イスラム教の
預言者ムハンマド一元化
ヒラー山の啓示から、メッカ征服へ──
預言者ムハンマドの歩みを一元化。
280円(税込)
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本書について
西暦610年8月19日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがメッカ(現在のサウジアラビアのマッカ州)にあるヒラー山の洞窟で、天使ジブリールより唯一神アッラーの啓示を受け、最初の妻であるハディージャ・ビント・フワイリドに其の出来事を話す。其の後ハディージャ・ビント・フワイリドの従兄弟でキリスト教ネストリウス派修道僧ワラカ・イブン・ナウファルに相談した所、預言者のアブラハムと、ノアと、モーセと、イエス・キリストも同様の経験をしたが、敵対されなかった者はいない事を話す。其の後も神の啓示がアブドゥッラーフに次々に下された。そしてアブドゥッラーフは、従兄弟のアリー・イブン・アビー・ターリブや友人のアブー・バクルに啓示の教えを説き、イスラム教を始めた。本書は、此のムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがヒラー山の洞窟で啓示を受けた日から、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフのメッカでのイスラム教の宣教の開始、100名以上のムスリムのアクスム王国への亡命、ハディージャ・ビント・フワイリドとアブー・ターリブの死去、アカバでのムハンマド・イブン・アブドゥッラーフとヤスリブの使節団の会見、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフとアブー・バクルのヤスリブへの到着、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフによる礼拝の方向のカアバ神殿への変更、バドルでのムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ率いる軍の勝利、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフによるウフドでのメッカ軍の迎撃、塹壕に苦戦したメッカ軍に対するムハンマド軍の勝利、フダイビーヤでのムハンマド・イブン・アブドゥッラーフとクライシュ族の和約の成立、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフによるカイバーのナディール族の降伏、ムウタでのザイド・イブン・ハリータ率いる軍と東ローマ帝国軍の戦闘、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフによるメッカの無血征服、フナインでのムスリムの勝利、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ率いるハッジ団のメッカへの到着を経て、西暦632年6月8日のムハンマド・イブン・アブドゥッラーフの死去と、其の後のアブー・バクルの初代正統カリフへの選出迄を一元化した記録である。
西暦614年頃、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがメッカでイスラム教の宣教を始める。当初はクライシュ族(メッカ周辺のアラブ部族)はアブドゥッラーフを嘲笑していたが、信者が増えるに連れ、アブドゥッラーフやムスリムに対して迫害を行い、棄教を迫るようになった。西暦615年、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフの勧めで、100名以上のムスリムが、アクスム王国(現在のエリトリア)へ保護を求めて亡命し、アクスム王国は其れを受け入れた。
西暦619年11月22日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフのハディージャ・ビント・フワイリドが死去する。同時期にムハンマドの叔父で育ての親であるアブー・ターリブが死去し、2人の死に伴い、クライシュ族の迫害が激しくなる。西暦620年、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、ターイフ(現在のサウジアラビアのマッカ州)にて、現地のタキフ族にイスラム教を布教しようとするが、拒否される。又此の年、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフはカアバ(現在のサウジアラビアのマッカ州)を訪れた各部族の巡礼団に対し、宣教を行っていた。此の時ムハンマドの教えを聞いてイスラム教に改宗した者の中にヤスリブ(後のマディーナ、現在のサウジアラビアのマディーナ州)から来たアウス族とハズラジュ族の巡礼団6名がいた。ヤスリブに帰った彼らはイスラム教を布教した。当時のヤスリブは住民の約1/3がクライザ族やナディール族、カイヌカー族等のユダヤ教徒で、2/3が多神教徒のアラブ人であった。当時のヤスリブではアラブ人の有力部族であるアウス族とハズラジュ族がユダヤ教徒を巻き込んで何十年にも渡る抗争を繰り広げていた。国家が存在していなかった当時のアラビアでは、部族の一員が殺害された際には敵対部族を殺害する事によって勢力均衡を図る「血の復讐」と呼ばれる制度が形成されており、両部族は復讐の悪循環に陥っていた。其処でヤスリブは平和の回復の為強力な権威を持つ調停者、指導者を必要としていた。
西暦621年7月頃、前年カアバでイスラム教に改宗した6名の内5名を含む12名の部族代表者が、ヤスリブからムハンマド・イブン・アブドゥッラーフの元を訪れる。彼らはアカバ(現在のヨルダン)で会見を開き、多神教の崇拝、盗み、姦通、女児殺し、隣人への中傷等を止める事を誓った。其の後、ムハンマドは信頼の置ける弟子であるムスアブ・イブン・ウマイルをヤスリブへ送り、新たな信徒の獲得に努めた。此れにより、ヤスリブではどの家庭に於いても家族の誰かはムスリムであるという状態になった。西暦622年5月頃、ムスアブ・イブン・ウマイルがヤスリブからメッカに戻り、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフにヤスリブでの布教の成功を報告する。6月、男性73名、女性2名から成る75名のヤスリブの使節団がムハンマド・イブン・アブドゥッラーフの元を訪れる。アカバで会見を開き、彼らはアブドゥッラーフを神の使徒として認め、武力でムハンマドとイスラム教を守る事を誓った。7月16日、クライシュ族からの迫害を受け、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフとアブー・バクルがヤスリブへ向けてメッカを出発する。9月24日、クライシュ族からの迫害を受け、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフとアブー・バクルがヤスリブに到着する。直ちにユダヤ教の制度を取り入れ、礼拝の方向をエルサレム神殿に定めた。
西暦623年、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、アブー・バクルの娘アーイシャ・ビント・アブー・バクルと再婚する。西暦624年2月、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがイスラム教の礼拝の方向をエルサレム神殿からメッカのカアバ神殿に変更する。3月17日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、シリアからクライシュ族率いるメッカ軍が帰って来る事を聞き、300名を率い、バドル(現在のサウジアラビアのマディーナ州)に出撃した。此れを受けメッカ軍保護の為、残るクライシュ族の600名の重装兵を含む1,000名がバドルに出撃し、両軍が激突する。ハバブ・イブン・ムンドヒールはアブドゥッラーフに1つの井戸を除く全ての井戸を埋める事を助言した。最終的にアブドゥッラーフ率いる軍が素早く要衝を押さえ勝利する。
西暦625年3月23日、メッカ軍の指導者アブー・スフヤーンが3,000名の兵を率いマディーナに進軍し、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがウフド(現在のサウジアラビアのマディーナ州)で此れを迎え撃った。最初はムハンマド側が有利であったが、メッカ軍の騎馬隊の奇襲に遭い、ムハンマド軍は混乱し、ムハンマドも負傷した。メッカ軍は報復に満足して引揚げた。ムハンマドはかなりの犠牲を払ったが、マディーナを守り切った。西暦627年3月、2年前の敗戦を教訓にムハンマド・イブン・アブドゥッラーフは、教友であり、土木技術者のサルマーン・アル・ファーリスィーに塹壕を掘らせていた。アブー・スフヤーン率いるメッカ軍はアラビア北西部の遊牧民から勇猛な騎兵を集め、更にムハンマドによって追放されたユダヤ教徒を加えた10,000名の軍勢でマディーナに向かって進撃する。然し、初めて見る塹壕に苦戦し、マディーナ内にいるユダヤ教徒と連携を試み、協定を結ぶが、ユダヤ教徒がメッカ側に人質を要求した事から話が拗れ、ユダヤ教徒が参戦する事は無かった。結果、ムハンマド軍が勝利する。クライシュ族の権威は低下し、遊牧民や小オアシスの住民の中には同盟相手をクライシュ族からムハンマドに変える勢力が多く現れた。又、スフヤーンは指揮権を他のクライシュ族に譲る事となった。
西暦628年1月10日、ザイド・イブン・ハリータが前年11月のワーディー・アル・クラーでの負傷の怪我が癒えた為、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフの指示で、大軍を率い、朝の祈りを終えた後、再度ワーディー・アル・クラーへ攻め込み、ファザラ族を撃破した。又、ウンム・キルファと、アブダラ・ビン・マスアダの2名を捕虜にした。ハリータの指示によりキルファは両足をロープで縛られ、其のロープを2頭の駱駝に結び付け、2つに切断された。其の後キルファは斬首され、首級はアブドゥッラーフに贈られた。2月、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、暗殺されたアブ・ラフィーの後任としてカイバルのユダヤ人の長に就き、ラフィーと同じくガタファン族と良好な関係を維持していたアル・ユサイル・イブン・リザムが自身の襲撃を計画している事を聞き付ける。其処でカズラジ族の指導者アブドゥッラー・イブン・ラワハに3名の従者と共にカイバル(現在のサウジアラビアのマディーナ州)にてリザムに気付かれぬ様情報収集する事を指示した。ラワハ達は、リザムが暗殺を酷く警戒している事を知り、マディーナに帰還し、アブドゥッラーフに報告した。アブドゥッラーフは戦略を練り直し、30名の部下に、駱駝に跨りリザムにマディーナを訪れる様説得する事を指示した。リザムはアブドゥッラー・イブン・ウナイスの馬に乗せられ、ウナイスが其の後ろに乗った。他の馬もユダヤ人が前、ムスリムが後ろに乗る形となった。カイバルから6マイル離れたアル・カルカラートに到着した時、リザムは不審に思いアブドゥッラーフに会いに行く事を思い直し、馬から降り、剣を抜いた。ウナイスはリザムが剣を抜いた事を察知し、突進してリザムの股関節に致命的な一撃を与えた。リザムは床に倒れたがウナイスを殴った。ウナイスは、駱駝の杖を使ってリザムを攻撃した。此れはムスリムの一斉攻撃を行う合図であり、ムスリムは前に乗っていたユダヤ人を殺害していった。結果、逃走に成功した1名を除くリザムとリザムの従者計29名のユダヤ人が殺害された。
