電子書籍「アブー・バクル一元化」の表紙

アブー・バクル一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦610年8月19日〜634年8月23日
※ヒジュラ暦は全て西暦に変換しています
ページ数
10ページ
最新更新日
西暦2,026年8月13日

預言者の傍らに立った友人が、其の後継者となった──
アブー・バクルの二十四年を年月日単位で一元化。

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本書について

西暦610年8月19日、メッカ(現在のサウジアラビアのマッカ州)のヒラー山の洞窟で、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフは天使ジブリールより唯一神アッラーの啓示を受けた。最初の妻ハディージャ・ビント・フワイリドに其の出来事を話し、キリスト教ネストリウス派の修道僧ワラカ・イブン・ナウファルに相談した後、アブドゥッラーフが啓示の教えを説いた相手が、従兄弟のアリー・イブン・アビー・ターリブと、友人のアブー・バクルであった。イスラム教は、此の二人から始まる。本書は、其の友人の側から見た二十四年——預言者の傍らに立ち、其の死に際して後継者に選ばれ、二年余りの統治で背教軍とササン朝ペルシアと東ローマ帝国に軍を差し向けた男の歩みを、年月日単位で一元化した記録である。

西暦622年7月16日、クライシュ族の迫害を受けたアブドゥッラーフとバクルは、ヤスリブへ向けてメッカを発ち、9月24日に到着した。二人は直ちにユダヤ教の制度を取り入れ、礼拝の方向をエルサレム神殿に定めている。翌623年、アブドゥッラーフはバクルの娘アーイシャ・ビント・アブー・バクルと再婚した。

西暦628年3月、小巡礼の為にカアバ神殿へ向かったアブドゥッラーフは、武装したクライシュ族の待ち伏せの報告を受け、フダイビーヤ(現在のサウジアラビアのマッカ州)に留まって交渉に備える。使者ヒラーシュ・イブン・ウマイヤ・アルフザーイーは駱駝を斬殺され、ウマル・イブン・ハッターブは自身がクライシュ族と敵対している事を理由に辞退し、派遣されたウスマーン・イブン・アッファーンは妥協せず監禁された。殺害の知らせに激怒したムスリムへ、アブドゥッラーフはバイア(忠誠の誓い)を行わせる。スハイル・イブン・アムルとの協議を経て、10年間の休戦、翌年3日間のマッカ開放、保護者の同意なく移住した住民の無条件送還、マッカへ移った人間の留め置き、周辺部族の自由な同盟締結を柱とする和約が成立した。マッカ側は「アッラーの使徒」としての署名を認めず、「アブドゥッラーの息子ムハンマド」として署名させている。クライシュ族に有利な内容にハッターブは不満を示したが、バクルはアブドゥッラーフの決定に従った。西暦630年1月31日のフナイン(現在のサウジアラビアのマッカ州)でも、先制の矢を受けてムスリムが混乱し撤退する中、バクルはハッターブらムハージルーンと共にアブドゥッラーフを擁護している。

西暦632年6月8日、アブドゥッラーフが、アラビア半島から異教徒を追放する事と、死後もクルアーンに従う事を遺言して死去した。ウマル・イブン・ハッターブは死を認めず、アブドゥッラーフは神に相談しに行き直ぐに戻ると語って、死を口にする者を脅す。マディーナへ帰還したバクルは、遺体をハッターブに見せて納得させ、落ち着かせた。サキファ(現在のサウジアラビアのマディーナ州)で開かれたアンサールの集会に急行したバクルは、クライシュ族以外の者を指導者に据えれば不和になる可能性が高いと警告し、同時にハッターブとアブー・ウバイダがバクルを後継者として推して支持を求めた。ハバブ・イブン・ムンドヒールはクライシュ族とアンサール族が其々指導者を選ぶ共同統治を提案し、ハズラジ族サイダ一族の長サード・イブン・ウバダは反発して集会は解散する。最終的に、アブー・バクルが初代正統カリフに選出された。バクルは直様、ムハンマドの命じたバルカ遠征を延期されていたウサーマ・ビン・ザイドに出撃命令を出している。

