電子書籍「足利義視一元化」の表紙

足利義視一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,439年3月3日〜1,491年2月15日
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
20ページ
文字数
5,327字
最新更新日
西暦2,026年10月8日

生誕から、通玄寺での死去へ──
足利義視の生涯を一元化。

207円(税込)

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本書について

西暦1,439年3月3日、足利義教と、義教の側室小宰相局の2名の間に、足利義視が生誕する。義視は、義教の拾男に当たる。本書は、此の足利義視の生誕から、足利義視の出家と還俗、伊勢貞親による足利義視の処刑の進言、足利義視の東軍の主将への就任、足利義視の伊勢国への逃亡、足利義視の帰洛と延暦寺への逃走、足利義視の西軍への寝返りと西軍による「西幕府」の形成、足利義視の足利義政への恭順、足利義視・足利義稙の美濃国への亡命、足利義視の通玄寺での出家、足利義稙の第10代室町幕府征夷大将軍への就任と足利義視の准后宣下を経て、西暦1,491年2月15日に足利義視が通玄寺にて死去する迄を一元化した記録である。

西暦1,439年4月5日、足利義視が、正親町三条実雅の養君となる。西暦1,443年、足利義視が出家する。西暦1,464年12月23日、足利義視が、実子の居ない足利義政に請われて還俗し、義政の後継者となる事が決定される。12月30日、足利義視が還俗し、正親町三条実雅の今出川の屋敷に移住する。

西暦1,465年4月10日、足利義視が、日野重子の旧邸である高倉殿を「今出川殿」と改め、移住する。8月17日、足利義視が、足利義政・日野富子の2名の勧めにより、日野良子を正室に迎える。12月11日、足利義政・日野富子の2名の間に足利義尚が生誕する。義政は、足利義視を無理矢理還俗させて自身の猶子とし、次期征夷大将軍として据えて、細川勝元を執事として政務から離れる積もりであったが、義尚の誕生により、義尚を征夷大将軍にさせようとする富子と対立した。富子は、自身の兄日野勝光と結託し、幕政へ関与し始めた。西暦1,466年10月15日、第8代室町幕府征夷大将軍足利義政の独裁を支えていた幕府政所執事伊勢貞親が、足利義視を処刑すべきだと義政に進言する。此れは諸大名の猛反発を招き、伊勢貞親は京を追われ、近江国、次いで伊勢国へ逃れた。対する義視は、山名持豊の屋敷に逃れ、細川勝元に無実を訴えた。

西暦1,467年2月22日早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃する。朝倉孝景・山名宗全・山名政豊(宗全の命により加勢)の3名も加勢した。細川勝元は此の段階では動かず、静観した。政長は持ち堪えられず、丸一日の合戦の末、上御霊神社の拝殿に放火し、細川勝元の屋敷に退却した。足利義視は義就を支援し、細川勝元は面目を失った。3月29日、足利義視が、畠山政長・畠山義就両陣営に対し和睦を呼び掛ける。然し失敗に終わった。6月頃、細川勝元が、諸大名に上洛を要請する。畠山政長等が参集した。斯うして、細川勝元の屋敷と花の御所を中心とした京都北部から東に布陣した細川方と、堀川西岸に建てられた山名宗全の屋敷と京都中央に位置する斯波義廉の屋敷を拠点とする山名方の構図がはっきりし、前者が東軍、後者が西軍と呼称された。其々の陣容は、東軍が細川勝元・足利義視・政長・斯波義敏と、武田信繁の弐男武田信賢と、成身院光宣・細川勝久・京極持清・赤松政則・富樫政親であり、西軍が山名宗全・足利義尚・畠山義就・斯波義廉・一色義直・朝倉孝景・甲斐敏光・六角高頼・土岐成頼であった。

西暦1,467年7月頃、伊勢貞親が、足利義政に呼び戻され、伊勢国から上洛する。此れにより足利義視は孤立した。又7月頃、足利義視が、牙旗を下され東軍の主将となる。足利義視は、東軍から山名家の縁者を追放し、東軍と通じた奉行衆を殺害した。7月12日、飯尾為数が、西軍に通じたとして、足利義視に暗殺される。又此の日、両軍の間で戦闘が発生し、上京の多くが焼失した。9月8日夜、足利義視が出発する。足利義政が伊勢貞親を呼び戻した事が切っ掛けであった。此の行動に失望した義政は、後継者を足利義尚とする事を検討し始めた。

西暦1,467年9月21日、足利義視が、伊勢国国司木造教親の陣所の中山殿に入る。木造教親は足利義視に「北畠教具を頼りなさい」と助言した。足利義視は、軍事力・経済力を保持していながら、幕政には不干渉で中立の立場を取り、和歌等の貴族的文化を持っていた北畠教具に惹かれ、伊勢国への逃亡を決意した。其の後足利義視は、木造教親に警護され、武者小路通(現在の京都府京都市上京区)を東へ向かい、蛸薬師通(現在の京都府京都市中京区)を経由して一条通(現在の京都府京都市右京区)へ向かった。釘貫門は、東軍の富樫政親の兵が守っていたが、木造教親は「三条公敦殿は病気で東山に居り、足利殿が見舞いに参るのである。開門せよ」という主旨の発言をした。然し富樫政親は不審がって開けず「鍵が無い」と答えた為、木造教親は、予てから準備していた合鍵で開門した。そして足利義視は、近江国坂本(現在の滋賀県大津市坂本・坂本本町・下阪本)に入り、石川次郎の館にて、お忍びで来ていた日野富子と暇乞いをし、北条早雲を伴って伊賀国を経由し、伊勢国に入った。10月4日、北畠教具が、足利義視を保護する為に長谷寺(現在の奈良県桜井市初瀬)を出発する。そして足利義視・北条早雲の2名を迎え、伊勢国丹生(現在の三重県多気郡多気町)に屋敷を造り、逗留させた。此の際武田信賢は、足利義稙を守り、西軍に送り届けた。

西暦1,468年4月頃、初代古河公方足利成氏と西軍諸将の間で攻守同盟が締結される。足利義視が此れを承認した。10月8日、足利義視が、足利義政の説得により帰洛する。然し北条早雲は其の儘伊勢国に留まり、其の後、招聘を受けていた自身の妹北川殿の夫である今川義忠の下へ行った。其の後義視は、義政に対し、西軍との講和を望んでいた日野富子の兄日野勝光の排斥を訴えた。然し義政は聞き入れず、細川勝元も、義視の訴えに懸念を示した。11月頃、足利義政が、伊勢貞親を幕政に復帰させる。此れにより、義政と足利義視は対立した。12月頃、河野通春が、河野教通に「応仁の乱は延々と続くと思いますが、西軍へご同心頂けるのでしょうか。先年大内方からも依頼が有った筈ですが、其の後お返事を頂いておりません。足利義政殿・足利義視殿の双方が将軍となられた今、其の命令には変わりはありません。此度の摂津国の合戦により、私は守護に補任されましたが、家名を上げる上では、私と教通殿の何方がなっても同じだと思います」という主旨の書簡を送る。12月23日、足利義視に仕えていた有馬元家が、足利義政の命を受けた赤松政則によって殺害される。12月26日、有馬元家が殺害された事で身の危険を感じた足利義視が、延暦寺へ向けて逃走する。

