アブー・バクル一元化
ヤスリブへの出発から、病死へ──
アブー・バクルの歩みを一元化。
222円(税込)
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本書について
西暦610年8月19日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがメッカ(現在のサウジアラビアのマッカ州)にあるヒラー山の洞窟で、天使ジブリールより唯一神アッラーの啓示を受け、最初の妻であるハディージャ・ビント・フワイリドに其の出来事を話す。其の後ハディージャ・ビント・フワイリドの従兄弟でキリスト教ネストリウス派修道僧ワラカ・イブン・ナウファルに相談した所、預言者のアブラハムと、ノアと、モーセと、イエス・キリストも同様の経験をしたが、敵対されなかった者はいない事を話す。其の後も神の啓示がアブドゥッラーフに次々に下された。そしてアブドゥッラーフは、従兄弟のアリー・イブン・アビー・ターリブや友人のアブー・バクルに啓示の教えを説き、イスラム教を始めた。本書は、此のムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがヒラー山の洞窟で啓示を受けた日から、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフとアブー・バクルのヤスリブへの到着、フダイビーヤでのムハンマド・イブン・アブドゥッラーフとクライシュ族の和約の成立、フナインでのムスリムの勝利、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフの死去とアブー・バクルの初代正統カリフへの選出、アブー・バクルの軍によるドゥ・キッサの占領、アブー・バクルによるイクリマ・イブン・アビー・ジャハルのアル・ヤママへの派遣、アブー・バクルのメソポタミア地方の征服の決意、アブー・バクルによるシリア征服の為の4名の司令官の任命、アブー・バクルの東ローマ帝国への宣戦布告、ハーリド・イブン・アル・ワリードのボスラ郊外での東ローマ帝国軍との戦いを経て、西暦634年8月23日にアブー・バクルが病の為死去する迄を一元化した記録である。
西暦622年7月16日、クライシュ族からの迫害を受け、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフとアブー・バクルがヤスリブへ向けてメッカを出発する。9月24日、クライシュ族からの迫害を受け、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフとアブー・バクルがヤスリブに到着する。直ちにユダヤ教の制度を取り入れ、礼拝の方向をエルサレム神殿に定めた。西暦623年、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、アブー・バクルの娘アーイシャ・ビント・アブー・バクルと再婚する。
西暦628年3月、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、信徒を連れ小巡礼の為メッカのカアバ神殿へ向かった。現地で武装したクライシュ族が待ち伏せしているという報告を受けたアブドゥッラーフは、フダイビーヤ(現在のサウジアラビアのマッカ州)に留まり交渉に備えた。先ず、クライシュ族からムハンマドにマディーナへの撤退を求める使者が送られ、メッカに帰還した使者はムハンマドの信徒の忠誠心の高さを報告した。次にアブドゥッラーフはヒラーシュ・イブン・ウマイヤ・アルフザーイーを派遣したが、アルフザーイーがアブドゥッラーフの伝言を伝えると、クライシュ族は激怒し、アルフザーイーの乗っていた駱駝を斬殺、アルフザーイーはそのままフダイビーヤへ戻った。次にアブドゥッラーフはウマル・イブン・ハッターブを使者に選んだが、自身がクライシュ族と敵対している事を理由に辞退、結果ウスマーン・イブン・アッファーンが使者として派遣された。伝言を聞いたクライシュ族はカアバ神殿の周囲を回る儀礼である「タワーフ」を認めたが、アッファーンは妥協しなかった為監禁され、アブドゥッラーフにアッファーン殺害の知らせを届け、ムスリム達は激怒した。ムハンマドは彼らにいかなる事態が起きても自分の命令に従う様、バイア(忠誠の誓い)を行わせた。解放されたアッファーンが帰還した後、クライシュ族からスハイル・イブン・アムルが使者としてフダイビーヤに派遣され、協議を経て、10年間の休戦と、巡礼団は一旦マディーナに帰還し、翌年にムスリムの巡礼の為に3日間マッカを開放する事と、保護者の同意なくマディーナに移住したマッカの住民を無条件でマッカに送還する事と、ムハンマドの元からマッカのクライシュ族の元に移った人間はそのままマッカに留め置かれる事と、マッカ周辺の部族、個人は自由にムハンマドと同盟を締結出来る事を内容とする和約が成立した。マッカ側はムハンマドが「アッラーの使徒」として和議を結ぶ事を認めず、「アブドゥッラーの息子ムハンマド」として署名を行わせた。クライシュ族側に有利な内容であった為ハッターブは不満を示した。一方でアブー・バクルはアブドゥッラーフの決定に従った。結局此の年はアブドゥッラーフが目的としていた小巡礼を行う事が出来ず、マディーナに帰還するが、此れに関し多くのムスリムが困惑した。
西暦630年1月31日、メッカへ出撃したムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ率いる10,000名の軍勢と、アブー・スフヤーン率いるクライシュ族2,000名の軍勢がフナイン(現在のサウジアラビアのマッカ州)に到着する。先行してフナインに入っていたマリク・ビン・アウフは4,000名の部下に対しハワジン族・タキフ族・ベドウィン族・サキーフ族を見つけた際は石を投げつけてから単体で攻撃する事を命じた。ムスリムが野営を始めるとハワジン族・タキフ族・ベドウィン族・サキーフ族が矢を放ち先制攻撃を行った。ムスリムは混乱し撤退したが、アリー・イブン・アビー・ターリブ、ウサマ・イブン・ザイド、ファドル・イブン・アッバス等数名が後方で戦った。又、アブドゥッラーフと共にマディーナに移住したムハージルーンであるアブー・バクルと、ウマル・イブン・ハッターブと、ターリブ(アブドゥッラーフの従兄弟)と、アブドゥッラー・イブン・マスードと、アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブ(アブドゥッラーフの叔父)と、アブ・スフヤーン・イブン・アル・ハリス(アブドゥッラーフの従兄弟)と、アッバス(アブドゥッラーフの従兄弟)と、ザイド(アブドゥッラーフの養子)と、アイマン・イブン・ウベイド(ザイドの異母兄弟)がアブドゥッラーフを擁護した。そしてウベイドが戦死し、アブドゥッラーフは「さあ、人々よ。私はアッラーの使徒です。私はアブドゥッラーフの子ムハンマドです」「嗚呼、アッラー、あなたの助けを送ってください」と言った。ムスリムが戦場に戻りアブドゥッラーフは「貴方の顔が恥ずべき事でありますように」と言いながら砂を敵に投げつけ混乱させた。サキーフ族だけで約70名が殺害され、ムスリムは乗馬用の駱駝・武器・牛を奪い戦いに勝利した。
西暦632年6月8日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、アラビア半島から異教徒を追放する事と、自分の死後もクルアーンに従う事の遺言を残し死去する。ウサーマ・ビン・ザイドのバルカ遠征は延期となった。ウマル・イブン・ハッターブは「アブドゥッラーフは神に相談しに行き、直ぐに戻ってくる」という主旨の発言を行い「アブドゥッラーフは死んだ」と口にする者を脅した。マディーナに帰還したアブー・バクルはハッターブにアブドゥッラーフの遺体を見せて納得させ、落ち着かせた。其の後サキファ(現在のサウジアラビアのマディーナ州)でアンサールの集会が開かれた。集会が行われる事を知ったバクルとハッターブは現場に急行した。バクルは、クライシュ族以外の者を指導者に据えると不和になる可能性が高い、と警告を発すると同時に、ウマル・ブン・アル・ハッターブとアブー・ウバイダが、バクルをアブドゥッラーフの後継者として推して、人々に支持を求めて働きかけた。ハバブ・イブン・ムンドヒールはクライシュ族とアンサール族が其々リーダーを選び、共同で統治する事を提案した。ハッターブはバクルを推薦し、周囲の者も其れに倣った。マディーナを拠点とするアラブのハズラジ族のサイダ一族の長サード・イブン・ウバダは此れに反発し、集会は解散となった。最終的にアブー・バクルが初代正統カリフに選出された。バクルは直様ウサーマ・ビン・ザイドに出撃命令を出した。
西暦632年7月、アブー・バクルは、アサド族のトゥライハ・イブン・クウェイリードがマディーナへの攻撃準備を進めている事を知り、ムハージリーンとアンサールの中から主にアリー・イブン・アビー・ターリブと、タルハ・イブン・ウバイドゥラと、ズバイル・イブン・アウワームを呼び寄せ司令官とし、戦闘部隊を構成した。バクルは此の部隊を使って、やって来た背教軍に前哨部隊を何もさせない内にドゥ・フッサへ追い返した。7月16日頃、アブー・バクルが本隊と共にマディーナを出発し、ドゥ・フッサへ向かった。乗用駱駝は全てウサーマ・ビン・ザイドの軍に属していた為、劣悪な荷物駱駝を馬として調達せざるを得なかった。此れ等の駱駝は戦闘訓練を受けていなかったので、ドゥ・フッサの背教軍から奇襲を受けた際に逃げ出した。其の結果、ムスリムはマディーナに退却し、背教軍は数日前に失った前哨部隊を奪還した。此れを受けアブー・バクルはマディーナで軍を再編成し、夜間に背教軍に奇襲を掛けた。結果、背教軍はドゥ・フッサからドゥ・キッサに退却した。8月1日、アブー・バクルの軍が、背教していた反乱部族のガタファン族・ハワジン族・タイイ族を破りドゥ・キッサを占領する。8月4日、ウサーマ・ビン・ザイドの軍勢がマディーナに帰還する。アブー・バクルはウサーマ・ビン・ザイドに休息と、部下への補給を指示した。
