電子書籍「河野通春vs河野教通、36年に渡る抗争一元化」の表紙

河野通春vs河野教通、
36年に渡る抗争一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,441年8月14日頃〜1,482年8月28日
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
33ページ
文字数
8,367字
最新更新日
西暦2,026年10月7日

通春征伐から、港山城での病没へ──
其の全過程を一元化。

267円(税込)

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本書について

西暦1,441年8月14日頃、河野教通が、室町幕府の命を受けて、嘉吉の乱での赤松家征伐に於いて予州家当主河野通春が遅参した事を理由に、河野通春の征伐を開始する。本書は、此の河野教通による河野通春の征伐の開始から、河野通春の第11代室町幕府伊予国守護への就任、細川勝元による河野通春の第13代室町幕府伊予国守護への改補、細川成之率いる軍の河野通春征伐の為の進軍、大内教弘・大内政弘による河野通春の支援、河野教通の第17代室町幕府伊予国守護への就任、細川義春率いる軍の侵攻による河野通春・河野教通の一時の和睦を経て、西暦1,482年8月28日に河野通春が居城の港山城にて病没する迄を一元化した記録である。

西暦1,449年2月頃、河野通春が、細川勝元の支援を受け、第11代室町幕府伊予国守護に就任する。7月頃、河野教通方の村上吉資が、佐礼城(現在の愛媛県今治市玉川町別所)を攻略する。西暦1,450年9月24日、室町幕府が、小早川盛景に、伊予国へ渡り河野教通を支援する様命じる。又足利義政は、河野教通を第12代室町幕府伊予国守護として再任させた。西暦1,451年、村上吉資を含む因島村上家・来島村上家・能島村上家の三家が、予州家方に寝返る。此れを受けて河野教通率いる軍は、来島村上家の本拠地である来島城(現在の愛媛県今治市来島)を攻撃し、落城させた。7月頃、河野教通が、小早川盛景・重見通実・森山氏・竹原盛景・益田兼堯・吉川三郎・周布次郎の支援により、河野通春に呼応した城郭20ヶ所余を奪取する。小早川盛景・重見通実・森山氏・竹原盛景は連携して、通春方の抵抗勢力を制圧した。

西暦1,452年11月頃、河野通春方の森山氏が、森山城(現在の愛媛県伊予市大平)にて挙兵する。室町幕府は、吉川経信に、伊予国へ発向し、河野教通を支援する形で森山氏を征伐する様命じた。又11月頃、吉川経信・益田兼堯の2名が、森山城・天神森城(現在の愛媛県上浮穴郡久万高原町西明神)にて、森山氏を破る。西暦1,453年6月頃、細川勝元が、足利義政の意向を聞かず、河野通春を第13代室町幕府伊予国守護として改補する。其の後河野通春は、京都から伊予国へ帰国したが、其の際、村上吉資が河野通春を援助した。細川勝元の此の行動は、足利義政との対立を生み、細川勝元は管領職を辞任しようとした。然し、細川勝元は、足利義政の慰留により、思い留まった。西暦1,455年4月12日、畠山持国が死去する。家督は畠山義就が継いだ。持国の死去により、河野教通の後ろ盾となっていた畠山氏の権勢の衰退が顕著となった。西暦1,456年2月5日、室町幕府が、河野通春の伊予国守護職を罷免し、細川勝元を第14代室町幕府伊予国守護に任命する。此れにより細川勝元は、土佐国守護職との兼任となり、又、予州家が河野氏宗家に対して優勢となった。

西暦1,457年、河野教通が、自身の弟河野通秋を養子とし、家督を譲る。西暦1,461年1月頃、河野教通が、室町幕府に対し、古代以来の先祖の勲功を列挙し、最後に近年の河野通春が細川勝元によって伊予国守護に据えられ、河野家の家督を継いだ不慮の儀を嘆き、伊予国守護職と御恩地の返還を要求する主旨の申状を提出する。西暦1,462年6月頃、細川成之率いる軍が、河野通春征伐の為、渡海して東予から進軍する。同時に、南予の宇都宮安綱も北上した。圧倒的な兵力差を前に、河野通春は一旦湯築城(現在の愛媛県松山市道後公園)を捨て、高縄山(現在の愛媛県松山市猿川)・港山城(現在の愛媛県松山市港山)・忽那諸島・来島(現在の愛媛県今治市来島小島)の山間部や島嶼部に退却した。11月頃、河野教通率いる軍が、桜三里(現在の愛媛県東温市河之内周辺)付近にて、細川成之の軍勢に合流する。包囲網を敷かれ窮地に立たされた河野通春は、海賊衆に細川成之率いる軍の補給路を断たせ、難を逃れた。西暦1,463年、細川成之の被官達が伊予国に駐留し続けるも、河野通春に同情したり、細川成之の介入を嫌って河野通春方に寝返る地元の国人衆が続出した。

西暦1,464年11月1日、河野通秋が病没する。河野教通の息子河野通宣が後を継いだ。通宣は、教通と行動を共にした。12月11日、畠山政長が、第19代管領に就任する。此の日室町幕府は、相国寺の僧承勲を遣わせ、大内教弘に、河野通春征伐を命じた。西暦1,465年7月頃、室町幕府が、細川勝元の申し出を受け入れ、細川賢氏・細川成之を始めとする近国の諸将に、河野通春征伐を命じる。又此の頃、河野通春征伐の幕命を受けて大内教弘率いる軍が伊予国に入った。伊予国へ向かう途上、大内教弘は病気に罹ったが、室町幕府から派遣された板坂三位が治療に当たった。其の後大内教弘は、興居島に布陣して港山城を牽制していたが、突如河野通春を支援した。9月頃、細川勝元が、讃岐国・土佐国の国人領主等を通じ、伊予国へ影響力を与え、大野氏・森山氏・重見氏に河野通春に反抗させて圧迫し、通春を湯築城から追い払い、土佐国守護代新開遠江守を入城させる。通春は、港山城に籠城し、河野教通の留守の為に伊予国に居た河野通生と繋がり、細川勝元勢と対峙した。9月23日、大内教弘が、興居島(現在の愛媛県松山市)にて病没する。大内政弘が家督を継いだ。政弘も河野通春を支援し、室町幕府と対峙した。教弘の死去を伝え聞いた細川勝元は「上意に叛いたから天罰が下ったのだ」と語った。10月頃、大内政弘が、興居島から港山城を救援しつつ、湯築城へ兵を派遣し、落城させる。又、森山氏・重見氏も討たれ、細川勝元勢は駆逐された。

西暦1,466年11月3日頃、武田元綱率いる軍が、風早郡(現在の愛媛県松山市)を襲撃する。戦闘は、恵良城(現在の愛媛県松山市上難波)を中心に展開され、2週間程続いた。此の時、河野教通は上洛していた為、河野通生が、風早郡・忽那島の水軍を指揮して防戦に努めた。通生に従軍した忽那通光と、山崎城(現在の愛媛県伊予市上三谷)主東俊之の2名は奮戦し、通生は、其の戦況を教通に報告した。11月10日、細川勝元の要請により、室町幕府が、大内政弘征伐を決定する。室町幕府は、吉川経基に対しても出兵を命じた。室町幕府による大内政弘の勧誘が失敗した事が背景として有った。西暦1,467年6月11日、大内政弘が、周防国・長門国を始めとする8ヶ国の数万の兵を率い、山口を出発する。河野通春・陶弘房の2名も此の中に居た。8月19日、大内政弘率いる軍が、20,000~30,000名の軍勢で播磨国兵庫津(現在の兵庫県神戸市兵庫区)に入る。此の内2,000~3,000名は河野通春が率いていた。9月8日、大内政弘が、河野水軍・村上水軍・三島水軍等の瀬戸内水軍を率い、大物浦の難波(現在の兵庫県尼崎市西本町付近)・水堂(現在の兵庫県尼崎市立花町付近)にて、上陸を阻止しようとする細川勝元・赤松政則の軍と交戦し、撃破する。此の戦闘により、河野通春等は戦功を挙げた。其の後大内政弘率いる軍は、尼崎を焼き払い、10,000名の兵と2,000隻の船団と共に上洛し、東寺に布陣した。そして後に焼失した梶井門跡(現在の京都府京都市北区紫野下築山町付近)に移り本陣とした。

西暦1,468年12月頃、河野通春が、河野教通に「応仁の乱は延々と続くと思いますが、西軍へご同心頂けるのでしょうか。先年大内方からも依頼が有った筈ですが、其の後お返事を頂いておりません。足利義政殿・足利義視殿の双方が将軍となられた今、其の命令には変わりはありません。此度の摂津国の合戦により、私は守護に補任されましたが、家名を上げる上では、私と教通殿の何方がなっても同じだと思います」という主旨の書簡を送る。西暦1,469年頃、河野教通が、伊予国へ帰還する。西暦1,473年12月11日、河野教通が、足利義政からの伊予国守護職の補任状を受け取る。此れにより河野教通は、第17代室町幕府伊予国守護に就任した。西暦1,477年5月31日、河野通春が、東軍に内通していた大内政弘の仲介によって東軍に下り、足利義尚の安堵を取り付ける。12月頃、河野通春が、陣所を引き払って伊予国へ帰国する。又此の頃河野通春は、第18代室町幕府伊予国守護に任じられた。

