電子書籍「カーディシーヤの戦い一元化」の表紙

カーディシーヤの
戦い一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦636年9月頃〜637年3月
※ヒジュラ暦は全て西暦に変換しています
ページ数
7ページ
文字数
6,777字
最新更新日
西暦2,026年10月8日

アティーク川から、ティグリス川へ──
カーディシーヤの戦いを一元化。

236円(税込)

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本書について

西暦636年9月頃、ヴァラシャバード(現在のイラクのバービル県)に居たロスタム・ファルロフザードは、カーディシーヤのムスリムの野営地を破り、和平交渉を再開する。ファルロフザードはムスリムに書簡を送った。ムスリム側は、サディ・ブン・アビ・ワッカスが最初にラビ・ビン・アミール、後にムギラ・ビン・ズララを派遣し交渉に応じた。ファルロフザードはズララに対し「我々はこの地に確固たる地位を築いており、敵に勝利し、諸国民の間で高貴である。どの王も我々の権力・名誉・支配権を持っていない」と言ったが、ズララはファルロフザードを遮り「もし我々の保護が必要なら、我々の保護を受けて、謙虚にジズヤを支払え。然も無ければ剣だ」と言うと、ファルロフザードは酷く侮辱され怒りを感じ「私が貴方達全員を殺すまで、明日の夜明けは無いだろう」とズララを脅した。本書は、此のロスタム・ファルロフザードによる和平交渉の再開から、ロスタム・ファルロフザードのクテシフォンからの出陣、ササン朝ペルシア軍によるアティーク川の渡河、ムスリムの決闘者ムバリズンの決闘とササン朝ペルシア軍の戦象の突撃、カーカ・イブン・アムル・アル・タミミ率いる前衛部隊の到着、サディ・ブン・アビ・ワッカスによる戦象の鼻の切断の指示、ロスタム・ファルロフザードの討死、サディ・ブン・アビ・ワッカスのクテシフォンへの進軍、ズフラ・イブン・アル・ハウィヤ・アル・タミミ率いる前衛軍のクータとヴァラシャバードへの到着、ハシム・イブン・ウトバによるライオンの殴殺、ササン朝ペルシア軍とバフラシールの住民によるティグリス川の橋の破壊、義勇兵のティグリス川の横断を経て、クテシフォンの陥落とヤズデギルド3世のハルワンへの逃亡に至る迄を一元化した記録である。

西暦636年10月頃、ロスタム・ファルロフザードが、ムスリムとの戦闘に備えつつ、自身の兄ファッルフザードに書簡を送り、兵を集めてアゼルバイジャンに行って祈る様伝える。又、ファルロフザードは、ヤズデギルド3世こそが、ササン朝ペルシアから残された唯一の遺産である事をファッルフザードに思い出させた。其の後ファルロフザードはクテシフォンから出陣し、カーディシーヤでムスリムと対峙した。

西暦636年11月16日未明、ササン朝ペルシア軍が、ロスタム・ファルロフザードの命により、間にある運河を塞いで道路にしていた所を通過しアティーク川西岸を越える。ファルロフザードは45,000名の歩兵を4個師団に分け、150m置きに、南西を向いて川を背にして配置した。更に、15,000騎の騎兵も4個師団に分けられ、予備として待機した。4個師団には其々8頭ずつ計33頭の象が居た。戦線は4kmに及んだ。指揮官は、右翼がホルムザン、右中央がジャリヌス、後衛がピルツ・ホスロー、左翼がミフラン・ラジであった。ファルロフザードは、右中央後方の天蓋で日陰になった所に陣取り、戦場を俯瞰で眺めた。対するムスリムは、ササン朝ペルシア軍と500m離れた所で北東を向いて対峙した。戦闘直前にサディ・ブン・アビ・ワッカスは「此れは貴方方の神が貴方方に約束した遺産だ。神は3年前に貴方方に其れを利用出来る様にされたが、貴方方は今日迄その恩恵を受け、人々を捕らえ、身代金を要求し、殺してきた」と兵達を激励した。又、カーカ・イブン・アムル・アル・タミミの弟アシム・イブン・アムル・アル・タミミも騎手達に「貴方方は彼等よりも優れており、神は貴方方と共におられます。もし貴方方が粘り強く正しい方法で攻撃すれば、彼らの富・女性・子供達は貴方方のものになるでしょう」と励ました。戦いは決闘から始まった。成る可く多くの指揮官を殺害して敵軍の士気を下げる狙いがあった。先ず、ムスリムの決闘者ムバリズンが進み出た。双方で多くの死者が発生した。決闘で数名の指揮官を失ったファルロフザードは、左翼に対し、ムスリムの右翼を攻撃する様指示した。ササン朝ペルシア軍は、大量の矢の雨を降らせ、戦象を突撃させて、ムスリムの右翼に甚大な被害を与えた。ムスリムの右翼総司令官アブドゥッラー・イブン・アルムタムは、右翼騎兵司令官ジャービル・イブン・アブド・アッラーに対し、ササン朝ペルシア軍の戦象に対処する様命じた。然し、ジャービル・イブン・アブド・アッラーの騎兵隊は、ササン朝ペルシア軍の重騎兵隊に行手を阻まれ、戦象の前進によってムスリムの歩兵は後退し始めた。ワッカスは、右中央の騎兵隊司令官アル・アシャス・イブン・カイスに、前進するササン朝ペルシア軍を食い止める様指示した。カイスは、騎兵連隊を率いて右翼騎兵の増援として戦闘に加わり、ササン朝ペルシア軍左翼の側面に対し、反撃を開始した。一方ワッカスは、右中央の総司令官ズフラ・イブン・アルハウィヤに、歩兵連隊の右翼への派遣を命じた。此れを受けてアルハウィヤは、ハンマル・イブン・マリク指揮下の歩兵連隊を派遣し、右翼の増援としてササン朝ペルシア軍への反撃を支援した。ササン朝ペルシア軍左翼は、カイスとマリクの増援を受けたムスリムの右翼歩兵による正面攻撃と、右中央からの騎兵連隊の支援を受けたムスリム騎兵による側面攻撃を受けて後退した。ファルロフザードは、右中央と右翼にムスリムの騎兵隊に向かって前進する様命じた。先ず、ムスリムの左翼と左中央に激しい矢の雨を浴びせ、続いてササン朝ペルシア軍の右翼と右中央の戦象が突撃した。此れにより、ムスリムの左翼と左中央はパニックに陥った。ワッカスはアシム・イブン・アムル・アル・タミミに戦象の征伐を指示する伝言を送った。アシムは、戦象に乗った射手を打ち破り、鞍の胴回りを切る作戦を採った。此の作戦が功を奏し、ササン朝ペルシア軍が戦象を退却させると、ムスリムは反撃に転じた。ササン朝ペルシア軍の右中央が撤退し、続いて右翼全体が撤退した。午後迄に、ムスリムの左翼と左中央に対して行われていたササン朝ペルシア軍による攻撃も阻止された。機に乗じてワッカスは更なる反撃を命じ、ムスリムの騎兵隊が側面から全力で突撃した。最終的にファルロフザードはムスリムの攻撃を退ける事に成功したが、数ヶ所負傷した。夕方、双方多大な損害を受け、決着の着かない儘此の日の戦闘は終了した。

西暦636年11月17日、サディ・ブン・アビ・ワッカスは、前日と同様にムバリズンによる決闘から戦闘を始める事を決定する。正午、まだ決闘が続いている最中に、カーカ・イブン・アムル・アル・タミミ率いる前衛部隊がムスリムの増援として加わり、続いてワッカスの父方の甥ハシム・イブン・ウトバ率いる本軍が到着した。タミミは、前衛部隊を幾つかに分けて、順番に戦場に到着する様指示した。大規模な増援部隊が加わったとササン朝ペルシア軍に印象付ける狙いがあった。此の戦略が嵌まり、ササン朝ペルシア軍の士気は著しく低下した。タミミは、バフマン・ジャドゥヤの殺害に成功した。ワッカスは、此の日のササン朝ペルシア軍に戦象が居なかった為、総攻撃を命じ、突破口を見つけようとした。ムスリムの4個師団は前進したが、ササン朝ペルシア軍は粘り強く攻撃を撃退していった。此の最中、タミミは駱駝を奇妙な怪物の様に偽装する独創的な装置を使って、ササン朝ペルシア軍の前線に投入した。此れを見たササン朝ペルシア軍の馬達は向きを変えて飛び出した。此れにより左中央が脆弱になった。ワッカスは攻撃を更に強めた。タミミは、ロスタム・ファルロフザードの首を狙い、ムバリズンの一団を率いて、ササン朝ペルシア軍の右中央を通過し、ファルロフザードの居る本軍へ向けて進軍した。ファルロフザードは応戦したが、突破口は開けなかった。夕方、両軍は野営地に帰還した。

