電子書籍「足利義澄一元化」の表紙

足利義澄一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,481年1月15日〜1,511年9月6日
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
22ページ
最新更新日
西暦2,026年8月13日

西暦1,493年、寺の跡取りは還俗して将軍になった──
細川政元に擁立された足利義澄の生涯を一元化。

JPY 200(税込)

購入する
決済サービスSquare/ご利用いただけるカードブランド:Visa・Mastercard・アメリカン・エキスプレス・JCB・Diners Club・Discover・UnionPay(銀聯)

お支払いはカード情報の入力だけで完了します

購入後、そのままPDFダウンロードページへ移動します

お支払いは決済サービス「Square」を通じて安全に処理されます。カード情報が当サイトに保存されることはありません。


皇室献上品 高級トイレットペーパー
皇室献上品 高級トイレットペーパー

本書について

西暦1,481年1月15日、初代堀越公方・足利政知と、武者小路隆光の娘で政知の側室であった円満院との間に、足利義澄が伊豆国堀越(現在の静岡県伊豆の国市寺家)にて生誕した。西暦1,485年の時点で、足利政知の家督継承者は足利茶々丸と決まっていた為、義澄は天龍寺香厳院(現在の京都府京都市右京区嵯峨天龍寺付近)の跡取りとなる事が決まっていた。西暦1,487年4月頃、仏門に入る為の上洛により伊豆国を出発し、6月19日、300名の従者と共に上洛する。生涯を寺で終える筈だった人物が、其の後どの様にして将軍の座に就き、そして京都を追われる事になるのか——本書は、此の生誕の日から、西暦1,511年9月6日の水茎岡山城での死去に至るまでの三十年八ヶ月を、年月日単位で一元化した記録である。

西暦1,490年5月16日、日野富子が小川殿を足利義稙の従兄弟である義澄に与える事を決定した。此れにより、日野が細川政元と内談して義澄を征夷大将軍に擁立しようとしているという噂が立つ。翌年2月15日に足利義視が通玄寺で死去し、足利義稙が後ろ盾を失うと、足利政知と細川政元は義澄擁立へ向けて動き始めた。同年8月6日、伊豆国では足利茶々丸が、政知の側室・円満院と足利潤童子を殺害する。茶々丸は正室の子であり、義澄と潤童子は円満院の子であった。茶々丸は武力で家督を奪い、第2代堀越公方を宣言する。京都で擁立の話が動き始めたのと同じ年に、義澄は母と弟を失った。

西暦1,493年3月3日、足利義稙が畠山義豊征伐の為に出陣した。畠山政長・畠山尚順・斯波義寛・赤松政則・大内政弘・大内義興・武田元信・土岐成頼等が参陣する中、細川政元は、義豊は畠山義就と異なり幕府に対して表立って敵対的な行動は取っていなかったとして反対し、出陣しなかった。伊勢貞宗も反対に回っている。そして5月7日の夜、細川政元は遊初軒(現在の京都府京都市上京区)に足利義澄を迎え入れて保護した上で挙兵し、義澄を征夷大将軍として擁立する事と、畠山政長の河内国守護職を罷免する事を発表した。翌8日には義稙の屋敷や寺院が襲撃され、三宝院・曇花院・慈照寺等が破壊される。日野富子は細川支持を表明し、義稙に付いていた諸将は、義澄に従う様記した伊勢貞宗の密書を受け取った。13日、足利義澄は還俗する。

同年7月頃、義澄は円満院と足利潤童子の敵討ちとして、足利茶々丸の近くに城を持つ北条早雲に茶々丸征伐を命じた。北条は下調べを行い、茶々丸が横暴を振るって足利政知の時からの堀越公方の重臣達と上手くいっておらず、領民が疲弊している事や、堀越御所(現在の静岡県伊豆の国市四日町字御所ノ内)の内情を掴んで、内部工作を行なっている。西暦1,494年10月20日には、足利義稙が放生津城(現在の富山県射水市中新湊)へ移って挙兵し、義澄と細川政元の打倒を宣言して全国の諸将に檄を飛ばした。畠山義統・朝倉貞景・上杉房定・富樫稙泰・大友政親が此れに呼応する。

