足利義尚一元化
生誕から、鈎の陣中の死去へ──
足利義尚の生涯を一元化。
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本書について
西暦1,465年12月11日、足利義政・日野富子の2名の間に足利義尚が生誕する。義政は、足利義視を無理矢理還俗させて自身の猶子とし、次期征夷大将軍として据えて、細川勝元を執事として政務から離れる積もりであったが、義尚の誕生により、義尚を征夷大将軍にさせようとする富子と対立した。富子は、自身の兄日野勝光と結託し、幕政へ関与し始めた。本書は、此の足利義尚の生誕から、細川勝元による諸大名への上洛の要請、足利義尚の第9代室町幕府征夷大将軍への補任、足利義政による花の御所の足利義尚への譲渡、足利義尚による御判始・評定始・御前沙汰始、足利義尚主催の歌合の数々、足利義尚による六角高頼征伐の決定と坂本への出陣、望月出雲守と甲賀二十一家による足利義尚の陣所への夜襲、富樫政親の自害、足利義尚の近江国鈎の陣中での死去を経て、西暦1,489年5月10日に足利義尚の葬儀が執り行われる迄を一元化した記録である。
西暦1,467年6月頃、細川勝元が、諸大名に上洛を要請する。畠山政長等が参集した。斯うして、細川勝元の屋敷と花の御所を中心とした京都北部から東に布陣した細川方と、堀川西岸に建てられた山名宗全の屋敷と京都中央に位置する斯波義廉の屋敷を拠点とする山名方の構図がはっきりし、前者が東軍、後者が西軍と呼称された。其々の陣容は、東軍が細川勝元・足利義視・政長・斯波義敏と、武田信繁の弐男武田信賢と、成身院光宣・細川勝久・京極持清・赤松政則であり、西軍が山名宗全・足利義尚・畠山義就・斯波義廉・一色義直・朝倉孝景・甲斐敏光・六角高頼・土岐成頼であった。9月8日夜、足利義視が出発する。足利義政が伊勢貞親を呼び戻した事が切っ掛けであった。此の行動に失望した義政は、後継者を足利義尚とする事を検討し始めた。
西暦1,474年1月7日、足利義政が征夷大将軍職を足利義尚に譲り、義尚が第9代室町幕府征夷大将軍に補任される。3月20日、足利義政が、花の御所を足利義尚に譲り、小川殿(現在の京都府京都市上京区寺之内通堀川東入ル百々町)に移る。日野富子・足利義尚の2名は花の御所に残った。第180世興福寺別当尋尊は「政務は日野殿が取り仕切り、足利殿は酒に溺れ、諸大名は犬笠懸に興じ、まるで天下泰平の世の様だ」と評した。3月28日、足利義尚が内裏に参内する。3月29日、足利義尚が内裏に参内する。5月1日、山名政豊が、自身の長男の山名常豊を連れて、足利義尚に謁見する。政豊の東幕府への帰参が認められた。8月8日、山名政豊を始めとする西軍諸将が、足利義尚に出仕し謁見する。西軍は、足利義視の征夷大将軍擁立の姿勢を一変させ、其の方針転換を名実共に対外的に示した。此の姿勢に畠山義就・土岐成頼・大内政弘が反発した。
西暦1,477年5月31日、河野通春が、東軍に内通していた大内政弘の仲介によって東軍に下り、足利義尚の安堵を取り付ける。西暦1,478年1月頃、一条兼良が京都に戻る。其の後一条兼良は、足利義尚に政道や和歌等を教えた。足利義尚は、翌年頃から盛んに歌会を主催した。西暦1,479年12月頃、足利義尚が、御判始・評定始・御前沙汰始を行い、政務を執り始める。然し、依然として足利義政が実権を握っており、父子間に確執が生じた。西暦1,480年5月8日、足利義尚が、権大納言に任ぜられる。
西暦1,481年9月24日、足利義尚主催の「着到千首和歌」が、禁裏にて開催される。後土御門天皇等が詠人として参加し、飛鳥井雅親が点者を務めた。12月11日、足利義尚主催の「将軍家三十番歌合」が開催される。足利義尚も詠人として参加し、飛鳥井雅親が判者を務めた。西暦1,482年6月25日、足利義尚主催の「将軍家百番歌合」が開催される。足利義尚・二条持通・近衛政家等が詠人として参加し、飛鳥井雅親が判者を務めた。7月28日、足利義政が、足利義尚に政務を譲る意思を表明する。8月頃、足利義尚主催の「十五番歌合」が開催される。足利義尚・二条持通・近衛政家等が詠人として参加し、飛鳥井雅親が判者を務めた。9月23日、足利義尚主催の「将軍家千首歌合」が開催される。
西暦1,483年2月20日、足利義尚主催の「将軍家詩歌合」が開催される。詩は近衛政家等が詠み、歌は後土御門天皇と、後土御門天皇の第一皇子後柏原天皇と、足利義尚・二条持通・近衛政家・中院通秀等が詠人として参加した。衆議により判定を行った。5月4日、足利義尚が内裏に参内する。此の日内裏で歌会が開催され、後土御門天皇・後柏原天皇・足利義政が詠んだ歌を含む、神明に奉納する諏訪法楽30首が披露された。11月24日、三条西実隆が、足利義尚が撰定した私撰和歌集「新百人一首」を足利義尚の下で見る。新百人一首は、藤原定家が撰定した小倉百人一首から漏れた歌人の歌を各和歌集から100首撰定したものであった。更に足利義尚は此の年、姉小路基綱・三条西実隆・飛鳥井雅親・宗祇・二階堂政行と、三条西実隆の門人細見宗高の歌人を結集して和歌打聞「撰藻鈔」の編纂に乗り出した。西暦1,484年、足利義尚が、摂津国の多田院(現在の兵庫県川西市)に「多田院廟前詠五十首和歌」を奉納する。西暦1,486年、足利義尚主催の「殿中十五番歌合」が開催される。冷泉為広・三条西実隆等が詠人として参加し、飛鳥井雅親が判者を務めた。4月20日、足利義尚主催の「文明十八年殿中千五百番歌合」が開催される。
西暦1,487年8月12日、足利義尚が、六角高頼征伐を正式に決定する。在京・在国の諸将を招集した。8月16日、室町幕府奉行人諏訪貞通等が勧進して集められた歌50首が、諏訪大社上社(現在の長野県諏訪市中洲宮山)の御射山祭にて奉納される。題は、花・郭公・月・恋・山家・旅・祝を含む10題で其々5首詠まれた。詠人は足利義尚・近衛政家・日野富子・飛鳥井雅親・一条冬良・伊勢貞宗等が名を連ねた。9月頃、足利義尚に子供が居ない事を憂えた日野富子の意向により、足利義稙が従五位下・左馬頭に叙位任官される。此の頃、義稙を義尚の猶子とし、長享・延徳の乱で近江国に居た義尚を京都に戻して義稙を近江国に置くという案も有ったが、実行されなかった。9月28日、香の袷・白綾の腹巻・赤地金襴に桐唐草の模様の直垂・重藤弓・粟田口吉光の太刀を身に纏った足利義尚が、六角高頼征伐の為、坂本へ向けて出陣する。其の際、着飾った足利義尚を一目見ようと見物人が集まった。兵力は391騎・8,000名で、京極政経・京極高清・田中兵衛尉・土肥刑部少輔・大原政重・大原尚親・伊勢又六・吉田源四郎・岩室弥四郎の諸将も加わった。坂本に入ってからは、細川政元・斯波義寛・畠山政長・山名氏・一色氏・富樫政親・京極氏・武田国信等と合流した。
