電子書籍「足利義視一元化」の表紙

足利義視一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,439年3月3日〜1,491年2月15日
※旧暦は全て西暦に変換しています
最新更新日
西暦2,025年11月23日

足利義教拾男義視の生誕・正親町三条実雅の養君・出家と還俗・日野富子との対立・伊勢貞親の処刑進言・御霊合戦と応仁の乱開戦・東軍主将就任・伊勢国出奔と北畠教具保護・有馬元家殺害と延暦寺逃走・後花園上皇治罰院宣・西軍寝返りと西幕府形成・西陣南帝擁立・美濃国亡命・日野富子仲介の和睦・義稙将軍就任と准后宣下・通玄寺死去──
応仁の乱の中心人物が生きた52年を一本の時系列に貫く。

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本書について

西暦1,439年3月3日、足利義教の拾男として足利義視が生誕した日から、西暦1,491年2月15日、義視が通玄寺にて死去した日まで。本書は、応仁の乱の中心人物足利義視の波乱の生涯——義教と側室小宰相局の間の生誕、正親町三条実雅の養君となった経緯、出家、実子の居ない足利義政に請われての還俗と後継者決定、日野良子との婚姻、足利義尚の誕生による日野富子との対立、幕府政所執事伊勢貞親による処刑進言事件、畠山義就の上御霊神社襲撃による御霊合戦と応仁の乱開戦、東軍主将就任と飯尾為数暗殺、伊勢国への出奔と北畠教具による保護、帰洛と日野勝光排斥の訴え、有馬元家殺害と延暦寺への逃走、後花園上皇の治罰院宣、西軍への寝返りと「西幕府」形成、初代古河公方足利成氏との攻守同盟、西陣南帝擁立の賛否転換、一色氏領国分配、西軍諸将の足利義尚出仕による将軍擁立方針転換、日野富子仲介による和睦、美濃国土岐成頼の下への亡命、足利義政による赦免、足利義尚死去と足利義稙の次期将軍決定、上洛と出家、足利義政死去、足利義稙の第10代征夷大将軍就任と義視の准后宣下、通玄寺での死去迄の約52年間を一本の時系列に貫き、一元化した一冊である。

西暦1,439年3月3日、足利義教と側室小宰相局の間に拾男として足利義視が生誕した。同年4月5日、義視は正親町三条実雅の養君となった。1,443年、義視は出家した。1,464年12月23日、実子の居ない足利義政に請われて還俗し、義政の後継者となる事が決定され、同月30日、義視は還俗して正親町三条実雅の今出川の屋敷に移住した。1,465年4月10日、義視は日野重子の旧邸である高倉殿を「今出川殿」と改め移住し、同年8月17日、足利義政と日野富子の勧めにより日野良子を正室に迎えた。同年12月11日、足利義政と日野富子の間に足利義尚が生誕した。義政は、義視を無理矢理還俗させて自身の猶子とし次期征夷大将軍として据えて細川勝元を執事として政務から離れる積もりであったが、義尚の誕生により義尚を征夷大将軍にさせようとする富子と対立した。富子は自身の兄日野勝光と結託し幕政へ関与し始めた。

西暦1,466年10月15日、第8代室町幕府征夷大将軍足利義政の独裁を支えていた幕府政所執事伊勢貞親が、義視を処刑すべきだと義政に進言した。此れは諸大名の猛反発を招き、伊勢は京を追われ近江国、次いで伊勢国へ逃れた。対する義視は山名持豊の屋敷に逃れ細川勝元に無実を訴えた。1,467年2月22日早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃した。朝倉孝景・山名宗全・山名政豊も加勢し、細川勝元は静観、政長は拝殿に放火して細川の屋敷に退却した。義視は義就を支援し、細川は面目を失った。同年6月、細川勝元が諸大名に上洛を要請し、東軍と西軍の構図が確立した。義視は東軍に属した。同年7月、伊勢貞親が足利義政に呼び戻され伊勢国から上洛した事で義視は孤立したが、同月義視は牙旗を下され東軍の主将となり、東軍から山名家の縁者を追放し東軍と通じた奉行衆を殺害した。同月12日には飯尾為数が西軍に通じたとして義視に暗殺され、同日両軍の戦闘で上京の多くが焼失した。

