朝倉孝景と甲斐敏光が
繰り広げた
殿下・桶田・波着寺・
半助谷の戦い、
足利義政に反発し
国領を渡さない
北畠政郷・
細川成之に対する
一色義春の反撃一元化
日野川の合戦から、半助谷へ──
朝倉孝景と甲斐敏光の戦いを一元化。
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本書について
西暦1,474年2月頃、朝倉孝景が、日野川(現在の福井県)の合戦で、斯波義廉の家臣である増沢祐徳を破る。更に、杣山城(現在の福井県南条郡南越前町社谷)に籠城していた越前国守護代甲斐敏光も撃破した。其の後杣山城は、河合宗清の居城となり、朝倉孝景の支配下となった。本書は、此の日野川の合戦から、細川政元・山名政豊の単独の和睦、甲斐敏光率いる軍の岡保への進軍と殿下・桶田での激戦、足利義視による一色氏の領国の分配、波着寺周辺での朝倉孝景の勝利、斎藤妙椿による朝倉孝景・甲斐敏光の和解、一色義直・一色義春の三河国への出陣、伊勢国北半国守護職を巡る一色義春と北畠政郷の合戦、北畠政郷の伊勢国守護職の罷免を経て、西暦1,484年9月23日に一色義春が病死する迄を一元化した記録である。
西暦1,474年4月19日、細川政元・山名政豊の2名が単独で和睦する。仲介を務めたのは武田国信であった。武田国信に突き付けられた和睦の条件の1つとして、一色義直と戦って奪った丹後国の所領を返還し、丹後国守護職を一色義春へ返付する、というものが有った。又此の日、細川家と山名家を隔てる空堀には橋が架けられ、東陣(現在の京都府京都市上京区上小川町付近)から山名の陣を通って北野天満宮に参詣する者や、西軍の勢力下であった下京から東陣へ物を売る商人等が往来を始めた。
西暦1,474年5月31日、甲斐敏光率いる軍が、坂井郡や甲斐国に逃れた牢人と合流し、九頭竜川(現在の福井県)を越えて、岡保(現在の福井県福井市河水町)に進軍し、朝倉孝景率いる軍を攻撃、戦闘が開始される。殿下(現在の福井県福井市)・桶田(現在の福井県福井市河増町)で激戦が繰り広げられた。朝倉氏景が敵を多数討ち取った。6月15日頃、足利義政が、一色義春を引見する。又6月15日頃、甲斐敏光勢と朝倉孝景勢の戦闘が、波着寺(現在の福井県福井市成願寺町)周辺に移る。6月21日、足利義視が、一色氏の知行していた領国を其々の忠誠に応じて、三河国を讃州細川家に、伊勢国・丹後国を一色義春に、若狭国を武田国信に分配する決定を下す。此れにより、一色義春は第22代室町幕府丹後国守護に就任した。又、此の年足利義政は、第26代室町幕府伊勢国守護北畠政郷に、伊勢国半国を一色義春に返付する様命じたが、北畠政郷は此れを拒否した。
西暦1,474年6月29日、一色義春に丹後国守護職が返付された事に抵抗する武田国信・細川政国の2名其々の家臣が、一色勢と丹後国で交戦する。此の時点で、武田国信・細川政国は丹後国を掌握していた。又此の日、朝倉孝景が、西軍方の富樫成春の弐男富樫幸千代と連携し、波着寺周辺にて甲斐敏光率いる軍と激戦を繰り広げる。波着寺周辺には、半助谷と呼ばれる場所が在り、其処には甲斐敏光と親しい武将の館が在った。此処で敗れれば本拠地に攻め込まれかねない状況であった朝倉孝景は、必死の防戦で、甲斐氏・千福中書増沢・甲斐法花院舎弟を悉く討ち、勝利した。平泉寺(現在の福井県勝山市平泉寺町平泉寺)の衆も多くが損害を受けた。又此の日、甲斐敏光方が多く討たれた事を知った真盛が、卒塔婆を大畔縄手(現在の福井県福井市岡西谷町付近)に建設する。岡ノ西光寺(現在の福井県福井市次郎丸町)にて百万遍の回向を行なった。7月頃、斎藤妙椿が、数千騎を率いて越前国に入り、朝倉孝景・甲斐敏光の間を調定の末和解させる。此の頃、西軍諸将が和睦しようとしたが、斎藤妙椿の反対により実現しなかった。