西暦1,478年11月20日、河野通春・河野通秋の2名が、和気郡(現在の愛媛県松山市)にて交戦する。通春は、大内政弘に支援を求めた。大内政弘は、呉・能美(現在の広島県江田島市)・蒲刈(現在の広島県呉市)に援軍を送らせた。西暦1,479年、細川成之の弐男細川義春率いる軍が、阿波国から伊予国に侵攻する。此れを受けて河野通春・河野教通の2名は、一時和睦した。河野通生は、神途城(現在の愛媛県松山市猿川)に籠城して指揮を取り、浅海氏等が馳せ参じた。又、村上氏・忽那氏等の水軍が、細川義春率いる軍の水軍の補給路や退路を断ち、此れにより細川義春は、諸城の攻略を果たせない儘、阿波国へ潰走した。其の後、通春と教通は再び争う事となった。西暦1,482年8月28日、河野通春が、居城の港山城にて病没する。河野教通による河野通春の征伐の開始から、河野通春の第11代室町幕府伊予国守護への就任、細川勝元による河野通春の第13代室町幕府伊予国守護への改補、細川成之率いる軍の河野通春征伐の為の進軍、大内教弘・大内政弘による河野通春の支援、河野教通の第17代室町幕府伊予国守護への就任、細川義春率いる軍の侵攻による河野通春・河野教通の一時の和睦を経て、河野通春の港山城での病没に至る迄——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。