西暦1,467年9月8日夜、足利義視が出発した。足利義政が伊勢貞親を呼び戻した事が切っ掛けであり、此の行動に失望した義政は後継者を足利義尚とする事を検討し始めた。同月21日、義視は伊勢国国司木造教親の陣所の中山殿に入った。木造は「北畠教具を頼りなさい」と助言し、軍事力・経済力を保持しながら幕政には不干渉で中立の立場を取り和歌等の貴族的文化を持っていた北畠に惹かれた義視は伊勢国への逃亡を決意した。其の後義視は、木造の警護を受け武者小路通から蛸薬師通を経由して一条通へ向かい、東軍富樫政親の兵が守る釘貫門を、木造が「三条公敦殿は病気で東山に居り、足利殿が見舞いに参るのである」と偽って予てから準備していた合伴で開門させた。義視は近江国坂本の石川次郎の館にて、お忍びで来ていた日野富子と暇乞いをし、北条早雲を伴って伊賀国を経由し伊勢国に入った。同年10月4日、北畠教具が義視保護の為長谷寺を出発し、義視と北条早雲を迎え、伊勢国丹生に屋敷を造り逗留させた。此の際武田信賢は足利義稙を守り西軍に送り届けた。

西暦1,468年4月、初代古河公方足利成氏と西軍諸将の間で攻守同盟が締結され、足利義視が此れを承認した。同年10月8日、義視は足利義政の説得により帰洛したが、北条早雲は其の儘伊勢国に留まり其の後妹北川殿の夫今川義忠の下へ行った。義視は義政に日野勝光の排斥を訴えたが義政は聞き入れず、細川勝元も義視の訴えに懸念を示した。同年11月、義政が伊勢貞親を幕政に復帰させ、義政と義視は対立した。同年12月23日、義視に仕えていた有馬元家が義政の命を受けた赤松政則によって殺害され、同月26日、身の危険を感じた義視は延暦寺へ向けて逃走した。1,469年1月、後花園上皇が義視征伐の為東軍に治罰の院宣を発給し、義政は自軍に義視征伐を命じた。同月5日、西軍が比叡山に使いを出して義視を迎え入れ、同月7日、延暦寺に立ち寄っていた義視が山名宗全の屋敷に入り西軍に寝返った。勢い付いた西軍は義視を将軍とする「西幕府」を形成した。同月27日、足利成氏が足利義政の代官長尾景人の守備する下野国足利荘への攻撃を開始した。同年5月、大内政弘の要請により義視の内書が鎮西・四国の諸大名に多数送付された。

西暦1,470年7月23日、畠山義就が足利義視を始めとする西軍諸将の説得により西陣南帝の天皇擁立を了承した。1,472年、西陣南帝の天皇擁立に賛成していた義視が反対に回った。義視は、朝倉孝景の寝返りによって東軍が勢いを取り戻しつつあった事から態度を変えた。1,473年1月1日、小早川煕平が死去し、義視は煕平の所領を小早川弘景に与える御内書を発した。同年5月19日、義視は一条兼良に進退を相談する書簡を送った。1,474年2月12日、義視は小早川弘景に煕平の遺産を委ね、同年4月18日には備後国・安芸国の国人に高山城攻めの合力を命じた。同年6月21日、義視は一色氏の知行していた領国を其々の忠誠に応じて三河国を讃州細川家、伊勢国・丹後国を一色義春、若狭国を武田国信に分配する決定を下した。此れにより一色は第22代室町幕府丹後国守護に就任した。又同年足利義政は第26代室町幕府伊勢国守護北畠政郷に伊勢国半国を一色に返付する様命じたが北畠は拒否した。同年8月8日、山名政豊を始めとする西軍諸将が足利義尚に出仕し謁見し、西軍は義視の征夷大将軍擁立の姿勢を一変させ方針転換を対外的に示した。此の姿勢に畠山義就・土岐成頼・大内政弘が反発した。1,476年10月1日、足利義政が大内政弘に和睦を求める書簡を送り、大内は日野富子の仲介の下義視と共に東軍との和睦交渉に当たった。大内の手元に留め置かれていた室町幕府の遣明船の唐荷引き渡しが大内赦免の条件であった。

