イスラム教の預言者ムハンマド一元化
西暦610年、ヒラー山の洞窟に声が下った──
預言者ムハンマドの二十二年を年月日単位で一元化。
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本書について
西暦610年8月19日、メッカ(現在のサウジアラビアのマッカ州)のヒラー山の洞窟で、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフは天使ジブリールより唯一神アッラーの啓示を受けた。其の出来事を最初に話した相手は、最初の妻ハディージャ・ビント・フワイリドである。フワイリドの従兄弟でキリスト教ネストリウス派の修道僧ワラカ・イブン・ナウファルに相談すると、アブラハム・ノア・モーセ・イエス・キリストも同様の経験をしたが、敵対されなかった者は一人も居ないと告げられた。啓示は其の後も次々に下る。アブドゥッラーフは従兄弟のアリー・イブン・アビー・ターリブと友人のアブー・バクルに其の教えを説き、イスラム教が始まった。本書は、此の洞窟の一日から、アブドゥッラーフが遺言を残して世を去り、アブー・バクルが初代正統カリフに選ばれる迄の二十二年を、年月日単位で一元化した記録である。
西暦614年頃、メッカでの宣教が始まる。当初、メッカ周辺のアラブ部族であるクライシュ族はアブドゥッラーフを嘲笑していたが、信者が増えるに連れて迫害へと転じ、棄教を迫るようになった。西暦615年には、アブドゥッラーフの勧めで100名以上のムスリムがアクスム王国(現在のエリトリア)へ保護を求めて亡命し、受け入れられている。西暦619年11月22日、ハディージャ・ビント・フワイリドが死去し、同時期にアブドゥッラーフの叔父で育ての親であるアブー・ターリブも世を去った。二人の死に伴い、クライシュ族の迫害は一層激しさを増す。
西暦620年、ターイフ(現在のサウジアラビアのマッカ州)で現地のタキフ族への布教を試みたが拒まれた。同じ年、カアバを訪れた各部族の巡礼団への宣教の中に、ヤスリブ——後のマディーナ、現在のサウジアラビアのマディーナ州——から来たアウス族とハズラジュ族の6名が居た。当時のヤスリブは、住民の約1/3がクライザ族・ナディール族・カイヌカー族等のユダヤ教徒、2/3が多神教徒のアラブ人で、有力部族であるアウス族とハズラジュ族がユダヤ教徒を巻き込んで何十年にも渡る抗争を繰り広げていた。国家の存在しなかった当時のアラビアには、部族の一員が殺害された際に敵対部族を殺害して勢力均衡を図る「血の復讐」という制度が形成されており、両部族は復讐の悪循環に陥っていた。ヤスリブは、平和を回復する為に強力な権威を持つ調停者を、指導者を必要としていたのである。
西暦621年7月頃、前年にカアバで改宗した6名の内5名を含む12名の部族代表者が、ヤスリブからアブドゥッラーフの元を訪れた。アカバ(現在のヨルダン)での会見で、彼らは多神教の崇拝・盗み・姦通・女児殺し・隣人への中傷等を止める事を誓う。アブドゥッラーフは信頼の於ける弟子ムスアブ・イブン・ウマイルをヤスリブへ送って新たな信徒の獲得に努め、其の結果、ヤスリブではどの家庭に於いても家族の誰かはムスリムであるという状態になった。西暦622年5月頃にウマイルが布教の成功を報告し、6月には男性73名・女性2名から成る75名の使節団がアカバで会見を開いて、アブドゥッラーフを神の使徒と認め、武力でムハンマドとイスラム教を守る事を誓う。そして7月16日、クライシュ族の迫害を受けたアブドゥッラーフとアブー・バクルはメッカを発ち、9月24日、ヤスリブに到着した。二人は直ちにユダヤ教の制度を取り入れ、礼拝の方向をエルサレム神殿に定めている。