西暦636年11月18日、ムスリムの援軍が到着する前に決着を付けようとしていたロスタム・ファルロフザードが、戦象を前線に出して戦闘を優位に進める。更にファルロフザードは、4個師団を全て前進させ、総攻撃を命じた。ササン朝ペルシア軍は、正面から矢を浴びせて、ムスリムの射手の反撃を封じた。多大な損害を被ったムスリムに、ササン朝ペルシア軍の歩兵と騎兵の支援を受けた戦象が突撃を仕掛け、追い打ちを掛けた。戦象が近づいて来ると、ムスリムの騎兵達は動揺し、後退した。ファルロフザードは其の隙に、サディ・ブン・アビ・ワッカスが駐屯していた旧宮殿を占領した。ファルロフザードは、ワッカスを殺害、若しくは捕虜にしてムスリムの士気を下げようとした。然し、強力なムスリムの騎兵隊が現場に急行し、此れを阻んだ。ワッカスは、戦いに勝つには戦象を殲滅するしか無いと考え、戦象の目を盲目にし、鼻を切断する様指示を出した。そしてムスリムは、戦象を戦場から追い払うのに十分な鼻の切断に成功した。怯えた戦象達は、ササン朝ペルシア軍の隊列を駆け抜けて、川へと向かった。正午迄には、戦象は戦場から居なくなった。ササン朝ペルシア軍は混乱した。ワッカスは機に乗じて総攻撃を命じた。前日に続き駱駝を奇妙な怪物に偽装する作戦を採ったが、今回は馬が踏ん張った。此の日は夜通し激しい戦いが繰り広げられ、双方に多くの死傷者が出て、戦場には戦士の死体が散乱した。戦いは夜明けに終了した。

西暦636年11月19日、サディ・ブン・アビ・ワッカスの同意を得て野戦指揮官に就いていたカーカ・イブン・アムル・アル・タミミが「後1時間程戦えば、敵は敗北するだろう。バヌ・タミム族の戦士がもう一度挑戦すれば、勝利は貴方達のものになるだろう」と部下に話した。タミミは左中央を指揮し、ササン朝ペルシア軍の右中央を攻撃した。続いてムスリムは総攻撃を仕掛けた。ササン朝ペルシア軍は、戦いの再開に驚き、左翼と左中央が押し戻された。タミミは、ムバリズンの集団を率いて、ササン朝ペルシア軍の左中央を攻撃し、正午迄に中央部を突破した。更にロスタム・ファルロフザードが討ち取られ、ササン朝ペルシア軍の戦線は崩壊した。ササン朝ペルシア軍は、一部は部隊を維持した儘撤退したが、残りはパニックを起こして川へ向かった。ジャリヌスは、残存部隊の指揮を執り、橋頭堡を征圧して軍の大部分を橋を安全に渡らせる事に成功した。ワッカスは、逃走するササン朝ペルシア兵を追跡する為、騎兵連隊を様々な方角へ向けて派遣した。此の追跡によりササン朝ペルシア兵は多数の死傷者を出し、捕虜も発生した。ムスリムは、宝石が散りばめられた王旗を含む多数の戦利品を獲得した。其の王旗に含まれていた宝石は、王旗と切り離され、マディーナで売られた。ワッカスは、ウマル・イブン・ハッターブに部下を差し向け、戦勝報告を行った。ハッターブはワッカスに、クテシフォンの占領を行う様指示した。此のムスリムのカーディシーヤでの勝利は、ササン朝ペルシアのイラク支配を根底から揺るがした。然し、クテシフォンが残っている限り、ササン朝ペルシアが反撃する可能性が常に存在した。其の後ワッカスはアル・ヒラに入り、アラブ人入植者を入れて町「クーファ」を建設した。

西暦636年12月1日頃、サディ・ブン・アビ・ワッカスが、15,000名の兵を率いクテシフォンに進軍する。ヤズデギルド3世は、諜報機関からムスリム進軍の報告を受けると、必要な防御を行う為に、クテシフォンと、クテシフォンに通じる道路に、時間稼ぎの為の分遣隊を派遣した。クテシフォンの幹線道路に分遣隊が居る事を知ったワッカスは、機動性を高める為、アブド・アッラー・ビン・ムイムと、シュラービール・ビン・アル・シムト(ワッカス含む)と、ハシム・イブン・ウトバと、ハーリド・ビン・ウルファタと、ズフラ・イブン・アル・ハウィヤ・アル・タミミの五手に軍を分けた。ズフラ・イブン・アル・ハウィヤ・アル・タミミは、騎兵のみで構成された前衛部隊の指揮を引き継ぎ、クテシフォンへの道沿いに在る、敵の主な防御陣地に向かって迅速に移動する様命令を受けた。タミミはナジャフを占領し、援軍を待った。其の後ユーフラテス川を渡り、クテシフォンへ向けて兵を進めた。西暦637年1月1日頃、ズフラ・イブン・アル・ハウィヤ・アル・タミミ率いるムスリムの前衛軍が、クテシフォンから17km離れたクータ(現在のイラクのバービル県テル・イブラヒム)に到着する。ササン朝ペルシア軍の分遣隊は抵抗した。1月8日頃、ズフラ・イブン・アル・ハウィヤ・アル・タミミ率いるムスリムの前衛軍が、ヴァラシャバード(現在のイラクのバービル県・ディヤーラー県・ワーシト県付近)に到着する。通常はササン朝ペルシア軍の守備隊が居るが、此の時は居なかった。前月のバビロン等と同様に、ジズヤを支払う事でササン朝ペルシアの住民は保護された。其の後ムスリムは、クテシフォンの入口までの全域を占領した。然し、クテシフォンに進軍する途上、ササン朝ペルシア軍の分遣隊に阻まれ、計画は延期された。クテシフォンのササン朝ペルシア軍は、ムスリムがクテシフォンへ進軍する道を読み、ティグリス川の対岸に在るバフラシール(現在のイラクのバービル県ヴェー・アルダシル)側に現れると予測し、クテシフォンの周囲に深い塹壕を掘った。ムスリムの前衛軍がバフラシールに接近すると、ササン朝ペルシア軍守備隊が投石器で大きな石や岩を発射した。ムスリムは射程外に撤退し、寝返ったササン朝ペルシア工兵から装備の提供を受け、クテシフォンを包囲した。バフラシールは、周囲に物資を輸出していたが、同時にクテシフォンからも物資の供給を受けていた。

西暦637年3月、ササン朝ペルシア軍が、ムスリムの包囲網を突破する事を意図し、クテシフォンを離れる。ササン朝ペルシア軍は、ムスリムの前線まで進軍し、ライオンを突撃させた。ムスリムの馬は恐怖して逃げ出した。ハシム・イブン・ウトバは、ライオンに向かって走り、殴った。此れが上手く当たり、ライオンは死亡した。サディ・ブン・アビ・ワッカスは、前例の無いウトバの英雄的行為を賞賛し、ウトバの額に接吻をした。其の夜、ウトバは矢を受け深手を負い、其の儘死亡した。此の戦闘でムスリムは、ササン朝ペルシア軍の指揮官を殺害した。戦闘が中断した後、ササン朝ペルシア軍の使者が、ヤズデギルド3世の伝言を携えムスリムの野営地へ赴いた。使者は「私達の皇帝は、ティグリス川が貴方達と私達の間の境界線として機能し、其の東に広がる部分は引き続き私達のものであり、西のものは貴方方のものであるという事実に基づいた平和に賛成するかどうか尋ねています。此れで貴方の国の飢えが満たされなければ、何をしても貴方方を満足させる事は出来ません」と伝えると、ムスリムはジズヤの支払いに応じるか、戦闘を継続するかの2択を迫った。ササン朝ペルシア軍は戦闘継続を選択した。又3月、ササン朝ペルシア軍が戦闘継続を選択した翌日、自衛の為にクテシフォンを封鎖したササン朝ペルシア軍とバフラシールの住民が、クテシフォンの大部分の封鎖を解き、ティグリス川に架かる橋を全て破壊する。更に、川の西岸から全てのボートを撤去し、東岸に停泊させた。ササン朝ペルシア軍は、クテシフォンの南端からティグリス川までを監視下に置き、残りの郊外には塹壕を掘った。ヤズデギルド3世は、此れにより国内の他の地方からの援軍を受け入れ、ムスリムに対抗出来ると主張した。軈てムスリムはバフラシールを占領したが、既に人影は無かった。ティグリス川は川幅が750mあったが、ムスリムがバフラシールを占領した時には満水で、且つ渡れる船も無かった。クテシフォンのササン朝ペルシア軍は、ミフラン・ラジと、ロスタム・ファルロフザードの兄ファッルフザードの2名が指揮していた。ムスリムを受け入れたササン朝ペルシア軍から寝返った義勇兵は、サディ・ブン・アビ・ワッカスに、ティグリス川を渡る事の出来る下流の地点を示した。然し水位が高かった為、渡れるかどうか確信が持てなかった。又3月、ササン朝ペルシア軍から寝返った義勇兵がサディ・ブン・アビ・ワッカスにティグリス川を渡る事の出来る下流の地点を示した翌朝、ワッカスは義勇兵に、馬に乗ってティグリス川を渡る様頼んだ。先ず、アシム・イブン・アムル・アル・タミミの命により、6名の志願した義勇兵が馬に乗ってティグリス川を横断した。ササン朝ペルシア軍は此れを受け、ティグリス川の水域に入り応戦した。ムスリム側は此の戦闘を優位に進め、東岸に到達した。其の後も縦隊が続々と上陸し、ボートを東岸に着けた。其の後もササン朝ペルシア軍の劣勢は続き、クテシフォンは陥落し、アシム・イブン・アムル・アル・タミミもクテシフォンに入った。そして、ササン朝ペルシア政府の本拠地である白宮殿は無血開城するに至った。ヤズデギルド3世は、持ち運びが可能な宝物や貴重品を全て持参しハルワン(現在のイラクのディヤーラー県)に逃亡した。ワッカスは、残ったササン朝ペルシア国民に恩赦を与えると宣言した。ササン朝ペルシア側は降伏条件を予め理解しており、ジズヤの支払いに応じ、和平協定が締結された。ムスリムは、ササン朝ペルシア国民に通常の職業に戻る様促し、東ローマ帝国の国境にある要塞カルキーシアとヒートを占領する為に分遣隊を派遣した。ワッカスは、白宮殿を本拠地とし、大中庭にモスクを建設した。ササン朝ペルシア軍は、クテシフォンこそ奪われたものの、依然ティクリート(現在のイラクのサラーフッディーン県)・モースル(現在のイラクのニーナワー県)の都市では活動していた。ロスタム・ファルロフザードによる和平交渉の再開から、ロスタム・ファルロフザードのクテシフォンからの出陣、ササン朝ペルシア軍によるアティーク川の渡河、ムスリムの決闘者ムバリズンの決闘とササン朝ペルシア軍の戦象の突撃、カーカ・イブン・アムル・アル・タミミ率いる前衛部隊の到着、サディ・ブン・アビ・ワッカスによる戦象の鼻の切断の指示、ロスタム・ファルロフザードの討死、サディ・ブン・アビ・ワッカスのクテシフォンへの進軍、ズフラ・イブン・アル・ハウィヤ・アル・タミミ率いる前衛軍のクータとヴァラシャバードへの到着、ハシム・イブン・ウトバによるライオンの殴殺、ササン朝ペルシア軍とバフラシールの住民によるティグリス川の橋の破壊、義勇兵のティグリス川の横断を経て、クテシフォンの陥落とヤズデギルド3世のハルワンへの逃亡に至る迄——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。