同年7月、アサド族のトゥライハ・イブン・クウェイリードがマディーナへの攻撃準備を進めていると知ったバクルは、ムハージリーンとアンサールの中からアリー・イブン・アビー・ターリブ、タルハ・イブン・ウバイドゥラ、ズバイル・イブン・アウワームらを司令官として呼び寄せ、戦闘部隊を構成する。此の部隊で、やって来た背教軍に前哨部隊を何もさせない内にドゥ・フッサへ追い返した。7月16日頃、バクルは本隊と共にマディーナを出発してドゥ・フッサへ向かうが、乗用駱駝は全てウサーマ・ビン・ザイドの軍に属していた為、劣悪な荷物駱駝を馬として調達せざるを得なかった。戦闘訓練を受けていない駱駝は、背教軍の奇襲を受けると逃げ出してしまう。ムスリムはマディーナへ退却し、背教軍は数日前に失った前哨部隊を奪還した。バクルはマディーナで軍を再編成し、夜間に奇襲を掛けて背教軍をドゥ・キッサへ退却させる。8月1日にはガタファン族・ハワジン族・タイイ族を破ってドゥ・キッサを占領し、4日にはウサーマ・ビン・ザイドの軍勢が帰還して、休息と部下への補給が指示された。

10月31日頃、バクルは、戦闘を行わずに自らを預言者と名乗るムサイリマと接触して拘束する事を意図し、イクリマ・イブン・アビー・ジャハルをアル・ヤママ(現在のサウジアラビアのリヤード州)へ差し向けた。兵力の足りないジャハルは、ハーリド・イブン・アル・ワリードの軍の背教軍征伐の谷間期間に兵を借りる。ジャハルは次の指示が出る迄待機する様命じられていたが、ワリードの勝利とサルマ征圧、そしてシュラビル・イブン・ハサナが合流の為に数日で到着する見込みだという報告を受けて兵を動かし、ムサイリマに敗北した。書簡で行動の全容を報告されたバクルは、其の軽率な行動に怒りを覚える。バクルはアルファジャの援護の為にマフラ(現在のイエメン)へ向かい、ジャハルにもムハージルーンを助ける為イエメンへ向かう様指示した。アル・ヤママに留まったハサナには、同じ過ちを犯さぬ様、其処で次の指示を待つ事、後日到着するワリードの軍の指揮下に入る事を書簡で念押しし、ワリードにはムサイリマ征伐を指示している。

西暦633年頃、ササン朝ペルシアとの国境付近のアル・ヒラ——現在のクーファ(イラクのナジャフ県)付近——の部族長アル・マタナ・イブン・ハリタが、メソポタミア地方のササン朝ペルシアの町を襲撃した。反撃を受けてバクルに援軍を要請し、結果として勝利を収め、相当量の戦利品を得る。マディーナで戦勝報告を行ったハリタはバクルから司令官に任命され、軽騎兵の機動力を活かして砂漠近くの町を襲い、砂漠に身を隠す戦法で襲撃に邁進した。此の戦い振りからメソポタミア地方の征服を決意したバクルは、アル・ヤママに居たハーリド・イブン・アル・ワリードに、志願兵のみの軍を構成してアル・ヒラへ向かい、ササン朝ペルシアと戦う様に指示する。ワリードはササン朝ペルシア総督ホルムズドへ、ジズヤの支払いに応じれば助けるという趣旨の降伏勧告の書簡を送ったが、応じられなかった。其の書簡には、カーズマ(現在のクウェートのジャハラー県)を経由してアル・ウブッラ(現在のイラクのバスラ県)へ向かうルートで進軍すると思わせる仕掛けが施されていた。

3月14日頃、バクルは、中央アラビア・イラク・シリアからの経路が集合するアラビアの大規模商業都市ドゥマット・アル・ジャンダル(現在のサウジアラビアのジャウフ州)へイヤド・イブン・ガンムを派遣する。現地に着いたガンムは、ドゥマット・アル・ジャンダルとシリア東部の周縁が、アラブ人キリスト教徒のカルブ族に押さえられている事を知った。8月、アラブ反乱軍の鎮圧を命じられたガンムはマリッドと呼ばれる砦の南面に軍を展開し、弓矢でカルブ族を攻撃して数週間戦ったが、膠着状態に陥って任務に失敗する。ある将校の、状況によっては知恵は大軍よりも優れているという進言を受け、ガンムはワリードへ助けを求める書簡を送った。ワリードが之を受け取ったのは、アイン・アル・タムルからアル・ヒラへ向かおうとしている時であった。12月頃、バクルはシリア征服の為にアムル・イブン・アル・アース、アブー・ウバイダ、シュラビル・イブン・ハサナ、ヤズィード・イブン・アビ・スフィアンの4名を司令官に任命し、現地へ派遣している。

