足利義尚一元化
足利義政と日野富子の子としての生誕・応仁の乱西軍名義参加・1474年1月7日第9代征夷大将軍補任・花の御所譲渡と歌会主催・一条兼良の指南・御判始と親政開始・権大納言任官・新百人一首撰定と撰藻鈔編纂等の文化事業・1487年六角高頼征伐と坂本出陣・野洲河原での山中橘六撃破と甲賀五十三家命名・安養寺布陣と足利義政との贈答歌・1488年1月15日夜の鈎の陣夜襲と亀六の法による深手・60本の刀鍛造翌日の発病・1489年4月26日近江国鈎陣中死去と三首の辞世・等持院埋葬──
室町幕府第9代征夷大将軍の23年を一本の時系列に貫く。
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西暦1,465年12月11日、足利義政と日野富子との間に足利義尚が生誕した日から、西暦1,489年4月26日10時、義尚が近江国鈎の陣中にて死去した日まで。本書は、室町幕府第9代征夷大将軍足利義尚の生涯——足利義政と日野富子の子としての生誕と日野富子・日野勝光の幕政関与、応仁の乱西軍への名義参加と足利義視の1,467年9月8日出発、1,474年1月7日の第9代室町幕府征夷大将軍補任、同年3月20日花の御所譲渡と第180世興福寺別当尋尊の批評、同年5月1日の山名政豊・山名常豊親子の謁見による東幕府帰参、同年8月8日の山名政豊以下西軍諸将の出仕と征夷大将軍擁立姿勢の転換、1,477年5月31日の河野通春の大内政弘仲介による東軍帰参と安堵、1,478年1月の一条兼良の京都帰還による政道・和歌指南と歌会主催、1,479年12月の御判始・評定始・御前沙汰始と足利義政との確執、1,480年5月8日の権大納言任官、1,481年以降の着到千首和歌・将軍家三十番歌合・将軍家百番歌合・十五番歌合・将軍家将軍家千首歌合・将軍家詩歌合・新百人一首撰定・撰藻鈔編纂・多田院廟前詠五十首和歌・殿中十五番歌合・文明十八年殿中千五百番歌合等の文化事業、1,487年8月12日の六角高頼征伐正式決定と同年8月16日諏訪大社上社御射山祭への奉納歌50首、同年9月の足利義稙の従五位下・左馬頭叙任、同月28日の香の袷・白綾の腹巻・赤地金襴の直垂・重藤弓・粟田口吉光の太刀を身に纏った391騎・八千名を率いての坂本出陣、同年10月6日の細川政元率いる軍の山田・志那到着と野洲河原に於ける山中橘六撃破及び甲賀五十三家・甲賀二十一家命名、同月20日の安養寺布陣と足利義政との贈答歌、同年11月12日の真宝館への本陣移動、1,488年1月15日夜の六角高頼率いる軍の甲賀郡山中出陣と望月出雲守以下甲賀二十一家による鈎の陣夜襲・亀六の法による深手、同年7月5日の朝倉孝景への富樫政親援軍派遣命令、同月17日の富樫政親自害に際しての激怒と蓮如への本願寺門徒破門要求、同年10月の二階堂政行経由で土御門有宣の言に基づく60本の刀鍛造完成とその翌日の発病及び日野富子の看病、1,489年4月16日の重篤化と同月26日10時の近江国鈎陣中死去及び「ながらへば人の心も見るべきに」等三首の辞世の句・細川政元と日野富子による遺体帰洛・足利義稙の次期征夷大将軍決定、同年5月10日の葬儀と水銀注入・日野富子の咽び泣き・等持院埋葬迄の約23年間を一本の時系列に貫き、一元化した一冊である。
西暦1,465年12月11日、足利義政と日野富子との間に足利義尚が生誕した。義政は、足利義視を無理矢理還俗させて自身の猶子とし次期征夷大将軍として据え、細川勝元を執事として政務から離れる積もりであったが、義尚の誕生により、義尚を征夷大将軍にさせようとする富子と対立した。富子は自身の兄日野勝光と結託し、幕政へ関与し始めた。1,467年6月、細川勝元が諸大名に上洛を要請し、畠山政長等が参集した。細川の屋敷と花の御所を中心とした京都北部から東に布陣した細川方(東軍)、堀川西岸の山名宗全の屋敷と京都中央の斯波義廉の屋敷を拠点とする山名方(西軍)の構図が成立した。東軍には細川・足利義視・政長・斯波義敏・武田信繁の弐男武田信賢・成身院光宣・細川勝久・京極持清・赤松政則、西軍には山名宗全・足利義尚・畠山義就・斯波義廉・一色義直・朝倉孝景・甲斐敏光・六角高頼・土岐成頼が参じた。同年9月8日夜、足利義視が出発した。足利義政が伊勢貞親を呼び戻した事が切っ掛けであった。此の行動に失望した義政は、後継者を足利義尚とする事を検討し始めた。
西暦1,474年1月7日、足利義政が征夷大将軍職を足利義尚に譲り、義尚が第9代室町幕府征夷大将軍に補任された。同年3月20日、足利義政が花の御所を足利義尚に譲り小川殿に移り、日野富子と足利義尚は花の御所に残った。第180世興福寺別当尋尊は「政務は日野殿が取り仕切り、足利殿は酒に溺れ、諸大名は犬笠懸に興じ、まるで天下泰平の世の様だ」と評した。同月28日・29日、義尚は内裏に参内した。同年5月1日、山名政豊が自身の長男山名常豊を連れて足利義尚に謁見し、政豊の東幕府帰参が認められた。同年8月8日、山名政豊を始めとする西軍諸将が足利義尚に出仕し謁見し、西軍は足利義視の征夷大将軍擁立の姿勢を一変させ其の方針転換を名実共に対外的に示した。此の姿勢に畠山義就・土岐成頼・大内政弘が反発した。1,477年5月31日、河野通春が東軍に内通していた大内政弘の仲介によって東軍に下り、足利義尚の安堵を取り付けた。1,478年1月、一条兼良が京都に戻り、其の後一条は足利義尚に政道や和歌等を教え、足利は翌年頃から盛んに歌会を主催した。