登場人物

  • サディ・ブン・アビ・ワッカス 西暦636年9月頃、ヴァラシャバードに居たロスタム・ファルロフザードは、カーディシーヤのムスリムの野営地を破り、和平交渉を再開する。ファルロフザードはムスリムに書簡を送った。ムスリム側は、サディ・ブン・アビ・ワッカスが最初にラビ・ビン・アミール、後にムギラ・ビン・ズララを派遣し交渉に応じた。11月16日未明、ササン朝ペルシア軍が、ロスタム・ファルロフザードの命により、間にある運河を塞いで道路にしていた所を通過しアティーク川西岸を越える。戦闘直前にサディ・ブン・アビ・ワッカスは「此れは貴方方の神が貴方方に約束した遺産だ。神は3年前に貴方方に其れを利用出来る様にされたが、貴方方は今日迄その恩恵を受け、人々を捕らえ、身代金を要求し、殺してきた」と兵達を激励した。ワッカスは、右中央の騎兵隊司令官アル・アシャス・イブン・カイスに、前進するササン朝ペルシア軍を食い止める様指示した。カイスは、騎兵連隊を率いて右翼騎兵の増援として戦闘に加わり、ササン朝ペルシア軍左翼の側面に対し、反撃を開始した。一方ワッカスは、右中央の総司令官ズフラ・イブン・アルハウィヤに、歩兵連隊の右翼への派遣を命じた。ワッカスはアシム・イブン・アムル・アル・タミミに戦象の征伐を指示する伝言を送った。アシムは、戦象に乗った射手を打ち破り、鞍の胴回りを切る作戦を採った。此の作戦が功を奏し、ササン朝ペルシア軍が戦象を退却させると、ムスリムは反撃に転じた。ササン朝ペルシア軍の右中央が撤退し、続いて右翼全体が撤退した。午後迄に、ムスリムの左翼と左中央に対して行われていたササン朝ペルシア軍による攻撃も阻止された。機に乗じてワッカスは更なる反撃を命じ、ムスリムの騎兵隊が側面から全力で突撃した。夕方、双方多大な損害を受け、決着の着かない儘此の日の戦闘は終了した。11月17日、サディ・ブン・アビ・ワッカスは、前日と同様にムバリズンによる決闘から戦闘を始める事を決定する。正午、まだ決闘が続いている最中に、カーカ・イブン・アムル・アル・タミミ率いる前衛部隊がムスリムの増援として加わり、続いてワッカスの父方の甥ハシム・イブン・ウトバ率いる本軍が到着した。ワッカスは、此の日のササン朝ペルシア軍に戦象が居なかった為、総攻撃を命じ、突破口を見つけようとした。ムスリムの4個師団は前進したが、ササン朝ペルシア軍は粘り強く攻撃を撃退していった。夕方、両軍は野営地に帰還した。11月18日、ムスリムの援軍が到着する前に決着を付けようとしていたロスタム・ファルロフザードが、戦象を前線に出して戦闘を優位に進める。戦象が近づいて来ると、ムスリムの騎兵達は動揺し、後退した。ファルロフザードは其の隙に、サディ・ブン・アビ・ワッカスが駐屯していた旧宮殿を占領した。ファルロフザードは、ワッカスを殺害、若しくは捕虜にしてムスリムの士気を下げようとした。然し、強力なムスリムの騎兵隊が現場に急行し、此れを阻んだ。ワッカスは、戦いに勝つには戦象を殲滅するしか無いと考え、戦象の目を盲目にし、鼻を切断する様指示を出した。そしてムスリムは、戦象を戦場から追い払うのに十分な鼻の切断に成功した。怯えた戦象達は、ササン朝ペルシア軍の隊列を駆け抜けて、川へと向かった。正午迄には、戦象は戦場から居なくなった。ササン朝ペルシア軍は混乱した。ワッカスは機に乗じて総攻撃を命じた。11月19日、サディ・ブン・アビ・ワッカスの同意を得て野戦指揮官に就いていたカーカ・イブン・アムル・アル・タミミが「後1時間程戦えば、敵は敗北するだろう。バヌ・タミム族の戦士がもう一度挑戦すれば、勝利は貴方達のものになるだろう」と部下に話した。タミミは、ムバリズンの集団を率いて、ササン朝ペルシア軍の左中央を攻撃し、正午迄に中央部を突破した。更にロスタム・ファルロフザードが討ち取られ、ササン朝ペルシア軍の戦線は崩壊した。ワッカスは、逃走するササン朝ペルシア兵を追跡する為、騎兵連隊を様々な方角へ向けて派遣した。ワッカスは、ウマル・イブン・ハッターブに部下を差し向け、戦勝報告を行った。ハッターブはワッカスに、クテシフォンの占領を行う様指示した。其の後ワッカスはアル・ヒラに入り、アラブ人入植者を入れて町「クーファ」を建設した。12月1日頃、サディ・ブン・アビ・ワッカスが、15,000名の兵を率いクテシフォンに進軍する。ヤズデギルド3世は、諜報機関からムスリム進軍の報告を受けると、必要な防御を行う為に、クテシフォンと、クテシフォンに通じる道路に、時間稼ぎの為の分遣隊を派遣した。クテシフォンの幹線道路に分遣隊が居る事を知ったワッカスは、機動性を高める為、アブド・アッラー・ビン・ムイムと、シュラービール・ビン・アル・シムト(ワッカス含む)と、ハシム・イブン・ウトバと、ハーリド・ビン・ウルファタと、ズフラ・イブン・アル・ハウィヤ・アル・タミミの五手に軍を分けた。西暦637年3月、ササン朝ペルシア軍が、ムスリムの包囲網を突破する事を意図し、クテシフォンを離れる。ササン朝ペルシア軍は、ムスリムの前線まで進軍し、ライオンを突撃させた。ハシム・イブン・ウトバは、ライオンに向かって走り、殴った。此れが上手く当たり、ライオンは死亡した。サディ・ブン・アビ・ワッカスは、前例の無いウトバの英雄的行為を賞賛し、ウトバの額に接吻をした。又3月、ササン朝ペルシア軍が戦闘継続を選択した翌日、自衛の為にクテシフォンを封鎖したササン朝ペルシア軍とバフラシールの住民が、クテシフォンの大部分の封鎖を解き、ティグリス川に架かる橋を全て破壊する。ムスリムを受け入れたササン朝ペルシア軍から寝返った義勇兵は、サディ・ブン・アビ・ワッカスに、ティグリス川を渡る事の出来る下流の地点を示した。又3月、ササン朝ペルシア軍から寝返った義勇兵がサディ・ブン・アビ・ワッカスにティグリス川を渡る事の出来る下流の地点を示した翌朝、ワッカスは義勇兵に、馬に乗ってティグリス川を渡る様頼んだ。先ず、アシム・イブン・アムル・アル・タミミの命により、6名の志願した義勇兵が馬に乗ってティグリス川を横断した。ササン朝ペルシア軍は此れを受け、ティグリス川の水域に入り応戦した。ムスリム側は此の戦闘を優位に進め、東岸に到達した。其の後も縦隊が続々と上陸し、ボートを東岸に着けた。其の後もササン朝ペルシア軍の劣勢は続き、クテシフォンは陥落し、アシム・イブン・アムル・アル・タミミもクテシフォンに入った。そして、ササン朝ペルシア政府の本拠地である白宮殿は無血開城するに至った。ワッカスは、残ったササン朝ペルシア国民に恩赦を与えると宣言した。ワッカスは、白宮殿を本拠地とし、大中庭にモスクを建設した。
  • ロスタム・ファルロフザード 西暦636年9月頃、ヴァラシャバードに居たロスタム・ファルロフザードは、カーディシーヤのムスリムの野営地を破り、和平交渉を再開する。ファルロフザードはムスリムに書簡を送った。ムスリム側は、サディ・ブン・アビ・ワッカスが最初にラビ・ビン・アミール、後にムギラ・ビン・ズララを派遣し交渉に応じた。ファルロフザードはズララに対し「我々はこの地に確固たる地位を築いており、敵に勝利し、諸国民の間で高貴である。どの王も我々の権力・名誉・支配権を持っていない」と言ったが、ズララはファルロフザードを遮り「もし我々の保護が必要なら、我々の保護を受けて、謙虚にジズヤを支払え。然も無ければ剣だ」と言うと、ファルロフザードは酷く侮辱され怒りを感じ「私が貴方達全員を殺すまで、明日の夜明けは無いだろう」とズララを脅した。10月頃、ロスタム・ファルロフザードが、ムスリムとの戦闘に備えつつ、自身の兄ファッルフザードに書簡を送り、兵を集めてアゼルバイジャンに行って祈る様伝える。又、ファルロフザードは、ヤズデギルド3世こそが、ササン朝ペルシアから残された唯一の遺産である事をファッルフザードに思い出させた。其の後ファルロフザードはクテシフォンから出陣し、カーディシーヤでムスリムと対峙した。11月16日未明、ササン朝ペルシア軍が、ロスタム・ファルロフザードの命により、間にある運河を塞いで道路にしていた所を通過しアティーク川西岸を越える。