西暦1,495年1月16日、足利義澄の元服の儀が執り行われる予定であったが、加冠役の細川政元が烏帽子を被る事を嫌がった為、義澄は花の御所で1日中待たされ、23日に延期となった。23日の5時、元服の儀が執り行われ、朝廷からの将軍宣下により、足利義澄は第11代室町幕府征夷大将軍に就任する。細川政元は第29代管領に就任し、伊勢貞宗と共に、若年である義澄に代わって政務を担った。幕府の財政は既に逼迫しており、西暦1,496年5月頃、壬生晴富は文庫の破損と修理に就いて、後土御門天皇の勅命を受けて義澄が費用の徴収を命じたものの捻出出来ず、大風雨で破損した仮屋も修繕されないまま漏湿が酷い、と記している。西暦1,497年11月2日には畠山尚順が高屋城を落城させて河内国の大半を奪回し、義澄は湯河氏・玉置氏・山本氏に尚順を攻撃する様御内書を発したが、湯河氏は畠山方であった為、此れを無視した。

西暦1,501年2月17日頃、細川政元が出仕しなくなり、政元と義澄の不和が表面化し始める。5月10日、義澄は槇島城に居る政元を訪ねて説得し、政元は隠居を撤回した。西暦1,502年8月14日、義澄は従四位下に叙され、参議兼左近衛中将に任じられる。返礼として朝廷に拝賀を行おうとしたが、政元は、昇進しても周囲が命令を聞かねば何の意味も無いとして反対し、実現しなかった。政元の周囲の公武の者も皆、政元に同意している。23日には石清水八幡宮の籤によって改名を行い、9月5日、義澄は政元との対立を理由に隠居を宣言して金龍寺(現在の京都府京都市左京区岩倉地区)へ逐電した。翌6日、金龍寺を訪れた政元と伊勢貞宗に対し、義澄は面会を拒み、政元へ5ヶ条・伊勢へ7ヶ条の要求を突き付ける。両名は此れを部分的に受け入れた。7日、見舞いに訪れた足利義稙の異母弟・義忠との面会も義澄は拒み、義忠は政元に呼び出されて捕縛され、柳本家の家臣と香西元長等により斬殺された。西暦1,503年1月23日には、義澄は足利義稙の死を願う自筆の願文を石清水八幡宮に奉納している。分裂した足利家を認めず、義稙を今出川姓で呼んだ。

西暦1,504年1月10日、新年の参賀式の宴の後、細川政元は召し出されて天盃を拝領した。西暦1,439年の細川持之以来の稀な事であり、政元は御礼に万疋を進上している。5月2日、政元が薬師寺元一の摂津国守護代職を罷免しようとした際には義澄が介入して取り止めとなり、翌日、元一は御礼として馬・太刀等を献上した。8日には義澄が政元の為に和歌会を催している。西暦1,506年11月17日、阿波国へ向かう為に堺へ移動した政元は、義澄と細川高国の説得により阿波国入りを中止した。西暦1,507年8月16日には丹波国から上洛した細川澄之に御内書を下して細川京兆家の当主として承認し、9月8日には拝謁した細川澄元に京兆家の家督を承認している。

西暦1,508年5月15日の夜、大内義興軍に対抗する軍事力を持たない足利義澄は、畠山澄重・細川高久・一色七郎・伊勢貞則ら十八名の近臣と共に京都を脱出し、九里信隆が城主を務める水茎岡山城(現在の滋賀県近江八幡市牧町)に入った。西暦1,509年12月7日の13時には、仮御所で就寝していた足利義稙が、和田円珍を始めとする義澄の放った刺客に襲撃されている。義稙は衣服や立烏帽子を斬り裂かれ、体に7〜8ヶ所の傷を負いながらも、側に立て掛けてあった長刀で刺客を追い払った。西暦1,510年3月29日、雲龍軒率いる軍が琵琶湖を渡って守山に布陣したが、義澄に味方する近江国人衆が迎撃し、翌30日、雲龍軒の軍は京都への退路を断たれて総崩れとなり、雲龍軒は討死する。義澄は大友親治・赤松義村等に援軍要請の御内書を送った。西暦1,511年4月2日、水茎岡山城にて義澄と正室・日野阿子の間に足利義晴が生誕する。7月頃、義澄は足利義晴を播磨国の赤松義村へ、足利義維を阿波国の細川澄元へ、其々遣わせた。そして9月6日、足利義澄は水茎岡山城にて死去する——本書が記録する最後の一日である。