西暦634年1月頃、バクルは東ローマ帝国へ宣戦布告した。同じ月、ハーリド・イブン・サイード・イブン・アルアーシュがシリア進出の許可を求めると、バクルは東ローマ帝国に対する敵対行動を執ってはならないとして、偵察のみに限定して之を許した。6月、ハーリド・イブン・アル・ワリードがシュラビル・イブン・ハサナの部隊を援護した翌日、東ローマ帝国軍は、ムスリムの戦力が自軍と同程度であると把握し、長旅の疲れが癒える前に打ち負かすべく再攻撃を決意する。ボスラ郊外の平原で、ワリードは中央に自身の直轄部隊を置き、左翼にラファイ・ビン・ウマイル、右翼にディラール・ビン・アル・アズワルを任じ、直轄部隊の正面、バクルの息子アブド・アル・ラーハマーン・イブン・アブー・バクルの下に薄いスクリーンを置いた。戦闘が始まると直ぐにラーハマーンが東ローマ帝国軍を撃破し、ワリードは前線全体に沿って攻撃を開始する。暑い日で、アズワルは鎖帷子を脱ぎ、続いてシャツを脱ぎ、其の半裸の状態で一騎討ちに立ち向かって来る東ローマ帝国兵を全て破った。其の活躍は一週間以内にシリア中に知れ渡る。東ローマ帝国軍が砦へ撤退する中、隊列から抜けて近付いて来たアブー・ウバイダは、西暦628年2月のカイバルの戦いでムハンマド・イブン・アブドゥッラーフが使用していた黄色の旗を携え、其れをワリードに渡した。そして8月23日、アブー・バクルは病の為に死去し、生前に指名したウマル・イブン・ハッターブが第2代正統カリフに即位する。