西暦1,479年12月、足利義尚が御判始・評定始・御前沙汰始を行い政務を執り始めた。しかし、依然として足利義政が実権を握っており父子間に確執が生じた。1,480年5月8日、足利義尚が権大納言に任ぜられた。1,481年9月24日、義尚主催の「着到千首和歌」が禁裏にて開催され、後土御門天皇等が詠人として参加し、飛鳥井雅親が点者を務めた。同年12月11日、「将軍家三十番歌合」が開催され、足利も詠人として参加し飛鳥井雅親が判者を務めた。1,482年6月25日、「将軍家百番歌合」が開催され、二条持通・近衛政家等が詠人として参加し飛鳥井雅親が判者を務めた。同年7月28日、足利義政が足利義尚に政務を譲る意思を表明した。同年8月の「十五番歌合」、同年9月23日の「将軍家将軍家千首歌合」と足利義尚主催の歌会が続いた。
西暦1,483年2月20日、足利義尚主催の「将軍家詩歌合」が開催され、詩は近衛政家等、歌は後土御門天皇・後柏原天皇・足利義尚・二条持通・近衛政家・中院通秀等が詠人として参加、衆議により判定が行われた。同年5月4日、足利義尚が内裏に参内し、内裏で歌会が開催され、後土御門天皇・後柏原天皇・足利義政が詠んだ歌を含む神明に奉納する諏訪法楽30首が披露された。同年11月24日、三条西実隆が足利義尚撰定の私撰和歌集「新百人一首」を足利の下で見た。新百人一首は藤原定家撰定の小倉百人一首から漏れた歌人の歌を各和歌集から100首撰定したものであった。更に足利は同年、姉小路基綱・三条西・飛鳥井雅親・宗祇・二階堂政行・三条西の門人細見宗高を結集して和歌打聞「撰藻鈔」の編纂に乗り出した。1,484年、義尚が摂津国の多田院に「多田院廟前詠五十首和歌」を奉納した。1,486年、「殿中十五番歌合」が開催され冷泉為広・三条西実隆等が詠人として参加、飛鳥井雅親が判者を務めた。同年4月20日、「文明十八年殿中千五百番歌合」が開催された。
西暦1,487年8月12日、足利義尚が六角高頼征伐を正式に決定し、在京・在国の諸将を招集した。同月16日、室町幕府奉行人諏訪貞通等が勧進して集められた歌50首が諏訪大社上社の御射山祭にて奉納され、花・郭公・月・恋・山家・旅・祝等10題で其々5首詠まれ、足利義尚・近衛政家・日野富子・飛鳥井雅親・一条冬良・伊勢貞宗等が名を連ねた。同年9月、足利義尚に子供が居ない事を憂えた日野富子の意向により足利義稙が従五位下・左馬頭に叙位任官された。同月28日、香の袷・白綾の腹巻・赤地金襴に桐唐草の模様の直垂・重藤弓・粟田口吉光の太刀を身に纏った足利義尚が六角高頼征伐の為坂本へ向けて出陣した。着飾った足利を一目見ようと見物人が集まり、兵力は391騎・8,000名で、京極政経・京極高清・田中兵衛尉・土肥刑部少輔・大原政重・大原尚親・伊勢又六・吉田源四郎・岩室弥四郎が加わり、坂本に入ってからは細川政元・斯波義寛・畠山政長・山名氏・一色氏・富樫政親・京極氏・武田国信等と合流した。同年10月6日、細川政元率いる軍が琵琶湖を経由して山田・志那に到着し、其の後細川は坂本から陸路で瀬田を経由してやって来た足利義尚率いる軍と合流し、六角高頼の指示で山田方面を守備していた山中橘六率いる軍と野洲河原にて交戦した。山中は敗れたが室町幕府軍に多大な損害を与え、戦功を挙げた甲賀武士53名は後に甲賀五十三家と呼ばれ、其の中で戦果の目覚ましい21名は六角から感状を受け甲賀二十一家と呼ばれた。同月20日、足利義尚率いる軍が六角高頼を追って坂本から琵琶湖を経由して安養寺に布陣し、六角氏の押領地を没収し側近や寺社に還付した。諸将も分散して布陣し、義尚は足利義政に「坂本の浜路を出て浪安く養ふ寺にありと答へよ」の歌を贈り、義政は「やかてはや国収りて民安く養ふ寺を立ちぞ帰らん」の返歌を贈った。同年11月12日、足利義尚が本陣を山徒真宝坊の居館である真宝館に移した。