西暦628年3月、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、信徒を連れ小巡礼の為メッカのカアバ神殿へ向かった。現地で武装したクライシュ族が待ち伏せしているという報告を受けたアブドゥッラーフは、フダイビーヤ(現在のサウジアラビアのマッカ州)に留まり交渉に備えた。先ず、クライシュ族からムハンマドにマディーナへの撤退を求める使者が送られ、メッカに帰還した使者はムハンマドの信徒の忠誠心の高さを報告した。次にアブドゥッラーフはヒラーシュ・イブン・ウマイヤ・アルフザーイーを派遣したが、アルフザーイーがアブドゥッラーフの伝言を伝えると、クライシュ族は激怒し、アルフザーイーの乗っていた駱駝を斬殺、アルフザーイーはそのままフダイビーヤへ戻った。次にアブドゥッラーフはウマル・イブン・ハッターブを使者に選んだが、自身がクライシュ族と敵対している事を理由に辞退、結果ウスマーン・イブン・アッファーンが使者として派遣された。伝言を聞いたクライシュ族はカアバ神殿の周囲を回る儀礼である「タワーフ」を認めたが、アッファーンは妥協しなかった為監禁され、アブドゥッラーフにアッファーン殺害の知らせを届け、ムスリム達は激怒した。ムハンマドは彼らにいかなる事態が起きても自分の命令に従う様、バイア(忠誠の誓い)を行わせた。解放されたアッファーンが帰還した後、クライシュ族からスハイル・イブン・アムルが使者としてフダイビーヤに派遣され、協議を経て、10年間の休戦と、巡礼団は一旦マディーナに帰還し、翌年にムスリムの巡礼の為に3日間マッカを開放する事と、保護者の同意なくマディーナに移住したマッカの住民を無条件でマッカに送還する事と、ムハンマドの元からマッカのクライシュ族の元に移った人間はそのままマッカに留め置かれる事と、マッカ周辺の部族、個人は自由にムハンマドと同盟を締結出来る事を内容とする和約が成立した。マッカ側はムハンマドが「アッラーの使徒」として和議を結ぶ事を認めず、「アブドゥッラーの息子ムハンマド」として署名を行わせた。クライシュ族側に有利な内容であった為ハッターブは不満を示した。一方でアブー・バクルはアブドゥッラーフの決定に従った。結局此の年はアブドゥッラーフが目的としていた小巡礼を行う事が出来ず、マディーナに帰還するが、此れに関し多くのムスリムが困惑した。
西暦628年5月、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、先年マディーナから追放したユダヤ教徒系のナディール族の移住先カイバー(現在のサウジアラビアのマディーナ州)の二つの城塞に征伐の為遠征を行う。6月、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、2度の遠征によりカイバーのナディール族を降伏させる。アブドゥッラーフはカイバーのナツメヤシ等の耕地に対し、収穫量の半分を税として課す事を条件に、ナディール族がカイバーに住み続ける事を許可した。又、ワーディー・アル・クラー(現在のサウジアラビアのマディーナ州)と、タイマー(現在のサウジアラビアのタブーク州)と、ハナック(現在のサウジアラビアのタブーク州)のユダヤ教徒系の諸部族が相次いでアブドゥッラーフに服従する事となった。
西暦629年7月、ヘラクレイオスとササン朝ペルシアの将軍シャフルバラーズの間で和平協定が結ばれる。此れを受け東ローマ帝国は領土の再占領を行い、サケラリオスであるテオドールを指揮官に据え、バルカ(現在のヨルダン)ではアラブ部族も起用した。一方、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフは、ボスラ(現在のシリアのダルアー県)のガッサーン朝総督ハリス・ビン・アビ・シムル・アル・ガッサニー宛の書簡をハリス・ビン・アムル・アル・アズディに持たせ、ボスラに差し向けていたが、ガッサーン朝連合総督シュラービル・イブン・アムルに捕縛され、ムウタ(現在のヨルダンのカラク県)で殺害された。9月10日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、ハリス・ビン・アムル・アル・アズディ殺害の報復の為にザイド・イブン・ハリータを司令官とする軍勢3,000名をシリアへ派遣したが、東ローマ帝国軍がムシャリフ村で待ち伏せていた。東ローマ帝国軍がハリータ率いる軍に攻撃を仕掛け、ムウタで戦闘が始まる。副官はジャファル・イブン・アビ・ターリブと、アブドゥッラー・イブン・ラワハの2名が務めた。アブドゥッラーフは「ハリータが負傷または死亡した場合、ターリブが指揮を引き継ぐ。ターリブが死傷した場合は、ラワハがその代わりを務める。ラワハが殺された場合は、ムスリムが自ら指揮官を任命する様に」と指示を出していた。戦闘は2つの高台に挟まれた谷間で行われ、東ローマ帝国軍の数的優位は失われた。然しハリータ率いる軍は東ローマ帝国とガッサーン朝の前に劣勢となり、指揮官であるハリータは殺害された。ターリブは「私の息子達の様に戦える者はいない、何故なら彼らが戦場にいる時、最も獰猛だからだ。楽園が近づくにつれ、何と素晴らしいことか。其の飲み物は、何と心地よく、涼しいことか。東ローマ帝国人への罰はそう遠くない」と言ったが、東ローマ帝国軍に背後から殴られ、両腕を切り落とされ殺害された。又、ラワハやワッハーブ・イブン・サードも戦死してしまう。タビット・イブン・アクラムは、此のムスリムの絶望的な状況を打開する為に旗を手にし、仲間を結集させ敗走した。其の後ハーリド・イブン・アル・ワリードに指揮を執る様求めた。そしてワリードは機転を働かせて潰走するムスリムを纏め上げ、無事に撤退させた。ムスリムは東ローマ帝国軍の規模を知るとマディーナからの援軍を待ち望んだ。然し、ラワハは殉教を思い出させ、援軍を待つという行為を否定し、進軍させた。アブドゥッラーフはターリブの死の知らせを聞くと「ターリブは勇敢で忠実な兵士であった。神は彼に永遠の命を与え、戦いで切り落とされた腕の代わりに、主は彼に一対の翼を与えた」と言い冥福を祈った。又、ターリブの妻であり未亡人となったアスマは「神の使徒が私のところに来て”ターリブの子供達は何処にいるのか”と尋ねました。私は彼等を連れて行くと、彼は彼らを抱きしめ匂いを嗅いだ後、目を潤ませ泣いた。神の使徒よ、と私は”ターリブについて何か聞いたか”と尋ねた。神の使徒は”はい、彼は今日、殉教したのです”と答えた。私は立ち上がって叫び、女性達が私の所に来た。アブドゥッラーフは”アスマよ、卑猥な言葉を口にしたり、胸を張ったりしてはならない”と言い始めたのです」という主旨の発言をした。更にアブドゥッラーフは「アスマよ、喜ばないのか?神はターリブに2つの翼を与え、ターリブは楽園へと飛び立っていった」と言った。其れからアブドゥッラーフは娘のファーティマに「ターリブの家族の為に食べ物を用意しなさい、今日は忙しそうだから」と言った。12月、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが10,000名の軍勢でマディーナからメッカへ向けて出撃する。此の時ハワジン族と、ターイフを拠点とするタキフ族が、送り込んでいたスパイによって此の事実を知り、メッカを包囲している間にアブドゥッラーフの軍を攻撃する為兵の動員を始める。然しアブドゥッラーフもハワジン族の野営地に送り込んでいたスパイにより兵の動員の情報を掴んだ。
西暦630年1月、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、アブー・スフヤーンと折衝しメッカを無血征服する。又、カアバ神殿にあった360体の偶像を破壊する。アブー・スフヤーンがイスラム教に改宗する。又、クライシュ族との和解に出費が必要となった為、租税制度である「ザカート」の徴収を始める。1月31日、メッカへ出撃したムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ率いる10,000名の軍勢と、アブー・スフヤーン率いるクライシュ族2,000名の軍勢がフナイン(現在のサウジアラビアのマッカ州)に到着する。先行してフナインに入っていたマリク・ビン・アウフは4,000名の部下に対しハワジン族・タキフ族・ベドウィン族・サキーフ族を見つけた際は石を投げつけてから単体で攻撃する事を命じた。ムスリムが野営を始めるとハワジン族・タキフ族・ベドウィン族・サキーフ族が矢を放ち先制攻撃を行った。ムスリムは混乱し撤退したが、アリー・イブン・アビー・ターリブ、ウサマ・イブン・ザイド、ファドル・イブン・アッバス等数名が後方で戦った。又、アブドゥッラーフと共にマディーナに移住したムハージルーンであるアブー・バクルと、ウマル・イブン・ハッターブと、ターリブ(アブドゥッラーフの従兄弟)と、アブドゥッラー・イブン・マスードと、アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブ(アブドゥッラーフの叔父)と、アブ・スフヤーン・イブン・アル・ハリス(アブドゥッラーフの従兄弟)と、アッバス(アブドゥッラーフの従兄弟)と、ザイド(アブドゥッラーフの養子)と、アイマン・イブン・ウベイド(ザイドの異母兄弟)がアブドゥッラーフを擁護した。そしてウベイドが戦死し、アブドゥッラーフは「さあ、人々よ。私はアッラーの使徒です。私はアブドゥッラーフの子ムハンマドです」「嗚呼、アッラー、あなたの助けを送ってください」と言った。ムスリムが戦場に戻りアブドゥッラーフは「貴方の顔が恥ずべき事でありますように」と言いながら砂を敵に投げつけ混乱させた。サキーフ族だけで約70名が殺害され、ムスリムは乗馬用の駱駝・武器・牛を奪い戦いに勝利した。
西暦632年2月22日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、メッカの迫害からヤスリブに逃れ、ムハンマドと行動を共にした人であるアンサールのアブー・ドゥジャーナを呼んで、自分が留守の間、マディーナを守るように言い付け、マディーナや近隣の村々やムハンマドの妻を含む10,000名がメッカのハッジ(大巡礼)の為出発した。夕方にマディーナ内のモスクのズルフライハで野営した。2月23日朝、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフはイフラームと呼ばれるハッジ用の縫目の無い二切れの白布を纏い、ハッジ団の男性も其れに倣う。アブドゥッラーフは愛用の雌駱駝「カスワ」に跨り「貴方の前にいます、アッラーよ」と唱え、ハッジ団が復唱した。3月3日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ率いるハッジ団がメッカに到着する。アブドゥッラーフはカアバ神殿の前で「アッラーよ、此の家に祝福と栄光を与えて下さい」と祈った。モスクで礼拝を行った後、丘へ登り「アッラーの他に神はなく、彼に仲間もなく、主権と栄光はアッラーだけのもの。彼は生を与え、又死を与える。彼は全能で、総てを超えて至上の存在である」と唱えた。3月7日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがアラファト山を登り、「アラファトはハッジの不可欠の部分であり、ハッジはアブラハムからの崇高な遺産である」と説いた。5月、闘病中のムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、西暦629年9月10日のムウタでの戦闘で、アブドゥッラーフの養子でありウサーマ・ビン・ザイドの父ザイド・イブン・ハリタが殺害された件の復讐の為、司令官にウサーマ・ビン・ザイドを任命し、東ローマ帝国のバルカ(現在のヨルダン)攻撃の遠征を命じる。ウサーマ・ビン・ザイドは1,000名の騎兵を含む3,000名を招集し、スパイを送り込み、まだ敵兵がウサーマ・ビン・ザイドの軍に気付いていない事を把握した。