西暦1,487年10月6日、細川政元率いる軍が、琵琶湖を経由して山田(現在の滋賀県草津市)・志那(現在の滋賀県草津市)に到着する。其の後細川政元は、坂本から陸路で瀬田(現在の滋賀県大津市)を経由してやって来た足利義尚率いる軍と合流し、六角高頼の指示で山田方面を守備していた山中橘六率いる軍と野洲河原にて交戦した。山中橘六は敗れたものの室町幕府軍に多大な損害を与え、戦功を挙げた甲賀武士53名は、後に甲賀五十三家と呼ばれた。其の中で戦果の目覚ましい21名は、六角高頼から感状を受け、甲賀二十一家と呼ばれた。甲賀五十三家は、望月出雲守(筆頭格)と、山中十郎・伴佐京介・美濃部源吾(柏木三家、六角高頼から感状を受けた)と、黒川久内・頓宮利盛・大野宮内小輔・岩室大学介・芥川左京亮・隠岐右近太夫・佐治河内守・神保兵内・大河原源太(北山九家、六角高頼から感状を受けた)と、大原源三郎・和田伊賀守・上野主膳正・高峰蔵人・池田庄右衛門・多喜俊兼(南山六家、六角高頼から感状を受けた)と、鵜飼源八郎・内貴伊賀守・服部藤太夫(荘内三家、六角高頼から感状を受けた)と、小泉家・倉治家・夏見家・杉谷家・針家・小川家・大久保家・上田家・野田家・岩根家・新城家・荻野家・矢川家・佐々木家・藤林家・鳥居家・森家・田中家・池尻家・藤川家・山田家・中村家・藤原家・喜多家・久野家・太田家・東家・西家・岡本家・村田家・藤堂家であった。
西暦1,487年10月20日、足利義尚率いる軍が、六角高頼を追って、坂本から琵琶湖を経由して安養寺(現在の滋賀県栗東市)に布陣する。そして、六角氏の押領地を没収し、側近や寺社に還付した。諸将も分散して布陣し、義尚は、足利義政に「坂本の浜路を出て浪安く養ふ寺にありと答へよ」(坂本の浜辺の道を出て、波を安らかに養う寺に居る、と答えなさい)という歌を贈った。此れを受けて義政は、「やかてはや国収りて民安く養ふ寺を立ちぞ帰らん」(もう直ぐ国を治めて、民を安らかに養う寺から立って帰ろう)という返歌を贈った。11月12日、足利義尚が、本陣を山徒真宝坊の居館である真宝館(現在の滋賀県栗東市上鈎)に移す。
西暦1,488年1月頃、西暦1,487年9月28日の足利義尚の坂本への出陣に際し、富樫政親が兵粮米・軍費を領国である加賀国の民衆に課し、反富樫の機運が高まった事から、富樫政親は帰国し、高尾城(現在の石川県金沢市高尾町)に入る。一揆方は、富樫政親の家老山川三河守を介して和睦を伝えたが、富樫政親は受け入れなかった。富樫政親は、高尾城を修築して戦いに備えた。1月15日、六角高頼率いる軍が、甲賀郡の山中から出陣する。又、山内政綱は三上(現在の滋賀県野洲市)に布陣した。そして夜、望月出雲守と、山中十郎・伴佐京介・美濃部源吾・黒川久内・頓宮利盛・大野宮内小輔・岩室大学介・芥川左京亮・隠岐右近太夫・佐治河内守・神保兵内・大河原源太・大原源三郎・和田伊賀守・上野主膳正・高峰蔵人・池田庄右衛門・多喜俊兼・鵜飼源八郎・内貴伊賀守・服部藤太夫の甲賀二十一家が、近江国鈎(現在の滋賀県栗東市上鈎付近)の足利義尚の陣所に夜襲を仕掛けた。地元の地形を熟知していた甲賀衆は、煙幕を張ったり放火を仕掛けたりして混乱を起こし、足利義尚の本陣に迫った。敵が攻めてくると身を隠し、敵が撤退すれば後ろから攻撃を加える「亀六の法」と呼ばれる戦法によって室町幕府軍は翻弄され、最終的には大損害を被り、足利義尚も深手を負った。7月5日、足利義尚が、越前国の朝倉孝景等に富樫政親の下へ援軍を派遣する様命じる。朝倉孝景は応じ、加賀国へ援軍を派遣したが、一揆方が越前国との国境を封鎖して入国を阻んだ。7月17日、富樫政親が、自身の嫡男富樫家延と共に自害し、高尾城が落城する。又山川高藤は、一揆方の将三池掃部率いる軍に捕縛され、祇陀寺(現在の石川県白山市吉野付近)に幽閉された。其の後山川高藤は、夕闇に紛れて脱出し、越前国大野(現在の福井県)へ向かった。更に、政親の後を追って、宮永八郎三郎・勝見与四郎・福光弥三郎・那波氏・吉田氏・小河氏・白河氏・進藤氏・黒川氏・興津屋五郎・谷屋入道・徳光西坊林・金子氏・田上入道・八屋藤左衛門入道・立入加賀入道・長田三郎左衛門・宮永左京進・沢奈井彦八郎・安江和泉守・神戸七郎・御園筑前守・御園五郎・槻橋豊前守・槻橋近江守・槻橋三郎左衛門・槻橋式部丞・槻橋弥六・槻橋弥次郎・槻橋三位坊・山川又次郎・本郷春興坊・本郷駿河守も自害した。政親の自害を聞いた足利義尚は激怒し、蓮如に本願寺門徒等の破門を迫った。政親の首級は、富樫泰高によって灰の中から探し出され、大乗寺に葬られた。
西暦1,488年10月頃、足利義尚が陣中に打たせていた60本の刀が完成する。足利義尚は、二階堂政行経由で陰陽博士土御門有宣から、60名の刀鍛冶に60本の刀を打たせれば敵を誅滅出来ると聞き、刀を作らせていた。又10月頃、足利義尚が陣中に打たせていた60本の刀が完成した翌日、足利義尚が病に倒れる。日野富子が看病に駆け付けた。足利義尚は元々体が弱く、軍営での激務と共に、京都から訪れる公家・高僧の接遇を自ら行い、酒量も増えていた。足利義尚は其の後一旦回復し、日野富子は京都に戻った。西暦1,489年4月16日、足利義尚の病が重篤な状態となる。4月26日10時、足利義尚が、近江国鈎の陣中にて死去する。水と酒しか受け付けない状態であった。義尚は臨終に際し、足利義政に対し、「ながらへば人の心も見るべきに露の命ぞはかなかりけり」(もし長く生きる事が出来れば、他人の心も良く見極められる様になるだろうに、露のような命は儚いものだ)と、「もしほ草あまの袖師の裏波にやどすも心あり明の月」(藻塩草が海人の袖を濡らす裏波に宿るように、心にも有明の月のような明るさがある)と、「出づる日の余の国までも鏡山と思ひしこともいたづらの身や」(昇る日の向こうの遠い国々までも、鏡山の様に美しいと思っていた事も、結局は無駄な身の上だった)という辞世の句を詠んだ。遺体は細川政元・日野富子の2名に譲られ、凱旋将軍の様な隊列で以って京都に帰還した。其の後日野富子は、足利義視が出家する事を条件に、足利義稙を次期征夷大将軍に決定した。5月10日、足利義尚の葬儀が執り行われる。葬儀に際して、遺体の腐臭を防ぐ目的で、口・目・鼻に水銀が注入された。日野富子は、此の葬儀に於いて莫大な資金提供を行い、足利義尚との最後の別れの際、裳階の中で、声を惜しまず咽び泣いた。周囲の者も涙した。其の後足利義尚は等持院に葬られた。足利義政は、義尚に代わり政務に復帰するが、程無くして中風を再発させて倒れ、左半身不随となった。足利義尚の生誕から、細川勝元による諸大名への上洛の要請、足利義尚の第9代室町幕府征夷大将軍への補任、足利義政による花の御所の足利義尚への譲渡、足利義尚による御判始・評定始・御前沙汰始、足利義尚主催の歌合の数々、足利義尚による六角高頼征伐の決定と坂本への出陣、望月出雲守と甲賀二十一家による足利義尚の陣所への夜襲、富樫政親の自害、足利義尚の近江国鈎の陣中での死去を経て、足利義尚の葬儀に至る迄——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。
登場人物
