電子書籍「河野通春vs河野教通 36年に渡る抗争一元化」の表紙

河野通春vs河野教通
36年に渡る抗争一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,441年8月14日〜1,482年8月28日
※旧暦は全て西暦に変換しています
最新更新日
西暦2,026年3月9日

教通による嘉吉の乱遅参を理由とする通春征伐開始・通春の第11代伊予国守護就任・教通方による城郭20ヶ所余奪取・細川勝元独断による通春の第13代改補・畠山持国死去・通春守護罷免と細川勝元第14代就任・細川成之軍の征伐と湯築城退却・大内教弘政弘父子の支援転向・大物浦の戦い・通春の東軍帰順と第18代守護就任・細川義春侵攻と一時和睦・通春港山城病没──
予州家と河野家宗家の両統迭立抗争41年を一本の時系列に貫く。

JPY 200(税込)

購入する

本書について

西暦1,441年8月14日、河野教通が嘉吉の乱での赤松家征伐に於ける遅参を理由に予州家当主河野通春の征伐を開始した日から、西暦1,482年8月28日、通春が居城の港山城にて病没した日まで。本書は、予州家河野通春と河野氏宗家河野教通の両統迭立抗争——教通による通春征伐開始、教通の忽那氏等への所領宛行による支持基盤固め、通春の細川勝元支援による第11代室町幕府伊予国守護就任、教通方村上吉資の佐礼城攻略、因島・来島・能島村上家の予州家寝返りと来島城落城、教通方諸将支援による通春呼応城郭20ヶ所余の奪取、通春方森山氏の挙兵と吉川経信・益田兼堯による森山城・天神森城制圧、細川勝元独断による通春の第13代守護改補、畠山持国死去と教通後ろ盾の衰退、通春守護罷免と細川勝元の第14代就任、村上治部進と弓削島荘所務請負、教通の伊予国守護職返還申状、細川成之軍の征伐と通春の湯築城退却、畠山政長管領就任と大内教弘への征伐命令、大内教弘の支援転向と興居島病没、大内政弘の湯築城奪還と細川勢駆逐、武田元綱の風早郡襲撃と恵良城戦、応仁の乱西軍参戦と大物浦の戦い、通春の教通への西軍同心勧誘書簡、教通の伊予国帰還と李氏朝鮮成宗への通交、教通の第17代守護就任、通春の東軍帰順と第18代守護就任、和気郡交戦、細川義春の阿波国からの侵攻と一時和睦、通春の港山城に於ける病没迄の約41年間を一本の時系列に貫き、一元化した一冊である。

西暦1,441年8月14日、河野教通が室町幕府の命を受けて、嘉吉の乱での赤松家征伐に於ける遅参を理由に予州家当主河野通春の征伐を開始した。1,444年5月、室町幕府は安芸国の小早川煕平等に教通の援助を命じた。教通は同年6月5日に忽那氏に対し四松之跡の名田職と山崎・小淡・松前の当知行を与え、同年10月10日・17日には忽那通定に忽那島東分の統治・裁判権と検断職を安堵し、支持基盤を固めた。1,448年4月20日、戒能通明が忽那通賢に忽那島有恒名田職を安堵した。1,449年2月、通春が細川勝元の支援を受け第11代室町幕府伊予国守護に就任、同年7月には教通方の村上吉資が佐礼城を攻略し、同月4日に教通から戦功を賞された。1,450年8月20日、足利義政は吉川経信に教通支援の為の伊予国渡海を命じ、同年9月24日には室町幕府が小早川盛景にも支援を命じ、義政は教通を第12代室町幕府伊予国守護として再任させた。1,451年、因島村上家・来島村上家・能島村上家の三家が予州家方に寝返り、教通率いる軍は来島村上家の本拠地来島城を攻撃し落城させた。同年7月、教通は小早川盛景・重見通実・森山氏・竹原盛景・益田兼堯・吉川三郎・周布次郎の支援により通春に呼応した城郭20ヶ所余を奪取、1,452年11月、通春方の森山氏が森山城にて挙兵し、吉川経信・益田兼堯が森山城・天神森城にて森山氏を破った。

西暦1,453年6月、細川勝元が足利義政の意向を聞かず通春を第13代室町幕府伊予国守護として改補し、通春の伊予国帰国を村上吉資が援助した。細川の此の行動は足利との対立を生み細川は管領職を辞任しようとしたが、足利の慰留により思い留まった。1,455年4月12日、畠山持国が死去し家督は畠山義就が継いだ。持国の死去により教通の後ろ盾となっていた畠山氏の権勢の衰退が顕著となった。1,456年、村上治部進が東寺から弓削島荘の所務請負の話を持ち掛けられ、細川勝元の折紙を要求した。此の時点で弓削島荘は安芸国小泉家・讃岐国山路家・能島村上家の2つの家系が支配していた。同年2月5日、室町幕府は通春の伊予国守護職を罷免し細川勝元を第14代室町幕府伊予国守護に任命、此れにより細川は土佐国守護職との兼任となり予州家が河野氏宗家に対して優勢となった。同年10月15日、細川勝元は村上治部進に有名無実となっていた弓削島荘の知行を命じる御内書を発給した。1,457年、教通は自身の弟河野通秋を養子とし家督を譲った。1,459年3月14日、河野通生が忽那通賢に桑原の枝重の名田・行正の名田を宛行い、同年6月30日には河野氏宗家が忽那通賢に河野郷・発安の所領・得能氏の所領を安堵した。1,461年1月、教通は室町幕府に古代以来の先祖の勲功を列挙し、近年の通春が細川勝元によって伊予国守護に据えられ河野家の家督を継いだ不慮の儀を嘆き伊予国守護職と御恩地の返還を要求する申状を提出した。同年9月、大友親繁が教通の要求を退け豊後国臼杵荘の領知を認める様室町幕府に訴えた。

