電子書籍「大和国衆一揆一元化」の表紙

大和国衆一揆一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,497年8月頃〜1,508年7月28日
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
16ページ
文字数
6,600字
最新更新日
西暦2,026年10月3日

春日大社に起請文を捧げ、12名は和睦を誓った──
筒井方と越智方の大和国衆一揆を一元化。

232円(税込)

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本書について

西暦1,497年8月頃、畠山義豊の家臣団である遊佐家・誉田家に内紛が発生する。畠山尚順は此れに乗じて河内国に進軍し、筒井党の成身院順盛・筒井順賢も尚順に呼応して、大和国に帰還した後に挙兵した。此れに十市遠治も加わった。10月頃、畠山尚順は、遊佐家と誉田家が対立しているのを好機と捉え、河内国奪回の為に挙兵する。此れを受けて細川政元は、赤沢朝経を南山城に派遣し、古市澄胤に代わる守護代とした。11月頃、各地で合戦に及んでいた古市家・越智家が敗退し、越智党の主要国人である小泉家・竜田家も自焼没落する。此れにより筒井家は、西暦1,477年に畠山義就によって奪われた大和国の本領を奪還した。本書は、此の内紛から、西暦1,505年3月9日頃の「大和国衆一揆」の結成、赤沢朝経・赤沢長経の大和国侵攻、一揆の総崩れと分裂を経て、西暦1,508年7月28日に足利義稙が征夷大将軍に再任される迄を、年月日単位で一元化した記録である。

西暦1,497年11月1日、十市遠治が越智郷(現在の奈良県高市郡高取町)を攻撃し、周囲を焼き払う。11月2日、畠山尚順が高屋城(現在の大阪府羽曳野市古市)を落城させ、河内国の大半を奪回した。此れを受けて畠山義豊は山城国へ逃亡し、足利義澄は奉公衆の湯河家・玉置家・山本家に、尚順を攻撃する様御内書を発したが、湯河氏は畠山方であった為、御内書を無視した。同じ11月2日、成身院順盛が越智郷に侵攻する。越智家栄は、自身が関所を持つ壺阪峠(現在の奈良県高市郡高取町)近くの壷阪寺(現在の奈良県高市郡高取町壷阪)に、嫡男の越智家令と共に逃れ、約700名と共に立て籠もって対抗した。11月10日、越智家栄率いる軍の食糧が尽きる。其れでも越智は応戦した。此の時点で、離脱者が出た事により、越智家を含む約300名に数を減らしており、其の内約200名は女性・子供であった。11月13日、十市遠治が壷阪寺を攻撃するも、越智家栄・越智家令は此れに応戦し、退ける。十市は成身院順盛・畠山尚順に援軍を要請した。壷阪寺は、三重塔を除く堂塔の大半が焼失した。11月17日、畠山尚順率いる軍が十市遠治率いる軍に合流し、成身院順盛を助けて万歳平城(現在の奈良県大和高田市市場付近)に布陣する。此れを受けて家栄・家令は吉野に逃亡した。万歳氏の所領を奪取した畠山は、其れを自身の馬廻衆に恩賞として与える。大和国の荘園が他国の衆に与えられたのは此れが初めてで、興福寺は大変な衝撃を受けた。

西暦1,497年12月7日、超昇寺家・秋篠家・宝来家を含む、筒井順賢率いる1,000名の大和国人の軍が、古市澄胤の居る古市城(現在の奈良県奈良市古市町)を攻撃する。古市は迎撃したものの及ばず、古市城に火を放ち、300名余の兵を率いて白毫寺(現在の奈良県奈良市白毫寺町)付近に布陣した。結果、筒井率いる軍は大勝し、古市は笠置(現在の京都府相楽郡)を経由して伊賀国へ逃亡する。斯うして、西暦1,477年以降続いた越智家・古市家と筒井党の力関係は逆転した。筒井率いる軍は白毫寺付近に火を放ち、周辺の家々を焼き払う。白毫寺は、本堂を始め、閻魔堂や多宝塔等、殆どの堂塔を焼失した。西暦1,498年3月頃には、興福寺の学侶・六方衆の集会が開かれ、畠山尚順が自身の馬廻衆に万歳氏から奪った所領を与えた件に就いて議題に挙がる。尋尊は「神国大和に武家の家臣が領地を持つなど前代未聞だ」と怒りを込めて記した。