登場人物

  • 足利義澄 本書の中心人物。第11代室町幕府征夷大将軍。西暦1,481年1月15日、初代堀越公方・足利政知と側室・円満院の間に伊豆国堀越で生誕し、天龍寺香厳院の跡取りとなる事が決まっていた。西暦1,493年5月、細川政元の挙兵により擁立されて還俗し、西暦1,495年1月23日に将軍へ就任。政元との不和と和解を繰り返した末、西暦1,508年に京都を脱出し、西暦1,511年9月6日、水茎岡山城にて死去した。
  • 足利政知 初代堀越公方。足利義澄の父。西暦1,491年2月15日の足利義視の死去を受け、細川政元と共に義澄を征夷大将軍に擁立すべく動き始めた。其の家督継承者は足利茶々丸と決まっていた。
  • 円満院 武者小路隆光の娘で足利政知の側室。足利義澄と足利潤童子の母。西暦1,491年8月6日、足利茶々丸によって足利潤童子と共に殺害された。西暦1,493年7月頃、義澄が北条早雲に茶々丸征伐を命じたのは、此の敵討ちの為である。
  • 足利潤童子 円満院の子で足利義澄の兄弟。西暦1,491年8月6日、足利茶々丸によって円満院と共に殺害された。
  • 足利茶々丸 足利政知の正室の子。西暦1,491年8月6日、円満院と足利潤童子を殺害し、武力で家督を奪って第2代堀越公方を宣言した。横暴を振るって堀越公方の重臣達と上手くいかず領民も疲弊していた事を、北条早雲に調べ上げられている。
  • 細川政元 第29代管領。本書のもう一人の主役。西暦1,493年3月3日の畠山義豊征伐に反対して出陣せず、5月7日の夜に遊初軒へ足利義澄を迎え入れて挙兵し、義澄擁立と畠山政長の河内国守護職罷免を発表した。義澄の元服では烏帽子を嫌って儀を延期させ、官位の拝賀にも反対し、不和と和解を繰り返しながら義澄の政権を支え続けた人物。
  • 日野富子 西暦1,490年5月16日、小川殿を足利義澄に与える事を決定し、細川政元と内談して義澄を将軍に擁立しようとしているとの噂を招いた。西暦1,493年5月8日には細川支持を表明している。
  • 足利義稙 足利義澄の従兄弟。西暦1,493年3月3日に畠山義豊征伐へ出陣した最中、細川政元の挙兵によって将軍の座を追われた。西暦1,494年10月20日に放生津城で挙兵して義澄と政元の打倒を宣言し、西暦1,499年12月頃には越前国府中から出陣する。西暦1,509年12月7日、義澄の放った刺客に襲撃されたが、長刀で追い払った。
  • 足利義視 西暦1,491年2月15日、通玄寺にて死去した人物。其の死により足利義稙が後ろ盾を失い、足利政知と細川政元が足利義澄の擁立へ動き始める契機となった。
  • 伊勢貞宗 西暦1,493年3月3日の畠山義豊征伐に反対し、5月8日には足利義澄に従う様記した密書を諸将へ送った。西暦1,495年以降は細川政元と共に、若年の義澄に代わって政務を担う。西暦1,502年9月6日、金龍寺の義澄から7ヶ条の要求を突き付けられた。
  • 北条早雲 足利茶々丸の近くに城を持っていた武将。西暦1,493年7月頃、足利義澄から円満院と足利潤童子の敵討ちとして茶々丸征伐を命じられ、下調べの末に堀越御所の内情を掴んで内部工作を行なった。
