在のレバノン・シリア・トルコ)によって西側のみが分断されていた。ウバイダは、ワリードに司令官としての役割を与え、自身はラスタン門から少し離れた北側に布陣した。東ローマ帝国軍は、ムスリムはエメサの冬の寒さに耐えられず撤退するだろうと考えていたが、ムスリムが寒さによって受けた影響は軽微であった。西暦636年3月16日頃の朝、ハービーズ率いる軍が、ラスタン門から奇襲攻撃を行う。攻撃を受けた部隊は、ムスリムの幾つかに分散した戦力の中でも最大であった。にも拘らず、東ローマ帝国軍の素早い攻撃に翻弄され、劣勢となった。アブー・ウバイダは局面打開の為、ハーリド・イブン・アル・ワリードを派遣した。ワリード率いる機動警備隊は、現場を指揮し、兵の再配置を行なって防御策を講じた後に攻撃に転じた。日没近くに東ローマ帝国軍は砦に追い込まれ、奇襲は失敗に終わった。3月17日頃の朝、アブー・ウバイダが軍議を開き、前日の戦闘に関し不満を述べる。ハーリド・イブン・アル・ワリードは「この東ローマ帝国人は、私がこれまで会った中で最も勇敢であった」と述べた。ウバイダは、ワリードに助言を求めた。ワリードは「翌朝、エメサから軍を引き上げ、包囲を強化する為に南下していると見せ掛ける。東ローマ帝国軍は追って後衛を攻撃するだろう。そこを転じて、東ローマ帝国軍を包囲して殲滅すれば良い」という主旨の返答をした。3月18日頃、ムスリムは、前日のハーリド・イブン・アル・ワリードの助言通りに軍を引き上げる振りをする。ハービーズは絶好の機会と捉え、5,000名の兵を招集し、砦の外へ出て、ムスリムの騎馬部隊を猛追した。軈てエメサから数マイルの所でムスリムに追い付き、打ち倒した。然し、東ローマ帝国軍の主要部隊がムスリムに襲い掛かろうとした瞬間、突然向きを変え、猛烈な勢いで東ローマ帝国軍を攻撃した。ワリードが号令を掛けると、2つの騎馬部隊が東ローマ帝国軍の側面を駆け回り、後方から突撃した。ムスリムは着実に東ローマ帝国軍を追い詰め、四面楚歌の状態に追い込んだ。ワリードは、機動警備隊の精鋭戦士と共に東ローマ帝国軍の中央に到達し、戦闘中のハービーズを発見した。ワリードはハービーズの下へ向かったが、巨漢の将軍に阻まれた。然し、ワリードは決闘の末此れを破った。ハービーズは最終的に戦死した。ムスリムが、包囲している東ローマ帝国軍への攻撃を開始した時、マアズ・イブン・ジャバルは500騎を率い、逃走する東ローマ帝国軍が砦に入らない様にする為にエメサに駆け戻っていた。ジャバルの軍がエメサに近づくと、恐怖を感じた住民と追撃に参加しなかった東ローマ帝国軍の守備隊の残党は急いで砦に撤退し、門を閉めた。ジャバルは、東ローマ帝国兵が門から出てきたり、エメサの外の東ローマ帝国兵が侵入してくるのを防ぐ為に、門の前に兵を配置した。最終的に100名の東ローマ帝国兵が逃走した。ムスリムはエメサでの一連の軍事行動により235名の死者を出した。アブー・ウバイダは、地元住民の条件付きの降伏を受け入れ、1人当たり1ディナールのレートでジズヤを徴収した。
西暦636年5月頃、ムスリムが、ハーリド・イブン・アル・ワリードとアブー・ウバイダ(エメサ)と、カーカ・イブン・アムル(パレスチナ)と、シュラビル・イブン・ハサナ(ヨルダン)と、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン(カエサレア・ピリピ(現在のシリアのダマスカス))の四手に分かれる。又5月頃、ムスリムが、北シリア全体の占領を意図し、ハマー(現在のシリア)を経由して、シャイザール(現在のシリアのハマー県)に到着する。ムスリムは此処で、少数の兵士に護衛され、食糧をキンナスリーン(現在のシリアのアレッポ県)に運ぶ東ローマ帝国の船団を見つけ、ハーリド・イブン・アル・ワリードが此れを妨害し、捕縛した。尋問により、ヘラクレイオスの計画と、東ローマ帝国の大軍が陣を張っている場所を聞き出した。ワリードは軍議を開き、アブー・ウバイダに対し、パレスチナとシリア北中部から撤退し、ガッサーン朝の首都ジャビヤ(現在のシリアのダマスカス県)に兵力を集中させる事を指示した。ウバイダはガッサーン朝の襲撃を退け、ジャビヤを征圧した。此れにより、ウマル・イブン・ハッターブからの援軍が合流し易くなり、ジャビヤ近郊の広大な平原に戦力を集中させる事が可能となった。又、撤退が必要となった際に、ナジュド(現在のサウジアラビア)の要塞に逃げ込み易いという利点があった。又、ジズヤを支払った人々へ返還を行う様、指示が下された。又5月頃、ムスリムが、カイサリア(現在のイスラエルのハイファ地区)に強力な東ローマ帝国軍が駐屯しており、後方から襲撃される恐れがあった為、ワリードの助言により、ダルアー(現在のシリア)と、デイル・アイユーブ(現在のパレスチナ国ヨルダン川西岸地区ラマッラー・アル・ビーレ県)の2箇所に後退した。そして、ヤルムーク渓谷とハラ溶岩平原をカバーし、陣を敷いた。此れにより、ヘラクレイオスの、ムスリムの戦力が分散している内に各部隊を叩くという目論見は外れた。此の間、ハーリド・イブン・アル・ワリードの精鋭軽騎兵隊と、東ローマ帝国の先遣隊の間で小競り合いがあったものの、大きな戦闘は無かった。7月15日頃、ヴァハンが、ハーリド・イブン・アル・ワリードを招き、和平交渉を行い、1ヶ月の休戦が実現する。
西暦636年8月16日、ヴァハンが、軍議にて、夜明け直前に朝の祈りを行なっているムスリムを襲撃する事を決定する。ヴァハンは、中央の2つの部隊をムスリムの中央の部隊と交戦させ、主力をムスリムの両翼に差し向け、ムスリムを離散させるか、中央部に押し込む事を計画していた。戦場を観察する為に、ヴァハンは右翼の後ろに、アルメニアのボディーガード部隊と共にパビリオンを建設させ、奇襲の準備を命じた。一方、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、夜間に前線の戦力を増強させ、奇襲に備えた。戦闘が始まると、東ローマ帝国軍は、ムスリムの中央の部隊を釘付けにし、援軍の合流を阻止した。カナティールは、主にスラブ人で構成された東ローマ帝国軍の左翼を指揮し、大軍で攻撃した。結果、ムスリムの右翼は撤退を余儀なくされた。ムスリムの右翼の指揮官アムル・イブン・アル・アースは騎兵連隊に反撃を命じ、東ローマ帝国軍の侵攻を食い止めたが、多勢に無勢で、最終的に基地に後退した。又此の日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは両翼の状況を認識し、右翼の騎兵隊に、東ローマ帝国軍の左翼の北側面を攻撃する様命じ、一方自身は、機動警備隊と共に東ローマ帝国軍の左翼の南側面を攻撃し、ムスリムの右翼の歩兵は正面から攻撃した。此の3方面からの攻撃により、東ローマ帝国軍の左翼は、獲得したムスリムの陣地を放棄せざるを得なくなった。アムル・イブン・アル・アースは失地を奪回し、部隊の再編成を行なった。ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン率いる左翼の状況は深刻で、右翼の様に機動警備隊のサポートも無く、東ローマ帝国軍に数で圧倒されて陣地を蹂躙され、基地へ後退した。東ローマ帝国軍のグレゴリーの部隊は、テストゥドの陣形を採用したが、動きは遅かったものの、守備は堅固であった。スフィアンは騎兵連隊を使って反撃したが、返り討ちに遭った。ムスリムの中央の部隊は釘付けとなり、側面は押し戻された。士気が著しく低下したが、両側面は崩れなかった。撤退したムスリムを、ハインド率いる凶暴なアラブ人女性が基地で迎えた。ハインド達は、テントを解体し、テントポールで武装し、西暦625年3月23日のウフドの戦いでムスリムに向けられた即興歌「絶え間ない女から逃げる者よ/美と徳を兼ね備えた女から逃げ去る者よ/彼女を異教徒に委ね/憎むべき邪悪な異教徒に/辱めと破滅を与えよ」を歌った。此れにより、ムスリムは士気を高め戦場に戻った。又此の日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、右翼の陣地を安定させた後、機動警備隊に左翼を救援する様命じる。更に、ディラール・ビン・アル・アズワル指揮下の1個連隊を切り離し、陽動を作り出して中央左翼のダイルジャンの軍を攻撃する様命じた。ワリード自身は残りの騎兵予備隊と共に、グレゴリーの軍の側面を攻撃した。正面と側面からの同時攻撃を受けた東ローマ帝国軍は、陣形を維持しながらゆっくりと後退した。最終的にダイルジャンは戦死、ヴァハンは作戦に失敗し、ムスリムは士気を高め、日没と共に戦闘は中断された。
西暦636年8月17日、戦闘が再開され、東ローマ帝国軍がムスリムの右翼と中央右翼を攻撃する。ムスリムは東ローマ帝国軍の攻撃を食い止めた後に後退し、再度凶暴なアラブ人女性に迎えられ、虐待されて辱めを受けた。ムスリムは少し離れた所で軍隊を再編成し、反撃に備えた。東ローマ帝国軍がムスリムの右翼を集中的に狙っている事に気付いていたハーリド・イブン・アル・ワリードは、右翼騎兵と共に機動警備隊を率いて攻撃を開始した。ワリードは、東ローマ帝国軍の左翼中央部の右側を攻撃し、ムスリムの右翼中央部の騎兵予備隊は、東ローマ帝国軍の左翼中央部の左側を攻撃した。更にワリードは、ムスリムの右翼の騎兵隊に対し、東ローマ帝国軍の左翼の左側を攻撃する様命じた。戦闘は直ぐに血祭りに発展した。ワリードの適時側面攻撃によりムスリムは再び窮地を救われ、東ローマ帝国軍は戦闘開始時の陣地まで押し戻された。8月18日、ヴァハンはムスリムの右翼に損害を与える事に成功した為、前日の戦闘を推し進める事を決定する。カナティールは、ジャバラ・イブン・アル・アイハム率いるアルメニア人とキリスト教アラブ人の支援を受け、ムスリムの右翼と右翼中央部に対抗する為の2部隊を率いた。結果、ムスリムの右翼と右翼中央部は再び後退した。ハーリド・イブン・アル・ワリードは、機動警備隊を率い再度戦場へ赴き、アブー・ウバイダと左翼の左側に、東ローマ帝国軍の前線を攻撃する様命じた。更にワリードは、機動警備隊を2個師団に分け、東ローマ帝国軍の左翼中央部を攻撃し、更にムスリムの右翼の歩兵を正面から突撃させた。3方面からの攻撃を受け、東ローマ帝国軍の左翼中央部は後退した。又、南側面が手薄となっていた東ローマ帝国軍の左翼も後退した。其の頃、東ローマ帝国軍の弓騎兵がウバイダと、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアンの2名の部隊に矢の雨を降らせた。スフィアンを含む多くのムスリム兵が目に矢を受け、甚大な被害を被った。ムスリムは、ウバイダの左側にいた、ワリードの幼馴染であるイクリマ・イブン・アビー・ジャハル率いる1個連隊を除き、退却した。ジャハルは騎兵400名を率いてムスリムの退却を援護したが、全員が重傷を負い、死亡者も発生した。夕方、ジャハルは致命傷を負い死亡した。退却したムスリムは反撃して失われた陣地を取り戻す為、部隊の再編成を行なった。
西暦636年8月19日早朝、ヴァハンが、新たな交渉が行える様、今後数日間の休戦を求めてムスリムに特使を派遣する。ヴァハンは、前日迄の4日間で突破口を開く事が出来ず、特にムスリムの機動警備隊の側面を攻撃した際に多数の死傷者を出していた。然し、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、勝利が手の届く所にあると判断し、其の申し出を断った。此れまでムスリムは、防御を中心とした戦術を使っていたが、東ローマ帝国軍が戦意を失っている事を知り、攻撃に転じる為に部隊を再編成した。全ての騎兵連隊は、機動警備隊を中核とする8,000名の騎馬部隊に纏められた。ワリードは、東ローマ帝国軍を罠に嵌め、逃げ道を遮断する作戦を採った。周囲には東のワディ・アル・アッラーと、西のワディ・ウル・ラッカドと、南のワディ・アル・ヤルムークの3つの渓谷が有り、障壁となっていた。北に障壁が無かった為、騎兵隊が封鎖する事となった。夜、ワリードは、ワディ・ウル・ラッカドを横切るアイン・アル・ダカール橋が戦略的に重要であると位置付け、500名の騎兵を派遣した。派遣された騎兵は、東ローマ帝国軍を北側から回り込んで、アイン・アル・ダカール橋を占領した。8月20日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、騎兵部隊を率いて東ローマ帝国軍を戦場から追い出し、増援を受け取れない様分断して、側面や後方を攻撃してワディ・ウル・ラッカドへ追い込む作戦を計画する。ワリードは総攻撃を指示し、騎兵隊を東ローマ帝国軍の左翼へ差し向け、交戦させた。残りの兵は東ローマ帝国軍の左翼の後部を攻撃した。更にムスリムの右翼が正面から圧力を掛け、2方向からの攻撃を受けた東ローマ帝国軍左翼は後退して北に敗走した。次にムスリムの右翼歩兵は東ローマ帝国軍の左翼中央部の左側面を攻撃し、ムスリムの右翼中央部は正面から突撃した。ヴァハンはムスリムの騎兵隊の機動力に気付き、騎兵隊に集団を作る様命じたが、重騎兵中隊を編成している最中にワリードは正面と側面から攻撃させ、東ローマ帝国軍は混乱し、散り散りになり北へ向かって敗走した。更にワリードは、東ローマ帝国軍の左翼中央部を再度攻撃し、壊滅させた。敗北が決定的となった東ローマ帝国軍の撤退が始まり、ワリードは北への逃走を防ぐ為に騎兵を差し向けた。東ローマ帝国軍はワディ・ウル・ラッカドへ向かったが、前日にアイン・アル・ダカール橋を占領した騎兵が待ち受けていた。四面楚歌となった東ローマ帝国兵は、逃走を図ったが、急な斜面から深い渓谷に落ちた者もいれば、水中に逃げようとしたが下の岩に打ちつけられ命を落とした者もいた。然し其れでも多くの兵が逃れる事に成功したが、セオドア・トリテュリウスは戦死した。ヘラクレイオスの従兄弟ニケタスは、エメサへの脱出に成功した。ジャバラ・イブン・アル・アイハムも逃亡に成功し、其の後イスラム教に改宗した。ムスリム側もヨナが戦死し、犠牲を払った。ワリードは、逃走する東ローマ帝国兵を追跡しダマスカス付近で攻撃を仕掛けた。其の後ワリードはダマスカスの奪還に成功し、地元住民に歓迎された。ヘラクレイオスは、東ローマ帝国軍の敗北を知り激怒した。然し、ヘラクレイオスは敗因として姪のマルティナとの結婚を挙げ、アンティオキアの大聖堂に退却し、会議を招集した。夜、ヘラクレイオスは、真の十字架の聖遺物を携え、エルサレム総主教ソフロニウスによって秘密裏に船に乗せられ、コンスタンティノープルへと向かった。此の戦闘により、東ローマ帝国のシリア支配が終焉し、キリスト教の影響の強かったレバント地方は以後イスラム化が進んでいく事となる。
西暦636年8月頃、ウマル・イブン・ハッターブが、ハーリド・イブン・アル・ワリードを最高司令官から罷免させ、アブー・ウバイダを据える。軍が再編成され、ワリードはウバイダの副官の1人として従属する事となった。10月1日頃、アブー・ウバイダが軍議を開く。カイサリア・エルサレムの2箇所のどちらを占領するか議論が為されたが、結論は出なかった。ウバイダは、ウマル・イブン・ハッターブに書簡を送り指示を仰いだ。ハッターブはエルサレムを占領する様返答した。ウバイダ達は、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる機動警備隊を先頭にジャビヤからエルサレムへ向けて進軍した。西暦637年2月頃、ソフロニウスが、ウマル・イブン・ハッターブがエルサレムに来て協定に署名し、降伏を受け入れる事を条件に、エルサレムを降伏させジズヤを支払う事を申し出る。シュラビル・イブン・ハサナは、ハッターブがマディーナから来るのを待つのではなく、外見がハッターブに似ていたハーリド・イブン・アル・ワリードを送り出す事を提案した。ハサナの案が採用されたが、ワリードはキリスト教アラブ人に見破られ、ソフロニウスによって交渉を拒否された。ワリードの任務失敗の報告を受けたアブー・ウバイダは、ハッターブに書簡を送り、エルサレムに来る様願い出た。4月1日頃、ウマル・イブン・ハッターブがパレスチナに到着する。其の後ジャビヤへ向かい、アブー・ウバイダと、ハーリド・イブン・アル・ワリードと、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアンの3名等が出迎え、ハッターブに合流した。此の時アムル・イブン・アル・アースは、エルサレム包囲の指揮官として従事していた。其の後一行はエルサレムに向かい、ハッターブの署名により協定が締結された。証人は、ワリードと、アースと、アブド・アルラフマン・イブン・アウフと、ムアーウィヤ1世の4名であった。此れにより東ローマ帝国は、エルサレムをムスリムに明け渡し、ジズヤと引き換えにキリスト教徒に市民的及び宗教的自由の保証を与えられた。其の後ソフロニウスは、ズフルの礼拝の際、ハッターブを再建された聖墳墓教会(現在のパレスチナ国ヨルダン川西岸地区エルサレム県)に招待した。然しハッターブは、キリスト教の礼拝の場としての教会の立場が危険に晒され、ムスリムが協定を破り教会をモスクに変える事を危惧し、辞退した。ソフロニウスはハッターブを、神殿の丘(現在のパレスチナ国ヨルダン川西岸地区エルサレム県)にも案内しており、其の際ハッターブは、かつて寺院のあった場所の劣悪な状態を見て、其の場所に木造のモスクを建てる前に、塵や瓦礫を取り除くよう命じた。4月10日頃、ウマル・イブン・ハッターブがマディーナへ向けて出発する。又ハッターブは、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアンに指示を出し、カイサリアを包囲させた。アムル・イブン・アル・アースと、シュラビル・イブン・ハサナの2名はパレスチナ占領を完遂させる為に留まった。更に、アブー・ウバイダと、ハーリド・イブン・アル・ワリードの2名はシリア北部を征服する為に、17,000名を率いエルサレムを出発した。
西暦637年6月頃、アブー・ウバイダと、ハーリド・イブン・アル・ワリードの2名率いる軍が、ダマスカスを経由してエメサに到着、其の数日後にハジル(現在のシリアのアレッポ県マウントシメオン地区)に入る。ワリードと機動警備隊を先頭としていた。其処で司令官メナス率いる7,000名の東ローマ帝国軍守備隊の攻撃を受けた。メナスは、もしキンナスリーンに留まれば、ムスリムに包囲され、ヘラクレイオスからの助けは期待出来ない為、最終的に降伏する事になるだろうと考え、本隊が合流する前に先制する作戦を採った。戦闘はアル・ハヘル(現在のシリアのアレッポ県マウントシメオン地区)の農村で始まった。メナスはワリードと同様に前線で軍を率い、中央部隊と両翼に兵を配置した。メナスは戦いの序盤で殺害された。メナスの戦死の情報が東ローマ帝国軍に広まると、兵達は怒り、敵討ちの為激しい攻撃を行った。然し東ローマ帝国軍は、ワリード率いる騎兵連隊に後方から攻撃を受けて包囲され、メナス率いる守備隊にとって嘗て無い大敗を喫した。戦闘が終了すると、直ぐにハジルのアラブ人は、ワリードを出迎え、敵対するつもりは無い事を主張した。ワリードは降伏を受け入れ、キンナスリーンへと向かった。又6月頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードはキンナスリーンに入り、東ローマ帝国軍の駐屯地に向けて「もし貴方方が雲の中に居るなら、アッラーは私達を貴方方の所に引き上げるか、戦いの為に貴方方を私達の所に降ろすでしょう」と通告する。程無くして砦に立て籠ったメナスに同行せずハジルに出陣しなかった東ローマ帝国軍守備隊は降伏した。ウマル・イブン・ハッターブは、ハジルの戦いの報告を受け「ワリードは真の司令官です。アブー・バクルにアッラーのご慈悲が有ります様に。彼は私よりも優れた判断力を持っていました」と叫び、ワリードを称賛すると同時に、ワリードを司令官から解任した事は自らの判断ミスであると初めて認めた。8月頃、アブー・ウバイダと、ハーリド・イブン・アル・ワリードの2名がキンナスリーンで合流し、アレッポ(現在のシリア)に進軍する。アレッポは、城壁に囲まれた大きな都市と、都市郊外の丘の上に在る、幅が400m強の、幅の広い堀に囲まれた小さいながらも難攻不落とされる砦で構成されていた。其の砦をヨアヒム率いる東ローマ帝国軍守備隊が守っていた。ヨアヒムは、砦の外でウバイダとワリードの率いるムスリムに遭遇し、交戦した。敗れたヨアヒムは直様砦に撤退した。其の後ヨアヒムは、ムスリムの包囲網を破る為に何度も攻撃を仕掛けるが、全て失敗した。ヨアヒムは、ヘラクレイオスから何の支援も受けていなかった。
西暦637年10月頃、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる機動警備隊が前衛となり、アブー・ウバイダ一行はハリム(現在のシリアのイドリブ県)を経由してアンティオキアへと向かう。マフルバの近くのオロンテス川に架かる鉄橋付近でアンティオキアを守備する東ローマ帝国軍とムスリムが交戦する。此の戦闘でワリードは大きな役割を果たし、東ローマ帝国軍は多数の死傷者を出して大敗し、残存兵はアンティオキアへ逃亡した。其の後ムスリムはアンティオキアを包囲した。10月30日、アンティオキアに駐留する東ローマ帝国軍が降伏する。其の後ムスリムは、地中海沿岸に沿って南下し、ラタキア(現在のシリア)・ジャブラ(現在のシリアのラタキア県)・タルトゥース(現在のシリア)を占領した。又他にもムスリムは、シリア北部に残存する抵抗勢力の鎮圧を行った。ハーリド・イブン・アル・ワリードは、マンビジュ(現在のシリアのアレッポ県)付近へ派遣され、騎兵隊を率い進軍した。西暦638年1月1日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードのマンビジュ遠征が終了する。殆ど抵抗も無く征圧を完了した。
西暦638年3月、アル・ジャジーラ地方の東ローマ帝国と親しいキリスト教徒アラブ人が、ホムス(現在のシリア)を包囲する。ハーリド・イブン・アル・ワリードは帰還したばかりであったが、アブー・ウバイダに対して、出撃を先導する為外に出して欲しいと訴えたが、ウバイダは増援が来るまで待機すべきと判断し、其の場に留めた。其の頃ムスリムは、シルセシウム・ヒットの2箇所を逆包囲した。ヒットは、東ローマ帝国軍守備隊が周囲に堀を築いていた為、苦戦したものの包囲に成功し、其の後占領した。シルセシウムは、ハビブ・イブン・マスラマ・アル・フィフリ率いる軍が包囲したが、東ローマ帝国軍は無抵抗で明け渡した。イヤド・イブン・ガンムは、更にワリド・イブン・ウクバをラビーア族・タヌーク族の2部族の要塞征圧の為に派遣し、畳み掛けた。キリスト教徒アラブ人は、ウマル・イブン・ハッターブ率いる援軍の到着と、ガンムのアル・ジャジーラ地方侵攻の2点の情報を掴むと、エメサの包囲を止め、撤退した。然し、カーカ・イブン・アムル指揮下の4,000名の増援を受け、ウバイダから敵を追撃する為に砦から出る許可を与えられていたハーリド・イブン・アル・ワリードの軍により、キリスト教徒アラブ人はアル・ジャジーラ地方への帰還を妨害され、多大な損害を被った。其の後、ハーリド・イブン・アル・ワリードと、ガンムの2名率いる縦隊によってアル・ジャジーラ地方は征圧された。此の縦隊はアララト平原(現在のトルコのウードゥル県・現在のアルメニアのアララト地方)まで北進し、更にトロス山脈(現在のトルコのカラマン県)まで西進した。
西暦638年10月頃、アブー・ウバイダが、ハーリド・イブン・アル・ワリードと、アヤドの2名が各々指揮する2隊を含む数個縦隊を出撃させ、西はタルスス(現在のトルコのメルスィン県)に至るまで、アナトリア半島の東ローマ帝国軍を襲撃させる。ワリードの目標はゲルマニア(現在のドイツ・オランダ・ポーランド・チェコ・スロバキア・デンマーク)であった。12月頃、ムスリムが、ゲルマニアの東ローマ帝国軍守備隊の居る都市を包囲する。ヘラクレイオスからの支援が望めなかった東ローマ帝国軍守備隊は、ムスリムが提示したジズヤの条件を飲み、降伏した。ムスリムは、物質的な富に関しては望むだけ手に入れる事が出来た。ハーリド・イブン・アル・ワリードは、此れまで滅多に見られなかった戦利品を積んでキンナスリーンに帰還した。ワリードは其の戦利品を贅沢に分配した。分配された者の中にはハドラマウト(現在のイエメン)のキンダ族の族長アル・アシャス・イブン・カイスも含まれていた。此れを受けて、ウマル・イブン・ハッターブはウバイダに対し、公開尋問と、其の結果に関わらずワリードを解任し、キンナスリーンをウバイダの支配下に置く事を命じた。ウバイダはホムスで公開尋問を実施した。ワリードは、ハッターブからマディーナへ来る様呼び出しを受けたが、出発前にキンナスリーンで別れの演説を行った。又12月頃、ジャビヤで開催されたムスリムの評議会にて、ウマル・イブン・ハッターブが、貧しいムスリムの為に資金を残さず、戦果を挙げた者・部族の貴族・詩人に戦利品を供与した事を理由に、ハーリド・イブン・アル・ワリードを解任する。出席した指揮官は、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、ワリードに与えた軍事任務に違反したとしてハッターブを非難したマフズミ派を除き、反対を表明しなかった。ワリードは、多くの仲間からハッターブに報復する様強く促された。ワリードは、ハッターブにクーデターを起こし、ムスリムの権力を掌握するだけの十分な戦力を保持していた。然し、ワリードは実行しなかった。西暦642年、ハーリド・イブン・アル・ワリードがエメサで死去する。ハーリド・イブン・アル・ワリードによるムウタでのムスリムの撤退から、ハーリド・イブン・アル・ワリードのブザカでの勝利とムサイリマ征伐への出陣、ホルムズドのカーズマでの戦死、ササン朝ペルシア軍のアル・マダールとワラジャでの敗北、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍のアル・ヒラ占領、ムスリムのフィラズ占領、ハーリド・イブン・アル・ワリードのメッカ巡礼とダマスカス包囲の命令、ハーリド・イブン・アル・ワリードによるトーマスとテオドールの殺害、東ローマ帝国軍のワディ・ウル・ラッカドへの敗走、ウマル・イブン・ハッターブによるハーリド・イブン・アル・ワリードの最高司令官からの罷免、ウマル・イブン・ハッターブの署名によるエルサレムの協定の締結を経て、ウマル・イブン・ハッターブによるハーリド・イブン・アル・ワリードの解任と、ハーリド・イブン・アル・ワリードのエメサでの死去に至る迄——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。
登場人物