西暦1,499年10月14日、畠山尚順率いる軍が、誉田城を孤立させる事を意図し、木幡(現在の京都府宇治市)迄進軍する。畠山が動員した此の軍には、筒井氏や十市氏等の大和国人衆が加わっており、畠山は河内国を征圧して上洛するという算段を立てていた。そして畠山率いる軍は赤沢朝経率いる軍と交戦し、赤沢勢が優位に戦いを進めた。10月30日の早朝、赤沢朝経率いる軍が西一口城(現在の京都府久世郡久御山町西一口)を落城させて焼き払い、赤沢は首を9つ討ち取る。10月31日には、真木島氏の居城である槇島城(現在の京都府宇治市槇島町薗場)を落城させ、11月1日、水主城(現在の京都府城陽市水主北垣内)を落城させた。此れにより赤沢は、南山城一帯の征圧を完了する。此れにより畠山義英は、誉田城を守り、総州家を存続させた。12月頃、筒井順賢が得度する。西暦1,500年1月18日、赤沢朝経率いる軍は秋篠城(現在の奈良県奈良市秋篠町付近)に押し寄せ、筒井順賢・十市遠治・楢原栄遠・豊田氏・番条氏を始めとする筒井党を破った。又赤沢率いる軍は、法華寺・西大寺(現在の奈良県奈良市西大寺芝町)等を焼き討ちにした。

西暦1,504年4月頃、赤沢朝経が細川澄元を擁立し、細川政元に反逆するが、失敗する。8月7日、高野山に逃れていた赤沢は、薬師寺元一の仲介によって、細川政元から宥免・召還される。10月頃、薬師寺元一が細川政元を廃し、細川澄元を擁立しようと企て、赤沢朝経も此れと結託した。然し薬師寺長忠等によって鎮圧され、赤沢は捕らえられた。西暦1,505年、赤沢朝経は細川政元から赦免され、山城国上三郡守護代に就任する。1月頃には、畠山義英と畠山尚順が和睦する。河内国を南北に分けて半国ずつ領有する事とし、義英が河内国北半国守護、尚順が河内国南半国守護に就任した。そして3月9日頃、筒井方の成身院順盛・筒井順賢・十市遠治・箸尾為国・布施行国・布施高田清房・楢原栄遠・倶尸羅氏と、越智方の越智家令・万歳則定・吐田遠光・岡政行の12名が、春日大社(現在の奈良県奈良市春日野町)に起請文を捧げて和睦を誓い、「大和国衆一揆」が結成される。此れに伴い筒井は、越智の娘を妻に迎えた。

西暦1,505年12月頃、赤沢朝経が河内国へ出陣する為大和国を通過する旨の通知が、大和国衆一揆に齎される。此れに反対した大和国衆一揆は、筒井順賢・十市遠治・箸尾為国・布施行国・楢原栄遠・越智家令・万歳則定・吐田遠光・片岡氏による連判状を作成した。同じく12月頃、赤沢朝経は、畠山義英の居城である誉田城を攻撃する。第9世本願寺宗主実如が、細川政元の要請に応えて加賀国に居る門徒達の中から動員した1,000名も加わっていた。此の攻撃に至った背景として、義英と畠山尚順の和睦が有った。義英は、周防国に居る足利義稙に、畠山尚順と共に義稙の上洛に尽力する事を誓う旨の書簡を送り、感状を与えられた。西暦1,506年2月頃、赤沢朝経が、河内国にて畠山尚順の居城である高屋城を占領し、尚順と畠山義英は大和国へ逃亡する。4月8日、先年からの学侶と堂衆の対立により安位寺(現在の奈良県御所市櫛羅)が炎上し、同寺再建の勧進奉加帳に、布施高田清房・万歳則定・倶尸羅氏が署名した。

西暦1,506年8月頃、畠山尚順・畠山義英が反細川政元の姿勢を鮮明にし、大和国にて兵を招集する。此れを受けて細川政元は、大和国衆一揆が畠山義英を匿ったとして、赤沢朝経に大和国侵攻を命じた。赤沢は古市澄胤の手引きに依って大和国に侵攻を開始し、赤沢長経も、養父である朝経に同行した。8月29日、赤沢朝経が戒重城(現在の奈良県桜井市戒重)を陥落させる。此の時点で十市遠治・箸尾為国は、多武峰を防衛拠点として抵抗を続けた。9月3日、筒井順賢率いる軍が、赤沢朝経の主力が大和国南部に進出した隙を突き、古市郷(現在の奈良県奈良市)を急襲して、古市澄胤と澄胤の息子古市胤盛を破る。筒井勢は、古市郷を焼き払った後、郡山城(現在の奈良県大和郡山市城内町)を奪回した。9月8日、大和国人衆が続々と郡山城に入城し、伊賀国人衆も参陣して、赤沢朝経に対する防衛体制を整える。9月11日、古市胤盛が数千名の兵を率い、郡山城を包囲する。宝来衆・西京衆・生馬衆・郡山衆が「西脇衆」と称して郡山城に籠城したが、圧倒的な兵力差により、宝来九郎を始めとする多くの兵が討死し、郡山城は陥落した。

