ダマスカス包囲戦一元化
西暦634年、ダマスカスの城壁に手が掛かった──
マルジュ・ラーヒトからトーマス追撃までの五ヶ月を一元化。
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本書について
西暦634年4月24日、ハーリド・イブン・アル・ワリード率いる騎兵隊は、東ローマ帝国と同盟を結んでいたガッサーン朝と、マルジュ・ラーヒト(現在のシリアのダマスカス県)で刃を交えた。ガッサーン朝はワリードのシリア進出を危険視し、タドモル(現在のシリアのホムス県)から峠を下るルート上に強力な戦士を配置していたが、騎兵隊の迅速な突撃の前に忽ち散り散りになる。ワリードは多くの戦利品と捕虜を得て野営地へ戻り、翌25日の朝には、グータ(現在のシリアのダマスカス県)を急襲する任務を帯びた騎馬隊をダマスカスへ送り、自らはダマスカスを迂回してボスラ征服へと向かった。此の一戦を起点として、都が陥ち、城を出たトーマスが討たれる迄の五ヶ月を、本書は年月日単位で一元化している。
7月30日、ダマスカスへ進軍するワリードは、ヤルムーク川北岸のティベリアス湖付近のヤクサ(現在のイスラエル)で東ローマ帝国軍と遭遇する。差し向けたのは、ヘラクレイオスの義理の息子トーマスであった。其の軍は戦える状態ではなかったが、ダマスカスの要塞が強化される迄ワリードを足止めする為だけに戦い、短時間で敗れた。時間を買う為の戦闘である。8月19日には、マルジュ・アル・サファール(現在のシリア)でトーマス自身が率いる軍が破られた。トーマスはワリードの進軍を掴み、エメサにいたヘラクレイオスへ援軍を求める書簡を書いていた。此の戦いでは、ウム・ハキーム・ビント・アル・ハターリス・イブン・ヒシャームが、後に「ウム・ハキーム橋」と名付けられる橋の近くで、テントポールを使い単独で7名の東ローマ帝国兵を殺害している。
8月20日頃、ヘラクレイオスは包囲された守備隊を救援する為、ダマスカスへ兵を差し向ける。ワリードが採ったのは、ダマスカスを他の地域から孤立させる戦略であった。パレスチナへ至る道の南、ダマスカス-エメサ間のルートの北、更にダマスカスへ向かう幾つかのルートに、小規模な分遣隊が配された。其の任務は、偵察と、東ローマ帝国軍への増援を遅延させる事の二つである。ヘラクレイオスの軍との戦いは、ワリードが援軍を率いてウカブ(鷲)峠に到着した時に決した。
8月21日、孤立させたダマスカスに、ワリードは包囲を命じる。トーマスの門にシュラビル・イブン・ハサナ、ジャビヤ門に副司令官アブー・ウバイダ、ファラディの門にアムル・イブン・アル・アース、ケイサン門と小さな門にヤズィード・イブン・アビ・スフィアン、東門に主要部隊のラファイ・ビン・ウマイル——6つの門に指揮官を置き、各々4,000〜5,000名を率いさせて、攻撃を撃退し、激しい攻撃を受けた場合は支援を求める様に指示した。ディラール・ビン・アル・アズワルの機動警備隊は騎兵2,000名で夜間に門の間の空き地を巡回し、攻められた軍団を援ける。ワリード自身は東門近くの修道院に本部を置いた。都への物資の流れは断たれたが、グータだけは、ワリード達と騎馬に必要な物資の供給地点として機能し続けた。9月9日にはヘラクレイオスが12,000名の救援軍を派遣し、ラファイ・ビン・ウマイルが5,000名を率いてウカブ峠で偵察兵と合流したものの、兵力が足りず包囲される。分遣隊が破られる前にワリードが4,000名の縦隊と共に合流して東ローマ帝国軍を退け、疲弊したムスリムは急ぎダマスカスへ帰還した。
9月18日、シリアの単性論者の司祭ヨナが、夜にダマスカスで祭りが行われる事をワリードに知らせる。夜間に防御が薄くなる城壁、其の城壁の情報も、齎したのはヨナであった。全軍で連携した攻撃計画を立てる時間は無く、ワリードは自ら東門を襲う事を決める。カーカ・イブン・アムル・アル・タミミ、マズル・イブン・アディと手を繋いで門の横の壁を登ると、登った先に警備兵は配置されていなかった。ロープを壁に固定して基地で待つ選任された100名を引き上げ、ワリードは登攀を支える数名を残して城壁を下り、東門の内側の警備兵を殺害する。門は内側から開かれ、残りの部隊が雪崩れ込んだ。他の門が動かないのを見たトーマスは、入城したのはワリードの軍勢だけで、他の指揮官は防御の突破に気付いていないと考え、ジャビヤ門へ使者を送り、アブー・ウバイダに砦の明け渡しとジズヤの支払いを申し出た。平和的な考えで知られたウバイダは、ワリードも此の条件を受け入れるだろうと考え、申し出を受け入れる。