西暦1,488年1月、前年9月の富樫政親の加賀国民衆への兵粮米・軍費賦課により反富樫の機運が高まり、富樫は帰国して高尾城に入った。同月15日、六角高頼率いる軍が甲賀郡の山中から出陣し、山内政綱は三上に布陣した。夜、望月出雲守と山中十郎・伴佐京介・美濃部源吾・黒川久内・頓宮利盛・大野宮内小輔・岩室大学介・芥川左京亮・隠岐右近太夫・佐治河内守・神保兵内・大河原源太・大原源三郎・和田伊賀守・上野主膳正・高峰蔵人・池田庄右衛門・多喜俊兼・鵜飼源八郎・内貴伊賀守・服部藤太夫の甲賀二十一家が、近江国鈎の足利義尚の陣所に夜襲を仕掛けた。地元の地形を熟知していた甲賀衆は煙幕を張り放火を仕掛けて混乱を起こし足利の本陣に迫り、敵が攻めてくると身を隠し敵が撤退すれば後ろから攻撃を加える「亀六の法」と呼ばれる戦法によって室町幕府軍は翻弄され、最終的には大損害を被り足利も深手を負った。同年7月5日、足利義尚が越前国の朝倉孝景等に富樫政親の下へ援軍を派遣する様命じ朝倉は応じたが、一揆方が越前国との国境を封鎖して入国を阻んだ。同月17日、富樫政親が嫡男富樫家延と共に自害し高尾城が落城した事を聞いた足利義尚は激怒し、蓮如に本願寺門徒等の破門を迫った。同年10月、足利義尚が陣中に打たせていた60本の刀が完成した。足利は二階堂政行経由で陰陽博士土御門有宣から、60名の刀鍛冶に60本の刀を打たせれば敵を誅滅出来ると聞き刀を作らせていた。しかし60本完成の翌日、足利が病に倒れた。日野富子が看病に駆け付けた。足利は元々体が弱く軍営での激務と共に京都から訪れる公家・高僧の接遇を自ら行い酒量も増えていた。足利は其の後一旦回復し、日野は京都に戻った。
西暦1,489年4月16日、足利義尚の病が重篤な状態となった。同月26日10時、足利義尚が近江国鈎の陣中にて死去した。水と酒しか受け付けない状態であった。義尚は臨終に際し、足利義政に対し「ながらへば人の心も見るべきに露の命ぞはかなかりけり」「もしほ草あまの袖師の裏波にやどすも心あり明の月」「出づる日の余の国までも鏡山と思ひしこともいたづらの身や」の三首の辞世の句を詠んだ。遺体は細川政元と日野富子に譲られ、凱旋将軍の様な隊列で以って京都に帰還した。其の後日野は、足利義視が出家する事を条件に足利義稙を次期征夷大将軍に決定した。同年5月10日、足利義尚の葬儀が執り行われた。葬儀に際して遺体の腐臭を防ぐ目的で口・目・鼻に水銀が注入された。日野富子は此の葬儀に於いて莫大な資金提供を行い、足利との最後の別れの際、裳階の中で声を惜しまず咽び泣いた。周囲の者も涙した。其の後足利は等持院に葬られた、本書の終結点。
登場人物
- 足利義尚 室町幕府第9代征夷大将軍。西暦1,465年12月11日、足利義政と日野富子の子として生誕、1,467年6月の応仁の乱には西軍に名を連ねた。1,474年1月7日に義政から征夷大将軍職を譲られて補任、同年3月20日には花の御所を譲られた。1,479年12月に御判始・評定始・御前沙汰始を行い親政開始、1,480年5月8日に権大納言任官。1,481年以降は着到千首和歌・将軍家三十番歌合・将軍家百番歌合・十五番歌合・将軍家将軍家千首歌合・将軍家詩歌合・新百人一首撰定・撰藻鈔編纂・多田院廟前詠五十首和歌・殿中十五番歌合・文明十八年殿中千五百番歌合と文化事業を展開。1,487年8月12日に六角高頼征伐を正式決定し、同年9月28日に391騎・8,000名を率いて坂本出陣、同年10月20日に安養寺布陣、同年11月12日に真宝館移陣。1,488年1月15日夜の望月出雲守率いる甲賀二十一家による鈎の陣夜襲で亀六の法により深手を負い、同年10月の60本の刀鍛造完成翌日に発病。1,489年4月26日10時、近江国鈎の陣中にて水と酒しか受け付けない状態で死去、三首の辞世の句を詠み、遺体は細川政元・日野富子に譲られて京都へ帰還し等持院に葬られた、本書の主人公。
- 足利義政 室町幕府第8代征夷大将軍、義尚の父。西暦1,465年12月11日以前、義視を還俗させ猶子とし次期征夷大将軍に据え細川勝元を執事として政務から離れる積もりであったが、義尚誕生により日野富子と対立。1,467年9月8日夜の義視出発後は後継者を義尚とする事を検討。1,474年1月7日に義尚に征夷大将軍職を譲り、同年3月20日に花の御所も譲って小川殿に移った。1,479年12月以降も実権を握り続け義尚と確執を生んだ。1,482年7月28日に政務を義尚に譲る意思を表明。1,487年10月20日には安養寺布陣の義尚と贈答歌を交わし、1,489年4月26日の義尚死去後は政務に復帰したが中風再発で左半身不随となった、本書の義尚の父・共治者であり競合者。
- 日野富子 足利義尚の母。西暦1,465年12月11日に義尚を生み、義尚を征夷大将軍にさせようと足利義政と対立、兄日野勝光と結託して幕政に関与。1,487年9月には義尚に子供が居ない事を憂えて足利義稙を従五位下・左馬頭に叙任させた。1,487年8月16日の諏訪大社上社御射山祭奉納歌の詠人でもあり文化事業にも参加。1,488年10月の義尚発病時には看病に駆け付け、義尚一旦回復後に京都へ戻った。1,489年4月26日の義尚死去後は遺体を細川政元と共に受け取り、義視出家を条件に義稙を次期征夷大将軍に決定。同年5月10日の葬儀では莫大な資金提供を行い、最後の別れに際し裳階の中で声を惜しまず咽び泣いた、本書の義尚の母・最大の後援者。