- ハーリド・イブン・アル・ワリード 西暦629年9月10日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、ハリス・ビン・アムル・アル・アズディ殺害の報復の為にザイド・イブン・ハリータを司令官とする軍勢3,000名をシリアへ派遣したが、東ローマ帝国軍がムシャリフ村で待ち伏せていた。東ローマ帝国軍がハリータ率いる軍に攻撃を仕掛け、ムウタで戦闘が始まる。戦闘は2つの高台に挟まれた谷間で行われ、東ローマ帝国軍の数的優位は失われた。然しハリータ率いる軍は東ローマ帝国とガッサーン朝の前に劣勢となり、指揮官であるハリータは殺害された。タビット・イブン・アクラムは、此のムスリムの絶望的な状況を打開する為に旗を手にし、仲間を結集させ敗走した。其の後ハーリド・イブン・アル・ワリードに指揮を執る様求めた。そしてワリードは機転を働かせて潰走するムスリムを纏め上げ、無事に撤退させた。西暦632年9月1日、ハーリド・イブン・アル・ワリードが6,000名の兵を率い、ブザカでアディ・イブン・ハティム・トゥライハ率いる背教軍35,000名を破り勝利する。其の後ガムラにて、ワリードの軍がブザカから逃亡した残存兵を撃退する。10月1日、ハーリド・イブン・アル・ワリードの軍とアラブ部族であるスライム族との戦闘がナクラで行われ、ワリードの軍が同部族の大半を殺戮し勝利する。10月21日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードの軍がウンム・ズンマル率いるサルマ族背教軍とザファールで交戦する。ワリードは背教軍の強さをズンマルのリーダーシップにあると考え、母の遺したラクダに跨り背教軍を指揮していたズンマルを狙い撃ちにする様射手に指示した。結果、ズンマルを乗せた駕籠が落下し直ちにムスリムによって殺害され、ワリードの軍が戦闘を優位に進め勝利する。10月31日頃、アブー・バクルが、戦闘を行わずに自らを預言者と名乗るムサイリマと接触し拘束する事を意図し、イクリマ・イブン・アビー・ジャハルをアル・ヤママに差し向ける。ジャハルは十分な兵力を持っていなかった為、ハーリド・イブン・アル・ワリードの軍の背教軍征伐の谷間期間に兵を借りた。又、ジャハルは次の指示が出るまで待機する様命じられていたが、前月1日にワリードがアディ・イブン・ハティム・トゥライハ率いる背教軍を破り勝利した事と、ジャハルと同様に次の指示が出るまで待機する様命じられていたイスラム教改宗者でサハーバのシュラビル・イブン・ハサナが、ジャハルと合流する為に進軍しており数日で到着する見込みであった事と、ワリードがサルマを征圧した事の報告を受け兵を動かし、ムサイリマに敗北する。バクルはハサナがジャハルと同じ過ちを犯さない様書簡にてアル・ヤママに留まって次の指示を待つ様念を押し、ワリードに対しムサイリマ征伐の指示を出した。11月頃、シュラビル・イブン・ハサナが、前月のイクリマ・イブン・アビー・ジャハルと同様に待ちきれずに兵を動かしムサイリマに敗北する。其の数日後ハーリド・イブン・アル・ワリードが到着し、アル・ヤママのアクラバ平原にムサイリマが40,000名の兵と共に野営しているとの情報を入手した。12月、ハーリド・イブン・アル・ワリードがムサイリマ征伐の為出陣する。ムサイリマは、西暦625年3月23日のウフドの戦いでムハンマド・イブン・アブドゥッラーフの叔父ハムザ・イブン・アブド・アル・ムッタリブを殺害し、其の後イスラム教に改宗したワフシー・イブン・ハルブの標的となり、ハルブはムッタリブを殺害した時と同様に槍を投げた。槍はムサイリマの腹に的中しアブー・ドゥジャーナがムサイリマを斬首、7,000名の兵が虐殺された。西暦633年頃、ムスリムでササン朝ペルシアとの国境付近のアル・ヒラの部族長アル・マタナ・イブン・ハリタがメソポタミア地方のササン朝ペルシアの町を襲撃する。然しササン朝ペルシアの反撃を受けた為ハリタはアブー・バクルに援軍を要請し、結果勝利して相当量の戦利品を得た。バクルは此の戦い振りからメソポタミア地方の征服を決意し、アル・ヤママにいたハーリド・イブン・アル・ワリードに、指揮官として志願兵のみの軍を構成しアル・ヒラへ向かいササン朝ペルシアと戦う様指示した。ワリードはササン朝ペルシア総督ホルムズドに対して「イスラムに於ける人頭税であるジズヤの支払いに応じれば助ける」という主旨の降伏勧告の書簡を送る。然しホルムズドが此れに応じなかった。又、ワリードは書簡の中でカーズマを経由してアル・ウブッラへと向かうルートで進軍するとホルムズドに思わせる様仕向けた。西暦633年3月14日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードが10,000名の軍勢を率いアル・ヒラへ向けてアル・ヤママを出発する。其の後他の部族も加わり、ワリードは18,000名の兵を率いササン朝ペルシアに入った。4月、ハーリド・イブン・アル・ワリードは兵をラクダに跨らせ、機動力で重装備のササン朝ペルシア軍を疲弊させた上で攻撃を仕掛ける戦略を練っていた。ホルムズドがワリードの術中に嵌り、以前ワリードから受け取った書簡からワリードがカーズマを経由して来る事を予測し、アル・ウブッラからカーズマへと進軍する。然しカーズマにはムスリムの気配は無かった。やがてホルムズドは斥候からワリードがフフェアに向かっているとの報告を受けた。フフェアはアル・ウブッラから21マイルしか離れていない為、ホルムズドの拠点のアル・ウブッラが危険に晒される事となった。直ちにホルムズドは50マイル離れたフフェアに兵を差し向けた。既にフフェアに到着していたワリードは、ホルムズドの軍がフフェアに向かっているとの報告を斥候から受けるとカーズマへ移動した。其の後フフェアに到着したホルムズドの軍はワリードの軍がカーズマへ向かっている事を知ると、再びカーズマへの進軍を指示した。こうしてワリードのササン朝ペルシア軍を疲弊させる作戦が成功し、ワリードの軍とホルムズドの軍がカーズマで対峙する事になった。ホルムズドは将軍のクバズとアノシャガンに指示し、兵達を鎖で繋ぎ敵が数人を倒して突破する可能性を軽減する作戦を採った。ただ此の作戦には容易に兵を撤退させる事が出来ないという欠点があった。ホルムズドはカーズマの西の端の前方に軍を展開し、都市を覆うような配置をとり、ハリードは砂漠を背にして軍を展開し、敗北した場合には其処に退却出来る様にした。戦闘が始まったものの、ホルムズドは戦いの序盤で殺害され、疲弊したササン朝ペルシア軍は攻撃に耐える事が出来ず、将軍のクバズとアノシャガンは敗北を察知し、撤退命令を出した。然し、鎖で繋がれていない兵は退却出来たものの、繋がれていた兵は速く動く事が出来ず、数千名が殺害された。4月21日頃、カーズマの戦いで敗れたササン朝ペルシアのクバズとアノシャガンの部隊がカリンとアル・ウブッラで合流する。ハーリド・イブン・アル・ワリードはササン朝ペルシア軍がアル・マダールにいる事を把握し、アル・ムサンナ・イブン・ハリサ率いる分遣隊を送りこみ、自身もアル・マダールへ向かった。ワリードは17,000名の兵を率い、アシム・イブン・アムル・アル・タミミとアディ・イブン・ハティムに両翼を任せ、ササン朝ペルシア軍と対峙した。戦いは、マカル・ビン・アル・アシ(ムスリム)対カリン(ササン朝ペルシア)、アシーム(ムスリム)対アノシャガン(ササン朝ペルシア)、アディ(ムスリム)対クバズ(ササン朝ペルシア)の3つの決闘で始まった。何れもムスリムが勝利し、本格的な戦闘が始まった。此の戦いでササン朝ペルシアは30,000名が殺害された。4月頃、ヤズデギルド3世がクテシフォンにてアル・マダールで自軍の敗北報告を受け、追加で2つの軍を招集して軍を再編成する。同じ頃ハーリド・イブン・アル・ワリードが、送り込んだスパイから、ササン朝ペルシア軍がワラジャに布陣している事と、兵の数がかなり多い事と、別の軍と合流する為にワラジャに留まっている事の報告を受けた。ワリードはアル・ヒラの方角へ向かって、5,000名の騎兵と10,000名の歩兵を率い出撃した。ワリードはバフマン・ジャドゥヤのワラジャ到着予定日の数日前にワラジャの近くに宿営した。5月、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、バフマン・ジャドゥヤの軍がワラジャに到着する前にアンダルザガールの軍を殲滅する作戦を取った。又、ワリードは兵の数がササン朝ペルシア軍を上回っていた事を知っていた為、戦の前夜に騎兵を二手に分けササン朝ペルシア軍を包囲した。更にアル・マダールでの戦闘と同じくアシム・イブン・アムル・アル・タミミとアディ・イブン・ハティムに両翼を任せた。アンダルザガールは先にムスリムに攻撃させて、疲弊した所を反撃する作戦を取った。当初はアンダルザガールの作戦通りに事が運んだものの、最終的には数の力で圧倒され、ササン朝ペルシア軍は敗北した。5月15日頃、ワラジャでの戦闘で敗れたササン朝ペルシア軍の残党が、ユーフラテス川の支流ハシーフ川を渡り、ユーフラテス川の間を移動しながらウライに落ち延びた。ムスリムはウライにササン朝ペルシア軍の残党がいる事を認識していたが、数が少なく問題視していなかった。然し、アル・ヒラとウライの間にいた、ワラジャの戦いで2名の息子を殺害されたアブドゥル・アスワド率いるキリスト教系アラブ部族であるバニ・バクル族が大軍で合流した事で、ハーリド・イブン・アル・ワリードはハシーフ川を渡り、ウライに正面から接近した。ワリードはササン朝ペルシア軍が作戦を練る前に戦闘を開始する事を計画し、当日中に襲撃した。アスワドは決闘でワリードに敗れ殺害された。5月17日頃、ムスリムとササン朝ペルシア軍の戦闘が最も激しかったのはカセーエフ川であった。ハーリド・イブン・アル・ワリードはササン朝ペルシア軍の防衛線を突破出来ずに苦戦している最中、アッラーに祈り、戦いに勝てば敵兵の血を川に流すと約束した。ワリードはササン朝ペルシア軍の捕縛した兵を全員斬首させ、何千名もの死者の血により、カセーエフ川の岸辺は死者の多さで真っ赤に染まり、アッラーとの約束を守った。ワリードは、戦闘の最中ムスリム指揮官の一人であるカーカ・イブン・アムルの助言により、川のダムを開くよう命じ、水を流し込んで粉砕機を動かし、其れでパンを作り、3日間18,000名の兵士を養った。5月30日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍がアル・ヒラにてササン朝ペルシアと戦闘を行いアル・ヒラを占領、地元住民はムスリムに多額の貢物を払い、ウライの住民と同様にジズヤとスパイとしての活動を課せられた。7月、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍がアンバールを包囲する。ワリードは多数の弓兵に敵兵の目を狙う様指示した。ササン朝ペルシアは激しく抵抗したものの最終的に総督シルザードが降伏し、アンバールは陥落した。7月28日頃、アイン・アル・タムルにて、ササン朝ペルシアを支援するアラブ人キリスト教徒による補助部隊がハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍と交戦する。ワリードは、両翼に補助部隊の両翼を包囲させ、自身の率いる本隊は後方で待機した。以前ムスリムとの契約を破った非ムスリムでアラブ人キリスト教徒で補助部隊の司令官のアッカ・イブン・カイズ・イブン・バシールは、ワリードが兵を動かさない事に驚き、自軍を包囲したムスリムの両翼の部隊との戦いに専念する事にした。そんな中ワリードを護衛していた少数の部隊が不意を突いて、バシールに戦いを挑んだ。最終的にワリードはバシールを自らの両手で抱えて捕縛した。補助部隊はバシールが生きて捕らえられた事で戦意を失い、直ちにムスリムに対し全面降伏した。其の後ムスリムはバシールを晒してアイン・アル・タムルを行進し、アラブ人キリスト教徒が待機していたアイン・アル・タムル城を包囲して、アラブ人を大量に含むササン朝ペルシアの補助部隊を降伏させる。更に守備隊の防衛者の前に並び「降伏して門を開けないなら処刑する」と脅した。守備隊が拒否した為、壁の後ろで戦い、ワリードは直ちにバシールを含むすべての捕虜を処刑するよう命じた。8月、アブー・バクルからドゥマット・アル・ジャンダルにてアラブ反乱軍を鎮圧する様命を受けたイヤド・イブン・ガンムが、マリッドと呼ばれる砦の南面に軍を展開し、弓矢にてドゥマット・アル・ジャンダルを守備していたカルブ族を攻撃し、数週間戦闘を行ったが膠着状態となり任務に失敗、ガンムはある将校の「状況によっては、知恵は大軍よりも優れている」という進言により、ハーリド・イブン・アル・ワリードに助けを求める主旨の書簡を送る。ワリードはアイン・アル・タムルからアル・ヒラに向かおうとしている際に其の書簡を受け取った。又8月、ハーリド・イブン・アル・ワリードが前日のイヤド・イブン・ガンムの書簡を受けて、6,000名の兵を率い援軍としてアイン・アル・タムルを出発しドゥマット・アル・ジャンダルへと向かう。8月25日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードがドゥマット・アル・ジャンダルに到着し、イヤド・イブン・ガンムと合流する。ワリードはガンムを指揮下に置き、砦の周囲を押さえアラビア・イラク・ヨルダンへと繋がるルートを遮断してアラブ反乱軍を包囲し、敵が攻撃を仕掛けて来るのを待った。アラブ反乱軍の指揮官ジュディはムスリムが攻撃して来るのを待っていたが、動いて来なかった為、ワリードとガンムの陣を攻撃する為二手に分かれ、先制攻撃を仕掛けた。然しワリードとガンムの軍に其々圧倒され、ジュディは仲間数百名と共に捕らえられ、ワリードがムスリム達に見える様砦の近くまで連行し、部下にジュディと其の仲間の首を刎ねさせた。9月1日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードがイヤド・イブン・ガンムを副将軍に任命し、アル・ヒラへと向かう。9月22日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードがアル・ヒラに到着する。分散したササン朝ペルシア軍が団結して攻勢をかけてきた場合、状況が不利になると読んだワリードは、個別に戦う事を意図し、ムスリムを二手に分け、カーカと、アブ・ライラの2名の指揮下に置いた。ワリードは、アル・ヒラの守備の為にイヤド・イブン・ガンムを残し、此れ等の部隊と共にアイン・アル・タムルへ向かった。9月28日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードが、全軍をアイン・アル・タムルに集結させる。其の後カーカの部隊をフサイドへ、アブ・ライラの部隊をカナフィスへ派遣した。ワリードは目標をムザイヤ・サニー・ズマイルの3箇所に定めた。ワリードは、サニーとズマイルは後からでも対処出来ると考え、次の目的地をムザイヤに決定し、アイン・アル・タムルで馬からラクダに乗り換え、カーカ、アブ・ライラと合流しムザイヤへ追撃した。11月頃、ムザイヤに宿営しているササン朝ペルシア軍の正確な位置を把握していたハーリド・イブン・アル・ワリードが、過去に殆ど例の無い、難易度の高い3方向からの同時夜襲を計画する。ワリードは、フサイドと、カナフィスと、アイン・アル・タムルの3箇所に布陣していた軍をムザイヤから数km離れた場所に集合させ、襲撃時刻を伝え、三手に兵を分散させた。夜襲が開始されると、ササン朝ペルシア軍は足取りを掴む事が出来ず数千人が虐殺された。11月10日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードはムザイヤと同じく3方向からの同時夜襲を計画し、夜に三手に分かれていた軍を集結させる。ワリードは直進ルートで、他の二手はワリードを挟むルートで集合した。ムザイヤの戦いと同じく夜襲時刻を伝え、三手に分かれてサニーのキリスト教アラブ軍を襲撃した。虐殺を免れた兵は少なく、サニーとズマイルの隊長を兼任していたラビア・ビン・ブジャイルも殺害された。11月13日頃の夜、ハーリド・イブン・アル・ワリードがズマイルに到着し、ムザイヤ・サニーと同じく3方向からの同時夜襲を行う。キリスト教アラブ軍はムスリムの奇襲に耐えられず、直ぐに分散したが、戦場から脱出できず、ほぼ全軍が虐殺された。12月1日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードがフィラズに到着する。此の時点でムスリムはユーフラテスの谷を征圧していたが、ササン朝ペルシアとビュザンティオンの境界にあるフィラズにはまだササン朝ペルシア軍の前哨基地が存在していた。ワリードは此の前哨基地を襲撃する為にフィラズに来ていた。ワリードはササン朝ペルシア・ビュザンティオン連合軍がユーフラテス川を渡るまで待機し、渡り切ると直ぐにムスリムに出撃を命じた。又、ムスリムが不利な形勢になると思われた時、ワリードは此の戦いに勝利したらメッカに巡礼すると誓いを立てた。前線が戦闘を開始した後、後方が透かさず橋を占拠し退路を塞ぎ、両翼に分かれ連合軍を包囲した。結果、ムスリムは連合軍を100,000名殺害し、フィラズを占領した。西暦634年1月、ハーリド・イブン・アル・ワリードがフィラズに守備隊を置き、本隊に対しアル・ヒラへの帰還命令を下す。ワリードは、軍がアル・ヒラへ進行を始める迄後方で待機し、其の後少数の護衛を従えてメッカへ向けて、未開拓の道を進み始めた。メッカに到着すると、巡礼を行い誓いを果たした。ワリード一行はアル・ヒラへ向けて出発し、本隊の最後の一団よりも早くアル・ヒラに到着した。4月24日、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる騎兵隊が東ローマ帝国と同盟を結んでいたガッサーン朝とマルジュ・ラーヒトで交戦する。ガッサーン朝はワリードのシリア進出を危険視し、タドモルから峠を下るルート上に強力な戦士を配置していたが、ワリードの騎兵隊の迅速な突撃により、忽ち散り散りになった。ワリードは多くの戦利品及び捕虜を獲得した後、町を離れ野営地に戻った。4月25日朝、ハーリド・イブン・アル・ワリードがグータを急襲する任務を帯びてダマスカスに騎馬隊を派遣する。ワリードは兵を率い、ダマスカスを迂回してボスラ征服へと向かった。6月、ハーリド・イブン・アル・ワリードが、アル・カルヤタインに進軍しガッサーン朝を破る。又6月、ハーリド・イブン・アル・ワリードが、ガッサーン朝の首都であるボスラに到着する。又6月、アブー・ウバイダがシュラビル・イブン・ハサナの部隊をボスラに差し向けた2日後、ハーリド・イブン・アル・ワリードが、ボスラへの行軍の最終日に出撃する。其れを受けボスラの守備隊が、ボスラの外にいるムスリムに向かって出撃した。ハサナと東ローマ帝国軍司令官が、戦闘状態に入った軍を前にして会談を行い、ハサナは、イスラム教への改宗と、貢物を捧げる事と、戦闘の3つの選択肢を提示した。午前中に東ローマ帝国軍が戦闘を選択し、戦いが始まった。最初の数時間は一進一退の状況が続いた。然し正午過ぎに東ローマ帝国軍が優勢となり、ハサナの軍を両側面から挟み撃ちにした。そんな中、ボスラから1マイル離れた所にいたワリードが、風に乗って聞こえてくる戦闘の音を聞き、駆けつけた。又6月、ハーリド・イブン・アル・ワリードがシュラビル・イブン・ハサナの部隊を援護した翌日、東ローマ帝国軍は、ムスリムの戦力は自軍と同程度であると把握し、長旅の疲れが癒える前に打ち負かすべく再攻撃を決意した。ワリードは、中央に自身の直轄部隊を置き、両翼の司令官にラファイ・ビン・ウマイル(左翼)と、ディラール・ビン・アル・アズワル(右翼)の2名を任命した。東ローマ帝国の将軍達は安全な遊軍部隊の下へ逃走する中、ワリードは前線全体に沿って攻撃を開始した。ワリードは東ローマ帝国軍を包囲する命令を下そうと振り返った時、アブー・ウバイダが、ムスリムの隊列から抜けて近付いて来るのが見えた。ウバイダは、西暦628年2月のカイバルの戦いでムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが使用していた黄色の旗を携えていた。ウバイダは其の旗をワリードに渡した。7月、東ローマ帝国軍がムスリムに降伏する。予備兵員がアジュナダイン(東ローマ帝国のパラエスティナ・プリマ州)にいるか、若しくは移動中であったので、援軍が望めなかった為である。ハーリド・イブン・アル・ワリードは貢物の献上を求めた。7月30日、ダマスカスに進軍していたハーリド・イブン・アル・ワリードが、ヤルムーク川北岸のティベリアス湖付近のヤクサにて、ヘラクレイオスの義理の息子トーマスが、ワリードのダマスカス進軍を遅らせる為に差し向けた東ローマ帝国軍と遭遇する。8月19日、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍が、マルジュ・アル・サファールにて、トーマス率いる東ローマ帝国軍を破る。8月20日頃、ヘラクレイオスが、包囲された東ローマ帝国軍の守備隊を救援する為に、ダマスカスへ兵を差し向ける。ハーリド・イブン・アル・ワリードは、ダマスカスを他の地域から孤立させる戦略を練り、パレスチナへ至る道の南と、ダマスカス-エメサ間のルートの北に分遣隊を配置した。8月21日、ダマスカスを孤立させたハーリド・イブン・アル・ワリードが、ムスリムに対しダマスカスを包囲する様命じる。又、6つの門に指揮官を配置し4,000〜5,000名を率いさせ、東ローマ帝国軍の攻撃を撃退し、激しい攻撃があった場合は支援を求める様指示した。指揮官は、トーマスの門がシュラビル・イブン・ハサナ、ジャビヤ門がアブー・ウバイダ(副司令官)、ファラディの門がアムル・イブン・アル・アース、ケイサン門と小さな門がヤズィード・イブン・アビ・スフィアン、東門がラファイ・ビン・ウマイル(主要部隊)であった。又、ワリードは、東門近くの修道院に本部を置いた。9月9日、ヘラクレイオスが、ダマスカスが包囲された事を受け、12,000名の救援軍を派遣する。ダマスカス-エメサ間のルートにいたムスリムの偵察兵から、此の東ローマ帝国軍の状況を聞いたハーリド・イブン・アル・ワリードは、ラファイ・ビン・ウマイルに5,000名の兵を率いさせ、ウカブ峠で偵察兵と合流した。然し兵力が不十分であった為、ムスリムの分遣隊は東ローマ帝国軍に包囲された。然し、東ローマ帝国軍がムスリムの分遣隊を破る前に、ワリードは4,000名の縦隊と共に分遣隊に合流し、東ローマ帝国軍を退けた。9月14日頃、シュラビル・イブン・ハサナ率いる軍に包囲されていたトーマスが、凡ゆる所から兵を召集し、5,000名の兵を率い、ムスリムに矢の雨を降らせ、先制攻撃を仕掛ける。夜、トーマスは再度出撃命令を下した。トーマスは、トーマスの門(主導)・ジャビヤ門・小さな門・東門の4つの門から同時出撃し、駐留している疲労の溜まったムスリムを叩く作戦を立てた。ジャビヤ門・小さな門・東門は、ムスリムを拘束して、トーマスの門にいるハサナを支援出来ない様にする役割を担った。東ローマ帝国軍が、東門に多くの兵を集めた為、ハーリド・イブン・アル・ワリードはハサナを支援する事が出来なかった。トーマスはワリードを生け捕りにする様命じた。東門では、東ローマ帝国軍が大きな戦力を割いていた。ラファイ・ビン・ウマイル率いる軍は東ローマ帝国軍の攻勢に耐える事が出来なかった。其の頃、ワリードは予備の古参騎兵400名を率いてウマイルに加勢し、東ローマ帝国軍を側面から攻撃した。9月18日、シリアの単性論者の司祭ヨナが、夜にダマスカスに祭りが行われる事をハーリド・イブン・アル・ワリードに知らせる。此の機にワリードは、ヨナから教えられた、夜間に比較的防御が薄くなる城壁への奇襲攻撃を計画した。全軍の連携した攻撃計画を立てる時間が無かった為、ワリードは自ら東門を襲撃する事を計画した。ワリードは、カーカ・イブン・アムルと、マズル・イブン・アディの2名と共に、門の横から手を繋いで壁を登った。ワリードは、ロープを使って城壁を登る事を支援する人間数名を残して城壁を下り、東門の内側で警備兵を殺害した。ワリードとカーカ・イブン・アムルが勢い良く門を開け、ワリードの残りの部隊がダマスカスに入り、激しい戦闘を続けた。9月19日、アブー・ウバイダが、ジャビヤ門からダマスカスに入る。ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍は、東門からダマスカスの中心部へ向かって戦い、抵抗する者を全員殺害した。其の後ワリード達はマリアミテ大聖堂に入った。和平交渉では、ワリードは武力でダマスカスを征服したと主張し、ウバイダはトーマスとの和平合意でダマスカスは降伏したと主張した。他の指揮官も状況について話し合い、ワリードに、和平合意は尊重されるべきだと伝え、ワリードは渋々此れに同意した。和平協定の条件として、誰も奴隷にしない事と、寺院に危害を加えない事と、戦利品として何も奪わない事と、トーマスを含む、ムスリムの支配下で生きる事を望まないダマスカス市民全員に安全な通行を与える事と、和平は3日後に終了し、ムスリムは此の3日後に協定に違反する事無く攻撃する事が出来る事が起草され、ワリードが此れに署名した。9月22日、ヨナからアンティオキアへの近道を教えて貰っていたハーリド・イブン・アル・ワリードが、アラブ人の服装を身に纏った騎兵連隊を率い、ジャバル・アンサリヤ山脈を越えて、アンティオキア近郊の海上で東ローマ帝国の難民の船団に追い付く。ワリードは、東西南北の4方面からの攻撃を計画した。東がラーフェ・ビン・ウメール率いる1,000名の騎兵連隊、西がワリード率いる1,000名の騎兵連隊、南がディラール・ビン・アル・アズワル率いる1,000名の騎兵連隊、北がアブー・バクルの息子アブドゥルラフマン・イブン・アブー・バクル率いる1,000名の騎兵連隊であった。ワリードは決闘によりトーマスを殺害した。西暦635年3月、ダマスカスを守備する部隊が、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン率いる軍のみとなり、ヘラクレイオスが好機と捉え、テオドールの指揮下に兵を送る。其の後、ムスリムの下にもテオドールの動きが耳に入り、アブー・ウバイダと、ハーリド・イブン・アル・ワリードの2名がテオドール征伐へと向かった。最終的に両軍はマルジュ・アル・ラムにて対峙した。テオドール・シェオドールの2名を含む東ローマ帝国軍の一部が撤退し、ダマスカスが東ローマ帝国軍の攻撃を受けている事がムスリムに知れた。ワリード達は戦闘を止め、ダマスカスに急行した。やがてワリードと騎兵隊が到着し、東ローマ帝国軍を背後から攻撃し、挟み撃ちとなった。其の後、ワリードは一騎打ちでテオドールを殺害した。3月頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードが一騎打ちでテオドールを殺害した一週間後、アブー・ウバイダ率いる軍が、木星の神殿の建っていたバールベックを占領する。