西暦632年10月31日頃、アブー・バクルが、戦闘を行わずに自らを預言者と名乗るムサイリマと接触し拘束する事を意図し、イクリマ・イブン・アビー・ジャハルをアル・ヤママ(現在のサウジアラビアのリヤード州)に差し向ける。ジャハルは十分な兵力を持っていなかった為、ハーリド・イブン・アル・ワリードの軍の背教軍征伐の谷間期間に兵を借りた。又、ジャハルは次の指示が出る迄待機する様命じられていたが、前月1日にワリードがアディ・イブン・ハティム・トゥライハ率いる背教軍を破り勝利した事と、ジャハルと同様に次の指示が出る迄待機する様命じられていたイスラム教改宗者でサハーバのシュラビル・イブン・ハサナが、ジャハルと合流する為に進軍しており数日で到着する見込みであった事と、ワリードがサルマを征圧した事の報告を受け兵を動かし、ムサイリマに敗北する。バクルに書簡を送り行動の全容を報告した。報告を受けたバクルはジャハルの軽率な行動に怒りを覚えた。バクルはアルファジャの援護の為にマフラ(現在のイエメン)に向かい、ジャハルに対してもムハージルーンを助ける為にイエメンに向かう様指示した。ハサナはアル・ヤママに留まった。バクルはハサナがジャハルと同じ過ちを犯さない様書簡にてアル・ヤママに留まって次の指示を待つ様念を押し、ワリードに対しムサイリマ征伐の指示を出した。更にハサナに対して後日到着するワリードの軍の指揮下に入る様書簡にて指示を出した。
西暦633年頃、ムスリムでササン朝ペルシアとの国境付近のアル・ヒラ(現在のクーファ(イラクのナジャフ県)付近)の部族長アル・マタナ・イブン・ハリタがメソポタミア地方のササン朝ペルシアの町を襲撃する。然しササン朝ペルシアの反撃を受けた為アブー・バクルに援軍を要請し、結果勝利して相当量の戦利品を得た。其の後ハリタはマディーナへ赴きバクルに戦勝報告を行い、バクルから司令官に任命され、メソポタミア地方の襲撃に邁進する事となった。軽騎兵の機動力を活かし、砂漠近くの町を襲撃し、砂漠に身を隠す戦法を採った。バクルは此の戦い振りからメソポタミア地方の征服を決意し、アル・ヤママにいたハーリド・イブン・アル・ワリードに、指揮官として志願兵のみの軍を構成しアル・ヒラへ向かいササン朝ペルシアと戦う様指示した。ワリードはササン朝ペルシア総督ホルムズドに対して「イスラムに於ける人頭税であるジズヤの支払いに応じれば助ける」という主旨の降伏勧告の書簡を送る。然しホルムズドが此れに応じなかった。又、ワリードは書簡の中でカーズマ(現在のクウェートのジャハラー県)を経由してアル・ウブッラ(現在のイラクのバスラ県)へと向かうルートで進軍するとホルムズドに思わせる様仕向けた。西暦633年3月14日頃、アブー・バクルが、イヤド・イブン・ガンムを中央アラビア・イラク・シリアからの経路が集合するアラビアの大規模商業都市であるドゥマット・アル・ジャンダル(現在のサウジアラビアのジャウフ州)へ派遣する。ガンムはドゥマット・アル・ジャンダルに到着し、ドゥマット・アル・ジャンダルとシリア東部の周縁が、アラブ人キリスト教徒のカルブ族に押さえられている事を知った。8月、アブー・バクルからドゥマット・アル・ジャンダルにてアラブ反乱軍を鎮圧する様命を受けたイヤド・イブン・ガンムが、マリッドと呼ばれる砦の南面に軍を展開し、弓矢にてドゥマット・アル・ジャンダルを守備していたカルブ族を攻撃し、数週間戦闘を行ったが膠着状態となり任務に失敗、ガンムはある将校の「状況によっては、知恵は大軍よりも優れている」という進言により、ハーリド・イブン・アル・ワリードに助けを求める主旨の書簡を送る。ワリードはアイン・アル・タムルからアル・ヒラに向かおうとしている際に其の書簡を受け取った。12月頃、アブー・バクルが、シリア征服の為にアムル・イブン・アル・アースと、アブー・ウバイダと、シュラビル・イブン・ハサナと、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアンの4名を司令官に任命し、現地に派遣する。
西暦634年1月頃、アブー・バクルが東ローマ帝国へ宣戦布告する。又1月頃、ハーリド・イブン・サイード・イブン・アルアーシュが、アブー・バクルにシリア進出の許可を求める。バクルは、東ローマ帝国に対する敵対行動を執ってはならないとして、偵察のみに限定して、アルアーシュにシリア進出を許可した。6月、ハーリド・イブン・アル・ワリードがシュラビル・イブン・ハサナの部隊を援護した翌日、東ローマ帝国軍は、ムスリムの戦力は自軍と同程度であると把握し、長旅の疲れが癒える前に打ち負かすべく再攻撃を決意した。両軍はボスラ郊外の平原で戦闘準備を行なった。ワリードは、中央に自身の直轄部隊を置き、両翼の司令官にラファイ・ビン・ウマイル(左翼)と、ディラール・ビン・アル・アズワル(右翼)の2名を任命した。ワリードは、直轄部隊の正面、アブー・バクルの息子アブド・アル・ラーハマーン・イブン・アブー・バクルの下に薄いスクリーンを置いた。戦闘が開始されると直ぐにラーハマーンは東ローマ帝国軍を撃破した。東ローマ帝国の将軍達は安全な遊軍部隊の下へ逃走する中、ワリードは前線全体に沿って攻撃を開始した。東ローマ帝国軍はムスリムの攻撃に忽ち混乱した。此の日は暑かった為、アズワルは鎖帷子を脱ぎ、続いてシャツを脱いだ。此の半裸の状態で攻撃を開始し、一騎討ちで立ち向かって来る東ローマ帝国兵を全て破った。東ローマ帝国軍は砦に撤退した。此の時ワリードは、何にも跨らず自身だけで戦っていた。ワリードは東ローマ帝国軍を包囲する命令を下そうと振り返った時、アブー・ウバイダが、ムスリムの隊列から抜けて近付いて来るのが見えた。ウバイダは、西暦628年2月のカイバルの戦いでムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが使用していた黄色の旗を携えていた。ウバイダは其の旗をワリードに渡した。アズワルの活躍は一週間以内にシリア中に知れ渡った。
西暦634年8月23日、アブー・バクルが病の為死去し、生前に指名したウマル・イブン・ハッターブが第2代正統カリフに即位する。ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがヒラー山の洞窟で啓示を受けた日から、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフとアブー・バクルのヤスリブへの到着、フダイビーヤでのムハンマド・イブン・アブドゥッラーフとクライシュ族の和約の成立、フナインでのムスリムの勝利、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフの死去とアブー・バクルの初代正統カリフへの選出、アブー・バクルの軍によるドゥ・キッサの占領、アブー・バクルによるイクリマ・イブン・アビー・ジャハルのアル・ヤママへの派遣、アブー・バクルのメソポタミア地方の征服の決意、アブー・バクルによるシリア征服の為の4名の司令官の任命、アブー・バクルの東ローマ帝国への宣戦布告、ハーリド・イブン・アル・ワリードのボスラ郊外での東ローマ帝国軍との戦いを経て、アブー・バクルの病死とウマル・イブン・ハッターブの第2代正統カリフへの即位に至る迄——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。
登場人物
- アブー・バクル 西暦610年8月19日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがメッカにあるヒラー山の洞窟で、天使ジブリールより唯一神アッラーの啓示を受け、最初の妻であるハディージャ・ビント・フワイリドに其の出来事を話す。其の後も神の啓示がアブドゥッラーフに次々に下された。そしてアブドゥッラーフは、従兄弟のアリー・イブン・アビー・ターリブや友人のアブー・バクルに啓示の教えを説き、イスラム教を始めた。西暦622年7月16日、クライシュ族からの迫害を受け、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフとアブー・バクルがヤスリブへ向けてメッカを出発する。9月24日、クライシュ族からの迫害を受け、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフとアブー・バクルがヤスリブに到着する。西暦623年、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、アブー・バクルの娘アーイシャ・ビント・アブー・バクルと再婚する。西暦628年3月、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、信徒を連れ小巡礼の為メッカのカアバ神殿へ向かった。現地で武装したクライシュ族が待ち伏せしているという報告を受けたアブドゥッラーフは、フダイビーヤに留まり交渉に備えた。クライシュ族からスハイル・イブン・アムルが使者としてフダイビーヤに派遣され、協議を経て和約が成立した。クライシュ族側に有利な内容であった為ウマル・イブン・ハッターブは不満を示した。一方でアブー・バクルはアブドゥッラーフの決定に従った。西暦630年1月31日、メッカへ出撃したムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ率いる10,000名の軍勢と、アブー・スフヤーン率いるクライシュ族2,000名の軍勢がフナインに到着する。ムスリムが野営を始めるとハワジン族・タキフ族・ベドウィン族・サキーフ族が矢を放ち先制攻撃を行った。ムスリムは混乱し撤退したが、アリー・イブン・アビー・ターリブ、ウサマ・イブン・ザイド、ファドル・イブン・アッバス等数名が後方で戦った。又、アブドゥッラーフと共にマディーナに移住したムハージルーンであるアブー・バクルと、ウマル・イブン・ハッターブ等がアブドゥッラーフを擁護した。サキーフ族だけで約70名が殺害され、ムスリムは乗馬用の駱駝・武器・牛を奪い戦いに勝利した。西暦632年6月8日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、アラビア半島から異教徒を追放する事と、自分の死後もクルアーンに従う事の遺言を残し死去する。