今川氏親一元化
流れ矢一本で始まった家督争いから、分国法の制定へ──
今川氏親が駿河と遠江を束ねた五十余年を一元化。
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本書について
西暦1,473年、今川氏親は駿府今川館(現在の静岡県静岡市葵区駿府城公園付近)に生まれた。父は今川義忠、母は伊勢盛定の娘北川殿である。然し西暦1,476年3月1日、義忠は横地城・勝間田城を落として凱旋する最中、塩買坂にて横地氏・勝間田氏の残党による一揆勢に不意を突かれ、流れ矢を受けて討死する。残されたのは、家督を巡る対立であった。小鹿範頼の嫡男小鹿範満は、太田道灌と扇谷上杉家の支援を受けて家督を代行し、幼い氏親は北川殿と共に小川城主長谷川正宣の下へ身を寄せる。本書は、此の一本の流れ矢から始まる家督争いを起点として、今川氏親が駿河・遠江を束ねる大名へと成り上がる五十余年の歩みを、年月日単位で一元化した記録である。
西暦1,476年5月頃、太田道灌が上杉定正の命により300名の兵を率いて駿河国へ出陣し、八幡山城に布陣する。足利政知の命を受けた上杉政憲も、300名を率いて狐ヶ崎に入った。此処へ室町幕府の意向を受けて下向したのが、氏親の叔父である北条早雲であった。早雲は、氏親が成人する迄は範満が家督を代行するという案を出し、浅間神社にて和睦を成立させる。西暦1,480年2月1日には、早雲の工作により足利義政名義の御教書が発せられ、氏親の家督継承が約束された。然し範満は駿府今川館に居座り、家督を譲らない。西暦1,487年11月24日、北川殿からの助力の要請を受け、足利義尚の承認を得た早雲が同志と共に館を急襲する。追い詰められた範満は、弟小鹿範慶と共に自害した。小鹿今川家は断絶し、今川氏親が家督を相続する。
家督を得た氏親は元服し、叔父北条早雲を後見役として領国経営を進めた。西暦1,493年10月頃、早雲は自身の居城興国寺城にて足利茶々丸征伐の作戦を練り、氏親・葛山氏・上杉定正からの援軍を得て、500名の軍勢で出陣する。翌西暦1,494年、早雲は今川氏親軍を率いて遠江国へ侵攻し、天方城主天方通季を降した。西暦1,501年には、浜松荘と其の拠点曳馬城を巡って、氏親の支持を受けた飯尾賢連と、斯波義達の支持を受けた大河内貞綱が争い、大河内が追い落とされて飯尾が浜松荘代官に任じられる。西暦1,504年には関東へも軍を出した。上杉顕定に江戸城を狙われた上杉朝良の求めに応じ、10月27日から4日を掛けて枡形山へ着陣、11月3日の正午、立河原にて山内上杉軍と激突する。広い範囲での激しい戦闘の末、山内上杉軍は2,000騎余を失い、夕方には敗北が決定的となった。
西暦1,505年、氏親は中御門宣胤の娘寿桂尼を正室に迎える。朝廷との繋がりを得た氏親は、此の頃から修理大夫を称し始めた。同年、三河国西部へ勢力を伸ばす松平長親に備え、牧野古白の手によって今橋城を築かせる。西暦1,506年9月7日には、松平征伐を指示された北条早雲が、駿河国・遠江国・三河国東部から10,000名余の軍勢を集め、大樹寺を本陣として岩津城を包囲した。西暦1,508年、氏親は遠江国へ侵攻する。同年7月28日、足利義稙が第10代室町幕府征夷大将軍として再任された其の日、氏親は第23代室町幕府遠江国守護に補任された。実力による切り取りが、幕府の公認へと変わった瞬間である。西暦1,512年5月17日には浜名湖周辺で斯波義達と交戦し、西暦1,514年頃、朝比奈泰煕の総攻撃によって三岳城が陥落する。斯波は尾張国へ退却し、籠城していた井伊家は奥山城へ逃れて氏親に降伏した。