  • 畠山政長 西暦1,493年3月3日の畠山義豊征伐に先陣として参陣し、牧に布陣した。同年5月7日、細川政元の挙兵に際して河内国守護職の罷免を発表された人物。
  • 畠山尚順 畠山政長の嫡男。西暦1,497年11月2日に高屋城を落城させて河内国の大半を奪回し、足利義澄から攻撃対象として御内書を発せられた。西暦1,499年12月頃には、越前国府中から出陣した足利義稙と南北から京都を挟撃する算段の相手として名が挙がる。
  • 畠山義豊 西暦1,493年3月3日、配下の越智家栄・古市澄胤が寺社本所領を侵略しているとの理由により、足利義稙の征伐対象となった人物。西暦1,497年11月2日の高屋城落城を受けて山城国へ逃亡した。
  • 大内義興 西暦1,493年3月3日の畠山義豊征伐に参陣した武将。西暦1,508年5月15日、其の軍に対抗する軍事力を持たなかった足利義澄は、近臣と共に京都を脱出した。
  • 薬師寺元一 摂津国守護代。西暦1,504年5月2日に細川政元から守護代職を罷免されようとしたが、足利義澄の介入により取り止めとなり、翌日、御礼として義澄に馬・太刀等を献上した。
  • 細川澄之 西暦1,507年8月16日に丹波国から上洛し、足利義澄から御内書を下されて細川京兆家の当主として承認された人物。
  • 細川澄元 西暦1,507年9月8日、足利義澄に拝謁して細川京兆家の家督を承認された人物。西暦1,511年7月頃、義澄は其の下へ足利義維を遣わせている。
  • 義忠 足利義稙の異母弟。西暦1,502年9月6日、足利義澄が細川政元へ突き付けた5ヶ条の要求の中に、其の殺害が含まれていた。翌7日、金龍寺へ見舞いに訪れたが義澄に面会を拒まれ、政元に呼び出されて捕縛され、柳本家の家臣と香西元長等により斬殺された。
  • 上杉房能 第10代室町幕府越後国守護。西暦1,503年1月5日、足利義澄から、伊勢盛種の知行する越後国松山保へ被官人の長尾輔景が代官と称して強引に入部した件に就いて、処罰を求める御内書を発せられた。
  • 壬生晴富 西暦1,496年5月頃、文庫の破損と修理に就いて記録を残した人物。資金不足で修繕出来ず、後土御門天皇の勅命を受けて足利義澄が費用の徴収を命じたものの捻出出来なかった事、大風雨で破損した仮屋が修繕されず漏湿が酷い事を書き留めている。
  • 九里信隆 水茎岡山城の城主。西暦1,508年5月15日に京都を脱出した足利義澄を迎え入れた。以後、水茎岡山城は義澄の死までの拠点となる。
  • 雲龍軒 西暦1,510年3月29日、軍を率いて琵琶湖を渡り、足利義澄の居る水茎岡山城に近い守山へ布陣した。義澄に味方する近江国人衆の迎撃を受け、翌30日、京都への退路を断たれて総崩れとなり討死した。
  • 和田円珍 西暦1,509年12月7日の13時、足利義澄の放った刺客として、仮御所で就寝していた足利義稙を襲撃した人物。
  • 日野阿子 足利義澄の正室。西暦1,511年4月2日、水茎岡山城にて足利義晴を生んだ。
  • 足利義晴・足利義維 足利義澄の息子。西暦1,511年7月頃、義晴は播磨国の赤松義村の下へ、義維は阿波国の細川澄元の下へ、其々遣わされた。其の二ヶ月後、義澄は水茎岡山城にて死去する。