ウサーマ・ビン・ザイドのバルカ遠征は延期となった。ウマル・イブン・ハッターブは「アブドゥッラーフは神に相談しに行き、直ぐに戻ってくる」という主旨の発言を行い「アブドゥッラーフは死んだ」と口にする者を脅した。マディーナに帰還したアブー・バクルはハッターブにアブドゥッラーフの遺体を見せて納得させ、落ち着かせた。其の後サキファでアンサールの集会が開かれた。集会が行われる事を知ったバクルとハッターブは現場に急行した。バクルは、クライシュ族以外の者を指導者に据えると不和になる可能性が高い、と警告を発すると同時に、ウマル・ブン・アル・ハッターブとアブー・ウバイダが、バクルをアブドゥッラーフの後継者として推して、人々に支持を求めて働きかけた。ハバブ・イブン・ムンドヒールはクライシュ族とアンサール族が其々リーダーを選び、共同で統治する事を提案した。ハッターブはバクルを推薦し、周囲の者も其れに倣った。マディーナを拠点とするアラブのハズラジ族のサイダ一族の長サード・イブン・ウバダは此れに反発し、集会は解散となった。最終的にアブー・バクルが初代正統カリフに選出された。バクルは直様ウサーマ・ビン・ザイドに出撃命令を出した。7月、アブー・バクルは、アサド族のトゥライハ・イブン・クウェイリードがマディーナへの攻撃準備を進めている事を知り、ムハージリーンとアンサールの中から主にアリー・イブン・アビー・ターリブと、タルハ・イブン・ウバイドゥラと、ズバイル・イブン・アウワームを呼び寄せ司令官とし、戦闘部隊を構成した。バクルは此の部隊を使って、やって来た背教軍に前哨部隊を何もさせない内にドゥ・フッサへ追い返した。7月16日頃、アブー・バクルが本隊と共にマディーナを出発し、ドゥ・フッサへ向かった。乗用駱駝は全てウサーマ・ビン・ザイドの軍に属していた為、劣悪な荷物駱駝を馬として調達せざるを得なかった。此れ等の駱駝は戦闘訓練を受けていなかったので、ドゥ・フッサの背教軍から奇襲を受けた際に逃げ出した。其の結果、ムスリムはマディーナに退却し、背教軍は数日前に失った前哨部隊を奪還した。此れを受けアブー・バクルはマディーナで軍を再編成し、夜間に背教軍に奇襲を掛けた。結果、背教軍はドゥ・フッサからドゥ・キッサに退却した。8月1日、アブー・バクルの軍が、背教していた反乱部族のガタファン族・ハワジン族・タイイ族を破りドゥ・キッサを占領する。8月4日、ウサーマ・ビン・ザイドの軍勢がマディーナに帰還する。アブー・バクルはウサーマ・ビン・ザイドに休息と、部下への補給を指示した。10月31日頃、アブー・バクルが、戦闘を行わずに自らを預言者と名乗るムサイリマと接触し拘束する事を意図し、イクリマ・イブン・アビー・ジャハルをアル・ヤママに差し向ける。ジャハルは十分な兵力を持っていなかった為、ハーリド・イブン・アル・ワリードの軍の背教軍征伐の谷間期間に兵を借りた。又、ジャハルは次の指示が出る迄待機する様命じられていたが、前月1日にワリードがアディ・イブン・ハティム・トゥライハ率いる背教軍を破り勝利した事と、ジャハルと同様に次の指示が出る迄待機する様命じられていたイスラム教改宗者でサハーバのシュラビル・イブン・ハサナが、ジャハルと合流する為に進軍しており数日で到着する見込みであった事と、ワリードがサルマを征圧した事の報告を受け兵を動かし、ムサイリマに敗北する。ジャハルはバクルに書簡を送り行動の全容を報告した。報告を受けたバクルはジャハルの軽率な行動に怒りを覚えた。バクルはアルファジャの援護の為にマフラに向かい、ジャハルに対してもムハージルーンを助ける為にイエメンに向かう様指示した。ハサナはアル・ヤママに留まった。バクルはハサナがジャハルと同じ過ちを犯さない様書簡にてアル・ヤママに留まって次の指示を待つ様念を押し、ワリードに対しムサイリマ征伐の指示を出した。更にハサナに対して後日到着するワリードの軍の指揮下に入る様書簡にて指示を出した。西暦633年頃、ムスリムでササン朝ペルシアとの国境付近のアル・ヒラの部族長アル・マタナ・イブン・ハリタがメソポタミア地方のササン朝ペルシアの町を襲撃する。然しササン朝ペルシアの反撃を受けた為ハリタはアブー・バクルに援軍を要請し、結果勝利して相当量の戦利品を得た。其の後ハリタはマディーナへ赴きバクルに戦勝報告を行い、バクルから司令官に任命され、メソポタミア地方の襲撃に邁進する事となった。ハリタは軽騎兵の機動力を活かし、砂漠近くの町を襲撃し、砂漠に身を隠す戦法を採った。バクルは此の戦い振りからメソポタミア地方の征服を決意し、アル・ヤママにいたハーリド・イブン・アル・ワリードに、指揮官として志願兵のみの軍を構成しアル・ヒラへ向かいササン朝ペルシアと戦う様指示した。西暦633年3月14日頃、アブー・バクルが、イヤド・イブン・ガンムを中央アラビア・イラク・シリアからの経路が集合するアラビアの大規模商業都市であるドゥマット・アル・ジャンダルへ派遣する。8月、アブー・バクルからドゥマット・アル・ジャンダルにてアラブ反乱軍を鎮圧する様命を受けたイヤド・イブン・ガンムが、マリッドと呼ばれる砦の南面に軍を展開し、弓矢にてドゥマット・アル・ジャンダルを守備していたカルブ族を攻撃し、数週間戦闘を行ったが膠着状態となり任務に失敗、ガンムはある将校の「状況によっては、知恵は大軍よりも優れている」という進言により、ハーリド・イブン・アル・ワリードに助けを求める主旨の書簡を送る。12月頃、アブー・バクルが、シリア征服の為にアムル・イブン・アル・アースと、アブー・ウバイダと、シュラビル・イブン・ハサナと、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアンの4名を司令官に任命し、現地に派遣する。西暦634年1月頃、アブー・バクルが東ローマ帝国へ宣戦布告する。又1月頃、ハーリド・イブン・サイード・イブン・アルアーシュが、アブー・バクルにシリア進出の許可を求める。バクルは、東ローマ帝国に対する敵対行動を執ってはならないとして、偵察のみに限定して、アルアーシュにシリア進出を許可した。8月23日、アブー・バクルが病の為死去し、生前に指名したウマル・イブン・ハッターブが第2代正統カリフに即位する。
- ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ 西暦610年8月19日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがメッカにあるヒラー山の洞窟で、天使ジブリールより唯一神アッラーの啓示を受け、最初の妻であるハディージャ・ビント・フワイリドに其の出来事を話す。其の後ハディージャ・ビント・フワイリドの従兄弟でキリスト教ネストリウス派修道僧ワラカ・イブン・ナウファルに相談した所、ナウファルは、預言者のアブラハムと、ノアと、モーセと、イエス・キリストも同様の経験をしたが、敵対されなかった者はいない事を話す。其の後も神の啓示がアブドゥッラーフに次々に下された。そしてアブドゥッラーフは、従兄弟のアリー・イブン・アビー・ターリブや友人のアブー・バクルに啓示の教えを説き、イスラム教を始めた。西暦622年7月16日、クライシュ族からの迫害を受け、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフとアブー・バクルがヤスリブへ向けてメッカを出発する。9月24日、クライシュ族からの迫害を受け、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフとアブー・バクルがヤスリブに到着する。直ちにユダヤ教の制度を取り入れ、礼拝の方向をエルサレム神殿に定めた。西暦623年、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、アブー・バクルの娘アーイシャ・ビント・アブー・バクルと再婚する。西暦628年3月、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、信徒を連れ小巡礼の為メッカのカアバ神殿へ向かった。現地で武装したクライシュ族が待ち伏せしているという報告を受けたアブドゥッラーフは、フダイビーヤに留まり交渉に備えた。先ず、クライシュ族からムハンマドにマディーナへの撤退を求める使者が送られ、メッカに帰還した使者はムハンマドの信徒の忠誠心の高さを報告した。次にアブドゥッラーフはヒラーシュ・イブン・ウマイヤ・アルフザーイーを派遣したが、アルフザーイーがアブドゥッラーフの伝言を伝えると、クライシュ族は激怒し、アルフザーイーの乗っていた駱駝を斬殺、アルフザーイーはそのままフダイビーヤへ戻った。次にアブドゥッラーフはウマル・イブン・ハッターブを使者に選んだが、ハッターブは自身がクライシュ族と敵対している事を理由に辞退、結果ウスマーン・イブン・アッファーンが使者として派遣された。伝言を聞いたクライシュ族はカアバ神殿の周囲を回る儀礼である「タワーフ」を認めたが、アッファーンは妥協しなかった為監禁され、アブドゥッラーフにアッファーン殺害の知らせを届け、ムスリム達は激怒した。ムハンマドは彼らにいかなる事態が起きても自分の命令に従う様、バイア(忠誠の誓い)を行わせた。解放されたアッファーンが帰還した後、クライシュ族からスハイル・イブン・アムルが使者としてフダイビーヤに派遣され、協議を経て、10年間の休戦と、巡礼団は一旦マディーナに帰還し、翌年にムスリムの巡礼の為に3日間マッカを開放する事と、保護者の同意なくマディーナに移住したマッカの住民を無条件でマッカに送還する事と、ムハンマドの元からマッカのクライシュ族の元に移った人間はそのままマッカに留め置かれる事と、マッカ周辺の部族、個人は自由にムハンマドと同盟を締結出来る事を内容とする和約が成立した。マッカ側はムハンマドが「アッラーの使徒」として和議を結ぶ事を認めず、「アブドゥッラーの息子ムハンマド」として署名を行わせた。クライシュ族側に有利な内容であった為ハッターブは不満を示した。一方でアブー・バクルはアブドゥッラーフの決定に従った。結局此の年はアブドゥッラーフが目的としていた小巡礼を行う事が出来ず、マディーナに帰還するが、此れに関し多くのムスリムが困惑した。