電子書籍「足利義尚一元化」の表紙

足利義尚一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,465年12月11日〜1,489年5月10日
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
20ページ
最新更新日
西暦2,026年8月13日

西暦1,465年、一人の子の誕生が乱の火種になった──
第9代室町幕府征夷大将軍・足利義尚の生涯を一元化。

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本書について

西暦1,465年12月11日、足利義政と日野富子の間に足利義尚が生誕した。義政は、足利義視を無理矢理還俗させて自身の猶子とし、次期征夷大将軍として据えて、細川勝元を執事として政務から離れる積もりであった。其の算段が、一人の子の誕生で崩れる。義尚を征夷大将軍にさせようとする富子と義政は対立し、富子は自身の兄・日野勝光と結託して幕政へ関与し始めた。生まれた日が、そのまま次の争いの起点となる——本書は、此の生誕の日から、西暦1,489年5月10日の葬儀に至るまでの二十三年五ヶ月を、年月日単位で一元化した記録である。

西暦1,467年6月頃、細川勝元が諸大名に上洛を要請し、畠山政長等が参集する。細川の屋敷と花の御所を中心とした京都北部から東に布陣した細川方と、堀川西岸の山名宗全の屋敷及び京都中央の斯波義廉の屋敷を拠点とする山名方——東軍と西軍の構図が、此処ではっきりした。生後一年半の義尚の名は、山名宗全に続いて西軍の陣容に置かれている。同年9月8日の夜、足利義視が出発した。足利義政が伊勢貞親を呼び戻した事が切っ掛けであり、此の行動に失望した義政は、後継者を義尚とする事を検討し始める。

西暦1,474年1月7日、足利義政が征夷大将軍職を譲り、足利義尚が第9代室町幕府征夷大将軍に補任された。3月20日には花の御所も譲られ、義政は小川殿(現在の京都府京都市上京区寺之内通堀川東入ル百々町)へ移る。花の御所に残ったのは日野富子と義尚であった。第180世興福寺別当・尋尊は、政務は日野殿が取り仕切り、足利殿は酒に溺れ、諸大名は犬笠懸に興じている——まるで天下泰平の世の様だ、と評している。5月1日には山名政豊が長男・山名常豊を連れて謁見し、東幕府への帰参が認められた。8月8日には西軍諸将が出仕して謁見し、足利義視を征夷大将軍に擁立する姿勢の転換を、名実共に対外へ示す。此の姿勢には、畠山義就・土岐成頼・大内政弘が反発した。

西暦1,478年1月頃、一条兼良が京都に戻り、義尚に政道や和歌等を教えた。義尚が盛んに歌会を主催するのは、其の翌年頃からである。西暦1,479年12月頃には御判始・評定始・御前沙汰始を行って政務を執り始めるが、依然として実権は義政が握っており、父子の間に確執が生じた。西暦1,480年5月8日に権大納言へ任ぜられて以降、義尚の名は歌の記録に頻出する。着到千首和歌、将軍家三十番歌合、将軍家百番歌合、十五番歌合、将軍家将軍家千首歌合、将軍家詩歌合——多くで飛鳥井雅親が点者・判者を務め、後土御門天皇や後柏原天皇、二条持通・近衛政家・中院通秀等が詠人として名を連ねた。西暦1,483年11月24日には、小倉百人一首から漏れた歌人の歌を各和歌集から100首撰定した私撰和歌集「新百人一首」を、三条西実隆が義尚の下で見ている。同年、義尚は姉小路基綱・三条西・飛鳥井雅親・宗祇等を結集して和歌打聞「撰藻鈔」の編纂にも乗り出した。