西暦632年6月8日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、アラビア半島から異教徒を追放する事と、自分の死後もクルアーンに従う事の遺言を残し死去する。ウサーマ・ビン・ザイドのバルカ遠征は延期となった。ウマル・イブン・ハッターブは「アブドゥッラーフは神に相談しに行き、直ぐに戻ってくる」という主旨の発言を行い「アブドゥッラーフは死んだ」と口にする者を脅した。マディーナに帰還したアブー・バクルはハッターブにアブドゥッラーフの遺体を見せて納得させ、落ち着かせた。其の後サキファ(現在のサウジアラビアのマディーナ州)でアンサールの集会が開かれた。集会が行われる事を知ったバクルとハッターブは現場に急行した。バクルは、クライシュ族以外の者を指導者に据えると不和になる可能性が高い、と警告を発すると同時に、ウマル・ブン・アル・ハッターブとアブー・ウバイダが、バクルをアブドゥッラーフの後継者として推して、人々に支持を求めて働きかけた。ハバブ・イブン・ムンドヒールはクライシュ族とアンサール族が其々リーダーを選び、共同で統治する事を提案した。ハッターブはバクルを推薦し、周囲の者も其れに倣った。マディーナを拠点とするアラブのハズラジ族のサイダ一族の長サード・イブン・ウバダは此れに反発し、集会は解散となった。最終的にアブー・バクルが初代正統カリフに選出された。バクルは直様ウサーマ・ビン・ザイドに出撃命令を出した。ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがヒラー山の洞窟で啓示を受けた日から、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフのメッカでのイスラム教の宣教の開始、100名以上のムスリムのアクスム王国への亡命、ハディージャ・ビント・フワイリドとアブー・ターリブの死去、アカバでのムハンマド・イブン・アブドゥッラーフとヤスリブの使節団の会見、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフとアブー・バクルのヤスリブへの到着、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフによる礼拝の方向のカアバ神殿への変更、バドルでのムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ率いる軍の勝利、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフによるウフドでのメッカ軍の迎撃、塹壕に苦戦したメッカ軍に対するムハンマド軍の勝利、フダイビーヤでのムハンマド・イブン・アブドゥッラーフとクライシュ族の和約の成立、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフによるカイバーのナディール族の降伏、ムウタでのザイド・イブン・ハリータ率いる軍と東ローマ帝国軍の戦闘、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフによるメッカの無血征服、フナインでのムスリムの勝利、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ率いるハッジ団のメッカへの到着を経て、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフの死去とアブー・バクルの初代正統カリフへの選出に至る迄——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。
登場人物
- ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ 西暦610年8月19日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがメッカにあるヒラー山の洞窟で、天使ジブリールより唯一神アッラーの啓示を受け、最初の妻であるハディージャ・ビント・フワイリドに其の出来事を話す。其の後ハディージャ・ビント・フワイリドの従兄弟でキリスト教ネストリウス派修道僧ワラカ・イブン・ナウファルに相談した所、ナウファルは、預言者のアブラハムと、ノアと、モーセと、イエス・キリストも同様の経験をしたが、敵対されなかった者はいない事を話す。其の後も神の啓示がアブドゥッラーフに次々に下された。そしてアブドゥッラーフは、従兄弟のアリー・イブン・アビー・ターリブや友人のアブー・バクルに啓示の教えを説き、イスラム教を始めた。西暦614年頃、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがメッカでイスラム教の宣教を始める。当初はクライシュ族(メッカ周辺のアラブ部族)はアブドゥッラーフを嘲笑していたが、信者が増えるに連れ、アブドゥッラーフやムスリムに対して迫害を行い、棄教を迫るようになった。西暦615年、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフの勧めで、100名以上のムスリムが、アクスム王国へ保護を求めて亡命し、アクスム王国は其れを受け入れた。西暦619年11月22日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフのハディージャ・ビント・フワイリドが死去する。同時期にムハンマドの叔父で育ての親であるアブー・ターリブが死去し、2人の死に伴い、クライシュ族の迫害が激しくなる。西暦620年、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、ターイフにて、現地のタキフ族にイスラム教を布教しようとするが、拒否される。又此の年、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフはカアバを訪れた各部族の巡礼団に対し、宣教を行っていた。此の時ムハンマドの教えを聞いてイスラム教に改宗した者の中にヤスリブ(後のマディーナ、現在のサウジアラビアのマディーナ州)から来たアウス族とハズラジュ族の巡礼団6名がいた。西暦621年7月頃、前年カアバでイスラム教に改宗した6名の内5名を含む12名の部族代表者が、ヤスリブからムハンマド・イブン・アブドゥッラーフの元を訪れる。彼らはアカバで会見を開き、多神教の崇拝、盗み、姦通、女児殺し、隣人への中傷等を止める事を誓った。其の後、ムハンマドは信頼の置ける弟子であるムスアブ・イブン・ウマイルをヤスリブへ送り、新たな信徒の獲得に努めた。西暦622年6月、男性73名、女性2名から成る75名のヤスリブの使節団がムハンマド・イブン・アブドゥッラーフの元を訪れる。アカバで会見を開き、彼らはアブドゥッラーフを神の使徒として認め、武力でムハンマドとイスラム教を守る事を誓った。7月16日、クライシュ族からの迫害を受け、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフとアブー・バクルがヤスリブへ向けてメッカを出発する。9月24日、クライシュ族からの迫害を受け、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフとアブー・バクルがヤスリブに到着する。直ちにユダヤ教の制度を取り入れ、礼拝の方向をエルサレム神殿に定めた。西暦623年、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、アブー・バクルの娘アーイシャ・ビント・アブー・バクルと再婚する。西暦624年2月、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがイスラム教の礼拝の方向をエルサレム神殿からメッカのカアバ神殿に変更する。3月17日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、シリアからクライシュ族率いるメッカ軍が帰って来る事を聞き、300名を率い、バドルに出撃した。此れを受けメッカ軍保護の為、残るクライシュ族の600名の重装兵を含む1,000名がバドルに出撃し、両軍が激突する。ハバブ・イブン・ムンドヒールはアブドゥッラーフに1つの井戸を除く全ての井戸を埋める事を助言した。最終的にアブドゥッラーフ率いる軍が素早く要衝を押さえ勝利する。西暦625年3月23日、メッカ軍の指導者アブー・スフヤーンが3,000名の兵を率いマディーナに進軍し、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがウフドで此れを迎え撃った。最初はムハンマド側が有利であったが、メッカ軍の騎馬隊の奇襲に遭い、ムハンマド軍は混乱し、ムハンマドも負傷した。メッカ軍は報復に満足して引揚げた。ムハンマドはかなりの犠牲を払ったが、マディーナを守り切った。西暦627年3月、2年前の敗戦を教訓にムハンマド・イブン・アブドゥッラーフは、教友であり、土木技術者のサルマーン・アル・ファーリスィーに塹壕を掘らせていた。アブー・スフヤーン率いるメッカ軍はアラビア北西部の遊牧民から勇猛な騎兵を集め、更にムハンマドによって追放されたユダヤ教徒を加えた10,000名の軍勢でマディーナに向かって進撃する。然し、初めて見る塹壕に苦戦し、マディーナ内にいるユダヤ教徒と連携を試み、協定を結ぶが、ユダヤ教徒がメッカ側に人質を要求した事から話が拗れ、ユダヤ教徒が参戦する事は無かった。結果、ムハンマド軍が勝利する。西暦628年2月、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、アル・ユサイル・イブン・リザムが自身の襲撃を計画している事を聞き付ける。リザムは暗殺されたアブ・ラフィーの後任としてカイバルのユダヤ人の長に就き、ラフィーと同じくガタファン族と良好な関係を維持していた。其処でアブドゥッラーフはカズラジ族の指導者アブドゥッラー・イブン・ラワハに3名の従者と共にカイバルにてリザムに気付かれぬ様情報収集する事を指示した。ラワハ達は、リザムが暗殺を酷く警戒している事を知り、マディーナに帰還し、アブドゥッラーフに報告した。アブドゥッラーフは戦略を練り直し、30名の部下に、駱駝に跨りリザムにマディーナを訪れる様説得する事を指示した。3月、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、信徒を連れ小巡礼の為メッカのカアバ神殿へ向かった。現地で武装したクライシュ族が待ち伏せしているという報告を受けたアブドゥッラーフは、フダイビーヤに留まり交渉に備えた。クライシュ族からスハイル・イブン・アムルが使者としてフダイビーヤに派遣され、協議を経て、10年間の休戦と、巡礼団は一旦マディーナに帰還し、翌年にムスリムの巡礼の為に3日間マッカを開放する事と、保護者の同意なくマディーナに移住したマッカの住民を無条件でマッカに送還する事と、ムハンマドの元からマッカのクライシュ族の元に移った人間はそのままマッカに留め置かれる事と、マッカ周辺の部族、個人は自由にムハンマドと同盟を締結出来る事を内容とする和約が成立した。