- 足利義尚 西暦1,465年12月11日、足利義政・日野富子の2名の間に足利義尚が生誕する。義政は、足利義視を無理矢理還俗させて自身の猶子とし、次期征夷大将軍として据えて、細川勝元を執事として政務から離れる積もりであったが、義尚の誕生により、義尚を征夷大将軍にさせようとする富子と対立した。西暦1,474年1月7日、足利義政が征夷大将軍職を足利義尚に譲り、義尚が第9代室町幕府征夷大将軍に補任される。3月20日、足利義政が、花の御所を足利義尚に譲り、小川殿に移る。日野富子・足利義尚の2名は花の御所に残った。西暦1,478年1月頃、一条兼良が京都に戻る。其の後一条兼良は、足利義尚に政道や和歌等を教えた。足利義尚は、翌年頃から盛んに歌会を主催した。西暦1,479年12月頃、足利義尚が、御判始・評定始・御前沙汰始を行い、政務を執り始める。然し、依然として足利義政が実権を握っており、父子間に確執が生じた。西暦1,480年5月8日、足利義尚が、権大納言に任ぜられる。西暦1,482年7月28日、足利義政が、足利義尚に政務を譲る意思を表明する。西暦1,483年11月24日、三条西実隆が、足利義尚が撰定した私撰和歌集「新百人一首」を足利義尚の下で見る。新百人一首は、藤原定家が撰定した小倉百人一首から漏れた歌人の歌を各和歌集から100首撰定したものであった。更に足利義尚は此の年、姉小路基綱・三条西実隆・飛鳥井雅親・宗祇・二階堂政行と、三条西実隆の門人細見宗高の歌人を結集して和歌打聞「撰藻鈔」の編纂に乗り出した。西暦1,487年8月12日、足利義尚が、六角高頼征伐を正式に決定する。在京・在国の諸将を招集した。9月28日、香の袷・白綾の腹巻・赤地金襴に桐唐草の模様の直垂・重藤弓・粟田口吉光の太刀を身に纏った足利義尚が、六角高頼征伐の為、坂本へ向けて出陣する。其の際、着飾った足利義尚を一目見ようと見物人が集まった。10月20日、足利義尚率いる軍が、六角高頼を追って、坂本から琵琶湖を経由して安養寺に布陣する。そして、六角氏の押領地を没収し、側近や寺社に還付した。11月12日、足利義尚が、本陣を山徒真宝坊の居館である真宝館に移す。西暦1,488年1月15日、六角高頼率いる軍が、甲賀郡の山中から出陣する。そして夜、望月出雲守と甲賀二十一家が、近江国鈎の足利義尚の陣所に夜襲を仕掛けた。地元の地形を熟知していた甲賀衆は、煙幕を張ったり放火を仕掛けたりして混乱を起こし、足利義尚の本陣に迫った。敵が攻めてくると身を隠し、敵が撤退すれば後ろから攻撃を加える「亀六の法」と呼ばれる戦法によって室町幕府軍は翻弄され、最終的には大損害を被り、足利義尚も深手を負った。7月5日、足利義尚が、越前国の朝倉孝景等に富樫政親の下へ援軍を派遣する様命じる。7月17日、富樫政親が、自身の嫡男富樫家延と共に自害し、高尾城が落城する。政親の自害を聞いた足利義尚は激怒し、蓮如に本願寺門徒等の破門を迫った。10月頃、足利義尚が陣中に打たせていた60本の刀が完成する。足利義尚は、二階堂政行経由で陰陽博士土御門有宣から、60名の刀鍛冶に60本の刀を打たせれば敵を誅滅出来ると聞き、刀を作らせていた。又10月頃、足利義尚が陣中に打たせていた60本の刀が完成した翌日、足利義尚が病に倒れる。日野富子が看病に駆け付けた。足利義尚は元々体が弱く、軍営での激務と共に、京都から訪れる公家・高僧の接遇を自ら行い、酒量も増えていた。足利義尚は其の後一旦回復し、日野富子は京都に戻った。西暦1,489年4月16日、足利義尚の病が重篤な状態となる。4月26日10時、足利義尚が、近江国鈎の陣中にて死去する。水と酒しか受け付けない状態であった。義尚は臨終に際し、足利義政に対し、「ながらへば人の心も見るべきに露の命ぞはかなかりけり」(もし長く生きる事が出来れば、他人の心も良く見極められる様になるだろうに、露のような命は儚いものだ)と、「もしほ草あまの袖師の裏波にやどすも心あり明の月」(藻塩草が海人の袖を濡らす裏波に宿るように、心にも有明の月のような明るさがある)と、「出づる日の余の国までも鏡山と思ひしこともいたづらの身や」(昇る日の向こうの遠い国々までも、鏡山の様に美しいと思っていた事も、結局は無駄な身の上だった)という辞世の句を詠んだ。遺体は細川政元・日野富子の2名に譲られ、凱旋将軍の様な隊列で以って京都に帰還した。5月10日、足利義尚の葬儀が執り行われる。葬儀に際して、遺体の腐臭を防ぐ目的で、口・目・鼻に水銀が注入された。其の後足利義尚は等持院に葬られた。
- 足利義政 西暦1,465年12月11日、足利義政・日野富子の2名の間に足利義尚が生誕する。義政は、足利義視を無理矢理還俗させて自身の猶子とし、次期征夷大将軍として据えて、細川勝元を執事として政務から離れる積もりであったが、義尚の誕生により、義尚を征夷大将軍にさせようとする富子と対立した。西暦1,467年9月8日夜、足利義視が出発する。足利義政が伊勢貞親を呼び戻した事が切っ掛けであった。此の行動に失望した義政は、後継者を足利義尚とする事を検討し始めた。西暦1,474年1月7日、足利義政が征夷大将軍職を足利義尚に譲り、義尚が第9代室町幕府征夷大将軍に補任される。3月20日、足利義政が、花の御所を足利義尚に譲り、小川殿に移る。西暦1,479年12月頃、足利義尚が、御判始・評定始・御前沙汰始を行い、政務を執り始める。然し、依然として足利義政が実権を握っており、父子間に確執が生じた。西暦1,482年7月28日、足利義政が、足利義尚に政務を譲る意思を表明する。西暦1,483年5月4日、足利義尚が内裏に参内する。此の日内裏で歌会が開催され、後土御門天皇・後柏原天皇・足利義政が詠んだ歌を含む、神明に奉納する諏訪法楽30首が披露された。西暦1,487年10月20日、足利義尚率いる軍が、六角高頼を追って、坂本から琵琶湖を経由して安養寺に布陣する。諸将も分散して布陣し、義尚は、足利義政に「坂本の浜路を出て浪安く養ふ寺にありと答へよ」(坂本の浜辺の道を出て、波を安らかに養う寺に居る、と答えなさい)という歌を贈った。此れを受けて義政は、「やかてはや国収りて民安く養ふ寺を立ちぞ帰らん」(もう直ぐ国を治めて、民を安らかに養う寺から立って帰ろう)という返歌を贈った。西暦1,489年4月26日10時、足利義尚が、近江国鈎の陣中にて死去する。義尚は臨終に際し、足利義政に対し、「ながらへば人の心も見るべきに露の命ぞはかなかりけり」(もし長く生きる事が出来れば、他人の心も良く見極められる様になるだろうに、露のような命は儚いものだ)と、「もしほ草あまの袖師の裏波にやどすも心あり明の月」(藻塩草が海人の袖を濡らす裏波に宿るように、心にも有明の月のような明るさがある)と、「出づる日の余の国までも鏡山と思ひしこともいたづらの身や」(昇る日の向こうの遠い国々までも、鏡山の様に美しいと思っていた事も、結局は無駄な身の上だった)という辞世の句を詠んだ。5月10日、足利義尚の葬儀が執り行われる。足利義政は、義尚に代わり政務に復帰するが、程無くして中風を再発させて倒れ、左半身不随となった。
