今川氏親一元化
父の討死から、今川仮名目録へ──
今川氏親の生涯を一元化。
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本書について
西暦1,473年、今川義忠と、伊勢盛定の娘北川殿の2名の嫡男として、今川氏親が、駿府今川館(現在の静岡県静岡市葵区駿府城公園付近)にて生誕する。本書は、此の今川氏親の生誕から、今川義忠の討死と家督相続を巡る対立、北条早雲による小鹿範満の急襲、立河原での山内上杉軍との交戦、今川氏親の第23代室町幕府遠江国守護への補任、椿城での武田信虎率いる軍の大敗、宗長の斡旋による武田信虎との和睦、曳馬城の陥落、分国法「今川仮名目録」の制定を経て、西暦1,526年8月1日に今川氏親が駿府今川館にて死去する迄を一元化した記録である。
西暦1,476年3月1日、今川義忠が、横地城(現在の静岡県菊川市東横地)・勝間田城(現在の静岡県牧之原市勝田)を落として凱旋している最中に、塩買坂(現在の静岡県菊川市高橋)にて、横地氏・勝間田氏の残党による一揆勢に不意を突かれ、流れ矢を受けて討死する。其の後、家督相続を巡り、小鹿範頼の嫡男小鹿範満と、今川氏親の2名が対立した。小鹿範満は、太田道灌・扇谷上杉家の支援を受けて家督を代行した。氏親は、北川殿と共に、小川城(現在の静岡県焼津市西小川)主長谷川正宣の下に身を寄せた。最終的に、北条早雲の仲裁により、今川氏親が家督を継いだ。5月頃、太田道灌が、上杉定正の命により、小鹿範満の支援の為、300名の兵を率いて駿河国へ出陣する。又、上杉政憲も、足利政知の命により、300名の兵を率いて駿河国に入った。太田道灌は八幡山城(現在の静岡県静岡市駿河区八幡山)、上杉政憲は狐ヶ崎(現在の静岡県静岡市葵区川合付近)に布陣した。其の後、北条早雲が、室町幕府の意向を受けて駿河国へ下向し、今川氏親が成人する迄小鹿範満が家督を代行するという案で、浅間神社(現在の静岡県静岡市葵区宮ヶ崎町)にて和睦した。西暦1,480年2月1日、北条早雲の工作により、足利義政名義の、今川氏親の家督継承を約束する御教書が発せられる。然し、小鹿範満は家督を譲らず、駿府今川館に居座り続けた。西暦1,487年11月24日、北川殿からの助力の要請を受け、足利義尚からの承認を得た北条早雲が、同志と共に、駿府今川館に居た小鹿範満を急襲する。追い詰められた範満は、小鹿範頼の弐男小鹿範慶と共に自害した。此れにより、小鹿今川家は断絶し、今川氏親が家督を相続する事となった。今川氏親は其の後元服し、自身の叔父である北条早雲を後見役として、領国経営を進めた。
西暦1,493年10月頃、北条早雲が、自身の居城である興国寺城(現在の静岡県沼津市根古屋)にて足利茶々丸征伐の作戦を練る。そして、今川氏親・葛山氏・上杉定正からの援軍を得て、足利潤童子を支持していた伊豆国人を味方に付け、500名の軍勢で出陣した。西暦1,494年頃、北条早雲が、今川氏親軍を率い、遠江国へ侵攻を開始する。西暦1,494年、天方城(現在の静岡県周智郡森町問詰)主天方通季が、今川氏親方に降伏する。以降天方通季は、今川氏親に臣従した。西暦1,501年、今川氏親の支持を受けた飯尾賢連と、斯波義達の支持を受けた大河内貞綱の2名が、浜松荘と其の拠点である曳馬城(現在の静岡県浜松市中区元城町)を巡って争っていた。最終的に、今川氏親が大河内貞綱を追い落とし、飯尾賢連が浜松荘代官に任じられた。
西暦1,504年10月頃、上杉顕定が、目標を江戸城に変え、仙波(現在の埼玉県川越市小仙波町周辺)から進軍し、白子(現在の埼玉県和光市)に布陣する。此れを受けて上杉朝良は、韮山城に居た北条早雲と、今川館(現在の静岡県静岡市葵区駿府城公園)に居た今川氏親の2名に救援を求めた。10月27日、此の日から4日間、今川氏親率いる軍が、続々と枡形山に到着する。11月2日、上杉朝良・北条早雲・今川氏親の3名率いる軍が、枡形山を出発する。11月3日12時頃、上杉朝良・北条早雲・今川氏親の3名率いる軍が、立河原に到着する。其の後、山内上杉軍と交戦した。広い範囲での激しい戦闘となり、山内上杉軍は2,000騎余を失い、夕方には敗北が決定的となった。夜、上杉顕定は鉢形城に敗走した。12月頃、北条早雲・今川氏親の2名が、帰還の為鎌倉に向かう。其の後2名は、熱海で静養し、韮山城で法要を行った。そして今川氏親は、北条早雲と別れ、今川館へと帰還した。又12月頃、上杉顕定率いる山内上杉軍が、北条早雲・今川氏親の帰還によって守備が手薄となった川越城を攻撃する。山内上杉軍は、扇谷上杉軍を追い払い、立河原付近を押さえた。
西暦1,505年、今川氏親が、中御門宣胤の娘寿桂尼を正室に迎える。此れにより今川氏親は、朝廷との繋がりを得、此の頃から修理大夫を称し始めた。又此の年、今川氏親の指示により、牧野古白の手によって、今橋城(現在の愛知県豊橋市今橋町)が築城される。三河国西部に勢力を伸ばして来た松平長親に備える事を意図していた。西暦1,506年9月7日、三河国西部に勢力を伸ばす松平長親を警戒した今川氏親から松平征伐を指示された北条早雲が、駿河国・遠江国・三河国東部から集めた10,000名余の軍勢を率い、大樹寺(現在の愛知県岡崎市鴨田町広元)を本陣に定め、松平長親の支城である岩津城(現在の愛知県岡崎市岩津町東山)を包囲する。三河国東部には、牧野古白・牧野成勝・戸田政光が含まれていた。西暦1,508年、今川氏親が、遠江国へ侵攻する。7月28日、足利義稙が、朝廷により、第10代室町幕府征夷大将軍として再任される。此の日、大内義興も管領代に就任した。其の後足利義稙は、恩賞として、大内義興に相国寺崇寿院領である和泉国堺南荘(現在の大阪府堺市堺区)を与えようとしたが、大内義興は此れを辞退した。其の代替として大内義興は、第33代室町幕府山城国守護に任じられた。又、今川氏親が、第23代室町幕府遠江国守護に補任された。
