摂津国守護代職を罷免しようとした
細川政元に怒り挙兵した薬師寺元一、
下京の民衆の土一揆一元化
西暦1,504年10月、淀古城と下京で同時に火が上がった──
守護代の挙兵と民衆の土一揆が重なった十七日間を一元化。
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本書について
西暦1,499年10月9日、足利義稙と畠山尚順の率いる軍が、山城国飯岡(現在の京都府京田辺市)に着陣した。翌10日頃、薬師寺元一は細川政元の命を受け、誉田城主畠山義英の救援の為に出陣する。此の時の元一は、細川政元の摂津国守護代として、主命に忠実に動く家臣であった——本書は、其の元一が五年後に主君へ刃を向け、同じ月に下京の民衆が徳政令を求めて京都を焼くまでの五年余を、年月日単位で一元化した記録である。
西暦1,499年10月14日、畠山尚順率いる軍は誉田城を孤立させる事を意図し、木幡(現在の京都府宇治市)まで進軍した。河内国から動員した筒井氏や十市氏等の大和国人衆で構成された軍で、河内国を征圧して上洛するという算段である。だが赤沢朝経率いる軍と交戦し、赤沢勢が優位に戦いを進めた。30日、赤沢は西一口城(現在の京都府久世郡久御山町西一口)を焼き払い、31日には真木島氏の居城槇島城(現在の京都府宇治市槇島町薗場)を落城させて複数名の首級を挙げ、11月1日に水主城(現在の京都府城陽市水主北垣内)を落として南山城一帯の征圧を完了する。畠山義英は誉田城を守り、総州家を存続させた。
同年12月頃、足利義稙が越前国府中(現在の福井県越前市国府)から出陣し、坂本に布陣した。南方からの畠山尚順の軍と連携して京都の細川政元・足利義澄方を挟撃し、上洛を狙う算段である。然し24日、六角高頼が坂本で奇襲攻撃を仕掛け、足利は敗れて比叡山へ逃れた。西暦1,500年1月20日、畠山尚順も紀伊国へ退却する。細川政元の京都は、揺るがなかった。
揺らぎ始めたのは、細川政元自身であった。西暦1,503年8月22日、安富元家の与力で兵庫津代官の高橋光正が、細川政元の命により殺害される。安富は此れを不服として遁世し、後任には赤沢朝経が兵庫津代官に就任した。11月5日に細川政元が上洛すると、以降は家臣を遠ざける等、其の言動に異常が見られる様になる。西暦1,504年1月10日、足利義澄の新年の参賀式の宴の後、細川政元は召し出されて天盃を拝領した。西暦1,439年の細川持之以来の非常に稀な事であり、政元は御礼に万疋を進上している。
西暦1,504年5月2日、細川政元が薬師寺元一の摂津国守護代職を罷免しようとした。だが足利義澄の介入により取り止めとなる。翌3日、元一は前日の御礼として足利義澄に馬・太刀等を献上し、8日には義澄が細川政元の為に和歌会を催した。表面上、事は収まった様に見えたのである。8月7日には高野山に逃れていた赤沢朝経が元一の仲介によって細川政元から宥免・召還され、9日頃には安富元家も召し返された。だが元家は、9月8日頃に死去する。24日には細川成之・細川澄元が周防国の大内義興に宛てて足利義稙からの御内書への御礼を送り、9月5日、周防国に居る足利義稙が上洛するとの噂が京都で流れた。
西暦1,504年10月10日の夜、薬師寺長盛の参男寺町又三郎が、細川政元が自身に打手を差し向けるという情報を聞き付け、京都から逐電した。翌11日、薬師寺元一は自身の謀反が細川政元に露見した為、淀古城(現在の京都府京都市伏見区納所北城堀)に籠城し、西岡の武士四宮長能父子と共に挙兵する。細川澄元を管領に擁立する狙いが有った。細川京兆家にも政元に背く者が多数発生する中、政元は即座に、薬師寺長盛の弐男薬師寺長忠を元一征伐の為に派遣した。兄を討つ任は、弟が負ったのである。
挙兵の翌日、京都はもう一つの火に包まれた。10月12日、下京の民衆が土一揆を起こし、徳政令の発布を要求して土倉や酒屋を襲撃する。13日には西岡被官衆の多くが元一に呼応して神足城(現在の京都府長岡京市東神足)で挙兵し、細川政元は上野元治・上野政益・安富元治・内藤貞正等を派遣した。同じ13日、下京の民衆は下京の町を、借用書や質札を含めて焼き払っている。14日には赤沢朝経が元一に呼応して京都から出奔した。17日、神足城での合戦で寺町又三郎と安富元治が討死する。18日、室町幕府は下京の民衆の土一揆を受けて徳政令を発布した。そして21日、香西元長は下京や京都近郊の村々の住民に、半済を条件として薬師寺元一征伐の兵を募る。徳政を勝ち取った民衆が、今度は挙兵の鎮圧側へ動員されたのであった。
