電子書籍「足利義視一元化」の表紙

足利義視一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,439年3月3日〜1,491年2月15日
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
20ページ
最新更新日
西暦2,026年8月13日

西暦1,464年、僧は還俗して将軍の後継者となった──
東軍の主将から西幕府の将軍へ、足利義視の生涯を一元化。

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本書について

西暦1,439年3月3日、足利義教と其の側室・小宰相局の間に足利義視が生誕した。義教の拾男である。翌月5日には正親町三条実雅の養君となり、西暦1,443年には出家した。本来ならば、其の儘僧として生涯を終える立場であった。然し西暦1,464年12月23日、実子の居ない足利義政に請われて還俗し、義政の後継者となる事が決定される。同月30日に還俗して正親町三条実雅の今出川の屋敷へ移り、翌年4月10日には日野重子の旧邸である高倉殿を「今出川殿」と改めて移住、8月17日には足利義政と日野富子の勧めにより日野良子を正室に迎えた。本書は、此の生誕の日から、西暦1,491年2月15日の通玄寺での死去に至るまでの五十一年十一ヶ月を、年月日単位で一元化した記録である。

西暦1,465年12月11日、足利義政と日野富子の間に足利義尚が生誕する。義政は、義視を無理矢理還俗させて猶子とし、次期征夷大将軍に据えて細川勝元を執事として政務から離れる積もりであったが、義尚の誕生により、我が子を将軍にさせようとする富子と対立した。富子は兄・日野勝光と結託して幕政へ関与し始める。西暦1,466年10月15日には、足利義政の独裁を支えていた幕府政所執事・伊勢貞親が、義視を処刑すべきだと義政へ進言した。此れは諸大名の猛反発を招き、伊勢は京を追われて近江国、次いで伊勢国へ逃れる。義視は山名持豊の屋敷に逃れ、細川勝元に無実を訴えた。

西暦1,467年2月22日の早朝、畠山義就が兵3,000名余を率いて、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃した。朝倉孝景・山名宗全・山名政豊が加勢し、細川勝元は此の段階では動かず静観する。政長は持ち堪えられず、丸一日の合戦の末に拝殿へ放火して細川の屋敷へ退却した。此の時、足利義視は義就を支援しており、細川は面目を失っている。3月29日には義視が両陣営へ和睦を呼び掛けたが、失敗に終わった。6月頃、細川勝元が諸大名に上洛を要請し、細川方=東軍、山名方=西軍という構図がはっきりする。義視の名は、東軍の陣容に置かれた。

西暦1,467年7月頃、伊勢貞親が足利義政に呼び戻されて伊勢国から上洛し、義視は孤立する。同じ頃、義視は牙旗を下されて東軍の主将となった。東軍から山名家の縁者を追放し、東軍と通じた奉行衆を殺害している。7月12日には、西軍に通じたとして飯尾為数が義視に暗殺された。同日、両軍の間で戦闘が発生し、上京の多くが焼失している。そして9月8日の夜、足利義視は出発した。足利義政が伊勢貞親を呼び戻した事が切っ掛けであり、此の行動に失望した義政は、後継者を足利義尚とする事を検討し始める。

9月21日、義視は伊勢国国司・木造教親の陣所である中山殿に入った。木造は「北畠教具を頼りなさい」と助言する。軍事力・経済力を保持しながら幕政には不干渉で中立を保ち、和歌等の貴族的文化を持つ北畠に惹かれた義視は、伊勢国への逃亡を決意した。木造に警護されて武者小路通を東へ、蛸薬師通を経由して一条通へ——釘貫門は東軍の富樫政親の兵が守っており、木造は三条公敦の見舞いに向かうのだと告げて開門を求めたが、富樫は不審がって「伴が無い」と応じた為、木造は予て準備していた合伴で門を開けさせている。義視は近江国坂本の石川次郎の館で、お忍びで来ていた日野富子と暇乞いをし、北条早雲を伴って伊賀国を経由し伊勢国へ入った。10月4日、北畠教具は義視を保護する為に長谷寺を出発し、伊勢国丹生に屋敷を造って逗留させた。