西暦1,512年5月17日、今川氏親率いる軍が、浜名湖周辺にて、斯波義達と交戦する。其の後一旦休戦となった。西暦1,514年頃、三岳城が、朝比奈泰煕の総攻撃を受ける。斯波義達は此れに応戦したものの及ばず、三岳城は陥落した。斯波義達は尾張国へ退却し、三岳城に籠城していた井伊家は、奥山城(現在の静岡県浜松市浜名区引佐町奥山)に逃れ、今川氏親に降伏した。西暦1,515年、椿城(現在の山梨県南アルプス市上野)主大井信達が、甲斐国へ勢力を拡大しようとしていた今川氏親と通じる。11月22日、武田信虎率いる軍が、大井信達の居城である椿城を攻撃する。武田信虎率いる軍は、椿城の周辺の地形を把握しておらず、深田に馬を乗り入れてしまい、身動きが取れなくなった所を今川氏親からの援軍を含む大井勢に襲われ、小山田大和守・今井信房・於曽備州・板垣伯耆守・飯富道悦・飯富源四郎・甘利衆を含む大将格20騎が討ち取られ、将兵も100名以上が戦死し、大敗を喫した。今川氏親率いる軍は、甲斐国へ進軍した。此れを受けて武田信虎は、恵林寺(現在の山梨県甲州市塩山小屋敷)へ逃亡した。今川氏親は駿河国と甲斐国の国境を封鎖した上で、勝山城(現在の山梨県甲府市上曽根町)に布陣した。西暦1,516年10月23日、今川氏親勢が、甲斐国中に火を掛ける。円楽寺(現在の山梨県甲府市右左口町)・大蔵経寺(現在の山梨県笛吹市石和町松本)・普賢寺(現在の山梨県山梨市北の大井俣窪八幡神社)等が焼失した。そして今川勢は、万力(現在の山梨県山梨市)にて、武田信虎率いる軍と交戦し、此れを破った。武田信虎は、恵林寺へ敗走した。
西暦1,517年1月18日、今川氏親勢が、都留郡の西海右近進・西海平八郎を含む三兄弟や、大石与五郎等を討ち取る。1月21日、武田信虎の家臣小林道光の息子小林昌喜が出陣し、吉田城(現在の山梨県富士吉田市上吉田東)の今川氏親勢と交戦する。今川勢は次第に孤立し、民衆は河口湖の鵜島(現在の山梨県南都留郡富士河口湖町大石)に逃れて越年した。2月2日、吉田城の今川氏親勢が、撤退を始める。2月12日、今川氏親が、連歌師宗長に、武田信虎との和睦の斡旋を依頼する。今川氏親は、宗長を武田信虎の下に遣わせた。2月17日、小林道光が、吉田城を落城させる。今川氏親勢は、退路を断たれた。2月18日、宗長が、甲府の知人の屋敷に到着する。其の後、武田信虎と交渉し、和睦を成立させた。今川氏親勢は、駿河国へ撤退した。大井信達は、此の和睦を受けて、武田信虎に降伏し、大井の方を武田信虎の正室として差し出した。武田信虎は、川田館に帰還した。今川氏親による駿河国と甲斐国の国境の封鎖は解かれた。此の封鎖により、甲斐国では、物資が不足し、撰銭も行われ、相場が高値で推移して領民は困窮していた。3月23日、勝山城に籠城していた今川氏親勢2,000名余が、駿河国へ帰国する。4月頃、今川氏親が、駿河国へ帰国する。
西暦1,517年7月9日、今川氏親が、連日の雨で川幅が拡がった天竜川に300隻余の船橋を掛けて渡り、曳馬城を包囲した上で、籠城する大河内貞綱・斯波義達の2名に対し、攻撃を仕掛ける。大河内貞綱達は、曳馬城を堅く守り、兵糧攻めにも屈しなかった。9月4日、曳馬城が、梅ヶ島金山(現在の静岡県静岡市葵区梅ヶ島)の炭鉱夫によって井水の水源が断たれ、陥落する。大河内貞綱と、大河内貞綱の弟巨海道綱の2名は自害した。斯波義達は降伏し、足利家一門という事で助命されたものの、捕縛された。其の後斯波義達は、普済寺(現在の静岡県浜松市中央区広沢)で出家し、尾張国へ送還された。飯尾賢連は、吉良家家臣から今川家家臣に転じ、今川氏親から、曳馬城主に任じられた。西暦1,521年頃、今川氏親が中風に倒れる。今川氏親は寝たきりとなり、発給文書から花押が消える等した。寿桂尼が国政の一部を担う様になった。西暦1,524年、今川氏親が、遠江国にて検地を行う。土地の一元支配が狙いであった。此の頃今川氏親は、駿府の整備や梅ヶ島金山の開発を進めていた。
西暦1,526年5月25日、今川氏親が、自身の死去後、自身の嫡男今川氏輝が幼年である事から、家督争いが勃発する事を危惧し、33ヶ条(①名田の没収の禁止と、年貢増を条件とする競望、②土地の境界争い、③荒れ地を開き直す時の境界争い、④訴訟中の土地への実力行使、⑤譜代の家臣の主人替え、⑥逃げた家臣を追う権利の時効、⑦屋敷への不法侵入、⑧喧嘩の法理と処罰、⑨喧嘩に加担した者の処罰、⑩家臣の不法行為に対する主人の責任、⑪子供の喧嘩、⑫子供の刑事責任年齢、⑬知行地の売却の禁止と許可の特例、⑭売却された土地に対する検地の禁止、⑮井戸・溝用地の借地契約、⑯他国出身の家臣の知行の保護、⑰古文書を根拠とする知行権主張の禁止、⑱借米の利息と弁済、⑲借銭の利息と弁済、⑳困窮した家臣による救済強要の禁止、㉑他人の知行地に於ける差し押さえ、㉒守護不入地の扱い、㉓駿府に於ける守護不入特権の解消、㉔海上・陸上の運搬税の統制、㉕国質の私的な取立の禁止、㉖難破船の所有権の帰属、㉗河川の流木の所有権の帰属、㉘宗派の論争の禁止、㉙寺院の住職の相続、㉚他国との婚姻の禁止、㉛他国人の軍陣参加の禁止、㉜今川館内での家臣の席次、㉝他国商人を家臣とする事の禁止)から成る分国法「今川仮名目録」を制定する。8月1日、今川氏親が、駿府今川館にて死去する。家督は今川氏輝が継いだ。今川氏親の生誕から、今川義忠の討死と家督相続を巡る対立、北条早雲による小鹿範満の急襲、立河原での山内上杉軍との交戦、今川氏親の第23代室町幕府遠江国守護への補任、椿城での武田信虎率いる軍の大敗、宗長の斡旋による武田信虎との和睦、曳馬城の陥落、分国法「今川仮名目録」の制定を経て、今川氏親の駿府今川館での死去に至る迄——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。
登場人物