西暦1,487年8月12日、足利義尚は六角高頼征伐を正式に決定し、在京・在国の諸将を招集する。9月28日、香の袷・白綾の腹巻・赤地金襴に桐唐草の模様の直垂を身に纏い、重藤弓と粟田口吉光の太刀を帯びて坂本へ出陣した。着飾った将軍を一目見ようと、見物人が集まったという。兵力は391騎・8,000名。10月6日、琵琶湖を経由して山田・志那(いずれも現在の滋賀県草津市)に到着した細川政元率いる軍は、瀬田を経由してきた義尚の軍と合流し、山田方面を守備していた山中橘六率いる軍と野洲河原で交戦する。山中は敗れたものの幕府軍に多大な損害を与え、此の時の甲賀武士53名が後に甲賀五十三家、中でも戦果の目覚ましい21名が甲賀二十一家と呼ばれた。10月20日、義尚は安養寺(現在の滋賀県栗東市)に布陣して六角氏の押領地を没収し、父・義政と歌を贈答している。11月12日には本陣を真宝館(現在の滋賀県栗東市上鈎)へ移した。

西暦1,488年1月15日の夜、望月出雲守と甲賀二十一家が、近江国鈎の陣所に夜襲を仕掛けた。地元の地形を熟知した甲賀衆は煙幕を張り放火を仕掛けて混乱を起こし、本陣に迫る。敵が攻めてくれば身を隠し、退けば後ろから討つ——「亀六の法」と呼ばれた戦法に幕府軍は翻弄され、大損害を被った。義尚自身も深手を負っている。加賀国では、出陣に際して兵粮米・軍費を民衆に課した富樫政親に対する反発が高まり、7月17日、富樫は嫡男・富樫家延と共に自害して高尾城が落城した。義尚は激怒し、蓮如に本願寺門徒等の破門を迫っている。

西暦1,488年10月頃、義尚が陣中に打たせていた60本の刀が完成した。60名の刀鍛冶に60本の刀を打たせれば敵を誅滅出来る——陰陽博士・土御門有宣から二階堂政行経由で聞いた話に拠るものであった。刀が完成した翌日、足利義尚は病に倒れる。元々体が弱く、軍営での激務に加え、京都から訪れる公家・高僧の接遇を自ら行い、酒量も増えていた。一旦は回復したものの、西暦1,489年4月16日に病は重篤となり、4月26日10時、近江国鈎の陣中にて死去した。水と酒しか受け付けない状態であったという。臨終に際して父・義政へ詠んだ三首の辞世が本書には記録されている。遺体は細川政元と日野富子に譲られ、凱旋将軍の様な隊列で京都へ帰還した。5月10日の葬儀では、腐臭を防ぐ目的で口・目・鼻に水銀が注入され、莫大な資金を提供した日野富子は、裳階の中で声を惜しまず咽び泣いた。義尚は等持院に葬られ、政務に復帰した義政も程無く中風を再発させて倒れ、左半身不随となる。