西暦623年、アブドゥッラーフはアブー・バクルの娘アーイシャ・ビント・アブー・バクルと再婚する。翌624年2月、礼拝の方向はエルサレム神殿からメッカのカアバ神殿へと改められた。3月17日、シリアからクライシュ族率いるメッカ軍が帰って来ると聞いたアブドゥッラーフは300名を率いてバドル(現在のサウジアラビアのマディーナ州)へ出撃する。メッカ軍を保護する為、残るクライシュ族からは600名の重装兵を含む1,000名が出撃し、両軍が激突した。ハバブ・イブン・ムンドヒールは一つの井戸を除く全ての井戸を埋める事を助言する。素早く要衝を押さえたアブドゥッラーフ率いる軍が勝利した。
西暦625年3月23日、メッカ軍の指導者アブー・スフヤーンが3,000名を率いてマディーナへ進軍し、アブドゥッラーフはウフド(現在のサウジアラビアのマディーナ州)で之を迎え撃つ。当初は有利であったが、メッカ軍の騎馬隊の奇襲に遭って軍は混乱し、アブドゥッラーフ自身も負傷した。メッカ軍は報復に満足して引揚げる。かなりの犠牲を払いつつ、マディーナは守り切られた。西暦627年3月、二年前の敗戦を教訓として、アブドゥッラーフは教友であり土木技術者であるサルマーン・アル・ファーリスィーに塹壕を掘らせていた。アブー・スフヤーン率いるメッカ軍は、アラビア北西部の遊牧民から勇猛な騎兵を集め、更に追放されたユダヤ教徒を加えた10,000名で進撃したが、初めて見る塹壕に苦戦する。マディーナ内のユダヤ教徒との連携を試みて協定を結ぶも、ユダヤ教徒がメッカ側に人質を要求した事から話が拗れ、参戦は無かった。勝利したアブドゥッラーフに対し、クライシュ族の権威は低下し、遊牧民や小オアシスの住民の中には同盟相手を乗り換える勢力が多く現れる。スフヤーンは指揮権を他のクライシュ族に譲る事となった。
西暦628年1月10日、前年の負傷から癒えたザイド・イブン・ハリータが、アブドゥッラーフの指示で再びワーディー・アル・クラーへ攻め込み、ファザラ族を撃破してウンム・キルファとアブダラ・ビン・マスアダを捕虜とした。キルファは駱駝を用いて処刑され、其の首級はアブドゥッラーフに贈られている。2月には、カイバルのユダヤ人の長アル・ユサイル・イブン・リザムが自身の襲撃を計画していると聞き付け、カズラジ族の指導者アブドゥッラー・イブン・ラワハに情報収集を指示。リザムが暗殺を酷く警戒していると分かると、30名の部下にマディーナ訪問を説得させ、ユダヤ人が前・ムスリムが後ろに乗る形で馬を進めた。カイバルから6マイル離れたアル・カルカラートで不審を抱いたリザムが剣を抜くと、アブドゥッラー・イブン・ウナイスが突進して股関節に致命的な一撃を与える。之が合図となり、逃走に成功した1名を除く29名が殺害された。
同年3月、小巡礼の為にカアバ神殿へ向かったアブドゥッラーフは、武装したクライシュ族の待ち伏せの報告を受け、フダイビーヤ(現在のサウジアラビアのマッカ州)に留まって交渉に備える。使者として送られたヒラーシュ・イブン・ウマイヤ・アルフザーイーは駱駝を斬殺され、ウマル・イブン・ハッターブは自身がクライシュ族と敵対している事を理由に辞退し、代わりに派遣されたウスマーン・イブン・アッファーンは妥協せず監禁された。殺害の知らせに激怒したムスリムに、アブドゥッラーフはいかなる事態が起きても自分の命令に従う様、バイア(忠誠の誓い)を行わせる。アッファーンの帰還後、クライシュ族から派遣されたスハイル・イブン・アムルとの協議を経て、10年間の休戦、翌年3日間のマッカ開放、保護者の同意なく移住した住民の無条件送還、マッカへ移った人間の留め置き、周辺部族の自由な同盟締結を柱とする和約が成立した。マッカ側はアブドゥッラーフが「アッラーの使徒」として和議を結ぶ事を認めず、「アブドゥッラーの息子ムハンマド」として署名させている。クライシュ族に有利な内容にハッターブは不満を示し、アブー・バクルは決定に従った。小巡礼は行えぬ儘マディーナへ帰還し、多くのムスリムが困惑した。5月から6月にかけては、カイバー(現在のサウジアラビアのマディーナ州)の二つの城塞へ二度の遠征が行われ、ナディール族は収穫量の半分を税として納める条件で居住を許される。ワーディー・アル・クラー・タイマー・ハナックのユダヤ教徒系諸部族も、相次いで服従した。