ファルロフザードは45,000名の歩兵を4個師団に分け、150m置きに、南西を向いて川を背にして配置した。ファルロフザードは、右中央後方の天蓋で日陰になった所に陣取り、戦場を俯瞰で眺めた。決闘で数名の指揮官を失ったファルロフザードは、左翼に対し、ムスリムの右翼を攻撃する様指示した。ファルロフザードは、右中央と右翼にムスリムの騎兵隊に向かって前進する様命じた。先ず、ムスリムの左翼と左中央に激しい矢の雨を浴びせ、続いてササン朝ペルシア軍の右翼と右中央の戦象が突撃した。此れにより、ムスリムの左翼と左中央はパニックに陥った。ワッカスはアシム・イブン・アムル・アル・タミミに戦象の征伐を指示する伝言を送った。アシムは、戦象に乗った射手を打ち破り、鞍の胴回りを切る作戦を採った。此の作戦が功を奏し、ササン朝ペルシア軍が戦象を退却させると、ムスリムは反撃に転じた。最終的にファルロフザードはムスリムの攻撃を退ける事に成功したが、数ヶ所負傷した。11月17日、サディ・ブン・アビ・ワッカスは、前日と同様にムバリズンによる決闘から戦闘を始める事を決定する。正午、まだ決闘が続いている最中に、カーカ・イブン・アムル・アル・タミミ率いる前衛部隊がムスリムの増援として加わり、続いてワッカスの父方の甥ハシム・イブン・ウトバ率いる本軍が到着した。タミミは、ロスタム・ファルロフザードの首を狙い、ムバリズンの一団を率いて、ササン朝ペルシア軍の右中央を通過し、ファルロフザードの居る本軍へ向けて進軍した。ファルロフザードは応戦したが、突破口は開けなかった。11月18日、ムスリムの援軍が到着する前に決着を付けようとしていたロスタム・ファルロフザードが、戦象を前線に出して戦闘を優位に進める。更にファルロフザードは、4個師団を全て前進させ、総攻撃を命じた。戦象が近づいて来ると、ムスリムの騎兵達は動揺し、後退した。ファルロフザードは其の隙に、サディ・ブン・アビ・ワッカスが駐屯していた旧宮殿を占領した。ファルロフザードは、ワッカスを殺害、若しくは捕虜にしてムスリムの士気を下げようとした。11月19日、サディ・ブン・アビ・ワッカスの同意を得て野戦指揮官に就いていたカーカ・イブン・アムル・アル・タミミが「後1時間程戦えば、敵は敗北するだろう。バヌ・タミム族の戦士がもう一度挑戦すれば、勝利は貴方達のものになるだろう」と部下に話した。タミミは、ムバリズンの集団を率いて、ササン朝ペルシア軍の左中央を攻撃し、正午迄に中央部を突破した。更にロスタム・ファルロフザードが討ち取られ、ササン朝ペルシア軍の戦線は崩壊した。
  • カーカ・イブン・アムル・アル・タミミ 西暦636年11月17日、サディ・ブン・アビ・ワッカスは、前日と同様にムバリズンによる決闘から戦闘を始める事を決定する。正午、まだ決闘が続いている最中に、カーカ・イブン・アムル・アル・タミミ率いる前衛部隊がムスリムの増援として加わり、続いてワッカスの父方の甥ハシム・イブン・ウトバ率いる本軍が到着した。タミミは、前衛部隊を幾つかに分けて、順番に戦場に到着する様指示した。大規模な増援部隊が加わったとササン朝ペルシア軍に印象付ける狙いがあった。此の戦略が嵌まり、ササン朝ペルシア軍の士気は著しく低下した。タミミは、バフマン・ジャドゥヤの殺害に成功した。ワッカスは、此の日のササン朝ペルシア軍に戦象が居なかった為、総攻撃を命じ、突破口を見つけようとした。ムスリムの4個師団は前進したが、ササン朝ペルシア軍は粘り強く攻撃を撃退していった。此の最中、タミミは駱駝を奇妙な怪物の様に偽装する独創的な装置を使って、ササン朝ペルシア軍の前線に投入した。此れを見たササン朝ペルシア軍の馬達は向きを変えて飛び出した。此れにより左中央が脆弱になった。タミミは、ロスタム・ファルロフザードの首を狙い、ムバリズンの一団を率いて、ササン朝ペルシア軍の右中央を通過し、ファルロフザードの居る本軍へ向けて進軍した。ファルロフザードは応戦したが、突破口は開けなかった。11月19日、サディ・ブン・アビ・ワッカスの同意を得て野戦指揮官に就いていたカーカ・イブン・アムル・アル・タミミが「後1時間程戦えば、敵は敗北するだろう。バヌ・タミム族の戦士がもう一度挑戦すれば、勝利は貴方達のものになるだろう」と部下に話した。タミミは左中央を指揮し、ササン朝ペルシア軍の右中央を攻撃した。続いてムスリムは総攻撃を仕掛けた。ササン朝ペルシア軍は、戦いの再開に驚き、左翼と左中央が押し戻された。タミミは、ムバリズンの集団を率いて、ササン朝ペルシア軍の左中央を攻撃し、正午迄に中央部を突破した。
  • アシム・イブン・アムル・アル・タミミ 西暦636年11月16日未明、ササン朝ペルシア軍が、ロスタム・ファルロフザードの命により、間にある運河を塞いで道路にしていた所を通過しアティーク川西岸を越える。戦闘直前にサディ・ブン・アビ・ワッカスは「此れは貴方方の神が貴方方に約束した遺産だ。神は3年前に貴方方に其れを利用出来る様にされたが、貴方方は今日迄その恩恵を受け、人々を捕らえ、身代金を要求し、殺してきた」と兵達を激励した。又、カーカ・イブン・アムル・アル・タミミの弟アシム・イブン・アムル・アル・タミミも騎手達に「貴方方は彼等よりも優れており、神は貴方方と共におられます。もし貴方方が粘り強く正しい方法で攻撃すれば、彼らの富・女性・子供達は貴方方のものになるでしょう」と励ました。ファルロフザードは、右中央と右翼にムスリムの騎兵隊に向かって前進する様命じた。先ず、ムスリムの左翼と左中央に激しい矢の雨を浴びせ、続いてササン朝ペルシア軍の右翼と右中央の戦象が突撃した。此れにより、ムスリムの左翼と左中央はパニックに陥った。ワッカスはアシム・イブン・アムル・アル・タミミに戦象の征伐を指示する伝言を送った。アシムは、戦象に乗った射手を打ち破り、鞍の胴回りを切る作戦を採った。此の作戦が功を奏し、ササン朝ペルシア軍が戦象を退却させると、ムスリムは反撃に転じた。西暦637年3月、ササン朝ペルシア軍から寝返った義勇兵がサディ・ブン・アビ・ワッカスにティグリス川を渡る事の出来る下流の地点を示した翌朝、ワッカスは義勇兵に、馬に乗ってティグリス川を渡る様頼んだ。先ず、アシム・イブン・アムル・アル・タミミの命により、6名の志願した義勇兵が馬に乗ってティグリス川を横断した。ササン朝ペルシア軍は此れを受け、ティグリス川の水域に入り応戦した。ムスリム側は此の戦闘を優位に進め、東岸に到達した。其の後も縦隊が続々と上陸し、ボートを東岸に着けた。其の後もササン朝ペルシア軍の劣勢は続き、クテシフォンは陥落し、アシム・イブン・アムル・アル・タミミもクテシフォンに入った。
  • ハシム・イブン・ウトバ 西暦636年11月17日、サディ・ブン・アビ・ワッカスは、前日と同様にムバリズンによる決闘から戦闘を始める事を決定する。正午、まだ決闘が続いている最中に、カーカ・イブン・アムル・アル・タミミ率いる前衛部隊がムスリムの増援として加わり、続いてワッカスの父方の甥ハシム・イブン・ウトバ率いる本軍が到着した。12月1日頃、サディ・ブン・アビ・ワッカスが、15,000名の兵を率いクテシフォンに進軍する。クテシフォンの幹線道路に分遣隊が居る事を知ったワッカスは、機動性を高める為、アブド・アッラー・ビン・ムイムと、シュラービール・ビン・アル・シムト(ワッカス含む)と、ハシム・イブン・ウトバと、ハーリド・ビン・ウルファタと、ズフラ・イブン・アル・ハウィヤ・アル・タミミの五手に軍を分けた。西暦637年3月、ササン朝ペルシア軍が、ムスリムの包囲網を突破する事を意図し、クテシフォンを離れる。ササン朝ペルシア軍は、ムスリムの前線まで進軍し、ライオンを突撃させた。ムスリムの馬は恐怖して逃げ出した。ハシム・イブン・ウトバは、ライオンに向かって走り、殴った。此れが上手く当たり、ライオンは死亡した。サディ・ブン・アビ・ワッカスは、前例の無いウトバの英雄的行為を賞賛し、ウトバの額に接吻をした。其の夜、ウトバは矢を受け深手を負い、其の儘死亡した。