西暦1,468年10月8日、義視は足利義政の説得により帰洛する。北条早雲は其の儘伊勢国に留まり、後に招聘を受けていた妹・北川殿の夫である今川義忠の下へ行った。帰洛した義視は、西軍との講和を望んでいた日野勝光の排斥を義政へ訴えたが、聞き入れられず、細川勝元も懸念を示す。11月頃には義政が伊勢貞親を幕政へ復帰させ、義政と義視は対立した。12月23日、義視に仕えていた有馬元家が、足利義政の命を受けた赤松政則によって殺害される。身の危険を感じた義視は、26日、延暦寺へ向けて逃走した。

西暦1,469年1月頃、後花園上皇が義視征伐の為に東軍へ治罰の院宣を発給し、足利義政も自軍に征伐を命じる。1月5日、西軍が比叡山へ使いを出して義視を迎え入れ、7日、延暦寺に立ち寄っていた義視は山名宗全の屋敷へ入った。西軍への寝返りである。勢い付いた西軍は、義視を将軍とする「西幕府」を形成した。5月頃には大内政弘の要請により義視の内書が鎮西・四国の諸大名へ多数送付され、西暦1,470年7月23日には畠山義就が西陣南帝の天皇擁立を了承する。然し西暦1,472年頃、擁立に賛成していた義視は反対へ回った。朝倉孝景の寝返りによって東軍が勢いを取り戻しつつあった事が理由である。西暦1,473年5月19日には一条兼良へ進退を相談する書簡を送り、西暦1,474年6月21日には一色氏の知行していた領国の分配を決定した。同年8月8日、西軍諸将は足利義尚に出仕し、義視擁立の姿勢を一変させる。

西暦1,477年1月5日、義視は足利義政へ他意の無い事を伝える書簡を送って恭順を誓った。義政は罪を不問に付すと返答し、日野富子の仲介によって両軍は和睦する。6月13日には大内政弘経由で富子へ和睦の仲介料を支払い、8月頃には自身の娘を富子の猶子に出した。然し12月16日、西軍諸将の一斉下国と共に、義視も嫡男・足利義稙を伴って美濃国の土岐成頼の下へ亡命する。西暦1,478年8月8日に義政から赦免されても、義視は美濃国に留まり続けた。京へ戻るのは西暦1,489年、足利義尚の死後である。義視の出家を条件に義稙が次期将軍と決まり、5月13日に上洛、27日に通玄寺で出家した。西暦1,490年1月27日に義政が病死すると、6月6日、義視は小川殿を日野富子の居室を除いて全て破却し、富子の所領も奪っている。7月22日に義稙が第10代室町幕府征夷大将軍に就任すると、義視は准后宣下を受けて政務を担った。12月頃に腫物を患い、西暦1,491年2月15日、通玄寺にて死去する——本書が記録する最後の一日である。


