電子書籍「赤沢朝経一元化」の表紙

赤沢朝経一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,451年〜1,507年8月4日
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
18ページ
文字数
5,186字
最新更新日
西暦2,026年10月26日

将軍家の弓道師範は、細川政元の刃となった──
赤沢朝経が丹後国に散る迄の五十六年を一元化。

204円(税込)

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本書について

西暦1,451年、赤沢経隆の嫡男として、赤沢朝経は信濃国に生を享けた。後に家督を継いだ朝経は、其れを自身の嫡男赤沢政経に譲り、父の経隆、及び経隆の息子赤沢幸純と共に上洛する。弓(弓術)・馬(馬術・流鏑馬等)・礼(武家礼法)から成る「糾法的伝」を広める為であった。上洛後、細川政元に仕えた朝経は、小笠原流の弓術を細川に伝授し、其の縁で足利義政の弓道師範となり、武者所も兼任する。弓馬の礼法を伝える為に都へ上った男が、やがて各地の戦場を駆ける武将へと変わってゆく——本書は、其の変貌から最期に至る迄の五十六年を、年月日単位で一元化した記録である。

西暦1,491年9月30日、足利義稙が六角高頼征伐の為に光浄院へ布陣した時、朝経は義稙方に付いていた。軈て鷹狩の腕を細川政元に認められ、細川の内衆となる。西暦1,493年3月12日には妙法院領河内国八箇所の代官に任じられ、室町幕府料所河内国十七箇所の給人、近衛家領山城国五ヶ荘の代官も務めた。西暦1,496年9月頃、政元の命で南山城へ派遣された朝経は、畠山義豊と古市澄胤に圧力を掛け、遊佐弥六を撃退する。翌年10月頃、河内国奪回を図る畠山尚順が挙兵すると、政元は南山城を朝経に、北山城を香西元長に任せた。朝経は古市澄胤に代わって山城国上三郡守護代に就き、久世郡・綴喜郡・相楽郡を担う事となる。

西暦1,499年、朝経の戦いは一気に激しさを増す。8月17日、延暦寺が足利義稙の入京に呼応した事を察知した政元は、朝経と波々伯部宗量に延暦寺の焼き討ちを命じた。根本中堂・大講堂・常行堂・法華堂を始めとする主要な堂舎が全焼し、8月26日には延暦寺との交戦にも勝利する。第161代延暦寺天台座主堯胤法親王は職を辞し、義稙の所領は没収された。10月14日、誉田城の孤立を狙う畠山尚順が動員した、筒井氏や十市氏等の大和国人衆の軍が木幡まで進軍すると、朝経は優位に戦いを進め、10月30日に西一口城、31日に槇島城、11月1日に水主城を次々と落として、南山城一帯の征圧を完了した。此れにより畠山義英は誉田城を守り、総州家を存続させる。

矛先は大和国へ向かう。西暦1,500年1月頃、数千名の軍勢で侵攻した朝経は、喜光寺・法華寺・西大寺・額安寺を焼き討ちにして大和国北部を占領し、1月18日には秋篠城で筒井順賢・十市遠治・楢原栄遠等の筒井党を破った。3月頃には興福寺の領地に段銭を掛け、7月頃には筒井党から取り上げた田井庄・大市荘等を配下に知行地として与えている。10月9日、薬師寺元一と共に、高屋城を包囲していた畠山尚順の軍を破り、尚順を紀伊国へ敗走させた。西暦1,501年3月17日、寺領を横領された興福寺は神木を別殿に移し、朝経の兵を大和国から引き上げさせる様朝廷に求める。然し朝経は翌年、其の撤退要求を無視して再び大和国へ侵攻し、古市澄胤の協力を得て筒井党を追い払った。西暦1,503年には伊庭貞隆の援軍として近江国へ入って六角高頼の籠る音羽城を包囲し、8月22日、細川政元の命で殺害された高橋光正の後任として兵庫津代官に就任する。

然し、主従の間には亀裂が走る。西暦1,504年4月頃、朝経は細川澄元を擁立して政元に反逆し、失敗に終わった。高野山に逃れた朝経は、8月7日、薬師寺元一の仲介で政元から宥免・召還される。ところが10月頃、其の元一が政元を廃して澄元を擁立しようと企てると、朝経は此れと結託し、再び政元に背いた。10月14日に京都を出奔し、26日には槇島城から没落して行方不明となる。翌西暦1,505年、政元から赦免された朝経は、再び山城国上三郡守護代に就任した。12月頃には、政元の要請に応えて第9世本願寺宗主実如が加賀国の門徒達の中から動員した1,000名も加え、畠山義英の居城誉田城を攻撃する。朝経の軍勢が大和国を通過するとの通知を受けた大和国衆一揆は、筒井順賢・十市遠治・箸尾為国等による連判状を作成して、此れに反対した。