西暦1,477年1月5日、義視は義政に他意の無い事を伝える書簡を送り恭順を誓った。義政は義視の罪を不問に付すと返答し、日野富子の仲介によって両軍は和睦した。同年6月13日、義視は大内政弘経由で日野富子へ和睦の仲介料を支払い、同年8月には自身の娘を日野富子の下に送り猶子にして貰った。同年12月、義視・足利義稙は土岐成頼・斎藤妙椿の庇護の下川手城へ下向し、同月16日西軍諸将が一斉に下国、義視も嫡男義稙を伴い美濃国の土岐成頼の下に亡命し承隆寺に滞在した。1,478年8月8日、義政は義視を赦免したが義視は美濃国に留まり続けた。1,489年4月26日10時、足利義尚が近江国鈎の陣中にて死去した。水と酒しか受け付けない状態であり、臨終に際し義政に辞世の句三首を詠んだ。遺体は細川政元と日野富子に譲られ凱旋将軍の様な隊列で京都に帰還した。其の後日野は、義視が出家する事を条件に義稙を次期征夷大将軍に決定した。同年5月13日、義視・義稙・土岐成頼・斎藤妙純が上洛し、元々義尚葬儀参列予定であったが細川政元の反対により葬儀後の上洛となり、義視の娘の居る通玄寺に入った。同月19日義視は日野富子の住む小川殿に移り、同月27日通玄寺にて出家、同年11月14日には義稙と共に義政と対面した。1,490年1月27日、義政が病死し、義視は法事の席で兄弟の仲が元々良かった事、人の言動で疎遠になった事、美濃国で或る僧の出世を要望した際義政が周囲の反対を押し切って「義視の言う事だから」と容れた事を述懐した。義政の遺言により遺骨は西指庵に納められた。同年6月6日、義視は小川殿を日野富子の居室を除き全て破却し、日野の所領も奪った。同年7月22日、足利義稙が第10代室町幕府征夷大将軍に就任し、義視は准后宣下を受け政務を担った。其の後義稙は六角氏が押領していた寺社本所領の返還を条件として六角高頼を赦免し第27代室町幕府近江国守護として復職させた。同年12月、義視は腫物を患った。1,491年2月15日、足利義視が通玄寺にて死去、本書の終結点。此れにより義稙は後ろ盾を失い、以降足利政知・細川政元は足利義澄を征夷大将軍に擁立すべく動き始めた。