  • ズフラ・イブン・アル・ハウィヤ・アル・タミミ 西暦636年11月16日未明、ササン朝ペルシア軍が、ロスタム・ファルロフザードの命により、間にある運河を塞いで道路にしていた所を通過しアティーク川西岸を越える。決闘で数名の指揮官を失ったファルロフザードは、左翼に対し、ムスリムの右翼を攻撃する様指示した。ササン朝ペルシア軍は、大量の矢の雨を降らせ、戦象を突撃させて、ムスリムの右翼に甚大な被害を与えた。一方サディ・ブン・アビ・ワッカスは、右中央の総司令官ズフラ・イブン・アルハウィヤに、歩兵連隊の右翼への派遣を命じた。此れを受けてアルハウィヤは、ハンマル・イブン・マリク指揮下の歩兵連隊を派遣し、右翼の増援としてササン朝ペルシア軍への反撃を支援した。12月1日頃、サディ・ブン・アビ・ワッカスが、15,000名の兵を率いクテシフォンに進軍する。クテシフォンの幹線道路に分遣隊が居る事を知ったワッカスは、機動性を高める為、アブド・アッラー・ビン・ムイムと、シュラービール・ビン・アル・シムト(ワッカス含む)と、ハシム・イブン・ウトバと、ハーリド・ビン・ウルファタと、ズフラ・イブン・アル・ハウィヤ・アル・タミミの五手に軍を分けた。ズフラ・イブン・アル・ハウィヤ・アル・タミミは、騎兵のみで構成された前衛部隊の指揮を引き継ぎ、クテシフォンへの道沿いに在る、敵の主な防御陣地に向かって迅速に移動する様命令を受けた。タミミはナジャフを占領し、援軍を待った。其の後ユーフラテス川を渡り、クテシフォンへ向けて兵を進めた。西暦637年1月1日頃、ズフラ・イブン・アル・ハウィヤ・アル・タミミ率いるムスリムの前衛軍が、クテシフォンから17km離れたクータに到着する。ササン朝ペルシア軍の分遣隊は抵抗した。1月8日頃、ズフラ・イブン・アル・ハウィヤ・アル・タミミ率いるムスリムの前衛軍が、ヴァラシャバードに到着する。
  • アル・アシャス・イブン・カイス 西暦636年11月16日未明、ササン朝ペルシア軍が、ロスタム・ファルロフザードの命により、間にある運河を塞いで道路にしていた所を通過しアティーク川西岸を越える。決闘で数名の指揮官を失ったファルロフザードは、左翼に対し、ムスリムの右翼を攻撃する様指示した。ササン朝ペルシア軍は、大量の矢の雨を降らせ、戦象を突撃させて、ムスリムの右翼に甚大な被害を与えた。サディ・ブン・アビ・ワッカスは、右中央の騎兵隊司令官アル・アシャス・イブン・カイスに、前進するササン朝ペルシア軍を食い止める様指示した。カイスは、騎兵連隊を率いて右翼騎兵の増援として戦闘に加わり、ササン朝ペルシア軍左翼の側面に対し、反撃を開始した。一方ワッカスは、右中央の総司令官ズフラ・イブン・アルハウィヤに、歩兵連隊の右翼への派遣を命じた。此れを受けてアルハウィヤは、ハンマル・イブン・マリク指揮下の歩兵連隊を派遣し、右翼の増援としてササン朝ペルシア軍への反撃を支援した。ササン朝ペルシア軍左翼は、カイスとマリクの増援を受けたムスリムの右翼歩兵による正面攻撃と、右中央からの騎兵連隊の支援を受けたムスリム騎兵による側面攻撃を受けて後退した。
  • アブドゥッラー・イブン・アルムタム 西暦636年11月16日未明、ササン朝ペルシア軍が、ロスタム・ファルロフザードの命により、間にある運河を塞いで道路にしていた所を通過しアティーク川西岸を越える。決闘で数名の指揮官を失ったファルロフザードは、左翼に対し、ムスリムの右翼を攻撃する様指示した。ササン朝ペルシア軍は、大量の矢の雨を降らせ、戦象を突撃させて、ムスリムの右翼に甚大な被害を与えた。ムスリムの右翼総司令官アブドゥッラー・イブン・アルムタムは、右翼騎兵司令官ジャービル・イブン・アブド・アッラーに対し、ササン朝ペルシア軍の戦象に対処する様命じた。
  • ジャービル・イブン・アブド・アッラー 西暦636年11月16日未明、ササン朝ペルシア軍が、ロスタム・ファルロフザードの命により、間にある運河を塞いで道路にしていた所を通過しアティーク川西岸を越える。決闘で数名の指揮官を失ったファルロフザードは、左翼に対し、ムスリムの右翼を攻撃する様指示した。ササン朝ペルシア軍は、大量の矢の雨を降らせ、戦象を突撃させて、ムスリムの右翼に甚大な被害を与えた。ムスリムの右翼総司令官アブドゥッラー・イブン・アルムタムは、右翼騎兵司令官ジャービル・イブン・アブド・アッラーに対し、ササン朝ペルシア軍の戦象に対処する様命じた。然し、ジャービル・イブン・アブド・アッラーの騎兵隊は、ササン朝ペルシア軍の重騎兵隊に行手を阻まれ、戦象の前進によってムスリムの歩兵は後退し始めた。
  • ハンマル・イブン・マリク 西暦636年11月16日未明、ササン朝ペルシア軍が、ロスタム・ファルロフザードの命により、間にある運河を塞いで道路にしていた所を通過しアティーク川西岸を越える。決闘で数名の指揮官を失ったファルロフザードは、左翼に対し、ムスリムの右翼を攻撃する様指示した。ササン朝ペルシア軍は、大量の矢の雨を降らせ、戦象を突撃させて、ムスリムの右翼に甚大な被害を与えた。サディ・ブン・アビ・ワッカスは、右中央の騎兵隊司令官アル・アシャス・イブン・カイスに、前進するササン朝ペルシア軍を食い止める様指示した。カイスは、騎兵連隊を率いて右翼騎兵の増援として戦闘に加わり、ササン朝ペルシア軍左翼の側面に対し、反撃を開始した。一方ワッカスは、右中央の総司令官ズフラ・イブン・アルハウィヤに、歩兵連隊の右翼への派遣を命じた。此れを受けてアルハウィヤは、ハンマル・イブン・マリク指揮下の歩兵連隊を派遣し、右翼の増援としてササン朝ペルシア軍への反撃を支援した。ササン朝ペルシア軍左翼は、カイスとマリクの増援を受けたムスリムの右翼歩兵による正面攻撃と、右中央からの騎兵連隊の支援を受けたムスリム騎兵による側面攻撃を受けて後退した。
  • ムギラ・ビン・ズララ 西暦636年9月頃、ヴァラシャバードに居たロスタム・ファルロフザードは、カーディシーヤのムスリムの野営地を破り、和平交渉を再開する。ファルロフザードはムスリムに書簡を送った。ムスリム側は、サディ・ブン・アビ・ワッカスが最初にラビ・ビン・アミール、後にムギラ・ビン・ズララを派遣し交渉に応じた。ファルロフザードはズララに対し「我々はこの地に確固たる地位を築いており、敵に勝利し、諸国民の間で高貴である。どの王も我々の権力・名誉・支配権を持っていない」と言ったが、ズララはファルロフザードを遮り「もし我々の保護が必要なら、我々の保護を受けて、謙虚にジズヤを支払え。然も無ければ剣だ」と言うと、ファルロフザードは酷く侮辱され怒りを感じ「私が貴方達全員を殺すまで、明日の夜明けは無いだろう」とズララを脅した。
  • ラビ・ビン・アミール 西暦636年9月頃、ヴァラシャバードに居たロスタム・ファルロフザードは、カーディシーヤのムスリムの野営地を破り、和平交渉を再開する。ファルロフザードはムスリムに書簡を送った。ムスリム側は、サディ・ブン・アビ・ワッカスが最初にラビ・ビン・アミール、後にムギラ・ビン・ズララを派遣し交渉に応じた。
  • アブド・アッラー・ビン・ムイム 西暦636年12月1日頃、サディ・ブン・アビ・ワッカスが、15,000名の兵を率いクテシフォンに進軍する。クテシフォンの幹線道路に分遣隊が居る事を知ったワッカスは、機動性を高める為、アブド・アッラー・ビン・ムイムと、シュラービール・ビン・アル・シムト(ワッカス含む)と、ハシム・イブン・ウトバと、ハーリド・ビン・ウルファタと、ズフラ・イブン・アル・ハウィヤ・アル・タミミの五手に軍を分けた。
  • シュラービール・ビン・アル・シムト 西暦636年12月1日頃、サディ・ブン・アビ・ワッカスが、15,000名の兵を率いクテシフォンに進軍する。クテシフォンの幹線道路に分遣隊が居る事を知ったワッカスは、機動性を高める為、アブド・アッラー・ビン・ムイムと、シュラービール・ビン・アル・シムト(ワッカス含む)と、ハシム・イブン・ウトバと、ハーリド・ビン・ウルファタと、ズフラ・イブン・アル・ハウィヤ・アル・タミミの五手に軍を分けた。