西暦1,469年1月頃、後花園上皇が、足利義視征伐の為、東軍に治罰の院宣を発給する。此れを受けて足利義政は、自軍に足利義視征伐を命じた。1月5日、西軍が、比叡山に使いを出して足利義視を迎え入れる。1月7日、延暦寺に立ち寄っていた足利義視が、山名宗全の屋敷に入る。此れにより足利義視は、西軍に寝返った。勢い付いた西軍は、足利義視を将軍とする「西幕府」を形成した。1月27日頃、足利成氏が、足利義政の代官長尾景人の守備する下野国足利荘(現在の栃木県足利市)への攻撃を開始する。成氏は、足利義視が西軍に参加するのを待ち、攻撃の機会を窺っていた。5月頃、大内政弘の要請により、足利義視の内書が鎮西・四国の諸大名に多数送付される。

西暦1,470年7月23日、畠山義就が、足利義視を始めとする西軍諸将の説得により、西陣南帝の天皇擁立を了承する。西暦1,472年頃、西陣南帝の天皇擁立に賛成していた足利義視が、反対に回る。足利義視は、朝倉孝景の寝返りによって東軍が勢いを取り戻しつつあった事から、態度を変えた。西暦1,473年1月1日、小早川煕平が死去する。此れを受けて足利義視は、煕平の所領を小早川弘景に与える御内書を発した。5月19日、足利義視が、一条兼良に進退を相談する書簡を送る。

西暦1,474年2月12日、足利義視が、小早川弘景に小早川煕平の遺産を委ねる。4月18日、足利義視が、備後国・安芸国の国人に対し、高山城攻めの合力を命じる。6月21日、足利義視が、一色氏の知行していた領国を其々の忠誠に応じて、三河国を讃州細川家に、伊勢国・丹後国を一色義春に、若狭国を武田国信に分配する決定を下す。此れにより、一色義春は第22代室町幕府丹後国守護に就任した。又、此の年足利義政は、第26代室町幕府伊勢国守護北畠政郷に、伊勢国半国を一色義春に返付する様命じたが、北畠政郷は此れを拒否した。8月8日、山名政豊を始めとする西軍諸将が、足利義尚に出仕し謁見する。西軍は、足利義視の征夷大将軍擁立の姿勢を一変させ、其の方針転換を名実共に対外的に示した。此の姿勢に畠山義就・土岐成頼・大内政弘が反発した。

西暦1,476年10月1日、足利義政が、大内政弘に和睦を求める書簡を送る。其の後大内政弘は、日野富子の仲介の下、足利義視と共に東軍との和睦交渉に当たった。大内政弘の手元に留め置かれていた、室町幕府の遣明船の唐荷引き渡しが大内政弘赦免の条件であった。西暦1,477年1月5日、足利義視が足利義政に対し、他意の無い事を伝える書簡を送る。斯うして、義視は義政に恭順を誓った。義政は、義視の罪を不問に付す、という主旨の返答をし、日野富子の仲介によって両軍は和睦した。6月13日、足利義視が、大内政弘経由で日野富子へ和睦の仲介料を支払う。8月頃、足利義視が、自身の娘を日野富子の下に送り、猶子にして貰う。12月頃、足利義視・足利義稙が、土岐成頼・斎藤妙椿の2名の庇護の下、川手城(現在の岐阜県岐阜市正法寺町)へ下向する。12月16日、西軍の諸将が一斉に下国する。足利義視も、自身の嫡男の足利義稙を伴い、美濃国の土岐成頼の下に亡命し、承隆寺(現在の岐阜県岐阜市茜部寺屋敷)に滞在した。西暦1,478年8月8日、足利義政が、足利義視を赦免する。然し義視は、美濃国に留まり続けた。

西暦1,489年4月26日10時、足利義尚が、近江国鈎の陣中にて死去する。水と酒しか受け付けない状態であった。義尚は臨終に際し、足利義政に対し、「ながらへば人の心も見るべきに露の命ぞはかなかりけり」(もし長く生きる事が出来れば、他人の心も良く見極められる様になるだろうに、露のような命は儚いものだ)と、「もしほ草あまの袖師の裏波にやどすも心あり明の月」(藻塩草が海人の袖を濡らす裏波に宿るように、心にも有明の月のような明るさがある)と、「出づる日の余の国までも鏡山と思ひしこともいたづらの身や」(昇る日の向こうの遠い国々までも、鏡山の様に美しいと思っていた事も、結局は無駄な身の上だった)という辞世の句を詠んだ。遺体は細川政元・日野富子の2名に譲られ、凱旋将軍の様な隊列で以って京都に帰還した。其の後日野富子は、足利義視が出家する事を条件に、足利義稙を次期征夷大将軍に決定した。5月13日、足利義視・足利義稙・土岐成頼・斎藤妙純の4名が上洛する。元々は足利義尚の葬儀に参列する予定であったが、細川政元の反対に遭い、葬儀後の上洛となった。其の後、義視の娘の居る通玄寺(現在の京都府京都市中京区曇華院前町)に入った。5月19日、足利義視が、日野富子の住む小川殿に移る。5月27日、足利義視が、通玄寺にて出家する。11月14日、足利義視・足利義稙の2名が足利義政と対面する。

西暦1,490年1月27日、足利義政が病死する。足利義視は、其の後の法事の席で「兄弟の仲は元々良かったが、人の言動で疎遠になった。美濃国で私は或る僧を出世させる様要望したが、周囲の僧達に反対された。然し義政殿が『義視の言う事だから』と反対を押し切った。私は此れを聞いて頷き、一笑した」という主旨の発言をした。義政の遺言により、遺骨は西指庵に納められた。此の時点で東山殿は、内外を黒漆で塗り終えた状態であった。6月6日、足利義視が小川殿を、日野富子の居室を除き、全て破却する。又足利義視は、日野富子の所領も奪った。7月22日、足利義稙が、第10代室町幕府征夷大将軍に就任する。足利義視は准后宣下を受け、政務を担った。其の後義稙は、六角氏が押領していた寺社本所領の返還を条件として六角高頼を赦免し、第27代室町幕府近江国守護として復職させた。12月頃、足利義視が腫物を患う。西暦1,491年2月15日、足利義視が、通玄寺にて死去する。此れにより足利義稙は、後ろ盾を失った。以降、足利義教の四男足利政知と、細川政元の2名は、足利義澄を征夷大将軍に擁立すべく動き始めた。足利義視の生誕から、足利義視の出家と還俗、伊勢貞親による足利義視の処刑の進言、足利義視の東軍の主将への就任、足利義視の伊勢国への逃亡、足利義視の帰洛と延暦寺への逃走、足利義視の西軍への寝返りと西軍による「西幕府」の形成、足利義視の足利義政への恭順、足利義視・足利義稙の美濃国への亡命、足利義視の通玄寺での出家、足利義稙の第10代室町幕府征夷大将軍への就任と足利義視の准后宣下を経て、通玄寺での足利義視の死去に至る迄——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。


