電子書籍「ダマスカス包囲戦一元化」の表紙

ダマスカス包囲戦一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦634年4月24日〜634年9月22日
※ヒジュラ暦は全て西暦に変換しています
ページ数
6ページ
文字数
3,941字
最新更新日
西暦2,026年10月8日

マルジュ・ラーヒトから、東門へ──
ダマスカス包囲戦を一元化。

179円(税込)

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本書について

西暦634年4月24日、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる騎兵隊が東ローマ帝国と同盟を結んでいたガッサーン朝とマルジュ・ラーヒト(現在のシリアのダマスカス県)で交戦する。ガッサーン朝はワリードのシリア進出を危険視し、タドモル(現在のシリアのホムス県)から峠を下るルート上に強力な戦士を配置していたが、ワリードの騎兵隊の迅速な突撃により、忽ち散り散りになった。ワリードは多くの戦利品及び捕虜を獲得した後、町を離れ野営地に戻った。本書は、此のハーリド・イブン・アル・ワリード率いる騎兵隊とガッサーン朝のマルジュ・ラーヒトでの交戦から、トーマスが差し向けた東ローマ帝国軍のヤクサでの敗北、トーマス率いる東ローマ帝国軍のマルジュ・アル・サファールでの敗北、ムスリムによるダマスカスの包囲、ヘラクレイオスによる12,000名の救援軍の派遣、司祭ヨナによるダマスカスの祭りの知らせ、ハーリド・イブン・アル・ワリードによる東門の襲撃、トーマスによる砦の明け渡しとジズヤの支払いの申し出、ハーリド・イブン・アル・ワリードによる和平協定への署名を経て、アンティオキア近郊でのハーリド・イブン・アル・ワリードによるトーマスの殺害に至る迄を一元化した記録である。

西暦634年4月25日朝、ハーリド・イブン・アル・ワリードがグータ(現在のシリアのダマスカス県)を急襲する任務を帯びてダマスカスに騎馬隊を派遣する。又、アブー・ウバイダを使者として送り、ボスラで報告する様指示を出した。ワリードは兵を率い、ダマスカスを迂回してボスラ征服へと向かった。途中、ダマスカスで戦利品や捕虜を補充した騎馬隊が、ワリードと合流した。7月30日、ダマスカスに進軍していたハーリド・イブン・アル・ワリードが、ヤルムーク川北岸のティベリアス湖付近のヤクサ(現在のイスラエル)にて、ヘラクレイオスの義理の息子トーマスが、ワリードのダマスカス進軍を遅らせる為に差し向けた東ローマ帝国軍と遭遇する。東ローマ帝国軍は戦える状態ではなかったが、ダマスカスの要塞が強化される迄ワリードの軍を足止めさせる為に戦闘を行い、短時間で敗北した。8月19日、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍が、マルジュ・アル・サファール(現在のシリア)にて、トーマス率いる東ローマ帝国軍を破る。トーマスはワリードのダマスカス進軍の情報を掴み、エメサにいたヘラクレイオスに援軍を求める書簡を書いていた。又、此の戦いで、ウム・ハキーム・ビント・アル・ハターリス・イブン・ヒシャームは、後に「ウム・ハキーム橋」と名付けられる橋の近くでテントポールを使って、単独で7名の東ローマ帝国兵を殺害した。

西暦634年8月20日頃、ヘラクレイオスが、包囲された東ローマ帝国軍の守備隊を救援する為に、ダマスカスへ兵を差し向ける。ハーリド・イブン・アル・ワリードは、ダマスカスを他の地域から孤立させる戦略を練り、パレスチナへ至る道の南と、ダマスカス-エメサ間のルートの北に分遣隊を配置した。更に、ダマスカスへ向かうルートに、他の幾つかの小規模な分遣隊を配置した。此れ等の分遣隊は、偵察と、東ローマ帝国軍への増援を遅延させる事の2点の任務を帯びていた。ムスリムはヘラクレイオスの軍に対し、当初は優勢であったものの、ワリードが援軍を率いウカブ(鷲)峠に到着した際、敗北した。

西暦634年8月21日、ダマスカスを孤立させたハーリド・イブン・アル・ワリードが、ムスリムに対しダマスカスを包囲する様命じる。又、6つの門に指揮官を配置し4,000〜5,000名を率いさせ、東ローマ帝国軍の攻撃を撃退し、激しい攻撃があった場合は支援を求める様指示した。指揮官は、トーマスの門がシュラビル・イブン・ハサナ、ジャビヤ門がアブー・ウバイダ(副司令官)、ファラディの門がアムル・イブン・アル・アース、ケイサン門と小さな門がヤズィード・イブン・アビ・スフィアン、東門がラファイ・ビン・ウマイル(主要部隊)であった。ディラール・ビン・アル・アズワルは、機動警備隊の騎兵2,000名に、夜間に門の間の空き地を巡回し、東ローマ帝国軍に攻撃された軍団を援軍する様命じた。又、ワリードは、東門近くの修道院に本部を置いた。ワリード率いる軍はダマスカスへの物資の流れを止めたが、グータだけはワリード達や騎馬に必要な物資の供給地点として機能した。

西暦634年9月9日、ヘラクレイオスが、ダマスカスが包囲された事を受け、12,000名の救援軍を派遣する。ダマスカス-エメサ間のルートにいたムスリムの偵察兵から、此の東ローマ帝国軍の状況を聞いたハーリド・イブン・アル・ワリードは、ラファイ・ビン・ウマイルに5,000名の兵を率いさせ、ウカブ峠で偵察兵と合流した。然し兵力が不十分であった為、東ローマ帝国軍に包囲された。然し、東ローマ帝国軍がムスリムの分遣隊を破る前に、ワリードは4,000名の縦隊と共に分遣隊に合流し、東ローマ帝国軍を退けた。此の戦いでムスリムは疲弊した為、ワリードは急いでダマスカスへ帰還した。