西暦1,462年6月、細川成之率いる軍が通春征伐の為渡海して東予から進軍し、同時に南予の宇都宮安綱も北上した。圧倒的な兵力差を前に通春は一旦湯築城を捨て、高縄山・港山城・忽那諸島・来島等の山間部や島嶼部に退却した。同年11月、教通率いる軍が桜三里付近にて細川成之の軍勢に合流し、包囲網を敷かれ窮地に立たされた通春は海賊衆に細川率いる軍の補給路を断たせ難を逃れた。1,463年、細川成之の被官達が伊予国に駐留し続けるも、通春に同情したり細川の介入を嫌って河野方に寝返る地元の国人衆が続出した。同年7月10日、東寺雑掌が村上治部進の弓削島荘所務職を認めていない小泉家・山路家を含む海賊の共謀による押妨を室町幕府に訴えた。1,464年8月25日、河野通秋が忽那通賢に忽那島東分検断職を安堵、同年10月30日大内教弘が善応寺に禁制を掲げた。同年11月1日、河野通秋が病没し教通の息子河野通宣が後を継ぎ、通宣は教通と行動を共にした。同年12月11日、畠山政長が第19代管領に就任し、同日室町幕府は相国寺の僧承勲を遣わせ大内教弘に通春征伐を命じた。

西暦1,465年3月13日、河野通春と河野通生が土居家分の地頭職を善応寺に寄進した。同年4月、大内教弘が室町幕府からの伊予国への出陣要請を了承、同年5月13日、室町幕府は細川勝元等の「通春の不義が露顕した」との征伐申し出に関し協議した。同年5月25日には細川賢氏が観念寺に、同年6月19日には大祝氏の在所に禁制を掲げ、同年7月には細川勝元の申し出を受け入れた幕府が細川賢氏・細川成之等に通春征伐を命じ、大内教弘率いる軍も伊予国に入った。大内は伊予国へ向かう途上病に罹ったが板坂三位が治療し、其の後興居島に布陣して港山城を牽制していたが、突如通春を支援した。山名是豊も幕府から伊予国への出兵を命じられ、幕府は毛利豊元・小早川煕平・吉川之経・出羽祐房・徳屋氏に細川勝元への合力を要請した。同年7月、大内教弘に呼応した通春方の南宮内少輔・得能三郎が禅城寺にて自害、重見通実等が和気郡湊山にて戦死、土佐国一方守護代細川持益が通春に降伏した。同年9月、毛利豊元・小早川煕平・吉川之経・出羽祐房・徳屋氏が安芸灘の島々から渡海し細川勝元方の軍に合流、細川勝元は讃岐国・土佐国の国人領主等を通じて大野氏・森山氏・重見氏に通春を圧迫させ湯築城から追い払い、土佐国守護代新開遠江守を入城させた。通春は港山城に籠城し、教通の留守の為伊予国に居た河野通生と繋がり細川勢と対峙した。同年9月23日、大内教弘が興居島にて病没し大内政弘が家督を継ぎ、政弘も通春を支援し室町幕府と対峙した。同年10月、細川勝元方の兵が伊予国に進軍し通春率いる軍と交戦するも、大内教弘の援軍を受けた通春は細川方を退けた。更に大内政弘は興居島から港山城を救援しつつ湯築城へ兵を派遣し落城させ、森山氏・重見氏も討たれ、細川勝元勢は駆逐された。

西暦1,466年5月24日、河野通生が忽那通光に忽那島東分検断職を安堵、同年8月21日、正岡俚孝が河野氏奉行人奉書を発し忽那通光に井出郷の得重の地頭職を安堵した。同年10月30日、室町幕府は通春の孤立を意図し大内政弘に通春支援を止める様第18代相国寺鹿苑院僧録龍崗真圭に説得させた。同年11月3日、武田元綱率いる軍が風早郡を襲撃、戦闘は恵良城を中心に2週間程展開された。教通は上洛していた為、通生が風早郡・忽那島の水軍を指揮して防戦に努め、忽那通光・山崎城主東俊之が奮戦した。同年11月10日、細川勝元の要請により室町幕府が大内政弘征伐を決定し吉川経基に出兵を命じた。同年12月9日・19日、教通は忽那通光の恵良城に於ける戦功を賞し感状を与えた。1,467年6月11日、大内政弘が周防国・長門国を始めとする8ヶ国の数万の兵を率い、通春・陶弘房と共に山口を出発し、海路で野上・柳井・屋代島・室津を経由して瀬戸内海を東上した。同年8月19日、大内政弘率いる軍が20,000〜30,000名の軍勢で播磨国兵庫津に入り、此の内2,000〜3,000名は通春が率いていた。同年9月8日、大内政弘は河野水軍・村上水軍・三島水軍等の瀬戸内水軍を率い大物浦の難波・水堂にて、上陸を阻止しようとする細川勝元・赤松政則の軍と交戦し撃破、此の戦闘により通春等は戦功を挙げた。其の後大内率いる軍は尼崎を焼き払い、10,000名の兵と2,000隻の船団と共に上洛し東寺に布陣、後に梶井門跡を本陣とした。同年9月20日、河野氏奉行人連署奉書により教通から忽那通光に恵良城勲功の賞として出作・鹿子の所領が与えられた。