其の後ウバイダは、ワリードをエメサ襲撃の為に派遣した。12月、アブー・ウバイダが、エメサ占領を意図し、後方の東ローマ帝国軍を排除する。其の後、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる機動警備隊を先頭に、エメサへと進軍した。ウバイダは、ワリードに司令官としての役割を与え、自身はラスタン門から少し離れた北側に布陣した。西暦636年3月16日頃の朝、ハービーズ率いる軍が、ラスタン門から奇襲攻撃を行う。アブー・ウバイダは局面打開の為、ハーリド・イブン・アル・ワリードを派遣した。ワリード率いる機動警備隊は、現場を指揮し、兵の再配置を行なって防御策を講じた後に攻撃に転じた。日没近くに東ローマ帝国軍は砦に追い込まれ、奇襲は失敗に終わった。3月17日頃の朝、アブー・ウバイダが軍議を開き、前日の戦闘に関し不満を述べる。ハーリド・イブン・アル・ワリードは「この東ローマ帝国人は、私がこれまで会った中で最も勇敢であった」と述べた。ウバイダは、ワリードに助言を求めた。ワリードは「翌朝、エメサから軍を引き上げ、包囲を強化する為に南下していると見せ掛ける。東ローマ帝国軍は追って後衛を攻撃するだろう。そこを転じて、東ローマ帝国軍を包囲して殲滅すれば良い」という主旨の返答をした。3月18日頃、ムスリムは、前日のハーリド・イブン・アル・ワリードの助言通りに軍を引き上げる振りをする。ワリードが号令を掛けると、2つの騎馬部隊が東ローマ帝国軍の側面を駆け回り、後方から突撃した。ワリードは、機動警備隊の精鋭戦士と共に東ローマ帝国軍の中央に到達し、戦闘中のハービーズを発見した。ワリードはハービーズの下へ向かったが、巨漢の将軍に阻まれた。然し、ワリードは決闘の末此れを破った。ハービーズは最終的に戦死した。5月頃、ムスリムが、ハーリド・イブン・アル・ワリードとアブー・ウバイダ(エメサ)と、カーカ・イブン・アムル(パレスチナ)と、シュラビル・イブン・ハサナ(ヨルダン)と、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン(カエサレア・ピリピ)の四手に分かれる。又5月頃、ムスリムが、北シリア全体の占領を意図し、ハマーを経由して、シャイザールに到着する。ムスリムは此処で、少数の兵士に護衛され、食糧をキンナスリーンに運ぶ東ローマ帝国の船団を見つけ、ハーリド・イブン・アル・ワリードが此れを妨害し、捕縛した。尋問により、ヘラクレイオスの計画と、東ローマ帝国の大軍が陣を張っている場所を聞き出した。ワリードは軍議を開き、アブー・ウバイダに対し、パレスチナとシリア北中部から撤退し、ガッサーン朝の首都ジャビヤに兵力を集中させる事を指示した。又5月頃、ムスリムが、カイサリアに強力な東ローマ帝国軍が駐屯しており、後方から襲撃される恐れがあった為、ワリードの助言により、ダルアーと、デイル・アイユーブの2箇所に後退した。此の間、ハーリド・イブン・アル・ワリードの精鋭軽騎兵隊と、東ローマ帝国の先遣隊の間で小競り合いがあったものの、大きな戦闘は無かった。7月15日頃、ヴァハンが、ハーリド・イブン・アル・ワリードを招き、和平交渉を行い、1ヶ月の休戦が実現する。8月16日、ヴァハンが、軍議にて、夜明け直前に朝の祈りを行なっているムスリムを襲撃する事を決定する。一方、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、夜間に前線の戦力を増強させ、奇襲に備えた。又此の日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは両翼の状況を認識し、右翼の騎兵隊に、東ローマ帝国軍の左翼の北側面を攻撃する様命じ、一方自身は、機動警備隊と共に東ローマ帝国軍の左翼の南側面を攻撃し、ムスリムの右翼の歩兵は正面から攻撃した。此の3方面からの攻撃により、東ローマ帝国軍の左翼は、獲得したムスリムの陣地を放棄せざるを得なくなった。又此の日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、右翼の陣地を安定させた後、機動警備隊に左翼を救援する様命じる。更に、ディラール・ビン・アル・アズワル指揮下の1個連隊を切り離し、陽動を作り出して中央左翼のダイルジャンの軍を攻撃する様命じた。ワリード自身は残りの騎兵予備隊と共に、グレゴリーの軍の側面を攻撃した。最終的にダイルジャンは戦死、ヴァハンは作戦に失敗し、ムスリムは士気を高め、日没と共に戦闘は中断された。8月17日、戦闘が再開され、東ローマ帝国軍がムスリムの右翼と中央右翼を攻撃する。東ローマ帝国軍がムスリムの右翼を集中的に狙っている事に気付いていたハーリド・イブン・アル・ワリードは、右翼騎兵と共に機動警備隊を率いて攻撃を開始した。ワリードは、東ローマ帝国軍の左翼中央部の右側を攻撃し、ムスリムの右翼中央部の騎兵予備隊は、東ローマ帝国軍の左翼中央部の左側を攻撃した。ワリードの適時側面攻撃によりムスリムは再び窮地を救われ、東ローマ帝国軍は戦闘開始時の陣地まで押し戻された。8月18日、ヴァハンはムスリムの右翼に損害を与える事に成功した為、前日の戦闘を推し進める事を決定する。ハーリド・イブン・アル・ワリードは、機動警備隊を率い再度戦場へ赴き、アブー・ウバイダと左翼の左側に、東ローマ帝国軍の前線を攻撃する様命じた。更にワリードは、機動警備隊を2個師団に分け、東ローマ帝国軍の左翼中央部を攻撃し、更にムスリムの右翼の歩兵を正面から突撃させた。3方面からの攻撃を受け、東ローマ帝国軍の左翼中央部は後退した。8月19日早朝、ヴァハンが、新たな交渉が行える様、今後数日間の休戦を求めてムスリムに特使を派遣する。然し、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、勝利が手の届く所にあると判断し、其の申し出を断った。全ての騎兵連隊は、機動警備隊を中核とする8,000名の騎馬部隊に纏められた。ワリードは、東ローマ帝国軍を罠に嵌め、逃げ道を遮断する作戦を採った。夜、ワリードは、ワディ・ウル・ラッカドを横切るアイン・アル・ダカール橋が戦略的に重要であると位置付け、500名の騎兵を派遣した。8月20日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、騎兵部隊を率いて東ローマ帝国軍を戦場から追い出し、増援を受け取れない様分断して、側面や後方を攻撃してワディ・ウル・ラッカドへ追い込む作戦を計画する。ワリードは総攻撃を指示し、騎兵隊を東ローマ帝国軍の左翼へ差し向け、交戦させた。更にワリードは、東ローマ帝国軍の左翼中央部を再度攻撃し、壊滅させた。敗北が決定的となった東ローマ帝国軍の撤退が始まり、ワリードは北への逃走を防ぐ為に騎兵を差し向けた。ワリードは、逃走する東ローマ帝国兵を追跡しダマスカス付近で攻撃を仕掛けた。其の後ワリードはダマスカスの奪還に成功し、地元住民に歓迎された。8月頃、ウマル・イブン・ハッターブが、ハーリド・イブン・アル・ワリードを最高司令官から罷免させ、アブー・ウバイダを据える。軍が再編成され、ワリードはウバイダの副官の1人として従属する事となった。10月1日頃、アブー・ウバイダが軍議を開く。ウバイダ達は、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる機動警備隊を先頭にジャビヤからエルサレムへ向けて進軍した。西暦637年2月頃、ソフロニウスが、ウマル・イブン・ハッターブがエルサレムに来て協定に署名し、降伏を受け入れる事を条件に、エルサレムを降伏させジズヤを支払う事を申し出る。シュラビル・イブン・ハサナは、ハッターブがマディーナから来るのを待つのではなく、外見がハッターブに似ていたハーリド・イブン・アル・ワリードを送り出す事を提案した。ハサナの案が採用されたが、ワリードはキリスト教アラブ人に見破られ、ソフロニウスによって交渉を拒否された。4月1日頃、ウマル・イブン・ハッターブがパレスチナに到着する。其の後ジャビヤへ向かい、アブー・ウバイダと、ハーリド・イブン・アル・ワリードと、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアンの3名等が出迎え、ハッターブに合流した。其の後一行はエルサレムに向かい、ハッターブの署名により協定が締結された。証人は、ワリードと、アースと、アブド・アルラフマン・イブン・アウフと、ムアーウィヤ1世の4名であった。4月10日頃、ウマル・イブン・ハッターブがマディーナへ向けて出発する。アブー・ウバイダと、ハーリド・イブン・アル・ワリードの2名はシリア北部を征服する為に、17,000名を率いエルサレムを出発した。6月頃、アブー・ウバイダと、ハーリド・イブン・アル・ワリードの2名率いる軍が、ダマスカスを経由してエメサに到着、其の数日後にハジルに入る。ワリードと機動警備隊を先頭としていた。其処で司令官メナス率いる7,000名の東ローマ帝国軍守備隊の攻撃を受けた。メナスは戦いの序盤で殺害された。メナスの戦死の情報が東ローマ帝国軍に広まると、兵達は怒り、敵討ちの為激しい攻撃を行った。然し東ローマ帝国軍は、ワリード率いる騎兵連隊に後方から攻撃を受けて包囲され、メナス率いる守備隊にとって嘗て無い大敗を喫した。戦闘が終了すると、直ぐにハジルのアラブ人は、ワリードを出迎え、敵対するつもりは無い事を主張した。ワリードは降伏を受け入れ、キンナスリーンへと向かった。又6月頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードはキンナスリーンに入り、東ローマ帝国軍の駐屯地に向けて「もし貴方方が雲の中に居るなら、アッラーは私達を貴方方の所に引き上げるか、戦いの為に貴方方を私達の所に降ろすでしょう」と通告する。ウマル・イブン・ハッターブは、ハジルの戦いの報告を受け「ワリードは真の司令官です。アブー・バクルにアッラーのご慈悲が有ります様に。彼は私よりも優れた判断力を持っていました」と叫び、ワリードを称賛すると同時に、ワリードを司令官から解任した事は自らの判断ミスであると初めて認めた。8月頃、アブー・ウバイダと、ハーリド・イブン・アル・ワリードの2名がキンナスリーンで合流し、アレッポに進軍する。アレッポは、城壁に囲まれた大きな都市と、都市郊外の丘の上に在る、幅が400m強の、幅の広い堀に囲まれた小さいながらも難攻不落とされる砦で構成されていた。其の砦をヨアヒム率いる東ローマ帝国軍守備隊が守っていた。ヨアヒムは、砦の外でウバイダとワリードの率いるムスリムに遭遇し、交戦した。10月頃、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる機動警備隊が前衛となり、アブー・ウバイダ一行はハリムを経由してアンティオキアへと向かう。マフルバの近くのオロンテス川に架かる鉄橋付近でアンティオキアを守備する東ローマ帝国軍とムスリムが交戦する。此の戦闘でワリードは大きな役割を果たし、東ローマ帝国軍は多数の死傷者を出して大敗し、残存兵はアンティオキアへ逃亡した。10月30日、アンティオキアに駐留する東ローマ帝国軍が降伏する。ハーリド・イブン・アル・ワリードは、マンビジュ付近へ派遣され、騎兵隊を率い進軍した。西暦638年1月1日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードのマンビジュ遠征が終了する。殆ど抵抗も無く征圧を完了した。3月、アル・ジャジーラ地方の東ローマ帝国と親しいキリスト教徒アラブ人が、ホムスを包囲する。ハーリド・イブン・アル・ワリードは帰還したばかりであったが、アブー・ウバイダに対して、出撃を先導する為外に出して欲しいと訴えたが、ウバイダは増援が来るまで待機すべきと判断し、其の場に留めた。キリスト教徒アラブ人は、ウマル・イブン・ハッターブ率いる援軍の到着と、ガンムのアル・ジャジーラ地方侵攻の2点の情報を掴むと、エメサの包囲を止め、撤退した。然し、カーカ・イブン・アムル指揮下の4,000名の増援を受け、ウバイダから敵を追撃する為に砦から出る許可を与えられていたハーリド・イブン・アル・ワリードの軍により、キリスト教徒アラブ人はアル・ジャジーラ地方への帰還を妨害され、多大な損害を被った。其の後、ハーリド・イブン・アル・ワリードと、ガンムの2名率いる縦隊によってアル・ジャジーラ地方は征圧された。10月頃、アブー・ウバイダが、ハーリド・イブン・アル・ワリードと、アヤドの2名が各々指揮する2隊を含む数個縦隊を出撃させ、西はタルススに至るまで、アナトリア半島の東ローマ帝国軍を襲撃させる。ワリードの目標はゲルマニアであった。12月頃、ムスリムが、ゲルマニアの東ローマ帝国軍守備隊の居る都市を包囲する。ハーリド・イブン・アル・ワリードは、此れまで滅多に見られなかった戦利品を積んでキンナスリーンに帰還した。ワリードは其の戦利品を贅沢に分配した。分配された者の中にはハドラマウトのキンダ族の族長アル・アシャス・イブン・カイスも含まれていた。此れを受けて、ウマル・イブン・ハッターブはウバイダに対し、公開尋問と、其の結果に関わらずワリードを解任し、キンナスリーンをウバイダの支配下に置く事を命じた。ワリードは、ハッターブからマディーナへ来る様呼び出しを受けたが、出発前にキンナスリーンで別れの演説を行った。又12月頃、ジャビヤで開催されたムスリムの評議会にて、ウマル・イブン・ハッターブが、貧しいムスリムの為に資金を残さず、戦果を挙げた者・部族の貴族・詩人に戦利品を供与した事を理由に、ハーリド・イブン・アル・ワリードを解任する。ワリードは、多くの仲間からハッターブに報復する様強く促された。ワリードは、ハッターブにクーデターを起こし、ムスリムの権力を掌握するだけの十分な戦力を保持していた。然し、ワリードは実行しなかった。西暦642年、ハーリド・イブン・アル・ワリードがエメサで死去する。
- アブー・バクル 西暦632年10月31日頃、アブー・バクルが、戦闘を行わずに自らを預言者と名乗るムサイリマと接触し拘束する事を意図し、イクリマ・イブン・アビー・ジャハルをアル・ヤママに差し向ける。ジャハルは十分な兵力を持っていなかった為、ハーリド・イブン・アル・ワリードの軍の背教軍征伐の谷間期間に兵を借りた。又、ジャハルは次の指示が出るまで待機する様命じられていたが、前月1日にワリードがアディ・イブン・ハティム・トゥライハ率いる背教軍を破り勝利した事と、ジャハルと同様に次の指示が出るまで待機する様命じられていたイスラム教改宗者でサハーバのシュラビル・イブン・ハサナが、ジャハルと合流する為に進軍しており数日で到着する見込みであった事と、ワリードがサルマを征圧した事の報告を受け兵を動かし、ムサイリマに敗北する。ジャハルはバクルに書簡を送り行動の全容を報告した。報告を受けたバクルはジャハルの軽率な行動に怒りを覚えた。バクルはアルファジャの援護の為にマフラに向かい、ジャハルに対してもムハージルーンを助ける為にイエメンに向かう様指示した。バクルはハサナがジャハルと同じ過ちを犯さない様書簡にてアル・ヤママに留まって次の指示を待つ様念を押し、ワリードに対しムサイリマ征伐の指示を出した。更にハサナに対して後日到着するワリードの軍の指揮下に入る様書簡にて指示を出した。西暦633年頃、ムスリムでササン朝ペルシアとの国境付近のアル・ヒラの部族長アル・マタナ・イブン・ハリタがメソポタミア地方のササン朝ペルシアの町を襲撃する。然しササン朝ペルシアの反撃を受けた為ハリタはアブー・バクルに援軍を要請し、結果勝利して相当量の戦利品を得た。其の後ハリタはマディーナへ赴きバクルに戦勝報告を行い、バクルから司令官に任命され、メソポタミア地方の襲撃に邁進する事となった。バクルは此の戦い振りからメソポタミア地方の征服を決意し、アル・ヤママにいたハーリド・イブン・アル・ワリードに、指揮官として志願兵のみの軍を構成しアル・ヒラへ向かいササン朝ペルシアと戦う様指示した。西暦633年8月、アブー・バクルからドゥマット・アル・ジャンダルにてアラブ反乱軍を鎮圧する様命を受けたイヤド・イブン・ガンムが、マリッドと呼ばれる砦の南面に軍を展開し、弓矢にてドゥマット・アル・ジャンダルを守備していたカルブ族を攻撃し、数週間戦闘を行ったが膠着状態となり任務に失敗、ガンムはある将校の「状況によっては、知恵は大軍よりも優れている」という進言により、ハーリド・イブン・アル・ワリードに助けを求める主旨の書簡を送る。西暦637年6月頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードはキンナスリーンに入り、東ローマ帝国軍の駐屯地に向けて「もし貴方方が雲の中に居るなら、アッラーは私達を貴方方の所に引き上げるか、戦いの為に貴方方を私達の所に降ろすでしょう」と通告する。ウマル・イブン・ハッターブは、ハジルの戦いの報告を受け「ワリードは真の司令官です。アブー・バクルにアッラーのご慈悲が有ります様に。彼は私よりも優れた判断力を持っていました」と叫び、ワリードを称賛すると同時に、ワリードを司令官から解任した事は自らの判断ミスであると初めて認めた。
- ウマル・イブン・ハッターブ 西暦634年、アル・ヒラ奪回を意図し、ササン朝ペルシアの将軍ロスタム・ファルロフザードが、将軍数名とイスパフブダン家の親戚の一部をナマラクに派遣する。アル・ムサンナ・イブン・ハリサは、バビロンの戦いと同様にハーリド・イブン・アル・ワリード不在の為、孤軍奮闘した。ウマル・イブン・ハッターブがアブー・ウバイダに援軍を送り、最終的にササン朝ペルシア軍は敗北した。西暦636年5月頃、ムスリムが、北シリア全体の占領を意図し、ハマーを経由して、シャイザールに到着する。ムスリムは此処で、少数の兵士に護衛され、食糧をキンナスリーンに運ぶ東ローマ帝国の船団を見つけ、ハーリド・イブン・アル・ワリードが此れを妨害し、捕縛した。尋問により、ヘラクレイオスの計画と、東ローマ帝国の大軍が陣を張っている場所を聞き出した。ワリードは軍議を開き、アブー・ウバイダに対し、パレスチナとシリア北中部から撤退し、ガッサーン朝の首都ジャビヤに兵力を集中させる事を指示した。ウバイダはガッサーン朝の襲撃を退け、ジャビヤを征圧した。此れにより、ウマル・イブン・ハッターブからの援軍が合流し易くなり、ジャビヤ近郊の広大な平原に戦力を集中させる事が可能となった。8月頃、ウマル・イブン・ハッターブが、ハーリド・イブン・アル・ワリードを最高司令官から罷免させ、アブー・ウバイダを据える。軍が再編成され、ワリードはウバイダの副官の1人として従属する事となった。10月1日頃、アブー・ウバイダが軍議を開く。カイサリア・エルサレムの2箇所のどちらを占領するか議論が為されたが、結論は出なかった。ウバイダは、ウマル・イブン・ハッターブに書簡を送り指示を仰いだ。ハッターブはエルサレムを占領する様返答した。西暦637年2月頃、ソフロニウスが、ウマル・イブン・ハッターブがエルサレムに来て協定に署名し、降伏を受け入れる事を条件に、エルサレムを降伏させジズヤを支払う事を申し出る。シュラビル・イブン・ハサナは、ハッターブがマディーナから来るのを待つのではなく、外見がハッターブに似ていたハーリド・イブン・アル・ワリードを送り出す事を提案した。ハサナの案が採用されたが、ワリードはキリスト教アラブ人に見破られ、ソフロニウスによって交渉を拒否された。ワリードの任務失敗の報告を受けたアブー・ウバイダは、ハッターブに書簡を送り、エルサレムに来る様願い出た。4月1日頃、ウマル・イブン・ハッターブがパレスチナに到着する。其の後ジャビヤへ向かい、アブー・ウバイダと、ハーリド・イブン・アル・ワリードと、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアンの3名等が出迎え、ハッターブに合流した。此の時アムル・イブン・アル・アースは、エルサレム包囲の指揮官として従事していた。其の後一行はエルサレムに向かい、ハッターブの署名により協定が締結された。証人は、ワリードと、アースと、アブド・アルラフマン・イブン・アウフと、ムアーウィヤ1世の4名であった。此れにより東ローマ帝国は、エルサレムをムスリムに明け渡し、ジズヤと引き換えにキリスト教徒に市民的及び宗教的自由の保証を与えられた。其の後ソフロニウスは、ズフルの礼拝の際、ハッターブを再建された聖墳墓教会に招待した。然しハッターブは、キリスト教の礼拝の場としての教会の立場が危険に晒され、ムスリムが協定を破り教会をモスクに変える事を危惧し、辞退した。ソフロニウスはハッターブを、神殿の丘にも案内しており、其の際ハッターブは、かつて寺院のあった場所の劣悪な状態を見て、其の場所に木造のモスクを建てる前に、塵や瓦礫を取り除くよう命じた。4月10日頃、ウマル・イブン・ハッターブがマディーナへ向けて出発する。又ハッターブは、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアンに指示を出し、カイサリアを包囲させた。6月頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードはキンナスリーンに入り、東ローマ帝国軍の駐屯地に向けて「もし貴方方が雲の中に居るなら、アッラーは私達を貴方方の所に引き上げるか、戦いの為に貴方方を私達の所に降ろすでしょう」と通告する。ウマル・イブン・ハッターブは、ハジルの戦いの報告を受け「ワリードは真の司令官です。アブー・バクルにアッラーのご慈悲が有ります様に。彼は私よりも優れた判断力を持っていました」と叫び、ワリードを称賛すると同時に、ワリードを司令官から解任した事は自らの判断ミスであると初めて認めた。西暦638年3月、アル・ジャジーラ地方の東ローマ帝国と親しいキリスト教徒アラブ人が、ホムスを包囲する。キリスト教徒アラブ人は、ウマル・イブン・ハッターブ率いる援軍の到着と、イヤド・イブン・ガンムのアル・ジャジーラ地方侵攻の2点の情報を掴むと、エメサの包囲を止め、撤退した。12月頃、ムスリムが、ゲルマニアの東ローマ帝国軍守備隊の居る都市を包囲する。ハーリド・イブン・アル・ワリードは、此れまで滅多に見られなかった戦利品を積んでキンナスリーンに帰還した。ワリードは其の戦利品を贅沢に分配した。分配された者の中にはハドラマウトのキンダ族の族長アル・アシャス・イブン・カイスも含まれていた。此れを受けて、ウマル・イブン・ハッターブはウバイダに対し、公開尋問と、其の結果に関わらずワリードを解任し、キンナスリーンをウバイダの支配下に置く事を命じた。ウバイダはホムスで公開尋問を実施した。ワリードは、ハッターブからマディーナへ来る様呼び出しを受けたが、出発前にキンナスリーンで別れの演説を行った。又12月頃、ジャビヤで開催されたムスリムの評議会にて、ウマル・イブン・ハッターブが、貧しいムスリムの為に資金を残さず、戦果を挙げた者・部族の貴族・詩人に戦利品を供与した事を理由に、ハーリド・イブン・アル・ワリードを解任する。出席した指揮官は、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、ワリードに与えた軍事任務に違反したとしてハッターブを非難したマフズミ派を除き、反対を表明しなかった。ワリードは、多くの仲間からハッターブに報復する様強く促された。ワリードは、ハッターブにクーデターを起こし、ムスリムの権力を掌握するだけの十分な戦力を保持していた。然し、ワリードは実行しなかった。