西暦629年7月、ヘラクレイオスとササン朝ペルシアの将軍シャフルバラーズの間で和平協定が結ばれ、東ローマ帝国は領土の再占領に乗り出す。同じ頃、ボスラ(現在のシリアのダルアー県)のガッサーン朝総督宛の書簡を託されたハリス・ビン・アムル・アル・アズディが、ガッサーン朝連合総督シュラービル・イブン・アムルに捕縛され、ムウタ(現在のヨルダンのカラク県)で殺害された。9月10日、報復の為にザイド・イブン・ハリータを司令官とする3,000名がシリアへ派遣されるが、東ローマ帝国軍はムシャリフ村で待ち伏せていた。ムウタでの戦闘は二つの高台に挟まれた谷間で行われ、東ローマ帝国軍の数的優位は失われたものの、ハリータは殺害され、副官のジャファル・イブン・アビ・ターリブは両腕を切り落とされて殺害され、アブドゥッラー・イブン・ラワハとワッハーブ・イブン・サードも戦死した。タビット・イブン・アクラムが旗を手に仲間を結集させ、ハーリド・イブン・アル・ワリードに指揮を求める。ワリードは機転を働かせ、潰走するムスリムを纏め上げて無事に撤退させた。ターリブの死を知らされたアブドゥッラーフは、勇敢で忠実な兵士であったと悼み、戦いで切り落とされた腕の代わりに主は彼に一対の翼を与えたのだと語り、未亡人アスマを慰め、娘のファーティマにターリブの家族の為の食事を用意させた。
西暦629年12月、アブドゥッラーフは10,000名を率いてマディーナからメッカへ向かう。ハワジン族とターイフを拠点とするタキフ族はスパイによって之を察知して動員を始めたが、アブドゥッラーフもまたハワジン族の野営地に送り込んでいたスパイから其の情報を掴んでいた。西暦630年1月、アブー・スフヤーンとの折衝によりメッカは無血で征服され、カアバ神殿にあった360体の偶像が破壊される。スフヤーンはイスラム教に改宗し、クライシュ族との和解に出費が必要となった為、租税制度「ザカート」の徴収が始まった。1月31日、10,000名の軍勢とスフヤーン率いるクライシュ族2,000名がフナイン(現在のサウジアラビアのマッカ州)に到着する。先行していたマリク・ビン・アウフは4,000名の部下に、石を投げてから単体で攻撃する事を命じていた。野営を始めた所へ矢の先制攻撃を受けたムスリムは混乱して撤退するが、アリー・イブン・アビー・ターリブやウサマ・イブン・ザイド、ファドル・イブン・アッバスらが後方で戦い、アブー・バクル、ウマル・イブン・ハッターブを含むムハージルーンがアブドゥッラーフを擁護した。アイマン・イブン・ウベイドが戦死する中、アブドゥッラーフは自らアッラーの使徒である事を告げて助けを求め、砂を敵に投げつけて混乱させる。サキーフ族だけで約70名が殺害され、乗馬用の駱駝・武器・牛を戦利品としてムスリムが勝利した。
西暦632年2月22日、アブドゥッラーフはアンサールのアブー・ドゥジャーナに留守中のマディーナを託し、近隣の村々や自身の妻を含む10,000名と共にハッジの為に出発する。翌23日の朝、縫目の無い二切れの白布イフラームを纏い、愛用の雌駱駝「カスワ」に跨って「貴方の前にいます、アッラーよ」と唱えると、ハッジ団が之を復唱した。3月3日にメッカへ到着し、7日にはアラファト山に登って、アラファトはハッジの不可欠の部分であり、ハッジはアブラハムからの崇高な遺産であると説いている。5月、闘病中のアブドゥッラーフは、ムウタで殺害されたザイド・イブン・ハリタの復讐の為、其の子ウサーマ・ビン・ザイドを司令官に任じ、東ローマ帝国のバルカ(現在のヨルダン)への遠征を命じた。