西暦1,468年1月、河野教通等が三島神社・善応寺に禁制を掲げ、同年1月17日通春が摂津国進発に当たり東寺に祈祷を依頼、同年6月8日には東寺に温泉郡味酒郷内上方地頭職を安堵した。同年9月23日、細川勝元が西軍の留守を狙い船岡山城を三方から攻めて落城させた。同年12月、通春は教通に「応仁の乱は延々と続くと思うが西軍へ同心頂けるか、先年大内方からも依頼が有ったが返事が無い、義政・義視双方が将軍となられた今其の命令に変わりはない、此度の摂津国の合戦により守護に補任されたが家名を上げる上では私と教通殿の何方がなっても同じと思う」という主旨の書簡を送った。1,469年、教通が伊予国へ帰還した。同年6月13日、西幕府が大野氏・通春に河野通秋・河野通光の征伐を命じる御教書を発した。1,470年、教通は第9代李氏朝鮮国王成宗に使者を送り、1,471年6月8日には教通の手によって浦戸神社が造営された。1,473年12月11日、教通が足利義政からの伊予国守護職補任状を受け取り第17代室町幕府伊予国守護に就任した。1,474年2月8日、河野道直が忽那通光に國永の所領と湯築を宛行い、同年4月15日には忽那通光が河野通生の下を訪れ河野通久自筆の3通の書簡を持参し其の証明が出された。1,477年5月31日、通春は東軍に内通していた大内政弘の仲介によって東軍に下り足利義尚の安堵を取り付け、同年12月陣所を引き払って伊予国へ帰国、此の頃第18代室町幕府伊予国守護に任じられた。1,478年1月15日、通春は三島神社に禁制を掲げ、同年11月20日、通春は和気郡にて河野通秋と交戦、大内政弘に支援を求め大内は呉・能美・蒲刈に援軍を送らせた。1,479年、細川成之の弐男細川義春率いる軍が阿波国から伊予国に侵攻し、此れを受けて通春と教通は一時和睦した。河野通生は神途城に籠城して指揮を取り浅海氏等が馳せ参じ、村上氏・忽那氏等の水軍が細川軍の補給路・退路を断ち、細川は諸城攻略を果たせない儘阿波国へ潰走、其の後通春と教通は再び争う事となった。1,482年8月28日、通春が居城の港山城にて病没、本書の終結点。