西暦634年9月18日、シリアの単性論者の司祭ヨナが、夜にダマスカスに祭りが行われる事をハーリド・イブン・アル・ワリードに知らせる。此の機にワリードは、ヨナから教えられた、夜間に比較的防御が薄くなる城壁への奇襲攻撃を計画した。其の城壁の情報はヨナによって齎された。全軍の連携した攻撃計画を立てる時間が無かった為、ワリードは自ら東門を襲撃する事を計画した。ワリードは、カーカ・イブン・アムル・アル・タミミと、マズル・イブン・アディの2名と共に、門の横から手を繋いで壁を登った。登った先には、東ローマ帝国軍の警備兵は配置されていなかった。上部に到着後、ロープを壁に固定し、基地で待機している選任された100名の兵に対しロープを下ろした。ワリードは、ロープを使って城壁を登る事を支援する人間数名を残して城壁を下り、東門の内側で警備兵を殺害した。ワリードとカーカ・イブン・アムル・アル・タミミが勢い良く門を開け、ワリードの残りの部隊がダマスカスに入り、激しい戦闘を続けた。残りの軍勢が他の門から動かないのを見たトーマスは、ワリードの軍勢だけがダマスカスに入ったと予測し、他の指揮官は防御の突破に気付いていないと考えた。トーマスはジャビヤ門に使者を送り、アブー・ウバイダに対し、砦の明け渡しとジズヤの支払いを申し出た。平和的な考えで知られていたウバイダは、ワリードも此の条件を受け入れるだろうと考え、申し出を受け入れた。此のトーマスの申し出は全ての指揮官に共有された。

西暦634年9月19日、アブー・ウバイダが、ジャビヤ門からダマスカスに入る。他の指揮官も此れに続き、其々の門からダマスカスに入った。ウバイダは、トーマスと、高官数名と、ダマスカスの司教を伴ってダマスカス中心部へと向かい、其の後マリアミテ大聖堂に入った。ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍は、東門からダマスカスの中心部へ向かって戦い、抵抗する者を全員殺害した。其の後ワリード達はマリアミテ大聖堂に入った。和平交渉では、ワリードは武力でダマスカスを征服したと主張し、ウバイダはトーマスとの和平合意でダマスカスは降伏したと主張した。他の指揮官も状況について話し合い、ワリードに、和平合意は尊重されるべきだと伝え、ワリードは渋々此れに同意した。和平協定の条件として、誰も奴隷にしない事と、寺院に危害を加えない事と、戦利品として何も奪わない事と、トーマスを含む、ムスリムの支配下で生きる事を望まないダマスカス市民全員に安全な通行を与える事と、和平は3日後に終了し、ムスリムは此の3日後に協定に違反する事無く攻撃する事が出来る事が起草され、ワリードが此れに署名した。

西暦634年9月22日、ヨナからアンティオキアへの近道を教えて貰っていたハーリド・イブン・アル・ワリードが、アラブ人の服装を身に纏った騎兵連隊を率い、ジャバル・アンサリヤ山脈(現在のシリアのラタキア県)を越えて、アンティオキア近郊の海上で東ローマ帝国の難民の船団に追い付く。アラブ人の服装は、ムスリムと悟られない様にする為で、ヨナの提案であった。此の日は激しい豪雨であった。又、ヨナは3日間の停戦期間が過ぎたら東ローマ帝国軍を追撃する様ワリードに提案していた。東ローマ帝国軍は雨を避けて、台地に散り散りになり、錦の束が地面に散らばった。ヨナを含む偵察隊は、東ローマ帝国軍に知られる事無く、軍勢の位置を特定し、ワリードの軍が攻撃するのに十分な情報を取得した。ワリードは、東西南北の4方面からの攻撃を計画した。東がラーフェ・ビン・ウメール率いる1,000名の騎兵連隊、西がワリード率いる1,000名の騎兵連隊、南がディラール・ビン・アル・アズワル率いる1,000名の騎兵連隊、北がアブー・バクルの息子アブドゥルラフマン・イブン・アブー・バクル率いる1,000名の騎兵連隊であった。先ず、アズワルの軍が後方から東ローマ帝国軍を急襲した。其れ迄、東ローマ帝国軍はムスリムの存在に気が付いていなかった。30分後、ウメールの部隊が東から現れ、東ローマ帝国軍の右翼を攻撃した。更に30分以内にアブドゥルラフマン・イブン・アブー・バクルの部隊も西から左翼を攻撃し、最後にワリードの軍が東ローマ帝国軍を包囲した。又、ワリードは決闘によりトーマスを殺害した。東ローマ帝国軍は劣勢となったが、数の上ではムスリムに勝っていた為、数千名の東ローマ帝国兵が、安全な場所へ避難する事が出来た。ムスリムは戦利品として、サテン地に浮き模様を織り出した織物であるブロケードを奪い、多数の捕虜も得た。トーマスの妻且つヘラクレイオスの娘である女性を捕縛した。ヨナは後に婚約者を得ていたが、ダマスカス包囲が始まった為、結婚は延期となっていた。ヨナがイスラム教に改宗した事を知ると其の女性は婚約を破棄し、東ローマ帝国人と共にアンティオキアに移住する事にしたが、ヨナの目の前で、ドレスの襞から短剣を抜き、自殺した。ヨナは瀕死の状態となった婚約者の隣に座り、他の女性には目を向けないと誓った。代わりにワリードが、捕縛したヘラクレイオスの娘を差し出したが、ヨナは辞退した。ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる騎兵隊とガッサーン朝のマルジュ・ラーヒトでの交戦から、トーマスが差し向けた東ローマ帝国軍のヤクサでの敗北、トーマス率いる東ローマ帝国軍のマルジュ・アル・サファールでの敗北、ムスリムによるダマスカスの包囲、ヘラクレイオスによる12,000名の救援軍の派遣、司祭ヨナによるダマスカスの祭りの知らせ、ハーリド・イブン・アル・ワリードによる東門の襲撃、トーマスによる砦の明け渡しとジズヤの支払いの申し出、ハーリド・イブン・アル・ワリードによる和平協定への署名を経て、アンティオキア近郊でのハーリド・イブン・アル・ワリードによるトーマスの殺害に至る迄——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。