マッカ側はムハンマドが「アッラーの使徒」として和議を結ぶ事を認めず、「アブドゥッラーの息子ムハンマド」として署名を行わせた。結局此の年はアブドゥッラーフが目的としていた小巡礼を行う事が出来ず、マディーナに帰還するが、此れに関し多くのムスリムが困惑した。5月、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、先年マディーナから追放したユダヤ教徒系のナディール族の移住先カイバーの二つの城塞に征伐の為遠征を行う。6月、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、2度の遠征によりカイバーのナディール族を降伏させる。アブドゥッラーフはカイバーのナツメヤシ等の耕地に対し、収穫量の半分を税として課す事を条件に、ナディール族がカイバーに住み続ける事を許可した。西暦629年7月、ヘラクレイオスとササン朝ペルシアの将軍シャフルバラーズの間で和平協定が結ばれる。一方、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフは、ボスラのガッサーン朝総督ハリス・ビン・アビ・シムル・アル・ガッサニー宛の書簡をハリス・ビン・アムル・アル・アズディに持たせ、ボスラに差し向けていたが、ハリス・ビン・アムル・アル・アズディはガッサーン朝連合総督シュラービル・イブン・アムルに捕縛され、ムウタで殺害された。9月10日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、ハリス・ビン・アムル・アル・アズディ殺害の報復の為にザイド・イブン・ハリータを司令官とする軍勢3,000名をシリアへ派遣したが、東ローマ帝国軍がムシャリフ村で待ち伏せていた。東ローマ帝国軍がハリータ率いる軍に攻撃を仕掛け、ムウタで戦闘が始まる。副官はジャファル・イブン・アビ・ターリブと、アブドゥッラー・イブン・ラワハの2名が務めた。アブドゥッラーフは「ハリータが負傷または死亡した場合、ターリブが指揮を引き継ぐ。ターリブが死傷した場合は、ラワハがその代わりを務める。ラワハが殺された場合は、ムスリムが自ら指揮官を任命する様に」と指示を出していた。アブドゥッラーフはターリブの死の知らせを聞くと「ターリブは勇敢で忠実な兵士であった。神は彼に永遠の命を与え、戦いで切り落とされた腕の代わりに、主は彼に一対の翼を与えた」と言い冥福を祈った。12月、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが10,000名の軍勢でマディーナからメッカへ向けて出撃する。西暦630年1月、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、アブー・スフヤーンと折衝しメッカを無血征服する。又、カアバ神殿にあった360体の偶像を破壊する。アブー・スフヤーンがイスラム教に改宗する。又、クライシュ族との和解に出費が必要となった為、租税制度である「ザカート」の徴収を始める。1月31日、メッカへ出撃したムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ率いる10,000名の軍勢と、アブー・スフヤーン率いるクライシュ族2,000名の軍勢がフナインに到着する。ムスリムが野営を始めるとハワジン族・タキフ族・ベドウィン族・サキーフ族が矢を放ち先制攻撃を行った。ムスリムは混乱し撤退したが、アリー・イブン・アビー・ターリブ、ウサマ・イブン・ザイド、ファドル・イブン・アッバス等数名が後方で戦った。又、アブドゥッラーフと共にマディーナに移住したムハージルーンであるアブー・バクルと、ウマル・イブン・ハッターブと、ターリブ(アブドゥッラーフの従兄弟)と、アブドゥッラー・イブン・マスードと、アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブ(アブドゥッラーフの叔父)と、アブ・スフヤーン・イブン・アル・ハリス(アブドゥッラーフの従兄弟)と、アッバス(アブドゥッラーフの従兄弟)と、ザイド(アブドゥッラーフの養子)と、アイマン・イブン・ウベイド(ザイドの異母兄弟)がアブドゥッラーフを擁護した。そしてウベイドが戦死し、アブドゥッラーフは「さあ、人々よ。私はアッラーの使徒です。私はアブドゥッラーフの子ムハンマドです」「嗚呼、アッラー、あなたの助けを送ってください」と言った。ムスリムが戦場に戻りアブドゥッラーフは「貴方の顔が恥ずべき事でありますように」と言いながら砂を敵に投げつけ混乱させた。サキーフ族だけで約70名が殺害され、ムスリムは乗馬用の駱駝・武器・牛を奪い戦いに勝利した。西暦632年2月22日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、メッカの迫害からヤスリブに逃れ、ムハンマドと行動を共にした人であるアンサールのアブー・ドゥジャーナを呼んで、自分が留守の間、マディーナを守るように言い付け、マディーナや近隣の村々やムハンマドの妻を含む10,000名がメッカのハッジ(大巡礼)の為出発した。2月23日朝、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフはイフラームと呼ばれるハッジ用の縫目の無い二切れの白布を纏い、ハッジ団の男性も其れに倣う。アブドゥッラーフは愛用の雌駱駝「カスワ」に跨り「貴方の前にいます、アッラーよ」と唱え、ハッジ団が復唱した。3月3日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ率いるハッジ団がメッカに到着する。アブドゥッラーフはカアバ神殿の前で「アッラーよ、此の家に祝福と栄光を与えて下さい」と祈った。モスクで礼拝を行った後、丘へ登り「アッラーの他に神はなく、彼に仲間もなく、主権と栄光はアッラーだけのもの。彼は生を与え、又死を与える。彼は全能で、総てを超えて至上の存在である」と唱えた。3月7日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがアラファト山を登り、「アラファトはハッジの不可欠の部分であり、ハッジはアブラハムからの崇高な遺産である」と説いた。5月、闘病中のムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、西暦629年9月10日のムウタでの戦闘で、アブドゥッラーフの養子でありウサーマ・ビン・ザイドの父ザイド・イブン・ハリタが殺害された件の復讐の為、司令官にウサーマ・ビン・ザイドを任命し、東ローマ帝国のバルカ攻撃の遠征を命じる。6月8日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、アラビア半島から異教徒を追放する事と、自分の死後もクルアーンに従う事の遺言を残し死去する。ウサーマ・ビン・ザイドのバルカ遠征は延期となった。
- ハディージャ・ビント・フワイリド 西暦610年8月19日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがメッカにあるヒラー山の洞窟で、天使ジブリールより唯一神アッラーの啓示を受け、最初の妻であるハディージャ・ビント・フワイリドに其の出来事を話す。其の後ハディージャ・ビント・フワイリドの従兄弟でキリスト教ネストリウス派修道僧ワラカ・イブン・ナウファルに相談した所、ナウファルは、預言者のアブラハムと、ノアと、モーセと、イエス・キリストも同様の経験をしたが、敵対されなかった者はいない事を話す。西暦619年11月22日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフのハディージャ・ビント・フワイリドが死去する。同時期にムハンマドの叔父で育ての親であるアブー・ターリブが死去し、2人の死に伴い、クライシュ族の迫害が激しくなる。
- ワラカ・イブン・ナウファル 西暦610年8月19日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがメッカにあるヒラー山の洞窟で、天使ジブリールより唯一神アッラーの啓示を受け、最初の妻であるハディージャ・ビント・フワイリドに其の出来事を話す。其の後ハディージャ・ビント・フワイリドの従兄弟でキリスト教ネストリウス派修道僧ワラカ・イブン・ナウファルに相談した所、ナウファルは、預言者のアブラハムと、ノアと、モーセと、イエス・キリストも同様の経験をしたが、敵対されなかった者はいない事を話す。
- アブー・バクル 西暦610年8月19日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがメッカにあるヒラー山の洞窟で、天使ジブリールより唯一神アッラーの啓示を受け、最初の妻であるハディージャ・ビント・フワイリドに其の出来事を話す。其の後も神の啓示がアブドゥッラーフに次々に下された。そしてアブドゥッラーフは、従兄弟のアリー・イブン・アビー・ターリブや友人のアブー・バクルに啓示の教えを説き、イスラム教を始めた。西暦622年7月16日、クライシュ族からの迫害を受け、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフとアブー・バクルがヤスリブへ向けてメッカを出発する。9月24日、クライシュ族からの迫害を受け、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフとアブー・バクルがヤスリブに到着する。西暦623年、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、アブー・バクルの娘アーイシャ・ビント・アブー・バクルと再婚する。西暦628年3月、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、信徒を連れ小巡礼の為メッカのカアバ神殿へ向かった。現地で武装したクライシュ族が待ち伏せしているという報告を受けたアブドゥッラーフは、フダイビーヤに留まり交渉に備えた。クライシュ族からスハイル・イブン・アムルが使者としてフダイビーヤに派遣され、協議を経て和約が成立した。クライシュ族側に有利な内容であった為ウマル・イブン・ハッターブは不満を示した。一方でアブー・バクルはアブドゥッラーフの決定に従った。西暦630年1月31日、メッカへ出撃したムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ率いる10,000名の軍勢と、アブー・スフヤーン率いるクライシュ族2,000名の軍勢がフナインに到着する。ムスリムが野営を始めるとハワジン族・タキフ族・ベドウィン族・サキーフ族が矢を放ち先制攻撃を行った。ムスリムは混乱し撤退したが、アリー・イブン・アビー・ターリブ、ウサマ・イブン・ザイド、ファドル・イブン・アッバス等数名が後方で戦った。又、アブドゥッラーフと共にマディーナに移住したムハージルーンであるアブー・バクルと、ウマル・イブン・ハッターブ等がアブドゥッラーフを擁護した。サキーフ族だけで約70名が殺害され、ムスリムは乗馬用の駱駝・武器・牛を奪い戦いに勝利した。西暦632年6月8日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、アラビア半島から異教徒を追放する事と、自分の死後もクルアーンに従う事の遺言を残し死去する。ウサーマ・ビン・ザイドのバルカ遠征は延期となった。ウマル・イブン・ハッターブは「アブドゥッラーフは神に相談しに行き、直ぐに戻ってくる」という主旨の発言を行い「アブドゥッラーフは死んだ」と口にする者を脅した。マディーナに帰還したアブー・バクルはハッターブにアブドゥッラーフの遺体を見せて納得させ、落ち着かせた。其の後サキファでアンサールの集会が開かれた。集会が行われる事を知ったバクルとハッターブは現場に急行した。バクルは、クライシュ族以外の者を指導者に据えると不和になる可能性が高い、と警告を発すると同時に、ウマル・ブン・アル・ハッターブとアブー・ウバイダが、バクルをアブドゥッラーフの後継者として推して、人々に支持を求めて働きかけた。ハバブ・イブン・ムンドヒールはクライシュ族とアンサール族が其々リーダーを選び、共同で統治する事を提案した。ハッターブはバクルを推薦し、周囲の者も其れに倣った。マディーナを拠点とするアラブのハズラジ族のサイダ一族の長サード・イブン・ウバダは此れに反発し、集会は解散となった。最終的にアブー・バクルが初代正統カリフに選出された。バクルは直様ウサーマ・ビン・ザイドに出撃命令を出した。