そして6月8日、アラビア半島から異教徒を追放する事、自身の死後もクルアーンに従う事——此の二つを遺言として、アブドゥッラーフは死去する。遠征は延期された。ウマル・イブン・ハッターブは死を認めず、アブドゥッラーフは神に相談しに行き直ぐに戻ると語って、死を口にする者を脅したが、帰還したアブー・バクルが遺体を見せて落ち着かせた。サキファ(現在のサウジアラビアのマディーナ州)で開かれたアンサールの集会では、クライシュ族以外の者を指導者に据えれば不和になるとバクルが警告し、ハッターブとアブー・ウバイダがバクルを後継者として推す。ハバブ・イブン・ムンドヒールはクライシュ族とアンサール族が其々指導者を選ぶ共同統治を提案し、ハズラジ族サイダ一族の長サード・イブン・ウバダは反発して、集会は解散となった。最終的にアブー・バクルが初代正統カリフに選出され、直様ウサーマ・ビン・ザイドへ出撃命令が下された。
登場人物
- ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ 本書の中心人物。西暦610年8月19日、ヒラー山の洞窟で天使ジブリールより唯一神アッラーの啓示を受け、イスラム教を始めた。メッカでの迫害を経てヤスリブへ移り、バドル・ウフド・塹壕の戦いを戦い、フダイビーヤの和議を結び、メッカを無血で征服した。西暦632年6月8日、アラビア半島からの異教徒追放と、死後もクルアーンに従う事を遺言して死去した。
- ハディージャ・ビント・フワイリド ムハンマドの最初の妻。ヒラー山での啓示を最初に聞いた人物であり、其の従兄弟である修道僧ワラカ・イブン・ナウファルへの相談を繋いだ。西暦619年11月22日に死去し、同時期のアブー・ターリブの死と併せて、クライシュ族の迫害が激しくなる転機となった。
- ワラカ・イブン・ナウファル ハディージャの従兄弟で、キリスト教ネストリウス派の修道僧。啓示を相談されたムハンマドに対し、アブラハム・ノア・モーセ・イエス・キリストも同様の経験をしたが、敵対されなかった者は一人も居ないと語った。
- アブー・バクル ムハンマドの友人であり、最初期に教えを説かれた一人。西暦622年、迫害を受けてムハンマドと共にメッカからヤスリブへ移った。フダイビーヤの和議ではムハンマドの決定に従い、ムハンマドの死に際しては遺体をウマル・イブン・ハッターブに見せて落ち着かせた。サキファの集会を経て初代正統カリフに選出された。
- アリー・イブン・アビー・ターリブ ムハンマドの従兄弟。アブー・バクルと共に最初期に啓示の教えを説かれた。フナインの戦いでは、ムスリムが混乱して撤退する中、ウサマ・イブン・ザイドらと後方で戦い続けた。
- アブー・ターリブ ムハンマドの叔父であり育ての親。西暦619年、ハディージャと同時期に死去し、二人の死によってクライシュ族の迫害は一層激しさを増した。
- ムスアブ・イブン・ウマイル ムハンマドが信頼を寄せた弟子。アカバでの会見の後にヤスリブへ送られ、新たな信徒の獲得に努めた。其の働きにより、ヤスリブではどの家庭に於いても家族の誰かはムスリムであるという状態になり、西暦622年5月頃、メッカへ戻って布教の成功を報告した。
- アーイシャ・ビント・アブー・バクル アブー・バクルの娘。西暦623年、ヤスリブ移住の翌年にムハンマドと再婚した。
- ハバブ・イブン・ムンドヒール バドルの戦いで、一つの井戸を除く全ての井戸を埋める事をムハンマドに助言した人物。ムハンマドの死後、サキファの集会では、クライシュ族とアンサール族が其々指導者を選ぶ共同統治を提案した。
- アブー・スフヤーン メッカ軍の指導者。西暦625年にはウフドで3,000名を率いてムハンマドを破り、西暦627年には10,000名で塹壕の戦いに臨んだが敗れ、指揮権を他のクライシュ族に譲った。西暦630年1月、ムハンマドとの折衝によりメッカを無血で明け渡し、自らイスラム教に改宗した。