- アブー・ウバイダ 西暦634年4月25日朝、ハーリド・イブン・アル・ワリードがグータを急襲する任務を帯びてダマスカスに騎馬隊を派遣する。又、アブー・ウバイダを使者として送り、ボスラで報告する様指示を出した。6月、ハーリド・イブン・アル・ワリードが、ガッサーン朝の首都であるボスラに到着する。既にハウランを占領していたアブー・ウバイダは、ワリードが到着する迄、ボスラに留まる様指示を受けていた。ウバイダはムスリムから成る、ウバイダの部隊と、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアンの部隊と、シュラビル・イブン・ハサナの部隊の3つの部隊を指揮下に置いていたが、戦闘はせず、町を征服した事も無かった。ウバイダは、ワリード到着後はワリードの指揮下に入る事を聞いた。其れを受け、ボスラ占領を意図し、ハサナの部隊4,000名を差し向けた。又6月、アブー・ウバイダがシュラビル・イブン・ハサナの部隊をボスラに差し向けた2日後、ハーリド・イブン・アル・ワリードが、ボスラへの行軍の最終日に出撃する。又6月、ハーリド・イブン・アル・ワリードがシュラビル・イブン・ハサナの部隊を援護した翌日、東ローマ帝国軍は、ムスリムの戦力は自軍と同程度であると把握し、長旅の疲れが癒える前に打ち負かすべく再攻撃を決意した。ワリードは東ローマ帝国軍を包囲する命令を下そうと振り返った時、アブー・ウバイダが、ムスリムの隊列から抜けて近付いて来るのが見えた。ウバイダは、西暦628年2月のカイバルの戦いでムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが使用していた黄色の旗を携えていた。ウバイダは其の旗をワリードに渡した。8月21日、ダマスカスを孤立させたハーリド・イブン・アル・ワリードが、ムスリムに対しダマスカスを包囲する様命じる。又、ワリードは、6つの門に指揮官を配置し4,000〜5,000名を率いさせ、東ローマ帝国軍の攻撃を撃退し、激しい攻撃があった場合は支援を求める様指示した。指揮官は、トーマスの門がシュラビル・イブン・ハサナ、ジャビヤ門がアブー・ウバイダ(副司令官)、ファラディの門がアムル・イブン・アル・アース、ケイサン門と小さな門がヤズィード・イブン・アビ・スフィアン、東門がラファイ・ビン・ウマイル(主要部隊)であった。9月14日頃、シュラビル・イブン・ハサナ率いる軍に包囲されていたトーマスが、凡ゆる所から兵を召集し、5,000名の兵を率い、ムスリムに矢の雨を降らせ、先制攻撃を仕掛ける。夜、トーマスは再度出撃命令を下した。トーマスは、トーマスの門(主導)・ジャビヤ門・小さな門・東門の4つの門から同時出撃し、駐留している疲労の溜まったムスリムを叩く作戦を立てた。ジャビヤ門では、アブー・ウバイダ率いる軍が、東ローマ帝国軍を撃退した。9月18日、シリアの単性論者の司祭ヨナが、夜にダマスカスに祭りが行われる事をハーリド・イブン・アル・ワリードに知らせる。全軍の連携した攻撃計画を立てる時間が無かった為、ワリードは自ら東門を襲撃する事を計画した。ワリードとカーカ・イブン・アムルが勢い良く門を開け、ワリードの残りの部隊がダマスカスに入り、激しい戦闘を続けた。残りの軍勢が他の門から動かないのを見たトーマスは、ワリードの軍勢だけがダマスカスに入ったと予測し、他の指揮官は防御の突破に気づいていないと考えた。トーマスはジャビヤ門に使者を送り、アブー・ウバイダに対し、砦の明け渡しとジズヤの支払いを申し出た。平和的な考えで知られていたウバイダは、ワリードも此の条件を受け入れるだろうと考え、申し出を受け入れた。此のトーマスの申し出は全ての指揮官に共有された。9月19日、アブー・ウバイダが、ジャビヤ門からダマスカスに入る。他の指揮官も此れに続き、其々の門からダマスカスに入った。ウバイダは、トーマスと、高官数名と、ダマスカスの司教を伴ってダマスカス中心部へと向かい、其の後マリアミテ大聖堂に入った。和平交渉では、ワリードは武力でダマスカスを征服したと主張し、ウバイダはトーマスとの和平合意でダマスカスは降伏したと主張した。他の指揮官も状況について話し合い、ワリードに、和平合意は尊重されるべきだと伝え、ワリードは渋々此れに同意した。西暦635年3月、ダマスカスを守備する部隊が、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン率いる軍のみとなり、ヘラクレイオスが好機と捉え、テオドールの指揮下に兵を送る。其の後、ムスリムの下にもテオドールの動きが耳に入り、アブー・ウバイダと、ハーリド・イブン・アル・ワリードの2名がテオドール征伐へと向かった。テオドールは更に、シャナシュ・アル・ローマ率いる騎兵隊を含む援軍を受けた。最終的に両軍はマルジュ・アル・ラムにて対峙した。戦いはシャナシュ・アル・ローマとウバイダによる決闘で幕を開けた。決闘はウバイダが勝利し、其の後は均衡した戦いとなった。3月頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードが一騎打ちでテオドールを殺害した一週間後、アブー・ウバイダ率いる軍が、木星の神殿の建っていたバールベックを占領する。其の後ウバイダは、ワリードをエメサ襲撃の為に派遣した。12月、アブー・ウバイダが、エメサ占領を意図し、後方の東ローマ帝国軍を排除する。其の後、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる機動警備隊を先頭に、エメサへと進軍した。機動警備隊は、東ローマ帝国軍のエメサの守備隊を退け、東ローマ帝国軍は砦内に退避し、門を閉めざるを得なくなった。ウバイダが遅れてエメサに到着し、マスドゥド門(南西)・タドムル門(北東)・ドゥライブ門(東)・ハド門(西)の4つの門の向かいに部隊を配置した。ウバイダは、ワリードに司令官としての役割を与え、自身はラスタン門から少し離れた北側に布陣した。西暦636年3月16日頃の朝、ハービーズ率いる軍が、ラスタン門から奇襲攻撃を行う。攻撃を受けた部隊は、ムスリムの幾つかに分散した戦力の中でも最大であった。にも拘らず、東ローマ帝国軍の素早い攻撃に翻弄され、劣勢となった。アブー・ウバイダは局面打開の為、ハーリド・イブン・アル・ワリードを派遣した。3月17日頃の朝、アブー・ウバイダが軍議を開き、前日の戦闘に関し不満を述べる。ハーリド・イブン・アル・ワリードは「この東ローマ帝国人は、私がこれまで会った中で最も勇敢であった」と述べた。ウバイダは、ワリードに助言を求めた。ワリードは「翌朝、エメサから軍を引き上げ、包囲を強化する為に南下していると見せ掛ける。東ローマ帝国軍は追って後衛を攻撃するだろう。そこを転じて、東ローマ帝国軍を包囲して殲滅すれば良い」という主旨の返答をした。3月18日頃、ムスリムは、前日のハーリド・イブン・アル・ワリードの助言通りに軍を引き上げる振りをする。アブー・ウバイダは、地元住民の条件付きの降伏を受け入れ、1人当たり1ディナールのレートでジズヤを徴収した。5月頃、ムスリムが、ハーリド・イブン・アル・ワリードとアブー・ウバイダ(エメサ)と、カーカ・イブン・アムル(パレスチナ)と、シュラビル・イブン・ハサナ(ヨルダン)と、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン(カエサレア・ピリピ)の四手に分かれる。又5月頃、ムスリムが、北シリア全体の占領を意図し、ハマーを経由して、シャイザールに到着する。ムスリムは此処で、少数の兵士に護衛され、食糧をキンナスリーンに運ぶ東ローマ帝国の船団を見つけ、ハーリド・イブン・アル・ワリードが此れを妨害し、捕縛した。尋問により、ヘラクレイオスの計画と、東ローマ帝国の大軍が陣を張っている場所を聞き出した。ワリードは軍議を開き、アブー・ウバイダに対し、パレスチナとシリア北中部から撤退し、ガッサーン朝の首都ジャビヤに兵力を集中させる事を指示した。ウバイダはガッサーン朝の襲撃を退け、ジャビヤを征圧した。8月18日、ヴァハンはムスリムの右翼に損害を与える事に成功した為、前日の戦闘を推し進める事を決定する。ハーリド・イブン・アル・ワリードは、機動警備隊を率い再度戦場へ赴き、アブー・ウバイダと左翼の左側に、東ローマ帝国軍の前線を攻撃する様命じた。其の頃、東ローマ帝国軍の弓騎兵がウバイダと、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアンの2名の部隊に矢の雨を降らせた。8月頃、ウマル・イブン・ハッターブが、ハーリド・イブン・アル・ワリードを最高司令官から罷免させ、アブー・ウバイダを据える。軍が再編成され、ワリードはウバイダの副官の1人として従属する事となった。10月1日頃、アブー・ウバイダが軍議を開く。カイサリア・エルサレムの2箇所のどちらを占領するか議論が為されたが、結論は出なかった。ウバイダは、ウマル・イブン・ハッターブに書簡を送り指示を仰いだ。ハッターブはエルサレムを占領する様返答した。ウバイダ達は、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる機動警備隊を先頭にジャビヤからエルサレムへ向けて進軍した。西暦637年2月頃、ソフロニウスが、ウマル・イブン・ハッターブがエルサレムに来て協定に署名し、降伏を受け入れる事を条件に、エルサレムを降伏させジズヤを支払う事を申し出る。シュラビル・イブン・ハサナは、ハッターブがマディーナから来るのを待つのではなく、外見がハッターブに似ていたハーリド・イブン・アル・ワリードを送り出す事を提案した。ハサナの案が採用されたが、ワリードはキリスト教アラブ人に見破られ、ソフロニウスによって交渉を拒否された。ワリードの任務失敗の報告を受けたアブー・ウバイダは、ハッターブに書簡を送り、エルサレムに来る様願い出た。4月1日頃、ウマル・イブン・ハッターブがパレスチナに到着する。其の後ジャビヤへ向かい、アブー・ウバイダと、ハーリド・イブン・アル・ワリードと、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアンの3名等が出迎え、ハッターブに合流した。4月10日頃、ウマル・イブン・ハッターブがマディーナへ向けて出発する。アブー・ウバイダと、ハーリド・イブン・アル・ワリードの2名はシリア北部を征服する為に、17,000名を率いエルサレムを出発した。6月頃、アブー・ウバイダと、ハーリド・イブン・アル・ワリードの2名率いる軍が、ダマスカスを経由してエメサに到着、其の数日後にハジルに入る。8月頃、アブー・ウバイダと、ハーリド・イブン・アル・ワリードの2名がキンナスリーンで合流し、アレッポに進軍する。アレッポは、城壁に囲まれた大きな都市と、都市郊外の丘の上に在る、幅が400m強の、幅の広い堀に囲まれた小さいながらも難攻不落とされる砦で構成されていた。其の砦をヨアヒム率いる東ローマ帝国軍守備隊が守っていた。ヨアヒムは、砦の外でウバイダとワリードの率いるムスリムに遭遇し、交戦した。10月頃、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる機動警備隊が前衛となり、アブー・ウバイダ一行はハリムを経由してアンティオキアへと向かう。西暦638年3月、アル・ジャジーラ地方の東ローマ帝国と親しいキリスト教徒アラブ人が、ホムスを包囲する。ハーリド・イブン・アル・ワリードは帰還したばかりであったが、アブー・ウバイダに対して、出撃を先導する為外に出して欲しいと訴えたが、ウバイダは増援が来るまで待機すべきと判断し、其の場に留めた。キリスト教徒アラブ人は、ウマル・イブン・ハッターブ率いる援軍の到着と、イヤド・イブン・ガンムのアル・ジャジーラ地方侵攻の2点の情報を掴むと、エメサの包囲を止め、撤退した。然し、カーカ・イブン・アムル指揮下の4,000名の増援を受け、ウバイダから敵を追撃する為に砦から出る許可を与えられていたハーリド・イブン・アル・ワリードの軍により、キリスト教徒アラブ人はアル・ジャジーラ地方への帰還を妨害され、多大な損害を被った。10月頃、アブー・ウバイダが、ハーリド・イブン・アル・ワリードと、アヤドの2名が各々指揮する2隊を含む数個縦隊を出撃させ、西はタルススに至るまで、アナトリア半島の東ローマ帝国軍を襲撃させる。12月頃、ムスリムが、ゲルマニアの東ローマ帝国軍守備隊の居る都市を包囲する。ハーリド・イブン・アル・ワリードは、此れまで滅多に見られなかった戦利品を積んでキンナスリーンに帰還した。ワリードは其の戦利品を贅沢に分配した。分配された者の中にはハドラマウトのキンダ族の族長アル・アシャス・イブン・カイスも含まれていた。此れを受けて、ウマル・イブン・ハッターブはウバイダに対し、公開尋問と、其の結果に関わらずワリードを解任し、キンナスリーンをウバイダの支配下に置く事を命じた。ウバイダはホムスで公開尋問を実施した。
- ムサイリマ 西暦632年10月31日頃、アブー・バクルが、戦闘を行わずに自らを預言者と名乗るムサイリマと接触し拘束する事を意図し、イクリマ・イブン・アビー・ジャハルをアル・ヤママに差し向ける。ジャハルは十分な兵力を持っていなかった為、ハーリド・イブン・アル・ワリードの軍の背教軍征伐の谷間期間に兵を借りた。又、ジャハルは次の指示が出るまで待機する様命じられていたが、前月1日にワリードがアディ・イブン・ハティム・トゥライハ率いる背教軍を破り勝利した事と、ジャハルと同様に次の指示が出るまで待機する様命じられていたイスラム教改宗者でサハーバのシュラビル・イブン・ハサナが、ジャハルと合流する為に進軍しており数日で到着する見込みであった事と、ワリードがサルマを征圧した事の報告を受け兵を動かし、ムサイリマに敗北する。11月頃、シュラビル・イブン・ハサナが、前月のイクリマ・イブン・アビー・ジャハルと同様に待ちきれずに兵を動かしムサイリマに敗北する。其の数日後ハーリド・イブン・アル・ワリードが到着し、アル・ヤママのアクラバ平原にムサイリマが40,000名の兵と共に野営しているとの情報を入手した。12月、ハーリド・イブン・アル・ワリードがムサイリマ征伐の為出陣する。ムサイリマの軍が戦闘可能な状態にある兵が7,000名、1/4程度となった段階で城壁のある庭園へ避難し、少数の護衛が援護した。アンサールでサハーバのアルバラ・イブン・マリクが仲間に頼んで壁を登らせ、其処にいる衛兵を殺して門を開け庭園に侵入した。ムサイリマは、西暦625年3月23日のウフドの戦いでムハンマド・イブン・アブドゥッラーフの叔父ハムザ・イブン・アブド・アル・ムッタリブを殺害し、其の後イスラム教に改宗したワフシー・イブン・ハルブの標的となり、ハルブはムッタリブを殺害した時と同様に槍を投げた。槍はムサイリマの腹に的中しアブー・ドゥジャーナがムサイリマを斬首、7,000名の兵が虐殺された。
- ウンム・ズンマル 西暦632年10月21日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードの軍がウンム・ズンマル率いるサルマ族背教軍とザファールで交戦する。ワリードは背教軍の強さをズンマルのリーダーシップにあると考え、母の遺したラクダに跨り背教軍を指揮していたズンマルを狙い撃ちにする様射手に指示した。結果、ズンマルを乗せた駕籠が落下し直ちにムスリムによって殺害され、ワリードの軍が戦闘を優位に進め勝利する。
- イクリマ・イブン・アビー・ジャハル 西暦632年10月31日頃、アブー・バクルが、戦闘を行わずに自らを預言者と名乗るムサイリマと接触し拘束する事を意図し、イクリマ・イブン・アビー・ジャハルをアル・ヤママに差し向ける。ジャハルは十分な兵力を持っていなかった為、ハーリド・イブン・アル・ワリードの軍の背教軍征伐の谷間期間に兵を借りた。又、ジャハルは次の指示が出るまで待機する様命じられていたが、前月1日にワリードがアディ・イブン・ハティム・トゥライハ率いる背教軍を破り勝利した事と、ジャハルと同様に次の指示が出るまで待機する様命じられていたイスラム教改宗者でサハーバのシュラビル・イブン・ハサナが、ジャハルと合流する為に進軍しており数日で到着する見込みであった事と、ワリードがサルマを征圧した事の報告を受け兵を動かし、ムサイリマに敗北する。バクルに書簡を送り行動の全容を報告した。報告を受けたバクルはジャハルの軽率な行動に怒りを覚えた。バクルはアルファジャの援護の為にマフラに向かい、ジャハルに対してもムハージルーンを助ける為にイエメンに向かう様指示した。11月頃、シュラビル・イブン・ハサナが、前月のイクリマ・イブン・アビー・ジャハルと同様に待ちきれずに兵を動かしムサイリマに敗北する。西暦636年8月18日、ヴァハンはムスリムの右翼に損害を与える事に成功した為、前日の戦闘を推し進める事を決定する。ハーリド・イブン・アル・ワリードは、機動警備隊を率い再度戦場へ赴き、アブー・ウバイダと左翼の左側に、東ローマ帝国軍の前線を攻撃する様命じた。其の頃、東ローマ帝国軍の弓騎兵がウバイダと、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアンの2名の部隊に矢の雨を降らせた。スフィアンを含む多くのムスリム兵が目に矢を受け、甚大な被害を被った。ムスリムは、ウバイダの左側にいた、ワリードの幼馴染であるイクリマ・イブン・アビー・ジャハル率いる1個連隊を除き、退却した。ジャハルは騎兵400名を率いてムスリムの退却を援護したが、全員が重傷を負い、死亡者も発生した。夕方、ジャハルは致命傷を負い死亡した。
- シュラビル・イブン・ハサナ 西暦632年10月31日頃、アブー・バクルが、戦闘を行わずに自らを預言者と名乗るムサイリマと接触し拘束する事を意図し、イクリマ・イブン・アビー・ジャハルをアル・ヤママに差し向ける。ジャハルは十分な兵力を持っていなかった為、ハーリド・イブン・アル・ワリードの軍の背教軍征伐の谷間期間に兵を借りた。又、ジャハルは次の指示が出るまで待機する様命じられていたが、前月1日にワリードがアディ・イブン・ハティム・トゥライハ率いる背教軍を破り勝利した事と、ジャハルと同様に次の指示が出るまで待機する様命じられていたイスラム教改宗者でサハーバのシュラビル・イブン・ハサナが、ジャハルと合流する為に進軍しており数日で到着する見込みであった事と、ワリードがサルマを征圧した事の報告を受け兵を動かし、ムサイリマに敗北する。ハサナはアル・ヤママに留まった。バクルはハサナがジャハルと同じ過ちを犯さない様書簡にてアル・ヤママに留まって次の指示を待つ様念を押し、ワリードに対しムサイリマ征伐の指示を出した。更にバクルはハサナに対して後日到着するワリードの軍の指揮下に入る様書簡にて指示を出した。11月頃、シュラビル・イブン・ハサナが、前月のイクリマ・イブン・アビー・ジャハルと同様に待ちきれずに兵を動かしムサイリマに敗北する。西暦634年6月、ハーリド・イブン・アル・ワリードが、ガッサーン朝の首都であるボスラに到着する。既にハウランを占領していたアブー・ウバイダは、ワリードが到着する迄、ボスラに留まる様指示を受けていた。ウバイダはムスリムから成る、ウバイダの部隊と、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアンの部隊と、シュラビル・イブン・ハサナの部隊の3つの部隊を指揮下に置いていたが、戦闘はせず、町を征服した事も無かった。ウバイダは、ワリード到着後はワリードの指揮下に入る事を聞いた。其れを受け、ボスラ占領を意図し、ハサナの部隊4,000名を差し向けた。ボスラの守備隊は、ハサナの部隊が見えると、要塞のある町へ逃げ込んだ。ハサナの部隊は先遣隊に過ぎず、更に多くのムスリムが攻めて来る事を予測していた為である。ハサナはボスラの西側に着陣し、部下の部隊を砦の周囲に配置した。又6月、アブー・ウバイダがシュラビル・イブン・ハサナの部隊をボスラに差し向けた2日後、ハーリド・イブン・アル・ワリードが、ボスラへの行軍の最終日に出撃する。其れを受けボスラの守備隊が、ボスラの外にいるムスリムに向かって出撃した。ハサナと東ローマ帝国軍司令官が、戦闘状態に入った軍を前にして会談を行い、ハサナは、イスラム教への改宗と、貢物を捧げる事と、戦闘の3つの選択肢を提示した。午前中に東ローマ帝国軍が戦闘を選択し、戦いが始まった。最初の数時間は一進一退の状況が続いた。然し正午過ぎに東ローマ帝国軍が優勢となり、ハサナの軍を両側面から挟み撃ちにした。そんな中、ボスラから1マイル離れた所にいたワリードが、風に乗って聞こえてくる戦闘の音を聞き、駆けつけた。又6月、ハーリド・イブン・アル・ワリードがシュラビル・イブン・ハサナの部隊を援護した翌日、東ローマ帝国軍は、ムスリムの戦力は自軍と同程度であると把握し、長旅の疲れが癒える前に打ち負かすべく再攻撃を決意した。8月21日、ダマスカスを孤立させたハーリド・イブン・アル・ワリードが、ムスリムに対しダマスカスを包囲する様命じる。又、ワリードは、6つの門に指揮官を配置し4,000〜5,000名を率いさせ、東ローマ帝国軍の攻撃を撃退し、激しい攻撃があった場合は支援を求める様指示した。指揮官は、トーマスの門がシュラビル・イブン・ハサナ、ジャビヤ門がアブー・ウバイダ(副司令官)、ファラディの門がアムル・イブン・アル・アース、ケイサン門と小さな門がヤズィード・イブン・アビ・スフィアン、東門がラファイ・ビン・ウマイル(主要部隊)であった。9月14日頃、シュラビル・イブン・ハサナ率いる軍に包囲されていたトーマスが、凡ゆる所から兵を召集し、5,000名の兵を率い、ムスリムに矢の雨を降らせ、先制攻撃を仕掛ける。夜、トーマスは再度出撃命令を下した。トーマスは、トーマスの門(主導)・ジャビヤ門・小さな門・東門の4つの門から同時出撃し、駐留している疲労の溜まったムスリムを叩く作戦を立てた。ジャビヤ門・小さな門・東門は、ムスリムを拘束して、トーマスの門にいるハサナを支援出来ない様にする役割を担った。東ローマ帝国軍が、東門に多くの兵を集めた為、ハーリド・イブン・アル・ワリードはハサナを支援する事が出来なかった。西暦636年5月頃、ムスリムが、ハーリド・イブン・アル・ワリードとアブー・ウバイダ(エメサ)と、カーカ・イブン・アムル(パレスチナ)と、シュラビル・イブン・ハサナ(ヨルダン)と、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン(カエサレア・ピリピ)の四手に分かれる。西暦637年2月頃、ソフロニウスが、ウマル・イブン・ハッターブがエルサレムに来て協定に署名し、降伏を受け入れる事を条件に、エルサレムを降伏させジズヤを支払う事を申し出る。シュラビル・イブン・ハサナは、ハッターブがマディーナから来るのを待つのではなく、外見がハッターブに似ていたハーリド・イブン・アル・ワリードを送り出す事を提案した。ハサナの案が採用されたが、ワリードはキリスト教アラブ人に見破られ、ソフロニウスによって交渉を拒否された。4月10日頃、ウマル・イブン・ハッターブがマディーナへ向けて出発する。アムル・イブン・アル・アースと、シュラビル・イブン・ハサナの2名はパレスチナ占領を完遂させる為に留まった。
- アル・ムサンナ・イブン・ハリサ 西暦633年頃、ムスリムでササン朝ペルシアとの国境付近のアル・ヒラの部族長アル・マタナ・イブン・ハリタがメソポタミア地方のササン朝ペルシアの町を襲撃する。然しササン朝ペルシアの反撃を受けた為アブー・バクルに援軍を要請し、結果勝利して相当量の戦利品を得た。其の後ハリタはマディーナへ赴きバクルに戦勝報告を行い、バクルから司令官に任命され、メソポタミア地方の襲撃に邁進する事となった。軽騎兵の機動力を活かし、砂漠近くの町を襲撃し、砂漠に身を隠す戦法を採った。バクルは此の戦い振りからメソポタミア地方の征服を決意し、アル・ヤママにいたハーリド・イブン・アル・ワリードに、指揮官として志願兵のみの軍を構成しアル・ヒラへ向かいササン朝ペルシアと戦う様指示した。西暦633年4月21日頃、カーズマの戦いで敗れたササン朝ペルシアのクバズとアノシャガンの部隊がカリンとアル・ウブッラで合流する。ハーリド・イブン・アル・ワリードはササン朝ペルシア軍がアル・マダールにいる事を把握し、アル・ムサンナ・イブン・ハリサ率いる分遣隊を送りこみ、自身もアル・マダールへ向かった。5月15日頃、ワラジャでの戦闘で敗れたササン朝ペルシア軍の残党が、ユーフラテス川の支流ハシーフ川を渡り、ユーフラテス川の間を移動しながらウライに落ち延びた。ムスリムの司令官の一人アル・ムタンナ・イブン・ハリサが軽騎兵の斥候と共にウライへ進軍し、ワリードにササン朝ペルシア軍の居場所を知らせた。西暦634年5月13日、アル・ムサンナ・イブン・ハリサ率いるムスリム軍がアル・ヒラからバビロン近くのササン朝ペルシア軍に接近する。ササン朝ペルシアを率いていたホルモズド・ジャドウィーフは、東ローマ帝国征伐の為にハーリド・イブン・アル・ワリードが抜けたムスリムの戦力を試したいと考えていた。又、ササン朝ペルシアとムスリムが双方お互いを脅迫する書簡を交わしていた。ササン朝ペルシア軍はムスリムを怖がらせる為に戦象を投入した。然しムスリムによって戦象は殺され、ササン朝ペルシア軍はクテシフォンに敗走した。西暦634年、アル・ヒラ奪回を意図し、ササン朝ペルシアの将軍ロスタム・ファルロフザードが、将軍数名とイスパフブダン家の親戚の一部をナマラクに派遣する。アル・ムサンナ・イブン・ハリサは、バビロンの戦いと同様にハーリド・イブン・アル・ワリード不在の為、孤軍奮闘した。ウマル・イブン・ハッターブがアブー・ウバイダに援軍を送り、最終的にササン朝ペルシア軍は敗北した。
- アシム・イブン・アムル・アル・タミミ 西暦633年4月21日頃、カーズマの戦いで敗れたササン朝ペルシアのクバズとアノシャガンの部隊がカリンとアル・ウブッラで合流する。ハーリド・イブン・アル・ワリードはササン朝ペルシア軍がアル・マダールにいる事を把握し、アル・ムサンナ・イブン・ハリサ率いる分遣隊を送りこみ、自身もアル・マダールへ向かった。ワリードは17,000名の兵を率い、アシム・イブン・アムル・アル・タミミとアディ・イブン・ハティムに両翼を任せ、ササン朝ペルシア軍と対峙した。戦いは、マカル・ビン・アル・アシ(ムスリム)対カリン(ササン朝ペルシア)、アシーム(ムスリム)対アノシャガン(ササン朝ペルシア)、アディ(ムスリム)対クバズ(ササン朝ペルシア)の3つの決闘で始まった。カリンが敗れ、殺されると、クバズとアノシャガンが名乗りを上げ、アシームとアディが其れに応じた。何れもムスリムが勝利し、本格的な戦闘が始まった。5月、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、バフマン・ジャドゥヤの軍がワラジャに到着する前にアンダルザガールの軍を殲滅する作戦を取った。更にアル・マダールでの戦闘と同じくアシム・イブン・アムル・アル・タミミとアディ・イブン・ハティムに両翼を任せた。
- アディ・イブン・ハティム 西暦633年4月21日頃、カーズマの戦いで敗れたササン朝ペルシアのクバズとアノシャガンの部隊がカリンとアル・ウブッラで合流する。ハーリド・イブン・アル・ワリードはササン朝ペルシア軍がアル・マダールにいる事を把握し、アル・ムサンナ・イブン・ハリサ率いる分遣隊を送りこみ、自身もアル・マダールへ向かった。ワリードは17,000名の兵を率い、アシム・イブン・アムル・アル・タミミとアディ・イブン・ハティムに両翼を任せ、ササン朝ペルシア軍と対峙した。戦いは、マカル・ビン・アル・アシ(ムスリム)対カリン(ササン朝ペルシア)、アシーム(ムスリム)対アノシャガン(ササン朝ペルシア)、アディ(ムスリム)対クバズ(ササン朝ペルシア)の3つの決闘で始まった。カリンが敗れ、殺されると、クバズとアノシャガンが名乗りを上げ、アシームとアディが其れに応じた。何れもムスリムが勝利し、本格的な戦闘が始まった。5月、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、バフマン・ジャドゥヤの軍がワラジャに到着する前にアンダルザガールの軍を殲滅する作戦を取った。更にアル・マダールでの戦闘と同じくアシム・イブン・アムル・アル・タミミとアディ・イブン・ハティムに両翼を任せた。5月15日頃、ワラジャでの戦闘で敗れたササン朝ペルシア軍の残党が、ユーフラテス川の支流ハシーフ川を渡り、ユーフラテス川の間を移動しながらウライに落ち延びた。ワリードは自軍を大きく上回る軍勢との戦闘を避ける為に援軍が到着する前に、ウライに到着しようとしたが失敗した。ワリードはササン朝ペルシア軍が作戦を練る前に戦闘を開始する事を計画し、当日中に襲撃した。ワリードは2名に両翼を任せ、軍陣を整列させた。左翼がウマル・イブン・ハッターブの息子アシム・イブン・ウマル、右翼がムハンマド・イブン・アブドゥッラーフの仲間であったアラブ人キリスト教指導者ハティム・アット・タイの息子で元キリシタンのアディ・イブン・ハティムであった。