西暦630年1月31日、メッカへ出撃したムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ率いる10,000名の軍勢と、アブー・スフヤーン率いるクライシュ族2,000名の軍勢がフナインに到着する。先行してフナインに入っていたマリク・ビン・アウフは4,000名の部下に対しハワジン族・タキフ族・ベドウィン族・サキーフ族を見つけた際は石を投げつけてから単体で攻撃する事を命じた。ムスリムが野営を始めるとハワジン族・タキフ族・ベドウィン族・サキーフ族が矢を放ち先制攻撃を行った。ムスリムは混乱し撤退したが、アリー・イブン・アビー・ターリブ、ウサマ・イブン・ザイド、ファドル・イブン・アッバス等数名が後方で戦った。又、アブドゥッラーフと共にマディーナに移住したムハージルーンであるアブー・バクルと、ウマル・イブン・ハッターブと、ターリブ(アブドゥッラーフの従兄弟)と、アブドゥッラー・イブン・マスードと、アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブ(アブドゥッラーフの叔父)と、アブ・スフヤーン・イブン・アル・ハリス(アブドゥッラーフの従兄弟)と、アッバス(アブドゥッラーフの従兄弟)と、ザイド(アブドゥッラーフの養子)と、アイマン・イブン・ウベイド(ザイドの異母兄弟)がアブドゥッラーフを擁護した。そしてウベイドが戦死し、アブドゥッラーフは「さあ、人々よ。私はアッラーの使徒です。私はアブドゥッラーフの子ムハンマドです」「嗚呼、アッラー、あなたの助けを送ってください」と言った。ムスリムが戦場に戻りアブドゥッラーフは「貴方の顔が恥ずべき事でありますように」と言いながら砂を敵に投げつけ混乱させた。サキーフ族だけで約70名が殺害され、ムスリムは乗馬用の駱駝・武器・牛を奪い戦いに勝利した。西暦632年6月8日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、アラビア半島から異教徒を追放する事と、自分の死後もクルアーンに従う事の遺言を残し死去する。ウサーマ・ビン・ザイドのバルカ遠征は延期となった。
- アーイシャ・ビント・アブー・バクル 西暦623年、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、アブー・バクルの娘アーイシャ・ビント・アブー・バクルと再婚する。
- ウマル・イブン・ハッターブ 西暦628年3月、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、信徒を連れ小巡礼の為メッカのカアバ神殿へ向かった。現地で武装したクライシュ族が待ち伏せしているという報告を受けたアブドゥッラーフは、フダイビーヤに留まり交渉に備えた。先ず、クライシュ族からムハンマドにマディーナへの撤退を求める使者が送られ、メッカに帰還した使者はムハンマドの信徒の忠誠心の高さを報告した。次にアブドゥッラーフはヒラーシュ・イブン・ウマイヤ・アルフザーイーを派遣したが、アルフザーイーがアブドゥッラーフの伝言を伝えると、クライシュ族は激怒し、アルフザーイーの乗っていた駱駝を斬殺、アルフザーイーはそのままフダイビーヤへ戻った。次にアブドゥッラーフはウマル・イブン・ハッターブを使者に選んだが、ハッターブは自身がクライシュ族と敵対している事を理由に辞退、結果ウスマーン・イブン・アッファーンが使者として派遣された。クライシュ族からスハイル・イブン・アムルが使者としてフダイビーヤに派遣され、協議を経て和約が成立した。クライシュ族側に有利な内容であった為ハッターブは不満を示した。西暦630年1月31日、メッカへ出撃したムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ率いる10,000名の軍勢と、アブー・スフヤーン率いるクライシュ族2,000名の軍勢がフナインに到着する。ムスリムが野営を始めるとハワジン族・タキフ族・ベドウィン族・サキーフ族が矢を放ち先制攻撃を行った。ムスリムは混乱し撤退したが、アリー・イブン・アビー・ターリブ、ウサマ・イブン・ザイド、ファドル・イブン・アッバス等数名が後方で戦った。又、アブドゥッラーフと共にマディーナに移住したムハージルーンであるアブー・バクルと、ウマル・イブン・ハッターブ等がアブドゥッラーフを擁護した。西暦632年6月8日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、アラビア半島から異教徒を追放する事と、自分の死後もクルアーンに従う事の遺言を残し死去する。ウマル・イブン・ハッターブは「アブドゥッラーフは神に相談しに行き、直ぐに戻ってくる」という主旨の発言を行い「アブドゥッラーフは死んだ」と口にする者を脅した。マディーナに帰還したアブー・バクルはハッターブにアブドゥッラーフの遺体を見せて納得させ、落ち着かせた。其の後サキファでアンサールの集会が開かれた。集会が行われる事を知ったバクルとハッターブは現場に急行した。バクルは、クライシュ族以外の者を指導者に据えると不和になる可能性が高い、と警告を発すると同時に、ウマル・ブン・アル・ハッターブとアブー・ウバイダが、バクルをアブドゥッラーフの後継者として推して、人々に支持を求めて働きかけた。ハッターブはバクルを推薦し、周囲の者も其れに倣った。マディーナを拠点とするアラブのハズラジ族のサイダ一族の長サード・イブン・ウバダは此れに反発し、集会は解散となった。最終的にアブー・バクルが初代正統カリフに選出された。西暦634年8月23日、アブー・バクルが病の為死去し、生前に指名したウマル・イブン・ハッターブが第2代正統カリフに即位する。
- ウスマーン・イブン・アッファーン 西暦628年3月、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、信徒を連れ小巡礼の為メッカのカアバ神殿へ向かった。現地で武装したクライシュ族が待ち伏せしているという報告を受けたアブドゥッラーフは、フダイビーヤに留まり交渉に備えた。先ず、クライシュ族からムハンマドにマディーナへの撤退を求める使者が送られ、メッカに帰還した使者はムハンマドの信徒の忠誠心の高さを報告した。次にアブドゥッラーフはヒラーシュ・イブン・ウマイヤ・アルフザーイーを派遣したが、アルフザーイーがアブドゥッラーフの伝言を伝えると、クライシュ族は激怒し、アルフザーイーの乗っていた駱駝を斬殺、アルフザーイーはそのままフダイビーヤへ戻った。次にアブドゥッラーフはウマル・イブン・ハッターブを使者に選んだが、ハッターブは自身がクライシュ族と敵対している事を理由に辞退、結果ウスマーン・イブン・アッファーンが使者として派遣された。伝言を聞いたクライシュ族はカアバ神殿の周囲を回る儀礼である「タワーフ」を認めたが、アッファーンは妥協しなかった為監禁され、アブドゥッラーフにアッファーン殺害の知らせを届け、ムスリム達は激怒した。ムハンマドは彼らにいかなる事態が起きても自分の命令に従う様、バイア(忠誠の誓い)を行わせた。解放されたアッファーンが帰還した後、クライシュ族からスハイル・イブン・アムルが使者としてフダイビーヤに派遣され、協議を経て和約が成立した。
- スハイル・イブン・アムル 西暦628年3月、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、信徒を連れ小巡礼の為メッカのカアバ神殿へ向かった。現地で武装したクライシュ族が待ち伏せしているという報告を受けたアブドゥッラーフは、フダイビーヤに留まり交渉に備えた。クライシュ族からスハイル・イブン・アムルが使者としてフダイビーヤに派遣され、協議を経て、10年間の休戦と、巡礼団は一旦マディーナに帰還し、翌年にムスリムの巡礼の為に3日間マッカを開放する事と、保護者の同意なくマディーナに移住したマッカの住民を無条件でマッカに送還する事と、ムハンマドの元からマッカのクライシュ族の元に移った人間はそのままマッカに留め置かれる事と、マッカ周辺の部族、個人は自由にムハンマドと同盟を締結出来る事を内容とする和約が成立した。マッカ側はムハンマドが「アッラーの使徒」として和議を結ぶ事を認めず、「アブドゥッラーの息子ムハンマド」として署名を行わせた。
- アブー・ウバイダ 西暦632年6月8日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、アラビア半島から異教徒を追放する事と、自分の死後もクルアーンに従う事の遺言を残し死去する。ウマル・イブン・ハッターブは「アブドゥッラーフは神に相談しに行き、直ぐに戻ってくる」という主旨の発言を行い「アブドゥッラーフは死んだ」と口にする者を脅した。マディーナに帰還したアブー・バクルはハッターブにアブドゥッラーフの遺体を見せて納得させ、落ち着かせた。其の後サキファでアンサールの集会が開かれた。集会が行われる事を知ったバクルとハッターブは現場に急行した。バクルは、クライシュ族以外の者を指導者に据えると不和になる可能性が高い、と警告を発すると同時に、ウマル・ブン・アル・ハッターブとアブー・ウバイダが、バクルをアブドゥッラーフの後継者として推して、人々に支持を求めて働きかけた。西暦633年12月頃、アブー・バクルが、シリア征服の為にアムル・イブン・アル・アースと、アブー・ウバイダと、シュラビル・イブン・ハサナと、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアンの4名を司令官に任命し、現地に派遣する。西暦634年6月、ハーリド・イブン・アル・ワリードがシュラビル・イブン・ハサナの部隊を援護した翌日、東ローマ帝国軍は、ムスリムの戦力は自軍と同程度であると把握し、長旅の疲れが癒える前に打ち負かすべく再攻撃を決意した。両軍はボスラ郊外の平原で戦闘準備を行なった。東ローマ帝国軍はムスリムの攻撃に忽ち混乱した。東ローマ帝国軍は砦に撤退した。ワリードは東ローマ帝国軍を包囲する命令を下そうと振り返った時、アブー・ウバイダが、ムスリムの隊列から抜けて近付いて来るのが見えた。ウバイダは、西暦628年2月のカイバルの戦いでムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが使用していた黄色の旗を携えていた。ウバイダは其の旗をワリードに渡した。