西暦1,507年5月頃、細川政元・赤沢朝経を始めとする武田元信の援軍が、丹後国へ下る。6月5日、細川政元率いる軍が武田元信の援軍として戦闘に加わるも、政元は細川澄元・三好之長と共に、即座に帰京した。其れ以前から政元は、行軍の途上に陸奥国へ下向する等と言い出し、戦意が低かった。同日、武田と赤沢朝経は府中(現在の京都府宮津市中野・大垣付近)への侵攻を開始する。此れを受けて一色義有が今熊野城、延永春信が阿弥陀ヶ峰城に其々籠城し、武田・赤沢は此れ等を包囲した。8月1日、細川政元が、自身の屋敷の湯殿にて、魔法を修する為と称して行水を行なっている最中に、竹田孫七・福井四郎によって殺害される。此の暗殺を企て、竹田・福井を唆したのは、香西元長・薬師寺長忠であった。8月3日、細川政元が京都で家臣に殺害されたとの情報が、丹後国に居た細川政元勢の赤沢朝経・赤沢長経・古市胤盛・粟屋親栄に齎される。朝経は、一色義有と和睦した。8月4日、赤沢朝経は宮津城(現在の京都府宮津市鶴賀)に退くが、退路を塞がれ、文殊堂(現在の京都府宮津市文珠)にて自刃した。又武田元信率いる軍は、粟屋親栄・古市胤盛を含む数百名の戦死者を出し、若狭国・丹波国へ退却した。

西暦1,507年10月頃、赤沢長経が、細川澄元の命により、大和国への侵攻を開始する。10月3日、赤沢長経が大和国への再侵攻に向けて動き出しているとの報が、大和国衆一揆に齎された。10月15日、長経は宇治を出陣し、木津・狛(現在の京都府木津川市山城町上狛)・祝園(現在の京都府相楽郡精華町)に着陣する。対する筒井党は郡山周辺に布陣した。10月20日、箸尾為国・十市遠治・楢原栄遠が大和国に入り、其々宿院堂・西御門堂・内侍原堂に布陣する。10月21日には越智家教が、赤沢長経率いる軍に対抗する為、大和国衆一揆と合流し、畠山家の足軽も、鳥見(現在の奈良県奈良市富雄地区)・生駒を経由して大和国に入った。11月10日、大和国人衆が山田(現在の京都府相楽郡精華町)に攻撃を仕掛け、赤沢長経率いる軍も木津から打って出て反撃し、各所で合戦となる。11月16日、畠山義英の重臣である遊佐氏が、大和国衆一揆と共に赤沢長経率いる軍を挟み撃ちにする事を狙い、生駒を越えて大和国に入る。此れを受けて細川澄元は、山崎付近迄出陣して畠山義英・畠山尚順を牽制し、義英・尚順は動きを止めた。其の隙を突いて、赤沢は般若寺(現在の奈良県奈良市)付近へ進軍した。

西暦1,507年11月22日、古市澄胤・三好長尚・丹波五人衆が赤沢長経に加勢し、一斉に攻撃を開始する。此れにより、大和国衆一揆は総崩れとなった。成身院順盛・筒井順賢は高屋(現在の大阪府羽曳野市古市)に、十市遠治は太子(現在の大阪府南河内郡)に、箸尾為国は堺に、布施行国は吉野に落ち延び、楢原栄遠・越智家令・片岡氏も没落し、落ち延びた。赤沢は大和国に入り、11月24日、番条(現在の奈良県大和郡山市)にて陣を固める。12月7日、赤沢長経は京都に引き上げた。12月16日、大和国衆一揆が再度蜂起する。12月18日、赤沢長経は大和国衆一揆と交戦し、周辺を焼き討ちにした。12月20日、大和国衆一揆は赤沢長経方と交戦するも敗れ、大和国一帯が焼き払われた。