登場人物

  • 足利義視 足利義教の拾男、母は側室小宰相局。西暦1,439年3月3日に生誕、同年4月5日に正親町三条実雅の養君となり、1,443年に出家、1,464年12月23日に実子の居ない足利義政に請われて還俗し後継者となった。1,465年8月17日に日野良子を正室に迎え、同年12月11日の足利義尚誕生により日野富子と対立が始まった。1,466年10月15日の伊勢貞親処刑進言事件を経て、1,467年の応仁の乱開戦時に東軍主将となったが、同年9月8日夜に出奔し伊勢国北畠教具の保護を受けた。1,468年10月8日帰洛するも1,469年1月7日に西軍へ寝返り「西幕府」を形成、1,477年12月に美濃国土岐成頼の下へ亡命、1,489年5月13日上洛し同月27日に出家、1,490年7月22日の義稙将軍就任により准后宣下を受け政務を担った。1,491年2月15日、通玄寺にて死去、本書の主人公。
  • 足利義教 室町幕府第6代征夷大将軍。西暦1,439年3月3日、側室小宰相局との間に拾男として義視を儲けた、本書の発端の父。
  • 小宰相局 足利義教の側室。西暦1,439年3月3日、義視を出産した、本書の生母。
  • 正親町三条実雅 西暦1,439年4月5日、義視の養君となった公家。1,464年12月30日、還俗した義視が移住した今出川の屋敷の主、本書の義視養育の公家。
  • 足利義政 室町幕府第8代征夷大将軍、義視の兄。西暦1,464年12月23日、実子が居ない為義視を還俗させ後継者と決定、1,465年8月17日には日野富子と共に義視に日野良子との婚姻を勧めた。同年12月11日の義尚誕生後も当初は義視を将軍に据える積もりであったが、1,467年9月8日の義視出奔に失望して後継者を義尚に検討変更、1,468年11月には伊勢貞親を幕政に復帰させ義視と対立した。1,469年1月には自軍に義視征伐を命じ、1,477年1月5日の義視の恭順を受け罪を不問に付した。1,478年8月8日に義視を赦免、1,490年1月27日に病死した、本書の義視の運命を繰り返し左右した兄。
  • 日野富子 足利義政の正室。西暦1,465年8月17日に義政と共に義視の日野良子との婚姻を勧めた。同年12月11日に義尚を出産すると義尚将軍擁立を図り兄日野勝光と結託し幕政に関与、義視との対立が始まった。1,467年9月、近江国坂本の石川次郎の館に忍びで赴き義視と暇乞いをした。1,477年の和睦では仲介役を務め、同年6月13日に義視から仲介料を受取り、同年8月には義視の娘を猶子とした。1,489年、足利義尚死去後は義視の出家を条件に義稙を次期将軍に決定した、本書の義視の生涯に亙る最大の政治的敵対者であり最終的な仲介者。
  • 日野良子 西暦1,465年8月17日、足利義政と日野富子の勧めにより義視の正室に迎えられた人物、本書の義視正室。
  • 日野勝光 日野富子の兄。西暦1,465年12月11日の義尚誕生後、富子と結託し幕政へ関与し始めた。1,468年10月8日、帰洛した義視から義政に対する排斥を訴えられた人物、本書の富子派幕政の中枢。
  • 足利義尚 足利義政と日野富子の間に生まれた第9代室町幕府征夷大将軍。西暦1,465年12月11日に生誕、其の誕生が義視と富子の対立の発端となった。1,474年8月8日には山名政豊を始めとする西軍諸将が出仕し、西軍の義視将軍擁立方針転換を象徴する存在となった。1,489年4月26日10時、近江国鈎の陣中にて水と酒しか受け付けない状態で死去、辞世の句三首を義政に詠んだ、本書の義視将軍擁立の対抗軸。
  • 足利義稙 義視の嫡男、第10代室町幕府征夷大将軍。西暦1,467年10月4日、武田信賢により守られ西軍に送り届けられた。1,477年12月、父と共に土岐成頼・斎藤妙椿の庇護の下川手城へ下向、美濃国承隆寺に滞在した。1,489年4月26日の義尚死去後、義視の出家を条件に日野富子に次期将軍に決定され、同年5月13日上洛、1,490年7月22日第10代室町幕府征夷大将軍に就任し、六角高頼を赦免して第27代室町幕府近江国守護に復職させた。1,491年2月15日の義視死去により後ろ盾を失った、本書の義視の嫡男。
  • 伊勢貞親 幕府政所執事。西暦1,466年10月15日、足利義政の独裁を支えていた立場から義視の処刑を義政に進言したが諸大名の猛反発を招き京を追われ近江国・伊勢国へ逃れた。1,467年7月に義政に呼び戻され伊勢国から上洛、義視を孤立させた。1,468年11月に幕政へ復帰し再び義視との対立の火種となった、本書の義視処刑進言事件の首謀者。
  • 細川勝元 応仁の乱東軍総帥。西暦1,466年10月15日の伊勢貞親処刑進言事件では義視から無実を訴えられた。1,467年2月22日の御霊合戦では静観、同年6月に諸大名に上洛を要請し東軍の構図を確立した。1,468年10月8日、義視の日野勝光排斥訴えに懸念を示した、本書の東軍形成の中核。
  • 山名宗全(山名持豊) 応仁の乱西軍総帥。西暦1,466年10月15日、伊勢貞親処刑進言事件の際義視が其の屋敷に逃れた。1,467年2月22日の御霊合戦では畠山義就に加勢、同年6月には堀川西岸に屋敷を構え西軍の中核となった。1,469年1月7日、其の屋敷に義視が入り西軍に寝返った、本書の義視西軍寝返りの受け入れ先。
  • 畠山政長 西暦1,467年2月22日早朝、上御霊神社に布陣していたが畠山義就の襲撃を受け、丸一日の合戦の末拝殿に放火し細川勝元の屋敷に退却した東軍の大名、本書の御霊合戦の被襲撃者。
  • 畠山義就 西暦1,467年2月22日早朝、兵3,000名余を率い上御霊神社の畠山政長を襲撃した西軍の大名。義視は義就を支援した。1,470年7月23日、義視等西軍諸将の説得により西陣南帝の天皇擁立を了承、1,474年8月8日の西軍諸将義尚出仕に反発した、本書の御霊合戦の襲撃者。