西暦1,476年、足利義政が、一色氏の三河国の旧領を改めて一色義春に与える。然し、第11代室町幕府三河国守護細川成之は、此れを拒み、国領を渡さなかった。9月、一色義直・一色義春の2名が、三河国に出陣し、三河国守護代東条国氏を自害に追い込む。西暦1,477年6月頃、室町幕府が、伊勢国北半国守護職を一色義春に与える。同職は北畠政郷が補任されていたが、罷免しない儘一色義春に与えられた為、現地の代官同士が揉め、一色義春は奪還を意図し現地入りし、合戦に発展した。結果、北畠政郷が勝利した。周囲は、北畠政郷が畠山義就に味方するのではないかと警戒したが、杞憂に終わり、北畠政郷は、伊勢国北半国守護職に再任された。西暦1,479年9月頃、北畠政郷が、上意を違えたという理由により、伊勢国守護職を罷免される。此れにより、伊勢国が一色義春の手に戻った。西暦1,484年9月23日、一色義春が病死する。日野川の合戦での朝倉孝景の勝利から、細川政元・山名政豊の単独の和睦、甲斐敏光率いる軍の岡保への進軍と殿下・桶田での激戦、足利義視による一色氏の領国の分配、波着寺周辺での朝倉孝景の勝利、斎藤妙椿による朝倉孝景・甲斐敏光の和解、一色義直・一色義春の三河国への出陣、伊勢国北半国守護職を巡る一色義春と北畠政郷の合戦、北畠政郷の伊勢国守護職の罷免を経て、一色義春の病死に至る迄——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。
登場人物
- 朝倉孝景 西暦1,474年2月頃、朝倉孝景が、日野川の合戦で、斯波義廉の家臣である増沢祐徳を破る。更に、杣山城に籠城していた越前国守護代甲斐敏光も撃破した。其の後杣山城は、河合宗清の居城となり、朝倉孝景の支配下となった。5月31日、甲斐敏光率いる軍が、坂井郡や甲斐国に逃れた牢人と合流し、九頭竜川を越えて、岡保に進軍し、朝倉孝景率いる軍を攻撃、戦闘が開始される。殿下・桶田で激戦が繰り広げられた。朝倉氏景が敵を多数討ち取った。6月15日頃、甲斐敏光勢と朝倉孝景勢の戦闘が、波着寺周辺に移る。6月29日、朝倉孝景が、西軍方の富樫成春の弐男富樫幸千代と連携し、波着寺周辺にて甲斐敏光率いる軍と激戦を繰り広げる。波着寺周辺には、半助谷と呼ばれる場所が在り、其処には甲斐敏光と親しい武将の館が在った。此処で敗れれば本拠地に攻め込まれかねない状況であった朝倉孝景は、必死の防戦で、甲斐氏・千福中書増沢・甲斐法花院舎弟を悉く討ち、勝利した。平泉寺の衆も多くが損害を受けた。7月頃、斎藤妙椿が、数千騎を率いて越前国に入り、朝倉孝景・甲斐敏光の間を調定の末和解させる。