登場人物

  • 足利義視 本書の中心人物。足利義教の拾男として西暦1,439年3月3日に生誕し、一度は出家したが、西暦1,464年に実子の居ない足利義政に請われて還俗した。東軍の主将となりながら伊勢国へ逃れ、帰洛の後は西軍へ寝返って「西幕府」の将軍となる。美濃国への亡命を経て西暦1,489年に出家し、足利義稙の将軍就任と共に准后宣下を受けて政務を担ったが、西暦1,491年2月15日、通玄寺にて死去した。
  • 足利義政 第8代室町幕府征夷大将軍。実子が無かった為に足利義視を還俗させて後継者としたが、足利義尚の誕生により方針は揺らいだ。伊勢貞親を呼び戻して義視を出奔させ、後には征伐を命じ、有馬元家を殺害させる。西暦1,477年に義視の罪を不問に付し、翌年赦免した。西暦1,490年1月27日に病死する。
  • 足利義教 足利義視の父。義視は其の拾男に当たり、側室・小宰相局との間に生まれた。四男・足利政知は、義視の死後、細川政元と共に足利義澄の擁立へ動く事になる。
  • 正親町三条実雅 西暦1,439年4月5日、生後間もない足利義視を養君として迎えた人物。西暦1,464年12月30日、還俗した義視は其の今出川の屋敷へ移り住んだ。
  • 日野富子 足利義政の正室。足利義尚の誕生を機に我が子の将軍擁立を目指して義政と対立し、兄・日野勝光と結託して幕政へ関与し始めた。西暦1,467年には坂本まで忍んで義視と暇乞いを交わし、西暦1,477年には両軍の和睦を仲介して義視から仲介料と猶子(義視の娘)を受けている。西暦1,490年、義視に小川殿を破却され所領も奪われた。
  • 日野良子 西暦1,465年8月17日、足利義政と日野富子の勧めにより足利義視の正室となった人物。
  • 日野勝光 日野富子の兄。妹と結託して幕政へ関与し、西軍との講和を望んだ。西暦1,468年に帰洛した足利義視は、其の排斥を足利義政へ訴えたが聞き入れられなかった。
  • 足利義尚 足利義政と日野富子の子。西暦1,465年12月11日の其の誕生が、足利義視の立場を根底から揺るがした。第9代室町幕府征夷大将軍となり、西暦1,489年4月26日に近江国鈎の陣中で死去する。其の死が、美濃国に留まっていた義視の帰洛を招いた。
  • 足利義稙 足利義視の嫡男。西暦1,477年12月、父と共に美濃国の土岐成頼の下へ亡命した。足利義尚の死後、義視の出家を条件に次期征夷大将軍に決定され、西暦1,490年7月22日、第10代室町幕府征夷大将軍に就任する。西暦1,491年の義視の死により後ろ盾を失った。
  • 伊勢貞親 幕府政所執事。足利義政の独裁を支えた人物。西暦1,466年10月15日、足利義視を処刑すべきだと進言して諸大名の猛反発を招き、京を追われた。西暦1,467年7月頃に呼び戻された事が義視の孤立と出奔を招き、西暦1,468年11月頃の幕政復帰は義政と義視の対立を決定づけた。
  • 細川勝元 足利義政が執事として据える積もりであった人物。西暦1,466年、山名持豊の屋敷に逃れた足利義視から無実を訴えられた。上御霊神社の襲撃では静観して面目を失い、西暦1,467年6月頃に諸大名へ上洛を要請して東軍の骨格を作った。
  • 細川政元 西暦1,489年、足利義尚の遺体を日野富子と共に託された人物。同年5月、足利義視らの義尚葬儀への参列に反対し、上洛は葬儀後となった。義視の死後は足利政知と共に、足利義澄の擁立へ動き始める。