  • 朝倉孝景 西暦1,467年2月22日の御霊合戦で畠山義就に加勢、応仁の乱初期は西軍に属した。1,472年には東軍へ寝返り、此れが義視の西陣南帝擁立反対転換の契機となった、本書の勢力転換の鍵人物。
  • 山名政豊 西暦1,467年2月22日、山名宗全の命により畠山義就に加勢した人物。1,474年8月8日には西軍諸将を率いて足利義尚に出仕し、西軍の義視将軍擁立方針転換を公然化した、本書の西軍方針転換を主導した大名。
  • 飯尾為数 西暦1,467年7月12日、西軍に通じたとして足利義視に暗殺された奉行衆の一人、本書の義視による東軍粛清の犠牲者。
  • 有馬元家 西暦1,468年12月23日、義視に仕えていた所を足利義政の命を受けた赤松政則によって殺害された人物。此の事件が同月26日の義視の延暦寺逃走の直接の契機となった、本書の義視延暦寺逃走の引き金となった家人。
  • 赤松政則 西暦1,468年12月23日、足利義政の命を受け有馬元家を殺害した東軍の大名、本書の義視家人殺害の実行者。
  • 木造教親 伊勢国国司。西暦1,467年9月21日、中山殿の陣所に入った義視に「北畠教具を頼りなさい」と助言し、其の後義視を警護して武者小路通・蛸薬師通・一条通を経由させ、釘貫門を合伴で開門させた、本書の義視伊勢国逃亡の実務指揮者。
  • 北畠教具 軍事力・経済力を保持しながら幕政に不干渉で中立の立場を取り、和歌等の貴族的文化を持っていた伊勢国の人物。西暦1,467年10月4日、義視保護の為長谷寺を出発し、義視と北条早雲を迎え伊勢国丹生に屋敷を造り逗留させた、本書の義視伊勢国亡命の庇護者。
  • 北条早雲 西暦1,467年9月21日、近江国坂本から義視に伴われ伊賀国経由で伊勢国に入った人物。1,468年10月8日の義視帰洛時も伊勢国に留まり、其の後妹北川殿の夫今川義忠の下へ行った、本書の義視伊勢国亡命の同行者。
  • 三条公敦 西暦1,467年9月21日、義視の伊勢国逃亡時、木造教親が釘貫門を守る富樫政親に対し「病気で東山に居り、足利殿が見舞いに参るのである」と口実に使った公家、本書の逃亡工作の方便として名が使われた人物。
  • 足利成氏 初代古河公方。西暦1,468年4月、西軍諸将との間で攻守同盟を締結し義視が承認した。1,469年1月27日、義視が西軍に参加するのを待ち、足利義政の代官長尾景人の守備する下野国足利荘への攻撃を開始した、本書の関東方面の西軍呼応勢力。
  • 後花園上皇 西暦1,469年1月、足利義視征伐の為東軍に治罰の院宣を発給した上皇、本書の義視朝敵化の象徴。
  • 大内政弘 西暦1,469年5月、西軍の有力大名として義視の内書を鎮西・四国の諸大名に送付させる要請をした人物。1,474年8月8日の西軍諸将義尚出仕に反発、1,476年10月1日以降は足利義政からの和睦の書簡を受け日野富子の仲介の下義視と共に東軍との和睦交渉に当たった。大内手元の遣明船唐荷引き渡しが赦免の条件であった、本書の義視晩年の政治的伴走者。
  • 土岐成頼 美濃国の大名。西暦1,474年8月8日の西軍諸将義尚出仕に反発、1,477年12月に義視・義稙を川手城に迎え、同月16日には美濃国承隆寺に滞在させた。1,489年5月13日には義視・義稙と共に上洛した、本書の義視美濃国亡命の庇護者。
  • 斎藤妙椿・斎藤妙純 美濃国の人物。妙椿は西暦1,477年12月、土岐成頼と共に義視・義稙を川手城に迎えた。妙純は1,489年5月13日、義視・義稙・土岐成頼と共に上洛した、本書の美濃国勢力による義視庇護の担い手。
  • 武田信賢 武田信繁の弐男。応仁の乱では東軍に属し、西暦1,467年10月4日、足利義稙を守り西軍に送り届けた、本書の応仁期東軍の一員。
  • 富樫政親 西暦1,467年9月21日、義視伊勢国逃亡時、釘貫門を守っていたが、木造教親の「三条公敦殿見舞い」の口実に不審を抱き「伴が無い」と答えた東軍の人物。しかし木造が予てから準備していた合伴により開門した、本書の義視逃亡を阻止し切れなかった東軍の関門守備者。
  • 今川義忠 北条早雲の妹北川殿の夫。西暦1,468年10月8日以降、伊勢国に留まっていた北条早雲が招聘を受けて下向した先の人物、本書の北条早雲の次なる庇護者。
  • 小早川煕平・小早川弘景 西暦1,473年1月1日、煕平が死去し、義視は煕平の所領を弘景に与える御内書を発した。1,474年2月12日、義視は弘景に煕平の遺産を委ねた、本書の義視による所領安堵の事例。
  • 一条兼良 西暦1,473年5月19日、足利義視が進退を相談する書簡を送った公家、本書の義視の相談相手。
  • 一色義春・讃州細川家・武田国信 西暦1,474年6月21日、義視による一色氏知行領国分配の受領者。三河国は讃州細川家、伊勢国・丹後国は一色義春、若狭国は武田国信に与えられ、一色は第22代室町幕府丹後国守護に就任した、本書の一色氏領国再編の受益者。
  • 北畠政郷 第26代室町幕府伊勢国守護。西暦1,474年、足利義政から伊勢国半国を一色に返付する様命じられたが拒否した、本書の一色氏領国分配への抵抗者。
  • 細川政元 西暦1,489年4月26日の足利義尚死去時、遺体を日野富子と共に譲られ凱旋将軍の様な隊列で京都に帰還した人物。同年5月13日の義視・義稙上洛では葬儀参列予定に反対し葬儀後の上洛とさせた。1,491年2月15日の義視死去以降、足利政知と共に足利義澄を征夷大将軍に擁立すべく動き始めた、本書の義視死後の新たな政局の主導者。
  • 六角高頼 西暦1,490年7月22日、足利義稙の将軍就任後、寺社本所領の返還を条件に赦免され第27代室町幕府近江国守護として復職した人物、本書の義稙政権による赦免対象。
  • 足利政知・足利義澄 政知は足利義教の四男。西暦1,491年2月15日の義視死去以降、細川政元と共に甥の義澄を征夷大将軍に擁立すべく動き始めた、本書の終幕後に浮上した次代将軍候補とその擁立者。