登場人物

  • 足利義尚 本書の中心人物。第9代室町幕府征夷大将軍。西暦1,465年12月11日に足利義政と日野富子の間に生誕し、其の誕生が後継を巡る対立の起点となった。西暦1,474年1月7日に将軍職を継ぎ、一条兼良に学んで数々の歌合を主催。西暦1,487年8月12日に六角高頼征伐を決定して出陣したが、西暦1,489年4月26日、近江国鈎の陣中で死去した。
  • 足利義政 足利義尚の父。足利義視を還俗させて猶子とし次期征夷大将軍に据える積もりであったが、義尚の誕生により日野富子と対立した。西暦1,474年に将軍職と花の御所を義尚に譲って小川殿へ移りながら、実権は握り続け、父子の確執を生む。義尚の死後は政務に復帰したものの、程無く中風を再発させて左半身不随となった。
  • 日野富子 足利義尚の母。我が子を征夷大将軍にすべく足利義政と対立し、兄・日野勝光と結託して幕政へ関与し始めた。西暦1,487年9月頃には義尚に子が無い事を憂えて足利義稙の叙位任官を実現させ、義尚の発病時には看病に駆け付け、葬儀では莫大な資金を提供して咽び泣いた。
  • 日野勝光 日野富子の兄。妹と結託し、幕政への関与を始めた人物。
  • 足利義視 足利義政に無理矢理還俗させられ、猶子として次期征夷大将軍に据えられた人物。西暦1,467年6月頃の東西両軍の構図では東軍に置かれたが、同年9月8日の夜に出発した。西軍は其の擁立姿勢を西暦1,474年に一変させ、義尚の死後は、出家を条件に足利義稙が次期将軍に決定された。
  • 足利義稙 西暦1,487年9月頃、義尚に子が無い事を憂えた日野富子の意向により従五位下・左馬頭に叙位任官された。義稙を義尚の猶子とし、近江国に居た義尚を京都へ戻して義稙を近江国に置く案も有ったが、実行されなかった。義尚の死後、次期征夷大将軍に決定される。
  • 細川勝元 足利義政が執事として据える積もりであった人物。西暦1,467年6月頃に諸大名へ上洛を要請し、其の屋敷と花の御所を中心とした布陣が東軍の骨格となった。
  • 細川政元 西暦1,487年10月6日、琵琶湖を経由して山田・志那へ到着し、坂本から陸路で来た義尚の軍と合流して野洲河原で交戦した。義尚の死後は、日野富子と共に其の遺体を託され、凱旋将軍の様な隊列で京都へ帰還した。
  • 山名宗全 堀川西岸の屋敷を拠点とし、西軍の中心に置かれた人物。細川方と山名方という構図が、そのまま東軍・西軍の呼称となった。
  • 山名政豊 西暦1,474年5月1日、長男・山名常豊を連れて足利義尚に謁見し、東幕府への帰参を認められた。同年8月8日には西軍諸将を率いて出仕・謁見し、足利義視擁立の方針転換を対外的に示した。
  • 畠山義就 西軍の武将。西暦1,474年8月8日の西軍諸将の出仕と方針転換に反発した三名の一人。西暦1,477年6月頃には、伊勢国を巡って北畠が味方するのではないかと周囲に警戒された。
  • 大内政弘 西軍の武将。西暦1,474年8月8日の方針転換に反発した一人でありながら、西暦1,477年5月31日には東軍へ内通しており、河野通春を東軍へ下らせる仲介を務めた。
  • 尋尊 第180世興福寺別当。西暦1,474年3月20日、政務は日野殿が取り仕切り、足利殿は酒に溺れ、諸大名は犬笠懸に興じている——まるで天下泰平の世の様だ、と当時の幕府を評した。
  • 一条兼良 西暦1,478年1月頃に京都へ戻り、足利義尚に政道や和歌等を教えた人物。義尚が盛んに歌会を主催し始めるのは、其の翌年頃からである。
  • 飛鳥井雅親 着到千首和歌の点者、将軍家三十番歌合・将軍家百番歌合・十五番歌合・殿中十五番歌合の判者を務めた歌人。「撰藻鈔」の編纂にも加わり、諏訪大社上社への奉納歌にも名を連ねた、義尚の文事を通じて最も繰り返し登場する人物。
  • 三条西実隆 西暦1,483年11月24日、足利義尚が撰定した私撰和歌集「新百人一首」を義尚の下で見た人物。「撰藻鈔」の編纂にも加わり、西暦1,486年の殿中十五番歌合にも詠人として参加した。
  • 六角高頼 西暦1,487年8月12日に足利義尚が正式に征伐を決定した相手。山中橘六に山田方面の守備を指示し、西暦1,488年1月15日には甲賀郡の山中から出陣した。野洲河原で戦功を挙げた甲賀武士21名に感状を与えており、彼等が甲賀二十一家と呼ばれる。
  • 山中橘六 六角高頼の指示で山田方面を守備した武将。西暦1,487年10月6日、野洲河原にて室町幕府軍と交戦し、敗れたものの多大な損害を与えた。
  • 望月出雲守 甲賀五十三家の筆頭格。西暦1,488年1月15日の夜、甲賀二十一家と共に近江国鈎の足利義尚の陣所へ夜襲を仕掛け、「亀六の法」と呼ばれる戦法で幕府軍を翻弄した。
  • 富樫政親 加賀国の領主。西暦1,487年9月28日の義尚の出陣に際し兵粮米・軍費を領国の民衆に課した事から反富樫の機運が高まり、帰国して高尾城に入った。一揆方の和睦を受け入れず、西暦1,488年7月17日、嫡男・富樫家延と共に自害する。其の首級は富樫泰高によって灰の中から探し出され、大乗寺に葬られた。
  • 朝倉孝景 越前国の武将。西暦1,467年6月頃の構図では西軍に置かれた。西暦1,488年7月5日、足利義尚から富樫政親の下へ援軍を派遣する様命じられて応じたが、一揆方が越前国との国境を封鎖した為、入国を阻まれた。
  • 蓮如 富樫政親の自害を聞いて激怒した足利義尚から、本願寺門徒等の破門を迫られた人物。
  • 土御門有宣 陰陽博士。60名の刀鍛冶に60本の刀を打たせれば敵を誅滅出来ると説き、其の話は二階堂政行を経由して足利義尚に伝えられた。刀が完成した翌日、義尚は病に倒れる。