- 日野富子 西暦1,465年12月11日、足利義政・日野富子の2名の間に足利義尚が生誕する。義政は、足利義視を無理矢理還俗させて自身の猶子とし、次期征夷大将軍として据えて、細川勝元を執事として政務から離れる積もりであったが、義尚の誕生により、義尚を征夷大将軍にさせようとする富子と対立した。富子は、自身の兄日野勝光と結託し、幕政へ関与し始めた。西暦1,474年3月20日、足利義政が、花の御所を足利義尚に譲り、小川殿に移る。日野富子・足利義尚の2名は花の御所に残った。第180世興福寺別当尋尊は「政務は日野殿が取り仕切り、足利殿は酒に溺れ、諸大名は犬笠懸に興じ、まるで天下泰平の世の様だ」と評した。西暦1,487年8月16日、室町幕府奉行人諏訪貞通等が勧進して集められた歌50首が、諏訪大社上社の御射山祭にて奉納される。題は、花・郭公・月・恋・山家・旅・祝を含む10題で其々5首詠まれた。詠人は足利義尚・近衛政家・日野富子・飛鳥井雅親・一条冬良・伊勢貞宗等が名を連ねた。9月頃、足利義尚に子供が居ない事を憂えた日野富子の意向により、足利義稙が従五位下・左馬頭に叙位任官される。此の頃、義稙を義尚の猶子とし、長享・延徳の乱で近江国に居た義尚を京都に戻して義稙を近江国に置くという案も有ったが、実行されなかった。西暦1,488年10月頃、足利義尚が陣中に打たせていた60本の刀が完成した翌日、足利義尚が病に倒れる。日野富子が看病に駆け付けた。足利義尚は元々体が弱く、軍営での激務と共に、京都から訪れる公家・高僧の接遇を自ら行い、酒量も増えていた。足利義尚は其の後一旦回復し、日野富子は京都に戻った。西暦1,489年4月26日10時、足利義尚が、近江国鈎の陣中にて死去する。遺体は細川政元・日野富子の2名に譲られ、凱旋将軍の様な隊列で以って京都に帰還した。其の後日野富子は、足利義視が出家する事を条件に、足利義稙を次期征夷大将軍に決定した。5月10日、足利義尚の葬儀が執り行われる。葬儀に際して、遺体の腐臭を防ぐ目的で、口・目・鼻に水銀が注入された。日野富子は、此の葬儀に於いて莫大な資金提供を行い、足利義尚との最後の別れの際、裳階の中で、声を惜しまず咽び泣いた。周囲の者も涙した。
- 日野勝光 西暦1,465年12月11日、足利義政・日野富子の2名の間に足利義尚が生誕する。義政は、足利義視を無理矢理還俗させて自身の猶子とし、次期征夷大将軍として据えて、細川勝元を執事として政務から離れる積もりであったが、義尚の誕生により、義尚を征夷大将軍にさせようとする富子と対立した。富子は、自身の兄日野勝光と結託し、幕政へ関与し始めた。
- 足利義視 西暦1,465年12月11日、足利義政・日野富子の2名の間に足利義尚が生誕する。義政は、足利義視を無理矢理還俗させて自身の猶子とし、次期征夷大将軍として据えて、細川勝元を執事として政務から離れる積もりであったが、義尚の誕生により、義尚を征夷大将軍にさせようとする富子と対立した。西暦1,467年6月頃、細川勝元が、諸大名に上洛を要請する。畠山政長等が参集した。斯うして、細川勝元の屋敷と花の御所を中心とした京都北部から東に布陣した細川方と、堀川西岸に建てられた山名宗全の屋敷と京都中央に位置する斯波義廉の屋敷を拠点とする山名方の構図がはっきりし、前者が東軍、後者が西軍と呼称された。其々の陣容は、東軍が細川勝元・足利義視・政長・斯波義敏と、武田信繁の弐男武田信賢と、成身院光宣・細川勝久・京極持清・赤松政則であり、西軍が山名宗全・足利義尚・畠山義就・斯波義廉・一色義直・朝倉孝景・甲斐敏光・六角高頼・土岐成頼であった。9月8日夜、足利義視が出発する。足利義政が伊勢貞親を呼び戻した事が切っ掛けであった。此の行動に失望した義政は、後継者を足利義尚とする事を検討し始めた。西暦1,474年8月8日、山名政豊を始めとする西軍諸将が、足利義尚に出仕し謁見する。西軍は、足利義視の征夷大将軍擁立の姿勢を一変させ、其の方針転換を名実共に対外的に示した。西暦1,489年4月26日10時、足利義尚が、近江国鈎の陣中にて死去する。其の後日野富子は、足利義視が出家する事を条件に、足利義稙を次期征夷大将軍に決定した。
- 足利義稙 西暦1,487年9月頃、足利義尚に子供が居ない事を憂えた日野富子の意向により、足利義稙が従五位下・左馬頭に叙位任官される。此の頃、義稙を義尚の猶子とし、長享・延徳の乱で近江国に居た義尚を京都に戻して義稙を近江国に置くという案も有ったが、実行されなかった。西暦1,489年4月26日10時、足利義尚が、近江国鈎の陣中にて死去する。其の後日野富子は、足利義視が出家する事を条件に、足利義稙を次期征夷大将軍に決定した。
- 細川勝元 西暦1,465年12月11日、足利義政・日野富子の2名の間に足利義尚が生誕する。義政は、足利義視を無理矢理還俗させて自身の猶子とし、次期征夷大将軍として据えて、細川勝元を執事として政務から離れる積もりであったが、義尚の誕生により、義尚を征夷大将軍にさせようとする富子と対立した。西暦1,467年6月頃、細川勝元が、諸大名に上洛を要請する。畠山政長等が参集した。斯うして、細川勝元の屋敷と花の御所を中心とした京都北部から東に布陣した細川方と、堀川西岸に建てられた山名宗全の屋敷と京都中央に位置する斯波義廉の屋敷を拠点とする山名方の構図がはっきりし、前者が東軍、後者が西軍と呼称された。其々の陣容は、東軍が細川勝元・足利義視・政長・斯波義敏と、武田信繁の弐男武田信賢と、成身院光宣・細川勝久・京極持清・赤松政則であり、西軍が山名宗全・足利義尚・畠山義就・斯波義廉・一色義直・朝倉孝景・甲斐敏光・六角高頼・土岐成頼であった。
- 細川政元 西暦1,487年9月28日、香の袷・白綾の腹巻・赤地金襴に桐唐草の模様の直垂・重藤弓・粟田口吉光の太刀を身に纏った足利義尚が、六角高頼征伐の為、坂本へ向けて出陣する。足利義尚は、坂本に入ってからは、細川政元・斯波義寛・畠山政長・山名氏・一色氏・富樫政親・京極氏・武田国信等と合流した。10月6日、細川政元率いる軍が、琵琶湖を経由して山田・志那に到着する。其の後細川政元は、坂本から陸路で瀬田を経由してやって来た足利義尚率いる軍と合流し、六角高頼の指示で山田方面を守備していた山中橘六率いる軍と野洲河原にて交戦した。山中橘六は敗れたものの室町幕府軍に多大な損害を与え、戦功を挙げた甲賀武士53名は、後に甲賀五十三家と呼ばれた。西暦1,489年4月26日10時、足利義尚が、近江国鈎の陣中にて死去する。遺体は細川政元・日野富子の2名に譲られ、凱旋将軍の様な隊列で以って京都に帰還した。