主要な地名・拠点

  • 今出川殿 西暦1,464年12月30日、還俗した足利義視が移住した正親町三条実雅の今出川の屋敷。1,465年4月10日には日野重子の旧邸である高倉殿が「今出川殿」と改められ義視が移住した、本書の還俗後の義視の居所。
  • 上御霊神社 西暦1,467年2月22日早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い畠山政長の布陣する此の神社を襲撃した。丸一日の合戦の末、政長は拝殿に放火し退却した、本書の御霊合戦の舞台。
  • 花の御所 西暦1,467年6月、細川勝元の屋敷と併せて京都北部から東に布陣した東軍の拠点の一つ、本書の東軍の中枢。
  • 山名宗全の屋敷・斯波義廉の屋敷 西暦1,467年6月、堀川西岸に建てられた山名宗全の屋敷と京都中央に位置する斯波義廉の屋敷が西軍の拠点となった。1,469年1月7日、義視が山名宗全の屋敷に入り西軍に寝返った、本書の西軍の中枢。
  • 中山殿 西暦1,467年9月21日、足利義視が伊勢国国司木造教親の陣所として入った屋敷、本書の義視伊勢国逃亡の第一拠点。
  • 近江国坂本 現在の滋賀県大津市坂本・坂本本町・下阪本。西暦1,467年9月21日、足利義視が伊勢国逃亡の途上で入った地。石川次郎の館にて、お忍びで来ていた日野富子と暇乞いをした、本書の義視亡命途上の要衝。
  • 伊勢国丹生 現在の三重県多気郡多気町。西暦1,467年10月4日、北畠教具が足利義視と北条早雲の為に屋敷を造り逗留させた地、本書の義視伊勢国亡命の終着点。
  • 延暦寺・比叡山 西暦1,468年12月26日、有馬元家殺害で身の危険を感じた義視が逃走した先。1,469年1月5日には西軍が比叡山に使いを出して義視を迎え入れ、同月7日に義視は延暦寺から山名宗全の屋敷に入り西軍に寝返った、本書の義視西軍寝返り前の中継地。
  • 下野国足利荘 現在の栃木県足利市。西暦1,469年1月27日、足利成氏が足利義政の代官長尾景人の守備する此の荘園への攻撃を開始した、本書の関東方面の義視呼応戦線。
  • 高山城 西暦1,474年4月18日、足利義視が備後国・安芸国の国人に攻略の合力を命じた城、本書の義視による直接的軍事指揮の事例。
  • 川手城・承隆寺 現在の岐阜県岐阜市正法寺町・茜部寺屋敷。西暦1,477年12月、足利義視・足利義稙が土岐成頼・斎藤妙椿の庇護の下下向した川手城と、同月16日の西軍諸将一斉下国時に義視・義稙が滞在した承隆寺、本書の義視美濃国亡命の居所。
  • 近江国鈎 西暦1,489年4月26日10時、足利義尚が水と酒しか受け付けない状態で死去した陣中、本書の義尚死去と義視帰京の契機となった地。
  • 通玄寺 現在の京都府京都市中京区曇華院前町。西暦1,489年5月13日、義視の娘の居る此の寺に義視・義稙等が入った。同月27日に義視が出家、1,491年2月15日には義視が死去した、本書の義視晩年の居所にして終焉の地。
  • 小川殿 日野富子の住居。西暦1,489年5月19日、足利義視が通玄寺から此処へ移った。1,490年6月6日、義視は日野富子の居室を除き全て破却し日野の所領も奪った、本書の義視と富子の最終対立の場。
  • 西指庵・東山殿 西暦1,490年1月27日、足利義政の遺言により遺骨が納められた西指庵。此の時点で義政が造営中の東山殿は内外を黒漆で塗り終えた状態であった、本書の義政終焉周辺の二拠点。
  • 美濃国・伊勢国 美濃国は西暦1,477年12月〜1,489年5月13日に義視が土岐成頼の下で亡命生活を送った地。伊勢国は1,467年〜1,468年に北畠教具の保護を受けて亡命した地、本書の義視の二度の亡命地。