西暦1,508年1月6日、畠山義英と畠山尚順の和睦が解消される。義英は此の日、遊佐基盛等を連れて嶽山城(現在の大阪府富田林市龍泉)に入って籠城を開始し、尚順は隅田荘(現在の和歌山県橋本市)に出陣した。大和国衆一揆は、成身院順盛・筒井順賢・十市遠治・箸尾為時・布施行国・楢原栄遠の尚順方と、越智家教・万歳則定・吐田遠光・岡政行の義英方に分裂する。1月12日、畠山尚順が、大和国に居た赤沢長経に馬と太刀を贈り、畠山と細川澄元の和睦が実現した。1月18日頃、細川澄元が赤沢長経に嶽山城攻撃の指示を出し、2月17日頃、嶽山城は落城する。此の1ヶ月余の戦いで、畠山義英方は、赤沢兵庫助を始めとする60名余が討死した。赤沢長経は、畠山尚順の勢力が強大となり、大和国が奪われるのを恐れ、「細川高国が、尚順と組んで細川澄元に背こうとしている」旨の讒言を行い、義英を逃がした。4月17日頃、赤沢長経の讒言により細川澄元に謀反を疑われ、身の危険を感じた細川高国は、伊勢神宮に参拝すると称して伊賀国へ向けて京都を出発し、伊賀国の仁木高長の下に身を寄せる。7月28日、足利義稙が、朝廷により、第10代室町幕府征夷大将軍として再任される。同日、大内義興も管領代に就任した。此の時点で、陣営は、三好之長・赤沢長経・畠山義英・古市澄胤・越智家教の足利義澄・細川澄元方と、伊丹元扶・内藤貞正・畠山尚順・大内義興・筒井順賢・十市遠治・箸尾為時の義稙・細川高国方に固まっていた。畠山義豊の家臣団の内紛と筒井党の挙兵から、大和国衆一揆の結成と総崩れ、そして分裂に至る迄——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。