- カーカ・イブン・アムル 西暦633年5月17日頃、ムスリムとササン朝ペルシア軍の戦闘が最も激しかったのはカセーエフ川であった。ハーリド・イブン・アル・ワリードは、戦闘の最中ムスリム指揮官の一人であるカーカ・イブン・アムルの助言により、川のダムを開くよう命じ、水を流し込んで粉砕機を動かし、其れでパンを作り、3日間18,000名の兵士を養った。9月頃、バフマン・ジャドゥヤが、ウライの戦いの残党と、ササン朝ペルシア領内の駐屯地から引き抜いたベテラン兵と、新兵で新しい軍隊を組織する。戦力の増強の目処が立ったジャドゥヤは、ルズビー(フサイドに配置)と、ザルマー(カナフィスに配置)の2名を指揮官に指名しクテシフォンから出撃させた。9月22日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードがアル・ヒラに到着する。分散したササン朝ペルシア軍が団結して攻勢をかけてきた場合、状況が不利になると読んだワリードは、個別に戦う事を意図し、ムスリムを二手に分け、カーカと、アブ・ライラの2名の指揮下に置いた。カーカの部隊は、アル・バララとアル・キヤラ(指揮官はイスマ・イブン・アブダラ)の2師団から成る。9月28日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードが、全軍をアイン・アル・タムルに集結させる。其の後カーカの部隊をフサイドへ、アブ・ライラの部隊をカナフィスへ派遣した。やがてカーカとルズビー、アブ・ライラとザルマーの戦闘が開始された。カーカは直様ハーリド・イブン・アル・ワリードが以前敵軍に遭遇する度に指示した様に疾走する様命じた。ザルマーはカーカ自身の手で殺害され、ルズビーもイスマ・イブン・アブダラによって殺害された。ワリードは、サニーとズマイルは後からでも対処出来ると考え、次の目的地をムザイヤに決定し、アイン・アル・タムルで馬からラクダに乗り換え、カーカ、アブ・ライラと合流しムザイヤへ追撃した。西暦634年9月18日、シリアの単性論者の司祭ヨナが、夜にダマスカスに祭りが行われる事をハーリド・イブン・アル・ワリードに知らせる。全軍の連携した攻撃計画を立てる時間が無かった為、ワリードは自ら東門を襲撃する事を計画した。ワリードは、カーカ・イブン・アムルと、マズル・イブン・アディの2名と共に、門の横から手を繋いで壁を登った。ワリードは、ロープを使って城壁を登る事を支援する人間数名を残して城壁を下り、東門の内側で警備兵を殺害した。ワリードとカーカ・イブン・アムルが勢い良く門を開け、ワリードの残りの部隊がダマスカスに入り、激しい戦闘を続けた。西暦636年5月頃、ムスリムが、ハーリド・イブン・アル・ワリードとアブー・ウバイダ(エメサ)と、カーカ・イブン・アムル(パレスチナ)と、シュラビル・イブン・ハサナ(ヨルダン)と、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン(カエサレア・ピリピ)の四手に分かれる。西暦638年3月、アル・ジャジーラ地方の東ローマ帝国と親しいキリスト教徒アラブ人が、ホムスを包囲する。キリスト教徒アラブ人は、ウマル・イブン・ハッターブ率いる援軍の到着と、イヤド・イブン・ガンムのアル・ジャジーラ地方侵攻の2点の情報を掴むと、エメサの包囲を止め、撤退した。然し、カーカ・イブン・アムル指揮下の4,000名の増援を受け、ウバイダから敵を追撃する為に砦から出る許可を与えられていたハーリド・イブン・アル・ワリードの軍により、キリスト教徒アラブ人はアル・ジャジーラ地方への帰還を妨害され、多大な損害を被った。
- イヤド・イブン・ガンム 西暦633年8月、アブー・バクルからドゥマット・アル・ジャンダルにてアラブ反乱軍を鎮圧する様命を受けたイヤド・イブン・ガンムが、マリッドと呼ばれる砦の南面に軍を展開し、弓矢にてドゥマット・アル・ジャンダルを守備していたカルブ族を攻撃し、数週間戦闘を行ったが膠着状態となり任務に失敗、ガンムはある将校の「状況によっては、知恵は大軍よりも優れている」という進言により、ハーリド・イブン・アル・ワリードに助けを求める主旨の書簡を送る。ワリードはアイン・アル・タムルからアル・ヒラに向かおうとしている際に其の書簡を受け取った。又8月、ハーリド・イブン・アル・ワリードが前日のイヤド・イブン・ガンムの書簡を受けて、6,000名の兵を率い援軍としてアイン・アル・タムルを出発しドゥマット・アル・ジャンダルへと向かう。8月25日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードがドゥマット・アル・ジャンダルに到着し、イヤド・イブン・ガンムと合流する。ワリードはガンムを指揮下に置き、砦の周囲を押さえアラビア・イラク・ヨルダンへと繋がるルートを遮断してアラブ反乱軍を包囲し、敵が攻撃を仕掛けて来るのを待った。アラブ反乱軍の指揮官ジュディはムスリムが攻撃して来るのを待っていたが、動いて来なかった為、ワリードとガンムの陣を攻撃する為二手に分かれ、先制攻撃を仕掛けた。然しワリードとガンムの軍に其々圧倒され、ジュディは仲間数百名と共に捕らえられ、ワリードがムスリム達に見える様砦の近くまで連行し、部下にジュディと其の仲間の首を刎ねさせた。9月1日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードがイヤド・イブン・ガンムを副将軍に任命し、アル・ヒラへと向かう。9月22日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードがアル・ヒラに到着する。分散したササン朝ペルシア軍が団結して攻勢をかけてきた場合、状況が不利になると読んだワリードは、個別に戦う事を意図し、ムスリムを二手に分け、カーカ・イブン・アムルと、アブ・ライラの2名の指揮下に置いた。ワリードは、アル・ヒラの守備の為にイヤド・イブン・ガンムを残し、此れ等の部隊と共にアイン・アル・タムルへ向かった。西暦638年3月、アル・ジャジーラ地方の東ローマ帝国と親しいキリスト教徒アラブ人が、ホムスを包囲する。其の頃ムスリムは、シルセシウム・ヒットの2箇所を逆包囲した。ヒットは、東ローマ帝国軍守備隊が周囲に堀を築いていた為、苦戦したものの包囲に成功し、其の後占領した。シルセシウムは、ハビブ・イブン・マスラマ・アル・フィフリ率いる軍が包囲したが、東ローマ帝国軍は無抵抗で明け渡した。イヤド・イブン・ガンムは、更にワリド・イブン・ウクバをラビーア族・タヌーク族の2部族の要塞征圧の為に派遣し、畳み掛けた。キリスト教徒アラブ人は、ウマル・イブン・ハッターブ率いる援軍の到着と、ガンムのアル・ジャジーラ地方侵攻の2点の情報を掴むと、エメサの包囲を止め、撤退した。其の後、ハーリド・イブン・アル・ワリードと、ガンムの2名率いる縦隊によってアル・ジャジーラ地方は征圧された。此の縦隊はアララト平原まで北進し、更にトロス山脈まで西進した。
- ディラール・ビン・アル・アズワル 西暦634年6月、ハーリド・イブン・アル・ワリードがシュラビル・イブン・ハサナの部隊を援護した翌日、東ローマ帝国軍は、ムスリムの戦力は自軍と同程度であると把握し、長旅の疲れが癒える前に打ち負かすべく再攻撃を決意した。ワリードは、中央に自身の直轄部隊を置き、両翼の司令官にラファイ・ビン・ウマイル(左翼)と、ディラール・ビン・アル・アズワル(右翼)の2名を任命した。此の日は暑かった為、アズワルは鎖帷子を脱ぎ、続いてシャツを脱いだ。此の半裸の状態で攻撃を開始し、一騎討ちで立ち向かって来る東ローマ帝国兵を全て破った。アズワルの活躍は一週間以内にシリア中に知れ渡った。8月21日、ダマスカスを孤立させたハーリド・イブン・アル・ワリードが、ムスリムに対しダマスカスを包囲する様命じる。ディラール・ビン・アル・アズワルは、機動警備隊の騎兵2,000名に、夜間に門の間の空き地を巡回し、東ローマ帝国軍に攻撃された軍団を援軍するよう命じた。9月14日頃、シュラビル・イブン・ハサナ率いる軍に包囲されていたトーマスが、凡ゆる所から兵を召集し、5,000名の兵を率い、ムスリムに矢の雨を降らせ、先制攻撃を仕掛ける。夜、トーマスは再度出撃命令を下した。トーマスは、トーマスの門(主導)・ジャビヤ門・小さな門・東門の4つの門から同時出撃し、駐留している疲労の溜まったムスリムを叩く作戦を立てた。小さな門では、戦闘が激化した。ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン率いる軍の兵力は小さかったが、ディラール・ビン・アル・アズワル率いる機動警備隊の騎兵2,000名が援護し、東ローマ帝国軍を退けた。9月22日、ヨナからアンティオキアへの近道を教えて貰っていたハーリド・イブン・アル・ワリードが、アラブ人の服装を身に纏った騎兵連隊を率い、ジャバル・アンサリヤ山脈を越えて、アンティオキア近郊の海上で東ローマ帝国の難民の船団に追い付く。ワリードは、東西南北の4方面からの攻撃を計画した。東がラーフェ・ビン・ウメール率いる1,000名の騎兵連隊、西がワリード率いる1,000名の騎兵連隊、南がディラール・ビン・アル・アズワル率いる1,000名の騎兵連隊、北がアブー・バクルの息子アブドゥルラフマン・イブン・アブー・バクル率いる1,000名の騎兵連隊であった。先ず、アズワルの軍が後方から東ローマ帝国軍を急襲した。西暦636年8月16日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、右翼の陣地を安定させた後、機動警備隊に左翼を救援する様命じる。更に、ディラール・ビン・アル・アズワル指揮下の1個連隊を切り離し、陽動を作り出して中央左翼のダイルジャンの軍を攻撃する様命じた。
- ラファイ・ビン・ウマイル 西暦634年6月、ハーリド・イブン・アル・ワリードがシュラビル・イブン・ハサナの部隊を援護した翌日、東ローマ帝国軍は、ムスリムの戦力は自軍と同程度であると把握し、長旅の疲れが癒える前に打ち負かすべく再攻撃を決意した。ワリードは、中央に自身の直轄部隊を置き、両翼の司令官にラファイ・ビン・ウマイル(左翼)と、ディラール・ビン・アル・アズワル(右翼)の2名を任命した。8月21日、ダマスカスを孤立させたハーリド・イブン・アル・ワリードが、ムスリムに対しダマスカスを包囲する様命じる。又、ワリードは、6つの門に指揮官を配置し4,000〜5,000名を率いさせ、東ローマ帝国軍の攻撃を撃退し、激しい攻撃があった場合は支援を求める様指示した。指揮官は、トーマスの門がシュラビル・イブン・ハサナ、ジャビヤ門がアブー・ウバイダ(副司令官)、ファラディの門がアムル・イブン・アル・アース、ケイサン門と小さな門がヤズィード・イブン・アビ・スフィアン、東門がラファイ・ビン・ウマイル(主要部隊)であった。9月9日、ヘラクレイオスが、ダマスカスが包囲された事を受け、12,000名の救援軍を派遣する。ダマスカス-エメサ間のルートにいたムスリムの偵察兵から、此の東ローマ帝国軍の状況を聞いたハーリド・イブン・アル・ワリードは、ラファイ・ビン・ウマイルに5,000名の兵を率いさせ、ウカブ峠で偵察兵と合流した。然し兵力が不十分であった為、ムスリムの分遣隊は東ローマ帝国軍に包囲された。然し、東ローマ帝国軍がムスリムの分遣隊を破る前に、ワリードは4,000名の縦隊と共に分遣隊に合流し、東ローマ帝国軍を退けた。9月14日頃、シュラビル・イブン・ハサナ率いる軍に包囲されていたトーマスが、凡ゆる所から兵を召集し、5,000名の兵を率い、ムスリムに矢の雨を降らせ、先制攻撃を仕掛ける。夜、トーマスは再度出撃命令を下した。トーマスは、トーマスの門(主導)・ジャビヤ門・小さな門・東門の4つの門から同時出撃し、駐留している疲労の溜まったムスリムを叩く作戦を立てた。東門では、東ローマ帝国軍が大きな戦力を割いていた。ラファイ・ビン・ウマイル率いる軍は東ローマ帝国軍の攻勢に耐える事が出来なかった。其の頃、ワリードは予備の古参騎兵400名を率いてウマイルに加勢し、東ローマ帝国軍を側面から攻撃した。
- ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン 西暦634年6月、ハーリド・イブン・アル・ワリードが、ガッサーン朝の首都であるボスラに到着する。既にハウランを占領していたアブー・ウバイダは、ワリードが到着する迄、ボスラに留まる様指示を受けていた。ウバイダはムスリムから成る、ウバイダの部隊と、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアンの部隊と、シュラビル・イブン・ハサナの部隊の3つの部隊を指揮下に置いていたが、戦闘はせず、町を征服した事も無かった。8月21日、ダマスカスを孤立させたハーリド・イブン・アル・ワリードが、ムスリムに対しダマスカスを包囲する様命じる。又、ワリードは、6つの門に指揮官を配置し4,000〜5,000名を率いさせ、東ローマ帝国軍の攻撃を撃退し、激しい攻撃があった場合は支援を求める様指示した。指揮官は、トーマスの門がシュラビル・イブン・ハサナ、ジャビヤ門がアブー・ウバイダ(副司令官)、ファラディの門がアムル・イブン・アル・アース、ケイサン門と小さな門がヤズィード・イブン・アビ・スフィアン、東門がラファイ・ビン・ウマイル(主要部隊)であった。9月14日頃、シュラビル・イブン・ハサナ率いる軍に包囲されていたトーマスが、凡ゆる所から兵を召集し、5,000名の兵を率い、ムスリムに矢の雨を降らせ、先制攻撃を仕掛ける。夜、トーマスは再度出撃命令を下した。トーマスは、トーマスの門(主導)・ジャビヤ門・小さな門・東門の4つの門から同時出撃し、駐留している疲労の溜まったムスリムを叩く作戦を立てた。小さな門では、戦闘が激化した。ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン率いる軍の兵力は小さかったが、ディラール・ビン・アル・アズワル率いる機動警備隊の騎兵2,000名が援護し、東ローマ帝国軍を退けた。西暦635年3月、ダマスカスを守備する部隊が、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン率いる軍のみとなり、ヘラクレイオスが好機と捉え、テオドールの指揮下に兵を送る。テオドールとシェオドールの指揮下の東ローマ帝国軍がダマスカスに到着すると、スフィアンが迎え撃った。スフィアンの軍は数で劣勢であったが、健闘した。やがてワリードと騎兵隊が到着し、東ローマ帝国軍を背後から攻撃し、挟み撃ちとなった。其の後、ワリードは一騎打ちでテオドールを殺害した。又、シェオドールも殺され、東ローマ帝国軍の前線が混乱し、戦場から逃走した。ムスリムは直ちに、東ローマ帝国軍の武器・衣服・騎馬を押収し、スフィアンは、ワリードや兵に其れ等を分け与えた。西暦636年5月頃、ムスリムが、ハーリド・イブン・アル・ワリードとアブー・ウバイダ(エメサ)と、カーカ・イブン・アムル(パレスチナ)と、シュラビル・イブン・ハサナ(ヨルダン)と、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン(カエサレア・ピリピ)の四手に分かれる。8月16日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは両翼の状況を認識し、右翼の騎兵隊に、東ローマ帝国軍の左翼の北側面を攻撃する様命じ、一方自身は、機動警備隊と共に東ローマ帝国軍の左翼の南側面を攻撃し、ムスリムの右翼の歩兵は正面から攻撃した。ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン率いる左翼の状況は深刻で、右翼の様に機動警備隊のサポートも無く、東ローマ帝国軍に数で圧倒されて陣地を蹂躙され、基地へ後退した。スフィアンは騎兵連隊を使って反撃したが、返り討ちに遭った。8月18日、ヴァハンはムスリムの右翼に損害を与える事に成功した為、前日の戦闘を推し進める事を決定する。ハーリド・イブン・アル・ワリードは、機動警備隊を率い再度戦場へ赴き、アブー・ウバイダと左翼の左側に、東ローマ帝国軍の前線を攻撃する様命じた。其の頃、東ローマ帝国軍の弓騎兵がウバイダと、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアンの2名の部隊に矢の雨を降らせた。スフィアンを含む多くのムスリム兵が目に矢を受け、甚大な被害を被った。西暦637年4月1日頃、ウマル・イブン・ハッターブがパレスチナに到着する。其の後ジャビヤへ向かい、アブー・ウバイダと、ハーリド・イブン・アル・ワリードと、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアンの3名等が出迎え、ハッターブに合流した。4月10日頃、ウマル・イブン・ハッターブがマディーナへ向けて出発する。又ハッターブは、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアンに指示を出し、カイサリアを包囲させた。
- アムル・イブン・アル・アース 西暦634年8月21日、ダマスカスを孤立させたハーリド・イブン・アル・ワリードが、ムスリムに対しダマスカスを包囲する様命じる。又、ワリードは、6つの門に指揮官を配置し4,000〜5,000名を率いさせ、東ローマ帝国軍の攻撃を撃退し、激しい攻撃があった場合は支援を求める様指示した。指揮官は、トーマスの門がシュラビル・イブン・ハサナ、ジャビヤ門がアブー・ウバイダ(副司令官)、ファラディの門がアムル・イブン・アル・アース、ケイサン門と小さな門がヤズィード・イブン・アビ・スフィアン、東門がラファイ・ビン・ウマイル(主要部隊)であった。西暦636年8月16日、ヴァハンが、軍議にて、夜明け直前に朝の祈りを行なっているムスリムを襲撃する事を決定する。カナティールは、主にスラブ人で構成された東ローマ帝国軍の左翼を指揮し、大軍で攻撃した。結果、ムスリムの右翼は撤退を余儀なくされた。ムスリムの右翼の指揮官アムル・イブン・アル・アースは騎兵連隊に反撃を命じ、東ローマ帝国軍の侵攻を食い止めたが、多勢に無勢で、最終的に基地に後退した。又此の日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは両翼の状況を認識し、右翼の騎兵隊に、東ローマ帝国軍の左翼の北側面を攻撃する様命じ、一方自身は、機動警備隊と共に東ローマ帝国軍の左翼の南側面を攻撃し、ムスリムの右翼の歩兵は正面から攻撃した。此の3方面からの攻撃により、東ローマ帝国軍の左翼は、獲得したムスリムの陣地を放棄せざるを得なくなった。アムル・イブン・アル・アースは失地を奪回し、部隊の再編成を行なった。西暦637年4月1日頃、ウマル・イブン・ハッターブがパレスチナに到着する。其の後ジャビヤへ向かい、アブー・ウバイダと、ハーリド・イブン・アル・ワリードと、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアンの3名等が出迎え、ハッターブに合流した。此の時アムル・イブン・アル・アースは、エルサレム包囲の指揮官として従事していた。其の後一行はエルサレムに向かい、ハッターブの署名により協定が締結された。証人は、ワリードと、アースと、アブド・アルラフマン・イブン・アウフと、ムアーウィヤ1世の4名であった。4月10日頃、ウマル・イブン・ハッターブがマディーナへ向けて出発する。アムル・イブン・アル・アースと、シュラビル・イブン・ハサナの2名はパレスチナ占領を完遂させる為に留まった。
- アルバラ・イブン・マリク 西暦632年12月、ハーリド・イブン・アル・ワリードがムサイリマ征伐の為出陣する。ムサイリマの軍が戦闘可能な状態にある兵が7,000名、1/4程度となった段階で城壁のある庭園へ避難し、少数の護衛が援護した。アンサールでサハーバのアルバラ・イブン・マリクが仲間に頼んで壁を登らせ、其処にいる衛兵を殺して門を開け庭園に侵入した。
- マアズ・イブン・ジャバル 西暦636年3月18日頃、ムスリムは、前日のハーリド・イブン・アル・ワリードの助言通りに軍を引き上げる振りをする。ムスリムが、包囲している東ローマ帝国軍への攻撃を開始した時、マアズ・イブン・ジャバルは500騎を率い、逃走する東ローマ帝国軍が砦に入らない様にする為にエメサに駆け戻っていた。ジャバルの軍がエメサに近づくと、恐怖を感じた住民と追撃に参加しなかった東ローマ帝国軍の守備隊の残党は急いで砦に撤退し、門を閉めた。ジャバルは、東ローマ帝国兵が門から出てきたり、エメサの外の東ローマ帝国兵が侵入してくるのを防ぐ為に、門の前に兵を配置した。
- ヤズデギルド3世 西暦633年3月14日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードが10,000名の軍勢を率いアル・ヒラへ向けてアル・ヤママを出発する。其の後他の部族も加わり、ワリードは18,000名の兵を率いササン朝ペルシアに入った。第38代ササン朝ペルシアのシャーのヤズデギルド3世が、司令官の報告から其の事を知り、アラブ人キリスト教徒から成る部隊を編成した。又、万が一ワリードが勝利した場合に備え、将軍最高位のカリンにササン朝ペルシアの重要な港であるアル・ウブッラの守備を指示した。4月頃、ヤズデギルド3世がクテシフォンにてアル・マダールで自軍の敗北報告を受け、追加で2つの軍を招集して軍を再編成する。数日後には第一陣の出撃準備が整った。ヤズデギルド3世は、ムスリムが撤退する場合に備え砂漠を背に戦うと読み、ワラジャを戦闘場所に選んだ。ホラーサーン統治者アンダルザガールが、ワラジャに出撃する様命じられ、間も無く別の軍と合流し、イラン人とキリスト教アラブ人から成る軍を率いてクテシフォンを出発した。バフマン・ジャドゥヤもヤズデギルド3世からワラジャへ挙兵する事を命じられ、計画では総司令官として軍を指揮する予定であった。5月15日頃、ワラジャでの戦闘で敗れたササン朝ペルシア軍の残党が、ユーフラテス川の支流ハシーフ川を渡り、ユーフラテス川の間を移動しながらウライに落ち延びた。ヤズデギルド3世はバフマン・ジャドゥヤにアラブの部隊を指揮しウライでムスリムの侵攻を止める様指示した。ジャドゥヤは、上級将軍ジャバンにササン朝ペルシア軍を率いさせてウライに向けて先行させ、自身が到着する迄戦闘を避ける様指示した。ジャバンは出陣したものの、ヤズデギルド3世と、ある問題について話し合う為にクテシフォンに戻った。然しヤズデギルド3世が重病である事を知り、看病を行う事になった。
- ホルムズド 西暦633年頃、ムスリムでササン朝ペルシアとの国境付近のアル・ヒラの部族長アル・マタナ・イブン・ハリタがメソポタミア地方のササン朝ペルシアの町を襲撃する。然しササン朝ペルシアの反撃を受けた為ハリタはアブー・バクルに援軍を要請し、結果勝利して相当量の戦利品を得た。ハリタは軽騎兵の機動力を活かし、砂漠近くの町を襲撃し、砂漠に身を隠す戦法を採った。バクルは此の戦い振りからメソポタミア地方の征服を決意し、アル・ヤママにいたハーリド・イブン・アル・ワリードに、指揮官として志願兵のみの軍を構成しアル・ヒラへ向かいササン朝ペルシアと戦う様指示した。ワリードはササン朝ペルシア総督ホルムズドに対して「イスラムに於ける人頭税であるジズヤの支払いに応じれば助ける」という主旨の降伏勧告の書簡を送る。然しホルムズドが此れに応じなかった。又、ワリードは書簡の中でカーズマを経由してアル・ウブッラへと向かうルートで進軍するとホルムズドに思わせる様仕向けた。西暦633年4月、ハーリド・イブン・アル・ワリードは兵をラクダに跨らせ、機動力で重装備のササン朝ペルシア軍を疲弊させた上で攻撃を仕掛ける戦略を練っていた。ホルムズドがワリードの術中に嵌り、以前ワリードから受け取った書簡からワリードがカーズマを経由して来る事を予測し、アル・ウブッラからカーズマへと進軍する。然しカーズマにはムスリムの気配は無かった。やがてホルムズドは斥候からワリードがフフェアに向かっているとの報告を受けた。直ちにホルムズドは50マイル離れたフフェアに兵を差し向けた。既にフフェアに到着していたワリードは、ホルムズドの軍がフフェアに向かっているとの報告を斥候から受けるとカーズマへ移動した。其の後フフェアに到着したホルムズドの軍はワリードの軍がカーズマへ向かっている事を知ると、再びカーズマへの進軍を指示した。こうしてワリードのササン朝ペルシア軍を疲弊させる作戦が成功し、ワリードの軍とホルムズドの軍がカーズマで対峙する事になった。ホルムズドは将軍のクバズとアノシャガンに指示し、兵達を鎖で繋ぎ敵が数人を倒して突破する可能性を軽減する作戦を採った。ホルムズドはカーズマの西の端の前方に軍を展開し、都市を覆うような配置をとり、ハリードは砂漠を背にして軍を展開し、敗北した場合には其処に退却出来る様にした。戦闘が始まったものの、ホルムズドは戦いの序盤で殺害され、疲弊したササン朝ペルシア軍は攻撃に耐える事が出来ず、将軍のクバズとアノシャガンは敗北を察知し、撤退命令を出した。
- カリン 西暦633年3月14日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードが10,000名の軍勢を率いアル・ヒラへ向けてアル・ヤママを出発する。其の後他の部族も加わり、ワリードは18,000名の兵を率いササン朝ペルシアに入った。第38代ササン朝ペルシアのシャーのヤズデギルド3世が、司令官の報告から其の事を知り、アラブ人キリスト教徒から成る部隊を編成した。又、万が一ワリードが勝利した場合に備え、将軍最高位のカリンにササン朝ペルシアの重要な港であるアル・ウブッラの守備を指示した。4月21日頃、カーズマの戦いで敗れたササン朝ペルシアのクバズとアノシャガンの部隊がカリンとアル・ウブッラで合流する。クバズとアノシャガンは生存者の中にササン朝ペルシアを裏切りムスリムに与した兵がいた事を伝えると、アル・ウブッラから去る者が現れた。此れに慌てたカリンは、ムスリムに寝返った兵はアル・マダールを知らないであろうと考えた事と、ユーフラテス川に近く、ササン朝ペルシアの正規軍が到着し易いであろうと考えた事の2点の理由からアル・マダールで戦う事にした。ワリードは17,000名の兵を率い、アシム・イブン・アムル・アル・タミミとアディ・イブン・ハティムに両翼を任せ、ササン朝ペルシア軍と対峙した。対するカリンはクバズとアノシャガンに両翼を任せ、川を背にして展開し、川岸には撤退を容易にする為の船団が準備されていた。戦いは、マカル・ビン・アル・アシ(ムスリム)対カリン(ササン朝ペルシア)、アシーム(ムスリム)対アノシャガン(ササン朝ペルシア)、アディ(ムスリム)対クバズ(ササン朝ペルシア)の3つの決闘で始まった。最初に挑戦状を叩きつけたのはカリンであった。カリンが敗れ、殺されると、クバズとアノシャガンが名乗りを上げ、アシームとアディが其れに応じた。
- アンダルザガール 西暦633年4月頃、ヤズデギルド3世がクテシフォンにてアル・マダールで自軍の敗北報告を受け、追加で2つの軍を招集して軍を再編成する。ホラーサーン統治者アンダルザガールが、ワラジャに出撃する様命じられ、間も無く別の軍と合流し、イラン人とキリスト教アラブ人から成る軍を率いてクテシフォンを出発した。其の後カシュカルでティグリス川を渡り、南西に移動してユーフラテス川を渡り、ワラジャに布陣した。其の道中何千名ものアラブ人が合流し、カーズマとアル・マダールでの戦の残党も加わった。アンダルザガールは数日後にワラジャに到着する予定のササン朝ペルシア軍最高幹部の一人の司令官バフマン・ジャドゥヤの軍を待つ事にした。5月、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、バフマン・ジャドゥヤの軍がワラジャに到着する前にアンダルザガールの軍を殲滅する作戦を取った。アンダルザガールは先にムスリムに攻撃させて、疲弊した所を反撃する作戦を取った。当初はアンダルザガールの作戦通りに事が運んだものの、最終的には数の力で圧倒され、ササン朝ペルシア軍は敗北した。然し数千名の兵はムスリムの包囲網から脱出する事が出来た。アンダルザガールも脱出に成功したが、砂漠で遭難し脱水症状で死亡した。