- 今川氏親 西暦1,473年、今川義忠と、伊勢盛定の娘北川殿の2名の嫡男として、今川氏親が、駿府今川館にて生誕する。西暦1,476年3月1日、今川義忠が、横地城・勝間田城を落として凱旋している最中に、塩買坂にて、横地氏・勝間田氏の残党による一揆勢に不意を突かれ、流れ矢を受けて討死する。其の後、家督相続を巡り、小鹿範頼の嫡男小鹿範満と、今川氏親の2名が対立した。小鹿範満は、太田道灌・扇谷上杉家の支援を受けて家督を代行した。氏親は、北川殿と共に、小川城主長谷川正宣の下に身を寄せた。5月頃、太田道灌が、上杉定正の命により、小鹿範満の支援の為、300名の兵を率いて駿河国へ出陣する。其の後、北条早雲が、室町幕府の意向を受けて駿河国へ下向し、今川氏親が成人する迄小鹿範満が家督を代行するという案で、浅間神社にて和睦した。西暦1,480年2月1日、北条早雲の工作により、足利義政名義の、今川氏親の家督継承を約束する御教書が発せられる。然し、小鹿範満は家督を譲らず、駿府今川館に居座り続けた。西暦1,487年11月24日、北川殿からの助力の要請を受け、足利義尚からの承認を得た北条早雲が、同志と共に、駿府今川館に居た小鹿範満を急襲する。追い詰められた範満は、小鹿範頼の弐男小鹿範慶と共に自害した。此れにより、小鹿今川家は断絶し、今川氏親が家督を相続する事となった。今川氏親は其の後元服し、自身の叔父である北条早雲を後見役として、領国経営を進めた。西暦1,501年、今川氏親の支持を受けた飯尾賢連と、斯波義達の支持を受けた大河内貞綱の2名が、浜松荘と其の拠点である曳馬城を巡って争っていた。最終的に、今川氏親が大河内貞綱を追い落とし、飯尾賢連が浜松荘代官に任じられた。西暦1,504年10月頃、上杉顕定が、目標を江戸城に変え、仙波から進軍し、白子に布陣する。此れを受けて上杉朝良は、韮山城に居た北条早雲と、今川館に居た今川氏親の2名に救援を求めた。11月3日12時頃、上杉朝良・北条早雲・今川氏親の3名率いる軍が、立河原に到着する。其の後、山内上杉軍と交戦した。広い範囲での激しい戦闘となり、山内上杉軍は2,000騎余を失い、夕方には敗北が決定的となった。夜、上杉顕定は鉢形城に敗走した。西暦1,505年、今川氏親が、中御門宣胤の娘寿桂尼を正室に迎える。此れにより今川氏親は、朝廷との繋がりを得、此の頃から修理大夫を称し始めた。西暦1,508年7月28日、足利義稙が、朝廷により、第10代室町幕府征夷大将軍として再任される。又、今川氏親が、第23代室町幕府遠江国守護に補任された。西暦1,515年、椿城主大井信達が、甲斐国へ勢力を拡大しようとしていた今川氏親と通じる。11月22日、武田信虎率いる軍が、大井信達の居城である椿城を攻撃する。今川氏親率いる軍は、甲斐国へ進軍した。今川氏親は駿河国と甲斐国の国境を封鎖した上で、勝山城に布陣した。西暦1,517年2月12日、今川氏親が、連歌師宗長に、武田信虎との和睦の斡旋を依頼する。今川氏親は、宗長を武田信虎の下に遣わせた。7月9日、今川氏親が、連日の雨で川幅が拡がった天竜川に300隻余の船橋を掛けて渡り、曳馬城を包囲した上で、籠城する大河内貞綱・斯波義達の2名に対し、攻撃を仕掛ける。9月4日、曳馬城が、梅ヶ島金山の炭鉱夫によって井水の水源が断たれ、陥落する。飯尾賢連は、吉良家家臣から今川家家臣に転じ、今川氏親から、曳馬城主に任じられた。西暦1,521年頃、今川氏親が中風に倒れる。今川氏親は寝たきりとなり、発給文書から花押が消える等した。西暦1,524年、今川氏親が、遠江国にて検地を行う。土地の一元支配が狙いであった。此の頃今川氏親は、駿府の整備や梅ヶ島金山の開発を進めていた。西暦1,526年5月25日、今川氏親が、自身の死去後、自身の嫡男今川氏輝が幼年である事から、家督争いが勃発する事を危惧し、33ヶ条から成る分国法「今川仮名目録」を制定する。8月1日、今川氏親が、駿府今川館にて死去する。家督は今川氏輝が継いだ。
- 今川義忠 西暦1,473年、今川義忠と、伊勢盛定の娘北川殿の2名の嫡男として、今川氏親が、駿府今川館にて生誕する。西暦1,476年3月1日、今川義忠が、横地城・勝間田城を落として凱旋している最中に、塩買坂にて、横地氏・勝間田氏の残党による一揆勢に不意を突かれ、流れ矢を受けて討死する。其の後、家督相続を巡り、小鹿範頼の嫡男小鹿範満と、今川氏親の2名が対立した。
- 北川殿 西暦1,473年、今川義忠と、伊勢盛定の娘北川殿の2名の嫡男として、今川氏親が、駿府今川館にて生誕する。西暦1,476年3月1日、今川義忠が、横地城・勝間田城を落として凱旋している最中に、塩買坂にて、横地氏・勝間田氏の残党による一揆勢に不意を突かれ、流れ矢を受けて討死する。其の後、家督相続を巡り、小鹿範頼の嫡男小鹿範満と、今川氏親の2名が対立した。氏親は、北川殿と共に、小川城主長谷川正宣の下に身を寄せた。西暦1,487年11月24日、北川殿からの助力の要請を受け、足利義尚からの承認を得た北条早雲が、同志と共に、駿府今川館に居た小鹿範満を急襲する。追い詰められた範満は、小鹿範頼の弐男小鹿範慶と共に自害した。此れにより、小鹿今川家は断絶し、今川氏親が家督を相続する事となった。
- 北条早雲 西暦1,476年3月1日、今川義忠が、横地城・勝間田城を落として凱旋している最中に、塩買坂にて、横地氏・勝間田氏の残党による一揆勢に不意を突かれ、流れ矢を受けて討死する。其の後、家督相続を巡り、小鹿範頼の嫡男小鹿範満と、今川氏親の2名が対立した。最終的に、北条早雲の仲裁により、今川氏親が家督を継いだ。5月頃、太田道灌が、上杉定正の命により、小鹿範満の支援の為、300名の兵を率いて駿河国へ出陣する。其の後、北条早雲が、室町幕府の意向を受けて駿河国へ下向し、今川氏親が成人する迄小鹿範満が家督を代行するという案で、浅間神社にて和睦した。西暦1,480年2月1日、北条早雲の工作により、足利義政名義の、今川氏親の家督継承を約束する御教書が発せられる。然し、小鹿範満は家督を譲らず、駿府今川館に居座り続けた。西暦1,487年11月24日、北川殿からの助力の要請を受け、足利義尚からの承認を得た北条早雲が、同志と共に、駿府今川館に居た小鹿範満を急襲する。追い詰められた範満は、小鹿範頼の弐男小鹿範慶と共に自害した。此れにより、小鹿今川家は断絶し、今川氏親が家督を相続する事となった。今川氏親は其の後元服し、自身の叔父である北条早雲を後見役として、領国経営を進めた。西暦1,493年10月頃、北条早雲が、自身の居城である興国寺城にて足利茶々丸征伐の作戦を練る。そして、今川氏親・葛山氏・上杉定正からの援軍を得て、足利潤童子を支持していた伊豆国人を味方に付け、500名の軍勢で出陣した。西暦1,494年頃、北条早雲が、今川氏親軍を率い、遠江国へ侵攻を開始する。西暦1,504年10月頃、上杉顕定が、目標を江戸城に変え、仙波から進軍し、白子に布陣する。此れを受けて上杉朝良は、韮山城に居た北条早雲と、今川館に居た今川氏親の2名に救援を求めた。11月2日、上杉朝良・北条早雲・今川氏親の3名率いる軍が、枡形山を出発する。11月3日12時頃、上杉朝良・北条早雲・今川氏親の3名率いる軍が、立河原に到着する。其の後、山内上杉軍と交戦した。広い範囲での激しい戦闘となり、山内上杉軍は2,000騎余を失い、夕方には敗北が決定的となった。夜、上杉顕定は鉢形城に敗走した。12月頃、北条早雲・今川氏親の2名が、帰還の為鎌倉に向かう。其の後2名は、熱海で静養し、韮山城で法要を行った。そして今川氏親は、北条早雲と別れ、今川館へと帰還した。西暦1,506年9月7日、三河国西部に勢力を伸ばす松平長親を警戒した今川氏親から松平征伐を指示された北条早雲が、駿河国・遠江国・三河国東部から集めた10,000名余の軍勢を率い、大樹寺を本陣に定め、松平長親の支城である岩津城を包囲する。三河国東部には、牧野古白・牧野成勝・戸田政光が含まれていた。