- 山名宗全 西暦1,467年6月頃、細川勝元が、諸大名に上洛を要請する。畠山政長等が参集した。斯うして、細川勝元の屋敷と花の御所を中心とした京都北部から東に布陣した細川方と、堀川西岸に建てられた山名宗全の屋敷と京都中央に位置する斯波義廉の屋敷を拠点とする山名方の構図がはっきりし、前者が東軍、後者が西軍と呼称された。其々の陣容は、東軍が細川勝元・足利義視・政長・斯波義敏と、武田信繁の弐男武田信賢と、成身院光宣・細川勝久・京極持清・赤松政則であり、西軍が山名宗全・足利義尚・畠山義就・斯波義廉・一色義直・朝倉孝景・甲斐敏光・六角高頼・土岐成頼であった。
- 山名政豊 西暦1,474年5月1日、山名政豊が、自身の長男の山名常豊を連れて、足利義尚に謁見する。政豊の東幕府への帰参が認められた。8月8日、山名政豊を始めとする西軍諸将が、足利義尚に出仕し謁見する。西軍は、足利義視の征夷大将軍擁立の姿勢を一変させ、其の方針転換を名実共に対外的に示した。
- 畠山義就 西暦1,467年6月頃、細川勝元が、諸大名に上洛を要請する。畠山政長等が参集した。斯うして、細川勝元の屋敷と花の御所を中心とした京都北部から東に布陣した細川方と、堀川西岸に建てられた山名宗全の屋敷と京都中央に位置する斯波義廉の屋敷を拠点とする山名方の構図がはっきりし、前者が東軍、後者が西軍と呼称された。其々の陣容は、東軍が細川勝元・足利義視・政長・斯波義敏と、武田信繁の弐男武田信賢と、成身院光宣・細川勝久・京極持清・赤松政則であり、西軍が山名宗全・足利義尚・畠山義就・斯波義廉・一色義直・朝倉孝景・甲斐敏光・六角高頼・土岐成頼であった。西暦1,474年8月8日、山名政豊を始めとする西軍諸将が、足利義尚に出仕し謁見する。西軍は、足利義視の征夷大将軍擁立の姿勢を一変させ、其の方針転換を名実共に対外的に示した。此の姿勢に畠山義就・土岐成頼・大内政弘が反発した。
- 大内政弘 西暦1,474年8月8日、山名政豊を始めとする西軍諸将が、足利義尚に出仕し謁見する。西軍は、足利義視の征夷大将軍擁立の姿勢を一変させ、其の方針転換を名実共に対外的に示した。此の姿勢に畠山義就・土岐成頼・大内政弘が反発した。西暦1,477年5月31日、河野通春が、東軍に内通していた大内政弘の仲介によって東軍に下り、足利義尚の安堵を取り付ける。
- 尋尊 西暦1,474年3月20日、足利義政が、花の御所を足利義尚に譲り、小川殿に移る。日野富子・足利義尚の2名は花の御所に残った。第180世興福寺別当尋尊は「政務は日野殿が取り仕切り、足利殿は酒に溺れ、諸大名は犬笠懸に興じ、まるで天下泰平の世の様だ」と評した。
- 一条兼良 西暦1,478年1月頃、一条兼良が京都に戻る。其の後一条兼良は、足利義尚に政道や和歌等を教えた。足利義尚は、翌年頃から盛んに歌会を主催した。
- 飛鳥井雅親 西暦1,481年9月24日、足利義尚主催の「着到千首和歌」が、禁裏にて開催される。後土御門天皇等が詠人として参加し、飛鳥井雅親が点者を務めた。12月11日、足利義尚主催の「将軍家三十番歌合」が開催される。足利義尚も詠人として参加し、飛鳥井雅親が判者を務めた。西暦1,482年6月25日、足利義尚主催の「将軍家百番歌合」が開催される。足利義尚・二条持通・近衛政家等が詠人として参加し、飛鳥井雅親が判者を務めた。8月頃、足利義尚主催の「十五番歌合」が開催される。足利義尚・二条持通・近衛政家等が詠人として参加し、飛鳥井雅親が判者を務めた。西暦1,483年11月24日、三条西実隆が、足利義尚が撰定した私撰和歌集「新百人一首」を足利義尚の下で見る。更に足利義尚は此の年、姉小路基綱・三条西実隆・飛鳥井雅親・宗祇・二階堂政行と、三条西実隆の門人細見宗高の歌人を結集して和歌打聞「撰藻鈔」の編纂に乗り出した。西暦1,486年、足利義尚主催の「殿中十五番歌合」が開催される。冷泉為広・三条西実隆等が詠人として参加し、飛鳥井雅親が判者を務めた。西暦1,487年8月16日、室町幕府奉行人諏訪貞通等が勧進して集められた歌50首が、諏訪大社上社の御射山祭にて奉納される。題は、花・郭公・月・恋・山家・旅・祝を含む10題で其々5首詠まれた。詠人は足利義尚・近衛政家・日野富子・飛鳥井雅親・一条冬良・伊勢貞宗等が名を連ねた。
- 三条西実隆 西暦1,483年11月24日、三条西実隆が、足利義尚が撰定した私撰和歌集「新百人一首」を足利義尚の下で見る。新百人一首は、藤原定家が撰定した小倉百人一首から漏れた歌人の歌を各和歌集から100首撰定したものであった。更に足利義尚は此の年、姉小路基綱・三条西実隆・飛鳥井雅親・宗祇・二階堂政行と、三条西実隆の門人細見宗高の歌人を結集して和歌打聞「撰藻鈔」の編纂に乗り出した。西暦1,486年、足利義尚主催の「殿中十五番歌合」が開催される。冷泉為広・三条西実隆等が詠人として参加し、飛鳥井雅親が判者を務めた。
- 六角高頼 西暦1,467年6月頃、細川勝元が、諸大名に上洛を要請する。畠山政長等が参集した。斯うして、細川勝元の屋敷と花の御所を中心とした京都北部から東に布陣した細川方と、堀川西岸に建てられた山名宗全の屋敷と京都中央に位置する斯波義廉の屋敷を拠点とする山名方の構図がはっきりし、前者が東軍、後者が西軍と呼称された。其々の陣容は、東軍が細川勝元・足利義視・政長・斯波義敏と、武田信繁の弐男武田信賢と、成身院光宣・細川勝久・京極持清・赤松政則であり、西軍が山名宗全・足利義尚・畠山義就・斯波義廉・一色義直・朝倉孝景・甲斐敏光・六角高頼・土岐成頼であった。西暦1,487年8月12日、足利義尚が、六角高頼征伐を正式に決定する。足利義尚は、在京・在国の諸将を招集した。9月28日、香の袷・白綾の腹巻・赤地金襴に桐唐草の模様の直垂・重藤弓・粟田口吉光の太刀を身に纏った足利義尚が、六角高頼征伐の為、坂本へ向けて出陣する。10月6日、細川政元率いる軍が、琵琶湖を経由して山田・志那に到着する。其の後細川政元は、坂本から陸路で瀬田を経由してやって来た足利義尚率いる軍と合流し、六角高頼の指示で山田方面を守備していた山中橘六率いる軍と野洲河原にて交戦した。山中橘六は敗れたものの室町幕府軍に多大な損害を与え、戦功を挙げた甲賀武士53名は、後に甲賀五十三家と呼ばれた。其の中で戦果の目覚ましい21名は、六角高頼から感状を受け、甲賀二十一家と呼ばれた。10月20日、足利義尚率いる軍が、六角高頼を追って、坂本から琵琶湖を経由して安養寺に布陣する。そして、足利義尚は、六角氏の押領地を没収し、側近や寺社に還付した。西暦1,488年1月15日、六角高頼率いる軍が、甲賀郡の山中から出陣する。又、山内政綱は三上に布陣した。そして夜、望月出雲守と甲賀二十一家が、近江国鈎の足利義尚の陣所に夜襲を仕掛けた。地元の地形を熟知していた甲賀衆は、煙幕を張ったり放火を仕掛けたりして混乱を起こし、足利義尚の本陣に迫った。敵が攻めてくると身を隠し、敵が撤退すれば後ろから攻撃を加える「亀六の法」と呼ばれる戦法によって室町幕府軍は翻弄され、最終的には大損害を被り、足利義尚も深手を負った。