- バフマン・ジャドゥヤ 西暦633年4月頃、ヤズデギルド3世がクテシフォンにてアル・マダールで自軍の敗北報告を受け、追加で2つの軍を招集して軍を再編成する。ホラーサーン統治者アンダルザガールが、ワラジャに出撃する様命じられ、間も無く別の軍と合流し、イラン人とキリスト教アラブ人から成る軍を率いてクテシフォンを出発した。アンダルザガールは数日後にワラジャに到着する予定のササン朝ペルシア軍最高幹部の一人の司令官バフマン・ジャドゥヤの軍を待つ事にした。アンダルザガールよりも数日遅くクテシフォンを出発した為遅れる事になった。ジャドゥヤもヤズデギルド3世からワラジャへ挙兵する事を命じられ、計画では総司令官として軍を指揮する予定であった。5月、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、バフマン・ジャドゥヤの軍がワラジャに到着する前にアンダルザガールの軍を殲滅する作戦を取った。5月15日頃、ワラジャでの戦闘で敗れたササン朝ペルシア軍の残党が、ユーフラテス川の支流ハシーフ川を渡り、ユーフラテス川の間を移動しながらウライに落ち延びた。ヤズデギルド3世はバフマン・ジャドゥヤにアラブの部隊を指揮しウライでムスリムの侵攻を止める様指示した。ジャドゥヤは、上級将軍ジャバンにササン朝ペルシア軍を率いさせてウライに向けて先行させ、自身が到着する迄戦闘を避ける様指示した。9月頃、バフマン・ジャドゥヤが、ウライの戦いの残党と、ササン朝ペルシア領内の駐屯地から引き抜いたベテラン兵と、新兵で新しい軍隊を組織する。多くの新兵がいた為、戦力は以前と比べると劣っていた。其処でキリスト教アラブ人に従軍を依頼した。キリスト教アラブ人は前月に戦死した、自分達の指導者であったアッカ・イブン・カイズ・イブン・バシールの敵を討つ事を計画し、ムスリムに奪われた土地を取り戻し、捕縛された仲間の解放を切望していた為、快く引き受けた。戦力の増強の目処が立ったジャドゥヤは、ルズビー(フサイドに配置)と、ザルマー(カナフィスに配置)の2名を指揮官に指名しクテシフォンから出撃させた。ジャドゥヤは作戦を、ササン朝ペルシア軍を一ヶ所に集中させムスリムの攻撃を待つか、南下してアル・ヒラでムスリムと戦うかの2択で考えていた。此の作戦はハーリド・イブン・アル・ワリードがアル・ヒラに到着する前に予期していたものであった。
- アブドゥル・アスワド 西暦633年5月15日頃、ワラジャでの戦闘で敗れたササン朝ペルシア軍の残党が、ユーフラテス川の支流ハシーフ川を渡り、ユーフラテス川の間を移動しながらウライに落ち延びた。ムスリムはウライにササン朝ペルシア軍の残党がいる事を認識していたが、数が少なく問題視していなかった。然し、アル・ヒラとウライの間にいた、ワラジャの戦いで2名の息子を殺害されたアブドゥル・アスワド率いるキリスト教系アラブ部族であるバニ・バクル族が大軍で合流した事で、ハーリド・イブン・アル・ワリードはハシーフ川を渡り、ウライに正面から接近した。アスワドはムスリムへの復讐を考えていた。ヤズデギルド3世はバフマン・ジャドゥヤにアラブの部隊を指揮しウライでムスリムの侵攻を止める様指示した。ジャドゥヤは、上級将軍ジャバンにササン朝ペルシア軍を率いさせてウライに向けて先行させ、自身が到着する迄戦闘を避ける様指示した。昼前、ジャバンがムスリム侵攻の報告を受けた。ササン朝ペルシア軍は其れを受け、食事の時間であったがムスリムに対し強靱さを示す為に、食事を摂らずに軍の編成を行った。中央にササン朝ペルシア軍、両翼を2名のアラブ人キリスト教徒に任せた。左翼が部族長アブジャル、右翼が部族長アブドゥル・アスワドであった。然しアスワドは決闘でワリードに敗れ殺害された。
- アッカ・イブン・カイズ・イブン・バシール 西暦633年7月28日頃、アイン・アル・タムルにて、ササン朝ペルシアを支援するアラブ人キリスト教徒による補助部隊がハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍と交戦する。以前ムスリムとの契約を破った非ムスリムでアラブ人キリスト教徒で補助部隊の司令官のアッカ・イブン・カイズ・イブン・バシールは、ワリードが兵を動かさない事に驚き、自軍を包囲したムスリムの両翼の部隊との戦いに専念する事にした。そんな中ワリードを護衛していた少数の部隊が不意を突いて、バシールに戦いを挑んだ。最終的にワリードはバシールを自らの両手で抱えて捕縛した。補助部隊はバシールが生きて捕らえられた事で戦意を失い、直ちにムスリムに対し全面降伏した。其の後ムスリムはバシールを晒してアイン・アル・タムルを行進し、アラブ人キリスト教徒が待機していたアイン・アル・タムル城を包囲して、アラブ人を大量に含むササン朝ペルシアの補助部隊を降伏させる。更に守備隊の防衛者の前に並び「降伏して門を開けないなら処刑する」と脅した。守備隊が拒否した為、壁の後ろで戦い、ワリードは直ちにバシールを含むすべての捕虜を処刑するよう命じた。9月頃、バフマン・ジャドゥヤが、ウライの戦いの残党と、ササン朝ペルシア領内の駐屯地から引き抜いたベテラン兵と、新兵で新しい軍隊を組織する。多くの新兵がいた為、戦力は以前と比べると劣っていた。其処でジャドゥヤはキリスト教アラブ人に従軍を依頼した。キリスト教アラブ人は前月に戦死した、自分達の指導者であったアッカ・イブン・カイズ・イブン・バシールの敵を討つ事を計画し、ムスリムに奪われた土地を取り戻し、捕縛された仲間の解放を切望していた為、快く引き受けた。
- ジュディ 西暦633年8月25日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードがドゥマット・アル・ジャンダルに到着し、イヤド・イブン・ガンムと合流する。アラブ反乱軍の指揮官ジュディはムスリムが攻撃して来るのを待っていたが、動いて来なかった為、ワリードとガンムの陣を攻撃する為二手に分かれ、先制攻撃を仕掛けた。然しワリードとガンムの軍に其々圧倒され、ジュディは仲間数百名と共に捕らえられ、ワリードがムスリム達に見える様砦の近くまで連行し、部下にジュディと其の仲間の首を刎ねさせた。結果、アラブ反乱軍の大半が殺害され、多くの若者・女性・子供が捕虜となった。
- ヘラクレイオス 西暦634年7月30日、ダマスカスに進軍していたハーリド・イブン・アル・ワリードが、ヤルムーク川北岸のティベリアス湖付近のヤクサにて、ヘラクレイオスの義理の息子トーマスが、ワリードのダマスカス進軍を遅らせる為に差し向けた東ローマ帝国軍と遭遇する。8月19日、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍が、マルジュ・アル・サファールにて、トーマス率いる東ローマ帝国軍を破る。トーマスはワリードのダマスカス進軍の情報を掴み、エメサにいたヘラクレイオスに援軍を求める書簡を書いていた。8月20日頃、ヘラクレイオスが、包囲された東ローマ帝国軍の守備隊を救援する為に、ダマスカスへ兵を差し向ける。9月9日、ヘラクレイオスが、ダマスカスが包囲された事を受け、12,000名の救援軍を派遣する。ダマスカス-エメサ間のルートにいたムスリムの偵察兵から、此の東ローマ帝国軍の状況を聞いたハーリド・イブン・アル・ワリードは、ラファイ・ビン・ウマイルに5,000名の兵を率いさせ、ウカブ峠で偵察兵と合流した。然し兵力が不十分であった為、ムスリムの分遣隊は東ローマ帝国軍に包囲された。然し、東ローマ帝国軍がムスリムの分遣隊を破る前に、ワリードは4,000名の縦隊と共に分遣隊に合流し、東ローマ帝国軍を退けた。9月22日、ヨナからアンティオキアへの近道を教えて貰っていたハーリド・イブン・アル・ワリードが、アラブ人の服装を身に纏った騎兵連隊を率い、ジャバル・アンサリヤ山脈を越えて、アンティオキア近郊の海上で東ローマ帝国の難民の船団に追い付く。ムスリムは戦利品として、サテン地に浮き模様を織り出した織物であるブロケードを奪い、多数の捕虜も得た。トーマスの妻且つヘラクレイオスの娘である女性を捕縛した。西暦635年3月、ダマスカスを守備する部隊が、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン率いる軍のみとなり、ヘラクレイオスが好機と捉え、テオドールの指揮下に兵を送る。西暦636年5月頃、ムスリムが、北シリア全体の占領を意図し、ハマーを経由して、シャイザールに到着する。ムスリムは此処で、少数の兵士に護衛され、食糧をキンナスリーンに運ぶ東ローマ帝国の船団を見つけ、ハーリド・イブン・アル・ワリードが此れを妨害し、捕縛した。尋問により、ヘラクレイオスの計画と、東ローマ帝国の大軍が陣を張っている場所を聞き出した。又5月頃、ムスリムが、カイサリアに強力な東ローマ帝国軍が駐屯しており、後方から襲撃される恐れがあった為、ワリードの助言により、ダルアーと、デイル・アイユーブの2箇所に後退した。そして、ヤルムーク渓谷とハラ溶岩平原をカバーし、陣を敷いた。此れにより、ヘラクレイオスの、ムスリムの戦力が分散している内に各部隊を叩くという目論見は外れた。8月20日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、騎兵部隊を率いて東ローマ帝国軍を戦場から追い出し、増援を受け取れない様分断して、側面や後方を攻撃してワディ・ウル・ラッカドへ追い込む作戦を計画する。ヘラクレイオスの従兄弟ニケタスは、エメサへの脱出に成功した。ヘラクレイオスは、東ローマ帝国軍の敗北を知り激怒した。然し、ヘラクレイオスは敗因として姪のマルティナとの結婚を挙げ、アンティオキアの大聖堂に退却し、会議を招集した。夜、ヘラクレイオスは、真の十字架の聖遺物を携え、エルサレム総主教ソフロニウスによって秘密裏に船に乗せられ、コンスタンティノープルへと向かった。西暦637年6月頃、アブー・ウバイダと、ハーリド・イブン・アル・ワリードの2名率いる軍が、ダマスカスを経由してエメサに到着、其の数日後にハジルに入る。其処で司令官メナス率いる7,000名の東ローマ帝国軍守備隊の攻撃を受けた。メナスは、もしキンナスリーンに留まれば、ムスリムに包囲され、ヘラクレイオスからの助けは期待出来ない為、最終的に降伏する事になるだろうと考え、本隊が合流する前に先制する作戦を採った。8月頃、アブー・ウバイダと、ハーリド・イブン・アル・ワリードの2名がキンナスリーンで合流し、アレッポに進軍する。アレッポは、城壁に囲まれた大きな都市と、都市郊外の丘の上に在る、幅が400m強の、幅の広い堀に囲まれた小さいながらも難攻不落とされる砦で構成されていた。其の砦をヨアヒム率いる東ローマ帝国軍守備隊が守っていた。ヨアヒムは、ヘラクレイオスから何の支援も受けていなかった。西暦638年12月頃、ムスリムが、ゲルマニアの東ローマ帝国軍守備隊の居る都市を包囲する。ヘラクレイオスからの支援が望めなかった東ローマ帝国軍守備隊は、ムスリムが提示したジズヤの条件を飲み、降伏した。
- トーマス 西暦634年7月30日、ダマスカスに進軍していたハーリド・イブン・アル・ワリードが、ヤルムーク川北岸のティベリアス湖付近のヤクサにて、ヘラクレイオスの義理の息子トーマスが、ワリードのダマスカス進軍を遅らせる為に差し向けた東ローマ帝国軍と遭遇する。8月19日、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍が、マルジュ・アル・サファールにて、トーマス率いる東ローマ帝国軍を破る。トーマスはワリードのダマスカス進軍の情報を掴み、エメサにいたヘラクレイオスに援軍を求める書簡を書いていた。9月14日頃、シュラビル・イブン・ハサナ率いる軍に包囲されていたトーマスが、凡ゆる所から兵を召集し、5,000名の兵を率い、ムスリムに矢の雨を降らせ、先制攻撃を仕掛ける。東ローマ帝国軍は、城壁の射手の援護を受けて門を突破し、扇形の陣形を敷いた。然し、襲撃を主導していたトーマスが、右目に矢を受けた。東ローマ帝国軍は、ムスリムの戦線を突破する事が出来ず、後退した。負傷したトーマスは、代わりに千の目を奪うと誓った。夜、トーマスは再度出撃命令を下した。トーマスは、トーマスの門(主導)・ジャビヤ門・小さな門・東門の4つの門から同時出撃し、駐留している疲労の溜まったムスリムを叩く作戦を立てた。トーマスは、突破した門に兵を集める戦術を採った。トーマスはワリードを生け捕りにする様命じた。トーマスの門では、トーマスが自ら指揮し、激しい戦闘を行ったが、ムスリムの前線に弱体化が見られない為、此れ以上攻撃を続けても自軍の死傷者を増やすだけであると考え、撤退命令を下した。東ローマ帝国軍は一定のペースで後退したが、其の間にムスリムの集中的な矢の雨を浴びたが、逃走に成功した。9月18日、シリアの単性論者の司祭ヨナが、夜にダマスカスに祭りが行われる事をハーリド・イブン・アル・ワリードに知らせる。全軍の連携した攻撃計画を立てる時間が無かった為、ワリードは自ら東門を襲撃する事を計画した。ワリードとカーカ・イブン・アムルが勢い良く門を開け、ワリードの残りの部隊がダマスカスに入り、激しい戦闘を続けた。残りの軍勢が他の門から動かないのを見たトーマスは、ワリードの軍勢だけがダマスカスに入ったと予測し、他の指揮官は防御の突破に気づいていないと考えた。トーマスはジャビヤ門に使者を送り、アブー・ウバイダに対し、砦の明け渡しとジズヤの支払いを申し出た。平和的な考えで知られていたウバイダは、ワリードも此の条件を受け入れるだろうと考え、申し出を受け入れた。此のトーマスの申し出は全ての指揮官に共有された。9月19日、アブー・ウバイダが、ジャビヤ門からダマスカスに入る。ウバイダは、トーマスと、高官数名と、ダマスカスの司教を伴ってダマスカス中心部へと向かい、其の後マリアミテ大聖堂に入った。和平交渉では、ワリードは武力でダマスカスを征服したと主張し、ウバイダはトーマスとの和平合意でダマスカスは降伏したと主張した。和平協定の条件として、誰も奴隷にしない事と、寺院に危害を加えない事と、戦利品として何も奪わない事と、トーマスを含む、ムスリムの支配下で生きる事を望まないダマスカス市民全員に安全な通行を与える事と、和平は3日後に終了し、ムスリムは此の3日後に協定に違反する事無く攻撃する事が出来る事が起草され、ワリードが此れに署名した。9月22日、ヨナからアンティオキアへの近道を教えて貰っていたハーリド・イブン・アル・ワリードが、アラブ人の服装を身に纏った騎兵連隊を率い、ジャバル・アンサリヤ山脈を越えて、アンティオキア近郊の海上で東ローマ帝国の難民の船団に追い付く。ワリードは決闘によりトーマスを殺害した。ムスリムは戦利品として、サテン地に浮き模様を織り出した織物であるブロケードを奪い、多数の捕虜も得た。トーマスの妻且つヘラクレイオスの娘である女性を捕縛した。
- テオドール 西暦635年3月、ダマスカスを守備する部隊が、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン率いる軍のみとなり、ヘラクレイオスが好機と捉え、テオドールの指揮下に兵を送る。其の後、ムスリムの下にもテオドールの動きが耳に入り、アブー・ウバイダと、ハーリド・イブン・アル・ワリードの2名がテオドール征伐へと向かった。テオドールは更に、シャナシュ・アル・ローマ率いる騎兵隊を含む援軍を受けた。最終的に両軍はマルジュ・アル・ラムにて対峙した。戦いはシャナシュ・アル・ローマとウバイダによる決闘で幕を開けた。決闘はウバイダが勝利し、其の後は均衡した戦いとなった。然し、テオドール・シェオドールの2名を含む東ローマ帝国軍の一部が撤退し、ダマスカスが東ローマ帝国軍の攻撃を受けている事がムスリムに知れた。ワリード達は戦闘を止め、ダマスカスに急行した。テオドールとシェオドールの指揮下の東ローマ帝国軍がダマスカスに到着すると、スフィアンが迎え撃った。やがてワリードと騎兵隊が到着し、東ローマ帝国軍を背後から攻撃し、挟み撃ちとなった。其の後、ワリードは一騎打ちでテオドールを殺害した。3月頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードが一騎打ちでテオドールを殺害した一週間後、アブー・ウバイダ率いる軍が、木星の神殿の建っていたバールベックを占領する。
- ハービーズ 西暦636年3月16日頃の朝、ハービーズ率いる軍が、ラスタン門から奇襲攻撃を行う。攻撃を受けた部隊は、ムスリムの幾つかに分散した戦力の中でも最大であった。にも拘らず、東ローマ帝国軍の素早い攻撃に翻弄され、劣勢となった。アブー・ウバイダは局面打開の為、ハーリド・イブン・アル・ワリードを派遣した。ワリード率いる機動警備隊は、現場を指揮し、兵の再配置を行なって防御策を講じた後に攻撃に転じた。日没近くに東ローマ帝国軍は砦に追い込まれ、奇襲は失敗に終わった。3月18日頃、ムスリムは、前日のハーリド・イブン・アル・ワリードの助言通りに軍を引き上げる振りをする。ハービーズは絶好の機会と捉え、5,000名の兵を招集し、砦の外へ出て、ムスリムの騎馬部隊を猛追した。軈てエメサから数マイルの所でムスリムに追い付き、打ち倒した。然し、東ローマ帝国軍の主要部隊がムスリムに襲い掛かろうとした瞬間、ムスリムは突然向きを変え、猛烈な勢いで東ローマ帝国軍を攻撃した。ワリードは、機動警備隊の精鋭戦士と共に東ローマ帝国軍の中央に到達し、戦闘中のハービーズを発見した。ワリードはハービーズの下へ向かったが、巨漢の将軍に阻まれた。然し、ワリードは決闘の末此れを破った。ハービーズは最終的に戦死した。
- ヴァハン 西暦636年7月15日頃、ヴァハンが、ハーリド・イブン・アル・ワリードを招き、和平交渉を行い、1ヶ月の休戦が実現する。8月16日、ヴァハンが、軍議にて、夜明け直前に朝の祈りを行なっているムスリムを襲撃する事を決定する。ヴァハンは、中央の2つの部隊をムスリムの中央の部隊と交戦させ、主力をムスリムの両翼に差し向け、ムスリムを離散させるか、中央部に押し込む事を計画していた。戦場を観察する為に、ヴァハンは右翼の後ろに、アルメニアのボディーガード部隊と共にパビリオンを建設させ、奇襲の準備を命じた。又此の日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、右翼の陣地を安定させた後、機動警備隊に左翼を救援する様命じる。最終的にダイルジャンは戦死、ヴァハンは作戦に失敗し、ムスリムは士気を高め、日没と共に戦闘は中断された。8月17日、戦闘が再開され、東ローマ帝国軍がムスリムの右翼と中央右翼を攻撃する。8月18日、ヴァハンはムスリムの右翼に損害を与える事に成功した為、前日の戦闘を推し進める事を決定する。カナティールは、ジャバラ・イブン・アル・アイハム率いるアルメニア人とキリスト教アラブ人の支援を受け、ムスリムの右翼と右翼中央部に対抗する為の2部隊を率いた。結果、ムスリムの右翼と右翼中央部は再び後退した。8月19日早朝、ヴァハンが、新たな交渉が行える様、今後数日間の休戦を求めてムスリムに特使を派遣する。ヴァハンは、前日迄の4日間で突破口を開く事が出来ず、特にムスリムの機動警備隊の側面を攻撃した際に多数の死傷者を出していた。然し、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、勝利が手の届く所にあると判断し、其の申し出を断った。8月20日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、騎兵部隊を率いて東ローマ帝国軍を戦場から追い出し、増援を受け取れない様分断して、側面や後方を攻撃してワディ・ウル・ラッカドへ追い込む作戦を計画する。ヴァハンはムスリムの騎兵隊の機動力に気付き、騎兵隊に集団を作る様命じたが、重騎兵中隊を編成している最中にワリードは正面と側面から攻撃させ、東ローマ帝国軍は混乱し、散り散りになり北へ向かって敗走した。
- メナス 西暦637年6月頃、アブー・ウバイダと、ハーリド・イブン・アル・ワリードの2名率いる軍が、ダマスカスを経由してエメサに到着、其の数日後にハジルに入る。ワリードと機動警備隊を先頭としていた。其処で司令官メナス率いる7,000名の東ローマ帝国軍守備隊の攻撃を受けた。メナスは、もしキンナスリーンに留まれば、ムスリムに包囲され、ヘラクレイオスからの助けは期待出来ない為、最終的に降伏する事になるだろうと考え、本隊が合流する前に先制する作戦を採った。戦闘はアル・ハヘルの農村で始まった。メナスはワリードと同様に前線で軍を率い、中央部隊と両翼に兵を配置した。メナスは戦いの序盤で殺害された。メナスの戦死の情報が東ローマ帝国軍に広まると、兵達は怒り、敵討ちの為激しい攻撃を行った。然し東ローマ帝国軍は、ワリード率いる騎兵連隊に後方から攻撃を受けて包囲され、メナス率いる守備隊にとって嘗て無い大敗を喫した。又6月頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードはキンナスリーンに入り、東ローマ帝国軍の駐屯地に向けて「もし貴方方が雲の中に居るなら、アッラーは私達を貴方方の所に引き上げるか、戦いの為に貴方方を私達の所に降ろすでしょう」と通告する。程無くして砦に立て籠ったメナスに同行せずハジルに出陣しなかった東ローマ帝国軍守備隊は降伏した。
主要な地名・拠点
- ムウタ 西暦629年9月10日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、ハリス・ビン・アムル・アル・アズディ殺害の報復の為にザイド・イブン・ハリータを司令官とする軍勢3,000名をシリアへ派遣したが、東ローマ帝国軍がムシャリフ村で待ち伏せていた。東ローマ帝国軍がハリータ率いる軍に攻撃を仕掛け、ムウタで戦闘が始まる。副官はジャファル・イブン・アビ・ターリブと、アブドゥッラー・イブン・ラワハの2名が務めた。戦闘は2つの高台に挟まれた谷間で行われ、東ローマ帝国軍の数的優位は失われた。然しハリータ率いる軍は東ローマ帝国とガッサーン朝の前に劣勢となり、指揮官であるハリータは殺害された。ターリブは「私の息子達の様に戦える者はいない、何故なら彼らが戦場にいる時、最も獰猛だからだ。楽園が近づくにつれ、なんと素晴らしいことか。その飲み物は、なんと心地よく、涼しいことか。東ローマ帝国人への罰はそう遠くない」と言ったが、東ローマ帝国軍に背後から殴られ、両腕を切り落とされ殺害された。又、ラワハやワッハーブ・イブン・サードも戦死してしまう。タビット・イブン・アクラムは、此のムスリムの絶望的な状況を打開する為に旗を手にし、仲間を結集させ敗走した。其の後ハーリド・イブン・アル・ワリードに指揮を執る様求めた。そしてワリードは機転を働かせて潰走するムスリムを纏め上げ、無事に撤退させた。
- ブザカ 西暦632年9月1日、ハーリド・イブン・アル・ワリードが6,000名の兵を率い、ブザカ(現在のサウジアラビアのハーイル州)でアディ・イブン・ハティム・トゥライハ率いる背教軍35,000名を破り勝利する。其の後ガムラ(現在のサウジアラビアのマディーナ州)にて、ワリードの軍がブザカから逃亡した残存兵を撃退する。
- アル・ヤママ 西暦632年10月31日頃、アブー・バクルが、戦闘を行わずに自らを預言者と名乗るムサイリマと接触し拘束する事を意図し、イクリマ・イブン・アビー・ジャハルをアル・ヤママ(現在のサウジアラビアのリヤード州)に差し向ける。ジャハルは十分な兵力を持っていなかった為、ハーリド・イブン・アル・ワリードの軍の背教軍征伐の谷間期間に兵を借りた。又、ジャハルは次の指示が出るまで待機する様命じられていたが、前月1日にワリードがアディ・イブン・ハティム・トゥライハ率いる背教軍を破り勝利した事と、ジャハルと同様に次の指示が出るまで待機する様命じられていたイスラム教改宗者でサハーバのシュラビル・イブン・ハサナが、ジャハルと合流する為に進軍しており数日で到着する見込みであった事と、ワリードがサルマを征圧した事の報告を受け兵を動かし、ムサイリマに敗北する。ハサナはアル・ヤママに留まった。バクルはハサナがジャハルと同じ過ちを犯さない様書簡にてアル・ヤママに留まって次の指示を待つ様念を押し、ワリードに対しムサイリマ征伐の指示を出した。11月頃、シュラビル・イブン・ハサナが、前月のイクリマ・イブン・アビー・ジャハルと同様に待ちきれずに兵を動かしムサイリマに敗北する。其の数日後ハーリド・イブン・アル・ワリードが到着し、アル・ヤママのアクラバ平原にムサイリマが40,000名の兵と共に野営しているとの情報を入手した。西暦633年頃、ムスリムでササン朝ペルシアとの国境付近のアル・ヒラ(現在のクーファ(イラクのナジャフ県)付近)の部族長アル・マタナ・イブン・ハリタがメソポタミア地方のササン朝ペルシアの町を襲撃する。バクルは此の戦い振りからメソポタミア地方の征服を決意し、アル・ヤママにいたハーリド・イブン・アル・ワリードに、指揮官として志願兵のみの軍を構成しアル・ヒラへ向かいササン朝ペルシアと戦う様指示した。西暦633年3月14日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードが10,000名の軍勢を率いアル・ヒラへ向けてアル・ヤママを出発する。