本書が記録する出来事

  • 足利義尚の生誕と後継を巡る対立 西暦1,465年12月11日、本書の起点。足利義政と日野富子の間に義尚が生誕した。足利義視を猶子として次期征夷大将軍に据える積もりであった義政と、我が子を将軍にしようとする富子が対立し、富子は兄・日野勝光と結託して幕政へ関与し始めた。
  • 東軍・西軍の構図の成立 西暦1,467年6月頃、細川勝元が諸大名に上洛を要請し、畠山政長等が参集した。細川の屋敷と花の御所を中心に京都北部から東へ布陣した細川方が東軍、堀川西岸の山名宗全の屋敷と京都中央の斯波義廉の屋敷を拠点とする山名方が西軍と呼ばれる。幼い足利義尚の名は西軍の陣容に置かれた。
  • 足利義視の出発 西暦1,467年9月8日の夜、足利義政が伊勢貞親を呼び戻した事を切っ掛けに、足利義視が出発した。此の行動に失望した義政は、後継者を足利義尚とする事を検討し始める。
  • 第9代室町幕府征夷大将軍への補任 西暦1,474年1月7日、足利義政が征夷大将軍職を譲り、足利義尚が第9代室町幕府征夷大将軍に補任された。同年3月28日・29日には内裏へ参内している。
  • 花の御所の譲渡と小川殿への隠退 西暦1,474年3月20日、足利義政が花の御所を義尚に譲り、小川殿(現在の京都府京都市上京区寺之内通堀川東入ル百々町)へ移った。花の御所には日野富子と義尚が残り、第180世興福寺別当・尋尊は、政務を取り仕切るのは日野殿であると評している。
  • 西軍諸将の東幕府帰参 西暦1,474年5月1日、山名政豊が長男・山名常豊を連れて謁見し帰参を認められ、8月8日には西軍諸将が出仕・謁見した。足利義視擁立の姿勢を一変させた此の転換に、畠山義就・土岐成頼・大内政弘が反発した。
  • 河野通春の東軍帰参 西暦1,477年5月31日、河野通春が、東軍に内通していた大内政弘の仲介によって東軍に下り、足利義尚の安堵を取り付けた。
  • 一条兼良の帰京と歌会の始まり 西暦1,478年1月頃、一条兼良が京都に戻り、足利義尚に政道や和歌等を教えた。義尚が盛んに歌会を主催し始めるのは、其の翌年頃からである。
  • 親政の開始と父子の確執 西暦1,479年12月頃、足利義尚が御判始・評定始・御前沙汰始を行って政務を執り始めた。然し依然として足利義政が実権を握っており、父子の間に確執が生じる。西暦1,480年5月8日には権大納言に任ぜられ、西暦1,482年7月28日、義政が政務を譲る意思を表明した。
  • 歌合と撰集の日々 西暦1,481年の着到千首和歌・将軍家三十番歌合に始まり、将軍家百番歌合、十五番歌合、将軍家将軍家千首歌合、将軍家詩歌合、殿中十五番歌合、文明十八年殿中千五百番歌合へと続いた足利義尚主催の催し。多くで飛鳥井雅親が点者・判者を務め、後土御門天皇・後柏原天皇・二条持通・近衛政家・中院通秀等が詠人として参加した。
  • 新百人一首の撰定と撰藻鈔の編纂 西暦1,483年11月24日、三条西実隆が、足利義尚の撰定した私撰和歌集「新百人一首」を義尚の下で見た。小倉百人一首から漏れた歌人の歌を各和歌集から100首撰定したものであり、同年、義尚は姉小路基綱・三条西・飛鳥井雅親・宗祇・二階堂政行・細見宗高を結集して和歌打聞「撰藻鈔」の編纂にも乗り出した。