- 小鹿範満 西暦1,476年3月1日、今川義忠が、横地城・勝間田城を落として凱旋している最中に、塩買坂にて、横地氏・勝間田氏の残党による一揆勢に不意を突かれ、流れ矢を受けて討死する。其の後、家督相続を巡り、小鹿範頼の嫡男小鹿範満と、今川氏親の2名が対立した。小鹿範満は、太田道灌・扇谷上杉家の支援を受けて家督を代行した。5月頃、太田道灌が、上杉定正の命により、小鹿範満の支援の為、300名の兵を率いて駿河国へ出陣する。其の後、北条早雲が、室町幕府の意向を受けて駿河国へ下向し、今川氏親が成人する迄小鹿範満が家督を代行するという案で、浅間神社にて和睦した。西暦1,480年2月1日、北条早雲の工作により、足利義政名義の、今川氏親の家督継承を約束する御教書が発せられる。然し、小鹿範満は家督を譲らず、駿府今川館に居座り続けた。西暦1,487年11月24日、北川殿からの助力の要請を受け、足利義尚からの承認を得た北条早雲が、同志と共に、駿府今川館に居た小鹿範満を急襲する。追い詰められた範満は、小鹿範頼の弐男小鹿範慶と共に自害した。此れにより、小鹿今川家は断絶し、今川氏親が家督を相続する事となった。
- 太田道灌 西暦1,476年3月1日、今川義忠が、横地城・勝間田城を落として凱旋している最中に、塩買坂にて、横地氏・勝間田氏の残党による一揆勢に不意を突かれ、流れ矢を受けて討死する。其の後、家督相続を巡り、小鹿範頼の嫡男小鹿範満と、今川氏親の2名が対立した。小鹿範満は、太田道灌・扇谷上杉家の支援を受けて家督を代行した。5月頃、太田道灌が、上杉定正の命により、小鹿範満の支援の為、300名の兵を率いて駿河国へ出陣する。又、上杉政憲も、足利政知の命により、300名の兵を率いて駿河国に入った。太田道灌は八幡山城、上杉政憲は狐ヶ崎に布陣した。
- 上杉朝良 西暦1,504年10月頃、上杉顕定が、目標を江戸城に変え、仙波から進軍し、白子に布陣する。此れを受けて上杉朝良は、韮山城に居た北条早雲と、今川館に居た今川氏親の2名に救援を求めた。11月2日、上杉朝良・北条早雲・今川氏親の3名率いる軍が、枡形山を出発する。11月3日12時頃、上杉朝良・北条早雲・今川氏親の3名率いる軍が、立河原に到着する。其の後、山内上杉軍と交戦した。広い範囲での激しい戦闘となり、山内上杉軍は2,000騎余を失い、夕方には敗北が決定的となった。夜、上杉顕定は鉢形城に敗走した。
- 上杉顕定 西暦1,504年10月頃、上杉顕定が、目標を江戸城に変え、仙波から進軍し、白子に布陣する。此れを受けて上杉朝良は、韮山城に居た北条早雲と、今川館に居た今川氏親の2名に救援を求めた。11月3日12時頃、上杉朝良・北条早雲・今川氏親の3名率いる軍が、立河原に到着する。其の後、此の軍は、山内上杉軍と交戦した。広い範囲での激しい戦闘となり、山内上杉軍は2,000騎余を失い、夕方には敗北が決定的となった。夜、上杉顕定は鉢形城に敗走した。12月頃、上杉顕定率いる山内上杉軍が、北条早雲・今川氏親の帰還によって守備が手薄となった川越城を攻撃する。山内上杉軍は、扇谷上杉軍を追い払い、立河原付近を押さえた。
- 寿桂尼 西暦1,505年、今川氏親が、中御門宣胤の娘寿桂尼を正室に迎える。此れにより今川氏親は、朝廷との繋がりを得、此の頃から修理大夫を称し始めた。西暦1,521年頃、今川氏親が中風に倒れる。今川氏親は寝たきりとなり、発給文書から花押が消える等した。寿桂尼が国政の一部を担う様になった。
- 松平長親 西暦1,505年、今川氏親の指示により、牧野古白の手によって、今橋城が築城される。今川氏親は、三河国西部に勢力を伸ばして来た松平長親に備える事を意図していた。西暦1,506年9月7日、三河国西部に勢力を伸ばす松平長親を警戒した今川氏親から松平征伐を指示された北条早雲が、駿河国・遠江国・三河国東部から集めた10,000名余の軍勢を率い、大樹寺を本陣に定め、松平長親の支城である岩津城を包囲する。
- 牧野古白 西暦1,505年、今川氏親の指示により、牧野古白の手によって、今橋城が築城される。今川氏親は、三河国西部に勢力を伸ばして来た松平長親に備える事を意図していた。西暦1,506年9月7日、三河国西部に勢力を伸ばす松平長親を警戒した今川氏親から松平征伐を指示された北条早雲が、駿河国・遠江国・三河国東部から集めた10,000名余の軍勢を率い、大樹寺を本陣に定め、松平長親の支城である岩津城を包囲する。三河国東部には、牧野古白・牧野成勝・戸田政光が含まれていた。
- 斯波義達 西暦1,501年、今川氏親の支持を受けた飯尾賢連と、斯波義達の支持を受けた大河内貞綱の2名が、浜松荘と其の拠点である曳馬城を巡って争っていた。最終的に、今川氏親が大河内貞綱を追い落とし、飯尾賢連が浜松荘代官に任じられた。西暦1,512年5月17日、今川氏親率いる軍が、浜名湖周辺にて、斯波義達と交戦する。其の後一旦休戦となった。西暦1,514年頃、三岳城が、朝比奈泰煕の総攻撃を受ける。斯波義達は此れに応戦したものの及ばず、三岳城は陥落した。斯波義達は尾張国へ退却し、三岳城に籠城していた井伊家は、奥山城に逃れ、今川氏親に降伏した。西暦1,517年7月9日、今川氏親が、連日の雨で川幅が拡がった天竜川に300隻余の船橋を掛けて渡り、曳馬城を包囲した上で、籠城する大河内貞綱・斯波義達の2名に対し、攻撃を仕掛ける。大河内貞綱達は、曳馬城を堅く守り、兵糧攻めにも屈しなかった。9月4日、曳馬城が、梅ヶ島金山の炭鉱夫によって井水の水源が断たれ、陥落する。斯波義達は降伏し、足利家一門という事で助命されたものの、捕縛された。其の後斯波義達は、普済寺で出家し、尾張国へ送還された。