10月23日、上野元治・上野政益・内藤貞正・香西元長・山内就綱・伊庭貞隆・柳本長治・武田衆・波多野元清、そして近郷の土一揆勢が神足城を落城させる。四宮長能父子及び西岡被官衆は淀古城へ逃亡した。24日、薬師寺長忠以下1,000名余が淀古城へ向けて出陣し、26日に落城させる。四宮長能父子は自害し、薬師寺元一は逃亡しようとした所を香西元長に捕縛され、細川政元の指示で京都に護送された。同じ日、赤沢朝経は槙島城から没落して行方不明となっている。27日、薬師寺元一は自身の建立した一元寺(現在の京都府京都市上京区南舟橋町)にて切腹させられる。「我は一文字好みにて名も与一、名乗りも元一、此の寺も一元寺と名付けたり。されば腹をも一文字に切るべし」——辞世の句に詠まれた「我が主」は若衆との掛詞であり、細川政元を地獄へ誘う意が込められていた。元一は、若衆と発音する様家臣に指示していたという。挙兵から切腹までの十七日間の一部始終を、本書は一冊に束ねている。
主要登場人物
- 薬師寺元一 本書の中心人物。細川政元の摂津国守護代。西暦1,499年10月10日頃には政元の命を受けて畠山義英の誉田城救援に出陣する忠実な家臣であった。西暦1,504年5月2日に守護代職を罷免されかけ(足利義澄の介入で取り止め)、10月11日、謀反の露見を受けて淀古城に籠城し挙兵。26日に捕縛され、27日に自身の建立した一元寺で切腹させられた。
- 細川政元 室町幕府第29代管領。西暦1,503年8月22日に安富元家の与力高橋光正を殺害させ、11月5日の上洛以降は家臣を遠ざける等、言動に異常が見られる様になった。西暦1,504年5月2日に薬師寺元一の摂津国守護代職を罷免しようとして足利義澄に阻まれ、10月11日の元一の挙兵に対しては即座に薬師寺長忠を派遣している。
- 細川澄元 細川政元の養子。西暦1,504年8月24日、細川成之と共に周防国の大内義興へ足利義稙の御内書への御礼を送った。同年10月11日の薬師寺元一の挙兵では、管領に擁立する対象として担ぎ上げられた。
- 細川成之 西暦1,504年8月24日、細川澄元と共に周防国の大内義興に宛てて、足利義稙からの御内書への御礼を送った。
- 香西元長 細川政元の家臣。西暦1,504年10月21日、下京や京都近郊の村々の住民に半済を条件として薬師寺元一征伐の兵を募り、土一揆勢を鎮圧側へ取り込んだ。23日の神足城落城・24日の淀古城出陣・26日の淀古城落城に加わり、逃亡を図る元一を捕縛している。
- 薬師寺長忠 薬師寺長盛の弐男。薬師寺元一の弟。西暦1,504年10月11日、兄の謀反の露見を受け、細川政元から元一征伐の為に派遣された。24日には1,000名余を率いて淀古城へ出陣し、26日に落城させている。
- 寺町又三郎 薬師寺長盛の参男。西暦1,504年10月10日の夜、細川政元が自身に打手を差し向けるという情報を聞き付けて京都から逐電した。17日、神足城での合戦で安富元治と共に討死している。
- 四宮長能 西岡の武士。西暦1,504年10月11日、薬師寺元一の淀古城での挙兵に父子で加わった。23日の神足城落城の後は淀古城へ逃亡し、26日の落城時に父子で自害している。
- 赤沢朝経 細川政元の家臣。西暦1,499年10月から11月にかけて畠山尚順勢と交戦し、西一口城を焼き払い、槇島城・水主城を落として南山城一帯の征圧を完了した。西暦1,503年8月22日に高橋光正の後任として兵庫津代官に就任。後に高野山へ逃れたが、西暦1,504年8月7日に薬師寺元一の仲介で宥免・召還され、10月14日には元一に呼応して京都から出奔した。26日、槙島城から没落して行方不明となる。
- 安富元家 細川政元の家臣。西暦1,503年8月22日、与力で兵庫津代官の高橋光正が細川政元の命により殺害された事を不服として遁世した。西暦1,504年8月9日頃に政元から召し返されたが、9月8日頃に死去している。