- 甲斐敏光 西暦1,474年2月頃、朝倉孝景が、日野川の合戦で、斯波義廉の家臣である増沢祐徳を破る。更に、朝倉孝景は、杣山城に籠城していた越前国守護代甲斐敏光も撃破した。5月31日、甲斐敏光率いる軍が、坂井郡や甲斐国に逃れた牢人と合流し、九頭竜川を越えて、岡保に進軍し、朝倉孝景率いる軍を攻撃、戦闘が開始される。殿下・桶田で激戦が繰り広げられた。朝倉氏景が敵を多数討ち取った。6月15日頃、甲斐敏光勢と朝倉孝景勢の戦闘が、波着寺周辺に移る。6月29日、朝倉孝景が、西軍方の富樫成春の弐男富樫幸千代と連携し、波着寺周辺にて甲斐敏光率いる軍と激戦を繰り広げる。波着寺周辺には、半助谷と呼ばれる場所が在り、其処には甲斐敏光と親しい武将の館が在った。此処で敗れれば本拠地に攻め込まれかねない状況であった朝倉孝景は、必死の防戦で、甲斐氏・千福中書増沢・甲斐法花院舎弟を悉く討ち、勝利した。平泉寺の衆も多くが損害を受けた。又此の日、甲斐敏光方が多く討たれた事を知った真盛が、卒塔婆を大畔縄手に建設する。7月頃、斎藤妙椿が、数千騎を率いて越前国に入り、朝倉孝景・甲斐敏光の間を調定の末和解させる。
- 朝倉氏景 西暦1,474年5月31日、甲斐敏光率いる軍が、坂井郡や甲斐国に逃れた牢人と合流し、九頭竜川を越えて、岡保に進軍し、朝倉孝景率いる軍を攻撃、戦闘が開始される。殿下・桶田で激戦が繰り広げられた。朝倉氏景が敵を多数討ち取った。
- 一色義春 西暦1,474年4月19日、細川政元・山名政豊の2名が単独で和睦する。仲介を務めたのは武田国信であった。武田国信に突き付けられた和睦の条件の1つとして、一色義直と戦って奪った丹後国の所領を返還し、丹後国守護職を一色義春へ返付する、というものが有った。6月15日頃、足利義政が、一色義春を引見する。6月21日、足利義視が、一色氏の知行していた領国を其々の忠誠に応じて、三河国を讃州細川家に、伊勢国・丹後国を一色義春に、若狭国を武田国信に分配する決定を下す。此れにより、一色義春は第22代室町幕府丹後国守護に就任した。又、此の年足利義政は、第26代室町幕府伊勢国守護北畠政郷に、伊勢国半国を一色義春に返付する様命じたが、北畠政郷は此れを拒否した。6月29日、一色義春に丹後国守護職が返付された事に抵抗する武田国信・細川政国の2名其々の家臣が、一色勢と丹後国で交戦する。此の時点で、武田国信・細川政国は丹後国を掌握していた。西暦1,476年、足利義政が、一色氏の三河国の旧領を改めて一色義春に与える。然し、第11代室町幕府三河国守護細川成之は、此れを拒み、国領を渡さなかった。9月、一色義直・一色義春の2名が、三河国に出陣し、三河国守護代東条国氏を自害に追い込む。西暦1,477年6月頃、室町幕府が、伊勢国北半国守護職を一色義春に与える。同職は北畠政郷が補任されていたが、罷免しない儘一色義春に与えられた為、現地の代官同士が揉め、一色義春は奪還を意図し現地入りし、合戦に発展した。結果、北畠政郷が勝利した。周囲は、北畠政郷が畠山義就に味方するのではないかと警戒したが、杞憂に終わり、北畠政郷は、伊勢国北半国守護職に再任された。西暦1,479年9月頃、北畠政郷が、上意を違えたという理由により、伊勢国守護職を罷免される。此れにより、伊勢国が一色義春の手に戻った。西暦1,484年9月23日、一色義春が病死する。
- 一色義直 西暦1,474年4月19日、細川政元・山名政豊の2名が単独で和睦する。仲介を務めたのは武田国信であった。武田国信に突き付けられた和睦の条件の1つとして、一色義直と戦って奪った丹後国の所領を返還し、丹後国守護職を一色義春へ返付する、というものが有った。西暦1,476年9月、一色義直・一色義春の2名が、三河国に出陣し、三河国守護代東条国氏を自害に追い込む。