- 日野勝光 日野富子の兄。西暦1,465年12月11日の義尚誕生後、富子と結託して幕政に関与し始めた、本書の富子を支えた兄。
- 足利義視 足利義政が還俗させて猶子とし次期征夷大将軍に据えた人物。西暦1,467年6月の応仁の乱開戦時は東軍、同年9月8日夜に出発した。1,474年8月8日には西軍の擁立姿勢の転換により名実共に敗北。1,489年4月26日の義尚死去後、日野富子によって義稙の次期征夷大将軍決定の条件として出家を求められた、本書の義尚と征夷大将軍職を巡って対比され続けた叔父。
- 足利義稙 西暦1,487年9月、義尚に子供が居ない事を憂えた日野富子の意向で従五位下・左馬頭に叙位任官された人物。義尚の猶子とし義尚を京都に戻して義稙を近江国に置くという案もあったが実行されなかった。1,489年4月26日の義尚死去後、足利義視の出家を条件に日野富子によって次期征夷大将軍に決定された、本書の義尚の後継者。
- 伊勢貞親・伊勢貞宗・伊勢又六 伊勢貞親は西暦1,467年9月8日以前、足利義政に呼び戻されて足利義視出発の切っ掛けとなった人物。伊勢貞宗は1,487年8月16日の諏訪大社上社御射山祭奉納歌に名を連ねた。伊勢又六は1,487年9月28日の義尚坂本出陣に加わった、本書の伊勢氏。
- 細川勝元 応仁の乱東軍の首魁で足利義政が当初執事として想定した人物。西暦1,467年6月の諸大名上洛要請で東西両軍構図を作った、本書の義尚誕生前に義政が据えた執事構想の当事者。
- 細川政元 西暦1,487年9月28日の義尚坂本出陣後、坂本で合流し、同年10月6日に琵琶湖経由で山田・志那到着、瀬田経由の義尚と合流して野洲河原にて山中橘六と交戦、同年10月20日の安養寺布陣でも軍中に居た。1,489年4月26日の義尚死去後は日野富子と共に遺体を譲り受けた、本書の六角征伐・終焉時の主要重臣。
- 細川勝久 西暦1,467年6月の応仁の乱東軍参加者、本書の応仁の乱東軍の一員。
- 山名宗全 応仁の乱西軍の首魁。西暦1,467年6月、堀川西岸の自身の屋敷と京都中央の斯波義廉の屋敷を拠点として東軍と対峙した、本書の応仁の乱西軍総帥。
- 山名政豊・山名常豊 西暦1,474年5月1日、政豊が長男常豊を連れて足利義尚に謁見し東幕府帰参が認められた。同年8月8日には西軍諸将を率いて出仕・謁見し、征夷大将軍擁立姿勢の転換を名実共に対外的に示した、本書の西軍から東幕府への転換を主導した山名氏。
- 畠山政長 応仁の乱東軍。西暦1,467年6月の上洛要請で参集し、1,487年9月28日の義尚坂本出陣後は坂本で合流した、本書の義尚東軍から六角征伐まで一貫して仕えた畠山当主。
- 畠山義就 応仁の乱西軍。西暦1,474年8月8日、山名政豊主導の西軍諸将の義尚出仕による擁立姿勢転換に反発した、本書の西軍転換に反発し続けた畠山当主。
- 斯波義敏・斯波義廉・斯波義寛 義敏は1,467年6月の応仁の乱東軍、義廉は西軍・京都中央に屋敷を構え西軍の拠点とした。義寛は1,487年9月28日の義尚坂本出陣後に坂本で合流した、本書の応仁の乱及び六角征伐期の斯波氏。
- 武田信賢・武田国信 信賢は武田信繁の弐男で1,467年6月の応仁の乱東軍参加者。国信は1,487年9月28日の義尚坂本出陣後に坂本で合流した、本書の武田氏。
- 京極持清・京極政経・京極高清 持清は1,467年6月の応仁の乱東軍参加者。政経・高清は1,487年9月28日の義尚坂本出陣に加わった。坂本に入ってからは京極氏が合流した、本書の京極氏。
- 赤松政則 西暦1,467年6月の応仁の乱東軍参加者、本書の応仁の乱東軍の一員。
- 一色義直 西暦1,467年6月の応仁の乱西軍参加者、本書の応仁の乱西軍の一員。
- 朝倉孝景 応仁の乱西軍参加者。西暦1,488年7月5日、足利義尚から富樫政親への援軍派遣を命じられ応じたが、一揆方が越前国境を封鎖して入国を阻んだ、本書の義尚からの援軍派遣要請の対象。
- 甲斐敏光・六角高頼・土岐成頼 西暦1,467年6月の応仁の乱西軍参加者。六角高頼は1,487年8月12日に義尚が征伐を正式決定した征伐の対象、土岐成頼は1,474年8月8日の西軍諸将出仕による擁立姿勢転換に反発した、本書の西軍の後半期における義尚との関係が特に深い面々。
- 成身院光宣 西暦1,467年6月の応仁の乱東軍参加者、本書の応仁の乱東軍の一員。
- 尋尊 第180世興福寺別当。西暦1,474年3月20日、足利義政が花の御所を義尚に譲って小川殿に移った後「政務は日野殿が取り仕切り、足利殿は酒に溺れ、諸大名は犬笠懸に興じ、まるで天下泰平の世の様だ」と評した、本書の義尚政権初期を批評した興福寺別当。
- 大内政弘 西暦1,474年8月8日の山名政豊主導の擁立姿勢転換に反発した西軍有力者。1,477年5月31日には東軍に内通しており河野通春の東軍帰参を仲介し足利義尚の安堵を取り付けた、本書の西軍末期から東軍帰参時期の仲介者。