  • 山名宗全 西軍の中心人物。西暦1,467年2月22日の上御霊神社襲撃では畠山義就に加勢し、堀川西岸の其の屋敷は西軍の拠点となった。西暦1,469年1月7日、延暦寺から出た足利義視が此の屋敷へ入った事で、義視の西軍への寝返りが決定的となる。
  • 畠山義就 西暦1,467年2月22日の早朝、兵3,000名余を率いて上御霊神社の畠山政長を襲撃した。此の時、足利義視は義就を支援している。西暦1,470年7月23日には、義視を始めとする西軍諸将の説得により西陣南帝の天皇擁立を了承した。
  • 畠山政長 上御霊神社に布陣し、畠山義就の襲撃を受けた武将。丸一日の合戦の末、拝殿に放火して細川勝元の屋敷へ退却した。西暦1,467年6月頃の細川の上洛要請には、参集する側として名が挙がる。
  • 飯尾為数 西暦1,467年7月12日、西軍に通じたとして足利義視に暗殺された人物。同日、両軍の間で戦闘が発生し、上京の多くが焼失した。
  • 木造教親 伊勢国国司。西暦1,467年9月21日、其の陣所である中山殿に入った足利義視に「北畠教具を頼りなさい」と助言した。義視を警護して京都を脱出させ、釘貫門では予て準備していた合伴を用いて門を開けさせている。
  • 北畠教具 軍事力・経済力を保持しながら幕政には不干渉で中立を保ち、和歌等の貴族的文化を持っていた人物。足利義視が伊勢国への逃亡を決意した理由であり、西暦1,467年10月4日、義視を保護する為に長谷寺を出発し、伊勢国丹生に屋敷を造って逗留させた。
  • 北条早雲 西暦1,467年、足利義視に伴われて伊賀国を経由し伊勢国へ入り、北畠教具の造った丹生の屋敷に共に逗留した。西暦1,468年10月8日に義視が帰洛した後も伊勢国へ留まり、招聘を受けていた妹・北川殿の夫である今川義忠の下へ向かった。
  • 有馬元家 足利義視に仕えていた人物。西暦1,468年12月23日、足利義政の命を受けた赤松政則によって殺害された。此の死が、3日後の義視の延暦寺への逃走を招いた。
  • 赤松政則 東軍の武将。西暦1,468年12月23日、足利義政の命を受けて、足利義視に仕えていた有馬元家を殺害した。
  • 大内政弘 西軍の武将。西暦1,469年5月頃、其の要請により足利義視の内書が鎮西・四国の諸大名へ多数送付された。西暦1,476年10月1日に足利義政から和睦を求められた後は、日野富子の仲介の下で義視と共に東軍との和睦交渉に当たり、西暦1,477年には義視から富子への仲介料支払いを取り次いだ。
  • 土岐成頼 美濃国の守護。西暦1,477年12月、斎藤妙椿と共に足利義視・足利義稙の川手城への下向を庇護し、以後、義視父子の亡命先の主となった。西暦1,489年5月13日には、義視父子と共に上洛している。
  • 斎藤妙椿 西暦1,477年12月頃、土岐成頼と共に足利義視・足利義稙を庇護し、川手城への下向を支えた人物。
  • 一条兼良 西暦1,473年5月19日、足利義視から進退を相談する書簡を送られた人物。西幕府の将軍という立場に置かれた義視が、身の振り方を問うた相手である。
  • 足利成氏 初代古河公方。西暦1,468年4月頃、西軍諸将との間で攻守同盟を締結し、足利義視が此れを承認した。西暦1,469年1月27日頃には、義視の西軍参加を待って、足利義政の代官・長尾景人が守備する下野国足利荘への攻撃を開始している。
  • 後花園上皇 西暦1,469年1月頃、足利義視征伐の為に東軍へ治罰の院宣を発給した。此れを受けて足利義政は、自軍に義視征伐を命じている。