  • ハーリド・ビン・ウルファタ 西暦636年12月1日頃、サディ・ブン・アビ・ワッカスが、15,000名の兵を率いクテシフォンに進軍する。クテシフォンの幹線道路に分遣隊が居る事を知ったワッカスは、機動性を高める為、アブド・アッラー・ビン・ムイムと、シュラービール・ビン・アル・シムト(ワッカス含む)と、ハシム・イブン・ウトバと、ハーリド・ビン・ウルファタと、ズフラ・イブン・アル・ハウィヤ・アル・タミミの五手に軍を分けた。
  • ウマル・イブン・ハッターブ 西暦636年11月19日、サディ・ブン・アビ・ワッカスの同意を得て野戦指揮官に就いていたカーカ・イブン・アムル・アル・タミミが「後1時間程戦えば、敵は敗北するだろう。バヌ・タミム族の戦士がもう一度挑戦すれば、勝利は貴方達のものになるだろう」と部下に話した。タミミは、ムバリズンの集団を率いて、ササン朝ペルシア軍の左中央を攻撃し、正午迄に中央部を突破した。更にロスタム・ファルロフザードが討ち取られ、ササン朝ペルシア軍の戦線は崩壊した。ワッカスは、ウマル・イブン・ハッターブに部下を差し向け、戦勝報告を行った。ハッターブはワッカスに、クテシフォンの占領を行う様指示した。此のムスリムのカーディシーヤでの勝利は、ササン朝ペルシアのイラク支配を根底から揺るがした。然し、クテシフォンが残っている限り、ササン朝ペルシアが反撃する可能性が常に存在した。
  • ヤズデギルド3世 西暦636年10月頃、ロスタム・ファルロフザードが、ムスリムとの戦闘に備えつつ、自身の兄ファッルフザードに書簡を送り、兵を集めてアゼルバイジャンに行って祈る様伝える。又、ファルロフザードは、ヤズデギルド3世こそが、ササン朝ペルシアから残された唯一の遺産である事をファッルフザードに思い出させた。12月1日頃、サディ・ブン・アビ・ワッカスが、15,000名の兵を率いクテシフォンに進軍する。ヤズデギルド3世は、諜報機関からムスリム進軍の報告を受けると、必要な防御を行う為に、クテシフォンと、クテシフォンに通じる道路に、時間稼ぎの為の分遣隊を派遣した。西暦637年3月、ササン朝ペルシア軍が、ムスリムの包囲網を突破する事を意図し、クテシフォンを離れる。戦闘が中断した後、ササン朝ペルシア軍の使者が、ヤズデギルド3世の伝言を携えムスリムの野営地へ赴いた。使者は「私達の皇帝は、ティグリス川が貴方達と私達の間の境界線として機能し、其の東に広がる部分は引き続き私達のものであり、西のものは貴方方のものであるという事実に基づいた平和に賛成するかどうか尋ねています。此れで貴方の国の飢えが満たされなければ、何をしても貴方方を満足させる事は出来ません」と伝えると、ムスリムはジズヤの支払いに応じるか、戦闘を継続するかの2択を迫った。ササン朝ペルシア軍は戦闘継続を選択した。又3月、ササン朝ペルシア軍が戦闘継続を選択した翌日、自衛の為にクテシフォンを封鎖したササン朝ペルシア軍とバフラシールの住民が、クテシフォンの大部分の封鎖を解き、ティグリス川に架かる橋を全て破壊する。ササン朝ペルシア軍は、クテシフォンの南端からティグリス川までを監視下に置き、残りの郊外には塹壕を掘った。ヤズデギルド3世は、此れにより国内の他の地方からの援軍を受け入れ、ムスリムに対抗出来ると主張した。又3月、ササン朝ペルシア軍から寝返った義勇兵がサディ・ブン・アビ・ワッカスにティグリス川を渡る事の出来る下流の地点を示した翌朝、ワッカスは義勇兵に、馬に乗ってティグリス川を渡る様頼んだ。先ず、アシム・イブン・アムル・アル・タミミの命により、6名の志願した義勇兵が馬に乗ってティグリス川を横断した。ササン朝ペルシア軍は此れを受け、ティグリス川の水域に入り応戦した。ムスリム側は此の戦闘を優位に進め、東岸に到達した。其の後も縦隊が続々と上陸し、ボートを東岸に着けた。其の後もササン朝ペルシア軍の劣勢は続き、クテシフォンは陥落し、アシム・イブン・アムル・アル・タミミもクテシフォンに入った。そして、ササン朝ペルシア政府の本拠地である白宮殿は無血開城するに至った。ヤズデギルド3世は、持ち運びが可能な宝物や貴重品を全て持参しハルワンに逃亡した。
  • ファッルフザード 西暦636年10月頃、ロスタム・ファルロフザードが、ムスリムとの戦闘に備えつつ、自身の兄ファッルフザードに書簡を送り、兵を集めてアゼルバイジャンに行って祈る様伝える。又、ファルロフザードは、ヤズデギルド3世こそが、ササン朝ペルシアから残された唯一の遺産である事をファッルフザードに思い出させた。西暦637年3月、ササン朝ペルシア軍が戦闘継続を選択した翌日、自衛の為にクテシフォンを封鎖したササン朝ペルシア軍とバフラシールの住民が、クテシフォンの大部分の封鎖を解き、ティグリス川に架かる橋を全て破壊する。クテシフォンのササン朝ペルシア軍は、ミフラン・ラジと、ロスタム・ファルロフザードの兄ファッルフザードの2名が指揮していた。
  • ホルムザン 西暦636年11月16日未明、ササン朝ペルシア軍が、ロスタム・ファルロフザードの命により、間にある運河を塞いで道路にしていた所を通過しアティーク川西岸を越える。指揮官は、右翼がホルムザン、右中央がジャリヌス、後衛がピルツ・ホスロー、左翼がミフラン・ラジであった。
  • ジャリヌス 西暦636年11月16日未明、ササン朝ペルシア軍が、ロスタム・ファルロフザードの命により、間にある運河を塞いで道路にしていた所を通過しアティーク川西岸を越える。指揮官は、右翼がホルムザン、右中央がジャリヌス、後衛がピルツ・ホスロー、左翼がミフラン・ラジであった。11月19日、サディ・ブン・アビ・ワッカスの同意を得て野戦指揮官に就いていたカーカ・イブン・アムル・アル・タミミが「後1時間程戦えば、敵は敗北するだろう。バヌ・タミム族の戦士がもう一度挑戦すれば、勝利は貴方達のものになるだろう」と部下に話した。タミミは、ムバリズンの集団を率いて、ササン朝ペルシア軍の左中央を攻撃し、正午迄に中央部を突破した。更にロスタム・ファルロフザードが討ち取られ、ササン朝ペルシア軍の戦線は崩壊した。ササン朝ペルシア軍は、一部は部隊を維持した儘撤退したが、残りはパニックを起こして川へ向かった。ジャリヌスは、残存部隊の指揮を執り、橋頭堡を征圧して軍の大部分を橋を安全に渡らせる事に成功した。
  • ミフラン・ラジ 西暦636年11月16日未明、ササン朝ペルシア軍が、ロスタム・ファルロフザードの命により、間にある運河を塞いで道路にしていた所を通過しアティーク川西岸を越える。指揮官は、右翼がホルムザン、右中央がジャリヌス、後衛がピルツ・ホスロー、左翼がミフラン・ラジであった。西暦637年3月、ササン朝ペルシア軍が戦闘継続を選択した翌日、自衛の為にクテシフォンを封鎖したササン朝ペルシア軍とバフラシールの住民が、クテシフォンの大部分の封鎖を解き、ティグリス川に架かる橋を全て破壊する。クテシフォンのササン朝ペルシア軍は、ミフラン・ラジと、ロスタム・ファルロフザードの兄ファッルフザードの2名が指揮していた。
  • ピルツ・ホスロー 西暦636年11月16日未明、ササン朝ペルシア軍が、ロスタム・ファルロフザードの命により、間にある運河を塞いで道路にしていた所を通過しアティーク川西岸を越える。指揮官は、右翼がホルムザン、右中央がジャリヌス、後衛がピルツ・ホスロー、左翼がミフラン・ラジであった。
  • バフマン・ジャドゥヤ 西暦636年11月17日、サディ・ブン・アビ・ワッカスは、前日と同様にムバリズンによる決闘から戦闘を始める事を決定する。正午、まだ決闘が続いている最中に、カーカ・イブン・アムル・アル・タミミ率いる前衛部隊がムスリムの増援として加わり、続いてワッカスの父方の甥ハシム・イブン・ウトバ率いる本軍が到着した。タミミは、バフマン・ジャドゥヤの殺害に成功した。