- 河野通春 西暦1,477年5月31日、東軍に内通していた大内政弘の仲介により東軍に下り、足利義尚の安堵を取り付けた、本書の応仁の乱後半における東軍帰参者。
- 一条兼良・一条冬良 兼良は西暦1,478年1月に京都に戻って義尚に政道や和歌等を教え、義尚は翌年頃から盛んに歌会を主催する様になった。冬良は1,487年8月16日の諏訪大社上社御射山祭奉納歌に名を連ねた、本書の義尚の文化事業を支えた一条氏。
- 後土御門天皇・後柏原天皇 後土御門天皇は第103代天皇で後柏原天皇は其の第一皇子。西暦1,481年9月24日の「着到千首和歌」、1,483年2月20日の「将軍家詩歌合」、同年5月4日の内裏歌会で諏訪法楽30首に詠人として参加した、本書の義尚主催歌会に参加した天皇父子。
- 二条持通・近衛政家・中院通秀 二条持通・近衛政家は西暦1,482年6月25日の「将軍家百番歌合」、同年8月の「十五番歌合」、1,483年2月20日の「将軍家詩歌合」で詠人として参加。中院通秀は1,483年2月20日の「将軍家詩歌合」で詠人として参加、1,487年8月16日の諏訪大社上社御射山祭奉納歌にも近衛政家が名を連ねた、本書の義尚主催歌会に参加した公家。
- 飛鳥井雅親 西暦1,481年9月24日の「着到千首和歌」で点者、1,481年12月11日・1,482年6月25日・同年8月・1,486年の「殿中十五番歌合」で判者、撰藻鈔編纂参加、1,487年8月16日の諏訪大社上社御射山祭奉納歌にも名を連ねた、本書の義尚主催歌会の常連判者。
- 三条西実隆 西暦1,483年11月24日に足利義尚撰定の私撰和歌集「新百人一首」を足利の下で見、同年の撰藻鈔編纂にも参加、1,486年の「殿中十五番歌合」で詠人として参加した、本書の義尚文化事業に深く関わった公家。
- 姉小路基綱・宗祇・二階堂政行・細見宗高 西暦1,483年に足利義尚が結集して和歌打聞「撰藻鈔」の編纂に乗り出した歌人4名(細見宗高は三条西の門人)。二階堂政行は1,488年10月に陰陽博士土御門有宣の言を義尚に伝える経路ともなった、本書の撰藻鈔編纂者達。
- 冷泉為広 西暦1,486年の「殿中十五番歌合」で詠人として参加した、本書の殿中十五番歌合の参加歌人。
- 諏訪貞通 室町幕府奉行人。西暦1,487年8月16日、勧進して集められた歌50首が諏訪大社上社の御射山祭にて奉納された、本書の諏訪大社奉納歌勧進者。
- 六角高頼 西暦1,487年8月12日、足利義尚に征伐を正式決定された人物。同年10月6日に山中橘六を指示して野洲河原で室町幕府軍と交戦させ、1,488年1月15日には甲賀郡の山中から出陣して望月出雲守以下甲賀二十一家による義尚陣所夜襲の契機を作った、本書の義尚征伐の対象。
- 富樫政親・富樫家延・富樫泰高・山川高藤 富樫政親は西暦1,487年9月28日の義尚坂本出陣の際に兵粮米・軍費を加賀国民衆に課した事で反富樫機運を招き帰国・高尾城籠城。1,488年7月17日に嫡男富樫家延と共に自害、其の自害を聞いた義尚は激怒し蓮如に本願寺門徒破門を迫った。富樫泰高は政親の首級を灰の中から探し出して大乗寺に葬った。山川高藤は政親の家老で加賀国守護代、三池掃部率いる一揆方に捕縛されたが脱出した、本書の六角征伐期に並行して起こった加賀一向一揆の当事者達。
- 蓮如 第8世本願寺宗主。西暦1,488年7月17日の富樫政親自害に際して、激怒した足利義尚から本願寺門徒等の破門を迫られた、本書の義尚の激怒の対象。
- 山中橘六 六角高頼の指示で山田方面を守備していた将。西暦1,487年10月6日、細川政元・足利義尚率いる室町幕府軍と野洲河原にて交戦し敗れたが多大な損害を与え、戦功を挙げた甲賀武士53名は後に甲賀五十三家と呼ばれる契機を作った、本書の甲賀五十三家誕生の戦の将。
- 甲賀五十三家筆頭格望月出雲守 西暦1,487年10月6日の野洲河原交戦で戦功を挙げた甲賀武士の筆頭格。1,488年1月15日夜には甲賀二十一家を率いて近江国鈎の足利義尚陣所に夜襲を仕掛けた、本書の義尚に深手を負わせた甲賀衆の棟梁。
- 甲賀二十一家 山中十郎・伴佐京介・美濃部源吾の柏木三家、黒川久内・頓宮利盛・大野宮内小輔・岩室大学介・芥川左京亮・隠岐右近太夫・佐治河内守・神保兵内・大河原源太の北山九家、大原源三郎・和田伊賀守・上野主膳正・高峰蔵人・池田庄右衛門・多喜俊兼の南山六家、鵜飼源八郎・内貴伊賀守・服部藤太夫の荘内三家の21名。西暦1,487年10月6日の野洲河原交戦で戦果が目覚ましく六角高頼から感状を受けた。1,488年1月15日夜、望月出雲守と共に近江国鈎の足利義尚陣所に夜襲を仕掛け亀六の法により室町幕府軍を翻弄し足利に深手を負わせた、本書の義尚を討った21名の甲賀衆。
- 山内政綱 西暦1,488年1月15日の六角高頼率いる軍の出陣に伴い、三上に布陣した将、本書の鈎の陣夜襲時の六角方布陣者。