本書が記録する出来事

  • 伊豆国堀越での生誕 西暦1,481年1月15日、本書の起点。初代堀越公方・足利政知と、武者小路隆光の娘で政知の側室であった円満院の間に、足利義澄が伊豆国堀越(現在の静岡県伊豆の国市寺家)にて生誕した。
  • 天龍寺香厳院の跡取りと上洛 西暦1,485年の時点で、足利政知の家督継承者は足利茶々丸と決まっていた為、義澄は天龍寺香厳院(現在の京都府京都市右京区嵯峨天龍寺付近)の跡取りとなる事が決まっていた。西暦1,487年4月頃に仏門へ入る為の上洛により伊豆国を出発し、6月19日、300名の従者と共に上洛した。
  • 小川殿の授与と擁立の噂 西暦1,490年5月16日、日野富子が小川殿を足利義稙の従兄弟である足利義澄に与える事を決定した。此れにより、日野が細川政元と内談して義澄を征夷大将軍に擁立しようとしているという噂が立った。
  • 足利義視の死と擁立の始動 西暦1,491年2月15日、足利義視が通玄寺にて死去し、足利義稙は後ろ盾を失った。以降、足利政知と細川政元は足利義澄を征夷大将軍に擁立すべく動き始める。
  • 足利茶々丸の家督簒奪 西暦1,491年8月6日、足利茶々丸が足利政知の側室・円満院と足利潤童子を殺害した。茶々丸は正室の子、義澄と潤童子は円満院の子である。茶々丸は武力で家督を奪い、第2代堀越公方を宣言した。
  • 畠山義豊征伐と細川政元の不参陣 西暦1,493年3月3日、足利義稙が畠山義豊征伐の為に出陣し、畠山政長・畠山尚順・斯波義寛・赤松政則・大内政弘・大内義興・武田元信・土岐成頼等が参陣した。細川政元は、義豊は畠山義就と異なり幕府へ表立って敵対していないとして反対し出陣せず、伊勢貞宗も反対に回った。
  • 遊初軒での挙兵と還俗 西暦1,493年5月7日の夜、細川政元が遊初軒(現在の京都府京都市上京区)に足利義澄を迎え入れて保護した上で挙兵し、義澄の将軍擁立と畠山政長の河内国守護職罷免を発表した。翌8日には足利義稙の屋敷や寺院が襲撃され、三宝院・曇花院・慈照寺等が破壊される。日野富子は細川支持を表明し、13日、足利義澄は還俗した。
  • 北条早雲への茶々丸征伐命令 西暦1,493年7月頃、足利義澄が円満院と足利潤童子の敵討ちとして、足利茶々丸の近くに城を持つ北条早雲に茶々丸征伐を命じた。北条は下調べの末、茶々丸の横暴と重臣達との不和、領民の疲弊、堀越御所の内情を掴んで内部工作を行なった。
  • 足利義稙の放生津城挙兵 西暦1,494年10月20日、足利義稙が放生津城(現在の富山県射水市中新湊)へ移って挙兵し、足利義澄と細川政元の打倒を宣言して全国の諸将に檄を飛ばした。畠山義統・朝倉貞景・上杉房定・富樫稙泰・大友政親が呼応した。
  • 元服の延期と第11代征夷大将軍就任 西暦1,495年1月16日、加冠役の細川政元が烏帽子を被る事を嫌がった為、足利義澄は花の御所で1日中待たされ、元服の儀は23日へ延期された。23日の5時、元服の儀と将軍宣下により義澄は第11代室町幕府征夷大将軍に就任し、政元は第29代管領として伊勢貞宗と共に政務を担った。
  • 文庫の荒廃 西暦1,496年5月頃、壬生晴富が文庫の破損と修理に就いて記した。資金不足で修繕出来ず、後土御門天皇の勅命を受けて足利義澄が費用の徴収を命じたものの捻出出来ず、大風雨で破損した仮屋も修繕されないまま漏湿が酷い、という内容である。
  • 高屋城の落城と無視された御内書 西暦1,497年11月2日、畠山尚順が高屋城(現在の大阪府羽曳野市古市)を落城させて河内国の大半を奪回し、畠山義豊は山城国へ逃亡した。足利義澄は湯河氏・玉置氏・山本氏に尚順攻撃の御内書を発したが、湯河氏は畠山方であった為、此れを無視した。
  • 足利義稙の越前国府中出陣 西暦1,499年12月頃、足利義稙が越前国府中(現在の福井県越前市国府)から出陣し、坂本に布陣した。南方からの畠山尚順の軍と連携して細川政元・足利義澄方を挟撃し、上洛を狙う算段であった。