- 大河内貞綱 西暦1,501年、今川氏親の支持を受けた飯尾賢連と、斯波義達の支持を受けた大河内貞綱の2名が、浜松荘と其の拠点である曳馬城を巡って争っていた。最終的に、今川氏親が大河内貞綱を追い落とし、飯尾賢連が浜松荘代官に任じられた。西暦1,517年7月9日、今川氏親が、連日の雨で川幅が拡がった天竜川に300隻余の船橋を掛けて渡り、曳馬城を包囲した上で、籠城する大河内貞綱・斯波義達の2名に対し、攻撃を仕掛ける。大河内貞綱達は、曳馬城を堅く守り、兵糧攻めにも屈しなかった。9月4日、曳馬城が、梅ヶ島金山の炭鉱夫によって井水の水源が断たれ、陥落する。大河内貞綱と、大河内貞綱の弟巨海道綱の2名は自害した。
- 飯尾賢連 西暦1,501年、今川氏親の支持を受けた飯尾賢連と、斯波義達の支持を受けた大河内貞綱の2名が、浜松荘と其の拠点である曳馬城を巡って争っていた。最終的に、今川氏親が大河内貞綱を追い落とし、飯尾賢連が浜松荘代官に任じられた。西暦1,517年9月4日、曳馬城が、梅ヶ島金山の炭鉱夫によって井水の水源が断たれ、陥落する。飯尾賢連は、吉良家家臣から今川家家臣に転じ、今川氏親から、曳馬城主に任じられた。
- 朝比奈泰煕 西暦1,514年頃、三岳城が、朝比奈泰煕の総攻撃を受ける。斯波義達は此れに応戦したものの及ばず、三岳城は陥落した。斯波義達は尾張国へ退却し、三岳城に籠城していた井伊家は、奥山城に逃れ、今川氏親に降伏した。
- 武田信虎 西暦1,515年11月22日、武田信虎率いる軍が、大井信達の居城である椿城を攻撃する。武田信虎率いる軍は、椿城の周辺の地形を把握しておらず、深田に馬を乗り入れてしまい、身動きが取れなくなった所を今川氏親からの援軍を含む大井勢に襲われ、小山田大和守・今井信房・於曽備州・板垣伯耆守・飯富道悦・飯富源四郎・甘利衆を含む大将格20騎が討ち取られ、将兵も100名以上が戦死し、大敗を喫した。今川氏親率いる軍は、甲斐国へ進軍した。此れを受けて武田信虎は、恵林寺へ逃亡した。今川氏親は駿河国と甲斐国の国境を封鎖した上で、勝山城に布陣した。西暦1,516年10月23日、今川氏親勢が、甲斐国中に火を掛ける。そして今川勢は、万力にて、武田信虎率いる軍と交戦し、此れを破った。武田信虎は、恵林寺へ敗走した。西暦1,517年1月21日、武田信虎の家臣小林道光の息子小林昌喜が出陣し、吉田城の今川氏親勢と交戦する。2月12日、今川氏親が、連歌師宗長に、武田信虎との和睦の斡旋を依頼する。今川氏親は、宗長を武田信虎の下に遣わせた。2月18日、宗長が、甲府の知人の屋敷に到着する。其の後、武田信虎と交渉し、和睦を成立させた。大井信達は、此の和睦を受けて、武田信虎に降伏し、大井の方を武田信虎の正室として差し出した。武田信虎は、川田館に帰還した。
- 大井信達 西暦1,515年、椿城主大井信達が、甲斐国へ勢力を拡大しようとしていた今川氏親と通じる。11月22日、武田信虎率いる軍が、大井信達の居城である椿城を攻撃する。武田信虎率いる軍は、椿城の周辺の地形を把握しておらず、深田に馬を乗り入れてしまい、身動きが取れなくなった所を今川氏親からの援軍を含む大井勢に襲われ、小山田大和守・今井信房・於曽備州・板垣伯耆守・飯富道悦・飯富源四郎・甘利衆を含む大将格20騎が討ち取られ、将兵も100名以上が戦死し、大敗を喫した。西暦1,517年2月12日、今川氏親が、連歌師宗長に、武田信虎との和睦の斡旋を依頼する。2月18日、宗長が、甲府の知人の屋敷に到着する。其の後宗長は、武田信虎と交渉し、和睦を成立させた。大井信達は、此の和睦を受けて、武田信虎に降伏し、大井の方を武田信虎の正室として差し出した。
- 宗長 西暦1,517年2月12日、今川氏親が、連歌師宗長に、武田信虎との和睦の斡旋を依頼する。今川氏親は、宗長を武田信虎の下に遣わせた。2月18日、宗長が、甲府の知人の屋敷に到着する。其の後、武田信虎と交渉し、和睦を成立させた。今川氏親勢は、駿河国へ撤退した。今川氏親による駿河国と甲斐国の国境の封鎖は解かれた。
- 今川氏輝 西暦1,526年5月25日、今川氏親が、自身の死去後、自身の嫡男今川氏輝が幼年である事から、家督争いが勃発する事を危惧し、33ヶ条から成る分国法「今川仮名目録」を制定する。8月1日、今川氏親が、駿府今川館にて死去する。家督は今川氏輝が継いだ。
本書が記録する出来事
- 今川氏親の生誕(1,473年) 今川義忠と、伊勢盛定の娘北川殿の2名の嫡男として、今川氏親が、駿府今川館(現在の静岡県静岡市葵区駿府城公園付近)にて生誕する。
- 今川義忠の塩買坂での討死と家督相続を巡る対立(1,476年3月1日) 今川義忠が、横地城(現在の静岡県菊川市東横地)・勝間田城(現在の静岡県牧之原市勝田)を落として凱旋している最中に、塩買坂(現在の静岡県菊川市高橋)にて、横地氏・勝間田氏の残党による一揆勢に不意を突かれ、流れ矢を受けて討死する。其の後、家督相続を巡り、小鹿範頼の嫡男小鹿範満と、今川氏親の2名が対立した。小鹿範満は、太田道灌・扇谷上杉家の支援を受けて家督を代行した。氏親は、北川殿と共に、小川城(現在の静岡県焼津市西小川)主長谷川正宣の下に身を寄せた。最終的に、北条早雲の仲裁により、今川氏親が家督を継いだ。
- 太田道灌の駿河国への出陣と浅間神社での和睦(1,476年5月頃) 太田道灌が、上杉定正の命により、小鹿範満の支援の為、300名の兵を率いて駿河国へ出陣する。又、上杉政憲も、足利政知の命により、300名の兵を率いて駿河国に入った。太田道灌は八幡山城(現在の静岡県静岡市駿河区八幡山)、上杉政憲は狐ヶ崎(現在の静岡県静岡市葵区川合付近)に布陣した。其の後、北条早雲が、室町幕府の意向を受けて駿河国へ下向し、今川氏親が成人する迄小鹿範満が家督を代行するという案で、浅間神社(現在の静岡県静岡市葵区宮ヶ崎町)にて和睦した。
- 北条早雲の工作による足利義政名義の御教書の発給(1,480年2月1日) 北条早雲の工作により、足利義政名義の、今川氏親の家督継承を約束する御教書が発せられる。然し、小鹿範満は家督を譲らず、駿府今川館に居座り続けた。