登場人物

  • 河野通春 西暦1,441年8月14日頃、河野教通が、室町幕府の命を受けて、嘉吉の乱での赤松家征伐に於いて予州家当主河野通春が遅参した事を理由に、河野通春の征伐を開始する。西暦1,449年2月頃、河野通春が、細川勝元の支援を受け、第11代室町幕府伊予国守護に就任する。西暦1,453年6月頃、細川勝元が、足利義政の意向を聞かず、河野通春を第13代室町幕府伊予国守護として改補する。其の後河野通春は、京都から伊予国へ帰国したが、其の際、村上吉資が河野通春を援助した。西暦1,456年2月5日、室町幕府が、河野通春の伊予国守護職を罷免し、細川勝元を第14代室町幕府伊予国守護に任命する。西暦1,462年6月頃、細川成之率いる軍が、河野通春征伐の為、渡海して東予から進軍する。圧倒的な兵力差を前に、河野通春は一旦湯築城を捨て、高縄山・港山城・忽那諸島・来島の山間部や島嶼部に退却した。11月頃、河野教通率いる軍が、桜三里付近にて、細川成之の軍勢に合流する。包囲網を敷かれ窮地に立たされた河野通春は、海賊衆に細川成之率いる軍の補給路を断たせ、難を逃れた。西暦1,465年7月頃、室町幕府が、細川勝元の申し出を受け入れ、細川賢氏・細川成之を始めとする近国の諸将に、河野通春征伐を命じる。又此の頃、河野通春征伐の幕命を受けて大内教弘率いる軍が伊予国に入った。其の後大内教弘は、興居島に布陣して港山城を牽制していたが、突如河野通春を支援した。9月頃、細川勝元が、讃岐国・土佐国の国人領主等を通じ、伊予国へ影響力を与え、大野氏・森山氏・重見氏に河野通春に反抗させて圧迫し、通春を湯築城から追い払い、土佐国守護代新開遠江守を入城させる。通春は、港山城に籠城し、河野教通の留守の為に伊予国に居た河野通生と繋がり、細川勝元勢と対峙した。9月23日、大内教弘が、興居島にて病没する。大内政弘が家督を継いだ。政弘も河野通春を支援し、室町幕府と対峙した。西暦1,467年6月11日、大内政弘が、周防国・長門国を始めとする8ヶ国の数万の兵を率い、山口を出発する。河野通春・陶弘房の2名も此の中に居た。9月8日、大内政弘が、河野水軍・村上水軍・三島水軍等の瀬戸内水軍を率い、大物浦の難波・水堂にて、上陸を阻止しようとする細川勝元・赤松政則の軍と交戦し、撃破する。此の戦闘により、河野通春等は戦功を挙げた。西暦1,468年12月頃、河野通春が、河野教通に「応仁の乱は延々と続くと思いますが、西軍へご同心頂けるのでしょうか。先年大内方からも依頼が有った筈ですが、其の後お返事を頂いておりません。足利義政殿・足利義視殿の双方が将軍となられた今、其の命令には変わりはありません。此度の摂津国の合戦により、私は守護に補任されましたが、家名を上げる上では、私と教通殿の何方がなっても同じだと思います」という主旨の書簡を送る。西暦1,477年5月31日、河野通春が、東軍に内通していた大内政弘の仲介によって東軍に下り、足利義尚の安堵を取り付ける。12月頃、河野通春が、陣所を引き払って伊予国へ帰国する。又此の頃河野通春は、第18代室町幕府伊予国守護に任じられた。西暦1,478年11月20日、河野通春・河野通秋の2名が、和気郡にて交戦する。通春は、大内政弘に支援を求めた。西暦1,479年、細川成之の弐男細川義春率いる軍が、阿波国から伊予国に侵攻する。此れを受けて河野通春・河野教通の2名は、一時和睦した。其の後、通春と教通は再び争う事となった。西暦1,482年8月28日、河野通春が、居城の港山城にて病没する。
  • 河野教通 西暦1,441年8月14日頃、河野教通が、室町幕府の命を受けて、嘉吉の乱での赤松家征伐に於いて予州家当主河野通春が遅参した事を理由に、河野通春の征伐を開始する。西暦1,444年6月5日、河野教通が、忽那氏に対し、四松之跡の名田職と、山崎・小淡・松前の3ヶ所の当知行を与える。西暦1,450年9月24日、室町幕府が、小早川盛景に、伊予国へ渡り河野教通を支援する様命じる。又足利義政は、河野教通を第12代室町幕府伊予国守護として再任させた。西暦1,451年、村上吉資を含む因島村上家・来島村上家・能島村上家の三家が、予州家方に寝返る。此れを受けて河野教通率いる軍は、来島村上家の本拠地である来島城を攻撃し、落城させた。7月頃、河野教通が、小早川盛景・重見通実・森山氏・竹原盛景・益田兼堯・吉川三郎・周布次郎の支援により、河野通春に呼応した城郭20ヶ所余を奪取する。西暦1,455年4月12日、畠山持国が死去する。家督は畠山義就が継いだ。持国の死去により、河野教通の後ろ盾となっていた畠山氏の権勢の衰退が顕著となった。西暦1,457年、河野教通が、自身の弟河野通秋を養子とし、家督を譲る。西暦1,461年1月頃、河野教通が、室町幕府に対し、古代以来の先祖の勲功を列挙し、最後に近年の河野通春が細川勝元によって伊予国守護に据えられ、河野家の家督を継いだ不慮の儀を嘆き、伊予国守護職と御恩地の返還を要求する主旨の申状を提出する。西暦1,462年11月頃、河野教通率いる軍が、桜三里付近にて、細川成之の軍勢に合流する。西暦1,466年11月3日頃、武田元綱率いる軍が、風早郡を襲撃する。此の時、河野教通は上洛していた為、河野通生が、風早郡・忽那島の水軍を指揮して防戦に努めた。西暦1,468年12月頃、河野通春が、河野教通に「応仁の乱は延々と続くと思いますが、西軍へご同心頂けるのでしょうか。先年大内方からも依頼が有った筈ですが、其の後お返事を頂いておりません。足利義政殿・足利義視殿の双方が将軍となられた今、其の命令には変わりはありません。此度の摂津国の合戦により、私は守護に補任されましたが、家名を上げる上では、私と教通殿の何方がなっても同じだと思います」という主旨の書簡を送る。西暦1,469年頃、河野教通が、伊予国へ帰還する。西暦1,470年、河野教通が、第9代李氏朝鮮国王成宗に対し、使者を送る。西暦1,473年12月11日、河野教通が、足利義政からの伊予国守護職の補任状を受け取る。此れにより河野教通は、第17代室町幕府伊予国守護に就任した。西暦1,479年、細川成之の弐男細川義春率いる軍が、阿波国から伊予国に侵攻する。此れを受けて河野通春・河野教通の2名は、一時和睦した。其の後、通春と教通は再び争う事となった。
  • 河野通生 西暦1,459年3月14日、河野通生が、忽那通賢に対し、桑原の枝重の名田・行正の名田等を宛行う。西暦1,465年3月13日、河野通春と、河野教通の弟河野通生の2名が、土居家分の地頭職を善応寺に寄進する。9月頃、細川勝元が、讃岐国・土佐国の国人領主等を通じ、伊予国へ影響力を与え、大野氏・森山氏・重見氏に河野通春に反抗させて圧迫し、通春を湯築城から追い払い、土佐国守護代新開遠江守を入城させる。通春は、港山城に籠城し、河野教通の留守の為に伊予国に居た河野通生と繋がり、細川勝元勢と対峙した。西暦1,466年5月24日、河野通生が、忽那通光に、忽那島の東分検断職を安堵する。11月3日頃、武田元綱率いる軍が、風早郡を襲撃する。此の時、河野教通は上洛していた為、河野通生が、風早郡・忽那島の水軍を指揮して防戦に努めた。通生に従軍した忽那通光と、山崎城主東俊之の2名は奮戦し、通生は、其の戦況を教通に報告した。西暦1,474年4月15日、忽那通光が、河野通生の下を訪れる。忽那通光は3通の書簡を持参し、河野通久自筆である事の証明が出された。西暦1,479年、細川成之の弐男細川義春率いる軍が、阿波国から伊予国に侵攻する。此れを受けて河野通春・河野教通の2名は、一時和睦した。河野通生は、神途城に籠城して指揮を取り、浅海氏等が馳せ参じた。