- 安富元治 安富元家の嫡男。西暦1,504年10月13日、神足城での西岡被官衆の挙兵を受け、上野元治・上野政益・内藤貞正と共に細川政元から派遣された。17日の神足城での合戦で、寺町又三郎と共に討死している。
- 高橋光正 安富元家の与力で、兵庫津代官。西暦1,503年8月22日、細川政元の命により殺害された。此れが安富元家の遁世と、赤沢朝経の兵庫津代官就任を招いている。
- 上野元治・上野政益 細川政元方の将。西暦1,504年10月13日に神足城での西岡被官衆の挙兵を鎮圧する為に派遣され、23日の神足城落城・24日の淀古城出陣・26日の淀古城落城に加わった。
- 内藤貞正 細川政元方の将。西暦1,504年10月13日に神足城の挙兵鎮圧の為に派遣され、23日の神足城落城・24日の淀古城出陣・26日の淀古城落城に加わった。
- 山内就綱・伊庭貞隆・柳本長治・波多野元清 細川政元方の将。西暦1,504年10月23日の神足城落城・24日の淀古城出陣・26日の淀古城落城に、武田衆や近郷の土一揆勢と共に加わった。
- 下京の民衆 西暦1,504年10月12日、徳政令の発布を要求して土一揆を起こし、土倉や酒屋を襲撃した。13日には下京の町を借用書や質札を含めて焼き払い、18日に室町幕府の徳政令発布を引き出す。21日以降は香西元長の半済を条件とした募兵に応じ、薬師寺元一征伐の側へ加わった。
- 足利義稙 第10代室町幕府征夷大将軍。西暦1,499年10月9日に畠山尚順と共に山城国飯岡へ着陣し、12月頃に越前国府中から出陣して坂本に布陣したが、24日に六角高頼の奇襲で敗れ比叡山へ逃れた。西暦1,504年9月5日には、周防国に居る義稙が上洛するとの噂が京都で流れている。
- 足利義澄 第11代室町幕府征夷大将軍。西暦1,503年1月23日に足利義稙の死を願う自筆の願文を石清水八幡宮に奉納し、3月24日には真木島に下向して細川政元の饗応を受けた。西暦1,504年1月10日の参賀式では政元に天盃を与え、5月2日には薬師寺元一の守護代職罷免に介入して取り止めさせている。
- 畠山尚順 畠山政長の嫡男。西暦1,499年10月9日に足利義稙と共に山城国飯岡へ着陣し、14日には河内国から動員した筒井氏・十市氏等の大和国人衆を率いて木幡まで進軍した。河内国を征圧して上洛する算段であったが、赤沢朝経勢の優勢により頓挫し、西暦1,500年1月20日に紀伊国へ退却している。
- 畠山義英 誉田城主。西暦1,499年10月10日頃、薬師寺元一の救援を受けた。赤沢朝経による南山城一帯の征圧の後も誉田城を守り、総州家を存続させている。
- 六角高頼 西暦1,499年12月24日、坂本にて足利義稙率いる軍に奇襲攻撃を仕掛け、足利を比叡山へ敗走させた。
- 大内義興 周防国の大名。西暦1,504年8月24日、細川成之・細川澄元から足利義稙の御内書に対する御礼を送られた。
- 筒井氏・十市氏 大和国人衆。西暦1,499年10月14日、畠山尚順に動員され、木幡までの進軍に加わった。
- 真木島氏 槇島城(現在の京都府宇治市槇島町薗場)の城主。西暦1,499年10月31日、赤沢朝経率いる軍に居城を落城させられた。
本書が記録する出来事
- 飯岡への着陣と誉田城救援 西暦1,499年10月9日、本書が記録する五年余の起点。足利義稙・畠山尚順の率いる軍が山城国飯岡(現在の京都府京田辺市)に着陣した。翌10日頃、薬師寺元一が細川政元の命を受け、誉田城主畠山義英の救援の為に出陣している。
- 赤沢朝経による南山城の征圧 西暦1,499年10月14日から11月1日にかけて、赤沢朝経率いる軍が木幡へ進軍した畠山尚順勢を破り、西一口城(現在の京都府久世郡久御山町西一口)を焼き払い、槇島城(現在の京都府宇治市槇島町薗場)・水主城(現在の京都府城陽市水主北垣内)を落として南山城一帯の征圧を完了した。畠山義英は誉田城を守り、総州家を存続させている。