- 山中橘六 西暦1,487年10月6日、細川政元率いる軍が、琵琶湖を経由して山田・志那に到着する。其の後細川政元は、坂本から陸路で瀬田を経由してやって来た足利義尚率いる軍と合流し、六角高頼の指示で山田方面を守備していた山中橘六率いる軍と野洲河原にて交戦した。山中橘六は敗れたものの室町幕府軍に多大な損害を与え、戦功を挙げた甲賀武士53名は、後に甲賀五十三家と呼ばれた。
- 望月出雲守 西暦1,487年10月6日、細川政元率いる軍が、琵琶湖を経由して山田・志那に到着する。其の後細川政元は、坂本から陸路で瀬田を経由してやって来た足利義尚率いる軍と合流し、六角高頼の指示で山田方面を守備していた山中橘六率いる軍と野洲河原にて交戦した。山中橘六は敗れたものの室町幕府軍に多大な損害を与え、戦功を挙げた甲賀武士53名は、後に甲賀五十三家と呼ばれた。其の中で戦果の目覚ましい21名は、六角高頼から感状を受け、甲賀二十一家と呼ばれた。甲賀五十三家は、望月出雲守(筆頭格)と、山中十郎・伴佐京介・美濃部源吾(柏木三家、六角高頼から感状を受けた)と、黒川久内・頓宮利盛・大野宮内小輔・岩室大学介・芥川左京亮・隠岐右近太夫・佐治河内守・神保兵内・大河原源太(北山九家、六角高頼から感状を受けた)と、大原源三郎・和田伊賀守・上野主膳正・高峰蔵人・池田庄右衛門・多喜俊兼(南山六家、六角高頼から感状を受けた)と、鵜飼源八郎・内貴伊賀守・服部藤太夫(荘内三家、六角高頼から感状を受けた)と、小泉家・倉治家・夏見家・杉谷家・針家・小川家・大久保家・上田家・野田家・岩根家・新城家・荻野家・矢川家・佐々木家・藤林家・鳥居家・森家・田中家・池尻家・藤川家・山田家・中村家・藤原家・喜多家・久野家・太田家・東家・西家・岡本家・村田家・藤堂家であった。西暦1,488年1月15日、六角高頼率いる軍が、甲賀郡の山中から出陣する。そして夜、望月出雲守と、山中十郎・伴佐京介・美濃部源吾・黒川久内・頓宮利盛・大野宮内小輔・岩室大学介・芥川左京亮・隠岐右近太夫・佐治河内守・神保兵内・大河原源太・大原源三郎・和田伊賀守・上野主膳正・高峰蔵人・池田庄右衛門・多喜俊兼・鵜飼源八郎・内貴伊賀守・服部藤太夫の甲賀二十一家が、近江国鈎の足利義尚の陣所に夜襲を仕掛けた。地元の地形を熟知していた甲賀衆は、煙幕を張ったり放火を仕掛けたりして混乱を起こし、足利義尚の本陣に迫った。敵が攻めてくると身を隠し、敵が撤退すれば後ろから攻撃を加える「亀六の法」と呼ばれる戦法によって室町幕府軍は翻弄され、最終的には大損害を被り、足利義尚も深手を負った。
- 富樫政親 西暦1,487年9月28日、香の袷・白綾の腹巻・赤地金襴に桐唐草の模様の直垂・重藤弓・粟田口吉光の太刀を身に纏った足利義尚が、六角高頼征伐の為、坂本へ向けて出陣する。足利義尚は、坂本に入ってからは、細川政元・斯波義寛・畠山政長・山名氏・一色氏・富樫政親・京極氏・武田国信等と合流した。西暦1,488年1月頃、西暦1,487年9月28日の足利義尚の坂本への出陣に際し、富樫政親が兵粮米・軍費を領国である加賀国の民衆に課し、反富樫の機運が高まった事から、富樫政親は帰国し、高尾城に入る。一揆方は、富樫政親の家老山川三河守を介して和睦を伝えたが、富樫政親は受け入れなかった。富樫政親は、高尾城を修築して戦いに備えた。7月5日、足利義尚が、越前国の朝倉孝景等に富樫政親の下へ援軍を派遣する様命じる。朝倉孝景は応じ、加賀国へ援軍を派遣したが、一揆方が越前国との国境を封鎖して入国を阻んだ。7月17日、富樫政親が、自身の嫡男富樫家延と共に自害し、高尾城が落城する。更に、政親の後を追って、宮永八郎三郎・勝見与四郎・福光弥三郎・那波氏・吉田氏・小河氏・白河氏・進藤氏・黒川氏・興津屋五郎・谷屋入道・徳光西坊林・金子氏・田上入道・八屋藤左衛門入道・立入加賀入道・長田三郎左衛門・宮永左京進・沢奈井彦八郎・安江和泉守・神戸七郎・御園筑前守・御園五郎・槻橋豊前守・槻橋近江守・槻橋三郎左衛門・槻橋式部丞・槻橋弥六・槻橋弥次郎・槻橋三位坊・山川又次郎・本郷春興坊・本郷駿河守も自害した。政親の自害を聞いた足利義尚は激怒し、蓮如に本願寺門徒等の破門を迫った。政親の首級は、富樫泰高によって灰の中から探し出され、大乗寺に葬られた。
- 朝倉孝景 西暦1,467年6月頃、細川勝元が、諸大名に上洛を要請する。畠山政長等が参集した。斯うして、細川勝元の屋敷と花の御所を中心とした京都北部から東に布陣した細川方と、堀川西岸に建てられた山名宗全の屋敷と京都中央に位置する斯波義廉の屋敷を拠点とする山名方の構図がはっきりし、前者が東軍、後者が西軍と呼称された。其々の陣容は、東軍が細川勝元・足利義視・政長・斯波義敏と、武田信繁の弐男武田信賢と、成身院光宣・細川勝久・京極持清・赤松政則であり、西軍が山名宗全・足利義尚・畠山義就・斯波義廉・一色義直・朝倉孝景・甲斐敏光・六角高頼・土岐成頼であった。西暦1,488年7月5日、足利義尚が、越前国の朝倉孝景等に富樫政親の下へ援軍を派遣する様命じる。朝倉孝景は応じ、加賀国へ援軍を派遣したが、一揆方が越前国との国境を封鎖して入国を阻んだ。
- 蓮如 西暦1,488年7月17日、富樫政親が、自身の嫡男富樫家延と共に自害し、高尾城が落城する。政親の自害を聞いた足利義尚は激怒し、蓮如に本願寺門徒等の破門を迫った。
- 土御門有宣 西暦1,488年10月頃、足利義尚が陣中に打たせていた60本の刀が完成する。足利義尚は、二階堂政行経由で陰陽博士土御門有宣から、60名の刀鍛冶に60本の刀を打たせれば敵を誅滅出来ると聞き、刀を作らせていた。
本書が記録する出来事
- 足利義政・日野富子の間での足利義尚の生誕(1,465年12月11日) 足利義政・日野富子の2名の間に足利義尚が生誕する。義政は、足利義視を無理矢理還俗させて自身の猶子とし、次期征夷大将軍として据えて、細川勝元を執事として政務から離れる積もりであったが、義尚の誕生により、義尚を征夷大将軍にさせようとする富子と対立した。富子は、自身の兄日野勝光と結託し、幕政へ関与し始めた。
- 細川勝元による諸大名への上洛の要請と東軍・西軍の構図(1,467年6月頃) 細川勝元が、諸大名に上洛を要請する。畠山政長等が参集した。斯うして、細川勝元の屋敷と花の御所を中心とした京都北部から東に布陣した細川方と、堀川西岸に建てられた山名宗全の屋敷と京都中央に位置する斯波義廉の屋敷を拠点とする山名方の構図がはっきりし、前者が東軍、後者が西軍と呼称された。其々の陣容は、東軍が細川勝元・足利義視・政長・斯波義敏と、武田信繁の弐男武田信賢と、成身院光宣・細川勝久・京極持清・赤松政則であり、西軍が山名宗全・足利義尚・畠山義就・斯波義廉・一色義直・朝倉孝景・甲斐敏光・六角高頼・土岐成頼であった。
- 足利義視の出発(1,467年9月8日) 夜、足利義視が出発する。足利義政が伊勢貞親を呼び戻した事が切っ掛けであった。此の行動に失望した義政は、後継者を足利義尚とする事を検討し始めた。