登場人物

  • 筒井順賢 筒井党。西暦1,497年8月頃、成身院順盛と共に畠山尚順に呼応し、大和国に帰還した後に挙兵する。12月7日、超昇寺家・秋篠家・宝来家を含む1,000名の大和国人の軍を率いて古市城を攻撃し、大勝した。1,499年12月頃に得度する。1,500年1月18日、秋篠城に押し寄せた赤沢朝経率いる軍に、十市遠治・楢原栄遠等と共に破られた。1,505年3月9日頃、筒井方の1人として春日大社に起請文を捧げ、大和国衆一揆の結成に加わる。12月頃には、赤沢朝経の大和国通過に反対する連判状に名を連ねた。1,506年9月3日、赤沢朝経の主力が大和国南部に進出した隙を突いて古市郷を急襲し、古市澄胤・古市胤盛を破って郡山城を奪回する。1,507年11月22日、大和国衆一揆が総崩れとなると、高屋に落ち延びた。1,508年1月6日に一揆が分裂した際は尚順方に付き、7月28日の時点で義稙・細川高国方に名を連ねている。
  • 成身院順盛 筒井党。西暦1,497年8月頃、筒井順賢と共に畠山尚順に呼応し、大和国に帰還した後に挙兵する。11月2日、越智郷に侵攻した。11月13日、壷阪寺を攻撃して越智勢に退けられた十市遠治から、畠山尚順と共に援軍を要請される。11月17日、十市遠治率いる軍に合流した畠山尚順が、成身院順盛を助けて万歳平城に布陣した。1,505年3月9日頃、筒井方の1人として大和国衆一揆の結成に加わる。1,507年11月22日、一揆が総崩れとなると、高屋に落ち延びた。1,508年1月6日に一揆が分裂した際は、尚順方に付いた。
  • 十市遠治 西暦1,497年8月頃、成身院順盛・筒井順賢の挙兵に加わる。11月1日、越智郷を攻撃して周囲を焼き払った。11月13日には壷阪寺を攻撃するが、越智家栄・越智家令に退けられ、成身院順盛・畠山尚順に援軍を要請する。11月17日、畠山尚順率いる軍が、十市の軍に合流した。1,500年1月18日、秋篠城で赤沢朝経率いる軍に破られた筒井党の1人。1,505年3月9日頃、筒井方の1人として大和国衆一揆の結成に加わり、12月頃には連判状にも名を連ねた。1,506年8月29日、赤沢朝経が戒重城を陥落させた時点で、箸尾為国と共に多武峰を防衛拠点として抵抗を続ける。1,507年10月20日、大和国に入って西御門堂に布陣し、11月22日の総崩れの後、太子に落ち延びた。1,508年1月6日に一揆が分裂した際は尚順方に付き、7月28日の時点で義稙・細川高国方に名を連ねている。
  • 箸尾為国 西暦1,505年3月9日頃、筒井方の1人として大和国衆一揆の結成に加わる。12月頃、赤沢朝経の大和国通過に反対する連判状に名を連ねた。1,506年8月29日、赤沢朝経が戒重城を陥落させた時点で、十市遠治と共に多武峰を防衛拠点として抵抗を続ける。1,507年10月20日、大和国に入って宿院堂に布陣し、11月22日の総崩れの後、堺に落ち延びた。
  • 箸尾為時 西暦1,508年1月6日に大和国衆一揆が分裂した際、成身院順盛・筒井順賢等と共に尚順方に名を連ねる。7月28日の時点では、筒井順賢・十市遠治等と共に、義稙・細川高国方に名を連ねている。
  • 布施行国 西暦1,505年3月9日頃、筒井方の1人として大和国衆一揆の結成に加わり、12月頃には連判状にも名を連ねた。1,507年11月22日の総崩れの後、吉野に落ち延びる。1,508年1月6日に一揆が分裂した際は、尚順方に付いた。
  • 楢原栄遠 西暦1,500年1月18日、秋篠城に押し寄せた赤沢朝経率いる軍に、筒井順賢・十市遠治等と共に破られる。1,505年3月9日頃、筒井方の1人として大和国衆一揆の結成に加わり、12月頃には連判状にも名を連ねた。1,507年10月20日、大和国に入って内侍原堂に布陣する。11月22日の総崩れで、没落し、落ち延びた。1,508年1月6日に一揆が分裂した際は、尚順方に付いた。
  • 越智家栄 西暦1,497年11月2日、成身院順盛が越智郷に侵攻すると、自身が関所を持つ壺阪峠近くの壷阪寺に、嫡男の越智家令と共に逃れ、約700名と共に立て籠もって対抗した。11月10日、率いる軍の食糧が尽きたが、其れでも応戦する。此の時点で、離脱者が出た事により約300名に数を減らしており、其の内約200名は女性・子供であった。11月13日、十市遠治の攻撃に越智家令と共に応戦し、退けた。11月17日、畠山尚順が十市遠治率いる軍に合流して万歳平城に布陣すると、家令と共に吉野に逃亡した。
  • 越智家令 越智家栄の嫡男。西暦1,497年11月2日、家栄と共に壷阪寺に逃れて立て籠もり、11月13日には十市遠治の攻撃を退けたが、11月17日、家栄と共に吉野に逃亡する。1,505年3月9日頃、越智方の1人として大和国衆一揆の結成に加わり、12月頃には連判状にも名を連ねた。1,507年11月22日の総崩れで、没落し、落ち延びた。