- アリー・イブン・アビー・ターリブ 西暦610年8月19日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがメッカにあるヒラー山の洞窟で、天使ジブリールより唯一神アッラーの啓示を受け、最初の妻であるハディージャ・ビント・フワイリドに其の出来事を話す。其の後も神の啓示がアブドゥッラーフに次々に下された。そしてアブドゥッラーフは、従兄弟のアリー・イブン・アビー・ターリブや友人のアブー・バクルに啓示の教えを説き、イスラム教を始めた。西暦630年1月31日、メッカへ出撃したムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ率いる10,000名の軍勢と、アブー・スフヤーン率いるクライシュ族2,000名の軍勢がフナインに到着する。ムスリムが野営を始めるとハワジン族・タキフ族・ベドウィン族・サキーフ族が矢を放ち先制攻撃を行った。ムスリムは混乱し撤退したが、アリー・イブン・アビー・ターリブ、ウサマ・イブン・ザイド、ファドル・イブン・アッバス等数名が後方で戦った。
- アブー・ターリブ 西暦619年11月22日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフのハディージャ・ビント・フワイリドが死去する。同時期にムハンマドの叔父で育ての親であるアブー・ターリブが死去し、2人の死に伴い、クライシュ族の迫害が激しくなる。
- ムスアブ・イブン・ウマイル 西暦621年7月頃、前年カアバでイスラム教に改宗した6名の内5名を含む12名の部族代表者が、ヤスリブからムハンマド・イブン・アブドゥッラーフの元を訪れる。彼らはアカバで会見を開き、多神教の崇拝、盗み、姦通、女児殺し、隣人への中傷等を止める事を誓った。其の後、ムハンマドは信頼の置ける弟子であるムスアブ・イブン・ウマイルをヤスリブへ送り、新たな信徒の獲得に努めた。此れにより、ヤスリブではどの家庭に於いても家族の誰かはムスリムであるという状態になった。西暦622年5月頃、ムスアブ・イブン・ウマイルがヤスリブからメッカに戻り、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフにヤスリブでの布教の成功を報告する。
- アーイシャ・ビント・アブー・バクル 西暦623年、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、アブー・バクルの娘アーイシャ・ビント・アブー・バクルと再婚する。
- ハバブ・イブン・ムンドヒール 西暦624年3月17日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、シリアからクライシュ族率いるメッカ軍が帰って来る事を聞き、300名を率い、バドルに出撃した。此れを受けメッカ軍保護の為、残るクライシュ族の600名の重装兵を含む1,000名がバドルに出撃し、両軍が激突する。ハバブ・イブン・ムンドヒールはアブドゥッラーフに1つの井戸を除く全ての井戸を埋める事を助言した。西暦632年6月8日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、アラビア半島から異教徒を追放する事と、自分の死後もクルアーンに従う事の遺言を残し死去する。其の後サキファでアンサールの集会が開かれた。ハバブ・イブン・ムンドヒールはクライシュ族とアンサール族が其々リーダーを選び、共同で統治する事を提案した。
- アブー・スフヤーン 西暦625年3月23日、メッカ軍の指導者アブー・スフヤーンが3,000名の兵を率いマディーナに進軍し、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがウフドで此れを迎え撃った。最初はムハンマド側が有利であったが、メッカ軍の騎馬隊の奇襲に遭い、ムハンマド軍は混乱し、ムハンマドも負傷した。メッカ軍は報復に満足して引揚げた。ムハンマドはかなりの犠牲を払ったが、マディーナを守り切った。西暦627年3月、2年前の敗戦を教訓にムハンマド・イブン・アブドゥッラーフは、教友であり、土木技術者のサルマーン・アル・ファーリスィーに塹壕を掘らせていた。アブー・スフヤーン率いるメッカ軍はアラビア北西部の遊牧民から勇猛な騎兵を集め、更にムハンマドによって追放されたユダヤ教徒を加えた10,000名の軍勢でマディーナに向かって進撃する。然し、初めて見る塹壕に苦戦し、マディーナ内にいるユダヤ教徒と連携を試み、協定を結ぶが、ユダヤ教徒がメッカ側に人質を要求した事から話が拗れ、ユダヤ教徒が参戦する事は無かった。結果、ムハンマド軍が勝利する。クライシュ族の権威は低下し、遊牧民や小オアシスの住民の中には同盟相手をクライシュ族からムハンマドに変える勢力が多く現れた。又、スフヤーンは指揮権を他のクライシュ族に譲る事となった。西暦630年1月、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、アブー・スフヤーンと折衝しメッカを無血征服する。アブー・スフヤーンがイスラム教に改宗する。1月31日、メッカへ出撃したムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ率いる10,000名の軍勢と、アブー・スフヤーン率いるクライシュ族2,000名の軍勢がフナインに到着する。
- サルマーン・アル・ファーリスィー 西暦627年3月、2年前の敗戦を教訓にムハンマド・イブン・アブドゥッラーフは、教友であり、土木技術者のサルマーン・アル・ファーリスィーに塹壕を掘らせていた。
- ザイド・イブン・ハリータ 西暦628年1月10日、ザイド・イブン・ハリータが前年11月のワーディー・アル・クラーでの負傷の怪我が癒えた為、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフの指示で、大軍を率い、朝の祈りを終えた後、再度ワーディー・アル・クラーへ攻め込み、ファザラ族を撃破した。又、ウンム・キルファと、アブダラ・ビン・マスアダの2名を捕虜にした。ハリータの指示によりキルファは両足をロープで縛られ、其のロープを2頭の駱駝に結び付け、2つに切断された。其の後キルファは斬首され、首級はアブドゥッラーフに贈られた。西暦629年9月10日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、ハリス・ビン・アムル・アル・アズディ殺害の報復の為にザイド・イブン・ハリータを司令官とする軍勢3,000名をシリアへ派遣したが、東ローマ帝国軍がムシャリフ村で待ち伏せていた。東ローマ帝国軍がハリータ率いる軍に攻撃を仕掛け、ムウタで戦闘が始まる。副官はジャファル・イブン・アビ・ターリブと、アブドゥッラー・イブン・ラワハの2名が務めた。アブドゥッラーフは「ハリータが負傷または死亡した場合、ターリブが指揮を引き継ぐ。ターリブが死傷した場合は、ラワハがその代わりを務める。ラワハが殺された場合は、ムスリムが自ら指揮官を任命する様に」と指示を出していた。戦闘は2つの高台に挟まれた谷間で行われ、東ローマ帝国軍の数的優位は失われた。然しハリータ率いる軍は東ローマ帝国とガッサーン朝の前に劣勢となり、指揮官であるハリータは殺害された。西暦632年5月、闘病中のムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、西暦629年9月10日のムウタでの戦闘で、アブドゥッラーフの養子でありウサーマ・ビン・ザイドの父ザイド・イブン・ハリタが殺害された件の復讐の為、司令官にウサーマ・ビン・ザイドを任命し、東ローマ帝国のバルカ攻撃の遠征を命じる。
- アブドゥッラー・イブン・ラワハ 西暦628年2月、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、アル・ユサイル・イブン・リザムが自身の襲撃を計画している事を聞き付ける。リザムは暗殺されたアブ・ラフィーの後任としてカイバルのユダヤ人の長に就き、ラフィーと同じくガタファン族と良好な関係を維持していた。其処でアブドゥッラーフはカズラジ族の指導者アブドゥッラー・イブン・ラワハに3名の従者と共にカイバルにてリザムに気付かれぬ様情報収集する事を指示した。ラワハ達は、リザムが暗殺を酷く警戒している事を知り、マディーナに帰還し、アブドゥッラーフに報告した。西暦629年9月10日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、ハリス・ビン・アムル・アル・アズディ殺害の報復の為にザイド・イブン・ハリータを司令官とする軍勢3,000名をシリアへ派遣したが、東ローマ帝国軍がムシャリフ村で待ち伏せていた。東ローマ帝国軍がハリータ率いる軍に攻撃を仕掛け、ムウタで戦闘が始まる。副官はジャファル・イブン・アビ・ターリブと、アブドゥッラー・イブン・ラワハの2名が務めた。アブドゥッラーフは「ハリータが負傷または死亡した場合、ターリブが指揮を引き継ぐ。ターリブが死傷した場合は、ラワハがその代わりを務める。ラワハが殺された場合は、ムスリムが自ら指揮官を任命する様に」と指示を出していた。戦闘は2つの高台に挟まれた谷間で行われ、東ローマ帝国軍の数的優位は失われた。然しハリータ率いる軍は東ローマ帝国とガッサーン朝の前に劣勢となり、指揮官であるハリータは殺害された。ターリブは「私の息子達の様に戦える者はいない、何故なら彼らが戦場にいる時、最も獰猛だからだ。楽園が近づくにつれ、何と素晴らしいことか。其の飲み物は、何と心地よく、涼しいことか。東ローマ帝国人への罰はそう遠くない」と言ったが、東ローマ帝国軍に背後から殴られ、両腕を切り落とされ殺害された。又、ラワハやワッハーブ・イブン・サードも戦死してしまう。ムスリムは東ローマ帝国軍の規模を知るとマディーナからの援軍を待ち望んだ。然し、ラワハは殉教を思い出させ、援軍を待つという行為を否定し、進軍させた。