- ウサーマ・ビン・ザイド 西暦632年6月8日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、アラビア半島から異教徒を追放する事と、自分の死後もクルアーンに従う事の遺言を残し死去する。ウサーマ・ビン・ザイドのバルカ遠征は延期となった。最終的にアブー・バクルが初代正統カリフに選出された。バクルは直様ウサーマ・ビン・ザイドに出撃命令を出した。8月4日、ウサーマ・ビン・ザイドの軍勢がマディーナに帰還する。アブー・バクルはウサーマ・ビン・ザイドに休息と、部下への補給を指示した。
- アリー・イブン・アビー・ターリブ 西暦610年8月19日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがメッカにあるヒラー山の洞窟で、天使ジブリールより唯一神アッラーの啓示を受け、最初の妻であるハディージャ・ビント・フワイリドに其の出来事を話す。其の後も神の啓示がアブドゥッラーフに次々に下された。そしてアブドゥッラーフは、従兄弟のアリー・イブン・アビー・ターリブや友人のアブー・バクルに啓示の教えを説き、イスラム教を始めた。西暦630年1月31日、メッカへ出撃したムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ率いる10,000名の軍勢と、アブー・スフヤーン率いるクライシュ族2,000名の軍勢がフナインに到着する。ムスリムが野営を始めるとハワジン族・タキフ族・ベドウィン族・サキーフ族が矢を放ち先制攻撃を行った。ムスリムは混乱し撤退したが、アリー・イブン・アビー・ターリブ、ウサマ・イブン・ザイド、ファドル・イブン・アッバス等数名が後方で戦った。西暦632年7月、アブー・バクルは、アサド族のトゥライハ・イブン・クウェイリードがマディーナへの攻撃準備を進めている事を知り、ムハージリーンとアンサールの中から主にアリー・イブン・アビー・ターリブと、タルハ・イブン・ウバイドゥラと、ズバイル・イブン・アウワームを呼び寄せ司令官とし、戦闘部隊を構成した。
- タルハ・イブン・ウバイドゥラ 西暦632年7月、アブー・バクルは、アサド族のトゥライハ・イブン・クウェイリードがマディーナへの攻撃準備を進めている事を知り、ムハージリーンとアンサールの中から主にアリー・イブン・アビー・ターリブと、タルハ・イブン・ウバイドゥラと、ズバイル・イブン・アウワームを呼び寄せ司令官とし、戦闘部隊を構成した。
- ズバイル・イブン・アウワーム 西暦632年7月、アブー・バクルは、アサド族のトゥライハ・イブン・クウェイリードがマディーナへの攻撃準備を進めている事を知り、ムハージリーンとアンサールの中から主にアリー・イブン・アビー・ターリブと、タルハ・イブン・ウバイドゥラと、ズバイル・イブン・アウワームを呼び寄せ司令官とし、戦闘部隊を構成した。
- トゥライハ・イブン・クウェイリード 西暦632年7月、アブー・バクルは、アサド族のトゥライハ・イブン・クウェイリードがマディーナへの攻撃準備を進めている事を知り、ムハージリーンとアンサールの中から主にアリー・イブン・アビー・ターリブと、タルハ・イブン・ウバイドゥラと、ズバイル・イブン・アウワームを呼び寄せ司令官とし、戦闘部隊を構成した。バクルは此の部隊を使って、やって来た背教軍に前哨部隊を何もさせない内にドゥ・フッサへ追い返した。
- ムサイリマ 西暦632年10月31日頃、アブー・バクルが、戦闘を行わずに自らを預言者と名乗るムサイリマと接触し拘束する事を意図し、イクリマ・イブン・アビー・ジャハルをアル・ヤママに差し向ける。ジャハルは十分な兵力を持っていなかった為、ハーリド・イブン・アル・ワリードの軍の背教軍征伐の谷間期間に兵を借りた。又、ジャハルは次の指示が出る迄待機する様命じられていたが、前月1日にワリードがアディ・イブン・ハティム・トゥライハ率いる背教軍を破り勝利した事と、ジャハルと同様に次の指示が出る迄待機する様命じられていたイスラム教改宗者でサハーバのシュラビル・イブン・ハサナが、ジャハルと合流する為に進軍しており数日で到着する見込みであった事と、ワリードがサルマを征圧した事の報告を受け兵を動かし、ムサイリマに敗北する。バクルはハサナがジャハルと同じ過ちを犯さない様書簡にてアル・ヤママに留まって次の指示を待つ様念を押し、ワリードに対しムサイリマ征伐の指示を出した。
- イクリマ・イブン・アビー・ジャハル 西暦632年10月31日頃、アブー・バクルが、戦闘を行わずに自らを預言者と名乗るムサイリマと接触し拘束する事を意図し、イクリマ・イブン・アビー・ジャハルをアル・ヤママに差し向ける。ジャハルは十分な兵力を持っていなかった為、ハーリド・イブン・アル・ワリードの軍の背教軍征伐の谷間期間に兵を借りた。又、ジャハルは次の指示が出る迄待機する様命じられていたが、前月1日にワリードがアディ・イブン・ハティム・トゥライハ率いる背教軍を破り勝利した事と、ジャハルと同様に次の指示が出る迄待機する様命じられていたイスラム教改宗者でサハーバのシュラビル・イブン・ハサナが、ジャハルと合流する為に進軍しており数日で到着する見込みであった事と、ワリードがサルマを征圧した事の報告を受け兵を動かし、ムサイリマに敗北する。バクルに書簡を送り行動の全容を報告した。報告を受けたバクルはジャハルの軽率な行動に怒りを覚えた。バクルはアルファジャの援護の為にマフラに向かい、ジャハルに対してもムハージルーンを助ける為にイエメンに向かう様指示した。ハサナはアル・ヤママに留まった。バクルはハサナがジャハルと同じ過ちを犯さない様書簡にてアル・ヤママに留まって次の指示を待つ様念を押し、ワリードに対しムサイリマ征伐の指示を出した。更にバクルはハサナに対して後日到着するワリードの軍の指揮下に入る様書簡にて指示を出した。
- シュラビル・イブン・ハサナ 西暦632年10月31日頃、アブー・バクルが、戦闘を行わずに自らを預言者と名乗るムサイリマと接触し拘束する事を意図し、イクリマ・イブン・アビー・ジャハルをアル・ヤママに差し向ける。ジャハルは十分な兵力を持っていなかった為、ハーリド・イブン・アル・ワリードの軍の背教軍征伐の谷間期間に兵を借りた。又、ジャハルは次の指示が出る迄待機する様命じられていたが、前月1日にワリードがアディ・イブン・ハティム・トゥライハ率いる背教軍を破り勝利した事と、ジャハルと同様に次の指示が出る迄待機する様命じられていたイスラム教改宗者でサハーバのシュラビル・イブン・ハサナが、ジャハルと合流する為に進軍しており数日で到着する見込みであった事と、ワリードがサルマを征圧した事の報告を受け兵を動かし、ムサイリマに敗北する。ハサナはアル・ヤママに留まった。バクルはハサナがジャハルと同じ過ちを犯さない様書簡にてアル・ヤママに留まって次の指示を待つ様念を押し、ワリードに対しムサイリマ征伐の指示を出した。更にバクルはハサナに対して後日到着するワリードの軍の指揮下に入る様書簡にて指示を出した。西暦633年12月頃、アブー・バクルが、シリア征服の為にアムル・イブン・アル・アースと、アブー・ウバイダと、シュラビル・イブン・ハサナと、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアンの4名を司令官に任命し、現地に派遣する。西暦634年6月、ハーリド・イブン・アル・ワリードがシュラビル・イブン・ハサナの部隊を援護した翌日、東ローマ帝国軍は、ムスリムの戦力は自軍と同程度であると把握し、長旅の疲れが癒える前に打ち負かすべく再攻撃を決意した。
- ハーリド・イブン・アル・ワリード 西暦632年10月31日頃、アブー・バクルが、戦闘を行わずに自らを預言者と名乗るムサイリマと接触し拘束する事を意図し、イクリマ・イブン・アビー・ジャハルをアル・ヤママに差し向ける。ジャハルは十分な兵力を持っていなかった為、ハーリド・イブン・アル・ワリードの軍の背教軍征伐の谷間期間に兵を借りた。又、ジャハルは次の指示が出る迄待機する様命じられていたが、前月1日にワリードがアディ・イブン・ハティム・トゥライハ率いる背教軍を破り勝利した事と、ジャハルと同様に次の指示が出る迄待機する様命じられていたイスラム教改宗者でサハーバのシュラビル・イブン・ハサナが、ジャハルと合流する為に進軍しており数日で到着する見込みであった事と、ワリードがサルマを征圧した事の報告を受け兵を動かし、ムサイリマに敗北する。バクルはハサナがジャハルと同じ過ちを犯さない様書簡にてアル・ヤママに留まって次の指示を待つ様念を押し、ワリードに対しムサイリマ征伐の指示を出した。更にバクルはハサナに対して後日到着するワリードの軍の指揮下に入る様書簡にて指示を出した。西暦633年頃、ムスリムでササン朝ペルシアとの国境付近のアル・ヒラの部族長アル・マタナ・イブン・ハリタがメソポタミア地方のササン朝ペルシアの町を襲撃する。然しササン朝ペルシアの反撃を受けた為ハリタはアブー・バクルに援軍を要請し、結果勝利して相当量の戦利品を得た。其の後ハリタはマディーナへ赴きバクルに戦勝報告を行い、バクルから司令官に任命され、メソポタミア地方の襲撃に邁進する事となった。ハリタは軽騎兵の機動力を活かし、砂漠近くの町を襲撃し、砂漠に身を隠す戦法を採った。バクルは此の戦い振りからメソポタミア地方の征服を決意し、アル・ヤママにいたハーリド・イブン・アル・ワリードに、指揮官として志願兵のみの軍を構成しアル・ヒラへ向かいササン朝ペルシアと戦う様指示した。ワリードはササン朝ペルシア総督ホルムズドに対して「イスラムに於ける人頭税であるジズヤの支払いに応じれば助ける」という主旨の降伏勧告の書簡を送る。然しホルムズドが此れに応じなかった。又、ワリードは書簡の中でカーズマを経由してアル・ウブッラへと向かうルートで進軍するとホルムズドに思わせる様仕向けた。