  • 越智家教 西暦1,507年10月21日、赤沢長経率いる軍に対抗する為、大和国衆一揆と合流する。1,508年1月6日に一揆が分裂した際は、万歳則定・吐田遠光・岡政行と共に義英方に付いた。7月28日の時点では、足利義澄・細川澄元方に名を連ねている。
  • 万歳則定 西暦1,505年3月9日頃、越智方の1人として大和国衆一揆の結成に加わり、12月頃には連判状にも名を連ねた。1,506年4月8日、炎上した安位寺の再建の為の勧進奉加帳に、布施高田清房・倶尸羅氏と共に署名する。1,508年1月6日に一揆が分裂した際は、義英方に付いた。
  • 古市澄胤 西暦1,497年10月頃、細川政元が南山城に派遣した赤沢朝経が、古市澄胤に代わる守護代となる。12月7日、自身の居る古市城を筒井順賢率いる軍に攻撃され、迎撃したものの及ばず、古市城に火を放って、300名余の兵を率いて白毫寺付近に布陣した。筒井率いる軍が大勝し、古市は笠置を経由して伊賀国へ逃亡する。1,506年8月頃、赤沢朝経の大和国侵攻を手引きしたが、9月3日、筒井順賢率いる軍に古市郷を急襲され、息子の古市胤盛と共に敗れた。1,507年11月22日、三好長尚・丹波五人衆と共に赤沢長経に加勢し、一斉に攻撃を開始する。1,508年7月28日の時点で、足利義澄・細川澄元方に名を連ねている。
  • 古市胤盛 古市澄胤の息子。西暦1,506年9月3日、筒井順賢率いる軍に古市郷を急襲され、澄胤と共に敗れる。9月11日、数千名の兵を率いて郡山城を包囲する。「西脇衆」と称して籠城した宝来衆・西京衆・生馬衆・郡山衆は、圧倒的な兵力差により宝来九郎を始めとする多くの兵が討死し、郡山城は陥落した。1,507年8月3日、丹後国に居た細川政元勢の1人として、細川政元が京都で家臣に殺害されたとの情報を受ける。8月4日、武田元信率いる軍が出した数百名の戦死者の中に、古市胤盛も含まれていた。
  • 畠山尚順 西暦1,497年8月頃、畠山義豊の家臣団の内紛に乗じて河内国に進軍し、10月頃、河内国奪回の為に挙兵する。11月2日、高屋城を落城させて河内国の大半を奪回した。11月17日、十市遠治率いる軍に合流し、成身院順盛を助けて万歳平城に布陣する。万歳氏の所領を奪取し、其れを自身の馬廻衆に恩賞として与えた。1,499年10月14日、誉田城を孤立させる事を意図して木幡迄進軍し、赤沢朝経率いる軍と交戦する。1,505年1月頃に畠山義英と和睦し、河内国南半国守護に就任した。1,506年2月頃、居城の高屋城を赤沢朝経に占領され、義英と共に大和国へ逃亡する。8月頃、義英と共に反細川政元の姿勢を鮮明にし、大和国にて兵を招集した。1,508年1月6日、義英との和睦が解消され、隅田荘に出陣する。1月12日、大和国に居た赤沢長経に馬と太刀を贈り、畠山と細川澄元の和睦が実現した。7月28日の時点で、義稙・細川高国方に名を連ねている。
  • 畠山義英 西暦1,499年11月1日、赤沢朝経が南山城一帯の征圧を完了した事により、誉田城を守り、総州家を存続させる。1,505年1月頃に畠山尚順と和睦し、河内国北半国守護に就任した。12月頃、居城の誉田城を赤沢朝経に攻撃される。義英は、周防国に居る足利義稙に、尚順と共に義稙の上洛に尽力する事を誓う旨の書簡を送り、感状を与えられた。1,506年2月頃、尚順と共に大和国へ逃亡し、8月頃には、尚順と共に大和国にて兵を招集する。細川政元は、大和国衆一揆が義英を匿ったとして、赤沢朝経に大和国侵攻を命じた。1,508年1月6日、尚順との和睦が解消され、遊佐基盛等を連れて嶽山城に入り、籠城を開始する。2月17日頃に嶽山城は落城し、赤沢長経が義英を逃がした。7月28日の時点で、足利義澄・細川澄元方に名を連ねている。
  • 畠山義豊 西暦1,497年8月頃、家臣団である遊佐家・誉田家に内紛が発生する。10月頃、此の対立を好機と捉えた畠山尚順が、河内国奪回の為に挙兵した。11月2日、尚順が高屋城を落城させて河内国の大半を奪回すると、山城国へ逃亡した。
  • 細川政元 西暦1,497年10月頃、赤沢朝経を南山城に派遣し、古市澄胤に代わる守護代とする。1,504年4月頃、細川澄元を擁立した赤沢朝経に反逆されたが、8月7日、薬師寺元一の仲介によって赤沢を宥免・召還した。10月頃には、薬師寺元一が政元を廃し、細川澄元を擁立しようと企てる。1,505年、赤沢朝経を赦免した。12月頃、赤沢朝経が誉田城を攻撃した際には、第9世本願寺宗主実如が政元の要請に応えて加賀国に居る門徒達の中から動員した1,000名も加わっていた。1,506年8月頃、大和国衆一揆が畠山義英を匿ったとして、赤沢朝経に大和国侵攻を命じる。1,507年5月頃、武田元信の援軍として丹後国へ下り、6月5日に戦闘に加わるも、細川澄元・三好之長と共に即座に帰京した。其れ以前から政元は、行軍の途上に陸奥国へ下向する等と言い出し、戦意が低かった。8月1日、自身の屋敷の湯殿にて、魔法を修する為と称して行水を行なっている最中に、竹田孫七・福井四郎によって殺害された。此の暗殺を企てたのは、香西元長・薬師寺長忠であった。