西暦1,506年2月頃、朝経は河内国で畠山尚順の居城高屋城を占領し、尚順と義英を大和国へ追った。8月頃、大和国衆一揆が義英を匿ったとして政元から大和国侵攻を命じられると、養子の赤沢長経を伴い、古市澄胤の手引きで攻め入る。法華寺・正暦寺・多武峰妙楽寺・龍門寺を焼き払って寺社勢力を制圧し、8月29日には戒重城を陥落させた。然し十市遠治・箸尾為国は多武峰に拠って抵抗を続け、9月3日には、主力が大和国南部へ進んだ隙を突いた筒井順賢が古市郷を急襲して郡山城を奪回する。大和国衆と伊賀国衆が続々と郡山城に入り、朝経に対する防衛体制が整えられた。

戦線は丹後国にも及んでいた。西暦1,506年10月頃、朝経・武田元信勢の攻撃を受けた一色義有の今熊野城と延永春信の阿弥陀ヶ峰城は、持ち堪えていた。西暦1,507年5月頃、朝経は政元と共に元信の援軍として丹後国へ下る。6月5日、政元は戦闘に加わるや即座に帰京したが、朝経は元信と府中へ侵攻し、両城を包囲した。そして8月3日、其の政元が京都で家臣に殺害されたとの報が届く。義有と和睦した朝経は宮津城へ退くも退路を塞がれ、翌4日、文殊堂にて自刃した。弓馬の礼法を伝える為に都へ上った男が、主君暗殺の報を受けた翌日、丹後の地で果てる——其の全軌跡を、本書は一冊に束ねている。


登場人物

  • 赤沢朝経 本書の中心人物。赤沢経隆の嫡男として西暦1,451年に信濃国で生まれ、糾法的伝(弓・馬・礼)を広める為、家督を嫡男の赤沢政経に譲って上洛した。細川政元に小笠原流の弓術を伝授し、足利義政の弓道師範となって武者所も兼任する。政元の内衆として山城国上三郡守護代・兵庫津代官等を務め、延暦寺の焼き討ちや大和国への度重なる侵攻を指揮した。西暦1,507年8月4日、丹後国の文殊堂にて自刃。
  • 細川政元 朝経の主君。朝経から小笠原流の弓術を伝授され、鷹狩の腕を認めて内衆に取り立てた。南山城への派遣、延暦寺の焼き討ち、大和国への侵攻を朝経に命じる一方、西暦1,504年には朝経に背かれ、翌年赦免している。西暦1,507年、武田元信の援軍として丹後国の戦闘に加わるも即座に帰京し、其の後京都で家臣に殺害された。其の報は同年8月3日、丹後国に居た朝経等に齎された。
  • 赤沢長経 朝経の養子。西暦1,506年8月頃、大和国侵攻に赴く養父朝経に同行した。西暦1,507年8月3日には、朝経・古市胤盛・粟屋親栄と共に、丹後国で細川政元殺害の報を受けた。
  • 足利義稙 西暦1,491年、六角高頼征伐の為に光浄院へ布陣した際、朝経は義稙方に付いていた。西暦1,499年、延暦寺が義稙の入京に呼応した事が焼き討ちの引き金となり、其の後義稙の所領は没収された。西暦1,505年、周防国に在って、畠山義英から上洛への尽力を誓う書簡を受け、義英に感状を与えている。
  • 畠山尚順 西暦1,491年頃、足利義稙と呼応して紀伊国から畿内を窺っていた。西暦1,497年10月頃、河内国奪回の為に挙兵し、西暦1,499年には大和国人衆から成る軍を木幡まで進めるが、朝経の軍に押される。西暦1,500年10月9日、高屋城の包囲を朝経・薬師寺元一に破られて紀伊国へ逃げ帰り、西暦1,506年2月頃には居城の高屋城を朝経に占領されて大和国へ逃亡した。
  • 畠山義英 西暦1,499年、朝経による南山城の征圧で誉田城を守り抜き、総州家を存続させた。其の後畠山尚順と和睦した事が、西暦1,505年12月頃の朝経による誉田城攻撃を招く。西暦1,506年2月頃、尚順と共に大和国へ逃れ、大和国衆一揆に匿われたとして、政元が朝経に大和国侵攻を命じる理由となった。
  • 古市澄胤 南山城守護代として綴喜郡・相楽郡を担当していたが、西暦1,497年10月頃、朝経が澄胤に代わって山城国上三郡守護代に就いた。西暦1,496年には朝経から圧力を掛けられる側であったが、西暦1,502年には朝経の大和国侵攻に協力し、西暦1,506年8月頃にも其の手引きをした。同年9月3日、筒井順賢に古市郷を急襲され、息子の古市胤盛と共に敗れている。
  • 筒井順賢 大和国の筒井党の一人。西暦1,500年1月18日、秋篠城で朝経に敗れ、西暦1,502年には朝経の再侵攻を受けて堺へ逃亡した。西暦1,504年10月16日、成身院順盛と共に大和国へ帰国し、翌年の大和国衆一揆の連判状に名を連ねる。西暦1,506年9月3日、朝経の主力が大和国南部へ進んだ隙を突いて古市郷を急襲し、郡山城を奪回した。
  • 薬師寺元一 西暦1,500年10月9日、朝経と共に、高屋城を包囲していた畠山尚順の軍を破った。西暦1,504年8月7日には、高野山に逃れていた朝経の宥免・召還を仲介する。同年10月頃、自ら細川政元を廃して細川澄元を擁立しようと企て、朝経も此れと結託した。
  • 細川澄元 西暦1,504年4月頃、朝経に擁立され、細川政元への反逆に担ぎ出された。同年10月頃には、薬師寺元一も政元を廃して澄元を擁立しようと企てている。西暦1,507年6月5日、丹後国の戦闘に加わった政元と共に、三好之長と即座に帰京した。
  • 波々伯部宗量 西暦1,499年8月17日、細川政元の命により、朝経と共に延暦寺を焼き討ちにした。8月26日には朝経と共に延暦寺と交戦して勝利し、第161代延暦寺天台座主堯胤法親王が職を辞す事となった。
  • 武田元信 西暦1,506年10月頃、朝経と共に丹後国の今熊野城・阿弥陀ヶ峰城を攻めるが、両城は持ち堪えた。西暦1,507年5月頃、細川政元・朝経等の援軍を得て、6月5日に府中へ侵攻し両城を包囲する。政元殺害の報の後、8月4日に粟屋親栄・古市胤盛を含む数百名の戦死者を出し、若狭国・丹波国へ退却した。
  • 一色義有 丹後国の今熊野城に籠城し、朝経・武田元信勢の攻撃を凌いだ。西暦1,507年6月5日以降、府中へ侵攻した朝経等に包囲されるが、8月3日、細川政元殺害の報を受けた朝経と和睦した。
  • 石川直経 安良山城主。西暦1,506年10月頃、細川澄之・細川政賢・香西元長の軍に攻められながらも城を守り、西暦1,507年7月8日、澄之と講和する。澄之は落城を偽装して京都へ引き上げた。細川政元の殺害を知ると挙兵し、普甲谷で合戦に及んだ。