  • 河野通秋 西暦1,457年、河野教通が、自身の弟河野通秋を養子とし、家督を譲る。西暦1,464年8月25日、河野通秋が、忽那通賢に対し、忽那島の東分検断職を安堵する。11月1日、河野通秋が病没する。河野教通の息子河野通宣が後を継いだ。通宣は、教通と行動を共にした。西暦1,469年6月13日、西幕府が、大野氏・河野通春に対し、河野通秋・河野通光の2名の征伐を命じる御教書を発する。西暦1,478年11月20日、河野通春・河野通秋の2名が、和気郡にて交戦する。
  • 河野通宣 西暦1,464年11月1日、河野通秋が病没する。河野教通の息子河野通宣が後を継いだ。通宣は、教通と行動を共にした。
  • 河野通政・河野道直・河野通久 西暦1,468年5月1日、河野通政が、長隆寺に畠を寄進する。西暦1,474年2月8日、河野道直が、忽那通光に対し、國永の所領・湯築を宛行う。4月15日、忽那通光が、河野通生の下を訪れる。忽那通光は3通の書簡を持参し、河野通久自筆である事の証明が出された。
  • 忽那通定・忽那通賢・忽那通光 西暦1,444年10月10日、河野教通が、忽那通定に対し、忽那島の東分の統治・裁判権の行使を認める。10月17日、河野教通が、忽那通定に対し、忽那島の東分検断職を安堵する。西暦1,448年4月20日、戒能通明が、忽那通賢に対し、忽那島有恒名田職を安堵する。西暦1,459年3月14日、河野通生が、忽那通賢に対し、桑原の枝重の名田・行正の名田等を宛行う。西暦1,464年8月25日、河野通秋が、忽那通賢に対し、忽那島の東分検断職を安堵する。西暦1,466年5月24日、河野通生が、忽那通光に、忽那島の東分検断職を安堵する。11月3日頃、武田元綱率いる軍が、風早郡を襲撃する。此の時、河野教通は上洛していた為、河野通生が、風早郡・忽那島の水軍を指揮して防戦に努めた。通生に従軍した忽那通光と、山崎城主東俊之の2名は奮戦し、通生は、其の戦況を教通に報告した。12月19日、河野教通が、忽那通光に対し、恵良城に於ける戦功を称揚する感状を与える。西暦1,468年3月6日、河野教通が、忽那通光に、通光の兄忽那通賢の所領を継がせ、忽那島の東浦検断職と通光の一跡の所領等を安堵する。西暦1,474年4月15日、忽那通光が、河野通生の下を訪れる。忽那通光は3通の書簡を持参し、河野通久自筆である事の証明が出された。
  • 戒能通明・正岡俚孝・東俊之 西暦1,448年4月20日、戒能通明が、忽那通賢に対し、忽那島有恒名田職を安堵する。西暦1,466年8月21日、正岡俚孝が、河野氏奉行人奉書を発し、忽那通光に対し、井出郷の得重の地頭職を安堵する。11月3日頃、武田元綱率いる軍が、風早郡を襲撃する。此の時、河野教通は上洛していた為、河野通生が、風早郡・忽那島の水軍を指揮して防戦に努めた。通生に従軍した忽那通光と、山崎城主東俊之の2名は奮戦し、通生は、其の戦況を教通に報告した。
  • 細川勝元 西暦1,449年2月頃、河野通春が、細川勝元の支援を受け、第11代室町幕府伊予国守護に就任する。西暦1,453年6月頃、細川勝元が、足利義政の意向を聞かず、河野通春を第13代室町幕府伊予国守護として改補する。其の後河野通春は、京都から伊予国へ帰国したが、其の際、村上吉資が河野通春を援助した。細川勝元の此の行動は、足利義政との対立を生み、細川勝元は管領職を辞任しようとした。然し、細川勝元は、足利義政の慰留により、思い留まった。西暦1,456年2月5日、室町幕府が、河野通春の伊予国守護職を罷免し、細川勝元を第14代室町幕府伊予国守護に任命する。此れにより細川勝元は、土佐国守護職との兼任となり、又、予州家が河野氏宗家に対して優勢となった。西暦1,465年7月頃、室町幕府が、細川勝元の申し出を受け入れ、細川賢氏・細川成之を始めとする近国の諸将に、河野通春征伐を命じる。同時に勝元は、室町幕府に、近国守護へ其の主旨の御教書を出す様要請した。9月頃、細川勝元が、讃岐国・土佐国の国人領主等を通じ、伊予国へ影響力を与え、大野氏・森山氏・重見氏に河野通春に反抗させて圧迫し、通春を湯築城から追い払い、土佐国守護代新開遠江守を入城させる。通春は、港山城に籠城し、河野教通の留守の為に伊予国に居た河野通生と繋がり、細川勝元勢と対峙した。9月23日、大内教弘が、興居島にて病没する。大内政弘が家督を継いだ。教弘の死去を伝え聞いた細川勝元は「上意に叛いたから天罰が下ったのだ」と語った。10月29日、細川勝元が、毛利豊元に、河野通春との戦闘中に味方の土佐国守護代新開遠江守等が戦死した旨を伝え、伊予国への出兵と援軍の派遣を要請する。西暦1,466年11月10日、細川勝元の要請により、室町幕府が、大内政弘征伐を決定する。西暦1,467年9月8日、大内政弘が、河野水軍・村上水軍・三島水軍等の瀬戸内水軍を率い、大物浦の難波・水堂にて、上陸を阻止しようとする細川勝元・赤松政則の軍と交戦し、撃破する。西暦1,468年9月23日、細川勝元が、西軍の留守を狙い、船岡山城を三方から攻めて落城させる。
  • 細川成之・細川賢氏・細川勝之・細川持益・細川義春 西暦1,453年5月27日、細川勝之が、安芸国の小泉興平に対し、越智郡大島の地頭職等を安堵する。西暦1,462年6月頃、細川成之率いる軍が、河野通春征伐の為、渡海して東予から進軍する。同時に、南予の宇都宮安綱も北上した。11月頃、河野教通率いる軍が、桜三里付近にて、細川成之の軍勢に合流する。包囲網を敷かれ窮地に立たされた河野通春は、海賊衆に細川成之率いる軍の補給路を断たせ、難を逃れた。西暦1,463年、細川成之の被官達が伊予国に駐留し続けるも、河野通春に同情したり、細川成之の介入を嫌って河野通春方に寝返る地元の国人衆が続出した。西暦1,465年5月25日、河野通春征伐の為に伊予国に下向していた細川賢氏が、観念寺に禁制を掲げる。6月19日、細川賢氏が、大祝氏の在所に禁制を掲げる。7月頃、室町幕府が、細川勝元の申し出を受け入れ、細川賢氏・細川成之を始めとする近国の諸将に、河野通春征伐を命じる。又7月頃、土佐国一方守護代細川持益が、河野通春に降伏する。西暦1,479年、細川成之の弐男細川義春率いる軍が、阿波国から伊予国に侵攻する。此れを受けて河野通春・河野教通の2名は、一時和睦した。又、村上氏・忽那氏等の水軍が、細川義春率いる軍の水軍の補給路や退路を断ち、此れにより細川義春は、諸城の攻略を果たせない儘、阿波国へ潰走した。
  • 大内教弘 西暦1,464年10月30日、大内教弘が、善応寺に禁制を掲げる。12月11日、畠山政長が、第19代管領に就任する。此の日室町幕府は、相国寺の僧承勲を遣わせ、大内教弘に、河野通春征伐を命じた。西暦1,465年4月頃、大内教弘が、室町幕府からの伊予国への出陣要請に関し、了承する。7月頃、室町幕府が、細川勝元の申し出を受け入れ、細川賢氏・細川成之を始めとする近国の諸将に、河野通春征伐を命じる。又此の頃、河野通春征伐の幕命を受けて大内教弘率いる軍が伊予国に入った。伊予国へ向かう途上、大内教弘は病気に罹ったが、室町幕府から派遣された板坂三位が治療に当たった。其の後大内教弘は、興居島に布陣して港山城を牽制していたが、突如河野通春を支援した。又7月頃、大内教弘に呼応した河野通春方の南宮内少輔・得能三郎の2名等が、禅城寺にて自害する。9月23日、大内教弘が、興居島にて病没する。大内政弘が家督を継いだ。教弘の死去を伝え聞いた細川勝元は「上意に叛いたから天罰が下ったのだ」と語った。