矛先は甲斐国にも向く。西暦1,515年、椿城主大井信達が氏親と通じた。同年11月22日、武田信虎率いる軍が椿城を攻めるも、周辺の地形を把握しておらず深田に馬を乗り入れ、身動きの取れなくなった所を今川からの援軍を含む大井勢に襲われる。小山田大和守・板垣伯耆守等の大将格20騎が討ち取られ、将兵も100名以上が戦死する大敗であった。氏親は駿河国と甲斐国の国境を封鎖した上で、勝山城に布陣する。西暦1,516年10月23日には甲斐国中に火を掛け、円楽寺・大蔵経寺・普賢寺等が焼失、万力にて武田信虎を破った。然し西暦1,517年、吉田城を巡る攻防で今川勢は次第に孤立してゆく。2月12日、氏親は連歌師宗長に和睦の斡旋を依頼し、18日、宗長は甲府にて武田との交渉を纏め上げた。封鎖の解かれる迄、甲斐国では物資が不足し、撰銭も行われ、相場が高値で推移して領民は困窮していた。
同じ西暦1,517年7月9日、氏親は連日の雨で川幅の拡がった天竜川に300隻余の船橋を掛けて渡り、曳馬城を包囲する。籠城する大河内貞綱と斯波義達は堅く守り、兵糧攻めにも屈しなかったが、9月4日、梅ヶ島金山の炭鉱夫によって井水の水源を断たれ、城は陥落した。大河内は弟巨海道綱と共に自害し、斯波は足利家一門という事で助命されたものの捕縛され、普済寺で出家して尾張国へ送還される。西暦1,521年頃、氏親は中風に倒れた。寝たきりとなり、発給文書から花押が消え、寿桂尼が国政の一部を担う様になる。然し統治の手は緩まない。西暦1,524年、遠江国にて検地を行い、土地の一元支配を図った。そして西暦1,526年5月25日、自身の死後に嫡男今川氏輝が幼年である事から家督争いが勃発する事を危惧し、33ヶ条から成る分国法「今川仮名目録」を制定する。喧嘩に及んだ者は理非を問わず双方死罪とする喧嘩の法理、子供の刑事責任年齢、借米・借銭の利息と弁済、駿府に於ける守護不入特権の解消、港の津料と荷駄の通行税の廃止、他国との婚姻の禁止——武力ではなく条文によって領国を束ねる試みが、此処に文字となった。同年8月1日、今川氏親は駿府今川館にて死去する。家督は、今川氏輝が継いだ。
登場人物
- 今川氏親 本書の中心人物。西暦1,473年、今川義忠と北川殿の嫡男として駿府今川館に生誕した。小鹿範満との家督争いを叔父北条早雲の後見で制し、遠江国・三河国・甲斐国へ兵を進めて西暦1,508年に第23代室町幕府遠江国守護に補任される。西暦1,521年頃に中風で倒れた後も検地と分国法の制定を進め、西暦1,526年8月1日に駿府今川館で死去した。
- 今川義忠 今川氏親の父。西暦1,476年3月1日、横地城と勝間田城を落として凱旋する最中、塩買坂にて横地氏・勝間田氏の残党による一揆勢に不意を突かれ、流れ矢を受けて討死した。此の死が、氏親と小鹿範満の家督争いの発端となる。
- 北川殿 伊勢盛定の娘で、今川義忠の妻、氏親の母。夫の死後、幼い氏親と共に小川城主長谷川正宣の下へ身を寄せた。西暦1,487年、北条早雲に助力を要請し、小鹿範満を討たせて息子の家督相続を実現させている。
- 北条早雲 今川氏親の叔父にして後見役。西暦1,476年、室町幕府の意向を受けて駿河国へ下向し、浅間神社での和睦を仲裁した。西暦1,487年には駿府今川館の小鹿範満を急襲して氏親の家督相続を確定させ、其の後も足利茶々丸征伐・遠江国侵攻・岩津城包囲と、今川の軍事の中核であり続けた。