翌19日、ウバイダはジャビヤ門から、他の指揮官も其々の門からダマスカスに入った。ウバイダはトーマス・高官数名・ダマスカスの司教を伴って中心部へ進み、マリアミテ大聖堂に入る。一方ワリードの軍は東門から中心部へ、抵抗する者を全員殺害しながら進み、同じ大聖堂に至った。武力で征服したと主張するワリードと、トーマスとの和平合意で降伏したと主張するウバイダ。他の指揮官は和平合意が尊重されるべきだと伝え、ワリードは渋々此れに同意する。誰も奴隷にしない事、寺院に危害を加えない事、戦利品として何も奪わない事、トーマスを含めムスリムの支配下で生きる事を望まない市民全員に安全な通行を与える事——そして、和平は3日後に終了し、其の後は協定に違反する事無く攻撃出来る事。ワリードは此の協定に署名した。
9月22日、ワリードはヨナに教えられたアンティオキアへの近道を通り、アラブ人の服装を身に纏った騎兵連隊を率いてジャバル・アンサリヤ山脈(現在のシリアのラタキア県)を越え、アンティオキア近郊の海上で東ローマ帝国の難民の船団に追い付く。ムスリムと悟られぬ為の服装も、停戦の3日が過ぎたら追撃せよという時機も、ヨナの提案であった。激しい豪雨の日で、東ローマ帝国軍は雨を避けて台地に散り散りになり、錦の束が地面に散らばっていた。ワリードは東西南北の4方面から各1,000名の騎兵連隊で攻める計画を立て、先ずアズワルの軍が後方から急襲、30分後にウメールの部隊が右翼を、更に30分以内にアブー・バクルの息子アブドゥルラフマンの部隊が左翼を突き、最後にワリードの軍が包囲した。ワリードは決闘によりトーマスを殺害する。東ローマ帝国軍は劣勢となったが数では勝っていた為、数千名は安全な場所へ避難出来た。ムスリムは戦利品としてブロケード——サテン地に浮き模様を織り出した織物——を奪い、多数の捕虜と、トーマスの妻且つヘラクレイオスの娘である女性を得る。ヨナの婚約者は、ヨナがイスラム教に改宗した事を知って婚約を破棄し、東ローマ帝国人と共にアンティオキアへ移る事にしたが、ヨナの目の前で、ドレスの襞から短剣を抜いて自ら命を絶った。ヨナは瀕死の婚約者の隣に座り、他の女性には目を向けないと誓う。代わりにワリードが、捕縛したヘラクレイオスの娘を差し出したが、ヨナは辞退した。
登場人物
- ハーリド・イブン・アル・ワリード 本書の中心人物。ダマスカス包囲戦におけるムスリム軍の最高司令官。マルジュ・ラーヒトでガッサーン朝を破り、分遣隊の配置によってダマスカスを他の地域から孤立させた上で包囲を命じた。司祭ヨナの情報を得て東門の城壁を登る奇襲を行い、内側から門を開いて入城。停戦期間の終了後はアンティオキア近郊でトーマスを追撃し、決闘で殺害した。
- トーマス ヘラクレイオスの義理の息子。ワリードのダマスカス進軍を遅らせる為にヤクサへ東ローマ帝国軍を差し向け、マルジュ・アル・サファールでは自ら軍を率いて敗れた。城内では、突破に気付いたのはワリードだけだと判断してジャビヤ門へ使者を送り、砦の明け渡しとジズヤの支払いを申し出た。停戦期間の終了後、追撃してきたワリードとの決闘で殺害された。
- ヘラクレイオス 東ローマ帝国皇帝。エメサでトーマスからの援軍要請を受け、包囲された守備隊を救援する兵を差し向け、更に9月9日には12,000名の救援軍を派遣した。捕縛された其の娘は、トーマスの妻でもあった。
- アブー・ウバイダ ムスリム軍の副司令官。包囲ではジャビヤ門を担当した。平和的な考えで知られ、トーマスからの明け渡しとジズヤの申し出を、ワリードも受け入れるだろうと考えて承諾。入城後の交渉では、ダマスカスは和平合意によって降伏したのだと主張した。
- ヨナ シリアの単性論者の司祭。夜の祭りと、防御が薄くなる城壁の情報をワリードに齎し、東門の奇襲を可能にした。アンティオキアへの近道、アラブ人の服装での偽装、停戦の3日が過ぎてからの追撃も、其の提案による。イスラム教への改宗を知った婚約者に婚約を破棄され、目の前で其の死を看取った。
- ディラール・ビン・アル・アズワル 機動警備隊の指揮官。騎兵2,000名を率い、夜間に門の間の空き地を巡回して、攻撃を受けた軍団を援ける任に就いた。トーマス追撃戦では南方面の1,000名の騎兵連隊を任され、最初に後方から東ローマ帝国軍を急襲した。