登場人物

  • ハーリド・イブン・アル・ワリード 西暦634年4月24日、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる騎兵隊が東ローマ帝国と同盟を結んでいたガッサーン朝とマルジュ・ラーヒトで交戦する。ガッサーン朝はワリードのシリア進出を危険視し、タドモルから峠を下るルート上に強力な戦士を配置していたが、ワリードの騎兵隊の迅速な突撃により、忽ち散り散りになった。ワリードは多くの戦利品及び捕虜を獲得した後、町を離れ野営地に戻った。4月25日朝、ハーリド・イブン・アル・ワリードがグータを急襲する任務を帯びてダマスカスに騎馬隊を派遣する。又、アブー・ウバイダを使者として送り、ボスラで報告する様指示を出した。ワリードは兵を率い、ダマスカスを迂回してボスラ征服へと向かった。7月30日、ダマスカスに進軍していたハーリド・イブン・アル・ワリードが、ヤルムーク川北岸のティベリアス湖付近のヤクサにて、ヘラクレイオスの義理の息子トーマスが、ワリードのダマスカス進軍を遅らせる為に差し向けた東ローマ帝国軍と遭遇する。8月19日、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍が、マルジュ・アル・サファールにて、トーマス率いる東ローマ帝国軍を破る。8月20日頃、ヘラクレイオスが、包囲された東ローマ帝国軍の守備隊を救援する為に、ダマスカスへ兵を差し向ける。ハーリド・イブン・アル・ワリードは、ダマスカスを他の地域から孤立させる戦略を練り、パレスチナへ至る道の南と、ダマスカス-エメサ間のルートの北に分遣隊を配置した。更に、ダマスカスへ向かうルートに、他の幾つかの小規模な分遣隊を配置した。8月21日、ダマスカスを孤立させたハーリド・イブン・アル・ワリードが、ムスリムに対しダマスカスを包囲する様命じる。又、6つの門に指揮官を配置し4,000〜5,000名を率いさせ、東ローマ帝国軍の攻撃を撃退し、激しい攻撃があった場合は支援を求める様指示した。又、ワリードは、東門近くの修道院に本部を置いた。9月9日、ヘラクレイオスが、ダマスカスが包囲された事を受け、12,000名の救援軍を派遣する。ダマスカス-エメサ間のルートにいたムスリムの偵察兵から、此の東ローマ帝国軍の状況を聞いたハーリド・イブン・アル・ワリードは、ラファイ・ビン・ウマイルに5,000名の兵を率いさせ、ウカブ峠で偵察兵と合流した。然し兵力が不十分であった為、ムスリムの分遣隊は東ローマ帝国軍に包囲された。然し、東ローマ帝国軍がムスリムの分遣隊を破る前に、ワリードは4,000名の縦隊と共に分遣隊に合流し、東ローマ帝国軍を退けた。此の戦いでムスリムは疲弊した為、ワリードは急いでダマスカスへ帰還した。9月18日、シリアの単性論者の司祭ヨナが、夜にダマスカスに祭りが行われる事をハーリド・イブン・アル・ワリードに知らせる。此の機にワリードは、ヨナから教えられた、夜間に比較的防御が薄くなる城壁への奇襲攻撃を計画した。全軍の連携した攻撃計画を立てる時間が無かった為、ワリードは自ら東門を襲撃する事を計画した。ワリードは、カーカ・イブン・アムル・アル・タミミと、マズル・イブン・アディの2名と共に、門の横から手を繋いで壁を登った。上部に到着後、ロープを壁に固定し、基地で待機している選任された100名の兵に対しロープを下ろした。ワリードは、ロープを使って城壁を登る事を支援する人間数名を残して城壁を下り、東門の内側で警備兵を殺害した。ワリードとカーカ・イブン・アムル・アル・タミミが勢い良く門を開け、ワリードの残りの部隊がダマスカスに入り、激しい戦闘を続けた。9月19日、アブー・ウバイダが、ジャビヤ門からダマスカスに入る。ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍は、東門からダマスカスの中心部へ向かって戦い、抵抗する者を全員殺害した。其の後ワリード達はマリアミテ大聖堂に入った。和平交渉では、ワリードは武力でダマスカスを征服したと主張し、ウバイダはトーマスとの和平合意でダマスカスは降伏したと主張した。他の指揮官も状況について話し合い、ワリードに、和平合意は尊重されるべきだと伝え、ワリードは渋々此れに同意した。和平協定の条件として、誰も奴隷にしない事と、寺院に危害を加えない事と、戦利品として何も奪わない事と、トーマスを含む、ムスリムの支配下で生きる事を望まないダマスカス市民全員に安全な通行を与える事と、和平は3日後に終了し、ムスリムは此の3日後に協定に違反する事無く攻撃する事が出来る事が起草され、ワリードが此れに署名した。9月22日、ヨナからアンティオキアへの近道を教えて貰っていたハーリド・イブン・アル・ワリードが、アラブ人の服装を身に纏った騎兵連隊を率い、ジャバル・アンサリヤ山脈を越えて、アンティオキア近郊の海上で東ローマ帝国の難民の船団に追い付く。ワリードは、東西南北の4方面からの攻撃を計画した。東がラーフェ・ビン・ウメール率いる1,000名の騎兵連隊、西がワリード率いる1,000名の騎兵連隊、南がディラール・ビン・アル・アズワル率いる1,000名の騎兵連隊、北がアブー・バクルの息子アブドゥルラフマン・イブン・アブー・バクル率いる1,000名の騎兵連隊であった。ワリードは決闘によりトーマスを殺害した。