西暦633年8月、アブー・バクルからドゥマット・アル・ジャンダルにてアラブ反乱軍を鎮圧する様命を受けたイヤド・イブン・ガンムが、マリッドと呼ばれる砦の南面に軍を展開し、弓矢にてドゥマット・アル・ジャンダルを守備していたカルブ族を攻撃し、数週間戦闘を行ったが膠着状態となり任務に失敗、ガンムはある将校の「状況によっては、知恵は大軍よりも優れている」という進言により、ハーリド・イブン・アル・ワリードに助けを求める主旨の書簡を送る。ワリードはアイン・アル・タムルからアル・ヒラに向かおうとしている際に其の書簡を受け取った。西暦634年6月、ハーリド・イブン・アル・ワリードがシュラビル・イブン・ハサナの部隊を援護した翌日、東ローマ帝国軍は、ムスリムの戦力は自軍と同程度であると把握し、長旅の疲れが癒える前に打ち負かすべく再攻撃を決意した。両軍はボスラ郊外の平原で戦闘準備を行なった。ワリードは、中央に自身の直轄部隊を置き、両翼の司令官にラファイ・ビン・ウマイル(左翼)と、ディラール・ビン・アル・アズワル(右翼)の2名を任命した。ワリードは、直轄部隊の正面、アブー・バクルの息子アブド・アル・ラーハマーン・イブン・アブー・バクルの下に薄いスクリーンを置いた。戦闘が開始されると直ぐにラーハマーンは東ローマ帝国軍を撃破した。東ローマ帝国の将軍達は安全な遊軍部隊の下へ逃走する中、ワリードは前線全体に沿って攻撃を開始した。東ローマ帝国軍はムスリムの攻撃に忽ち混乱した。此の日は暑かった為、アズワルは鎖帷子を脱ぎ、続いてシャツを脱いだ。アズワルは此の半裸の状態で攻撃を開始し、一騎討ちで立ち向かって来る東ローマ帝国兵を全て破った。東ローマ帝国軍は砦に撤退した。此の時ワリードは、何にも跨らず自身だけで戦っていた。ワリードは東ローマ帝国軍を包囲する命令を下そうと振り返った時、アブー・ウバイダが、ムスリムの隊列から抜けて近付いて来るのが見えた。ウバイダは、西暦628年2月のカイバルの戦いでムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが使用していた黄色の旗を携えていた。ウバイダは其の旗をワリードに渡した。
- アル・マタナ・イブン・ハリタ 西暦633年頃、ムスリムでササン朝ペルシアとの国境付近のアル・ヒラの部族長アル・マタナ・イブン・ハリタがメソポタミア地方のササン朝ペルシアの町を襲撃する。然しササン朝ペルシアの反撃を受けた為アブー・バクルに援軍を要請し、結果勝利して相当量の戦利品を得た。其の後ハリタはマディーナへ赴きバクルに戦勝報告を行い、バクルから司令官に任命され、メソポタミア地方の襲撃に邁進する事となった。軽騎兵の機動力を活かし、砂漠近くの町を襲撃し、砂漠に身を隠す戦法を採った。バクルは此の戦い振りからメソポタミア地方の征服を決意し、アル・ヤママにいたハーリド・イブン・アル・ワリードに、指揮官として志願兵のみの軍を構成しアル・ヒラへ向かいササン朝ペルシアと戦う様指示した。
- ホルムズド 西暦633年頃、ムスリムでササン朝ペルシアとの国境付近のアル・ヒラの部族長アル・マタナ・イブン・ハリタがメソポタミア地方のササン朝ペルシアの町を襲撃する。然しササン朝ペルシアの反撃を受けた為ハリタはアブー・バクルに援軍を要請し、結果勝利して相当量の戦利品を得た。其の後ハリタはマディーナへ赴きバクルに戦勝報告を行い、バクルから司令官に任命され、メソポタミア地方の襲撃に邁進する事となった。ハリタは軽騎兵の機動力を活かし、砂漠近くの町を襲撃し、砂漠に身を隠す戦法を採った。バクルは此の戦い振りからメソポタミア地方の征服を決意し、アル・ヤママにいたハーリド・イブン・アル・ワリードに、指揮官として志願兵のみの軍を構成しアル・ヒラへ向かいササン朝ペルシアと戦う様指示した。ワリードはササン朝ペルシア総督ホルムズドに対して「イスラムに於ける人頭税であるジズヤの支払いに応じれば助ける」という主旨の降伏勧告の書簡を送る。然しホルムズドが此れに応じなかった。又、ワリードは書簡の中でカーズマを経由してアル・ウブッラへと向かうルートで進軍するとホルムズドに思わせる様仕向けた。
- イヤド・イブン・ガンム 西暦633年3月14日頃、アブー・バクルが、イヤド・イブン・ガンムを中央アラビア・イラク・シリアからの経路が集合するアラビアの大規模商業都市であるドゥマット・アル・ジャンダルへ派遣する。ガンムはドゥマット・アル・ジャンダルに到着し、ドゥマット・アル・ジャンダルとシリア東部の周縁が、アラブ人キリスト教徒のカルブ族に押さえられている事を知った。8月、アブー・バクルからドゥマット・アル・ジャンダルにてアラブ反乱軍を鎮圧する様命を受けたイヤド・イブン・ガンムが、マリッドと呼ばれる砦の南面に軍を展開し、弓矢にてドゥマット・アル・ジャンダルを守備していたカルブ族を攻撃し、数週間戦闘を行ったが膠着状態となり任務に失敗、ガンムはある将校の「状況によっては、知恵は大軍よりも優れている」という進言により、ハーリド・イブン・アル・ワリードに助けを求める主旨の書簡を送る。ワリードはアイン・アル・タムルからアル・ヒラに向かおうとしている際に其の書簡を受け取った。
- アムル・イブン・アル・アース 西暦633年12月頃、アブー・バクルが、シリア征服の為にアムル・イブン・アル・アースと、アブー・ウバイダと、シュラビル・イブン・ハサナと、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアンの4名を司令官に任命し、現地に派遣する。
- ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン 西暦633年12月頃、アブー・バクルが、シリア征服の為にアムル・イブン・アル・アースと、アブー・ウバイダと、シュラビル・イブン・ハサナと、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアンの4名を司令官に任命し、現地に派遣する。
- ハーリド・イブン・サイード・イブン・アルアーシュ 西暦634年1月頃、ハーリド・イブン・サイード・イブン・アルアーシュが、アブー・バクルにシリア進出の許可を求める。バクルは、東ローマ帝国に対する敵対行動を執ってはならないとして、偵察のみに限定して、アルアーシュにシリア進出を許可した。
- アブド・アル・ラーハマーン・イブン・アブー・バクル 西暦634年6月、ハーリド・イブン・アル・ワリードがシュラビル・イブン・ハサナの部隊を援護した翌日、東ローマ帝国軍は、ムスリムの戦力は自軍と同程度であると把握し、長旅の疲れが癒える前に打ち負かすべく再攻撃を決意した。両軍はボスラ郊外の平原で戦闘準備を行なった。ワリードは、中央に自身の直轄部隊を置き、両翼の司令官にラファイ・ビン・ウマイル(左翼)と、ディラール・ビン・アル・アズワル(右翼)の2名を任命した。ワリードは、直轄部隊の正面、アブー・バクルの息子アブド・アル・ラーハマーン・イブン・アブー・バクルの下に薄いスクリーンを置いた。戦闘が開始されると直ぐにラーハマーンは東ローマ帝国軍を撃破した。
- ディラール・ビン・アル・アズワル 西暦634年6月、ハーリド・イブン・アル・ワリードがシュラビル・イブン・ハサナの部隊を援護した翌日、東ローマ帝国軍は、ムスリムの戦力は自軍と同程度であると把握し、長旅の疲れが癒える前に打ち負かすべく再攻撃を決意した。両軍はボスラ郊外の平原で戦闘準備を行なった。ワリードは、中央に自身の直轄部隊を置き、両翼の司令官にラファイ・ビン・ウマイル(左翼)と、ディラール・ビン・アル・アズワル(右翼)の2名を任命した。ワリードは、直轄部隊の正面、アブー・バクルの息子アブド・アル・ラーハマーン・イブン・アブー・バクルの下に薄いスクリーンを置いた。戦闘が開始されると直ぐにラーハマーンは東ローマ帝国軍を撃破した。東ローマ帝国の将軍達は安全な遊軍部隊の下へ逃走する中、ワリードは前線全体に沿って攻撃を開始した。東ローマ帝国軍はムスリムの攻撃に忽ち混乱した。此の日は暑かった為、アズワルは鎖帷子を脱ぎ、続いてシャツを脱いだ。此の半裸の状態で攻撃を開始し、一騎討ちで立ち向かって来る東ローマ帝国兵を全て破った。東ローマ帝国軍は砦に撤退した。アズワルの活躍は一週間以内にシリア中に知れ渡った。
- ラファイ・ビン・ウマイル 西暦634年6月、ハーリド・イブン・アル・ワリードがシュラビル・イブン・ハサナの部隊を援護した翌日、東ローマ帝国軍は、ムスリムの戦力は自軍と同程度であると把握し、長旅の疲れが癒える前に打ち負かすべく再攻撃を決意した。両軍はボスラ郊外の平原で戦闘準備を行なった。ワリードは、中央に自身の直轄部隊を置き、両翼の司令官にラファイ・ビン・ウマイル(左翼)と、ディラール・ビン・アル・アズワル(右翼)の2名を任命した。
- ハバブ・イブン・ムンドヒール 西暦632年6月8日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、アラビア半島から異教徒を追放する事と、自分の死後もクルアーンに従う事の遺言を残し死去する。其の後サキファでアンサールの集会が開かれた。ハバブ・イブン・ムンドヒールはクライシュ族とアンサール族が其々リーダーを選び、共同で統治する事を提案した。
- サード・イブン・ウバダ 西暦632年6月8日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、アラビア半島から異教徒を追放する事と、自分の死後もクルアーンに従う事の遺言を残し死去する。ウマル・イブン・ハッターブは「アブドゥッラーフは神に相談しに行き、直ぐに戻ってくる」という主旨の発言を行い「アブドゥッラーフは死んだ」と口にする者を脅した。マディーナに帰還したアブー・バクルはハッターブにアブドゥッラーフの遺体を見せて納得させ、落ち着かせた。其の後サキファでアンサールの集会が開かれた。集会が行われる事を知ったバクルとハッターブは現場に急行した。ハッターブはバクルを推薦し、周囲の者も其れに倣った。マディーナを拠点とするアラブのハズラジ族のサイダ一族の長サード・イブン・ウバダは此れに反発し、集会は解散となった。最終的にアブー・バクルが初代正統カリフに選出された。
主要な地名・拠点