- 小鹿範満 小鹿範頼の嫡男。今川義忠の死後、太田道灌と扇谷上杉家の支援を受けて家督を代行した。氏親の成人迄という和睦の条件にも拘らず駿府今川館に居座り続け、西暦1,487年11月24日、北条早雲の急襲を受けて弟小鹿範慶と共に自害。小鹿今川家は此処で断絶した。
- 太田道灌 扇谷上杉家の家宰。西暦1,476年5月頃、上杉定正の命により小鹿範満を支援する為、300名の兵を率いて駿河国へ出陣し、八幡山城に布陣した。今川家の家督争いが、関東の上杉方の抗争と地続きであった事を示す人物。
- 上杉朝良 扇谷上杉家の当主。西暦1,504年、上杉顕定に江戸城を狙われ、韮山城の北条早雲と今川館の今川氏親に救援を求めた。11月3日の立河原の戦いでは、早雲・氏親と共に山内上杉軍を破っている。
- 上杉顕定 山内上杉家の当主。西暦1,504年10月、仙波から進軍して白子に布陣し、立河原にて今川・北条・扇谷上杉の連合軍と激突して2,000騎余を失い、鉢形城へ敗走した。同年12月、早雲と氏親の帰還で守備の手薄になった川越城を攻め、立河原付近を押さえ返している。
- 寿桂尼 中御門宣胤の娘。西暦1,505年に今川氏親の正室となり、今川家に朝廷との繋がりを齎した。西暦1,521年頃に氏親が中風で倒れ寝たきりとなった後は、国政の一部を担う様になる。
- 松平長親 三河国西部へ勢力を伸ばした松平家の当主。氏親は此れを警戒して西暦1,505年に今橋城を築かせ、翌西暦1,506年9月7日には北条早雲に松平征伐を指示し、支城である岩津城を包囲させた。
- 牧野古白 三河国東部の国人。西暦1,505年、今川氏親の指示により今橋城を築いた。西暦1,506年の岩津城包囲には、牧野成勝・戸田政光と共に三河国東部の勢力として加わっている。
- 斯波義達 遠江国を巡る今川氏親の最大の対抗者。大河内貞綱を支持して浜松荘を争い、西暦1,512年には浜名湖周辺で氏親と交戦した。三岳城の陥落で尾張国へ退いたが再び曳馬城に籠城し、西暦1,517年9月4日に降伏。足利家一門という事で助命され、普済寺で出家して尾張国へ送還された。
- 大河内貞綱 斯波義達の支持を受け、西暦1,501年に浜松荘と曳馬城を巡って飯尾賢連と争い、今川氏親に追い落とされた。西暦1,517年、曳馬城に籠城して兵糧攻めにも屈しなかったが、井水の水源を断たれて落城し、弟巨海道綱と共に自害した。
- 飯尾賢連 今川氏親の支持を受けて浜松荘を争い、西暦1,501年に浜松荘代官へ任じられた。元は吉良家の家臣であったが今川家の家臣に転じ、西暦1,517年の曳馬城陥落後、氏親から曳馬城主に任じられている。
- 朝比奈泰煕 今川家の重臣。西暦1,514年頃、三岳城へ総攻撃を掛け、斯波義達の応戦を退けて陥落させた。此れにより井伊家は奥山城へ逃れて今川氏親に降伏し、遠江国の平定が大きく進む。
- 武田信虎 甲斐国の当主。西暦1,515年11月22日、大井信達の椿城を攻めて今川の援軍を含む大井勢に大敗し、翌年10月23日の万力の戦いでも敗れて恵林寺へ逃亡した。西暦1,517年2月18日、連歌師宗長の斡旋により今川氏親との和睦が成立し、大井の方を正室に迎えている。
- 大井信達 椿城主。西暦1,515年、甲斐国へ勢力を拡大しようとする今川氏親と通じ、武田信虎の攻撃を今川の援軍と共に撃退した。西暦1,517年の甲駿和睦を受けて武田に降伏し、娘の大井の方を武田の正室として差し出している。
- 宗長 連歌師。西暦1,517年2月12日、今川氏親から武田信虎との和睦の斡旋を依頼され、甲府の知人の屋敷へ入って交渉に当たった。同月18日に和睦を成立させ、今川勢の駿河国への撤退と、駿河国・甲斐国の国境封鎖の解除を実現させた。