  • トーマス 西暦634年7月30日、ダマスカスに進軍していたハーリド・イブン・アル・ワリードが、ヤルムーク川北岸のティベリアス湖付近のヤクサにて、ヘラクレイオスの義理の息子トーマスが、ワリードのダマスカス進軍を遅らせる為に差し向けた東ローマ帝国軍と遭遇する。8月19日、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍が、マルジュ・アル・サファールにて、トーマス率いる東ローマ帝国軍を破る。トーマスはワリードのダマスカス進軍の情報を掴み、エメサにいたヘラクレイオスに援軍を求める書簡を書いていた。9月18日、シリアの単性論者の司祭ヨナが、夜にダマスカスに祭りが行われる事をハーリド・イブン・アル・ワリードに知らせる。全軍の連携した攻撃計画を立てる時間が無かった為、ワリードは自ら東門を襲撃する事を計画した。ワリードとカーカ・イブン・アムル・アル・タミミが勢い良く門を開け、ワリードの残りの部隊がダマスカスに入り、激しい戦闘を続けた。残りの軍勢が他の門から動かないのを見たトーマスは、ワリードの軍勢だけがダマスカスに入ったと予測し、他の指揮官は防御の突破に気付いていないと考えた。トーマスはジャビヤ門に使者を送り、アブー・ウバイダに対し、砦の明け渡しとジズヤの支払いを申し出た。平和的な考えで知られていたウバイダは、ワリードも此の条件を受け入れるだろうと考え、申し出を受け入れた。此のトーマスの申し出は全ての指揮官に共有された。9月19日、アブー・ウバイダが、ジャビヤ門からダマスカスに入る。ウバイダは、トーマスと、高官数名と、ダマスカスの司教を伴ってダマスカス中心部へと向かい、其の後マリアミテ大聖堂に入った。和平交渉では、ワリードは武力でダマスカスを征服したと主張し、ウバイダはトーマスとの和平合意でダマスカスは降伏したと主張した。和平協定の条件として、誰も奴隷にしない事と、寺院に危害を加えない事と、戦利品として何も奪わない事と、トーマスを含む、ムスリムの支配下で生きる事を望まないダマスカス市民全員に安全な通行を与える事と、和平は3日後に終了し、ムスリムは此の3日後に協定に違反する事無く攻撃する事が出来る事が起草され、ワリードが此れに署名した。9月22日、ヨナからアンティオキアへの近道を教えて貰っていたハーリド・イブン・アル・ワリードが、アラブ人の服装を身に纏った騎兵連隊を率い、ジャバル・アンサリヤ山脈を越えて、アンティオキア近郊の海上で東ローマ帝国の難民の船団に追い付く。ワリードは決闘によりトーマスを殺害した。ムスリムは戦利品として、サテン地に浮き模様を織り出した織物であるブロケードを奪い、多数の捕虜も得た。トーマスの妻且つヘラクレイオスの娘である女性を捕縛した。
  • ヘラクレイオス 西暦634年7月30日、ダマスカスに進軍していたハーリド・イブン・アル・ワリードが、ヤルムーク川北岸のティベリアス湖付近のヤクサにて、ヘラクレイオスの義理の息子トーマスが、ワリードのダマスカス進軍を遅らせる為に差し向けた東ローマ帝国軍と遭遇する。8月19日、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍が、マルジュ・アル・サファールにて、トーマス率いる東ローマ帝国軍を破る。トーマスはワリードのダマスカス進軍の情報を掴み、エメサにいたヘラクレイオスに援軍を求める書簡を書いていた。8月20日頃、ヘラクレイオスが、包囲された東ローマ帝国軍の守備隊を救援する為に、ダマスカスへ兵を差し向ける。ムスリムはヘラクレイオスの軍に対し、当初は優勢であったものの、ワリードが援軍を率いウカブ(鷲)峠に到着した際、敗北した。9月9日、ヘラクレイオスが、ダマスカスが包囲された事を受け、12,000名の救援軍を派遣する。ダマスカス-エメサ間のルートにいたムスリムの偵察兵から、此の東ローマ帝国軍の状況を聞いたハーリド・イブン・アル・ワリードは、ラファイ・ビン・ウマイルに5,000名の兵を率いさせ、ウカブ峠で偵察兵と合流した。然し兵力が不十分であった為、ムスリムの分遣隊は東ローマ帝国軍に包囲された。然し、東ローマ帝国軍がムスリムの分遣隊を破る前に、ワリードは4,000名の縦隊と共に分遣隊に合流し、東ローマ帝国軍を退けた。9月22日、ヨナからアンティオキアへの近道を教えて貰っていたハーリド・イブン・アル・ワリードが、アラブ人の服装を身に纏った騎兵連隊を率い、ジャバル・アンサリヤ山脈を越えて、アンティオキア近郊の海上で東ローマ帝国の難民の船団に追い付く。ムスリムは戦利品として、サテン地に浮き模様を織り出した織物であるブロケードを奪い、多数の捕虜も得た。トーマスの妻且つヘラクレイオスの娘である女性を捕縛した。
  • アブー・ウバイダ 西暦634年4月25日朝、ハーリド・イブン・アル・ワリードがグータを急襲する任務を帯びてダマスカスに騎馬隊を派遣する。又、アブー・ウバイダを使者として送り、ボスラで報告する様指示を出した。8月21日、ダマスカスを孤立させたハーリド・イブン・アル・ワリードが、ムスリムに対しダマスカスを包囲する様命じる。又、ワリードは、6つの門に指揮官を配置し4,000〜5,000名を率いさせ、東ローマ帝国軍の攻撃を撃退し、激しい攻撃があった場合は支援を求める様指示した。指揮官は、トーマスの門がシュラビル・イブン・ハサナ、ジャビヤ門がアブー・ウバイダ(副司令官)、ファラディの門がアムル・イブン・アル・アース、ケイサン門と小さな門がヤズィード・イブン・アビ・スフィアン、東門がラファイ・ビン・ウマイル(主要部隊)であった。9月18日、シリアの単性論者の司祭ヨナが、夜にダマスカスに祭りが行われる事をハーリド・イブン・アル・ワリードに知らせる。全軍の連携した攻撃計画を立てる時間が無かった為、ワリードは自ら東門を襲撃する事を計画した。