  • 大内政弘 西暦1,465年7月頃、室町幕府が、細川勝元の申し出を受け入れ、細川賢氏・細川成之を始めとする近国の諸将に、河野通春征伐を命じる。又此の頃、河野通春征伐の幕命を受けて大内教弘率いる軍が伊予国に入った。其の後大内教弘は、興居島に布陣して港山城を牽制していたが、突如河野通春を支援した。9月23日、大内教弘が、興居島にて病没する。大内政弘が家督を継いだ。政弘も河野通春を支援し、室町幕府と対峙した。10月頃、大内政弘が、興居島から港山城を救援しつつ、湯築城へ兵を派遣し、落城させる。又、森山氏・重見氏も討たれ、細川勝元勢は駆逐された。西暦1,466年10月30日頃、室町幕府が、河野通春の孤立を意図し、大内政弘に、河野通春の支援を止める様第18代相国寺鹿苑院僧録龍崗真圭に説得させる。11月10日、細川勝元の要請により、室町幕府が、大内政弘征伐を決定する。室町幕府は、吉川経基に対しても出兵を命じた。室町幕府による大内政弘の勧誘が失敗した事が背景として有った。西暦1,467年6月11日、大内政弘が、周防国・長門国を始めとする8ヶ国の数万の兵を率い、山口を出発する。河野通春・陶弘房の2名も此の中に居た。大内政弘の本隊は海路で、野上・柳井・屋代島・室津を経由して瀬戸内海を東上した。8月19日、大内政弘率いる軍が、20,000~30,000名の軍勢で播磨国兵庫津に入る。此の内2,000~3,000名は河野通春が率いていた。9月8日、大内政弘が、河野水軍・村上水軍・三島水軍等の瀬戸内水軍を率い、大物浦の難波・水堂にて、上陸を阻止しようとする細川勝元・赤松政則の軍と交戦し、撃破する。此の戦闘により、河野通春等は戦功を挙げた。其の後大内政弘率いる軍は、尼崎を焼き払い、10,000名の兵と2,000隻の船団と共に上洛し、東寺に布陣した。そして後に焼失した梶井門跡に移り本陣とした。西暦1,477年5月31日、河野通春が、東軍に内通していた大内政弘の仲介によって東軍に下り、足利義尚の安堵を取り付ける。西暦1,478年11月20日、河野通春・河野通秋の2名が、和気郡にて交戦する。通春は、大内政弘に支援を求めた。大内政弘は、呉・能美・蒲刈に援軍を送らせた。
  • 足利義政 西暦1,450年8月20日、足利義政が、吉川経信に対し、伊予国へ渡り河野教通を支援する様命じる。9月24日、室町幕府が、小早川盛景に、伊予国へ渡り河野教通を支援する様命じる。又足利義政は、河野教通を第12代室町幕府伊予国守護として再任させた。西暦1,453年6月頃、細川勝元が、足利義政の意向を聞かず、河野通春を第13代室町幕府伊予国守護として改補する。其の後河野通春は、京都から伊予国へ帰国したが、其の際、村上吉資が河野通春を援助した。細川勝元の此の行動は、足利義政との対立を生み、細川勝元は管領職を辞任しようとした。然し、細川勝元は、足利義政の慰留により、思い留まった。西暦1,465年12月24日、足利義政が、小早川元平に越智郡大島の1/4の地頭職等を安堵する。西暦1,473年12月11日、河野教通が、足利義政からの伊予国守護職の補任状を受け取る。此れにより河野教通は、第17代室町幕府伊予国守護に就任した。
  • 足利義視・足利義尚 西暦1,468年12月頃、河野通春が、河野教通に「応仁の乱は延々と続くと思いますが、西軍へご同心頂けるのでしょうか。先年大内方からも依頼が有った筈ですが、其の後お返事を頂いておりません。足利義政殿・足利義視殿の双方が将軍となられた今、其の命令には変わりはありません。此度の摂津国の合戦により、私は守護に補任されましたが、家名を上げる上では、私と教通殿の何方がなっても同じだと思います」という主旨の書簡を送る。西暦1,477年5月31日、河野通春が、東軍に内通していた大内政弘の仲介によって東軍に下り、足利義尚の安堵を取り付ける。
  • 畠山持国・畠山義就・畠山政長 西暦1,455年4月12日、畠山持国が死去する。家督は畠山義就が継いだ。持国の死去により、河野教通の後ろ盾となっていた畠山氏の権勢の衰退が顕著となった。西暦1,464年12月11日、畠山政長が、第19代管領に就任する。此の日室町幕府は、相国寺の僧承勲を遣わせ、大内教弘に、河野通春征伐を命じた。
  • 村上吉資・村上治部進 西暦1,449年7月頃、河野教通方の村上吉資が、佐礼城を攻略する。7月4日、河野教通が、村上吉資の佐礼城での戦功を賞する。西暦1,451年、村上吉資を含む因島村上家・来島村上家・能島村上家の三家が、予州家方に寝返る。此れを受けて河野教通率いる軍は、来島村上家の本拠地である来島城を攻撃し、落城させた。西暦1,453年6月頃、細川勝元が、足利義政の意向を聞かず、河野通春を第13代室町幕府伊予国守護として改補する。其の後河野通春は、京都から伊予国へ帰国したが、其の際、村上吉資が河野通春を援助した。6月21日、細川勝元が、村上吉資に対し、河野通春の伊予国への帰国の際に援助した事を賞する御教書を発する。西暦1,456年、村上治部進が、東寺から、弓削島荘の所務請負の話を持ち掛けられる。此の時点で弓削島荘は、安芸国小泉家・讃岐国山路家・能島村上家の2つの家系という4家が支配していた。村上治部進は、所務請負を引き受けるに当たり、条件として、細川勝元の折紙を要求した。小泉家や山路家が、細川勝元の家人である為である。但村上治部進は、能島村上家に対しては、細川勝元の折紙を要求している事は口外しない様釘を刺した。10月15日、細川勝元が、村上治部進に、有名無実となっていた弓削島荘の知行を命じる御内書を発給する。又細川勝元は、村上治部進に弓削島荘の年貢を送る様命じた。10月20日、東寺公文所が、村上治部進に、細川勝元の御内書を送る。東寺公文所は、村上治部進に対し、此の御内書に従って弓削島所務を厳密に行う様伝えた。
  • 因島村上家・来島村上家・能島村上家 西暦1,451年、村上吉資を含む因島村上家・来島村上家・能島村上家の三家が、予州家方に寝返る。此れを受けて河野教通率いる軍は、来島村上家の本拠地である来島城を攻撃し、落城させた。西暦1,456年、村上治部進が、東寺から、弓削島荘の所務請負の話を持ち掛けられる。此の時点で弓削島荘は、安芸国小泉家・讃岐国山路家・能島村上家の2つの家系という4家が支配していた。村上治部進は、所務請負を引き受けるに当たり、条件として、細川勝元の折紙を要求した。小泉家や山路家が、細川勝元の家人である為である。但村上治部進は、能島村上家に対しては、細川勝元の折紙を要求している事は口外しない様釘を刺した。
  • 小早川盛景・小早川煕平・小早川敬平・小早川元平 西暦1,444年5月頃、室町幕府が、安芸国の小早川煕平等に対し、河野教通の援助を命じる。西暦1,450年9月24日、室町幕府が、小早川盛景に、伊予国へ渡り河野教通を支援する様命じる。西暦1,451年7月頃、河野教通が、小早川盛景・重見通実・森山氏・竹原盛景・益田兼堯・吉川三郎・周布次郎の支援により、河野通春に呼応した城郭20ヶ所余を奪取する。小早川盛景・重見通実・森山氏・竹原盛景は連携して、通春方の抵抗勢力を制圧した。教通は、小早川盛景の尽力に対して謝意を表し、其の功績を室町幕府に報告した。7月24日、室町幕府が、小早川盛景の部下の戦功を賞する。8月頃、小早川煕平が、伊予国三島七島内下島を、自身の嫡男小早川敬平に譲る。西暦1,461年6月26日、室町幕府が、小早川煕平に対し、越智郡大島の1/4の地頭職を返す。西暦1,465年7月頃、室町幕府が、毛利豊元・小早川煕平・吉川之経・出羽祐房・徳屋氏に対し、細川勝元への合力を要請する。9月頃、毛利豊元・小早川煕平・吉川之経・出羽祐房・徳屋氏が、安芸灘の島々から渡海し、細川勝元方の軍に合流する。12月頃、細川勝元が、河野通春の勢力が衰退しない為、重ねて毛利煕元・小早川煕平の2名に書簡を送り、援軍を依頼する。12月24日、足利義政が、小早川元平に越智郡大島の1/4の地頭職等を安堵する。