- 北条早雲による駿府今川館の小鹿範満の急襲(1,487年11月24日) 北川殿からの助力の要請を受け、足利義尚からの承認を得た北条早雲が、同志と共に、駿府今川館に居た小鹿範満を急襲する。追い詰められた範満は、小鹿範頼の弐男小鹿範慶と共に自害した。此れにより、小鹿今川家は断絶し、今川氏親が家督を相続する事となった。今川氏親は其の後元服し、自身の叔父である北条早雲を後見役として、領国経営を進めた。
- 北条早雲による足利茶々丸征伐の作戦と出陣(1,493年10月頃) 北条早雲が、自身の居城である興国寺城(現在の静岡県沼津市根古屋)にて足利茶々丸征伐の作戦を練る。そして、今川氏親・葛山氏・上杉定正からの援軍を得て、足利潤童子を支持していた伊豆国人を味方に付け、500名の軍勢で出陣した。
- 北条早雲率いる今川氏親軍の遠江国への侵攻(1,494年頃) 北条早雲が、今川氏親軍を率い、遠江国へ侵攻を開始する。
- 天方通季の今川氏親方への降伏(1,494年) 天方城(現在の静岡県周智郡森町問詰)主天方通季が、今川氏親方に降伏する。以降天方通季は、今川氏親に臣従した。
- 飯尾賢連・大河内貞綱による浜松荘と曳馬城を巡る争い(1,501年) 今川氏親の支持を受けた飯尾賢連と、斯波義達の支持を受けた大河内貞綱の2名が、浜松荘と其の拠点である曳馬城(現在の静岡県浜松市中区元城町)を巡って争っていた。最終的に、今川氏親が大河内貞綱を追い落とし、飯尾賢連が浜松荘代官に任じられた。
- 上杉顕定の白子への布陣と上杉朝良による救援の要請(1,504年10月頃) 上杉顕定が、目標を江戸城に変え、仙波(現在の埼玉県川越市小仙波町周辺)から進軍し、白子(現在の埼玉県和光市)に布陣する。此れを受けて上杉朝良は、韮山城に居た北条早雲と、今川館(現在の静岡県静岡市葵区駿府城公園)に居た今川氏親の2名に救援を求めた。
- 今川氏親率いる軍の枡形山への到着の開始(1,504年10月27日) 此の日から4日間、今川氏親率いる軍が、続々と枡形山に到着する。
- 上杉朝良・北条早雲・今川氏親率いる軍の枡形山からの出発(1,504年11月2日) 上杉朝良・北条早雲・今川氏親の3名率いる軍が、枡形山を出発する。
- 上杉朝良・北条早雲・今川氏親率いる軍の立河原への到着と山内上杉軍との交戦(1,504年11月3日) 12時頃、上杉朝良・北条早雲・今川氏親の3名率いる軍が、立河原に到着する。其の後、山内上杉軍と交戦した。広い範囲での激しい戦闘となり、山内上杉軍は2,000騎余を失い、夕方には敗北が決定的となった。夜、上杉顕定は鉢形城に敗走した。
- 北条早雲・今川氏親の帰還の為の鎌倉行き(1,504年12月頃) 北条早雲・今川氏親の2名が、帰還の為鎌倉に向かう。其の後2名は、熱海で静養し、韮山城で法要を行った。そして今川氏親は、北条早雲と別れ、今川館へと帰還した。
- 上杉顕定率いる山内上杉軍による川越城の攻撃(1,504年12月頃) 上杉顕定率いる山内上杉軍が、北条早雲・今川氏親の帰還によって守備が手薄となった川越城を攻撃する。山内上杉軍は、扇谷上杉軍を追い払い、立河原付近を押さえた。
- 今川氏親と寿桂尼の婚姻(1,505年) 今川氏親が、中御門宣胤の娘寿桂尼を正室に迎える。此れにより今川氏親は、朝廷との繋がりを得、此の頃から修理大夫を称し始めた。
- 今川氏親の指示による今橋城の築城(1,505年) 今川氏親の指示により、牧野古白の手によって、今橋城(現在の愛知県豊橋市今橋町)が築城される。三河国西部に勢力を伸ばして来た松平長親に備える事を意図していた。
- 北条早雲による岩津城の包囲(1,506年9月7日) 三河国西部に勢力を伸ばす松平長親を警戒した今川氏親から松平征伐を指示された北条早雲が、駿河国・遠江国・三河国東部から集めた10,000名余の軍勢を率い、大樹寺(現在の愛知県岡崎市鴨田町広元)を本陣に定め、松平長親の支城である岩津城(現在の愛知県岡崎市岩津町東山)を包囲する。三河国東部には、牧野古白・牧野成勝・戸田政光が含まれていた。
- 今川氏親の遠江国への侵攻(1,508年) 今川氏親が、遠江国へ侵攻する。
- 足利義稙の第10代室町幕府征夷大将軍への再任と今川氏親の第23代室町幕府遠江国守護への補任(1,508年7月28日) 足利義稙が、朝廷により、第10代室町幕府征夷大将軍として再任される。此の日、大内義興も管領代に就任した。其の後足利義稙は、恩賞として、大内義興に相国寺崇寿院領である和泉国堺南荘(現在の大阪府堺市堺区)を与えようとしたが、大内義興は此れを辞退した。其の代替として大内義興は、第33代室町幕府山城国守護に任じられた。又、今川氏親が、第23代室町幕府遠江国守護に補任された。
- 今川氏親率いる軍と斯波義達の浜名湖周辺での交戦(1,512年5月17日) 今川氏親率いる軍が、浜名湖周辺にて、斯波義達と交戦する。其の後一旦休戦となった。
- 朝比奈泰煕による三岳城への総攻撃と三岳城の陥落(1,514年頃) 三岳城が、朝比奈泰煕の総攻撃を受ける。斯波義達は此れに応戦したものの及ばず、三岳城は陥落した。斯波義達は尾張国へ退却し、三岳城に籠城していた井伊家は、奥山城(現在の静岡県浜松市浜名区引佐町奥山)に逃れ、今川氏親に降伏した。
- 大井信達と今川氏親の連携(1,515年) 椿城(現在の山梨県南アルプス市上野)主大井信達が、甲斐国へ勢力を拡大しようとしていた今川氏親と通じる。
- 武田信虎率いる軍による椿城の攻撃と大敗(1,515年11月22日) 武田信虎率いる軍が、大井信達の居城である椿城を攻撃する。武田信虎率いる軍は、椿城の周辺の地形を把握しておらず、深田に馬を乗り入れてしまい、身動きが取れなくなった所を今川氏親からの援軍を含む大井勢に襲われ、小山田大和守・今井信房・於曽備州・板垣伯耆守・飯富道悦・飯富源四郎・甘利衆を含む大将格20騎が討ち取られ、将兵も100名以上が戦死し、大敗を喫した。今川氏親率いる軍は、甲斐国へ進軍した。此れを受けて武田信虎は、恵林寺(現在の山梨県甲州市塩山小屋敷)へ逃亡した。今川氏親は駿河国と甲斐国の国境を封鎖した上で、勝山城(現在の山梨県甲府市上曽根町)に布陣した。
- 今川氏親勢による甲斐国中への放火と万力での交戦(1,516年10月23日) 今川氏親勢が、甲斐国中に火を掛ける。円楽寺(現在の山梨県甲府市右左口町)・大蔵経寺(現在の山梨県笛吹市石和町松本)・普賢寺(現在の山梨県山梨市北の大井俣窪八幡神社)等が焼失した。そして今川勢は、万力(現在の山梨県山梨市)にて、武田信虎率いる軍と交戦し、此れを破った。武田信虎は、恵林寺へ敗走した。