登場人物

  • 河野通春 予州家当主。西暦1,441年8月14日、河野教通から嘉吉の乱遅参を理由に征伐を開始された。1,449年2月に細川勝元の支援で第11代室町幕府伊予国守護に就任、1,453年6月に細川勝元独断で第13代守護に改補、1,456年2月5日に罷免、1,462年6月の細川成之軍征伐で湯築城退却、1,465年の大内政弘の湯築城奪還で復権、1,467年9月8日の大物浦の戦いで戦功を挙げ、1,468年12月には教通に西軍同心を勧誘する書簡を送った。1,477年5月31日に東軍帰順、同年12月に第18代室町幕府伊予国守護就任。1,482年8月28日、居城の港山城にて病没、本書の予州家側の主人公。
  • 河野教通 河野家宗家。西暦1,441年8月14日、嘉吉の乱遅参を理由に通春の征伐を開始、1,444年以降は忽那氏等への所領宛行で支持基盤を固めた。1,450年に第12代守護再任、1,451年には小早川盛景等の支援で通春呼応城郭20ヶ所余を奪取、1,457年に弟通秋を養子化、1,461年1月に伊予国守護職返還の申状を幕府に提出。1,462年11月に桜三里で細川成之軍と合流、1,469年に伊予国へ帰還、1,470年には李氏朝鮮成宗に使者を送り、1,471年に浦戸神社を造営。1,473年12月11日、第17代室町幕府伊予国守護に就任、1,479年の細川義春侵攻時には通春と一時和睦するも再び争った、本書の河野家宗家側の主人公。
  • 河野通生 河野教通の弟。西暦1,459年3月14日に忽那通賢に桑原の名田を宛行う等所領宛行を行い、1,465年3月13日には通春と共に土居家分地頭職を善応寺に寄進、同年9月の細川勝元圧迫時には教通の留守の為伊予国に居り港山城の通春と繋がり細川勢と対峙。1,466年5月24日には忽那通光に忽那島東分検断職を安堵、同年11月3日の武田元綱風早郡襲撃時には風早郡・忽那島の水軍を指揮して防戦、1,479年の細川義春侵攻時には神途城に籠城して指揮を取った、本書の宗家側軍事指揮を担った実弟。
  • 河野通秋 河野教通の弟。西暦1,457年、教通に養子化され家督を譲られた。1,464年8月25日に忽那通賢に忽那島東分検断職を安堵、同年11月1日に病没した。1,478年11月20日、通春と和気郡で交戦した通秋は別人である可能性が示唆される、本書の宗家側継嗣。
  • 河野通宣 河野教通の息子。西暦1,464年11月1日、通秋の死去に伴い後を継ぎ、教通と行動を共にした、本書の宗家側次代。
  • 河野通政・河野道直・河野通久 通政は西暦1,468年5月1日、長隆寺に畠を寄進した。道直は1,474年2月8日、忽那通光に國永の所領と湯築を宛行った。通久は1,474年4月15日、忽那通光が持参した3通の書簡に於いて自筆の証明が出された、本書の河野家に所縁ある周辺の人物群。
  • 忽那通定・忽那通賢・忽那通光 忽那島を拠点とした河野氏被官。通定は西暦1,444年10月10日・17日、教通から忽那島東分の統治・裁判権と検断職を安堵された。通賢は1,448年4月20日に戒能通明から忽那島有恒名田職を安堵、1,459年3月14日・6月30日に通生・河野氏宗家から所領を宛行われ、1,464年8月25日には通秋からも東分検断職を安堵された。通光は1,466年11月3日の武田元綱風早郡襲撃時に恵良城で奮戦し、1,466年12月9日・19日に教通から戦功を賞されて感状を受け、1,467年9月20日には恵良城勲功の賞として出作・鹿子の所領を与えられた、本書の河野家宗家方忠臣の忽那一族。
  • 戒能通明・正岡俚孝・東俊之 戒能通明は西暦1,448年4月20日、忽那通賢に忽那島有恒名田職を安堵した。正岡俚孝は1,466年8月21日、河野氏奉行人奉書を発し忽那通光に井出郷の得重の地頭職を安堵した。東俊之は山崎城主として1,466年11月3日の武田元綱襲撃時に恵良城戦で奮戦した、本書の河野家周辺の被官群。
  • 細川勝元 室町幕府管領。西暦1,449年2月、通春の第11代伊予国守護就任を支援、1,453年6月には足利義政の意向を聞かず通春を第13代守護に改補したが、管領辞任を申し出て義政の慰留で思い留まった。1,456年2月5日に自身が第14代伊予国守護に任命され、1,465年以降通春征伐を主導、讃岐国・土佐国国人領主等を通じ通春を湯築城から追い払ったが、大内政弘の湯築城奪還で駆逐された。1,467年9月8日の大物浦の戦いでは敗れ、1,468年9月23日には船岡山城を攻め落とした、本書の細川方軍事指揮の中核。
  • 細川成之・細川賢氏・細川勝之・細川持益・細川義春 成之は西暦1,462年6月の通春征伐軍の総大将、1,465年7月にも征伐を命じられた。賢氏は1,465年5月25日に観念寺に、同年6月19日に大祝氏在所に禁制を掲げた。勝之は1,453年5月27日、小泉興平に越智郡大島の地頭職を安堵。持益は土佐国一方守護代、1,465年7月に通春に降伏。義春は成之の弐男、1,479年阿波国から伊予国に侵攻したが潰走した、本書の細川一族の通春征伐担当者群。
  • 大内教弘 西暦1,464年10月30日に善応寺に禁制、同年12月11日に室町幕府から通春征伐を命じられ、1,465年4月に出陣を了承、同年7月に伊予国へ向かう途上病に罹るも板坂三位の治療を受けた後、興居島布陣中に突如通春を支援した。同年9月23日、興居島にて病没、本書の通春陣営への最大の戦力転向者。
  • 大内政弘 大内教弘の嫡男。西暦1,465年9月23日、父の死を受けて家督を継ぎ、父と同様に通春を支援。同年10月には興居島から港山城を救援しつつ湯築城に兵を派遣して落城させ細川勝元勢を駆逐。1,467年6月11日、周防国・長門国を始めとする8ヶ国の数万の兵を率い通春・陶弘房と共に山口を出発、同年9月8日の大物浦の戦いで細川勝元・赤松政則軍を撃破。1,477年5月31日には東軍内通しつつ通春を東軍に帰順させる仲介を行った、本書の通春応仁期から晩年迄の庇護者。