- ヒラー山 西暦610年8月19日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフがメッカ(現在のサウジアラビアのマッカ州)にあるヒラー山の洞窟で、天使ジブリールより唯一神アッラーの啓示を受け、最初の妻であるハディージャ・ビント・フワイリドに其の出来事を話す。
- フダイビーヤ 西暦628年3月、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、信徒を連れ小巡礼の為メッカのカアバ神殿へ向かった。現地で武装したクライシュ族が待ち伏せしているという報告を受けたアブドゥッラーフは、フダイビーヤ(現在のサウジアラビアのマッカ州)に留まり交渉に備えた。先ず、クライシュ族からムハンマドにマディーナへの撤退を求める使者が送られ、メッカに帰還した使者はムハンマドの信徒の忠誠心の高さを報告した。次にアブドゥッラーフはヒラーシュ・イブン・ウマイヤ・アルフザーイーを派遣したが、アルフザーイーがアブドゥッラーフの伝言を伝えると、クライシュ族は激怒し、アルフザーイーの乗っていた駱駝を斬殺、アルフザーイーはそのままフダイビーヤへ戻った。次にアブドゥッラーフはウマル・イブン・ハッターブを使者に選んだが、自身がクライシュ族と敵対している事を理由に辞退、結果ウスマーン・イブン・アッファーンが使者として派遣された。伝言を聞いたクライシュ族はカアバ神殿の周囲を回る儀礼である「タワーフ」を認めたが、アッファーンは妥協しなかった為監禁され、アブドゥッラーフにアッファーン殺害の知らせを届け、ムスリム達は激怒した。ムハンマドは彼らにいかなる事態が起きても自分の命令に従う様、バイア(忠誠の誓い)を行わせた。解放されたアッファーンが帰還した後、クライシュ族からスハイル・イブン・アムルが使者としてフダイビーヤに派遣され、協議を経て、10年間の休戦と、巡礼団は一旦マディーナに帰還し、翌年にムスリムの巡礼の為に3日間マッカを開放する事と、保護者の同意なくマディーナに移住したマッカの住民を無条件でマッカに送還する事と、ムハンマドの元からマッカのクライシュ族の元に移った人間はそのままマッカに留め置かれる事と、マッカ周辺の部族、個人は自由にムハンマドと同盟を締結出来る事を内容とする和約が成立した。マッカ側はムハンマドが「アッラーの使徒」として和議を結ぶ事を認めず、「アブドゥッラーの息子ムハンマド」として署名を行わせた。クライシュ族側に有利な内容であった為ハッターブは不満を示した。一方でアブー・バクルはアブドゥッラーフの決定に従った。結局此の年はアブドゥッラーフが目的としていた小巡礼を行う事が出来ず、マディーナに帰還するが、此れに関し多くのムスリムが困惑した。
- フナイン 西暦630年1月31日、メッカへ出撃したムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ率いる10,000名の軍勢と、アブー・スフヤーン率いるクライシュ族2,000名の軍勢がフナイン(現在のサウジアラビアのマッカ州)に到着する。先行してフナインに入っていたマリク・ビン・アウフは4,000名の部下に対しハワジン族・タキフ族・ベドウィン族・サキーフ族を見つけた際は石を投げつけてから単体で攻撃する事を命じた。ムスリムが野営を始めるとハワジン族・タキフ族・ベドウィン族・サキーフ族が矢を放ち先制攻撃を行った。ムスリムは混乱し撤退したが、アリー・イブン・アビー・ターリブ、ウサマ・イブン・ザイド、ファドル・イブン・アッバス等数名が後方で戦った。又、アブドゥッラーフと共にマディーナに移住したムハージルーンであるアブー・バクルと、ウマル・イブン・ハッターブと、ターリブ(アブドゥッラーフの従兄弟)と、アブドゥッラー・イブン・マスードと、アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブ(アブドゥッラーフの叔父)と、アブ・スフヤーン・イブン・アル・ハリス(アブドゥッラーフの従兄弟)と、アッバス(アブドゥッラーフの従兄弟)と、ザイド(アブドゥッラーフの養子)と、アイマン・イブン・ウベイド(ザイドの異母兄弟)がアブドゥッラーフを擁護した。そしてウベイドが戦死し、アブドゥッラーフは「さあ、人々よ。私はアッラーの使徒です。私はアブドゥッラーフの子ムハンマドです」「嗚呼、アッラー、あなたの助けを送ってください」と言った。ムスリムが戦場に戻りアブドゥッラーフは「貴方の顔が恥ずべき事でありますように」と言いながら砂を敵に投げつけ混乱させた。サキーフ族だけで約70名が殺害され、ムスリムは乗馬用の駱駝・武器・牛を奪い戦いに勝利した。
- マディーナ 西暦632年6月8日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、アラビア半島から異教徒を追放する事と、自分の死後もクルアーンに従う事の遺言を残し死去する。ウマル・イブン・ハッターブは「アブドゥッラーフは神に相談しに行き、直ぐに戻ってくる」という主旨の発言を行い「アブドゥッラーフは死んだ」と口にする者を脅した。マディーナに帰還したアブー・バクルはハッターブにアブドゥッラーフの遺体を見せて納得させ、落ち着かせた。7月、アブー・バクルは、アサド族のトゥライハ・イブン・クウェイリードがマディーナへの攻撃準備を進めている事を知り、ムハージリーンとアンサールの中から主にアリー・イブン・アビー・ターリブと、タルハ・イブン・ウバイドゥラと、ズバイル・イブン・アウワームを呼び寄せ司令官とし、戦闘部隊を構成した。7月16日頃、アブー・バクルが本隊と共にマディーナを出発し、ドゥ・フッサへ向かった。乗用駱駝は全てウサーマ・ビン・ザイドの軍に属していた為、劣悪な荷物駱駝を馬として調達せざるを得なかった。此れ等の駱駝は戦闘訓練を受けていなかったので、ドゥ・フッサの背教軍から奇襲を受けた際に逃げ出した。其の結果、ムスリムはマディーナに退却し、背教軍は数日前に失った前哨部隊を奪還した。此れを受けアブー・バクルはマディーナで軍を再編成し、夜間に背教軍に奇襲を掛けた。結果、背教軍はドゥ・フッサからドゥ・キッサに退却した。8月4日、ウサーマ・ビン・ザイドの軍勢がマディーナに帰還する。西暦633年頃、ムスリムでササン朝ペルシアとの国境付近のアル・ヒラ(現在のクーファ(イラクのナジャフ県)付近)の部族長アル・マタナ・イブン・ハリタがメソポタミア地方のササン朝ペルシアの町を襲撃する。然しササン朝ペルシアの反撃を受けた為アブー・バクルに援軍を要請し、結果勝利して相当量の戦利品を得た。其の後ハリタはマディーナへ赴きバクルに戦勝報告を行い、バクルから司令官に任命され、メソポタミア地方の襲撃に邁進する事となった。
- サキファ 西暦632年6月8日、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが、アラビア半島から異教徒を追放する事と、自分の死後もクルアーンに従う事の遺言を残し死去する。ウサーマ・ビン・ザイドのバルカ遠征は延期となった。ウマル・イブン・ハッターブは「アブドゥッラーフは神に相談しに行き、直ぐに戻ってくる」という主旨の発言を行い「アブドゥッラーフは死んだ」と口にする者を脅した。マディーナに帰還したアブー・バクルはハッターブにアブドゥッラーフの遺体を見せて納得させ、落ち着かせた。其の後サキファ(現在のサウジアラビアのマディーナ州)でアンサールの集会が開かれた。集会が行われる事を知ったバクルとハッターブは現場に急行した。バクルは、クライシュ族以外の者を指導者に据えると不和になる可能性が高い、と警告を発すると同時に、ウマル・ブン・アル・ハッターブとアブー・ウバイダが、バクルをアブドゥッラーフの後継者として推して、人々に支持を求めて働きかけた。ハバブ・イブン・ムンドヒールはクライシュ族とアンサール族が其々リーダーを選び、共同で統治する事を提案した。ハッターブはバクルを推薦し、周囲の者も其れに倣った。マディーナを拠点とするアラブのハズラジ族のサイダ一族の長サード・イブン・ウバダは此れに反発し、集会は解散となった。最終的にアブー・バクルが初代正統カリフに選出された。バクルは直様ウサーマ・ビン・ザイドに出撃命令を出した。
- ドゥ・フッサ 西暦632年7月、アブー・バクルは、アサド族のトゥライハ・イブン・クウェイリードがマディーナへの攻撃準備を進めている事を知り、ムハージリーンとアンサールの中から主にアリー・イブン・アビー・ターリブと、タルハ・イブン・ウバイドゥラと、ズバイル・イブン・アウワームを呼び寄せ司令官とし、戦闘部隊を構成した。バクルは此の部隊を使って、やって来た背教軍に前哨部隊を何もさせない内にドゥ・フッサへ追い返した。7月16日頃、アブー・バクルが本隊と共にマディーナを出発し、ドゥ・フッサへ向かった。乗用駱駝は全てウサーマ・ビン・ザイドの軍に属していた為、劣悪な荷物駱駝を馬として調達せざるを得なかった。此れ等の駱駝は戦闘訓練を受けていなかったので、ドゥ・フッサの背教軍から奇襲を受けた際に逃げ出した。其の結果、ムスリムはマディーナに退却し、背教軍は数日前に失った前哨部隊を奪還した。此れを受けアブー・バクルはマディーナで軍を再編成し、夜間に背教軍に奇襲を掛けた。結果、背教軍はドゥ・フッサからドゥ・キッサに退却した。
- ドゥ・キッサ 西暦632年7月16日頃、アブー・バクルが本隊と共にマディーナを出発し、ドゥ・フッサへ向かった。乗用駱駝は全てウサーマ・ビン・ザイドの軍に属していた為、劣悪な荷物駱駝を馬として調達せざるを得なかった。此れ等の駱駝は戦闘訓練を受けていなかったので、ドゥ・フッサの背教軍から奇襲を受けた際に逃げ出した。其の結果、ムスリムはマディーナに退却し、背教軍は数日前に失った前哨部隊を奪還した。此れを受けアブー・バクルはマディーナで軍を再編成し、夜間に背教軍に奇襲を掛けた。結果、背教軍はドゥ・フッサからドゥ・キッサに退却した。8月1日、アブー・バクルの軍が、背教していた反乱部族のガタファン族・ハワジン族・タイイ族を破りドゥ・キッサを占領する。