- 今川氏親勢による西海右近進・西海平八郎等の討ち取り(1,517年1月18日) 今川氏親勢が、都留郡の西海右近進・西海平八郎を含む三兄弟や、大石与五郎等を討ち取る。
- 小林昌喜の出陣と吉田城の今川氏親勢との交戦(1,517年1月21日) 武田信虎の家臣小林道光の息子小林昌喜が出陣し、吉田城(現在の山梨県富士吉田市上吉田東)の今川氏親勢と交戦する。今川勢は次第に孤立し、民衆は河口湖の鵜島(現在の山梨県南都留郡富士河口湖町大石)に逃れて越年した。
- 吉田城の今川氏親勢の撤退の開始(1,517年2月2日) 吉田城の今川氏親勢が、撤退を始める。
- 今川氏親による宗長への和睦の斡旋の依頼(1,517年2月12日) 今川氏親が、連歌師宗長に、武田信虎との和睦の斡旋を依頼する。今川氏親は、宗長を武田信虎の下に遣わせた。
- 小林道光による吉田城の落城(1,517年2月17日) 小林道光が、吉田城を落城させる。今川氏親勢は、退路を断たれた。
- 宗長の甲府の知人の屋敷への到着(1,517年2月18日) 宗長が、甲府の知人の屋敷に到着する。其の後、武田信虎と交渉し、和睦を成立させた。今川氏親勢は、駿河国へ撤退した。大井信達は、此の和睦を受けて、武田信虎に降伏し、大井の方を武田信虎の正室として差し出した。武田信虎は、川田館に帰還した。今川氏親による駿河国と甲斐国の国境の封鎖は解かれた。此の封鎖により、甲斐国では、物資が不足し、撰銭も行われ、相場が高値で推移して領民は困窮していた。
- 勝山城の今川氏親勢2,000名余の駿河国への帰国(1,517年3月23日) 勝山城に籠城していた今川氏親勢2,000名余が、駿河国へ帰国する。
- 今川氏親の駿河国への帰国(1,517年4月頃) 今川氏親が、駿河国へ帰国する。
- 今川氏親による天竜川の渡河と曳馬城への攻撃(1,517年7月9日) 今川氏親が、連日の雨で川幅が拡がった天竜川に300隻余の船橋を掛けて渡り、曳馬城を包囲した上で、籠城する大河内貞綱・斯波義達の2名に対し、攻撃を仕掛ける。大河内貞綱達は、曳馬城を堅く守り、兵糧攻めにも屈しなかった。
- 曳馬城の陥落(1,517年9月4日) 曳馬城が、梅ヶ島金山(現在の静岡県静岡市葵区梅ヶ島)の炭鉱夫によって井水の水源が断たれ、陥落する。大河内貞綱と、大河内貞綱の弟巨海道綱の2名は自害した。斯波義達は降伏し、足利家一門という事で助命されたものの、捕縛された。其の後斯波義達は、普済寺(現在の静岡県浜松市中央区広沢)で出家し、尾張国へ送還された。飯尾賢連は、吉良家家臣から今川家家臣に転じ、今川氏親から、曳馬城主に任じられた。
- 今川氏親の中風(1,521年頃) 今川氏親が中風に倒れる。今川氏親は寝たきりとなり、発給文書から花押が消える等した。寿桂尼が国政の一部を担う様になった。
- 今川氏親による遠江国での検地(1,524年) 今川氏親が、遠江国にて検地を行う。土地の一元支配が狙いであった。此の頃今川氏親は、駿府の整備や梅ヶ島金山の開発を進めていた。
- 今川氏親による分国法「今川仮名目録」の制定(1,526年5月25日) 今川氏親が、自身の死去後、自身の嫡男今川氏輝が幼年である事から、家督争いが勃発する事を危惧し、33ヶ条(①名田の没収の禁止と、年貢増を条件とする競望、②土地の境界争い、③荒れ地を開き直す時の境界争い、④訴訟中の土地への実力行使、⑤譜代の家臣の主人替え、⑥逃げた家臣を追う権利の時効、⑦屋敷への不法侵入、⑧喧嘩の法理と処罰、⑨喧嘩に加担した者の処罰、⑩家臣の不法行為に対する主人の責任、⑪子供の喧嘩、⑫子供の刑事責任年齢、⑬知行地の売却の禁止と許可の特例、⑭売却された土地に対する検地の禁止、⑮井戸・溝用地の借地契約、⑯他国出身の家臣の知行の保護、⑰古文書を根拠とする知行権主張の禁止、⑱借米の利息と弁済、⑲借銭の利息と弁済、⑳困窮した家臣による救済強要の禁止、㉑他人の知行地に於ける差し押さえ、㉒守護不入地の扱い、㉓駿府に於ける守護不入特権の解消、㉔海上・陸上の運搬税の統制、㉕国質の私的な取立の禁止、㉖難破船の所有権の帰属、㉗河川の流木の所有権の帰属、㉘宗派の論争の禁止、㉙寺院の住職の相続、㉚他国との婚姻の禁止、㉛他国人の軍陣参加の禁止、㉜今川館内での家臣の席次、㉝他国商人を家臣とする事の禁止)から成る分国法「今川仮名目録」を制定する。
- 今川氏親の死去(1,526年8月1日) 今川氏親が、駿府今川館にて死去する。家督は今川氏輝が継いだ。本書の年表の最後の項目である。
主要な概念・用語
- 今川仮名目録 西暦1,526年5月25日、今川氏親が、自身の死去後、自身の嫡男今川氏輝が幼年である事から、家督争いが勃発する事を危惧し、33ヶ条(①名田の没収の禁止と、年貢増を条件とする競望、②土地の境界争い、③荒れ地を開き直す時の境界争い、④訴訟中の土地への実力行使、⑤譜代の家臣の主人替え、⑥逃げた家臣を追う権利の時効、⑦屋敷への不法侵入、⑧喧嘩の法理と処罰、⑨喧嘩に加担した者の処罰、⑩家臣の不法行為に対する主人の責任、⑪子供の喧嘩、⑫子供の刑事責任年齢、⑬知行地の売却の禁止と許可の特例、⑭売却された土地に対する検地の禁止、⑮井戸・溝用地の借地契約、⑯他国出身の家臣の知行の保護、⑰古文書を根拠とする知行権主張の禁止、⑱借米の利息と弁済、⑲借銭の利息と弁済、⑳困窮した家臣による救済強要の禁止、㉑他人の知行地に於ける差し押さえ、㉒守護不入地の扱い、㉓駿府に於ける守護不入特権の解消、㉔海上・陸上の運搬税の統制、㉕国質の私的な取立の禁止、㉖難破船の所有権の帰属、㉗河川の流木の所有権の帰属、㉘宗派の論争の禁止、㉙寺院の住職の相続、㉚他国との婚姻の禁止、㉛他国人の軍陣参加の禁止、㉜今川館内での家臣の席次、㉝他国商人を家臣とする事の禁止)から成る分国法「今川仮名目録」を制定する。
- 分国法 西暦1,526年5月25日、今川氏親が、自身の死去後、自身の嫡男今川氏輝が幼年である事から、家督争いが勃発する事を危惧し、33ヶ条から成る分国法「今川仮名目録」を制定する。