  • 足利義政 室町幕府第8代征夷大将軍。西暦1,450年8月20日に吉川経信に教通支援を命じ、同年9月24日に教通を第12代伊予国守護として再任。1,453年6月の細川勝元独断による通春改補では細川と対立したが慰留した。1,465年12月24日に小早川元平に越智郡大島1/4の地頭職を安堵、1,473年12月11日に教通に伊予国守護職補任状を発し第17代守護に就任させた、本書の伊予国守護職補任の最高権威。
  • 足利義視・足利義尚 義視は西暦1,468年12月の通春書簡で義政と並ぶ将軍と記された人物。義尚は1,477年5月31日、大内政弘仲介で東軍に下った通春の安堵を下した人物、本書の応仁期幕府の二極構造を体現した将軍達。
  • 畠山持国・畠山義就・畠山政長 持国は教通の後ろ盾、西暦1,455年4月12日に死去し畠山氏の権勢衰退が顕著となった。義就は持国の死後家督を継いだ。政長は1,464年12月11日に第19代管領に就任し同日大内教弘への通春征伐命令を発令させた、本書の幕政側の三名の畠山氏当主。
  • 村上吉資・村上治部進 吉資は西暦1,449年7月に佐礼城を攻略、1,453年6月には京都から伊予国へ帰国する通春を援助した教通方(後予州家方)の水軍指揮官。治部進は1,456年に東寺から弓削島荘所務請負を持ち掛けられ細川勝元の折紙を条件とし、同年10月15日に細川から知行を命じる御内書を受けた、本書の瀬戸内水軍関係者。
  • 因島村上家・来島村上家・能島村上家 西暦1,451年、三家揃って予州家方に寝返った。此れを受けて教通率いる軍は来島村上家本拠地の来島城を攻撃し落城させた、本書の瀬戸内水軍の重大な陣営転換。
  • 小早川盛景・小早川煕平・小早川敬平・小早川元平 盛景は西暦1,450年9月24日以降、教通支援を室町幕府から命じられ、1,451年7月に城郭奪取に貢献。煕平は1,444年5月、1,465年7月・9月・12月に繰り返し支援を要請され、1,451年8月に嫡男敬平に伊予国三島七島内下島(現在の広島県呉市大崎下島)を譲った。元平は1,465年12月24日に足利義政から越智郡大島1/4の地頭職を安堵された、本書の安芸国小早川一族の教通方参戦の記録。
  • 吉川経信・吉川之経・吉川元経・吉川三郎・吉川経基 経信は西暦1,450年8月20日に伊予国渡海を命じられ1,452年11月に森山城・天神森城で森山氏を破った。之経は1,465年7月に細川勝元合力を要請された。元経は同年7月18日に細川勝元合力を命じられた。三郎は1,451年7月に鐘挊尾・味酒で戦功。経基は1,466年11月10日に大内政弘征伐の出兵を命じられた、本書の吉川一族の教通・細川方参戦者群。
  • 重見通実・森山氏・竹原盛景・益田兼堯・周布次郎・杉原伯耆守 西暦1,451年7月、教通を支援し通春呼応城郭20ヶ所余奪取に貢献した諸将。益田は同月吉田で戦功、吉川三郎・周布は鐘挊尾・味酒で戦功を挙げ、重見は1,451年9月14日に杉原伯耆守・小早川盛景に合力依頼。森山氏は後に1,452年11月に通春方として森山城で挙兵し反転した、本書の教通方初動作戦の主要兵力。
  • 出羽祐房・毛利豊元・毛利煕元・徳屋氏 出羽祐房は西暦1,452年1月17日・1,465年7月18日に教通支援・細川合力を命じられた。毛利豊元は1,465年10月17日・29日に細川勝元から支援を求められ、煕元は同年12月に援軍依頼を受けた。徳屋氏は1,465年7月に細川合力を要請された、本書の細川・教通方西国援軍諸氏。
  • 新開遠江守 土佐国守護代。西暦1,465年9月、細川勝元により湯築城に入城したが、通春との戦闘中に戦死した、本書の細川方湯築城入城者。
  • 武田元綱 西暦1,466年11月3日、軍を率いて風早郡を襲撃、戦闘は恵良城を中心に2週間程展開された、本書の教通不在時の襲撃者。
  • 宇都宮安綱・大野氏・山名是豊・陶弘房・陶弘護・赤松政則・龍崗真圭・板坂三位・南宮内少輔・得能三郎・浅海氏 宇都宮安綱は西暦1,462年6月、南予から北上し通春を挟撃。大野氏は1,465年9月15日に細川勝元から通春征伐を命じられた。山名是豊は同年7月に伊予国出兵を命じられた。陶弘房は1,467年6月11日に大内政弘と共に山口出発、家の事は弘護に任せた。赤松政則は1,467年9月8日の大物浦の戦いで大内・通春連合軍に敗れた。龍崗真圭は第18代相国寺鹿苑院僧録、1,466年10月30日に大内政弘説得担当。板坂三位は1,465年7月、病中の大内教弘を治療。南宮内少輔・得能三郎は同年7月、禅城寺で自害。浅海氏は1,479年、神途城に馳せ参じた、本書の両陣営周辺の群雄。
  • 後花園上皇・後土御門天皇 西暦1,467年8月19日、大内政弘・通春等の兵庫津入りに際し、細川勝元が花の御所への動座を求めた両名、本書の応仁の乱開戦時の京都側権威。
  • 西園寺公広・大友親繁・大祝氏・小泉興平・山路家・李氏朝鮮成宗・昌宗 公広は西暦1,453年5月16日に歯長寺住持昌宗に永長郷成俊名の旧領を返付。大友親繁は1,461年9月、教通の要求を退け臼杵荘領知を幕府に訴えた。大祝氏は1,465年6月19日に細川賢氏から禁制を掲げられた在所の主。小泉興平は1,453年5月27日に細川勝之から越智郡大島の地頭職を安堵、弓削島荘支配の一家系。山路家は讃岐国、弓削島荘支配の一家系。李氏朝鮮第9代国王成宗は1,470年に教通が使者を送った外交相手、本書の周辺権門・外交相手。