ワリードとカーカ・イブン・アムル・アル・タミミが勢い良く門を開け、ワリードの残りの部隊がダマスカスに入り、激しい戦闘を続けた。残りの軍勢が他の門から動かないのを見たトーマスは、ワリードの軍勢だけがダマスカスに入ったと予測し、他の指揮官は防御の突破に気付いていないと考えた。トーマスはジャビヤ門に使者を送り、アブー・ウバイダに対し、砦の明け渡しとジズヤの支払いを申し出た。平和的な考えで知られていたウバイダは、ワリードも此の条件を受け入れるだろうと考え、申し出を受け入れた。此のトーマスの申し出は全ての指揮官に共有された。9月19日、アブー・ウバイダが、ジャビヤ門からダマスカスに入る。他の指揮官も此れに続き、其々の門からダマスカスに入った。ウバイダは、トーマスと、高官数名と、ダマスカスの司教を伴ってダマスカス中心部へと向かい、其の後マリアミテ大聖堂に入った。和平交渉では、ワリードは武力でダマスカスを征服したと主張し、ウバイダはトーマスとの和平合意でダマスカスは降伏したと主張した。他の指揮官も状況について話し合い、ワリードに、和平合意は尊重されるべきだと伝え、ワリードは渋々此れに同意した。
  • ヨナ 西暦634年9月18日、シリアの単性論者の司祭ヨナが、夜にダマスカスに祭りが行われる事をハーリド・イブン・アル・ワリードに知らせる。此の機にワリードは、ヨナから教えられた、夜間に比較的防御が薄くなる城壁への奇襲攻撃を計画した。其の城壁の情報はヨナによって齎された。9月22日、ヨナからアンティオキアへの近道を教えて貰っていたハーリド・イブン・アル・ワリードが、アラブ人の服装を身に纏った騎兵連隊を率い、ジャバル・アンサリヤ山脈を越えて、アンティオキア近郊の海上で東ローマ帝国の難民の船団に追い付く。アラブ人の服装は、ムスリムと悟られない様にする為で、ヨナの提案であった。又、ヨナは3日間の停戦期間が過ぎたら東ローマ帝国軍を追撃する様ワリードに提案していた。ヨナを含む偵察隊は、東ローマ帝国軍に知られる事無く、軍勢の位置を特定し、ワリードの軍が攻撃するのに十分な情報を取得した。ヨナは後に婚約者を得ていたが、ダマスカス包囲が始まった為、結婚は延期となっていた。ヨナがイスラム教に改宗した事を知ると其の女性は婚約を破棄し、東ローマ帝国人と共にアンティオキアに移住する事にしたが、ヨナの目の前で、ドレスの襞から短剣を抜き、自殺した。ヨナは瀕死の状態となった婚約者の隣に座り、他の女性には目を向けないと誓った。代わりにワリードが、捕縛したヘラクレイオスの娘を差し出したが、ヨナは辞退した。
  • ディラール・ビン・アル・アズワル 西暦634年8月21日、ダマスカスを孤立させたハーリド・イブン・アル・ワリードが、ムスリムに対しダマスカスを包囲する様命じる。ディラール・ビン・アル・アズワルは、機動警備隊の騎兵2,000名に、夜間に門の間の空き地を巡回し、東ローマ帝国軍に攻撃された軍団を援軍する様命じた。9月22日、ヨナからアンティオキアへの近道を教えて貰っていたハーリド・イブン・アル・ワリードが、アラブ人の服装を身に纏った騎兵連隊を率い、ジャバル・アンサリヤ山脈を越えて、アンティオキア近郊の海上で東ローマ帝国の難民の船団に追い付く。ワリードは、東西南北の4方面からの攻撃を計画した。東がラーフェ・ビン・ウメール率いる1,000名の騎兵連隊、西がワリード率いる1,000名の騎兵連隊、南がディラール・ビン・アル・アズワル率いる1,000名の騎兵連隊、北がアブー・バクルの息子アブドゥルラフマン・イブン・アブー・バクル率いる1,000名の騎兵連隊であった。先ず、アズワルの軍が後方から東ローマ帝国軍を急襲した。其れ迄、東ローマ帝国軍はムスリムの存在に気が付いていなかった。
  • ラファイ・ビン・ウマイル 西暦634年8月21日、ダマスカスを孤立させたハーリド・イブン・アル・ワリードが、ムスリムに対しダマスカスを包囲する様命じる。又、ワリードは、6つの門に指揮官を配置し4,000〜5,000名を率いさせ、東ローマ帝国軍の攻撃を撃退し、激しい攻撃があった場合は支援を求める様指示した。指揮官は、トーマスの門がシュラビル・イブン・ハサナ、ジャビヤ門がアブー・ウバイダ(副司令官)、ファラディの門がアムル・イブン・アル・アース、ケイサン門と小さな門がヤズィード・イブン・アビ・スフィアン、東門がラファイ・ビン・ウマイル(主要部隊)であった。9月9日、ヘラクレイオスが、ダマスカスが包囲された事を受け、12,000名の救援軍を派遣する。ダマスカス-エメサ間のルートにいたムスリムの偵察兵から、此の東ローマ帝国軍の状況を聞いたハーリド・イブン・アル・ワリードは、ラファイ・ビン・ウマイルに5,000名の兵を率いさせ、ウカブ峠で偵察兵と合流した。然し兵力が不十分であった為、ムスリムの分遣隊は東ローマ帝国軍に包囲された。然し、東ローマ帝国軍がムスリムの分遣隊を破る前に、ワリードは4,000名の縦隊と共に分遣隊に合流し、東ローマ帝国軍を退けた。
  • ラーフェ・ビン・ウメール 西暦634年9月22日、ヨナからアンティオキアへの近道を教えて貰っていたハーリド・イブン・アル・ワリードが、アラブ人の服装を身に纏った騎兵連隊を率い、ジャバル・アンサリヤ山脈を越えて、アンティオキア近郊の海上で東ローマ帝国の難民の船団に追い付く。ワリードは、東西南北の4方面からの攻撃を計画した。東がラーフェ・ビン・ウメール率いる1,000名の騎兵連隊、西がワリード率いる1,000名の騎兵連隊、南がディラール・ビン・アル・アズワル率いる1,000名の騎兵連隊、北がアブー・バクルの息子アブドゥルラフマン・イブン・アブー・バクル率いる1,000名の騎兵連隊であった。先ず、アズワルの軍が後方から東ローマ帝国軍を急襲した。其れ迄、東ローマ帝国軍はムスリムの存在に気が付いていなかった。30分後、ウメールの部隊が東から現れ、東ローマ帝国軍の右翼を攻撃した。