- 足利義尚の第9代室町幕府征夷大将軍への補任(1,474年1月7日) 足利義政が征夷大将軍職を足利義尚に譲り、義尚が第9代室町幕府征夷大将軍に補任される。
- 足利義政による花の御所の足利義尚への譲渡と小川殿への移転(1,474年3月20日) 足利義政が、花の御所を足利義尚に譲り、小川殿(現在の京都府京都市上京区寺之内通堀川東入ル百々町)に移る。日野富子・足利義尚の2名は花の御所に残った。第180世興福寺別当尋尊は「政務は日野殿が取り仕切り、足利殿は酒に溺れ、諸大名は犬笠懸に興じ、まるで天下泰平の世の様だ」と評した。
- 足利義尚の内裏への参内(1,474年3月28日) 足利義尚が内裏に参内する。
- 足利義尚の内裏への参内(1,474年3月29日) 足利義尚が内裏に参内する。
- 山名政豊・山名常豊の足利義尚への謁見(1,474年5月1日) 山名政豊が、自身の長男の山名常豊を連れて、足利義尚に謁見する。政豊の東幕府への帰参が認められた。
- 山名政豊を始めとする西軍諸将の足利義尚への出仕・謁見(1,474年8月8日) 山名政豊を始めとする西軍諸将が、足利義尚に出仕し謁見する。西軍は、足利義視の征夷大将軍擁立の姿勢を一変させ、其の方針転換を名実共に対外的に示した。此の姿勢に畠山義就・土岐成頼・大内政弘が反発した。
- 大内政弘の仲介による河野通春の東軍への帰順(1,477年5月31日) 河野通春が、東軍に内通していた大内政弘の仲介によって東軍に下り、足利義尚の安堵を取り付ける。
- 一条兼良の京都への帰還(1,478年1月頃) 一条兼良が京都に戻る。其の後一条兼良は、足利義尚に政道や和歌等を教えた。足利義尚は、翌年頃から盛んに歌会を主催した。
- 足利義尚による御判始・評定始・御前沙汰始(1,479年12月頃) 足利義尚が、御判始・評定始・御前沙汰始を行い、政務を執り始める。然し、依然として足利義政が実権を握っており、父子間に確執が生じた。
- 足利義尚の権大納言への任官(1,480年5月8日) 足利義尚が、権大納言に任ぜられる。
- 足利義尚主催の「着到千首和歌」の禁裏での開催(1,481年9月24日) 足利義尚主催の「着到千首和歌」が、禁裏にて開催される。後土御門天皇等が詠人として参加し、飛鳥井雅親が点者を務めた。
- 足利義尚主催の「将軍家三十番歌合」の開催(1,481年12月11日) 足利義尚主催の「将軍家三十番歌合」が開催される。足利義尚も詠人として参加し、飛鳥井雅親が判者を務めた。
- 足利義尚主催の「将軍家百番歌合」の開催(1,482年6月25日) 足利義尚主催の「将軍家百番歌合」が開催される。足利義尚・二条持通・近衛政家等が詠人として参加し、飛鳥井雅親が判者を務めた。
- 足利義政による足利義尚への政務の譲渡の意思の表明(1,482年7月28日) 足利義政が、足利義尚に政務を譲る意思を表明する。
- 足利義尚主催の「十五番歌合」の開催(1,482年8月頃) 足利義尚主催の「十五番歌合」が開催される。足利義尚・二条持通・近衛政家等が詠人として参加し、飛鳥井雅親が判者を務めた。
- 足利義尚主催の「将軍家千首歌合」の開催(1,482年9月23日) 足利義尚主催の「将軍家千首歌合」が開催される。
- 足利義尚主催の「将軍家詩歌合」の開催(1,483年2月20日) 足利義尚主催の「将軍家詩歌合」が開催される。詩は近衛政家等が詠み、歌は後土御門天皇と、後土御門天皇の第一皇子後柏原天皇と、足利義尚・二条持通・近衛政家・中院通秀等が詠人として参加した。衆議により判定を行った。
- 足利義尚の内裏への参内と諏訪法楽30首の披露(1,483年5月4日) 足利義尚が内裏に参内する。此の日内裏で歌会が開催され、後土御門天皇・後柏原天皇・足利義政が詠んだ歌を含む、神明に奉納する諏訪法楽30首が披露された。
- 三条西実隆による足利義尚撰定の「新百人一首」の閲覧(1,483年11月24日) 三条西実隆が、足利義尚が撰定した私撰和歌集「新百人一首」を足利義尚の下で見る。新百人一首は、藤原定家が撰定した小倉百人一首から漏れた歌人の歌を各和歌集から100首撰定したものであった。更に足利義尚は此の年、姉小路基綱・三条西実隆・飛鳥井雅親・宗祇・二階堂政行と、三条西実隆の門人細見宗高の歌人を結集して和歌打聞「撰藻鈔」の編纂に乗り出した。
- 足利義尚による多田院への「多田院廟前詠五十首和歌」の奉納(1,484年) 足利義尚が、摂津国の多田院(現在の兵庫県川西市)に「多田院廟前詠五十首和歌」を奉納する。
- 足利義尚主催の「殿中十五番歌合」の開催(1,486年) 足利義尚主催の「殿中十五番歌合」が開催される。冷泉為広・三条西実隆等が詠人として参加し、飛鳥井雅親が判者を務めた。
- 足利義尚主催の「文明十八年殿中千五百番歌合」の開催(1,486年4月20日) 足利義尚主催の「文明十八年殿中千五百番歌合」が開催される。
- 足利義尚による六角高頼征伐の正式な決定(1,487年8月12日) 足利義尚が、六角高頼征伐を正式に決定する。在京・在国の諸将を招集した。
- 諏訪大社上社の御射山祭での歌50首の奉納(1,487年8月16日) 室町幕府奉行人諏訪貞通等が勧進して集められた歌50首が、諏訪大社上社(現在の長野県諏訪市中洲宮山)の御射山祭にて奉納される。題は、花・郭公・月・恋・山家・旅・祝を含む10題で其々5首詠まれた。詠人は足利義尚・近衛政家・日野富子・飛鳥井雅親・一条冬良・伊勢貞宗等が名を連ねた。
- 日野富子の意向による足利義稙の従五位下・左馬頭への叙位任官(1,487年9月頃) 足利義尚に子供が居ない事を憂えた日野富子の意向により、足利義稙が従五位下・左馬頭に叙位任官される。此の頃、義稙を義尚の猶子とし、長享・延徳の乱で近江国に居た義尚を京都に戻して義稙を近江国に置くという案も有ったが、実行されなかった。
- 足利義尚の六角高頼征伐の為の坂本への出陣(1,487年9月28日) 香の袷・白綾の腹巻・赤地金襴に桐唐草の模様の直垂・重藤弓・粟田口吉光の太刀を身に纏った足利義尚が、六角高頼征伐の為、坂本へ向けて出陣する。其の際、着飾った足利義尚を一目見ようと見物人が集まった。兵力は391騎・8,000名で、京極政経・京極高清・田中兵衛尉・土肥刑部少輔・大原政重・大原尚親・伊勢又六・吉田源四郎・岩室弥四郎の諸将も加わった。坂本に入ってからは、細川政元・斯波義寛・畠山政長・山名氏・一色氏・富樫政親・京極氏・武田国信等と合流した。