登場人物

  • 足利義視 西暦1,439年3月3日、足利義教と、義教の側室小宰相局の2名の間に、足利義視が生誕する。義視は、義教の拾男に当たる。4月5日、足利義視が、正親町三条実雅の養君となる。西暦1,443年、足利義視が出家する。西暦1,464年12月23日、足利義視が、実子の居ない足利義政に請われて還俗し、義政の後継者となる事が決定される。西暦1,466年10月15日、第8代室町幕府征夷大将軍足利義政の独裁を支えていた幕府政所執事伊勢貞親が、足利義視を処刑すべきだと義政に進言する。対する義視は、山名持豊の屋敷に逃れ、細川勝元に無実を訴えた。西暦1,467年2月22日早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃する。足利義視は義就を支援し、細川勝元は面目を失った。7月頃、足利義視が、牙旗を下され東軍の主将となる。足利義視は、東軍から山名家の縁者を追放し、東軍と通じた奉行衆を殺害した。9月8日夜、足利義視が出発する。足利義政が伊勢貞親を呼び戻した事が切っ掛けであった。9月21日、足利義視が、伊勢国国司木造教親の陣所の中山殿に入る。足利義視は、軍事力・経済力を保持していながら、幕政には不干渉で中立の立場を取り、和歌等の貴族的文化を持っていた北畠教具に惹かれ、伊勢国への逃亡を決意した。そして足利義視は、近江国坂本に入り、石川次郎の館にて、お忍びで来ていた日野富子と暇乞いをし、北条早雲を伴って伊賀国を経由し、伊勢国に入った。西暦1,468年10月8日、足利義視が、足利義政の説得により帰洛する。其の後義視は、義政に対し、西軍との講和を望んでいた日野富子の兄日野勝光の排斥を訴えた。12月26日、有馬元家が殺害された事で身の危険を感じた足利義視が、延暦寺へ向けて逃走する。西暦1,469年1月7日、延暦寺に立ち寄っていた足利義視が、山名宗全の屋敷に入る。此れにより足利義視は、西軍に寝返った。勢い付いた西軍は、足利義視を将軍とする「西幕府」を形成した。西暦1,472年頃、西陣南帝の天皇擁立に賛成していた足利義視が、反対に回る。足利義視は、朝倉孝景の寝返りによって東軍が勢いを取り戻しつつあった事から、態度を変えた。西暦1,477年1月5日、足利義視が足利義政に対し、他意の無い事を伝える書簡を送る。斯うして、義視は義政に恭順を誓った。12月16日、西軍の諸将が一斉に下国する。足利義視も、自身の嫡男の足利義稙を伴い、美濃国の土岐成頼の下に亡命し、承隆寺に滞在した。西暦1,478年8月8日、足利義政が、足利義視を赦免する。然し義視は、美濃国に留まり続けた。西暦1,489年5月27日、足利義視が、通玄寺にて出家する。西暦1,490年1月27日、足利義政が病死する。足利義視は、其の後の法事の席で「兄弟の仲は元々良かったが、人の言動で疎遠になった。美濃国で私は或る僧を出世させる様要望したが、周囲の僧達に反対された。然し義政殿が『義視の言う事だから』と反対を押し切った。私は此れを聞いて頷き、一笑した」という主旨の発言をした。7月22日、足利義稙が、第10代室町幕府征夷大将軍に就任する。足利義視は准后宣下を受け、政務を担った。12月頃、足利義視が腫物を患う。西暦1,491年2月15日、足利義視が、通玄寺にて死去する。
  • 足利義政 西暦1,464年12月23日、足利義視が、実子の居ない足利義政に請われて還俗し、義政の後継者となる事が決定される。西暦1,465年8月17日、足利義視が、足利義政・日野富子の2名の勧めにより、日野良子を正室に迎える。12月11日、足利義政・日野富子の2名の間に足利義尚が生誕する。義政は、足利義視を無理矢理還俗させて自身の猶子とし、次期征夷大将軍として据えて、細川勝元を執事として政務から離れる積もりであったが、義尚の誕生により、義尚を征夷大将軍にさせようとする富子と対立した。西暦1,466年10月15日、第8代室町幕府征夷大将軍足利義政の独裁を支えていた幕府政所執事伊勢貞親が、足利義視を処刑すべきだと義政に進言する。西暦1,467年7月頃、伊勢貞親が、足利義政に呼び戻され、伊勢国から上洛する。此れにより足利義視は孤立した。9月8日夜、足利義視が出発する。足利義政が伊勢貞親を呼び戻した事が切っ掛けであった。此の行動に失望した義政は、後継者を足利義尚とする事を検討し始めた。西暦1,468年10月8日、足利義視が、足利義政の説得により帰洛する。其の後義視は、義政に対し、西軍との講和を望んでいた日野富子の兄日野勝光の排斥を訴えた。然し義政は聞き入れず、細川勝元も、義視の訴えに懸念を示した。11月頃、足利義政が、伊勢貞親を幕政に復帰させる。此れにより、義政と足利義視は対立した。12月23日、足利義視に仕えていた有馬元家が、足利義政の命を受けた赤松政則によって殺害される。西暦1,469年1月頃、後花園上皇が、足利義視征伐の為、東軍に治罰の院宣を発給する。此れを受けて足利義政は、自軍に足利義視征伐を命じた。西暦1,474年6月21日、足利義視が、一色氏の知行していた領国を其々の忠誠に応じて、三河国を讃州細川家に、伊勢国・丹後国を一色義春に、若狭国を武田国信に分配する決定を下す。又、此の年足利義政は、第26代室町幕府伊勢国守護北畠政郷に、伊勢国半国を一色義春に返付する様命じたが、北畠政郷は此れを拒否した。西暦1,476年10月1日、足利義政が、大内政弘に和睦を求める書簡を送る。西暦1,477年1月5日、足利義視が足利義政に対し、他意の無い事を伝える書簡を送る。斯うして、義視は義政に恭順を誓った。義政は、義視の罪を不問に付す、という主旨の返答をし、日野富子の仲介によって両軍は和睦した。西暦1,478年8月8日、足利義政が、足利義視を赦免する。然し義視は、美濃国に留まり続けた。西暦1,489年11月14日、足利義視・足利義稙の2名が足利義政と対面する。西暦1,490年1月27日、足利義政が病死する。足利義視は、其の後の法事の席で「兄弟の仲は元々良かったが、人の言動で疎遠になった。美濃国で私は或る僧を出世させる様要望したが、周囲の僧達に反対された。然し義政殿が『義視の言う事だから』と反対を押し切った。私は此れを聞いて頷き、一笑した」という主旨の発言をした。義政の遺言により、遺骨は西指庵に納められた。此の時点で東山殿は、内外を黒漆で塗り終えた状態であった。
  • 足利義教 西暦1,439年3月3日、足利義教と、義教の側室小宰相局の2名の間に、足利義視が生誕する。義視は、義教の拾男に当たる。西暦1,491年2月15日、足利義視が、通玄寺にて死去する。以降、足利義教の四男足利政知と、細川政元の2名は、足利義澄を征夷大将軍に擁立すべく動き始めた。