  • 六角高頼征伐の決定と坂本への出陣 西暦1,487年8月12日、足利義尚が六角高頼征伐を正式に決定し諸将を招集した。9月28日、香の袷・白綾の腹巻・赤地金襴に桐唐草の模様の直垂を纏い、重藤弓と粟田口吉光の太刀を帯びて坂本へ出陣する。兵力は391騎・8,000名で、着飾った将軍を一目見ようと見物人が集まった。
  • 野洲河原の交戦と甲賀五十三家 西暦1,487年10月6日、細川政元率いる軍が琵琶湖を経由して山田・志那へ到着し、瀬田を経由してきた義尚の軍と合流して、山中橘六率いる軍と野洲河原で交戦した。山中は敗れたものの幕府軍に多大な損害を与え、戦功を挙げた甲賀武士53名は甲賀五十三家、中でも六角から感状を受けた21名は甲賀二十一家と呼ばれた。
  • 安養寺の布陣と父子の贈答歌 西暦1,487年10月20日、足利義尚率いる軍が六角高頼を追って安養寺(現在の滋賀県栗東市)に布陣し、六角氏の押領地を没収して側近や寺社へ還付した。此の地から義尚は足利義政へ歌を贈り、義政も返歌を贈っている。11月12日には本陣を真宝館(現在の滋賀県栗東市上鈎)へ移した。
  • 鈎の陣への夜襲と亀六の法 西暦1,488年1月15日、六角高頼率いる軍が甲賀郡の山中から出陣し、其の夜、望月出雲守と甲賀二十一家が近江国鈎の陣所へ夜襲を仕掛けた。地形を熟知した甲賀衆は煙幕と放火で混乱を起こし、攻めれば身を隠し退けば背後を討つ「亀六の法」で幕府軍を翻弄する。幕府軍は大損害を被り、足利義尚も深手を負った。
  • 富樫政親の自害と高尾城の落城 西暦1,488年1月頃、出陣に際して兵粮米・軍費を課された加賀国で反富樫の機運が高まり、富樫政親は帰国して高尾城に入った。7月5日には足利義尚が朝倉孝景等に援軍派遣を命じたが、一揆方が国境を封鎖して阻む。7月17日、富樫は嫡男・富樫家延と共に自害し高尾城が落城、多くの家臣も後を追った。義尚は激怒し、蓮如に本願寺門徒等の破門を迫った。
  • 60本の刀の完成と発病 西暦1,488年10月頃、足利義尚が陣中に打たせていた60本の刀が完成した。60名の刀鍛冶に60本の刀を打たせれば敵を誅滅出来るという、陰陽博士・土御門有宣の説に基づくものであった。刀が完成した翌日、義尚は病に倒れる。元々体が弱く、軍営での激務に加え、公家・高僧の接遇を自ら行い、酒量も増えていた。
  • 近江国鈎の陣中での死去 西暦1,489年4月16日に病が重篤となり、4月26日10時、足利義尚が近江国鈎の陣中にて死去した。水と酒しか受け付けない状態であったという。臨終に際し足利義政へ詠んだ三首の辞世が記録されており、遺体は細川政元と日野富子に譲られ、凱旋将軍の様な隊列で京都へ帰還した。
  • 葬儀と等持院への埋葬 西暦1,489年5月10日、本書が記録する最後の一日。葬儀に際して遺体の腐臭を防ぐ目的で口・目・鼻に水銀が注入された。莫大な資金を提供した日野富子は、最後の別れに際し裳階の中で声を惜しまず咽び泣き、周囲の者も涙した。義尚は等持院に葬られ、政務に復帰した足利義政も程無く中風を再発させ、左半身不随となった。

花の御所の歌会から、近江国鈎の陣中へ──
足利義尚の二十三年五ヶ月の全過程を一冊に。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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