- カーズマ 西暦633年頃、ムスリムでササン朝ペルシアとの国境付近のアル・ヒラ(現在のクーファ(イラクのナジャフ県)付近)の部族長アル・マタナ・イブン・ハリタがメソポタミア地方のササン朝ペルシアの町を襲撃する。然しササン朝ペルシアの反撃を受けた為ハリタはアブー・バクルに援軍を要請し、結果勝利して相当量の戦利品を得た。ハリタは軽騎兵の機動力を活かし、砂漠近くの町を襲撃し、砂漠に身を隠す戦法を採った。バクルは此の戦い振りからメソポタミア地方の征服を決意し、アル・ヤママにいたハーリド・イブン・アル・ワリードに、指揮官として志願兵のみの軍を構成しアル・ヒラへ向かいササン朝ペルシアと戦う様指示した。ワリードはササン朝ペルシア総督ホルムズドに対して「イスラムに於ける人頭税であるジズヤの支払いに応じれば助ける」という主旨の降伏勧告の書簡を送る。然しホルムズドが此れに応じなかった。又、ワリードは書簡の中でカーズマ(現在のクウェートのジャハラー県)を経由してアル・ウブッラ(現在のイラクのバスラ県)へと向かうルートで進軍するとホルムズドに思わせる様仕向けた。西暦633年4月、ハーリド・イブン・アル・ワリードは兵をラクダに跨らせ、機動力で重装備のササン朝ペルシア軍を疲弊させた上で攻撃を仕掛ける戦略を練っていた。ホルムズドがワリードの術中に嵌り、以前ワリードから受け取った書簡からワリードがカーズマを経由して来る事を予測し、アル・ウブッラからカーズマへと進軍する。然しカーズマにはムスリムの気配は無かった。やがてホルムズドは斥候からワリードがフフェアに向かっているとの報告を受けた。フフェアはアル・ウブッラから21マイルしか離れていない為、ホルムズドの拠点のアル・ウブッラが危険に晒される事となった。直ちにホルムズドは50マイル離れたフフェアに兵を差し向けた。既にフフェアに到着していたワリードは、ホルムズドの軍がフフェアに向かっているとの報告を斥候から受けるとカーズマへ移動した。其の後フフェアに到着したホルムズドの軍はワリードの軍がカーズマへ向かっている事を知ると、再びカーズマへの進軍を指示した。こうしてワリードのササン朝ペルシア軍を疲弊させる作戦が成功し、ワリードの軍とホルムズドの軍がカーズマで対峙する事になった。ホルムズドは将軍のクバズとアノシャガンに指示し、兵達を鎖で繋ぎ敵が数人を倒して突破する可能性を軽減する作戦を採った。ただ此の作戦には容易に兵を撤退させる事が出来ないという欠点があった。ホルムズドはカーズマの西の端の前方に軍を展開し、都市を覆うような配置をとり、ハリードは砂漠を背にして軍を展開し、敗北した場合には其処に退却出来る様にした。戦闘が始まったものの、ホルムズドは戦いの序盤で殺害され、疲弊したササン朝ペルシア軍は攻撃に耐える事が出来ず、将軍のクバズとアノシャガンは敗北を察知し、撤退命令を出した。然し、鎖で繋がれていない兵は退却出来たものの、繋がれていた兵は速く動く事が出来ず、数千名が殺害された。4月21日頃、カーズマの戦いで敗れたササン朝ペルシアのクバズとアノシャガンの部隊がカリンとアル・ウブッラで合流する。4月頃、ヤズデギルド3世がクテシフォン(現在のイラクのバービル県)にてアル・マダールで自軍の敗北報告を受け、追加で2つの軍を招集して軍を再編成する。ホラーサーン統治者アンダルザガールが、ワラジャに出撃する様命じられ、間も無く別の軍と合流し、イラン人とキリスト教アラブ人から成る軍を率いてクテシフォンを出発した。其の後カシュカルでティグリス川を渡り、南西に移動してユーフラテス川を渡り、ワラジャに布陣した。其の道中何千名ものアラブ人が合流し、カーズマとアル・マダールでの戦の残党も加わった。
- アル・マダール 西暦633年4月21日頃、カーズマの戦いで敗れたササン朝ペルシアのクバズとアノシャガンの部隊がカリンとアル・ウブッラで合流する。クバズとアノシャガンは生存者の中にササン朝ペルシアを裏切りムスリムに与した兵がいた事を伝えると、アル・ウブッラから去る者が現れた。此れに慌てたカリンは、ムスリムに寝返った兵はアル・マダールを知らないであろうと考えた事と、ユーフラテス川に近く、ササン朝ペルシアの正規軍が到着し易いであろうと考えた事の2点の理由からアル・マダール(現在のイラクのワーシト県)で戦う事にした。ハーリド・イブン・アル・ワリードはササン朝ペルシア軍がアル・マダールにいる事を把握し、アル・ムサンナ・イブン・ハリサ率いる分遣隊を送りこみ、自身もアル・マダールへ向かった。ワリードが到着した時、ササン朝ペルシアの船が川の端に到着しているのを見て、まだ戦闘準備が整っていない事を理解した。ワリードは17,000名の兵を率い、アシム・イブン・アムル・アル・タミミとアディ・イブン・ハティムに両翼を任せ、ササン朝ペルシア軍と対峙した。戦いは、マカル・ビン・アル・アシ(ムスリム)対カリン(ササン朝ペルシア)、アシーム(ムスリム)対アノシャガン(ササン朝ペルシア)、アディ(ムスリム)対クバズ(ササン朝ペルシア)の3つの決闘で始まった。此の戦いでササン朝ペルシアは30,000名が殺害された。4月頃、ヤズデギルド3世がクテシフォン(現在のイラクのバービル県)にてアル・マダールで自軍の敗北報告を受け、追加で2つの軍を招集して軍を再編成する。5月、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、バフマン・ジャドゥヤの軍がワラジャに到着する前にアンダルザガールの軍を殲滅する作戦を取った。更にアル・マダールでの戦闘と同じくアシム・イブン・アムル・アル・タミミとアディ・イブン・ハティムに両翼を任せた。12月1日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードがフィラズ(現在のイラクのアンバール県)に到着する。ワリードは同年4月21日頃のアル・マダールでの戦闘と同じく両翼から挟み撃ちにする戦法を採用した。
- ワラジャ 西暦633年4月頃、ヤズデギルド3世がクテシフォン(現在のイラクのバービル県)にてアル・マダールで自軍の敗北報告を受け、追加で2つの軍を招集して軍を再編成する。ヤズデギルド3世は、ムスリムが撤退する場合に備え砂漠を背に戦うと読み、ワラジャ(ユーフラテス川の現在のムサンナー県とカーディーシーヤ県の県境付近)を戦闘場所に選んだ。ホラーサーン統治者アンダルザガールが、ワラジャに出撃する様命じられ、間も無く別の軍と合流し、イラン人とキリスト教アラブ人から成る軍を率いてクテシフォンを出発した。其の後カシュカルでティグリス川を渡り、南西に移動してユーフラテス川を渡り、ワラジャに布陣した。アンダルザガールは数日後にワラジャに到着する予定のササン朝ペルシア軍最高幹部の一人の司令官バフマン・ジャドゥヤの軍を待つ事にした。ジャドゥヤもヤズデギルド3世からワラジャへ挙兵する事を命じられ、計画では総司令官として軍を指揮する予定であった。同じ頃ハーリド・イブン・アル・ワリードが、送り込んだスパイから、ササン朝ペルシア軍がワラジャに布陣している事と、兵の数がかなり多い事と、別の軍と合流する為にワラジャに留まっている事の報告を受けた。ワリードは元々アル・ヒラに向かう予定であり、ワラジャは丁度其のルートの中に入っていた。ワリードはジャドゥヤのワラジャ到着予定日の数日前にワラジャの近くに宿営した。5月、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、バフマン・ジャドゥヤの軍がワラジャに到着する前にアンダルザガールの軍を殲滅する作戦を取った。アンダルザガールは先にムスリムに攻撃させて、疲弊した所を反撃する作戦を取った。当初はアンダルザガールの作戦通りに事が運んだものの、最終的には数の力で圧倒され、ササン朝ペルシア軍は敗北した。5月15日頃、ワラジャでの戦闘で敗れたササン朝ペルシア軍の残党が、ユーフラテス川の支流ハシーフ川を渡り、ユーフラテス川の間を移動しながらウライ(現在のイラクのアルカディシーヤ県)に落ち延びた。ムスリムはウライにササン朝ペルシア軍の残党がいる事を認識していたが、数が少なく問題視していなかった。然し、アル・ヒラとウライの間にいた、ワラジャの戦いで2名の息子を殺害されたアブドゥル・アスワド率いるキリスト教系アラブ部族であるバニ・バクル族が大軍で合流した事で、ハーリド・イブン・アル・ワリードはハシーフ川を渡り、ウライに正面から接近した。
- ウライとカセーエフ川 西暦633年5月15日頃、ワラジャでの戦闘で敗れたササン朝ペルシア軍の残党が、ユーフラテス川の支流ハシーフ川を渡り、ユーフラテス川の間を移動しながらウライ(現在のイラクのアルカディシーヤ県)に落ち延びた。ムスリムはウライにササン朝ペルシア軍の残党がいる事を認識していたが、数が少なく問題視していなかった。然し、アル・ヒラとウライの間にいた、ワラジャの戦いで2名の息子を殺害されたアブドゥル・アスワド率いるキリスト教系アラブ部族であるバニ・バクル族が大軍で合流した事で、ハーリド・イブン・アル・ワリードはハシーフ川を渡り、ウライに正面から接近した。ヤズデギルド3世はバフマン・ジャドゥヤにアラブの部隊を指揮しウライでムスリムの侵攻を止める様指示した。ジャドゥヤは、上級将軍ジャバンにササン朝ペルシア軍を率いさせてウライに向けて先行させ、自身が到着する迄戦闘を避ける様指示した。ワリードはササン朝ペルシア軍が作戦を練る前に戦闘を開始する事を計画し、当日中に襲撃した。5月17日頃、ムスリムとササン朝ペルシア軍の戦闘が最も激しかったのはカセーエフ川であった。ハーリド・イブン・アル・ワリードはササン朝ペルシア軍の防衛線を突破出来ずに苦戦している最中、アッラーに祈り、戦いに勝てば敵兵の血を川に流すと約束した。午後の早い時間にササン朝ペルシア軍はムスリムの攻撃に耐えきれず、アル・ヒラの方角へ退却し、川岸に追い詰められた。ワリードはササン朝ペルシア軍の捕縛した兵を全員斬首させ、何千名もの死者の血により、カセーエフ川の岸辺は死者の多さで真っ赤に染まり、アッラーとの約束を守った。ワリードはウライの住民にジズヤとイランへのスパイとして活動する事を課した。5月30日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍がアル・ヒラにてササン朝ペルシアと戦闘を行いアル・ヒラを占領、地元住民はムスリムに多額の貢物を払い、ウライの住民と同様にジズヤとスパイとしての活動を課せられた。
- アル・ヒラ 西暦633年頃、ムスリムでササン朝ペルシアとの国境付近のアル・ヒラ(現在のクーファ(イラクのナジャフ県)付近)の部族長アル・マタナ・イブン・ハリタがメソポタミア地方のササン朝ペルシアの町を襲撃する。然しササン朝ペルシアの反撃を受けた為ハリタはアブー・バクルに援軍を要請し、結果勝利して相当量の戦利品を得た。ハリタは軽騎兵の機動力を活かし、砂漠近くの町を襲撃し、砂漠に身を隠す戦法を採った。バクルは此の戦い振りからメソポタミア地方の征服を決意し、アル・ヤママにいたハーリド・イブン・アル・ワリードに、指揮官として志願兵のみの軍を構成しアル・ヒラへ向かいササン朝ペルシアと戦う様指示した。西暦633年3月14日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードが10,000名の軍勢を率いアル・ヒラへ向けてアル・ヤママを出発する。4月頃、ヤズデギルド3世がクテシフォン(現在のイラクのバービル県)にてアル・マダールで自軍の敗北報告を受け、追加で2つの軍を招集して軍を再編成する。ホラーサーン統治者アンダルザガールが、ワラジャに出撃する様命じられ、間も無く別の軍と合流し、イラン人とキリスト教アラブ人から成る軍を率いてクテシフォンを出発した。其の後カシュカルでティグリス川を渡り、南西に移動してユーフラテス川を渡り、ワラジャに布陣した。同じ頃ハーリド・イブン・アル・ワリードが、送り込んだスパイから、ササン朝ペルシア軍がワラジャに布陣している事と、兵の数がかなり多い事と、別の軍と合流する為にワラジャに留まっている事の報告を受けた。ワリードは元々アル・ヒラに向かう予定であり、ワラジャは丁度其のルートの中に入っていた。ワリードはアル・ヒラの方角へ向かって、5,000名の騎兵と10,000名の歩兵を率い出撃した。5月15日頃、ワラジャでの戦闘で敗れたササン朝ペルシア軍の残党が、ユーフラテス川の支流ハシーフ川を渡り、ユーフラテス川の間を移動しながらウライ(現在のイラクのアルカディシーヤ県)に落ち延びた。ムスリムはウライにササン朝ペルシア軍の残党がいる事を認識していたが、数が少なく問題視していなかった。然し、アル・ヒラとウライの間にいた、ワラジャの戦いで2名の息子を殺害されたアブドゥル・アスワド率いるキリスト教系アラブ部族であるバニ・バクル族が大軍で合流した事で、ハーリド・イブン・アル・ワリードはハシーフ川を渡り、ウライに正面から接近した。ササン朝ペルシア軍はムスリムの目的はアル・ヒラを占領する事であると読んでいた。5月17日頃、ムスリムとササン朝ペルシア軍の戦闘が最も激しかったのはカセーエフ川であった。午後の早い時間にササン朝ペルシア軍はムスリムの攻撃に耐えきれず、アル・ヒラの方角へ退却し、川岸に追い詰められた。ワリードはウライの住民にジズヤとイランへのスパイとして活動する事を課した。5月30日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍がアル・ヒラにてササン朝ペルシアと戦闘を行いアル・ヒラを占領、地元住民はムスリムに多額の貢物を払い、ウライの住民と同様にジズヤとスパイとしての活動を課せられた。其の後ムスリムは1ヶ月の休息に入った。8月、アブー・バクルからドゥマット・アル・ジャンダルにてアラブ反乱軍を鎮圧する様命を受けたイヤド・イブン・ガンムが、マリッドと呼ばれる砦の南面に軍を展開し、弓矢にてドゥマット・アル・ジャンダルを守備していたカルブ族を攻撃し、数週間戦闘を行ったが膠着状態となり任務に失敗、ガンムはある将校の「状況によっては、知恵は大軍よりも優れている」という進言により、ハーリド・イブン・アル・ワリードに助けを求める主旨の書簡を送る。ワリードはアイン・アル・タムルからアル・ヒラに向かおうとしている際に其の書簡を受け取った。9月1日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードがイヤド・イブン・ガンムを副将軍に任命し、アル・ヒラへと向かう。9月頃、バフマン・ジャドゥヤが、ウライの戦いの残党と、ササン朝ペルシア領内の駐屯地から引き抜いたベテラン兵と、新兵で新しい軍隊を組織する。ジャドゥヤは作戦を、ササン朝ペルシア軍を一ヶ所に集中させムスリムの攻撃を待つか、南下してアル・ヒラでムスリムと戦うかの2択で考えていた。此の作戦はハーリド・イブン・アル・ワリードがアル・ヒラに到着する前に予期していたものであった。9月22日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードがアル・ヒラに到着する。分散したササン朝ペルシア軍が団結して攻勢をかけてきた場合、状況が不利になると読んだワリードは、個別に戦う事を意図し、ムスリムを二手に分け、カーカ・イブン・アムルと、アブ・ライラの2名の指揮下に置いた。ワリードは、アル・ヒラの守備の為にイヤド・イブン・ガンムを残し、此れ等の部隊と共にアイン・アル・タムルへ向かった。9月28日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードが、全軍をアイン・アル・タムルに集結させる。其の後カーカの部隊をフサイドへ、アブ・ライラの部隊をカナフィスへ派遣した。又、予備軍をアイン・アル・タムルに残し、サニーとズマイルに布陣しているササン朝ペルシア軍がアル・ヒラを攻撃しないか警戒していた。西暦634年1月、ハーリド・イブン・アル・ワリードがフィラズに守備隊を置き、本隊に対しアル・ヒラへの帰還命令を下す。ワリードは、軍がアル・ヒラへ進行を始める迄後方で待機し、其の後少数の護衛を従えてメッカへ向けて、未開拓の道を進み始めた。ワリード一行はアル・ヒラへ向けて出発し、本隊の最後の一団よりも早くアル・ヒラに到着した。5月13日、アル・ムサンナ・イブン・ハリサ率いるムスリム軍がアル・ヒラからバビロン近くのササン朝ペルシア軍に接近する。西暦634年、アル・ヒラ奪回を意図し、ササン朝ペルシアの将軍ロスタム・ファルロフザードが、将軍数名とイスパフブダン家の親戚の一部をナマラク(現在のクーファ(イラクのナジャフ県)付近)に派遣する。
- アイン・アル・タムル 西暦633年7月28日頃、アイン・アル・タムル(現在のイラクのカルバラー県)にて、ササン朝ペルシアを支援するアラブ人キリスト教徒による補助部隊がハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍と交戦する。ワリードは、両翼に補助部隊の両翼を包囲させ、自身の率いる本隊は後方で待機した。以前ムスリムとの契約を破った非ムスリムでアラブ人キリスト教徒で補助部隊の司令官のアッカ・イブン・カイズ・イブン・バシールは、ワリードが兵を動かさない事に驚き、自軍を包囲したムスリムの両翼の部隊との戦いに専念する事にした。イランのミハラン家貴族ミハラン・バフラム・イ・チュビン等のササン朝ペルシア兵はアイン・アル・タムル城内で待機していた。そんな中ワリードを護衛していた少数の部隊が不意を突いて、バシールに戦いを挑んだ。最終的にワリードはバシールを自らの両手で抱えて捕縛した。補助部隊はバシールが生きて捕らえられた事で戦意を失い、直ちにムスリムに対し全面降伏した。其の後ムスリムはバシールを晒してアイン・アル・タムルを行進し、アラブ人キリスト教徒が待機していたアイン・アル・タムル城を包囲して、アラブ人を大量に含むササン朝ペルシアの補助部隊を降伏させる。更に守備隊の防衛者の前に並び「降伏して門を開けないなら処刑する」と脅した。守備隊が拒否した為、壁の後ろで戦い、ワリードは直ちにバシールを含むすべての捕虜を処刑するよう命じた。又、ムスリムはアイン・アル・タムルを征圧の際、修道院の中で40名のアラブ人キリスト教徒の聖歌隊を発見し、其の40名の子供達をマディーナへ連行し、改宗させた。8月、アブー・バクルからドゥマット・アル・ジャンダルにてアラブ反乱軍を鎮圧する様命を受けたイヤド・イブン・ガンムが、マリッドと呼ばれる砦の南面に軍を展開し、弓矢にてドゥマット・アル・ジャンダルを守備していたカルブ族を攻撃し、数週間戦闘を行ったが膠着状態となり任務に失敗、ガンムはある将校の「状況によっては、知恵は大軍よりも優れている」という進言により、ハーリド・イブン・アル・ワリードに助けを求める主旨の書簡を送る。ワリードはアイン・アル・タムルからアル・ヒラに向かおうとしている際に其の書簡を受け取った。又8月、ハーリド・イブン・アル・ワリードが前日のイヤド・イブン・ガンムの書簡を受けて、6,000名の兵を率い援軍としてアイン・アル・タムルを出発しドゥマット・アル・ジャンダルへと向かう。9月22日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードがアル・ヒラに到着する。分散したササン朝ペルシア軍が団結して攻勢をかけてきた場合、状況が不利になると読んだワリードは、個別に戦う事を意図し、ムスリムを二手に分け、カーカ・イブン・アムルと、アブ・ライラの2名の指揮下に置いた。ワリードは、アル・ヒラの守備の為にイヤド・イブン・ガンムを残し、此れ等の部隊と共にアイン・アル・タムルへ向かった。9月28日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードが、全軍をアイン・アル・タムルに集結させる。其の後カーカの部隊をフサイドへ、アブ・ライラの部隊をカナフィスへ派遣した。又、予備軍をアイン・アル・タムルに残し、サニーとズマイルに布陣しているササン朝ペルシア軍がアル・ヒラを攻撃しないか警戒していた。やがてカーカとルズビー、アブ・ライラとザルマーの戦闘が開始された。ザルマーはカーカ自身の手で殺害され、ルズビーもイスマ・イブン・アブダラによって殺害された。フサイドのササン朝ペルシア軍は、劣勢であると悟りカナフィスに逃げ込んだ。更にザルマーの死を知ると、カナフィスを放棄して防御が強固であるムザイヤに退却し、キリスト教アラブ人と合流した。ワリードは目標をムザイヤ・サニー・ズマイルの3箇所に定めた。ワリードは、サニーとズマイルは後からでも対処出来ると考え、次の目的地をムザイヤに決定し、アイン・アル・タムルで馬からラクダに乗り換え、カーカ、アブ・ライラと合流しムザイヤへ追撃した。11月頃、ムザイヤに宿営しているササン朝ペルシア軍の正確な位置を把握していたハーリド・イブン・アル・ワリードが、過去に殆ど例の無い、難易度の高い3方向からの同時夜襲を計画する。ワリードは、フサイドと、カナフィスと、アイン・アル・タムルの3箇所に布陣していた軍をムザイヤから数km離れた場所に集合させ、襲撃時刻を伝え、三手に兵を分散させた。
- ドゥマット・アル・ジャンダル 西暦633年8月、アブー・バクルからドゥマット・アル・ジャンダルにてアラブ反乱軍を鎮圧する様命を受けたイヤド・イブン・ガンムが、マリッドと呼ばれる砦の南面に軍を展開し、弓矢にてドゥマット・アル・ジャンダルを守備していたカルブ族を攻撃し、数週間戦闘を行ったが膠着状態となり任務に失敗、ガンムはある将校の「状況によっては、知恵は大軍よりも優れている」という進言により、ハーリド・イブン・アル・ワリードに助けを求める主旨の書簡を送る。ワリードはアイン・アル・タムルからアル・ヒラに向かおうとしている際に其の書簡を受け取った。又8月、ハーリド・イブン・アル・ワリードが前日のイヤド・イブン・ガンムの書簡を受けて、6,000名の兵を率い援軍としてアイン・アル・タムルを出発しドゥマット・アル・ジャンダルへと向かう。8月25日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードがドゥマット・アル・ジャンダルに到着し、イヤド・イブン・ガンムと合流する。然しワリードの軍の行動はドゥマット・アル・ジャンダルを守備していたアラブ反乱軍に何日も前から把握されていた。ササン朝ペルシアはワリードが軍の大部分を連れてアラビアに戻ったと考え、ムスリムを砂漠へ追いやり、失った自国の領土と威信を取り戻そうと考えた。ガンムの軍だけなら打ち払う事が出来るがワリードの軍が加われば持ち堪えられないと考え、近隣の部族に急使を送り援軍を要請した。結果、ガッサーン族・カルブ族等の幾つかの部族が駆け付け、砦の守備に就いた。ワリードはガンムを指揮下に置き、砦の周囲を押さえアラビア・イラク・ヨルダンへと繋がるルートを遮断してアラブ反乱軍を包囲し、敵が攻撃を仕掛けて来るのを待った。先制すれば多大な犠牲を払うと考えた為である。アラブ反乱軍の指揮官ジュディはムスリムが攻撃して来るのを待っていたが、動いて来なかった為、ワリードとガンムの陣を攻撃する為二手に分かれ、先制攻撃を仕掛けた。然しワリードとガンムの軍に其々圧倒され、ジュディは仲間数百名と共に捕らえられ、ワリードがムスリム達に見える様砦の近くまで連行し、部下にジュディと其の仲間の首を刎ねさせた。結果、アラブ反乱軍の大半が殺害され、多くの若者・女性・子供が捕虜となった。9月22日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードがアル・ヒラに到着する。分散したササン朝ペルシア軍が団結して攻勢をかけてきた場合、状況が不利になると読んだワリードは、個別に戦う事を意図し、ムスリムを二手に分け、カーカ・イブン・アムルと、アブ・ライラの2名の指揮下に置いた。ワリードは、アル・ヒラの守備の為にイヤド・イブン・ガンムを残し、此れ等の部隊と共にアイン・アル・タムルへ向かった。其の後前月のドゥマット・アル・ジャンダルの戦いに参戦した兵を休息させ、其の兵を率い自身も合流した。
- ムザイヤ・サニー・ズマイル 西暦633年9月頃、バフマン・ジャドゥヤが、ウライの戦いの残党と、ササン朝ペルシア領内の駐屯地から引き抜いたベテラン兵と、新兵で新しい軍隊を組織する。多くの新兵がいた為、戦力は以前と比べると劣っていた。其処でキリスト教アラブ人に従軍を依頼した。戦力の増強の目処が立ったジャドゥヤは、ルズビー(フサイドに配置)と、ザルマー(カナフィス(現在のシリアのホムス県)に配置)の2名を指揮官に指名しクテシフォンから出撃させた。此の時点ではキリスト教アラブ人は、ムザイヤ(現在のイラクのアンバール県)と、サニー(現在のイラクのアンバール県)と、ズマイル(現在のイラクのアンバール県)の三手に戦力を分散させていた。隊長は、ムザイヤがフザイル・ビン・イムラン、サニーがラビア・ビン・ブジャイル、ズマイルがブジャイル(サニーと兼任)であった。9月28日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードが、全軍をアイン・アル・タムルに集結させる。其の後カーカ・イブン・アムルの部隊をフサイドへ、アブ・ライラの部隊をカナフィスへ派遣した。又、予備軍をアイン・アル・タムルに残し、サニーとズマイルに布陣しているササン朝ペルシア軍がアル・ヒラを攻撃しないか警戒していた。やがてカーカとルズビー、アブ・ライラとザルマーの戦闘が開始された。ザルマーはカーカ自身の手で殺害され、ルズビーもイスマ・イブン・アブダラによって殺害された。フサイドのササン朝ペルシア軍は、劣勢であると悟りカナフィスに逃げ込んだ。更にザルマーの死を知ると、カナフィスを放棄して防御が強固であるムザイヤに退却し、キリスト教アラブ人と合流した。ワリードは目標をムザイヤ・サニー・ズマイルの3箇所に定めた。ワリードは、サニーとズマイルは後からでも対処出来ると考え、次の目的地をムザイヤに決定し、アイン・アル・タムルで馬からラクダに乗り換え、カーカ、アブ・ライラと合流しムザイヤへ追撃した。11月頃、ムザイヤに宿営しているササン朝ペルシア軍の正確な位置を把握していたハーリド・イブン・アル・ワリードが、過去に殆ど例の無い、難易度の高い3方向からの同時夜襲を計画する。ワリードは、フサイドと、カナフィスと、アイン・アル・タムルの3箇所に布陣していた軍をムザイヤから数km離れた場所に集合させ、襲撃時刻を伝え、三手に兵を分散させた。夜襲が開始されると、ササン朝ペルシア軍は足取りを掴む事が出来ず数千人が虐殺された。ムスリムは殲滅しようとしたが、暗闇に紛れた敵兵を取り逃した。生き残ったキリスト教アラブ人とササン朝ペルシア兵はサニーへ逃走し、アラブ反乱軍と合流した。11月10日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードはムザイヤと同じく3方向からの同時夜襲を計画し、夜に三手に分かれていた軍を集結させる。ワリードは直進ルートで、他の二手はワリードを挟むルートで集合した。ムザイヤの戦いと同じく夜襲時刻を伝え、三手に分かれてサニーのキリスト教アラブ軍を襲撃した。虐殺を免れた兵は少なく、サニーとズマイルの隊長を兼任していたラビア・ビン・ブジャイルも殺害された。女性や多数の若者は捕虜となった。11月13日頃の夜、ハーリド・イブン・アル・ワリードがズマイルに到着し、ムザイヤ・サニーと同じく3方向からの同時夜襲を行う。キリスト教アラブ軍はムスリムの奇襲に耐えられず、直ぐに分散したが、戦場から脱出できず、ほぼ全軍が虐殺された。