  • 正親町三条実雅 西暦1,439年4月5日、足利義視が、正親町三条実雅の養君となる。西暦1,464年12月30日、足利義視が還俗し、正親町三条実雅の今出川の屋敷に移住する。
  • 日野富子 西暦1,465年8月17日、足利義視が、足利義政・日野富子の2名の勧めにより、日野良子を正室に迎える。12月11日、足利義政・日野富子の2名の間に足利義尚が生誕する。義政は、足利義視を無理矢理還俗させて自身の猶子とし、次期征夷大将軍として据えて、細川勝元を執事として政務から離れる積もりであったが、義尚の誕生により、義尚を征夷大将軍にさせようとする富子と対立した。富子は、自身の兄日野勝光と結託し、幕政へ関与し始めた。西暦1,467年9月21日、足利義視が、伊勢国国司木造教親の陣所の中山殿に入る。そして足利義視は、近江国坂本に入り、石川次郎の館にて、お忍びで来ていた日野富子と暇乞いをし、北条早雲を伴って伊賀国を経由し、伊勢国に入った。西暦1,476年10月1日、足利義政が、大内政弘に和睦を求める書簡を送る。其の後大内政弘は、日野富子の仲介の下、足利義視と共に東軍との和睦交渉に当たった。西暦1,477年1月5日、足利義視が足利義政に対し、他意の無い事を伝える書簡を送る。斯うして、義視は義政に恭順を誓った。義政は、義視の罪を不問に付す、という主旨の返答をし、日野富子の仲介によって両軍は和睦した。6月13日、足利義視が、大内政弘経由で日野富子へ和睦の仲介料を支払う。8月頃、足利義視が、自身の娘を日野富子の下に送り、猶子にして貰う。西暦1,489年4月26日10時、足利義尚が、近江国鈎の陣中にて死去する。遺体は細川政元・日野富子の2名に譲られ、凱旋将軍の様な隊列で以って京都に帰還した。其の後日野富子は、足利義視が出家する事を条件に、足利義稙を次期征夷大将軍に決定した。5月19日、足利義視が、日野富子の住む小川殿に移る。西暦1,490年6月6日、足利義視が小川殿を、日野富子の居室を除き、全て破却する。又足利義視は、日野富子の所領も奪った。
  • 日野良子 西暦1,465年8月17日、足利義視が、足利義政・日野富子の2名の勧めにより、日野良子を正室に迎える。
  • 日野勝光 西暦1,465年12月11日、足利義政・日野富子の2名の間に足利義尚が生誕する。義政は、足利義視を無理矢理還俗させて自身の猶子とし、次期征夷大将軍として据えて、細川勝元を執事として政務から離れる積もりであったが、義尚の誕生により、義尚を征夷大将軍にさせようとする富子と対立した。富子は、自身の兄日野勝光と結託し、幕政へ関与し始めた。西暦1,468年10月8日、足利義視が、足利義政の説得により帰洛する。其の後義視は、義政に対し、西軍との講和を望んでいた日野富子の兄日野勝光の排斥を訴えた。然し義政は聞き入れず、細川勝元も、義視の訴えに懸念を示した。
  • 足利義尚 西暦1,465年12月11日、足利義政・日野富子の2名の間に足利義尚が生誕する。義政は、足利義視を無理矢理還俗させて自身の猶子とし、次期征夷大将軍として据えて、細川勝元を執事として政務から離れる積もりであったが、義尚の誕生により、義尚を征夷大将軍にさせようとする富子と対立した。富子は、自身の兄日野勝光と結託し、幕政へ関与し始めた。西暦1,467年6月頃、細川勝元が、諸大名に上洛を要請する。畠山政長等が参集した。斯うして、細川勝元の屋敷と花の御所を中心とした京都北部から東に布陣した細川方と、堀川西岸に建てられた山名宗全の屋敷と京都中央に位置する斯波義廉の屋敷を拠点とする山名方の構図がはっきりし、前者が東軍、後者が西軍と呼称された。其々の陣容は、東軍が細川勝元・足利義視・政長・斯波義敏と、武田信繁の弐男武田信賢と、成身院光宣・細川勝久・京極持清・赤松政則・富樫政親であり、西軍が山名宗全・足利義尚・畠山義就・斯波義廉・一色義直・朝倉孝景・甲斐敏光・六角高頼・土岐成頼であった。西暦1,474年8月8日、山名政豊を始めとする西軍諸将が、足利義尚に出仕し謁見する。西軍は、足利義視の征夷大将軍擁立の姿勢を一変させ、其の方針転換を名実共に対外的に示した。西暦1,489年4月26日10時、足利義尚が、近江国鈎の陣中にて死去する。水と酒しか受け付けない状態であった。義尚は臨終に際し、足利義政に対し、「ながらへば人の心も見るべきに露の命ぞはかなかりけり」(もし長く生きる事が出来れば、他人の心も良く見極められる様になるだろうに、露のような命は儚いものだ)と、「もしほ草あまの袖師の裏波にやどすも心あり明の月」(藻塩草が海人の袖を濡らす裏波に宿るように、心にも有明の月のような明るさがある)と、「出づる日の余の国までも鏡山と思ひしこともいたづらの身や」(昇る日の向こうの遠い国々までも、鏡山の様に美しいと思っていた事も、結局は無駄な身の上だった)という辞世の句を詠んだ。遺体は細川政元・日野富子の2名に譲られ、凱旋将軍の様な隊列で以って京都に帰還した。5月13日、足利義視・足利義稙・土岐成頼・斎藤妙純の4名が上洛する。此の4名は、元々は足利義尚の葬儀に参列する予定であったが、細川政元の反対に遭い、葬儀後の上洛となった。
  • 足利義稙 西暦1,467年10月4日、北畠教具が、足利義視を保護する為に長谷寺を出発する。そして北畠教具は、足利義視・北条早雲の2名を迎え、伊勢国丹生に屋敷を造り、逗留させた。此の際武田信賢は、足利義稙を守り、西軍に送り届けた。西暦1,477年12月頃、足利義視・足利義稙が、土岐成頼・斎藤妙椿の2名の庇護の下、川手城へ下向する。12月16日、西軍の諸将が一斉に下国する。足利義視も、自身の嫡男の足利義稙を伴い、美濃国の土岐成頼の下に亡命し、承隆寺に滞在した。西暦1,489年4月26日10時、足利義尚が、近江国鈎の陣中にて死去する。其の後日野富子は、足利義視が出家する事を条件に、足利義稙を次期征夷大将軍に決定した。5月13日、足利義視・足利義稙・土岐成頼・斎藤妙純の4名が上洛する。此の4名は、元々は足利義尚の葬儀に参列する予定であったが、細川政元の反対に遭い、葬儀後の上洛となった。11月14日、足利義視・足利義稙の2名が足利義政と対面する。西暦1,490年7月22日、足利義稙が、第10代室町幕府征夷大将軍に就任する。足利義視は准后宣下を受け、政務を担った。其の後義稙は、六角氏が押領していた寺社本所領の返還を条件として六角高頼を赦免し、第27代室町幕府近江国守護として復職させた。西暦1,491年2月15日、足利義視が、通玄寺にて死去する。此れにより足利義稙は、後ろ盾を失った。