  • 吉川経信・吉川之経・吉川元経・吉川三郎・吉川経基 西暦1,450年8月20日、足利義政が、吉川経信に対し、伊予国へ渡り河野教通を支援する様命じる。西暦1,451年7月頃、河野教通が、小早川盛景・重見通実・森山氏・竹原盛景・益田兼堯・吉川三郎・周布次郎の支援により、河野通春に呼応した城郭20ヶ所余を奪取する。又、益田兼堯は吉田で、吉川三郎・周布次郎は鐘挊尾・味酒にて戦功を挙げた。9月20日、室町幕府が、益田兼堯・吉川三郎・周布次郎の3名の鐘挊尾・味酒での戦功を賞する。西暦1,452年11月頃、河野通春方の森山氏が、森山城にて挙兵する。室町幕府は、吉川経信に、伊予国へ発向し、河野教通を支援する形で森山氏を征伐する様命じた。又11月頃、吉川経信・益田兼堯の2名が、森山城・天神森城にて、森山氏を破る。西暦1,465年7月頃、室町幕府が、毛利豊元・小早川煕平・吉川之経・出羽祐房・徳屋氏に対し、細川勝元への合力を要請する。7月18日、室町幕府が、小早川煕平・吉川元経の2名に対し、細川勝元に協力する様命じる。9月頃、毛利豊元・小早川煕平・吉川之経・出羽祐房・徳屋氏が、安芸灘の島々から渡海し、細川勝元方の軍に合流する。西暦1,466年11月10日、細川勝元の要請により、室町幕府が、大内政弘征伐を決定する。室町幕府は、吉川経基に対しても出兵を命じた。
  • 重見通実・森山氏・竹原盛景・益田兼堯・周布次郎・杉原伯耆守 西暦1,451年5月11日、室町幕府が、杉原伯耆守・小早川盛景の2名に対し、伊予国へ渡り河野教通を支援する様督促する。7月頃、河野教通が、小早川盛景・重見通実・森山氏・竹原盛景・益田兼堯・吉川三郎・周布次郎の支援により、河野通春に呼応した城郭20ヶ所余を奪取する。小早川盛景・重見通実・森山氏・竹原盛景は連携して、通春方の抵抗勢力を制圧した。又、益田兼堯は吉田で、吉川三郎・周布次郎は鐘挊尾・味酒にて戦功を挙げた。教通は、小早川盛景の尽力に対して謝意を表し、其の功績を室町幕府に報告した。重見通実は、宇和郡の大野氏と喜多郡の森山氏の連合体制が出来上がった旨を、小早川盛景等に伝えた。8月15日、室町幕府が、益田兼堯の吉田での戦功を賞する。9月14日、重見通実が、杉原伯耆守・小早川盛景の2名に対し、河野通春征伐の為の合力を依頼する。西暦1,452年11月頃、河野通春方の森山氏が、森山城にて挙兵する。又11月頃、吉川経信・益田兼堯の2名が、森山城・天神森城にて、森山氏を破る。西暦1,465年7月頃、重見通実等が、和気郡湊山にて戦死する。10月頃、大内政弘が、興居島から港山城を救援しつつ、湯築城へ兵を派遣し、落城させる。又、森山氏・重見氏も討たれ、細川勝元勢は駆逐された。
  • 出羽祐房・毛利豊元・毛利煕元・徳屋氏 西暦1,452年1月17日、室町幕府が、吉川経信・出羽祐房の2名に対し、河野教通の支援の為の伊予国への発向を命じる。西暦1,465年7月頃、室町幕府が、毛利豊元・小早川煕平・吉川之経・出羽祐房・徳屋氏に対し、細川勝元への合力を要請する。7月18日、室町幕府が、小早川煕平・吉川元経の2名に対し、細川勝元に協力する様命じる。又細川勝元自身も、毛利豊元・出羽祐房の2名に対し、出兵を促した。9月頃、毛利豊元・小早川煕平・吉川之経・出羽祐房・徳屋氏が、安芸灘の島々から渡海し、細川勝元方の軍に合流する。10月17日、細川勝元が、河野通春征伐に関し、毛利豊元に支援を求める。10月29日、細川勝元が、毛利豊元に、河野通春との戦闘中に味方の土佐国守護代新開遠江守等が戦死した旨を伝え、伊予国への出兵と援軍の派遣を要請する。12月頃、細川勝元が、河野通春の勢力が衰退しない為、重ねて毛利煕元・小早川煕平の2名に書簡を送り、援軍を依頼する。
  • 新開遠江守 西暦1,465年9月頃、細川勝元が、讃岐国・土佐国の国人領主等を通じ、伊予国へ影響力を与え、大野氏・森山氏・重見氏に河野通春に反抗させて圧迫し、通春を湯築城から追い払い、土佐国守護代新開遠江守を入城させる。10月29日、細川勝元が、毛利豊元に、河野通春との戦闘中に味方の土佐国守護代新開遠江守等が戦死した旨を伝え、伊予国への出兵と援軍の派遣を要請する。
  • 武田元綱 西暦1,466年11月3日頃、武田元綱率いる軍が、風早郡を襲撃する。戦闘は、恵良城を中心に展開され、2週間程続いた。此の時、河野教通は上洛していた為、河野通生が、風早郡・忽那島の水軍を指揮して防戦に努めた。通生に従軍した忽那通光と、山崎城主東俊之の2名は奮戦し、通生は、其の戦況を教通に報告した。
  • 宇都宮安綱・大野氏・山名是豊・陶弘房・陶弘護・赤松政則・龍崗真圭・板坂三位・南宮内少輔・得能三郎・浅海氏 西暦1,462年6月頃、細川成之率いる軍が、河野通春征伐の為、渡海して東予から進軍する。同時に、南予の宇都宮安綱も北上した。西暦1,465年7月頃、室町幕府が、細川勝元の申し出を受け入れ、細川賢氏・細川成之を始めとする近国の諸将に、河野通春征伐を命じる。又此の頃、河野通春征伐の幕命を受けて大内教弘率いる軍が伊予国に入った。伊予国へ向かう途上、大内教弘は病気に罹ったが、室町幕府から派遣された板坂三位が治療に当たった。其の後大内教弘は、興居島に布陣して港山城を牽制していたが、突如河野通春を支援した。此の頃、山名是豊も、室町幕府から伊予国への出兵を命じられた。又7月頃、大内教弘に呼応した河野通春方の南宮内少輔・得能三郎の2名等が、禅城寺にて自害する。9月15日、細川勝元が、伊予国の在地領主である大野氏に、河野通春征伐を命じる。西暦1,466年10月30日頃、室町幕府が、河野通春の孤立を意図し、大内政弘に、河野通春の支援を止める様第18代相国寺鹿苑院僧録龍崗真圭に説得させる。西暦1,467年6月11日、大内政弘が、周防国・長門国を始めとする8ヶ国の数万の兵を率い、山口を出発する。河野通春・陶弘房の2名も此の中に居た。弘房は、家の事は陶弘護に任せていた。9月8日、大内政弘が、河野水軍・村上水軍・三島水軍等の瀬戸内水軍を率い、大物浦の難波・水堂にて、上陸を阻止しようとする細川勝元・赤松政則の軍と交戦し、撃破する。西暦1,469年6月13日、西幕府が、大野氏・河野通春に対し、河野通秋・河野通光の2名の征伐を命じる御教書を発する。西暦1,479年、細川成之の弐男細川義春率いる軍が、阿波国から伊予国に侵攻する。此れを受けて河野通春・河野教通の2名は、一時和睦した。河野通生は、神途城に籠城して指揮を取り、浅海氏等が馳せ参じた。
  • 後花園上皇・後土御門天皇 西暦1,467年8月19日、大内政弘率いる軍が、20,000~30,000名の軍勢で播磨国兵庫津に入る。細川勝元は、後花園上皇・後土御門天皇の2名に花の御所への動座を求めた。
  • 西園寺公広・大友親繁・大祝氏・小泉興平・山路家・李氏朝鮮成宗・昌宗 西暦1,453年5月16日、西園寺公広が、歯長寺住持昌宗に、永長郷成俊名等の旧領を返付する。5月27日、細川勝之が、安芸国の小泉興平に対し、越智郡大島の地頭職等を安堵する。西暦1,456年、村上治部進が、東寺から、弓削島荘の所務請負の話を持ち掛けられる。此の時点で弓削島荘は、安芸国小泉家・讃岐国山路家・能島村上家の2つの家系という4家が支配していた。村上治部進は、所務請負を引き受けるに当たり、条件として、細川勝元の折紙を要求した。小泉家や山路家が、細川勝元の家人である為である。西暦1,461年9月頃、大友親繁が、河野教通の要求を退け、豊後国臼杵荘の領知を認める様、室町幕府に訴える。西暦1,463年7月10日、東寺雑掌が、村上治部進の弓削島荘所務職を認めていない小泉家や山路家を含む海賊が共謀し、押妨を行っていた為、此れを不当な所業であると非難し、室町幕府に押妨を止めさせ、弓削島荘等の所務職の確保を要請する。西暦1,465年6月19日、細川賢氏が、大祝氏の在所に禁制を掲げる。西暦1,470年、河野教通が、第9代李氏朝鮮国王成宗に対し、使者を送る。