  • 細川澄元 西暦1,504年4月頃、赤沢朝経が澄元を擁立し、細川政元に反逆するが、失敗する。10月頃には、薬師寺元一が政元を廃して澄元を擁立しようと企てるが、薬師寺長忠等によって鎮圧された。1,507年6月5日、細川政元・三好之長と共に、即座に帰京した。10月頃、赤沢長経が、澄元の命により大和国への侵攻を開始する。11月16日、山崎付近迄出陣して畠山義英・畠山尚順を牽制し、義英・尚順は動きを止めた。1,508年1月12日、畠山尚順が赤沢長経に馬と太刀を贈り、畠山と細川澄元の和睦が実現する。1月18日頃、赤沢長経に嶽山城攻撃の指示を出した。4月17日頃、赤沢長経の讒言により澄元に謀反を疑われ、身の危険を感じた細川高国が、伊勢神宮に参拝すると称して伊賀国へ向けて京都を出発した。7月28日の時点で、陣営は足利義澄・細川澄元方と義稙・細川高国方に固まっていた。
  • 細川高国 西暦1,508年2月17日頃、赤沢長経が「細川高国が、尚順と組んで細川澄元に背こうとしている」旨の讒言を行う。4月17日頃、赤沢長経の讒言により細川澄元に謀反を疑われ、身の危険を感じた高国は、伊勢神宮に参拝すると称して伊賀国へ向けて京都を出発し、伊賀国の仁木高長の下に身を寄せた。7月28日の時点で、陣営は義稙・細川高国方と足利義澄・細川澄元方に固まっていた。
  • 赤沢朝経 西暦1,497年10月頃、細川政元により南山城に派遣され、古市澄胤に代わる守護代となる。1,499年10月14日、木幡迄進軍した畠山尚順率いる軍と交戦して優位に戦いを進め、10月30日に西一口城、10月31日に槇島城、11月1日に水主城を落城させて、南山城一帯の征圧を完了した。1,500年1月18日、秋篠城に押し寄せて筒井党を破り、法華寺・西大寺等を焼き討ちにする。1,504年4月頃、細川澄元を擁立して細川政元に反逆するが失敗し、8月7日、高野山に逃れていた所を、薬師寺元一の仲介によって政元から宥免・召還される。10月頃、薬師寺元一の企てと結託したが、薬師寺長忠等によって鎮圧され、捕らえられた。1,505年に政元から赦免され、山城国上三郡守護代に就任する。12月頃、畠山義英の居城である誉田城を攻撃した。1,506年2月頃に高屋城を占領し、8月頃、細川政元の命を受け、古市澄胤の手引きに依って大和国に侵攻を開始する。8月29日、戒重城を陥落させた。1,507年5月頃、細川政元等と共に武田元信の援軍として丹後国へ下る。8月3日、細川政元が京都で家臣に殺害されたとの情報が齎され、朝経は一色義有と和睦した。8月4日、宮津城に退いたが、退路を塞がれ、文殊堂にて自刃した。
  • 赤沢長経 赤沢朝経を養父とする。西暦1,506年8月頃、大和国に侵攻する養父の朝経に同行した。1,507年10月頃、細川澄元の命により大和国への侵攻を開始し、10月15日、宇治を出陣して木津・狛・祝園に着陣する。11月16日、細川澄元が畠山義英・畠山尚順を牽制し、義英・尚順が動きを止めた隙を突いて、般若寺付近へ進軍した。11月22日、古市澄胤・三好長尚・丹波五人衆の加勢を得て一斉に攻撃を開始し、大和国衆一揆は総崩れとなる。11月24日に番条にて陣を固め、12月7日に京都に引き上げた。12月18日、大和国衆一揆と交戦し、周辺を焼き討ちにする。1,508年1月12日、畠山尚順から馬と太刀を贈られ、畠山と細川澄元の和睦が実現した。1月18日頃、細川澄元から嶽山城攻撃の指示を受け、2月17日頃に嶽山城は落城する。長経は、畠山尚順の勢力が強大となり、大和国が奪われるのを恐れ、「細川高国が、尚順と組んで細川澄元に背こうとしている」旨の讒言を行い、畠山義英を逃がした。7月28日の時点で、足利義澄・細川澄元方に名を連ねている。
  • 薬師寺元一 西暦1,504年8月7日、高野山に逃れていた赤沢朝経が、薬師寺元一の仲介によって、細川政元から宥免・召還される。10月頃、細川政元を廃し、細川澄元を擁立しようと企て、赤沢朝経も此れと結託したが、薬師寺長忠等によって鎮圧された。
  • 尋尊 西暦1,497年11月17日、畠山尚順が万歳氏から奪取した所領を自身の馬廻衆に恩賞として与え、大和国の荘園が初めて他国の衆に与えられると、興福寺は大変な衝撃を受ける。1,498年3月頃、興福寺の学侶・六方衆の集会で此の件が議題に挙がり、尋尊は「神国大和に武家の家臣が領地を持つなど前代未聞だ」と怒りを込めて記した。
  • 足利義稙 西暦1,505年12月頃、周防国に居る義稙に、畠山義英が、畠山尚順と共に義稙の上洛に尽力する事を誓う旨の書簡を送る。1,508年7月28日、朝廷により、第10代室町幕府征夷大将軍として再任される。同日、大内義興も管領代に就任した。其の後義稙は、恩賞として、大内に相国寺崇寿院領である和泉国堺南荘(現在の大阪府堺市堺区)を与えようとしたが、大内は此れを辞退し、其の代替として第33代室町幕府山城国守護に任じられた。