主要な地名・拠点

  • 伊予国 現在の愛媛県。通春が第11代・第13代・第18代、教通が第12代・第17代、細川勝元が第14代の室町幕府伊予国守護として就任した国。西暦1,441年以降、両統迭立抗争と細川氏・大内氏の介入を巡る長期の戦場となった、本書の主舞台。
  • 湯築城 現在の愛媛県松山市道後公園。河野氏主城。西暦1,462年6月に細川成之軍の進軍で通春が放棄、1,465年9月の細川勝元圧迫で通春は追われ土佐国守護代新開遠江守が入城、同年10月には大内政弘が兵を派遣して落城させ、細川勢は駆逐された、本書の攻防の中核。
  • 港山城 現在の愛媛県松山市港山。西暦1,462年に通春の退却先、1,465年には通春が籠城して細川勢と対峙、大内政弘が興居島から救援した。1,482年8月28日、通春が病没した終焉の地、本書の通春晩年の居城。
  • 高縄山・忽那諸島・来島・桜三里・興居島 西暦1,462年6月、細川成之軍進軍で通春が湯築城から退却した山間部・島嶼部の三拠点(高縄山:現在の愛媛県松山市猿川、来島:愛媛県今治市来島小島)と、同年11月に教通軍が細川成之軍と合流した桜三里(愛媛県東温市河之内周辺)、1,465年大内教弘布陣・病没地の興居島(愛媛県松山市)、本書の伊予国内抗争の要地群。
  • 神途城・森山城・天神森城 神途城は現在の愛媛県松山市猿川、西暦1,479年の細川義春侵攻時に河野通生が籠城。森山城は愛媛県伊予市大平、1,452年11月に通春方森山氏が挙兵し吉川経信・益田兼堯に敗れた。天神森城は愛媛県上浮穴郡久万高原町西明神、森山城と同時に吉川・益田に制圧された、本書の通春呼応勢力の籠城地。
  • 佐礼城・来島城・恵良城・山崎城 佐礼城は現在の愛媛県今治市玉川町別所、西暦1,449年7月に教通方村上吉資が攻略。来島城は愛媛県今治市来島、1,451年に予州家寝返り後の来島村上家本拠地で教通軍により落城。恵良城は愛媛県松山市上難波、1,466年11月3日の武田元綱襲撃時の戦闘の中心。山崎城は愛媛県伊予市上三谷、主東俊之が恵良城戦で奮戦した、本書の攻城戦の主要舞台。
  • 禅城寺(義安寺)・善応寺・観念寺・歯長寺・長隆寺・定光寺観音堂 禅城寺(義安寺)は現在の愛媛県松山市道後姫塚、西暦1,465年7月に通春方南宮内少輔・得能三郎が自害。善応寺は愛媛県松山市善応寺甲、1,464年10月30日大内教弘禁制、1,465年3月13日通春・通生寄進、1,468年1月教通等禁制掲示。観念寺は愛媛県西条市上市、1,465年5月25日細川賢氏禁制。歯長寺は愛媛県西予市宇和町伊賀上、1,453年5月16日西園寺公広が住持昌宗に旧領返付。長隆寺は愛媛県松山市忽那諸島中島、1,468年5月1日河野通政が畠を寄進。定光寺観音堂は愛媛県越智郡上島町弓削土生、1,463年9月15日創建、本書の両陣営寄進・禁制の宗教拠点群。
  • 三島神社・浦戸神社 三島神社(現在の愛媛県今治市大三島町宮浦の大山祇神社)は西暦1,468年1月に教通等、1,478年1月15日に通春が禁制を掲げた。浦戸神社は愛媛県今治市大三島町、1,471年6月8日に教通の手によって造営された、本書の河野家宗教拠点。
  • 弓削島荘・越智郡大島 弓削島荘は現在の愛媛県上島町、西暦1,456年に村上治部進が東寺から所務請負を持ち掛けられ、小泉家・山路家・能島村上家2家系が支配していた。越智郡大島は愛媛県今治市、1,453年5月27日に細川勝之が小泉興平に地頭職を安堵、1,461年6月26日に小早川煕平に1/4地頭職を返付、1,465年12月24日に足利義政が小早川元平に1/4地頭職を安堵した、本書の瀬戸内海島嶼部の領知紛争の舞台。
  • 大物浦・兵庫津・尼崎 大物浦(現在の兵庫県尼崎市西本町・立花町付近の難波・水堂)は西暦1,467年9月8日、大内政弘率いる瀬戸内水軍と細川勝元・赤松政則軍の決戦地。兵庫津(神戸市兵庫区)は同年8月19日に大内軍20,000〜30,000名が入った地。尼崎は大物浦の戦い後に焼き払われた、本書の応仁の乱海戦の要衝。
  • 東寺・梶井門跡・温泉郡味酒郷・船岡山城 東寺は西暦1,456年以降村上治部進の弓削島荘所務職関連、1,467年9月大内上洛軍の布陣地、1,468年1月17日通春が祈祷依頼、同年6月8日温泉郡味酒郷内上方地頭職を安堵された。梶井門跡(京都府京都市北区紫野下築山町付近)は大内軍の本陣。温泉郡味酒郷(愛媛県松山市味酒町)は東寺寄進地。船岡山城(京都府京都市北区紫野北舟岡町)は1,468年9月23日細川勝元が西軍の留守を狙って三方攻めで落城させた地、本書の京都周辺戦線。
  • 風早郡・和気郡 風早郡(現在の愛媛県松山市)は西暦1,466年11月3日、武田元綱率いる軍の襲撃を受けた郡。和気郡(愛媛県松山市)は1,465年7月に重見通実等が湊山にて戦死、1,478年11月20日には通春と通秋が交戦した、本書の伊予国内紛争の再発場所。
  • 山口・周防国・長門国・屋代島・野上・柳井・室津 山口は現在の山口県、西暦1,467年6月11日、大内政弘が通春・陶弘房等と共に周防国・長門国を始めとする8ヶ国の数万の兵を率いて出発、海路で野上(山口県周南市)・柳井(山口県)・屋代島(山口県大島郡周防大島町)・室津(兵庫県たつの市)を経由して瀬戸内海を東上した、本書の応仁の乱西軍の出発地と航路。
  • 土佐国・阿波国 現在の高知県・徳島県。土佐国は西暦1,456年以降細川勝元が伊予国と兼任、1,465年7月に一方守護代細川持益が通春に降伏、土佐国守護代新開遠江守が湯築城入城後戦死した。阿波国は1,479年に細川義春が伊予国侵攻の発進地であり村上氏・忽那氏により退路を断たれた細川が潰走した地、本書の四国勢力圏の外縁。
  • 李氏朝鮮 西暦1,470年、河野教通が第9代国王成宗に使者を送った対外交通先、本書の教通による海外通交の試み。