  • シュラビル・イブン・ハサナ 西暦634年8月21日、ダマスカスを孤立させたハーリド・イブン・アル・ワリードが、ムスリムに対しダマスカスを包囲する様命じる。又、ワリードは、6つの門に指揮官を配置し4,000〜5,000名を率いさせ、東ローマ帝国軍の攻撃を撃退し、激しい攻撃があった場合は支援を求める様指示した。指揮官は、トーマスの門がシュラビル・イブン・ハサナ、ジャビヤ門がアブー・ウバイダ(副司令官)、ファラディの門がアムル・イブン・アル・アース、ケイサン門と小さな門がヤズィード・イブン・アビ・スフィアン、東門がラファイ・ビン・ウマイル(主要部隊)であった。
  • アムル・イブン・アル・アース 西暦634年8月21日、ダマスカスを孤立させたハーリド・イブン・アル・ワリードが、ムスリムに対しダマスカスを包囲する様命じる。又、ワリードは、6つの門に指揮官を配置し4,000〜5,000名を率いさせ、東ローマ帝国軍の攻撃を撃退し、激しい攻撃があった場合は支援を求める様指示した。指揮官は、トーマスの門がシュラビル・イブン・ハサナ、ジャビヤ門がアブー・ウバイダ(副司令官)、ファラディの門がアムル・イブン・アル・アース、ケイサン門と小さな門がヤズィード・イブン・アビ・スフィアン、東門がラファイ・ビン・ウマイル(主要部隊)であった。
  • ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン 西暦634年8月21日、ダマスカスを孤立させたハーリド・イブン・アル・ワリードが、ムスリムに対しダマスカスを包囲する様命じる。又、ワリードは、6つの門に指揮官を配置し4,000〜5,000名を率いさせ、東ローマ帝国軍の攻撃を撃退し、激しい攻撃があった場合は支援を求める様指示した。指揮官は、トーマスの門がシュラビル・イブン・ハサナ、ジャビヤ門がアブー・ウバイダ(副司令官)、ファラディの門がアムル・イブン・アル・アース、ケイサン門と小さな門がヤズィード・イブン・アビ・スフィアン、東門がラファイ・ビン・ウマイル(主要部隊)であった。
  • カーカ・イブン・アムル・アル・タミミ 西暦634年9月18日、シリアの単性論者の司祭ヨナが、夜にダマスカスに祭りが行われる事をハーリド・イブン・アル・ワリードに知らせる。全軍の連携した攻撃計画を立てる時間が無かった為、ワリードは自ら東門を襲撃する事を計画した。ワリードは、カーカ・イブン・アムル・アル・タミミと、マズル・イブン・アディの2名と共に、門の横から手を繋いで壁を登った。登った先には、東ローマ帝国軍の警備兵は配置されていなかった。上部に到着後、ロープを壁に固定し、基地で待機している選任された100名の兵に対しロープを下ろした。ワリードは、ロープを使って城壁を登る事を支援する人間数名を残して城壁を下り、東門の内側で警備兵を殺害した。ワリードとカーカ・イブン・アムル・アル・タミミが勢い良く門を開け、ワリードの残りの部隊がダマスカスに入り、激しい戦闘を続けた。
  • マズル・イブン・アディ 西暦634年9月18日、シリアの単性論者の司祭ヨナが、夜にダマスカスに祭りが行われる事をハーリド・イブン・アル・ワリードに知らせる。全軍の連携した攻撃計画を立てる時間が無かった為、ワリードは自ら東門を襲撃する事を計画した。ワリードは、カーカ・イブン・アムル・アル・タミミと、マズル・イブン・アディの2名と共に、門の横から手を繋いで壁を登った。登った先には、東ローマ帝国軍の警備兵は配置されていなかった。上部に到着後、ロープを壁に固定し、基地で待機している選任された100名の兵に対しロープを下ろした。
  • ウム・ハキーム・ビント・アル・ハターリス・イブン・ヒシャーム 西暦634年8月19日、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍が、マルジュ・アル・サファールにて、トーマス率いる東ローマ帝国軍を破る。又、此の戦いで、ウム・ハキーム・ビント・アル・ハターリス・イブン・ヒシャームは、後に「ウム・ハキーム橋」と名付けられる橋の近くでテントポールを使って、単独で7名の東ローマ帝国兵を殺害した。
  • アブドゥルラフマン・イブン・アブー・バクル 西暦634年9月22日、ヨナからアンティオキアへの近道を教えて貰っていたハーリド・イブン・アル・ワリードが、アラブ人の服装を身に纏った騎兵連隊を率い、ジャバル・アンサリヤ山脈を越えて、アンティオキア近郊の海上で東ローマ帝国の難民の船団に追い付く。ワリードは、東西南北の4方面からの攻撃を計画した。東がラーフェ・ビン・ウメール率いる1,000名の騎兵連隊、西がワリード率いる1,000名の騎兵連隊、南がディラール・ビン・アル・アズワル率いる1,000名の騎兵連隊、北がアブー・バクルの息子アブドゥルラフマン・イブン・アブー・バクル率いる1,000名の騎兵連隊であった。先ず、アズワルの軍が後方から東ローマ帝国軍を急襲した。其れ迄、東ローマ帝国軍はムスリムの存在に気が付いていなかった。30分後、ウメールの部隊が東から現れ、東ローマ帝国軍の右翼を攻撃した。更に30分以内にアブドゥルラフマン・イブン・アブー・バクルの部隊も西から左翼を攻撃し、最後にワリードの軍が東ローマ帝国軍を包囲した。