主要な事件・出来事

  • 足利義視の生誕と養君・出家 西暦1,439年3月3日、足利義教と側室小宰相局の間に拾男として義視が生誕、同年4月5日に正親町三条実雅の養君となり、1,443年に出家した、本書の発端。
  • 義視の還俗と足利義政後継者決定 西暦1,464年12月23日、実子の居ない足利義政に請われて義視が還俗し義政の後継者となる事が決定され、同月30日に義視は還俗し正親町三条実雅の今出川の屋敷に移住した、本書の義視の政治舞台への登場。
  • 足利義尚の誕生と日野富子との対立勃発 西暦1,465年12月11日、足利義政と日野富子の間に義尚が生誕した。義政は義視を次期征夷大将軍に据え細川勝元を執事として政務から離れる積もりであったが、義尚誕生により富子との対立が始まり、富子は兄日野勝光と結託し幕政に関与し始めた、本書の対立構造の原点。
  • 伊勢貞親による義視処刑進言事件(文正の政変) 西暦1,466年10月15日、第8代室町幕府征夷大将軍足利義政の独裁を支えていた幕府政所執事伊勢貞親が、義視を処刑すべきだと義政に進言した。諸大名の猛反発を招き伊勢は京を追われ近江国・伊勢国へ逃れ、義視は山名持豊の屋敷に逃れ細川勝元に無実を訴えた、本書の文正の政変。
  • 御霊合戦 西暦1,467年2月22日早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃した。朝倉孝景・山名宗全・山名政豊が加勢し、細川勝元は静観、政長は拝殿に放火して細川の屋敷に退却した。義視は義就を支援し細川は面目を失った、本書の応仁の乱の事実上の開幕戦。
  • 応仁の乱開戦と東軍西軍構図の確立 西暦1,467年6月、細川勝元が諸大名に上洛を要請し、畠山政長等が参集した。細川の屋敷と花の御所を中心とした京都北部から東に布陣した細川方(東軍)と、堀川西岸の山名宗全の屋敷・京都中央の斯波義廉の屋敷を拠点とする山名方(西軍)の構図がはっきりした。義視は東軍に属した、本書の応仁の乱構図の確定。
  • 義視の東軍主将就任と飯尾為数暗殺 西暦1,467年7月、伊勢貞親の上洛により孤立した義視は牙旗を下され東軍の主将となり、東軍から山名家の縁者を追放し東軍と通じた奉行衆を殺害した。同月12日、飯尾為数が西軍に通じたとして義視に暗殺され、同日両軍の戦闘で上京の多くが焼失した、本書の義視東軍時代の頂点。
  • 義視の伊勢国出奔と北畠教具による保護 西暦1,467年9月8日夜、義視が出発した。伊勢貞親呼び戻しが切っ掛けで、此の行動に失望した義政は後継者を義尚とする事を検討し始めた。同月21日、義視は伊勢国国司木造教親の陣所中山殿に入り、木造の警護と合伴による釘貫門突破を経て、近江国坂本の石川次郎の館で日野富子と暇乞いをし、北条早雲を伴って伊賀国経由で伊勢国に入った。同年10月4日、北畠教具が義視保護の為長谷寺を出発し、伊勢国丹生に屋敷を造り逗留させた、本書の義視最初の亡命。
  • 義視の帰洛と日野勝光排斥訴え・有馬元家殺害 西暦1,468年10月8日、義視は足利義政の説得により帰洛したが、北条早雲は伊勢国に留まり其の後今川義忠の下へ行った。義視は義政に日野勝光排斥を訴えたが聞き入れられず、細川勝元も懸念を示した。同年11月、義政が伊勢貞親を幕政復帰させ義政と義視は対立、同年12月23日には有馬元家が義政の命を受けた赤松政則によって殺害された、本書の義視帰洛後の再対立。
  • 治罰の院宣と義視の西軍寝返り・西幕府形成 西暦1,468年12月26日、身の危険を感じた義視が延暦寺へ逃走した。1,469年1月、後花園上皇が義視征伐の為東軍に治罰の院宣を発給し義政も征伐を命じた。同月5日西軍が比叡山に使いを出し、同月7日義視は延暦寺から山名宗全の屋敷に入り西軍に寝返った。勢い付いた西軍は義視を将軍とする「西幕府」を形成した、本書の義視の完全な西軍帰属。
  • 古河公方足利成氏との攻守同盟 西暦1,468年4月、初代古河公方足利成氏と西軍諸将の間で攻守同盟が締結され義視が承認した。1,469年1月27日、足利成氏は義視の西軍参加を待って足利義政の代官長尾景人の守備する下野国足利荘への攻撃を開始した、本書の関東方面の西軍呼応戦線。
  • 西陣南帝擁立の賛否転換 西暦1,470年7月23日、畠山義就が義視を始めとする西軍諸将の説得により西陣南帝の天皇擁立を了承した。しかし1,472年、朝倉孝景の寝返りによって東軍が勢いを取り戻しつつあった事から義視は擁立反対に回った、本書の義視の西陣南帝政策の転換。