主要な事件・出来事

  • 教通による通春征伐開始 西暦1,441年8月14日、河野教通が室町幕府の命を受けて、嘉吉の乱での赤松家征伐に於ける遅参を理由に、予州家当主河野通春の征伐を開始した、本書の発端。
  • 教通による忽那氏等への所領宛行と支持基盤固め 西暦1,444年5月、幕府が小早川煕平等に教通援助を命令。同年6月5日、教通が忽那氏に四松之跡の名田職と山崎・小淡・松前の当知行を与えた。同年10月10日・17日、教通が忽那通定に忽那島東分の統治・裁判権と検断職を安堵、本書の教通方支持基盤構築の一環。
  • 通春の第11代伊予国守護就任と村上吉資の佐礼城攻略 西暦1,449年2月、通春が細川勝元の支援を受け第11代室町幕府伊予国守護に就任。同年7月、教通方村上吉資が佐礼城を攻略、同月4日に教通から戦功を賞された、本書の通春最初の守護補任と村上水軍初動。
  • 教通の第12代守護再任と村上水軍三家の予州家寝返り・来島城落城 西暦1,450年8月20日、足利義政が吉川経信に教通支援を命令、同年9月24日に小早川盛景にも命令し、義政は教通を第12代室町幕府伊予国守護として再任させた。1,451年、因島村上家・来島村上家・能島村上家の三家が予州家方に寝返り、教通率いる軍は来島城を攻撃し落城させた、本書の水軍勢力の大規模転換。
  • 教通方諸将による通春呼応城郭20ヶ所余の奪取 西暦1,451年7月、教通が小早川盛景・重見通実・森山氏・竹原盛景・益田兼堯・吉川三郎・周布次郎の支援により、通春に呼応した城郭20ヶ所余を奪取。益田は吉田で、吉川・周布は鐘挊尾・味酒で戦功を挙げ、重見は宇和郡大野氏と喜多郡森山氏の連合体制成立を小早川等に伝達、本書の教通方反攻の最大成果。
  • 森山氏挙兵と森山城・天神森城制圧 西暦1,452年11月、通春方の森山氏が森山城にて挙兵、吉川経信・益田兼堯が森山城・天神森城にて森山氏を破った。同年12月7日、幕府が両名の戦功を賞した、本書の通春呼応勢力の最後の抵抗。
  • 細川勝元独断による通春の第13代守護改補 西暦1,453年6月、細川勝元が足利義政の意向を聞かず通春を第13代室町幕府伊予国守護として改補。通春は京都から伊予国へ帰国し、村上吉資が援助した。細川は此れを巡り管領職を辞任しようとしたが、足利の慰留により思い留まった、本書の細川勝元の独断による通春復帰。
  • 畠山持国死去と教通後ろ盾の衰退 西暦1,455年4月12日、畠山持国が死去、家督は畠山義就が継いだ。持国の死去により教通の後ろ盾となっていた畠山氏の権勢の衰退が顕著となった、本書の教通側政治基盤の崩落。
  • 通春守護罷免と細川勝元の第14代就任・弓削島荘問題 西暦1,456年2月5日、幕府が通春の伊予国守護職を罷免し細川勝元を第14代室町幕府伊予国守護に任命。細川は土佐国守護職と兼任、予州家が河野氏宗家に対して優勢となった。同年、村上治部進が東寺から弓削島荘所務請負を持ち掛けられ、同年10月15日に細川勝元から知行を命じる御内書を受けた、本書の通春失脚と細川直接支配の始点。
  • 教通の通秋養子化と伊予国守護職返還申状 西暦1,457年、教通が自身の弟河野通秋を養子とし家督を譲った。1,461年1月、教通は室町幕府に古代以来の先祖の勲功を列挙し、近年の通春が細川勝元によって伊予国守護に据えられ河野家の家督を継いだ不慮の儀を嘆き、伊予国守護職と御恩地の返還を要求する申状を提出した、本書の教通の家督承継と政治的復権要求。
  • 細川成之軍の征伐と通春の湯築城退却 西暦1,462年6月、細川成之率いる軍が通春征伐の為渡海して東予から進軍、南予の宇都宮安綱も北上。圧倒的兵力差を前に通春は湯築城を捨て高縄山・港山城・忽那諸島・来島等に退却。同年11月、教通軍が桜三里付近で細川成之軍と合流したが、通春は海賊衆に細川軍の補給路を断たせ難を逃れた、本書の通春最大の危機と海賊衆の活躍。
  • 通秋病没と通宣継承・大内教弘への征伐命令 西暦1,464年11月1日、河野通秋が病没し、教通の息子河野通宣が後を継ぎ教通と行動を共にした。同年12月11日、畠山政長が第19代管領に就任、同日幕府は相国寺の僧承勲を遣わせ大内教弘に通春征伐を命じた、本書の宗家継嗣交代と幕府側攻勢強化。
  • 大内教弘の支援転向と興居島病没 西暦1,465年7月、征伐命令を受けた大内教弘が伊予国へ向かう途上病に罹るも板坂三位の治療を受け、興居島に布陣して港山城を牽制していたが突如通春を支援した。同年9月23日、興居島にて病没、大内政弘が家督を継ぎ父と同様に通春を支援した、本書の通春陣営への最大の戦力転向。