- 北畠政郷 西暦1,474年6月21日、足利義視が、一色氏の知行していた領国を其々の忠誠に応じて、三河国を讃州細川家に、伊勢国・丹後国を一色義春に、若狭国を武田国信に分配する決定を下す。又、此の年足利義政は、第26代室町幕府伊勢国守護北畠政郷に、伊勢国半国を一色義春に返付する様命じたが、北畠政郷は此れを拒否した。西暦1,477年6月頃、室町幕府が、伊勢国北半国守護職を一色義春に与える。同職は北畠政郷が補任されていたが、罷免しない儘一色義春に与えられた為、現地の代官同士が揉め、一色義春は奪還を意図し現地入りし、合戦に発展した。結果、北畠政郷が勝利した。周囲は、北畠政郷が畠山義就に味方するのではないかと警戒したが、杞憂に終わり、北畠政郷は、伊勢国北半国守護職に再任された。西暦1,479年9月頃、北畠政郷が、上意を違えたという理由により、伊勢国守護職を罷免される。此れにより、伊勢国が一色義春の手に戻った。
- 細川成之 西暦1,476年、足利義政が、一色氏の三河国の旧領を改めて一色義春に与える。然し、第11代室町幕府三河国守護細川成之は、此れを拒み、国領を渡さなかった。
- 足利義政 西暦1,474年6月15日頃、足利義政が、一色義春を引見する。6月21日、足利義視が、一色氏の知行していた領国を其々の忠誠に応じて、三河国を讃州細川家に、伊勢国・丹後国を一色義春に、若狭国を武田国信に分配する決定を下す。又、此の年足利義政は、第26代室町幕府伊勢国守護北畠政郷に、伊勢国半国を一色義春に返付する様命じたが、北畠政郷は此れを拒否した。西暦1,476年、足利義政が、一色氏の三河国の旧領を改めて一色義春に与える。然し、第11代室町幕府三河国守護細川成之は、此れを拒み、国領を渡さなかった。
- 足利義視 西暦1,474年6月21日、足利義視が、一色氏の知行していた領国を其々の忠誠に応じて、三河国を讃州細川家に、伊勢国・丹後国を一色義春に、若狭国を武田国信に分配する決定を下す。此れにより、一色義春は第22代室町幕府丹後国守護に就任した。又、此の年足利義政は、第26代室町幕府伊勢国守護北畠政郷に、伊勢国半国を一色義春に返付する様命じたが、北畠政郷は此れを拒否した。
- 細川政元 西暦1,474年4月19日、細川政元・山名政豊の2名が単独で和睦する。仲介を務めたのは武田国信であった。武田国信に突き付けられた和睦の条件の1つとして、一色義直と戦って奪った丹後国の所領を返還し、丹後国守護職を一色義春へ返付する、というものが有った。又此の日、細川家と山名家を隔てる空堀には橋が架けられ、東陣から山名の陣を通って北野天満宮に参詣する者や、西軍の勢力下であった下京から東陣へ物を売る商人等が往来を始めた。
- 山名政豊 西暦1,474年4月19日、細川政元・山名政豊の2名が単独で和睦する。仲介を務めたのは武田国信であった。武田国信に突き付けられた和睦の条件の1つとして、一色義直と戦って奪った丹後国の所領を返還し、丹後国守護職を一色義春へ返付する、というものが有った。又此の日、細川家と山名家を隔てる空堀には橋が架けられ、東陣から山名の陣を通って北野天満宮に参詣する者や、西軍の勢力下であった下京から東陣へ物を売る商人等が往来を始めた。