  • 伊勢貞親 西暦1,466年10月15日、第8代室町幕府征夷大将軍足利義政の独裁を支えていた幕府政所執事伊勢貞親が、足利義視を処刑すべきだと義政に進言する。此れは諸大名の猛反発を招き、伊勢貞親は京を追われ、近江国、次いで伊勢国へ逃れた。対する義視は、山名持豊の屋敷に逃れ、細川勝元に無実を訴えた。西暦1,467年7月頃、伊勢貞親が、足利義政に呼び戻され、伊勢国から上洛する。此れにより足利義視は孤立した。9月8日夜、足利義視が出発する。足利義政が伊勢貞親を呼び戻した事が切っ掛けであった。西暦1,468年11月頃、足利義政が、伊勢貞親を幕政に復帰させる。此れにより、義政と足利義視は対立した。
  • 細川勝元 西暦1,465年12月11日、足利義政・日野富子の2名の間に足利義尚が生誕する。義政は、足利義視を無理矢理還俗させて自身の猶子とし、次期征夷大将軍として据えて、細川勝元を執事として政務から離れる積もりであったが、義尚の誕生により、義尚を征夷大将軍にさせようとする富子と対立した。西暦1,466年10月15日、第8代室町幕府征夷大将軍足利義政の独裁を支えていた幕府政所執事伊勢貞親が、足利義視を処刑すべきだと義政に進言する。対する義視は、山名持豊の屋敷に逃れ、細川勝元に無実を訴えた。西暦1,467年2月22日早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃する。朝倉孝景・山名宗全・山名政豊(宗全の命により加勢)の3名も加勢した。細川勝元は此の段階では動かず、静観した。政長は持ち堪えられず、丸一日の合戦の末、上御霊神社の拝殿に放火し、細川勝元の屋敷に退却した。足利義視は義就を支援し、細川勝元は面目を失った。6月頃、細川勝元が、諸大名に上洛を要請する。畠山政長等が参集した。斯うして、細川勝元の屋敷と花の御所を中心とした京都北部から東に布陣した細川方と、堀川西岸に建てられた山名宗全の屋敷と京都中央に位置する斯波義廉の屋敷を拠点とする山名方の構図がはっきりし、前者が東軍、後者が西軍と呼称された。其々の陣容は、東軍が細川勝元・足利義視・政長・斯波義敏と、武田信繁の弐男武田信賢と、成身院光宣・細川勝久・京極持清・赤松政則・富樫政親であり、西軍が山名宗全・足利義尚・畠山義就・斯波義廉・一色義直・朝倉孝景・甲斐敏光・六角高頼・土岐成頼であった。西暦1,468年10月8日、足利義視が、足利義政の説得により帰洛する。其の後義視は、義政に対し、西軍との講和を望んでいた日野富子の兄日野勝光の排斥を訴えた。然し義政は聞き入れず、細川勝元も、義視の訴えに懸念を示した。
  • 細川政元 西暦1,489年4月26日10時、足利義尚が、近江国鈎の陣中にて死去する。遺体は細川政元・日野富子の2名に譲られ、凱旋将軍の様な隊列で以って京都に帰還した。5月13日、足利義視・足利義稙・土岐成頼・斎藤妙純の4名が上洛する。此の4名は、元々は足利義尚の葬儀に参列する予定であったが、細川政元の反対に遭い、葬儀後の上洛となった。西暦1,491年2月15日、足利義視が、通玄寺にて死去する。以降、足利義教の四男足利政知と、細川政元の2名は、足利義澄を征夷大将軍に擁立すべく動き始めた。
  • 山名宗全 西暦1,467年2月22日早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃する。朝倉孝景・山名宗全・山名政豊(宗全の命により加勢)の3名も加勢した。細川勝元は此の段階では動かず、静観した。政長は持ち堪えられず、丸一日の合戦の末、上御霊神社の拝殿に放火し、細川勝元の屋敷に退却した。足利義視は義就を支援し、細川勝元は面目を失った。6月頃、細川勝元が、諸大名に上洛を要請する。畠山政長等が参集した。斯うして、細川勝元の屋敷と花の御所を中心とした京都北部から東に布陣した細川方と、堀川西岸に建てられた山名宗全の屋敷と京都中央に位置する斯波義廉の屋敷を拠点とする山名方の構図がはっきりし、前者が東軍、後者が西軍と呼称された。其々の陣容は、東軍が細川勝元・足利義視・政長・斯波義敏と、武田信繁の弐男武田信賢と、成身院光宣・細川勝久・京極持清・赤松政則・富樫政親であり、西軍が山名宗全・足利義尚・畠山義就・斯波義廉・一色義直・朝倉孝景・甲斐敏光・六角高頼・土岐成頼であった。西暦1,469年1月7日、延暦寺に立ち寄っていた足利義視が、山名宗全の屋敷に入る。此れにより足利義視は、西軍に寝返った。勢い付いた西軍は、足利義視を将軍とする「西幕府」を形成した。
  • 畠山義就 西暦1,467年2月22日早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃する。朝倉孝景・山名宗全・山名政豊(宗全の命により加勢)の3名も加勢した。細川勝元は此の段階では動かず、静観した。政長は持ち堪えられず、丸一日の合戦の末、上御霊神社の拝殿に放火し、細川勝元の屋敷に退却した。足利義視は義就を支援し、細川勝元は面目を失った。3月29日、足利義視が、畠山政長・畠山義就両陣営に対し和睦を呼び掛ける。然し、此の呼び掛けは失敗に終わった。6月頃、細川勝元が、諸大名に上洛を要請する。畠山政長等が参集した。斯うして、細川勝元の屋敷と花の御所を中心とした京都北部から東に布陣した細川方と、堀川西岸に建てられた山名宗全の屋敷と京都中央に位置する斯波義廉の屋敷を拠点とする山名方の構図がはっきりし、前者が東軍、後者が西軍と呼称された。其々の陣容は、東軍が細川勝元・足利義視・政長・斯波義敏と、武田信繁の弐男武田信賢と、成身院光宣・細川勝久・京極持清・赤松政則・富樫政親であり、西軍が山名宗全・足利義尚・畠山義就・斯波義廉・一色義直・朝倉孝景・甲斐敏光・六角高頼・土岐成頼であった。西暦1,470年7月23日、畠山義就が、足利義視を始めとする西軍諸将の説得により、西陣南帝の天皇擁立を了承する。西暦1,474年8月8日、山名政豊を始めとする西軍諸将が、足利義尚に出仕し謁見する。西軍は、足利義視の征夷大将軍擁立の姿勢を一変させ、其の方針転換を名実共に対外的に示した。此の姿勢に畠山義就・土岐成頼・大内政弘が反発した。