- 足利義稙の坂本布陣と六角高頼の奇襲 西暦1,499年12月頃、足利義稙が越前国府中(現在の福井県越前市国府)から出陣して坂本に布陣し、畠山尚順の軍との連携で京都を挟撃する算段を立てた。だが24日、六角高頼の奇襲攻撃を受けて敗れ、比叡山へ逃れている。西暦1,500年1月20日には畠山尚順も紀伊国へ退却した。
- 高橋光正の殺害と安富元家の遁世 西暦1,503年8月22日、安富元家の与力で兵庫津代官の高橋光正が細川政元の命により殺害された。安富は此れを不服として遁世し、後任には赤沢朝経が兵庫津代官に就任している。
- 細川政元の言動の異常化 西暦1,503年11月5日、細川政元が上洛する。以降、家臣を遠ざける等、其の言動に異常が見られる様になった。
- 参賀式での天盃拝領 西暦1,504年1月10日、足利義澄の新年の参賀式の宴の後、細川政元が召し出されて天盃を拝領した。西暦1,439年の細川持之以来の非常に稀な事であり、政元は御礼に万疋を進上している。
- 摂津国守護代職の罷免未遂 西暦1,504年5月2日、細川政元が薬師寺元一の摂津国守護代職を罷免しようとしたが、足利義澄の介入により取り止めとなった。翌3日、元一は前日の御礼として義澄に馬・太刀等を献上し、8日には義澄が政元の為に和歌会を催している。
- 赤沢朝経の宥免と安富元家の召還 西暦1,504年8月7日、高野山に逃れていた赤沢朝経が、薬師寺元一の仲介によって細川政元から宥免・召還された。9日頃には安富元家も召し返されたが、9月8日頃に死去している。
- 寺町又三郎の逐電 西暦1,504年10月10日の夜、薬師寺長盛の参男寺町又三郎が、細川政元が自身に打手を差し向けるという情報を聞き付け、京都から逐電した。
- 薬師寺元一の淀古城での挙兵 西暦1,504年10月11日、謀反が細川政元に露見した薬師寺元一が淀古城(現在の京都府京都市伏見区納所北城堀)に籠城し、西岡の武士四宮長能父子と共に挙兵した。細川澄元を管領に擁立する狙いが有り、細川京兆家にも政元に背く者が多数発生している。政元は即座に薬師寺長忠を征伐に派遣した。
- 下京の民衆の土一揆 西暦1,504年10月12日、下京の民衆が土一揆を起こし、徳政令の発布を要求して土倉や酒屋を襲撃した。13日には下京の町を、借用書や質札を含めて焼き払っている。
- 神足城での挙兵と合戦 西暦1,504年10月13日、西岡被官衆の多くが薬師寺元一に呼応し、神足城(現在の京都府長岡京市東神足)で挙兵した。細川政元は上野元治・上野政益・安富元治・内藤貞正等を派遣し、17日の合戦で寺町又三郎と安富元治が討死している。14日には赤沢朝経も元一に呼応して京都から出奔した。
- 徳政令の発布 西暦1,504年10月18日、室町幕府が徳政令を発布した。下京の民衆の土一揆を受けたものである。
- 半済を条件とした募兵 西暦1,504年10月21日、香西元長が下京や京都近郊の村々の住民に、半済を条件として薬師寺元一征伐の兵を募った。徳政を勝ち取った民衆が、鎮圧側へ動員される事となる。
- 神足城の落城 西暦1,504年10月23日、上野元治・上野政益・内藤貞正・香西元長・山内就綱・伊庭貞隆・柳本長治・武田衆・波多野元清、及び近郷の土一揆勢が神足城を落城させた。四宮長能父子と西岡被官衆は淀古城へ逃亡している。
- 淀古城の落城と元一の捕縛 西暦1,504年10月24日、薬師寺長忠以下1,000名余が淀古城へ向けて出陣し、26日に落城させた。四宮長能父子は自害し、薬師寺元一は逃亡しようとした所を香西元長に捕縛され、細川政元の指示で京都に護送されている。同じ日、赤沢朝経は槙島城から没落して行方不明となった。
- 一元寺での切腹 西暦1,504年10月27日、薬師寺元一が自身の建立した一元寺(現在の京都府京都市上京区南舟橋町)にて切腹させられた。「我は一文字好みにて名も与一、名乗りも元一、此の寺も一元寺と名付けたり。されば腹をも一文字に切るべし」と言い残している。辞世の句の「我が主」は若衆との掛詞であり、細川政元を地獄へ誘う意が込められていた。本書が記録する最後の出来事である。
守護代職の罷免から、一元寺の切腹へ──
薬師寺元一の挙兵と徳政令発布の全過程を一元化。
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