- 武田国信 西暦1,474年4月19日、細川政元・山名政豊の2名が単独で和睦する。仲介を務めたのは武田国信であった。武田国信に突き付けられた和睦の条件の1つとして、一色義直と戦って奪った丹後国の所領を返還し、丹後国守護職を一色義春へ返付する、というものが有った。6月21日、足利義視が、一色氏の知行していた領国を其々の忠誠に応じて、三河国を讃州細川家に、伊勢国・丹後国を一色義春に、若狭国を武田国信に分配する決定を下す。6月29日、一色義春に丹後国守護職が返付された事に抵抗する武田国信・細川政国の2名其々の家臣が、一色勢と丹後国で交戦する。此の時点で、武田国信・細川政国は丹後国を掌握していた。
- 細川政国 西暦1,474年6月29日、一色義春に丹後国守護職が返付された事に抵抗する武田国信・細川政国の2名其々の家臣が、一色勢と丹後国で交戦する。此の時点で、武田国信・細川政国は丹後国を掌握していた。
- 斎藤妙椿 西暦1,474年7月頃、斎藤妙椿が、数千騎を率いて越前国に入り、朝倉孝景・甲斐敏光の間を調定の末和解させる。此の頃、西軍諸将が和睦しようとしたが、斎藤妙椿の反対により実現しなかった。
- 富樫幸千代 西暦1,474年6月29日、朝倉孝景が、西軍方の富樫成春の弐男富樫幸千代と連携し、波着寺周辺にて甲斐敏光率いる軍と激戦を繰り広げる。
- 真盛 西暦1,474年6月29日、甲斐敏光方が多く討たれた事を知った真盛が、卒塔婆を大畔縄手に建設する。岡ノ西光寺にて百万遍の回向を行なった。
- 東条国氏 西暦1,476年9月、一色義直・一色義春の2名が、三河国に出陣し、三河国守護代東条国氏を自害に追い込む。
- 増沢祐徳 西暦1,474年2月頃、朝倉孝景が、日野川の合戦で、斯波義廉の家臣である増沢祐徳を破る。
本書が記録する戦いと裁定
- 日野川の合戦での朝倉孝景による増沢祐徳の撃破(1,474年2月頃) 朝倉孝景が、日野川(現在の福井県)の合戦で、斯波義廉の家臣である増沢祐徳を破る。更に、杣山城(現在の福井県南条郡南越前町社谷)に籠城していた越前国守護代甲斐敏光も撃破した。其の後杣山城は、河合宗清の居城となり、朝倉孝景の支配下となった。
- 細川政元・山名政豊の単独の和睦(1,474年4月19日) 細川政元・山名政豊の2名が単独で和睦する。仲介を務めたのは武田国信であった。武田国信に突き付けられた和睦の条件の1つとして、一色義直と戦って奪った丹後国の所領を返還し、丹後国守護職を一色義春へ返付する、というものが有った。又此の日、細川家と山名家を隔てる空堀には橋が架けられ、東陣(現在の京都府京都市上京区上小川町付近)から山名の陣を通って北野天満宮に参詣する者や、西軍の勢力下であった下京から東陣へ物を売る商人等が往来を始めた。
- 甲斐敏光率いる軍の岡保への進軍と殿下・桶田での激戦(1,474年5月31日) 甲斐敏光率いる軍が、坂井郡や甲斐国に逃れた牢人と合流し、九頭竜川(現在の福井県)を越えて、岡保(現在の福井県福井市河水町)に進軍し、朝倉孝景率いる軍を攻撃、戦闘が開始される。殿下(現在の福井県福井市)・桶田(現在の福井県福井市河増町)で激戦が繰り広げられた。朝倉氏景が敵を多数討ち取った。
- 足利義政による一色義春の引見(1,474年6月15日頃) 足利義政が、一色義春を引見する。
- 甲斐敏光勢と朝倉孝景勢の戦闘の波着寺周辺への移動(1,474年6月15日頃) 此の頃、甲斐敏光勢と朝倉孝景勢の戦闘が、波着寺(現在の福井県福井市成願寺町)周辺に移る。