主要な地名・拠点

  • カーディシーヤ 西暦636年9月頃、ヴァラシャバード(現在のイラクのバービル県)に居たロスタム・ファルロフザードは、カーディシーヤのムスリムの野営地を破り、和平交渉を再開する。10月頃、ロスタム・ファルロフザードが、ムスリムとの戦闘に備えつつ、自身の兄ファッルフザードに書簡を送り、兵を集めてアゼルバイジャンに行って祈る様伝える。其の後ファルロフザードはクテシフォンから出陣し、カーディシーヤでムスリムと対峙した。11月19日、サディ・ブン・アビ・ワッカスの同意を得て野戦指揮官に就いていたカーカ・イブン・アムル・アル・タミミが「後1時間程戦えば、敵は敗北するだろう。バヌ・タミム族の戦士がもう一度挑戦すれば、勝利は貴方達のものになるだろう」と部下に話した。タミミは、ムバリズンの集団を率いて、ササン朝ペルシア軍の左中央を攻撃し、正午迄に中央部を突破した。更にロスタム・ファルロフザードが討ち取られ、ササン朝ペルシア軍の戦線は崩壊した。此のムスリムのカーディシーヤでの勝利は、ササン朝ペルシアのイラク支配を根底から揺るがした。
  • アティーク川 西暦636年11月16日未明、ササン朝ペルシア軍が、ロスタム・ファルロフザードの命により、間にある運河を塞いで道路にしていた所を通過しアティーク川西岸を越える。ファルロフザードは45,000名の歩兵を4個師団に分け、150m置きに、南西を向いて川を背にして配置した。
  • クテシフォン 西暦636年10月頃、ロスタム・ファルロフザードが、ムスリムとの戦闘に備えつつ、自身の兄ファッルフザードに書簡を送り、兵を集めてアゼルバイジャンに行って祈る様伝える。其の後ファルロフザードはクテシフォンから出陣し、カーディシーヤでムスリムと対峙した。11月19日、サディ・ブン・アビ・ワッカスの同意を得て野戦指揮官に就いていたカーカ・イブン・アムル・アル・タミミが「後1時間程戦えば、敵は敗北するだろう。バヌ・タミム族の戦士がもう一度挑戦すれば、勝利は貴方達のものになるだろう」と部下に話した。タミミは、ムバリズンの集団を率いて、ササン朝ペルシア軍の左中央を攻撃し、正午迄に中央部を突破した。更にロスタム・ファルロフザードが討ち取られ、ササン朝ペルシア軍の戦線は崩壊した。ワッカスは、ウマル・イブン・ハッターブに部下を差し向け、戦勝報告を行った。ハッターブはワッカスに、クテシフォンの占領を行う様指示した。此のムスリムのカーディシーヤでの勝利は、ササン朝ペルシアのイラク支配を根底から揺るがした。然し、クテシフォンが残っている限り、ササン朝ペルシアが反撃する可能性が常に存在した。12月1日頃、サディ・ブン・アビ・ワッカスが、15,000名の兵を率いクテシフォンに進軍する。ヤズデギルド3世は、諜報機関からムスリム進軍の報告を受けると、必要な防御を行う為に、クテシフォンと、クテシフォンに通じる道路に、時間稼ぎの為の分遣隊を派遣した。西暦637年1月8日頃、ズフラ・イブン・アル・ハウィヤ・アル・タミミ率いるムスリムの前衛軍が、ヴァラシャバード(現在のイラクのバービル県・ディヤーラー県・ワーシト県付近)に到着する。其の後ムスリムは、クテシフォンの入口までの全域を占領した。然し、クテシフォンに進軍する途上、ササン朝ペルシア軍の分遣隊に阻まれ、計画は延期された。クテシフォンのササン朝ペルシア軍は、ムスリムがクテシフォンへ進軍する道を読み、ティグリス川の対岸に在るバフラシール(現在のイラクのバービル県ヴェー・アルダシル)側に現れると予測し、クテシフォンの周囲に深い塹壕を掘った。ムスリムの前衛軍がバフラシールに接近すると、ササン朝ペルシア軍守備隊が投石器で大きな石や岩を発射した。ムスリムは射程外に撤退し、寝返ったササン朝ペルシア工兵から装備の提供を受け、クテシフォンを包囲した。3月、ササン朝ペルシア軍が、ムスリムの包囲網を突破する事を意図し、クテシフォンを離れる。又3月、ササン朝ペルシア軍が戦闘継続を選択した翌日、自衛の為にクテシフォンを封鎖したササン朝ペルシア軍とバフラシールの住民が、クテシフォンの大部分の封鎖を解き、ティグリス川に架かる橋を全て破壊する。ササン朝ペルシア軍は、クテシフォンの南端からティグリス川までを監視下に置き、残りの郊外には塹壕を掘った。クテシフォンのササン朝ペルシア軍は、ミフラン・ラジと、ロスタム・ファルロフザードの兄ファッルフザードの2名が指揮していた。又3月、ササン朝ペルシア軍から寝返った義勇兵がサディ・ブン・アビ・ワッカスにティグリス川を渡る事の出来る下流の地点を示した翌朝、ワッカスは義勇兵に、馬に乗ってティグリス川を渡る様頼んだ。先ず、アシム・イブン・アムル・アル・タミミの命により、6名の志願した義勇兵が馬に乗ってティグリス川を横断した。ササン朝ペルシア軍は此れを受け、ティグリス川の水域に入り応戦した。ムスリム側は此の戦闘を優位に進め、東岸に到達した。其の後も縦隊が続々と上陸し、ボートを東岸に着けた。其の後もササン朝ペルシア軍の劣勢は続き、クテシフォンは陥落し、アシム・イブン・アムル・アル・タミミもクテシフォンに入った。ササン朝ペルシア軍は、クテシフォンこそ奪われたものの、依然ティクリート(現在のイラクのサラーフッディーン県)・モースル(現在のイラクのニーナワー県)の都市では活動していた。
  • 白宮殿 西暦637年3月、ササン朝ペルシア軍から寝返った義勇兵がサディ・ブン・アビ・ワッカスにティグリス川を渡る事の出来る下流の地点を示した翌朝、ワッカスは義勇兵に、馬に乗ってティグリス川を渡る様頼んだ。先ず、アシム・イブン・アムル・アル・タミミの命により、6名の志願した義勇兵が馬に乗ってティグリス川を横断した。ササン朝ペルシア軍は此れを受け、ティグリス川の水域に入り応戦した。ムスリム側は此の戦闘を優位に進め、東岸に到達した。其の後も縦隊が続々と上陸し、ボートを東岸に着けた。其の後もササン朝ペルシア軍の劣勢は続き、クテシフォンは陥落し、アシム・イブン・アムル・アル・タミミもクテシフォンに入った。そして、ササン朝ペルシア政府の本拠地である白宮殿は無血開城するに至った。ワッカスは、白宮殿を本拠地とし、大中庭にモスクを建設した。
  • バフラシール 西暦637年1月8日頃、ズフラ・イブン・アル・ハウィヤ・アル・タミミ率いるムスリムの前衛軍が、ヴァラシャバード(現在のイラクのバービル県・ディヤーラー県・ワーシト県付近)に到着する。クテシフォンのササン朝ペルシア軍は、ムスリムがクテシフォンへ進軍する道を読み、ティグリス川の対岸に在るバフラシール(現在のイラクのバービル県ヴェー・アルダシル)側に現れると予測し、クテシフォンの周囲に深い塹壕を掘った。ムスリムの前衛軍がバフラシールに接近すると、ササン朝ペルシア軍守備隊が投石器で大きな石や岩を発射した。ムスリムは射程外に撤退し、寝返ったササン朝ペルシア工兵から装備の提供を受け、クテシフォンを包囲した。バフラシールは、周囲に物資を輸出していたが、同時にクテシフォンからも物資の供給を受けていた。3月、ササン朝ペルシア軍が戦闘継続を選択した翌日、自衛の為にクテシフォンを封鎖したササン朝ペルシア軍とバフラシールの住民が、クテシフォンの大部分の封鎖を解き、ティグリス川に架かる橋を全て破壊する。軈てムスリムはバフラシールを占領したが、既に人影は無かった。ティグリス川は川幅が750mあったが、ムスリムがバフラシールを占領した時には満水で、且つ渡れる船も無かった。