本書が記録する出来事

  • 延暦寺焼き討ち 西暦1,499年8月17日、延暦寺が足利義稙の入京に呼応した事を察知した細川政元の命で、朝経と波々伯部宗量が実行した。根本中堂・大講堂・常行堂・法華堂・延命院・四王院・経蔵・鐘楼等の主要な堂舎が全焼し、8月26日の交戦にも勝利。天台座主堯胤法親王は職を辞し、義稙の所領は没収された。
  • 南山城の征圧 西暦1,499年10月、誉田城の孤立を狙って木幡まで進んだ畠山尚順の軍を、朝経の軍が押し返した。10月30日に西一口城を落として首を9つ討ち取り、31日に槇島城、11月1日に水主城を落城させて、南山城一帯の征圧を完了した。
  • 秋篠城の戦い 西暦1,500年1月18日、大和国へ侵攻した朝経の軍が秋篠城に押し寄せ、筒井順賢・十市遠治・楢原栄遠等の筒井党を破った。同じ頃、喜光寺・法華寺・西大寺・額安寺を焼き討ちにし、大和国北部を占領している。
  • 高屋城の戦い 西暦1,500年10月9日、朝経と薬師寺元一の軍が、高屋城を包囲していた畠山尚順の軍を破った。大敗を喫した尚順は、紀伊国へ逃げ帰った。
  • 興福寺の撤兵要求 西暦1,501年3月17日、朝経に寺領を横領された興福寺が、神木を別殿に移し、朝経の兵を大和国から引き上げさせる様朝廷に求めた。翌年、朝経は其の撤退要求を無視して再び大和国へ侵攻し、筒井順賢は堺へ逃亡した。
  • 細川政元への反逆 西暦1,504年4月頃、朝経は細川澄元を擁立して政元に反逆するも失敗し、高野山へ逃れた。8月7日に宥免されるが、10月頃、薬師寺元一の澄元擁立の企てに結託して京都を出奔し、槇島城から没落して行方不明となる。翌西暦1,505年、赦免されて山城国上三郡守護代に返り咲いた。
  • 大和国侵攻と戒重城の陥落 西暦1,506年8月頃、大和国衆一揆が畠山義英を匿ったとして、政元が朝経に大和国侵攻を命じた。朝経は法華寺・正暦寺・多武峰妙楽寺・龍門寺を焼き払い、8月29日に戒重城を陥落させる。然し9月3日、筒井順賢が古市郷を急襲して郡山城を奪回し、大和国衆と伊賀国衆が郡山城に結集して防衛体制を整えた。
  • 丹後出兵と文殊堂の自刃 西暦1,507年6月5日、武田元信と共に府中へ侵攻した朝経は、一色義有の今熊野城・延永春信の阿弥陀ヶ峰城を包囲する。8月3日、細川政元殺害の報が届くと義有と和睦するが、翌4日、宮津城へ退いた所で退路を塞がれ、文殊堂にて自刃した。

延暦寺の焼き討ちから文殊堂の自刃まで──
細川政元に仕えた赤沢朝経の全軌跡を一元化。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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