- 足利義視による一色氏の領国の分配(1,474年6月21日) 足利義視が、一色氏の知行していた領国を其々の忠誠に応じて、三河国を讃州細川家に、伊勢国・丹後国を一色義春に、若狭国を武田国信に分配する決定を下す。此れにより、一色義春は第22代室町幕府丹後国守護に就任した。又、此の年足利義政は、第26代室町幕府伊勢国守護北畠政郷に、伊勢国半国を一色義春に返付する様命じたが、北畠政郷は此れを拒否した。
- 武田国信・細川政国の家臣と一色勢の丹後国での交戦(1,474年6月29日) 一色義春に丹後国守護職が返付された事に抵抗する武田国信・細川政国の2名其々の家臣が、一色勢と丹後国で交戦する。此の時点で、武田国信・細川政国は丹後国を掌握していた。
- 朝倉孝景・富樫幸千代と、甲斐敏光率いる軍の波着寺周辺での激戦(1,474年6月29日) 朝倉孝景が、西軍方の富樫成春の弐男富樫幸千代と連携し、波着寺周辺にて甲斐敏光率いる軍と激戦を繰り広げる。波着寺周辺には、半助谷と呼ばれる場所が在り、其処には甲斐敏光と親しい武将の館が在った。此処で敗れれば本拠地に攻め込まれかねない状況であった朝倉孝景は、必死の防戦で、甲斐氏・千福中書増沢・甲斐法花院舎弟を悉く討ち、勝利した。平泉寺(現在の福井県勝山市平泉寺町平泉寺)の衆も多くが損害を受けた。
- 真盛による大畔縄手への卒塔婆の建設(1,474年6月29日) 甲斐敏光方が多く討たれた事を知った真盛が、卒塔婆を大畔縄手(現在の福井県福井市岡西谷町付近)に建設する。岡ノ西光寺(現在の福井県福井市次郎丸町)にて百万遍の回向を行なった。
- 斎藤妙椿による朝倉孝景・甲斐敏光の和解(1,474年7月頃) 斎藤妙椿が、数千騎を率いて越前国に入り、朝倉孝景・甲斐敏光の間を調定の末和解させる。此の頃、西軍諸将が和睦しようとしたが、斎藤妙椿の反対により実現しなかった。
- 足利義政による一色義春への三河国の旧領の授与(1,476年) 足利義政が、一色氏の三河国の旧領を改めて一色義春に与える。然し、第11代室町幕府三河国守護細川成之は、此れを拒み、国領を渡さなかった。
- 一色義直・一色義春の三河国への出陣(1,476年9月) 一色義直・一色義春の2名が、三河国に出陣し、三河国守護代東条国氏を自害に追い込む。
- 室町幕府による一色義春への伊勢国北半国守護職の授与(1,477年6月頃) 室町幕府が、伊勢国北半国守護職を一色義春に与える。同職は北畠政郷が補任されていたが、罷免しない儘一色義春に与えられた為、現地の代官同士が揉め、一色義春は奪還を意図し現地入りし、合戦に発展した。結果、北畠政郷が勝利した。周囲は、北畠政郷が畠山義就に味方するのではないかと警戒したが、杞憂に終わり、北畠政郷は、伊勢国北半国守護職に再任された。
- 北畠政郷の伊勢国守護職の罷免(1,479年9月頃) 北畠政郷が、上意を違えたという理由により、伊勢国守護職を罷免される。此れにより、伊勢国が一色義春の手に戻った。
- 一色義春の病死(1,484年9月23日) 一色義春が病死する。本書の年表の最後の項目である。
丹後国から三河国、そして伊勢国へ──
一色義春の反撃を一元化。
135円(税込)
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