- アブドゥッラー・イブン・ウナイス 西暦628年2月、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、アル・ユサイル・イブン・リザムが自身の襲撃を計画している事を聞き付ける。リザムは暗殺されたアブ・ラフィーの後任としてカイバルのユダヤ人の長に就き、ラフィーと同じくガタファン族と良好な関係を維持していた。其処でアブドゥッラーフはカズラジ族の指導者アブドゥッラー・イブン・ラワハに3名の従者と共にカイバルにてリザムに気付かれぬ様情報収集する事を指示した。ラワハ達は、リザムが暗殺を酷く警戒している事を知り、マディーナに帰還し、アブドゥッラーフに報告した。アブドゥッラーフは戦略を練り直し、30名の部下に、駱駝に跨りリザムにマディーナを訪れる様説得する事を指示した。リザムはアブドゥッラー・イブン・ウナイスの馬に乗せられ、ウナイスが其の後ろに乗った。他の馬もユダヤ人が前、ムスリムが後ろに乗る形となった。カイバルから6マイル離れたアル・カルカラートに到着した時、リザムは不審に思いアブドゥッラーフに会いに行く事を思い直し、馬から降り、剣を抜いた。ウナイスはリザムが剣を抜いた事を察知し、突進してリザムの股関節に致命的な一撃を与えた。リザムは床に倒れたがウナイスを殴った。ウナイスは、駱駝の杖を使ってリザムを攻撃した。此れはムスリムの一斉攻撃を行う合図であり、ムスリムは前に乗っていたユダヤ人を殺害していった。結果、逃走に成功した1名を除くリザムとリザムの従者計29名のユダヤ人が殺害された。
- ウスマーン・イブン・アッファーン 西暦628年3月、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、信徒を連れ小巡礼の為メッカのカアバ神殿へ向かった。現地で武装したクライシュ族が待ち伏せしているという報告を受けたアブドゥッラーフは、フダイビーヤに留まり交渉に備えた。先ず、クライシュ族からムハンマドにマディーナへの撤退を求める使者が送られ、メッカに帰還した使者はムハンマドの信徒の忠誠心の高さを報告した。次にアブドゥッラーフはヒラーシュ・イブン・ウマイヤ・アルフザーイーを派遣したが、アルフザーイーがアブドゥッラーフの伝言を伝えると、クライシュ族は激怒し、アルフザーイーの乗っていた駱駝を斬殺、アルフザーイーはそのままフダイビーヤへ戻った。次にアブドゥッラーフはウマル・イブン・ハッターブを使者に選んだが、ハッターブは自身がクライシュ族と敵対している事を理由に辞退、結果ウスマーン・イブン・アッファーンが使者として派遣された。伝言を聞いたクライシュ族はカアバ神殿の周囲を回る儀礼である「タワーフ」を認めたが、アッファーンは妥協しなかった為監禁され、アブドゥッラーフにアッファーン殺害の知らせが届き、ムスリム達は激怒した。ムハンマドは彼らにいかなる事態が起きても自分の命令に従う様、バイア(忠誠の誓い)を行わせた。解放されたアッファーンが帰還した後、クライシュ族からスハイル・イブン・アムルが使者としてフダイビーヤに派遣され、協議を経て和約が成立した。
- ウマル・イブン・ハッターブ 西暦628年3月、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、信徒を連れ小巡礼の為メッカのカアバ神殿へ向かった。現地で武装したクライシュ族が待ち伏せしているという報告を受けたアブドゥッラーフは、フダイビーヤに留まり交渉に備えた。先ず、クライシュ族からムハンマドにマディーナへの撤退を求める使者が送られ、メッカに帰還した使者はムハンマドの信徒の忠誠心の高さを報告した。次にアブドゥッラーフはヒラーシュ・イブン・ウマイヤ・アルフザーイーを派遣したが、アルフザーイーがアブドゥッラーフの伝言を伝えると、クライシュ族は激怒し、アルフザーイーの乗っていた駱駝を斬殺、アルフザーイーはそのままフダイビーヤへ戻った。次にアブドゥッラーフはウマル・イブン・ハッターブを使者に選んだが、ハッターブは自身がクライシュ族と敵対している事を理由に辞退、結果ウスマーン・イブン・アッファーンが使者として派遣された。クライシュ族からスハイル・イブン・アムルが使者としてフダイビーヤに派遣され、協議を経て和約が成立した。クライシュ族側に有利な内容であった為ハッターブは不満を示した。西暦630年1月31日、メッカへ出撃したムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ率いる10,000名の軍勢と、アブー・スフヤーン率いるクライシュ族2,000名の軍勢がフナインに到着する。ムスリムが野営を始めるとハワジン族・タキフ族・ベドウィン族・サキーフ族が矢を放ち先制攻撃を行った。ムスリムは混乱し撤退したが、アリー・イブン・アビー・ターリブ、ウサマ・イブン・ザイド、ファドル・イブン・アッバス等数名が後方で戦った。又、アブドゥッラーフと共にマディーナに移住したムハージルーンであるアブー・バクルと、ウマル・イブン・ハッターブ等がアブドゥッラーフを擁護した。西暦632年6月8日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、アラビア半島から異教徒を追放する事と、自分の死後もクルアーンに従う事の遺言を残し死去する。ウマル・イブン・ハッターブは「アブドゥッラーフは神に相談しに行き、直ぐに戻ってくる」という主旨の発言を行い「アブドゥッラーフは死んだ」と口にする者を脅した。マディーナに帰還したアブー・バクルはハッターブにアブドゥッラーフの遺体を見せて納得させ、落ち着かせた。其の後サキファでアンサールの集会が開かれた。集会が行われる事を知ったバクルとハッターブは現場に急行した。バクルは、クライシュ族以外の者を指導者に据えると不和になる可能性が高い、と警告を発すると同時に、ウマル・ブン・アル・ハッターブとアブー・ウバイダが、バクルをアブドゥッラーフの後継者として推して、人々に支持を求めて働きかけた。ハッターブはバクルを推薦し、周囲の者も其れに倣った。マディーナを拠点とするアラブのハズラジ族のサイダ一族の長サード・イブン・ウバダは此れに反発し、集会は解散となった。最終的にアブー・バクルが初代正統カリフに選出された。
- スハイル・イブン・アムル 西暦628年3月、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、信徒を連れ小巡礼の為メッカのカアバ神殿へ向かった。現地で武装したクライシュ族が待ち伏せしているという報告を受けたアブドゥッラーフは、フダイビーヤに留まり交渉に備えた。クライシュ族からスハイル・イブン・アムルが使者としてフダイビーヤに派遣され、協議を経て、10年間の休戦と、巡礼団は一旦マディーナに帰還し、翌年にムスリムの巡礼の為に3日間マッカを開放する事と、保護者の同意なくマディーナに移住したマッカの住民を無条件でマッカに送還する事と、ムハンマドの元からマッカのクライシュ族の元に移った人間はそのままマッカに留め置かれる事と、マッカ周辺の部族、個人は自由にムハンマドと同盟を締結出来る事を内容とする和約が成立した。マッカ側はムハンマドが「アッラーの使徒」として和議を結ぶ事を認めず、「アブドゥッラーの息子ムハンマド」として署名を行わせた。
- ジャファル・イブン・アビ・ターリブ 西暦629年9月10日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、ハリス・ビン・アムル・アル・アズディ殺害の報復の為にザイド・イブン・ハリータを司令官とする軍勢3,000名をシリアへ派遣したが、東ローマ帝国軍がムシャリフ村で待ち伏せていた。東ローマ帝国軍がハリータ率いる軍に攻撃を仕掛け、ムウタで戦闘が始まる。副官はジャファル・イブン・アビ・ターリブと、アブドゥッラー・イブン・ラワハの2名が務めた。アブドゥッラーフは「ハリータが負傷または死亡した場合、ターリブが指揮を引き継ぐ。ターリブが死傷した場合は、ラワハがその代わりを務める。ラワハが殺された場合は、ムスリムが自ら指揮官を任命する様に」と指示を出していた。戦闘は2つの高台に挟まれた谷間で行われ、東ローマ帝国軍の数的優位は失われた。然しハリータ率いる軍は東ローマ帝国とガッサーン朝の前に劣勢となり、指揮官であるハリータは殺害された。ターリブは「私の息子達の様に戦える者はいない、何故なら彼らが戦場にいる時、最も獰猛だからだ。楽園が近づくにつれ、何と素晴らしいことか。其の飲み物は、何と心地よく、涼しいことか。東ローマ帝国人への罰はそう遠くない」と言ったが、東ローマ帝国軍に背後から殴られ、両腕を切り落とされ殺害された。アブドゥッラーフはターリブの死の知らせを聞くと「ターリブは勇敢で忠実な兵士であった。神は彼に永遠の命を与え、戦いで切り落とされた腕の代わりに、主は彼に一対の翼を与えた」と言い冥福を祈った。又、ターリブの妻であり未亡人となったアスマは「神の使徒が私のところに来て”ターリブの子供達は何処にいるのか”と尋ねました。私は彼等を連れて行くと、彼は彼らを抱きしめ匂いを嗅いだ後、目を潤ませ泣いた。神の使徒よ、と私は”ターリブについて何か聞いたか”と尋ねた。神の使徒は”はい、彼は今日、殉教したのです”と答えた。私は立ち上がって叫び、女性達が私の所に来た。アブドゥッラーフは”アスマよ、卑猥な言葉を口にしたり、胸を張ったりしてはならない”と言い始めたのです」という主旨の発言をした。更にアブドゥッラーフは「アスマよ、喜ばないのか?神はターリブに2つの翼を与え、ターリブは楽園へと飛び立っていった」と言った。其れからアブドゥッラーフは娘のファーティマに「ターリブの家族の為に食べ物を用意しなさい、今日は忙しそうだから」と言った。
- タビット・イブン・アクラム 西暦629年9月10日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、ハリス・ビン・アムル・アル・アズディ殺害の報復の為にザイド・イブン・ハリータを司令官とする軍勢3,000名をシリアへ派遣したが、東ローマ帝国軍がムシャリフ村で待ち伏せていた。東ローマ帝国軍がハリータ率いる軍に攻撃を仕掛け、ムウタで戦闘が始まる。副官はジャファル・イブン・アビ・ターリブと、アブドゥッラー・イブン・ラワハの2名が務めた。戦闘は2つの高台に挟まれた谷間で行われ、東ローマ帝国軍の数的優位は失われた。然しハリータ率いる軍は東ローマ帝国とガッサーン朝の前に劣勢となり、指揮官であるハリータは殺害された。ターリブは「私の息子達の様に戦える者はいない、何故なら彼らが戦場にいる時、最も獰猛だからだ。楽園が近づくにつれ、何と素晴らしいことか。其の飲み物は、何と心地よく、涼しいことか。東ローマ帝国人への罰はそう遠くない」と言ったが、東ローマ帝国軍に背後から殴られ、両腕を切り落とされ殺害された。又、ラワハやワッハーブ・イブン・サードも戦死してしまう。タビット・イブン・アクラムは、此のムスリムの絶望的な状況を打開する為に旗を手にし、仲間を結集させ敗走した。其の後ハーリド・イブン・アル・ワリードに指揮を執る様求めた。そしてワリードは機転を働かせて潰走するムスリムを纏め上げ、無事に撤退させた。
- ハーリド・イブン・アル・ワリード 西暦629年9月10日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、ハリス・ビン・アムル・アル・アズディ殺害の報復の為にザイド・イブン・ハリータを司令官とする軍勢3,000名をシリアへ派遣したが、東ローマ帝国軍がムシャリフ村で待ち伏せていた。東ローマ帝国軍がハリータ率いる軍に攻撃を仕掛け、ムウタで戦闘が始まる。副官はジャファル・イブン・アビ・ターリブと、アブドゥッラー・イブン・ラワハの2名が務めた。戦闘は2つの高台に挟まれた谷間で行われ、東ローマ帝国軍の数的優位は失われた。然しハリータ率いる軍は東ローマ帝国とガッサーン朝の前に劣勢となり、指揮官であるハリータは殺害された。ターリブは「私の息子達の様に戦える者はいない、何故なら彼らが戦場にいる時、最も獰猛だからだ。楽園が近づくにつれ、何と素晴らしいことか。其の飲み物は、何と心地よく、涼しいことか。東ローマ帝国人への罰はそう遠くない」と言ったが、東ローマ帝国軍に背後から殴られ、両腕を切り落とされ殺害された。又、ラワハやワッハーブ・イブン・サードも戦死してしまう。タビット・イブン・アクラムは、此のムスリムの絶望的な状況を打開する為に旗を手にし、仲間を結集させ敗走した。其の後ハーリド・イブン・アル・ワリードに指揮を執る様求めた。そしてワリードは機転を働かせて潰走するムスリムを纏め上げ、無事に撤退させた。