- ラファイ・ビン・ウマイル 包囲では東門の主要部隊を指揮した。ヘラクレイオスの救援軍12,000名に対しては5,000名を率いてウカブ峠で偵察兵と合流したが、兵力が不十分で包囲された。
- ラーフェ・ビン・ウメール トーマス追撃戦で東方面の1,000名の騎兵連隊を率いた指揮官。アズワルの急襲から30分後に東から現れ、東ローマ帝国軍の右翼を攻撃した。
- シュラビル・イブン・ハサナ 包囲でトーマスの門の指揮官を務めた。
- アムル・イブン・アル・アース 包囲でファラディの門の指揮官を務めた。
- ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン 包囲でケイサン門と小さな門の二つを担当した指揮官。
- カーカ・イブン・アムル・アル・タミミ 東門の奇襲で、ワリード・マズルと手を繋いで城壁を登った人物。城壁上から100名の兵を引き上げる作戦に加わり、内側から東門を開いた。
- マズル・イブン・アディ 東門の奇襲で、ワリード・タミミと手を繋いで城壁を登った人物。
- ウム・ハキーム・ビント・アル・ハターリス・イブン・ヒシャーム マルジュ・アル・サファールの戦いで、後に「ウム・ハキーム橋」と名付けられる橋の近くにて、テントポールを使い単独で7名の東ローマ帝国兵を殺害した。
- アブドゥルラフマン・イブン・アブー・バクル アブー・バクルの息子。トーマス追撃戦で北方面の1,000名の騎兵連隊を率い、東ローマ帝国軍の左翼を攻撃した。
主要な地名・拠点
- ダマスカス 現在のシリアの首都。6つの門を持つ城壁都市。ワリードが分遣隊で他の地域から孤立させた上で包囲し、東門からの奇襲によって陥落した。
- ダマスカスの6つの門 トーマスの門(シュラビル・イブン・ハサナ)、ジャビヤ門(副司令官アブー・ウバイダ)、ファラディの門(アムル・イブン・アル・アース)、ケイサン門と小さな門(ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン)、東門(主要部隊のラファイ・ビン・ウマイル)。各門に4,000〜5,000名が配された。
- マルジュ・ラーヒト 現在のシリアのダマスカス県。西暦634年4月24日、ワリードの騎兵隊が、東ローマ帝国と同盟していたガッサーン朝を破った戦場。本書の起点。
- タドモル 現在のシリアのホムス県。ガッサーン朝が、此処から峠を下るルート上に強力な戦士を配置し、ワリードのシリア進出を阻もうとした。
- グータ 現在のシリアのダマスカス県。ワリードが急襲部隊を派遣した地。包囲の間も、ワリード達や騎馬に必要な物資の供給地点として機能し続けた。
- ボスラ ワリードがダマスカスを迂回して征服に向かった地。アブー・ウバイダが使者として送られ、此処で報告する様に指示された。
- ヤクサ 現在のイスラエル。ヤルムーク川北岸のティベリアス湖付近。西暦634年7月30日、トーマスがワリードの進軍を遅らせる為に差し向けた東ローマ帝国軍と遭遇した地。
- マルジュ・アル・サファール 現在のシリア。西暦634年8月19日、ワリードがトーマス率いる東ローマ帝国軍を破った戦場。ウム・ハキームの戦いぶりで知られる。
- エメサ 現在のシリアのホムス県にあたる地。トーマスが援軍を求める書簡を送った先であり、ヘラクレイオスが滞在していた。ダマスカスとの間のルートには、ワリードの分遣隊が置かれた。
- ウカブ(鷲)峠 ヘラクレイオスの救援軍を迎え撃った地点。9月9日には、ラファイ・ビン・ウマイルの5,000名が偵察兵と合流して包囲されたが、ワリードが4,000名の縦隊と共に合流して東ローマ帝国軍を退けた。
- マリアミテ大聖堂 ダマスカス中心部の大聖堂。陥落の日、ジャビヤ門から入ったウバイダと、東門から戦いながら進んだワリードが相次いで入り、和平合意か武力征服かを巡る交渉が行われた。
- ジャバル・アンサリヤ山脈 現在のシリアのラタキア県。停戦期間の終了後、ワリードがアラブ人の服装を身に纏った騎兵連隊を率いて越え、アンティオキア近郊の海上で東ローマ帝国の難民の船団に追い付いた。
包囲・奇襲・和平・追撃──
ハーリド・イブン・アル・ワリードが落とした都の全過程を一元化。
JPY 200(税込)
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