  • 畠山政長 西暦1,467年2月22日早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃する。朝倉孝景・山名宗全・山名政豊(宗全の命により加勢)の3名も加勢した。細川勝元は此の段階では動かず、静観した。政長は持ち堪えられず、丸一日の合戦の末、上御霊神社の拝殿に放火し、細川勝元の屋敷に退却した。足利義視は義就を支援し、細川勝元は面目を失った。3月29日、足利義視が、畠山政長・畠山義就両陣営に対し和睦を呼び掛ける。然し、此の呼び掛けは失敗に終わった。6月頃、細川勝元が、諸大名に上洛を要請する。畠山政長等が参集した。斯うして、細川勝元の屋敷と花の御所を中心とした京都北部から東に布陣した細川方と、堀川西岸に建てられた山名宗全の屋敷と京都中央に位置する斯波義廉の屋敷を拠点とする山名方の構図がはっきりし、前者が東軍、後者が西軍と呼称された。其々の陣容は、東軍が細川勝元・足利義視・政長・斯波義敏と、武田信繁の弐男武田信賢と、成身院光宣・細川勝久・京極持清・赤松政則・富樫政親であり、西軍が山名宗全・足利義尚・畠山義就・斯波義廉・一色義直・朝倉孝景・甲斐敏光・六角高頼・土岐成頼であった。
  • 飯尾為数 西暦1,467年7月12日、飯尾為数が、西軍に通じたとして、足利義視に暗殺される。又此の日、両軍の間で戦闘が発生し、上京の多くが焼失した。
  • 木造教親 西暦1,467年9月21日、足利義視が、伊勢国国司木造教親の陣所の中山殿に入る。木造教親は足利義視に「北畠教具を頼りなさい」と助言した。其の後足利義視は、木造教親に警護され、武者小路通を東へ向かい、蛸薬師通を経由して一条通へ向かった。釘貫門は、東軍の富樫政親の兵が守っていたが、木造教親は「三条公敦殿は病気で東山に居り、足利殿が見舞いに参るのである。開門せよ」という主旨の発言をした。然し富樫政親は不審がって開けず「鍵が無い」と答えた為、木造教親は、予てから準備していた合鍵で開門した。
  • 北畠教具 西暦1,467年9月21日、足利義視が、伊勢国国司木造教親の陣所の中山殿に入る。木造教親は足利義視に「北畠教具を頼りなさい」と助言した。足利義視は、軍事力・経済力を保持していながら、幕政には不干渉で中立の立場を取り、和歌等の貴族的文化を持っていた北畠教具に惹かれ、伊勢国への逃亡を決意した。10月4日、北畠教具が、足利義視を保護する為に長谷寺を出発する。そして足利義視・北条早雲の2名を迎え、伊勢国丹生に屋敷を造り、逗留させた。
  • 北条早雲 西暦1,467年9月21日、足利義視が、伊勢国国司木造教親の陣所の中山殿に入る。そして足利義視は、近江国坂本に入り、石川次郎の館にて、お忍びで来ていた日野富子と暇乞いをし、北条早雲を伴って伊賀国を経由し、伊勢国に入った。10月4日、北畠教具が、足利義視を保護する為に長谷寺を出発する。そして北畠教具は、足利義視・北条早雲の2名を迎え、伊勢国丹生に屋敷を造り、逗留させた。西暦1,468年10月8日、足利義視が、足利義政の説得により帰洛する。然し北条早雲は其の儘伊勢国に留まり、其の後、招聘を受けていた自身の妹北川殿の夫である今川義忠の下へ行った。
  • 有馬元家 西暦1,468年12月23日、足利義視に仕えていた有馬元家が、足利義政の命を受けた赤松政則によって殺害される。12月26日、有馬元家が殺害された事で身の危険を感じた足利義視が、延暦寺へ向けて逃走する。
  • 赤松政則 西暦1,467年6月頃、細川勝元が、諸大名に上洛を要請する。畠山政長等が参集した。斯うして、細川勝元の屋敷と花の御所を中心とした京都北部から東に布陣した細川方と、堀川西岸に建てられた山名宗全の屋敷と京都中央に位置する斯波義廉の屋敷を拠点とする山名方の構図がはっきりし、前者が東軍、後者が西軍と呼称された。其々の陣容は、東軍が細川勝元・足利義視・政長・斯波義敏と、武田信繁の弐男武田信賢と、成身院光宣・細川勝久・京極持清・赤松政則・富樫政親であり、西軍が山名宗全・足利義尚・畠山義就・斯波義廉・一色義直・朝倉孝景・甲斐敏光・六角高頼・土岐成頼であった。西暦1,468年12月23日、足利義視に仕えていた有馬元家が、足利義政の命を受けた赤松政則によって殺害される。
  • 大内政弘 西暦1,469年5月頃、大内政弘の要請により、足利義視の内書が鎮西・四国の諸大名に多数送付される。西暦1,474年8月8日、山名政豊を始めとする西軍諸将が、足利義尚に出仕し謁見する。西軍は、足利義視の征夷大将軍擁立の姿勢を一変させ、其の方針転換を名実共に対外的に示した。此の姿勢に畠山義就・土岐成頼・大内政弘が反発した。西暦1,476年10月1日、足利義政が、大内政弘に和睦を求める書簡を送る。其の後大内政弘は、日野富子の仲介の下、足利義視と共に東軍との和睦交渉に当たった。大内政弘の手元に留め置かれていた、室町幕府の遣明船の唐荷引き渡しが大内政弘赦免の条件であった。西暦1,477年6月13日、足利義視が、大内政弘経由で日野富子へ和睦の仲介料を支払う。
  • 土岐成頼 西暦1,467年6月頃、細川勝元が、諸大名に上洛を要請する。畠山政長等が参集した。斯うして、細川勝元の屋敷と花の御所を中心とした京都北部から東に布陣した細川方と、堀川西岸に建てられた山名宗全の屋敷と京都中央に位置する斯波義廉の屋敷を拠点とする山名方の構図がはっきりし、前者が東軍、後者が西軍と呼称された。其々の陣容は、東軍が細川勝元・足利義視・政長・斯波義敏と、武田信繁の弐男武田信賢と、成身院光宣・細川勝久・京極持清・赤松政則・富樫政親であり、西軍が山名宗全・足利義尚・畠山義就・斯波義廉・一色義直・朝倉孝景・甲斐敏光・六角高頼・土岐成頼であった。西暦1,474年8月8日、山名政豊を始めとする西軍諸将が、足利義尚に出仕し謁見する。西軍は、足利義視の征夷大将軍擁立の姿勢を一変させ、其の方針転換を名実共に対外的に示した。此の姿勢に畠山義就・土岐成頼・大内政弘が反発した。西暦1,477年12月頃、足利義視・足利義稙が、土岐成頼・斎藤妙椿の2名の庇護の下、川手城へ下向する。12月16日、西軍の諸将が一斉に下国する。足利義視も、自身の嫡男の足利義稙を伴い、美濃国の土岐成頼の下に亡命し、承隆寺に滞在した。西暦1,489年5月13日、足利義視・足利義稙・土岐成頼・斎藤妙純の4名が上洛する。此の4名は、元々は足利義尚の葬儀に参列する予定であったが、細川政元の反対に遭い、葬儀後の上洛となった。
  • 斎藤妙椿 西暦1,477年12月頃、足利義視・足利義稙が、土岐成頼・斎藤妙椿の2名の庇護の下、川手城へ下向する。
  • 一条兼良 西暦1,473年5月19日、足利義視が、一条兼良に進退を相談する書簡を送る。
  • 足利成氏 西暦1,468年4月頃、初代古河公方足利成氏と西軍諸将の間で攻守同盟が締結される。足利義視が此れを承認した。西暦1,469年1月27日頃、足利成氏が、足利義政の代官長尾景人の守備する下野国足利荘への攻撃を開始する。成氏は、足利義視が西軍に参加するのを待ち、攻撃の機会を窺っていた。
  • 後花園上皇 西暦1,469年1月頃、後花園上皇が、足利義視征伐の為、東軍に治罰の院宣を発給する。此れを受けて足利義政は、自軍に足利義視征伐を命じた。