- フィラズ 西暦633年12月1日頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードがフィラズ(現在のイラクのアンバール県)に到着する。此の時点でムスリムはユーフラテスの谷を征圧していたが、ササン朝ペルシアとビュザンティオンの境界にあるフィラズにはまだササン朝ペルシア軍の前哨基地が存在していた。ワリードは此の前哨基地を襲撃する為にフィラズに来ていた。ビュザンティオンはササン朝ペルシアを援護する事を決定した。ホルモズド・ジャドウィーフも鶏と豚の飼育員を率いてササン朝ペルシア軍に属していた。ワリードはササン朝ペルシア・ビュザンティオン連合軍がユーフラテス川を渡るまで待機し、渡り切ると直ぐにムスリムに出撃を命じた。ワリードは同年4月21日頃のアル・マダールでの戦闘と同じく両翼から挟み撃ちにする戦法を採用した。又、ムスリムが不利な形勢になると思われた時、ワリードは此の戦いに勝利したらメッカに巡礼すると誓いを立てた。前線が戦闘を開始した後、後方が透かさず橋を占拠し退路を塞ぎ、両翼に分かれ連合軍を包囲した。結果、ムスリムは連合軍を100,000名殺害し、フィラズを占領した。西暦634年1月、ハーリド・イブン・アル・ワリードがフィラズに守備隊を置き、本隊に対しアル・ヒラへの帰還命令を下す。
- ボスラ 西暦634年4月25日朝、ハーリド・イブン・アル・ワリードがグータ(現在のシリアのダマスカス県)を急襲する任務を帯びてダマスカス(現在のシリア)に騎馬隊を派遣する。又、アブー・ウバイダを使者として送り、ボスラで報告する様指示を出した。ワリードは兵を率い、ダマスカスを迂回してボスラ征服へと向かった。6月、ハーリド・イブン・アル・ワリードが、ガッサーン朝の首都であるボスラに到着する。ボスラにはローマ将校が指揮する東ローマ帝国人とキリスト教アラブ人の軍隊が駐留していた。既にハウラン(現在のシリアのダルアー県・スワイダー県、現在のヨルダンのマフラク県)を占領していたアブー・ウバイダは、ワリードが到着する迄、ボスラに留まる様指示を受けていた。ウバイダはムスリムから成る、ウバイダの部隊と、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアンの部隊と、シュラビル・イブン・ハサナの部隊の3つの部隊を指揮下に置いていたが、戦闘はせず、町を征服した事も無かった。ウバイダは、ワリード到着後はワリードの指揮下に入る事を聞いた。其れを受け、ボスラ占領を意図し、ハサナの部隊4,000名を差し向けた。ボスラの守備隊は、ハサナの部隊が見えると、要塞のある町へ逃げ込んだ。ハサナの部隊は先遣隊に過ぎず、更に多くのムスリムが攻めて来る事を予測していた為である。ハサナはボスラの西側に着陣し、部下の部隊を砦の周囲に配置した。又6月、アブー・ウバイダがシュラビル・イブン・ハサナの部隊をボスラに差し向けた2日後、ハーリド・イブン・アル・ワリードが、ボスラへの行軍の最終日に出撃する。其れを受けボスラの守備隊が、ボスラの外にいるムスリムに向かって出撃した。ハサナと東ローマ帝国軍司令官が、戦闘状態に入った軍を前にして会談を行い、ハサナは、イスラム教への改宗と、貢物を捧げる事と、戦闘の3つの選択肢を提示した。午前中に東ローマ帝国軍が戦闘を選択し、戦いが始まった。最初の数時間は一進一退の状況が続いた。然し正午過ぎに東ローマ帝国軍が優勢となり、ハサナの軍を両側面から挟み撃ちにした。そんな中、ボスラから1マイル離れた所にいたワリードが、風に乗って聞こえてくる戦闘の音を聞き、駆けつけた。又6月、ハーリド・イブン・アル・ワリードがシュラビル・イブン・ハサナの部隊を援護した翌日、東ローマ帝国軍は、ムスリムの戦力は自軍と同程度であると把握し、長旅の疲れが癒える前に打ち負かすべく再攻撃を決意した。両軍はボスラ郊外の平原で戦闘準備を行なった。
- ダマスカス 西暦634年4月25日朝、ハーリド・イブン・アル・ワリードがグータ(現在のシリアのダマスカス県)を急襲する任務を帯びてダマスカス(現在のシリア)に騎馬隊を派遣する。ワリードは兵を率い、ダマスカスを迂回してボスラ征服へと向かった。途中、ダマスカスで戦利品や捕虜を補充した騎馬隊が、ワリードと合流した。7月30日、ダマスカスに進軍していたハーリド・イブン・アル・ワリードが、ヤルムーク川北岸のティベリアス湖付近のヤクサ(現在のイスラエル)にて、ヘラクレイオスの義理の息子トーマスが、ワリードのダマスカス進軍を遅らせる為に差し向けた東ローマ帝国軍と遭遇する。東ローマ帝国軍は戦える状態ではなかったが、ダマスカスの要塞が強化されるまでワリードの軍を足止めさせる為に戦闘を行い、短時間で敗北した。8月20日頃、ヘラクレイオスが、包囲された東ローマ帝国軍の守備隊を救援する為に、ダマスカスへ兵を差し向ける。ハーリド・イブン・アル・ワリードは、ダマスカスを他の地域から孤立させる戦略を練り、パレスチナへ至る道の南と、ダマスカス-エメサ間のルートの北に分遣隊を配置した。更に、ダマスカスへ向かうルートに、他の幾つかの小規模な分遣隊を配置した。8月21日、ダマスカスを孤立させたハーリド・イブン・アル・ワリードが、ムスリムに対しダマスカスを包囲する様命じる。又、6つの門に指揮官を配置し4,000〜5,000名を率いさせ、東ローマ帝国軍の攻撃を撃退し、激しい攻撃があった場合は支援を求める様指示した。指揮官は、トーマスの門がシュラビル・イブン・ハサナ、ジャビヤ門がアブー・ウバイダ(副司令官)、ファラディの門がアムル・イブン・アル・アース、ケイサン門と小さな門がヤズィード・イブン・アビ・スフィアン、東門がラファイ・ビン・ウマイル(主要部隊)であった。ワリード率いる軍はダマスカスへの物資の流れを止めたが、グータだけはワリード達や騎馬に必要な物資の供給地点として機能した。9月9日、ヘラクレイオスが、ダマスカスが包囲された事を受け、12,000名の救援軍を派遣する。9月18日、シリアの単性論者の司祭ヨナが、夜にダマスカスに祭りが行われる事をハーリド・イブン・アル・ワリードに知らせる。全軍の連携した攻撃計画を立てる時間が無かった為、ワリードは自ら東門を襲撃する事を計画した。ワリードは、カーカ・イブン・アムルと、マズル・イブン・アディの2名と共に、門の横から手を繋いで壁を登った。上部に到着後、ロープを壁に固定し、基地で待機している選任された100名の兵に対しロープを下ろした。ワリードは、ロープを使って城壁を登る事を支援する人間数名を残して城壁を下り、東門の内側で警備兵を殺害した。ワリードとカーカ・イブン・アムルが勢い良く門を開け、ワリードの残りの部隊がダマスカスに入り、激しい戦闘を続けた。トーマスはジャビヤ門に使者を送り、アブー・ウバイダに対し、砦の明け渡しとジズヤの支払いを申し出た。平和的な考えで知られていたウバイダは、ワリードも此の条件を受け入れるだろうと考え、申し出を受け入れた。9月19日、アブー・ウバイダが、ジャビヤ門からダマスカスに入る。他の指揮官も此れに続き、其々の門からダマスカスに入った。ウバイダは、トーマスと、高官数名と、ダマスカスの司教を伴ってダマスカス中心部へと向かい、其の後マリアミテ大聖堂に入った。ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍は、東門からダマスカスの中心部へ向かって戦い、抵抗する者を全員殺害した。和平交渉では、ワリードは武力でダマスカスを征服したと主張し、ウバイダはトーマスとの和平合意でダマスカスは降伏したと主張した。他の指揮官も状況について話し合い、ワリードに、和平合意は尊重されるべきだと伝え、ワリードは渋々此れに同意した。和平協定の条件として、誰も奴隷にしない事と、寺院に危害を加えない事と、戦利品として何も奪わない事と、トーマスを含む、ムスリムの支配下で生きる事を望まないダマスカス市民全員に安全な通行を与える事と、和平は3日後に終了し、ムスリムは此の3日後に協定に違反する事無く攻撃する事が出来る事が起草され、ワリードが此れに署名した。西暦635年3月、ダマスカスを守備する部隊が、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン率いる軍のみとなり、ヘラクレイオスが好機と捉え、テオドールの指揮下に兵を送る。其の後、ムスリムの下にもテオドールの動きが耳に入り、アブー・ウバイダと、ハーリド・イブン・アル・ワリードの2名がテオドール征伐へと向かった。テオドールは更に、シャナシュ・アル・ローマ率いる騎兵隊を含む援軍を受けた。最終的に両軍はマルジュ・アル・ラムにて対峙した。戦いはシャナシュ・アル・ローマとウバイダによる決闘で幕を開けた。決闘はウバイダが勝利し、其の後は均衡した戦いとなった。然し、テオドール・シェオドールの2名を含む東ローマ帝国軍の一部が撤退し、ダマスカスが東ローマ帝国軍の攻撃を受けている事がムスリムに知れた。ワリード達は戦闘を止め、ダマスカスに急行した。テオドールとシェオドールの指揮下の東ローマ帝国軍がダマスカスに到着すると、スフィアンが迎え撃った。スフィアンの軍は数で劣勢であったが、健闘した。やがてワリードと騎兵隊が到着し、東ローマ帝国軍を背後から攻撃し、挟み撃ちとなった。其の後、ワリードは一騎打ちでテオドールを殺害した。又、シェオドールも殺され、東ローマ帝国軍の前線が混乱し、戦場から逃走した。西暦636年5月頃、ムスリムが、北シリア全体の占領を意図し、ハマー(現在のシリア)を経由して、シャイザール(現在のシリアのハマー県)に到着する。ムスリムは此処で、少数の兵士に護衛され、食糧をキンナスリーン(現在のシリアのアレッポ県)に運ぶ東ローマ帝国の船団を見つけ、ハーリド・イブン・アル・ワリードが此れを妨害し、捕縛した。尋問により、ヘラクレイオスの計画と、東ローマ帝国の大軍が陣を張っている場所を聞き出した。ワリードは軍議を開き、アブー・ウバイダに対し、パレスチナとシリア北中部から撤退し、ガッサーン朝の首都ジャビヤ(現在のシリアのダマスカス県)に兵力を集中させる事を指示した。又、ジズヤを支払った人々へ返還を行う様、指示が下された。8月20日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、騎兵部隊を率いて東ローマ帝国軍を戦場から追い出し、増援を受け取れない様分断して、側面や後方を攻撃してワディ・ウル・ラッカドへ追い込む作戦を計画する。ワリードは、逃走する東ローマ帝国兵を追跡しダマスカス付近で攻撃を仕掛けた。其の後ワリードはダマスカスの奪還に成功し、地元住民に歓迎された。
- エメサ 西暦634年8月19日、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍が、マルジュ・アル・サファール(現在のシリア)にて、トーマス率いる東ローマ帝国軍を破る。トーマスはワリードのダマスカス進軍の情報を掴み、エメサにいたヘラクレイオスに援軍を求める書簡を書いていた。西暦635年3月頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードが一騎打ちでテオドールを殺害した一週間後、アブー・ウバイダ率いる軍が、木星の神殿の建っていたバールベック(現在のヨルダンのバールベック・ヘルメル県)を占領する。其の後ウバイダは、ワリードをエメサ襲撃の為に派遣した。12月、アブー・ウバイダが、エメサ占領を意図し、後方の東ローマ帝国軍を排除する。其の後、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる機動警備隊を先頭に、エメサへと進軍した。機動警備隊は、東ローマ帝国軍のエメサの守備隊を退け、東ローマ帝国軍は砦内に退避し、門を閉めざるを得なくなった。ウバイダが遅れてエメサに到着し、マスドゥド門(南西)・タドムル門(北東)・ドゥライブ門(東)・ハド門(西)の4つの門の向かいに部隊を配置した。エメサは直径1マイル未満の円形の要塞都市で、堀で囲まれていた。砦内の丘の上には城塞もあった。外側には肥沃な平野が広がっており、オロンテス川(現在のレバノン・シリア・トルコ)によって西側のみが分断されていた。ウバイダは、ワリードに司令官としての役割を与え、自身はラスタン門から少し離れた北側に布陣した。東ローマ帝国軍は、ムスリムはエメサの冬の寒さに耐えられず撤退するだろうと考えていたが、ムスリムが寒さによって受けた影響は軽微であった。西暦636年3月16日頃の朝、ハービーズ率いる軍が、ラスタン門から奇襲攻撃を行う。攻撃を受けた部隊は、ムスリムの幾つかに分散した戦力の中でも最大であった。にも拘らず、東ローマ帝国軍の素早い攻撃に翻弄され、劣勢となった。アブー・ウバイダは局面打開の為、ハーリド・イブン・アル・ワリードを派遣した。ワリード率いる機動警備隊は、現場を指揮し、兵の再配置を行なって防御策を講じた後に攻撃に転じた。日没近くに東ローマ帝国軍は砦に追い込まれ、奇襲は失敗に終わった。3月17日頃の朝、アブー・ウバイダが軍議を開き、前日の戦闘に関し不満を述べる。ウバイダは、ワリードに助言を求めた。ワリードは「翌朝、エメサから軍を引き上げ、包囲を強化する為に南下していると見せ掛ける。東ローマ帝国軍は追って後衛を攻撃するだろう。そこを転じて、東ローマ帝国軍を包囲して殲滅すれば良い」という主旨の返答をした。3月18日頃、ムスリムは、前日のハーリド・イブン・アル・ワリードの助言通りに軍を引き上げる振りをする。ハービーズは絶好の機会と捉え、5,000名の兵を招集し、砦の外へ出て、ムスリムの騎馬部隊を猛追した。軈てエメサから数マイルの所でムスリムに追い付き、打ち倒した。然し、東ローマ帝国軍の主要部隊がムスリムに襲い掛かろうとした瞬間、ムスリムは突然向きを変え、猛烈な勢いで東ローマ帝国軍を攻撃した。ハービーズは最終的に戦死した。ムスリムが、包囲している東ローマ帝国軍への攻撃を開始した時、マアズ・イブン・ジャバルは500騎を率い、逃走する東ローマ帝国軍が砦に入らない様にする為にエメサに駆け戻っていた。ジャバルの軍がエメサに近づくと、恐怖を感じた住民と追撃に参加しなかった東ローマ帝国軍の守備隊の残党は急いで砦に撤退し、門を閉めた。ジャバルは、東ローマ帝国兵が門から出てきたり、エメサの外の東ローマ帝国兵が侵入してくるのを防ぐ為に、門の前に兵を配置した。最終的に100名の東ローマ帝国兵が逃走した。ムスリムはエメサでの一連の軍事行動により235名の死者を出した。アブー・ウバイダは、地元住民の条件付きの降伏を受け入れ、1人当たり1ディナールのレートでジズヤを徴収した。5月頃、ムスリムが、ハーリド・イブン・アル・ワリードとアブー・ウバイダ(エメサ)と、カーカ・イブン・アムル(パレスチナ)と、シュラビル・イブン・ハサナ(ヨルダン)と、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン(カエサレア・ピリピ(現在のシリアのダマスカス))の四手に分かれる。又5月頃、ムスリムが、北シリア全体の占領を意図し、ハマー(現在のシリア)を経由して、シャイザール(現在のシリアのハマー県)に到着する。ムスリムは此処で、少数の兵士に護衛され、食糧をキンナスリーン(現在のシリアのアレッポ県)に運ぶ東ローマ帝国の船団を見つけ、ハーリド・イブン・アル・ワリードが此れを妨害し、捕縛した。尋問により、ヘラクレイオスの計画と、東ローマ帝国の大軍が陣を張っている場所を聞き出した。ワリードは軍議を開き、アブー・ウバイダに対し、パレスチナとシリア北中部から撤退し、ガッサーン朝の首都ジャビヤ(現在のシリアのダマスカス県)に兵力を集中させる事を指示した。又、ジズヤを支払った人々へ返還を行う様、指示が下された。8月20日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、騎兵部隊を率いて東ローマ帝国軍を戦場から追い出し、増援を受け取れない様分断して、側面や後方を攻撃してワディ・ウル・ラッカドへ追い込む作戦を計画する。ヘラクレイオスの従兄弟ニケタスは、エメサへの脱出に成功した。西暦637年6月頃、アブー・ウバイダと、ハーリド・イブン・アル・ワリードの2名率いる軍が、ダマスカスを経由してエメサに到着、其の数日後にハジル(現在のシリアのアレッポ県マウントシメオン地区)に入る。西暦638年3月、アル・ジャジーラ地方の東ローマ帝国と親しいキリスト教徒アラブ人が、ホムス(現在のシリア)を包囲する。キリスト教徒アラブ人は、ウマル・イブン・ハッターブ率いる援軍の到着と、イヤド・イブン・ガンムのアル・ジャジーラ地方侵攻の2点の情報を掴むと、エメサの包囲を止め、撤退した。西暦642年、ハーリド・イブン・アル・ワリードがエメサで死去する。
- ヤルムーク 西暦634年7月30日、ダマスカスに進軍していたハーリド・イブン・アル・ワリードが、ヤルムーク川北岸のティベリアス湖付近のヤクサ(現在のイスラエル)にて、ヘラクレイオスの義理の息子トーマスが、ワリードのダマスカス進軍を遅らせる為に差し向けた東ローマ帝国軍と遭遇する。西暦636年5月頃、ムスリムが、カイサリア(現在のイスラエルのハイファ地区)に強力な東ローマ帝国軍が駐屯しており、後方から襲撃される恐れがあった為、ワリードの助言により、ダルアー(現在のシリア)と、デイル・アイユーブ(現在のパレスチナ国ヨルダン川西岸地区ラマッラー・アル・ビーレ県)の2箇所に後退した。そして、ヤルムーク渓谷とハラ溶岩平原をカバーし、陣を敷いた。此れにより、ヘラクレイオスの、ムスリムの戦力が分散している内に各部隊を叩くという目論見は外れた。8月19日早朝、ヴァハンが、新たな交渉が行える様、今後数日間の休戦を求めてムスリムに特使を派遣する。ヴァハンは、前日迄の4日間で突破口を開く事が出来ず、特にムスリムの機動警備隊の側面を攻撃した際に多数の死傷者を出していた。然し、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、勝利が手の届く所にあると判断し、其の申し出を断った。此れまでムスリムは、防御を中心とした戦術を使っていたが、東ローマ帝国軍が戦意を失っている事を知り、攻撃に転じる為に部隊を再編成した。全ての騎兵連隊は、機動警備隊を中核とする8,000名の騎馬部隊に纏められた。ワリードは、東ローマ帝国軍を罠に嵌め、逃げ道を遮断する作戦を採った。周囲には東のワディ・アル・アッラーと、西のワディ・ウル・ラッカドと、南のワディ・アル・ヤルムークの3つの渓谷が有り、障壁となっていた。北に障壁が無かった為、騎兵隊が封鎖する事となった。夜、ワリードは、ワディ・ウル・ラッカドを横切るアイン・アル・ダカール橋が戦略的に重要であると位置付け、500名の騎兵を派遣した。派遣された騎兵は、東ローマ帝国軍を北側から回り込んで、アイン・アル・ダカール橋を占領した。
- エルサレム 西暦636年10月1日頃、アブー・ウバイダが軍議を開く。カイサリア・エルサレムの2箇所のどちらを占領するか議論が為されたが、結論は出なかった。ウバイダは、ウマル・イブン・ハッターブに書簡を送り指示を仰いだ。ハッターブはエルサレムを占領する様返答した。ウバイダ達は、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる機動警備隊を先頭にジャビヤからエルサレムへ向けて進軍した。西暦637年2月頃、ソフロニウスが、ウマル・イブン・ハッターブがエルサレムに来て協定に署名し、降伏を受け入れる事を条件に、エルサレムを降伏させジズヤを支払う事を申し出る。シュラビル・イブン・ハサナは、ハッターブがマディーナから来るのを待つのではなく、外見がハッターブに似ていたハーリド・イブン・アル・ワリードを送り出す事を提案した。ハサナの案が採用されたが、ワリードはキリスト教アラブ人に見破られ、ソフロニウスによって交渉を拒否された。ワリードの任務失敗の報告を受けたアブー・ウバイダは、ハッターブに書簡を送り、エルサレムに来る様願い出た。4月1日頃、ウマル・イブン・ハッターブがパレスチナに到着する。其の後ジャビヤへ向かい、アブー・ウバイダと、ハーリド・イブン・アル・ワリードと、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアンの3名等が出迎え、ハッターブに合流した。此の時アムル・イブン・アル・アースは、エルサレム包囲の指揮官として従事していた。其の後一行はエルサレムに向かい、ハッターブの署名により協定が締結された。証人は、ワリードと、アースと、アブド・アルラフマン・イブン・アウフと、ムアーウィヤ1世の4名であった。此れにより東ローマ帝国は、エルサレムをムスリムに明け渡し、ジズヤと引き換えにキリスト教徒に市民的及び宗教的自由の保証を与えられた。其の後ソフロニウスは、ズフルの礼拝の際、ハッターブを再建された聖墳墓教会(現在のパレスチナ国ヨルダン川西岸地区エルサレム県)に招待した。然しハッターブは、キリスト教の礼拝の場としての教会の立場が危険に晒され、ムスリムが協定を破り教会をモスクに変える事を危惧し、辞退した。ソフロニウスはハッターブを、神殿の丘(現在のパレスチナ国ヨルダン川西岸地区エルサレム県)にも案内しており、其の際ハッターブは、かつて寺院のあった場所の劣悪な状態を見て、其の場所に木造のモスクを建てる前に、塵や瓦礫を取り除くよう命じた。4月10日頃、ウマル・イブン・ハッターブがマディーナへ向けて出発する。アブー・ウバイダと、ハーリド・イブン・アル・ワリードの2名はシリア北部を征服する為に、17,000名を率いエルサレムを出発した。
- キンナスリーン 西暦636年5月頃、ムスリムが、北シリア全体の占領を意図し、ハマー(現在のシリア)を経由して、シャイザール(現在のシリアのハマー県)に到着する。ムスリムは此処で、少数の兵士に護衛され、食糧をキンナスリーン(現在のシリアのアレッポ県)に運ぶ東ローマ帝国の船団を見つけ、ハーリド・イブン・アル・ワリードが此れを妨害し、捕縛した。西暦637年6月頃、アブー・ウバイダと、ハーリド・イブン・アル・ワリードの2名率いる軍が、ダマスカスを経由してエメサに到着、其の数日後にハジル(現在のシリアのアレッポ県マウントシメオン地区)に入る。ワリードと機動警備隊を先頭としていた。其処で司令官メナス率いる7,000名の東ローマ帝国軍守備隊の攻撃を受けた。メナスは、もしキンナスリーンに留まれば、ムスリムに包囲され、ヘラクレイオスからの助けは期待出来ない為、最終的に降伏する事になるだろうと考え、本隊が合流する前に先制する作戦を採った。戦闘が終了すると、直ぐにハジルのアラブ人は、ワリードを出迎え、敵対するつもりは無い事を主張した。ワリードは降伏を受け入れ、キンナスリーンへと向かった。又6月頃、ハーリド・イブン・アル・ワリードはキンナスリーンに入り、東ローマ帝国軍の駐屯地に向けて「もし貴方方が雲の中に居るなら、アッラーは私達を貴方方の所に引き上げるか、戦いの為に貴方方を私達の所に降ろすでしょう」と通告する。程無くして砦に立て籠ったメナスに同行せずハジルに出陣しなかった東ローマ帝国軍守備隊は降伏した。8月頃、アブー・ウバイダと、ハーリド・イブン・アル・ワリードの2名がキンナスリーンで合流し、アレッポ(現在のシリア)に進軍する。西暦638年12月頃、ムスリムが、ゲルマニアの東ローマ帝国軍守備隊の居る都市を包囲する。ハーリド・イブン・アル・ワリードは、此れまで滅多に見られなかった戦利品を積んでキンナスリーンに帰還した。ワリードは其の戦利品を贅沢に分配した。分配された者の中にはハドラマウト(現在のイエメン)のキンダ族の族長アル・アシャス・イブン・カイスも含まれていた。此れを受けて、ウマル・イブン・ハッターブはウバイダに対し、公開尋問と、其の結果に関わらずワリードを解任し、キンナスリーンをウバイダの支配下に置く事を命じた。ワリードは、ハッターブからマディーナへ来る様呼び出しを受けたが、出発前にキンナスリーンで別れの演説を行った。
- アンティオキア 西暦634年9月22日、ヨナからアンティオキアへの近道を教えて貰っていたハーリド・イブン・アル・ワリードが、アラブ人の服装を身に纏った騎兵連隊を率い、ジャバル・アンサリヤ山脈(現在のシリアのラタキア県)を越えて、アンティオキア近郊の海上で東ローマ帝国の難民の船団に追い付く。西暦636年8月20日、ハーリド・イブン・アル・ワリードは、騎兵部隊を率いて東ローマ帝国軍を戦場から追い出し、増援を受け取れない様分断して、側面や後方を攻撃してワディ・ウル・ラッカドへ追い込む作戦を計画する。ヘラクレイオスは、東ローマ帝国軍の敗北を知り激怒した。然し、ヘラクレイオスは敗因として姪のマルティナとの結婚を挙げ、アンティオキアの大聖堂に退却し、会議を招集した。西暦637年10月頃、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる機動警備隊が前衛となり、アブー・ウバイダ一行はハリム(現在のシリアのイドリブ県)を経由してアンティオキアへと向かう。マフルバの近くのオロンテス川に架かる鉄橋付近でアンティオキアを守備する東ローマ帝国軍とムスリムが交戦する。此の戦闘でワリードは大きな役割を果たし、東ローマ帝国軍は多数の死傷者を出して大敗し、残存兵はアンティオキアへ逃亡した。其の後ムスリムはアンティオキアを包囲した。10月30日、アンティオキアに駐留する東ローマ帝国軍が降伏する。其の後ムスリムは、地中海沿岸に沿って南下し、ラタキア(現在のシリア)・ジャブラ(現在のシリアのラタキア県)・タルトゥース(現在のシリア)を占領した。
- アル・ジャジーラ地方 西暦638年3月、アル・ジャジーラ地方の東ローマ帝国と親しいキリスト教徒アラブ人が、ホムス(現在のシリア)を包囲する。ハーリド・イブン・アル・ワリードは帰還したばかりであったが、アブー・ウバイダに対して、出撃を先導する為外に出して欲しいと訴えたが、ウバイダは増援が来るまで待機すべきと判断し、其の場に留めた。其の頃ムスリムは、シルセシウム・ヒットの2箇所を逆包囲した。ヒットは、東ローマ帝国軍守備隊が周囲に堀を築いていた為、苦戦したものの包囲に成功し、其の後占領した。シルセシウムは、ハビブ・イブン・マスラマ・アル・フィフリ率いる軍が包囲したが、東ローマ帝国軍は無抵抗で明け渡した。イヤド・イブン・ガンムは、更にワリド・イブン・ウクバをラビーア族・タヌーク族の2部族の要塞征圧の為に派遣し、畳み掛けた。キリスト教徒アラブ人は、ウマル・イブン・ハッターブ率いる援軍の到着と、ガンムのアル・ジャジーラ地方侵攻の2点の情報を掴むと、エメサの包囲を止め、撤退した。然し、カーカ・イブン・アムル指揮下の4,000名の増援を受け、ウバイダから敵を追撃する為に砦から出る許可を与えられていたハーリド・イブン・アル・ワリードの軍により、キリスト教徒アラブ人はアル・ジャジーラ地方への帰還を妨害され、多大な損害を被った。其の後、ハーリド・イブン・アル・ワリードと、ガンムの2名率いる縦隊によってアル・ジャジーラ地方は征圧された。此の縦隊はアララト平原(現在のトルコのウードゥル県・現在のアルメニアのアララト地方)まで北進し、更にトロス山脈(現在のトルコのカラマン県)まで西進した。
ダマスカスから、エルサレムへ──
ムスリム対東ローマ帝国を一元化。
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