  • 細川政元との不和と槇島城での説得 西暦1,501年2月17日頃、細川政元が出仕しなくなり、政元と足利義澄の不和が表面化し始めた。政元は其の後出仕を再開したものの溝は埋まらず、5月10日、義澄は槇島城の政元を訪ねて説得し、政元は隠居を撤回した。
  • 官位の昇進と拝賀の中止 西暦1,502年8月14日、足利義澄が従四位下に叙され、参議兼左近衛中将に任じられた。返礼として朝廷への拝賀を行おうとしたが、細川政元は、幾ら昇進しても周囲が命令を聞かねば意味が無いとして反対し、実現しなかった。政元の周囲の公武の者も皆、政元に同意した。
  • 改名・隠居宣言と金龍寺での要求 西暦1,502年8月23日、足利義澄が石清水八幡宮の籤によって改名を行う。9月5日には細川政元との対立を理由に隠居を宣言し、金龍寺(現在の京都府京都市左京区岩倉地区)へ逐電した。翌6日、訪れた政元と伊勢貞宗に面会を拒み、政元へ5ヶ条・伊勢へ7ヶ条の要求を突き付け、両名は部分的に受け入れた。
  • 義忠の斬殺 西暦1,502年9月7日、足利義稙の異母弟・義忠が足利義澄の見舞いに金龍寺を訪れたが、義澄は面会を拒否した。細川政元は義忠を自身の屋敷へ呼び出して捕縛させ、柳本家の家臣と香西元長等により義忠は斬殺された。
  • 石清水八幡宮への願文 西暦1,503年1月23日、足利義澄が足利義稙の死を願う自筆の願文を石清水八幡宮へ奉納した。義澄は分裂した足利家を認めず、義稙を今出川姓で呼んでいる。
  • 細川政元との蜜月 西暦1,504年1月10日、新年の参賀式の宴の後に細川政元が召し出されて天盃を拝領した。西暦1,439年の細川持之以来の稀な事である。5月2日には薬師寺元一の摂津国守護代職罷免に足利義澄が介入して取り止めさせ、8日には政元の為に和歌会を催した。
  • 阿波国下向の中止と京兆家の家督承認 西暦1,506年11月17日、阿波国へ向かう為に京都から堺へ移動した細川政元は、足利義澄と細川高国の説得により阿波国入りを中止した。西暦1,507年8月16日には上洛した細川澄之を細川京兆家の当主として承認し、9月8日には拝謁した細川澄元に京兆家の家督を承認している。
  • 京都脱出と水茎岡山城 西暦1,508年5月15日の夜、大内義興軍に対抗する軍事力を持たない足利義澄が、畠山澄重・細川高久・一色七郎・伊勢貞則ら十八名の近臣と共に京都を脱出し、九里信隆が城主を務める水茎岡山城(現在の滋賀県近江八幡市牧町)に入った。
  • 足利義稙への刺客と雲龍軒の敗死 西暦1,509年12月7日の13時、仮御所で就寝していた足利義稙が、和田円珍を始めとする足利義澄の放った刺客に襲撃された。義稙は7〜8ヶ所の傷を負いながら長刀で刺客を追い払う。西暦1,510年3月29日には雲龍軒率いる軍が守山へ布陣したが、義澄に味方する近江国人衆に迎撃され、翌30日に総崩れとなり雲龍軒は討死した。
  • 二子の遣わしと水茎岡山城での死去 西暦1,511年4月2日、水茎岡山城にて足利義澄と正室・日野阿子の間に足利義晴が生誕した。7月頃、義澄は足利義晴を播磨国の赤松義村へ、足利義維を阿波国の細川澄元へ、其々遣わせる。そして9月6日、足利義澄は水茎岡山城にて死去した。本書が記録する最後の一日である。

伊豆国堀越から遊初軒へ、金龍寺へ、そして水茎岡山城へ──
足利義澄の三十年八ヶ月の全過程を一冊に。

JPY 200(税込)

購入する
決済サービスSquare/ご利用いただけるカードブランド:Visa・Mastercard・アメリカン・エキスプレス・JCB・Diners Club・Discover・UnionPay(銀聯)

お支払いはカード情報の入力だけで完了します

購入後、そのままPDFダウンロードページへ移動します

お支払いは決済サービス「Square」を通じて安全に処理されます。カード情報が当サイトに保存されることはありません。


皇室献上品 高級トイレットペーパー
皇室献上品 高級トイレットペーパー

AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
YouTubeニコニコでも情報を発信中。