- ハリス・ビン・アムル・アル・アズディ 西暦629年7月、ヘラクレイオスとササン朝ペルシアの将軍シャフルバラーズの間で和平協定が結ばれる。一方、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフは、ボスラのガッサーン朝総督ハリス・ビン・アビ・シムル・アル・ガッサニー宛の書簡をハリス・ビン・アムル・アル・アズディに持たせ、ボスラに差し向けていたが、ハリス・ビン・アムル・アル・アズディはガッサーン朝連合総督シュラービル・イブン・アムルに捕縛され、ムウタで殺害された。9月10日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、ハリス・ビン・アムル・アル・アズディ殺害の報復の為にザイド・イブン・ハリータを司令官とする軍勢3,000名をシリアへ派遣したが、東ローマ帝国軍がムシャリフ村で待ち伏せていた。
- シュラービル・イブン・アムル 西暦629年7月、ヘラクレイオスとササン朝ペルシアの将軍シャフルバラーズの間で和平協定が結ばれる。一方、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフは、ボスラのガッサーン朝総督ハリス・ビン・アビ・シムル・アル・ガッサニー宛の書簡をハリス・ビン・アムル・アル・アズディに持たせ、ボスラに差し向けていたが、ハリス・ビン・アムル・アル・アズディはガッサーン朝連合総督シュラービル・イブン・アムルに捕縛され、ムウタで殺害された。
- マリク・ビン・アウフ 西暦630年1月31日、メッカへ出撃したムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ率いる10,000名の軍勢と、アブー・スフヤーン率いるクライシュ族2,000名の軍勢がフナインに到着する。先行してフナインに入っていたマリク・ビン・アウフは4,000名の部下に対しハワジン族・タキフ族・ベドウィン族・サキーフ族を見つけた際は石を投げつけてから単体で攻撃する事を命じた。ムスリムが野営を始めるとハワジン族・タキフ族・ベドウィン族・サキーフ族が矢を放ち先制攻撃を行った。
- ウサーマ・ビン・ザイド 西暦632年5月、闘病中のムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、西暦629年9月10日のムウタでの戦闘で、アブドゥッラーフの養子でありウサーマ・ビン・ザイドの父ザイド・イブン・ハリタが殺害された件の復讐の為、司令官にウサーマ・ビン・ザイドを任命し、東ローマ帝国のバルカ攻撃の遠征を命じる。ウサーマ・ビン・ザイドは1,000名の騎兵を含む3,000名を招集し、スパイを送り込み、まだ敵兵がウサーマ・ビン・ザイドの軍に気付いていない事を把握した。6月8日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、アラビア半島から異教徒を追放する事と、自分の死後もクルアーンに従う事の遺言を残し死去する。ウサーマ・ビン・ザイドのバルカ遠征は延期となった。最終的にアブー・バクルが初代正統カリフに選出された。バクルは直様ウサーマ・ビン・ザイドに出撃命令を出した。
- アブー・ドゥジャーナ 西暦632年2月22日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、メッカの迫害からヤスリブに逃れ、ムハンマドと行動を共にした人であるアンサールのアブー・ドゥジャーナを呼んで、自分が留守の間、マディーナを守るように言い付け、マディーナや近隣の村々やムハンマドの妻を含む10,000名がメッカのハッジ(大巡礼)の為出発した。
- サード・イブン・ウバダ 西暦632年6月8日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、アラビア半島から異教徒を追放する事と、自分の死後もクルアーンに従う事の遺言を残し死去する。ウマル・イブン・ハッターブは「アブドゥッラーフは神に相談しに行き、直ぐに戻ってくる」という主旨の発言を行い「アブドゥッラーフは死んだ」と口にする者を脅した。マディーナに帰還したアブー・バクルはハッターブにアブドゥッラーフの遺体を見せて納得させ、落ち着かせた。其の後サキファでアンサールの集会が開かれた。集会が行われる事を知ったバクルとハッターブは現場に急行した。ハッターブはバクルを推薦し、周囲の者も其れに倣った。マディーナを拠点とするアラブのハズラジ族のサイダ一族の長サード・イブン・ウバダは此れに反発し、集会は解散となった。最終的にアブー・バクルが初代正統カリフに選出された。
主要な地名・拠点
- ヒラー山 西暦610年8月19日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがメッカ(現在のサウジアラビアのマッカ州)にあるヒラー山の洞窟で、天使ジブリールより唯一神アッラーの啓示を受け、最初の妻であるハディージャ・ビント・フワイリドに其の出来事を話す。
- メッカ 西暦610年8月19日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがメッカ(現在のサウジアラビアのマッカ州)にあるヒラー山の洞窟で、天使ジブリールより唯一神アッラーの啓示を受け、最初の妻であるハディージャ・ビント・フワイリドに其の出来事を話す。西暦614年頃、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがメッカでイスラム教の宣教を始める。当初はクライシュ族(メッカ周辺のアラブ部族)はアブドゥッラーフを嘲笑していたが、信者が増えるに連れ、アブドゥッラーフやムスリムに対して迫害を行い、棄教を迫るようになった。西暦622年5月頃、ムスアブ・イブン・ウマイルがヤスリブからメッカに戻り、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフにヤスリブでの布教の成功を報告する。7月16日、クライシュ族からの迫害を受け、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフとアブー・バクルがヤスリブへ向けてメッカを出発する。西暦629年12月、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが10,000名の軍勢でマディーナからメッカへ向けて出撃する。西暦630年1月、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、アブー・スフヤーンと折衝しメッカを無血征服する。又、カアバ神殿にあった360体の偶像を破壊する。アブー・スフヤーンがイスラム教に改宗する。西暦632年3月3日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ率いるハッジ団がメッカに到着する。
- カアバ神殿 西暦620年、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフはカアバ(現在のサウジアラビアのマッカ州)を訪れた各部族の巡礼団に対し、宣教を行っていた。此の時ムハンマドの教えを聞いてイスラム教に改宗した者の中にヤスリブ(後のマディーナ、現在のサウジアラビアのマディーナ州)から来たアウス族とハズラジュ族の巡礼団6名がいた。西暦624年2月、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがイスラム教の礼拝の方向をエルサレム神殿からメッカのカアバ神殿に変更する。西暦630年1月、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、アブー・スフヤーンと折衝しメッカを無血征服する。又、カアバ神殿にあった360体の偶像を破壊する。西暦632年3月3日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ率いるハッジ団がメッカに到着する。アブドゥッラーフはカアバ神殿の前で「アッラーよ、此の家に祝福と栄光を与えて下さい」と祈った。
- ヤスリブ 西暦620年、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフはカアバ(現在のサウジアラビアのマッカ州)を訪れた各部族の巡礼団に対し、宣教を行っていた。此の時ムハンマドの教えを聞いてイスラム教に改宗した者の中にヤスリブ(後のマディーナ、現在のサウジアラビアのマディーナ州)から来たアウス族とハズラジュ族の巡礼団6名がいた。ヤスリブに帰った彼らはイスラム教を布教した。当時のヤスリブは住民の約1/3がクライザ族やナディール族、カイヌカー族等のユダヤ教徒で、2/3が多神教徒のアラブ人であった。当時のヤスリブではアラブ人の有力部族であるアウス族とハズラジュ族がユダヤ教徒を巻き込んで何十年にも渡る抗争を繰り広げていた。国家が存在していなかった当時のアラビアでは、部族の一員が殺害された際には敵対部族を殺害する事によって勢力均衡を図る「血の復讐」と呼ばれる制度が形成されており、両部族は復讐の悪循環に陥っていた。其処でヤスリブは平和の回復の為強力な権威を持つ調停者、指導者を必要としていた。西暦621年7月頃、前年カアバでイスラム教に改宗した6名の内5名を含む12名の部族代表者が、ヤスリブからムハンマド・イブン・アブドゥッラーフの元を訪れる。彼らはアカバ(現在のヨルダン)で会見を開き、多神教の崇拝、盗み、姦通、女児殺し、隣人への中傷等を止める事を誓った。其の後、ムハンマドは信頼の置ける弟子であるムスアブ・イブン・ウマイルをヤスリブへ送り、新たな信徒の獲得に努めた。此れにより、ヤスリブではどの家庭に於いても家族の誰かはムスリムであるという状態になった。西暦622年5月頃、ムスアブ・イブン・ウマイルがヤスリブからメッカに戻り、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフにヤスリブでの布教の成功を報告する。6月、男性73名、女性2名から成る75名のヤスリブの使節団がムハンマド・イブン・アブドゥッラーフの元を訪れる。7月16日、クライシュ族からの迫害を受け、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフとアブー・バクルがヤスリブへ向けてメッカを出発する。9月24日、クライシュ族からの迫害を受け、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフとアブー・バクルがヤスリブに到着する。