登場人物

  • アブー・バクル 本書の中心人物。ムハンマドの友人であり、アリー・イブン・アビー・ターリブと共に最初期に啓示の教えを説かれた。西暦622年にはムハンマドと共にメッカからヤスリブへ移り、其の死に際してはサキファの集会を経て初代正統カリフに選出された。背教軍の鎮圧、ムサイリマ征伐、メソポタミアとシリアへの遠征を指揮し、西暦634年8月23日に病で死去した。
  • ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ 西暦610年8月19日、ヒラー山の洞窟で天使ジブリールより啓示を受け、アリーとアブー・バクルに其の教えを説いてイスラム教を始めた。フダイビーヤの和議を結び、フナインでは砂を投げて敵を混乱させ勝利した。西暦632年6月8日、二つの遺言を残して死去した。
  • アーイシャ・ビント・アブー・バクル アブー・バクルの娘。西暦623年、ヤスリブ移住の翌年にムハンマドと再婚した。
  • ウマル・イブン・ハッターブ フダイビーヤでは、自身がクライシュ族と敵対している事を理由に使者を辞退し、成立した和約にも不満を示した。ムハンマドの死を認めず、死を口にする者を脅したが、バクルに遺体を見せられて落ち着き、サキファの集会ではバクルを後継者として推薦した。西暦634年8月23日、バクルの生前の指名により第2代正統カリフに即位した。
  • ウスマーン・イブン・アッファーン フダイビーヤで三人目の使者としてクライシュ族の元へ派遣された。タワーフを認められても妥協しなかった為に監禁され、殺害の知らせがムスリムを激怒させてバイアへと繋がった。後に解放されて帰還した。
  • スハイル・イブン・アムル クライシュ族からフダイビーヤへ派遣された使者。協議を経て、10年間の休戦や翌年のマッカ開放等を柱とする和約を成立させた。
  • アブー・ウバイダ サキファの集会でウマル・イブン・ハッターブと共にバクルを後継者として推した人物。西暦633年12月頃にはシリア征服の司令官の一人に任命され、翌年のボスラ郊外の戦いでは、カイバルの戦いでムハンマドが使用していた黄色の旗をワリードに渡した。
  • ウサーマ・ビン・ザイド ムハンマドから東ローマ帝国のバルカ遠征の司令官に任じられたが、其の死により遠征は延期された。カリフに選出されたバクルは直様出撃命令を下し、西暦632年8月4日に軍勢がマディーナへ帰還すると、休息と部下への補給を指示した。此の軍が乗用駱駝を全て抱えていた為、バクルの本隊は劣悪な荷物駱駝で出発する事になった。
  • アリー・イブン・アビー・ターリブ ムハンマドの従兄弟。アブー・バクルと共に最初期に啓示の教えを説かれた。フナインの戦いでは混乱の中を後方で戦い、西暦632年7月にはバクルが編成した戦闘部隊の司令官の一人となった。
  • タルハ・イブン・ウバイドゥラ 西暦632年7月、トゥライハ・イブン・クウェイリードの攻撃準備を受けてバクルが編成した戦闘部隊の司令官の一人。
  • ズバイル・イブン・アウワーム 西暦632年7月、トゥライハ・イブン・クウェイリードの攻撃準備を受けてバクルが編成した戦闘部隊の司令官の一人。
  • トゥライハ・イブン・クウェイリード アサド族の人物。マディーナへの攻撃準備を進めていた事から、バクルによる戦闘部隊の編成を招いた。其の背教軍はドゥ・フッサへ追い返された後、奇襲で前哨部隊を奪還したが、再びの夜襲によりドゥ・キッサへ退却した。
  • ムサイリマ 自らを預言者と名乗った人物。バクルは戦闘を行わずに接触し拘束する事を意図してイクリマ・イブン・アビー・ジャハルを差し向けたが、待機命令に反して動いたジャハルを退けた。後にバクルはワリードに征伐を指示した。
  • イクリマ・イブン・アビー・ジャハル アル・ヤママへ差し向けられた指揮官。兵力が足りずワリードの軍から兵を借り、次の指示を待つ様命じられていたにも拘らず、味方の勝利と援軍到着の報告を受けて兵を動かし、ムサイリマに敗北した。書簡で全容を報告し、バクルの怒りを買った後、イエメンへ向かう様指示された。
  • シュラビル・イブン・ハサナ イスラム教改宗者でサハーバ。ジャハルと合流する為に進軍していたが、バクルから同じ過ちを犯さぬ様、アル・ヤママに留まって次の指示を待ち、後日到着するワリードの軍の指揮下に入る事を書簡で念押しされた。西暦633年12月頃にはシリア征服の司令官の一人に任命された。
  • ハーリド・イブン・アル・ワリード バクルの下で最も広く動いた指揮官。背教軍を破ってサルマを征圧し、ムサイリマ征伐を指示され、志願兵のみの軍でアル・ヒラへ向かってササン朝ペルシアと戦う様命じられた。ホルムズドへ降伏勧告の書簡を送り、其の中で進軍ルートを誤認させる仕掛けを施している。ボスラ郊外の戦いでは中央に直轄部隊を置いて東ローマ帝国軍を破った。
  • アル・マタナ・イブン・ハリタ ササン朝ペルシアとの国境付近のアル・ヒラの部族長。メソポタミア地方の町を襲撃して反撃を受け、バクルへの援軍要請の末に勝利し、相当量の戦利品を得た。戦勝報告の後に司令官へ任命され、軽騎兵の機動力を活かして砂漠近くの町を襲い砂漠に身を隠す戦法を採った。其の戦い振りが、バクルにメソポタミア征服を決意させた。
  • ホルムズド ササン朝ペルシアの総督。ジズヤの支払いに応じれば助けるというワリードの降伏勧告に応じなかった。
  • イヤド・イブン・ガンム ドゥマット・アル・ジャンダルへ派遣された指揮官。現地がアラブ人キリスト教徒のカルブ族に押さえられている事を掴み、マリッド砦の南面から弓矢で数週間攻撃したが膠着し任務に失敗した。知恵は大軍よりも優れているという将校の進言を容れ、ワリードへ助けを求める書簡を送った。
  • アムル・イブン・アル・アース 西暦633年12月頃、バクルがシリア征服の為に任命した4名の司令官の一人。
  • ヤズィード・イブン・アビ・スフィアン 西暦633年12月頃、バクルがシリア征服の為に任命した4名の司令官の一人。
  • ハーリド・イブン・サイード・イブン・アルアーシュ 西暦634年1月頃、バクルにシリア進出の許可を求めた人物。バクルは東ローマ帝国に対する敵対行動を執ってはならないとして、偵察のみに限定して許可した。
  • アブド・アル・ラーハマーン・イブン・アブー・バクル アブー・バクルの息子。ボスラ郊外の戦いで、ワリードの直轄部隊の正面に置かれた薄いスクリーンの下に配され、戦闘が開始されると直ぐに東ローマ帝国軍を撃破した。
  • ディラール・ビン・アル・アズワル ボスラ郊外の戦いで右翼を指揮した。暑さの為に鎖帷子とシャツを脱ぎ、半裸の状態で攻撃を開始して、一騎討ちに立ち向かって来る東ローマ帝国兵を全て破った。其の活躍は一週間以内にシリア中に知れ渡った。
  • ラファイ・ビン・ウマイル ボスラ郊外の戦いで左翼を指揮した。
  • ハバブ・イブン・ムンドヒール サキファの集会で、クライシュ族とアンサール族が其々指導者を選び、共同で統治する事を提案した。
  • サード・イブン・ウバダ マディーナを拠点とするアラブのハズラジ族サイダ一族の長。サキファの集会でアブー・バクルの擁立に反発し、集会は解散となった。