- 田中兵衛尉・土肥刑部少輔・大原政重・大原尚親・吉田源四郎・岩室弥四郎 西暦1,487年9月28日、足利義尚の坂本出陣に加わった諸将、本書の六角征伐出陣に加わった諸将。
- 土御門有宣 陰陽博士。二階堂政行経由で足利義尚に「60名の刀鍛冶に60本の刀を打たせれば敵を誅滅出来る」と伝えた人物、本書の60本の刀鍛造の発端を成した陰陽博士。
主要な地名・拠点
- 花の御所 室町幕府の政庁。西暦1,467年6月には応仁の乱の東軍布陣の中心となった。1,474年3月20日、足利義政が義尚に譲って小川殿に移り、日野富子と義尚は残った、本書の義尚政権発足の舞台。
- 小川殿 現在の京都府京都市上京区寺之内通堀川東入ル百々町。西暦1,474年3月20日、足利義政が花の御所を義尚に譲って移った地、本書の義政隠居先。
- 禁裏・内裏 京都の皇居。西暦1,474年3月28日・29日に義尚が参内、1,481年9月24日には「着到千首和歌」が禁裏で開催、1,483年5月4日には義尚参内時に諏訪法楽30首披露の歌会が開催された、本書の義尚参内と歌会の舞台。
- 多田院 現在の兵庫県川西市。西暦1,484年、足利義尚が「多田院廟前詠五十首和歌」を奉納した地、本書の摂津国奉納歌の地。
- 諏訪大社上社 現在の長野県諏訪市中洲宮山。西暦1,487年8月16日、室町幕府奉行人諏訪貞通等が勧進して集められた歌50首が御射山祭にて奉納された、本書の御射山祭奉納歌の地。
- 坂本 近江国の地。西暦1,487年9月28日、足利義尚が391騎・8,000名を率いて出陣した目的地。ここで細川政元・斯波義寛・畠山政長・山名氏・一色氏・富樫政親・京極氏・武田国信等と合流した、本書の六角征伐出陣の目的地。
- 瀬田 現在の滋賀県大津市。西暦1,487年10月6日、足利義尚率いる軍が坂本から陸路で経由して山田・志那に至り細川政元率いる軍と合流した、本書の義尚軍の行軍経路。
- 山田・志那 共に現在の滋賀県草津市。西暦1,487年10月6日、細川政元率いる軍が琵琶湖を経由して到着した地。足利義尚率いる軍と合流し野洲河原で山中橘六と交戦した、本書の細川政元軍琵琶湖到着の地。
- 野洲河原 西暦1,487年10月6日、細川政元・足利義尚率いる室町幕府軍が六角高頼の指示で山田方面を守備していた山中橘六率いる軍と交戦し、山中を敗った戦場。戦功を挙げた甲賀武士53名は後に甲賀五十三家と呼ばれる契機を作った、本書の甲賀五十三家誕生の戦場。
- 安養寺 現在の滋賀県栗東市。西暦1,487年10月20日、足利義尚率いる軍が六角高頼を追って坂本から琵琶湖を経由して布陣した地。六角氏の押領地を没収し側近や寺社に還付し、足利義政と「坂本の浜路を出て浪安く養ふ寺にありと答へよ」「やかてはや国収りて民安く養ふ寺を立ちぞ帰らん」の贈答歌を交わした、本書の義尚親子贈答歌の地。
- 真宝館・近江国鈎 真宝館は現在の滋賀県栗東市上鈎、山徒真宝坊の居館。近江国鈎はその周辺。西暦1,487年11月12日、足利義尚が本陣を安養寺から真宝館に移した。1,488年1月15日夜、望月出雲守以下甲賀二十一家による夜襲を受け亀六の法により義尚が深手を負った陣所であり、1,489年4月26日10時の義尚死去の地、本書の義尚終焉の地。
- 甲賀郡の山中・三上 山中は甲賀武士の拠点、三上は現在の滋賀県野洲市。西暦1,488年1月15日、六角高頼率いる軍が甲賀郡の山中から出陣し、山内政綱は三上に布陣した、本書の鈎の陣夜襲準備の地。
- 等持院 現在の京都府京都市北区。西暦1,489年5月10日、足利義尚の葬儀後に埋葬された地。又1,487年9月28日の義尚坂本出陣に際し富樫政親の山川高藤が等持院領加賀粟津保に兵糧200石・人夫100名を課した事もあった、本書の義尚最終埋葬地。
主要な事件・出来事
- 足利義尚の生誕と両親の対立 西暦1,465年12月11日、足利義政と日野富子との間に足利義尚が生誕した。義政は義視を無理矢理還俗させて猶子とし次期征夷大将軍に据え細川勝元を執事として政務から離れる積もりであったが、義尚の誕生により、義尚を征夷大将軍にさせようとする富子と対立。富子は兄日野勝光と結託して幕政に関与し始めた、本書の発端。
- 応仁の乱東西両軍構図の成立 西暦1,467年6月、細川勝元が諸大名に上洛を要請し、畠山政長等が参集した。東軍は細川・足利義視・政長・斯波義敏・武田信賢・成身院光宣・細川勝久・京極持清・赤松政則、西軍は山名宗全・足利義尚・畠山義就・斯波義廉・一色義直・朝倉孝景・甲斐敏光・六角高頼・土岐成頼が参じた、本書の義尚が名義上西軍に属した場面。
- 足利義視の出発と義尚後継検討の開始 西暦1,467年9月8日夜、足利義視が出発した。足利義政が伊勢貞親を呼び戻した事が切っ掛けであった。此の行動に失望した義政は、後継者を足利義尚とする事を検討し始めた、本書の義尚後継確立の発端。