主要な地名・拠点

  • ダマスカス 西暦634年4月25日朝、ハーリド・イブン・アル・ワリードがグータ(現在のシリアのダマスカス県)を急襲する任務を帯びてダマスカスに騎馬隊を派遣する。ワリードは兵を率い、ダマスカスを迂回してボスラ征服へと向かった。7月30日、ダマスカスに進軍していたハーリド・イブン・アル・ワリードが、ヤルムーク川北岸のティベリアス湖付近のヤクサ(現在のイスラエル)にて、ヘラクレイオスの義理の息子トーマスが、ワリードのダマスカス進軍を遅らせる為に差し向けた東ローマ帝国軍と遭遇する。東ローマ帝国軍は戦える状態ではなかったが、ダマスカスの要塞が強化される迄ワリードの軍を足止めさせる為に戦闘を行い、短時間で敗北した。8月20日頃、ヘラクレイオスが、包囲された東ローマ帝国軍の守備隊を救援する為に、ダマスカスへ兵を差し向ける。ハーリド・イブン・アル・ワリードは、ダマスカスを他の地域から孤立させる戦略を練り、パレスチナへ至る道の南と、ダマスカス-エメサ間のルートの北に分遣隊を配置した。8月21日、ダマスカスを孤立させたハーリド・イブン・アル・ワリードが、ムスリムに対しダマスカスを包囲する様命じる。又、6つの門に指揮官を配置し4,000〜5,000名を率いさせ、東ローマ帝国軍の攻撃を撃退し、激しい攻撃があった場合は支援を求める様指示した。ワリード率いる軍はダマスカスへの物資の流れを止めたが、グータだけはワリード達や騎馬に必要な物資の供給地点として機能した。9月9日、ヘラクレイオスが、ダマスカスが包囲された事を受け、12,000名の救援軍を派遣する。9月18日、シリアの単性論者の司祭ヨナが、夜にダマスカスに祭りが行われる事をハーリド・イブン・アル・ワリードに知らせる。全軍の連携した攻撃計画を立てる時間が無かった為、ワリードは自ら東門を襲撃する事を計画した。ワリードとカーカ・イブン・アムル・アル・タミミが勢い良く門を開け、ワリードの残りの部隊がダマスカスに入り、激しい戦闘を続けた。9月19日、アブー・ウバイダが、ジャビヤ門からダマスカスに入る。他の指揮官も此れに続き、其々の門からダマスカスに入った。ウバイダは、トーマスと、高官数名と、ダマスカスの司教を伴ってダマスカス中心部へと向かい、其の後マリアミテ大聖堂に入った。和平交渉では、ワリードは武力でダマスカスを征服したと主張し、ウバイダはトーマスとの和平合意でダマスカスは降伏したと主張した。他の指揮官も状況について話し合い、ワリードに、和平合意は尊重されるべきだと伝え、ワリードは渋々此れに同意した。和平協定の条件として、誰も奴隷にしない事と、寺院に危害を加えない事と、戦利品として何も奪わない事と、トーマスを含む、ムスリムの支配下で生きる事を望まないダマスカス市民全員に安全な通行を与える事と、和平は3日後に終了し、ムスリムは此の3日後に協定に違反する事無く攻撃する事が出来る事が起草され、ワリードが此れに署名した。
  • ダマスカスの6つの門 西暦634年8月21日、ダマスカスを孤立させたハーリド・イブン・アル・ワリードが、ムスリムに対しダマスカスを包囲する様命じる。又、6つの門に指揮官を配置し4,000〜5,000名を率いさせ、東ローマ帝国軍の攻撃を撃退し、激しい攻撃があった場合は支援を求める様指示した。指揮官は、トーマスの門がシュラビル・イブン・ハサナ、ジャビヤ門がアブー・ウバイダ(副司令官)、ファラディの門がアムル・イブン・アル・アース、ケイサン門と小さな門がヤズィード・イブン・アビ・スフィアン、東門がラファイ・ビン・ウマイル(主要部隊)であった。ディラール・ビン・アル・アズワルは、機動警備隊の騎兵2,000名に、夜間に門の間の空き地を巡回し、東ローマ帝国軍に攻撃された軍団を援軍する様命じた。又、ワリードは、東門近くの修道院に本部を置いた。9月18日、シリアの単性論者の司祭ヨナが、夜にダマスカスに祭りが行われる事をハーリド・イブン・アル・ワリードに知らせる。全軍の連携した攻撃計画を立てる時間が無かった為、ワリードは自ら東門を襲撃する事を計画した。ワリードは、カーカ・イブン・アムル・アル・タミミと、マズル・イブン・アディの2名と共に、門の横から手を繋いで壁を登った。登った先には、東ローマ帝国軍の警備兵は配置されていなかった。上部に到着後、ロープを壁に固定し、基地で待機している選任された100名の兵に対しロープを下ろした。ワリードは、ロープを使って城壁を登る事を支援する人間数名を残して城壁を下り、東門の内側で警備兵を殺害した。ワリードとカーカ・イブン・アムル・アル・タミミが勢い良く門を開け、ワリードの残りの部隊がダマスカスに入り、激しい戦闘を続けた。残りの軍勢が他の門から動かないのを見たトーマスは、ワリードの軍勢だけがダマスカスに入ったと予測し、他の指揮官は防御の突破に気付いていないと考えた。トーマスはジャビヤ門に使者を送り、アブー・ウバイダに対し、砦の明け渡しとジズヤの支払いを申し出た。9月19日、アブー・ウバイダが、ジャビヤ門からダマスカスに入る。他の指揮官も此れに続き、其々の門からダマスカスに入った。ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍は、東門からダマスカスの中心部へ向かって戦い、抵抗する者を全員殺害した。
  • マルジュ・ラーヒト 西暦634年4月24日、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる騎兵隊が東ローマ帝国と同盟を結んでいたガッサーン朝とマルジュ・ラーヒト(現在のシリアのダマスカス県)で交戦する。ガッサーン朝はワリードのシリア進出を危険視し、タドモル(現在のシリアのホムス県)から峠を下るルート上に強力な戦士を配置していたが、ワリードの騎兵隊の迅速な突撃により、忽ち散り散りになった。ワリードは多くの戦利品及び捕虜を獲得した後、町を離れ野営地に戻った。