- 今川氏輝 今川氏親の嫡男。父が「今川仮名目録」を制定した理由そのものであり、其の幼さ故に家督争いが起きる事を氏親は危惧した。西暦1,526年8月1日の氏親の死去に伴い、家督を継いでいる。
本書が記録する出来事
- 塩買坂の討死 西暦1,476年3月1日。横地城・勝間田城を落として凱旋する今川義忠が、塩買坂にて一揆勢の流れ矢を受けて討死した。此の一本の矢が、小鹿範満と今川氏親の家督争いを呼び、駿河国を十年余の分裂へ導く。
- 浅間神社の和睦 西暦1,476年5月頃。太田道灌と上杉政憲が各300名を率いて駿河国へ入る中、室町幕府の意向を受けて下向した北条早雲が、氏親の成人迄小鹿範満が家督を代行するという案を纏め、浅間神社にて和睦を成立させた。
- 足利義政名義の御教書 西暦1,480年2月1日。北条早雲の工作により、今川氏親の家督継承を約束する御教書が足利義政の名で発せられる。然し小鹿範満は家督を譲らず、駿府今川館に居座り続けた。
- 駿府今川館の急襲 西暦1,487年11月24日。北川殿の要請と足利義尚の承認を得た北条早雲が、同志と共に駿府今川館の小鹿範満を急襲する。範満は弟範慶と共に自害し、小鹿今川家は断絶、今川氏親が家督を相続した。
- 浜松荘を巡る争い 西暦1,501年。浜松荘と其の拠点曳馬城を巡り、今川氏親が支持する飯尾賢連と、斯波義達が支持する大河内貞綱が争う。今川が大河内を追い落とし、飯尾が浜松荘代官に任じられた。
- 立河原の戦い 西暦1,504年11月3日。上杉朝良・北条早雲・今川氏親率いる軍が正午に立河原へ到着し、山内上杉軍と交戦する。広い範囲での激しい戦闘となり、山内上杉軍は2,000騎余を失って夕方に敗北が決定的となり、上杉顕定は鉢形城へ敗走した。
- 岩津城の包囲 西暦1,506年9月7日。今川氏親から松平征伐を指示された北条早雲が、駿河国・遠江国・三河国東部から集めた10,000名余の軍勢を率い、大樹寺を本陣として松平の支城岩津城を包囲した。
- 遠江国守護への補任 西暦1,508年7月28日。足利義稙が第10代室町幕府征夷大将軍として再任された同じ日、今川氏親は第23代室町幕府遠江国守護に補任される。実力で切り取った遠江国が、幕府の公認する支配へと変わった。
- 椿城の戦い 西暦1,515年11月22日。武田信虎率いる軍が大井信達の椿城を攻めるも、深田に馬を乗り入れて身動きが取れなくなり、今川の援軍を含む大井勢の逆襲を受ける。大将格20騎と将兵100名以上を失う大敗となり、今川氏親は甲斐国へ進軍して勝山城に布陣した。
- 甲斐国の焼き討ちと万力の戦い 西暦1,516年10月23日。今川氏親勢が甲斐国中に火を掛け、円楽寺・大蔵経寺・普賢寺等が焼失する。今川勢は万力にて武田信虎率いる軍と交戦して此れを破り、武田は恵林寺へ敗走した。
- 吉田城の攻防と甲駿和睦 西暦1,517年1月から2月。吉田城の今川勢は小林昌喜・小林道光父子の攻撃で孤立し、2月17日に落城して退路を断たれる。氏親の依頼を受けた連歌師宗長が翌18日に和睦を成立させ、今川勢は駿河国へ撤退、国境の封鎖も解かれた。
- 曳馬城の陥落 西暦1,517年9月4日。天竜川に300隻余の船橋を掛けて渡った今川勢の包囲を、大河内貞綱と斯波義達は兵糧攻めにも屈せず堅く守ったが、梅ヶ島金山の炭鉱夫に井水の水源を断たれて落城する。大河内は自害し、斯波は捕縛された。
- 遠江国の検地 西暦1,524年。今川氏親が遠江国にて検地を行う。土地の一元支配が狙いであった。此の頃氏親は、駿府の整備と梅ヶ島金山の開発も併せて進めている。