- サルマーン・アル・ファーリスィー ムハンマドの教友であり土木技術者。ウフドの敗戦を教訓に塹壕を掘り、初めて之を見たメッカ軍を苦戦させた。
- ザイド・イブン・ハリータ ムハンマドの養子であり指揮官。西暦628年1月、ワーディー・アル・クラーへ再度攻め込みファザラ族を撃破した。西暦629年9月10日のムウタの戦いでは司令官を務め、東ローマ帝国とガッサーン朝の前に劣勢となり殺害された。其の復讐の遠征が、後に子ウサーマへ託される事となる。
- アブドゥッラー・イブン・ラワハ カズラジ族の指導者。カイバルのアル・ユサイル・イブン・リザムの動向を探る任を受け、リザムが暗殺を酷く警戒している事を掴んでマディーナへ報告した。ムウタの戦いでは副官を務め、戦死した。
- アブドゥッラー・イブン・ウナイス アル・ユサイル・イブン・リザムを馬に同乗させた人物。アル・カルカラートでリザムが剣を抜いた事を察知して突進し、致命的な一撃を与えた。之がムスリムの一斉攻撃の合図となった。
- ウスマーン・イブン・アッファーン フダイビーヤで三人目の使者としてクライシュ族の元へ派遣された。タワーフを認められても妥協しなかった為に監禁され、殺害の知らせがムスリムを激怒させ、バイア(忠誠の誓い)へと繋がった。後に解放されて帰還した。
- ウマル・イブン・ハッターブ フダイビーヤでは、自身がクライシュ族と敵対している事を理由に使者を辞退し、成立した和約の内容にも不満を示した。ムハンマドの死に際しては之を認めず、神に相談しに行き直ぐに戻ると語って死を口にする者を脅したが、後にサキファの集会でアブー・バクルを推薦した。
- スハイル・イブン・アムル クライシュ族からフダイビーヤへ派遣された使者。協議を経て、10年間の休戦や翌年のマッカ開放等を柱とする和約を成立させた。
- ジャファル・イブン・アビ・ターリブ ムウタの戦いの副官。ハリータが倒れた際に指揮を引き継ぐ立場にあり、楽園の近づく事を語った後、東ローマ帝国軍に背後から殴られ、両腕を切り落とされて殺害された。其の死を知ったムハンマドは、切り落とされた腕の代わりに主は彼に一対の翼を与えたのだと語った。
- タビット・イブン・アクラム ムウタの戦いで指揮官を相次いで失った絶望的な状況の中、旗を手にして仲間を結集させ、ハーリド・イブン・アル・ワリードに指揮を執る様求めた人物。
- ハーリド・イブン・アル・ワリード ムウタの戦いで指揮を引き継ぎ、機転を働かせて潰走するムスリムを纏め上げ、無事に撤退させた。
- ハリス・ビン・アムル・アル・アズディ ボスラのガッサーン朝総督ハリス・ビン・アビ・シムル・アル・ガッサニー宛の書簡を託された使者。ガッサーン朝連合総督シュラービル・イブン・アムルに捕縛され、ムウタで殺害された。之がムウタの戦いの発端となった。
- シュラービル・イブン・アムル ガッサーン朝の連合総督。ムハンマドの書簡を運ぶハリス・ビン・アムル・アル・アズディを捕縛し、ムウタで殺害した。
- マリク・ビン・アウフ フナインに先行して入っていた指揮官。4,000名の部下に対し、ハワジン族・タキフ族・ベドウィン族・サキーフ族を見つけた際は石を投げつけてから単体で攻撃する様に命じた。
- ウサーマ・ビン・ザイド ザイド・イブン・ハリタの子。西暦632年5月、闘病中のムハンマドから、父の殺害の復讐としてバルカ遠征の司令官に任じられ、1,000名の騎兵を含む3,000名を招集した。遠征はムハンマドの死により延期されたが、カリフに選ばれたアブー・バクルが直様出撃命令を下した。
- アブー・ドゥジャーナ メッカの迫害からヤスリブへ逃れ、ムハンマドと行動を共にしたアンサールの一人。西暦632年のハッジに際し、留守中のマディーナを守るよう言い付けられた。