  • ティグリス川 西暦637年1月8日頃、ズフラ・イブン・アル・ハウィヤ・アル・タミミ率いるムスリムの前衛軍が、ヴァラシャバード(現在のイラクのバービル県・ディヤーラー県・ワーシト県付近)に到着する。クテシフォンのササン朝ペルシア軍は、ムスリムがクテシフォンへ進軍する道を読み、ティグリス川の対岸に在るバフラシール(現在のイラクのバービル県ヴェー・アルダシル)側に現れると予測し、クテシフォンの周囲に深い塹壕を掘った。3月、ササン朝ペルシア軍が、ムスリムの包囲網を突破する事を意図し、クテシフォンを離れる。戦闘が中断した後、ササン朝ペルシア軍の使者が、ヤズデギルド3世の伝言を携えムスリムの野営地へ赴いた。使者は「私達の皇帝は、ティグリス川が貴方達と私達の間の境界線として機能し、其の東に広がる部分は引き続き私達のものであり、西のものは貴方方のものであるという事実に基づいた平和に賛成するかどうか尋ねています。此れで貴方の国の飢えが満たされなければ、何をしても貴方方を満足させる事は出来ません」と伝えると、ムスリムはジズヤの支払いに応じるか、戦闘を継続するかの2択を迫った。又3月、ササン朝ペルシア軍が戦闘継続を選択した翌日、自衛の為にクテシフォンを封鎖したササン朝ペルシア軍とバフラシールの住民が、クテシフォンの大部分の封鎖を解き、ティグリス川に架かる橋を全て破壊する。更に、川の西岸から全てのボートを撤去し、東岸に停泊させた。軈てムスリムはバフラシールを占領したが、既に人影は無かった。ティグリス川は川幅が750mあったが、ムスリムがバフラシールを占領した時には満水で、且つ渡れる船も無かった。ムスリムを受け入れたササン朝ペルシア軍から寝返った義勇兵は、サディ・ブン・アビ・ワッカスに、ティグリス川を渡る事の出来る下流の地点を示した。然し水位が高かった為、渡れるかどうか確信が持てなかった。又3月、ササン朝ペルシア軍から寝返った義勇兵がサディ・ブン・アビ・ワッカスにティグリス川を渡る事の出来る下流の地点を示した翌朝、ワッカスは義勇兵に、馬に乗ってティグリス川を渡る様頼んだ。先ず、アシム・イブン・アムル・アル・タミミの命により、6名の志願した義勇兵が馬に乗ってティグリス川を横断した。ササン朝ペルシア軍は此れを受け、ティグリス川の水域に入り応戦した。ムスリム側は此の戦闘を優位に進め、東岸に到達した。
  • ヴァラシャバード 西暦636年9月頃、ヴァラシャバード(現在のイラクのバービル県)に居たロスタム・ファルロフザードは、カーディシーヤのムスリムの野営地を破り、和平交渉を再開する。西暦637年1月8日頃、ズフラ・イブン・アル・ハウィヤ・アル・タミミ率いるムスリムの前衛軍が、ヴァラシャバード(現在のイラクのバービル県・ディヤーラー県・ワーシト県付近)に到着する。通常はササン朝ペルシア軍の守備隊が居るが、此の時は居なかった。前月のバビロン等と同様に、ジズヤを支払う事でササン朝ペルシアの住民は保護された。
  • クータ 西暦637年1月1日頃、ズフラ・イブン・アル・ハウィヤ・アル・タミミ率いるムスリムの前衛軍が、クテシフォンから17km離れたクータ(現在のイラクのバービル県テル・イブラヒム)に到着する。ササン朝ペルシア軍の分遣隊は抵抗した。
  • ナジャフ 西暦636年12月1日頃、サディ・ブン・アビ・ワッカスが、15,000名の兵を率いクテシフォンに進軍する。クテシフォンの幹線道路に分遣隊が居る事を知ったワッカスは、機動性を高める為、アブド・アッラー・ビン・ムイムと、シュラービール・ビン・アル・シムト(ワッカス含む)と、ハシム・イブン・ウトバと、ハーリド・ビン・ウルファタと、ズフラ・イブン・アル・ハウィヤ・アル・タミミの五手に軍を分けた。ズフラ・イブン・アル・ハウィヤ・アル・タミミは、騎兵のみで構成された前衛部隊の指揮を引き継ぎ、クテシフォンへの道沿いに在る、敵の主な防御陣地に向かって迅速に移動する様命令を受けた。タミミはナジャフを占領し、援軍を待った。其の後ユーフラテス川を渡り、クテシフォンへ向けて兵を進めた。
  • アル・ヒラ 西暦636年11月19日、サディ・ブン・アビ・ワッカスの同意を得て野戦指揮官に就いていたカーカ・イブン・アムル・アル・タミミが「後1時間程戦えば、敵は敗北するだろう。バヌ・タミム族の戦士がもう一度挑戦すれば、勝利は貴方達のものになるだろう」と部下に話した。タミミは、ムバリズンの集団を率いて、ササン朝ペルシア軍の左中央を攻撃し、正午迄に中央部を突破した。更にロスタム・ファルロフザードが討ち取られ、ササン朝ペルシア軍の戦線は崩壊した。其の後ワッカスはアル・ヒラに入り、アラブ人入植者を入れて町「クーファ」を建設した。
  • ハルワン 西暦637年3月、ササン朝ペルシア軍から寝返った義勇兵がサディ・ブン・アビ・ワッカスにティグリス川を渡る事の出来る下流の地点を示した翌朝、ワッカスは義勇兵に、馬に乗ってティグリス川を渡る様頼んだ。先ず、アシム・イブン・アムル・アル・タミミの命により、6名の志願した義勇兵が馬に乗ってティグリス川を横断した。ササン朝ペルシア軍は此れを受け、ティグリス川の水域に入り応戦した。ムスリム側は此の戦闘を優位に進め、東岸に到達した。其の後も縦隊が続々と上陸し、ボートを東岸に着けた。其の後もササン朝ペルシア軍の劣勢は続き、クテシフォンは陥落し、アシム・イブン・アムル・アル・タミミもクテシフォンに入った。ヤズデギルド3世は、持ち運びが可能な宝物や貴重品を全て持参しハルワン(現在のイラクのディヤーラー県)に逃亡した。
  • カルキーシアとヒート 西暦637年3月、ササン朝ペルシア軍から寝返った義勇兵がサディ・ブン・アビ・ワッカスにティグリス川を渡る事の出来る下流の地点を示した翌朝、ワッカスは義勇兵に、馬に乗ってティグリス川を渡る様頼んだ。先ず、アシム・イブン・アムル・アル・タミミの命により、6名の志願した義勇兵が馬に乗ってティグリス川を横断した。ササン朝ペルシア軍は此れを受け、ティグリス川の水域に入り応戦した。ムスリム側は此の戦闘を優位に進め、東岸に到達した。其の後も縦隊が続々と上陸し、ボートを東岸に着けた。其の後もササン朝ペルシア軍の劣勢は続き、クテシフォンは陥落し、アシム・イブン・アムル・アル・タミミもクテシフォンに入った。ワッカスは、残ったササン朝ペルシア国民に恩赦を与えると宣言した。ササン朝ペルシア側は降伏条件を予め理解しており、ジズヤの支払いに応じ、和平協定が締結された。ムスリムは、ササン朝ペルシア国民に通常の職業に戻る様促し、東ローマ帝国の国境にある要塞カルキーシアとヒートを占領する為に分遣隊を派遣した。
  • ティクリートとモースル 西暦637年3月、ササン朝ペルシア軍から寝返った義勇兵がサディ・ブン・アビ・ワッカスにティグリス川を渡る事の出来る下流の地点を示した翌朝、ワッカスは義勇兵に、馬に乗ってティグリス川を渡る様頼んだ。先ず、アシム・イブン・アムル・アル・タミミの命により、6名の志願した義勇兵が馬に乗ってティグリス川を横断した。ササン朝ペルシア軍は此れを受け、ティグリス川の水域に入り応戦した。ムスリム側は此の戦闘を優位に進め、東岸に到達した。其の後も縦隊が続々と上陸し、ボートを東岸に着けた。其の後もササン朝ペルシア軍の劣勢は続き、クテシフォンは陥落し、アシム・イブン・アムル・アル・タミミもクテシフォンに入った。ササン朝ペルシア軍は、クテシフォンこそ奪われたものの、依然ティクリート(現在のイラクのサラーフッディーン県)・モースル(現在のイラクのニーナワー県)の都市では活動していた。

決闘から、白宮殿の無血開城へ──
ムスリム対ササン朝ペルシアを一元化。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
YouTubeとニコニコでも情報を発信中。