- 今川仮名目録の制定 西暦1,526年5月25日。自身の死後、嫡男今川氏輝が幼年である事から家督争いが勃発する事を危惧した氏親が、33ヶ条から成る分国法「今川仮名目録」を制定した。名田・境界・喧嘩・借銭・守護不入・流通と、領国の秩序が条文の形で定められる。
主要な概念・用語
- 今川仮名目録 西暦1,526年5月25日に今川氏親が制定した、33ヶ条から成る分国法。名田の没収の禁止と年貢増を条件とする競望に始まり、土地の境界争い、喧嘩の法理、家臣の主人替え、借米・借銭の利息、守護不入地の扱い、他国との婚姻の禁止に至る迄、領国内の秩序を条文として定めた。
- 分国法 戦国大名が自らの領国(分国)に対して定めた法。幕府の法とは別に、大名自身の権威で家臣と領民を律する点に特徴が有る。氏親が「今川仮名目録」を遺したのは、幼い嫡男が継ぐ家を、人ではなく条文で支える為であった。
- 家督代行 当主が幼少である間、一族の別人が家督の職務を代わって執る事。小鹿範満は、氏親が成人する迄という条件で家督を代行したが、約定の後も駿府今川館を明け渡さず、結果として急襲を招いた。
- 御教書 将軍等の意を受けて発給される公文書。西暦1,480年、北条早雲の工作により足利義政名義の御教書が発せられ、今川氏親の家督継承が約束された。文書の権威が実効支配に及ばなかった事も、同時に記録されている。
- 守護 室町幕府が国ごとに置いた軍事・行政の職。今川氏親は西暦1,508年7月28日に第23代室町幕府遠江国守護へ補任され、実力で進めた遠江国支配に公の裏付けを得た。
- 検地 領内の土地の面積・収穫高・耕作者を調査する事。西暦1,524年、氏親は遠江国で検地を行い、土地の一元支配を図った。「今川仮名目録」には、年期を定めて売却した知行地への検地を禁ずる条も含まれる。
- 守護不入 守護の役人が立ち入って徴税や検断を行えない特権。「今川仮名目録」は、領主に落ち度が有る場合は成敗すると定めた上で、駿府内の守護不入地に就いては此れを破棄し、異議を認めないとした。
- 国質 債務者が返済しない時、其の本人だけでなく、同じ地域に属する無関係な第三者の財産や身柄を代わりに差し押さえる慣行。「今川仮名目録」は、今川家及び奉行に断りを入れない私的な国質を罪科に処すと定めた。
- 譴責 実力行使による借米・借銭の差し押さえ。「今川仮名目録」では、6年を経ても元利の弁済が無い場合に、契約時の奉行と領主へ断った上で行うものとされ、他人の知行地の百姓へ届け出無く行えば不法行為として処罰された。
- 撰銭 流通する銭の中から質の悪い物を嫌って受け取りを拒む行為。今川氏親による駿河国・甲斐国の国境封鎖の下、甲斐国では物資が不足して撰銭も行われ、相場が高値で推移して領民が困窮した。
- 喧嘩の法理 「今川仮名目録」第8条以下が定めた、喧嘩に及んだ者は理非を問わず双方とも死罪とする原則。但し、仕掛けられても堪忍して傷を受けた者は罪を免じ、成敗は本人一人に掛かって妻子には及ばないとする例外も併せて記されている。
- 津料・駄の口 港で徴収される通行税と、荷駄に掛かる陸上の通行税。「今川仮名目録」は、駿河国・遠江国両国の港の津料と、遠江国の駄の口を廃止し、異議を唱える者は罪科に処すと定めた。領国内の流通を促す施策である。
家督争い・関東出兵・遠江平定・甲斐侵攻、そして分国法へ──
今川氏親の全軌跡を一元化。
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