- サード・イブン・ウバダ マディーナを拠点とするアラブのハズラジ族サイダ一族の長。サキファの集会でアブー・バクルの擁立に反発し、集会は解散となった。
主要な地名・拠点
- ヒラー山 メッカに在る山。西暦610年8月19日、其の洞窟でムハンマドが天使ジブリールより唯一神アッラーの啓示を受けた。本書の起点。
- メッカ 現在のサウジアラビアのマッカ州。宣教の始まった地であり、クライシュ族の迫害によってムハンマドが去った地でもある。西暦630年1月、アブー・スフヤーンとの折衝により無血で征服された。
- カアバ神殿 メッカに在る神殿。各部族の巡礼団への宣教の場であり、ヤスリブから来た6名が改宗した場所でもある。西暦624年2月に礼拝の方向として定められ、メッカ征服の際には内部の360体の偶像が破壊された。
- ヤスリブ 後のマディーナ、現在のサウジアラビアのマディーナ州。住民の約1/3がユダヤ教徒、2/3が多神教徒のアラブ人で、アウス族とハズラジュ族が「血の復讐」の悪循環に陥っていた。平和を回復する強力な調停者を必要としており、西暦622年9月24日、ムハンマドが到着した。
- アクスム王国 現在のエリトリア。西暦615年、ムハンマドの勧めにより100名以上のムスリムが保護を求めて亡命し、受け入れられた。
- ターイフ 現在のサウジアラビアのマッカ州。西暦620年、ムハンマドが現地のタキフ族への布教を試みたが拒まれた。後にフナインでムスリムと戦うタキフ族の拠点でもある。
- アカバ 現在のヨルダン。西暦621年7月頃に12名の部族代表者が、西暦622年6月に75名の使節団が、ムハンマドと会見を開いた地。後者では、彼を神の使徒と認め武力で守る事が誓われた。
- バドル 現在のサウジアラビアのマディーナ州。西暦624年3月17日、300名を率いるムハンマドと、600名の重装兵を含む1,000名のメッカ軍が激突した。井戸を埋める助言と要衝の確保により、ムハンマド側が勝利した。
- ウフド 現在のサウジアラビアのマディーナ州。西暦625年3月23日、3,000名を率いるアブー・スフヤーンを迎え撃った地。騎馬隊の奇襲で軍は混乱しムハンマドも負傷したが、マディーナは守り切られた。
- フダイビーヤ 現在のサウジアラビアのマッカ州。西暦628年3月、待ち伏せの報告を受けたムハンマドが留まって交渉に備えた地。使者の応酬とバイアを経て、10年間の休戦を柱とする和約が結ばれた。
- カイバー 現在のサウジアラビアのマディーナ州。マディーナから追放されたユダヤ教徒系のナディール族の移住先。西暦628年、二つの城塞への二度の遠征により降伏し、収穫量の半分を税として納める条件で居住が許された。
- ムウタ 現在のヨルダンのカラク県。書簡を運ぶハリス・ビン・アムル・アル・アズディが殺害された地であり、西暦629年9月10日、其の報復に向かった3,000名が東ローマ帝国軍と戦った戦場。ハリータ・ターリブ・ラワハが相次いで倒れ、ワリードが撤退を成功させた。
- フナイン 現在のサウジアラビアのマッカ州。西暦630年1月31日、ムハンマドの10,000名とクライシュ族2,000名が到着し、待ち構えたハワジン族らの先制攻撃を受けた。混乱から立て直したムスリムが勝利した。
- アラファト山 西暦632年3月7日、ムハンマドが登り、アラファトはハッジの不可欠の部分であり、ハッジはアブラハムからの崇高な遺産であると説いた山。
- サキファ 現在のサウジアラビアのマディーナ州。ムハンマドの死後にアンサールの集会が開かれた地。共同統治の提案とサード・イブン・ウバダの反発を経て集会は解散し、最終的にアブー・バクルが初代正統カリフに選出された。
啓示・迫害・移住・戦い・征服──
イスラム教が興り、アラビアを覆う迄の全過程を一元化。
JPY 200(税込)
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