  • 細川勝元による通春圧迫と大内政弘の湯築城奪還・細川勢駆逐 西暦1,465年9月、細川勝元が讃岐国・土佐国国人領主を通じ大野氏・森山氏・重見氏に通春を圧迫させ湯築城から追い払い、土佐国守護代新開遠江守を入城させた。通春は港山城に籠城、教通留守の為伊予国に居た通生と繋がり対峙。同年10月、大内政弘が興居島から港山城を救援しつつ湯築城に兵を派遣して落城させ、森山氏・重見氏も討たれ細川勝元勢は駆逐された、本書の湯築城を巡る攻防の頂点。
  • 武田元綱の風早郡襲撃と恵良城戦 西暦1,466年11月3日、武田元綱率いる軍が風早郡を襲撃、戦闘は恵良城を中心に2週間程展開された。教通は上洛中で、通生が風早郡・忽那島の水軍を指揮して防戦に努め、忽那通光・山崎城主東俊之が奮戦。同月10日、幕府は大内政弘征伐を決定し吉川経基に出兵を命じた、本書の教通不在時の通生・忽那通光による防戦。
  • 大内政弘の山口出発と大物浦の戦い 西暦1,467年6月11日、大内政弘が周防国・長門国を始めとする8ヶ国の数万の兵を率い通春・陶弘房と共に山口を出発、海路で野上・柳井・屋代島・室津を経由。同年8月19日に20,000〜30,000名で兵庫津入り(通春率いる2,000〜3,000名を含む)、同年9月8日、大内は河野水軍・村上水軍・三島水軍等を率い大物浦の難波・水堂で細川勝元・赤松政則軍と交戦し撃破、通春等は戦功を挙げた。大内軍は尼崎を焼き払い、10,000名と2,000隻の船団で上洛し東寺に布陣、後に梶井門跡を本陣とした、本書の応仁の乱海戦の決戦。
  • 通春の教通への西軍同心勧誘書簡 西暦1,468年12月、通春が教通に「応仁の乱は延々と続くと思うが西軍へ同心頂けるか、先年大内方からも依頼が有ったが返事が無い、義政・義視双方が将軍となられた今其の命令に変わりはない、此度の摂津国の合戦により守護に補任されたが家名を上げる上では私と教通殿の何方がなっても同じと思う」という主旨の書簡を送った、本書の抗争中の和解模索の試み。
  • 教通の伊予国帰還・李氏朝鮮成宗への通交・第17代守護就任 西暦1,469年、教通が伊予国へ帰還した。1,470年、教通は第9代李氏朝鮮国王成宗に使者を送り、1,471年6月8日には浦戸神社を造営。1,473年12月11日、教通が足利義政から伊予国守護職補任状を受け取り第17代室町幕府伊予国守護に就任した、本書の教通の復権と対外通交。
  • 通春の東軍帰順と第18代守護就任・和気郡交戦 西暦1,477年5月31日、通春が東軍内通の大内政弘仲介で東軍に下り足利義尚の安堵を取り付けた。同年12月、通春は陣所を引き払って伊予国帰国、此の頃第18代室町幕府伊予国守護に任じられた。1,478年1月15日に三島神社に禁制、同年11月20日には和気郡で河野通秋と交戦し、大内政弘に支援を求め大内は呉・能美・蒲刈に援軍を送らせた、本書の通春政治的復権と予州家内紛再燃。
  • 細川義春侵攻と通春・教通の一時和睦 西暦1,479年、細川成之の弐男細川義春率いる軍が阿波国から伊予国に侵攻、此れを受けて通春と教通は一時和睦した。河野通生は神途城に籠城して指揮を取り浅海氏等が馳せ参じ、村上氏・忽那氏等の水軍が細川軍の補給路・退路を断ち、細川は諸城攻略を果たせない儘阿波国へ潰走。其の後、通春と教通は再び争う事となった、本書の両統迭立抗争唯一の和睦と即時決裂。
  • 河野通春の死去 西暦1,482年8月28日、河野通春が居城の港山城にて病没、本書の終結点。

教通による通春征伐開始・教通の忽那氏等への所領宛行・通春の第11代守護就任・村上吉資の佐礼城攻略・村上水軍三家の予州家寝返り・教通方による城郭20ヶ所余奪取・森山氏挙兵と森山城天神森城制圧・細川勝元独断による通春の第13代改補・畠山持国死去・通春守護罷免と細川勝元第14代就任・細川成之軍の征伐と湯築城退却・大内教弘政弘父子の支援転向・大内政弘による湯築城奪還と細川勢駆逐・武田元綱の風早郡襲撃と恵良城戦・大物浦の戦い・通春の教通への西軍同心勧誘書簡・教通の李氏朝鮮通交と第17代守護就任・通春の東軍帰順と第18代守護就任・細川義春侵攻と一時和睦・港山城病没──
両統迭立抗争41年を一冊に。

JPY 200(税込)

購入する

AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「一元化」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
YouTubeとニコニコでも情報を発信中。