- アル・ヤママ 西暦632年10月31日頃、アブー・バクルが、戦闘を行わずに自らを預言者と名乗るムサイリマと接触し拘束する事を意図し、イクリマ・イブン・アビー・ジャハルをアル・ヤママ(現在のサウジアラビアのリヤード州)に差し向ける。ジャハルは十分な兵力を持っていなかった為、ハーリド・イブン・アル・ワリードの軍の背教軍征伐の谷間期間に兵を借りた。又、ジャハルは次の指示が出る迄待機する様命じられていたが、前月1日にワリードがアディ・イブン・ハティム・トゥライハ率いる背教軍を破り勝利した事と、ジャハルと同様に次の指示が出る迄待機する様命じられていたイスラム教改宗者でサハーバのシュラビル・イブン・ハサナが、ジャハルと合流する為に進軍しており数日で到着する見込みであった事と、ワリードがサルマを征圧した事の報告を受け兵を動かし、ムサイリマに敗北する。バクルに書簡を送り行動の全容を報告した。報告を受けたバクルはジャハルの軽率な行動に怒りを覚えた。バクルはアルファジャの援護の為にマフラ(現在のイエメン)に向かい、ジャハルに対してもムハージルーンを助ける為にイエメンに向かう様指示した。ハサナはアル・ヤママに留まった。バクルはハサナがジャハルと同じ過ちを犯さない様書簡にてアル・ヤママに留まって次の指示を待つ様念を押し、ワリードに対しムサイリマ征伐の指示を出した。更にハサナに対して後日到着するワリードの軍の指揮下に入る様書簡にて指示を出した。西暦633年頃、ムスリムでササン朝ペルシアとの国境付近のアル・ヒラ(現在のクーファ(イラクのナジャフ県)付近)の部族長アル・マタナ・イブン・ハリタがメソポタミア地方のササン朝ペルシアの町を襲撃する。然しササン朝ペルシアの反撃を受けた為アブー・バクルに援軍を要請し、結果勝利して相当量の戦利品を得た。其の後ハリタはマディーナへ赴きバクルに戦勝報告を行い、バクルから司令官に任命され、メソポタミア地方の襲撃に邁進する事となった。軽騎兵の機動力を活かし、砂漠近くの町を襲撃し、砂漠に身を隠す戦法を採った。バクルは此の戦い振りからメソポタミア地方の征服を決意し、アル・ヤママにいたハーリド・イブン・アル・ワリードに、指揮官として志願兵のみの軍を構成しアル・ヒラへ向かいササン朝ペルシアと戦う様指示した。
- アル・ヒラ 西暦633年頃、ムスリムでササン朝ペルシアとの国境付近のアル・ヒラ(現在のクーファ(イラクのナジャフ県)付近)の部族長アル・マタナ・イブン・ハリタがメソポタミア地方のササン朝ペルシアの町を襲撃する。然しササン朝ペルシアの反撃を受けた為アブー・バクルに援軍を要請し、結果勝利して相当量の戦利品を得た。其の後ハリタはマディーナへ赴きバクルに戦勝報告を行い、バクルから司令官に任命され、メソポタミア地方の襲撃に邁進する事となった。軽騎兵の機動力を活かし、砂漠近くの町を襲撃し、砂漠に身を隠す戦法を採った。バクルは此の戦い振りからメソポタミア地方の征服を決意し、アル・ヤママにいたハーリド・イブン・アル・ワリードに、指揮官として志願兵のみの軍を構成しアル・ヒラへ向かいササン朝ペルシアと戦う様指示した。西暦633年8月、アブー・バクルからドゥマット・アル・ジャンダルにてアラブ反乱軍を鎮圧する様命を受けたイヤド・イブン・ガンムが、マリッドと呼ばれる砦の南面に軍を展開し、弓矢にてドゥマット・アル・ジャンダルを守備していたカルブ族を攻撃し、数週間戦闘を行ったが膠着状態となり任務に失敗、ガンムはある将校の「状況によっては、知恵は大軍よりも優れている」という進言により、ハーリド・イブン・アル・ワリードに助けを求める主旨の書簡を送る。ワリードはアイン・アル・タムルからアル・ヒラに向かおうとしている際に其の書簡を受け取った。
- カーズマとアル・ウブッラ 西暦633年頃、ムスリムでササン朝ペルシアとの国境付近のアル・ヒラ(現在のクーファ(イラクのナジャフ県)付近)の部族長アル・マタナ・イブン・ハリタがメソポタミア地方のササン朝ペルシアの町を襲撃する。然しササン朝ペルシアの反撃を受けた為アブー・バクルに援軍を要請し、結果勝利して相当量の戦利品を得た。其の後ハリタはマディーナへ赴きバクルに戦勝報告を行い、バクルから司令官に任命され、メソポタミア地方の襲撃に邁進する事となった。軽騎兵の機動力を活かし、砂漠近くの町を襲撃し、砂漠に身を隠す戦法を採った。バクルは此の戦い振りからメソポタミア地方の征服を決意し、アル・ヤママにいたハーリド・イブン・アル・ワリードに、指揮官として志願兵のみの軍を構成しアル・ヒラへ向かいササン朝ペルシアと戦う様指示した。ワリードはササン朝ペルシア総督ホルムズドに対して「イスラムに於ける人頭税であるジズヤの支払いに応じれば助ける」という主旨の降伏勧告の書簡を送る。然しホルムズドが此れに応じなかった。又、ワリードは書簡の中でカーズマ(現在のクウェートのジャハラー県)を経由してアル・ウブッラ(現在のイラクのバスラ県)へと向かうルートで進軍するとホルムズドに思わせる様仕向けた。
- ドゥマット・アル・ジャンダル 西暦633年3月14日頃、アブー・バクルが、イヤド・イブン・ガンムを中央アラビア・イラク・シリアからの経路が集合するアラビアの大規模商業都市であるドゥマット・アル・ジャンダル(現在のサウジアラビアのジャウフ州)へ派遣する。ガンムはドゥマット・アル・ジャンダルに到着し、ドゥマット・アル・ジャンダルとシリア東部の周縁が、アラブ人キリスト教徒のカルブ族に押さえられている事を知った。8月、アブー・バクルからドゥマット・アル・ジャンダルにてアラブ反乱軍を鎮圧する様命を受けたイヤド・イブン・ガンムが、マリッドと呼ばれる砦の南面に軍を展開し、弓矢にてドゥマット・アル・ジャンダルを守備していたカルブ族を攻撃し、数週間戦闘を行ったが膠着状態となり任務に失敗、ガンムはある将校の「状況によっては、知恵は大軍よりも優れている」という進言により、ハーリド・イブン・アル・ワリードに助けを求める主旨の書簡を送る。
- マリッド 西暦633年8月、アブー・バクルからドゥマット・アル・ジャンダルにてアラブ反乱軍を鎮圧する様命を受けたイヤド・イブン・ガンムが、マリッドと呼ばれる砦の南面に軍を展開し、弓矢にてドゥマット・アル・ジャンダルを守備していたカルブ族を攻撃し、数週間戦闘を行ったが膠着状態となり任務に失敗、ガンムはある将校の「状況によっては、知恵は大軍よりも優れている」という進言により、ハーリド・イブン・アル・ワリードに助けを求める主旨の書簡を送る。
- アイン・アル・タムル 西暦633年8月、アブー・バクルからドゥマット・アル・ジャンダルにてアラブ反乱軍を鎮圧する様命を受けたイヤド・イブン・ガンムが、マリッドと呼ばれる砦の南面に軍を展開し、弓矢にてドゥマット・アル・ジャンダルを守備していたカルブ族を攻撃し、数週間戦闘を行ったが膠着状態となり任務に失敗、ガンムはある将校の「状況によっては、知恵は大軍よりも優れている」という進言により、ハーリド・イブン・アル・ワリードに助けを求める主旨の書簡を送る。ワリードはアイン・アル・タムルからアル・ヒラに向かおうとしている際に其の書簡を受け取った。
- マフラ 西暦632年10月31日頃、アブー・バクルが、戦闘を行わずに自らを預言者と名乗るムサイリマと接触し拘束する事を意図し、イクリマ・イブン・アビー・ジャハルをアル・ヤママ(現在のサウジアラビアのリヤード州)に差し向ける。ジャハルは十分な兵力を持っていなかった為、ハーリド・イブン・アル・ワリードの軍の背教軍征伐の谷間期間に兵を借りた。又、ジャハルは次の指示が出る迄待機する様命じられていたが、前月1日にワリードがアディ・イブン・ハティム・トゥライハ率いる背教軍を破り勝利した事と、ジャハルと同様に次の指示が出る迄待機する様命じられていたイスラム教改宗者でサハーバのシュラビル・イブン・ハサナが、ジャハルと合流する為に進軍しており数日で到着する見込みであった事と、ワリードがサルマを征圧した事の報告を受け兵を動かし、ムサイリマに敗北する。バクルに書簡を送り行動の全容を報告した。報告を受けたバクルはジャハルの軽率な行動に怒りを覚えた。バクルはアルファジャの援護の為にマフラ(現在のイエメン)に向かい、ジャハルに対してもムハージルーンを助ける為にイエメンに向かう様指示した。ハサナはアル・ヤママに留まった。バクルはハサナがジャハルと同じ過ちを犯さない様書簡にてアル・ヤママに留まって次の指示を待つ様念を押し、ワリードに対しムサイリマ征伐の指示を出した。更にハサナに対して後日到着するワリードの軍の指揮下に入る様書簡にて指示を出した。
- ボスラ 西暦634年6月、ハーリド・イブン・アル・ワリードがシュラビル・イブン・ハサナの部隊を援護した翌日、東ローマ帝国軍は、ムスリムの戦力は自軍と同程度であると把握し、長旅の疲れが癒える前に打ち負かすべく再攻撃を決意した。両軍はボスラ郊外の平原で戦闘準備を行なった。ワリードは、中央に自身の直轄部隊を置き、両翼の司令官にラファイ・ビン・ウマイル(左翼)と、ディラール・ビン・アル・アズワル(右翼)の2名を任命した。ワリードは、直轄部隊の正面、アブー・バクルの息子アブド・アル・ラーハマーン・イブン・アブー・バクルの下に薄いスクリーンを置いた。戦闘が開始されると直ぐにラーハマーンは東ローマ帝国軍を撃破した。東ローマ帝国の将軍達は安全な遊軍部隊の下へ逃走する中、ワリードは前線全体に沿って攻撃を開始した。東ローマ帝国軍はムスリムの攻撃に忽ち混乱した。此の日は暑かった為、アズワルは鎖帷子を脱ぎ、続いてシャツを脱いだ。此の半裸の状態で攻撃を開始し、一騎討ちで立ち向かって来る東ローマ帝国兵を全て破った。東ローマ帝国軍は砦に撤退した。此の時ワリードは、何にも跨らず自身だけで戦っていた。ワリードは東ローマ帝国軍を包囲する命令を下そうと振り返った時、アブー・ウバイダが、ムスリムの隊列から抜けて近付いて来るのが見えた。ウバイダは、西暦628年2月のカイバルの戦いでムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが使用していた黄色の旗を携えていた。ウバイダは其の旗をワリードに渡した。アズワルの活躍は一週間以内にシリア中に知れ渡った。
背教軍から、東ローマ帝国へ──
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