- 第9代室町幕府征夷大将軍補任と花の御所譲渡 西暦1,474年1月7日、足利義政が征夷大将軍職を足利義尚に譲り、義尚が第9代室町幕府征夷大将軍に補任された。同年3月20日には花の御所を譲られ、義政は小川殿に移り、日野富子と義尚は花の御所に残った。第180世興福寺別当尋尊は「政務は日野殿が取り仕切り、足利殿は酒に溺れ、諸大名は犬笠懸に興じ、まるで天下泰平の世の様だ」と評した、本書の義尚の公的地位確立。
- 山名政豊以下西軍諸将の東幕府帰参 西暦1,474年5月1日、山名政豊が長男常豊を連れて足利義尚に謁見し東幕府帰参が認められた。同年8月8日には西軍諸将が足利義尚に出仕・謁見し、足利義視の征夷大将軍擁立の姿勢を一変させ方針転換を名実共に対外的に示した。此の姿勢に畠山義就・土岐成頼・大内政弘が反発した、本書の西軍解体の決定的局面。
- 河野通春の東軍帰参 西暦1,477年5月31日、河野通春が東軍に内通していた大内政弘の仲介によって東軍に下り足利義尚の安堵を取り付けた、本書の応仁の乱終盤の戦後処理。
- 一条兼良の京都帰還と歌会の始まり 西暦1,478年1月、一条兼良が京都に戻った。其の後一条は足利義尚に政道や和歌等を教え、足利は翌年頃から盛んに歌会を主催する様になった、本書の義尚の文化事業の起点。
- 義尚の親政開始と父子の確執 西暦1,479年12月、足利義尚が御判始・評定始・御前沙汰始を行い政務を執り始めた。しかし、依然として足利義政が実権を握っており父子間に確執が生じた。1,482年7月28日には義政が政務を義尚に譲る意思を表明した、本書の義尚親政の発端と父子関係の転換。
- 権大納言任官 西暦1,480年5月8日、足利義尚が権大納言に任ぜられた、本書の義尚の朝廷に於ける昇叙。
- 着到千首和歌と将軍家三十番歌合 西暦1,481年9月24日、足利義尚主催の「着到千首和歌」が禁裏にて開催され、後土御門天皇等が詠人として参加し飛鳥井雅親が点者を務めた。同年12月11日、「将軍家三十番歌合」が開催され足利も詠人として参加し飛鳥井雅親が判者を務めた、本書の義尚歌会主催の本格的開始。
- 将軍家百番歌合・十五番歌合・将軍家将軍家千首歌合 西暦1,482年6月25日に「将軍家百番歌合」、同年8月に「十五番歌合」、同年9月23日に「将軍家将軍家千首歌合」が開催され、二条持通・近衛政家等が詠人として参加、飛鳥井雅親が判者を務めた、本書の義尚1,482年一連歌会。
- 将軍家詩歌合と内裏諏訪法楽歌会 西暦1,483年2月20日、「将軍家詩歌合」が開催され、詩は近衛政家等、歌は後土御門天皇・後柏原天皇・足利義尚・二条持通・近衛政家・中院通秀等が詠人として参加、衆議により判定された。同年5月4日、義尚が内裏に参内し、内裏で歌会が開催され、後土御門天皇・後柏原天皇・足利義政が詠んだ歌を含む神明に奉納する諏訪法楽30首が披露された、本書の義尚の詩歌合と内裏歌会。
- 新百人一首撰定と撰藻鈔編纂開始 西暦1,483年11月24日、三条西実隆が足利義尚撰定の私撰和歌集「新百人一首」を足利の下で見た。新百人一首は藤原定家撰定の小倉百人一首から漏れた歌人の歌を各和歌集から100首撰定したものであった。更に足利は同年、姉小路基綱・三条西・飛鳥井雅親・宗祇・二階堂政行・三条西の門人細見宗高を結集して和歌打聞「撰藻鈔」の編纂に乗り出した、本書の義尚の文化事業の頂点。
- 多田院廟前詠五十首和歌・殿中十五番歌合・文明十八年殿中千五百番歌合 西暦1,484年、摂津国の多田院に「多田院廟前詠五十首和歌」を奉納した。1,486年、「殿中十五番歌合」が開催され冷泉為広・三条西実隆等が詠人として参加、飛鳥井雅親が判者を務めた。同年4月20日、「文明十八年殿中千五百番歌合」が開催された、本書の義尚晩年の大型歌会連続。
- 六角高頼征伐の正式決定と諏訪大社奉納歌 西暦1,487年8月12日、足利義尚が六角高頼征伐を正式決定し、在京・在国の諸将を招集した。同月16日、室町幕府奉行人諏訪貞通等が勧進して集められた歌50首が諏訪大社上社の御射山祭にて奉納された。花・郭公・月・恋・山家・旅・祝等10題で其々5首詠まれ、足利義尚・近衛政家・日野富子・飛鳥井雅親・一条冬良・伊勢貞宗等が名を連ねた、本書の六角征伐発動と其の直前の奉納歌。
- 足利義稙の叙位任官 西暦1,487年9月、足利義尚に子供が居ない事を憂えた日野富子の意向により足利義稙が従五位下・左馬頭に叙位任官された。此の頃、義稙を義尚の猶子とし、長享・延徳の乱で近江国に居た義尚を京都に戻して義稙を近江国に置くという案も有ったが、実行されなかった、本書の後継者擁立の動き。
- 坂本への出陣 西暦1,487年9月28日、香の袷・白綾の腹巻・赤地金襴に桐唐草の模様の直垂・重藤弓・粟田口吉光の太刀を身に纏った足利義尚が六角高頼征伐の為坂本へ向けて出陣した。兵力は391騎・8,000名、京極政経・京極高清・田中兵衛尉等が加わり、坂本で細川政元・斯波義寛・畠山政長・山名氏・一色氏・富樫政親・京極氏・武田国信等と合流した、本書の六角征伐出陣。