- 細川政元率いる軍の琵琶湖を経由した山田・志那への到着(1,487年10月6日) 細川政元率いる軍が、琵琶湖を経由して山田(現在の滋賀県草津市)・志那(現在の滋賀県草津市)に到着する。其の後細川政元は、坂本から陸路で瀬田(現在の滋賀県大津市)を経由してやって来た足利義尚率いる軍と合流し、六角高頼の指示で山田方面を守備していた山中橘六率いる軍と野洲河原にて交戦した。山中橘六は敗れたものの室町幕府軍に多大な損害を与え、戦功を挙げた甲賀武士53名は、後に甲賀五十三家と呼ばれた。其の中で戦果の目覚ましい21名は、六角高頼から感状を受け、甲賀二十一家と呼ばれた。甲賀五十三家は、望月出雲守(筆頭格)と、山中十郎・伴佐京介・美濃部源吾(柏木三家、六角高頼から感状を受けた)と、黒川久内・頓宮利盛・大野宮内小輔・岩室大学介・芥川左京亮・隠岐右近太夫・佐治河内守・神保兵内・大河原源太(北山九家、六角高頼から感状を受けた)と、大原源三郎・和田伊賀守・上野主膳正・高峰蔵人・池田庄右衛門・多喜俊兼(南山六家、六角高頼から感状を受けた)と、鵜飼源八郎・内貴伊賀守・服部藤太夫(荘内三家、六角高頼から感状を受けた)と、小泉家・倉治家・夏見家・杉谷家・針家・小川家・大久保家・上田家・野田家・岩根家・新城家・荻野家・矢川家・佐々木家・藤林家・鳥居家・森家・田中家・池尻家・藤川家・山田家・中村家・藤原家・喜多家・久野家・太田家・東家・西家・岡本家・村田家・藤堂家であった。
- 足利義尚率いる軍の安養寺への布陣(1,487年10月20日) 足利義尚率いる軍が、六角高頼を追って、坂本から琵琶湖を経由して安養寺(現在の滋賀県栗東市)に布陣する。そして、六角氏の押領地を没収し、側近や寺社に還付した。諸将も分散して布陣し、義尚は、足利義政に「坂本の浜路を出て浪安く養ふ寺にありと答へよ」(坂本の浜辺の道を出て、波を安らかに養う寺に居る、と答えなさい)という歌を贈った。此れを受けて義政は、「やかてはや国収りて民安く養ふ寺を立ちぞ帰らん」(もう直ぐ国を治めて、民を安らかに養う寺から立って帰ろう)という返歌を贈った。
- 足利義尚による真宝館への本陣の移転(1,487年11月12日) 足利義尚が、本陣を山徒真宝坊の居館である真宝館(現在の滋賀県栗東市上鈎)に移す。
- 富樫政親の帰国と高尾城への入城(1,488年1月頃) 西暦1,487年9月28日の足利義尚の坂本への出陣に際し、富樫政親が兵粮米・軍費を領国である加賀国の民衆に課し、反富樫の機運が高まった事から、富樫政親は帰国し、高尾城(現在の石川県金沢市高尾町)に入る。一揆方は、富樫政親の家老山川三河守を介して和睦を伝えたが、富樫政親は受け入れなかった。富樫政親は、高尾城を修築して戦いに備えた。
- 六角高頼率いる軍の出陣と、望月出雲守・甲賀二十一家による足利義尚の陣所への夜襲(1,488年1月15日) 六角高頼率いる軍が、甲賀郡の山中から出陣する。又、山内政綱は三上(現在の滋賀県野洲市)に布陣した。そして夜、望月出雲守と、山中十郎・伴佐京介・美濃部源吾・黒川久内・頓宮利盛・大野宮内小輔・岩室大学介・芥川左京亮・隠岐右近太夫・佐治河内守・神保兵内・大河原源太・大原源三郎・和田伊賀守・上野主膳正・高峰蔵人・池田庄右衛門・多喜俊兼・鵜飼源八郎・内貴伊賀守・服部藤太夫の甲賀二十一家が、近江国鈎(現在の滋賀県栗東市上鈎付近)の足利義尚の陣所に夜襲を仕掛けた。地元の地形を熟知していた甲賀衆は、煙幕を張ったり放火を仕掛けたりして混乱を起こし、足利義尚の本陣に迫った。敵が攻めてくると身を隠し、敵が撤退すれば後ろから攻撃を加える「亀六の法」と呼ばれる戦法によって室町幕府軍は翻弄され、最終的には大損害を被り、足利義尚も深手を負った。
- 足利義尚による朝倉孝景等への援軍の派遣の命令(1,488年7月5日) 足利義尚が、越前国の朝倉孝景等に富樫政親の下へ援軍を派遣する様命じる。朝倉孝景は応じ、加賀国へ援軍を派遣したが、一揆方が越前国との国境を封鎖して入国を阻んだ。
- 富樫政親・富樫家延の自害と高尾城の落城(1,488年7月17日) 富樫政親が、自身の嫡男富樫家延と共に自害し、高尾城が落城する。又山川高藤は、一揆方の将三池掃部率いる軍に捕縛され、祇陀寺(現在の石川県白山市吉野付近)に幽閉された。其の後山川高藤は、夕闇に紛れて脱出し、越前国大野(現在の福井県)へ向かった。更に、政親の後を追って、宮永八郎三郎・勝見与四郎・福光弥三郎・那波氏・吉田氏・小河氏・白河氏・進藤氏・黒川氏・興津屋五郎・谷屋入道・徳光西坊林・金子氏・田上入道・八屋藤左衛門入道・立入加賀入道・長田三郎左衛門・宮永左京進・沢奈井彦八郎・安江和泉守・神戸七郎・御園筑前守・御園五郎・槻橋豊前守・槻橋近江守・槻橋三郎左衛門・槻橋式部丞・槻橋弥六・槻橋弥次郎・槻橋三位坊・山川又次郎・本郷春興坊・本郷駿河守も自害した。政親の自害を聞いた足利義尚は激怒し、蓮如に本願寺門徒等の破門を迫った。政親の首級は、富樫泰高によって灰の中から探し出され、大乗寺に葬られた。
- 足利義尚が陣中に打たせていた60本の刀の完成(1,488年10月頃) 足利義尚が陣中に打たせていた60本の刀が完成する。足利義尚は、二階堂政行経由で陰陽博士土御門有宣から、60名の刀鍛冶に60本の刀を打たせれば敵を誅滅出来ると聞き、刀を作らせていた。
- 60本の刀の完成の翌日の足利義尚の発病(1,488年10月頃) 足利義尚が陣中に打たせていた60本の刀が完成した翌日、足利義尚が病に倒れる。日野富子が看病に駆け付けた。足利義尚は元々体が弱く、軍営での激務と共に、京都から訪れる公家・高僧の接遇を自ら行い、酒量も増えていた。足利義尚は其の後一旦回復し、日野富子は京都に戻った。
- 足利義尚の病の重篤化(1,489年4月16日) 足利義尚の病が重篤な状態となる。
- 足利義尚の近江国鈎の陣中での死去(1,489年4月26日) 10時、足利義尚が、近江国鈎の陣中にて死去する。水と酒しか受け付けない状態であった。義尚は臨終に際し、足利義政に対し、「ながらへば人の心も見るべきに露の命ぞはかなかりけり」(もし長く生きる事が出来れば、他人の心も良く見極められる様になるだろうに、露のような命は儚いものだ)と、「もしほ草あまの袖師の裏波にやどすも心あり明の月」(藻塩草が海人の袖を濡らす裏波に宿るように、心にも有明の月のような明るさがある)と、「出づる日の余の国までも鏡山と思ひしこともいたづらの身や」(昇る日の向こうの遠い国々までも、鏡山の様に美しいと思っていた事も、結局は無駄な身の上だった)という辞世の句を詠んだ。遺体は細川政元・日野富子の2名に譲られ、凱旋将軍の様な隊列で以って京都に帰還した。其の後日野富子は、足利義視が出家する事を条件に、足利義稙を次期征夷大将軍に決定した。
- 足利義尚の葬儀(1,489年5月10日) 足利義尚の葬儀が執り行われる。葬儀に際して、遺体の腐臭を防ぐ目的で、口・目・鼻に水銀が注入された。日野富子は、此の葬儀に於いて莫大な資金提供を行い、足利義尚との最後の別れの際、裳階の中で、声を惜しまず咽び泣いた。周囲の者も涙した。其の後足利義尚は等持院に葬られた。足利義政は、義尚に代わり政務に復帰するが、程無くして中風を再発させて倒れ、左半身不随となった。本書の年表の最後の項目である。
坂本への出陣から、甲賀衆の夜襲へ──
足利義尚の六角高頼征伐を一元化。
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