- アクスム王国 西暦615年、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフの勧めで、100名以上のムスリムが、アクスム王国(現在のエリトリア)へ保護を求めて亡命し、アクスム王国は其れを受け入れた。
- ターイフ 西暦620年、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、ターイフ(現在のサウジアラビアのマッカ州)にて、現地のタキフ族にイスラム教を布教しようとするが、拒否される。西暦629年12月、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが10,000名の軍勢でマディーナからメッカへ向けて出撃する。此の時ハワジン族と、ターイフを拠点とするタキフ族が、送り込んでいたスパイによって此の事実を知り、メッカを包囲している間にアブドゥッラーフの軍を攻撃する為兵の動員を始める。
- アカバ 西暦621年7月頃、前年カアバでイスラム教に改宗した6名の内5名を含む12名の部族代表者が、ヤスリブからムハンマド・イブン・アブドゥッラーフの元を訪れる。彼らはアカバ(現在のヨルダン)で会見を開き、多神教の崇拝、盗み、姦通、女児殺し、隣人への中傷等を止める事を誓った。西暦622年6月、男性73名、女性2名から成る75名のヤスリブの使節団がムハンマド・イブン・アブドゥッラーフの元を訪れる。アカバで会見を開き、彼らはアブドゥッラーフを神の使徒として認め、武力でムハンマドとイスラム教を守る事を誓った。
- バドル 西暦624年3月17日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、シリアからクライシュ族率いるメッカ軍が帰って来る事を聞き、300名を率い、バドル(現在のサウジアラビアのマディーナ州)に出撃した。此れを受けメッカ軍保護の為、残るクライシュ族の600名の重装兵を含む1,000名がバドルに出撃し、両軍が激突する。ハバブ・イブン・ムンドヒールはアブドゥッラーフに1つの井戸を除く全ての井戸を埋める事を助言した。最終的にアブドゥッラーフ率いる軍が素早く要衝を押さえ勝利する。
- ウフド 西暦625年3月23日、メッカ軍の指導者アブー・スフヤーンが3,000名の兵を率いマディーナに進軍し、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがウフド(現在のサウジアラビアのマディーナ州)で此れを迎え撃った。最初はムハンマド側が有利であったが、メッカ軍の騎馬隊の奇襲に遭い、ムハンマド軍は混乱し、ムハンマドも負傷した。メッカ軍は報復に満足して引揚げた。ムハンマドはかなりの犠牲を払ったが、マディーナを守り切った。
- フダイビーヤ 西暦628年3月、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、信徒を連れ小巡礼の為メッカのカアバ神殿へ向かった。現地で武装したクライシュ族が待ち伏せしているという報告を受けたアブドゥッラーフは、フダイビーヤ(現在のサウジアラビアのマッカ州)に留まり交渉に備えた。先ず、クライシュ族からムハンマドにマディーナへの撤退を求める使者が送られ、メッカに帰還した使者はムハンマドの信徒の忠誠心の高さを報告した。次にアブドゥッラーフはヒラーシュ・イブン・ウマイヤ・アルフザーイーを派遣したが、アルフザーイーがアブドゥッラーフの伝言を伝えると、クライシュ族は激怒し、アルフザーイーの乗っていた駱駝を斬殺、アルフザーイーはそのままフダイビーヤへ戻った。次にアブドゥッラーフはウマル・イブン・ハッターブを使者に選んだが、ハッターブは自身がクライシュ族と敵対している事を理由に辞退、結果ウスマーン・イブン・アッファーンが使者として派遣された。伝言を聞いたクライシュ族はカアバ神殿の周囲を回る儀礼である「タワーフ」を認めたが、アッファーンは妥協しなかった為監禁され、アブドゥッラーフにアッファーン殺害の知らせが届き、ムスリム達は激怒した。ムハンマドは彼らにいかなる事態が起きても自分の命令に従う様、バイア(忠誠の誓い)を行わせた。解放されたアッファーンが帰還した後、クライシュ族からスハイル・イブン・アムルが使者としてフダイビーヤに派遣され、協議を経て、10年間の休戦と、巡礼団は一旦マディーナに帰還し、翌年にムスリムの巡礼の為に3日間マッカを開放する事と、保護者の同意なくマディーナに移住したマッカの住民を無条件でマッカに送還する事と、ムハンマドの元からマッカのクライシュ族の元に移った人間はそのままマッカに留め置かれる事と、マッカ周辺の部族、個人は自由にムハンマドと同盟を締結出来る事を内容とする和約が成立した。マッカ側はムハンマドが「アッラーの使徒」として和議を結ぶ事を認めず、「アブドゥッラーの息子ムハンマド」として署名を行わせた。クライシュ族側に有利な内容であった為ハッターブは不満を示した。一方でアブー・バクルはアブドゥッラーフの決定に従った。結局此の年はアブドゥッラーフが目的としていた小巡礼を行う事が出来ず、マディーナに帰還するが、此れに関し多くのムスリムが困惑した。
- カイバー 西暦628年5月、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、先年マディーナから追放したユダヤ教徒系のナディール族の移住先カイバー(現在のサウジアラビアのマディーナ州)の二つの城塞に征伐の為遠征を行う。6月、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、2度の遠征によりカイバーのナディール族を降伏させる。アブドゥッラーフはカイバーのナツメヤシ等の耕地に対し、収穫量の半分を税として課す事を条件に、ナディール族がカイバーに住み続ける事を許可した。又、ワーディー・アル・クラー(現在のサウジアラビアのマディーナ州)と、タイマー(現在のサウジアラビアのタブーク州)と、ハナック(現在のサウジアラビアのタブーク州)のユダヤ教徒系の諸部族が相次いでアブドゥッラーフに服従する事となった。
- ムウタ 西暦629年7月、ヘラクレイオスとササン朝ペルシアの将軍シャフルバラーズの間で和平協定が結ばれる。一方、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフは、ボスラ(現在のシリアのダルアー県)のガッサーン朝総督ハリス・ビン・アビ・シムル・アル・ガッサニー宛の書簡をハリス・ビン・アムル・アル・アズディに持たせ、ボスラに差し向けていたが、ハリス・ビン・アムル・アル・アズディはガッサーン朝連合総督シュラービル・イブン・アムルに捕縛され、ムウタ(現在のヨルダンのカラク県)で殺害された。9月10日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、ハリス・ビン・アムル・アル・アズディ殺害の報復の為にザイド・イブン・ハリータを司令官とする軍勢3,000名をシリアへ派遣したが、東ローマ帝国軍がムシャリフ村で待ち伏せていた。東ローマ帝国軍がハリータ率いる軍に攻撃を仕掛け、ムウタで戦闘が始まる。戦闘は2つの高台に挟まれた谷間で行われ、東ローマ帝国軍の数的優位は失われた。然しハリータ率いる軍は東ローマ帝国とガッサーン朝の前に劣勢となり、指揮官であるハリータは殺害された。西暦632年5月、闘病中のムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、西暦629年9月10日のムウタでの戦闘で、アブドゥッラーフの養子でありウサーマ・ビン・ザイドの父ザイド・イブン・ハリタが殺害された件の復讐の為、司令官にウサーマ・ビン・ザイドを任命し、東ローマ帝国のバルカ(現在のヨルダン)攻撃の遠征を命じる。
- フナイン 西暦630年1月31日、メッカへ出撃したムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ率いる10,000名の軍勢と、アブー・スフヤーン率いるクライシュ族2,000名の軍勢がフナイン(現在のサウジアラビアのマッカ州)に到着する。先行してフナインに入っていたマリク・ビン・アウフは4,000名の部下に対しハワジン族・タキフ族・ベドウィン族・サキーフ族を見つけた際は石を投げつけてから単体で攻撃する事を命じた。ムスリムが野営を始めるとハワジン族・タキフ族・ベドウィン族・サキーフ族が矢を放ち先制攻撃を行った。ムスリムは混乱し撤退したが、アリー・イブン・アビー・ターリブ、ウサマ・イブン・ザイド、ファドル・イブン・アッバス等数名が後方で戦った。又、アブドゥッラーフと共にマディーナに移住したムハージルーンであるアブー・バクルと、ウマル・イブン・ハッターブと、ターリブ(アブドゥッラーフの従兄弟)と、アブドゥッラー・イブン・マスードと、アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブ(アブドゥッラーフの叔父)と、アブ・スフヤーン・イブン・アル・ハリス(アブドゥッラーフの従兄弟)と、アッバス(アブドゥッラーフの従兄弟)と、ザイド(アブドゥッラーフの養子)と、アイマン・イブン・ウベイド(ザイドの異母兄弟)がアブドゥッラーフを擁護した。そしてウベイドが戦死し、アブドゥッラーフは「さあ、人々よ。私はアッラーの使徒です。私はアブドゥッラーフの子ムハンマドです」「嗚呼、アッラー、あなたの助けを送ってください」と言った。ムスリムが戦場に戻りアブドゥッラーフは「貴方の顔が恥ずべき事でありますように」と言いながら砂を敵に投げつけ混乱させた。サキーフ族だけで約70名が殺害され、ムスリムは乗馬用の駱駝・武器・牛を奪い戦いに勝利した。
- アラファト山 西暦632年3月7日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがアラファト山を登り、「アラファトはハッジの不可欠の部分であり、ハッジはアブラハムからの崇高な遺産である」と説いた。
- サキファ 西暦632年6月8日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、アラビア半島から異教徒を追放する事と、自分の死後もクルアーンに従う事の遺言を残し死去する。ウサーマ・ビン・ザイドのバルカ遠征は延期となった。ウマル・イブン・ハッターブは「アブドゥッラーフは神に相談しに行き、直ぐに戻ってくる」という主旨の発言を行い「アブドゥッラーフは死んだ」と口にする者を脅した。マディーナに帰還したアブー・バクルはハッターブにアブドゥッラーフの遺体を見せて納得させ、落ち着かせた。其の後サキファ(現在のサウジアラビアのマディーナ州)でアンサールの集会が開かれた。集会が行われる事を知ったバクルとハッターブは現場に急行した。バクルは、クライシュ族以外の者を指導者に据えると不和になる可能性が高い、と警告を発すると同時に、ウマル・ブン・アル・ハッターブとアブー・ウバイダが、バクルをアブドゥッラーフの後継者として推して、人々に支持を求めて働きかけた。ハバブ・イブン・ムンドヒールはクライシュ族とアンサール族が其々リーダーを選び、共同で統治する事を提案した。ハッターブはバクルを推薦し、周囲の者も其れに倣った。マディーナを拠点とするアラブのハズラジ族のサイダ一族の長サード・イブン・ウバダは此れに反発し、集会は解散となった。最終的にアブー・バクルが初代正統カリフに選出された。バクルは直様ウサーマ・ビン・ザイドに出撃命令を出した。
バドル・ウフドから、フナインへ──
ムハンマドの戦いを一元化。
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