本書が記録する出来事

  • 足利義教・小宰相局の間での足利義視の生誕(1,439年3月3日) 足利義教と、義教の側室小宰相局の2名の間に、足利義視が生誕する。義視は、義教の拾男に当たる。
  • 正親町三条実雅の養君となった足利義視(1,439年4月5日) 足利義視が、正親町三条実雅の養君となる。
  • 足利義視の出家(1,443年) 足利義視が出家する。
  • 足利義政に請われた足利義視の還俗と後継者の決定(1,464年12月23日) 足利義視が、実子の居ない足利義政に請われて還俗し、義政の後継者となる事が決定される。
  • 足利義視の還俗と正親町三条実雅の今出川の屋敷への移住(1,464年12月30日) 足利義視が還俗し、正親町三条実雅の今出川の屋敷に移住する。
  • 足利義視による高倉殿の「今出川殿」への改称と移住(1,465年4月10日) 足利義視が、日野重子の旧邸である高倉殿を「今出川殿」と改め、移住する。
  • 足利義政・日野富子の勧めによる足利義視と日野良子の婚姻(1,465年8月17日) 足利義視が、足利義政・日野富子の2名の勧めにより、日野良子を正室に迎える。
  • 足利義政・日野富子の間での足利義尚の生誕(1,465年12月11日) 足利義政・日野富子の2名の間に足利義尚が生誕する。義政は、足利義視を無理矢理還俗させて自身の猶子とし、次期征夷大将軍として据えて、細川勝元を執事として政務から離れる積もりであったが、義尚の誕生により、義尚を征夷大将軍にさせようとする富子と対立した。富子は、自身の兄日野勝光と結託し、幕政へ関与し始めた。
  • 伊勢貞親による足利義視の処刑の進言(1,466年10月15日) 第8代室町幕府征夷大将軍足利義政の独裁を支えていた幕府政所執事伊勢貞親が、足利義視を処刑すべきだと義政に進言する。此れは諸大名の猛反発を招き、伊勢貞親は京を追われ、近江国、次いで伊勢国へ逃れた。対する義視は、山名持豊の屋敷に逃れ、細川勝元に無実を訴えた。
  • 畠山義就による上御霊神社の襲撃(1,467年2月22日) 早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃する。朝倉孝景・山名宗全・山名政豊(宗全の命により加勢)の3名も加勢した。細川勝元は此の段階では動かず、静観した。政長は持ち堪えられず、丸一日の合戦の末、上御霊神社の拝殿に放火し、細川勝元の屋敷に退却した。足利義視は義就を支援し、細川勝元は面目を失った。
  • 足利義視による畠山政長・畠山義就両陣営への和睦の呼び掛け(1,467年3月29日) 足利義視が、畠山政長・畠山義就両陣営に対し和睦を呼び掛ける。然し失敗に終わった。
  • 細川勝元による諸大名への上洛の要請と東軍・西軍の構図(1,467年6月頃) 細川勝元が、諸大名に上洛を要請する。畠山政長等が参集した。斯うして、細川勝元の屋敷と花の御所を中心とした京都北部から東に布陣した細川方と、堀川西岸に建てられた山名宗全の屋敷と京都中央に位置する斯波義廉の屋敷を拠点とする山名方の構図がはっきりし、前者が東軍、後者が西軍と呼称された。其々の陣容は、東軍が細川勝元・足利義視・政長・斯波義敏と、武田信繁の弐男武田信賢と、成身院光宣・細川勝久・京極持清・赤松政則・富樫政親であり、西軍が山名宗全・足利義尚・畠山義就・斯波義廉・一色義直・朝倉孝景・甲斐敏光・六角高頼・土岐成頼であった。
  • 伊勢貞親の上洛と足利義視の孤立(1,467年7月頃) 伊勢貞親が、足利義政に呼び戻され、伊勢国から上洛する。此れにより足利義視は孤立した。
  • 足利義視の東軍の主将への就任(1,467年7月頃) 足利義視が、牙旗を下され東軍の主将となる。足利義視は、東軍から山名家の縁者を追放し、東軍と通じた奉行衆を殺害した。
  • 足利義視による飯尾為数の暗殺(1,467年7月12日) 飯尾為数が、西軍に通じたとして、足利義視に暗殺される。又此の日、両軍の間で戦闘が発生し、上京の多くが焼失した。
  • 足利義視の出発(1,467年9月8日) 夜、足利義視が出発する。足利義政が伊勢貞親を呼び戻した事が切っ掛けであった。此の行動に失望した義政は、後継者を足利義尚とする事を検討し始めた。
  • 足利義視の中山殿入り(1,467年9月21日) 足利義視が、伊勢国国司木造教親の陣所の中山殿に入る。木造教親は足利義視に「北畠教具を頼りなさい」と助言した。足利義視は、軍事力・経済力を保持していながら、幕政には不干渉で中立の立場を取り、和歌等の貴族的文化を持っていた北畠教具に惹かれ、伊勢国への逃亡を決意した。其の後足利義視は、木造教親に警護され、武者小路通(現在の京都府京都市上京区)を東へ向かい、蛸薬師通(現在の京都府京都市中京区)を経由して一条通(現在の京都府京都市右京区)へ向かった。釘貫門は、東軍の富樫政親の兵が守っていたが、木造教親は「三条公敦殿は病気で東山に居り、足利殿が見舞いに参るのである。開門せよ」という主旨の発言をした。然し富樫政親は不審がって開けず「鍵が無い」と答えた為、木造教親は、予てから準備していた合鍵で開門した。そして足利義視は、近江国坂本(現在の滋賀県大津市坂本・坂本本町・下阪本)に入り、石川次郎の館にて、お忍びで来ていた日野富子と暇乞いをし、北条早雲を伴って伊賀国を経由し、伊勢国に入った。
  • 足利義視を保護する為の北畠教具の長谷寺からの出発(1,467年10月4日) 北畠教具が、足利義視を保護する為に長谷寺(現在の奈良県桜井市初瀬)を出発する。そして足利義視・北条早雲の2名を迎え、伊勢国丹生(現在の三重県多気郡多気町)に屋敷を造り、逗留させた。此の際武田信賢は、足利義稙を守り、西軍に送り届けた。
  • 足利成氏と西軍諸将の攻守同盟の締結(1,468年4月頃) 初代古河公方足利成氏と西軍諸将の間で攻守同盟が締結される。足利義視が此れを承認した。
  • 足利義政の説得による足利義視の帰洛(1,468年10月8日) 足利義視が、足利義政の説得により帰洛する。然し北条早雲は其の儘伊勢国に留まり、其の後、招聘を受けていた自身の妹北川殿の夫である今川義忠の下へ行った。其の後義視は、義政に対し、西軍との講和を望んでいた日野富子の兄日野勝光の排斥を訴えた。然し義政は聞き入れず、細川勝元も、義視の訴えに懸念を示した。
  • 足利義政による伊勢貞親の幕政への復帰(1,468年11月頃) 足利義政が、伊勢貞親を幕政に復帰させる。此れにより、義政と足利義視は対立した。
  • 河野通春による河野教通への書簡の送付(1,468年12月頃) 河野通春が、河野教通に「応仁の乱は延々と続くと思いますが、西軍へご同心頂けるのでしょうか。先年大内方からも依頼が有った筈ですが、其の後お返事を頂いておりません。足利義政殿・足利義視殿の双方が将軍となられた今、其の命令には変わりはありません。此度の摂津国の合戦により、私は守護に補任されましたが、家名を上げる上では、私と教通殿の何方がなっても同じだと思います」という主旨の書簡を送る。
  • 赤松政則による有馬元家の殺害(1,468年12月23日) 足利義視に仕えていた有馬元家が、足利義政の命を受けた赤松政則によって殺害される。
  • 足利義視の延暦寺へ向けた逃走(1,468年12月26日) 有馬元家が殺害された事で身の危険を感じた足利義視が、延暦寺へ向けて逃走する。
  • 後花園上皇による治罰の院宣の発給(1,469年1月頃) 後花園上皇が、足利義視征伐の為、東軍に治罰の院宣を発給する。此れを受けて足利義政は、自軍に足利義視征伐を命じた。
  • 西軍による足利義視の迎え入れ(1,469年1月5日) 西軍が、比叡山に使いを出して足利義視を迎え入れる。