  • タドモル 西暦634年4月24日、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる騎兵隊が東ローマ帝国と同盟を結んでいたガッサーン朝とマルジュ・ラーヒト(現在のシリアのダマスカス県)で交戦する。ガッサーン朝はワリードのシリア進出を危険視し、タドモル(現在のシリアのホムス県)から峠を下るルート上に強力な戦士を配置していたが、ワリードの騎兵隊の迅速な突撃により、忽ち散り散りになった。
  • グータ 西暦634年4月25日朝、ハーリド・イブン・アル・ワリードがグータ(現在のシリアのダマスカス県)を急襲する任務を帯びてダマスカスに騎馬隊を派遣する。ワリードは兵を率い、ダマスカスを迂回してボスラ征服へと向かった。途中、ダマスカスで戦利品や捕虜を補充した騎馬隊が、ワリードと合流した。8月21日、ダマスカスを孤立させたハーリド・イブン・アル・ワリードが、ムスリムに対しダマスカスを包囲する様命じる。ワリード率いる軍はダマスカスへの物資の流れを止めたが、グータだけはワリード達や騎馬に必要な物資の供給地点として機能した。
  • ボスラ 西暦634年4月25日朝、ハーリド・イブン・アル・ワリードがグータ(現在のシリアのダマスカス県)を急襲する任務を帯びてダマスカスに騎馬隊を派遣する。又、アブー・ウバイダを使者として送り、ボスラで報告する様指示を出した。ワリードは兵を率い、ダマスカスを迂回してボスラ征服へと向かった。
  • ヤクサ 西暦634年7月30日、ダマスカスに進軍していたハーリド・イブン・アル・ワリードが、ヤルムーク川北岸のティベリアス湖付近のヤクサ(現在のイスラエル)にて、ヘラクレイオスの義理の息子トーマスが、ワリードのダマスカス進軍を遅らせる為に差し向けた東ローマ帝国軍と遭遇する。東ローマ帝国軍は戦える状態ではなかったが、ダマスカスの要塞が強化される迄ワリードの軍を足止めさせる為に戦闘を行い、短時間で敗北した。
  • マルジュ・アル・サファール 西暦634年8月19日、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍が、マルジュ・アル・サファール(現在のシリア)にて、トーマス率いる東ローマ帝国軍を破る。トーマスはワリードのダマスカス進軍の情報を掴み、エメサにいたヘラクレイオスに援軍を求める書簡を書いていた。又、此の戦いで、ウム・ハキーム・ビント・アル・ハターリス・イブン・ヒシャームは、後に「ウム・ハキーム橋」と名付けられる橋の近くでテントポールを使って、単独で7名の東ローマ帝国兵を殺害した。
  • エメサ 西暦634年8月19日、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍が、マルジュ・アル・サファール(現在のシリア)にて、トーマス率いる東ローマ帝国軍を破る。トーマスはワリードのダマスカス進軍の情報を掴み、エメサにいたヘラクレイオスに援軍を求める書簡を書いていた。8月20日頃、ヘラクレイオスが、包囲された東ローマ帝国軍の守備隊を救援する為に、ダマスカスへ兵を差し向ける。ハーリド・イブン・アル・ワリードは、ダマスカスを他の地域から孤立させる戦略を練り、パレスチナへ至る道の南と、ダマスカス-エメサ間のルートの北に分遣隊を配置した。9月9日、ヘラクレイオスが、ダマスカスが包囲された事を受け、12,000名の救援軍を派遣する。ダマスカス-エメサ間のルートにいたムスリムの偵察兵から、此の東ローマ帝国軍の状況を聞いたハーリド・イブン・アル・ワリードは、ラファイ・ビン・ウマイルに5,000名の兵を率いさせ、ウカブ峠で偵察兵と合流した。
  • ウカブ(鷲)峠 西暦634年8月20日頃、ヘラクレイオスが、包囲された東ローマ帝国軍の守備隊を救援する為に、ダマスカスへ兵を差し向ける。ムスリムはヘラクレイオスの軍に対し、当初は優勢であったものの、ハーリド・イブン・アル・ワリードが援軍を率いウカブ(鷲)峠に到着した際、敗北した。9月9日、ヘラクレイオスが、ダマスカスが包囲された事を受け、12,000名の救援軍を派遣する。ダマスカス-エメサ間のルートにいたムスリムの偵察兵から、此の東ローマ帝国軍の状況を聞いたハーリド・イブン・アル・ワリードは、ラファイ・ビン・ウマイルに5,000名の兵を率いさせ、ウカブ峠で偵察兵と合流した。然し兵力が不十分であった為、ムスリムの分遣隊は東ローマ帝国軍に包囲された。然し、東ローマ帝国軍がムスリムの分遣隊を破る前に、ワリードは4,000名の縦隊と共に分遣隊に合流し、東ローマ帝国軍を退けた。
  • マリアミテ大聖堂 西暦634年9月19日、アブー・ウバイダが、ジャビヤ門からダマスカスに入る。ウバイダは、トーマスと、高官数名と、ダマスカスの司教を伴ってダマスカス中心部へと向かい、其の後マリアミテ大聖堂に入った。ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる軍は、東門からダマスカスの中心部へ向かって戦い、抵抗する者を全員殺害した。其の後ワリード達はマリアミテ大聖堂に入った。和平交渉では、ワリードは武力でダマスカスを征服したと主張し、ウバイダはトーマスとの和平合意でダマスカスは降伏したと主張した。
  • ジャバル・アンサリヤ山脈 西暦634年9月22日、ヨナからアンティオキアへの近道を教えて貰っていたハーリド・イブン・アル・ワリードが、アラブ人の服装を身に纏った騎兵連隊を率い、ジャバル・アンサリヤ山脈(現在のシリアのラタキア県)を越えて、アンティオキア近郊の海上で東ローマ帝国の難民の船団に追い付く。

ダマスカス包囲からトーマスの死へ──
ムスリム対東ローマ帝国を一元化。

179円(税込)

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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