- 野洲河原交戦と甲賀五十三家の命名 西暦1,487年10月6日、細川政元率いる軍が琵琶湖経由で山田・志那に到着、其の後細川は坂本から陸路で瀬田経由でやって来た足利義尚率いる軍と合流し、六角高頼の指示で山田方面を守備していた山中橘六率いる軍と野洲河原にて交戦した。山中は敗れたが室町幕府軍に多大な損害を与え、戦功を挙げた甲賀武士53名は後に甲賀五十三家と呼ばれ、戦果の目覚ましい21名は六角から感状を受け甲賀二十一家と呼ばれた、本書の甲賀五十三家誕生の戦い。
- 安養寺布陣と父子贈答歌 西暦1,487年10月20日、足利義尚率いる軍が六角高頼を追って坂本から琵琶湖経由で安養寺に布陣し、六角氏の押領地を没収し側近や寺社に還付した。義尚は義政に「坂本の浜路を出て浪安く養ふ寺にありと答へよ」と贈り、義政は「やかてはや国収りて民安く養ふ寺を立ちぞ帰らん」と返歌した、本書の義尚親子最終の和歌交換。
- 真宝館への本陣移動 西暦1,487年11月12日、足利義尚が本陣を山徒真宝坊の居館である真宝館に移した、本書の鈎の陣成立の直接の前段。
- 鈎の陣夜襲と亀六の法 西暦1,488年1月15日、六角高頼率いる軍が甲賀郡の山中から出陣し、山内政綱は三上に布陣した。夜、望月出雲守と山中十郎以下甲賀二十一家が近江国鈎の足利義尚の陣所に夜襲を仕掛けた。地元の地形を熟知していた甲賀衆は煙幕を張り放火を仕掛けて混乱を起こし足利の本陣に迫り、敵が攻めてくると身を隠し敵が撤退すれば後ろから攻撃を加える「亀六の法」と呼ばれる戦法によって室町幕府軍は翻弄され、最終的には大損害を被り足利も深手を負った、本書の義尚が致命的な深手を負った夜襲戦。
- 朝倉孝景への富樫政親援軍派遣命令と富樫自害 西暦1,488年7月5日、足利義尚が越前国の朝倉孝景等に富樫政親の下へ援軍を派遣する様命じ、朝倉は応じたが一揆方が越前国との国境を封鎖して入国を阻んだ。同月17日、富樫政親が嫡男富樫家延と共に自害し高尾城が落城した事を聞いた足利義尚は激怒し、蓮如に本願寺門徒等の破門を迫った、本書の加賀一向一揆に対する義尚の反応。
- 60本の刀鍛造と発病 西暦1,488年10月、足利義尚が陣中に打たせていた60本の刀が完成した。足利は二階堂政行経由で陰陽博士土御門有宣から「60名の刀鍛冶に60本の刀を打たせれば敵を誅滅出来る」と聞き刀を作らせていた。しかし60本完成の翌日、足利が病に倒れ日野富子が看病に駆け付けた。足利は元々体が弱く軍営での激務と共に京都から訪れる公家・高僧の接遇を自ら行い酒量も増えていた。足利は其の後一旦回復し、日野は京都に戻った、本書の義尚の死への直接の前段。
- 近江国鈎陣中死去と三首の辞世の句 西暦1,489年4月16日、足利義尚の病が重篤な状態となり、同月26日10時、足利義尚が近江国鈎の陣中にて死去した。水と酒しか受け付けない状態であった。義尚は臨終に際し足利義政に対し「ながらへば人の心も見るべきに露の命ぞはかなかりけり」「もしほ草あまの袖師の裏波にやどすも心あり明の月」「出づる日の余の国までも鏡山と思ひしこともいたづらの身や」の三首の辞世の句を詠んだ。遺体は細川政元と日野富子に譲られ、凱旋将軍の様な隊列で以って京都に帰還した。其の後日野は、足利義視が出家する事を条件に足利義稙を次期征夷大将軍に決定した、本書の義尚終焉と後継決定。
- 葬儀と等持院埋葬 西暦1,489年5月10日、足利義尚の葬儀が執り行われた。葬儀に際して遺体の腐臭を防ぐ目的で口・目・鼻に水銀が注入された。日野富子は莫大な資金提供を行い、足利との最後の別れの際、裳階の中で声を惜しまず咽び泣いた。周囲の者も涙した。其の後足利は等持院に葬られた。足利義政は、義尚に代わり政務に復帰するが、程無くして中風を再発させて倒れ左半身不随となった、本書の終結点。
足利義政と日野富子の子としての生誕・日野富子日野勝光の幕政関与・応仁の乱西軍名義参加・1474年1月7日第9代征夷大将軍補任・花の御所譲渡と尋尊批評・山名政豊以下西軍諸将の東幕府帰参・一条兼良の指南・御判始評定始御前沙汰始による親政開始・権大納言任官・着到千首和歌から文明十八年殿中千五百番歌合迄の文化事業・新百人一首撰定と撰藻鈔編纂・1487年六角高頼征伐と坂本出陣・野洲河原での山中橘六撃破と甲賀五十三家命名・安養寺布陣と足利義政との贈答歌・真宝館移陣・1488年1月15日夜の望月出雲守率いる甲賀二十一家による鈎の陣夜襲と亀六の法による深手・朝倉孝景への富樫政親援軍派遣命令と富樫自害への激怒・土御門有宣の言に基づく60本の刀鍛造翌日の発病・1489年4月26日10時近江国鈎陣中死去と三首の辞世の句・細川政元日野富子による遺体帰洛と義稙次期征夷大将軍決定・水銀注入の葬儀と等持院埋葬──
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