主要な地名・拠点

  • 伊予国 西暦1,449年2月頃、河野通春が、細川勝元の支援を受け、第11代室町幕府伊予国守護に就任する。西暦1,450年9月24日、室町幕府が、小早川盛景に、伊予国へ渡り河野教通を支援する様命じる。又足利義政は、河野教通を第12代室町幕府伊予国守護として再任させた。西暦1,453年6月頃、細川勝元が、足利義政の意向を聞かず、河野通春を第13代室町幕府伊予国守護として改補する。西暦1,456年2月5日、室町幕府が、河野通春の伊予国守護職を罷免し、細川勝元を第14代室町幕府伊予国守護に任命する。西暦1,473年12月11日、河野教通が、足利義政からの伊予国守護職の補任状を受け取る。此れにより河野教通は、第17代室町幕府伊予国守護に就任した。西暦1,477年12月頃、河野通春が、陣所を引き払って伊予国へ帰国する。又此の頃河野通春は、第18代室町幕府伊予国守護に任じられた。
  • 湯築城 西暦1,462年6月頃、細川成之率いる軍が、河野通春征伐の為、渡海して東予から進軍する。同時に、南予の宇都宮安綱も北上した。圧倒的な兵力差を前に、河野通春は一旦湯築城(現在の愛媛県松山市道後公園)を捨て、高縄山(現在の愛媛県松山市猿川)・港山城(現在の愛媛県松山市港山)・忽那諸島・来島(現在の愛媛県今治市来島小島)の山間部や島嶼部に退却した。西暦1,465年9月頃、細川勝元が、讃岐国・土佐国の国人領主等を通じ、伊予国へ影響力を与え、大野氏・森山氏・重見氏に河野通春に反抗させて圧迫し、通春を湯築城から追い払い、土佐国守護代新開遠江守を入城させる。10月頃、大内政弘が、興居島から港山城を救援しつつ、湯築城へ兵を派遣し、落城させる。又、森山氏・重見氏も討たれ、細川勝元勢は駆逐された。
  • 港山城 西暦1,462年6月頃、細川成之率いる軍が、河野通春征伐の為、渡海して東予から進軍する。圧倒的な兵力差を前に、河野通春は一旦湯築城(現在の愛媛県松山市道後公園)を捨て、高縄山(現在の愛媛県松山市猿川)・港山城(現在の愛媛県松山市港山)・忽那諸島・来島(現在の愛媛県今治市来島小島)の山間部や島嶼部に退却した。西暦1,465年7月頃、室町幕府が、細川勝元の申し出を受け入れ、細川賢氏・細川成之を始めとする近国の諸将に、河野通春征伐を命じる。又此の頃、河野通春征伐の幕命を受けて大内教弘率いる軍が伊予国に入った。其の後大内教弘は、興居島に布陣して港山城を牽制していたが、突如河野通春を支援した。9月頃、細川勝元が、讃岐国・土佐国の国人領主等を通じ、伊予国へ影響力を与え、大野氏・森山氏・重見氏に河野通春に反抗させて圧迫し、通春を湯築城から追い払い、土佐国守護代新開遠江守を入城させる。通春は、港山城に籠城し、河野教通の留守の為に伊予国に居た河野通生と繋がり、細川勝元勢と対峙した。10月頃、大内政弘が、興居島から港山城を救援しつつ、湯築城へ兵を派遣し、落城させる。西暦1,482年8月28日、河野通春が、居城の港山城にて病没する。
  • 高縄山・忽那諸島・来島・桜三里・興居島 西暦1,462年6月頃、細川成之率いる軍が、河野通春征伐の為、渡海して東予から進軍する。圧倒的な兵力差を前に、河野通春は一旦湯築城(現在の愛媛県松山市道後公園)を捨て、高縄山(現在の愛媛県松山市猿川)・港山城(現在の愛媛県松山市港山)・忽那諸島・来島(現在の愛媛県今治市来島小島)の山間部や島嶼部に退却した。11月頃、河野教通率いる軍が、桜三里(現在の愛媛県東温市河之内周辺)付近にて、細川成之の軍勢に合流する。包囲網を敷かれ窮地に立たされた河野通春は、海賊衆に細川成之率いる軍の補給路を断たせ、難を逃れた。西暦1,465年7月頃、室町幕府が、細川勝元の申し出を受け入れ、細川賢氏・細川成之を始めとする近国の諸将に、河野通春征伐を命じる。又此の頃、河野通春征伐の幕命を受けて大内教弘率いる軍が伊予国に入った。其の後大内教弘は、興居島に布陣して港山城を牽制していたが、突如河野通春を支援した。9月23日、大内教弘が、興居島(現在の愛媛県松山市)にて病没する。10月頃、大内政弘が、興居島から港山城を救援しつつ、湯築城へ兵を派遣し、落城させる。
  • 神途城・森山城・天神森城 西暦1,452年11月頃、河野通春方の森山氏が、森山城(現在の愛媛県伊予市大平)にて挙兵する。室町幕府は、吉川経信に、伊予国へ発向し、河野教通を支援する形で森山氏を征伐する様命じた。又11月頃、吉川経信・益田兼堯の2名が、森山城・天神森城(現在の愛媛県上浮穴郡久万高原町西明神)にて、森山氏を破る。西暦1,479年、細川成之の弐男細川義春率いる軍が、阿波国から伊予国に侵攻する。此れを受けて河野通春・河野教通の2名は、一時和睦した。河野通生は、神途城(現在の愛媛県松山市猿川)に籠城して指揮を取り、浅海氏等が馳せ参じた。
  • 佐礼城・来島城・恵良城・山崎城 西暦1,449年7月頃、河野教通方の村上吉資が、佐礼城(現在の愛媛県今治市玉川町別所)を攻略する。7月4日、河野教通が、村上吉資の佐礼城での戦功を賞する。西暦1,451年、村上吉資を含む因島村上家・来島村上家・能島村上家の三家が、予州家方に寝返る。此れを受けて河野教通率いる軍は、来島村上家の本拠地である来島城(現在の愛媛県今治市来島)を攻撃し、落城させた。西暦1,466年11月3日頃、武田元綱率いる軍が、風早郡(現在の愛媛県松山市)を襲撃する。戦闘は、恵良城(現在の愛媛県松山市上難波)を中心に展開され、2週間程続いた。此の時、河野教通は上洛していた為、河野通生が、風早郡・忽那島の水軍を指揮して防戦に努めた。通生に従軍した忽那通光と、山崎城(現在の愛媛県伊予市上三谷)主東俊之の2名は奮戦し、通生は、其の戦況を教通に報告した。12月9日、河野教通が、忽那通光の恵良城に於ける戦功を賞する。西暦1,467年9月20日、河野氏の奉行人が連署奉書を発し、河野教通から忽那通光に、恵良城での勲功の賞として、出作(現在の愛媛県伊予郡松前町)・鹿子の2ヶ所の所領が与えられる。
  • 禅城寺(義安寺)・善応寺・観念寺・歯長寺・長隆寺・定光寺観音堂 西暦1,453年5月16日、西園寺公広が、歯長寺(現在の愛媛県西予市宇和町伊賀上)住持昌宗に、永長郷(現在の愛媛県西予市宇和町永長)成俊名等の旧領を返付する。西暦1,463年9月15日、弓削島荘にて、定光寺観音堂(現在の愛媛県越智郡上島町弓削土生)が創建される。西暦1,464年10月30日、大内教弘が、善応寺(現在の愛媛県松山市善応寺甲)に禁制を掲げる。西暦1,465年3月13日、河野通春と、河野教通の弟河野通生の2名が、土居家分の地頭職を善応寺に寄進する。5月25日、河野通春征伐の為に伊予国に下向していた細川賢氏が、観念寺(現在の愛媛県西条市上市)に禁制を掲げる。7月頃、大内教弘に呼応した河野通春方の南宮内少輔・得能三郎の2名等が、禅城寺(現在の愛媛県松山市道後姫塚の義安寺)にて自害する。西暦1,468年1月頃、河野教通等が、三島神社(現在の愛媛県今治市大三島町宮浦の大山祇神社)・善応寺の2ヶ所に禁制を掲げる。5月1日、河野通政が、長隆寺(現在の愛媛県松山市の忽那諸島中島)に畠を寄進する。8月14日、長隆寺所蔵の綸旨院宣六波羅下知状が紛失した事が証明される。
  • 三島神社・浦戸神社 西暦1,468年1月頃、河野教通等が、三島神社(現在の愛媛県今治市大三島町宮浦の大山祇神社)・善応寺の2ヶ所に禁制を掲げる。西暦1,471年6月8日、河野教通の手によって、浦戸神社(現在の愛媛県今治市大三島町)が造営される。西暦1,478年1月15日、河野通春が、三島神社に禁制を掲げる。
  • 弓削島荘・越智郡大島 西暦1,453年5月27日、細川勝之が、安芸国の小泉興平に対し、越智郡大島(現在の愛媛県今治市)の地頭職等を安堵する。西暦1,456年、村上治部進が、東寺から、弓削島荘(現在の愛媛県上島町)の所務請負の話を持ち掛けられる。此の時点で弓削島荘は、安芸国小泉家・讃岐国山路家・能島村上家の2つの家系という4家が支配していた。10月15日、細川勝元が、村上治部進に、有名無実となっていた弓削島荘の知行を命じる御内書を発給する。西暦1,460年12月21日、室町幕府が、小早川煕平に対し、弓削島荘の状況を報告する様命じる。西暦1,461年6月26日、室町幕府が、小早川煕平に対し、越智郡大島の1/4の地頭職を返す。西暦1,463年7月10日、東寺雑掌が、村上治部進の弓削島荘所務職を認めていない小泉家や山路家を含む海賊が共謀し、押妨を行っていた為、此れを不当な所業であると非難し、室町幕府に押妨を止めさせ、弓削島荘等の所務職の確保を要請する。西暦1,465年12月24日、足利義政が、小早川元平に越智郡大島の1/4の地頭職等を安堵する。
  • 大物浦・兵庫津・尼崎 西暦1,467年8月19日、大内政弘率いる軍が、20,000~30,000名の軍勢で播磨国兵庫津(現在の兵庫県神戸市兵庫区)に入る。此の内2,000~3,000名は河野通春が率いていた。9月8日、大内政弘が、河野水軍・村上水軍・三島水軍等の瀬戸内水軍を率い、大物浦の難波(現在の兵庫県尼崎市西本町付近)・水堂(現在の兵庫県尼崎市立花町付近)にて、上陸を阻止しようとする細川勝元・赤松政則の軍と交戦し、撃破する。此の戦闘により、河野通春等は戦功を挙げた。其の後大内政弘率いる軍は、尼崎を焼き払い、10,000名の兵と2,000隻の船団と共に上洛し、東寺に布陣した。
  • 東寺・梶井門跡・温泉郡味酒郷・船岡山城 西暦1,456年、村上治部進が、東寺から、弓削島荘(現在の愛媛県上島町)の所務請負の話を持ち掛けられる。西暦1,467年9月8日、大内政弘が、河野水軍・村上水軍・三島水軍等の瀬戸内水軍を率い、大物浦の難波(現在の兵庫県尼崎市西本町付近)・水堂(現在の兵庫県尼崎市立花町付近)にて、上陸を阻止しようとする細川勝元・赤松政則の軍と交戦し、撃破する。其の後大内政弘率いる軍は、尼崎を焼き払い、10,000名の兵と2,000隻の船団と共に上洛し、東寺に布陣した。そして後に焼失した梶井門跡(現在の京都府京都市北区紫野下築山町付近)に移り本陣とした。西暦1,468年1月17日、河野通春が、摂津国を進発するに当たり、東寺に祈祷を依頼する。6月8日、河野通春が、東寺に温泉郡味酒郷(現在の愛媛県松山市味酒町)内上方地頭職を安堵する。9月23日、細川勝元が、西軍の留守を狙い、船岡山城(現在の京都府京都市北区紫野北舟岡町)を三方から攻めて落城させる。
  • 風早郡・和気郡 西暦1,465年7月頃、重見通実等が、和気郡湊山(現在の愛媛県松山市港山町)にて戦死する。西暦1,466年11月3日頃、武田元綱率いる軍が、風早郡(現在の愛媛県松山市)を襲撃する。戦闘は、恵良城(現在の愛媛県松山市上難波)を中心に展開され、2週間程続いた。此の時、河野教通は上洛していた為、河野通生が、風早郡・忽那島の水軍を指揮して防戦に努めた。西暦1,478年11月20日、河野通春・河野通秋の2名が、和気郡(現在の愛媛県松山市)にて交戦する。
  • 山口・周防国・長門国・屋代島・野上・柳井・室津 西暦1,467年6月11日、大内政弘が、周防国・長門国を始めとする8ヶ国の数万の兵を率い、山口を出発する。河野通春・陶弘房の2名も此の中に居た。大内政弘の本隊は海路で、野上(現在の山口県周南市)・柳井(現在の山口県)・屋代島(現在の山口県大島郡周防大島町)・室津(現在の兵庫県たつの市)を経由して瀬戸内海を東上した。
  • 土佐国・阿波国 西暦1,456年2月5日、室町幕府が、河野通春の伊予国守護職を罷免し、細川勝元を第14代室町幕府伊予国守護に任命する。此れにより細川勝元は、土佐国守護職との兼任となり、又、予州家が河野氏宗家に対して優勢となった。西暦1,465年7月頃、土佐国一方守護代細川持益が、河野通春に降伏する。9月頃、細川勝元が、讃岐国・土佐国の国人領主等を通じ、伊予国へ影響力を与え、大野氏・森山氏・重見氏に河野通春に反抗させて圧迫し、通春を湯築城から追い払い、土佐国守護代新開遠江守を入城させる。10月29日、細川勝元が、毛利豊元に、河野通春との戦闘中に味方の土佐国守護代新開遠江守等が戦死した旨を伝え、伊予国への出兵と援軍の派遣を要請する。西暦1,479年、細川成之の弐男細川義春率いる軍が、阿波国から伊予国に侵攻する。此れを受けて河野通春・河野教通の2名は、一時和睦した。又、村上氏・忽那氏等の水軍が、細川義春率いる軍の水軍の補給路や退路を断ち、此れにより細川義春は、諸城の攻略を果たせない儘、阿波国へ潰走した。
  • 李氏朝鮮 西暦1,470年、河野教通が、第9代李氏朝鮮国王成宗に対し、使者を送る。