本書が記録する出来事

  • 生誕・養君・出家 西暦1,439年3月3日、本書の起点。足利義教と側室・小宰相局の間に足利義視が生誕した。義教の拾男である。翌月5日には正親町三条実雅の養君となり、西暦1,443年には出家した。
  • 還俗と後継者決定 西暦1,464年12月23日、実子の居ない足利義政に請われて還俗し、義政の後継者となる事が決定された。同月30日に還俗し、正親町三条実雅の今出川の屋敷へ移住している。
  • 今出川殿への移住と婚姻 西暦1,465年4月10日、日野重子の旧邸である高倉殿を「今出川殿」と改めて移住した。同年8月17日には、足利義政と日野富子の勧めにより日野良子を正室に迎えている。
  • 足利義尚の生誕 西暦1,465年12月11日、足利義政と日野富子の間に足利義尚が生誕した。義尚を将軍にさせようとする富子と義政が対立し、富子は兄・日野勝光と結託して幕政へ関与し始める。足利義視の後継者としての立場が揺らいだ日。
  • 伊勢貞親の処刑進言 西暦1,466年10月15日、幕府政所執事・伊勢貞親が、足利義視を処刑すべきだと足利義政へ進言した。諸大名の猛反発を招いて伊勢は京を追われ、近江国、次いで伊勢国へ逃れる。義視は山名持豊の屋敷に逃れ、細川勝元に無実を訴えた。
  • 上御霊神社の襲撃と和睦の呼び掛け 西暦1,467年2月22日の早朝、畠山義就が兵3,000名余を率いて畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃した。朝倉孝景・山名宗全・山名政豊が加勢し、細川勝元は静観する。足利義視は義就を支援した。3月29日には義視が両陣営へ和睦を呼び掛けたが、失敗に終わった。
  • 東軍・西軍の構図の成立 西暦1,467年6月頃、細川勝元が諸大名へ上洛を要請し、細川の屋敷と花の御所を中心に布陣した細川方が東軍、山名宗全・斯波義廉の屋敷を拠点とする山名方が西軍と呼ばれた。足利義視の名は東軍の陣容に置かれている。
  • 東軍主将への就任と粛清 西暦1,467年7月頃、伊勢貞親の上洛により足利義視は孤立する。同じ頃、義視は牙旗を下されて東軍の主将となり、東軍から山名家の縁者を追放し、東軍と通じた奉行衆を殺害した。7月12日には飯尾為数を暗殺しており、同日の戦闘で上京の多くが焼失している。
  • 伊勢国への逃亡 西暦1,467年9月8日の夜、足利義視が出発した。21日には伊勢国国司・木造教親の陣所である中山殿へ入り、北畠教具を頼れとの助言を受ける。木造の警護で京都を脱し、釘貫門では合伴を用いて門を開けさせた。近江国坂本の石川次郎の館で日野富子と暇乞いをし、北条早雲を伴って伊賀国経由で伊勢国へ入った。
  • 北畠教具による保護 西暦1,467年10月4日、北畠教具が足利義視を保護する為に長谷寺(現在の奈良県桜井市初瀬)を出発し、義視と北条早雲を迎えて、伊勢国丹生(現在の三重県多気郡多気町)に屋敷を造り逗留させた。
  • 帰洛と日野勝光排斥の訴え 西暦1,468年10月8日、足利義視が足利義政の説得により帰洛した。北条早雲は伊勢国に留まり、今川義忠の下へ向かう。義視は西軍との講和を望む日野勝光の排斥を訴えたが、義政は聞き入れず、細川勝元も懸念を示した。11月頃には伊勢貞親が幕政へ復帰し、義政と義視は対立する。
  • 有馬元家の殺害と延暦寺への逃走 西暦1,468年12月23日、足利義視に仕えていた有馬元家が、足利義政の命を受けた赤松政則によって殺害された。身の危険を感じた義視は、26日、延暦寺へ向けて逃走する。
  • 治罰の院宣と西軍への寝返り 西暦1,469年1月頃、後花園上皇が足利義視征伐の為に東軍へ治罰の院宣を発給し、足利義政も自軍に征伐を命じた。1月5日、西軍が比叡山へ使いを出して義視を迎え入れ、7日、義視は山名宗全の屋敷へ入る。勢い付いた西軍は、義視を将軍とする「西幕府」を形成した。
  • 西陣南帝の擁立と翻意 西暦1,470年7月23日、畠山義就が足利義視を始めとする西軍諸将の説得により、西陣南帝の天皇擁立を了承した。然し西暦1,472年頃、擁立に賛成していた義視は反対へ回る。朝倉孝景の寝返りにより東軍が勢いを取り戻しつつあった事が理由であった。
  • 西幕府の将軍としての政務 西暦1,469年5月頃の内書送付に始まり、西暦1,473年1月1日の小早川煕平死去に際する所領授与の御内書、西暦1,474年2月12日の遺産の委任、4月18日の備後国・安芸国国人への高山城攻めの合力命令、6月21日の一色氏領国の分配決定と、足利義視は西軍の将軍として実務を執った。
  • 東西両軍の和睦と恭順 西暦1,474年8月8日、西軍諸将が足利義尚に出仕し、義視擁立の姿勢を一変させた。西暦1,476年10月1日に足利義政が大内政弘へ和睦を求め、西暦1,477年1月5日、義視は義政へ他意の無い事を伝えて恭順を誓う。義政は罪を不問に付し、日野富子の仲介で両軍は和睦した。6月13日には仲介料が支払われ、8月頃には義視の娘が富子の猶子となった。
  • 美濃国への亡命と赦免 西暦1,477年12月頃、足利義視・足利義稙が土岐成頼・斎藤妙椿の庇護の下、川手城(現在の岐阜県岐阜市正法寺町)へ下向した。12月16日には西軍諸将が一斉に下国し、義視も義稙を伴って美濃国へ亡命し承隆寺に滞在する。西暦1,478年8月8日に赦免されても、義視は美濃国に留まり続けた。
  • 上洛と通玄寺での出家 西暦1,489年、足利義尚の死後、日野富子は足利義視の出家を条件に足利義稙を次期征夷大将軍に決定した。5月13日、義視・義稙・土岐成頼・斎藤妙純が上洛する。元は義尚の葬儀に参列する予定であったが細川政元の反対に遭い、葬儀後の上洛となった。5月19日に小川殿へ移り、27日、通玄寺にて出家した。
  • 足利義政の死と小川殿の破却 西暦1,490年1月27日、足利義政が病死した。義視は其の後の法事の席で、兄弟の仲は元々良かったが人の言動で疎遠になった、と述懐している。同年6月6日、義視は小川殿を日野富子の居室を除いて全て破却し、富子の所領も奪った。
  • 准后宣下と通玄寺での死去 西暦1,490年7月22日、足利義稙が第10代室町幕府征夷大将軍に就任し、足利義視は准后宣下を受けて政務を担った。12月頃に腫物を患い、西暦1,491年2月15日、通玄寺にて死去する。本書が記録する最後の一日であり、義稙は後ろ盾を失った。

今出川殿から伊勢国へ、美濃国へ、そして通玄寺へ──
足利義視の五十一年十一ヶ月の全過程を一冊に。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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