  • 足利義視の山名宗全の屋敷入りと西軍への寝返り(1,469年1月7日) 延暦寺に立ち寄っていた足利義視が、山名宗全の屋敷に入る。此れにより足利義視は、西軍に寝返った。勢い付いた西軍は、足利義視を将軍とする「西幕府」を形成した。
  • 足利成氏による下野国足利荘への攻撃の開始(1,469年1月27日頃) 足利成氏が、足利義政の代官長尾景人の守備する下野国足利荘(現在の栃木県足利市)への攻撃を開始する。成氏は、足利義視が西軍に参加するのを待ち、攻撃の機会を窺っていた。
  • 大内政弘の要請による足利義視の内書の送付(1,469年5月頃) 大内政弘の要請により、足利義視の内書が鎮西・四国の諸大名に多数送付される。
  • 畠山義就による西陣南帝の天皇擁立の了承(1,470年7月23日) 畠山義就が、足利義視を始めとする西軍諸将の説得により、西陣南帝の天皇擁立を了承する。
  • 足利義視の西陣南帝の天皇擁立への反対(1,472年頃) 西陣南帝の天皇擁立に賛成していた足利義視が、反対に回る。足利義視は、朝倉孝景の寝返りによって東軍が勢いを取り戻しつつあった事から、態度を変えた。
  • 小早川煕平の死去と足利義視による御内書の発給(1,473年1月1日) 小早川煕平が死去する。此れを受けて足利義視は、煕平の所領を小早川弘景に与える御内書を発した。
  • 足利義視による一条兼良への書簡の送付(1,473年5月19日) 足利義視が、一条兼良に進退を相談する書簡を送る。
  • 足利義視による小早川弘景への小早川煕平の遺産の委任(1,474年2月12日) 足利義視が、小早川弘景に小早川煕平の遺産を委ねる。
  • 足利義視による備後国・安芸国の国人への高山城攻めの合力の命令(1,474年4月18日) 足利義視が、備後国・安芸国の国人に対し、高山城攻めの合力を命じる。
  • 足利義視による一色氏の領国の分配の決定(1,474年6月21日) 足利義視が、一色氏の知行していた領国を其々の忠誠に応じて、三河国を讃州細川家に、伊勢国・丹後国を一色義春に、若狭国を武田国信に分配する決定を下す。此れにより、一色義春は第22代室町幕府丹後国守護に就任した。又、此の年足利義政は、第26代室町幕府伊勢国守護北畠政郷に、伊勢国半国を一色義春に返付する様命じたが、北畠政郷は此れを拒否した。
  • 山名政豊を始めとする西軍諸将の足利義尚への出仕・謁見(1,474年8月8日) 山名政豊を始めとする西軍諸将が、足利義尚に出仕し謁見する。西軍は、足利義視の征夷大将軍擁立の姿勢を一変させ、其の方針転換を名実共に対外的に示した。此の姿勢に畠山義就・土岐成頼・大内政弘が反発した。
  • 足利義政による大内政弘への和睦を求める書簡の送付(1,476年10月1日) 足利義政が、大内政弘に和睦を求める書簡を送る。其の後大内政弘は、日野富子の仲介の下、足利義視と共に東軍との和睦交渉に当たった。大内政弘の手元に留め置かれていた、室町幕府の遣明船の唐荷引き渡しが大内政弘赦免の条件であった。
  • 足利義視による足利義政への書簡の送付と恭順(1,477年1月5日) 足利義視が足利義政に対し、他意の無い事を伝える書簡を送る。斯うして、義視は義政に恭順を誓った。義政は、義視の罪を不問に付す、という主旨の返答をし、日野富子の仲介によって両軍は和睦した。
  • 足利義視による日野富子への和睦の仲介料の支払い(1,477年6月13日) 足利義視が、大内政弘経由で日野富子へ和睦の仲介料を支払う。
  • 足利義視の娘と日野富子の猶子縁組(1,477年8月頃) 足利義視が、自身の娘を日野富子の下に送り、猶子にして貰う。
  • 足利義視・足利義稙の川手城への下向(1,477年12月頃) 足利義視・足利義稙が、土岐成頼・斎藤妙椿の2名の庇護の下、川手城(現在の岐阜県岐阜市正法寺町)へ下向する。
  • 西軍の諸将の一斉の下国と足利義視の美濃国への亡命(1,477年12月16日) 西軍の諸将が一斉に下国する。足利義視も、自身の嫡男の足利義稙を伴い、美濃国の土岐成頼の下に亡命し、承隆寺(現在の岐阜県岐阜市茜部寺屋敷)に滞在した。
  • 足利義政による足利義視の赦免(1,478年8月8日) 足利義政が、足利義視を赦免する。然し義視は、美濃国に留まり続けた。
  • 足利義尚の近江国鈎の陣中での死去(1,489年4月26日) 10時、足利義尚が、近江国鈎の陣中にて死去する。水と酒しか受け付けない状態であった。義尚は臨終に際し、足利義政に対し、「ながらへば人の心も見るべきに露の命ぞはかなかりけり」(もし長く生きる事が出来れば、他人の心も良く見極められる様になるだろうに、露のような命は儚いものだ)と、「もしほ草あまの袖師の裏波にやどすも心あり明の月」(藻塩草が海人の袖を濡らす裏波に宿るように、心にも有明の月のような明るさがある)と、「出づる日の余の国までも鏡山と思ひしこともいたづらの身や」(昇る日の向こうの遠い国々までも、鏡山の様に美しいと思っていた事も、結局は無駄な身の上だった)という辞世の句を詠んだ。遺体は細川政元・日野富子の2名に譲られ、凱旋将軍の様な隊列で以って京都に帰還した。其の後日野富子は、足利義視が出家する事を条件に、足利義稙を次期征夷大将軍に決定した。
  • 足利義視・足利義稙・土岐成頼・斎藤妙純の上洛(1,489年5月13日) 足利義視・足利義稙・土岐成頼・斎藤妙純の4名が上洛する。元々は足利義尚の葬儀に参列する予定であったが、細川政元の反対に遭い、葬儀後の上洛となった。其の後、義視の娘の居る通玄寺(現在の京都府京都市中京区曇華院前町)に入った。
  • 足利義視の小川殿への移転(1,489年5月19日) 足利義視が、日野富子の住む小川殿に移る。
  • 足利義視の通玄寺での出家(1,489年5月27日) 足利義視が、通玄寺にて出家する。
  • 足利義視・足利義稙の足利義政との対面(1,489年11月14日) 足利義視・足利義稙の2名が足利義政と対面する。
  • 足利義政の病死(1,490年1月27日) 足利義政が病死する。足利義視は、其の後の法事の席で「兄弟の仲は元々良かったが、人の言動で疎遠になった。美濃国で私は或る僧を出世させる様要望したが、周囲の僧達に反対された。然し義政殿が『義視の言う事だから』と反対を押し切った。私は此れを聞いて頷き、一笑した」という主旨の発言をした。義政の遺言により、遺骨は西指庵に納められた。此の時点で東山殿は、内外を黒漆で塗り終えた状態であった。
  • 足利義視による小川殿の破却(1,490年6月6日) 足利義視が小川殿を、日野富子の居室を除き、全て破却する。又足利義視は、日野富子の所領も奪った。
  • 足利義稙の第10代室町幕府征夷大将軍への就任(1,490年7月22日) 足利義稙が、第10代室町幕府征夷大将軍に就任する。足利義視は准后宣下を受け、政務を担った。其の後義稙は、六角氏が押領していた寺社本所領の返還を条件として六角高頼を赦免し、第27代室町幕府近江国守護として復職させた。
  • 足利義視の腫物の発症(1,490年12月頃) 足利義視が腫物を患う。
  • 足利義視の通玄寺での死去(1,491年2月15日) 足利義視が、通玄寺にて死去する。此れにより足利義稙は、後ろ盾を失った。以降、足利義教の四男足利政知と、細川政元の2名は、足利義澄を征夷大将軍に擁立すべく動き始めた。本書の年表の最後の項目である。

東軍の主将から、「西幕府」の将軍へ──
足利義視の寝返りを一元化。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
YouTubeとニコニコでも情報を発信中。