主要な地名・拠点

  • 越智郷 現在の奈良県高市郡高取町。西暦1,497年11月1日、十市遠治が攻撃し、周囲を焼き払った。11月2日には成身院順盛が侵攻し、越智郷は戦火に包まれた。
  • 壷阪寺 現在の奈良県高市郡高取町壷阪。越智家栄が関所を持つ壺阪峠(現在の奈良県高市郡高取町)の近くに在る。西暦1,497年11月2日、越智家栄・越智家令が約700名と共に立て籠もった。11月10日には食糧が尽き、離脱者が出た事により約300名に数を減らしていた。11月13日、十市遠治の攻撃を退けたが、三重塔を除く堂塔の大半が焼失した。
  • 万歳平城 現在の奈良県大和高田市市場付近。西暦1,497年11月17日、十市遠治率いる軍に合流した畠山尚順が、成身院順盛を助けて布陣した。
  • 古市城 現在の奈良県奈良市古市町。西暦1,497年12月7日、古市澄胤の居る此の城を、筒井順賢率いる1,000名の大和国人の軍が攻撃する。古市は迎撃したものの及ばず、古市城に火を放った。
  • 白毫寺 現在の奈良県奈良市白毫寺町。西暦1,497年12月7日、古市城に火を放った古市澄胤が、300名余の兵を率いて付近に布陣した。大勝した筒井率いる軍が付近に火を放ち、周辺の家々を焼き払う。白毫寺は、本堂を始め、閻魔堂や多宝塔等、殆どの堂塔を焼失した。
  • 高屋城 現在の大阪府羽曳野市古市。西暦1,497年11月2日、畠山尚順が落城させ、河内国の大半を奪回した。1,506年2月頃には、尚順の居城として赤沢朝経に占領された。
  • 誉田城 西暦1,499年10月14日、畠山尚順率いる軍が、此の城を孤立させる事を意図して木幡迄進軍する。11月1日、赤沢朝経が南山城一帯の征圧を完了した事により、畠山義英は誉田城を守った。1,505年12月頃、義英の居城として赤沢朝経に攻撃された。
  • 西一口城・槇島城・水主城 西一口城は現在の京都府久世郡久御山町西一口、真木島氏の居城である槇島城は現在の京都府宇治市槇島町薗場、水主城は現在の京都府城陽市水主北垣内。西暦1,499年10月30日から11月1日に掛けて、赤沢朝経率いる軍が順に落城させ、南山城一帯の征圧を完了した。
  • 秋篠城 現在の奈良県奈良市秋篠町付近。西暦1,500年1月18日、赤沢朝経率いる軍が押し寄せ、筒井順賢・十市遠治・楢原栄遠・豊田氏・番条氏を始めとする筒井党を破った。
  • 春日大社 現在の奈良県奈良市春日野町。西暦1,505年3月9日頃、筒井方8名・越智方4名の計12名が起請文を捧げて和睦を誓い、「大和国衆一揆」が結成された。
  • 安位寺 現在の奈良県御所市櫛羅。西暦1,506年4月8日、先年からの学侶と堂衆の対立により炎上する。同寺再建の勧進奉加帳に、布施高田清房・万歳則定・倶尸羅氏が署名した。
  • 戒重城・多武峰 戒重城は現在の奈良県桜井市戒重。西暦1,506年8月29日、赤沢朝経が陥落させた。此の時点で十市遠治・箸尾為国は、多武峰を防衛拠点として抵抗を続けた。
  • 郡山城 現在の奈良県大和郡山市城内町。西暦1,506年9月3日、古市郷を急襲した筒井勢が奪回する。9月8日には大和国人衆が続々と入城し、伊賀国人衆も参陣した。9月11日、数千名の兵を率いた古市胤盛に包囲される。「西脇衆」と称して宝来衆・西京衆・生馬衆・郡山衆が籠城したが、圧倒的な兵力差により、郡山城は陥落した。
  • 宿院堂・西御門堂・内侍原堂 何れも現在の奈良県奈良市。西暦1,507年10月20日、大和国に入った箸尾為国が宿院堂、十市遠治が西御門堂、楢原栄遠が内侍原堂に其々布陣した。
  • 般若寺 現在の奈良県奈良市。西暦1,507年11月16日、細川澄元に牽制された畠山義英・畠山尚順が動きを止めた隙を突いて、赤沢長経が付近へ進軍した。
  • 番条 現在の奈良県大和郡山市。西暦1,507年11月22日に大和国に入った赤沢長経が、11月24日、此処で陣を固めた。
  • 嶽山城 現在の大阪府富田林市龍泉。西暦1,508年1月6日、畠山義英が遊佐基盛等を連れて入り、籠城を開始する。1月18日頃、細川澄元が赤沢長経に攻撃の指示を出し、2月17日頃に落城した。此の1ヶ月余の戦いで、義英方は、赤沢兵庫助を始めとする60名余が討死した。
  • 文殊堂 現在の京都府宮津市文珠。西暦1,507年8月4日、宮津城(現在の京都府宮津市鶴賀)に退き、退路を塞がれた赤沢朝経が、此処で自刃した。

一揆は総崩れとなり、再び蜂起した──
赤沢朝経・赤沢長経と大和国衆一揆の攻防を一元化。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
YouTubeとニコニコでも情報を発信中。