主要な地名・拠点

  • ヒラー山 メッカ(現在のサウジアラビアのマッカ州)に在る山。西暦610年8月19日、其の洞窟でムハンマドが啓示を受け、其の教えがアブー・バクルへ説かれた。本書の起点。
  • フダイビーヤ 現在のサウジアラビアのマッカ州。西暦628年3月、待ち伏せの報告を受けたムハンマドが留まって交渉に備えた地。クライシュ族に有利な和約に多くのムスリムが困惑する中、バクルはムハンマドの決定に従った。
  • フナイン 現在のサウジアラビアのマッカ州。西暦630年1月31日、先制の矢を受けてムスリムが混乱する中、バクルがムハージルーンの一人としてムハンマドを擁護した戦場。
  • マディーナ バクルの拠点。ムハンマドの死後、其処へ帰還したバクルがウマルに遺体を見せて落ち着かせ、背教軍に敗れた軍を再編成し、アル・マタナ・イブン・ハリタの戦勝報告を受けた地でもある。
  • サキファ 現在のサウジアラビアのマディーナ州。ムハンマドの死後にアンサールの集会が開かれた地。共同統治の提案とサード・イブン・ウバダの反発を経て集会は解散し、最終的にアブー・バクルが初代正統カリフに選出された。
  • ドゥ・フッサ 背教軍が追い返された地。西暦632年7月16日頃、本隊を率いたバクルが向かったが、荷物駱駝が奇襲で逃げ出した為にマディーナへの退却を余儀なくされ、背教軍は前哨部隊を奪還した。
  • ドゥ・キッサ 再編成したバクルの夜襲により、背教軍がドゥ・フッサから退却した先。西暦632年8月1日、ガタファン族・ハワジン族・タイイ族を破って占領された。
  • アル・ヤママ 現在のサウジアラビアのリヤード州。自らを預言者と名乗るムサイリマの拠点。イクリマ・イブン・アビー・ジャハルが差し向けられて敗れ、シュラビル・イブン・ハサナが待機を命じられ、ワリードが征伐を指示された地。
  • アル・ヒラ 現在のクーファ(イラクのナジャフ県)付近。ササン朝ペルシアとの国境付近に在り、部族長アル・マタナ・イブン・ハリタの拠点。バクルがメソポタミア征服を決意し、ワリードに向かう様指示した地。
  • カーズマとアル・ウブッラ 現在のクウェートのジャハラー県と、現在のイラクのバスラ県。ワリードが降伏勧告の書簡の中で、此のルートを経由して進軍するとホルムズドに思わせる様に仕向けた。
  • ドゥマット・アル・ジャンダル 現在のサウジアラビアのジャウフ州。中央アラビア・イラク・シリアからの経路が集合するアラビアの大規模商業都市。イヤド・イブン・ガンムが派遣され、シリア東部の周縁と共にアラブ人キリスト教徒のカルブ族に押さえられている事が分かった。
  • マリッド ドゥマット・アル・ジャンダルを守る砦。イヤド・イブン・ガンムが南面に軍を展開して弓矢で数週間攻撃したが、膠着状態となり任務は失敗した。
  • アイン・アル・タムル ワリードがアル・ヒラへ向かおうとしていた地点。其の途上で、イヤド・イブン・ガンムからの救援を求める書簡を受け取った。
  • マフラ 現在のイエメン。ムサイリマ征伐の指示を出す中で、バクルがアルファジャの援護の為に向かった地。
  • ボスラ 西暦634年6月、其の郊外の平原で東ローマ帝国軍との戦闘が行われた。ワリードの布陣、バクルの息子アブド・アル・ラーハマーンの撃破、半裸のアズワルの一騎討ちを経て、東ローマ帝国軍は砦へ撤退した。

継承・背教軍・ムサイリマ・メソポタミア・シリア──
初代正統カリフが二年で切り開いた全過程を一元化。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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