- 家督代行 西暦1,476年3月1日、今川義忠が、横地城・勝間田城を落として凱旋している最中に、塩買坂にて、横地氏・勝間田氏の残党による一揆勢に不意を突かれ、流れ矢を受けて討死する。其の後、家督相続を巡り、小鹿範頼の嫡男小鹿範満と、今川氏親の2名が対立した。小鹿範満は、太田道灌・扇谷上杉家の支援を受けて家督を代行した。5月頃、太田道灌が、上杉定正の命により、小鹿範満の支援の為、300名の兵を率いて駿河国へ出陣する。其の後、北条早雲が、室町幕府の意向を受けて駿河国へ下向し、今川氏親が成人する迄小鹿範満が家督を代行するという案で、浅間神社にて和睦した。
- 御教書 西暦1,480年2月1日、北条早雲の工作により、足利義政名義の、今川氏親の家督継承を約束する御教書が発せられる。然し、小鹿範満は家督を譲らず、駿府今川館に居座り続けた。
- 守護 西暦1,508年7月28日、足利義稙が、朝廷により、第10代室町幕府征夷大将軍として再任される。此の日、大内義興も管領代に就任した。其の後足利義稙は、恩賞として、大内義興に相国寺崇寿院領である和泉国堺南荘を与えようとしたが、大内義興は此れを辞退した。其の代替として大内義興は、第33代室町幕府山城国守護に任じられた。又、今川氏親が、第23代室町幕府遠江国守護に補任された。
- 検地 西暦1,524年、今川氏親が、遠江国にて検地を行う。土地の一元支配が狙いであった。此の頃今川氏親は、駿府の整備や梅ヶ島金山の開発を進めていた。西暦1,526年5月25日、今川氏親が、自身の死去後、自身の嫡男今川氏輝が幼年である事から、家督争いが勃発する事を危惧し、33ヶ条から成る分国法「今川仮名目録」を制定する。⑭売却された土地に対する検地の禁止:知行の田畑を、年期を定めて売却した後、其の年期が明けない内に検地を行う事は禁止する。但し、売却に先立って検地を行う旨を契約し、其の事を売渡状に記した場合、又百姓が私的に売地として保有する名田の場合は此の限りでは無い。
- 守護不入 西暦1,526年5月25日、今川氏親が、自身の死去後、自身の嫡男今川氏輝が幼年である事から、家督争いが勃発する事を危惧し、33ヶ条から成る分国法「今川仮名目録」を制定する。㉒守護不入地の扱い:守護不入地に就いては、改めるには及ばない。但し、其の領主に落ち度が有って成敗に相当し、守護の役人が調べに入った場合は、定めの通り成敗する。数年前に此の法を定めたが、尚領主に落ち度が有るならば、重ねて成敗する。㉓駿府に於ける守護不入特権の解消:駿府内の守護不入地は、此れを破棄した。各々異議を申し立ててはならない。
- 国質 西暦1,526年5月25日、今川氏親が、自身の死去後、自身の嫡男今川氏輝が幼年である事から、家督争いが勃発する事を危惧し、33ヶ条から成る分国法「今川仮名目録」を制定する。㉕国質の私的な取立の禁止:国質(債権者が、別の地域に住む債務者が借金を返さない時、其の本人だけで無く、同じ地域に属する無関係な第三者の財産や身柄を代わりに差し押さえる事)を取る事に就いて、今川家及び奉行に断りを入れない儘、私的に国質を取る者は罪科に処す。
- 譴責 西暦1,526年5月25日、今川氏親が、自身の死去後、自身の嫡男今川氏輝が幼年である事から、家督争いが勃発する事を危惧し、33ヶ条から成る分国法「今川仮名目録」を制定する。⑱借米の利息と弁済:借米の利息は、其の年1年間は契約によって定めた利率に依る。翌年からは本米計り単利計算とし、本米約150kgに付き利米約150kg、5年の間に本米・利米合わせて約900kgと定める。6年に及んでも元利弁済の沙汰が無い場合は、契約時の奉行並びに領主に断った上で譴責(実力による差し押さえ)を行う。⑲借銭の利息と弁済:借銭は、元利合計が元本の2倍になった後、2年間は貸主が弁済猶予を承知しなければならない。6年に及んでも元利弁済が無い場合は、契約時の奉行並びに領主に断った上で、譴責(実力による差し押さえ)を行う。其の場合は、米・銭共に利息の事は双方の契約次第で定める。㉑他人の知行地に於ける差し押さえ:他人の知行地の百姓に譴責(実力行使による借米・借銭の債務の差し押さえ)を行う事は、予め領主と奉行人に断りの届け出が無ければ、仮令正当の権利が有っても不法行為として処罰する。
- 撰銭 西暦1,515年11月22日、武田信虎率いる軍が、大井信達の居城である椿城を攻撃する。今川氏親率いる軍は、甲斐国へ進軍した。今川氏親は駿河国と甲斐国の国境を封鎖した上で、勝山城に布陣した。西暦1,517年2月12日、今川氏親が、連歌師宗長に、武田信虎との和睦の斡旋を依頼する。2月18日、宗長が、甲府の知人の屋敷に到着する。其の後宗長は、武田信虎と交渉し、和睦を成立させた。今川氏親による駿河国と甲斐国の国境の封鎖は解かれた。此の封鎖により、甲斐国では、物資が不足し、撰銭も行われ、相場が高値で推移して領民は困窮していた。
- 喧嘩の法理 西暦1,526年5月25日、今川氏親が、自身の死去後、自身の嫡男今川氏輝が幼年である事から、家督争いが勃発する事を危惧し、33ヶ条から成る分国法「今川仮名目録」を制定する。⑧喧嘩の法理と処罰:喧嘩に及んだ者は、理非を問わず双方とも死罪に処す。但し、相手から喧嘩を仕掛けられても堪忍して堪え、其の結果として傷を受けるに及んだ場合は、喧嘩の原因を作った事は非難されるべきだが、取り敢えず穏便に振る舞った事は道理に適う幸運として罪を免ずる。又、双方の与力の者が現場に居合わせて傷を受け、或いは死亡したとしても、加害者に対して訴訟を起こす事は出来ない。此れは先年に定め置いた所である。次に、喧嘩人の成敗は、取り敢えず本人1人に掛かる事であって、妻子家族には関わらない。但し、本人が現場から逐電した後は、妻子らに咎が及ぶ事も有り得よう。然し其の場合でも、死罪にまですべきでは無かろう。
- 津料・駄の口 西暦1,526年5月25日、今川氏親が、自身の死去後、自身の嫡男今川氏輝が幼年である事から、家督争いが勃発する事を危惧し、33ヶ条から成る分国法「今川仮名目録」を制定する。㉔海上・陸上の運搬税の統制:駿河国・遠江国両国の港の津料、又遠江国の駄の口(荷駄の通行税)は廃止した。此れに異議を唱える輩は罪科に処する。
立河原から甲斐国、そして曳馬城へ──
今川氏親の戦いを一元化。
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