主要な事件・出来事

  • 河野教通による河野通春の征伐の開始(1,441年8月14日頃) 河野教通が、室町幕府の命を受けて、嘉吉の乱での赤松家征伐に於いて予州家当主河野通春が遅参した事を理由に、河野通春の征伐を開始する。
  • 河野通春の第11代室町幕府伊予国守護への就任(1,449年2月頃) 河野通春が、細川勝元の支援を受け、第11代室町幕府伊予国守護に就任する。
  • 村上吉資による佐礼城の攻略(1,449年7月頃) 河野教通方の村上吉資が、佐礼城(現在の愛媛県今治市玉川町別所)を攻略する。
  • 室町幕府による小早川盛景への河野教通の支援の命令(1,450年9月24日) 室町幕府が、小早川盛景に、伊予国へ渡り河野教通を支援する様命じる。又足利義政は、河野教通を第12代室町幕府伊予国守護として再任させた。
  • 因島村上家・来島村上家・能島村上家の予州家方への寝返り(1,451年) 村上吉資を含む因島村上家・来島村上家・能島村上家の三家が、予州家方に寝返る。此れを受けて河野教通率いる軍は、来島村上家の本拠地である来島城(現在の愛媛県今治市来島)を攻撃し、落城させた。
  • 河野教通による河野通春に呼応した城郭20ヶ所余の奪取(1,451年7月頃) 河野教通が、小早川盛景・重見通実・森山氏・竹原盛景・益田兼堯・吉川三郎・周布次郎の支援により、河野通春に呼応した城郭20ヶ所余を奪取する。小早川盛景・重見通実・森山氏・竹原盛景は連携して、通春方の抵抗勢力を制圧した。又、益田兼堯は吉田(現在の愛媛県宇和島市)で、吉川三郎・周布次郎は鐘挊尾・味酒(現在の愛媛県松山市)にて戦功を挙げた。教通は、小早川盛景の尽力に対して謝意を表し、其の功績を室町幕府に報告した。重見通実は、宇和郡の大野氏と喜多郡の森山氏の連合体制が出来上がった旨を、小早川盛景等に伝えた。
  • 河野通春方の森山氏の森山城での挙兵(1,452年11月頃) 河野通春方の森山氏が、森山城(現在の愛媛県伊予市大平)にて挙兵する。室町幕府は、吉川経信に、伊予国へ発向し、河野教通を支援する形で森山氏を征伐する様命じた。
  • 吉川経信・益田兼堯による森山氏の撃破(1,452年11月頃) 吉川経信・益田兼堯の2名が、森山城・天神森城(現在の愛媛県上浮穴郡久万高原町西明神)にて、森山氏を破る。
  • 細川勝元による河野通春の第13代室町幕府伊予国守護への改補(1,453年6月頃) 細川勝元が、足利義政の意向を聞かず、河野通春を第13代室町幕府伊予国守護として改補する。其の後河野通春は、京都から伊予国へ帰国したが、其の際、村上吉資が河野通春を援助した。細川勝元の此の行動は、足利義政との対立を生み、細川勝元は管領職を辞任しようとした。然し、細川勝元は、足利義政の慰留により、思い留まった。
  • 畠山持国の死去(1,455年4月12日) 畠山持国が死去する。家督は畠山義就が継いだ。持国の死去により、河野教通の後ろ盾となっていた畠山氏の権勢の衰退が顕著となった。
  • 室町幕府による河野通春の伊予国守護職の罷免と細川勝元の第14代室町幕府伊予国守護への任命(1,456年2月5日) 室町幕府が、河野通春の伊予国守護職を罷免し、細川勝元を第14代室町幕府伊予国守護に任命する。此れにより細川勝元は、土佐国守護職との兼任となり、又、予州家が河野氏宗家に対して優勢となった。
  • 河野教通による河野通秋への家督の譲渡(1,457年) 河野教通が、自身の弟河野通秋を養子とし、家督を譲る。
  • 河野教通による室町幕府への申状の提出(1,461年1月頃) 河野教通が、室町幕府に対し、古代以来の先祖の勲功を列挙し、最後に近年の河野通春が細川勝元によって伊予国守護に据えられ、河野家の家督を継いだ不慮の儀を嘆き、伊予国守護職と御恩地の返還を要求する主旨の申状を提出する。
  • 細川成之率いる軍の河野通春征伐の為の進軍(1,462年6月頃) 細川成之率いる軍が、河野通春征伐の為、渡海して東予から進軍する。同時に、南予の宇都宮安綱も北上した。圧倒的な兵力差を前に、河野通春は一旦湯築城(現在の愛媛県松山市道後公園)を捨て、高縄山(現在の愛媛県松山市猿川)・港山城(現在の愛媛県松山市港山)・忽那諸島・来島(現在の愛媛県今治市来島小島)の山間部や島嶼部に退却した。
  • 河野教通率いる軍の細川成之の軍勢への合流(1,462年11月頃) 河野教通率いる軍が、桜三里(現在の愛媛県東温市河之内周辺)付近にて、細川成之の軍勢に合流する。包囲網を敷かれ窮地に立たされた河野通春は、海賊衆に細川成之率いる軍の補給路を断たせ、難を逃れた。
  • 地元の国人衆の河野通春方への寝返り(1,463年) 此の年、細川成之の被官達が伊予国に駐留し続けるも、河野通春に同情したり、細川成之の介入を嫌って河野通春方に寝返る地元の国人衆が続出した。
  • 河野通秋の病没(1,464年11月1日) 河野通秋が病没する。河野教通の息子河野通宣が後を継いだ。通宣は、教通と行動を共にした。
  • 畠山政長の第19代管領への就任(1,464年12月11日) 畠山政長が、第19代管領に就任する。此の日室町幕府は、相国寺の僧承勲を遣わせ、大内教弘に、河野通春征伐を命じた。
  • 室町幕府による近国の諸将への河野通春征伐の命令(1,465年7月頃) 室町幕府が、細川勝元の申し出を受け入れ、細川賢氏・細川成之を始めとする近国の諸将に、河野通春征伐を命じる。同時に勝元は、室町幕府に、近国守護へ其の主旨の御教書を出す様要請した。又此の頃、河野通春征伐の幕命を受けて大内教弘率いる軍が伊予国に入った。伊予国へ向かう途上、大内教弘は病気に罹ったが、室町幕府から派遣された板坂三位が治療に当たった。其の後大内教弘は、興居島に布陣して港山城を牽制していたが、突如河野通春を支援した。此の頃、山名是豊も、室町幕府から伊予国への出兵を命じられた。
  • 細川勝元による河野通春の湯築城からの追い払い(1,465年9月頃) 細川勝元が、讃岐国・土佐国の国人領主等を通じ、伊予国へ影響力を与え、大野氏・森山氏・重見氏に河野通春に反抗させて圧迫し、通春を湯築城から追い払い、土佐国守護代新開遠江守を入城させる。通春は、港山城に籠城し、河野教通の留守の為に伊予国に居た河野通生と繋がり、細川勝元勢と対峙した。
  • 大内教弘の興居島での病没(1,465年9月23日) 大内教弘が、興居島(現在の愛媛県松山市)にて病没する。大内政弘が家督を継いだ。政弘も河野通春を支援し、室町幕府と対峙した。教弘の死去を伝え聞いた細川勝元は「上意に叛いたから天罰が下ったのだ」と語った。
  • 大内政弘による湯築城の落城(1,465年10月頃) 大内政弘が、興居島から港山城を救援しつつ、湯築城へ兵を派遣し、落城させる。又、森山氏・重見氏も討たれ、細川勝元勢は駆逐された。
  • 武田元綱率いる軍による風早郡の襲撃(1,466年11月3日頃) 武田元綱率いる軍が、風早郡(現在の愛媛県松山市)を襲撃する。戦闘は、恵良城(現在の愛媛県松山市上難波)を中心に展開され、2週間程続いた。此の時、河野教通は上洛していた為、河野通生が、風早郡・忽那島の水軍を指揮して防戦に努めた。通生に従軍した忽那通光と、山崎城(現在の愛媛県伊予市上三谷)主東俊之の2名は奮戦し、通生は、其の戦況を教通に報告した。
  • 室町幕府による大内政弘征伐の決定(1,466年11月10日) 細川勝元の要請により、室町幕府が、大内政弘征伐を決定する。室町幕府は、吉川経基に対しても出兵を命じた。室町幕府による大内政弘の勧誘が失敗した事が背景として有った。
  • 大内政弘の山口からの出発(1,467年6月11日) 大内政弘が、周防国・長門国を始めとする8ヶ国の数万の兵を率い、山口を出発する。河野通春・陶弘房の2名も此の中に居た。弘房は、家の事は陶弘護に任せていた。大内政弘の本隊は海路で、野上(現在の山口県周南市)・柳井(現在の山口県)・屋代島(現在の山口県大島郡周防大島町)・室津(現在の兵庫県たつの市)を経由して瀬戸内海を東上した。
  • 大内政弘率いる軍の播磨国兵庫津入り(1,467年8月19日) 大内政弘率いる軍が、20,000~30,000名の軍勢で播磨国兵庫津(現在の兵庫県神戸市兵庫区)に入る。此の内2,000~3,000名は河野通春が率いていた。細川勝元は、後花園上皇・後土御門天皇の2名に花の御所への動座を求めた。
  • 大物浦での大内政弘による細川勝元・赤松政則の軍の撃破(1,467年9月8日) 大内政弘が、河野水軍・村上水軍・三島水軍等の瀬戸内水軍を率い、大物浦の難波(現在の兵庫県尼崎市西本町付近)・水堂(現在の兵庫県尼崎市立花町付近)にて、上陸を阻止しようとする細川勝元・赤松政則の軍と交戦し、撃破する。此の戦闘により、河野通春等は戦功を挙げた。其の後大内政弘率いる軍は、尼崎を焼き払い、10,000名の兵と2,000隻の船団と共に上洛し、東寺に布陣した。そして後に焼失した梶井門跡(現在の京都府京都市北区紫野下築山町付近)に移り本陣とした。
  • 河野通春による河野教通への書簡の送付(1,468年12月頃) 河野通春が、河野教通に「応仁の乱は延々と続くと思いますが、西軍へご同心頂けるのでしょうか。先年大内方からも依頼が有った筈ですが、其の後お返事を頂いておりません。足利義政殿・足利義視殿の双方が将軍となられた今、其の命令には変わりはありません。此度の摂津国の合戦により、私は守護に補任されましたが、家名を上げる上では、私と教通殿の何方がなっても同じだと思います」という主旨の書簡を送る。
  • 河野教通の伊予国への帰還(1,469年頃) 河野教通が、伊予国へ帰還する。
  • 河野教通による李氏朝鮮国王成宗への使者の派遣(1,470年) 河野教通が、第9代李氏朝鮮国王成宗に対し、使者を送る。
  • 河野教通による伊予国守護職の補任状の受け取りと第17代室町幕府伊予国守護への就任(1,473年12月11日) 河野教通が、足利義政からの伊予国守護職の補任状を受け取る。此れにより河野教通は、第17代室町幕府伊予国守護に就任した。
  • 大内政弘の仲介による河野通春の東軍への帰属(1,477年5月31日) 河野通春が、東軍に内通していた大内政弘の仲介によって東軍に下り、足利義尚の安堵を取り付ける。
  • 河野通春の伊予国への帰国(1,477年12月頃) 河野通春が、陣所を引き払って伊予国へ帰国する。又此の頃河野通春は、第18代室町幕府伊予国守護に任じられた。
  • 河野通春・河野通秋の和気郡での交戦(1,478年11月20日) 河野通春・河野通秋の2名が、和気郡(現在の愛媛県松山市)にて交戦する。通春は、大内政弘に支援を求めた。大内政弘は、呉・能美(現在の広島県江田島市)・蒲刈(現在の広島県呉市)に援軍を送らせた。
  • 細川義春率いる軍の伊予国への侵攻(1,479年) 細川成之の弐男細川義春率いる軍が、阿波国から伊予国に侵攻する。此れを受けて河野通春・河野教通の2名は、一時和睦した。河野通生は、神途城(現在の愛媛県松山市猿川)に籠城して指揮を取り、浅海氏等が馳せ参じた。又、村上氏・忽那氏等の水軍が、細川義春率いる軍の水軍の補給路や退路を断ち、此れにより細川義春は、諸城の攻略を果たせない儘、阿波国へ潰走した。其の後、通春と教通は再び争う事となった。
  • 河野通春の港山城での病没(1,482年8月28日) 河野通春が、居城の港山城にて病没する。本書の年表の最後の項目である。

湯築城から大物浦、そして港山城へ──
河野通春と河野教通の抗争を一元化。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
YouTubeとニコニコでも情報を発信中。