  • 一色氏領国分配 西暦1,474年6月21日、義視が一色氏の知行していた領国を其々の忠誠に応じて三河国を讃州細川家、伊勢国・丹後国を一色義春、若狭国を武田国信に分配する決定を下した。此れにより一色は第22代室町幕府丹後国守護に就任した。義政は第26代室町幕府伊勢国守護北畠政郷に伊勢国半国を一色に返付する様命じたが北畠は拒否した、本書の義視による西幕府知行分配。
  • 西軍諸将の足利義尚出仕と方針転換 西暦1,474年8月8日、山名政豊を始めとする西軍諸将が足利義尚に出仕し謁見した。西軍は義視の征夷大将軍擁立の姿勢を一変させ、方針転換を名実共に対外的に示した。此の姿勢に畠山義就・土岐成頼・大内政弘が反発した、本書の西幕府内部の分裂。
  • 日野富子仲介による東西軍和睦 西暦1,476年10月1日、足利義政が大内政弘に和睦を求める書簡を送り、大内は日野富子の仲介の下義視と共に和睦交渉に当たった。1,477年1月5日、義視は義政に他意の無い事を伝える書簡を送り恭順、義政は罪を不問に付し両軍は和睦した。同年6月13日、義視は大内政弘経由で日野富子へ仲介料を支払い、同年8月には娘を富子の猶子に送った、本書の応仁の乱終結の政治的落着。
  • 義視・義稙の美濃国亡命 西暦1,477年12月、足利義視・足利義稙が土岐成頼・斎藤妙椿の庇護の下川手城へ下向した。同月16日、西軍諸将が一斉に下国し、義視も嫡男義稙を伴い美濃国の土岐成頼の下に亡命し承隆寺に滞在した。1,478年8月8日に義政が義視を赦免したが、義視は美濃国に留まり続けた、本書の第二の亡命生活。
  • 足利義尚死去と義稙の次期将軍決定 西暦1,489年4月26日10時、足利義尚が近江国鈎の陣中にて死去した。水と酒しか受け付けない状態で、臨終に際し義政に辞世の句三首を詠んだ。遺体は細川政元と日野富子に譲られ凱旋将軍の様な隊列で京都に帰還した。其の後日野は、義視が出家する事を条件に義稙を次期征夷大将軍に決定した、本書の政局の大転換。
  • 義視の上洛・出家・義政との対面 西暦1,489年5月13日、義視・義稙・土岐成頼・斎藤妙純が上洛し、元々義尚葬儀参列予定であったが細川政元の反対により葬儀後の上洛となり、義視の娘の居る通玄寺に入った。同月19日、義視は小川殿に移り、同月27日通玄寺にて出家、同年11月14日には義稙と共に義政と対面した、本書の義視の京都復帰。
  • 足利義政の死去と義視の小川殿破却 西暦1,490年1月27日、足利義政が病死した。義視は法事の席で兄弟仲の回顧と義政への美濃国での僧出世要望の義政対応を述懐し、一笑した。義政の遺言により遺骨は西指庵に納められた。同年6月6日、義視は小川殿を日野富子の居室を除き全て破却し、日野の所領も奪った、本書の義政死後の富子に対する義視の最終的な報復。
  • 足利義稙の第10代将軍就任と義視の准后宣下 西暦1,490年7月22日、足利義稙が第10代室町幕府征夷大将軍に就任し、義視は准后宣下を受け政務を担った。其の後義稙は六角氏が押領していた寺社本所領の返還を条件として六角高頼を赦免し第27代室町幕府近江国守護として復職させた、本書の義視の最終的な権勢到達点。
  • 足利義視の死去 西暦1,490年12月に腫物を患った義視が、1,491年2月15日通玄寺にて死去した。此れにより足利義稙は後ろ盾を失い、以降足利政知と細川政元は足利義澄を征夷大将軍に擁立すべく動き始めた、本書の終結点。

足利義教拾男義視の生誕・正親町三条実雅の養君・出家と還俗・日野富子との対立・伊勢貞親の処刑進言・御霊合戦と応仁の乱開戦・東軍主将就任と飯尾為数暗殺・伊勢国出奔と北畠教具保護・有馬元家殺害と延暦寺逃走・後花園上皇治罰院宣・西軍寝返りと西幕府形成・古河公方との攻守同盟・西陣南帝擁立の賛否転換・一色氏領国分配・日野富子仲介の和睦・美濃国土岐成頼下への亡命・義稙将軍就任と准后宣下・通玄寺死去──
応仁の乱の中心人物の52年を一冊に。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「一元化」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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